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Tetchyさん
平均点: 6.73点 書評数: 1538件

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No.1538 7点 トラベル・ミステリー聖地巡礼- 評論・エッセイ 2021/10/23 00:20
聖地巡礼はその作品を愛する者ならば一度はやってみたいことだ。本書は「小説推理」誌上で連載された、ミステリ評論家の佳多山大地氏が趣味の鉄好きも兼ねて数あるトラベル・ミステリーの事件現場を訪ね、検証も行ったエッセイである。

さて本書に収録されている佳多山氏の探訪地は「ミステリマガジン」誌上のエッセイも併せて全部で24か所。
岡山県、石川県、鳥取県、福岡県、愛知県、広島県、兵庫県、静岡県、北海道、秋田県、新潟県、神奈川県、島根県、和歌山県、福島県、滋賀県、宮崎県、山口県、長野県と全国津々浦々。

今回俎上に上げられた作品の中で私が読んでいたのは島田荘司氏の『出雲伝説7/8の殺人』と有栖川有栖氏の『マジックミラー』、そして江戸川乱歩氏の「押絵と旅する男」の3作のみ。その他の作家は蔵書にもなく、私がいかにトラベル・ミステリーを読まないかが判ろうものだ。

彼が本当のテツであることがよく判った。私が特に面白く感じたのは雑誌の連載企画であるにも関わらず、遠出をするにも鈍行を敢えて選び、また飛行機も常にLCCを利用していることだ。佳多山氏の最寄り駅は大阪のJR吹田駅だが、そこを起点に方々へ赴くのだ。
敢えて新幹線や特急を選ばない生粋の乗り鉄だなぁと最初は思っていたが―なんせ大阪から山口に行くのに鈍行を乗り継いで行くのである―、東京での所用を利用しての愛知県、神奈川県入りや青春18きっぷの利用や鳥取では「縁結びパーフェクトチケット」なるとても恥ずかしい割引券を購入して取材に行くのを見て、よほど取材費の出ない連載だったのだなと腑に落ちるやら、同情するやら―まあ、中には東京駅から寝台特急「サンライズ出雲」を利用して島根まで行く、贅沢な取材旅行もあるにはあるが―。

いや真性テツである佳多山氏にとってこの企画こそが彼の趣味と実益を兼ねたものであるから苦でもないのだろう。私が時々長距離を敢えて高速を使わず、下道を行くように。

また行く先々で名物を食べる描写もあり、存分に楽しんでいるのが判る。自分が住んでいる兵庫県の西明石駅の「ひっぱりだこ飯」は知らなかったな。

そう、このエッセイでは私自身訪れたことのある地やゆかりの地も取り上げられたことも面白く読めた要因の1つだ。
故郷北九州市の門司港駅を訪れた筆者が激賞する件や平尾台への道中では実家最寄りの駅城野駅を訪れて日田彦山線に乗り換える件などは学生時代を思い出させる。
また旅好きの私にとっても興味を覚えるエピソードもあり、例えば和歌山の白浜駅では駅員がアロハシャツを着て迎えるそうだ。

また興味深かったのが小説の舞台となる駅が決してハブ駅のような大きな駅ではないことだ。何の変哲もない場末の駅の多いこと。それはある意味時刻表を睨むことでトリックを思い付いた、いわば机上の殺人現場であることをも感じさせる。

各編を読んで思うのは実際に作品の舞台を訪れて見えることは確実にあるということだ。舞台となった場所の空気に触れ、匂いと人間に触れ、写真のフレームの外の風景を360°眺めて地形を知り、その土地の風土や風習や文化に触れることで作品の行間に隠された作者の思い、作者が実際にその土地を訪れて感じたことが見えてきて、筆者の佳多山氏が感じ取っていることが書かれている。特に2回に亘って取り上げられた笹沢佐保氏の『空白の起点』は現地を訪れるが作品との違和感を拭えず、最後の段になって関東大震災で失われた切り替え路線の存在に気付く。
作者と同一の場所を感じるシンクロニシティこそが聖地巡礼の醍醐味であることを教えてくれるのだ。

さらには時代の痕跡を見出すことで小説が書かれた時代の匂いを感じ取り、思いを馳せる。
特に私が感じ入ったのは鮎川哲也氏の『死のある風景』の舞台、石川県を佳多山氏が訪れた際にアメリカ駐留軍の試射城跡を訪れた際に作品の裏側に潜む、西洋文化に殺された女性の悲劇を読み取ったところだ。この跡地を見て戦後に訪れた西洋の「美」の新基準、いわゆるバストの豊かさを賛美される新たな価値観に振り回され、ライバルの女性への嫉妬心が芽生えたこと、さらに犯人のアリバイがアメリカ兵士が配ったチューイングガムの噛みカス1つで脆くも崩れ去ることをリンクさせた件はまさに場所と時代がつながった瞬間を目撃した思いがした。

そしてこの日本の正確な鉄道の運行が生んだ日本オリジナルのトラベル・ミステリーもまた時代の流れに逆らえなかったことを思わされる件がある。それは有栖川氏の『マジックミラー』の回で新本格の雄である作者が王道の時刻表トリックと別のアリバイ崩しを盛り込んでいることから時代の交代劇をこの1作で行っていると述べているところだ。

しかし今またテツブームが起きている。それはつまり時代が鉄道ミステリをまた求めているということなのだ。ミステリは時代を映す鏡である。したがって再びトラベル・ミステリーが復興するに違いない。それは最新鋭の鉄道や個性ある観光列車などヴァラエティに富んだ、時刻表一辺倒ではなく個性豊かな「新トラベル・ミステリー」であることを望みたい。
時刻表を目を皿のように眺めて時間の穴を見つけるトラベル・ミステリーもそれが好きな読者には溜まらないだろうが、私はあいにくそんなミステリは願い下げだ。旅愁をそそるその土地の魅力と文化、そして時代をも包含したトラベル・ミステリーを期待したい。土地と時間を行き来するトラベル・ミステリーだからこその私からの提言だ。
その時は私も佳多山氏のように文庫本片手にその作品が書かれた土地を訪れて空気と料理に触れたいものだ。それが私の老後の楽しみとなるかもしれない。

No.1537 7点 ドロレス・クレイボーン- スティーヴン・キング 2021/10/21 23:35
本書は前作の『ジェラルドのゲーム』と同じく皆既日食の時に起きた事件の話だ。アメリカの東西で皆既日食の時に起きた事件を語る趣向のこの2作はしかし厳密な意味ではあまり関連性がない。

本書は章立てもなく、ひたすらドロレス・クレイボーンという女性の一人語りで展開する。
通常こういう一人称叙述の一人語りは短編もしくは中編でやるべき趣向だが、なんとキングはこれを340ページ強の長編でやり遂げたのだ。まあ、もともとキングは冗長と云えるほどに語り口は長いので、キングなら実行してもおかしくはないのだが。

さて全くの章立てなしで最初から最後まで通して語られる物語はドロレス・クレイボーンという女性が犯した殺人の告白であり、彼女の半生記でもあり、またセント・ジョージ家の家族史でもあるのだ。そしてふてぶてしい老女の一人語りはなぜ彼女がふてぶてしくなったのかが次第に判ってくる。彼女は理不尽な日々を耐えるうちにふてぶてしさの鎧を身につけていったことに。

前半はドロレスが長年家政婦として仕えていたヴェラ・ドノヴァンとのやり取りが語られる。
このヴェラの世話の一部始終を読んで立ち上るのは介護の問題だ。ドロレスが長年やっていたのは裕福な老女の世話でそこには介護の苦しみが描かれている。そういう意味では介護問題が社会的問題になっている今こそ読まれるべき作品であろう。
しかしドロレスは見事それをやり遂げる。そして22歳で家政婦になってからこれまでずっと彼女に仕えるのだ。そこには単なる主従の関係を越えた、お互いの秘密を共有した鉄の絆めいたもので結ばれるのだ。

さてその絆とは一体何なのか?
それが後半のいわば物語の核心で語られる、当時容疑を掛けられても起訴に至らなかった夫ジョー・セント・ジョージ殺しの一部始終である。
このジョー・セント・ジョージと云う夫、キング作品に登場する家族の例にもれず、問題のある亭主である。

ドロレスには内なる目というイメージを持っている。それは物事を客観的に見つめる、殺意という名の目だ。彼女は夫ジョーの度重なるろくでなしぶりに殺意を募らせ、その目が次第に大きくなっていくが、今一歩踏み切れないでいる。しかしその葛藤をヴェラは気付き、促されるままにドロレスは夫ジョーの行った家族への仕打ちと彼に対する報復の思いを吐露するが、一歩踏み切れないでいることも打ち明かす。
そしてドロレスの決意を押したのはヴェラだった。彼女がドロレスからその話を聞いた時、彼女は目のことを話す。ドロレスは自分が持っている目のことをヴェラもまた知っていること、または彼女もまたそれを持っていることを知り、後押しされるのだ。
これが2人の強固な絆を築くこととなった。

皆既日食の日を共通項に2つの異なる密室劇を描いたキング。
片や脳内会議が横溢した決死の脱出劇、片や1人の女性の記憶で語られる半生記。
その両者の軍配はどちらも地味ならばやはり余韻が深い本書に挙げる。

No.1536 5点 探偵伯爵と僕- 森博嗣 2021/10/12 23:08
本書は子供向けのミステリ叢書として講談社によって編まれたミステリーランドシリーズの中の1作である。しかしその内容は子供向けと云うにはヘビーなものだ。
物語は僕こと馬場新太少年が夏休みに遭遇した探偵伯爵と共に子供の失踪事件を追い、解決するひと夏の思い出だ。

物語は馬場新太の手記、ワープロの練習を兼ねた事件記録めいた日記、いや素人小説のような体裁で語られる。そこには語彙が豊かでない少年の聞き間違いや勘違いなどが散りばめられている。
テレビに出てくるような悪人は現実社会には存在しない。なぜなら明らさまに怪しいと疑われるからだ。
またどうして正義の味方よりも悪人の方が年寄りなのか。普通は年寄りが若者を叱るのだから逆ではないか。
などなど、聞けばなるほどという子供ながらの着眼点に満ちた独り言が散りばめられている。
私が一番感心したのは伯爵が少年に云う情報交換という言葉のおかしさだ。交換ならば手元から無くなるはずだが、情報は無くならないから交換にならない。情報共有が正しい言葉だと云う件。思わずなるほどと思った。

私は自分が子供の頃に友達が殺される事件には幸いにして遭遇したことがない。今まで一緒に遊んでいた友達がいきなりいなくなり、しかも殺されていたと知った時のショックはいかほどだろうか。

しかも本書の最後ではこの真相でさえもオブラートに包まれたものであることが判明する。作中登場人物はすべて偽名で、性別もまた異なっていたのだ。実際は犠牲者たちは全て女の子だったのだ。つまりこのことから事件の真相がもっと生々しいものであったことが想像できる。それは犯人が自らの娘を手に掛けたこともある意味、更なる戦慄を伴って理解されるのである。

いやはや何とも暗鬱な物語だ。正直これを少年少女に読ませ、理解させることには躊躇を覚える。そしてこの本を読んで面白かったと子供が感想を述べた時に親はどんな顔をしたらよいのか。

こんな暗鬱とさせられる子供向けミステリの解説をしているのはなんとアンガールズ田中なのは驚きだ。しかも感じている内容は同じなのだが、解説を引き受けた手前か心地いい余韻に浸れたと書いているのには無理を感じた。決して心地いいものではない、本書は。
森氏は子供向けのミステリでさえ我々に戸惑いを与える。それは読者と云う立場だけでなく、子を持つ親としての立場としてもだ。これはさすがにやり過ぎなのでは。
本書に限らずこのミステリーランド叢書は子供に読ませるには眉を顰めてしまうものも多い。
出版元はもっと内容を吟味して子供向け作品を刊行してほしいものだ。

