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ミステリの祭典

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平均点:6.33点 書評数:2111件

プロフィール| 書評

No.631 8点 たった一人の海戦
セシル・スコット・フォレスター
(2019/08/29 02:31登録)
(ネタバレなし)
1893年の英国。青果販売業で財を為した実業家の長女で29歳のオールドミス、アガサ・ブラウンは、知人の家に宿泊に向かう途中、車中で知り合った英国海軍中佐の青年R・E・S・サビル=サマレイと、ほぼひと目ぼれ同士の恋に落ちる。そのままサマレイに処女を捧げたアガサは五日間の同衾ののち、平静を装って帰宅。その時に懐妊していた彼女は、やがてシングルマザーとして息子アルバートを生んだ。アガサはその後、サマレイに二度と会うことは無かったが、彼の素性を調べて知り、息子アルバートに英国海軍軍人となる道を歩ませる。やがてアガサとサマレイの出会いから長い歳月が経ち、海軍の一等水兵として巡洋艦カリプティス号に乗艦したアルバートは、第一次世界大戦の戦役に就くが、乗船はドイツ海軍の巡洋艦ツィーテンに撃沈された。ツィーテン号の捕虜となったアルバートだが、同船が洋上の孤島で中破した船体を修理する隙をつき、ライフルと銃弾を持って脱出。島の入り組んだ自然を利用しながらツィーテン号の乗員を次々と狙撃し、敵巡洋艦の出航を阻む。

 1929年の英国作品。評者はフォレスター作品は、かの「ホーンブロワーシリーズ」や、本作と同様のノンシリーズ編『アフリカの女王』など何冊か購入だけはしているが、長編小説の実作を読むのはたしかこれが初めて。(『終わりなき負債』は読んだような、まだのような……はっきりしない(汗)。そのうち改めて確認してみよう。)
 まあ映画なら『アフリカの女王』も『艦長ホレーショ』も観ておりますが(笑)。
 
 しかし部屋に積んだ本の山の中から出てきて、なんとなく読み始めたこの作品、予想以上にエラく面白かった。
 確かパシフィカ版(今回もコレで読了)の刊行当時に「小説推理」だったかの月評で北上次郎が本作を激賞していたような記憶があり、その時のキーワードが「母親」だったのは今までなんとなく覚えていた。しかし母親キャラがキーパーソンっていったってどういう意味だろ、まさか子持ちの母親が英国海軍に入って海戦に出るわけじゃあるまい? と思っていたが、一読してあらすじのような内容と認め、疑問は氷解した。
 これは第一次大戦時の英国海軍版『巨人の星』だったのである(いや、母親だから同じ梶原一騎作品でも『柔道賛歌』か? まあ、どっちでもいいが(笑))。
 自立する女性としての矜持から、息子の父である男性にも実家にも頼らず、シングルマザーとして生んだ息子を育て、そしてその上で父親から受け継いだ資質の海軍軍人として成長させようとする強烈なまでの意志の強さ。本作の中盤は回想形式でもうひとりの主人公アガサの人生と、そんな母親から訓育を受けて成長するアルバートの親子ドラマが描かれるが、ここだけでこの作品は充分に面白い。

 しかし作品はそこで終点を迎えようとはせず、リアルタイムでのアルバートの孤高の戦い、島でのツィーテン号への妨害戦に後半の物語を宛てていく。この二段組三段組の小説の跳躍感はなにものにも変えがたい。そして迎えるエピローグ。このクロージングが提供する感銘は、未読の人に絶対に明かすわけはいかないが、緊張と高揚、切なさと苦さ、さまざまな思いのつまった見事な一冊を読み終えたという充実感で胸がいっぱいになる。
 アガサの思惟とサマレイのDNAを受けて海軍の水兵という焦点の定まった道に向かって歩んでいくアルバートの生き方も星飛雄馬なみにいびつなんだけど、この小説は目指すところゆえに、そんな彼が主人公じゃなければ達成できない最終的な観念と文芸がある。こういう力業が許され、価値を持つのが小説(またはフィクション)というものの存在意義であろう。すごいロマンである。

 娯楽戦争冒険小説でありながら、小説の品格そのもので戦争の愚かさをおのずと訴える反戦作品の形質を築いているのもとてもよい。送り手が声高にそんなもの(反戦テーマ)をメッセージとして掲げるのでは無く、この作品のなかから読者がそれを読み取るのを待っているような、そんな上品さがある。
 遅ればせながら、クラシック系の英国冒険小説を嗜む者の末席の一人として改めて、フォレスター作品は少しずつ味わっていきたいと思う。


No.630 6点 ボーン・マン
ジョージ・C・チェスブロ
(2019/08/28 20:38登録)
(ネタバレなし)
 1980年代末。ニューヨークにひしめく四万人のホームレス。その中に、人間の大腿骨を握った30歳代と思われる寡黙な男「ボーン(ボーン・マン)」がいた。NYの公的ソーシャルワーカーのアン・ウィンチェイルは、そんなボーンの中に秘めた高い知性と雌伏する生命の活力を認めて支援を図るが、当のボーン自身は一年前から記憶を失ったホームレスとなり、さらにこの一週間程前から改めてまた現在の記憶を失っていた。そんななか、謎のシリアルキラーによるホームレスの首切り殺人事件が続発。警察は、そしてボーン自身は、記憶を失っていた最中のボーンが殺人鬼でないのかとの疑念を抱きはじめる。そして自分自身の中に潜むもうひとりの見知らぬ者(過去の本当の自分)を探し求めるボーンは、たとえ最悪の結果になっても、その真実を知りたいと願うが……。

 1989年のアメリカ作品。作者G・C・チェスプロは日本でも何冊か翻訳が紹介されているが、大昔に評者は、作者のシリーズキャラクターである小人の私立探偵モンゴ(リチャード・フレデリクソン)ものの第一作『消えた男』にいたく感銘。ネタバレになるので何も言えないが、とにかくこれが破格の一作でいろんな意味で心の琴線にひっかり、エラく大好きな作品となった。
 時期的に言えばネオハードボイルドの渦中の一作なんだけど、たぶん総数100冊以上は絶対に読んでいる同ジャンルの中で、コレ(『消えた男』)が五本の指に入るくらいスキである。(しかし翻訳はあまり出ないので、シリーズ第二作目の『囁く石の都』は手をつけずにずっと未読で取ってある~気がついたら、同じ本を二冊も買っていた(汗)。)
 そういうわけで数年前にミステリファンに復帰し、この20~30年間ほどの翻訳ミステリ界の状況を探求したところ、こんなのが出てると知ったときのうれしさ。モンゴものじゃないよ、ノンシリーズだよ、でもあちらこちらでカルト的に評判いいよ、という感じで読むのをすごく楽しみにしていた一冊である(ちなみにこれも同じ本を二冊買ってしまった~ああ、しょーもない~汗~)。

 それで内容は、Amazonのレビューではクーンツっぽいという声もあるが、まあ確かにクーンツとかキングとかの非スーパーナチュラル系作品、あの辺の重量感とそれを意識させないリーダビリティを備えており(文庫版でほぼ500ページ)、主要登場人物は決して多くないものの、殺人鬼の犠牲になるホームレスたちをふくめて劇中キャラはそれなりに多く、シーンの転換もかなり多い(特にストーリーの本当のメインステージとなる、NYの(中略)世界の広大な描写は圧巻)。
 
 この物語の主題となるのは主人公ボーンの記憶喪失(そしてその当人の過去の謎)と、大都市ニューヨークのホームレス問題だが、特に後者は社会派ミステリ的な視線も導入。中でも作中人物の語る、自由の国アメリカは最低限の生存だけは保障するが、その上はない煉獄、という主旨のメッセージ性は心に響く。それでもホームレスの中からそのままでいるものと、やり直す努力に向き合う事のできるもの、その双方をなるべく等しい距離感から語ろうとする作者の姿勢には、ある種の誠実さを感じるが。

 ただしミステリとしては、かつての『消えた男』の「はああああ~!?」という衝撃をいまだに覚えているものからすれば、かなり期待外れ。少なくとも謎の殺人鬼の正体を追うフーダニットとしては完全に勝負を捨てている。わたしゃ……(中略)。
 とはいえ、ページ数がどんどん減じてくる中で、一体どういう感じでこの作品は山場を設けるんだ? とやきもきさせるあたりとか、確かにエンターテインメントとしてはうまいことは上手いのよね。そういうところで世の中から評価されているんだとしたら、それはアリだとは思う。
 期待値が高すぎたため、ちょっと及ばすというところはありますが、素で読めば相応に面白い作品だとはいえるでしょう。
 チェスプロはまだ翻訳があるようだから、そっちもいずれ読みたい。


No.629 7点 探偵物語 赤き馬の使者
小鷹信光
(2019/08/28 18:53登録)
(ネタバレなし)
 「おれ」こと新宿の私立探偵・工藤俊作は、匿名の人物の依頼で、現金二十万円と現地への航空券が同封された封筒を受け取り、北海道河東群の鹿射(しかうち)町に向かう。依頼の内容は、土地の大地主で酪農家・安藤清蔵の息子・誠の身上調査だった。まだ二十歳の若者、誠の調査を難無く終えた工藤だが、彼はその夜、ホテルで謎の三人の暴漢に襲われる。病院で治療を受けた工藤は、襲撃された理由が今回の調査に関連すると推察。改めて鹿射町と安藤家に接近するが、そこで工藤は、8年前にこの地で死亡した彼自身の両親、そして妹に関連する過去にも向かい合う事になる。

 時代を超えて支持される、故・松田優作のテレビシリーズ『探偵物語』。同企画に原案(文芸設定上の大綱)を提供した小鷹信光が、その設定の大枠だけを共通するものとして書いた小説版の第二弾。だから原作ではなく、あくまでメディアミックス企画の小説版である。
 主人公・工藤俊作は、文芸設定上こそ名前も年格好もテレビ版と同じだし、テレビ版で活躍したセミレギュラーの女弁護士・相木政子や、工藤と同じビルに住むお騒がせ女子コンビのナンシーとかほりも登場するが、主人公の工藤の性格や言動はかなり、他のサブキャラたちのそれらも相応に、テレビ版と小説版では異なる(ただし本作では、ナンシーとかほりは実質的に欠場)。
 まあ世代人のアニメファン、漫画ファンなら、東映動画版とコミック版のゲッターチーム(『ゲッターロボ』)、あれくらい同じ名前で同じ大枠ながら実質は別もの、という感じに思えばよいかも?

