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クリスティ再読さん
平均点: 6.46点 書評数: 993件

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No.993 7点 世界スパイ小説傑作選1- アンソロジー(国内編集者) 2022/05/17 08:05
「ダブル・スパイ」「霧の中」とこのところの評者の追跡対象の R.H.デイヴィスの邦訳最後の短編を収録したアンソロをゲット。この短編集に「フランスのどこかで」が入っている。

講談社文庫のこのアンソロ(1978)は、丸谷才一編で3巻出たものの第一弾。表に出ている名前と序文が丸谷才一だけども、常盤新平が全面協力で文庫解説も常盤、なので事実上、丸谷と常盤の共編、と見た方がよくて、「翻訳作品集成」でもそんな風に書かれている。

とはいえ収録作は他で読めるものも多い。スパイ小説は長編が主体だから、アンソロは長編の一部を短編扱いにして...とか編集を工夫する必要がある。

・モーム「売国奴」 例によって「アシュエンデン」のエピソード。
・ビアス「悟れる男パーカー・アダスン」 南北戦争で捕虜となった「哲人にして才人だった」スパイと、南軍将軍との会話の妙。
・アンブラー「影の軍団」 第二次大戦開戦前夜のドイツのレジスタンス活動に「飛び入り」したイギリス人外科医の体験。「情報活動の経験が皆無のアンブラーのスパイ小説の特徴は、細部に至るまで正確であることだ」まさにその通りだし、それが一種の「アンチ・スパイ小説」になる面白さよ。
・ウォーレス「コード ナンバー2」 SFっぽい発想でのガジェットの面白味と、意外な通信手段。マンガっぽいといえばその通り。
・ホイートリイ「エスピオナージュ」 「黒魔団」の作者で評者はご贔屓。この人もスパイ活動歴があって、イアン・フレミングの上司だった。遊び人風のスパイ像が007っぽい。
・スティーヴンソン「りんごの樽」 「宝島」の一部。ジム少年がリンゴの樽に入って、シルヴァーの企みを盗み聞きするエピソード。
・チェスタートン「めだたないノッポ」 「ポンド氏の逆説」所収。チェスタートンらしい幻想譚風の話。
・デイヴィス「フランスのどこかで」 職業的な女スパイ、マリー・ゲスラーの一代記、といった体裁の話。女性でもオトコを手玉に取れる「職業」なのがスパイだったりする面白さ。マリーが「スパイ」という職業が「天職」であるあたりが、この短編のリアリティと迫力になっている。
・ドイル「ブルース・パティントン設計図」 言わずと知れた有名作。
・リーコック「あるスパイの暴露」 パロディで〆。

まあだから、他で読める作品がやたらと多いのは「お買い損」だけども、この本でしか読めない作品が出来がいい。やはりリチャード・ハーディング・デイヴィス、驚くほどの実力がある。日本でも埋もれているようで埋もれていない作家だし、英語版 Wikipedia とか見ると 1920年代までは映画の原作に多数採用されている人気作家だったことは間違いない。「リアル・スパイ」の元祖になる作家である。まさに「スパイ小説のオーパーツ」!

No.992 7点 三十棺桶島- モーリス・ルブラン 2022/05/13 22:37
そういえばルブランやるの評者は初だった。少しやってもいいか。本作がトップなのは、実は「日本ミステリに関して、重要な作品」だから。意外、かなあ? もちろん保篠龍緒が戦前に紹介しているわけだから、大昔から親しまれてきた作品である。乱歩の「孤島の鬼」だって本作にヒントを得たのかもしれないが、それよりモロの影響が横溝正史である。
「八つ墓村」の前史になる大量殺人も、地下道をさまようエピソードも、宝探しも本作にある。さらに直接なのが「獄門島」で、こっちは島だし、「見立て殺人」が呼んだ「偶然」に狂わされる犯人やら、さらには戦争の影もきっちり再現していてほぼ元ネタ....重要、でしょう?「ルパンだから...」とか言って敬遠しなくていい。

でこの作品自体、ではやはり怪奇的雰囲気が濃厚な作品で、おどろおどろしい。怪物的な悪党なんだけども、「ババリアのルイ2世」とか言うからには、ルードヴィッヒⅡ世のご落胤設定である。まあここらへん、傲慢で狂気のドイツ人、という戦時中らしい色付けでもあるが、そういった「帝王妄想」みたいなものがこの悪党にあるわけで、演劇的な犯罪のスケールが大きい。しかも事件の背景となるケルト人が隠した秘密は歴史ネタでこれも壮大なロマンの良さもあり、さらに「神の石」の謎解きも...

いやだけど、そういったロマンに介入するルパン(というか、愛国的な冒険者のドン・ルイス・ペレンナ)が、ファンキーなドルイド僧に扮して「棺桶島のタンゴ」を踊って見せたりする(苦笑)。ここでヴァーグナーから一気に「ロッキー・ホラー・ショー」に転調してあっけにとられる(笑) でもこれが悪党の毒消しみたいなもので素敵。

本作いわゆる「カリオストロ4つの謎」の一角になるシリーズ中でも重要なポイントの作品でもある。4つの謎プラス有名作くらいはやることにしようか。

(でもポプラ社児童向け、悪人因果応報な結末が違ってた記憶がある...南洋一郎、オリジナル要素多いからねえ)

No.991 7点 貴婦人として死す- カーター・ディクスン 2022/05/08 20:43
読みやすくトリッキーな佳作。まあだけど、カーの通例でこんなの中んないよ...とはいいたくはなるが。

やはりクロックスリー医師の手記形式がなかなかよく出来た仕掛けと思う。これに狙いがあったりするわけだし。当事者の主観による「改め」になるから、ずるい、といえばそうかもしれない(苦笑)。それでも謎の設定が上手だから、興味をうまく引っ張っていけている。
グレインジ弁護士&クラフト警視と、クロックスリー医師が事件の解釈で対立することになって、クロックスリー医師が謎を解かなくてはならないハメに陥るプロットの綾がなかなか効いている。それと中盤で初登場する女性キャラの性格付けがなかなかナイス。だから中盤、飽きない作品。