No.1535 8点 完全無欠の名探偵- 西澤保彦 2021/10/08 23:24
バラバラ殺人事件ばかりを扱った連作短編集『解体諸因』でデビューした西澤保彦氏はその後特殊な設定の下でのミステリを多く輩出していく。それらは読者の好みを大きく二分し、賛否両論を生むようになるが、作者2作目にしてまさにその特殊設定ミステリ第1弾であるのが本書である。

本書の主人公は山吹みはる。SKGという会社の警備員をしている凡庸とした青年で特徴としては2mに届かんとする巨漢の持ち主。しかし身体は大きいが性格は至って温厚、というかちょっと鈍く、どんな女性も奇麗に見え、また敢えて喋ってはならないことも思わずポロっと喋ってしまう、社会人慣れしていない男である。
しかし彼にはある特殊能力があるのだ。それは話している相手の潜在意識を言語化させることができるのだ。
つまり簡単に云うと山吹みはると話している相手はいつしか自分の記憶の奥底に眠っていた、当時気になってはいたが、そのまま忘却の彼方へと消えてしまったとある出来事を想起させ、案に反してみはるに喋ってしまうことになるのだ。
それは彼と喋ると突然不思議な浮遊感に襲われ、たちまち立て板に水の如く、話してしまう。そして当の山吹みはる当人は相手に異変が起きていることに気付かず、単に話を聞いているだけなのだ。
さらに話し手の方はみはるに話すことで当時の違和感を思い出し、推理を巡らし、相手の隠されていた真意、もしくは当時は気付かなかった事の真相に思い至るのだ。つまり山吹みはるが相手の話を聞いて事件を解決するわけではなく、あくまで真相に辿り着くのは話し手自身なのだ。つまり山吹みはるは話し手が抱いていながらも忘れていた不可解な出来事を再考させ、新たな結論へと導く触媒に過ぎないのだ。
彼は白鹿毛源衛門率いる白鹿毛グループによって一昨年発見され、秩父の総合科学研究所で預かってもらっていた、いわば異能力者なのである。
例えば私の場合、いつもは話そうと思わなかったことを思わず話してしまうことになるのはお酒を飲んでいるときである。思わず酒杯が重なるとついつい口が、いや頭の中の引き出しに掛けていた鍵が開けられ、話し出してしまうことがよくあるが、山吹みはるはそんなお酒のような存在なのだ。

物語の本筋は白鹿毛源衛門の孫娘が高知大学を卒業してもなお高知に留まり、就職した理由を山吹みはるが探ることで、一応長編小説の体裁を取っているが、山吹みはるが遭遇する登場人物たちの抱える過去の不自然な、不可解な出来事が短編ミステリの様相を呈しており、それらが実に面白い。
そしてこれらのエピソードは次第に蜘蛛の巣に囚われた餌食のように関係性を帯びてくる。
これら濃密な人間関係の曼陀羅が成立するのは小説という作り話だからと云えばそれまでだが、やはりそれにしても偶然過ぎるという批判は無きにしも非ずだろう。そういう批判を回避するために人口の少ない高知を選び、それぞれの登場人物が何らかのつながりをたせるために仕組んだように思った。
が、しかしこの濃密な人間関係の曼陀羅もまた作者の仕組んだ仕掛けであることが判明する。

しかし何ともドロドロした人間関係、憎悪の連鎖であったことか。紫苑瑞枝の糸をりんがとくとくと紫苑瑞枝に開陳する傍らで聞いていた山吹みはるの言葉が痛烈に突き刺さる。人の傲慢さや不遜な一面ももしかしたらその人の唯一の生きる拠り所かもしれない。それをいつかは自覚して直すこともあるのではないか。それら全てを嫌悪して排斥していたら、一体誰がこの世で救われるのかと。
清濁併せもってこそ人間だと説くみはるは世間知らずと思わされたが実は彼は全てを受け止める寛容な人間だったことが判るのである。

本書は日本の本格ミステリの歴史の中でもさほど評価の高い作品ではなく、ましてや数多ある西澤作品の中でも埋没した作品である。しかし個人的には面白く読めた。
それは私がこのような複数の一見無関係と思われたエピソードが最後に一つに繋がっていく趣向のミステリが好きなことも理由の1つだ。
そう、私がこの作品を高く評価するのはデビューして2作目である西澤氏の野心的で意欲的なまでのミステリ熱の高さにあるのだ。それは明日のミステリを書こうとするミステリ好きが高じてミステリ作家になった若さがこの作品には漲っているのだ。

また1つ、私の偏愛ミステリが生まれた。好きなんだなぁ、こういうの。

No.1534 7点 盗まれた細菌/初めての飛行機- ハーバート・ジョージ・ウェルズ 2021/10/06 23:51
“SFの父”と称される、今でも彼の生み出したアイデアが手を変え、品を変え、新たな物語を紡ぎだしているSFの巨匠H・G・ウェルズ。
しかし本書に収められた短編郡はそんなSFの巨匠といった堅苦しいイメージを払拭するようなユーモアに満ちた作品が多く収められている。
いや正確に云えばその味わいはユーモアよりもシュールである。

それは一種矛盾とも云えるものや我々の平和の裏側に潜む危機の存在、恩を容易に忘れる性格、狂言、虚言、自意識過剰、責任転嫁、自分本位。
そしてそれらはある意味戯画的でもある。映像にして映えるものが多いのに気付かされる。

「盗まれた細菌」の追いかけっこ、「奇妙な蘭の花が咲く」の不気味な蘭の造形、「ハリンゲイの誘惑」の物を云う絵画、「ハマーポンド邸の夜盗」の夜盗のダイヤモンド強奪作戦、「紫の茸」の一面に生えた色とりどりの茸の森とそれを食べた狂人の逆襲、「パイクラフトに関する真実」の宙に浮くデブ、「劇評家悲話」の大げさな振舞い、「林檎」の車中の2人の邂逅の一部始終、「初めての飛行機」の乱痴気処女飛行、「小さな母、メルダーベルクに登る」の最後の雪崩に乗って下山するシーン。
何ともスラップスティック漫画を彷彿とさせるではないか。

本書のベストを挙げるとすると「失われた遺産」になるか。
誰も相手にしてくれない伯父の相手を莫大な遺産を相続したいがために判りもしない話の聞き役になり、内容が頭に入ってこない難解な伯父の著作を読むように渡される。その長年の努力が実って遺産相続の目途が立つが、肝心の遺書が見つからず。なんとも意外なところに隠されていたことが遺産が散財された後に判明するのだ。
浮ついた気持ちでは得られるものも得られないという教訓である。

いやはや私にとってのウェルズの原書体験は子供の頃に世界名作文学集で読んだ『宇宙戦争』で、その内容は世界の破滅を描くディストピア小説でなんとも暗い雰囲気だっただけに、この意外な滑稽さには驚いた。
また物語として膨らむ要素のあるアイデアを20ページ前後の短編にまとめている―いや物語を片付けていると云った方が正確か―のは雑誌の連載でもしていて原稿を督促されたためだろうか。

No.1533 10点 マスカレード・ナイト- 東野圭吾 2021/10/02 00:41
第1作の時に今流行りのお仕事小説と警察小説2つを見事にジャンルミックスした非常にお得感ある小説と称したが、本書もその感想に偽りはない。2つの持つ旨味を見事にブレンドさせて極上のエンタテインメント小説に仕上がっている。
基本的な路線は全くと云っていいほど変わっていない。高級ホテル、ホテル・コルテシア東京に犯罪者が訪れることだけが警察側に判っており、正体は不明だ。したがって捜査員をホテルの従業員として潜入させ、容疑者を捜し、事件を未然に防ぐ。そして人を疑うのが仕事の警察とお客様を信用し、信頼を得るのが仕事のホテルとの真逆の価値観が生む軋轢とカルチャーショックの妙が読みどころである。

しかしそんな安寧を持たさないよう、東野氏は今回生粋の厳格なホテルマン氏原祐作を新田の指導員にぶつけることで再び新田に不自由を経験させる。基本的に前回の指導員山岸尚美は不愉快に思いつつも捜査に協力的で、なおかつ新田を一流ホテルに恥じないようなフロント係に仕立てようと努力をしていたが、今回の氏原はホテルの規律と気品を守るためにあえて新田に何もさせないでおくという主義を取る。いわばホテル原理主義者とも云えるガチガチのホテルマンなのだ。客の前では満面の笑みを見せるが、新田や他の従業員の前では能面のような無表情で辛辣な意見を放つ。
しかしこの氏原を単なる嫌味なキャラクターに留めないところに東野氏のキャラクター造形の深みを感じる。

そして今回もお仕事小説としてのホテルマンのお客様たちの無理難題を解決しようと試行錯誤するエピソードがふんだんに盛り込まれている。
小ネタと大ネタを交互にうまく配することで東野圭吾氏はグイグイと読者を引っ張っていく。いやあ、巧い!非常に巧い!

そして今回東野作品の人気の高さの秘密の一端を改めて悟った。それは物語の設定が非常にシンプルだということだ。今回の物語は始まって60ページまでに云い尽されている。
即ち一人暮らしの女性が殺され、その犯人がホテルコルテシア東京で開催される年末のカウントダウン・パーティ、通称マスカレード・ナイトに現れると匿名の通報が入る。
正直これだけである。
しかしこれだけで読者は一気に物語への興味を惹かれ、結末までの残り約480ページをぐいぐいと読まされてしまうのだ。シンプルな構成に魅力的なキャラクター、そして読みやすい文体に読者の興味を惹いてページを繰る手を止まらせないプロット。作家として求めるもの全てを東野氏は持っている。

ホテルにあるのはいわば数々の人生が交錯する社会の縮図だ。物語の最後に明かされる事件の真相を読むにますますその意を強くした。
社会を、人間関係を円滑に平和裏に継続するために少しばかりの嫌悪や嫉妬や怒りは仮面に隠しておかないと世の中は進んでいかないのだ。自分の云いたいことややりたいように振舞ってばかりではぎくしゃくし、不協和音が生じる。
ホテルのフロントはそんなお客様の清濁併せ吞み、笑顔で迎える。それらの仮面を知りつつ、大事にするホテル側とそれらの仮面を疑ってはがそうとする警察側のぶつかり合いは今回も描かれる。

曽野万智子と貝塚由里の脅迫作戦、それを出し抜く内山幹夫という影武者を立てた森沢光留の殺人計画、そして日下部篤哉こと香坂太一のコンシェルジュテスト。
この3つがホテルコルテシア東京という舞台で交錯し、それぞれがモザイクタイルのピースとなって『マスカレード・ナイト』という複雑なミステリを形成する。それはまさに美しきコラージュの如き絵を描いているようだ。

そしてそれはまたホテルも然り。

ホテルコルテシア東京のような大きなシティホテルは夜景が映える。しかしその夜景を彩るのは一つ一つの窓の明かり、つまり宿泊したお客が照らす部屋の明かりだ。その明かりがまさにモザイクタイルのように夜景を彩る絵を描く。
しかしその1つ1つの明かりの中に宿泊するお客は決して自分たちが作っている夜景のような華やかさがあるとは限らない。
奮発して高級ホテルで家族と一家団欒を楽しむ明かりもあれば、出張で宿泊し、疲れを癒す一人客もいるだろう。その中には単にそのホテルを常宿としている常連もいれば、初めて利用し、胸躍らせる客もおり、高級ホテルを餌に女性を連れ込んで一晩だけの情事を愉しむ者もいることだろう。
待ち合わせに使う客も待ち人と逢って愛を交わす者もいれば、待ち人が来ず、高級ホテルで寂しい思いを抱いている者もいるかもしれない。