 それでごく私事ながら、評者はこの夏、7月いっぱいで閉館するというので池袋のミステリー文学資料館に足を運び、そこで半日、貴重な資料を見てきたが、同施設で手に取った一冊の中に、新保博久教授が編著の私家製ミステリファンジンがあった。それでその誌面には十年単位で20世紀~21世紀の切り替わり時期の歴代国産ミステリベスト作品が列記されていたのだが、1980年度の新保教授のベストワンがこの作品であった。
 おや、これってそんなにスゴイ作品だったのか!? そういえば先日、古書店で幻冬舎の文庫版(1999年版)を100円で買ったな、と思って取り出し、少し前に読んでみた。
(実は元版(1980年のトクマノベルズ版)も昔買っているのだが、そのまま家のどっかに今も眠ってる。ただし文庫版は、元版から20年近くの歳月を経た当時の作者によって総数200箇所近くの改訂がなされ、定本として刊行されたそうだから、これから一本の作品として読むならこっちだろう。)

 物語はのっけからかなり苛烈なバイオレンスシーンで幕を開け、物語の随所にも謎の敵の襲撃を再度受ける工藤の応戦図、さらには複数回に及ぶカーチェイス&アクションなど、かなり動的な要素を盛り込んでいる。ただしあくまでポイント的に物語の緊張を促すもので、アクションやバイオレンスでストーリーが停滞することはなく、ひとつひとつの局面ごとに物語のベクトルが明確になっていくのは流石ではある。
 決して軽い作品ではないのだが、良くも悪くも気がついたらもうクライマックスという感じの加速感もあり、その辺をどう見るかで評価が変る感覚もある。
(21世紀に隆盛する分厚いエンターテインメント長編作品の作法を、もし小鷹がこの時点でものにしていたら、それはそれでこの作品に似合っていたんじゃないか、とも思うんだけど。)
 いずれにしろ、ミステリ的には終盤に相応に大きな仕掛けが明かされ、作中のリアルとしてはかなり際どい……実際にそういうのって成立しうるかな? とも思ったが、人物関係の要となるキーパーソンたちがそれなりの覚悟でいれば、ぎりぎりの危うさの中でこの状況は保たれたかもしれない。そう肯定的に読み込むなら、国産正統派ハードボイルド小説としても、ある種のギミックを導入したミステリとしてもこれは確かにそれなり以上の佳作~秀作ではあろう。個人的には第一作よりずっと面白かったが、向こうは本当に大昔に読んだので再読すればまた印象は変るかもしれない。

 あと、あくまで勝手な要望や感想を言わせてもらえば、最後の最後のどんでん返しは、やや<(中略)作品の図式>に引っ張られすぎた嫌いがあること、それから事件の実相が工藤本人の過去にからむ趣向は、この第二作で本当に必要だったのかという事。その二点が不満というか、こだわり。
 特に後者は、シリーズが四冊か五冊書かれた時点でのネタでも良かった気もするが、これはなかなか企画上の背景も込めて、本シリーズを続発できなかった当時の作者の判断だったかもしれない。もし存命中に本作のメイキングについて語っているエッセイなどあれば、読んでみたいところである。

 最後に題名の「赤き馬」とは、工藤が北海道内で足として使うレンタカーが派手な真紅のスカイラインという事と、もうひとつは作品の後半で明かされるある事象のダブルミーニング。ネタバレは厳禁だが、これくらいまでならいいでしょうか。


No.628 6点 ザ・スカーフ
ロバート・ブロック
(2019/08/24 16:41登録)
「おれ」こと、小説家志望の青年、ダニエル(ダン)・モーリー。彼は高校生時代に、母親ほども年の違うオールドミスの教師ミス・フレーザーに肉体関係に引きずり込まれ、さらに先方から無理心中寸前の事態にまで追い込まれた。それを機に女性に対して憧憬や愛情と同時に複雑な感情を抱くようになったダニエル。彼はついに、28歳の時に青春時代の思い出がこもるスカーフで、自分に金銭的に支援してくれた情人レナ・コールマンを絞殺してしまう。殺害現場のミネアポリスからシカゴへと逃れたダニエルは己の心の昏い衝動を押し包みながら、作家としての精進を図るが、それと前後して彼の前に現れたのは、美貌のモデル、ヘーゼル・ハリーだった。

 1947年のアメリカ作品。ロバート・ブロックの処女長編。
 主人公は内面に殺人衝動という心の闇を抱えた青年だが、同時に間断的にその殺意が浮上する時以外は、きわめて当たり前のどこにでもいる若者として描かれる。
 コーネル・ウールリッチのダークサスペンス路線の作品から少しずつリリシズムをそぎ落としていけば、いつかこんな程度の、適度に乾いた&適度に湿った作風のものに、行き当たるんじゃないかという感じ。
 それゆえストーリーの随所で読者の共感を呼び込む心情吐露を語りながら、すでに物語の序盤で一線を越えてしまった主人公のポジションが悲しい。
 先にウールリッチほどは叙情的ではないという趣旨のことを書いたが、それでもこれは許されざる一線を踏み越えてしまい、その後もある意味で悲しい執着(殺人衝動)にとりつかれた、実は我々読者ともそんなに大きくは違わない、どこにでもいそうな平凡な人間のドラマというか一種の青春小説でもある。

 他の50年代作家(ブラッドベリやダールやコリアやマシスンやフィニイほか)などと比べ、どこか作品総体に泥臭さのつきまとう感じもあるブロックだが、これは予想以上にスムーズにテンポよく読ませる。主人公ダニエルの向かう舞台もシカゴからニューヨーク、さらにハリウッドへと作家としての躍進と同時に転じていくが、その局面局面でイベントやツイストを設けて、読者のテンションを落とさない手際もなかなか。

 なお大事な事として、本作には殺人者となってしまった、しかし物書きであることを忘れない主人公ダニエルに、若き日のブロックが自分自身を託した私小説的な趣もあり、その辺から読み込んでいっても面白い。ダニエルがハリウッドで、長年の当地での仕事のなかで才能を使い果たしてしまったベテラン脚本家と出会い、薫陶めいたものを受ける辺りも妙に心に残る。
 終盤の映画的、ノワール的な展開も、二重三重の皮肉を効かせた文芸にまみれて鮮烈で、ラストの余韻も印象深い。

 大筋のプロット的にはそんなに曲がある話ではないが、あとあとこの切なさを折に触れて思い返す作品になるかもしれない。若き日のこの作者のこの作品ということで。 


No.627 5点 カリスマvs.溝鼠 悪の頂上対決
新堂冬樹
(2019/08/23 18:51登録)
(ネタバレなし)
 伝説の復讐代行人・鷹場英一の薫陶を受けた真性サディストの美女・(佐久間)半那は、2人の変態男性とすれっからしの女子高校生を手駒に、鷹場の意志を受け継いだ復讐会社「リベンジ・カンパニー」を営む。そんな半那の次の標的、それは20年前に彼女の家庭を滅ぼしたカルト教団「神の郷」の残党の男、明鏡飛翔を教祖と仰ぐ新世代の教団「明光教」だった。

 先に評者が読んだ、同じ作者の昨年の新刊『痴漢冤罪』同様、悪と悪の対決ドラマ。エンターテインメント性の高い通俗ノワールとでもいうべきか。

 本作の大設定は、かつての作者の人気シリーズ・鷹場英一ものと、話題作(代表作の一つ?)『カリスマ』、双方の世界観を受けた新世代クロスオーバーだそうだが、評者は新堂作品はまだ3冊目。読んだのはどれもここ数年のリアルタイムの新刊ばかりだから、当然、原典となる双方の旧作(旧作シリーズ)も知らない。それでもほとんど特に問題なくスムーズに読めた。
 まだ新堂作品ビギナーの自分には相応に苛烈な(一方でどっか笑ってしまう)残酷描写などもあるが、Webでの噂を伺うと、絶頂期の新堂作品はもっとはるかにスゴかったらしい。うーむ、そっちも読んでみたいような、止めた方がいいような。
 本作そのものの感想はハイテンポにグイグイ読ませるが(どちらかというと主役は、半那サイド)、一方で随所にそんなにうまく行きますか? なんでここで予防策をとらないの? 的なツッコミどころもいくつか。ラストの山場も大雑把だけど、エピローグも舌っ足らずだよね。読者に解釈で補強してくれ、ということだろうか。
 日頃あんまり読まない傾向の作品だけど、それでも新作でも旧作でもたまにこういうものも補給したくはなる。3時間は楽しめたので、まあいいか。


