人並由真さんの登録情報 | |
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平均点:6.35点 | 書評数:2257件 |
No.1217 | 6点 | B・ガール フレドリック・ブラウン |
(2021/06/27 15:56登録) (ネタバレなし) 1950年代のロサンジェルス。その年の夏。「おれ」ことシカゴの高校で教鞭をとる28歳の高校教師ハワード・ベリー(愛称「ハウイー」)は、夏休みを利用してLAに来ていた。ハウイーの目的は大学教授(講師)になるべく、改めて大学院に入学して修士課程をとるための準備の勉強と、そして生活費稼ぎのバイトをするためだ。そんなハウイーはシカゴに来るやいなや、通称「ビリー・ザ・キッド」こと26歳の美女ウィルヘルミナ・キドラーと、親しい男女の仲になっていた。ビリーの仕事は「B・ガール」、つまり酒場で客をとる娼婦だ。近所のレストランで皿洗いのバイトをしながら就学の準備を整えるハウイーは酒も適度に楽しみ、町には多くの飲み仲間もできていた。だがそんなある日、突然、ビリーがハウイーに向かい、とんでもないことを口にする。 1955年のアメリカ作品。 フレドリック・ブラウンのノン・シリーズで、邦訳は創元文庫にも入っていないため、この「世界名作推理小説大系」でしか読めない。 小林信彦の「地獄の読書録」のなかで、一風変わった作品、具体的には「本来ならアマチュア探偵になるはずのポジションの主人公が、なにも推理も犯人さがしもしない怪作」という趣旨の物言いでわりと面白がっていたのがコレである。 (なんかそれだけ聞くと、都筑道夫の、デビュー時点での物部太郎みたいだ?) 評者的には、まあ作者がフレドリック・ブラウンなので、そーゆーのもあるであろう、くらいに思っていたが、実際にその通りの作品。 主人公ハウイーの周辺で序盤から殺人事件が起きるが、当人が特に容疑者にされたり、恣意的に事件に巻き込まれたりするわけでもない(警察との接触はちょっとある)のをいいことに、フツーの意味でのミステリの主人公みたいなことはほとんど何もしない。 なんかやや薄口のデイモン・ラニアンの世界みたいな、のんべえや町の女たちの喧騒めいた日常生活がゆるゆると続いていく。 それはそれで語り口としては面白いし、評者などはこういうものだろうとある程度の予想もついていたので、気楽に楽しんだが、人(ミステリファン)によっては軽く怒るかもしれない。 もちろん1950年代のアメリカ大都会の裏町の気分は、満喫できるんだけれど。 しかしよくこれを数あるブラウンのミステリ諸作の中から、代表作? 的なポジションで「世界名作推理小説大系」に入れたよ。いや、ある意味ではフレドリック・ブラウンという作家の側面をひとつ、よく表した一作ともいえないこともないか。 物語はラストで急転直下、ミステリらしくなり、意外な犯人も判明。さらに(中略)。この荒馬に乗って田舎道を歩いていたと思えば、いきなりハイウェイに出るような感覚はまあなかなか面白い。 クロージングに関しては、評者はフレドリック・ブラウンの都会派ミステリに、ときたまウールリッチにどこか似たような詩情やペーソス、あるいはちょっとだけいびつなユーモアを感じるようなことがあり、そういうところもスキなんだけれど、これは正にそんな感じ。どういう方向で決着するかは言わないけれど、余韻を感じながら読み終えられた。 評点はむすかしいなあ。7点あげるとちょっとアレなので、とても好意的な意味でのこの点数ということで。 【余談1】 本作の原題は「THE WENCH IS DEAD」で、田舎娘(または女中、娼婦)は死んだ、の意味だけれど、これはデクスターの『オックスフォード運河の殺人』のソレといっしょだな。そっちはまだ読んでない(買ってはある)が、なんか笑う。 【余談2】 物語の後半、事件のなりゆきのなかで、諧謔を込めておのれをスーパーヒーローのなりそこない的に自虐したハウイーが上げる名前が順番に、スーパーマン、ディック・トレーシー、セイント(サイモン・テンプラー)、ペリー・メースン、ファントマ。この辺も楽しかった。 |
No.1216 | 6点 | 死の序曲 ナイオ・マーシュ |
(2021/06/26 15:50登録) (ネタバレなし) 第一次大戦後の、英国の片田舎ベン・クックウ。地主ジョスリン・ジャーニガムは、できれば自分の23歳の息子ヘンリを、彼よりずっと年上(40代後半)のオールドミスで資産家のアイドリス・キャンパヌウラと婚姻させようと思っていた。だが当のヘンリは、中年の貧乏牧師ウォルタ・コープランドの娘で19歳の美少女ダイナアと恋人同士だ。さらにアイドリス、そして彼女の友人かつジョスリンの従妹で48歳のエリイナ・プレンティスは、ハンサムな男やもめのコープランド牧師をめぐる恋仇でもあった。彼ら6人に土地の医師ビリイ・テンプレット、そしてその不倫相手の未亡人シイリア・ロスを加えた8名は村の教会のホールでアマチュア演劇を行おうとするが、やがて予想外の殺人が発生する。 1939年の英国作品。ロデリック・アレン首席警部シリーズの第8長編。 主要キャラはそんなに多くないが、とにかくカントリーものの定型のなかで大小の役どころの登場人物が丁寧に描きこまれる。翻訳もいいのであろうが、なんにせよまったく退屈しないで、一晩で読み終えた。地方ミステリ小説としての面白さは、P・D・ジェイムズかレンデルあたりの出来のいいときの食感にかなり近い。 中盤でちょっと凝った状況、殺人方法による人殺し事件が起きるが、そこに行くまでも特にかったるさは覚えない(個人的な感想かもしれないが)。惨劇の発生後は、さらにテンションが高まる。 事件発生後に、おなじみアレン警部(首席警部)が部下を連れてロンドンから来訪。 この直後に、(たぶん)容疑者をふくむ主要登場人物の内面を作者が神の視点での客観的描写で覗いてまわるという、英国ミステリの大家の何人かがやっているような外連味も導入。ここらのゾクゾク感はたまらない。終盤にはアレンが、ロンドンにいる恋人でレギュラーヒロインの美人画家アガサ・トロイへの手紙を書いて事件&関係者の情報を整理。名探偵はかなりのことがわかっているハズだが、その手紙の中身はかなりデリケート(もちろんここではまだ真相は明かされない)で、作者の不敵な趣向にもういちどワクワクする。 ……とまあ、こう書いていけば謎解きフーダニットの剛球パズラーとしてかなりの秀作、面白そう、なのだが、最後の真相&真犯人がなあ……。(中略)もなにもない(中略)な出来で。作者マーシュはどんな思いでこれを書いた、あるいはこの結末でよし、と思ったのだろ。次から自分の作品をつまらながって読者が減るとか、危機感を覚えなかったのかしら。だとしたらかなり天然だね。 気になって、読了後に近くにあった「世界ミステリ作家事典・本格派編」のマーシュの項を読んでみたら……そうでしょう、そうでしょう。まったく同感。 まあ最後の最後で腰砕けの感が強い一作だけど、それでもクライマックスまでは十分に楽しめた。そんなに悪い印象もない。評点はこんなところで。 ※ポケミスの100ページ目で、事件関係者がなにげなくホームズの名を口にした際に「わたしの面前では誰にもホームズを馬鹿にはさせません」と先輩名探偵への敬意を語るアレンが凛々しい(あくまで作中でもフィクション上の人物として、接しているのだろうが)。いいキャラクターだよね。 |
No.1215 | 6点 | 銀座迷宮クラブ 生島治郎 |
