麝香福郎さんの登録情報 | |
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平均点:6.78点 | 書評数:68件 |
No.48 | 7点 | TOKYO REDUX 下山迷宮 デイヴィッド・ピース |
(2023/11/29 23:05登録) 一九四九年七月五日、国鉄総裁の下山定則が出勤途中に失踪。翌日未明、常盤線の線路上で轢死体となって発見される。自殺か他殺か、対立する意見。大きな力が働いたとしか思えない突然の捜査の打ち切り。迷宮入りした真相について、実に様々な議論が巻き起こった。 上層部の命を受けたGHQの捜査官スウィーニーが、揺れ動く下山事件を担当する中で、見え隠れする謀略機関の影と共に深い闇に呑み込まれていく第一部「骨の山」。東京オリンピックを目前に控えた一九六四年六月、元刑事である私立探偵の室田が、行方不明となっている探偵小説家の捜索を依頼され、あの下山事件へと引き寄せられていく第二部「涙の端」。昭和の終わりも近い一九八八年秋から冬にかけて、かつてCIA工作員として日本に派遣された第三部「肉の門」。物語は、東京を舞台にした三つの時代のエピソードで構成されている。 作者が虚実取り混ぜたノワールの本作は、日本人によるこれまでの実録小説にはなかった妖しく深遠な異形の「下山事件」を映していて斬新だ。日本人の視点では目が届かなかった領域が文学によって現出する様に終始圧倒され、心奪われるような興奮を覚えた。 |
No.47 | 6点 | 鏡影劇場 逢坂剛 |
(2023/11/11 21:44登録) ギタリストの倉石は、スペインで古い文書を購入した。裏に書かれた楽譜目当てだったが、彼の妻は文書とホフマンの関係に気付き友人でありドイツ語准教授でもある古閑沙帆に解読を依頼する。沙帆は倉石夫妻に相談の上、より適任であるドイツ文学者の本間鋭太に翻訳を委ねることとした。 構造がなかなか入り組んでいる。まず、本書全体としては本間鋭太から送られてきた原稿を、作者が少しだけ手直しして新潮社から出版したという設定になっている。その原稿の中身は二つに大別され、一方は本間が訳した例の古文書だ。こちらは文豪の日々を克明に綴ったものとして愉しめると同時に、書き手は誰かという謎にも心奪われる。もう一方は、沙帆の視点で原稿の翻訳依頼に伴う倉石家との交流が描かれている。こちらでは、沙帆が覚えた違和感や図らずとも抱え込んだ秘密などのじんわりとしたサスペンスが読み手の心を捉える。 そして最後の袋綴じに到達することになる。そしてこの中にさらにもう一段深く濃密なミステリが潜んでいることを知ることになる。 |
No.46 | 7点 | 偽装同盟 佐々木譲 |
(2023/11/11 21:29登録) 警視庁特務巡査・新堂裕作は、連続強盗事件の容疑者を捕らえたが、ロシアの日本統監府保安課に身柄を奪われてしまう。翌朝、神田明神近くの空き地で若い女性の変死体が見つかり、新堂はそちらの事件にも関わることに。一方、行方不明になっていたポーランド系アメリカ人記者の刺殺死体が汐留で発見される。 本作は前作から数ケ月後の、大正六年三月十一日の夜から始まっていることに留意したい。時を同じくしてロシアの首都ペトログラードで大規模なデモが起きており、警官隊がデモ隊に向けて発砲し、多くの死者を出すことになる。いわゆる二月革命が進行中だったのだ。 二月革命とシンクロするように物語は進む。警官の捜査権は日本側にあるが、統監府に対して有名無実なのが現実だ。容疑者の身柄を奪ったことに対する正当な抗議も、腰が引けた警視総監が待ったを掛け、ロシア側の関与が疑われたアメリカ人記者の殺害も、死因をロシア側に都合の良いように捻じ曲げられる。さらにロシアに憧れていた女性の事件からは、地方や性別、経済などの格差問題も浮かび上がる。 もう一つの日本をディテール豊かに描く捜査小説としての魅力もさることながら、その背後にある時代のうねりまで包括する作品だ。 |