No.626 6点 オトラント城綺譚
ホレス・ウォルポール
(2019/08/23 00:22登録)
(ネタバレなし)
 11~13世紀の欧州(たぶんイタリア)。地方領主で古城オトラント城の城主であるマンフレッドは、15歳の息子コンラッドを溺愛。その一方で、彼の心優しき妻ヒッポリタと美しい18歳の長女マチルダ姫への愛情は薄かった。マンフレッドは妻の反対も聞かず、病弱のコンラッドを、貴族フレデリック公爵の娘イザベルとまだ子供の内に結婚させようとする。だがその挙式の日、コンラッドは、どこかからか出現した巨大な甲冑の頭部の部分に圧殺されて惨死した。狂乱したマンフレッドは、事態に私見を述べた土地の青年セオドアに難癖をつけて八つ当たりのように拘禁。かたや長年連れ添った良妻ヒッポリタとの婚姻は実は無効だったと言いだし、自分が、頓死した息子の代わりにイザベルを花嫁に迎えると言い出す! そんな中、城内には幽霊、そして巨人の影と、妖しい怪異が生じ始めていた。

 1764年の英国作品。奇妙な味の名作短編『銀の仮面』の作者ヒュー・ウォルポールのご先祖にあたるホレス(ホーレス)・ウォルポール(1717~1797年)が、実際には存在しない中世の小説を発掘したようなスタイルで著した長編。なおオトラント城のモデルは、ホレス・ウォルポール本人(実家は貴族で当人は国会議員でもあった)が、その生涯をかけて増築を繰り返した英国建築史に残る大邸宅「ストロベリー・ヒル」だそうである。
 広義のミステリとはいえるゴシックロマンの系譜ながら、当然、ポーの『モルグ街の殺人』(1841年)で近代推理小説が誕生するはるか以前の作品であり、冒頭にかなり刺激的な殺人劇が起きるものの、推理や捜査の要素はまったくといっていいほど見られない。それどころか……(中略)。
 とはいえ、本作が本当の意味で先史ゴシックロマンの元祖的な作品ではないにせよ、18世紀半ばの英国読書界に相応の反響を巻き起こし、ミステリ分野が確立したのちまで含めて、後年の多くの作品に影響を与えた名作というのは間違いないところのようである。
 評者は大昔に、ミステリマガジンのたしか70年代初頭の頃の、夏期の「幻想と怪奇」特集号、そのバックナンバーを古書店か早川からの通販で入手。その誌面に掲載されていた当時の時点までのオールタイム「幻想と怪奇」小説ベストリストみたいなもので、初めて本作の名前に触れた。初見の印象は、えらく響きのいいタイトルだな、というものである。勝手な観測かもしれないが、作品そのものは未読でもこの題名にある種の心地よさを覚えて意識しているミステリファン、怪奇小説ファンはそれなりにいるのではないか。

 その後、講談社文庫版の実作などを手にすることもあったが、その際には狭義のミステリではない怪奇小説に分類されるものとしてスルー。
 それから興味が広がってモダンホラーも推理要素のゆるやかなゴシックロマンも積極的に楽しむようになってから、いつか改めてきちんと読みたいと思っていたが、このたびようやっとその思いを果たした。

 邦訳は、複数ある翻訳のうち一番新しい2012年の研究社版で読んだので、物語は大きなストレスもなくごく潤滑に追えた。
 ドラマを動かす主要登場人物は何人もいるが、一番のキーパーソンといえるのはやはり城主のマンフレッドであり、周囲の人間に迷惑をかけまくるものの決して極悪人ではなく、その辺のさじ加減を心得たキャラクター造形もなかなか良い味を出している。
 聖母的な良妻ヒッポリタとその実の娘マチルダ、さらにはマチルダの友人でもあるイザベルたち女性陣がそれぞれ連携めいた動きを見せるのも妙に面白かった。全体的にストーリーテリングとしては好テンポで悪くない仕上がりである。

 一方でホラーというかスーパーナチュラル要素の導入は相当に大雑把というか大味で、最後は混迷した事態を強引に決着をつけるために、かなり……(中略)。
 それと主舞台となるオトラント城も、物語のロケーションとしてそれほど活用されているようにも思えない。

 研究社版の詳細な解説を読むと、かのラヴクラフトなどは本作をかなり低めに評価していたようで、まあその言い分もわからないでもない(具体的にどこをどう言ってるかは、できればこの作品本編と、その研究社版の解説の実物を確認してください)。

 ただし個人的には、最後の「ああ、そっちの方向に……」という感じの小説的なまとめ方には結構、好印象を抱いた。切ないけれどそれでも前を向かなければならないある登場人物の思いに時代を超えた普遍性を認め、そこから生じるなんとも言えない余韻を感じる。

 近代のゴシックロマンに至るまでにはまだまだ長い道のりを控えた原石という感じの古典ではあるけれど、一度くらいは読んでおいてもいいでしょう。


No.625 7点 地面師
梶山季之
(2019/08/22 03:28登録)
(ネタバレなし)
 1958年から1965年までに書かれた作者の作品6本を集成した中短編集。
 新章文子の『名も知らぬ夫』などと同様、国産ミステリ研究の第一人者・山前謙氏の選出と監修による、昭和期のミステリ作家の個人作品傑作集の叢書「昭和ミステリールネサンス」の一冊である。

 実は評者は梶山作品を一冊単位で読むのは今回が初めてだが、これはかねてよりこの作者について、いかにも昭和の色と欲の通俗ミステリ作家という、今にして思えば全く以てアレな、紋切型の偏見的な予断があったため(汗)。
 実際、梶山作品に散見する、女性蔑視というか軽視の視点は昔からよく婦人勢の攻撃の対象になったと聞いたような記憶があり、さらに一時期のミステリマガジンの読者欄「響きと怒り」の中で、某常連投稿者(やはり女性)が「たとえ無人島で他に読む本が無くっても、梶山季之と黒岩重吾の本だけは絶対に読みたくない!(大意)」などと語る、実にインパクトのある投稿なんかも読んだ覚えがある(笑)。

 それで「あーあ、この作家(梶山)って本当に嫌われてるんだな……」と世間の風評の影響を受け、自分自身も今までウン十年手を出さずに放って置いたのだが、一方で時代の変化、評者自身の加齢とともに「こういうのもいいよね」的に、受容する側の気分も次第に寛容になってくる(笑)。
 さらに何より、今回は前述のように、国内ミステリのアンソロジストとしては最大級に目利きの山前譲氏が、この傑作集をセレクト。
 ならば昭和ミステリ作家の個人傑作集として相応に面白いんだろうなと期待を込めて、この実物(短編集『地面師』)を手に取ってみた訳である。
 
 ――――結果、予想以上に、全6編ともしっかり楽しめた。
 最初、表題作の『地面師』の「誰が最後に笑うか」のコン・ゲーム的な小気味よさでいきなり盛り上げたその後に、かなり真面目なアリバイ崩しの推理もの『瀬戸のうず潮』で作者の作風の幅広さを実感。
 その2本に続く、法律の裏を書く犯罪劇『遺書のある風景』や企業間の策謀もの『怪文書』それぞれの短編のテクニカルぶりも味わい深い。
『冷酷な報酬』の、思わぬ方向にストーリーが転がっていくにつれて意外な事件の構造が見えてくる作りもよいが、読み応えの点では、企業間の抗争と策謀ものの面白さを十全に備えた最後の中編『黒の燃焼室』に止めを差す。
(ちなみに「黒の燃焼室」は梶山のいくつかの長編作品の物語の場となるタイガー自動車ものの一編であり、その意味でもたぶん作者のファンには興味深いだろう。)
 
 しかし梶山の長編作品は、短編とはまた味わいが違う趣もあろうが、少なくとも本書一冊を通じて作者が広義のミステリの妙味を理解し、話作りにも相応の力量があることはフツーに理解できたつもりである。
 ちかぢか、ミステリ要素の濃さそうな長編作品にまずは一冊、挑戦してみよう。


No.624 6点 最終兵器V-3を追え
イブ・メルキオー
(2019/08/21 12:52登録)
(ネタバレなし)
 1985年5月9日。マンハッタンの路上でドイツ人の老人カール・ヨハン・トンプソンが自動車事故で重傷を負う。およそ40年目の、何かの計画の実現に胸をときめかせていた彼は、気になる言葉を呟いて死んだ。運命的にその文句に留意した看護婦のおかげで、情報はFBIを経て国防省に回る。やがてくだんの情報は、第二次大戦時に連合軍側の工作員として活躍し、戦後はアメリカに帰化してCIC(米国の対敵情報部)の一員として働いた64歳のデンマーク人、アイナー・ムンクの元にもたらされた。意見を求められたアイナーは40年前の大戦の亡霊の影を見るが、陰謀の中身はおろかその実在すら確認できない現時点では、国防省は表だって動けない。それゆえアイナーは半官半民の立場で、かつて同じくレジスタンス仲間だった愛妻ビアテとともに、事件の鍵がありそうなドイツのヴェイデンに向かう。そこで彼ら夫婦が認めたのは、ヒットラーの遺産である恐怖の殺戮兵器を擁したナチス残党、その妄執の念がこもる数百万単位のジェノサイド計画だった。

 1985年のアメリカ作品。作者イブ・メルキオー(日本ではイブ・メルキオールとも表記)は1917年にデンマークに生まれてのちにアメリカに帰化。1950年代からは映画人として活動し、『巨大アメーバの惑星』(火星ダコにコウモリグモ)『冷凍凶獣の惨殺』(レプティリカス)などの怪獣SF映画の脚本家として特撮ファンに親しまれる(後者レプティリカスはメルキオーの生国デンマークで製作された、同国を舞台にした怪獣映画)。また本邦の誇るゴジラシリーズの第二弾『ゴジラの逆襲』の米国版はもともと大幅にアメリカ向けにローカライズされる予定で、そのためのシナリオを書いていた事でも有名(しかし結局、惜しくも新規シナリオの追加新撮は未遂に終ってしまったが)。 
 1970年代に映画分野から少しずつ遠のくとと同時に、小説家に転向。特に、かつて自分自身が第二次大戦末期にアメリカのCICに参加していた経歴を活かし、同大戦時の欧州を舞台にした対ナチスものの冒険小説を何冊も著した。