怪奇趣味を排してのんびりした田舎の怪事件で、HMの車椅子のドタバタをからめてユーモラスに描いたあたり、単純に楽しい小説でもある。そういえば荒野にある流砂にハマって...というので、「バスカヴィル家の犬」を連想したら、同じコーンウォール半島のその近辺の地域のようだ。バスカヴィルのあるダートムアの北側に広がるエクスムーアという地域で、クリスティが生まれた(あと「ABC」のCとか「シタフォード」の舞台)イギリス海峡側とは逆のデヴォン州北部が舞台。何となく評者、ここらへんに憧れる。行ってみたいな。

No.990 6点 ダウンタウン・シスター- サラ・パレツキー 2022/05/08 10:28
本作ってハードボイルド、というよりも、評者は「社会派」って呼びたいと思うんだよ。ネタは早い話公害問題のわけで、そうしてみれば「海の牙」みたいなものだ。
本作だとシリーズ第五作になるから、周囲のレギュラーも固まってきている。今回のメインキャラは、ヴィクの亡母との縁が深く、若いのに死期を迎えた女性ルイーザと、その娘でヴィクにも「手間のかかる妹」のようなキャロライン、そして自分のホームタウンである企業城下町の人々を巡る事件だ。両親からの影響を女性は隠さないけど、男性はそれが妙にコケンに関わる風にも感じがちだからね、男性ハードボイルド探偵は....こんなの、手掛けないだろうな。原題は違うが「ダウンタウン・シスター」、要するに「幼馴染の妹分」。だからヴィクもイライラしながらも、ついつい腐れ縁の妹分キャロライン(性格悪し)の面倒を見てしまう。ヴィクにも「故郷を捨てた」弱みがあるからね...

まあだからこの話、社会派ネタとヴィク身辺と興味が二分されてしまっている印象。社会派の方はギャングも出れば、ヴィクも殺されかけるし、最後は意外な相棒と奇襲をかけるアクションもあり。この「相棒」になるキャラがナイスだが、バレない方が面白かろう。社会派は悲惨でヒドい話なんだが、そっちの「工作」に意外性が薄くてややセコい詐欺なのが、たとえば「サマータイム・ブルース」のネタの「社会的興味」ほどではないようにも感じる。

あれ、評者「サマータイム・ブルース」と本作しかまだ読んでいないのだが、とくに選んだみたいに「社会派」ネタの作品に当たっているのだろうか?

No.989 7点 嫉妬- アラン・ロブ=グリエ 2022/05/06 18:25
叙述トリック小説の元祖の一つみたいな小説。ミステリじゃないけどもね。

屋根の南西部の角を支えている柱の影が、いま、露台の同位角を二つの等しい部分にわけている。この露台は屋根のある広い廻廊で、家を三方からとり囲んでいる。中央の部分も両翼も広さは変わらないので、柱によってつくられる影の線は、正確に、家の角に達している。だが影はそれ以上に伸びない。太陽はまだ空高く、露台の敷石だけを照らしているからだ。

こんな微に入り細に入った、幾何学への偏愛を示すような描写が延々続く小説。その中で、「A」という頭文字で表記される女性と、「フランク」と呼ばれる男性が登場する。Aは熱帯のバナナ・プランテーション経営者、フランクはその隣の農場の経営者で、たびたびAの農場を訪問しては、食事を供にする。Aはフランクの港町行きのトラックに便乗して港町へ向かうが、トラックの故障でその日の裡には帰れなくて、帰ってきたのは翌日だった....

いや本当にこんな内容だけの小説。Aの日常的な振る舞いや、訪問してきたフランクとの交友などが、微を穿つように、かつ同じ場面を何度も何度も繰り返し偏執的なカメラアイで描写される。それこそカメラ位置がわかるくらいに。時系列は頻繁に組み替えられて、前後に脈絡もなく移動する。


(ネタばれ)
まあ、ミステリじゃないからね、バレてもいいでしょう。実際読んでいると、予備知識なくても徐々にわかってくるものだし。完全な客観描写オンリーの小説なんだけども、実は表面に登場しない「Aの夫」が話者の一人称小説なのだ。「私」とか皆無で、描写の背後に話者が隠れる叙述トリックを使っている。だからこれは、Aの夫の目からみた二人の関係、しかもタイトル通りにAとフランクの関係への疑惑の視点での描写、なのである。この偏執的な描写も、まさに嫉妬に狂った夫だからこその、執拗な描写だ、というのが狙いの小説なのだ。

でもね、ロブ=グリエが脚本した映画「去年、マリエンバートで」とか見た後だと、同じ世界だな~なんて感じる。文章が微に入り細に入りのカメラアイだからこそ、まさに「映画的」なのだ。引用部分の「柱の影」なんて、本当に映画だったら「夫の主観が触手のように伸びていく」視覚的にスリリングな描写になるに決まってる。だから「映画をそのまま文章にしたような」そんな小説なのだ。そういう世界には心理描写は不要。そうしてみると、三人称ハードボイルドに極めて近い世界、読者がしっかりと心理の綾を読み込んでいかないと理解できない世界に近いと思う。

今回そんな読み方をしたので、無味乾燥というわけではなくて、実は結構面白く読めた。まあ、叙述トリック作品だと思って「ネタ」で読むよりも、そっちのが楽しいと思う。

No.988 7点 法王庁の抜け穴- アンドレ・ジッド 2022/05/06 10:10
いやジッドなんて登録していいのか?なんて遠慮してしてなかったのだが、斎藤警部さんが「田園交響楽」を登録されたからには、まあ、いいか(苦笑)。でもジッドで「ミステリの祭典」だったら本作でしょ。

