皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
していません。ご注意を!
Tetchyさん |
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平均点: 6.74点 | 書評数: 1617件 |
No.1617 | 9点 | 警告- マイクル・コナリー | 2025/04/02 00:44 |
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最近はハリー・ボッシュとレネイ・バラードの2人のコンビのシリーズ作品を発表しているマイクル・コナリーが久々にジャーナリストのジャック・マカヴォイを主人公にした作品を書いたのが本書だ。そしてマカヴォイにとって運命の銃弾と云える相手レイチェル・ウォリングを登場するが、ボッシュそしてそのシリーズの登場人物は今回登場しない。
今回マカヴォイが対峙するのはDNA産業の暗部とそのデータを悪用して連続殺人を行う百舌と呼ばれる殺人鬼だ。 ところでこの作品の前に読んだ新宿鮫シリーズの『暗約領域』の感想でコナリー作品からの影響が垣間見えることについて述べたが、一方でかつてハリー・ボッシュシリーズに新宿鮫との共通点についても述べたが、やはりこの殺し屋のネーミングを考えると逢坂剛氏の百舌シリーズを想起させることから、コナリーは日本のミステリを読んでいるのではないかと思われる。 いやもしくはコナリーには創作のためのブレイン集団がいると思われるのでその 中の誰かが日本のミステリを読んでいる、もしくは映像作品を観ているのかもしれない。その真偽は解らないがもし日本のミステリがこの現代アメリカのミステリの雄に影響を与えているのだとしたらこれほど嬉しいことはないだろう。 話がそれたが、本書で描かれるDNA犯罪は殊更に恐ろしい。個人的なDNA情報が漏洩することでその人物の趣味嗜好が手に入れられ、そして欲望を満たすために利用されることが容易になるからだ。そしてそのDNA情報を容易に提供するのが消費者というのもまた恐ろしい。自分たちのルーツを知るために安価にDNA分析を行うGT23社―23ドルという値段で分析を請け負うことから社名が付いている―から全てが始まる。 連続殺人鬼百舌がターゲットとするのはDNA情報を基にした女性たちだ。今ではDNA研究もかなり進んでおり、本書ではアルコール依存症、病的肥満、不眠症、パーキンソン病、喘息やその他多数の病気や不調を遺伝子情報から得られると書かれている。そしてそれらの情報を薬物療法や行動療法に活かしたり、製薬会社や健康食品会社、更には化粧品会社まで入手し、商品開発に活用して莫大な利益をもたらしているようだ。そんなDNA情報の中にはダーティー・フォーと呼ばれるDRD4遺伝子を持つ男性や女性は危険行動とセックス依存症の傾向が見られることも解っており、百舌はこのふしだらな女性たちに制裁を加えることを至上の悦びにしているサイコパスだった。 このような個人情報の漏洩がまかり通っているのはDNA技術がまだ早熟の分野であり、確とした法整備がなされていないことによる。アメリカでは遺伝子分析産業の規制を食品薬品局(FDA)に委ねられているがほとんどスルーだという。多分彼らにしてみればどこにも回せようにないことを専門外でもあるのに自分たちに押し付けられた思いがあるのではないだろうか。 なので上に書いたように気軽に自分のDNA情報を提供したりすると匿名であってもその他の情報から個人を特定できることが容易であるという。その被害を被ったのがマカヴォイが容疑を掛けられることになった犠牲者ティナ・ポルトレロで、彼女はハモンドによって流出された自分のDNA情報から、いわゆるセックス依存症の気があるとみなされ、バーで声を掛けた男がまるで自分のことを知っているかのように振舞われて怖い思いをしていたのだった。 今回衝撃的なのは警察でDNA分析をしている人間がその情報を悪用してセックス依存症女性たちを紹介する出会い系サイトを設営していたことだ。更にハモンドはレイプ犯の容疑を掛けられていたオレンジ・ナノ研究所の設立者ウィリアム・オートンのDNA情報をすり替えて彼の容疑を晴らす手伝いをしていた。 情報を使用する者は私欲に塗れず聖人でなくてならない。まさか法の番人である警察を信用してDNA情報を提供したのにそのように悪用されていたとは何も誰も信用できない世の中になったものだ。 本書によればDNA技術が発達したことでそのデータバンクを活用することで自分のルーツを探るビジネスがあり、そしてそれを利用する若者が増えているらしい。本書の犠牲者たちはそれぞれ生き別れの姉妹や遠縁の親戚を辿り、再会してSNSに挙げている。またどこから来た移民の子孫なのかを知るのに関心があるようだ。一方でその行為は両刃の剣であることも書かれている。犠牲者ティナの母親は娘が生き別れの姉を探し出したことで夫にも秘密にしていた若かりし頃の過ち、即ちその姉は彼女が未婚の時に産み、養女に出した娘が知られることになり、今は別居に至っている。世の中には知らなくてもいいことがあると思い知らされる話である。 確か90年代終わりから2000年代初頭にかけて自分探しが日本でひところブームになったが、アメリカでは2020年代の今、そのブームが来ているらしい。しかしその手法は20年前と全く異なり、実に科学的だ。しかし考えてみれば今NHKで『ファミリー・ヒストリー』というルーツを探る番組が放映されていることを考えれば日本も同じなのかもしれない。流行は20年で回ると云うがそれを象徴するようなエピソードだ。 そしてそのブームによって自分のDNAを提供する人々が増え、そしてそれを悪用する人々が現れる。行っていることは一昔前とは変わらないがネット社会になってからはそれは更に複雑化し、巧妙化されていることを思い知らされる今回の事件である。 それはつまり今はネットを無視してはリアルな犯罪小説、警察小説は書けないことを意味している。 そしてマカヴォイシリーズで忘れてならないのはレイチェル・ウォリングの存在だ。彼女はFBIを辞め、私立探偵業をしている。但し刑事事件は扱わず、身元調査などを主に行って経営は順調のようだ。 しかしマカヴォイがもたらした百舌事件が彼女のプロファイリング技術を呼び起こし、かつてのヒリヒリしたスリルに身を委ねた自分を思い出し、マカヴォイに協力を申し出るのだ。 新天地で新たなビジネスに踏み出し、そして成功したレイチェルも根っからの捜査官だったということだ。 そしてこの2人は運命の銃弾とお互いが認めているように付いては離れを繰り返す。私の経験上、結婚もしていない男女は一度仲たがいをすればそこからはそれぞれの人生を歩み、その後交わることはない。ふと思い出したように連絡を取っても未練の無い方は―主に女性の方だが―過去を懐かしみこそすれ復縁は望まない。 しかしレイチェル・ウォリングは違う。彼女はマカヴォイと何度も修復不能なまでの諍いを起こしながらも、本書では4年前のロドニー・フレッチャー事件でマカヴォイが情報源を明かさずに留置場に拘留されているのを彼女が明かして釈放されたエピソードがあるが、再会すればまたくっつく。今回もマカヴォイの家に何度も泊まり、愛を交わすぐらいだ。 これはお互いが独身であるからだろうか。正直自分の記事に固執し、周囲を不快に思わすほど自己顕示欲の強い彼をこれほどまでに愛する彼女の真意は解らない。いや周囲が理解できないからこそ2人は運命の銃弾という関係なのだろうか。 さてマイクル・コナリーがジャック・マカヴォイを主人公にした作品を定期的に著しているのは自身がやはり元新聞記者であることが大きな要因だろう。 かつては花形職業であった新聞記者がインターネットの普及で斜陽産業になっていることが悔しいからだろう。情報を簡単に得られる一方でしっかりとした裏付けや根拠を取らないまま、情報が垂れ流しにされ、フェイクニュースが蔓延し、それがゆえに誠意あるジャーナリストも含めてマスコミは十把一絡げで胡散臭い眼で見られていると本書でも述べられている。それは受け取り側の我々もキャッチーなニュースに飛びつくのではなく、その情報を咀嚼して真贋を見極める鑑定眼や思考力が問われているとも云える。 またマカヴォイの移ろいはそのまま新聞記者の現在を示しているように思える。 ジャック・マカヴォイはフェアウォーニングというニュース・サイトの記者になっているが、これもまた新聞記者の選択肢の1つだろう。そしてそのサイトの創業者マイロン・レヴィンはかつてLAタイムズ時代のマカヴォイの同僚だ。 ところで今回マカヴォイが所属するニュース・サイト、フェアウォーニングは作者あとがきによれば実在し、創業者のマイロン・レヴィンは実在し、そして作者は取締役会の一員だとのこと。やはりこのことからもマカヴォイシリーズはコナリーの新聞記者へのエールだ。 しかしこのサイト名は本書の原題でもある。“まっとうな警告”という意味であるこのサイト名をそのまま小説の題名に持ってくることで読者への宣伝をもしているのだ。コナリーのやることは本当に卒がない。 更にこのシリーズのコナリーが示すのは今後のジャーナリストの新たな道筋の1つだ。 今回の百舌事件でニュース・サイトのフェアウォーニングを退社し、百舌逮捕のための情報を募る『マーダー・ビート』というポッドキャストを立ち上げたマカヴォイはそこで11年前に誘拐され、殺害された姉妹の事件の調査を依頼してきたことをきっかけに未解決事件にレイチェルと組んで再調査に取り組むビジネスを提案する。ネット社会の情報の波に押しやられた新聞記者の、ジャーナリストのある意味逆襲と云えるだろう。 そして事件捜査という新たなフェーズに活路を見出したジャック・マカヴォイのシリーズは今後も続きそうだ。 |
No.1616 | 8点 | 暗約領域 新宿鮫XI- 大沢在昌 | 2025/03/18 00:27 |
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新宿鮫第11作目。正直私は10作を以てこのシリーズは終わるかと思っていただけに意外だった。