No.45 | 7点 | 風を彩る怪物 逸木裕 |
(2023/10/20 22:08登録) 第一章は、オルガン製作者の芦原幹と朋子父娘に出会い、卓越した音感を見込まれた陽菜は、父娘が製作中だったパイプオルガンの音色を整える作業を手伝うことに。フルートの練習の息抜きのつもりで応じたその作業だったが、想像以上に陽菜は夢中になっていく。フルートよりオルガン演奏や製作に自身の活路があるのでは、と感じ始めた陽菜に対し、幹は「あなたは自分を見失っている」と、NOを突き付ける。傷心のまま東京に戻った陽菜だったが、あるコンサートがきっかけで、幹の真意に気付く。そんな陽菜に届いたのは、幹の急死の知らせだった。 第二章は、朋子視点で語られる。幹の死後、製作途中のパイプオルガンはもちろんだが、謎の多い幹の死も朋子を苦しめる。 感性豊かで、好きなものがありすぎるせいで、自分のフルートを見つけあぐねていた陽菜と、オルガン作りしかしなかった朋子。二人がそれぞれに答えを見つけ出していくさまと、そこに並走するようにフルートとオルガンの音色が立ち上がってくるのがいい。 幹の死と、製作途中の「Pour T」の意味という二つの謎。さらにはオルガンという怪物ともう一つの怪物。全ての謎が解き明かされた時、胸に降りてくるのは、祝福のようなパイプオルガンの音色である。 |
No.44 | 6点 | 黒石 新宿鮫Ⅻ 大沢在昌 |
(2023/10/20 21:52登録) 中国残留孤児の二世や三世たちによる巨大ネットワーク「金石」がメインの物語となっている。「八石」と呼ばれる八人が中心的な役割を務めているが、ネット上で情報交換が行われるため、顔や本名を知らないメンバーも存在する。 その中の一人が警察に保護を求めてきた。徐福と名乗るメンバーが金石を牛耳ろうとしているというのだ。 鮫島は若手刑事の矢崎とタッグを組んで、徐福と黒石の正体を突き止めようとするが、その間にも八石のメンバーが次々と血祭りに上げられていく。凶悪で強力な暗殺者という点では、毒猿を想起させるが、自分を正義のヒーローと思い込み、使命感で殺人を重ねていく黒石は今までにないタイプの敵役として強い印象を残す。 過去の作品と密接にリンクしているのもこのシリーズの特徴だが、本作は前々作と前作との結びつきがとりわけ強く、あらかじめこの二作を読んでおけば、より楽しめるだろう。 |
No.43 | 6点 | 天使の傷 マイケル・ロボサム |
(2023/09/27 22:01登録) 「天使と嘘」に続くシリーズ第二弾。いよいよ嘘を見破る能力を持つ少女イーヴィ本人の秘密に迫っていく。 半年前に引退したウィットモア警視の死体が工場の空き地で発見された。彼は児童連続殺人事件を追っていたが、その犯人はすでに逮捕され、獄中で死亡していた。共犯者の仕業なのか。臨床心理士サイラスは、ウィットモアが残したホワイトボードにイーヴィの異名「エンジェル・フェイス」の文字を見つけた。サイラスは一連の事件の真相を暴こうと動き回る。 前作同様、サイラスとイーヴィが交互に語り手となっている。捜査の展開のみならず、お互いに過去の傷を負った主人公たちの姿、心の動き、微妙な間をつなぐ会話など、繊細で裏切りに満ちた人間模様が描かれており冒頭から目が離せない。小出しにした謎が意外な展開へ向かうスリリングな話運びの妙を味わえる。 |
No.42 | 5点 | 東京ホロウアウト 福田和代 |
