猫サーカスさんの登録情報 | |
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平均点:6.19点 | 書評数:405件 |
No.365 | 5点 | 影のない四十日間 オリヴィエ・トリュック |
(2023/09/26 17:35登録) 北欧の先住民族サーミ人が昔から暮らしてきた地域サプミで、サーミ人の儀式に使われていた聖なる太鼓が博物館から盗まれた。トナカイ警察のクレメットは、新人のニーナとともに捜査に乗り出すが、翌日サーミ人のトナカイ所有者マッティスが死体となって発見され、その耳は切り取られていた。これらの事件によって、サーミ人と侵略者の末裔である北欧人の関係は一触即発の状態となり、捜査は難航する。サーミ人と北欧人は歴史的に様々な対立点を抱えており、サーミ人の文明は圧迫されてきた。主人公のクレメットもサーミ人の父とスウェーデン人の母の間に生まれ、実家ではサーミ語を話していたが、寄宿学校で受けた北欧教育によって、今ではサーミ語を全く話せなくなっているのだ。そんな彼を目の敵にする差別主義者の警官ブラッツェン、極右政党の議員でもある農場主オルセンらがクレメットたちの前に適役として立ちはだかるが、途中からある人物が、彼らをも凌駕する極悪人として不気味な本性を見せ始める。内容が散漫とした部分もあるものの、後半その人物と得体の知れないところがあるサーミ人のアラスクが行動を共にするくだりは、ただならぬ緊迫感に満ちて圧巻だ。悪党たちの策謀でピンチに追いやられたクレメットやニーナが、いかにして逆襲を果たし、真実に辿り着くかも読みどころである。 |
No.364 | 5点 | 錆びたブルー 浅暮三文 |
(2023/09/26 17:35登録) 主人公は、女を殺害し逃亡した男。家を捨て、名を捨て、ホームレスとなって暮らし始める。ゴミのような生活、おぼろげな記憶。それでも心配はない。男は神の目を持ち、神の声を聞くことが出来るのだから。だが、語られることのどこまでが現実で、どこからが妄想なのか判別できない。本当は何が起きたのかわからないまま、主人公と共に迷宮をさまようことになる。手掛かりは合間合間に挟まれる、「捜索についての推理・記録」と題された断片的な文章。一見、妄想を垂れ流す独りよがりな不条理小説のようだが、最後まで読むとミステリとして周到に計算されていたことが分かる。じっくり読めばよく出来た難解なパズルを独力で組み立てる快感が味わえるだろう。ただ、導かれた合理的な解決が真の正解かどうかは保証されない。ジーン・ウルフの短編を思わせる、企みに満ちた幻想本格ミステリ。 |
No.363 | 8点 | 向日葵の咲かない夏 道尾秀介 |
(2023/09/06 17:05登録) 物語は小学生である主人公が夏休みを迎える終業式の日、欠席した級友のS君の家へ、プリントと宿題を届けに向かうところから始まる。主人公はそこでS君が首を吊って死んでいるのを目撃するも、何と死体が忽然と消えてしまうのだ。そして一週間後、死んだS君の生まれ変わりと名乗る存在が現れ「僕は殺されたんだ」と訴える。三歳の妹と共に謎多き級友の死に迫る。やけに大人びた妹の口調、母親の冷たい雰囲気、狂気に満ちた担任の先生、何かがおかしいというより全てがおかしい。ずっと悪夢を見ているような気分だった。それでも真実を知りたい、結末が気になるそんな物語であった。結論から言えば、これぞどんでん返しの代表作である。あまりにも悲惨で報われない内容のためか、レビューでは賛否両論といった感じだが、個人的にこのダークな世界観は好みだ。作中に「何かをずっと憶えておくというのは大変なことだ。しかし、何かをわざと忘れることに比べると、大したことはない」という主人公のモノローグがある。どんな形であれ記憶に色濃く残る作品はそう多くない。忘れたいと思えば思うほど、その記憶は深く脳に刻まれるだろう。そんな作品だ。 |
No.362 | 7点 | 法廷遊戯 五十嵐律人 |