うん、悪漢小説。ジッドの中でもマジメなタイプのレシじゃなくて、コミカルなソチ(茶番劇)になる作品。ローマ法王が実は替え玉で、幽閉された本当の法王を救出する十字軍...といった陰謀論をネタにした詐欺と、「理由なき殺人」をテーマにした小説である。主要人物は、私生児の美青年ラフカディオと、その腹違いの兄に当たる小説家のバラリウール伯爵、その縁につながる無神論の科学者アルマン=デュボア、田舎者のブルジョアのフルーリッソワールの二人の相婿。アルマン=デュボアは宗教反対!で凝り固まったフリーメイソンの科学者だが、ふとしたきっかけで回心しちゃって周囲からは「これみよがしで偽善的」なくらいの宗教心を誇示してうっとおしがられる奴。フルーリッソワールは手もなく「法王救出十字軍」の詐欺にひっかかって、よせばいいのにローマに馳せ参じてしまい、詐欺師側も大迷惑。この二人の相婿の突発的な行動に振り回されるバラリウール伯爵は、自分の小説のキャラが「論理」に従って行動することに嫌気がさしてきて、

わたしは犯罪の動機なんてほしくないんだよ。犯罪者を動機づければじゅうぶんなんだ。そう、わたしがしたいのは、犯罪者に無償で罪を犯すようにさせ、完全に動機のない犯罪を犯したい欲望を起こさせることなんだ。

と自由意志の問題から作品構想を語る。そんなジッド自身が反映したキャラだ。しかし、この異母兄の持説を謹聴するラフカディオは...実はまさにそのままの「動機なき殺人」を前日に犯していた!

こんな皮肉きわまりない小説。美青年の私生児のラフカディオの「イキのいい」キャラが素敵。身を挺して火事の現場で子供を救出して、バラリウール伯爵の娘に惚れられるとか、ラフカディオは打算やら内面やらまったく関心のない「貴族的」な冒険家である。ルパン的犯罪紳士、といえばまさにそう。このラフカディオ、バラリウール伯爵一家とも縁があれば、さらに法王救出十字軍詐欺の一党とも縁がある....

そんなシャレのめした犯罪小説でもあるし、また「神の代理人たる法王が偽物」なカトリック信仰と、自由意志を巡るイジワルなアイロニー炸裂の戯作でもある。

「ジッド、ブンガクで真面目そう...」のパブリック・イメージが崩れる一作。単純に面白い。

No.987 4点 スパイたちの遺産- ジョン・ル・カレ 2022/05/05 16:41
「寒い国」と「ティンカー・テイラー」の裏話&後日譚...なんだけども、う~ん、今更? 最大の問題は、本作の「年代」が実は不明、ということなんだと思う。発表年度なら 2017年になるから、スマイリーの生年月日からみたらもう100歳近いはず(生年再設定前なら優に100歳を超えてしまう)だ。ギラム=ル・カレとみれば、ギラムだって87歳だ。なので、せいぜい 2000年近辺にすべきなんだろう...だと「壁」崩壊からはまだ10年。ちょっとまだ「ナマ」過ぎるか。

やはりル・カレにとって一番輝いていたのが冷戦を背景にした手段を選ばぬ「冷たい戦争」なエスピオナージュだったわけである。もちろんスパイ活動の「道徳性」というものには、最初から疑惑含みのものであることを承知してなきゃ、やってられない。ル・カレはグリーンでもアンブラーでもない。

サーカスは法を破ることが人生の使命だと思っている偉そうなゲイの集団だから

と作中でもギラムが自虐ギャグをカマすわけで、今更の良心っぷりを見せられても、出し遅れの証文みたいなものだ。そういうギラムの疑問について、スマイリーが「自分がすべての責任を取るから」と弁解したところで、何にもなるわけがない。

いやいや、こんなものを書いてしまうル・カレの方こそが、老いて状況判断ができなくなったのだろうか。
(小説としても、くだくだしいばっかりで退屈で尻すぼみ。プロット的な決着は何もない。関係者がみな長命のようなのは、ご都合主義というものでは)

No.986 6点 メグレと妻を寝とられた男- ジョルジュ・シムノン 2022/05/04 15:52
さて皆さんが大変よくまとめておられるので、評者が追加することってあまり、ない。「寝取られ男」でデーマがかぶるので、「カルディノーの息子」の次に選んだ作品である。あっちは小市民になりあがった男が主人公で、ハタから見れば喜劇なのに迷惑するだけで済むが、こっちは悲惨。口蓋裂でそれを負い目に感じて卑屈になっているペンキ職人の親方である。
子供までありながら、妻と新たに雇い入れた美男で威勢のいい職人が通じて、自分は家からも弾き出される...悲惨を絵に書いたよう。コンプレックスが大きくて自信がないからこそ、いい様にされて自分の権利も主張できない。「妻と間男を殺してやりたい...」こんな物騒な相談をされたメグレはいい迷惑。それでもメグレはこの男のことが気にかかってならない。

ここでメグレが毎日この男に自分に電話するように諭すのが、まあメグレらしいといえばその通り。こんなイイ人、なかなかいないよ。この男は果たして失踪するが、メグレにかけた電話の最後の言葉は「ありがとうございます...」いや泣けるじゃない? 自分のことを気にかけてくれる人間が、世の中にいる。
ミステリとしての読みどころはほぼないに等しい作品だけど、この一件が片付いて裁判でメグレが証言を求められる最後のエピソードが、この作品に大作家シムノンの「署名」を与えているようなものだ。

tider-tiger さんのご書評に、一票。

No.985 5点 殺意という名の家畜- 河野典生 2022/05/04 07:40
実は初読。協会賞を結城昌治の「夜の終る時」と分けた和製ハードボイルド..になるんだが、じゃあ相方のロスマク風ハードボイルド「暗い落日」と比較したら、大きく分が悪い。評者はこの「ロスマク風」が失敗?なんて意地の悪いことも感じるのだ。

本作だと主人公は私立探偵じゃない。ビートニクな作風で若者の支持が高いトンがった作家、という設定。それは、いい。でもわざわざ私立探偵モノのテンプレ展開にしてしまったために、このオリジナルな設定が全然生きない。設定年齢もずっと高く感じる。もっと、トンガった、ビートニクな探偵、しろよ!なんて思う。リュー・アーチャーじゃなくて、モーゼズ・ワインに出来たらよかったんだろう。

というかねえ、60年代初めだから、ビートニク、って言ってもどこかお育ちがよくて、ただのジャズファンみたいな大人しさ。ヒッピーの反体制は未だし、というあたり。笹沢左保の「六本木心中」と風俗的には同じものを描いているのだけども、「六本木心中」の虚無感には至ってない。

あと、高松に渡ってから、妙に展開がまごまごしている印象を受ける。全体的には失敗作みたいな印象だが、当時は業界の最先端だったんだろうなあ...