(2021/06/25 19:22登録) (ネタバレなし) 「私」こと、銀座の高級クラブ「しくらめん」のフロア・マネージャーで35歳の宮路は、恋人と足抜けするホステスを助けたため、制裁を受けて失業した。そんな宮路を拾ったのは、熊本出身のママが経営する小規模なクラブ「ばっかす」(愛称「もっこす」)のオーナー一家だ。「しくらめん」の背後にいる暴力団・飛鳥組に睨まれながら、宮路は「もっこす」でマネージャーとしての業務を始めるが、そんな彼の周囲ではさまざまなトラブルが湧き起こる。 雑誌「問題小説」に連載された全6編の連作をまとめた、文庫オリジナル(「文庫封切り」と表記)の一冊。 ホステスの変死や宝石がらみの詐欺など事件性のある主題に接近するエピソードもあるが、基本は銀座の繁華街の一角での日々の変事や謎を題材とする生島版「日常の謎」的なシリーズ。 一回45分枠の連続・毎回完結形式のTVドラマを楽しむような感覚でサクサク読めるが、随所にいつもの<生島作品らしいハードボイルド感>は込められており、その意味でも安定した面白さ。 くだんの日常の謎ミステリとしては、第五話の、金持ちの囲い者になったとたん、無駄に多数のペットを飼いまくるホステスの事情などがちょっと印象深い(さる事情から迷惑な目にあう動物たちののことを考えると、いささか不愉快でもあるが)。 真っ当な謎解きミステリのフォーマットを遵守する必要がない分、各話エピソードが幅広く、話にバラエティ感があるのが強みのシリーズだった。 外出の際に車中で読んだり、病院の待合室のお供などには、最適な一冊。 |
No.1214 | 5点 | ポルノ殺人事件 黒木曜之助 |
(2021/06/25 05:14登録) (ネタバレなし) 翌年の沖縄本土返還を控えた、1971年。9月の東京では、欧米に比べてポルノ産業後進国の日本を鑑みながら、コールガール組織を運営するハーフの青年ジョージが、効率の良い利益の出るポルノ・コンビナートの構想を進めていた。そんななか、人気コールガールで25歳の美女、紺野ユカは意外な相手に再会。同時に自分が処女を失った、女子高校生時代の真実を察する。一方でユカの年下の彼氏の大学生、武本良治もまた、ある奸計を図っていた。さまざまな男女の思惑が入り乱れるなか、とある男女に唐突な死が訪れる。 現状でAmazonにデータがないが、書籍(たぶん元版しかない)は桃園書房から1971年12月に刊行。書き下ろしで、作者・黒木曜之助のたぶん第六番目の長編。 キワモノ以外の何物でもない題名に興味を惹かれて、web経由でまあまあの値段で古書を入手。 黒木作品は大昔に『暗黒潮流』(これは政界を舞台にしたミステリ。詳しい内容は失念)を一冊読んだきりであった。正直、そんなに高い評価は聞かない作家だが、一部にこだわっているらしい愛好家がいるようではある? ポルノ解禁前の性風俗商売の世界を主題に、さらに沖縄本土返還やら連合赤軍(そのままではないが、類似の組織)やらのネタをからめた当時の昭和風俗ミステリで、謎解き作品としては案の定、大したことはない。 前半は、半世紀前という意味での時代がかったレトリックの数々で、ケタケタ笑いながら読める。さすがにリーダビリティだけは申し分ない。 エロい描写が適当に断続したのち、中盤で一応はフーダニットの形をとった殺人事件が発生。ようやくいくらか話が引き締まるかに見えて、後半はちょっと意表を突かれる展開にも及ぶ。 とはいえ終盤の謎解き? は二転三転するものの、ほとんどサプライズのためのサプライズとして話の穂を継ぎ足して転がしていくような印象で、うーん。ラストの真相というか決着は、ある意味でスゴイね。 1000円前後出して買ったような気がするが、稀覯本ということを考えなければ、正直ちょっと高い買い物であった。 まあ古本屋で200円くらいまでで見つかって、気が向いたら買ってもいいんじゃないかと。 昭和のC級ミステリの猥雑な雰囲気だけは、十分に楽しめるが。 |
No.1213 | 6点 | ゆがんだ罠 ウィリアム・P・マッギヴァーン |
(2021/06/24 15:11登録) (ネタバレなし) 1950年代の初めのニューヨーク。「パブリックス出版」でミステリ雑誌の編集長を務めていた30代半ばのウェッブ・ウィルスンは、「グランパ」こと社長ソール・レヴィットの意向で、業績不振のコミック誌の路線を立て直すように指示される。これまでと畑違いのジャンルに戸惑いながらも、次第にこの仕事が楽しくなっていくウェッブ。だが人気筆頭の女流コミック作家であるケリー・デイヴィスが、彼女を中心とする新雑誌の企画にウェッブを引き抜きにきた。ケリーの独走が会社との軋轢になると見たウェッブは、やんわりと今回の話を断るが、事態は意外な殺人事件へと結びついていく? 1952年のアメリカ作品。マッギヴァーンの第五長編。 ミステリ雑誌を舞台にした処女長編『囁く死体』をベースに、主舞台をアメリカンコミック編集部に変えたセルフ・リメイクみたいな感じの作品。 先行作同様に、多かれ少なかれ、業界ものミステリみたいな味わいもあるが、その辺の面からするとこっちの方が、作者が書き慣れてきてスキルが上がったのか、あるいは直接、作者自身がいるミステリ分野でなかったから気を使わなくていいのかか、こっちの方が作家や編集スタッフ連中の描写がよりツッコンだ感じで面白い。 主人公ウェッブはアル中一歩手前の一面があり、これが原因で一時的に記憶を失い、事件のなかでややこしい面に陥るが、なんで酒に依存するようになったのか、そのあたりの事情も少しずつ見えてくる。1950年代のヒューマンドラマミステリらしくて、いい。 全体としては『囁く死体』と同系のB級都会派パズラーだが、ウェッブの友人でマトモな人物ながら不器用で強面なNY警察の警部ビル・サマーズが、マッギヴァーン本流のノワール&ハードボイルド警察小説もののキャラクターらしくて、なかなかよろしい。この作者らしい(当時のエンターテインメントミステリの枠内での)骨っぽい造形で、作品の厚みを増している。 しかし主人公のウェッブは、(真面目なところも、良くも悪くも小市民なところも、くだんのトラウマの文芸設定も)『逃亡者』以降のデビッド・ジャンセンが演じたら、実に実に似合いそうなキャラクターであった。前半からそのイメージが頭に浮かんできて、最後までそんな脳内ビジュアルの芝居や台詞回しで読み終える。 ミステリとしてはそんなに深いものではないんだけれど、クライマックスなど、この時代の小説の手際に長けた作者が独特の感覚で面白く見せた印象。 秀作『ビッグ・ヒート』の振り切りぶりには及ばないが、まとめかたもなかなかよろしい。佳作。 |
No.1212 | 6点 | メグレの拳銃 ジョルジュ・シムノン |
(2021/06/23 02:32登録) (ネタバレなし) おや、お久しぶり、パイク刑事。『メグレ式捜査法』読んだのは、絶対に20世紀だったよ(しかし同作は今さらながらに、邦訳タイトルを「わが友メグレ」にしてほしかったな~)。 全体としてはいつものメグレシリーズの世界ながら、主体の殺人事件の解決にメグレがさほど傾注せず、ゲスト主人公の若者の去就ばかり気にかけるのがなんか味わい深い。 ……しかしこれは言うのもヤボであろうが、パリ警視庁の警視が自宅から拳銃を盗まれたという事態なのに、管理不備を問いただす叱責がなさすぎるよね。フランスも、アメリカあたりと同程度の法規の枠のなかで拳銃は自由売買だとは思うけれど。 ネタ的には変化球な要素をいくつも盛り込んでいる感触があるが、妙にまとまりの良さを認めはする一作。 いろいろと勝手な思い込みができそうな余地があるのは、好ましいかも。 |
No.1211 | 7点 | ハマースミスのうじ虫 ウィリアム・モール |