 評者はまだメルキオー作品は『スリーパー・エージェント』『ハイガーロッホ破壊指令』についで三冊目だが、邦訳された作品それぞれの設定を窺うかぎり、基本的には第二次大戦中の過去設定で対ナチスの、あるいはナチスがらみの冒険小説を綴るのが作者の本分のハズである。
 その中で本作はメインストーリーの時代設定を1985年の現代に置き、少し異色。おそらくは小説家としてのメルキオーの筆を動かした1970年代からのネオナチブーム(60年代にすでにその萌芽はあったが)に加えて、フォーサイスやラドラムあたりの新世代ネオ・エンターテインメント作家勢の台頭の影響を受けたこの時代らしい一作だと思うが、それでも老年主人公アイナーとその妻ビアテの回想の形で第二次世界大戦中の冒険秘話もかなりの紙幅で語られる。現在形の謎の陰謀阻止編と並行して、そちらはそちらで正統派戦争冒険小説として面白い。

 とはいえ作品総体の出来は、文庫版で500ページ以上の大作、職人作家メルキオーの手慣れた正統派冒険小説+ネオ・エンターテインメントスリラーとして普通に充分に楽しめるハズなのだが、意外に今回は、ところどころ脇が甘い感じなのはちょっと残念。

 具体的にはドイツに乗り込んだムンク夫妻を邪魔に思ったナチス残党側が暗殺者を送り込むのだが、この暗殺者、主人公たちをおびき出すため、最初は情報を託す者を装いながら、本名で電話をかけてくる。
 おいおい……暗殺者視点で言えば、ムンク夫妻を暗殺して口を塞ぐつもりだから構わなかったのかもしれないが、それでも夫妻が米国の仲間に「××という者から電話があった。行ってくる」と告げるかも知れないよね? メモを残しておくかも知れないよね? そういった種類の警戒をして偽名を使わないってのはプロの暗殺者としてヘンだ。さらに窮地からの脱出後、今度はアイナーたちがその暗殺者の名のった名前を当初から本名と前提視して次の情報をたぐるのだが、う~ん、これもまた、そもそもその名のられた名前が偽名という可能性は考えないのか? 
 作者メルキオーがどうしてもその局面に続く展開をしたいのならば、主人公アイナーの脇にせっかくワトスン役の奥さんビアテがいるのだから
「(あの暗殺者の名前は)偽名だったのじゃないかしら?」
「たぶんそうだろう……しかし万が一ということもある。いずれにしろ、我々には他に手がかりはないのだ」
「……やった、あの暗殺者、我々を確実に口封じするつもりで、うかつにも本名を名のったんだな。そんなプロとしてのプライドがこちらの助けになったよ」
 ……とかなんとかやっておけば良かったのだ。そうすれば小説としての味も出ただろうし。
 あと一度尋問したナチスの残党をそのまま拘束も警察に手渡したりもせず逃しておいたり(アイナーたちにすれば確かに異国の警察にことの経緯を話して関わっている余裕がないという事情はあるのだが、しかし敵側に次の手を打たれてしまうのは素人にもわかる)、ナチス側の人間が大戦時そのままの名前で戦後40年ドイツで生活をしていたり……と、どうも細部で実に気に障る。
 
『スリーパー』も『ハイガーロッホ』も大昔に読んだきりながら相応に面白かった(特に後者のクライマックス場面はまだ覚えている)ので、メルキオーってこんなに小説が下手だったかな、もしかしたら馴れない現代ものの土俵の中であれこれ苦戦しているのかな、とも思ったりした。

 それでもまあ、後半、最終兵器の正体(もちろんここでは書かないが)が明らかになり、国防省とNATO全軍が重い腰を上げてからはそれなり以上に面白くなる。40年前からの遺産兵器が本当にそのように有効なのかはもう少しだけリアリティの補強も欲しいところだが、一方でこの物語の大設定を活かした山場はかなり印象的に練り上げられている。
 特に<ある特殊ガジェット>の導入は、往年のSF映画の脚本家で後年には監督職も担当したメルキオー、ちゃんと70年代からの<あのシリーズ>も、80年代の<あの話題作>も観ていたんだね、と嬉しくなった。
 今となってはもう意味がないかもしれないが、80年代の内に本作を映画にしていたらなかなかパワフルな映像が観られたかとも思う。
 終盤のフーダニットのシークエンスも、もう少し早めに布石を張って、仕込みをしておいてほしかった、という嫌いはあるが、それでも最後まで読者を飽きさせないようにしたいというサービス精神は認める。

 総括すれば、得点的に見ればそれなり以上に面白いのだが、気になる減点要素もかなり多い。
 娯楽派冒険小説で読者をもてなす職人作家だとは思うんだけど、日本でメルキオーがいまひとつ冒険小説ファンからの反響や支持が薄かったようなのは、改めてこの辺りが原因だったのかな。
 自分はまだまだ、機会を見て読むけれどね。


No.623 7点 群青
河野典生
(2019/08/19 16:31登録)
(ネタバレなし)
 1960年代。少年・山地公夫は母と死別し、傷痍軍人の父親・哲春と二人暮らしだった。だが警備員だと自称していた哲春が実は傷痍兵として路上で物乞いをしている事実を知って心を痛め、非行の道に入る。やがて公夫が少年院に収監されている間、哲春は交通事故で死亡した。釈放後の現在は、保護司の高校教師・沖竜彦の監督を受けながら、小型オイルタンカー上で作業員としてまじめに働く17歳の公夫だが、そんな彼は以前に自分が処女を奪った少女・岡田ミチ子に再会。公夫が彼女に抱く罪悪感と思慕の念はミチ子に伝わるが、そのミチ子は「ゆり子」の名で赤線の娼婦まがいの生活を送っていた。そんな中、ゆり子=ミチ子にしつこくつきまとい暴力をふるう土建屋の中年・森戸辰治に重傷を負わせた公夫だが、なぜかその森戸の体は諍いの現場から消失した。代って翌日、公夫が見たのは、ミチ子の無惨な死体であった。森戸の死を確信し、いずれ捜査の手が自分に伸びると考えた公夫は、その前に自分自身の手でミチ子を殺した犯人を捜し出そうとするが。

 河野典生の初期長編のひとつ(第●長編とか明確な書き方ができるほどの素養が現在ない。いずれ判明したら書き直します)。元版は早川書房から国産作家の書下ろし叢書「日本ミステリー・シリーズ」の一冊(第8回配本)として1963年に刊行された。評者は今回、書庫にウン十年眠っていた角川文庫版で読了。

 戦後の影がしみこんだ、油臭い昭和期のヒーロー不在のハードボイルドだが、主人公の設定やキャラクター造形もあって、いまこの設定で書いたらむしろ青春ミステリのカテゴリーに入れられるだろう。
 作者らしい独特の文芸味は如実に伺える。特に、ミチ子と夜の波頭を歩く公夫が空気銃に撃たれて息絶え絶えの伝書鳩を拾うが手の中で死なれて海に投げ込み、さらにミチ子の手についた鳩の血を拭ったハンカチも放ると、その二つの白い物体が暗い闇の波間に並ぶように浮かぶシーンなど、鮮やかに美しい。森戸を殺してしまったと思う公夫の悪夢が、部屋の中を埋め尽くす鳩のイメージで描かれるのも作者の執着を読者に印象づける。
 終盤、次第に窮地に追い込まれて明日を狭めていく公夫に、30年間無事故で通してきたと初老の孫のいるタクシー運転手が無心で語りかける場面の残酷さなども良い。
 被害者であるミチ子に勝手な薄幸少女のイメージを押しつけて、あんな薄汚れた短い人生にも純情はあったんだよとおのれの憐憫に酔う「正義漢」の若手刑事へのきびしい視点なども冴えている。

 なお中島河太郎などは本作を「推理小説事典」の河野典生の項目の中で、「偶然に依存した嫌いはあるが」とも評しており、実際にその通りではあろうが、終盤に浮上してくる某キーパーソンの存在感はそんなこの作品の弱点をあえて退けるほどに強烈で、「(中略)ごっこ」をしたいという(中略)性は、まるで絶頂期のロス・マクドナルドではないか、とも実感した。
 1960年代の国産ミステリの中ですでにこの文芸を実作化していたというのは、さすが定評の躍進期の河野典生という感じである(評者なんかはまだそんなに冊数読んでないけれどね~読み方もバラバラだし)。

 文芸ドラマをあえてミステリの領域に恣意的に近づけた分だけ、後半の展開にいびつさが生じてしまった感じもしないでもないのだが、そこもまた本作の味という思い。
 作家性と時代と、さらには作者自身が周囲から得た多様な素養が一瞬の場の中で、劇的に混ざり合った秀作。読むならこれこそ夏に、の一冊だなあ。


No.622 6点 きみはぼくの母が好きになるだろう
ネイオミ・A・ヒンツェ
(2019/08/19 02:28登録)
(ネタバレなし)
「わたし」こと女子フランシスカは実母との死別後、父親の再婚で実家に居場所を失い、努力の末に奨学金待遇の苦学生としてメリアム大学に入学した。だがそこでバイトの仕事を提供した中年の教授に恩を着せられていつしか不倫関係に陥ってしまい、その結果、ショックを受けた教授の妻は自殺。フランシスカは大学を追われる。心身を疲弊させた彼女は、たまたま出会った心優しい青年マシュー・キンソルヴィングに救われて彼の妻となるが、新郎のマシューはあっという間にベトナムで戦死した。21歳で身重の未亡人となったフランシスカはマシューの実家であるオハイオ州の片田舎にある屋敷を訪れるが、そこで彼女を迎えたのは恐怖と戦慄の事態だった。

