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Tetchyさん
平均点: 6.73点 書評数: 1614件

プロフィール高評価と近い人 | 書評 | おすすめ

No.1614 7点 ドリームキャッチャー- スティーヴン・キング 2025/03/02 02:16
4分冊で1,400ページを誇る本書はいわば21世紀の、いや、0年代の『IT』と云えるだろう。というのも本書の主人公たちは4人の少年達であり、かつて5人目の発達障害の仲間からそれぞれ特殊な能力を得た男たちだ。この構成が“IT”に立ち向かった7人の男女という構成と似ている。

その5人の仲間たちが今回立ち向かうのは宇宙人。しかもよくミステリー雑誌やオカルト雑誌、UFO特番などで引き合いに出されたグレイ、そうあの吊り上がった大きな目をした華奢な手足を持つ小人のような宇宙人である。

しかし本書は『IT』とは違い、この4人組+1名が力を合わせてグレイと立ち向かうかと思えばそうではない。この5人のうちビーヴァーとピートは物語の前半で早々と姿を消す。

最初私はなぜこのようなキングにしては珍しく、人口に膾炙するグレイという宇宙人やUFOを今回採用したのかと疑問を持っていた。
その答えは本書を読み進めていくと腑に落ちた。本書は長きに亘ってその存在が噂されていたグレイとの地球の支配権を巡る最終戦争の物語だからだ。
しかしその攻防は単なる宇宙人と人間という単純な戦いの図式ではない。ジョーンジーはなんとミスター・グレイに憑依され、身体を乗っ取られる。そのミスター・グレイはカーツの部隊によって壊滅状態になり、たった1人の生き残りとなった宇宙人だった。
このミスター・グレイは生存を賭けて犬の体内に宿らせたバイラムを貯水池に放つことで水中で菌を繁殖させ、それを飲料水として人間に飲ませて彼らの仲間を繁殖していた。

さて題名になっているドリームキャッチャーはそもそもアメリカの先住民の装飾品で円い輪の中に蜘蛛の巣が張っているような意匠で羽で装飾されたもので日本でも雑貨店で売られているからご存じの方も多いだろう。その形は蜘蛛の巣で悪夢を捕らえて防いでほしいという願いが込められている。

あの「ペニー・ワイズはまだ生きている!」のメッセージは『IT』再来の予兆なのか。25~30年周期で蘇るIT。1985年に斃されたIT。さて彼が蘇るのがこの周期によれば2010~2015年である。次の『IT』は既にもう書かれているのだろうか。
しかしそれよりも『IT』を上梓した時点でキングは作家生活11年目。それから25~30年と云えば36~41年であり、それを既に超えても旺盛な創作活動を続けているこの作家の凄さに圧倒されてしまう。そしてリアルタイムで25~30年以上のブランクのある設定の話を書けること自体が驚きを禁じ得ない。
凄い作家に手を出してしまったなぁ。っこは腹を括って全作品読んでいくことにしよう。

No.1613 7点 ブラック・スクリーム- ジェフリー・ディーヴァー 2025/02/27 00:42
リンカーン・ライム、イタリアへ!
しかしこれがライム初の海外出張ではない。『ゴースト・スナイパー』で一度バハマに行っている。ただその時は一時的なものだったが、本書では開巻後80ページ弱で舞台はイタリアへと移る。そこからほぼ全編イタリアが舞台となる。

イタリアでは同じ先進国でもあり、捜査技術はアメリカと遜色なく、対等に渡り合う、いや最初は海外の捜査官が事件捜査に携わることは例外的だと云って警部のロッシはやんわりと、検事のスピロは厳格に断る態度を見せる。
特にスピロは自身のテリトリーを余所者に荒らされたくないとばかりに、現場に行こうとするサックスに対する風当たりを強くする。

しかし読み進むうちになんとイタリアの警察がライムが書いた書物を研修で教科書として使用しており、実はライムを尊敬している捜査官、特に鑑識員が多いことが判ってくる。
更に面白いことになんとライムシリーズ第1作の『ボーン・コレクター』がイタリア語に翻訳出版されており、そのファンであるレストラン夫妻からサインを頼まれるシーンがある。イタリア語訳版があるのは本当でこれは作者ディーヴァーが経験した事だろうが、まさか主人公本人がサインに担ぎ出されるとはディーヴァーも憎い演出をするものだ。

なんといっても一番キャラが立っているのはエルコレ・ベネッリだろう。元々は森林警備隊巡査だが、たまたまトリュフ泥棒の取り締まり現場がイタリアで最初のコンポーザーの被害者拉致現場に近かったことで目撃者に駆り出される。この事件捜査を足掛かりにナポリ警察への転属を果たそうと意気込んでいる。
有能ではあるが、情報マニアの傾向があり、知っていることを話さずにはいられない質でそれが時にライムや検事達をイラつかせたりもする。我々の周囲に1人はいる、いい人なんだけどちょっと面倒なタイプである。

さて今回ライムがこれらナポリ警察の面々と共に相対する異常犯罪者はコンポーザー。英語で作曲家を意味するこの犯人は被害者を捕まえて拷問にかけ、苦悶に歪む声をクラシック音楽にサンプリングしてそれをBGMに拷問の様子を動画サイトに挙げて公開する異常者だ。

彼は常に〈漆黒の悲鳴(ブラック・スクリーム)〉に悩まされている。それは歯医者のドリルのような甲高い悲鳴らしい。彼が人間の悲鳴で奇妙な音楽を作曲することでこの悲鳴から逃れられることができるのだ。
ちなみに邦題は彼を悩ませるこの謎の悲鳴から取られている。

さて本書の真相は実に意外だ。これまでのシリーズを覆す展開を見せる。
今回のコンポーザーによる一連の拷問はなんとISISのテロリストを炙り出すためのフェイクだった。
ターゲットの連続殺人鬼が実は政府側の工作員だったのがこれまでとは違う結末だが、さらに面白いのはコンポーザーが残りのテロリストの炙り出しの捜査に多大なる貢献をするところだ。音のエキスパートである彼は過去の携帯電話の通話の録音から背後の音を聴き取り、場所の特定のためにかなりの材料を提供する。標的が味方に転じてライムたちの捜査に協力するのは今までになかった展開である。

しかしこのシリーズもこれほどまでにスケールが大きくなったとは感慨深いものがある。これまでは連続殺人鬼対四肢麻痺の鑑識の天才という悪対正義の勧善懲悪の単純な図式で展開していたのに、本書ではとうとう自身の携わった捜査でアメリカ政府の秘密機関まで接触することになり、その組織が超法規的組織ゆえにこれまでのように物的証拠を基に犯行を暴いても、隠密裏に抹消されてしまう。
さてもはやこれまでの警察捜査が通用しない相手にまで到達し、そして逆にライムはその組織からスカウトされるまでにもなる。今私はル・カレ作品を並行して読んでいるが諜報の世界ではそれぞれの政府の、国際社会のイデオロギーで判断が下され、複雑化し、どれが悪でどれが正義か判らなくなっている。ライムシリーズもとうとうその領域に達してしまったのかと思うと、正直気持ちは複雑だ。

さて本書には最後に「誓い」という短編が特別収録されているが、これは『ブラック・スクリーム』の物語の最終で彼らが挙式を行うことになったコモ湖が舞台となっており、式を挙げたその後が描かれている。
さて本書で長きに亘るパートナーの関係からめでたく結婚に至って夫婦の関係となり、より絆を強めることになったアメリアとライムの2人。そして前述のように本書の最後には存在しない諜報部門AISから科学捜査チームの顧問としてスカウトされるに至った。
何事にも始まりがあれば終わりがある。そして本書ではその兆しとしてシリーズファンが望んだアメリアとの結婚が成就した。つまりは1つのゴールに達したわけだ。まずは素直におめでとうと云って結びたい。

No.1612 7点 スクールボーイ閣下- ジョン・ル・カレ 2025/02/07 00:30
スマイリー三部作の2作目の本書は上下巻820ページ弱の大著だ。そして1作目もなかなかにハードだったが、本書はさらに輪をかけて難しい。

物語は前作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から引き続いて始まる。前作でビル・ヘイドンというソ連の二重スパイの存在によって大打撃を受けた英国情報部“サーカス”は立て直しを図るべく、引退したジョージ・スマイリーを復職させる。
スマイリーが着任後、即手掛けたのはサーカスを崩壊の危機に陥れたソ連情報部の重鎮カーラへの復讐だ。彼はビル・ヘイドンが携った諜報活動の記録を遡行してカーラの弱点を探ろうとする。
スマイリーはその任務のために半ば組織から追い出されるように引退していた車椅子のソ連調査の専門家コニー・サックスを呼び戻し、更に中国調査の専門家ドク・ディサーリスを仲間に加え、カーラ復讐への第一歩である“ドルフィン”作戦を立ち上げる。それはビル・ヘイドンの過去の足取りを遡行することでカーラの攻撃開始点を突き止める作戦だ。
そして執念の調査の結果、スマイリーたちはパリから東南アジアへ通ずる送金ルートを発見する。そしてその金の受取人が香港の実業家のドレイク・コウ。そこへスマイリーが調査のために臨時工作員ジェリー・ウェスタビーを派遣するのだ。
そしてこのジェリー・ウェスタビーこそが本書の題名となっている“高貴なる”スクールボーイなのだ。ロンドン臨時工作員課程を受けながらも正式採用されず、そこをスマイリーに拾われた野心あるお坊ちゃまである。

さて今回の舞台は香港だが、中国人の残酷さを存分に思い知らされるかの如く、報復の連鎖が続く。ウェスタビーが核心に迫るほど屍の山が築かれる。
ジェリー・ウェスタビーの任務はやがてこれら既に死者として扱われていた人々の足跡を辿り、モスクワが援助した麻薬による国家撲滅計画の詳細と隠された金の流れとドレイクを隠れ蓑にして暗躍するソ連の“もぐら”ネルソンを捕らえることになった。

しかしやはりル・カレは難しい。物語の骨子を理解することとそれぞれのエピソードを繋げることがなかなか頭の中でピースが嵌るが如く埋まっていかない。
そして上の物語の流れを書くために内容を振り返るに至って、そこここに伏線が書かれていることに気付かされるのだ。