巻を重ねるごとにシリーズの主要人物が1人また1人と幕引きしていき、10作目ではとうとう長らく付き合っていた晶との別離と、孤高の鮫島の唯一の理解者である上司の桃井課長が殉職するに至っては全てが終わった感じがしたものだが、11作目が出た。そしてこの11作目は新たな新宿鮫の幕開けとなった。 新宿鮫Rebootといった感じだ。 ヤミ民泊施設でたまたま出くわした殺人事件が捜査を進めるうちにどんどんスケールが大きくなっていき、そして利害関係者が雪だるま式に増えてくるストーリー展開は大沢氏の構想力の凄さを思い知らされる。しかし大沢氏は結末までを決めて書くのではなく、書きながら結末を考えるスタイルであるらしい。最後まで読むとその複雑さにゆえに本当に書きながら考えたのかと再度驚かざるを得ない。 ところで本書はある意味、人生を考えさせられる物語でもあった。悪事に手を染め、もしくは詐欺に嵌められ人生の転換を余儀なくされた者たちのオンパレードだ。しかし不思議と彼らの人生は没落者の末路といったような悲惨さを感じさせない。 詐欺麻雀に関与していた元構成員保富武はラーメン屋で修業し、独立して行列のできるラーメン屋としてまっとうな堅気の人生を歩んでいる。 石森芳範は賭け麻雀詐欺を働いていた遠藤と癒着して「袖の下」を貰っていることがバレそうになって四谷署から赤坂署を移り、そして退職した元刑事だが、広域暴力団の田島組の元若頭の権現の世話で運転代行業に身をやつし、キャバクラ嬢の『宅送り』をして生計を立てている。 その石森と癒着していた遠藤はスナックの店長から高額カジノの店長を経て、今や女性に薬中にし、一俵海という暴力団の組長に回すスケコマシで高級外車を乗り回す身分だ。 そして遠藤によって詐欺麻雀で多額の借金を抱え、自前のマンションをそのカタに取られた呉竹宏はそのマンションが権現によってヤミ民泊施設に仕立て上げられているのを知らずに暴力団の名が表ざたにならぬよう建物の名義だけは残されているが、自身は横浜の桜木町で権現によって与えられた雀荘のマスターとして生計を立てている。家族は既に離縁しているがその生活に満足し、自分が詐欺に遭って資産を騙し取られたことを知っても、その主犯である権現らを恨まず、むしろ感謝までして現在の生活に満足している。 つまり通常であれば犯罪に手を染め、もしくは詐欺に嵌められ借金のかたに私財を略奪された人生の落伍者たちなのに、なぜかその人生には悲壮感が漂うわけでなく、逆にそれまで自分の身に余る派手な生赤津を一旦リセットしてそれなりに自分の身の丈に合った生活をしているように感じられるから不思議だ。 一方で東大に入りながらも中退し経済やくざの道を歩んだ浜川は高級マンションと高級外車、そしてブランド物に身を固め、一見成功した実業家のように見える。敢えてセレブな生活をすることで一般人に紛れて警察の目から逃れている。暴対法により目を付けられ、行動を制限され、泥棒や強盗に手を染めるチンピラのような者もいれば優雅な生活を満喫しているのが暴力団の世界だ。 本当に色んな形の人生を見せられた思いがした。 そして前作でも感じたが、最近の新宿鮫は国内外のミステリの本歌取りをしているように思える。 前作『絆回廊』はチャンドラーの『さらば愛しき女よ』を彷彿とさせるし、今回は向かい側のマンションの録画に殺人シーンが映っていたことからアイリッシュの短編「裏窓」だろう。 あとやはり新宿鮫とマイクル・コナリーのハリー・ボッシュシリーズとの共通点が見られることに作者自身も自覚的のように思える。 ハリー・ボッシュはよくニーチェの格言「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」を引き合いに出すが、本書の最後、鮫島も自分が見張っていたKSJマンションの「402」から自分が監視をしていた向かい側のマンションを見つめて、そこの闇の中に自分を見返す目があるような錯覚を覚える。ハリー・ボッシュの方が後発だが、やはりボッシュと鮫島はお互いローンウルフで通常の捜査方法から逸脱して事件を解決する傾向があることなど共通点が多い。新宿鮫も英訳出版されているが、コナリーがそれを読んでいるかは不明だ。しかし少なくとも大沢氏はコナリー作品を読んでいるのではないだろうか。両作のシンクロニシティの高さから考えるとそう思いたいが、果たしてどうだろうか。 いやミステリだけではない。今回神田の古本屋「栄古堂」の主人で元公安の黒井によってお膳立てされた鮫島と宿敵香田との会見は薩長同盟の一幕を想起させる。 前作『絆回廊』に登場した陸永昌と鮫島の因縁はまだ続くようだ。かつての仙田こと間野総治のようにしばらく鮫島のライバル的存在になるようだ。 いやそうではない。鮫島は陸永昌を筆頭に祖国を持たないがゆえに警察官を殺す事も厭わない無頼派集団「金石」を相手にこれまで警察という庇護が効果を持たない戦いを強いられることになるのだ。 ともあれ新生新宿鮫の幕開けだ。腐れ縁の鑑識の藪と、そして鮫島の強引な捜査方法に眉をひそめながらも彼の実力と状況分析能力の高さを認める新上司の阿坂景子とのチームで今後鮫島は宿敵陸永昌との戦いと警察組織の軋轢と戦っていくことになるだろう。 彼の友人が遺した爆弾文書についても今後明かされる機会があるかもしれない。 まだまだ鮫島の眠れない夜は続きそうだ。 |
No.1615 | 8点 | スマイリーと仲間たち- ジョン・ル・カレ | 2025/03/09 01:27 |
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いわゆるスマイリー三部作の掉尾を飾るのが本書。英国情報部“ケンブリッジ・サーカス”にもぐらビル・ヘイドンによって壊滅的な大打撃を与えたソ連情報部の工作指揮官カーラとスマイリーとの戦いに終止符を打つのが本書である。
実に読みやすい。そして物語の流れが実に頭に入りやすい。今までの難解さは一体何だったのかと思わされるほどその展開はストレートであるように思えた。 冒頭の一介の老いたるロシア人女性から元英国スパイへ繋がり、そして彼が殺されることでスマイリーの復活へと繋がる。まさに映画を観ているかのような展開だ。この一連の流れが実に素晴らしい。 諜報の世界で生きてきた人々は運よく任務中で命を喪うことなく生きながらえても年を取れば厄介払いされ、決して悠々自適な生活が約束される者ではないことを思い知らされる。 それはスマイリー自身もさることながら彼の仲間や同僚も同様でそれぞれの境遇に変化がある。三部作の第1作で中心人物の1人だったトビー・エスタヘイスは既に引退し、ベナティと名乗って画廊を経営している。しかし彼はスマイリーの要請で今回カーラとの戦いに一役買うことになる。 彼はどんな人物に対しても決して自分の腹の内を明かさない。質問に対して沈黙で答えることが多々ある。しかしその沈黙こそが彼を一流と呼ばわしめる特質だろう。例えば元工作員ウラジーミル殺害事件の主任警部はスマイリーの沈黙に対して不愉快には思わず、寧ろ彼には沈黙の才があり、更には様々な顔を持つ修道士団であると評するほどだ。 そして彼の言葉もまた含蓄に満ちている。諜報の世界で永らく過ごしていた彼は怖いのは敵ではなく、味方だと呟く。この世界の厳しさと無情さを肌身に感じさせる言葉だ。 常にのめり込まず、冷静に身を引いて客観的に物事を見つめ、そして必要でないことは決して声に出して云わない。私は彼にプロ中のプロの姿を見る。 インテリジェンスを操り、英国政府や米国政府を撹乱させ、決して尻尾を掴ませなかった男が娘への愛情という理屈や論理で割り切れない感情によって正体を現わさざるを得なくなったというのは何とも皮肉だ。情報を操るのも利用するのも細工するのも結局は人間がやること。つまり人間の感情や欲望を揺さぶることが諜報の世界では実に有効打となるのだ。 諜報の世界は国のため、任務のためには自分の命さえも顧みない非情の世界だが、このスマイリー三部作を読むと全てスパイは女性への思慕にほだされ、自滅している。実は人間臭い世界なのだということをル・カレは語ってみせたのだ。 しかし長きに亘って繰り広げられたその戦いの結末は実に静かだ。カーラとスマイリー、2人の宿敵は相まみえても一言も交わさず、カーラは連行される。カーラが昔彼から奪った妻アンから自分への愛のメッセージが入ったライターを持参していた。そのライターは確保の瞬間にそれが路上に落ちる。スマイリーはそれを拾おうとするがしかし結局そうはしなかった。そのライターこそが全てを語っていたのだろう。 最後スマイリーはピーター・ギラムに「あんたの勝ちだ」と云われるが、彼は「うん、そうだな、そうかもしれない」と応えて終わる。彼は本当に自分が勝ったのか解らなかったのだ。 20年前にインドのデリーの刑務所でこちらの側に着くよう説得したゲルストマンというソ連の捕虜が後のカーラだった。その時にいつの間にか奪われたライター。彼は説得に応じず沈黙で応え、そして本国に送還されたが通常裏切り者として粛清されるはずがされずに現在に至った。そのライターから当時凄腕のスパイだった男の弱点を握り、そしてビル・ヘイドンという男をスパイとしてサーカスに潜り込ませたのだった。 その時からスマイリーはもう既にカーラに負けていたことを自覚していたのかもしれない。そしてカーラが捕獲されるその時までそのライターを持っていた事実を知り、スマイリーはずっとカーラの掌の上にいたのではないかと思ったのかもしれない。だから自分が勝ったことに確信が持てなかったのではないだろうか。 また別居中の妻アンはビル・ヘイドンとの愛人関係が終わった後も他の男の許で暮らしているが、実は彼女はスマイリーと寄りを戻したがっていることが作中でもたびたび出てくる。全てが終わった今、スマイリーは彼女との寄りを戻すのだろうか? 彼女との思い出の品であるライターを拾わなかったことがその疑問の答のように思える。 3作に亘ったスマイリーとカーラの対決は諜報戦という試合には勝ったが、アンを巡る勝負には負けた、そんな風に思えた結末だった。 |
No.1614 | 7点 | ドリームキャッチャー- スティーヴン・キング | 2025/03/02 02:16 |
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4分冊で1,400ページを誇る本書はいわば21世紀の、いや、0年代の『IT』と云えるだろう。というのも本書の主人公たちは4人の少年達であり、かつて5人目の発達障害の仲間からそれぞれ特殊な能力を得た男たちだ。この構成が“IT”に立ち向かった7人の男女という構成と似ている。
その5人の仲間たちが今回立ち向かうのは宇宙人。しかもよくミステリー雑誌やオカルト雑誌、UFO特番などで引き合いに出されたグレイ、そうあの吊り上がった大きな目をした華奢な手足を持つ小人のような宇宙人である。 しかし本書は『IT』とは違い、この4人組+1名が力を合わせてグレイと立ち向かうかと思えばそうではない。この5人のうちビーヴァーとピートは物語の前半で早々と姿を消す。 最初私はなぜこのようなキングにしては珍しく、人口に膾炙するグレイという宇宙人やUFOを今回採用したのかと疑問を持っていた。 その答えは本書を読み進めていくと腑に落ちた。本書は長きに亘ってその存在が噂されていたグレイとの地球の支配権を巡る最終戦争の物語だからだ。 しかしその攻防は単なる宇宙人と人間という単純な戦いの図式ではない。ジョーンジーはなんとミスター・グレイに憑依され、身体を乗っ取られる。そのミスター・グレイはカーツの部隊によって壊滅状態になり、たった1人の生き残りとなった宇宙人だった。 このミスター・グレイは生存を賭けて犬の体内に宿らせたバイラムを貯水池に放つことで水中で菌を繁殖させ、それを飲料水として人間に飲ませて彼らの仲間を繁殖していた。 さて題名になっているドリームキャッチャーはそもそもアメリカの先住民の装飾品で円い輪の中に蜘蛛の巣が張っているような意匠で羽で装飾されたもので日本でも雑貨店で売られているからご存じの方も多いだろう。その形は蜘蛛の巣で悪夢を捕らえて防いでほしいという願いが込められている。 あの「ペニー・ワイズはまだ生きている!」のメッセージは『IT』再来の予兆なのか。25~30年周期で蘇るIT。1985年に斃されたIT。さて彼が蘇るのがこの周期によれば2010~2015年である。次の『IT』は既にもう書かれているのだろうか。 しかしそれよりも『IT』を上梓した時点でキングは作家生活11年目。それから25~30年と云えば36~41年であり、それを既に超えても旺盛な創作活動を続けているこの作家の凄さに圧倒されてしまう。そしてリアルタイムで25~30年以上のブランクのある設定の話を書けること自体が驚きを禁じ得ない。 凄い作家に手を出してしまったなぁ。っこは腹を括って全作品読んでいくことにしよう。 |
No.1613 | 7点 | ブラック・スクリーム- ジェフリー・ディーヴァー | 2025/02/27 00:42 |
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リンカーン・ライム、イタリアへ!