 1969年のアメリカ作品。アイラ・レヴィンの衝撃作『ローズマリーの赤ちゃん』(1967年)などが起爆剤となって、アメリカのエンターテインメント文壇にもモダンホラーの一大ブームが巻き起こっていた時期の一冊。とはいえ本作はスーパーナチュラルな要素は無く、広義のホラーの中でも、正統派ゴシックロマンの系譜上にある。
 
 しかしながらそれでも、手元にある早川ノヴェルズ版の帯の謳い文句は
「洪水で孤立した古い家に謎めいた義母と白痴の少女とともに閉じ込められ、出産を迎えるフランシスカ。迫りくる狂気、戦慄、恐怖!」
 ……とこれでもかこれでもかの怖いイヤな文句の押し売りであり、さらにこれにダリかマグリットを思わせる不気味な表紙ジャケットのカバーアートが加わるのだから、読む前から本当にコワイ。だからどんな不気味で気色悪い話だろうと本気で怖じてしまい、大昔にどっかで古書で購入してから手も出さずに、ウン十年も放置しておいた。
(しかしそんな怖そうな作品なら、なんで買ったんだって? いや珍しそうなミステリなら、そんなに高くなければ、とにかく一応は買っておくのですよ・笑)

 それでも最近になって、この作品がジョー・ゴアズのあの『死の蒸発』などと69年度のMWA新人長編賞を争った一冊だという事実を意識し、ふーん、そういう歴史的な意義もある一編なのね、と、改めて興味が湧いてきた。
 それでまあ夏の暑い時期だし、たまにはこんないかにも怖くて不気味そうなのもいいかと思って読んでみたが……良くも悪くも、思っていたよりフツーで怖くなかった。
 
 題名の「きみはぼくの母が好きになるだろう」は実家から離れてフランシスカと新居を構えた生前のマシューが始終口にしていた、彼の母の印象を語る文句だが、現実にはフランシスカがマシューの死後、その悼みを分かち合うつもりの手紙を送っても、当のマシューの母であるマリアは返事も寄越さない。
 それと前後して懐妊の現実を知ったフランシスカは、出産後の新生児をどこかに里子に出すべく、今で言うソーシャルワーカーへの相談を行う。その一方で、一縷の望みを込めて義母マリアと円満な関係、そして今後の安定した生活を得られるのではと期待して、夫の実家を訪ねていく。
 だがそこで彼女を迎えたのは、言葉使いだけは丁寧だが冷徹にフランシスカをあくまで異分子と見なす母親と、その娘で精神薄弱の少女キャサリーンだった。義母の予想以上の冷たい態度もさながら、マシューにこんな障害児の妹がいたのかとフランシスカは驚愕。さらに悪天候の影響で洪水が生じ、屋敷が外界と分断されてしまう中で、さらに思わぬ事態と意外な真実が次々と現実のものとなっていく。

 読み進めるうちに、前述のようにずいぶんとマトモなゴシックロマンだな、という印象に転じたし、その一方でキーパーソンの一人となる薄幸の白痴少女キャサリーンの役割なども早々にヨメてしまうので、そういう意味ではもっとどぎついもの(近年のJホラーとイヤミスを足したような作品?)を予想してた身からすれば刺激も衝撃もやや薄味で、物足りないと言えば物足りない(主人公フランシスカにかなり甘いのでは? というご都合的な筋運びも無いではないし)。

 ただ一歩引いて読むなら、実に少ない登場人物で何のかんの言っても最後までいっきに読ませてしまう面白さはある。
 本そのものの周囲にある一種のオーラで、なんか別格級の怖さがあるような印象の一冊だが、その辺はあまり影に怯えること無く、割と良く出来た小品の佳作~秀作という感じで楽しみましょう。



No.621 7点 消えた郵便配達人
草野唯雄
(2019/08/18 12:12登録)
(ネタバレなし)
 その年の1月16日の白昼。江東区深川にある小藤薬局に拳銃を持った暴漢が押し入り、金を要求する。だがその薬局内には、市街を巡回中で薬局の主人の小藤洋子と雑談をしていた私服刑事・原尾がいた。原尾は自分の身分を叫ぶが、賊はその場で相手を射殺して何も取らずに逃走する。同僚を殺された深川署の刑事たちは犯人の検挙に躍起になるが、なぜか洋子と、もう一人の目撃者として名乗り出た郵便配達人の青年・大河内誠による、逃亡した犯人の背格好の情報は相応の差異を見せた。やがてスナックの女主人・畑広子がもたらした情報から、町のダニの青年・伊吹直一が逮捕されるが、面通しの際にも大河内は、彼は犯人とは別人だとなおも頑なな態度をとった。深川署の捜査陣は同僚の殺害事件を一刻も早く片づけたい面子もあって、直一の立件を急ぐ。一方で大河内は、まるで邪魔な証人が近隣から追い払われるかのように、地方に転属になる。毎朝新聞社会部の記者・幕張健次は、直一の無実を信じる彼の老母と本妻の礼子の訴えに耳を貸し、事件を自らの手で調べ始めるが。

 現状でAmazonに登録はないが、1985年4月10日の双葉社のフタバノベルズから刊行。この新書版がたぶん元版だと思う。書下ろしとの標記はないが、先に雑誌連載されていたかは不明。
 
 まだ夜が浅いので、もう一本何か読もうと思って手に取った積ん読本の一冊だが、くだんのフタバノベルズ版の惹句が「激情社会派ミステリー」。この大仰なキャッチにさすが草野作品とのっけから笑いが零れる。
 さらに読み進む内に、サブキャラクターの名前が途中で変ったり(強盗容疑者・伊吹直一の実母の名前が最初に登場する28ページでは「せつ」なのに、78ページ以降は急に「さと」になる・笑)、最初のページから脱字も目立つ。これは色んな意味で『死霊鉱山』とは別のベクトルのダメミステリが楽しめそうだ、といささか品のない構えでいたら、物語の後半、かなり良い意味でこちらのくだらない期待を裏切ってくる。これから読む人に素で驚いて欲しいので、あんまり細かくは言わない。クライマックスの裁判シーンも妙な熱量が感じられて読み応えがある。
 実のところ裏表紙のあらすじも本文を半ばまで読み進めるまでは、雑な編集の雑な記述だなと思っていたが、どうやら……(以下略。※ネタバレ警戒の人はフタバノベルズ版の表4のあらすじは読まない方がいいかも)。

 玉石混淆作家? 草野唯雄のたぶんこれは思わぬ拾いもののひとつ。草野作品にハマる人というのは、今回はアタリかハズレかのスリル感も大きいんじゃないかとも勝手に思う(笑)。

 なお逮捕された直一が無実を叫ぶくだりで、彼の手首から検出された硝煙反応について、ちょっと独特な弁明を主張。
 ちょうどいま、本サイトの掲示板の場で、別のレビュー書き手の弾十六さんから硝煙反応について(特にその鑑識技術の確立の経緯に関して)蘊蓄に富んだ教示を授かっている最中なので、その意味でも興味深く読めた。
 弾十六さん、機会とご興味などありましたら、本作内の描写についてもこれってリアルにありうることなのかどうか、考証なさってください。


No.620 6点 ゴースト・レイクの秘密
ケイト・ウィルヘルム
(2019/08/17 19:14登録)
(ネタバレなし)
 オレゴン州ペンドルトンの町。その年の5月。元弁護士の女性セアラ・ドレクスラーは、3年前に事故死した地方判事の夫ブレインに代って、彼の残りの任期3年間分の職務を引き継いでいた。セアラの実家であるケラーマン家では老父ラルフが、水族館と生け簀を経営。セアラの娘ウィニーと息子のマイケルもそれぞれの事情を抱えながら母や祖父との同居生活を送っていたが、ある日突然、そのラルフが女性私立探偵のフランシス・ドナティオを自宅に呼び寄せた。事情も分からずに戸惑うセアラと子供たちだが、フランシスはケラーマン家からの帰途、何者かによって射殺される。これと前後して依頼人のラルフ当人も、何の調査を探偵に依頼しようとしたのか家族に明かさないまま急死した。やがて事件は、数十年前に近所の砂岩地帯「ゴースト・レイク」ことラビット・レイクの周辺で起きた怪事へと繋がっていく。

 1993年のアメリカ作品。作者ケイト・ウイルヘルム(ケイト・ウィルヘイム)はヒューゴー賞、ジュピター賞、ネビュラ賞などの栄冠に輝く女流SF作家として日本でも高名。翻訳された長編作品は決して多くないが、代表作と言われるサンリオ文庫の『鳥の歌いまは絶え』など相応にSFファンに読まれているという認識がある(ごく私的な話題ではあるが、友人にすごく本作をスキな人間がいる。しかしながら評者は未読~汗~)。
 プロパーとしてはSFジャンルを主体に活躍する作家だが、アシモフやブラッドベリなどと同様に純粋なミステリとしての著作もそれなりに多く、本書はそんな中の一冊となる。
 
 46歳の未亡人である主人公セアラの、亡き夫の職務を継承した女性判事としての司法ドラマ(裁判シーンの類はほとんどないが)、ケラーマン家とその親族たちや周辺の者たちとの家族ドラマ、さらに南米に近い国境周辺の町を舞台にしたローカルドラマと複数の主題を織り込みながら、ミステリの興味としては、殺人事件のフーダニット、いったい老父ラルフの依頼の内容は? の謎、さらに1960年代にまで遡る過去の怪事件と幽霊騒ぎの真実……とかなり立体的な品揃えを披露する。
(私立探偵フランシスの元カレ? にしてバツイチの中年刑事アーサー・フェルナンデスと、主人公のセアラとの互いに腹の内を探り合うようなオトナの恋模様もなかなか楽しい。)
 具の数が多い分だけ下手な作家ならゴタゴタする作りになりそうなところ、最初にページを開いてから終盤まで実にスムーズに読ませてしまう手際は鮮やか。
 翻訳を担当した竹内和世(ほかにはC・W・ニコルの作品など多数担当)の訳文も全体的に平明かつメリハリが効いていていい。