(2023/09/06 17:05登録) 法都大ロースクールに通う久我清美と織本美鈴。決して司法試験の合格率が高いとは言えないロースクールで、久我と織本に加えてすでに司法試験に合格している結城馨は群を抜いて優秀だった。第一部の「無辜ゲーム」とは結城を裁判官として、学生の中で行われる模擬裁判のことである。議題に上がる謎は消えた飲み会の代金や、久我の過去にまつわるもので、大した事件性はない。第二部の「法廷遊戯」では、三人の運命は大きく歪み、殺人事件の弁護人、被告人、被害者としてそれぞれの思惑を抱え、法廷へと導かれる。前半は斬新な「疑似」法廷ミステリ、後半は作者の豊富な法知識の下、緻密に作り上げられた圧巻の本格法廷ミステリ。全てが明らかになった時、罪とは人が犯すもので罰を下すのもまた人なのだ。「それが一体どういう事なのか、君は理解しているか」と問い掛けられた気がした。 |
No.361 | 6点 | 落日 湊かなえ |
(2023/08/18 18:07登録) 冒頭に、しつけの厳しい母親からアパートのベランダに出るように命じられる少女が登場する。隣家の少女との無言の触れ合いが、彼女の心を慰める。この出会いが物語の縦軸となる。横軸となるのは売れない脚本家の千尋と、世界が注目する新進気鋭の映画監督・香との出会い。香は十五年前に千尋の故郷で起きた「笹塚町一家殺害事件」を新作映画の題材として扱いたいという。引きこもりの兄が高校生の妹を刺殺し、自宅に放火して両親も死なせるという凄惨な事件は、裁判で犯人の死刑も確定していた。二人が取材のために別の裁判を傍聴する場面があるのだが、ドラマのような派手さがない進行に退屈と感想を述べる千尋に対し、香が語る台詞にハッとさせられた。日々見聞きするニュースを事実として受け止めるだけで、その奥にある真実を見逃してはいないか?という作者からの強力なメッセージに思えてならなかった。中盤から終盤にかけて、縦軸と横軸が見事に交差し、千尋と香が知りたかった事実がつまびらかになる。散りばめられた伏線が鮮やかに回収されていく様が痛快。作者はこれまでも、個性の強い母親や母と娘の関係性について書いてきた。本作でも千尋と香の母たちがキーパーソンとして描かれている点を鑑みると、母親という存在が創作の大きな柱であることは間違いなさそうだ。 |
No.360 | 6点 | 名もなき毒 宮部みゆき |
(2023/08/18 18:07登録) 社内報編集部のアルバイト女性が、次々とトラブルを起こしながらも、自分は悪くない、これは誰それの責任だと言い募って部内を混乱させているところから始まる。彼女の履歴書には、一流会社で働いてきた経歴が書かれてあったが、実際には素人以下の仕事ぶりだったのだ。思い余った編集部は、やむなく馘首する。その結果、彼女は途方もない悪意に満ちた報復処置を実行に移すのであった。これとはまた別に近頃、青酸カリによる連続無差別殺人事件が起こっていた。コンビニのジュースやお茶に毒物を仕込んで、人が死ぬのを待つという卑劣な犯罪である。ところが、やがてこの二つの事件が奇妙な形で結びついていく。人が集う場所では否応なしに何かしらのランクが生じてくるものだ。しかしその差異は、人間自身が生み出すものである。だからこそ余計に「差」をつけられたくないと思う気持ちが芽生える。そんな普通の人間の「普通」といいう感情を徹底的に突き詰めていこうとする。ごく当たり前の聡明な人間が、なぜ悪意に染まっていったのか、それを何とか描き出そうとする真摯な視線がここにはある。日常生活の中で起こりうる犯罪、誰に対してということではなく、世間に向けての犯行。これはまさに現代社会ならではの事件なのかもしれない。 |
No.359 | 6点 | 未来 湊かなえ |