しかしこれがライム初の海外出張ではない。『ゴースト・スナイパー』で一度バハマに行っている。ただその時は一時的なものだったが、本書では開巻後80ページ弱で舞台はイタリアへと移る。そこからほぼ全編イタリアが舞台となる。 イタリアでは同じ先進国でもあり、捜査技術はアメリカと遜色なく、対等に渡り合う、いや最初は海外の捜査官が事件捜査に携わることは例外的だと云って警部のロッシはやんわりと、検事のスピロは厳格に断る態度を見せる。 特にスピロは自身のテリトリーを余所者に荒らされたくないとばかりに、現場に行こうとするサックスに対する風当たりを強くする。 しかし読み進むうちになんとイタリアの警察がライムが書いた書物を研修で教科書として使用しており、実はライムを尊敬している捜査官、特に鑑識員が多いことが判ってくる。 更に面白いことになんとライムシリーズ第1作の『ボーン・コレクター』がイタリア語に翻訳出版されており、そのファンであるレストラン夫妻からサインを頼まれるシーンがある。イタリア語訳版があるのは本当でこれは作者ディーヴァーが経験した事だろうが、まさか主人公本人がサインに担ぎ出されるとはディーヴァーも憎い演出をするものだ。 なんといっても一番キャラが立っているのはエルコレ・ベネッリだろう。元々は森林警備隊巡査だが、たまたまトリュフ泥棒の取り締まり現場がイタリアで最初のコンポーザーの被害者拉致現場に近かったことで目撃者に駆り出される。この事件捜査を足掛かりにナポリ警察への転属を果たそうと意気込んでいる。 有能ではあるが、情報マニアの傾向があり、知っていることを話さずにはいられない質でそれが時にライムや検事達をイラつかせたりもする。我々の周囲に1人はいる、いい人なんだけどちょっと面倒なタイプである。 さて今回ライムがこれらナポリ警察の面々と共に相対する異常犯罪者はコンポーザー。英語で作曲家を意味するこの犯人は被害者を捕まえて拷問にかけ、苦悶に歪む声をクラシック音楽にサンプリングしてそれをBGMに拷問の様子を動画サイトに挙げて公開する異常者だ。 彼は常に〈漆黒の悲鳴(ブラック・スクリーム)〉に悩まされている。それは歯医者のドリルのような甲高い悲鳴らしい。彼が人間の悲鳴で奇妙な音楽を作曲することでこの悲鳴から逃れられることができるのだ。 ちなみに邦題は彼を悩ませるこの謎の悲鳴から取られている。 さて本書の真相は実に意外だ。これまでのシリーズを覆す展開を見せる。 今回のコンポーザーによる一連の拷問はなんとISISのテロリストを炙り出すためのフェイクだった。 ターゲットの連続殺人鬼が実は政府側の工作員だったのがこれまでとは違う結末だが、さらに面白いのはコンポーザーが残りのテロリストの炙り出しの捜査に多大なる貢献をするところだ。音のエキスパートである彼は過去の携帯電話の通話の録音から背後の音を聴き取り、場所の特定のためにかなりの材料を提供する。標的が味方に転じてライムたちの捜査に協力するのは今までになかった展開である。 しかしこのシリーズもこれほどまでにスケールが大きくなったとは感慨深いものがある。これまでは連続殺人鬼対四肢麻痺の鑑識の天才という悪対正義の勧善懲悪の単純な図式で展開していたのに、本書ではとうとう自身の携わった捜査でアメリカ政府の秘密機関まで接触することになり、その組織が超法規的組織ゆえにこれまでのように物的証拠を基に犯行を暴いても、隠密裏に抹消されてしまう。 さてもはやこれまでの警察捜査が通用しない相手にまで到達し、そして逆にライムはその組織からスカウトされるまでにもなる。今私はル・カレ作品を並行して読んでいるが諜報の世界ではそれぞれの政府の、国際社会のイデオロギーで判断が下され、複雑化し、どれが悪でどれが正義か判らなくなっている。ライムシリーズもとうとうその領域に達してしまったのかと思うと、正直気持ちは複雑だ。 さて本書には最後に「誓い」という短編が特別収録されているが、これは『ブラック・スクリーム』の物語の最終で彼らが挙式を行うことになったコモ湖が舞台となっており、式を挙げたその後が描かれている。 さて本書で長きに亘るパートナーの関係からめでたく結婚に至って夫婦の関係となり、より絆を強めることになったアメリアとライムの2人。そして前述のように本書の最後には存在しない諜報部門AISから科学捜査チームの顧問としてスカウトされるに至った。 何事にも始まりがあれば終わりがある。そして本書ではその兆しとしてシリーズファンが望んだアメリアとの結婚が成就した。つまりは1つのゴールに達したわけだ。まずは素直におめでとうと云って結びたい。 |
No.1612 | 7点 | スクールボーイ閣下- ジョン・ル・カレ | 2025/02/07 00:30 |
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スマイリー三部作の2作目の本書は上下巻820ページ弱の大著だ。そして1作目もなかなかにハードだったが、本書はさらに輪をかけて難しい。
物語は前作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から引き続いて始まる。前作でビル・ヘイドンというソ連の二重スパイの存在によって大打撃を受けた英国情報部“サーカス”は立て直しを図るべく、引退したジョージ・スマイリーを復職させる。 スマイリーが着任後、即手掛けたのはサーカスを崩壊の危機に陥れたソ連情報部の重鎮カーラへの復讐だ。彼はビル・ヘイドンが携った諜報活動の記録を遡行してカーラの弱点を探ろうとする。 スマイリーはその任務のために半ば組織から追い出されるように引退していた車椅子のソ連調査の専門家コニー・サックスを呼び戻し、更に中国調査の専門家ドク・ディサーリスを仲間に加え、カーラ復讐への第一歩である“ドルフィン”作戦を立ち上げる。それはビル・ヘイドンの過去の足取りを遡行することでカーラの攻撃開始点を突き止める作戦だ。 そして執念の調査の結果、スマイリーたちはパリから東南アジアへ通ずる送金ルートを発見する。そしてその金の受取人が香港の実業家のドレイク・コウ。そこへスマイリーが調査のために臨時工作員ジェリー・ウェスタビーを派遣するのだ。 そしてこのジェリー・ウェスタビーこそが本書の題名となっている“高貴なる”スクールボーイなのだ。ロンドン臨時工作員課程を受けながらも正式採用されず、そこをスマイリーに拾われた野心あるお坊ちゃまである。 さて今回の舞台は香港だが、中国人の残酷さを存分に思い知らされるかの如く、報復の連鎖が続く。ウェスタビーが核心に迫るほど屍の山が築かれる。 ジェリー・ウェスタビーの任務はやがてこれら既に死者として扱われていた人々の足跡を辿り、モスクワが援助した麻薬による国家撲滅計画の詳細と隠された金の流れとドレイクを隠れ蓑にして暗躍するソ連の“もぐら”ネルソンを捕らえることになった。 しかしやはりル・カレは難しい。物語の骨子を理解することとそれぞれのエピソードを繋げることがなかなか頭の中でピースが嵌るが如く埋まっていかない。 そして上の物語の流れを書くために内容を振り返るに至って、そこここに伏線が書かれていることに気付かされるのだ。 物語の後半はこのジェリー・ウェスタビーによる単独行が中心となる。ジェリーはやがてリカルドとコンビを組んで麻薬密輸を行っていたチャーリー・マーシャルという男の存在を突き止め、香港からベトナムに渡る。 私は本書がゴールド・ダガー賞を受賞した要因の1つはこの戦下のベトナムを見事に活写したからではないかと思っている。それほど本書におけるジェリーのベトナム行は迫力とリアリティに満ちている。 例えば最初に空港に民間機で降り立つシーンでのジャングルからの小火器の乱者を避けるために旋回コースを取りながら着陸する内容にまず度肝を抜かれ、現地に派遣されたマスコミの特派員は臨時の通信員を雇っているが1週間の1人の割合で死んでいるとのこと。 また外交官によって催されたパーティーでは参事官の公邸が会場でありながらも近いところで機関銃の銃声が轟き、ロケット弾が着弾し、遁走する単発機の爆音が鳴り響く。そんな中を“高貴なる”人々はそれらを肴に美味しい料理とお酒を愉しむ風景が描かれる。もはや彼らは正気なのか狂気なのか判らない。いや寧ろタイタニック号に乗っていながらいつ沈んでもその運命を受け入れる乗客のように見えるのである。 しかし何よりも一番謎めいているのが主人公のジョージ・スマイリーだろう。ずんぐりとした小男で決して目を引くような存在でない―即ちスパイにとって最良の外見を持っているわけだが―この男はしかしこれまで歴戦の諜報戦を渡り歩いた凄腕スパイであることがその口から出る言葉の端々から窺える。 しかし作者ル・カレはあまり彼の心情を描かない。特にサーカスでの会議や今回作戦を協同して行うことになったカズンズとの会議では沈黙を以て接し、なかなか発言に至らない。 諜報の世界は男の世界だと思われるが、実はそれに携わる工作員たちは女性によってその身を滅ぼす。 ル・カレはフレミングが創造したジェームズ・ボンドのようなスーパーヒーロー的なスパイから脱却し、スパイもまた1人の人間であり、その任務が辛く、長いものであることを自身の経験を加味して実状をリアルに描き、国家間のイデオロギーによって運命を左右される哀しき存在として描いたとされているが、ボンド作品に毎回彼と行動を共にするボンドガールがいるように、ル・カレの小説にも毎回そこには女の影がある。特に存在感が顕著なのはイギリス人女性リジー・ワージントンだ。本書の主人公ジェリー・ウェスタビーは香港のソ連のパイプ役ドレイク・コウの愛人である彼女に魅了され、彼女を欲するがあまりに任務を逸脱し、最終的にはその身すら滅ぼしてしまった。 しかしスマイリーのカーラへの復讐はまだ続く。本書の結末はまだ途上に過ぎない。再び一線から退けられたスマイリーがいかにソ連の大物カーラと対決するのか、気になるところだ。 |
No.1611 | 8点 | アトランティスのこころ- スティーヴン・キング | 2025/02/01 01:22 |
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これはなんと評したらいいのだろう。読書中、常にそのことが頭を過ぎった。上下巻併せて1,120ページ強の本書はこれまでの作品と異なり、上下巻それぞれで主人公が異なり、また物語のテイストそのものも異なる構成となっている。