物語の後半はこのジェリー・ウェスタビーによる単独行が中心となる。ジェリーはやがてリカルドとコンビを組んで麻薬密輸を行っていたチャーリー・マーシャルという男の存在を突き止め、香港からベトナムに渡る。

私は本書がゴールド・ダガー賞を受賞した要因の1つはこの戦下のベトナムを見事に活写したからではないかと思っている。それほど本書におけるジェリーのベトナム行は迫力とリアリティに満ちている。
例えば最初に空港に民間機で降り立つシーンでのジャングルからの小火器の乱者を避けるために旋回コースを取りながら着陸する内容にまず度肝を抜かれ、現地に派遣されたマスコミの特派員は臨時の通信員を雇っているが1週間の1人の割合で死んでいるとのこと。
また外交官によって催されたパーティーでは参事官の公邸が会場でありながらも近いところで機関銃の銃声が轟き、ロケット弾が着弾し、遁走する単発機の爆音が鳴り響く。そんな中を“高貴なる”人々はそれらを肴に美味しい料理とお酒を愉しむ風景が描かれる。もはや彼らは正気なのか狂気なのか判らない。いや寧ろタイタニック号に乗っていながらいつ沈んでもその運命を受け入れる乗客のように見えるのである。

しかし何よりも一番謎めいているのが主人公のジョージ・スマイリーだろう。ずんぐりとした小男で決して目を引くような存在でない―即ちスパイにとって最良の外見を持っているわけだが―この男はしかしこれまで歴戦の諜報戦を渡り歩いた凄腕スパイであることがその口から出る言葉の端々から窺える。
しかし作者ル・カレはあまり彼の心情を描かない。特にサーカスでの会議や今回作戦を協同して行うことになったカズンズとの会議では沈黙を以て接し、なかなか発言に至らない。

諜報の世界は男の世界だと思われるが、実はそれに携わる工作員たちは女性によってその身を滅ぼす。
ル・カレはフレミングが創造したジェームズ・ボンドのようなスーパーヒーロー的なスパイから脱却し、スパイもまた1人の人間であり、その任務が辛く、長いものであることを自身の経験を加味して実状をリアルに描き、国家間のイデオロギーによって運命を左右される哀しき存在として描いたとされているが、ボンド作品に毎回彼と行動を共にするボンドガールがいるように、ル・カレの小説にも毎回そこには女の影がある。特に存在感が顕著なのはイギリス人女性リジー・ワージントンだ。本書の主人公ジェリー・ウェスタビーは香港のソ連のパイプ役ドレイク・コウの愛人である彼女に魅了され、彼女を欲するがあまりに任務を逸脱し、最終的にはその身すら滅ぼしてしまった。

しかしスマイリーのカーラへの復讐はまだ続く。本書の結末はまだ途上に過ぎない。再び一線から退けられたスマイリーがいかにソ連の大物カーラと対決するのか、気になるところだ。

No.1611 8点 アトランティスのこころ- スティーヴン・キング 2025/02/01 01:22
これはなんと評したらいいのだろう。読書中、常にそのことが頭を過ぎった。上下巻併せて1,120ページ強の本書はこれまでの作品と異なり、上下巻それぞれで主人公が異なり、また物語のテイストそのものも異なる構成となっている。

上巻は1960年のコネチカット州のハーウィッチを舞台にした母子家庭であるボビーとリズのガーフィールド親子のアパートにテッド・ブローティガンという老人が引っ越してきて息子とこの老人との交流と別れの物語が描かれる。実はこの老人はある特殊な能力を持った人物で追手から逃れてハーウィッチにやってきたのだが、その追手に見つかって連れ去られ、その後のボビーの成長とその後老人が追手の許から再び脱出したことが判るまでが語られる。それまでが上巻で下巻はそのボビーを主人公に据えた物語が始まるかと思えば、一転して1966年のメイン州立大学を舞台に語り手もそこの学生ピート・ライリーへバトンタッチして別の物語が始まるのだ。

更に物語は1983年のコネチカット州に移る。そこではビル・シーアマンという謎めいた男の物語が始まる。この男は実は上巻に登場するのだが、それはまた後で触れよう。

そしてまた時は流れ1999年のコネチカット州。この章はジョン・サリヴァンの回顧録のような話である。

これらそれぞれの時代と場所、そして各章のメインの登場人物に共通する存在がヒロインのキャロル・ガーバー。
読み終えて思うのはこれはキャロル・ガーバーという実に魅力的な女性の半生記をだったということだ。

これは在りし日の喪失と再生の物語だ。
かつて思いのまま生き、何でも話せる仲間がおり、お互いが打算や駆け引きなどせずに時間を共有していた純粋無垢な黄金時代が誰しもあったことだろう。本書はそんな眩しい日々が人生が長じるにつれて失われていく哀しみを、心の痛みをそれぞれの立場と人生の道程で語った物語だ。
そしてその輝かしい日々を失ったそれぞれの人生が転落しているのが何とも痛ましい。

従って本書は年を重ねれば重なるだけ、胸に痛切に迫るものを感じるだろう。読者もまた同じように人生を重ね、本書に書かれたボビー・ガーフィールドやピート・ライリー、ウィリー・シーアマン、そしてジョン・サリヴァンの思い出に自らのそれを重ねて甘くて苦い思いを抱くに違いない。少なくとも私はそうだった。

『アトランティスのこころ』という一風変わった不思議な題名の本書ではしかし、アトランティスが登場するわけではない。あるサイトによれば原題“Hearts In Atlantis”の“Hearts”は「こころ」ではなく、ピートの学生時代に流行ったトランプゲーム、ハーツのことで、しかもアトランティスは彼らが住んでいる寄宿舎の隠喩らしい。
しかし私はアトランティスはいわば象徴なのだと捉えた。それは“失われた大陸”もしくは“失われた楽園”を意味する。原題が示すように、アトランティスに置いていった心、すなわちもう戻れないあの頃の思い出を指す。

本書を読みながら自分も色んな思い出が蘇った。
私は惚れやすく、クラス替えがあるたびに好きな女の子が変わっていった。しかし当時恥ずかしがり屋で奥手の私はその誰にも告白はできなかった。
唯一友人に騙され、好きな女の子の名前を云った時に、自分が風邪で休んだ時にクラス中にそのことがバラされたことがあり、その子が凄い剣幕で迷惑だと云わんばかりに私に詰め寄ったことがあった。

社会人になって女性の飲み友達が出来て、その娘が会社の後輩を好きになったから付き合えるよう手伝ってほしいと頼まれたので、そうしていたらいつの間にか自分の方が彼女を好きになっていたこともあった。

そんな色んなほろ苦い思い出が次々と蘇った読書だった。
みんな私のキャロル・ガーバーだった。
しかしキャロルと違い、その中の1人とてメディアに出るようなことは、今に至ってもない。だから近況は全然判らない。

もし私のキャロルの1人に遭えたのなら、どんな顔をして私は対面するだろうか。どんな感じに話をするだろうか。

ボビーやキャロルのようにお互い年を取ったよね、とそんな風に自然に話せたら、もうそれは恋の、そして思い出の終わりだろう。
そんな日が来ることは叶わないだろうけど、どうかみんな元気でいてほしいと切に思う。
何ともセンチメンタルな物語だな、これは。まいったよ、全く。

しかし何とも美しい物語ではないか。この物語にはオールディーズが似合う。
ただ私の頭に流れているのはニール・セダカの“Oh! Carol”ではない。だから私は最後のキャロル・ガーバーの変えた名前がデニース・シューノーヴァ―であることに不満だ。
キャロルの名前は最後はダイアナであってほしかった。私の頭の中に最後に流れるあのメロディ、それはポール・アンカの“Diana”だった。これぞボビーの最後の想い。
“Oh, please stand by me, Diana”

No.1610 7点 λに歯がない- 森博嗣 2025/01/26 23:31
これまで煮え切らない真相にもやもやしていた読後感をこのシリーズでは抱いていたが、今回初めてミステリとしての謎解きがストンと腑に落ち、カタルシスを感じることが出来た。

建設会社の研究所内で密室状況の中、4人の射殺死体が発見される。その身元はいずれも研究所の人間ではなく、いずれも50代以上の年配者でしかも全員歯が抜かれ、ポケットには「λに歯がない」と謎めいたメッセージが書かれたカードが入っていた。
本書の事件は上のたった4行で纏められるシンプルな物。
今回はこの被害者全員の歯が抜かれていた奇妙な状況と「λに歯がない」という奇妙な言葉にも明快な答えが―物語ではそれも一応は想像の範疇に過ぎないとされてはいるが―示される。しかもそれらは思わずハッとさせられる本格ミステリが持つ独特のカタルシスを伴って提供される。

その事件の真相に気付くまでに西之園萌絵と犀川は事件について語るうちに死について語るがこれがまた興味深い内容だった。それは次のような内容だ。

例えばもっと生きたいと願って治療を続ける人ともう生きたくないと自殺を選ぶ人の理由のレベルは同じで、なぜなら自然の摂理に逆らおうとする行為をどちらも選択しているからだ。しかしそれでも死はその時点で終わりであるのに対し、生きようと抗うのは継続するという意味で上位である。
そして人間誰しも生きたいと願っているわけではなく、死を選ぶ者もいれば人を殺したいと思う人もいる。そして生きている人は自殺を保留している人だとも。人はいつでも死を選ぶことが出来るからだ。長生きは選択肢ではあるが必ずしも叶うわけではない。

そしてここから犀川は真賀田四季は我々凡人のように死を選ぶ自由という発想から永遠の生を選ぶという発想、つまり死んだ人間をもう一度生かすという発想をするだろうという考えに至る。

これはまさに百年シリーズへの兆しではないか。ここからあのミツルへ繋がっていくのか。しかしそれはまだ当分先の話のことだ。

そしてこのGシリーズでは先に述べた真賀田四季の影が常に事件の裏側に見え隠れしているが、本書では逆に今回の事件が四季が関わったものではないと各務亜樹良と思しき女性が登場し、赤柳と話す。そしてその際、なぜ警察が真賀田四季を捕らえることが出来ないのかについて彼女はこちらは分散型で事件を防ぐ側は集中型だからだと説く。