(2023/09/01 20:44登録) オリンピック開催を目前にした七月上旬。宅配便トラックに積まれた荷物から青酸ガスが発生した事件を皮切りに、犯人からの予告通りのテロが続く。人為的な土砂崩れによる東北本線の不通。常磐自動車道のトンネル内でのトラック火災。それ以前に日本を襲っていた台風の被害もあいまって、東京への物流が滞っていく。 流通を人質にしたテロというテーマが興味深い。スーパーなどの店頭に当たり前のように並んでいる食料品などの日用品。だがそれは、さまざまな職に従事する人々の働きによってもたされている。 東京の孤島化を目指す犯人の思惑は、概ね成功する。だがそれに対抗するのがトラックドライバーたちだ。物だけではなく信頼を運んでいるというプライドを懸け、物の流れを取り戻すため工夫と戦いを始めるのだ。物流に関わる者たちの矜持とともに、現代社会の歪みに対する警告が浮かび上がるのが読みどころ。反面、そちらに筆が割かれたためかテログループが成り立つ過程の説明や、いくつかのテロのディテールが不足しているなど、やや物足りない点があったのは残念だった。 |
No.41 | 7点 | 脱北航路 月村了衛 |
(2023/08/07 20:41登録) 北朝鮮海軍の旧式攻撃潜水艦11号。その艦長である桂東月大佐は、国の威信をかけた大規模軍事演習当日、潜水艦による日本への亡命を決行する。しかもそこには乗組員だけでなく、四十五年もの長さに渡り自由を奪われてきた日本人拉致被害者、広野珠代の姿が。 祖国を裏切り日本を目指す潜水艦11号を全力で猛追する朝鮮人民軍。魚雷、ロケット弾、対潜爆雷が容赦なく浴びせられ、さらに桂東月と無二の親友である潜水艦9号艦長の羅済剛にも11号撃沈の非情な命令が下る。 危機また危機の連続に損傷していく潜水艦、乗組員たちの中に渦巻く様々な想い。そして命懸けの脱北行は荒れ狂う海で、四十五年前に広野珠代の拉致を見逃してしまったことを今なお悔やむ元警官と老漁師、就任したばかりの船長が指揮する海保第八管区巡視船いわみと交錯することになる。 この勇敢なる者たちを愚かだと思うか、懸命に手を伸ばし助けを求める者を目の前にして、見て見ぬふりをする賢い選択か。手に汗握る海戦と人間ドラマを凝縮し、胸を熱くさせる作品。 |
No.40 | 6点 | サウスバウンド 奥田英朗 |
(2023/08/07 20:25登録) 主人公の二郎は、ごく普通の小学校六年生。ただ一つ普通ではないのは、父親が左翼の元活動家で、国民の義務や年金制度や税金、すなわち国家を認めない頑固者だったことだ。はたから見れば相当面白い変わり者だが、二郎にとっては、何かにつけて問題を起こす厄介な存在。 物語の前半では、まっとうな正義感の持ち主である二郎が、あくどい中学生の恐喝にあい、その災難に友人たちと立ち向かってゆく。小学六年の心臓の鼓動が聞こえてくるほど生々しくスリリングな語り口だ。 だが、小説の加速するのは後半で、父親が家に匿った活動家が事件を起こしたことから、二郎の一家は沖縄の西表島に引っ越しすることになる。 この南島で、新たな事件のタネがまかれ、それまで迷惑千万な脇役に過ぎなかった父親が、がぜん存在感を増し物語は二郎の目から見た、思想闘争の趣を帯びてくる。現代のドン・キホーテである父親の行動を触媒にして、自然と文明、個人と国家、ユートピアと権力という根本的な問題が問われるのだ。自然への憧れを失わない大人のための、苦みの効いた冒険小説。 |
No.39 | 7点 | インビジブル 坂上泉 |