上巻は1960年のコネチカット州のハーウィッチを舞台にした母子家庭であるボビーとリズのガーフィールド親子のアパートにテッド・ブローティガンという老人が引っ越してきて息子とこの老人との交流と別れの物語が描かれる。実はこの老人はある特殊な能力を持った人物で追手から逃れてハーウィッチにやってきたのだが、その追手に見つかって連れ去られ、その後のボビーの成長とその後老人が追手の許から再び脱出したことが判るまでが語られる。それまでが上巻で下巻はそのボビーを主人公に据えた物語が始まるかと思えば、一転して1966年のメイン州立大学を舞台に語り手もそこの学生ピート・ライリーへバトンタッチして別の物語が始まるのだ。 更に物語は1983年のコネチカット州に移る。そこではビル・シーアマンという謎めいた男の物語が始まる。この男は実は上巻に登場するのだが、それはまた後で触れよう。 そしてまた時は流れ1999年のコネチカット州。この章はジョン・サリヴァンの回顧録のような話である。 これらそれぞれの時代と場所、そして各章のメインの登場人物に共通する存在がヒロインのキャロル・ガーバー。 読み終えて思うのはこれはキャロル・ガーバーという実に魅力的な女性の半生記をだったということだ。 これは在りし日の喪失と再生の物語だ。 かつて思いのまま生き、何でも話せる仲間がおり、お互いが打算や駆け引きなどせずに時間を共有していた純粋無垢な黄金時代が誰しもあったことだろう。本書はそんな眩しい日々が人生が長じるにつれて失われていく哀しみを、心の痛みをそれぞれの立場と人生の道程で語った物語だ。 そしてその輝かしい日々を失ったそれぞれの人生が転落しているのが何とも痛ましい。 従って本書は年を重ねれば重なるだけ、胸に痛切に迫るものを感じるだろう。読者もまた同じように人生を重ね、本書に書かれたボビー・ガーフィールドやピート・ライリー、ウィリー・シーアマン、そしてジョン・サリヴァンの思い出に自らのそれを重ねて甘くて苦い思いを抱くに違いない。少なくとも私はそうだった。 『アトランティスのこころ』という一風変わった不思議な題名の本書ではしかし、アトランティスが登場するわけではない。あるサイトによれば原題“Hearts In Atlantis”の“Hearts”は「こころ」ではなく、ピートの学生時代に流行ったトランプゲーム、ハーツのことで、しかもアトランティスは彼らが住んでいる寄宿舎の隠喩らしい。 しかし私はアトランティスはいわば象徴なのだと捉えた。それは“失われた大陸”もしくは“失われた楽園”を意味する。原題が示すように、アトランティスに置いていった心、すなわちもう戻れないあの頃の思い出を指す。 本書を読みながら自分も色んな思い出が蘇った。 私は惚れやすく、クラス替えがあるたびに好きな女の子が変わっていった。しかし当時恥ずかしがり屋で奥手の私はその誰にも告白はできなかった。 唯一友人に騙され、好きな女の子の名前を云った時に、自分が風邪で休んだ時にクラス中にそのことがバラされたことがあり、その子が凄い剣幕で迷惑だと云わんばかりに私に詰め寄ったことがあった。 社会人になって女性の飲み友達が出来て、その娘が会社の後輩を好きになったから付き合えるよう手伝ってほしいと頼まれたので、そうしていたらいつの間にか自分の方が彼女を好きになっていたこともあった。 そんな色んなほろ苦い思い出が次々と蘇った読書だった。 みんな私のキャロル・ガーバーだった。 しかしキャロルと違い、その中の1人とてメディアに出るようなことは、今に至ってもない。だから近況は全然判らない。 もし私のキャロルの1人に遭えたのなら、どんな顔をして私は対面するだろうか。どんな感じに話をするだろうか。 ボビーやキャロルのようにお互い年を取ったよね、とそんな風に自然に話せたら、もうそれは恋の、そして思い出の終わりだろう。 そんな日が来ることは叶わないだろうけど、どうかみんな元気でいてほしいと切に思う。 何ともセンチメンタルな物語だな、これは。まいったよ、全く。 しかし何とも美しい物語ではないか。この物語にはオールディーズが似合う。 ただ私の頭に流れているのはニール・セダカの“Oh! Carol”ではない。だから私は最後のキャロル・ガーバーの変えた名前がデニース・シューノーヴァ―であることに不満だ。 キャロルの名前は最後はダイアナであってほしかった。私の頭の中に最後に流れるあのメロディ、それはポール・アンカの“Diana”だった。これぞボビーの最後の想い。 “Oh, please stand by me, Diana” |
No.1610 | 7点 | λに歯がない- 森博嗣 | 2025/01/26 23:31 |
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これまで煮え切らない真相にもやもやしていた読後感をこのシリーズでは抱いていたが、今回初めてミステリとしての謎解きがストンと腑に落ち、カタルシスを感じることが出来た。
建設会社の研究所内で密室状況の中、4人の射殺死体が発見される。その身元はいずれも研究所の人間ではなく、いずれも50代以上の年配者でしかも全員歯が抜かれ、ポケットには「λに歯がない」と謎めいたメッセージが書かれたカードが入っていた。 本書の事件は上のたった4行で纏められるシンプルな物。 今回はこの被害者全員の歯が抜かれていた奇妙な状況と「λに歯がない」という奇妙な言葉にも明快な答えが―物語ではそれも一応は想像の範疇に過ぎないとされてはいるが―示される。しかもそれらは思わずハッとさせられる本格ミステリが持つ独特のカタルシスを伴って提供される。 その事件の真相に気付くまでに西之園萌絵と犀川は事件について語るうちに死について語るがこれがまた興味深い内容だった。それは次のような内容だ。 例えばもっと生きたいと願って治療を続ける人ともう生きたくないと自殺を選ぶ人の理由のレベルは同じで、なぜなら自然の摂理に逆らおうとする行為をどちらも選択しているからだ。しかしそれでも死はその時点で終わりであるのに対し、生きようと抗うのは継続するという意味で上位である。 そして人間誰しも生きたいと願っているわけではなく、死を選ぶ者もいれば人を殺したいと思う人もいる。そして生きている人は自殺を保留している人だとも。人はいつでも死を選ぶことが出来るからだ。長生きは選択肢ではあるが必ずしも叶うわけではない。 そしてここから犀川は真賀田四季は我々凡人のように死を選ぶ自由という発想から永遠の生を選ぶという発想、つまり死んだ人間をもう一度生かすという発想をするだろうという考えに至る。 これはまさに百年シリーズへの兆しではないか。ここからあのミツルへ繋がっていくのか。しかしそれはまだ当分先の話のことだ。 そしてこのGシリーズでは先に述べた真賀田四季の影が常に事件の裏側に見え隠れしているが、本書では逆に今回の事件が四季が関わったものではないと各務亜樹良と思しき女性が登場し、赤柳と話す。そしてその際、なぜ警察が真賀田四季を捕らえることが出来ないのかについて彼女はこちらは分散型で事件を防ぐ側は集中型だからだと説く。 つまり1つのチームとして動いている警察はそれぞれのチームがやるべきことを把握して独立して動いている真賀田四季側が複層的に起こす事件の対処に叶うはずがないと。 しかしこれはやはり真賀田四季という圧倒的なカリスマがいるからこそ成り立つのだろう。 自由度をそれぞれのチームに持たせながらも決してベクトルを逸脱することなく、また妙な野心を持って下剋上を成し遂げようとすら思えないほどの圧倒的な天才性を放つ彼女だからこその分散型組織ではないか。 被害者全員の歯が抜かれていたのはこの田村香への復讐ゆえだ。そして謎めいたメッセージ「λに歯がない」のλ(ラムダ)は田村の逆さ読みだった―これは萌絵の憶測だが、正解だろう―。 そして今回最も不可解な謎だったのがセキュリティシステムで出入りを管理されていた研究棟に入った方法なのだが、これも実に鮮やかに解き明かされる。 事件のあった建物は免振構造になっており、30cmぐらい建物が移動するのだが、この構造を利用して油圧ジャッキで建物を動かして隣接した建物との隙間を広げ、窓から侵入したのだった。 いやあ、これはもう建築を専門にしているからこその密室事件であり、自分も同類だからこそこの真相には感服した。 いやはやこの一連の謎解きには建築に携わっている人には実に堪らない真相だった。正直これまでのシリーズで一番面白いと感じた。 ただやっぱり謎は謎として残して物語は閉じられる。 例えば今回は一連のギリシャ文字が付随していた事件に見せかけた、研究所々長による偽装工作が施された事件だったが、それを一連の事件とは関係ないことを公表するために赤柳が公安から駆り出されたり、海外に逃げていた保呂草が隠密裏に日本に戻って逢った葛西という人物についても謎のままだ。やはりこれらはシリーズ読者が理解できるようになるにはシリーズ最終作を待たないといけないということか。 しかし真賀田四季の息の掛かっていない事件が一番腑に落ちたというのは何とも皮肉だ。それは私のような凡人には天才の意図が容易には判らないということなのか。 それならそれでも構わない。これくらいのミステリが私には性に合っているようだから。 |
No.1609 | 7点 | ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ- ジョン・ル・カレ | 2025/01/19 00:40 |
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これは有名なキム・フィルビー事件を題材にした作品である。イギリス秘密情報部(MI6)で長官候補にも挙げられる上位職員でありながら「ケンブリッジ・ファイヴ」と呼ばれるソ連がイギリス上流階級出身者で形成したスパイ網の中の1人だ。
本書発表当時の1974年ではル・カレはまだ自身が英国情報部の元職員であったことを否定していたが、今回の新訳版は訳の刷新だけでなく、ル・カレが1991年に書いた序文が付せられており、当時の創作の裏話や彼の英国情報部員時代のことが書かれている。その中には題材にしたキム・フィルビーやKGBのスパイ、ジョージ・ブレイクのことを語っているが、ル・カレ自身はキム・フィルビーに会ったことがないまでも、彼はブレイクには異様に共感したものの、フィルビーに関しては自分に似すぎているため、嫌悪感を覚えたという。彼はフィルビーに別の自分を見出したようだった。 またこの序文には今では普通に使われるようになった諜報世界での隠語の数々が出てくるが、なんとその中にハニー・トラップがあるのを初めて知った。つまり今でこそ一般的にも使われるハニー・トラップはなんとル・カレによって生み出された隠語だったのだ。 ちなみに本書では“色仕掛け(ハニー・トラップ)”と表記されている。そんな背景から考えると本書はいわばスパイ小説の文化を創った始まりの書と云っていいだろう。 内容はかなり詳細で膨大な数の登場人物が現れ、しかも内容も色んな方向に飛んでいくため、なかなか頭に入りづらかった。ル・カレ作品は手強いと云われているが、それを初めて実感した。 作中、ついに二重スパイ、ジェラルドの正体がビル・ヘイドンと解った時、耳をそばだてて会話の一部始終を聞いていたピーター・ギラムが胸に憤怒を滾らせるシーンがある。モロッコで惨殺された工作員たち、追放され、どんなに努力しても挫折ばかりの日々で若さが指をすり抜けるように失われていく。索漠感に常に囚われ、愛すること、楽しむこと、笑うことが出来なくなってくる。 生きる指針にしている事柄が腐食し、自らに抑制を強いて尽くしてきた。そんな思いが彼の胸に次々と去来し、裏切り者のビルへ全て叩きつけたくなる。 このギラムの想いはそのまま作者ル・カレの想いと云っていいだろう。 ル・カレ作品だが、それらを読んで感じたのは結末の余韻が実に抒情的なことだ。 スマイリー三部作の1作目と云われる本書は『寒い国から帰ってきたスパイ』よりも評価が高く、代表作こそコレだと推す人もいる。 正直ル・カレの作品は読後は感嘆はするものの、世評と自分が抱く感想との温度差に戸惑うこともままだ。 しかしこのように感想を書くために物語を再度繙いていくとそれまで見えてなかったものが見え、そしてそれがまた物語全体と最後の結末の余韻を色濃くさせ、しばらく心に留まり続けるのだ。 |