(2023/07/30 18:29登録) 未来の自分に手紙を書いて地中へ埋めたり、海へ流したりする話なら聞いたことがある。でもある日突然、二十年後の自分から手紙が届いたとしたら。主人公の章子は未来の自分に返事を書く。十歳からの四年半に書き綴った手紙を通して、彼女の身に起こった出来事を知り心模様をたどる。少女にありがちなコンプレックス、いじめ、家族の不幸など。悩み傷つき、未来からの手紙など誰かのいたずらで、それに対して返事を書いていた自分の馬鹿さ加減にあきれながらも、前向きに行こうと自分を鼓舞する。だが一方で、未来は多感な少女を操り、悲惨な事件へと導いてゆく。後半は別の三人の視点からそれぞれのエピソードが語られる。未来からの手紙とは何だったのか、と章子を取り巻く因縁と事件の真相が綴られていく。綿密に組み立てられたこの作品は、唸らせ戦慄させる。悪意のない一通の手紙が、さながら呼び水のように大人たちの記憶の底に沈殿する悲劇までも甦らせる。未来とは過去の集積から生まれてくるものだと、思い知らされる。幻想でしかありえない「未来」に翻弄され続ける私たちへの、諦観か警鐘か。作者の叡智に満ちた目は冷徹に問いかけている。 |
No.358 | 7点 | ペテロの葬列 宮部みゆき |
(2023/07/30 18:29登録) あるグループ企業の広報室に勤める杉村三郎は、取材の帰りに乗り込んだバスで思わぬ凶悪犯罪に巻き込まれた。拳銃を持った老人がバスジャックをしたのだ。事件はわずか三時間で解決っしたものの、あとに大きな謎が残った。老人は何者か。一体何のために騒ぎを起こしたのか。やがてかつて世間を騒がせた集団詐欺事件との関係が浮かび上がる。本作のテーマは「悪は伝染する」というもの。嘘がより多くの嘘を新たな悪を生み出していくのである。主人公とその家族や職場の人間、そんな集団の中で生まれた悪意やトラブルが増幅し、周囲を巻き込み展開していく。そこに今の日本のゆがみが如実に映し出されている。この物語を読んでいると、単なる傍観者ではすまされない思いがしてくる。自分が主人公と同じ立場だったらどうするか、突き付けられているようだ。何より、わが身可愛さのあまりに嘘をついたり、自分の嘘に気が付かなかったりする浅ましさが描かれていて身につまされる。 |
No.357 | 5点 | 残花繚乱 岡部えつ |
(2023/07/11 18:37登録) 不倫相手である上司の妻から見合い相手を紹介された、西田りか。外資系の大手証券会社で職場結婚したものの、夫が会社をリストラされた滝本泉。インテリアコーディネーターとして、男性と対等に渡り合って仕事をしている、シングル志向の桐山麻紀。三人は、ある書家が主催する書道教室で知り合い、親しく付き合っている。年も職業も背景も違う三人は、書道仲間という互いにちょうど良い距離感を保った関係だったのだが、りかが結婚式の準備を二人に手伝ってもらったことから、その関係性に少しずつ綻びが出てくる。三十代前半のりか、三十代後半の泉、四十代前半の麻紀。もう若さを言い訳にできない三人の女たち、三者三様の愛。さらには、りかの不倫相手の妻で、母としても女としても常に完璧であろうとする美津子と、そんな美津子を嫌悪する高校生の娘・美羽。女たちが心に抱える昏い感情を、それぞれの視点からじっくりと炙り出していく。女という性、女という生き方に真正面から向き合い、多角的に描くことでその狡さも悪意も切なさも可愛らしさも、ありのまま描いた物語だ。その根底にあるのは、生き辛さを抱える女たちへの、熱いエールである。 |
No.356 | 7点 | 厭魅の如き憑くもの 三津田信三 |
(2023/07/11 18:37登録) 舞台は、神隠しの村・案山子村・憑き物村などの禍々しい別名を持つ神々櫛村。この村には、代々巫女の役割を務めてきた憑き物筋の「黒い家」と非憑き物筋の「白の家」が混在し、陰湿な対立を繰り広げている。この迷信と因習で塗り固められたような山村を訪れた刀城は、奇怪な変死事件に遭遇する。そしてこの事件を皮切りに、変死体が村のあちこちで次々と見つかった。本書で発生する事件のうちいくつかは不可能犯罪であり、死体に施された装飾とともに不気味さを演出している。しかし、物語全体の充満する不気味さの真の源は、神々櫛村という舞台そのものにある。現実にはあり得ないほどに誇張された因習の積み重ねと、登場人物たちを襲う怪異の描写は、人間による犯罪なのではないのかもという不安を感じさせる。ラストで解明される真相は、本格ミステリではお馴染みのトリックのパターンを巧みに三種類組み合わせることで、抜群の意外性を演出している。 |