(2023/07/15 22:15登録) 昭和二十九年の大阪を舞台にした、ユニークかつハードなミステリ。戦後に新しく施工された警察法により、日本には「自治警」と呼ばれる米国式の自治体警察と、「国警」と呼ばれる国家地方警察があった。大阪市警視庁は自治警である。だが警察法の改正により、警察組織の一本化が迫っている。そんな時、大阪城付近で政治家秘書が、頭を麻袋で覆われた刺殺体で発見される。さらに、やはり麻袋で頭を覆われた轢死体も見つかった。連続殺人の可能性に捜査員たちは色めき立つ。 その中に、若手刑事の新城洋がいた。国警から派遣されてきた守屋恒成とコンビを組まされた新城。互いの立場や性格の違いから、ぶつかり合いながら、二人は事件の真相に肉薄していく。自治警と国警、大阪人と東京人、庶民とエリート。作者はこのコンビに、何重もの対立構図を重ね合わせる。それゆえに何度も衝突するが、次第に相手を認め良き相棒になっていく、二人の姿が読みどころになっている。 また一連の事件の大まかな真相は、登場人物より先に読者が分かるようようになっている。それでもページをめくる手が止まらないのは、ストーリーが面白いからだ。上司の忖度による現場の混乱や、新城の家庭の問題が縁となって発見された手掛かりなど、物語の組み立ては巧みである。戦中、戦後を通じて庶民を踏みにじる人々への怒りも、犯人を通じて鮮やかに表現されている。 |
No.38 | 7点 | モンフォーコンの鼠 鹿島茂 |
(2023/07/15 21:58登録) 舞台は七月革命直後のパリ。人工は密集しながら、下水道も浄化槽もなかった時代。屎尿は野積みで自然乾燥に任せていた。おまけに自動車もなく、物資の輸送と人々の移動は馬力に頼っていた。馬が現在の自動車並みとまではいかなくても、パリとその近郊で多数使役され、病気や事故で死ぬことも頻繁にあった。廃馬処理の汚物も、当然積みっぱなしで腐敗。臭気は風向き次第でパリの街に漂った。 19世紀、ヨーロッパの大都市はどこも似たような危機に瀕し、政府が対策を考え始めた、いわば公衆衛生の黎明期。この蘊蓄の描写からバルザックの書く小説の中に融解していくあたりから、史実から逸脱し想定外に大きく展開する。 モンフォーコンの乾燥汚物屍肉に群がり大量繁殖していた鼠、そして地下に広がる採石跡の坑道や空間を利用して、空想社会主義者フーリエの弟子たちが絢爛にして奇怪なユートピアを作り上げてしまうのである。モンフォーコンへの著者の並々ならぬ愛を感じる。 パリの地下に広がる理想郷を探検していく様子は、まるで江戸川乱歩の「パノラマ島奇談」のよう。博覧強記の知識から繰り出される蘊蓄に加えてお色気あり、革命活劇あり、恐怖ありの奇想天外な娯楽大作。フランス史に疎い人でも十分楽しめる。 |
No.37 | 6点 | オスロ警察殺人捜査課特別班 フクロウの囁き サムエル・ビョルク |
(2023/06/19 22:32登録) オスロ郊外の森で発見された少女の死体。羽を敷き詰められた地面に横たわり、口の中にはユリの花、そして周囲には儀式に用いられたと思われる五芒星を形作るロウソク。検死の結果、被害者はやせ細っており動物の餌しか与えられていなかったことが発覚する。この事件の捜査のため、オスロ警察殺人捜査課特別班を率いるムンクは、前の事件の影響から精神的に不安定なミアを復職させようとするが。 前作同様、猟奇的な事件を捜査する特別班の個性的な面々の活躍が楽しめる。双子の姉の死をトラウマに持つミア、独り身で元妻の夫に嫉妬するムンク、昔の仲間が事件に関与しているらしい元ハッカーのガーブリエル、そしてサイド・ストーリーとして描かれるムンクの娘ミリアムの不倫。特別班のメンバーのプライベートが事件の解決とリンクしている点が読みどころ。 |
No.36 | 8点 | 若冲 澤田瞳子 |
(2023/05/24 21:25登録) 妻を不幸にした後悔と、若冲の贋作を得意とした実在の絵師・市川君主との確執や相克が、若冲の偏執狂的なまでに緻密な描写や奇矯な構図を生んだという大胆なフィクションを描いている。 さらに、尊王派の公家が追放された宝暦事件、若冲の実家がある錦高倉市場と五条問屋町の訴訟、天明の大火といった史実を描くことで、若冲の葛藤に迫る芸術小説の中に、政治劇、経済小説、ミステリ、人情ものなど多彩なジャンルを織り込んでいる。 若冲が巻き込まれる事件を通して、弱者を平然と切り捨てる政治の非情、格差と差別の問題など、現代と共通する社会問題を浮かび上がらせているのも秀逸である。 心と社会の「闇」に翻弄された若冲が、最期に到達した境地は、若冲の絵が世代を超えて愛されている理由とも繋がり、深い感動を与えてくれるはずだ。 |