No.1608 | 7点 | 薔薇の殺意- ルース・レンデル | 2025/01/15 00:38 |
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私がレンデル作品を初めて読んだのが1998年。ウェクスフォード警部シリーズ第7作の『ひとたび人を殺さば』だった。それから23年(当時)を経てようやくシリーズの第1作を手にすることが出来た。ただ訳者あとがきによればウェクスフォード警部シリーズの邦訳紹介はその『ひとたび人を殺さば』だったようで、本書はシリーズ第2弾として出版されたらしい。
私は『ひとたび人を殺さば』を傑作だと思っており、恐らくはシリーズ訳出の試金石としてそちらが先に発表されたのだろう。日本の翻訳出版事情はこのようにシリーズの順番関係なく評価の高い作品から訳出される傾向にあるが、これは作者の作品を刊行順に読みたい私にとってあまり歓迎したくない風潮だ。 この有名なシリーズのデビュー作にしては実に事件は地味である。 地味な一人の女性の死。その犯人は正直現代ではさほど意外なものではない。寧ろ途中で私は犯人が解ってしまった。 本書が書かれたのは1964年。現在ジェンダーフリーが提唱され、認知はされつつあるがなかなか同性愛に理解が示されない世の中である。 つまりまだ女性を愛するのは男性であるという固定観念が強かった時代に本書の犯人を敢えて同性愛者に据えたことが斬新だったのだろう。 本書は二項対立による先入観と時の流れによる人の変遷について書かれた作品であることが最後に判る。 二項対立とは被害者であるマーガレット・パースンズと彼女の遺体の傍に落ちていた口紅の持ち主ヘレン・ミサル、そしてミサル家の専属弁護士クォドラント夫妻の妻フェイビアの2組を指す。 前者は化粧気のない地味な古風な美人だが、わずかに肥満気味と、まあどこにでもいる主婦だが、それに反してヘレンは夫がカーディーラーを経営しており、生活は裕福でドイツ人の若い女性ベビーシッターを雇って子供の世話をさせている派手で美しい女性であり、一方フェイビアも弁護士夫人として優雅な物腰と高価な服を着た、いわゆるスノッブと揶揄される上流階級の女性たちだ。 おおよそ接点のないこの3人の女性たち。寧ろヘレンとフェイビアはマーガレットのような女性と近所付き合いすることすら歓迎しないと思われたが、実はかつて同じ学校に通った女学生であり、しかも当時親しい仲だったことが判明する。 そして女学生時代、マーガレットはその美貌と年不相応の落ち着いた雰囲気から先生からも綺麗で魅力的だったと評され、他の女学生達の憧れの存在であり、集合写真を写すときも中心で周囲が学生らしい若さを漲らせた笑顔を見せるのに対し、彼女だけが口角のみを挙げた大人びた微笑みを浮かべる表情を湛えていた。まさに価値観の反転である。 「人は見た目で判断してはいけない」と云われるが、その反面「人は見た目で8割が決まる」と見た目が重視される言葉もある。この価値観の反転はまさに相反する謂れによって我々が見た目に惑わされているかを如実に表しているようだ。 「こう見えても私は昔はモテたのよ」と過去の栄光を懐かしむ人がいる。 それは現在の自分を顧みて、若さが自分にもたらせた輝きや万能感を惜しむ気持ちが滲み出ている言葉だ。自分が最も輝いていた時期を懐かしみ、そして惜しむ気持ちは誰しもあるだろう。 しかしこのマーガレットは違ったのだ。彼女が亡くなった時に新聞に掲載された写真を見たかつての知人たちは「昔は彼女も美人だったのにねぇ」と半ば同情と哀れみを持ちながら、そして昔の美人も人の子だったとホッとするとともにちょっとした優越感を得る気持ちもあるだろう。 しかし彼女は元々自分に自信がなかったのだ。 マーガレットは大人になって苦労して地味になったのではなく、それが本来の自分なのだ。 昔からかつては美貌で鳴らし、周囲の羨望の的であった女性が次第に老いていくことで老醜を露見していく様から「時の流れは残酷だ」と云われているが、しかしそれは実はかつての姿を知る他人が思うことであって、当人はそういう風には思っていないことが私には不思議である。いや彼女は既に魂の充足を手に入れていたのか、齢30にして。 しかしレンデルには感心させられる。実に人間臭い動機や考え、または性格が事件を生むまでに発展することを巧みに物語に、設定に取り込んでいるからだ。 正直本書がどれほど好評を以て迎えられたかが解らないが、2作目の『死が二人を別つまで』ではいきなりウェクスフォードとバーデン側からではなく、捜査を受ける側から書かれている。つまり2作目でいきなりアクロバティックなことをしているのだから、レンデルはウェクスフォード警部をシリーズキャラとして定着させたかったのではなかろうか。一方でレンデルはウェクスフォード警部物を書くのに後年うんざりしているとインタビューで答えている。読者の要請があるから書いているだけで自分の本質はヴァイン名義で書くような純文学寄りのミステリなのだとも。 しかし『薔薇の殺意』は原題とはかけ離れているが、原題はほぼネタバレに近い。しかしこの邦題はあまり内容に即した物だとは思えない。私なら『百合の殺意』とするだろう。最後になって題名の意味が解るようになるからだ。 しかしこれもネタバレギリギリか。 やはり内容に相応しい当意即妙な邦題を付けるのはなかなか難しいものである。 |
No.1607 | 7点 | トム・ゴードンに恋した少女- スティーヴン・キング | 2024/12/28 01:53 |
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キング作品にしては珍しく300ページ強の比較的短めの長編。
本来ならばこのような少女の失踪事件が起きると行方不明のトリシアの決死行のドラマと彼女を捜索する側のドラマも描くのが定石だが、キングはそうしない。 キングはトリシアというこの1人の少女の孤独な戦いをじっくりとねっとりと描いていくのだ。 私が今回最も不穏だと感じたのは実は本書の題名である。 『トム・ゴードンに恋した少女』 そう、過去形になっているのだ。キングの物語が全てハッピーエンドに終わらないのは有名だ。従って本書の主人公、弱冠9歳のトリシアはもしかしたら助からないのではないかと読んでいる最中、心中穏やかではなかった。 そしてその不穏な想いに追い打ちをかけるようにこの少女の孤独なサバイバル行をキングはどんどんスーパーナチュラルな方向へ持っていく。彼女を襲うのは虫や腹痛や体調不良だけでなく、彼女を見つめる特別な「あれ」が出てくる。 物語の半ば、彼女は3人の人物と森の中で遭遇する。1人は彼女の通うサンフォード小学校の先生に似ており、もう1人は父親に似た男。そして最後はスズメバチの大群で出来た顔で彼女を森で見張る存在だと述べる。 悲しいかな。最後にトリシアが心通じ合うのは一緒に暮らしている母親ではなく、別れた父親の方なのだ。彼女が父親から貰ったトム・ゴードンのサイン入りのキャップこそが彼女を見事生還させる勇気のアイテムになったからだ。そして2人には野球という、いやレッドソックスという共有言語があるために言葉などいらない通じ合うものがあるのだ。 願わくばこの彼女と父親の魂の交流を機にこの夫婦が寄りを戻してくれればいいのだが。全てを語りがちなキングには珍しく、マクファーランド家の行く末について余韻を残した作品だ。 |
No.1606 | 10点 | ヨルガオ殺人事件- アンソニー・ホロヴィッツ | 2024/12/12 00:43 |
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日本における、今に至るホロヴィッツ旋風の発端となった『カササギ殺人事件』のまさかの続編である。
私は前作を読んだときの衝撃はいまだに覚えており、現代の古典、即ち今後100年遺されていくミステリの傑作だと確信していた。それゆえ正直続編の本書を読むのは期待半分、不安半分、いや期待3割、不安7割といった感じで手に取った。 しかし本書はその私の不安で高められたハードルを易々と越えてしまった。前作に劣らぬ、いや前作にも増して本格ミステリに淫している作品だ。 私は前作を“ミステリ小説をミステリするミステリ小説だ”と評したが、それに倣えば本書は“ミステリ小説の中のミステリで現実のミステリを解決するミステリ”だ。そう、前作よりもミステリの文字が増えているのは、前作が一粒で二度美味しいミステリだったならば本書は一粒で何度も味わいが変わる重層的な味わいを持ったミステリだからだ。 このシリーズの最大の特徴は作中作であるアラン・コンウェイ作のアティカス・ピュントシリーズの1作が丸々読めるところにある。正直作中における現実世界のスーザン・ライランドのパートよりもこの作中作の方が面白い。 前作では物語が始まってすぐに作中作である『カササギ殺人事件』が始まったが、本書ではスーザン事件関係者への一通りの訊き込みが終わった300ページが過ぎたあたりからようやく幕を開ける。但し、本書では題名の『ヨルガオ殺人事件』ではなく『愚行の代償』という作品だ。 邦題は決して前作の大ヒットにあやかって決めたのではなく、原題“Moonflower Muders”とそのものだ。Moonfower、即ちヨルガオはスーザンの依頼人トレハーン夫婦が経営するホテル《ブランロウ・ホール》の1棟、ヨルガオ棟とそれをモデルにした『愚行の代償』に出てくる被害者メリッサ・ジェイムズが所有するホテル《ヨルガオ館》に由来する。