(2021/06/23 01:40登録) (ネタバレなし) 大昔の少年時代に旧クライムクラブ版で読んでいて、その時は面白くないような面白いような、正直、そんな微妙な気分であった。 今の時点で、当時の心境を整理してあらためて言葉にするなら、作者が言いたいことはおそらくわかったんだけれど、あれ、これでおわっちゃうの? これがそのサンデータイムスの補完100冊目のひとつなの? というような、たぶんそんな感じ。 でまあ、その後ウン十年、瀬戸川猛資の再評価(絶賛)も、創元の新訳の刊行も横目に、あらためてもう一度トライしてみたいという気分はくすぶりつづけていたのだが、思い立ってこのたびようやっと再読。 今回は新訳の方で基本は読んで、何カ所か、脇に置いておいた旧訳の方をリファレンスした。 改めて付き合ってみて、お話そのものはかなりシンプルだよね。瀬戸川猛資の絶賛を前もって読んで、気分が高揚して、実物に接して裏切られた気分になる人も多いみたいなのは、よくわかる。 とはいえこの作品のキモは、ボヘミアンというかプチブルというか、あるいはある種のディレッタントというか、のウエメセ(上から目線)で、悪人狩りを行うアマチュア探偵キャソン・デューカー(新訳も旧訳もカタカナ表記はいっしょだ)のキャラクター、これをどう受け止めるか。その一点に、ほとんどかかっているわけだし。 だいたい、クラシック時代から黄金時代まで欧米の名探偵たちが保っていた基本的なアイデンティティ、犯罪者(悪人、ミステリの犯人)を暴く名探偵=正義の代弁者の図式にイヤミに一石を投じて「あんたたち(名探偵ども)のやっている行為って、結局は安全圏から、ときにやむを得ず、ときには事情に強いられて犯罪を犯した弱者をイジめるサディズムだよね」とうそぶいたこと。これはまあ1950年代の半ばなら、かなりのインパクトはあったと思う。 たぶん戦後の日本の児童文化でいうなら、まるまっちい描線のマンガばかり読んでいた昭和30年代の子供が、いきなり劇画の描線と演出、表現に出会ったような強烈な体験だったと思うよ。 恐喝者の悪人バゴットには感情移入する余地がない。それはそれでいい、ここで犯罪者に読者が一体化したらレ・ミゼラブルで、キャソン・デューカーは悪役ジャベールになってしまうから。 だからバゴットは最後まで悪人、しかしそれでなお、事件がどう転がろうが、どういう被害者が出ようが、結局はひとごとの事件をサカナに、金持ちの道楽探偵キャソン・デューカーが<悪人狩りの正義>をしている。当然ながら、こいつがどんどんイヤな奴に思えてくる。 しかしこれはたぶん作者の確信行為であろう。 作者モールが言いたかったことは、お道楽で探偵ゲームなんかしている遊民のアマチュア探偵なんて、本質的にみんなイヤなやつなんだよ、というミステリ界全般に対する痛烈なサタイアなんだから。 (それを思えば、この7年前にアメリカではエラリイが『十日間の不思議』事件に遭遇しているのも興味深い。実はリアリティのなかで居場所を失ったまま最初から誕生してきたアマチュア名探偵、それがキャソン・デューカーの身上だったのじゃないかと思うのだ。) だから終盤の展開、もちろんネタバレになるからここではあまり書けないけれど、そんなキャソン・デューカーだからこそ、あーゆー経験、さらにあーゆー状況のなかで(中略)というのは、よくわかる。瀬戸川猛資が泣いた(?)のはまちがいなくココだ。 なんかマリックの秀作『ギデオン警視と部下たち』の中盤で、(中略)しかけながら(中略)するジョージ・ギデオンの姿を想起させるねえ。 フィクション上の名探偵というのは、多かれ少なかれみな(あるいは大半のものを)広義のスーパーマン認定していいと思うのだけれど、コリン・ウィルソンが言っているとおり、大衆がより愛するのは完璧な超人ではなく、苦悩して葛藤する方のスーパーマンなんだよね。 【追記】 実にどうでもいいハナシだけど、あの大河内常平『拳銃横丁のダニ』ってこの作品のパロディのタイトルであろうか? これは実を言うと、評者より先に家人が気がついた。 |
No.1210 | 6点 | ノンちゃん雲に乗る 石井桃子 |
(2021/06/21 02:48登録) (ネタバレなし) 東京の四谷生まれの少女・田代信子(ノンちゃん)は5歳の時に赤痢にかかって死線をさまよい、ふた月の入院の末に、どうにか回復した。信子の両親は九死に一生を得た娘とその兄を連れて家族4人で、東京駅からおよそ一時間半の距離にある、環境の良い菖蒲町に転居。そこで健康を回復したノンちゃんは、現在8歳。小学二年生に進級し、今では、転校する同級生・橋本の後任として、担任から級長を任命されるほどの優等生になっていた。そんなノンちゃんの願いはふたたび生まれ故郷の四谷に赴くことだったが、ノンちゃんがまた赤痢になるという、万に一つもの危険性を配慮した母と兄は、ノンちゃんを残して東京に行ってしまった。母たちの胸中に思い至らず、置いていかれたと泣きじゃくるノンちゃん。彼女はやがて、得意の木登りで高い木に登るが……。 昭和児童文学界の巨星で、太宰治の思い人であったとも言われる女流作家・石井桃子(1907~2008年)が太平洋戦争中から書きためて、終戦直後の1947年に大地書房から刊行した、ファンタジー児童文学の名作。 ただしこの元版の時点ではあまり話題にならず、のちの1951年に光文社のカッパ・ブックス(初期のカッパ・ブックスは、まだカッパ・ノベルスが発刊する前だったので、小説も扱っていた)に収録されてから、改めて大反響を呼び、ベストセラー化。文部大臣賞を獲得して、鰐淵晴子主演で映画化もされた。 評者の家には以前からカッパ・ブックス版の原作もあり、さらに1980年代から録画ビデオもあったのだが、映画の巻頭をちょっとだけ覗いただけで原作にも映画にも手つかず。どっちから読むか観るか迷いながら、現在まできてしまった(結果として、先に原作を一通り完読したわけだが)。 木から落ちた(?)ノンちゃんが、不思議な世界で仙人だか神様だかのような老人と出会う、という前半の部分は知っていたし、その辺までは、たぶん作品の題名からも映画のポスターなどからも、一般にもよく知られているところであろう(ということで、普段からネタバレを気にする評者だけど、今回、ここまでは書かせてください~汗~)。 ただしそのあとの小説の中身がどのような方向にいくのかはまったく知らなかったので、実物を読んで軽く驚いた(とりあえずこの辺も伏せておく)。 しかし手元のカッパ・ブックス版の折り返しでは、あの壷井栄が、夜もふけるのを忘れて読みふけった、と激賞しているが、21世紀の目で見るとさすがに微温的すぎるし、牧歌的な読み物に思える。 とはいえ終戦直後の時代にあって、この作品の瑞々しさが(元版の刊行時点ではまだ微妙だったとはいえ)次第に広く受け入れられていったというのはわからなくもない。 そういう意味で時代の波から消えていく作品かな、とも甘く見たが、終盤の部分でなかなかのショックを覚えた。いや、これは正にわれわれミステリファンのよく知る××××トリック(広義の)ではないか!? いやまあたしかに、小癪にも作者が指摘するとおり……(中略)。 情感を揺さぶられながら、最後まで読み終えると、それまでの物語のほぼ全体で抱いていた軽い違和感も、ああ……とうなずかされることになり、同時に作品全体がいっきに時代を超えた普遍性を獲得する。 グダグダ書かない方がいい作品だとは確実に思うので、この辺にするが、オトナがオトナの目で読むファンタジー児童文学の基本図書ではあろう。 心に響く人もそうでない人もいそうな気もするし、なにより作品に出合うまでのT・P・Oが限りなく影響するような一作、という気もするけれど。 3年前に、大好きなネイサンの『ジェニーの肖像』に、あえて6点つけたのとほとんど同じような思いで、今回も6点。 |
No.1209 | 8点 | 最初で最後のスパイ ロバート・リテル |