こうやって考えると改めてホテルという場所は特別な雰囲気をまとった場所であると認識させられる。
様々な人が行き交い、交錯し、訪れてはまた去っていくホテル。チェックインの時に見せる貌は仮面でその裏には様々な事情を抱え、部屋でそれを解放するお客たちに、それらの事情に忖度して訳を知りながらもスマイルで対応するホテルマンたち。まさに仮面舞踏会そのものである。

次の舞台は山岸尚美の新天地LAであれば、今度は宿泊客としてホテルコルテシアLAを訪れた新田浩介と山岸尚美のコンビもあり得そうだ。
その時、実は自分たちが気付かなかった被っていた仮面を新田と山岸は脱いで、2人の間に進展が見られるのだろうか。
野次馬根性丸出しだがこのお仕事小説×警察小説の極上ハイブリッドミステリの次回作があることを一ファンとして祈ろう。

No.1532 9点 汚名- マイクル・コナリー 2021/09/30 23:42
御年65歳のボッシュが相手にするのは過去。彼が30年前に逮捕した強姦犯が最近のDNA調査により他の強姦犯の精液だったことが判明し、逆にボッシュが損害賠償請求の的になる恐れが生じる。その金額は7桁にも上る見込みで大学に進学中のマデリンを養うボッシュにとって破産宣告とも云える仕打ちが待ち受ける。
いやはや65歳と云えば日本では定年延長も終える年だ。長年働き、社会に尽くしてきた終末の時に逆に自分の仕事で訴えられ、そして余生を生きることもできなくなるような多額の賠償金を背負わされそうになるとは作者コナリーはボッシュを年老いてもなお窮地に陥れる筆を緩めない。

そんなボッシュの許に知らされるのはショッピングモールにある薬局で起きた経営者親子殺害事件。今まで過去の未解決事件ばかりを捜査してきたサンフェルナンド市警にとって久々の殺人事件だ。
さてまずボッシュにいきなり災厄が降りかかる。30年前に逮捕した強姦犯プレストン・ボーダーズの有罪がひっくり返されることで、ボーダーズ違法拘束の申し立ての審理が行われ、和解交渉中だが、それが決裂すれば当時ボーダーズを逮捕し、ムショに送ったボッシュを訴追でき、彼は7桁の賠償金を支払う羽目に陥る。通常ならば市法務局が糾弾される一個人を保護しようとするが、ボッシュはロサンジェルス市と不当退職の訴訟を起こして莫大な賠償金をせしめたことでそんなことはありそうになかった。そうまたもボッシュは自身の行った正義のために自縄自縛状態になる。

そしてショッピングモールの薬局で起きた経営者親子殺害事件は捜査が進むにつれて次第にスケールが大きくなっていき、その捜査の過程でかつての相棒ジェリー・エドガーと再会する。彼は薬事犯罪の現状を調査するMBCの職員に転職しており、ボッシュとそのパートナー、ルルデスに事件の背後に潜むアメリカ全土に亘る一大薬物犯罪の実情について説明し、サポートする。

しかしいつの間にボッシュシリーズはディック・フランシスの競馬シリーズのような題名をつけるようになったのだろうか。
前作『訣別』に引き続き、本書は『汚名』である。これは今回ボッシュが直面する30年前の事件が冤罪の疑いがあり、ボッシュがその件で訴追される恐れがあることを示しているのだろう。
原題は“Two Kinds Of Truth”と実にかけ離れた邦題である。
これは作中に出てくる2種類の真実を意味する。1つは人の人生と使命の変わらぬ基盤となる真実、もう1つは政治屋やペテン師、悪徳弁護士とその依頼人たちが目の前にある目的に合うよう曲げたり型にはめたりしている可塑性のある真実を指す。つまり前者はありのままの真実であり、後者は全てを明らかにせず都合のいい真実だけを並べた恣意性の高い真実、つまり「嘘は云っていない」類の真実だ。
こうやって考えるとやはり本書の題名は原題に即してせめて『それぞれの真実』とか『真実の別の顔』とかにならなかったのだろうか。まあ、後者はシドニー・シェルダンの小説の題名みたいだが。

しかし今まで古今東西の薬物事件を読んできたが、とうとうアメリカはここまで来たかという思いを抱いた。
引退間際の老医師もしくは患者が来なくなったヤブ医者をターゲットに処方箋を書くことで月2万ドル稼げると甘言を囁いて、鎮痛剤数千個分の処方箋を次々と発行し、そしてそれを薬局に持って行って手に入れた後、中毒者に売りさばくというシステムだ。しかも患者は鎮痛剤中毒者を使い、彼らを指定のクリニックに行かせて、医者はろくに診察もせずに何十錠もの鎮痛剤の処方箋をそれぞれに発行して患者たちは薬局でそれを受け取り、セキュリティはおろか飛行計画や乗客リストの提出さえも必要としない場末の飛行場で専用のセスナに乗せて他の地区に行っては同様の行為を行って1日に何百錠もの鎮痛剤を獲得し、そしてそれをずっと繰り返す。
そして彼らによってばら撒かれた鎮痛剤で5万5千人もの人が亡くなっているのだ。人を治す薬も一歩間違えば依存症を巻き起こす薬物へと転じる。

特にフライトプランをチェックせず、乗員お確認もせずに車から飛行機までのドア・トゥ・ドアで滑走路に出て飛び立てる安直さ。9・11で多くの無辜の命が奪われたのにも関わらず、またも同じ過ちを繰り返そうとしているアメリカの愚かさを垣間見た。

しかしウィンズロウに引き続き、本書もまた薬物を扱っている。ウィンズロウは社会に蔓延する麻薬を売りさばく側を描いているのに対し、コナリーは薬物を売りさばく方に利用され、廃人にさせられていく薬物中毒者を色濃く描いている。特にボッシュ自身を囮にして詳細にシステムの一部始終を描いている件は迫真性があり、本書の中盤のクライマックスシーンと云えるだろう。

齢65歳にして八面六臂の大活躍を見せるボッシュ。そして今度ボッシュはかつての相棒ルシアと共に薬物転売シンジケートの潜入捜査で知り合った薬物依存者エリザベス・クレイトンの娘殺害の未解決事件の犯人を追う。
ボッシュに定年退職はあっても引退はなく、一生刑事であり、そして昼夜を問わず寝食も頓着しない全身刑事であり続けるだろう。

そしてボッシュは今回それらの事件で数々の世の中の不条理に直面する。
親のすねを齧ってさほど苦労をせずにいつかは大役を手に入れようとする俳優の卵が生き長らえ、ウェイトレスの仕事で日銭を稼ぎながらも数々のオーディションを受けていつか日の当たる場所に出ようと努力する端役女優が命を奪われる。
信念に基づいて強姦犯を突き止め、有罪にもこぎつけたにも関わらず、己の私欲のために証拠を捏造して誤認逮捕の汚名を着せられる世の中。
それは強姦犯を世に放ってまで富と名声に目がくらんだ悪徳弁護士の姿があった。
医師としての道理と理念をもはや捨て去り、私利私欲のために薬局を巻き込んで築かれた一大薬物転売システムを独自で調べて馬鹿正直に警告したがために殺された被害者。
そして最後は15年前に起きた未解決事件、赤ん坊を置いて失踪した若妻の行方を、半ばもう死んでいると思いながらも捜査を続けていたら、なんと本人は暴力夫の支配から逃れるために赤ん坊を置いて逃亡し、名前を変えて生きていた。母親は夫が赤ん坊を自分一人では育てられないために施設に入れるだろうと見込んで自らの保身のために幼きわが子を置き去りにし、そして今は平穏な生活を送っている。
一方でドラッグに溺れ、家出した娘を拉致され、強姦された上に殺された母親は悔恨の念に囚われ、自ら鎮痛剤中毒になり、依存症になり、鎮痛剤の受け子に墜ちてシンジケートの輩の慰み者になっている。
わが子を捨てた母親が平穏な生活を手に入れ、わが子を想う母親が底辺の生活を強いられている不条理。

人生は皮肉に満ちている。これまで刑事として数々の割り切れなさ、遣り切れなさを経験しながらもボッシュは改めて人間というものの恐ろしさ、そしてそれぞれの欲望が招いた業の深さを思い知る。
本来生きるべき者が死に、また報われていい働きをした者が謗られる世の中の不条理。企業が嘘をつき、大統領までもが嘘をつく今のアメリカ。そんな不条理の中で未だに己の正義に愚直に生きる気高きヒーローのためにボッシュはまだ戦う決意を固める。

本書はコナリー31作目の作品である。これほどの冊数を出しながらもこのハイクオリティ。そしてさらにそのクオリティを次も凌駕しようと魅力的なアイデアを放り込んでくるコナリーの創作意欲の高さと構成力の確かさにはファン読者になったことへの喜びを常に感じさせてくれる。
あとは訳出が途切れぬよう一読者として願うばかりだ。彼の作品を読み続けるためなら身銭を払って買うだけの価値があり、見返りはある。
ボッシュが一生刑事なら私も一生コナリーファンであり続け、彼の作品を買い続けよう。

No.1531 7点 小説講座 売れる作家の全技術 デビューだけで満足してはいけない- 評論・エッセイ 2021/09/29 23:33
現代文壇の最前線で活躍する大沢氏。しかし彼はデビューした当初から売れっ子作家ではなかったことは既に承知のことだろう。万年初版作家のレッテルを押され、満を持して作家生命のすべてを掛けた『氷の森』ですらさほどヒットせず、その次の『新宿鮫』が大ヒットし、ようやく作家としての地歩を固めて現在まで第一線で活躍している作家である。
その彼が「小説 野性時代」の編集者から自分の小説創作の技術の全てを伝える講座を開いて連載するという企画を持ち掛けられ、それをまとめたのが本書である。月1回で10回に亘って開かれた、恐らく大沢氏にとって最初で最後の創作講座だ。

本題に入る前に文庫版に際して開かれた角川の雑誌編集長と文庫編集長との座談会から始まる。文庫は一般文芸の角川文庫とライトノベルのメディアワークス文庫2つの毛色の異なるジャンルを受け持つ編集者が出席しており、いわゆる売れる作品に関する定義が異なるのが面白い。
やっぱりウェブでの募集が多いことが現代の投稿者の特徴だろう。ガシガシ原稿用紙に手書きしたり、ワープロソフトで書いた文章をプリントアウトして送るなどよりもファイルをそのままEメールで送るこの方式は膨大な投稿者を生むようでとにかく分母が大きい。さらにウェブで公開することで固定ファンがつくのも特徴だ。
そしてラノベではとにかくシリーズ化される強いキャラが出てくるものが好まれるようで、しかも大賞受賞者でなくてもウェブで気になったなどとコメントがついた作品は刊行したり、また最近の流行の傾向を分析して作者にアドバイスしたりするらしい。とにかくリアルタイムで進行させる傾向が強い。
しかしある意味この手法で創られた作品は2,3年後には既に内容が古臭く感じるのではないか。例えばタピオカミルクティーのように。

そんな前段を経てつまびらかに書かれる講座の内容は作家生活のリアルな現状が浮き彫りになる。印象に残った内容を以下に書いてみよう。
一口に作家と云っても売れている作家はほんの一つまみ―敢えて一握りと表現しない―であることで年収200万円以下はざらである。新人作家が書き下ろしでハードカバーで刊行しても初版は4,000部で印税は70万円弱。その作品の刊行までに費やした時間が半年だとすればこれがその年の半年分の収入になる。
しかも大沢氏デビュー当時に比べて市場は三分の一にまで縮小しており、生き残る作家もつまり三分の一なのだ。
またとにかく大沢氏はストーリーよりもキャラを重視する。それはキャラクターが弱いとストーリーが生きてこないのだと。94ページのイメージ図はその内容を具現化したもので非常に分かりやすい。もうこれは数十年も作家をやってきたからこその結論である。そして自身も鮫島という強烈なキャラクターを擁した『新宿鮫』が自身の作家生活の太い幹になっていることからの言葉だろう。