つまり1つのチームとして動いている警察はそれぞれのチームがやるべきことを把握して独立して動いている真賀田四季側が複層的に起こす事件の対処に叶うはずがないと。
しかしこれはやはり真賀田四季という圧倒的なカリスマがいるからこそ成り立つのだろう。
自由度をそれぞれのチームに持たせながらも決してベクトルを逸脱することなく、また妙な野心を持って下剋上を成し遂げようとすら思えないほどの圧倒的な天才性を放つ彼女だからこその分散型組織ではないか。

被害者全員の歯が抜かれていたのはこの田村香への復讐ゆえだ。そして謎めいたメッセージ「λに歯がない」のλ(ラムダ)は田村の逆さ読みだった―これは萌絵の憶測だが、正解だろう―。

そして今回最も不可解な謎だったのがセキュリティシステムで出入りを管理されていた研究棟に入った方法なのだが、これも実に鮮やかに解き明かされる。

事件のあった建物は免振構造になっており、30cmぐらい建物が移動するのだが、この構造を利用して油圧ジャッキで建物を動かして隣接した建物との隙間を広げ、窓から侵入したのだった。
いやあ、これはもう建築を専門にしているからこその密室事件であり、自分も同類だからこそこの真相には感服した。
いやはやこの一連の謎解きには建築に携わっている人には実に堪らない真相だった。正直これまでのシリーズで一番面白いと感じた。

ただやっぱり謎は謎として残して物語は閉じられる。
例えば今回は一連のギリシャ文字が付随していた事件に見せかけた、研究所々長による偽装工作が施された事件だったが、それを一連の事件とは関係ないことを公表するために赤柳が公安から駆り出されたり、海外に逃げていた保呂草が隠密裏に日本に戻って逢った葛西という人物についても謎のままだ。やはりこれらはシリーズ読者が理解できるようになるにはシリーズ最終作を待たないといけないということか。

しかし真賀田四季の息の掛かっていない事件が一番腑に落ちたというのは何とも皮肉だ。それは私のような凡人には天才の意図が容易には判らないということなのか。

それならそれでも構わない。これくらいのミステリが私には性に合っているようだから。

No.1609 7点 ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ- ジョン・ル・カレ 2025/01/19 00:40
これは有名なキム・フィルビー事件を題材にした作品である。イギリス秘密情報部(MI6)で長官候補にも挙げられる上位職員でありながら「ケンブリッジ・ファイヴ」と呼ばれるソ連がイギリス上流階級出身者で形成したスパイ網の中の1人だ。
本書発表当時の1974年ではル・カレはまだ自身が英国情報部の元職員であったことを否定していたが、今回の新訳版は訳の刷新だけでなく、ル・カレが1991年に書いた序文が付せられており、当時の創作の裏話や彼の英国情報部員時代のことが書かれている。その中には題材にしたキム・フィルビーやKGBのスパイ、ジョージ・ブレイクのことを語っているが、ル・カレ自身はキム・フィルビーに会ったことがないまでも、彼はブレイクには異様に共感したものの、フィルビーに関しては自分に似すぎているため、嫌悪感を覚えたという。彼はフィルビーに別の自分を見出したようだった。

またこの序文には今では普通に使われるようになった諜報世界での隠語の数々が出てくるが、なんとその中にハニー・トラップがあるのを初めて知った。つまり今でこそ一般的にも使われるハニー・トラップはなんとル・カレによって生み出された隠語だったのだ。
ちなみに本書では“色仕掛け(ハニー・トラップ)”と表記されている。そんな背景から考えると本書はいわばスパイ小説の文化を創った始まりの書と云っていいだろう。

内容はかなり詳細で膨大な数の登場人物が現れ、しかも内容も色んな方向に飛んでいくため、なかなか頭に入りづらかった。ル・カレ作品は手強いと云われているが、それを初めて実感した。

作中、ついに二重スパイ、ジェラルドの正体がビル・ヘイドンと解った時、耳をそばだてて会話の一部始終を聞いていたピーター・ギラムが胸に憤怒を滾らせるシーンがある。モロッコで惨殺された工作員たち、追放され、どんなに努力しても挫折ばかりの日々で若さが指をすり抜けるように失われていく。索漠感に常に囚われ、愛すること、楽しむこと、笑うことが出来なくなってくる。

生きる指針にしている事柄が腐食し、自らに抑制を強いて尽くしてきた。そんな思いが彼の胸に次々と去来し、裏切り者のビルへ全て叩きつけたくなる。
このギラムの想いはそのまま作者ル・カレの想いと云っていいだろう。

ル・カレ作品だが、それらを読んで感じたのは結末の余韻が実に抒情的なことだ。
スマイリー三部作の1作目と云われる本書は『寒い国から帰ってきたスパイ』よりも評価が高く、代表作こそコレだと推す人もいる。
正直ル・カレの作品は読後は感嘆はするものの、世評と自分が抱く感想との温度差に戸惑うこともままだ。

しかしこのように感想を書くために物語を再度繙いていくとそれまで見えてなかったものが見え、そしてそれがまた物語全体と最後の結末の余韻を色濃くさせ、しばらく心に留まり続けるのだ。

No.1608 7点 薔薇の殺意- ルース・レンデル 2025/01/15 00:38
私がレンデル作品を初めて読んだのが1998年。ウェクスフォード警部シリーズ第7作の『ひとたび人を殺さば』だった。それから23年(当時)を経てようやくシリーズの第1作を手にすることが出来た。ただ訳者あとがきによればウェクスフォード警部シリーズの邦訳紹介はその『ひとたび人を殺さば』だったようで、本書はシリーズ第2弾として出版されたらしい。
私は『ひとたび人を殺さば』を傑作だと思っており、恐らくはシリーズ訳出の試金石としてそちらが先に発表されたのだろう。日本の翻訳出版事情はこのようにシリーズの順番関係なく評価の高い作品から訳出される傾向にあるが、これは作者の作品を刊行順に読みたい私にとってあまり歓迎したくない風潮だ。

この有名なシリーズのデビュー作にしては実に事件は地味である。
地味な一人の女性の死。その犯人は正直現代ではさほど意外なものではない。寧ろ途中で私は犯人が解ってしまった。

本書が書かれたのは1964年。現在ジェンダーフリーが提唱され、認知はされつつあるがなかなか同性愛に理解が示されない世の中である。
つまりまだ女性を愛するのは男性であるという固定観念が強かった時代に本書の犯人を敢えて同性愛者に据えたことが斬新だったのだろう。

本書は二項対立による先入観と時の流れによる人の変遷について書かれた作品であることが最後に判る。
二項対立とは被害者であるマーガレット・パースンズと彼女の遺体の傍に落ちていた口紅の持ち主ヘレン・ミサル、そしてミサル家の専属弁護士クォドラント夫妻の妻フェイビアの2組を指す。
前者は化粧気のない地味な古風な美人だが、わずかに肥満気味と、まあどこにでもいる主婦だが、それに反してヘレンは夫がカーディーラーを経営しており、生活は裕福でドイツ人の若い女性ベビーシッターを雇って子供の世話をさせている派手で美しい女性であり、一方フェイビアも弁護士夫人として優雅な物腰と高価な服を着た、いわゆるスノッブと揶揄される上流階級の女性たちだ。
おおよそ接点のないこの3人の女性たち。寧ろヘレンとフェイビアはマーガレットのような女性と近所付き合いすることすら歓迎しないと思われたが、実はかつて同じ学校に通った女学生であり、しかも当時親しい仲だったことが判明する。
そして女学生時代、マーガレットはその美貌と年不相応の落ち着いた雰囲気から先生からも綺麗で魅力的だったと評され、他の女学生達の憧れの存在であり、集合写真を写すときも中心で周囲が学生らしい若さを漲らせた笑顔を見せるのに対し、彼女だけが口角のみを挙げた大人びた微笑みを浮かべる表情を湛えていた。まさに価値観の反転である。
「人は見た目で判断してはいけない」と云われるが、その反面「人は見た目で8割が決まる」と見た目が重視される言葉もある。この価値観の反転はまさに相反する謂れによって我々が見た目に惑わされているかを如実に表しているようだ。

「こう見えても私は昔はモテたのよ」と過去の栄光を懐かしむ人がいる。
それは現在の自分を顧みて、若さが自分にもたらせた輝きや万能感を惜しむ気持ちが滲み出ている言葉だ。自分が最も輝いていた時期を懐かしみ、そして惜しむ気持ちは誰しもあるだろう。

しかしこのマーガレットは違ったのだ。彼女が亡くなった時に新聞に掲載された写真を見たかつての知人たちは「昔は彼女も美人だったのにねぇ」と半ば同情と哀れみを持ちながら、そして昔の美人も人の子だったとホッとするとともにちょっとした優越感を得る気持ちもあるだろう。
しかし彼女は元々自分に自信がなかったのだ。
マーガレットは大人になって苦労して地味になったのではなく、それが本来の自分なのだ。
昔からかつては美貌で鳴らし、周囲の羨望の的であった女性が次第に老いていくことで老醜を露見していく様から「時の流れは残酷だ」と云われているが、しかしそれは実はかつての姿を知る他人が思うことであって、当人はそういう風には思っていないことが私には不思議である。いや彼女は既に魂の充足を手に入れていたのか、齢30にして。

しかしレンデルには感心させられる。実に人間臭い動機や考え、または性格が事件を生むまでに発展することを巧みに物語に、設定に取り込んでいるからだ。
正直本書がどれほど好評を以て迎えられたかが解らないが、2作目の『死が二人を別つまで』ではいきなりウェクスフォードとバーデン側からではなく、捜査を受ける側から書かれている。つまり2作目でいきなりアクロバティックなことをしているのだから、レンデルはウェクスフォード警部をシリーズキャラとして定着させたかったのではなかろうか。一方でレンデルはウェクスフォード警部物を書くのに後年うんざりしているとインタビューで答えている。読者の要請があるから書いているだけで自分の本質はヴァイン名義で書くような純文学寄りのミステリなのだとも。

しかし『薔薇の殺意』は原題とはかけ離れているが、原題はほぼネタバレに近い。しかしこの邦題はあまり内容に即した物だとは思えない。私なら『百合の殺意』とするだろう。最後になって題名の意味が解るようになるからだ。
しかしこれもネタバレギリギリか。
やはり内容に相応しい当意即妙な邦題を付けるのはなかなか難しいものである。