(2021/06/20 17:39登録) (ネタバレなし) 20世紀終盤のアメリカ。政府の対テロリスト合同調査課「SIAWG」の主任ロジャー・ワナメイカーは独善的な正義の念から、某小国に大惨事を巻き起こす秘密の計画「スタッフティングル」を進行。かつての上司であり、とあるスキャンダルから今は退役を強いられた「提督」ことJ・ペパー・トゥースフェイカーを、自分の協力者とする。だがワナメイカーの陰謀を傍受したのは、CIAの盗聴工作者で、カンパニー内部の裏切り者や問題児を内偵する「ウィーダー(除草人)」ことサイラス・シプリーだった。ワナメイカーはかつてシプリーの学友だったが、シプリーの恋人に薬物を与えて事故死に追いやった男。今は両人は憎しみあっており、さらに「提督」もまた自分の失脚の原因となったシプリーへの復讐の機会をうかがっていた。歴史研究家で、自分がアメリカ独立戦争時の隠れた英雄ネイサン(ネイト)・ヘイルの末裔だと信じるシプリーは、伝説の悲劇のスパイとなった先祖の栄光に倣うように、ワナメイカー一派とのひそかな戦いを続けるが。 1990年のアメリカ作品。リテルの第9長編。 新潮文庫の裏表紙にある、あらすじとひとこと解説「読者の知的冒険心を刺激する特異なスパイ小説」という文句を見て、なんやら面倒くさそうな作品? かと思ったが、そんなことはない。ページをめくり出したら約400ページの本文、一晩で一気読みの面白さであった。 現代(20世紀)の主人公シプリーが探求して著述した歴史秘話の形で、ほぼ2世紀前のもうひとりの主人公ネイトの独立戦争時代の戦いが、シプリーの方のストーリーと並行して語られる。 アメリカの独立のため心ならずも卑しいスパイとなっていくネイトの葛藤と理想が静かにしかし熱く綴られる一方で、そこに血の絆がからむヒロイズムを感じたシプリーもまた直近の事態に向かい合い、解決の道を探っていく。 そんな設定のシプリーのみならず、敵方の連中も、中盤から登場するヒロインでカメラマンのスノウもみんなキャラがたちまくり。 特にスノウは占いマニアというラノベかギャルゲーの女子みたいなキャラクターが印象的で、これはリテルの以前の作品『迷い込んだスパイ』のようにキャラ立ちのためのキャラ立ち設定か? と思いきや、根っこが意外に深いところにあり、ちょっと感入った。ストーリーの上でこの占いマニアの趣向があまり生きていないのはなんだけれど。 過去のご先祖の英雄的な活動にならうことで、現代の主人公もまた……とくれば正に王道の作劇だが、そこはさすがにくわせもののリテル、読者の視点や関心どころを意識しながらも、最後には微妙に変化球っぽいものを放ってきたような……? もちろんあまり詳しくは言えないが。ちゃんとエンターテインメントしながらも、やはりくえない作者だよね、という思いを強くした。 あちこちに妙な感覚のユーモアがまぶされているのもステキ。アメリカ作家ながら、その辺のドライユーモアっぽい感じはどこか英国の作家っぽい。これまで読んだリテル作品のベストワンだとは言わないけれど、十分に上位ランクの一本でしょう? |
No.1208 | 7点 | マドモアゼル・ムーシュの殺人 アラン・ドムーゾン |
(2021/06/19 16:40登録) (ネタバレなし) 1975年のパリ。零細民間調査組織「クレリヴァル私立探偵社」の一員で、40代後半のロベール・フレシューは、未亡人の老女ムーシャルドン夫人から、2年前に失踪した孫娘シモーヌを探して欲しいとの依頼を受ける。シモーヌは現在は19歳になっているはずだった。だが調査を始めたフレシューがムーシャルドン夫人の自宅に立ち寄ると、そこは何者かに襲われたあとがあり、死体が転がっていた。わずかな手掛かりからシモーヌが映画業界に関わっていると見たフレシューは、とある映画プロダクションを訪ねるが、調査を進める彼の周囲には死体が積み重なっていく。 1976年のフランス作品。 作者アラン・ドムーゾンは1945年生まれ。本作でデビューしたのち、他にも日本に2冊ほど著作が紹介されている。 (ちなみに本書は単に、作者名「ドムーゾン」のみの標記で、講談社文庫から翻訳刊行。) 半年~1年ほど前にブックオフの100円棚で見つけて購入し、このたび読んだ。 内容は、1950年代あたりまでのアメリカの私立探偵・捜査小説、その一大ジャンルの波の影響をモロに蒙ったとおぼしき当時のフランスの新世代作家が、オマージュの念を込めて書いた一作という感じ。 主人公フレーシュの内面はけっこう明け透けに語られるのだが、人生の諦観を随所に偲ばせる一方で譲らないところは譲らない、しかしプロの探偵としての器用さも見せるあたりは、総体的に十分に「ハードボイルド」している。 筋立ての組み方は、フレシューが歩き回ることで事件や人間関係が深化し、謎の殺人者による被害者も続々と増えていくという王道なもの。 しかしキャラクターはどれもこれで丁寧に描きわけられている。特に後半、窮地に陥ったフレシューが半ば四面楚歌の状況で、意外に話のわかるとある相手に出会い、その人物と事件の情報や仮説を交換する描写を通じて、同時に読者にも物語の流れを改めて整理する手際など、かなりよくできている。 終盤にはかなりショッキングな? どんでん返しがあり、これは夜中に読んでいて声を上げそうになった。もう少し伏線が欲しい……とも思ったが、とはいえこちらの希望とは別の形で、確かに割と早めに、このラストの衝撃に至る布石は張ってあった。うーん。 というわけでなかなか秀作、拾いものだとは思うのだけれど、ただ一カ所怒ったのは、翻訳した長島良三による訳者あとがき。 まったく未知の作家なので、立ち位置を調べようと本文を読む前に巻末の訳者あとがきを覗いたら、いきなりラストの顛末まではっきり書いてある。何を考えていたのか!? ミステリマガジン第五代目編集長。一時期の池央耿(このヒトもひどかった……)みたいなことするんじゃないよ。 というわけでこれから読む人は、訳者あとがきを読まないように注意のこと。 |
No.1207 | 6点 | ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子 宗形キメラ |
(2021/06/18 05:21登録) (ネタバレなし) 30代後半の私立探偵・桐山真紀子。彼女はさる事情から、警視庁捜査一課の警部補を辞職した経歴の主だ。某知事のボディガードを務めた真紀子は依頼人の盾となって重傷を負い、多額の謝礼金と見舞金をもらって静養していた。そんな彼女のもとに姪の女子大生・三田早麻理(さおり)が相談に来る。早麻理の話は、賃貸マンションをルームシェアしていた同年代の女子・当摩雪江がある日、私物を残して突然いなくなったので、その行方を探して欲しいというものだった。早速、雪江の自室を調べる真紀子だが、彼女はそこに、ある異常なものを見つける。 二階堂黎人と千澤のり子のコンビが合作ペンネーム「宗形キメラ」名義でスタートさせた、女性私立探偵もの。 ただしこの新規ペンネーム「宗形キメラ」は、当時の読書人&ミステリファンにあまり親しまれなかったのか、本作の文庫版および桐山真紀子シリーズの第二弾『レクイエム』は、二階堂黎人&千澤のり子というおなじみの名義の方の連名で発売された。身も蓋もない。ちなみに今回、評者は元版の講談社ノベルス版で読了。 (あと、ややこしいけれど、シリーズ第二作『レクイエム』はそんな訳で当初から「二階堂黎人&千澤のり子」名義の著作なので、本サイトへの登録もそっちの連名の方で行う・笑。) 21世紀国産ミステリ・シーンの女探偵ものらしい、ありがちな失踪者探しで開幕し、後半にはフーダニットのパズラーや社会派ものみたいな要素も強くなるプロット。 ネタはそれなりに仕込んであり、途中に伏線もいくつか張られているのだが、いろんな方向のエンターテインメント性に目配せしすぎた感のある中盤がやや退屈。クライマックスもいささか強引な展開をまとめ部分でフォローするためか、ちょっと饒舌すぎる。 それでも全体としては細かいアイデアが豊富に盛られて、佳作以上にはなっているとは思う。 女性じゃなきゃ書けないだろうなという真紀子の日常描写などから、メイン執筆は千澤のり子の方じゃないかなとも思うが、途中であの、二階堂作品でおなじみの某シリーズ名探偵の名前が出てきてちょっと楽しくなった。世界観がリンクしてるのね。 Amazonのレビューを窺うとシリーズ2作目はめちゃくちゃ評判悪いようだが、なんか却って読みたくなった(笑)。 またそのうち、本が安く買えたら手にとってみよう。 |