No.984 7点 地の群れ- 井上光晴 2022/05/02 18:05
たまには反則したい。でも評者的には念願のネタである。
一度「ハードボイルド」という視点で井上光晴の小説を読んでみたかったのである。登場人物に対する感情移入を「これでもか!」というくらいに排除する独特の突き放し具合に、評者はずっと「ハードボイルド」らしさを感じてきたのだ。そして虫眼鏡で覗き込むようなミクロな視点で描写されることから、苛烈な現実感が異形で悪夢的なものに膨れ上がり、現実感が現実でありながら崩壊していく感覚....三人称的な「ハードボイルド」ってこういうことではないんだろうか。

まあ、井上光晴だと、多視点が交錯しあい、現実描写がいつのまにか過去のトラウマにすり替わって、現実感が空間的も時間的にも相互に侵食されるわけで、「意識の流れ」と言えばまあそういう面もあるんだが、この「意識」には「立ち入り禁止」の札がかかっている。読者がその「流れ」に乗ることは拒絶されるのだ。そうしてみると、この「意識」はあたかも不透明なモノのようなもので、そこに転がっている。だから登場人物の心理状態は、読者はわかったようで、わからない。さらにトラウマな記憶はずいぶん話が進行してから、やっと明かされることも多い。

しかも現実は苛烈だ。「地の群れ」ならば、少女の強姦事件をめぐって起きる殺人と暴動の話だが、強姦した男は長崎の被爆者で真夏でもケロイドの腕を隠すために手袋をしている青年。少女は被差別部落の子。被差別者が互いに差別をしあう地獄絵図である。この強姦事件に濡れ衣をかけられた別な不良青年は、やはり被爆者部落の出身で、被爆した浦上天主堂のマリア像の首を盗んで破壊したことで、信者たちにリンチを受けて逮捕される。などなど、幾重にも差別が重なりあり、誰もが有罪な暗黒の生と性を生きる。「差別は悪いことだ」なんて気安く言えないような、それこそ「差別こそが生きること」とでも開きなおさざるを得ないような世界が描かれるのである。

この苛烈な現実に心を閉ざして生きる人々の群像を描くのが井上光晴ならば、それはハードボイルド、と呼ぶべきなんだろう。

No.983 7点 仮面よ、さらば- 高木彬光 2022/05/01 21:04
さて墨野隴人シリーズ完結作。何を書いてもバレになる小説なので、書きづらいったらありゃしない。けども、作者の意図とは少し違うかもしれないけども、最終盤で畳みかけるような「非情」ななりゆきに、意外なほどの興趣を感じる。いやいや、犯人が誰かも墨野の正体も、初読でも明白に見当がつくのが普通? ましてや再読「意外な真相」でも何でもないんだけども。

だから語り手の「陽気な未亡人」村田和子が困惑するさまが、それ自体、不条理状況なのである。和子をこう追い込む墨野の冷淡さにもしっかりとした理由があり、それがシリーズキャラクターとしての「最後の挨拶」につながっていく。そこに立ち上るのは、諦念めいた感慨なのだ。

やはりこれは、セカイに向けての「最後の挨拶」というべきものなのだろう。たとえば「帝国の死角」の最後でも、「世界が崩壊しても、またそこには日常が回帰する」といった感慨のようなものがあって、それを評者は好ましく感じていた。同様に本作がつけた墨野隴人シリーズの結末でもまさに「世界はガラクタの中に横たわる」。高木彬光の、この非情かつ優しいセカイ。


さようなら、世界夫人よ
ぼくらは君の泣き声と君の笑い声にはもう飽きた

(学園紛争という世相もちゃんと伏線として機能する! あと、本作の密室は「なぜ密室を作るのか?」という点について、オリジナリティのある why を提出しているようにも思う。how の部分でもキッチリとフェアだし)

No.982 6点 浴槽の花嫁- 牧逸馬 2022/05/01 10:25
まだ書評がないんだ。新青年趣味の最たる作家なんだけどもねえ。全米放浪から帰って森下雨村に見いだされ、わずか10年の作家生活の中で、谷譲次で「めりけんじゃっぷ」、林不忘で「丹下左膳」、そして牧逸馬で「世界怪奇実話」...八面六臂で追いつかない戦前の怪物作家。この教養文庫の解説で「怪物度」ではおさおさ劣らない松本清張さえも脱帽している。
この世界怪奇実話シリーズは、格式がちゃんとある高級総合雑誌「中央公論」の連載。要するに、それまでだって犯罪実録系の怪奇実話なんて、いくらでもある。それらと一線を画す情報量とリアリティ、小説的興趣で今読んでも古びない凄愴さが感じられる。ネタは本書収録のものに限っても、今でも有名なものが多い。ジャック・ザ・リッパー、新妻連続保険殺人で有名な「浴槽の花嫁」、マタ・ハリ、ハノーヴァーの人肉肉屋ハーマン...さらには「タイタニック号」「クリッペン事件」などなど、読者のいわゆる「猟奇事件のジョーシキ」を確立したのがこのシリーズと言っても過言ではないだろうね。

事件が事件だから、なかなかアザトい。でも初出の人名だとアルファベットで表記して、その後はカタカナ、とかそういう小技でリアリティというか臨場感を与えたり、わざと時系列を入れ替えて効果を与えるとか、実話でも作者の「技あり」な部分が目立つ作品である。

が、珍しい美人だったことは伝説ではない。これだけは現実だった。丸味を帯びて、繊細に波動する四肢、身長は六フィート近くもあって、西洋好色家の概念する暖海の人魚だった。インド人の混血児とみずから放送したくらいだ。家系に黒人の血でも混入しているのか、浅黒い琥珀色の皮膚をしていて、それがまた、魅惑を助けて相手の好奇心を唆る。倦い光を放つ、鳶色の大きな眼。強い口唇に漂っている曖昧な微笑。性愛と残忍性の表情。