No.355 | 7点 | 悼む人 天童荒太 |
(2023/06/19 18:43登録) 死者が出たある事件の現場を、一人の旅姿の青年が訪れる。左膝を地に着け、頭上に上げた右手を胸へ運び、何かを唱えている。見とがめた人が何をしていたかを問うと「いたませていただいていました」と答える。これが「悼む人」である。報道で知り得た死者の情報を記録したノートと共に、彼は全国の死の現場を旅しているのだ。死者を知る者と会えば必ず「誰に愛されていたか、誰を愛していたか、どんなことをして人に感謝されたことがあったか」を尋ねる。その生前の故人を偲んで「悼む」。この奇妙な男を、癌を告知された彼の母親、嫌われ者の事件記者、夫殺しの女、三人の視点から本書は語っていく。なぜ彼はこのような行為にとりつかれたのか。単純な善意ではない。宗教行為でもないという。気味悪がられ、迷惑がられることもある。とにかく周囲に違和感と疑問を刻みつける存在だ。そんなことをして何になる、偽善だ、自己満足だ、などと疑問や反感をぶつけずにおれない者たちの目を通して、彼「悼む人」は描かれているのである。事件の報道には頻繁に死が伴う。悲惨な死、愚かな死、不可解な死、あまりにも多くの死がある。だが事件は記憶されても、死者の名前や人柄には注意を払われない場合が多い。あらゆる宗教と哲学、そして文学の根源である死を、しかし「悼む人」は恐ろしいほど律義な歩行と、聞き届きる耳によって具体化していく。その行為によって、重苦しい死がふと救いに変わる。抽象に逃げない強靭さが、深く心に残る作品である。 |
No.354 | 7点 | 小暮写眞館 宮部みゆき |
(2023/06/19 18:43登録) 全四話で構成される本書の謎は、一枚の心霊写真から始まる。撮影時にはいなかった人物が、写真では顔だけぽっかり浮かんでいるといったあり得ない状態で写っている。そんな写真を押し付けられ、謎を解くことになるのが主人公の高校生、花菱英一だ。さびれた商店街の真ん中に位置する「小暮写真館」に引っ越してきた直後の出来事だった。彼は写真に写っている人たちを知る人がいないかを探し、近所の家を一軒一軒訪ね歩くことから始める。その結果、写真の謎はすべて解明される。しかし、謎を解いただけでは物事は終わらないことを思い知ることになる。例えば、こんな形になってまでも写真に写り込み、何事かを訴えたかった幽霊たる人の思いとは、果たしていかばかりのものであったのか。誰かに何かを伝えるための手段としても、これではあまりにも悲しすぎた。相手に直接言葉を使って伝えることが叶わない、独りぼっちの苛烈な状況が思い浮かぶからだ。決して声高ではないが、ここには物言わぬはずの写真が、かくも多くの言葉を持っている驚きと、その言葉を口にできない、もの言えぬ環境の現実がさりげなく描かれている。著者は、そこから言葉と会話による人と人のつながり、結びつきの大切さを主人公の成長具合と合わせるように、ゆっくりと慎重に語っていく。この柔らかさは宮部みゆきならではだろう。 |
No.353 | 6点 | マカリーポン 岩井志麻子 |