No.1206 | 6点 | すりかわった女 ボアロー&ナルスジャック |
(2021/06/17 18:45登録) (ネタバレなし) 1975年。ペルシャ湾の小国ジブチから、大企業「ルウー航空会社」の元社長ビクトール・ルウーとその親族がパリへ向かう。だが一同を乗せたボーイング317便は、オルリー空港で着陸時に多数の死者を出す事故を起こした。ルウーは廃人同様になり、一人娘のシモーヌは死亡。しかしルウーの姪でシモーヌと姉妹同様に育ったマリレーヌ、そしてその夫フィリップは無事だった。パリに知人がいない事実に目をつけたフィリップは、妻マリレーヌに シモーヌの身代わりを演じさせ、巨万の財産をもつルウーの遺産の相続を目論む。だが死亡したシモーヌには、実は秘密に結婚していた美青年の夫ローラン・ジェルバンがいた。 1975年のフランス作品。 ……個人的には特に狙っている訳ではないのだが、この数カ月内に手にしたフランスミステリは『黄金の檻』『シンデレラの罠』そしてこれ、と、惨事を経てヒロインが入れ替わる(そうかもしれない?)発端で始まる作品ばっかり。 これはもうフランスミステリの伝統芸だね。 本作はポケミス巻末の資料によると、ボアロー&ナルスジャックコンビの、別名義作品(ルパンものなど)やジュブナイルを除いて21番目の長編(著作)のようだが、さすがもう書き慣れた巨匠たちの一作、話のまとまりやひねり具合、そして最後のオチ。すべてにソツがない。なお上のあらすじには登場しない重要人物がさらにひとりいるが、それはここでは伏せておく。 まあ、いくら田舎住まいとはいえ、フランス周辺で数十億フランもの資産を持つ飛行機会社の社長、その令嬢がパリでまったく顔も知られていないというのはいささかリアリティを欠く気もするが、これはまあ評者も現実にそんな人種と密な付き合いがあるわけでもないし、それはそれでリアルだと言われたら、強く反論することもできない。 その辺の摩擦感をとりあえずノーカンにすれば、良い意味で土曜ワイド劇場とかにピッタリ翻案できそうなわかりやすい、大人の黒いおとぎ話みたいなストーリーで、この作者コンビとしては十分に水準以上の一冊だろう。 というか、もしかしたらラストの余韻は、これまで自分が読んできたこのコンビの諸作中でもかなり上位の方かも。 一方でなんかまとまりの良すぎるところで、作品固有の個性をもうひとつ感じない部分がないでもない。その辺りはもしかすると本作の弱点かも。 読了までの所要時間2時間、お時間のない時でも、フツーに楽しめる一冊ではある。 |
No.1205 | 6点 | デストロイヤーの誕生 リチャード・サピア&ウォーレン・マーフィー |
(2021/06/16 05:42登録) (ネタバレなし) 元海兵隊員で、今はニュージャージー州ニューアークの警察官の青年レモ・ウィリアムズ。彼は職務中に犯罪者を惨殺したという罪科で死刑を宣告されるが、それは身に覚えのない冤罪だった。だが電気椅子で処刑されたはずのレモは、腐敗したアメリカの浄化を目指す秘密組織「CURE(世直し)」の戦士として迎えられ、東洋人の老師チウンのもとで殺人術のエキスパートとなる。そんなレモに下された最初の指令、それは、同じCUREの同僚でベトナム戦争中の上官でもあった男コンラッド・マクレアリーを、機密上の必要から口封じすること。そしてマクレアリーが追いかけている謎の巨悪「マクスウェル」の案件を、彼にかわって対処することだった。 1971年のアメリカ作品。 1969年から開幕した『マフィアへの挑戦』シリーズ(ペンドルトン)で、予想以上の大ヒットを遂げた米国のピナクル社が二匹目のドジョウを狙って企画した、当時のペーパーバック新世代スーパーヒーロー路線、その新たなシリーズの第一冊目。 このシリーズ初期の何冊か、購入だけしておいて放っておいたのを思い出し、書庫で見つかったのをこのたび読んでみた。 社会的に市民権を抹消された立場で、イリーガルに悪党を退治する主人公ヒーローといえば、まるで朝日放送のテレビ番組「ザ・ハングマン」シリーズだが、たぶん遡ってオリジンを求めていけば、もっともっと先駆はあるであろう(そもそもその「ザ・ハングマン」より、こっちのレモ・シリーズの方がずっと早いが)。 いずれにしろ、よくいえば普遍的、悪く言えば類型的な主人公の設定なので、改めてこういうものの開幕編(の小説)というものは、どういう感じに書かれているのだろう? という興味を込めて手にとってみた。 そういう読み方でページをめくると、レモがCUREの一員となるくだりは意外にコンデンスにまとめられており、シリーズ一冊めの紙幅の大半が誕生プロセスの叙述に費やされるとか、そういうこともない。まあ必要十分なことは語られていると思うが、たとえばレモの恋人なりなんらかを登場させて、彼氏と「死別」した彼女、そっちの視点から誕生エピソードをふくらませるとかの手とかもあったよな、とかも考えたりした。そういう意味じゃ、やっぱり簡素だよね。 (ちなみに「デストロイヤー」って、確かに本作の原題のメインワードなんだけど、実際の本文じゃほとんど~ちっとも登場しないのね。コードネームでもなんでもない。「殺人機械」という修辞の方は少しは出たような気もする。) じゃあどこに小説本文の紙幅が費やされたかというと、謎の巨悪マクスウェルに繋がる暗黒街の大物ノーマン・フェルトンについてであって。このフェルトンがしばらくは、今回のミッションに介入したレモが追いかけていく標的になるのだが、良くも悪くもけっこう丁寧に、その過去像までが描写される。 これだったら改めて、せっかくの誕生編なんだからレモの方をしっかり書き込んでくれよと思ったりしたが、意地悪い見方をすれば、今後のシリーズの展開を考えて、あとあとアレンジのしやすいプロットの雛形を最初から設けたのかもしれない。要は毎回、悪役の部分の叙述を差し替えれば、パターンでお話が作れるから。 そんなことを考えながら読んでいたので、中盤はやや退屈。とはいえ主人公レモが、やさぐれた自分の現状をなかば自嘲し、なかばウンザリしながらミッションに向かいあい、そのなかで貧乏なスポーツ少年相手にやさしさを見せるあたりとか、うん、悪くないな、というシーンなども登場。 さらに後半のストーリーのキーパーソンとなる、フェルトンの娘シンシア(シンシー)を利用してレモが標的に接近しようとするあたりになると、なかなか面白くなってくる。 ……いや、まっとうな主人公ヒーローとしては、女心を作戦に利用しようというのはかなりゲスい行為なんだけど、今でいう喪女JDヒロイン(笑)のシンシアの方がハンサムな青年の接近にうかれまくるので、なんかあんまり不愉快さは感じない。最後のまとめかたも含めて、個人的にはその辺はよくできた通俗エンターテインメントではないかと(それでも怒る人もいるかもしれんが)。 敵陣にのりこんだレモとフェルトン側の腹の探り合い、さらには謎の黒幕マクスウェルの意外な正体もふくめて、後半はそれなりに読ませる。ラストはさっきホメた一方で、なんだかな、という感じもしないでもないが、まあこれはシリーズ2冊目ではたぶんきっと……(中略)。 得点部分だけ拾えば、まあまあ悪くないね。レモの殺人テクニックそのものはほぼ無敵なんだけど、随所にピンチを設ける流れはちゃんと配慮してあるし。 評価は0.5点くらいオマケ。とりあえず、すでに購入してある分のシリーズ続刊は、そのうちまた読んでみよう。 |