さらにメリッサがヨルガオをホテルの名に選んだのは彼女が過去に主演した映画『ヨルガオ』から来ている。因みにヨルガオと夕顔は別の花であるからご注意を。 さてその『愚行の代償』だが、作者ホロヴィッツはまたしてもこの作中作を実にリアルに実在する作品であるかのように模して物語に入れ込んでいる。 とにかくこの作中作が良く出来ている。全ての登場人物が関わるエピソードが解決へ寄与しているのだ。もうこの作品だけで正直1冊の傑作ミステリを読んだなという充足感に満たされるのだが、さらにスーザン・ライランドのパートの事件の解決が待っているのだから全く以て贅沢な作りである。 私が驚嘆したのはその真犯人を補強する最終章での怒涛の畳みかけだ。それは『愚行の代償』の中に仕込まれていた現実世界の犯人への暗示の数々だ。献辞だけでなく物語のそこら辺至る所にライオンのモチーフや隠喩が込められているのだ。その数はなんと献辞を入れると14。私はいつの間にか眼前で繰り広げられるそれらモチーフの連続解明を「すげえ」を思わず連発しながら読んでいた。 つまり最後まで読むと『ヨルガオ殺人事件』よりもふさわしい題名があることに気付かされるのだ。しかしその題名こそはこのミステリの大いなるネタバレになってしまう。 それはズバリ『ライオン殺人事件』。これに関してはここまでに留めておこう。 ホロヴィッツ作品に登場する人物は仕事のできる男ほどイヤな性格の持ち主であるのが玉の瑕だ。 さらに云えば今までホロヴィッツ作品を読んで思うのは明かされる真相が決して爽快感の身をもたらすに終わらないことだ。謎解きの妙味は今が21世紀なのかと疑うほどかつての本格ミステリの妙味に満ちており、盲が啓かれるカタルシスを得られるのだが、明かされる真相そのものは心がざらつくようなドロドロした人間関係である。 さて色々書いてきたがもう1点、このシリーズのみならず、もう1つのダニエル・ホーソーンシリーズにも共通する出版業界や小説家を登場人物に扱っているからこその作家の創作の秘訣や編集者目線での作品に抱く感慨が織り込まれており、それがミステリ読者の興趣と共感を生んでおり、更に評価を一段上げているように思える。 日本のミステリシーンに衝撃を与えた『カササギ殺人事件』の続編として刊行されながら読者の期待値を超えるクオリティを眼前に繰り広げた本書。当然の如く、読者その続編を、いや特にまだ未読のアティカス・ピュントシリーズ残りの7作を期待したいところだが、最後のスーザンがシリーズ作を焼き払うシーンを読むに恐らくこの「カササギ殺人事件」シリーズは本書を以て幕引きとなりそうだ。 なんとも残念である。この渇望感をホーソーンシリーズで癒やすことにするか。 |
No.1605 | 8点 | 沈黙のパレード- 東野圭吾 | 2024/12/01 01:22 |
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4年ぶりにアメリカから帰国した湯川学が最初に手掛ける事件が本書。時は確実に流れており、湯川は准教授から教授に、そして友人の草薙も捜査一家の係長に昇進している。
東野氏は殺害した側を応援したくなるように、読者心情を煽り立てるが如く、被害者である蓮沼寛一という男を唾棄すべき男として描く。 この蓮沼寛一という男は殺されても当然だ、いや寧ろこのまま生きていてこの世にいることで次の犠牲者が生まれる、殺されるべき人間だとして描く。 沈黙は金と云うがそれぞれの沈黙がもたらしたものの中には金に値するものがなかったものもある。 沈黙を守ることは己の罪悪感や喋って楽になりたいという欲望との戦いだ。それに勝てないからこそ、人は沈黙を保てないのだ。それを保てたのが真の悪人である蓮沼寛一であったことは実に皮肉である。 ところで私はこのシリーズを警察小説として読んでいなく、天才科学者が警察では想像すらできない真相を科学的論証に基づいて犯人へと導く、いわば現代に蘇った東野式ホームズシリーズだと思っていたが、今回では警察捜査の意外な情報が色々と得られる。 例えば高速のNシステムによる捜査記録は証拠として提出しないことになっていること。提出すればNシステムの仕組みや監視場所の詳細を法廷で明かさなければならなくなるから避けるというのが警察庁の方針であること。 指紋を残さないために手袋を着用するが、今では手袋痕を採取して犯行に使われた手袋を特定し、犯人の絞り込みを行うこと、等々。 また実は本書の殺人方法は海外古典ミステリのトリックを応用しており、作中でもその作品について触れられている。メインの殺害方法の原典であるアガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』とジョン・ディクスン・カーの『ユダの窓』だ。敢えて作者はその作品を触れることで本歌取りであることを示している。 温故知新。それが本書の裏テーマだろう。本書を読むことでこれら古典ミステリにも触れてほしいと云うのが本音だが、単に不可能的趣味に特化した古典ミステリよりも犯罪に加担したそれぞれの心情をも描いた本書を読んだ後では逆に物足りなさを感じることだろう。 しかし探偵ガリレオこと湯川学もずいぶん変わったものだ。以前は単にすっきりと答えの出る論理的解明や方程式など論理的思考だけに興味があったのに、人そのものに興味を持っている。本書で彼が関わる定食屋「なみきや」の面々と常に相席となって会話を愉しみ、蓮沼寛一という悪をチームワークで殺害したことに心を傷める。単に悪いことをしたから彼らは裁かれるべきだとして割り切った答えを出さないのだ。 この湯川学の心境の変化は作中でも湯川の言葉を通じて語られる。彼は『容疑者xの献身』で友人の石神が真犯人を庇おうとした献身が自身が真相を暴いたことで水泡に帰したことを悔いていたからだった。 ドラマ『相棒』の杉下右京はどんな理由であれ、罪を犯した者は裁かれなければならないと徹底的な勧善懲悪論に立っているが、湯川は寧ろ殺されるべき人を殺した人々、罪を犯すことで救われる人々がいることを理解し、どうにか救済しようと苦心するのだ。 私は本書を読んだ後、これはもう一つの『さまよう刃』だと思った。娘を犯され、無残に殺された主人公の復讐は結局叶わなかったが、本書ではその無念を晴らすかの如く、復讐が成就する。 殺人は犯罪であり、被害者がどんな者であろうと罪は罪であるというのは真理であるが、それでも殺してやりたいと思うのが人間の心理だ。 真理よりも心理を採った湯川の今後の活躍が非常に愉しみである。 |
No.1604 | 8点 | ハリー・ポッターと秘密の部屋- J・K・ローリング | 2024/11/29 00:30 |
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映画を先に観ていることもあって、文章がするするとイメージを伴って頭に入っていく。
今回は多重構造のプロットであり、少年少女の読み物としては高度な内容だと思った。 秘密の部屋を中心にして起こる怪事件の犯人及び共犯者(正しくは共犯を自分の意志に関係なく強要された者)、秘密の部屋を探し当てるまでの経緯に仕掛けられた構造はかなりの紆余曲折を経ており、物語作家としてのローリングの才気溢れるといった感じだ。 犯人のアナグラム、共犯者がなぜ共犯せざるを得なかったのか、そして共犯者にジニー・ウィーズリーが選ばれた政治的陰謀、これら全てがものすごく練られていた。 秘密の部屋を核にしてマトリョーシカのように入れ子構造で数々の登場人物の思惑が交錯する。このプロットを十全に理解した少年少女は果たしてどれだけ存在するのだろうか? クリスティ再読さんもおっしゃっているが、単なる少年少女向けファンタジーに終始していなく前述のような特徴からも判るようにミステリの要素が色濃くあり、これはやはりイギリスの作家であることも起因しているのだと思う。 ミステリ発祥の地イギリス。やはりミステリの血は濃いということか。 |
No.1603 | 7点 | ミステリオーソ- 原尞 | 2024/11/25 00:39 |
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本書は遅筆で有名な原氏によるエッセイ集。本書は1995年に発刊された著者のエッセイ集をもう1冊のエッセイ集『ハードボイルド』とに分冊したうちの1冊。
まず驚いたのは寡作家である著者が1冊に纏まるほどのエッセイを書いていたことだ。その内容は作者の遍歴と作者の趣味である音楽、とりわけジャズ、映画と小説について語られている。 この作家、かなりの気分屋で、己の規範を崩さない男だ。そう、彼自身の生き方そのものがハードボイルドに登場する、世の中を斜に構えて見つめる私立探偵そのものと云えるだろう。 とにかく自分本位な男である。 私は福岡生まれで、佐賀の鳥栖生まれで福岡の大学に通っていた作者とは親近感を覚えるが、公立の小・中・高を卒業し、一浪を経て大学に入学し、その後東証一部上場の企業に入社し、サラリーマンとなって現在に至るという堅実かつ典型的な普通の人生を歩んできた私とはかけ離れた綱渡りの人生である。従って安定主義の私は原氏のような生き方はとても怖くてできなく、またあまりにはっきりと物を云う態度に眉を顰めて理解に苦しむところがあることは正直に告白しよう。 本書で最も驚いたのは中村哲氏との対談だ。あのアフガニスタンで医療活動のみならず治水工事などインフラ整備にも尽力した日本人医師。そして2019年にアフガニスタンで武装勢力に銃撃され、死去した福岡の誇りだ。 彼と原氏が同級生であったことに驚き、そして両者ともまともに学校に通ってなかったことに驚く。普通の生き方をしていない2人だからこそ相通ずるものがその対談にはあり、これはかなり面白く読めた。 私が思うにはこのような人間こそが傑作を物にする、それも後世に残るほどの作品を書けるのだろうと思った。普通の生き方では得られない経験と人生訓。そういう知らない世界が描けるからこそ、人々は彼の小説を読み、そして自分の人生ではできない反抗と隠し続けなければならない反骨心を代わりに見せてくれる主人公に共感を覚えるのだろう。 そして原氏そのものがそんな生き方をしているからこそ、彼の作品は輝くのだ。彼の生活はとにかく自身の内に秘める欲求のままに突き進んでいる。 人間として魅力的かと云われればそうとは思わない。 生き方がでたらめだと思えば確かにそうだろう。 何物にも属さず、そして何者にも媚びず、自分が欲するままに生きる。 しかしだからといって暴力的ではなく、傍若無人でもなく不遜でもないが、頑固ではある。世界が止めろと云っても、販売禁止指定アイテムになってもずっとタバコは吸うだろう。そんな男だ。 本当に不器用な男だと思う。 しかし生き方が不器用なだけで音楽と映画と小説を観る目は確かで、その文章は練達の極みだ。 彼の生き方自体がジャズなのだ。生き方自体がアドリブとインプロビゼーションに満ちている。 それをカッコいいというには私は年を取りすぎた。寧ろ危うさが先に立つ。 こんな男がハードボイルドの第一人者だというのが悔しすぎる。 認めたくないが、認めざるを得ない。 そんな男なのだ、原尞という男は。 |