No.1607 7点 トム・ゴードンに恋した少女- スティーヴン・キング 2024/12/28 01:53
キング作品にしては珍しく300ページ強の比較的短めの長編。
本来ならばこのような少女の失踪事件が起きると行方不明のトリシアの決死行のドラマと彼女を捜索する側のドラマも描くのが定石だが、キングはそうしない。
キングはトリシアというこの1人の少女の孤独な戦いをじっくりとねっとりと描いていくのだ。

私が今回最も不穏だと感じたのは実は本書の題名である。
『トム・ゴードンに恋した少女』
そう、過去形になっているのだ。キングの物語が全てハッピーエンドに終わらないのは有名だ。従って本書の主人公、弱冠9歳のトリシアはもしかしたら助からないのではないかと読んでいる最中、心中穏やかではなかった。

そしてその不穏な想いに追い打ちをかけるようにこの少女の孤独なサバイバル行をキングはどんどんスーパーナチュラルな方向へ持っていく。彼女を襲うのは虫や腹痛や体調不良だけでなく、彼女を見つめる特別な「あれ」が出てくる。
物語の半ば、彼女は3人の人物と森の中で遭遇する。1人は彼女の通うサンフォード小学校の先生に似ており、もう1人は父親に似た男。そして最後はスズメバチの大群で出来た顔で彼女を森で見張る存在だと述べる。

悲しいかな。最後にトリシアが心通じ合うのは一緒に暮らしている母親ではなく、別れた父親の方なのだ。彼女が父親から貰ったトム・ゴードンのサイン入りのキャップこそが彼女を見事生還させる勇気のアイテムになったからだ。そして2人には野球という、いやレッドソックスという共有言語があるために言葉などいらない通じ合うものがあるのだ。
願わくばこの彼女と父親の魂の交流を機にこの夫婦が寄りを戻してくれればいいのだが。全てを語りがちなキングには珍しく、マクファーランド家の行く末について余韻を残した作品だ。

No.1606 10点 ヨルガオ殺人事件- アンソニー・ホロヴィッツ 2024/12/12 00:43
日本における、今に至るホロヴィッツ旋風の発端となった『カササギ殺人事件』のまさかの続編である。
私は前作を読んだときの衝撃はいまだに覚えており、現代の古典、即ち今後100年遺されていくミステリの傑作だと確信していた。それゆえ正直続編の本書を読むのは期待半分、不安半分、いや期待3割、不安7割といった感じで手に取った。

しかし本書はその私の不安で高められたハードルを易々と越えてしまった。前作に劣らぬ、いや前作にも増して本格ミステリに淫している作品だ。

私は前作を“ミステリ小説をミステリするミステリ小説だ”と評したが、それに倣えば本書は“ミステリ小説の中のミステリで現実のミステリを解決するミステリ”だ。そう、前作よりもミステリの文字が増えているのは、前作が一粒で二度美味しいミステリだったならば本書は一粒で何度も味わいが変わる重層的な味わいを持ったミステリだからだ。

このシリーズの最大の特徴は作中作であるアラン・コンウェイ作のアティカス・ピュントシリーズの1作が丸々読めるところにある。正直作中における現実世界のスーザン・ライランドのパートよりもこの作中作の方が面白い。

前作では物語が始まってすぐに作中作である『カササギ殺人事件』が始まったが、本書ではスーザン事件関係者への一通りの訊き込みが終わった300ページが過ぎたあたりからようやく幕を開ける。但し、本書では題名の『ヨルガオ殺人事件』ではなく『愚行の代償』という作品だ。
邦題は決して前作の大ヒットにあやかって決めたのではなく、原題“Moonflower Muders”とそのものだ。Moonfower、即ちヨルガオはスーザンの依頼人トレハーン夫婦が経営するホテル《ブランロウ・ホール》の1棟、ヨルガオ棟とそれをモデルにした『愚行の代償』に出てくる被害者メリッサ・ジェイムズが所有するホテル《ヨルガオ館》に由来する。さらにメリッサがヨルガオをホテルの名に選んだのは彼女が過去に主演した映画『ヨルガオ』から来ている。因みにヨルガオと夕顔は別の花であるからご注意を。
さてその『愚行の代償』だが、作者ホロヴィッツはまたしてもこの作中作を実にリアルに実在する作品であるかのように模して物語に入れ込んでいる。

とにかくこの作中作が良く出来ている。全ての登場人物が関わるエピソードが解決へ寄与しているのだ。もうこの作品だけで正直1冊の傑作ミステリを読んだなという充足感に満たされるのだが、さらにスーザン・ライランドのパートの事件の解決が待っているのだから全く以て贅沢な作りである。

私が驚嘆したのはその真犯人を補強する最終章での怒涛の畳みかけだ。それは『愚行の代償』の中に仕込まれていた現実世界の犯人への暗示の数々だ。献辞だけでなく物語のそこら辺至る所にライオンのモチーフや隠喩が込められているのだ。その数はなんと献辞を入れると14。私はいつの間にか眼前で繰り広げられるそれらモチーフの連続解明を「すげえ」を思わず連発しながら読んでいた。

つまり最後まで読むと『ヨルガオ殺人事件』よりもふさわしい題名があることに気付かされるのだ。しかしその題名こそはこのミステリの大いなるネタバレになってしまう。
それはズバリ『ライオン殺人事件』。これに関してはここまでに留めておこう。

ホロヴィッツ作品に登場する人物は仕事のできる男ほどイヤな性格の持ち主であるのが玉の瑕だ。
さらに云えば今までホロヴィッツ作品を読んで思うのは明かされる真相が決して爽快感の身をもたらすに終わらないことだ。謎解きの妙味は今が21世紀なのかと疑うほどかつての本格ミステリの妙味に満ちており、盲が啓かれるカタルシスを得られるのだが、明かされる真相そのものは心がざらつくようなドロドロした人間関係である。

さて色々書いてきたがもう1点、このシリーズのみならず、もう1つのダニエル・ホーソーンシリーズにも共通する出版業界や小説家を登場人物に扱っているからこその作家の創作の秘訣や編集者目線での作品に抱く感慨が織り込まれており、それがミステリ読者の興趣と共感を生んでおり、更に評価を一段上げているように思える。

日本のミステリシーンに衝撃を与えた『カササギ殺人事件』の続編として刊行されながら読者の期待値を超えるクオリティを眼前に繰り広げた本書。当然の如く、読者その続編を、いや特にまだ未読のアティカス・ピュントシリーズ残りの7作を期待したいところだが、最後のスーザンがシリーズ作を焼き払うシーンを読むに恐らくこの「カササギ殺人事件」シリーズは本書を以て幕引きとなりそうだ。
なんとも残念である。この渇望感をホーソーンシリーズで癒やすことにするか。

No.1605 8点 沈黙のパレード- 東野圭吾 2024/12/01 01:22
4年ぶりにアメリカから帰国した湯川学が最初に手掛ける事件が本書。時は確実に流れており、湯川は准教授から教授に、そして友人の草薙も捜査一家の係長に昇進している。

東野氏は殺害した側を応援したくなるように、読者心情を煽り立てるが如く、被害者である蓮沼寛一という男を唾棄すべき男として描く。
この蓮沼寛一という男は殺されても当然だ、いや寧ろこのまま生きていてこの世にいることで次の犠牲者が生まれる、殺されるべき人間だとして描く。

沈黙は金と云うがそれぞれの沈黙がもたらしたものの中には金に値するものがなかったものもある。
沈黙を守ることは己の罪悪感や喋って楽になりたいという欲望との戦いだ。それに勝てないからこそ、人は沈黙を保てないのだ。それを保てたのが真の悪人である蓮沼寛一であったことは実に皮肉である。

ところで私はこのシリーズを警察小説として読んでいなく、天才科学者が警察では想像すらできない真相を科学的論証に基づいて犯人へと導く、いわば現代に蘇った東野式ホームズシリーズだと思っていたが、今回では警察捜査の意外な情報が色々と得られる。
例えば高速のNシステムによる捜査記録は証拠として提出しないことになっていること。提出すればNシステムの仕組みや監視場所の詳細を法廷で明かさなければならなくなるから避けるというのが警察庁の方針であること。
指紋を残さないために手袋を着用するが、今では手袋痕を採取して犯行に使われた手袋を特定し、犯人の絞り込みを行うこと、等々。

また実は本書の殺人方法は海外古典ミステリのトリックを応用しており、作中でもその作品について触れられている。メインの殺害方法の原典であるアガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』とジョン・ディクスン・カーの『ユダの窓』だ。敢えて作者はその作品を触れることで本歌取りであることを示している。
温故知新。それが本書の裏テーマだろう。本書を読むことでこれら古典ミステリにも触れてほしいと云うのが本音だが、単に不可能的趣味に特化した古典ミステリよりも犯罪に加担したそれぞれの心情をも描いた本書を読んだ後では逆に物足りなさを感じることだろう。

しかし探偵ガリレオこと湯川学もずいぶん変わったものだ。以前は単にすっきりと答えの出る論理的解明や方程式など論理的思考だけに興味があったのに、人そのものに興味を持っている。本書で彼が関わる定食屋「なみきや」の面々と常に相席となって会話を愉しみ、蓮沼寛一という悪をチームワークで殺害したことに心を傷める。単に悪いことをしたから彼らは裁かれるべきだとして割り切った答えを出さないのだ。
この湯川学の心境の変化は作中でも湯川の言葉を通じて語られる。彼は『容疑者xの献身』で友人の石神が真犯人を庇おうとした献身が自身が真相を暴いたことで水泡に帰したことを悔いていたからだった。
ドラマ『相棒』の杉下右京はどんな理由であれ、罪を犯した者は裁かれなければならないと徹底的な勧善懲悪論に立っているが、湯川は寧ろ殺されるべき人を殺した人々、罪を犯すことで救われる人々がいることを理解し、どうにか救済しようと苦心するのだ。

私は本書を読んだ後、これはもう一つの『さまよう刃』だと思った。娘を犯され、無残に殺された主人公の復讐は結局叶わなかったが、本書ではその無念を晴らすかの如く、復讐が成就する。
殺人は犯罪であり、被害者がどんな者であろうと罪は罪であるというのは真理であるが、それでも殺してやりたいと思うのが人間の心理だ。
真理よりも心理を採った湯川の今後の活躍が非常に愉しみである。

No.1604 8点 ハリー・ポッターと秘密の部屋- J・K・ローリング 2024/11/29 00:30
映画を先に観ていることもあって、文章がするするとイメージを伴って頭に入っていく。

今回は多重構造のプロットであり、少年少女の読み物としては高度な内容だと思った。
秘密の部屋を中心にして起こる怪事件の犯人及び共犯者(正しくは共犯を自分の意志に関係なく強要された者)、秘密の部屋を探し当てるまでの経緯に仕掛けられた構造はかなりの紆余曲折を経ており、物語作家としてのローリングの才気溢れるといった感じだ。

犯人のアナグラム、共犯者がなぜ共犯せざるを得なかったのか、そして共犯者にジニー・ウィーズリーが選ばれた政治的陰謀、これら全てがものすごく練られていた。
秘密の部屋を核にしてマトリョーシカのように入れ子構造で数々の登場人物の思惑が交錯する。このプロットを十全に理解した少年少女は果たしてどれだけ存在するのだろうか?