そして最も印象に残ったのは作家になりたい人間が作家になるのではなく、小説を書きたくて書きたくて書き続けた結果、作家になったという件だ。
作家は職業でありながらもなりたくてなれるものではなく、生き方そのものであるという風にとれる。つまり大変なことを、苦労を苦労と思わずにそれが普通で自分の生き方であると捉える人ほど強いものはない。特にたくさんの作品を紡ぐことで自身の生活を維持していく作家のような業種は日々の積み重ねとして作品を紡ぐことでいつの間にか自分の職業が作家だったと気付かされるのではないか。その道程は作品という形で残ることもまた大きい―まあ、絶版してほとんど書店に自著が並べられていない作家も多いが―。

そして作家ほど孤独で不安定な仕事はないとも説く。なぜなら売れなくなったら自然に仕事が無くなるからだ。そして作家には定年がないから注文が来なくなったらもう作家としては終わりなのだ。
また一番興味深く読んだのが新宿鮫シリーズ10作目の『絆回廊』を『ほぼ日』のウェブ連載したエピソードについてだ。
それは大沢氏が新宿鮫を読んだことない、もしくはタイトルを知っているがゆえに読まないと決めた人にも目に付くようにしたかったからだ。例えば〇十万部の大ヒットと云っても、日本人の人口が1億3千万弱に対しては1%にも満たない。100万部でもまだ1%に達しないのだ。
だからベストセラー作品を持っているからといってその現状に甘んじることなく、チャレンジを続けないと作家としては生き残れないことを大沢氏は身を以て証明しているのだ。

またテレビによく出る作家についても言及している。テレビ出演は作家にとって薬にも毒にもなるらしい。顔が売れ、そして作品を売るための宣伝になるが、逆に顔が売れすぎると作品を読まずとも視聴者は読んだ気になるからだと。またタレントにいじられる姿を見て幻滅するファンもいるらしく、テレビに出る作家できちんと小説も書いている作家は少ないと断言している。逆に作品が売れないからテレビに出ているとまで述べている。このあたりの大沢氏の話はかなり辛辣だった。
そしてテレビのコメンテーターになり、そのテレビに捨てられたら小説の注文は二度と来ないと思いなさいと参加者に釘を刺す。作家を首にするのは世の中だという言葉はかなり痛烈に刺さった。

とにかく大沢氏の愛の鞭が詰まった講座だった。作家になることは生半可なものではないと自身の経験と周囲の作家の話に基づいて実に詳しくリアルに述べている。具体的な作家の名前は出ていないが―北方氏だけは別だが―、読んでいて顔の浮かぶ作家は何人かいた。

そしてとにかく本を読めと大沢氏は何度も釘を刺す。今の作家志望者の読書量の少なさを大沢氏は嘆く。それは作家としての蓄積が足らないと説くのと同時に自分が本を読まないのにそんな自分が書いた本を誰が読むのかと痛烈に批判しているようにも思える。

そして作家はなるよりもなった後の方が大変だと何度も述べている。若くしてなるよりも定年退職してある程度人生経験を経た方が蓄積もあり、そしてその後の生活のことを考えると作家になるのは良さそうだ。

この小説講座を読んで参考になったから小説でも書いてみようかと思う人はあまりいないのではないか。それほどまでに本書は作家という職業の大変さが深く、そして濃く述べられている。と思っていたら、どうも読んでデビューを果たした新人作家も何人かいたようだ。その背後にはさらなる母数の作家志望者がいることを考えると根性のある人はいるものだなぁと感心する。

また一番気になったのは大沢氏の小説講座の受講生の中に果たしてデビューした方はいるのかという疑問だが、なんと12名中5名が夢を叶えることができたようだ。誰なのか気になるが、それでも5割に満たないのである。まあ4割強だから野球の打率にしてはかなりの高打率だと考えれば結果としては万々歳か。

しかしやはり苦労を重ねた作家の言葉には重みがある。御見それ致しました。

No.1530 4点 ジェラルドのゲーム- スティーヴン・キング 2021/09/23 00:08
もはや監禁物はキングの数ある作品群の中で1つのジャンルを形成したと云えるだろう。
『クージョ』、『ミザリー』に続き、キングが用意したシチュエーションは子供のいない弁護士と元教師の夫婦が別荘で拘束プレイに興じようとして、抵抗した挙句に夫が心臓発作で亡くなってしまい、一人ベッドに手錠につながれた状態で取り残された妻の話だ。まあ、何とも苦笑を禁じ得ない状況であるが、直面した当人にとっては生死にかかわる大問題である。

正直シチュエーションはこれだけだ。これだけのシチュエーションでキングはなんと約500ページを費やす。妻ジェシーが夫に抵抗して心臓発作を起こして亡くなってしまうのが30ページ目。つまり残りの470ページを使って拘束された妻の必死の脱出劇を語るのだ。しかしよくこんなことを小説にしようとしたものだ。

この実に動きのない状況の中にもかかわらず、それだけのページを費やしているのはやはりキングの豊富な想像力によって生み出される次から次へと降りかかる危難、困難の数々と拘束されたジェシーの頭の中で巻き起こる妄想や回想の数々だ。

喉の渇きを覚えたジェシーが夫がセックスの前にベッドの棚に置いた氷の入った水のコップを取り、そして口に運ぶのも大いなる苦行となる。手錠に繋がれたまま、コップに手を伸ばし、棚を傾けさせて自分の方に引き寄せて取るまでに16ページを費やし、そしてコップを手にしたものの、今度は手錠の鎖のために口にまで持って行けないため、落ちていたDMを拾ってそれを丸めてストロー代わりにして飲むまでに18ページを費やす。このコントでもありそうな様子がジェシーにとっては生きるか死ぬかの死活問題なのだ。

窮地に次ぐ窮地の中、ジェシーはとんでもない秘策に出る。それは自身の血を潤滑剤にして手首を抜き出すことだ。傷をつけるのは水を飲み干したガラスコップ。
いやあ、私はこの着想を読んだとき、キングという作家はなんとも頭がいい作家だと感心するとともに旋律を覚えた。何と悪魔的な手法を思い付くものだと。
そこからの手錠との格闘は読んでいるこちらが痛みを覚えるほど凄惨だ。

本書でキングが描いた、もしくは描きたかったのは次の2点なのではないだろうか。

まずはたった1人で取り残された状況で人の思考はいろんな方面に及び、そして過去を掘り返す。それは封印していた忌まわしい記憶でさえも。本書ではその忌まわしい記憶が主人公を窮地から救う手立てを与えるヒントになっているのが皮肉だが。いやむしろ思い出したくない記憶にこそ、ヒントがあり、それを乗り越えたからこそこれからも窮地に直面しても乗り越えられるという意味だろうか。

もう1つは自分1人しかいないはずの家の中で誰かがいる気配を感じることはないだろうか。よくあるのは一人暮らしの部屋でシャンプーしているときに誰かが後ろに立っていると感じるというあの感覚。
主人公ジェシーも同様に奇妙な男の存在を感じる。しかし彼女が気を喪って目が覚めると誰もいなくなっており、しかも自分に害が及んでいないことから気のせいだと思い出すが、最後の最後で実際にいたことが判る。
つまり自分1人しかいないはずの部屋に誰かがいるという錯覚を覚えながら、実際に誰かがいたという恐怖だ。しかもその人物は何をするわけでもなく、ただそこにいたのだ。この何とも云えない気持ち悪さがしこりとして残り、そしてジェシーはたびたびその幻影に惑わされる。
その幻影を振り払うのに必要なのはその人物に逢いに行き、確かめることだった。そしてそれは叶い、確かに彼がジェシーと逢っていたことを認める。そしてジェシーはその男の顔に唾を吐きかけ、仕返しをしたのだった。

つまり忌まわしい過去や記憶、そして付きまとう幻影を振り払うには目を背けず、なかったことにせずに対峙するしかないとキングは訴えているのか。

本書は1963年7月20日に起きた皆既日食を軸にしたもう1作『ドロレス・クレイボーン』と対になる物語らしい。つまり本書に散りばめられ、謎のままに終わった部分についてはそっちで判明するのだろうか。

No.1529 10点 壊れた世界の者たちよ- ドン・ウィンズロウ 2021/09/11 00:47
ウィンズロウの本邦初となる中編集。デビュー以来ウィンズロウはナイーヴな私立探偵ニール・ケアリーシリーズを皮切りに多種多彩な作品を著してきたが、本書はそんな彼の多彩ぶりが存分に発揮された作品集となった。いわばウィンズロウの過去と現在を映し出す鏡のような作品群である。

始まりと終わりは作者が怒りの矛先を向ける麻薬組織への報復の物語とトランプ政権が生み出した社会の歪みに対する怒りの物語だ。

そしてそれらの物語に挟まれるのは実にヴァラエティに富んだ作品たちだ。

エルモア・レナード張りの軽妙なクライムノヴェルもあり、またレナードのように先の読めない展開の軽妙な警察小説もある。人捜しの探偵小説やハワイを舞台にした麻薬組織との闘いとテーマも様々。
その中には過去のウィンズロウ作品の登場人物が一堂に会するファンのための作品もある。ウィンズロウ作品に登場した人物たちのその後が語られ、そして活躍が再び垣間見れる、ウィンズロウ読者にとってはご褒美のような作品。

そして様々な人生観が語られる。

この世界はもうすでに壊れているという思いを抱き、そしてそんな世界に生れてきた我々はやがて壊れてその世界を出ていくのだという絶望に浸った者もいれば、眩しい陽光と青い海の傍の生活を得て生真面目に生きてきた人生を一転させ、人生一度の犯罪に手を染め、再生を目指す者もいる。また映画スター、スティーヴ・マックイーンに憧れ、ハイウェー101号線沿いに生涯住む家を買う人生プランのまま、己の教義に従うクールな宝石泥棒もいる。

身内を殺された警察官が隠密裏に復讐を重ねる物語もあれば、同様に身内の不名誉を隠すために下々の警官の捜査を妨害する一面も垣間見れる。

聡明な動物園の霊長類専門家は美人でありながらも恋愛に奥手で恋愛婚活リアリティ番組を好んで見て自分の生活の空虚さを忘れようとする。

そして人生といえば、かつてウィンズロウの作品で登場してきたシリーズキャラクターのその後の人生が垣間見れる作品もある。
大沢在昌氏の小説講座をまとめた本、その名も『売れる作家の全技術』を読んだが、そこで大沢氏が何度も強調しているのがとにかく個性の強いキャラクターを作ることだということだ。
ウィンズロウ作品を読むと確かにその通りだと納得させられる。
ここに収められた作品のストーリーは読み終わった後纏めてみるとシンプルなものばかりだ。身内を殺された家族の復讐譚、長年尻尾を掴ませなかった宝石強盗を追う話、一介のパトロール巡査が憧れの刑事に成り上がる話、かつて憧れの存在だった逃げたサーファーを追う話、ハワイで麻薬抗争に巻き込まれる家族の話、そして国境で引き裂かれた子供を親に引き渡そうとする話。
しかしそれらが実に読ませ、そして読書の愉悦に浸らせてくれるのはウィンズロウが生み出したキャラクターの個性が強いからに他ならない。