No.1602 | 6点 | 鏡の国の戦争- ジョン・ル・カレ | 2024/11/22 00:44 |
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前作『寒い国から帰ってきたスパイ』は世界的ベストセラーとなり、それがきっかけでル・カレは専業作家となった。その第1作が本書である。
潜入工作員をスカウトし、そして育てる一部始終が色濃く綴られる。但し、前作と異なるのが諜報部(サーカス)と呼ばれる英国情報部ではなく、ルクラーク・カンパニーというルクラークという人物が率いる陸軍部内の諜報機関である。このルクラークはちなみにジョージ・スマイリーとは知己の間柄である。 さて本書ではウィルフ・テイラー、ジョン・エイヴリー、ライザー3人の潜行員の様子が語られるが、面白いのはこの三人の任務での待遇が異なることだ。 例えばテイラーは古参の部員であり、今回初めて潜行員に選ばれた男だが、彼にとって海外での任務とはそれまではマドリッドでどんちゃん騒ぎをし、トルコにも再三行った、いわば“美味しい出張”を体験してきた身だ。 エイヴリーは部のボスであるルクラークを信奉し、彼の地位を押し上げるのに貢献したい、そのためには初の潜行任務を成功させなければならないと決意する、極めて真面目な部員である。 そして最後のライザーは退役した後、修理工場で働いていたが、かつての上司であったホールデンの訪問を受け、潜行員の任務を受けることにする。しかし元々兵士だった彼は今回要求される基地の情報を送るモールス信号に不慣れで、無線技術の専門家ジャック・ジョンソンの指導を受けながら訓練するが、何度も根を上げ、悪態をつく。 この3人を通じて諜報活動が私生活に及ぼす影響、スパイの心得や取るべき行動なども微に入り細を穿ってル・カレは記述する。 例えば初めて潜入任務を行うエイヴリーに対し、スマイリーはフィルムのサイズから質問し、泊まるホテルについて自分の一押しを勧め、ホテル内のレイアウトや贈る花束の花の本数や花の値段、時計をホテルの時刻に合わせること、タクシー代は渋らず、正規料金を払うこと、フィルムを受け取ったらポケットに入れて、カバンに入れてはならないこと、特にスーツケースは周囲の目を引くので危険云々。 このように細かい指令も含めてまさに一挙手一投足、指示通りに行うことを強いられるが、その3人の潜行員の任務を通じて知らされるのはどれほど綿密に計画を立てても、全くそのようにはスパイ活動は進行しないということだ。常に変化し、また想定外の事態が起きる。それは事前の調査不足であったり、万に一つの最悪の事態に遭遇したり、もしくは協力者の感情の揺れによって余計な言動がなされ、そこから周囲の注目を浴びたりもする。 しかし何よりも潜行員自身が被る多大なプレッシャーによる焦りと緊張が生むミスによるところが大きい。 特に本書の計画が崩壊する原因を作ったライザーの緊張感は並々ならぬものがあり、彼は致命的なミスを犯す。 そして本書でもジョージ・スマイリーが登場する。物語の通奏低音のように彼は腕利きの諜報員としてその名を轟かせる。 彼は諜報部の立場でルクラークたちの許を訪れ、ライザーの失敗により、潜行員の存在が東ドイツ側に漏れたことを告げ、彼を切り捨てて任務を終了するよう云い渡す。そう、彼こそは諜報に不慣れなルクラークたちに本当の諜報活動というものを教えるために来た、英国諜報部の原理原則そのものなのだ。 しかしよくよく考えると物語の発端は東ドイツにソヴィエトのミサイル基地が建設されているという情報を得て、それを探るためのスパイを潜入させよという内容。 つまり本書ではアメリカが体験したキューバ危機をイギリスに準えたもので、本来ならばその事実が判明し、そこから国防のためにミサイル基地の殲滅を計画し、遂行するという流れになるのだが、本書はそこまで物語は続かない。あくまで基調としては前作の流れを汲む、一介のスパイの悲劇を描いた物語なのだ。 つまり本当の諜報活動を熟知しているル・カレにとって基地の殲滅という行為は国際問題に発展する、いわば戦争であり、そんな戯画的なアクションは現実的ではないとして描かないのだろう。描くとすればあくまで国際間の政治家たちの駆け引きを描いて道筋をつける方向に進むことになるだろう。 しかし物語がシンプルなのに対して、細部に力を入れ過ぎたためにバランスの悪い作品になったことは否めない。 特にメインの潜行員フレッド・ライザーの章は約250ページと420ページ強の本書でも大半を費やされているが、彼が実際に東ドイツに潜行するのは160ページ以上費やしてからだ。つまりそれまではほとんど訓練シーンにページが割かれているのだ。 それはひょんなことから潜行員に選ばれた男の訓練の苦しみと任務の想像を絶する緊張感と国益優先のためにはリスクを排除するために命を切り捨てることさえ厭わない諜報の世界の非情さを対比させるには充分であったが、動きが少なく、地味すぎた。 しかし『寒い国から帰ってきたスパイ』と本書に共通するのは孤独なスパイの心の拠り所は女性ということか。 スパイがスーパーヒーローでもなく我々と同じ普通の人間、誰かの愛を欲する人間と変わらぬことを本書は前作でのメッセージを更に推し進めたように感じた。 |
No.1601 | 7点 | 骨の袋- スティーヴン・キング | 2024/11/19 00:31 |
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本書は妻を突然死で亡くしたベストセラー作家マイクル・ヌーナンが主人公の物語なのだが、その内容は実に流動的だ。
本書の大筋は妻を亡くしたことでライターズ・ブロックになった、つまり書けなくなった作家マイクル・ヌーナンが悶々とする日々を送る中、毎夜夢に登場するTRという正式名称もない町で買ったダークスコア湖の湖畔に建つ別荘へしばらく滞在し、そこで幽霊や生前の妻が取っていた奇妙な行動に出くわすという話だ。 今回作家を主人公にしているせいか、ジョージ・スタークのような虚構のみならず実在する作家の名前が頻出するのもまた一興だ。 それら実在する作家を例に出しながら小説家であることの意義やメリットについても作家であるマイクル・ヌーナンの独白の形で語られる。 例えばミュージシャンは途轍もないヒットを生み出す代わりに飽きられると消えてなくなるが、作家は年を取っても新作を書き、またベストセラーを出せると説く。アーサー・ヘイリーやトマス・ハリスが『ハンニバル』を出してベストセラーになったことを引き合いに出し、ミュージシャンの例ではヴァニラ・アイスが挙がっているのは傑作だった。 また出せば50万部、100万部の売り上げが約束される作家は1年に1冊は出すことが求められ、愛好者の多いシリーズキャラクターを持つ―キンジー・ミルホーンやケイ・スカーペッタが例に上げられている―と家族と再会したような効果があるので奨励されるなど。一方あまり出し過ぎると読者はつまらなく感じたりもするとも書かれている。 また日本では年末のランキングを意識して秋に小説の刊行が活発になるが、アメリカでも秋や新年に出版ラッシュがあるようで、本書でもクーンツが例年1月に新作を出すとかそれぞれの作家が出す作品がどのような類のもので、例えばケン・フォレットは過去の傑作『針の眼』に匹敵する新作を出すと云った情報交換がなされること、更には自分と同じ作風やジャンルの作家と出版時期が被ることでニーズを食いつぶすので避けることなど動向を気にしている様が語られる。 さて本書のメインプロットはシンプルに云えば不当に虐げられて殺害された、浮かばれない亡霊の復讐譚であるのだが、その背景にあるのはいわば記録に残らない、だがそのことを知る住民によって語り継がれる街の黒歴史の物語であることだ。 この何とも不思議な題名、骨の袋。それはトマス・ハーディの言葉に由来している。それはどんなに精彩豊かに描かれた人物であっても、所詮小説の中の人物は実在するくだらない人間には到底及ばない骨の袋に過ぎないという自己否定とも謙遜とも取れる言葉から来ている。つまりは小説内人物はどんなに魅力的であっても血肉を持つ実在する人間の存在感には到底敵わないと述べているようだ。 正直本書は数あるキング作品の中でも特段評価の高い本ではなく、キングと云えばコレ!というような作品ではない。 しかしキングの創作に対する考えやブラック・ライヴズ・マターや妻を亡くした男が目の前に掴めた幸せを奪われた哀しい作品として妙に印象に残ってしまうのだった。 |
No.1600 | 8点 | 寒い国から帰ってきたスパイ- ジョン・ル・カレ | 2024/11/13 00:43 |
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本書はジョン・ル・カレの名を広く知らしめたスパイ小説の金字塔と云われている作品で私もこれまで数あるガイドブックを読んできたが、スパイ小説の名作として必ずこのタイトルが挙げられていた。それはこれまでジェイムズ・ボンドのようなスーパーヒーロー然としたスパイ小説がまかり通っていた時代に秘密兵器や美女が登場しない、実にリアルで泥臭く人間らしいスパイを描いたことがこの作家の最大の功績だと云えよう。