凄惨なものではなくて、キレイな方(マタ・ハリの容姿)で、文章の実例。ぶっきらぼうに単語を投げ出すようにして、畳みかける独特の迫力のある文体である。筆圧が高すぎて、コレクションだと胸やけしそうだ(苦笑)。

評者的にはパリの社交界に20年にわたって君臨した「詐欺師の女王」ウンベルト夫人の話がナイスだったなあ....いやこの件、凄惨な猟奇事件でもなくて埋もれてしまった話だけど、なるほど、と思わせるリアルな「詐欺のコツ」みたいなものを感じる。ちなみに、ウィリアム・ル・キューをこの話の狂言回しみたいに牧逸馬は使っている。

No.981 6点 カルディノーの息子- ジョルジュ・シムノン 2022/04/29 14:54
ハヤカワの世界ミステリ全集の座談会で、都筑道夫が「シムノンは紹介しても売れない..」ってボヤいた回想をしてたんだけど、この本も都筑主導でポケミスで出したもの。本書のあとがきだと「ベルの死」で文句付いたのがコタえた様子で、主客の対話仕立てで

客「それを探偵小説として出すのは、おかしいんじゃないかな?」
主「これはやっぱり探偵小説の土壌から生まれた文学なんだよ」

と釈明しているあたりに弱気が見える(苦笑)。まあ、実際、評者もポケミスのシムノンの未読はあとチビ医者モノの「死体が空から降ってくる」だけになってきた。意外なくらいに、出てないんだよ。

で、本作は妻を寝取られた男が、その妻の行方を捜す話。いやはや、何とも不名誉な話のうえに、主人公のカルディノーがまた微妙な立場にいる男なのだ。タイトルの「カルディノーの息子」が、この主人公に対する町の人々の呼び名、なのである。労働者階級の出身だが、小才が効くことで保険会社で出世して主人のお気に入り、と自分の家族や昔馴染みからはヤッカミの目で見られるタイプの小市民なのだ。だから妻に逃げられた話、というのも誰もが喜劇的な感想を持ちがちで、そんな状況下でも誠心誠意、妻を追う....いや、笑っていいのか、いけないのか?

集英社のシムノン選集の解説にあるんだけど、シムノンは、労働者階級も、小市民も、ブルジョアも、まるで書けない、なんて言ってるフランスの評論家がいるようだ。シムノンが得意とするのは、まさに本書の主人公のようなキャラなのである。労働者階級から這い上がりながらも、旦那衆からは疎外され、負い目を持ちながらも、社会階級の転落に怯える男....まさに、本書の主人公のピンチはそれを強烈に戯画化したようなものである。

(ちなみに本書、打ってある最終のノンブルは p.122。92ページの「明日よ、さらば」には及ばないがね..ページ以上の読みごたえは、あります)

No.980 6点 緑のダイヤ- アーサー・モリスン 2022/04/29 09:05
「スパイ入門」で出くわしたリチャード・ハーディング・デイヴィスにがぜん興味が湧いて調べたら、この世界大ロマン全集の巻に「霧の夜」が収録されていたんだ。昔読んだ....改めて読み直して、内容を何となく憶えている。う~ん、こんな再会もあるもんなんだね。

もう少し説明すると、R.H.ディヴィスはドイルやモリスンと同世代のアメリカのジャーナリスト。戦争特派員として世界の戦場を股にかけたという猛者なんだが、少し小説も書いていて「ダブル・スパイ」(1911)という短編が、グリーン編の「スパイ入門」に収録されていて、読んだら評者ビックリ級の名作。それに違わず、ミステリマガジンの第601号(要するに50周年記念号)でジャンル別オールタイムベスト短編を選んで新訳している中に、「スパイ」のタイトルで採用されている。まあ、スパイ小説の短編、というのは数が少ないのもあるけども、堂々のオールタイムベストである。1911年作品だから、第一次大戦前の「クローク&ダガー」時代の作品でも、テイストはモダンなスパイ小説を先取り。「アシェンデン」より17年も早いし、短編小説的充実感も負けてない。「スパイ小説のオーパーツ」と呼びたい。
この「スパイ」の他には、「フランスのどこかで」という作品が丸谷才一編の「世界スパイ小説傑作選1」に、そして「霧の夜」がアーサー・モリスンの「緑のダイヤ」を表題作にしたこの本に収録されていた。

で「霧の夜」。三部構成でいわゆるイギリスの「クラブ」に集まる紳士の座談と悪戯、そしてその座談の中で3人の紳士が語る、霧の夜に出くわした二重殺人と、勅使帯行官の密命と女スパイの攻防、意外な殺人犯人の指摘...と中編規模ながら凝った構成で、霧の夜に彷徨うような着地点がなかなか見えてこない不思議テイストがある。著者がアメリカ人、というのが信じられないほどにイギリス風味のよく効いた佳作。ジャンルからは完璧にハミだしている。

「霧の夜」は「短編ミステリの二百年」にも収録されているようだ。年月に埋もれないデイヴィスの実力に感服。こうなったらぜひ「フランスのどこかで」も読んでみたい。

すまぬモリスンの「緑のダイヤ」は駆け足。そういえば乱歩の「海外クラシック・ベストテン」に本作入ってたから、戦前には名作評価があった作品。時代がかっているけども、のんびり読めるし、一儲けを企んで介入するボーイ長やら俗物たちの右往左往も妙に面白いところもある。一ダースの古いワインの瓶のどれかに希少なダイヤが隠された、ということから争奪戦が始まるのだが、便乗組はあたかも仕手戦の提灯連中みたいなもので、仕手は売り逃げ・提灯は大損、というそのままの構図。
でもアメリカの石油成金の言葉遣いをヘンテコな関西弁?で訳しているのが何か気持ち悪い...訳者の延原謙の経歴だと関西プロパーな出身でもないみたい。