クリスティ再読さんもおっしゃっているが、単なる少年少女向けファンタジーに終始していなく前述のような特徴からも判るようにミステリの要素が色濃くあり、これはやはりイギリスの作家であることも起因しているのだと思う。
ミステリ発祥の地イギリス。やはりミステリの血は濃いということか。

No.1603 7点 ミステリオーソ- 原尞 2024/11/25 00:39
本書は遅筆で有名な原氏によるエッセイ集。本書は1995年に発刊された著者のエッセイ集をもう1冊のエッセイ集『ハードボイルド』とに分冊したうちの1冊。
まず驚いたのは寡作家である著者が1冊に纏まるほどのエッセイを書いていたことだ。その内容は作者の遍歴と作者の趣味である音楽、とりわけジャズ、映画と小説について語られている。

この作家、かなりの気分屋で、己の規範を崩さない男だ。そう、彼自身の生き方そのものがハードボイルドに登場する、世の中を斜に構えて見つめる私立探偵そのものと云えるだろう。

とにかく自分本位な男である。

私は福岡生まれで、佐賀の鳥栖生まれで福岡の大学に通っていた作者とは親近感を覚えるが、公立の小・中・高を卒業し、一浪を経て大学に入学し、その後東証一部上場の企業に入社し、サラリーマンとなって現在に至るという堅実かつ典型的な普通の人生を歩んできた私とはかけ離れた綱渡りの人生である。従って安定主義の私は原氏のような生き方はとても怖くてできなく、またあまりにはっきりと物を云う態度に眉を顰めて理解に苦しむところがあることは正直に告白しよう。

本書で最も驚いたのは中村哲氏との対談だ。あのアフガニスタンで医療活動のみならず治水工事などインフラ整備にも尽力した日本人医師。そして2019年にアフガニスタンで武装勢力に銃撃され、死去した福岡の誇りだ。
彼と原氏が同級生であったことに驚き、そして両者ともまともに学校に通ってなかったことに驚く。普通の生き方をしていない2人だからこそ相通ずるものがその対談にはあり、これはかなり面白く読めた。

私が思うにはこのような人間こそが傑作を物にする、それも後世に残るほどの作品を書けるのだろうと思った。普通の生き方では得られない経験と人生訓。そういう知らない世界が描けるからこそ、人々は彼の小説を読み、そして自分の人生ではできない反抗と隠し続けなければならない反骨心を代わりに見せてくれる主人公に共感を覚えるのだろう。
そして原氏そのものがそんな生き方をしているからこそ、彼の作品は輝くのだ。彼の生活はとにかく自身の内に秘める欲求のままに突き進んでいる。

人間として魅力的かと云われればそうとは思わない。
生き方がでたらめだと思えば確かにそうだろう。
何物にも属さず、そして何者にも媚びず、自分が欲するままに生きる。
しかしだからといって暴力的ではなく、傍若無人でもなく不遜でもないが、頑固ではある。世界が止めろと云っても、販売禁止指定アイテムになってもずっとタバコは吸うだろう。そんな男だ。
本当に不器用な男だと思う。
しかし生き方が不器用なだけで音楽と映画と小説を観る目は確かで、その文章は練達の極みだ。
彼の生き方自体がジャズなのだ。生き方自体がアドリブとインプロビゼーションに満ちている。
それをカッコいいというには私は年を取りすぎた。寧ろ危うさが先に立つ。
こんな男がハードボイルドの第一人者だというのが悔しすぎる。
認めたくないが、認めざるを得ない。
そんな男なのだ、原尞という男は。

No.1602 6点 鏡の国の戦争- ジョン・ル・カレ 2024/11/22 00:44
前作『寒い国から帰ってきたスパイ』は世界的ベストセラーとなり、それがきっかけでル・カレは専業作家となった。その第1作が本書である。

潜入工作員をスカウトし、そして育てる一部始終が色濃く綴られる。但し、前作と異なるのが諜報部(サーカス)と呼ばれる英国情報部ではなく、ルクラーク・カンパニーというルクラークという人物が率いる陸軍部内の諜報機関である。このルクラークはちなみにジョージ・スマイリーとは知己の間柄である。

さて本書ではウィルフ・テイラー、ジョン・エイヴリー、ライザー3人の潜行員の様子が語られるが、面白いのはこの三人の任務での待遇が異なることだ。

例えばテイラーは古参の部員であり、今回初めて潜行員に選ばれた男だが、彼にとって海外での任務とはそれまではマドリッドでどんちゃん騒ぎをし、トルコにも再三行った、いわば“美味しい出張”を体験してきた身だ。
エイヴリーは部のボスであるルクラークを信奉し、彼の地位を押し上げるのに貢献したい、そのためには初の潜行任務を成功させなければならないと決意する、極めて真面目な部員である。
そして最後のライザーは退役した後、修理工場で働いていたが、かつての上司であったホールデンの訪問を受け、潜行員の任務を受けることにする。しかし元々兵士だった彼は今回要求される基地の情報を送るモールス信号に不慣れで、無線技術の専門家ジャック・ジョンソンの指導を受けながら訓練するが、何度も根を上げ、悪態をつく。

この3人を通じて諜報活動が私生活に及ぼす影響、スパイの心得や取るべき行動なども微に入り細を穿ってル・カレは記述する。
例えば初めて潜入任務を行うエイヴリーに対し、スマイリーはフィルムのサイズから質問し、泊まるホテルについて自分の一押しを勧め、ホテル内のレイアウトや贈る花束の花の本数や花の値段、時計をホテルの時刻に合わせること、タクシー代は渋らず、正規料金を払うこと、フィルムを受け取ったらポケットに入れて、カバンに入れてはならないこと、特にスーツケースは周囲の目を引くので危険云々。
このように細かい指令も含めてまさに一挙手一投足、指示通りに行うことを強いられるが、その3人の潜行員の任務を通じて知らされるのはどれほど綿密に計画を立てても、全くそのようにはスパイ活動は進行しないということだ。常に変化し、また想定外の事態が起きる。それは事前の調査不足であったり、万に一つの最悪の事態に遭遇したり、もしくは協力者の感情の揺れによって余計な言動がなされ、そこから周囲の注目を浴びたりもする。
しかし何よりも潜行員自身が被る多大なプレッシャーによる焦りと緊張が生むミスによるところが大きい。
特に本書の計画が崩壊する原因を作ったライザーの緊張感は並々ならぬものがあり、彼は致命的なミスを犯す。

そして本書でもジョージ・スマイリーが登場する。物語の通奏低音のように彼は腕利きの諜報員としてその名を轟かせる。
彼は諜報部の立場でルクラークたちの許を訪れ、ライザーの失敗により、潜行員の存在が東ドイツ側に漏れたことを告げ、彼を切り捨てて任務を終了するよう云い渡す。そう、彼こそは諜報に不慣れなルクラークたちに本当の諜報活動というものを教えるために来た、英国諜報部の原理原則そのものなのだ。

しかしよくよく考えると物語の発端は東ドイツにソヴィエトのミサイル基地が建設されているという情報を得て、それを探るためのスパイを潜入させよという内容。
つまり本書ではアメリカが体験したキューバ危機をイギリスに準えたもので、本来ならばその事実が判明し、そこから国防のためにミサイル基地の殲滅を計画し、遂行するという流れになるのだが、本書はそこまで物語は続かない。あくまで基調としては前作の流れを汲む、一介のスパイの悲劇を描いた物語なのだ。
つまり本当の諜報活動を熟知しているル・カレにとって基地の殲滅という行為は国際問題に発展する、いわば戦争であり、そんな戯画的なアクションは現実的ではないとして描かないのだろう。描くとすればあくまで国際間の政治家たちの駆け引きを描いて道筋をつける方向に進むことになるだろう。

しかし物語がシンプルなのに対して、細部に力を入れ過ぎたためにバランスの悪い作品になったことは否めない。
特にメインの潜行員フレッド・ライザーの章は約250ページと420ページ強の本書でも大半を費やされているが、彼が実際に東ドイツに潜行するのは160ページ以上費やしてからだ。つまりそれまではほとんど訓練シーンにページが割かれているのだ。
それはひょんなことから潜行員に選ばれた男の訓練の苦しみと任務の想像を絶する緊張感と国益優先のためにはリスクを排除するために命を切り捨てることさえ厭わない諜報の世界の非情さを対比させるには充分であったが、動きが少なく、地味すぎた。

しかし『寒い国から帰ってきたスパイ』と本書に共通するのは孤独なスパイの心の拠り所は女性ということか。
スパイがスーパーヒーローでもなく我々と同じ普通の人間、誰かの愛を欲する人間と変わらぬことを本書は前作でのメッセージを更に推し進めたように感じた。

No.1601 7点 骨の袋- スティーヴン・キング 2024/11/19 00:31
本書は妻を突然死で亡くしたベストセラー作家マイクル・ヌーナンが主人公の物語なのだが、その内容は実に流動的だ。
本書の大筋は妻を亡くしたことでライターズ・ブロックになった、つまり書けなくなった作家マイクル・ヌーナンが悶々とする日々を送る中、毎夜夢に登場するTRという正式名称もない町で買ったダークスコア湖の湖畔に建つ別荘へしばらく滞在し、そこで幽霊や生前の妻が取っていた奇妙な行動に出くわすという話だ。