(2023/05/31 18:11登録) いかにも慣れた手つきでこしらえた凡庸なホラーとは全く違う。もっと根源的な人間の業や、この世界に満ちている違和感を鮮明な輪郭で描いた作品である。私小説的なスタイルで語られるために妙な既視感が伴う。かつてアダルト業界に身を置き、人間のおぞましさに関するオーソリティーみたいな編集者が狂言回しになるところが「ここまでヒトはとんでもない存在なのか」と実感させる装置として機能し、リアルさを高めている。ストーリーは、近所に住む奇妙な姉妹との出会いから始まり、やがてタイ国の闇の空間へと広がる。実際に起きた事件との関連も示唆され、不穏なトーンが次第に高まってゆく。短編小説が各章に挟み込まれ、物語を紡がずに入られないは著者の欲望が人間の「あさましさ」とシンクロしていくところが怖い。書名のマカリーポンとはタイに伝わる半人半植物の妖精。木からもいだそれを男たちは妻にするが、七日の内に男は気を失い、マカリーポンは萎んで死ぬ。死ぬ間際に「ワクワク」という声を上げるという。いったいどんなイントネーションで、どんなトーンで「ワクワク」と叫ぶのか。その叫びを想像し、可憐で不気味でたまらないと書く。まさにそんな動揺と妖しさが本書には満ちている。 |
No.352 | 8点 | 暗色コメディ 連城三紀彦 |
(2023/05/31 18:11登録) 冒頭で提示される四つの謎が強烈。人妻の古谷洋子は出かけたデパートで、夫が同姓同名の女性と逢引きしているのを目撃。画家の碧川宏は、自殺するつもりでトラックに飛びこむが、なぜかそのトラックが消失した。葬儀屋の鞍田惣吉は、妻から「あんたはこの前の晩、死んだのよ。新宿の交差点で乗用車にひかれて」と言われ死者扱いされる。外科医の高橋充宏は、自分の妻が別人になっていると確信する。次々と描かれる四つの謎だけで、ページをめくる手が止まらない。さらに精神科の病院では都内でも一、二を争う藤堂病院だが、物語の重要な舞台として登場。幾人かの登場人物の動向が判明するのだが、さらに奇妙な謎と事件が増殖していき、物語の行方がさっぱりわからない。作者の手練主管によって、迷宮を夢中になって歩いていると、やがて驚くべき真相が明らかになる。幻想的な謎が、全て合理的に解かれる。しかも全体の構成が精緻極まりない。その一方で、人の心の不可思議さに複雑な思いを抱いてしまう。これもまた本書の大きな魅力となっている。 |
No.351 | 6点 | パラダイス・ロスト 柳広司 |
(2023/05/05 18:37登録) 大日本帝国陸軍の内部に秘密裏に作られたスパイのエリート養成学校「D機関」の活躍を描く「ジョーカー・ゲーム」シリーズの第三作。魔王と呼ばれ、過去の経歴が一切謎の包まれた男、結城中佐がたった一人で作り上げたD機関、とにかく能力が半端ない。いずれも一流大学の秀才であり、運動力や戦闘力にも優れ、語学もおそろしく堪能、さらには完璧な変装と、演技で別人になり切り、人身掌握術の達人であるという、ほとんど出来ないことはないのではとさえ思えるほどすごい連中なのだ。この超人的というべきD機関の若きスパイたちが、毎回様々な事件に遭遇したり、自らひき起したりする、それがこのシリーズの醍醐味である。それと同時に忘れてならないのは、この短編連作がミステリとして実によく出来ているということである。「死ぬな。殺すな。とらわれるな。」これがD機関の戒律である。すべて頭脳戦であり、意外性に満ちたスパイミステリである。 |
No.350 | 5点 | あなたが愛した記憶 誉田哲也 |
(2023/05/05 18:37登録) 乳児を殺害、自ら110番通報して逮捕され、裁判が進行中の曽根崎という男を、弁護士が訪ねるシーンから物語が始まる。冒頭の数章で、異常犯罪に関わる正体不明の男や、事件を追う複数の刑事、あるいは独特の雰囲気を持つ女子高生・村川民代などが順次紹介され、ストーリーの行く手が示される。本書は、難しく言えば遺伝医学的な現象、簡単に言ってしまえば、オカルト的現象をテーマにするものだが、超常現象以外のディテールが、現実感豊かに書き込まれているため、何の抵抗もなく読める。多視点で描かれているものの、基本的には曽根崎を中核に据えた、私立探偵小説といってよい。キャラクターの一人一人が行間から立ち上がる存在感を持ち、この小説を支える骨格をなす。ことに曽根崎の事務所の下にあるスナックの店主・吾郎と美冴の兄妹がいい。プロローグから、途中である程度結末が予測できるのは惜しいが、読後に独特の余韻を残す。 |