No.35 | 6点 | ロシアン・ルーレット 山田正紀 |
(2023/04/28 23:26登録) 崖から転落したバスが、横倒しになった送電塔の突端に車体の中央が串刺しにされ、崖から宙づりになり、きしみながら左右に揺れている。 物語は基本的に、事故直前、そのバスに乗り合わせたK県は人口十五万人の栖壁市の刑事・群生の意識を中心に繰り広げられていく。各章の主人公が変わっても、すべて群生の視点のみから語られる。あらかじめ乗客全員と面識があるわけではない。ただ一人の例外は、かつて彼と何らかのつながりがあったらしいコンビニのアルバイト娘、相楽霧子だが、しかし彼女にしても同市の場末のカラオケボックスで殺害されたばかり。にもかかわらず、額の銃痕もあらわな彼女が堂々と同じバスに乗り、群生に話しかけてくるのだから、果たしてこれは幻影か幽霊か。 バスの運転手から果樹園経営者の妻、七歳の少年、拒食症の女、営業部長、菌マウスの研究者まで、各人の人生が怒涛のように群生の意識へ流れ込む。やがて連作は語り手である群生本人が秘めるとてつもない闇に向かって突進する。従来の物語そのものの約束事をまんまと突き崩す仕掛けが随所に詰め込まれている。語り手という存在そのものが秘める恐怖を露呈させた、高度に実験的にして極度に娯楽的ホラー・サスペンスといってよい。 |
No.34 | 8点 | ベルリンは晴れているか 深緑野分 |
(2023/04/04 22:29登録) 舞台は一九四五年のベルリン。米ソ英仏連合軍が占領し、七月のポツダム会談に入る直前、奇妙な殺人事件が起きる。 主人公アウグステは、米軍食堂に勤務する地味で実直なドイツ少女。ただし、ソ連軍の凄惨な略奪と暴行行為に巻き込まれ、傷つけられた過去がある。親類縁者もなく孤立無援の状況で、ソ連当局から恩人が殺されたことを告げられ、命じられるまま犯人と思しき被害者の甥を探すため、ベルリン近郊のバーベルスベルクへ赴く。 本書では、殺人という非日常的な出来事が、大量殺戮を背景にした戦争という非常事態の中で吟味される。もちろんそれは、ナチの人種政策や連合軍人の得体の知れなさ、生き延びるため裏切りや騙しなどが日常茶飯事になった同国人らの鬱屈を背景に、ファシズムの台頭と人間性の崩壊を抉り出すことに他ならない。同時に、それは密告と同調圧力の世界で、隣人を告発しない善良な人々や、ファシズムを止められなかった大衆が、転換する世界でどう行動するかも描き切っている。読み終えて、緩やかに価値の転換期を迎えている現代日本の姿を連想せざるを得なかった。 |
No.33 | 6点 | バルーン・タウンの殺人 松尾由美 |
(2023/03/11 22:45登録) 舞台は人工子宮による出産が一般化した近未来。その中で、あえて自腹の出産を選んだ女性のために用意された妊婦だけの街が東京都第七特別区、通称バルーン・タウン。 妊婦の街で起きる事件を妊婦探偵が解決する。その謎解きと舞台背景のミスマッチが本書の眼目。特別状況下のSFミステリと言えば、ジョン・ヴァーリイの短編「バービーはなぜ殺される」が思い浮かぶところで、表題作自体「バービー」の本歌取りなんだが、全体を通して見ると、山口雅也のキッド・ピストルズシリーズなど異色のパズラーに近い印象。 複数の目撃者がいながら犯人を特定できない表題作、穴だらけの密室ものの「バルーン・タウンの密室」、「赤毛連盟」を下敷きにした「亀腹同盟」、そしてクリスティーのパスティーシュ「なぜ助産婦に頼まなかったのか」とミステリファンなら思わずにやりとするタイトルが並ぶ。ユーモラスな語り口もさることながら、設定を生かしたオリジナルトリックの魅力が光る。 |