今回作家を主人公にしているせいか、ジョージ・スタークのような虚構のみならず実在する作家の名前が頻出するのもまた一興だ。
それら実在する作家を例に出しながら小説家であることの意義やメリットについても作家であるマイクル・ヌーナンの独白の形で語られる。

例えばミュージシャンは途轍もないヒットを生み出す代わりに飽きられると消えてなくなるが、作家は年を取っても新作を書き、またベストセラーを出せると説く。アーサー・ヘイリーやトマス・ハリスが『ハンニバル』を出してベストセラーになったことを引き合いに出し、ミュージシャンの例ではヴァニラ・アイスが挙がっているのは傑作だった。
また出せば50万部、100万部の売り上げが約束される作家は1年に1冊は出すことが求められ、愛好者の多いシリーズキャラクターを持つ―キンジー・ミルホーンやケイ・スカーペッタが例に上げられている―と家族と再会したような効果があるので奨励されるなど。一方あまり出し過ぎると読者はつまらなく感じたりもするとも書かれている。
また日本では年末のランキングを意識して秋に小説の刊行が活発になるが、アメリカでも秋や新年に出版ラッシュがあるようで、本書でもクーンツが例年1月に新作を出すとかそれぞれの作家が出す作品がどのような類のもので、例えばケン・フォレットは過去の傑作『針の眼』に匹敵する新作を出すと云った情報交換がなされること、更には自分と同じ作風やジャンルの作家と出版時期が被ることでニーズを食いつぶすので避けることなど動向を気にしている様が語られる。

さて本書のメインプロットはシンプルに云えば不当に虐げられて殺害された、浮かばれない亡霊の復讐譚であるのだが、その背景にあるのはいわば記録に残らない、だがそのことを知る住民によって語り継がれる街の黒歴史の物語であることだ。

この何とも不思議な題名、骨の袋。それはトマス・ハーディの言葉に由来している。それはどんなに精彩豊かに描かれた人物であっても、所詮小説の中の人物は実在するくだらない人間には到底及ばない骨の袋に過ぎないという自己否定とも謙遜とも取れる言葉から来ている。つまりは小説内人物はどんなに魅力的であっても血肉を持つ実在する人間の存在感には到底敵わないと述べているようだ。

正直本書は数あるキング作品の中でも特段評価の高い本ではなく、キングと云えばコレ!というような作品ではない。
しかしキングの創作に対する考えやブラック・ライヴズ・マターや妻を亡くした男が目の前に掴めた幸せを奪われた哀しい作品として妙に印象に残ってしまうのだった。

No.1600 8点 寒い国から帰ってきたスパイ- ジョン・ル・カレ 2024/11/13 00:43
本書はジョン・ル・カレの名を広く知らしめたスパイ小説の金字塔と云われている作品で私もこれまで数あるガイドブックを読んできたが、スパイ小説の名作として必ずこのタイトルが挙げられていた。それはこれまでジェイムズ・ボンドのようなスーパーヒーロー然としたスパイ小説がまかり通っていた時代に秘密兵器や美女が登場しない、実にリアルで泥臭く人間らしいスパイを描いたことがこの作家の最大の功績だと云えよう。
従って今読むといわゆるスパイ小説の典型のように思えるが、実はそれらの系譜の起源は本書なのである。そして私がこの度、ル・カレ作品に着手するにあたり、最初に手に取ったのが本書だ。ル・カレ作品としては第3作目にあたる。

このル・カレの名を知らしめた本書はアレック・リーマスという50歳のベテラン英国情報部員の物語だ。
英国情報部は悉く自分たちの部員を殺害していった東ドイツ情報部副長官のハンス・ディーター・ムントの抹殺を企てる。その任務を負うのがアレック・リーマスで彼はそのために上司の管理官の指示に従い、まず彼が情報部の仲間の目を欺くためにベルリンでの任務失敗の責任を負って銀行課という内勤の仕事に付けられた腹いせに素行不良な情報部員となったと見せかけて馘首になり、彼に目を付けた新聞記者を通じてオランダを介してベルリン行きになり東ドイツの情報部員と接触する。

リーマスの語りを通じて知らされる諜報活動の内容と情報部員であるリーマスの特殊な思考はさすが作者自身が英国情報部の人間だっただけにリアリティがある。
本書に挙げられているスパイの特殊技能や独自の世界観は様々なスパイ映画や小説が書かれている今となっては珍しくもないが、本書が発表された1963年当時では驚愕だったに違いない。これはやはり自身が情報部に身を置いていたル・カレだからこそ書けたディテールなのだ。云い替えれば今日のスパイ小説や映画の素となった1つが本書なのだ。

物語の最終、英国共産党員の一員として東ドイツの共産党員との交流会に駆り出されたリズ・ゴールドと共に逃げ出すときに彼女と交わす会話はまさに任務と愛情のぶつかり合いだ。
スパイとは、諜報活動とは従来の人間の尺度では測れない次元の理論で物事が繰り広げられるが、それはつまり人間らしさという邪魔な感情を排しているからこそ一般の人には理解できないのであり、一方で任務のためならそんな感情をも利用してみせることが出来るのだ。

リズを引き入れて一緒に壁の向こうに行くか、それとも彼女をそのまま見捨てて自分だけ助かるか。
リーマスの選択結果は本書を当たられたい。

そしてこの最終章の章題が「寒い国から帰る」。寒い国とは即ちベルリンの壁で仕切られた東側だと思われたが、最後に至ってその寒い国の真の意味が解る。
そんなタイトルや章題に至るまで作者のダブルミーニングの意図が施された本書はまさに自身も英国情報部に勤めていた作者ならではの仕事だと云えよう。

さて本書ではバイプレイヤーとしてジョン・ル・カレ作品ではおなじみのジョージ・スマイリーが登場する。今回彼が表立って活躍する場面はなく、リーマスが英国情報部を首になってオランダに渡り、そこから東ドイツに送られる間に彼が最後に逢った図書館の同僚で愛人でもあるリズ・ゴールドを訪ねる時と最後リーマスがベルリンの壁を超える時にリズを置いて西側へ来るよう叫ぶくらいだ。調べてみると彼はル・カレのデビュー作からこの3作目の本書まで登場しているようだ。
彼の真の活躍と真価はこの後の作品で読めるようなので、楽しみにしていよう。

スパイ小説を読むことは実は歴史を学ぶことに似ている。しかし学ぶのは学校の授業や教科書では語られなかった歴史の暗部を覗くことだ。死の直前まで現役のスパイ小説家であったル・カレの諸作を読むことは第2次大戦後から現代まで連綿と続く裏側の歴史を追うことでもある。
彼が亡くなった今こそ彼の諸作を読むことは戦争が再び起きている今だからこそ意味があるのだろう。噛みしめるように読んでいきたいと思う。

No.1599 7点 水晶宮の死神- 田中芳樹 2024/11/08 00:39
ヴィクトリア朝怪奇冒険譚3部作最終作。田中氏のシリーズ物は完結に数十年費やすことがざらなのだが、幸いにしてこのシリーズについては僅か10年で完結することになった。しかし3部作であっても10年も掛かるのが田中氏である。

さて1作目では月蝕島というスコットランド沖の孤島、2作目ではイギリス北部のノーサンバランドにある髑髏城と国外に出ないまでも日帰りするには遠く、その地に行くまでもが冒険となる場所であったのに対し、今回の舞台水晶宮は元々ロンドンのハイドパーク南にあったがロンドン東南郊外のシドナムに移築された建築物である。そう、最終作の舞台はロンドンに住むニーダムとメープルたちが日帰りできる安近短な冒険舞台なのである。

それだけではなく、1作目の月蝕島、2作目の髑髏城が作者の創作であったのに対し、今回の舞台、水晶宮はかつて実在した建物である。この実在した建物の地下に広大な遺跡が存在し、そこを根城にする死神と名乗る仮面の男が今回の敵だ。

さてこれまでのシリーズでは19世紀に実在した人物たちが大いに物語に絡み、それら偉人たちの伝記では書かれていない蘊蓄が読みどころであったが本書でもチャールズ・ラトウィッジ・ドジスンが登場する。と云われてもピンとこないだろうが、実はこれは『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルの本名なのだ。今回登場時はまだ同作を発表していない時期で売れてない作家の1人である。

蘊蓄といえば歴史好きの田中氏の趣味が横溢しているのも特徴で、例えば15世紀にはスコットランドの南西部、ギャロウェイ地方で25年に亘って旅人を襲っては食べていたソニー・ビーン一族という食人族がいたこと、昔、墓泥棒が盛んだったのは医学の発展のために死体解剖をするために医者がなかなか手に入らない死体を欲したから、等々。いわば教科書では習わないイギリスの闇歴史が語られ、それがまた実に当時のイギリスの風習や風俗を偲ばされ、不謹慎ながらこのシリーズを愉しみにしている一面である。

最終巻である本書で気付かされたが、これら3部作が全て1857年にニーダムたちが経験した冒険であることだ。つまりある意味この年は彼とメープルの人生のターニングポイントであったと思えるのだが、本書の最後に語られる語り手のニーダムの回想ではさほど彼の人生を変えた出来事ではなかったとされる。

何しろこのような命の危険を感じるような心臓の鼓動が跳ね上がる冒険を1年に3回もすれば通常ならば吊り橋効果で男女の仲は深まるものである。それが叔父と姪の立場、31歳の男性と17歳の女性の歳の差14歳の間柄でも恋は恋である。お互いの命を思い、そして助け合った仲なのに2人は結婚をしなかった。しかしそれは2人が一緒にならなかっただけでなく、2人とも生涯独身を貫いたのだった。そういう意味では彼と彼女が誰かと一緒にならないと決めた逆の意味でのターニングポイントだったのかもしれない。

つまりこのヴィクトリア朝怪奇冒険譚3部作は実に静かに物語が閉じられる。主役2人の仲は発展せず、彼らが特別な人物になったようにも思えない。いやメープルはそれなりに活躍しているが、ニーダムに至ってはほとんど隠居の身である。

作者の田中氏がなぜ1857年という年を選んだのかも定かではない。歴史を繙くと有名な事件ではセポイの乱があったりアメリカで世界恐慌が起きたりしているが、本シリーズにはあまり関与はしなかった。