特にそれまでウィンズロウ作品に出てきたシリーズキャラクターが複数登場する「サンセット」、「パラダイス」の面白さはどうだ。私がワクワクして読まされたのは彼らの個性の強さゆえだ。
もちろんよくもまあこんなことを思い付くものだといった作品、予想外の展開を見せる作品もある。しかしそれもそこに登場するキャラクターならそう取るであろう行動や選択肢が読み手の意識にするっと入り込んで違和感無しで読まされるからだ。つまりキャラクターがそうさせたのだと云っても過言ではないだろう。

そしてそんな後日譚を読むことで時は確実に流れ、彼ら彼女らが未だ作者と読者が過ごしてきた時間の中で生きてきたことが感じられた。
本書のような中編集を読むことで改めてドン・ウィンズロウという作家の引き出しの多さを思い知らされた。

これまでの作品へ決着をつけた感のある中編集。彼が献辞に挙げたのは我々読者に対する「ありがとう」という言葉。
今まで読んでくれた読者への感謝のプレゼントでもある本書は作者が全てを清算し、そして新たなステップに向かうためのマイルストーンのように思えた。

ナイーヴで感傷的な探偵物語でデビューし、軽快なサーフィンを楽しむが如く、陽気でありながら残酷で現実的でもあった作品群が麻薬との戦いに憤りを感じ、ライフワークとも云えるメキシコの麻薬カルテルの長きに亘る戦いを怒りのままに描いてきたウィンズロウが本書の後、どんなテーマを我々読者にぶつけるのか。

興味は尽きないが、今はただこの作者による極上のプレゼントの余韻に酔いしれることにしよう。

No.1528 7点 血の極点- ジェイムズ・トンプソン 2021/09/09 23:44
カリ・ヴァーラ警部シリーズ4作目にして最後の作品。しかしそれは作者が想定していたシリーズの最後ではない。既に有名な話だが、作者の交通事故死という不慮の死によって終結せざるを得なくなった最終作なのだ。

但し前作の感想で作者の夭折によって4作で完結となったこのシリーズは起承転結の結に当たる物語になるだろうと私は書いたが、果たしてどのようになっただろうか。

今回カリ達仲間が関わる事件は2つ。1つはカリ・ヴァーラ自身に起こる数々の嫌がらせ行為の犯人を捜すもの。最初は脅迫状に包まれたレンガがガラスを割って投げ込まれたり、車の窓ガラスが全部割られたりと質の悪い悪戯の様相を呈していたが、やがて車の爆発と犠牲者を生むようにまでエスカレートしていく。
もう1つはカリの噂を聞きつけて訪ねてきたエストニア人の失踪した娘捜しだ。ヘルシンキで秘書の仕事があると云われて入国し、そのまま行方不明になったダウン症の娘の行方を探る。

しかしこれらの事件はあまりメインで語られない。
3作目でもその傾向はみられたが、本書でメインに語られるのは壊れてしまったヴァーラ夫妻の修復と彼らの命を付け狙う権力者たちを一網打尽にする工作の過程だ。

それらの物語は何とも痛々しい。精神的にも肉体的にも。

精神的痛みは何よりもまずあのケイトがカリ・ヴァーラの許を去ってしまうことだ。彼女は前作の事件で夫とその仲間たちを救うために犯人を殺してしまうが、それがもとでPTSDになってしまい、娘のアヌを連れて別居する。
それが前作での結末だったが、本書ではさらにアヌをカリの許において何も云わずアメリカに帰国してしまうのだ。彼女が戻ったのはジャンキーの弟ジョンの許だ。そこで彼女は人を殺めた自分は子供を育てるに相応しくない人間だと自責の念に駆られ、酒浸りの日々を送る。
1,2作の仲睦まじいヴァーラ夫妻を見ていただけにこの展開は何とも痛ましい。3作で確かにこの2人の関係は壊れてしまったのだ。

そしてそんなケイトをなお愛してやまないカリの想いもまた痛々しい。
しかしそれにも増して大怪我を負って不自由なカリとその娘の世話を献身的にする魅力的な美人看護婦、ミロの従妹ミルヤミのカリへの恋もまた痛々しい。

このシリーズはもともと1作目から陰惨な事件を扱い、死体に対する冒瀆的なまでのひどい仕打ちや痛々しい人の死にざまが描かれてはいた。
しかしこの4作目は折に触れ残酷な暴力シーン、殺害シーンが登場し、またはエピソードとして織り込まれる。

さながら流血だらけの残酷ショーのような強烈な描写がいつにも増して多かった。
しかし何よりも増して心に響いたのはミルヤミの死だ。献身的な若き美人看護婦はピトカネンが仕掛けたケイトのアウディの爆発によって全身大火傷を負い、一旦は病院に運ばれて死を免れるも、その後ピトカネンによって病院で止めを刺され、亡くなってしまう。
終始暗いトーンで進む本書において一筋の光のような存在だっただけに彼女の死は私にとっては驚きと衝撃だった。

私は本シリーズ第1作目の感想で作者トンプソンは扱っている題材と生々しいまでの陰惨な死体の状況が描かれていることからジェイムズ・エルロイの影響を多大に受けている感じを受け、このシリーズを「暗黒のLAシリーズ」に準えて、「暗黒のフィンランドシリーズ」にしようとしているのではないかと書いた。
しかしその思いは本書を読み終わった今では少し変化している。本書はフィンランド・ノワールともいうべき作品であるとの思いは変わらないが、一方でカリ・ヴァーラ警部のビルドゥングス・ロマン小説、つまり立身出世の物語でもあるのだ。

作者の夭折によって本書はここまででシリーズを終えることになるが、私はこの結末でいいのではないかと思う。「亢龍の悔いあり」という言葉があるように、上り詰めた者はあとは落ちるしかないからだ。3作目の結末で別居することになったケイトとの仲も彼女のPTSDからの回復とともに完全ではないが修復され、明るい兆しを孕んで終える本書こそシリーズの「結」に相応しいと思う。
回を重ねるごとにカリ・ヴァーラの任務が重くなり、それにつれ内容も過激になり、それが私生活にも侵食するようになってきた。従って本書のその後のカリ・ヴァーラの人生はさらなる苦難の苦難の道を歩むことになったことだろう。
そしてこのまま続けていけば必ず物語はさらなる過激さ・過剰さを増し、死人が増えていき、そして彼らの心的ストレスも増えていくことだろう。

夫婦の回復とカリの地位向上という明るい明日が見える結末で物語を終えるのを作者急死という不幸によって迎えることになったのは何とも皮肉としか云いようがない。
願わくば誰も彼らのこの次を書き継がないでおいてくれることを願おう。ここら辺がいい引き際と思うからだ。

カリとケイトのヴァーラ夫妻。ミロ・ニエミネンにスイートネスことスロ・ボルヴィネン。そして彼の恋人イェンナ。彼らの将来が明るいものであることを祈ってこの感想を終えよう。

No.1527 7点 ダーク・タワーⅢ-荒地-- スティーヴン・キング 2021/09/06 23:26
今回の目的は<暗黒の塔>を目指すとともに1巻で亡くしたジェイク・チェンバーズを再び彼の世界からこちらの世界に引き入れ、仲間にすることだ。つまり前作で手に入らなかった3人目の仲間こそがこのジェイク・チェンバーズであることが明らかになる。
さてこのジェイク。最初にガンスリンガーの世界に来たときは彼の住む世界、つまり我々の住む世界でガンスリンガーの宿敵<黒衣の男>ウォルター・オディムによって道路に突き出された結果、車に轢かれて亡くなってしまい、そしてローランドたちの世界、今回<中間世界>と称されている世界に移るわけだが、そこでもローランドの<暗黒の塔>を取るかジェイクの命を救うかの二者択一の選択に迫られ、そして亡くなってしまう。

中間世界で一旦命を落としたジェイクは再び我々の住まう世界で新たな命を授かり、日常を生きている。しかし彼には以前自分が双方の世界で亡くなった記憶を持っていた。
この辺のパラドックスについてキングはローランドとエディとの対話で説明がなされる。一本の人生の線があり、その時々で選択せざるを得ない状況に出くわし、そこで道が2つに分岐するが、それは実は2つではなく、その2つの選択肢と平行に別の分岐点が生まれ、それらが並行している。そして選んだ選択肢の記憶は残しながらも選択によって生まれた別の分岐点、即ち新たな世界に人は亡くなると移行し、再び人生を歩む。しかも一旦自分の世界と<中間世界>での記憶を留めたままに。
昔の映画で『恋はデジャヴ』という何度も同じ日を行き来する男の物語があったが、つまりはそれと同じか。<中間世界>に来た人間は一旦そこで命を喪うとリセットされ、また別の次元の世界を生きることになる。しかし記憶は留めたままだから、自分が命を落とした事件も知っているのだ。

ただこういう設定はあまり好きではない。それはある特定の人物を特別視し、いくら死んでも再びどこかの世界にいて同じような暮らしを送るならばそこに死に対する恐怖が生まれないからだ。
したがってキングが描いたのはジェイクの「ここではないどこか」を渇望する心だ。ジェイクは自身が生きている現実世界よりもローランドが<暗黒の塔>を目指す<中間世界>こそ自分の居場所があると確信するようになる。物語の前半は生き死人と化したジェイクが本来いるべき場所<中間世界>に行くまでの物語を濃厚に描く。

このジェイクが<中間世界>に再び舞い戻るシーンは新たな生の誕生のメタファーだ。
例えば彼をこちらの世界に引き入れるためにはその場所を守る妖魔がおり、それと戦っても勝つことはできない。したがってジェイクを引き入れるためにはそれを引き付けていなければならないがその方法がセックスをすることなのだ。
セックスは妖魔の武器であると共に弱点でもあり、その相手をするのがスザンナである。即ちジェイクがこちらに世界に来るまでの間にセックスし続けなければならない。
そしてジェイクが<中間世界>に来るシーンについて作者自身も明確に比喩しているようにそれはまさにお産を象徴している。
我々の世界と<中間世界>とを結ぶドア。その中に入り込み、漆喰男によって<中間世界>への扉をくぐるのを阻まれていたジェイクをローランドが助け、そしてエディがローランドもろともジェイクを引き入れるさまをキングは産婆の役割を果たしたと例える。
つまり1巻で印象的な登場をしながらも特段目立った活躍もせずに消え去った少年ジェイクを再びこの物語に引き戻すことこそがシリーズの新たな生の誕生、即ちこの<暗黒の塔>シリーズの新たな幕開けを象徴しているのだ。

そして本書の後半は<荒地>を横断する高速のモノレール、ブレインを求める旅へと移る。そのブレインはジェイクが彼の世界の図書館で借りた『シュシュポッポきかんしゃチャーリー』に由来する。
我々の世代で人語を解する機関車と云えば『きかんしゃトーマス』だ。だからそれになぞらえて考えれば、確かにどこか不気味なものを感じる。私が『きかんしゃトーマス』を観たのは幼少時代ではなく、我が子が興味を持ったからで、つまり大人になってから観たのだが、最初は確かに薄気味悪くてどこに可愛さを感じて、これほど人気があるのかが判らなかった。
しかし次第に慣れてくるといつしかそんな思いは消え去ってしまっていたのだが、そんな恐怖を大人になっても覚えているのがキングの凄さか。ある意味、自身の子供時代をコミカルに描いた『ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこに通ずるものがある。
そしてそのモチーフをそのまま畏怖の対象としてキングはブレインという人語を解する機関車として登場させる。それはさながらスフィンクスのように謎解きに正解しなかったら容易に業火で焼き尽くす恐怖の存在として。

しかしキングがこのガンスリンガーシリーズの世界観をどこまで作っていたかは知らないが、私はどうも行き当たりばったりで書き始めたかのように感じる。
今回初めて出てくる12の正門とそれを守る守護者の存在、そしてそれらを対角で結んだ線の交点に暗黒の塔があるという設定も最初から構想していたとは思えない。対角に結んだ先にあるのであれば12の正門全てを訪れる必要はないし、どうも設定にしては弱さを感じる。