No.1204 | 6点 | 銀河の間隙より ランドル・ギャレット |
(2021/06/15 04:10登録) (ネタバレなし) 人類が「大殺戮(ホロコースト)」と呼ばれた世界大戦の傷痕から、どうにか立ち直った21世紀。すでに地球人は太陽系の各所にもコロニーを設けていた。そんななか、地球に1隻の宇宙船が漂着。ムカデのような昆虫のような異星人「ナイブ」は一旦は政府の管理下に置かれるが、文化の齟齬と意志の不通から脱走。その後10年、ひそかに地下に潜伏するナイブは、とある目的を求めつつ、多数の地球人の生命を奪い続けていた。一方で新世界の法規機関「世界警察」は5年間の歳月と科学技術の粋を費やし、対ナイブ用の超人戦士バート・スタントンを育成する。そしてかたやアステロイドベルトでは、太陽系最高の名探偵と呼ばれる青年スタンリイ・マーティンが、ナイブ捕縛のために地球に招聘されようとしていた。 1963年のアメリカ作品。 異世界パズラーの始祖(?)「魔術師ダーシー卿」シリーズの作者ランドル・ギャレットが、別名義ダレル・T・ランガードで上梓したファースト・コンタクトテーマのSF。日本ではおなじみギャレット名義で翻訳刊行された。ちなみに早川SF文庫の裏表紙には「侵略テーマ」SFと謳ってあるが、ファースト・コンタクトものの方が近いように思う。 なぜナイブは逃走したか、いわくありげな主人公バートの素性とは何か? 名探偵マーティンとバートの関係は? そして本筋の物語の合間に何回か間奏的に挿入される過去エピソードの意味は? などなどSFミステリっぽい興味が矢継ぎ早に用意され、読者の関心を休む間もなくフックし続ける。 なかには割と早めに事情や真実が明かされたり、一方でやや曖昧に内情が語られて終わるものもあるが、主人公とナイブの対決の行方、そして一番大きな物語の真実は、最後まで伏せられている。 作者が最後の最後に、この物語のどこに力点を置いたか、それを確かめるのが、読者が本作にラストまで付き合う意味であろう。 外宇宙の知的生物との接触を60年代SFらしい文法でかなり丁寧に語り、さらにもうひとつ主人公サイドに秘められた趣向でSFビジョンを広げる。短いながらもなかなか読み応えがある作品。ただし60年代SFという意味でのクラシック感も、良くも悪くも感じたりもした。 この辺の軽いもやもや感は言葉にしにくいのだが、あえて言うなら最後のサプライズに読み手を誘導して完結するまっとうさが、直球すぎたというか。もしかしたら、かなりゼータクなことを言い過ぎているのかもしれない(汗)。 佳作~秀作には十分になっていると思うけれど。 |
No.1203 | 6点 | 新幹線殺人事件 森村誠一 |
(2021/06/14 04:03登録) (ネタバレなし) 小~中レベルのメイントリック2つ。それぞれ何かしょぼいような気もするが、掛け合わせの妙で、ともにコストパフォーマンスの良い、使い方をしてるかもしれない。 事件と捜査が、意外な方向に変遷してゆくストーリー。この着想の部分で点を稼いだ作品で、ある程度のグレイゾーンまで許せる人になら、そこそこ面白いパズラー(もしくは謎解き興味の強い警察小説)でしょう。 あとは芸能界をカリカチュアライズした業界もの小説としての読み応え、かな。いや描写そのものにはウソは少ないのだろうが、ここまで油臭い書き方をするのが、ああ、正にいつもながらの森村作品だなって、感じ。 6.5点という意味で、この評点。森村作品は時たま読みたくなり、それなり(以上)に楽しめることも少なくないんだけれど、なかなか7点以上はあげたくないというか(汗)。 |
No.1202 | 6点 | ヌードのある風景 カーター・ブラウン |
(2021/06/13 15:25登録) (ネタバレなし) 「おれ」ことハリウッドの私立探偵リック・ホルマンは、旧友で、盛りの過ぎたトップ・アクション映画スター、クレイ・ローリンスから相談を受ける。初老のローリンスは結婚と離婚を繰り返し、現在の19歳のベビーが5人目の妻だった。彼は最初の妻ソニア・ドレスデンとの間にできた、やはり19歳の実の娘アンジーと先日まで同居していたが、そのアンジーがいかがわしいフーテン画家、ハロルド・ルーミスと同棲し、酒や麻薬に溺れてるらしいので助けてほしいというものだった。ホルマンはあまり気がのらない思いで依頼を受けるが、帰り際に若妻ベビーがそっと、どうも夫が何者かから脅迫されているらしいと打ち明けた。ホルマンはルーミスのアパートに赴き、彼とアンジーに対面。そこでホルマンは、作画の技術そのものはなかなかなのに、わざと露悪的に残虐に肉体を損傷して描かれたルーミスの作品=裸婦像を確認した。ホルマンはルーミスと揉めたのち、何かいわくありげなアンジーの物言いを聞いて、いったん退散する。だがやがて、ルーミスの悪趣味な裸婦像を思わせるような殺人事件が起きた。 1965年の版権クレジット作品。私立探偵リック・ホルマンシリーズの第11作目(ミステリ・データサイト「aga-search」の登録分類データから)。 2時間弱で読み終えた、いつものカーター・ブラウンだが、お話そのものは割に面白かった。こんなこというと「はああ?」と問いただされそうだが、連想したのはシムノンのメグレシリーズ。 なるべくネタバレにならないように言うと、本作はとある主要人物が、ひそかに<人間・悲喜劇>的ないびつな関係を設けて、その事実が波及して、やがて殺人やらなんやらの望ましくない事態に繋がっていくという内容。 ね、それっぽいでしょ? カーター・ブラウンにこういうものがあるのかと軽く驚いたが、考えてみたら大昔に数十冊も読んでるタイトルの内容を今では大半を忘れてるんだから、何があっても不思議じゃないね。この数年読んだ(または再読した)何冊かの作品だって、かなり幅広い主題のプロットだし。 ルーミスの画家仲間で、ホルマン相手のいやらし担当のブロンド美人ポリー・ブキャナンがなかなか魅力的。ベッドシーンは当時の時代らしい控えめの表現で叙述されるが、そこが却ってエロくて笑える。 後年、セックス解禁時代にあわせて、あけすけなポルノ志向になってゆく時期のカーター・ブラウン作品って、日本ではまったく未訳のはずだが、実際に読んだらどうなんだろ。それはそれで……な反面、どっか寂しい感じになってしまうような予見がしないでもない。できれば日本語で1~2冊くらい読んでみたいけれど。 |
No.1201 | 6点 | 太陽の凱歌 山中峯太郎 |