No.32 | 6点 | 分かったで済むなら、名探偵はいらない 林泰広 |
(2023/02/10 19:21登録) 居酒屋「ロミオとジュリエット」で一人酒をたしなんでいる刑事が、その場で耳にした謎を解くというスタイルの連作ミステリ。 浮気夫を撲殺してしまった妻の衝動、インチキ超能力者となんちゃってサイキック・バスターの対決など、七つの謎を刑事は解く羽目になる。その謎の外観と真相との間に相当の飛躍があることが、まず本書の魅力だ。 それに加えて、居酒屋の名前でもあるシェイクスピア作品に関する七つの知識や解釈が披露され、それぞれがその名作に関する読者の思い込みを否定する妙味があり、しかもその妙味を梃子として刑事が謎を解く捻り技も披露される。不敵なエピローグも気に入った。 |
No.31 | 7点 | Y駅発深夜バス 青木知己 |
(2023/02/10 19:10登録) 二〇〇三年発表の表題作の「Y駅深夜バス」は、日本推理作家協会と本格ミステリ作家クラブ、それぞれの年間アンソロジーに収録されるほどの高評価を得た短編だ。ある男が深夜バスで体験した怪異が、くるっと回って意外かつ苦い形で着地する衝撃が強烈。「九人病」では、怪談の内と外を揺蕩う妙味が堪能できる。 「猫未来」では、中学生の青春恋愛ミステリ、「ミッシング・リンク」では、読者への挑戦をはさんだ盗難事件の犯人当てとその後を描いている。「特急富士」では、犯罪者視点からコミカルに描いた殺人喜劇が楽しめる。それぞれ輝きが異なる粒ぞろいの短編集。 |
No.30 | 6点 | イタリアン・シューズ ヘニング・マンケル |
(2023/01/19 23:20登録) 本書の語り手、元外科医のフレッド・ヴェリーンは、ある事件をきっかけにスウェーデン東海岸群島の小さな島に移り住み、老いた犬猫以外話し相手といえば郵便配達人ぐらいの世捨て人のような日々を送っている。 そんな男のところへ、若き日の恋人が訪ねてくる。しかも彼女は不治の病に侵されていた。彼女に迫られ、やむなく旅に出た男に思いもしない出来事が次々に降りかかる。 タイトルが不釣り合いなほど本書は暗く思い。胸をえぐられる。死が通奏低音のように流れている。だからこそなのか。彼の人生に突然現れた実の娘、反骨精神の塊のようなルイースの赤いハイヒールや、ハンディキャップのある娘、アンドレアの水色のハイヒール、そして靴職人のマエストロから贈られてきた黒革のイタリアン・シューズが「生」の象徴のごとく、燦然と輝きを放っている。 |
No.29 | 6点 | オリジン ダン・ブラウン |
(2022/12/27 23:09登録) 波打つ金属板で外観を覆った建物自体が独特のデザインであるビルバオのグッゲンハイム美術館で、教授の元教え子で未来学者のエドモンド・カーシュが科学的大発見を発表する。それは人間が「どこからきて、どこへいくのか」を明らかにするもので、あらゆる宗教の教えを否定する内容だったのだ。 いよいよ発表という瞬間、壇上に現れたカーシュが額を撃ち抜かれて絶命するという衝撃的な事件が発生する。発表内容は何だったのか、カーシュ暗殺の黒幕は宗教界なのか。その場に居合わせた教授が、二つの疑問を解き明かそうと奮闘、緊張感みなぎる物語が展開される。 人類の起源と未来を、人工知能によって解き明かそうとするくだりは、ほら話と一笑に付せない説得力があり刺激的だ。加えて、謎を追う教授がカサ・ミラやサクラダ・ファミリアを巡る描写は、さながら紙上観光の趣がある。よく知られた名所とはいえ、建物の外観や内装に関する蘊蓄が満載で、新しい発見があった。 |