そして物語はローランドが一行の命を懸けてブレインに謎解き合戦を仕掛けて終了する。ローランドの胆力で傲岸不遜な知的モノレール、ブレインを制する間際にローランド自身からこのような危うい提案が出されるとは思わなかった―メンバーには人語を少しは解すビリー・バンブラ―のオイまで加わっているのだ―。
まさに物語はこれからというときにいきなり梯子を外されたかのような結末に驚いているが、作者もそれは承知のようで弁明めいた長いあとがきで触れている。

とにかく果たしてこの命の削り合いがどのように展開するのか、次巻を待つことにしよう。

No.1526 8点 白の迷路- ジェイムズ・トンプソン 2021/08/30 23:26
カリ・ヴァーラ3作目では前作『凍氷』で担当したイーサ・フィリポフ殺害事件の捜査の過程で得た目の上のタンコブ的存在、国家警察長官ユリ・イヴァロの淫らな行為の一部始終を収めたビデオを手に入れ、その代償として彼はユリ・イヴァロの配下で非合法的行動を取ることが可能となった特殊部隊の指揮官に任命されることになった。
その名もなき特殊部隊のメンバーはカリ・ヴァーラを含めて3人。元々彼の相棒だった天才にして倒錯者のミロ・ニエミネンとバーの諍いで出くわした無職の巨漢スイートネスことスロ・ボルヴィネンだ。統率力のあるリーダーに知性豊かな異常者、そして怪力でうわばみのように酒を飲む巨漢。まさに王道の組み合わせといえよう。

そしてこの特殊部隊は犯罪組織の資金をせしめて組織の運用資金とする、窃盗団と変わらぬものだった。但し彼のバックには国家警察長官と内務大臣という巨大な権力の持ち主がいた。
カリは自分の現状を見つめて次のように云う。3か月前はいい警官だったが今では悪徳警官だと。
物語は非合法特殊部隊となった彼とそのチームの日々からやがて移民擁護者の政治家リスベット・セーデルンド殺害事件の捜査、そして実業家ヴェイッコ・サウッコの誘拐され行方不明となった長男アンティの捜索へと移る。
そこに加わるのがフランスの諜報部員アドリアン・モロー。彼はサウッコ直々に息子の捜索を依頼された人物だった。

そしてカリ・ヴァーラは国家権力の傘の下で強奪と暴力も辞さない、アンタッチャブルな班を率いる指揮官となっている。正義の旗印の下で彼が次々と麻薬組織やロシアマフィアからから大金をせしめ、それがさらに街中での彼らの血なまぐさい抗争を生みだせば、自分たちの足取りを消すために抗争で出来た死体を隠密裏に処分する。次から次へと悪徳の奈落へと堕ちていく様が描かれる。
一方でカリは自分が政治家たちの手先となり、自分もまた彼らの仲間に取り込まれようとしていることに気付いて、いざというときのために自分を守るために彼らを貶めるための準備も怠らない。

本書では前作にもまして血と暴力に満ちている。これまで以上に凄惨なシーンのオンパレードだ。これまでの殺人シーンも強烈だったが、本書はそれをはるかに凌駕する残酷描写が多かった。しかも淡々としているのが怖い。

そして結末もなんとも悲しい。
本書はいわば壊れていく物語だった。ヘルシンキという新天地で手柄を立て、さらに待ち望んだ子供を手に入れ、全てが順調と思われた夫婦が夫の異動で壊れていく。
また夫は非合法の任務を任されることで次第に善悪の境が曖昧になり、家庭に武器や最新の捜査設備が持ち込まれ、しかも汚い金がどんどん増え、高級品がどんどん買いこまれて、彼の正義に対する信条が壊れていく。
そしてそんな状況に次第に妻も精神の均衡を失い、毎晩お酒を飲むようになる。そして最後には妻も人を殺めてしまう。

このシリーズはそれぞれの巻がカリ・ヴァーラとケイトの人生の道行きを描いているようだ。つまり第1作が起とすれば第2作は承。そして盤石だと思われた2人の愛に転機が訪れる本書は転に当たるだろう。
偶然にして作者の早逝で本書は4作で訳出が途絶えている。つまりこのまま行けば次の4作目がカリとケイトの物語の結に当たることになる。

2人の愛の行方は一体どうなるのか。危ういながらも献身的にカリについてきたケイトと不器用ながらもケイトを愛してきたカリの夫婦の仲睦まじい風景がこの暗鬱なフィンランドの現状を舞台にした物語のオアシスであるだけに、全てが丸く収まる結末であることを期待したい。

No.1525 5点 τになるまで待って- 森博嗣 2021/08/26 23:13
Gシリーズ3作目は嵐の山荘物。岐阜県と愛知県の県境の山奥に位置する≪伽羅離館≫という屋敷で密室状態の中、超能力者と呼ばれている館の主、神居静哉が何者かによって殺害される。そして外部は雷雨降りしきる嵐でなぜか外部に通じる扉が鍵も掛かっていないのに開かない状態になる。その事件に出くわすのが加部谷恵美ら3人と探偵赤柳初郎ら一行と神居静哉を取材に来た新聞記者富沢とカメラマンの鈴本、そして彼らを伽羅離館へ案内する不動産会社の登田達一行だ。

本書では密室殺人以外にもう1つ謎がある。それは超能力者神居静哉が加部谷恵美をアナザ・ワールド、異界へと連れて行った謎だ。それは同じ部屋にいながら互いの姿が見えない、いわば異なった次元もしくは位相に連れていくというマジックだ。

犀川の推理によって解かれるのだが、正直おかしな話だ。
まず雷に見えたのが溶接火花だったとすると、それは神居が登田にお願いしたこととなる。しかし扉を溶接するのは神居の信者山下と平井も知らなかったことでなぜ神居が外部扉を溶接させたのか解らない。
犀川の推理では犯人は神居殺害後に外部への連絡をとれなくするため、誰かが外に出るのを防ぐために溶接したのだと述べるが、雷に見せかけたのは神居ではなかったのか?なぜ彼が扉を溶接させたのかがよく解らない。
あとセメントで扉を固定したのもよく解らない。溶接だけで十分ではないか。なぜセメントでシールをするのか?そしてそれを誰がやったのか?犯人?

メインの事件である神居の密室殺人は外部の人間が窓の鉄格子の一部を切断して、部屋に入って神居を殺害した後、再び鉄格子を復旧したというのものだ。
密室にしたのは少しでも遠くに逃げおおせるためだと犀川は推理する。そして本書では驚くべきことに殺人事件の犯人が明かされないまま物語は閉じるのである。
いやはや全く以て人を食った、いやミステリ読者を食ったシリーズである。

密室殺人事件のトリックを解き明かした犀川創平に対し、警察は犯人は誰かと問うが、犀川は知りません、それを探すのが警察の仕事でしょうと一蹴する―この件はかなり笑った―。現実世界では当たり前すぎるが、この当たり前なことを本格ミステリでするところに森氏の強かさを感じる。

本書は真賀田四季の計画という大きな謎を断片的に語っているエピソードであり、加部谷達が出くわす事件はその過程における些事に過ぎないと作者が位置付けているように思えるのだ。
神居静哉を殺した犯人。そしてその最有力容疑者と見なされる不動産業者の登田昭一は失踪したまま。
更にエピローグでは萌絵の叔母佐々木睦子の前に現れた赤柳初郎の髭を見て彼女は「年季は入っているようだが私の目は誤魔化せない」と述べ、微笑んで去っていく。つまり真賀田四季を追う赤柳初郎もまた怪しい人物であると示唆して物語は閉じられる。

Gシリーズの読み方が3作目にしてようやく解ってきた。
謎めいたタイトルについてはとにかくそれぞれの作品の中ではほとんど意味を成していないと理解しよう。
そして事件は十全に解決されないと腹を括ろう。
また真賀田四季の影が常に背景に隠れていると意識しよう。
赤柳初郎にはもっと注意を配ろう。
これら4箇条を念頭に置いて次作に当たろう。そうすればもっと楽しめるだろうと期待しよう。

No.1524 7点 最後の一撃- エラリイ・クイーン 2021/08/25 00:20
本書は元々エラリイ・クイーンシリーズに一区切りをつけるために書かれた作品だと云われている。そのためか本書はクイーン作品史上、解決に至るまで最も永い時間が掛けられている。事件の発生から27年後になってようやく事件の真相が明らかになるのだ。しかし物語の発端としてはそのさらに25年前から始まる。それはエラリイ・クイーン自身が生まれた年だ。そう、本書はエラリイが生まれてから1957年当時に至るまで、本書刊行が1958年であるからほぼリアルタイムでの作家生活の道のりと共に歩んだ事件なのだ。

この時まだエラリイは処女作『ローマ帽子の秘密』を刊行したばかりの駆け出し探偵作家なのだ。この事件は彼にとって2番目の、実質的には最初の殺人事件であると書かれている。
つまり作家デビュー間もないクイーンに探偵役を担わせ、刊行前年に解決に至る設定を盛り込んでいることからクイーンの作家生活の裏側で本書の事件もまた進行していたことが明らかにされているのだ。そしてそれは新人作家エラリイが登場することから原点回帰的な印象をも受ける。

本書の謎は大きく分けて6つある。
1つは双生児として生まれながら、取り上げられた医師の子として育てられたジョン・セバスチアンの弟の行方。
2つ目はジョン・セバスチアン25歳の誕生日を祝うクリスマス・パーティに訪れた謎のサンタクロースの正体。
3つ目は12夜に亘って行われるクリスマス・パーティに毎夜届けられるメッセージカードとアイテムの意味。
4つ目はそれらを贈る人物は一体誰なのか?
5つ目は図書館で亡くなっていた謎の老人の正体。
6つ目は最終夜にジョン・セバスチアンを殺害したのは一体誰か?

あと本書では出版関係の仕事に携わる面々出てくるせいか、やたらと1930年当時の小説などに登場人物たちがやたらと触れているのが目立った。
それだけでなく、1957年に至るまでの時事についても触れられ、さながらクイーン作家生活の追想のような様相を呈している。

そんな意欲作であった本書は最後まで読むに至り、いささか肩肘が張りすぎたような印象を受けた。

時代が、世相が起こした事件であった。そしてそれはそのまま作者クイーンが歩んできた道のりでもあった。彼が作家生活を振り返ったときにそれまでの歴史的出来事を物語に、ミステリに取り込むことを思いついたのが本書だったのではないか。

しかしこの本書の最後の一行に付された“最後の一撃(フィニッシング・ストローク)”に私は気負いを感じてしまった。

作者のミステリ熱と読者の私の謎解きに対する熱に大いに温度差を感じた作品であった。
確かに力作である。後期の作品においてこれほどの仕掛けと演出とそして複雑なロジックを駆使しただけにクイーンコンビの本書にかける意欲がひしひしと伝わった。やはりクイーンはとことんミステリに淫した作家であったのだ。

初心忘れるるべからず。
本書はそれを自らの肝に銘じた作品ではなかっただろうか。

No.1523 7点 ニードフル・シングス- スティーヴン・キング 2021/08/22 23:41
『図書館警察』所収の中編「サン・ドッグ」でも触れられていたように本書は長らくキングの数々の物語の舞台となったキャッスルロック終末の物語である。
キングがどうしてこの町を葬ろうとしたかは解らないが、『デッド・ゾーン』に『クージョ』、『スタンド・バイ・ミー』など名作とされる物語の舞台だっただけにその終焉は感慨深いものがある。

