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捕物帳の系譜 縄田一男 |
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評論・エッセイ | 出版月: 2004年07月 | 平均: 7.50点 | 書評数: 2件 |
中央公論新社 2004年07月 |
No.2 | 8点 | おっさん | 2020/12/10 09:59 |
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推理小説にも詳しい、文芸評論家の縄田一男氏(大のご贔屓はジョン・ディクスン・カーでしたかね)が、半七→右門→平次と続く、いわゆる三大捕物帳の流れを、ジャンルの成立過程=成熟への道のりとして描きだしていく――いささか図式的で、「思想の器」といった類の大仰な表現が目に付く嫌いはあるも――時代小説愛のこもった労作です。
1995年に新潮社から刊行され、同年の「尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞」の研究・考証部門を受賞していますが(日本推理作家協会賞のほうは、候補にすらならず。予選委員諸氏、果たして本書を読んだうえで無視したのか?)、新潮社で文庫化はされず、2004年になって中公文庫に編入されました。今回、筆者が読んだのもそちらです。ただ、この手の本であれば巻末にあって然るべき、年譜や索引が無いのは物足りなく、あるいは親本には存在していたのに、文庫化にあたって割愛されたのか? 一読して真っ先に感じたのは、ああ、これは推理作家・都筑道夫の捕物帳観に対するアンチテーゼだ、ということでした。 第四章「ミステリーとしての『半七捕物帳』」のなかで、縄田氏は、「半七捕物帳」を推理小説として評価するうえで格好の手がかりになる論考として、都筑が三一書房版の〈久生十蘭全集〉第5巻『顎十郎捕物帳』の解説として執筆した一文(のちに評論集『死体を無事に消すまで』に収録されて広くミステリ・ファンに膾炙し、若き日の筆者もまた、目を開かれました)を紹介し、それを踏まえて自身の論――第一話「お文の魂」の読解を通して、綺堂の創作意図を推し量り、ミステリ的なマイナス要因をプラスに逆転させるくだりなどは、成程と思わせられる――を展開しています。そこだけ読めば、都筑説に対する異議申し立てなどはまったく感じられません。 しかし。 都筑にとって、半七から右門、そして平次に至る、捕物帳ジャンルの変遷は、「出発点では推理小説であったものが、骨の髄まで日本的な変種になっていった過程」(前掲『顎十郎捕物帳』解説より)であり、極端な言い方をすれば、本末転倒の流れなのです。そして、捕物帳を、情緒に力点を置いた犯罪メロドラマから、きちんと推理小説に戻したという意味で、「半七」の正当な後継者として「顎十郎」を位置づけることになります。 都筑の論旨はきわめて明解ですが……ちょっと息苦しくもある。「シアロック・ホームズ物語が、息が長いのとおなじ理由で、『半七捕物帳』もすたらない、と見るべきだろう」と書きながら、ホームズ譚が、ガチの謎解きを志向した元祖ポオのデュパンものをヴァラエティに富んだ探偵ヒーローの物語としてアレンジしたものであること、そしてその魅力の一因ともなっている、犯罪メロドラマの比重の大きさには、目をつぶってしまっています。 筆者にして然りですから、ましてや生粋の時代小説愛好家からすれば、都筑説は、きわめて狭量なものに映るのではないでしょうか。人気を博した三大捕物帳を正当に位置づけ、読書ガイドにもなるような、スタンダードな入門書があって、そのうえで、あくまで謎解きを本道とする都筑史観もある、ならいいのですがね。それだけがマニア的な読者のあいだで独り歩きしてしまうのはマズイ。 よし、誰も書かないなら、俺が正史を書いてやろう、と縄田氏が決心した、といったことは、「まえがき」にも「あとがき」にも一切触れられていない――別な理由による、作者の創作意図は述べられていますが、あまり面白くないw――ので、お前の妄想だと言われてしまえば、それまでです。 でも、あえて縄田氏の文章を我田引水するなら――「むしろ、こういう文学的空想をたくましくした推理の方が、よりいっそう、私たちの読みを楽しくさせてくれるといえるかもしれない」。 捕物帳の変化に必然性――どう理屈をこねているかは、それに賛成するにせよ反対するにせよ、実際に自分で読んで、確認してみて欲しいな――を見ていく本書が、ミステリ・ファンの“読み”の幅を広げる助けになってくれるのは、確かだと思います。 個人的な、本書の白眉は、都筑道夫がケチョンケチョンにした佐々木味津三の『右門捕物帖』に、都市小説という斬新な角度から光を当てた第九章「『右門捕物帖』の世界」。クリスティ再読さんも書かれているように、補助線としての江戸川乱歩の使いかたがうまく、乱歩ファンであるおっさんも、これには目からウロコでした。いやあ佐々木味津三、ろくに読まずに莫迦にしていてスマナンダ。「半七」を読んだら、「右門」もきちんと読むから許してね <(_ _)> |
No.1 | 7点 | クリスティ再読 | 2020/09/21 10:10 |
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評者最近捕物帳を熱心に読みだしたのだけど、ミステリ史について論じた本はやたらとあるのに対して、捕物帳の歴史を論じた本と言うのが、ごくわずかしかないのに、ちょっと驚いている。
縄田一男と言うと、積極的に捕物帳アンソロを編む編者として活躍してるが、その縄田氏による捕物帳論である。ただし、扱っているのは半七、右門、平次の3人だけ。その分のツッコミは深いし、作家論としてはオーソドックス。まさに古典いう名に恥じないというか、ここに書かれた内容をベースにいろいろ論じる出発点になるような本である。 けどね、その分手堅くて、「なるほど」と思わせる指摘は多いけども、いわゆる「面白さ」みたいなものは、さほどない。以前評した野崎六助の「捕物帖の百年」が、本書を意識して本書の「逆」を行っていたんだなあ、とは思わせる。「百年」読む前にこっちを読んでおくべきだったと反省。 とはいえ、関東大震災が与えた「風景」のカタストロフが、捕物帳に与えた心理的背景、というのがこの本の一貫したテーマで、江戸庶民の末裔たちvs明治以降の新しい東京の住人たちの心理的な齟齬が、この風景の瓦解によって平準化されて、その新しい「風景」の上に、この捕物帳が「幻想の江戸」として立ち上がってくる、というのがこの本の「読み」。 胡堂が震災後に評者として選んだ川柳、 駿河町広重の見た富士が見え がこの本の「原光景」。 評者的には右門の佐々木味津三を、東京新住民の代表として捉えて、同じ立場の乱歩と重ねて論じているのは卓見と思う。そうしてみると、右門って乱歩通俗長編の捕物帳バージョン、ということになるみたいだ。半七・右門・平次の三人の中で、一番「隙がある」というか叩かれやすい右門なんだけど、評者意外に好きだったりする....なるほど。 |