(2021/06/12 05:39登録) (ネタバレなし) 欧米列強の動きを睨みつつ、大アジア主義に邁進する昭和初期の日本。そんななか、帝都・東京に、O国人のジョージ・ミッケン率いる総勢120人以上の団員で構成される「世界大魔術団」が、興行のため推参した。だが魔術団の正体は、闇の世界に知られる間諜組織「世界大間諜団」を中核とする多国籍の混成スパイ団だった。一味の目的は、多方面の科学探求に長け、国防のために秘密兵器を続々と開発する民間の天才科学者・日野高明の研究を奪うことだった。だが一方、初老の年輩ながら心身ともに若々しい日野もまた、高度な科学技術を動員する国際スパイ団に関心を抱き、その内実を探ろうとする。帝都に展開される間諜と科学の攻防戦。その闘いに介入して、日野を守り、世界大間諜団の捕縛を狙う「神人」「魔人」こと、日本陸軍将校・本郷義昭の活躍は!? 「少年倶楽部」昭和10年1~12月号に連載された、本郷義昭シリーズの第四長編(ここでは実質的な中編でデビュー編『我が日東の剣侠児』も一応、長編としてカウント)で、たぶんこれが最後の長編。 (ちなみにこの翌年の昭和11年に、あの遠藤平吉さんが同じ雑誌上でデビューだ。) 誰もが名前くらいは知っているハズ? なのに意外に読まれていない(本サイトにもひとつもレビューがない!)本郷義昭シリーズだが、そういう評者も大昔に『大東の鉄人』を読んだきりであった。同作ももちろん戦前の旧作ながら、定石の展開をひねった後半とか、結構面白かった記憶がある。 それで本作『太陽の凱歌』だが、たぶん本郷義昭シリーズでは一番入手がしにくい長編作品のはず。戦後にも一応の復刻はされているのだが、昭和37年の普通社の、雑誌みたいな叢書「名作リバイバル全集」版が最後の出版だと思う。ちなみにこの「名作リバイバル全集」はB5の判型に小さめの級数の活字をたっぷりと詰め込んでおり、総ページ数の少ないまるで週刊誌みたいな造本。「別冊幻影城」とかよりも早い、ムックのハシリだったね。今回、評者もこれで読んだ。 そもそもこの作品『太陽の凱歌』は、石上三登志が70年代はじめのミステリマガジンに連載した、推理小説やら冒険小説やらSFやらウェスタンやらを独自の切り口で語りまくる評論エッセイ「男たちのための寓話」のなかで、ほんっと~うにオモシロそうに(しかしネタバレ込みで・苦笑)その魅力のほどを叫んでおり、評者などは原体験的に刷り込まれた作品のひとつだったのだ。 とはいえ前述のとおり、本作『太陽の凱歌』は稀覯本なので、本郷義昭シリーズは先に出会った『大東の鉄人』の方をまず読了。それでまあ一応は『太陽の凱歌』をふくむ他のシリーズ作品も、読みたいと思う欲求が落ち着いてしまっていたわけであった。 以降は十年単位でこのシリーズのことは半ば忘れていたのだが、21世紀になっても、辻真先センセあたりの著作そのほかで、本郷義昭の名前はときたま目につく。それで1~2年前に思いついてwebで『太陽の凱歌』の古書を探したところ、そこそこのプレミア価格で発見。安くはないけれど、大昔の思い出にカタをつけるつもりでまあいいか、と購入したのだった。 (だがまあ、通販でその古書を購入してから、さらにまた1年前後、ほうっておいたのは、いつもの評者の「釣った魚にエサもやらない」悪いクセだ~笑・汗~)。 それで本作をようやっと読んでの感想だが、えー、こんな話だったの!? という思いがまず強い。本郷義昭は劇中に早くから登場するが、どっちかというと主役は本業は科学者のくせに妙に活劇したがる日野先生みたいだし、一方で本郷の方はう~ん……。 なんかね、アダルトウルフガイで言うのなら『人狼戦線』みたいな、マイク・ハマーで言うなら『ガールハンター』&『蛇』みたいな、シリーズになじみきらないうちに読んじゃダメだよ(しかし作品世界と主人公になじみきった読者なら喜べるよ)的な、その種の変化球作品に接してしまった感じ(まあ、この辺はあまり詳しくは言わない方がいい)。 いずれにしろ思ったのは、山中峯太郎、もうちょっと遅い時代にコレを書いていたら、もっともっと、作品の練度も完成度も上がったんじゃないかなあ、という感慨だった。ちなみにこの作品、同世代~やや若い当時の某・探偵作家に、とあるインスピレーションを授けた可能性も……あるかもな? でもって肝心の(?)かつて石上三登志が激賞した本作の長所というかポイントだが、正直、それを前もって意識しながら読むと完全に期待ハズレ。さきの「本来ならもうちょっと後の時代に書いてほしかった」部分とあわせて、残念ながら、肝心の狙いを活かす演出がまったく足りてないでしょう、という感じであった。 石上三登志がウソを書いたり、話を盛ったとかは言わないけれど、かなり脳内で本作のポイントを実際以上に美化して語っていたように思える。 重ねてあまり詳しくは語らないけれど、ひとつだけ言うなら、この『太陽の凱歌』は、ほかの本郷義昭シリーズをなるべく多く読んでから接した方がいいだろうね。先に言った、いろんな意味で変化球的な作品ということも踏まえて。 まあ評者みたいなプロセスを経てこの作品に出会うヒトは、今後そう多く現れるとも思わないけれど。 評点は、戦前の(中略)なスパイ冒険ものジュブナイルとしてこのくらいで。 (ちなみに記憶のなかにある『大東の鉄人』は、同じ尺度で7点ね。) |
No.1200 | 7点 | さらば いとしのローズ ジャン・ポッツ |
(2021/06/11 18:29登録) (ネタバレなし) シカゴから少し離れたコアリーヴィルの町。3年前に他界した医師G・F・バックマスターが遺した屋敷内の階段で、56歳の家政婦ローズ・ヘンショーが首の骨を折って死亡した。現在のバックマスター家の家屋は、19歳の長男ハートリー、そしてシカゴに暮らす24歳の長女レイチェルの資産だった。だが同時に、先代主人の死後も屋敷にいつづけている使用人ローズの発言権がなぜか強かった。当初は事故死と見なされかけたローズの死因。しかしローズの姉でそっくりの外見のヴァイオラ・ピアスが疑義を唱えて、青年医師セドリック・クレイグが改めて検死を行ったところ、ローズは何者かに殺されたと判明。殺人容疑を受けたハートリーは逮捕されてしまう。シカゴから戻ったレイチェルに好意を抱いたクレイグ医師は、ともに事件に深く関わってゆくが、やがて死んだローズの自室から意外なものが発見される。 1954年のアメリカ作品(講談社文庫の訳者あとがきには1951年の作品とあるが、どうやら間違い)。 1955年度のMWA処女長編賞受賞作品で、同賞でいえば前年度はレヴィンの『死の接吻』が受賞。そんな時代の一冊である。 70年代の半ばからしばらく、当時の講談社文庫は、早川や創元が見落としていたようなひと時代ふた時代前の作品をいくつか発掘翻訳してくれる嬉しい傾向にあり、とても有難かったのだが、これもそんな中のひとつ。 ただしその路線の主力になった翻訳家のひとりが本書を担当した坂下昇で、東大とニューヨーク大学を出てアメリカに十数年いた秀才らしいが、正直、日本語としての訳文はかなりアレ。同じ坂下の訳書で、MWA処女長編賞の『殺しはフィレンツェ仕上げで』(ハーシュバーグ)なんか、少年時代に同世代のミステリファンと、実に読みにくい訳文だと、悪評を交換しあった覚えがある。 ちなみに評者の記憶が正しければ、日本で一時期、一部で流布した「エドワード・D・ホック」を「~ホウク」とするカタカナ表記を最初にやったのが、このヒト(たしか前述の『殺しはフィレンツェ~』の訳者あとがきで)。 評者は大昔に若気の至りで、講談社文庫の編集部あてに「ホウク」じゃなく「ホック」だとか、そのほかの問題と思える箇所の指摘の手紙を送ったら、坂下氏当人から返信がきて「私は米国での暮らしも長く、米英語のプロナウンシエーションにも精通している。Hochの原語での発音は「ホウク」が正しい。これまで慣例になっている日本語での作者名表記の方が不適切」とかなんとか反論され、だまりこんだ(笑)。そうしたらこの数年後、実際に創元から「E・D・ホウク」表記の翻訳ミステリアンソロジーが刊行(うーん)。ただしこの「ホウク」表記は結局は日本ではまったく定着せず、周知のように、21世紀の現在まで、その創元からも他からも「ホック」名義の翻訳ミステリは、続々と出ている。 以上、とあるジジイミステリファンの回顧で、役に立たない耳知識ね(笑)。 というわけで50年代のマイナー作品、しかもMWA賞受賞作品ということで関心は煽られたものの、訳者の名前でオソルオソル読んだ本書だが、いやまあ結論からいうと、フツーにかなり楽しめた。 いや客観的に見ればヘンな日本語や配慮の足りない叙述が目白押しだが、なにしろ当初からこちらは翻訳があのヒト、と思って構えて読んでいるわけだし、さらに森下雨村や西田政治、長谷川修二あたりの古い訳文を改めて楽しんできたこの数年を思えばこれくらい……という感じで気にならない(笑)。 