ニードフル・シングス(Needful Things)、つまり「必要なもの」とか「必需品」を指す言葉だが、本書における意味はそれぞれの客にとって「無くてはならない物」、もしくは「喉から手が出るほど欲しいもの」である。
リーランド・ゴーントの店は客が集めている物や興味を持っている物、更には小さい頃に欲しくて手に入らなかった物などが置いてあり、客がそれに触れると物に宿った記憶が呼び起こされ、頭の中に映像として浮かび上がる。そしてそれが客の所有欲を掻き立て、欲しくてほしくて堪らない衝動に陥るのだ。何もかも犠牲にしても構わないほどに。
そんな激しいまでの欲望をゴーントは利用し、客にそれを買わせる。相場よりも破格に安い値段と足らない分を町の住民への悪戯との引き換えに。

それらはやがて持ち主の心を支配する。欲しい物、ようやく手に入れた宝物は持ち主の執着心を煽り、やがてそこから聞こえる声に従うようになる。それはリーランド・ゴーントの声で、彼は物に囚われた人たちの心を操るように約束した悪戯をするよう促すのだ。
つまり彼らの手に入れたニードフル・シングはリーランド・ゴーントの依り代であるのだ。
従って物語の終盤では彼らの手に入れた品々がゴーントによるまやかしによって信じさせられたものであることが次々と判明していく。

しかしよくまあキングは人の欲望について様々な視点から語るものだと感心した。
喉から手が出るほど欲しい物とは人それぞれによって様々だ。
例えば蒐集家は長らく探し求めていたレア物を目にしてどうしても欲しくなるだろうし、子供の頃の思い出の品を見つけると同様に欲しくなるだろう。
また大ファンのアーティスト関連のグッズもまた垂涎の的であろう。
一方で自分の人生が崩壊しようとしているまさにその時にその状況を打開できるものが現れれば、何を差し置いても手に入れるだろう。
また長年悩まされる病の苦痛を少しでも和らげてくれるアイテムがあれば最初は半信半疑だったとしても実際にその効用を感じれば、もう手放せなくなるだろう。

これら町の人が欲しがるもの、望むものを売る謎の骨董屋≪ニードフル・シングス≫の店主リーランド・ゴーントの正体はいわゆる“尋常ならざる者”だ。
そんなゴーントの特殊能力を見抜く力を持った者がいる。その一人が保安官のアラン・パングボーンだ。

誰しも近隣住民との間に何らかの不平不満を抱いているものだ。それは性格的に合わない、生理的に受け付けないといった本能から由来するものでいわゆる苦手意識から来るものだったり、表層化したいざこざや諍いが今に至って尾を引いていたりと、大小様々だ。
人はそんな負の感情を仮面に隠して世間に向き合い、近所付合いを続けている。しかし自分に何か不利益なことや謂れのない悪戯といった害を被るとそれが引き金となって潜在下で押し留められていた不平不満が鎌首をもたげたかの如く、頭をよぎり、そして証拠もないのに犯人だと確信に変わる。
もしくは相思相愛だと思っていた関係もたった1枚の写真と手紙で愛から憎しみへと変わる。
または隠しておきたい背徳的な趣味嗜好を明らかにされることで怒りが生まれる。
我々の住む生活圏とはこんな些細な異物で狂う歯車のような微妙なバランスの上で成り立っているのだ。
キングはこの人間たちが持つ感情の機微を実に的確に捉えるのが非常に上手い。

やがてそんな悪戯が町の住民たちの猜疑心を生み、そして町の崩壊まで至るようになる。
これは即ち暴動の始まりである。アメリカで、中国で起きている警察に対する、政府に対する暴動はそれぞれが小さな発端から市を、州を、国中を、そして世界中を巻き込む抗議活動に発展し、そして暴動へとエスカレートしていった。
本書ではキャッスルロックという小さな町の住民間の小さな諍いが肥大し、やがて町を滅ぼすまでの暴動に発展する様を描いた作品なのだ。

そして『スタンド・バイ・ミー』に登場したキャッスルロック一の不良エース・メリルも物語の中盤になって現れる。既に齢四十八となったエースのキャッスルロックを離れ、戻ってくるまでの物語も11ページ費やされる。
つまりキングがキャッスルロック最期の話に選んだ主役はその住民たちだったのだ。彼ら彼女らはそれぞれそこで生まれ、育った者もいれば、他所から来た者もいる。そして彼ら彼女らは一様に何の問題もなく、それまで生きてきたわけではない。
人は皆物語の主人公だという言葉があるが、キングは本書でまさにその言葉通りに皆が主人公の物語を紡いだのだ。

キングが本書で描いたのはほんの些細なことで人は不可侵領域に押し入り、そして諍いが起きて社会が崩れ去る様だ。我々の共同体とはなんとも脆い楼閣であるのか。
そして物語とは云え、その一部始終を上下巻1,300ページ強を費やしてじっくりとねっとりと見せつけられる後ではやはり人は心底信じあえることはできないのだと痛烈に嘲笑している作者の姿が目に浮かぶようだ。

さて私は本書に対して思うところがある。それは本書はキングにとって作家生命の再生の物語でもあったのではないかということだ。
思えばなかなか作家としてデビューが適わなかった彼がボツにした原稿を妻のタビサが見出して投稿したところ、見事デビューとなり、そしてその後映画化もされ、破格の扱いとなった作品『キャリー』もまた町が崩壊する物語だ。念動力の能力を持つ超能力少女キャリーがプロムパーティーで屈辱的な扱いを受け、怒りに駆られてその力を発動して町1つを壊滅に追い込む物語がキングのデビュー作であり、ベストセラー作家としての第一歩を踏み出すことになった。
この長らく親しんできたキングが生み出した架空の町キャッスルロックを崩壊させるこの物語はつまり当時スランプに悩んでいたキングが再生を図るための破壊の物語であったのではないだろうか。
キングのキャッスルロック・サーガを意識的に取り上げ、そしてそれらを無に葬り去るのが本書だ。そうすることでデビュー作と同様の栄光を掴み、作家として更なるステップアップを望んだのではないだろうか?

破壊と再生を繰り返す作家キング。彼がなぜ2010年代に再び傑作群を発表するようになったのか、本書以降からそれまでの作品の変化を追う興味が湧いてきた。

物語の最後、ゴーントが去る馬車の腹には次のような一文が書かれていた。
“すべては買い手の責任”
何かを手に入れれば何かを喪う。欲望に駆られて衝動的に買い物をすればそれには大きな代償を支払うことになる。本書は物欲主義に陥った資本主義に対する警告を促す作品か。それとも単に何でも欲しがる子供たちに向けての説教のための物語なのだろうか。
ともあれ何かを買うときは慎重に考えることにしよう。でないととんでもない代償を払わされることになる。それも家族や町が崩壊するほどに。

No.1522 1点 ラベンダー・ドラゴン- イーデン・フィルポッツ 2021/08/14 00:06
フィルポッツによるファンタジー小説という非常に珍しい作品である本書はしかしその予想を大きく裏切る内容である。
題名に示すように登場するのはラベンダー・ドラゴンという美しい鱗に覆われた巨大な古竜でラベンダーの香りを放つことからその名がついた。物語は武者修行中の若き騎士ジャスパー卿が最後に出くわしたこの竜との戦いを描くかと思えば、その予想は大きく裏切られる。

辿り着いたのはドラゴンが創った理想郷とも云える村。そしてそこにはドラゴンに食われたと思われた人々が実に愉しく暮らしていた。
そこから繰り広げられるのはその理想郷に暮すようになったジャスパー卿とその従者の結婚とラベンダー・ドラゴン、即ちL・Dの長ったらしい講釈の数々だ。
それは理想的な街づくりの話であったり、理想の生き方や思想、教育論など様々だ。
それはさながら仏教の教えのような様相も呈してくる。即ち万物の命は皆尊いとか謙遜の心が足らない―これは逆に日本人特有の精神だからドラゴンが西洋人に諭すのには思わず苦笑いをしてしまうのだが―、人の非難をする、取り壊すことは容易だが、建設的な話をする方を好む、などなど道徳論や人の道を説くのだ。

巨大で人間以上の知識を持ち、人語も話すが、その気になれば人間などは簡単に殺すほどの力を持ったドラゴン。そんな畏怖すべき存在が穏やかな性格で人間たちの住みよい街を与え、そして人間たちが図りしえない長い年月を生きてきたことで学んだ考えを諭す。これは当時61歳となったフィルポッツ自身を投影した姿ではないだろうか。彼が蓄積した知識と思想をラベンダー・ドラゴンを介して語っているように思える。
しかしその内容は正直長い説教でしかなく、非常に退屈極まりない。そしてエンタテインメントとしての体を成していない。全知全能の存在であるドラゴンをフィルポッツは人間たちが到底敵わないような強大な存在として描かず、人智を超えた経験値を得た、仙人のような存在として描く。

本書はファンタジーの意匠を借りたフィルポッツの理想論を書いた作品だとするのが正しいだろう。そしてそれは物語の姿を借りずにノンフィクションで出してほしい。

No.1521 9点 凍氷- ジェイムズ・トンプソン 2021/08/10 23:58
カリ・ヴァーラ警部シリーズ2作目の本書では舞台はキッティラからヘルシンキに移り、カリも署長から深夜勤務の新人と組む新参刑事となっている。

今回カリ・ヴァーラが主に扱う事件は2件。1つは夜勤明け直前に出くわした不倫中カップルの女性の拷問殺人事件。もう1つは国家警察長官ユリ・イヴァロ直々の命令によるフィンランドの公安警察ヴァルポの生き残りでフィンランドの英雄であるアルヴィド・ラファティネンが第二次大戦時にユダヤ人の虐殺に関わっていたとの容疑でドイツが引き渡しを求めているのを阻止することだ。
通常の殺人事件の捜査とフィンランドの歴史の暗部を探る壮大な事件。しかし通常の殺人事件も被害者の夫が富裕層で国家警察長官ユリ・イヴァロとも親交がある事からコネを使って捜査を妨害するという権力の壁に阻まれる。
そしてその事件の被害者の夫がやがて容疑者である可能性が濃くなっていく。

まずこの妻殺しの殺人事件は何とも陰惨なものだ。愛人とのセックス中に夫が忍び込んで相手を昏倒させ、なんと夫は妻をティーザー銃を使って身動きさせなくし、そして自分の愛人を連れ込んで浮気相手の乗馬鞭で拷問しながらセックスに興じるという性倒錯者の側面が浮かび上がってくる。

もう一方の任務、アルヴィド・ラファティネンの無罪を証明する仕事は、最初は自身の祖父が同じ収容所に勤務していたことを糸口に懐に入ろうとするが、彼がドイツ政府に告発される原因となった暴露本を書いた作者からアルヴィドに関する資料を見せてもらったところ、カリの祖父が同じ時期に彼と同じ収容所に勤めていたどころか、祖父をヴァルポに加えるよう取り計らってもいることからアルヴィドが嘘をついたことが判明する。そして逆に自分の祖父もまた彼と同じように捕虜を射殺していたことを知らされ、カリはショックを受ける。そして彼はフィンランドの英雄と謳われるマンネルハイムなどの人物がドイツに協力して3000人のユダヤ人の戦争捕虜を引き渡していたことを知らされる。そしてこれらの事実を自分をドイツ政府から護らねば暴露すると云ってフィンランド政府を脅すと云うのだった。

この2つの事件は実に見事な形で終息する。この見事な結末の付け方に作者の構成力はもとより、歴史の荒波を生き抜いた老人の老獪さを思い知らされた。

さて1作目では日本人には馴染みの薄いフィンランドの国が抱える暗い社会問題が氷点下40度の極寒の地で起きた殺人事件の暗欝と共にやたらに語られていたが、本書では一転してカリの妻ケイトの妊娠のタイミングに合わせて来訪した弟と妹へのガイドの側面もあるのか、フィンランドの文化紹介となっており、トーンとしては明るい。