 ミステリとしては30年前の事件のその後の軌跡に疑義があったり(この辺はあんまり書けないが)、動機の真相が意外に凡庸だったりするのはやや失点。主人公セアラの終盤の行動も、見方によってはいささかダブルスタンダードではないの……という部分もないではない。
 まあそのクライマックスのセアラの内面に関しては、自分に正直にあろうとした面と、司法家としての正義を守ろうとしたことの振幅を、作者も意識的に綴りたかった向きも見とれるが(かなり最後の方の、とある登場人物への厳しくも切ない姿勢での対峙の図は、真っ当なハードボイルドの精神だと思う)。
 ミステリとしての練り上げは若干甘い感じもしないでもないが、骨太な筆力でいっきに読ませる佳作。


No.619 7点 モン・ブランの処女
A・E・W・メイスン
(2019/08/16 19:38登録)
(ネタバレなし)
 20歳代末の青年軍人で登山家のヒラリー・シェイン大尉は、ともにアルプス登頂を試みようとしていた8年来の友人、ジョン・ラタリーを山の事故で失う。哀しみにくれるシェインの心にひとしずくの潤いを与えたのは、若い娘ながら山を愛し、自らも登山に励むハイティーンの美少女シルヴィア・テシガーの、慈しみの念がこもる一言だった。そんなシルヴィアは、社交界の虚飾にすがりつく実母と袂を分かち、長年別離していた父ガーラット・スキンナーのもとに向かう。だがシルヴィアは、表向きばかり善良そうな父の顔の裏に潜む悪心を認めてしまった。そしてそのガーラットの犯罪計画とは、奇しくも、先に山で死亡したラタリー青年の従兄弟である若者ウォルター・ハインにからむものだった。やがて運命的な人間関係の綾は、シェインとシルヴィアの間の距離を再び狭めていくが、そんな二人の周囲には欲得に駆られた者による思わぬ事態が待ち伏せていた。


『薔薇荘にて』『矢の家』のメイスン(メースン)による、ノンシリーズのサスペンス風味ラブロマンス山岳小説(原題「Running Water」)。
 データベースaga-searchの表記によると1907年作品だが、今回読んだ朋文堂版の訳者あとがきによると1922年の原書刊行とある。さらに英語Wikipediaでの記述だと1906年の刊行とのこと。
 実際に1922年に原書の定本的な改訂版が刊行されたのか、それとも朋文堂版の翻訳者・野阿千伊の単純な誤認なのか、その辺は未詳。
 
 いずれにしろかなり普通小説に近い作品で、食感だけ大雑把に言えば、日本アニメーションが1990年代までに恒例的に製作していたTVアニメシリーズ路線「世界名作劇場」(21世紀にも一時期復活)、あの雰囲気にすごく近い。
 登場人物を舞台劇的に配置して物語の興味を小出しにし、読者を食いつかせて最後まで引き回す、よくできた新聞小説か雑誌連載小説、ああいった読み物的な面白さがある。

 ちなみにミステリ成分に関しては、たとえばエクトール・マローの『家なき子』が、子供の誘拐と財産家の資産の奪取計画とかの犯罪要素があるから広義のミステリだとか言えるというのなら(笑)、本作の方がはるかにミステリとしての濃度は高い。まあ狭義の謎解き推理小説とは全然呼べないけれど。
 とはいえ作者が書きたいのは、登山という行為への憧憬とその啓蒙、さらに悪人であっても山を本気で愛する者ならその心の中からは一片の人間味が失われることはないという清廉なアルピニズム賛歌で、これはそう思って手に取り、作中の真っ直ぐなアルピニストの心根に打たれるのが一番真っ当な読み方であろう。
 1906年だろうか1922年だろうがいずれにしろ一世紀前後前の作品だけど、ある種の普遍性は時代を超えて心に響くし。
 お話作りがうまいせいか、ああ古風なありふれた作劇パターンだな、と思わせる場面や展開もそんなには無い。その一方でちょっと印象づけられるシーンは相応にある。
 あと大事なこととして、普通の物語なら気になる人間関係上の輪の狭さも、本作の場合は登山家(一部は著名な)同士の知り合いという関係性で補強される事もあって、そこそこリアリティが担保されている。作者がどのくらいまで計算したかは分からないけれど。

 ラストもちょっとだけ力業だけど綺麗にまとめて、佳作~秀作。
 評点は0.5点くらいおまけかな。


No.618 6点 妻は二度死ぬ
ジョルジュ・シムノン
(2019/08/13 19:31登録)
(ネタバレなし)
 卓越した技巧から、斯界で高い評価を得る宝石デザイナーのジョルジュ・セルラン。彼が20年近く連れ添う愛妻アネットは、結婚前からの職業ソーシャルワーカーを現在もなお続けていたが、そのアネットがある雨の日、トラックに轢かれて死亡する。しかし事故の現場はセルラン家からは遠く、そしてソーシャルワーカーとしてのアネットの受け持ち区域でもない市街だった。遺された2人の子供を脇にセルランは幸福だったアネットとの結婚生活を回顧し、そして何故、妻がその事故の日、その現場にいたのか探求を開始した。

 1972年のフランス作品。ノンシリーズ作品ではシムノン最後の長編だそうである。
 それで物語の発端は、グレアム・グリーンの『情事の終り』(すみません。設定だけ知っていて実物は未読じゃ~汗~)ほかを思わせる<遺された夫が生前の妻の秘密を疑う>王道パターンだが、本作の場合は、全8章の物語のかなり後の方まで主人公のセルランはアネットがなぜそんな場所にいたか? を突き止めようとして腰を上げたりせず、昔日の回想や自分のもとを巣立ちしかける息子や娘との関係の方に関心の向きを優先させたりする。この物語の流れも深読みすればアレコレと考えられるかもしれないが、作者当人の思惑は意外に素っ気ないものだったかも。
 終盤の展開は(中略)で(中略)。いずれにしろ、なるべく素で読みたい人は、本書巻末の訳者あとがきも読まない方がよろしい。ちょっと余計なことまで言い過ぎてるので。
 ごく個人的には、212~213ページの<彼女>の物言いがすごく印象的。当該人物からのくだんの人間関係のそういう捉え方が、実にシムノンらしく思えた。
 シンプルなストーリーながら、小説好きの人々が集う読書会などで課題本にして、思いついたことをあれこれと語り合うには適当な一冊かもしれない。
 シムノンの長大な創作者としての人生(評者はまだその著作の半分も読んでませんが)。その幕引きを務めた作品のひとつとしては、これもありでしょう。


No.617 6点 バタフライ
ジェームス・ケイン
(2019/08/12 13:15登録)
(ネタバレなし)
「私」ことジェス・タイラー(タイラア)は、廃坑の近所で農作業や酪農をして日々を過ごす42歳の男。20年前程前に当時の若妻ベルに、愛人の男モーク(モォク)と駆け落ちされた過去がある。ベルは当時、ジェスの長女でもあるジェーンと同じく彼の次女でもあるケイディという2人の幼女まで連れて行ったが、現在のある日、美しい娘に成長したケイディが帰ってくる。しかもすでに彼女にはダニイという男児の赤ん坊までいた。訳ありらしいケイディとの同居を始め、さらにジェーンとも親子の縁を温め直す機会に恵まれるジェスだが、そこに元妻のベルまでが帰参。さらに彼女を追って、その愛人のモークまでがジェスの周辺に現れる。そんな中、ジェスはケイディから、ダニイの父親である青年ウォッシ・ブラウントを紹介され、その人柄に好感を抱いた。そして、ジェスにとってモークは自分からベルを奪い人生を狂わせた仇敵だが、ウォッシもまた別の事情からモークを嫌悪していた。二人はモークに対し、手を組んで行動するが……。
 
 1947年のアメリカ作品。ケインの第9長編。邦訳は日本出版協同の個人作家叢書「ジェームス・ケイン選集」の4巻しかなく、部屋の蔵書の中からしばらく前に見つかったそれを、今回気が向いて読んでみた。
 翻訳者の蕗澤忠枝は新潮文庫版『殺人保険』と同じ人で(というより正確には、「ジェームス・ケイン選集」は一貫して蕗澤が手がけており、『殺人保険』も元版はそっち。のちに新潮文庫に同じ翻訳が収録された)、ケインの一種リズミカルともいえる文体はよく日本語に置換してある(と推察する)。
 が、その一方でさすがに言葉の選択が古かったり、国語的にもどうよ? というものもあり、初めのうちはやや読みづらかった。登場人物の名前のカタカナ表記も、合間合間でしょっちゅうブレがあるし。
(新潮文庫版『殺人保険』は、文庫化の際の校訂が行き届いているせい? か、その手のことはそんなに気にならなかったのだが。)
 だが中盤に物語がひとつの山場を迎える頃には、その種の問題はほとんどストレスにならなくなり、あとはケインの好テンポな文章に乗せられて、後半のストーリーの流れの中をいっきに加速していく。