No.349 | 7点 | フィルムノワール/黒色影片 矢作俊彦 |
(2023/04/10 18:30登録) 凝りに凝った描写、気取り倒した文体と作者の拘りが張り詰めている。その拘りの中核部分をなすのは映画への愛情であり、古今東西のおびただしいフィルムへの言及が、はちきれんばかりに詰め込まれている。主人公の元刑事・二村は、スクリーンの幻想をそのまま現実として生きる男なのだ。だから口を開けば、大向こうを唸らせる名台詞のような言葉ばかり飛び出す。そんな二村が、ある女優の頼みで失踪した若い男優を追って旅立つ。向かう先は映画の都・香港。女優の父が亡くなる前に撮った幻のフィルムを巡る謎が絡んでくる。さらには、香港ノワールに影響を及ぼした六十年代日活映画の輝ける星、「エースのジョー」こと宍戸錠本人まで登場する。ただ、映画が輝いていた時代へのオマージュなどというのんびりしたものでは毛頭ない。徹頭徹尾、自らの愛してやまないものだけど、どこにもない世界を建立してしまおうとする作者の執念の産物であり、全体が他に類のないような言語実験ともいえる。 |
No.348 | 6点 | プラハの墓地 ウンベルト・エーコ |
(2023/04/10 18:30登録) 集大成ともいえるこの小説には、十九世紀に流行した新聞連載小説への著者の愛が充ちている。十九世紀のパリを取り巻く出来事や人物がふんだんに詰め込まれ、いわば史実の網の目をつくっていて、その結び目に密かに一人だけ虚構の主人公を編み込む。主人公はパリのモベール小路で骨董屋を構えながら、警察や教会の秘密の結社から依頼され、偽の遺言書や手紙や書類を本物と区別できないほど巧妙に作る男である。その秘密の仕事が、やがては偽物そのものの作成にまで男を関わらせる羽目になるのだが、その長いプロセスこそがこの物語の読みどころだ。そこに殺人事件が絡み、ドレフェス事件をはじめ、ユダヤ人問題やイエズス会、フリーメーソンといった事柄が織り込まれる。歴史を紐解く面白さも物語を読むワクワク感も、存分に楽しめる著者ならではの小説である。 |
No.347 | 7点 | さよならの手口 若竹七海 |
(2023/03/20 19:09登録) 物語は、女性探偵葉村晶が、元女優に頼まれて二十年前に失踪した娘の行方を追ううちに、関係者が次々と闇に消えていることに気づく内容である。巧緻なプロットが素晴らしい。冒頭の白骨死体発見からラストの別の事件の解決まで、メインとなる女優の娘の失踪事件にいくつもの小事件を絡ませて飽きさせない。複数の事件が多発的に起きて、私生活も賑やかになりやがて暗転する。何よりも魅力的なのは探偵像だ。四十過ぎて人生に迷っている葉村は、様々な人々を訪ね歩き、人生の辛苦を垣間見、皮肉を言い、権力者の脅しにあいながらも事件追求を止めない。人生を熟達している良き観察者であり、同時に臆せずひるまず敵に向かう行動者でもある。葉村がバイトする古書店でのミステリに関する蘊蓄も愉しく、ミステリファンにはたまらない。多くの人が共感できる等身大のヒロインであり、満足できる小説だろう。 |
No.346 | 6点 | 海峡を渡る幽霊 李昂 |
(2023/03/20 19:09登録) 政治や歴史、性など多様な主題が時に叙情的に、時に土俗的ほら話風に描かれる。台湾の歴史と風土が結晶化したような作品には、複雑な味わいと重厚な読み応えがある。表題作は奇妙な幻想譚だ。漢方医が大陸から台湾にやってくる。何か事情があるらしく険しい山奥に居を定めるが、やがて女の幽霊が彼の元に現れる。騒動を起こす女幽霊を追い払おうと人々がするのが、台湾の土着の神様だ。物語は両者の対決とあいなるが、その構図に台湾の現代史と重ねずにはいられないだろう。コミカルな物語に深い含意が込められている。国民党政権による政治弾圧のトラウマを描く「花嫁の死化粧」、数百年にわたる台湾の歴史を幽鬼の視点で語る「谷の幽霊」も忘れ難い。奇想天外なイメージを駆使しながら、壮大な時空をまるごと語ろうとする作者の力技に圧倒された。 |