とにもかくにも作者はヴィクトリア朝時代を舞台にその時代を生きた偉人や著名人たちを自らの筆で描きたかったのだろう。歴史や風俗、そしてその時代に生きた人々の意外な側面が見れて個人的には楽しかった。

No.1598 9点 鬼火- マイクル・コナリー 2024/11/01 00:41
ボッシュシリーズというよりももはやボッシュ&バラードシリーズとなったシリーズ2作目ではミッキー・ハラーも絡んで、正しく書くならばボッシュ、ハラー&バラードシリーズ1作目となるか。まあそんな細かい話はこれくらいにして、感想に移ろう。

まず今回のボッシュの立場は刑事ではない。
前作『素晴らしき世界』で彼が予備警察官として雇われていたサンフェルナンド市警の同僚の自殺未遂を引き起こした廉で自宅待機状態である。従って一応予備警察官の職ではあるが、本質的には無職の男である。
そんな立場でもボッシュは今回複数の事件に関わる。

さて前作『素晴らしき世界』で出遭い、コンビを組むようになったレネイ・バラードとハリー・ボッシュだが、まだお互いのことはそれほど知らず、今回初めてバラードはボッシュがミッキー・ハラーの調査員を務めていることを知って嫌悪感を示す。
そう、ミッキー・ハラーは今まで自分たちが捕まえてきた犯罪者を無罪にする、もしくは裁判自体を無効にする警察官にとって唾棄すべき敵だとみなされており、レネイ・バラードもまた例外でないことが判明するのだ。

ボッシュはハラーのことを弁護するが、彼女に彼が異母弟であることを明かさないところにまだ自分の中でもハラーの手伝いをすることが仲間である警察官を裏切っている思いが拭えないことが判る。
従って今回ハラーの弁護を成功させたときに彼は面前で罵られ、裏切り者の誹りを受け、胸を痛める。しかし彼は今度は元刑事として自由の身である真犯人を探すことに注力する。
しかしその正しいことをしようとしても、ハラーの片棒を担ぎ、裁判を無効にしたハリーをロス市警の連中を許すわけがなく、電話をしても激しく突き放される。ロス市警時代に数々の功績を挙げたボッシュでさえ、尊敬を得られず、過去の人物として非難される姿は読んでて胸を痛める。

ではレネイ・バラードはどうか?
彼女はボッシュとは対照的である。
前作でもそうだったが、今回事件のクライマックスで女殺し屋のカタリナ・カバと対決した際に瀕死の重傷を負うが、なんと彼女のために30人以上の警官が献血のために訪れたことが明かされる。
そう、彼女には味方となる同僚がたくさんいるのだ。ただ彼女も今回ボッシュの未解決事件の捜査のための盗聴許可を得るために判事を騙して許可を得たり、ほとんど一般市民と変わらないボッシュを停職中の予備警察官なのだから刑事と名乗って構わないと捜査に介入させたりとボッシュに感化されたのか道を踏み外す傾向が見られた。
信用を失わない程度にしてほしいとヒヤヒヤさせられる。

しかしやはりボッシュの前からは人は去りゆき、バラードの周りには人が集まるのだ。
この対照的な光と影の、陰と陽の2人の刑事の対比がまた読みどころの一つなのだが、せめてバラードだけはボッシュの許を去らないでいてほしいものだ。

そのボッシュも齢70近くになったことが判明するが、作者はそれでもこの男に新たな危難を設ける。なんとボッシュは白血病に罹ったことが発覚するのだ。それは彼が過去に関わった殺人事件で大量のセシウムが奪われた案件で彼がそれを回収したときに被曝したことに由来すると考えられていた。
そう、その事件こそは『死角 オーバールック』で彼が扱った事件だった。2007年の時に刊行された作品の事件がこの2019年に著された作品に影響を及ぼす。

これなのだ。これがシリーズを、いやマイクル・コナリー作品を読む所以なのだ。
それはシリーズを永らく読んできた読者だけが得られる単なる特権意識なんかではない。
それはこのシリーズを共に歩んできたからこそ得られる愉悦なのだ。
そう、我々がボッシュの歩んできた半生を共に体験していることを実感させられるこの瞬間こそが読者としての報いであり、そして何事にも代えがたい黄金なのだ。

巻末の作品リストを見ればまだまだボッシュの物語は続くようだ。刑事でなくなったボッシュは悪をのさばらせさせないというその強い思いで犯罪者の摘発にまだまだ食らいついていくようだ。
「だれもが価値がある。さもなければだれも価値がない」を信条に抱いて。

ボッシュの人生はまだ続く。そして私がその人生を追うのもまだまだ続く。
ボッシュが生きている限り、いやコナリーが物語を紡ぐ限り、私はずっと追いかけていこう。
それだけの価値があるのだ、このコナリーという作家の描く物語は。

No.1597 7点 ダーク・タワーⅣ-魔道師と水晶球-- スティーヴン・キング 2024/10/25 00:46
本書の中心はガンスリンガー、ローランド・デスチェイン若き日の物語が語られる。それは彼が愛した女性スーザン・デルガドとの出会いの物語だ。

しかしその前に物語は前巻のクライマックス、自殺願望のある超高速モノレール、ブレインとのなぞなぞ対決から幕を開ける。

そして彼らがブレインとの勝負に打ち勝ち、降り立ったカンサス州のトピーカで、彼らはその世界が“キャプテン・トリップス”の感染爆発後の世界だと知る。
そう、この現実世界で猛威を奮っている新型コロナウイルスを彷彿とさせる超インフルエンザはキングの大作『ザ・スタンド』で登場したウイルスである。
つまりこの〈暗黒の塔〉の世界と『ザ・スタンド』の世界がリンクしたのだ。しかも本書でこの感染症がレーガン政権の時期であることが判明する。ちなみにレーガンと当時の副大統領ブッシュは感染から免れるため、地下の避難所に逃げ込んだと書かれている。

さて本書のメインは若かりし頃のローランドの恋バナである。この時ローランド14歳。そして任務で彼は訪れたハンブリーの行政長官ハートウェル・ソリンの愛人となったスーザン・デルガドと出遭い、恋に落ちるのである。
町中に知られた権力者の愛人が調査に訪れた美男子の役人と道ならぬ恋に落ちる図式である。しかし元々スーザン自身もいわば愛人という情婦という立場なのだが、相手が町の権力者ならばそんな立場でも一目置かれる存在となっている。

このキング版『ロミオとジュリエット』とも云える二人の恋路はまず始まりまでが実にじれったい。一昔前のラブロマンスのようだ。

しかし二人の思いが通じてからはもう止まらず、秘密の待ち合わせ場所を選んではセックスに耽る。まあ、十代2人のセックスだからなんとお盛んなことか。そしてその若さゆえにもう止まらないのだ。ローランドは自分が身分を偽って父親から重大な任務を授かっていることをどうでもいいと思い、スーザンもまた彼女が行政長官と褥を重ねるまで純潔を守らなければならないことなど他愛もないことだと思うほどに、2人の欲望は若さの勢いのまま、迸るのだ。2人の恋はハリケーンなのだ。

この〈暗黒の塔〉シリーズはやたらとこのセックスシーンが登場するのが特徴だ。その行為が新しい何かの誕生を象徴しているからだろうか。

さてこのローランド・デスチェインとスーザン・デルガドの恋は彼が仲間達に悲痛な面持ちで語ることから、悲恋であることは間違いなく、何とも哀しい結末を迎える。

さてこのダークタワーの世界では我々の現代社会とのリンクが見られるが、今回も色々登場する。
例えば最初のブレインとのなぞなぞ対決ではマリリン・モンローの名が出たり、74年のアメリカのTVドラマ“All in the Family”のキャラクター、イーディス・バンカーなんてのも登場する―これがブレイン攻略の糸口になるわけだが―。
またクリムゾン・キングも登場する。もちろんこれはプログレバンド、キング・クリムゾンであり彼らのデビューアルバム『クリムゾン・キングの迷宮』に登場する真紅の王である。
などと書いていたらこのローランド達の住まう世界が我々の未来であることが判明する。つまり何らかの理由で現在の文明が失われた世界なのだ。その何らかの理由が最後になってキングのある作品と繋がることで朧気に見えてくる。

しかし今回でさらにキャラが立ってきたように思える。特にブレインとの決戦で自分の知能レベルまでブレインを誘い込み、日常の下卑たジョークをなぞなぞにして撃破したエディは意外性の男として認知させられた感がある。
しかし更にも増して存在感を醸し出したのがガンスリンガー、ローランド・デスチェインだ。彼の過去が語られることで彼の造形が深まった。いやあ、まさか初対面の女性がときめくほどの美男子だったとは。そして彼の家族も忌まわしい過去を纏っていることが判明した。
愛する女性を2人も喪った哀しき運命の男。それがローランド・デスチェインという男なのだ。

さて今回判明したのはローランドの住むこの〈暗黒の塔〉の世界には〈内世界〉と〈中間世界〉、〈終焉世界〉があることだ。そして〈終焉世界〉には希薄があり、それが不快な音を立てているようだ。ローランドは〈内世界〉の住民でニュー・カナーンという〈連合〉の中心の出身であることが判明する。
これが未来の我々の世界であるわけだが、外側に行くほど希薄という世界の境に近づく。

色々な憶測が出来る巻であった。
そしてそれはこれまでキング作品を読んできた者だからこそ解るリンクでもある。キングは自身の読者を愉しませる術を心得ている。彼の膨大な著作を読む甲斐や意義を感じさせてくれる作家である。
キング・ワールドの中核をなすと云われているこのシリーズの全貌がようやく見えてきた感があるが、まだまだサプライズを期待できそうだ。

No.1596 7点 怪奇疾走- ジョー・ヒル 2024/10/22 00:35
ジョー・ヒルの今回は短編集。しかも父親スティーヴン・キングとの共作も収録されている。

ジョー・ヒルも父親キング同様、物語が長大化しており、前作『怪奇日和』は1作がページ前後の中編集だったが、本書は、好評を以て迎えられ、一躍ジョー・ヒルの名を知らしめた『20世紀の幽霊たち』と同様の30~70ページ前後の短編集であり、しかも父親キングとの共作も含んでいるとあれば期待も高まるものである。