 大筋に関してはおそらくは広義のクライムストーリーであろう、ノワールなのは間違いないだろうと、当初から予見はしていたが、その一方で、これ、どのくらい狭義のミステリ濃度は高いんだろ? と思って読んだ一冊でもあった。最終的には、その辺の興味にはそこそこ応えている。
 謎解き要素はほとんど無いが、人間関係のもつれ、そして主人公ジェスを初めとした登場人物の原初的な欲望や情感が織りなしていく緊張感は、独特な食感の文芸っぽいサスペンススリラーを構成していく。二転三転のストーリーのツイストの果てに、主人公ジェスが迎える終幕も、実にそれっぽい余韻があっていい。
(男どもが右往左往する脇で、マイペースを保ち続ける女どもなど、たぶんこの作者っぽい叙述なのであろう。)

 ちなみに題名のバタフライとは、ある登場人物の家系の皮膚に、代々遺伝的に継承される(という、またはそう信じられている)蝶型の紋様のこと。
 花畑の上をひらひら舞う蝶は時に、はかない幸福の幻の暗喩っぽく用いられることもあるが、本作にもそういうニュアンスは(中略)。


No.616 6点 朝はもう来ない
新章文子
(2019/08/08 12:39登録)
(ネタバレなし)
 昭和30年代半ば。その年の冬。小学校高学年の男子・相良民夫は、洋裁の内職で生活費を稼ぐ母、美代子と二人暮らしだった。そんな中、美代子が子宮ガンと発覚。早期の手術なら効果があるという事で手術費を工面するため、美代子は6年もの間、自分の愛人だった洋品店の主人・宮島万吾のもとに借金の依頼に行く。だがケチな宮島は病身の美代子をすでに見切り、別の愛人の貞子といい仲だったので、金を貸すのを渋った。そんな薄情な宮島に対し、美代子は借金に応じなければ、彼のある秘めた悪事をバラすことを暗示した。一方、近隣に住むバーのホステスで中古アパートの大家でもある37歳の冬子は、脚本家で大成すると言いながら競馬狂いの日々の情人・辰中福郎への愛憎の念を拗らせていた。冬子の友人でミステリファンでもある貞子は、先に読んだ作品から思いつき、宮島と冬子、それぞれに邪魔な相手を始末するべく、交換殺人をすればいいのだと提案するが……。
 
 新章文子の第三長編。文庫にもなっていない稀覯本なので借りて読んだが、中身は昭和の庶民の場を舞台にしたサスペンス劇&クライムストーリーという感じでなかなか面白かった。牛乳配達をしてお金を貯め、欲しいテレビを買う足しにしようと思っていた少年・民夫が病気になった母のため貯金をとり崩し、ついには母の手術代を得ようと、近所の青年でギャンブル好きの青年・武一に誘われて残った貯金を競馬につぎ込む。そんな民夫のエピソードが作品の主軸の一つとして語られる傍ら、大人達の思惑もそれぞれの局面に向かって進んでいく。
 通常の意味での推理小説要素は薄いが、二転三転するストーリーテリングは絶妙。薄暗く湿った話ではあるが、交換殺人を約束した宮島と冬子が、お互いに裏切ったら100万円払うと(といいつつ宮島の方には、実際に払えもしない)念書を取り交わすくだりなど、妙なドライユーモアの趣で笑わせる。
(一体、殺人の約束の履行不履行を質す念書に、いかほどの公認性と拘束力があるのか!?)

 さらに登場人物には鮮烈な多彩感が与えられ、特に、ケチで酷薄な親父・宮島の実の娘ながら、秀才で情に厚く、自分の父の愛人の息子・民夫に出会い、本当の弟のように面倒を見る高校三年生の杉子(四人姉妹の次女)など、物語に厚みを与えるとてもいいサブキャラクターだった。
 ある意味では、読者に対して「安易に人間を見放すニヒリズムにもペシミズムにも陥るな」と釘をさす役割の女子キャラクターでもある。そういう視点を持ち込むあたり、やはり新章文子は小説作りがうまい。

 終盤の怒濤のような展開、ラストの余韻までふくめて、鮮烈な印象を残す佳作~秀作。ただ、読んで良かったと思う作品ながら、手放しで7点をつけたくない部分がどこかにあって、あえてこの評点で。
 Webを見渡すと、新章文子のファンで、その上でこの作品が一番スキ、と言っている人もいるらしいことを付記しておく。

 なお作中でミステリ好きという貞子が読んだ交換殺人ものって、この時点(本書の書籍版は1961年に刊行)なら一冊しかないよね? 
 ブラウンの『交換殺人』は1963年の邦訳。ハイスミスの『見知らぬ乗客』の原作の邦訳は1970年代に入ってからなので。当然、ブレイクの『血ぬられた報酬』 (ポケミス版が1960年に刊行) ということになる。さりげなくその辺り(ポケミスで、ブレイクのノンシリーズ編)に手を出していたのだとしたら、なかなか通だったような(笑)。


No.615 6点 レディ・ジャングル
カーター・ブラウン
(2019/08/04 01:17登録)
(ネタバレなし)
 「おれ」こと、ハリウッドの辣腕トラブル・コンサルタントとして名を馳せる私立探偵リック・ホルマンは、映画会社「カデンザ映画」から依頼を受ける。その内容は、イタリアの若手美人女優カローラ・ルッソを主演に迎え、アメリカの人気男優ダン・ギャラントと組ませた新作映画を準備していたところ、その二人が恋に落ちて出奔した、しかもカローラを発掘したイタリアの名監督ジノ・アマルディと、ダンの嫉妬深い妻モニカ・ヘイズもこんな事態に騒ぎ出しているので、早急にカローラとダンを見つけて穏便に連れ戻して欲しいというものだった。カデンザ映画の宣伝課長でブロンド美人のリノア・パーマーから、ダンが潜伏している可能性がある場所の情報を得たホルマンは現地に向かう。そこでホルマンは、揉めている最中のカローラとモニカ、そして銃で撃たれて負傷した状態のダンの姿を認めた。

 1963年作品。リック・ホルマンシリーズの第6作目(ミステリ研究サイトaga-search.cの書誌データから)。
 評者は数年前から、カーター・ブラウンの諸作はひさびさに数冊ほど読んでるが、最近手にした中では今のところこれが一番面白かった。
 田中小実昌の翻訳が快調なのは間違いないが、それを抜きにしても、わずかでも隙があればそこを埋めようと飛び出してくるワイズクラックやイカれたジョークの物量感が、本作は並々ならない(笑・特に前半)。
 さらにシンデレラ・ストーリーを自ら語る風を装いながら、その実、自分がいかに苦労してきたかの不幸自慢をしたがる若手女優カローラの甘ったれぶりを、ホルマンがごくドライに(ある意味では相手のために親身に)突き放す態度なんかもとてもいい。しっかりハードボイルド探偵らしい、骨っぽさである。

 ミステリとしても後半まで登場人物同士の掛け合いで読ませながら、最後の方で加速度的な緊張感を増す。
 そして犯人のキャラクターはかなりイカれていて、鮮烈な印象を残した。
 犯罪が成立する過程もかなりぶっとんでいたが、ネジの緩んだ思考の真犯人当人にとっては<そういう形>で事態を進めたかったという執着があったのだろう。そんな理解も確かに可能である。

 実際のところ「カーター・ブラウン」が一種のハウスネームで、ある種の作家工房だったらしいことは今ではもう定説なのだが、それではコレはきっと、かなり上位のランクの腕のいい作家に当たったんだろうな。
 この作品は最終的にいかにも都合良く事態が収まる部分もないではないのだが、そこら辺まで含めて、安心できる職人芸の筆捌きという趣で楽しかった。

 しかし最近、Twitterなんか見ていると、21世紀の今になって、なんでこんな若い世代の子がカーター・ブラウンを読んでるの? と思うことがごくタマにあるんだけれど、まあこういった作風の面白さ・楽しさが、新世代の好事家ミステリファンの心の琴線のどっかに、時代を越えて引っかかっている(?)というのなら、それはホントに結構なことである(笑)。

【2019年11月20日追記】
21世紀の現在ではカーター・ブラウンがハウスネームというのは、疑義があるらしい。情報の出典はミステリマガジンの2006年の号での特集記事らしくて同号は買ってあるはずだけど、すぐに出てこない。見つかったら確認してみよう。とりあえずこの件は保留で(汗)。


No.614 5点 誘拐 愛のかたみに
田中文雄
(2019/08/03 03:54登録)
(ネタバレなし)
 不倫を働いた7歳上の夫、矢吹光治と20代半ばで離婚した元女優の羽原翔子。その後、彼女は、海外ブランドの化粧品メーカーと特約してメーキャップ&化粧品会社を創業。実業家として成功し、32歳の現在に至る。矢吹との間にできた娘・舞子の親権も獲得し、今では同い年の青年実業家・安武豊との婚約も叶っていた。そんなある日、13歳の舞子が何者かに誘拐され、犯人は当初は一千万、そして五千万と金額をつり上げながら身代金を要求してくる。翔子は、現在、多大な借金で苦しんでいる矢吹が犯人ではないかと疑う。だが娘を案じる父としての矢吹の心情に、嘘は無いと認めた。翔子と矢吹は身代金を工面しようと奮闘するが、舞子を誘拐した犯人にはさらにある思惑があった。