まあもちろん、訳文の多少のアレさがさほど気にならないのは、何よりもお話そのものがなかなか面白かったからで。 ミステリとしては、冒頭からその直前にすでに死んでいるローズの過去にわけいっていく『ヒルダよ眠れ』みたいな被害者小説かとも思ったが、実のところ本作のローズは最初から周囲に嫌われていることが歴然としているので、まんま『ヒルダ』みたいということもない。ただしそんなローズが、なぜ主人の死後も屋敷で立場を守り続けたのか? そして遺された(中略)の意味は? などの謎が浮上。さらには長男ハートリーの逮捕後も屋敷の周辺では動きがあり、適度にサスペンスを盛ったフーダニットとして読み手の興味を刺激する。 さらに作者が女流作家なためか、主人公カップルのラブコメ描写もなかなか。レイチェルの元カレ? やクレイグの別れた妻、など、好きあった主人公コンビが互いの相手の周辺の異性の影を意識して痴話ゲンカになりかけるタイミングで、何やら事件の方の動きがあり、二人の歩調が揃ってそっちを向く呼吸など、ベタながらエンターテインメントとしてよく出来ている。 終盤の意外性はなかなか驚かされた一方で、もうちょっと一押し伏線が欲しかった気もするが、かたや真相の露見と同時に、登場人物の秘められていた心情が覗けるような感触もあるので、これはこれでいいだろう。 ひと晩じっくり楽しめた佳作~秀作。 |
No.1199 | 6点 | ポップ1280 ジム・トンプスン |
(2021/06/10 15:41登録) (ネタバレなし) アメリカのどこかの田舎町、ポッツ郡のポッツヴィル。そこは人口およそ1280人(ポピュラリティー1280)の小さな町だ。「おれ」ことニック・コーリーは、それなりの年俸と収賄で安定した生活を送る悪徳保安官だった。だが知恵遅れの美男の弟レニーを同居させる、口うるさい妻マイラが少し煩わしい。ニックには美貌の人妻の愛人ローズ・ハウクがいたが、最近では元フィアンセのお嬢様エイミー・メイスンと寄りを戻したい気もしてきた。さらにニックがみかじめ料を取っている売春宿のヒモの男ども、ローズの旦那の大酒飲みトム、そして次期保安官選挙の対立候補サム・ガディスたちが、多かれ少なかれめざわりだ。ああ、ニグロどももな。ニックはひそかに、自分の今後の快適な生活のために、下準備を進めていた。 1964年のアメリカ作品。 以前に読んだトンプスンの1952年作品『内なる殺人者』(『おれの中の殺し屋』)のリメイクみたいな、ローカルタウンを舞台にした悪徳保安官もの。 大枠で言えば似た造りだが、先行作の主人公ルー・フォードが内面に暴力志向といった主旨の獣性を秘めているのに対し、こちらの主人公ニック・コーリーは、自分が必要、適当と思った状況でいくらでも遠慮なく、暴力への常識的な禁忌を破る感じ。まあともに、ドライに計算ずくで人を殺傷できるキャラクターなのは違いないのだが。 ニックと3人のメインヒロインとの関係性、絶えずかなり巧妙に悪事のための布石をはりまくるニックの手際、意識的に露悪的に描かれた人種差別の要素など、前作とは異なる文芸要素や主題も少なくない。特に黒人への侮蔑の数々は、アメリカのミステリ界をふくむ文壇全般にブラックパワーが満ちてきた時代だからこそ、あえてやった趣向だろうな。 21世紀の今の新刊でやったら確実にコンプライアンス問題になるような描写だが、この作品当時の作者や版元(編集部)の言い分(大義)としては、こういうアンチヒーローが毒づくような人種差別の観念だから、結局はわれわれ送り手はそういう差別意識と逆の立場をとっているのだとか、何とかか? 『内なる』のバーバリックなパワーが希釈された分、小説としての洗練度は多少あがった感じがあるし、前述したようないくつかのとんがった描写や趣向も際立ってはいる。前作との比較は今後も逃れられない作品だとは思うが、トンプスンの世界にちょっとずつなじんできた自分のような読者からすれば、発表順で読んでおいて良かった、と思える一冊だった。 なお今回は2006年の文庫版で読んだが、巻末の解説によると、作者が刊行の前に削除したラストの最後の2行があったらしい。その内容そのものもはっきり書かれているが、これ(もちろん具体的にはここでは書かないが)をカットした作者の心情を思うと、あれこれ妄想が膨らまないでもない。個人的にはあっても良かった、いや、あったほうが良かった、と思うのだが、実際にそういう決着だったら、それはそれでまたアレコレものを思ったりしそうな気もしてしまう。まあそんな幻のラストだ。 |
No.1198 | 6点 | 異次元を覗く家 W・H・ホジスン |
(2021/06/10 03:15登録) (ネタバレなし) 20世紀の初め。「わたし」こと作家ウィリアム・H・ホジスンは、釣り友達のトニスンとともに、アイルランドの西外れにある小さな村クライテンに出かけた。ホジスンたちの目的は釣りの穴場の確認だったが、やがて霧に覆われた原野に巨大な廃墟を見つける。そしてそこに残されていたのは、かつて老嬢の妹メアリーとともにこの地で暮らしていた50歳の男「わたし」による、驚くべき手記であった。 1908年の英国作品。 オカルト探偵「カーナッキ」の産みの親で、映画『マタンゴ』の原作短編『闇の声』(またの邦題は「夜の声」「闇の海の声」「闇の中の声」など)の作者として知られるホジスンの第二長編。 ホジスンの初期長編3冊は、物語の設定も主人公も違うが<(広義の)怪奇冒険もの>という主題で姉妹編となり「ボーダーランド三部作」と称されるが、これはその二作目にもあたっている。 作中のリアルで残された「手記」を見つけたホジスンの述懐が、プロローグとエピローグをブックエンド風に構成。その狭間で、ホジスンが若干の注釈を付記した「手記」の本文が読者に公開され、その手記の部分が小説の幹となる。 大筋は、どういうわけか、その「わたし」(手記の主人公)の邸宅が異次元? の空間にリンク。通常の物理法則を凌駕して何万年も先の未来に繋がり、向こうの世界を覗く一方、19~20世紀? のアイルランドにも異形の怪物(頭部がある動物の姿に似た亜人種で、未来人らしい)が来襲する。さらに手記が進んでいくと、今度は主人公「わたし」のかつての恋人が昔の姿そのままで異空間に現れ、どうやら単純に未来世界とリンクしただけでなく、主人公のインナースペースにも繋がっているのか? と思えるようになる。 まあ正直、手記で語られる異世界の解釈はしてもしなくてもよいような小説で、評者などは映画版『2001年宇宙の旅』の後半のような、奔放に無限に広がりながら、一方でどこかに収束の糸口を求めているような、そんなパワフルな世界像の展望を楽しんだ。 悠久の時の彼方の荒廃した未来世界のイメージは、ウェルズの『タイム・マシン』(1895年)の影響などもあるのかもしれないのかな? と一瞬、考えたが、評者はまだ『タイム・マシン』の実作をきちんと読んでいない(ジョージ・パルの映画版はさすがに何回か観ているが)ので、厳密なことは言えない。もっと英国のSF、幻想文学の大系をきちんと探求すれば、さらにはっきりしたものが見えてくるだろう。 いずれにしろ、手記の中の主人公「わたし」は主体性は随時見せるものの(現実の現代では、妹を気にかけたり、愛犬の心配をしたりする)、一方で異世界に繋がる異次元との接点や、来襲する怪物たちから決定的に逃げ出す意識などは見せず(それこそ「普通」の感覚なら、助けを呼んだり、大都会に避難したりすればいい)、怪異な状況におびえる面を見せながらも、どこかこの運命に魅せられているらしい? 気配が覗く。 手記が終わったのちに語られるホジスンのエピローグもまた、手記の主人公にならう異世界へのおびえと裏表の憧憬の念を吐露。そしてそんな想いはそのままさらに、作品を読み終えた読者の心へと、多かれ少なかれ継承されてゆくことになる。 |