『20世紀の幽霊たち』でもそうだったが、ジョー・ヒルの短編の舞台は何ともヴァラエティに富んでいる。
アメリカの路上にとある遊園地にあるメリーゴーラウンドやロンドンのウルヴァートン駅、そしてバーモント州のシャプレーン湖にアフリカの狩猟区から異世界の狩猟区、移動図書館、近未来の世界、ニューヨーク州のハメット、イタリアの片田舎スッレ・スカーレ、アリゾナのサーカス、どこかのアメリカの片田舎、カンザス州の背高い草原、ボストン行きの飛行機の中ととにかく同じところが一つもない。

そして内容もまた同様だ。
アメリカの路上を横断するバイカーたちを襲うタンクローリーの話に曰くあるメリーゴーラウンドの木馬たちに突如襲われる闇夜の悪夢、そして出張先のロンドンの列車内で遭遇する狼人間たちの群れ、そして湖に棲むと云われていた怪物との遭遇に空想上の動物たちがいる狩猟区での狩りで見舞われる意外な展開、過去に遡って延滞した本を返却してもらう代わりに運命を変える本を貸す移動図書館、人生のどん底にいる少女の前に現れた友達ロボットとの素敵な一夜、退役した元女性兵士が出くわす見えない脅迫者、片思いの幼馴染を盗られた嫉妬に駆られてその恋人を殺害した男が逃げ込んだ異世界、旅行中の一家が迷い込んだゾンビたちのサーカス、アメリカの片田舎でとある家族の不和と不思議な菊の話、妊娠した妹と共に親戚の家に行く途中で出くわした高い草原に迷い込んだ親子を救おうとしたことで自分たちも脱け出せなくなる兄妹の話、フライト中に核戦争が勃発した乗客と乗組員たちの心模様と扱うジャンルも様々である。

本書の目玉はなんといっても父親スティーヴン・キングとの共作だろう。そのキングとの共作は2編あるが、1編目が最初に収録された「スロットル」である。
これはスピルバーグの『激突!』の本歌取りのような作品だが、タンクローリーに襲われるバイク集団の中心人物が親子であるというのが心憎い。いつも人を馬鹿にしたような態度を取る息子が恐怖に向き合った時にひたすら逃げるだけの態度を取る息子の姿に失望をしながらも、ただ一人ローリーに追われる身になった息子を思うときに蘇るのは幼き頃の肖像。結局憎らしい息子を救いに行く父親はしかし最後は彼を突き放し、戦友と共にいることを選択する。
この父と子の物語を2人はどんな思いで書いたのか、興味がそそられるではないか。

もう1つの「イン・ザ・トール・グラス」は背高い草原に迷い込む兄妹の話だが、2人を導くのは子供の助けを呼ぶ声。つまりモチーフとしてはキング自身の短編「トウモロコシ畑の子供たち」を想起させるのだが、ある意味これはキングから息子へのバトン渡しを示しているのではないか。
ジョー・ヒルは作品はあとがきにも書いているが、過去の色んな名作から本歌取りをして作品を紡ぐことが多いようで、その中には父キングの作品も入っており、特に『ファイアマン』はもろ『ザ・スタンド』と設定が被っている。
それは一方で読者にやはり父親キングを超えることは叶わないのかと物足りなさを感じさせたが、本作を共作とすることでキングは父親から自身の作品の衣鉢を継いで伸び伸びと創作してほしいとメッセージを込めたのではないか。

そういう意味では「スロットル」もまた大型のタンクローリーが襲い掛かる恐怖はキングが昔から扱った“生ある機械の報復”のテーマを感じさせる。やはり本書で父は息子へバトンを託したのだ。

それは最後の収録作が「解放」、原題“You Are Released”であることが象徴的だ。
この物語はしっかりした結末が付けられているわけではない。着陸前にロシアとアメリカの核戦争の開戦に出くわしたボストン行きの飛行機に乗り合わせた乗客と乗組員それぞれのエピソードが語られるだけである。そして機長は管制塔から指示されたアメリカの都市ファーゴが第一核攻撃地点だと判断して北のカナダに進路を取り、それを管制官が無事を祈って物語が終える。
私はこの作品が題名と云い、情況と云い、今後のジョー・ヒルの作家活動を暗示しているように思えるのだ。
ジョー・ヒルがカナダに活躍の場を移すというのではない。上
の父キングとの2作の共演を終えて、彼は本歌取りをしても、自身なりの物語を生み出せばいい、そして父キングからそれは今まで自分の数多ある題材から取っても構わないと背中を押された、文字通りリリースされたように感じた。

もちろん上に書いたように最近の作者は開き直って堂々と父親の作品の設定を似せて作品を書いてきたが、どこかしこりがあったのではないだろうか。
しかし今回ようやくそれが父に正式に認められ、重荷から解放されたように感じられるのだ。世間や書評家、そして読者はどうしてもジョー・ヒルを語るとき“スティーヴン・キングの息子”と付けてしまうだろう。それを彼は嫌がって自身の著者名にキングの名を付けなかったのだが、逆に彼は父があまりに偉大であるから、敢えてその看板を背負おうと決心したのであはないか。ただ彼は父の過去作の亜流であれ、自分の好きなものを書くと決意し、ある種憑き物を落としたかのように思えるのだ。

さてそんな本書のベスト作を挙げるとすれば「遅れた返却者」だ。これは本を愛する者全てに読んでほしい物語だ。
私はよく“本に呼ばれる”感覚に陥る。それは特に何の意図もなく選んだ本たちの内容が何らからの関係性を持って数珠つなぎのようにリンクし、心にテーマが刻まれるような不思議な縁を感じることを云うのだが、本作もまさにそのようなもので、延滞した本を返しに来た、既にこの世にいない「遅れた返却者」が本来なら読む事の適わない21世紀の本を渡されることでその後の運命が変わるという設定が素晴らしい。
まさに本がもたらす人生のワンダーである。「読まずに死ねるか!」と云ったは内藤陳氏だが、もしそんな自分の死後に出版される自分好みの本を読むことが出来たなら、読書好きにとって本望に違いない。これはそんな読書家の夢を描いた作品だ。

次点では「シャンプレーン湖の銀色の水辺で」と「きみだけに尽くす」の2作を挙げよう。

前者はレイ・ブラッドベリの名作「霧笛」の本歌取りとも云うべき作品だが、この主人公のゲイルという女の子がお鍋を被ってロボットに扮するなど自分の世界を持った不思議少女であり、近所に住む兄弟の兄が好きで将来結婚を誓っているというのがまた私の心をくすぐった。特に2人が怪物の死体の発見した記念として歯を抜き取ろうとするシーンも郷愁を誘われる。
そんな細々とした生活と子供たちの世界の日常が描かれることで、その子の恋人が家族を呼んでいるうちに怪物の死体と共にいなくなった時の喪失感が堪らない。彼女の人格形成に今後この喪失がどんな影響を及ぼすのか、子を持つ親として気にならずにいられなかった。

後者は未来を舞台にしたシンデレラストーリーで、題名は主人公に尽くすアンドロイドの献身を表している。不遇の若い女性に夢を与える典型的なシンデレラストーリーなのだが、最後の結末は何とも現実的で驚かされた。
未来のシンデレラは夢や友情よりも明日を生きる先立つものととことん現実的なのだ。

私はやはりジョー・ヒルは長編よりも中編・短編向きの作家だと再認識した。上に書いたように本書の題材や舞台は実にヴァラエティに富んでいる。つまり彼の中にも父同様、沢山の物語が詰まっているのだ。
それらをエッセンスを凝縮した短・中編としてどんどん内なる物語を開放してほしい。
そしてそれを父が読み、またキングも触発されて素晴らしい作品を紡ぐ相乗効果を期待したい。

No.1595 7点 不安な童話- 恩田陸 2024/10/17 00:32
恩田陸氏の3作目となる本書は生まれ変わりをテーマにした物語だが、それ以外にも古橋万由子のサイコメトリーや近未来を幻視する能力だったり、臨死体験や幽体離脱などいわゆるオカルティックな内容が色々盛り込まれている。
ナイル川に対するピラミッドの配置が天の川に対するオリオン座を模しているという仮説や母親が出産の際に子供の苦痛を和らげるために分泌するホルモンが前世の記憶を消し去る作用がある、等々、オカルト雑誌「ムー」の記事のようなエピソードが語られ、またそれらは私も好きなものだから久々に楽しんだ。

そんな世にも奇妙なエピソードに彩られた物語は最後になって実はオカルトではなくミステリであると判明する。

色んなことが論理的に解明されるが、それでもファンタジーの要素が全くないわけではない。特に恩田氏は人それぞれが持つ特殊な能力についてはそのままとしている。

古橋万由子が高槻倫子と同じく他者の忘れ物を映像的に「観て」云い充てる能力や高槻秒の人の気持ちに同化して感情を読み取る能力だったり、高槻倫子の友人であった十和田景子の過去を見る能力もあった。
それらはミステリであっても人の持つ不思議は解き明かせない、寧ろだからこそ人は面白いというのが恩田氏の創作姿勢ではないだろうか。作中で十和田景子が呟くように「世の中には色々な人がいる」というのが恩田氏のスタンスなのだろう。

そういう意味では本書で最も最たる特徴を持つのは高槻倫子という美しい夭折した画家に尽きるのではないか。

本書は上述のように恩田作品としては3作目にあたり、デビュー作の『六番目の小夜子』、2作目の『球形の季節』がそれぞれ学園ホラーと地方都市ファンタジーと続いたことから本書も扱うテーマが生まれ変わりということでてっきりオカルト、もしくはその設定を前提にした高槻倫子殺人の犯人捜しのミステリだと思われたが、古橋万由子の生まれ変わりという設定さえも論理的に解明される。つまり自身のそれまでの発表作まで本書においてトリックに寄与しているのだ。
本書を以て恩田氏が作品ごとにジャンルを変える作家であることがさらに強調された。ホラーやファンタジーと云った超常現象のみを扱う作家ではなく、ミステリも書けるのだと。

今なお旺盛な創作力で既成概念に囚われない自由な作風と設定の作品を次々と生み出している恩田氏のダイバーシティを認知させる意味でも、案外知られていないが本書の位置付けは重要な作品であると云えるだろう。

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