 文庫書下ろし。作者の田中文雄は1941年生まれ。ワセダミステリクラブに在籍中の1963年に「宝石」誌上で短編デビュー。その後、東宝に入社して文芸部員を経てプロデューサー職に抜擢。「血を吸う」シリーズ三部作や『(新)ゴジラ(ゴジラ1984)』など、ホラー・SF作品を主に担当。角田喜久雄原作の『悪魔が呼んでいる』や田中光二原作の『白熱』なども手がけている(どちらも原作から相応に潤色されているが)。
 さらに1970年代半ばには「SFマガジン」の「SF三大コンテスト小説部門」、「幻影城」の新人賞などにも応募してそれぞれ受賞(後者は佳作)。この時期から作家としても再起動。80年代の前半から小説家として本格的に活躍し、同年代半ばに東宝を退職してからは専業作家として精力的に活動した。
 作家としては、本名の田中文雄のほかに滝原満、草薙圭一郎の筆名でも執筆。2009年に亡くなるまでフィクションの送り手として、かなり激動の生涯を送られた。
 実は評者は、この方の晩年には、某・東宝特撮映画ファンサークルの飲み会で何度も顔を合わせてお話をさせていただいたが、その時の話題は東宝時代のお仕事の話が中心。ご当人の著作の大半が異世界ヒロイックファンタジーや架空戦記、さらにJホラーなどと評者の専門外なので(今では和製ホラーは少しは読むが)、ご存命の間にご当人の実作の話題はほとんどすることができず、今にして思えば申し訳なかった(汗)。
(何しろこの方の著作で唯一、刊行すぐとびついてその日のうちに読了したのが『ゴジラVSキングギドラ』のノベライズである)。
 
 それで今回、ふと思いついて読んだ本作は、そんな田中作品の中ではたぶん珍しいはずの完全な非スーパーナチュラル編。SFでもホラーでもファンタジーでもない、現代の現実世界を舞台にした純然たるサスペンスミステリである。
 文庫で220頁前後という短めの長編だけあって一気に読めるが、登場人物の頭数はそんな少なめの紙幅に合わせて絞り込まれ、良くも悪くも適度に整理された流れで物語はテンポ良く進む。映画っぽい場面を想定しながらその実、小説というジャンルでこそ効果的な仕掛けを設けている辺りは、文章と映像、2つの分野での物語作家として長い日々を送ったこの作家らしい。
 終盤にも、かなり印象的な劇中のギミックというかシチュエーションを導入し、クライマックスをやはり相応に映画的な文法で語っている。
【なおこの山場については、作者自身があとがきで、つい大ネタを書いてしまっているので、ネタバレを警戒する人は先にあとがきを読まない方がよい。】

 作者本人も書いているように、スピーディでスリリングな展開で読者を引き回し、最後にかなり視覚的なロケーションを用意している辺りは、かのスティーヴン・キングっぽい。個人的には、近年邦訳された『ジョイランド』あたりを相応に水で薄めると、こんな作風になる感じというか。
(まあ紙幅の薄さもあって、さすがに本作は、向こう~『ジョイランド』~ほどのコクを感じないが。)

 なお現状、ひとつだけついているAmazonのブックレビューでは、本作の出来不出来というより、小説の方向性において、かなりきびしい評価がされている。
 が、個人的には、作者の創作活動の躍動期であった1970年代辺りの、昭和の一時期っぽい、どこか薄暗く、そして切ないセンチメンタリズムが作品の底流に匂うようでそんなに悪くはない。犯人像もやや人工的な、ドラマ内のキャラクターという気もするが、それも味という感じに思える。
 決して爽快な読後感とか強い感銘を覚えるとかそんなんじゃないけれど、心のどこかにちょっと爪痕を残す小品。そんな印象ではある。


No.613 6点 ハワイの気まぐれ娘
カーター・ブラウン
(2019/08/02 17:23登録)
(ネタバレなし)
「おれ」こと、横顔(プロフィール)の男前ぶりに自信がある、ニューヨークの私立探偵ダニー・ボイドは、実業家エマーソン・レイドの依頼を受けてハワイに来ていた。仕事の内容は、エマーソンの若妻ヴァージニアがこの地で高級ヨットの船長エリック・ラーセンと不貞を働いているのでその現場を押さえ、ハワイから二人を放逐しろというものだった。不倫の証拠固めだけなら理解できるが、なぜハワイから両人の追放まで完遂させる必要があるのかとボイドはいぶかる。そんなボイドはまずエマーソンの指示を受けて、ハワイの現状のガイド役を務めるという若い娘ブランチ・アーリントンの自宅に向かったが、そこで彼が見たのは喉を裂かれたブランチの死体だった。やがて事態は、十数年前に起きたある過去の事件へと連鎖していき……。

 1960年作品。おなじみのミステリ研究サイトaga-search.cの書誌データに拠れば私立探偵ダニー・ボイドの第四作目。
 評者の場合、これもまた大昔に読んで忘れているかもしれない、それでもまあいいや、と思って頁をめくったが、最後まで読んでも、たぶんコレは初読の作品のようだった。とりあえず一安心(笑)。
 序盤からの意図不明な殺人、依頼人の奇妙な依頼、主人公の探偵を見舞う危機、そして物語のハシラとなる、ハワイ当地のモロ現代史にからむ(中略)……とエンターテインメントとしてのお膳立ては充分。ストーリーの後半は私立探偵主役の推理小説というよりは冒険スリラーに近くなるが、最後まで二転三転の筋運びでアキさせない。
 細部で「そこのところはどうだったんだ?」とツッコみたくなるような描写が出てくると、作者の方でうまい呼吸で切り返す手際も良く(第11章の辺りとか)、実にストレスもなく楽しめる娯楽編。 
 殺人事件のフーダニットとしては手がかりや伏線がほとんど用意されてないのは弱いが、真犯人の発覚に際してはこの作品なりに工夫も設けられており、なかなか悪くない感触ではある。
 「誰が最後に笑うか」パターンで隙あらばだまし合おうとする悪党どもも、そして最後にボイドを(中略)する意外な伏兵も、良い感じでキャスティングが揃えられている。三時間はしっかり楽しませてくれる一冊。

 ちなみにタイトルロールの「ハワイの気まぐれ娘」ってのは、ハワイの酒場「ハウオリ・バー」のフラ・ダンサーでハワイ諸島の一角ニーハウ島出身の美少女ウラニのことなんだけど、それほど気まぐれ娘じゃないし(どっちかというとマジメな子)、そもそもメインヒロインでもない。メインのヒロインは、ブロンドでおっぱい美人のヴァージニアの方なんだけどね。まあカーター・ブラウン作品の邦題はお女性がらみのタイトリングが通例なので、せっかくのハワイ設定にちなんだウラニの方を題名に持ってきたって事だろうけど(そもそも原題からして「The Wayward Wahine」だから「強情なポリネシアン=ハワイ娘」の意味で、そんなにおかしくはないのだが。)。


No.612 7点 人質はロンドン!
ジェフリー・ハウスホールド
(2019/08/01 20:47登録)
(ネタバレなし)
 その年の6月上旬の英国。「私」こと左翼運動家のジュリアン・デスパードは先の都市ゲリラとしての活動の果てに当局から追われ、現在は所属する革命集団「マグマ」の支援を受けて新しい名前と顔、そして身分をもらって日々を送っていた。だがそんなデスパードは、くだんの組織マグマの幹部連が小型原爆をロンドン市街に仕掛けて英国政府を脅迫し、しかもかなりの確率で無辜の数千数万の市民を巻き込んだ核爆発も辞さない方針なのを知った。大量殺人を看過できないデスパードはマグマの中核メンバー、そして警察の目を躱しながら、原爆設置作戦に肉迫。わずかな協力者とともに爆破作戦の阻止にかかるが、事態は刻一刻と逆境に向かって突き進んでいった。

 1977年の英国作品。日本では四冊(以上)の長編が邦訳されているハウスホールドの作品を評者が読むのはこれが初めて。
 物語は6月2日を振り出しにクライマックスまでの数ヶ月に及ぶデスパードの手記の形式で語られる。
 そもそも強行的な左翼活動家である主人公デスパードは決して清廉潔白でもないし、無辜な人物でもなく、どうしてもやむを得ない作戦の際には、罪悪感に駆られながら周辺の人間の命を奪うこともある。この辺は(キャラクターの文芸ポジションは違うものの)時と場合においては非情にならざるを得ない英国スパイの系譜を思わせる。
 しかし一方でそんなデスパードの心の奥には、かつてマグマが市街地に爆破物を仕掛ける作戦を行った際に、爆発に巻き込まれ掛けた市民を守ろうとして我が身を投げ出した、年少の過激派仲間グレインジャー青年の思い出があった(その爆弾設置の作戦自体あくまでブラフだったのだが、想定外の事態から状況が悪い方に流れた)。そしてそんな若者グレインジャーがかつて死に際に見せた勇気と良心(もちろん理由はどうあれテロは許されざる事なのだが、それでもその当人個人としての)がデスパードの心をいまも捉えて、彼の内なる罪悪感と劣等感に転化。今回、自分がここで逃げるわけにはいけない、という心の原動となって、核爆発作戦を阻止する闘いに彼を駆り立てる。

 ……いや、いいわ、この設定。もう少し遅く翻訳されていたら、「小説推理」の連載月評で北上次郎あたりが大喜びしたような文芸じゃないだろーか(笑)。
 しかしながらそういうデスパードの行動の核となるメンタルな部分は不要にベタベタした叙述にせず、あくまで絞り込んで抑えて小説化。全体の物語はかなりドライな筆致でぐいぐい読ませていく。この辺の抑制が効いた本文が醸し出すクールな質感がとても良い。
 今回もやむなき場合は、もともとの仲間マグマ側の刺客を殺さざるを得ないデスパードだが、その辺の場面でも彼の内的な葛藤を必要充分最低限にちゃんと抑えながら、実に乾燥した筆致で流すように語っていく。文体としてのハードボイルド感覚が作品を全体にわたって引き締めている。
 良くも悪くも人間臭いサブキャラクターたちの造形もひとりひとり丁寧で、物語の起伏も悪くないし、クロージングの余韻も印象深い。

 英国流スリラーの王道的な感興が満喫できる秀作。ハウスホールドの他の作品も期待できそうである。 

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