まあ要するに、この世界大ロマン全集のこの巻は、延原謙の裁量で編んだ巻、ということなのだろう。あとがきでも「新青年の専属翻訳家だった」ということを書いていて、「新青年」という雑誌自体が、若い翻訳家たちの積極的な作品発掘の情熱に支えられて、賑わっていたのが窺われる。「緑のダイヤ」は森下雨村の依頼だったそうだが、本書にもう一品収録の「ある殺人者の日記」は、延原が海外注文した雑誌で見つけた作品から。だから著者のマルセル・ベルジェは完全に正体不明。でもそこそこ面白い。

No.979 6点 十三妹- 武田泰淳 2022/04/27 21:43
「第一次戦後派」というと、戦争が題材で、文体は「実存文」という奴。「暗い重いニッポン文学」の代表みたいなものなのだが、武田泰淳はずっと茫洋としてロマン寄りのところがあるから、評者高校生の頃愛読したなあ。例えばアイヌの青年と女流画家の恋愛と闘争を描いた「森と湖のまつり」やら、食人事件を扱った「ひかりごけ」やら、スケール感のある作品を書ける珍しいタイプの作家だったわけだけども...亡くなったら本当にすぐに本を見かけなくなった。ブンガクってイバっても「商品」なんだ、というのを思い知らされたよ。

で、この人、評伝の「司馬遷」がそもそも出世作だし、戦中~戦後の時期上海で過ごして、その時代をネタに「風媒花」を書いたりで、中国に縁の深い作家である。1966年に新聞小説として書かれたのが本作なんだが、主人公が十三妹(しいさんめい)。伴野朗の「五十万年の死角」に登場する藍衣社(国民党)の女スパイがこの名前を名乗るわけだけど、中国清末の武侠小説「児女英雄伝」のバトル・ヒロインで有名なキャラだ。
武侠小説も最近は翻訳もあるし、マンガのネタにも使われて知名度が上がっているわけだけども、泰淳昭和の御代からネタにしている。とはいえキャラを借りて、さらに別の武侠の「三侠五義」の人気者の白玉堂や名裁判官包拯(中華ミステリの名探偵、かも)も登場のオリジナル・ストーリー。和製武侠小説の先駆というのもあって、解説を田中芳樹が買って出ている。

...なんだが、結構お話はとっ散らかっている。場面場面は楽しいんだけどねえ。続編を書くつもりが実現しなかった、という事情もあるようだ。十三妹も白玉堂も「忍者」だそうである(苦笑)。それこそ風太郎忍法帖みたいな面白さがでるところもある。この白玉堂のスネ者、屈折ぶりがなかなか、いい。それに対し、十三妹の亭主の安公子が、劉備とか三蔵法師を思わせる無能キャラなのは中華のお約束。なぜ十三妹が頑張って保護するのか理解不能。それでも白玉堂ともども美形設定。

中華モノは、たとえば安能「封神演義」とか読むと、「中国人って理解不能...」なんて思う箇所もいろいろあるわけだけども、本作は日本人が書いているから、ちゃんと日本の読者に伝わるように書けて、しかも異文化の話、というのがきっちり伝わる。バランスのとり方がさすが泰淳ではあるんだけどね。

No.978 7点 三文オペラ- ベルトルト・ブレヒト 2022/04/23 09:35
そいから鮫だ、鮫にゃ歯がある
その歯は、つらにあらァ
そいからマクヒィスは、どすを呑んでる
だがそのどすを、見たやつァねえ

どすのマクヒィス(マック・ザ・ナイフ)はいなせなギャングだ。マクヒィスは物乞いを組織化した商売人のビーチャムの娘ポリーを親から奪って結婚するが、ビーチャムはマクヒィスを警察に密告する。しかし、警視総監のタイガー・ブラウンはマクヒィスとは戦友で腐れ縁の仲だったが、居場所を娼婦たちから密告されたマクヒィスを裏切って逮捕する....

登場人物はすべて暗黒街の住人たちで、裏切りは日常茶飯。いやこれ、本当に「ワルいヤツらばっかり」の通俗ハードボイルドの世界なんだよ。それこそカーター・ブラウンとかハドリー・チェイスの世界そのまま。「ワルくなけりゃ生きていく資格がない」のが、この世界の実相なのであり、道徳だって常識だって、一皮むけば成功したギャングに他ならない「エラい奴ら」の道具に過ぎない。だったら「ハードボイルドに、ワルく生きようぜ!」

...今だったら、こんな風に読む方のが、実は生産的なんだと思うんだ。もちろんブレヒト、サヨクのブンガクシャで、新劇じゃ神のように崇められてた劇作家なんだが、もうそういう読み方から離れても、いいんじゃない?
実際、アヴァンギャルドな唐突さで挿入される「ソング」によって、読者は物語に「立ち止まる」。演出も「これみよがし」に麗々しくやれ、と指示している。「自然な感情が盛り上がって歌になる」というミュージカルとは正反対に、パフォーマンスがウケればウケるほど、話の寓意性を「物語に流されることなく、自分の話としてピンとくる」ことを要求されるのだ。

これって、実はきわめてモダンなことなのである。わざと仕掛けたギクシャクに立ち止まって、主体的に「愉しむ」という「観客の態度」が求められるのだ。今風の「ネタ消費」だってこの客観性に近いものがあるのではないのだろうか? そんな「冷酷でハードボイルドな観客」というものを創造したことが、ブレヒトの芝居の最大の功績なんだとも思う。

いや、ハードボイルドはアメリカだけじゃなくて、同時期のドイツの「即物主義」にも強く表れていると、評者は思うんだよ。
ブレヒトだって、実はハードボイルドだ。

No.977 8点 スパイ入門- アンソロジー(海外編集者) 2022/04/20 11:02
原題は「The Spy's Bedside Book」で「スパイ枕頭の書」。いやグレアム・グリーンの翻訳作品集成でこれを見つけて、その大量の収録作品にびっくり。一体これは何の本なんだ?という興味で図書館で探してみたらあった。
計38作、しかも名前だけしか聞いたことのない、ウィリアム・ル・キューが9本、オッペンハイムも1作収録されていて、興味がそそられるじゃあ、ありませんか? 実物は、というと...