1作目が陰ならば2作目は陽とも云える。
それはケイトの心情がそのまま作品に投影されているかのようだ。

つまり同じアメリカ人でフィンランドに移住した作者はケイトに自身の心情を映し出し、それが作風にも表れているように思えるのだ。
しかしとはいえ、このシリーズの色調は基本的には暗い。アメリカから遊びに来るケイトの弟ジョンや妹のメアリは様々な問題を引き起こし、ケイトは母親が亡くなった後に彼らの母親代わりとして世話をしてきたが、その変貌ぶりに思い悩むようになる。

業の深い人間たち。どこか精神の箍が外れた人間たち。そして幼い頃の父親からの虐待に幼き妹の死から始まった事件のみならず自分を取り巻く人々の死。それらを目の当たりにしながら極寒の地で正しくあろうと奮闘するカリ・ヴァーラ。

しかし彼にとうとう非合法の特殊部隊という権力が与えられるようになった。正しいことをするために必要ならば殺人をも辞さないチームを持った彼がどのように変貌するのか。

これからのカリ・ヴァーラは更に過激さを増しそうで期待よりも不安が勝ってしまうのは単に私の杞憂に過ぎないのだろうか。
とにかく次作を楽しみにすることにしよう。

No.1520 8点 メインテーマは殺人- アンソニー・ホロヴィッツ 2021/08/09 00:29
2018年の海外ミステリランキングを総なめにした『カササギ殺人事件』はフロックではなかったことを証明したのが本書である。本書もまた2019年の海外ミステリランキングで4冠を達成した(因みに『カササギ殺人事件』は7冠)。

本書の最たる特徴は作者アンソニー・ホロヴィッツ本人が登場することだ。しかもカメオ出演などではない。作者と同姓同名の探偵などでもない。ホロヴィッツが作者自身として登場するのだ。従って読んでいるうちに奇妙な感覚に囚われていく。
果たしてこれはドキュメントなのかフィクションなのか、と。

スティーヴン・スピルバーグがプロデューサーとなり、ピーター・ジャクソンが監督で『タンタンの冒険2』の企画が進行しており、ホロヴィッツがその脚本家に抜擢されて打合せしたりする。
しかもその打合せの場にホーソーンが乱入して、ホロヴィッツを被害者の葬儀に駆り出す。

このように作家自身が登場し、更に自身が手掛けたドラマのアドバイザーの元刑事と共に事件を追う本書はそんな現実とも創作とも判断の着かない世界の狭間を行ったり来たりするような感じで物語は進んでいく。これが読者に実話なのかもと錯覚を引き起こさせるのだ。
特に作者が死体を目の当たりにするシーンなどは実にリアルだ。例えば殺されたばかりの死体が死後硬直が進むにつれて声帯も硬直し出して呻き声のような音を発するといった描写は実に生々しいし、実際に見てきたかのような迫真性がある。
従って本書の探偵役を務める元ロンドン警視庁の刑事で今は顧問をしているダニエル・ホーソーンも実在しているのか、もしくは作者による創作なのか、終始曖昧なままで進む。
何しろホーソーンと知り合ったのはホロヴィッツが脚本を手掛けたドラマ『インジャスティス』のアドバイザーになった時だ。このドラマは実在するため、ホーソーンも果たして実在するのか?
そしてこのホーソーンは一言で云うならば、マイペースなイヤなヤツだ。正直云って自ら進んで関わり合いたいと思わない人物だ。ホーソーンと共に行動する主人公の作家ホロヴィッツの心の動きが面白い。

そしてホロヴィッツはこう考えることにする。この決して人好きのしない元刑事の為人を観察して理解しようと。つまり探偵自身を探偵することを決意するのだ。
私は『カササギ殺人事件』を「ミステリ小説をミステリするミステリ小説」と評したが、やはりその観点は間違っていなかったとこの一文を読んだ時に確信した。
ホロヴィッツはミステリそのものに興味を持っているのだ。つまりミステリ自身が持つ謎を。だからこそそれ自身について探偵するのだ。『カササギ殺人事件』がミステリ小説そのものに対してであるのに対し、本書は探偵役そのものに対して。

後半からはとにかく伏線回収の応酬だ。
ホーソーンに救出されて入院しているホロヴィッツの許を訪れたホーソーンが語る事件解決に至るまでの彼の推理で作者が周到に犯人を示唆する伏線と手掛かりを散りばめていたことが明らかになる。
この回収は『カササギ殺人事件』でも見られたが、毎度のことながら、よくもまあここまでと感心させられるし、読者が伏線・手掛かりと気付かないほどそれらはさりげなく物語に記述されているのが解る。

特に感心したのは10年前のクーパー夫人の轢き逃げ事故の判事を務めたナイジェル・ウェストン弁護士の家が法科に遭った原因が作者にあるとホーソーンが云った理由がただの腹いせではなくて、彼が犯人のコーンウォリスに10年前の事故についても調べていると語ったことが起因していたことだ。それを聞いたコーンウォリスがホーソーンたちをミスリードするために犯したのだった。
他にもクーパー夫人のショートメッセージのスペル自動修正機能のために誤った情報が息子ダミアンに伝わり、しかもそれが偶然にも轢き逃げ事件の被害者を仄めかしてしまった件などは本格ミステリのケレン味を感じさせ、感嘆させられた。
またダイアナ・クーパーが自分の葬儀の手配を自ら行った理由が度重なるトラブルに厭気が差して自殺しようと思っていたことやコーンウォリスの葬儀屋の息子として生まれたことの苦悩など、登場人物の陰影などもしっかり描き込まれており、余韻を残す。

私が本書を読み終わった時、正直年間ランキング2年連続1位獲得するほどの作品とは思わなかった。
確かに上に書いたように最後に畳み掛けるように明かされる伏線回収の美しさは海外ミステリ作家には珍しいほど本格ミステリの端正さを感じさせるし、ホーソーンとホロヴィッツが苦手意識を持ちながらも時に親近感を持ちながらやり取りし、事件解決に向けて関係者を渡り歩く様など昔ながらのホームズ&ワトソンコンビのような妙味もある。
しかしこのホームズシリーズの手法に則った本書だが作者自身が語り手を務めることに対して何か仕掛けがあるのではないかと思っていただけに、案外すんなりと物語が閉じられたことになんだか肩透かしを食らったような感覚を覚えてしまったのだ。

先にも書いたが本書は作者本人がワトソン役を務め、探偵を探偵するミステリである。つまりダニエル・ホーソーンとは一体何者なのかを明かすミステリでもある。

しかしそれだけでは何ともこの小説が年間ランキング1位を獲るだけのインパクトには欠ける。なぜ本書が斯くも賞賛を持って迎えられたのか?

それはやはり日本の書評家たちが自分たちの住まう世界の話が好きだからではないか。
『カササギ殺人事件』も英国のミステリ作家の世界を描いた作品である。実在の人物まで出演して物語に関わってくるし、そして何よりもクリスティ作品の良きオマージュとも云えるアティカス・ピュントシリーズ最終作が丸々1冊入っていること、そしてそれ自体が物語のトリックにもなっている事など実に精緻を極めた作品だった。
本書は英国ミステリ作家ホロヴィッツ自身が語り手を務めることで英国ミステリ文壇の内輪話や作家の創作方法や心情について生々しいまでに吐露されている。こういう作家稼業の内輪ネタが日本の書評家には堪らなく面白いのだろう。それが本書が称賛を以て迎えられた大きな理由ではないだろうか。

私がその中で一番印象に残っているのは2つ。
まずはホロヴィッツが本書を自身の一人称叙述にしてしまったことを後悔していると述べている件だ。本書でホロヴィッツは犯人に薬を盛られて全身麻痺になり、メスを突き立てられて殺されそうになるが、私はどうせ助かるものだとあまりスリルを感じなかった。なぜなら作者自身が述べているようにこれは作者の一人称叙述なので彼が助かっているからこそこの物語を我々が読めることを知っているからだ。
あとは最後の件だ。彼は自分がホーソーンが妻を利用して彼の本を書くことを仕組まれた事に気付いて彼に本など書かないと捨て台詞を吐いて後にするが、他人に自分のことを書かれるのは我慢がならないとして結局書いたのが本書であると結ばれる。この辺のメタな感覚が一ミステリ読者として面白く感じた。

しかし本書の一番の魅力はやはりこの一言に尽きるだろう。

この話、どこまで本当なの?

ホロヴィッツがこの質問をされた時、恐らくはニヤリと笑ってこう答えるのではないだろうか?
「それはみなさんの想像にお任せします。なんせ本書の『メインテーマは殺人』なのですから」

No.1519 2点 どきどきフェノメノン- 森博嗣 2021/08/01 00:38
リケジョの恋の仕方教えます!
そんなキャッチフレーズが似合いそうな森博嗣流理系女子ラヴ・コメディーが本書。しかしここでいう「恋の仕方」とは恋の指南書という意味ではなく、理系女子はこんな感じに恋をしているのだと森氏独特の文体と思考で語られる。

窪居佳那は24歳のとある大学の博士課程の1年。別に男は欲しいと思わないのだが、容姿がいいのか、研究室のM1の後輩鷹野史哉と水谷浩樹の2人は何かと彼女に絡んでくる。それぞれアプローチの仕方は違うのだが。

そんなリケジョの日常と恋、そして思考と妄想が語られる本書の内容は彼女の日常で起きるちょっとした事件や出来事が取り留めもなく起こって進む。
また恋の話は主人公の窪居佳那だけでない。彼女の友人藤木美保の恋バナも語られるのだ。
合コンで知り合った猪俣と矢崎という男性2人のアプローチを後輩の水谷を使って逃れる件にその事件をきっかけに美保が水谷に好意を抱き、剣道の相手をさせて、情熱的なラヴシーンに発展したりする―このシーンは傑作!―。

また森氏は大学をよく舞台にしているが、私自身も理系学生であったので所々にノスタルジイを感じてしまった。特に夜の研究室に美保を伴って訪れて、そこで佳那と美保、そして後輩の水谷と鷹野の4人で酒宴が催されるシーンなどは、自分も学祭で同じようなことがあっただけに胸に迫るものがあった。

と読んでいて覚えた既視感があった。
これはもしかして森博嗣版ちびまる子ちゃんではないか?

そして読み進むにつれてこの窪居佳那という女性を私は次第に嫌いになっていった。
なぜなら彼女は自分勝手で大した能力もないのに先輩面をし、そして非常に鈍感である。

彼女は自分の身に起きた事象について沈思黙考するのだが、これが非常に長い。長すぎる。
この非常に長い思考は例えば『東京大学物語』の主人公村上直樹のそれを彷彿とさせるが、森氏独特のダジャレがふんだんに盛り込まれており、単なる作者の悪乗りにしか思えない―中には「鯉の病」といった爆笑ネタもあったが―。

そして彼女が考える謎は一般人である我々にしてみれば簡単に解る事なのに、恋愛慣れ、世間ずれしていない彼女はその当たり前のことが解らないため、延々と思考し続けるのだ。読者はとうに答えが解っているのに、この窪居佳那という鈍感女のしょうもなくも不必要なまでに長い思考に付き合わされるもどかしさを何度も何度も強いられる。
特に志保と水谷の剣道シーンに隠された真相は正直終ってからすぐに解るのに、延々「水谷はどうして研究室に自分より早く戻ってくることができたか」と最後まで引っ張る。

どうでもいい女の、どうでもいい勘違いとどうでもいい恋バナを読まされた。そんな読後感が残る作品だった。
この頃の森氏は本当に何を書いても許されたのだなぁ。