従って今読むといわゆるスパイ小説の典型のように思えるが、実はそれらの系譜の起源は本書なのである。そして私がこの度、ル・カレ作品に着手するにあたり、最初に手に取ったのが本書だ。ル・カレ作品としては第3作目にあたる。 このル・カレの名を知らしめた本書はアレック・リーマスという50歳のベテラン英国情報部員の物語だ。 英国情報部は悉く自分たちの部員を殺害していった東ドイツ情報部副長官のハンス・ディーター・ムントの抹殺を企てる。その任務を負うのがアレック・リーマスで彼はそのために上司の管理官の指示に従い、まず彼が情報部の仲間の目を欺くためにベルリンでの任務失敗の責任を負って銀行課という内勤の仕事に付けられた腹いせに素行不良な情報部員となったと見せかけて馘首になり、彼に目を付けた新聞記者を通じてオランダを介してベルリン行きになり東ドイツの情報部員と接触する。 リーマスの語りを通じて知らされる諜報活動の内容と情報部員であるリーマスの特殊な思考はさすが作者自身が英国情報部の人間だっただけにリアリティがある。 本書に挙げられているスパイの特殊技能や独自の世界観は様々なスパイ映画や小説が書かれている今となっては珍しくもないが、本書が発表された1963年当時では驚愕だったに違いない。これはやはり自身が情報部に身を置いていたル・カレだからこそ書けたディテールなのだ。云い替えれば今日のスパイ小説や映画の素となった1つが本書なのだ。 物語の最終、英国共産党員の一員として東ドイツの共産党員との交流会に駆り出されたリズ・ゴールドと共に逃げ出すときに彼女と交わす会話はまさに任務と愛情のぶつかり合いだ。 スパイとは、諜報活動とは従来の人間の尺度では測れない次元の理論で物事が繰り広げられるが、それはつまり人間らしさという邪魔な感情を排しているからこそ一般の人には理解できないのであり、一方で任務のためならそんな感情をも利用してみせることが出来るのだ。 リズを引き入れて一緒に壁の向こうに行くか、それとも彼女をそのまま見捨てて自分だけ助かるか。 リーマスの選択結果は本書を当たられたい。 そしてこの最終章の章題が「寒い国から帰る」。寒い国とは即ちベルリンの壁で仕切られた東側だと思われたが、最後に至ってその寒い国の真の意味が解る。 そんなタイトルや章題に至るまで作者のダブルミーニングの意図が施された本書はまさに自身も英国情報部に勤めていた作者ならではの仕事だと云えよう。 さて本書ではバイプレイヤーとしてジョン・ル・カレ作品ではおなじみのジョージ・スマイリーが登場する。今回彼が表立って活躍する場面はなく、リーマスが英国情報部を首になってオランダに渡り、そこから東ドイツに送られる間に彼が最後に逢った図書館の同僚で愛人でもあるリズ・ゴールドを訪ねる時と最後リーマスがベルリンの壁を超える時にリズを置いて西側へ来るよう叫ぶくらいだ。調べてみると彼はル・カレのデビュー作からこの3作目の本書まで登場しているようだ。 彼の真の活躍と真価はこの後の作品で読めるようなので、楽しみにしていよう。 スパイ小説を読むことは実は歴史を学ぶことに似ている。しかし学ぶのは学校の授業や教科書では語られなかった歴史の暗部を覗くことだ。死の直前まで現役のスパイ小説家であったル・カレの諸作を読むことは第2次大戦後から現代まで連綿と続く裏側の歴史を追うことでもある。 彼が亡くなった今こそ彼の諸作を読むことは戦争が再び起きている今だからこそ意味があるのだろう。噛みしめるように読んでいきたいと思う。 |
No.1599 | 7点 | 水晶宮の死神- 田中芳樹 | 2024/11/08 00:39 |
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ヴィクトリア朝怪奇冒険譚3部作最終作。田中氏のシリーズ物は完結に数十年費やすことがざらなのだが、幸いにしてこのシリーズについては僅か10年で完結することになった。しかし3部作であっても10年も掛かるのが田中氏である。
さて1作目では月蝕島というスコットランド沖の孤島、2作目ではイギリス北部のノーサンバランドにある髑髏城と国外に出ないまでも日帰りするには遠く、その地に行くまでもが冒険となる場所であったのに対し、今回の舞台水晶宮は元々ロンドンのハイドパーク南にあったがロンドン東南郊外のシドナムに移築された建築物である。そう、最終作の舞台はロンドンに住むニーダムとメープルたちが日帰りできる安近短な冒険舞台なのである。 それだけではなく、1作目の月蝕島、2作目の髑髏城が作者の創作であったのに対し、今回の舞台、水晶宮はかつて実在した建物である。この実在した建物の地下に広大な遺跡が存在し、そこを根城にする死神と名乗る仮面の男が今回の敵だ。 さてこれまでのシリーズでは19世紀に実在した人物たちが大いに物語に絡み、それら偉人たちの伝記では書かれていない蘊蓄が読みどころであったが本書でもチャールズ・ラトウィッジ・ドジスンが登場する。と云われてもピンとこないだろうが、実はこれは『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルの本名なのだ。今回登場時はまだ同作を発表していない時期で売れてない作家の1人である。 蘊蓄といえば歴史好きの田中氏の趣味が横溢しているのも特徴で、例えば15世紀にはスコットランドの南西部、ギャロウェイ地方で25年に亘って旅人を襲っては食べていたソニー・ビーン一族という食人族がいたこと、昔、墓泥棒が盛んだったのは医学の発展のために死体解剖をするために医者がなかなか手に入らない死体を欲したから、等々。いわば教科書では習わないイギリスの闇歴史が語られ、それがまた実に当時のイギリスの風習や風俗を偲ばされ、不謹慎ながらこのシリーズを愉しみにしている一面である。 最終巻である本書で気付かされたが、これら3部作が全て1857年にニーダムたちが経験した冒険であることだ。つまりある意味この年は彼とメープルの人生のターニングポイントであったと思えるのだが、本書の最後に語られる語り手のニーダムの回想ではさほど彼の人生を変えた出来事ではなかったとされる。 何しろこのような命の危険を感じるような心臓の鼓動が跳ね上がる冒険を1年に3回もすれば通常ならば吊り橋効果で男女の仲は深まるものである。それが叔父と姪の立場、31歳の男性と17歳の女性の歳の差14歳の間柄でも恋は恋である。お互いの命を思い、そして助け合った仲なのに2人は結婚をしなかった。しかしそれは2人が一緒にならなかっただけでなく、2人とも生涯独身を貫いたのだった。そういう意味では彼と彼女が誰かと一緒にならないと決めた逆の意味でのターニングポイントだったのかもしれない。 つまりこのヴィクトリア朝怪奇冒険譚3部作は実に静かに物語が閉じられる。主役2人の仲は発展せず、彼らが特別な人物になったようにも思えない。いやメープルはそれなりに活躍しているが、ニーダムに至ってはほとんど隠居の身である。 作者の田中氏がなぜ1857年という年を選んだのかも定かではない。歴史を繙くと有名な事件ではセポイの乱があったりアメリカで世界恐慌が起きたりしているが、本シリーズにはあまり関与はしなかった。 とにもかくにも作者はヴィクトリア朝時代を舞台にその時代を生きた偉人や著名人たちを自らの筆で描きたかったのだろう。歴史や風俗、そしてその時代に生きた人々の意外な側面が見れて個人的には楽しかった。 |
No.1598 | 9点 | 鬼火- マイクル・コナリー | 2024/11/01 00:41 |
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ボッシュシリーズというよりももはやボッシュ&バラードシリーズとなったシリーズ2作目ではミッキー・ハラーも絡んで、正しく書くならばボッシュ、ハラー&バラードシリーズ1作目となるか。まあそんな細かい話はこれくらいにして、感想に移ろう。
まず今回のボッシュの立場は刑事ではない。 前作『素晴らしき世界』で彼が予備警察官として雇われていたサンフェルナンド市警の同僚の自殺未遂を引き起こした廉で自宅待機状態である。従って一応予備警察官の職ではあるが、本質的には無職の男である。 そんな立場でもボッシュは今回複数の事件に関わる。 さて前作『素晴らしき世界』で出遭い、コンビを組むようになったレネイ・バラードとハリー・ボッシュだが、まだお互いのことはそれほど知らず、今回初めてバラードはボッシュがミッキー・ハラーの調査員を務めていることを知って嫌悪感を示す。 そう、ミッキー・ハラーは今まで自分たちが捕まえてきた犯罪者を無罪にする、もしくは裁判自体を無効にする警察官にとって唾棄すべき敵だとみなされており、レネイ・バラードもまた例外でないことが判明するのだ。 ボッシュはハラーのことを弁護するが、彼女に彼が異母弟であることを明かさないところにまだ自分の中でもハラーの手伝いをすることが仲間である警察官を裏切っている思いが拭えないことが判る。 従って今回ハラーの弁護を成功させたときに彼は面前で罵られ、裏切り者の誹りを受け、胸を痛める。しかし彼は今度は元刑事として自由の身である真犯人を探すことに注力する。 しかしその正しいことをしようとしても、ハラーの片棒を担ぎ、裁判を無効にしたハリーをロス市警の連中を許すわけがなく、電話をしても激しく突き放される。ロス市警時代に数々の功績を挙げたボッシュでさえ、尊敬を得られず、過去の人物として非難される姿は読んでて胸を痛める。 ではレネイ・バラードはどうか? 彼女はボッシュとは対照的である。 前作でもそうだったが、今回事件のクライマックスで女殺し屋のカタリナ・カバと対決した際に瀕死の重傷を負うが、なんと彼女のために30人以上の警官が献血のために訪れたことが明かされる。 そう、彼女には味方となる同僚がたくさんいるのだ。ただ彼女も今回ボッシュの未解決事件の捜査のための盗聴許可を得るために判事を騙して許可を得たり、ほとんど一般市民と変わらないボッシュを停職中の予備警察官なのだから刑事と名乗って構わないと捜査に介入させたりとボッシュに感化されたのか道を踏み外す傾向が見られた。 信用を失わない程度にしてほしいとヒヤヒヤさせられる。 しかしやはりボッシュの前からは人は去りゆき、バラードの周りには人が集まるのだ。 この対照的な光と影の、陰と陽の2人の刑事の対比がまた読みどころの一つなのだが、せめてバラードだけはボッシュの許を去らないでいてほしいものだ。 そのボッシュも齢70近くになったことが判明するが、作者はそれでもこの男に新たな危難を設ける。なんとボッシュは白血病に罹ったことが発覚するのだ。それは彼が過去に関わった殺人事件で大量のセシウムが奪われた案件で彼がそれを回収したときに被曝したことに由来すると考えられていた。 そう、その事件こそは『死角 オーバールック』で彼が扱った事件だった。2007年の時に刊行された作品の事件がこの2019年に著された作品に影響を及ぼす。 これなのだ。これがシリーズを、いやマイクル・コナリー作品を読む所以なのだ。 それはシリーズを永らく読んできた読者だけが得られる単なる特権意識なんかではない。 それはこのシリーズを共に歩んできたからこそ得られる愉悦なのだ。 そう、我々がボッシュの歩んできた半生を共に体験していることを実感させられるこの瞬間こそが読者としての報いであり、そして何事にも代えがたい黄金なのだ。 巻末の作品リストを見ればまだまだボッシュの物語は続くようだ。刑事でなくなったボッシュは悪をのさばらせさせないというその強い思いで犯罪者の摘発にまだまだ食らいついていくようだ。 「だれもが価値がある。さもなければだれも価値がない」を信条に抱いて。 ボッシュの人生はまだ続く。そして私がその人生を追うのもまだまだ続く。 ボッシュが生きている限り、いやコナリーが物語を紡ぐ限り、私はずっと追いかけていこう。 それだけの価値があるのだ、このコナリーという作家の描く物語は。 |