要するに、グリーンとその実弟のヒューが編んだ、さまざまなスパイ小説のサワリを抜き出して、「スパイの心得の必携書」といった体裁のシャレの効いた本である。グリーン本人もル・キューが好きだったようで、そんな献辞も入っている。
だからいわゆる「アンソロ」と言うよりも、グリーンの「エディトリアルな作品」という風に見た方がいいだろう。収録作品について軽く説明すれば、

・ジョン・バカン「だた一人で」 「緑のマント」の冒頭
・サマセット・モーム「すごく面白い小説」 「アシェンデン」の導入部
・グレアム・グリーン「I spy」 同題のグリーンの短編の結末部分
・ジョセフ・コンラッド「なぐるコツ」 「西欧の眼の下に」のクライマックス
・アーサー・モリスン「盗まれた設計図」 「ディクソン魚雷事件」をフル収録
・エリック・アンブラー「推理小説を書く」 「ディミトリオスの棺」のハキ大佐のエピソード

こんな感じで、「スパイ入門(勧誘)」「スパイの受難(ピンチ!)」「スパイの余暇」「スパイのトリック」といったテーマを立てて、それに適切なスパイ小説やら本当のスパイの体験談、あるいは公文書などのサワリを抜粋収録して組み立てた本になる。
じゃあ、「本当のスパイ」というとどんな人か?といえば、たとえばロバート・ベイドゥンポウエル(ベーデン=パウエルのが馴染みがある、ボーイスカウトの創設者)、T.E.ロレンス(「アラビアのロレンス」)の回想からエピソードを拾っていたりするのだけども、

わたしたちがこのアンソロジーに筆者の名前を出さなかったとしたら、果たしてどれだけの読者に実話と創作の区別ができるか、わたくしは疑問に思う

と「プロローグ」で編者のグリーンに言わしめるように、虚実の曖昧なまさにそのあわいで「スパイ」というものが成立するのでは?という洞察さえ示すのだ。いや実際、「スパイ活動の成果」のどれが本当の情報か、あるいは敵が仕組んだニセ情報なのか、二重スパイが自分の食い扶持を稼ぐためにでっち上げたものなのか、それとも誤解・思い込み・妄想のタグイなのか...どうやって検証するのだろう?

なのでそういう「虚実のあわい」をユラユラと揺れるような話が、やはり面白い。リチャード・ハーディング・デイヴィスの「ダブル・スパイ」はおそらくフル収録(HMM601号に別訳が載っている?)で、何が本当かよくわからないダブル・スパイの肖像を描いて極めて面白い。このディヴィス、戦場ジャーナリストのハシリみたいな人物だそうだから、本職のスパイでも別に不思議でもないし、実話めいた真相不明の面白さを感じる。

まあ、スパイなんてものは、「スパイ・ノイローゼ」(ベジル・トムソン)に描かれたように、緊張下の庶民が抱く妄想の産物であることも極めて多い、という事実を冷静に指摘もする。そういう「スパイ」を巡る虚実をエディトリアルなかたちで示してみせたグリーン兄弟の手腕が光る本である。

スパイの心は人間の精神の実験室である。

と訳者の北村太郎は総括する。まさに「スパイとは文学」。
(ちなみにル・キューはギャグ・マンガみたいな豪快さが面白い!)

No.976 6点 神曲地獄篇- 高木彬光 2022/04/18 21:18
今年は「あさま山荘50周年」で特集とかいろいろあったこともあるから、本作やろうか。高木彬光と連合赤軍、なんかわかったようなわからないような取り合わせ。笠井潔みたいにモロ「世代」なわけでもないし、「なんで?」という疑問も大きいわけだが、まあこの人「社会派」系作品も「人蟻」とか「破戒法廷」とか「追跡」とかあるわけで、そういう興味だと思えばいいのだろう。

評者はあさま山荘はテレビの中継を見た覚えがある程度。でも学生時代には「連赤の総括くらい済ませてるぜ」とウソ吹く活動家がまだいたなあ...評者在学中に各セクトが軒並み崩壊した世代だ。やや上の世代で連赤と東アジアの二本立てでヤル気なくした方々とか、お付き合いがないわけでもなかったが。
で、この本は連赤の「総括」、リンチ殺人をコレでもか!と念入りに小説仕立てにしたもの。「あさま山荘」はちょっぴり、それよりもプロローグ的な印旛沼事件(脱落者を謀殺した事件)の方がウェイトが高いくらい。なので、永田洋子の異常性に力点がおかれていて、思想やら社会状況やらそういう話題には明白に関心がない。閉鎖空間の中で、サディスティックな人物が独裁的な権力を振り回す話としてまとめている。
だから、オウム事件とか、イジメとか、ブラック企業とかと共通するミクロな「権力」構造の問題になるから、左翼運動自体への予備知識とかあまり要らない。要するに被害者の側からして、異常な権力に迎合してしまう「スタンフォード監獄実験」みたいなことになった...ということでもある。

それはそうなんだが、もう一つ別な面もある。一連のリンチ殺人に先立って、合体以前の京浜安保共闘が真岡事件で入手した銃というものに、グループ全体が「呑まれて」しまったのではないか?という面だ。毛沢東が「政権は銃口から生まれる」なんて言ったこともあって、毛沢東主義の影響が強い連合赤軍だからこそ、「銃による戦いができるか?」というのを「真剣に」考えすぎてしまい、「銃で戦える戦士に変わらなければ!」とそれに呪縛された、と見るのはどうだろうか。
やはりあんな異常な「権力」というものは、犠牲者の側の協力がないと絶対に確立できないものである。そういう意味ではいかにも人徳のない永田洋子の「鬼婆っぷり」ではなくて、理論家肌の森恒夫のきわめて観念的な「共産主義化」の理論が果たした役割の方が重要のように評者は感じる。

いや、「総括」のベースを作るような精神主義、献身とか自己犠牲とか自己改造とか、今までの自分を投げ捨てる「自分イジリ」は端的にキモチがいいのだ。そういうキモチの良さを正当化する「共産主義化」理論と、それを悪用して権力を振るうのを楽しむ人物と、両方が揃ったことで、ああいう陰惨な事件が起きるものなのだろうな。

高木彬光自身がそういう「異様な雰囲気」に呑まれているような印象も受ける。この人も妙な精神主義に波長があうタイプだからねえ。そう捉えたら、高木彬光が一見無縁なこの事件に関心を持ったのも、なんとなく、頷ける。

No.975 8点 真説 金田一耕助- 伝記・評伝 2022/04/18 09:31
これは本当に懐かしい本。1976年の9月から一年間毎日新聞日曜版に連載された横溝正史のエッセイである。この時期、というのが実に凄い。まさに横溝ブームまっ盛りなのである。ブームをリアルタイムで、そのご本尊が体験したことを書いているエッセイなのだ。さらに単行本化で尺が足りないこともあって、この期間の横溝の日記を収録した本である。

この連載中に起きたこと
・東宝「犬神家」撮影~公開。横溝もカメオ出演。
・叙勲。勲三等瑞宝章。「若者にもらった勲章のようなものだから誇りに思う」
・旧友で、金田一耕助のモデルの一人でもある城昌幸、それにカーの死去で寂しい思いをする。
・映画化は「悪魔の手毬唄」と「八つ墓村」「獄門島」が続く。
・古谷金田一のテレビシリーズ開始(犬神家を本人がかなり褒めている)
・松方弘樹で人形佐七もテレビシリーズ開始。
・「野性時代」に連載していた「病院坂の首縊りの家」を脱稿。金田一耕助アメリカへ旅立つ..

このとき正史74歳。健康状態もあまりよくない中で、老いの身に降りかかった一大ブームのドキュメントとして、きわめて興味深い本でもある。日記側にはすさまじい頻度でかかる重版通知をこまめに記録しているし、一躍文壇長者番付第三位に浮上し、税金対策に苦慮するあたりも窺われる。
もちろん、軽妙でユーモアにあふれた筆致で、自作や海外ミステリに触れている個所も多いし、執筆当時の思い出話なども豊富に収録。よく文庫の解説に「著者は...」で狙いを説明したものの出典がこの連載にあることも多い。横溝正史論だと外せない貴重な資料である。

評者も本当に懐かしい本、というか、新聞の連載を楽しみにしていた。新聞に載っていた和田誠のイラストも本に収録されていて、当時の雰囲気がまざまざと思いだされる。
今にして思うと、この70年代は、戦前の「新青年」世代がまだ存命で、プレゼンスのあった最後の時代でもある。横溝もそんな生き残りの「戦友」たちである水谷準、西田政治、乾信一郎ともしきりに交流しているのが記録されている。この時代が戦前と今とをつなぐジョイントの時代のようにも回想される。この横溝ブームも一翼となる70年代の異端作家ブームによって、「ミステリの戦前」が埋もれることなく継承された、という印象があるのだが、いかがだろうか。(延原謙の訃報も日記にある...「新青年」歴代編集長は、長命な人が多い。「高森」と延原の通夜の日記に名前が出ている人は、おそらく「新青年」最後の編集長高森英次なんだろうね)

ちなみにバレンタインデーに「金田一耕助様」宛てでチョコが届いて、正史も金田一になりかわって頂くのだが、翌日の新聞で「青酸チョコ事件(オコレルミニクイニホンジンニ...ってあれ)」の報道を見て慄然とする....いやそんな時代。青酸コーラ事件も結局未解決だったなあ。

No.974 7点 料理人- ハリー・クレッシング 2022/04/16 16:11
大人の寓話、というものである。
召使が主人に、主人が召使にいつのまにかすり替わってしまう話。しかも嬉々として。で、この悪魔的なコックのコンラッドに妙に魅力があるのがナイス。コンラッドは外面描写オンリーで描かれるから、ハードボイルドな悪漢小説、という雰囲気(ライバルのコックをやっつけるシーンとかね)もある。天才的、というか魔術的な料理の腕で、入り込んだ一家を篭絡し、長男は料理の技を仕込んでコックに、父親は執事に、母親は家政婦に変えてしまい、長女と結婚して「城主」になる...そんな話。胃袋掴まれちゃあ、ロクな抵抗のしようもないのか(苦笑)。お高く止まったブルジョア一家でも、家事に「生きがい」みたいなものをうまく意味付与したら、嬉々として「没落」していくのかしら。

ハヤカワ・ノヴェルズの初期ラインナップにあったから、映画?と思って調べたが、映画は確かにある(Something for Everyone,1970)。アタらなくて日本未公開なんだろうか...原作はブラックユーモアの作品で、面白いのは確かである。ハヤカワ・ノヴェルズは常盤新平路線だからねえ。
映画、といえば召使が主人と逆転する話って有名作はジョセフ・ロージーの「召使」だ(ダーク・ボガード渋い)。あっちはシンネリムッツリしたアイロニカルなシリアス劇(ブレヒトの弟子らしく「階級闘争」w)だけども、「料理人」はずっとファンタジーに振っているから、カラーはずいぶん違う。

クリスティ再読さん
ひとこと
大人になってからは、母に「あんたの買ってくる本は難しくて..」となかなか一緒に楽しめる本がなかったのですが、クリスティだけは例外でした。その母も先年亡くなりました。

母の記憶のために...

...
好きな作家
クリスティ、チャンドラー、J=P.マンシェット、ライオネル・デヴィッドスン、小栗虫...
採点傾向
平均点: 6.46点   採点数: 993件
採点の多い作家(TOP10)
アガサ・クリスティー(97)
ジョルジュ・シムノン(60)
エラリイ・クイーン(45)
ロス・マクドナルド(26)
ジョン・ディクスン・カー(20)
エリック・アンブラー(17)
ウィリアム・P・マッギヴァーン(17)
アーサー・コナン・ドイル(16)
ダシール・ハメット(15)
イアン・フレミング(15)