tider-tigerさんの登録情報 | |
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平均点:6.71点 | 書評数:369件 |
No.329 | 8点 | 運河の家 人殺し ジョルジュ・シムノン |
(2022/05/22 22:21登録) 瀬名氏が傑作認定し、翻訳出版を自ら推進した二編。 愉しくはないが、素晴らしい。 『運河の家』 主人公のエドメを魔性の女とみる向きもあると思う、というか、そのように読むのが普通だろう。だが、魔性という言葉にはどこか違和感がある。優越感はあっても拠り所がない女とでもいおうか……そもそもエドメは本当に主人公なのだろうかとさえ思ってしまう。 なにをアホなことをと言われてしまいそうだが、どこか『嵐が丘』に近い読み味があった。 うちの母親は中学生だった自分に「嵐が丘は世界一面白い小説」だと言った。真意は不明だが、素直な自分はその言葉に騙されて読んでみた。なんでこんなクレイジーな話を母は違和感なく読めたのだろうと不思議に思ったものだ。本作にも似たような感触がある。 素晴らしい情景描写と共感できないどころか理解さえもおぼつかない人物ばかりのクレイジーな世界。そして、吸引力。本作『運河の家』は『嵐が丘』と違ってエンタメ要素は希薄だが、なぜか先が気になって仕方がない。 『嵐が丘』は魂の物語だと思っている。そして、本作『運河の家』は性(さが)の物語だと感じる。その違いを言ってしまうとネタばれになりそうなのでこのへんでやめておこう。 『人殺し』 こちらは当サイトの重鎮である空さんがかなり前に原書でお読みになっていて、翻訳されていないことが不思議なくらいの作品だと仰っていた。 読んでみたかったが、読むことはなかろうと諦めていた作品をついに読むことができた。その喜びは大きい。瀬名さん、ありがとうございます! こちらはパトリシア・ハイスミスの傑作に比肩する出来栄えだろうと思う。 結末も見事だが、犯行の動機について言及された部分に自分は驚いた。さらに、これは『運河の家』にも言えることだが、子供や小道具の使い方が憎らしいくらいにうまい。 どちらも異常な心理について描かれてはいるが、まったく異なる魅力があった。 自分にとって『運河の家』『人殺し』ともに人生を感じさせるような小説ではない。ただただ放り出されるような快感があった。 もちろん再読するだろうが、すると新たに書評を書き直したくなるような気がする。 |
No.328 | 6点 | メグレとルンペン ジョルジュ・シムノン |
(2022/05/06 16:29登録) ~セーヌ河岸を根城にする初老のルンペン。寝ているところを何者かに襲われ、川にドボンされる。メグレはルンペンを標的にした犯罪を扱った経験はない。なぜルンペンを狙ったのか。このルンペンは何者なのか。ルンペンは選挙で勝てるのか。~ 1962年フランス フランス大統領選のニュースを耳にして、なぜだかこの作品のことを思い出しました。 訳者あとがきにもあるとおり、本作はほのぼの明るい雰囲気が横溢しています。導入部から『はじまり』を思わせるような前向きな文章が多く、色彩も清々しく明るいのです。メグレ警視は飯でも食いに行こうとしているのかなと思いきや、なんと事件の現場に向かうところ。そんな感じがまるでしない導入です。 このあとの展開も人物、エピソードともにほのぼの愉しい。 メグレが医師と対決する作品はけっこうあります。『間違う』『たてつく』『バカンス』などなど。シムノンは医師という職業に知性の象徴として強い思い入れがあるのでしょう。メグレと医師の対決は緊迫感をはらんだ名場面が多いのです。 本作にも変種ではありますが、対決があります。この対決さえもがほのぼの、清々しいものなのです。 それほど大した作品ではありませんが、なんだか微笑まずにはいられません。シムノンとしては珍しい読み味で、その特異性もあって自分にとってはとても印象的な作品です。 シムノンは常識的な人間ではないのでしょうが、常識がどのようなものであるのかはよく理解している作家だと思っています。そして、メグレ警視シリーズは基本的にはリアリストの視点で書かれたものだと考えています。ところが、本作は理想主義者の視点に立って書かれているかのよう。 『メグレと首無し死体』で登場したような、人生から逸脱し、己を汚そう汚そうとする理想主義者が本作にも出てきます。が、本作の理想主義は悲壮なものにはなりません。 シムノン作品の重要なテーマ『人を裁くことの難しさ』『かつての生活、かつての自分からの逸脱』はリアリストの視点に立つと悲壮なものになりがちでしょう。ですが、これらがどこか明るく、ユーモラスに語られるのが本作の特殊性(あくまでシムノン作品では特殊)です。 本作のラストはリアリストの立場からすれば絵空事でしょう。ですが、ルンペンという設定がここで活きてくるわけです。彼が死ななかったことも大きい。 メグレは仕事としては苦渋を味わいますが、理想主義者であるルンペンがリアリストであるメグレ警視の『理想』『思想』を体現してくれた話とも読めるのではないでしょうか。 シムノンは10日間ほどで作品を仕上げるらしいのです。登場人物になりきって全神経を集中して書くため、消耗が激しく、それ以上は耐えられないからだといいます。 メグレシリーズの執筆は息抜きだとシムノンは言っていたそうですが、本作はシムノンにとってもメグレ警視にとってもまさに息抜きとなった作品ではないでしょうか。 シムノンは消耗しながらも大いに愉しんでいたのではないでしょうか。そんなことを妄想してしまう作品です。 |
No.327 | 6点 | 汚れた7人 リチャード・スターク |
(2021/05/09 18:39登録) ~前作ですべてを失ったパーカー。『なにもかもなくした いまのぼくにできること』は六人の仲間とスタジアムからフットボールの売上金をかっさらうことだった。仕事は上出来でパーカーはひとまず金をすべて預かって、仲間の一人が当てがってくれた女の家に数日滞在する。ところが、ちょっと煙草を買いに外に出たのが運の尽き。ほんの十分かそこいらの間に女はベッドに串刺しにされて死んでいた。強奪した金も消えていた。~ 1966年アメリカ。『死者の遺産』の次に発表されたシリーズ七作目で原題も『The Seventh』パーカーは相変わらずの冷徹非情。数日間同衾していた女を無残に殺されてもその点についてはまるで感情を動かされない。誰の仕業なのか、そもそも目的はなんだったのか。パーカーの頭にはこうしたことしかない。 序盤はテンポも展開もかなりいい。ただ、仕事が終わったら七人でさっさと金を分けて解散でよかったのではなかろうか。パーカーがひとまず金を預かって後日配分とした理由がよくわからない。中盤ではパーカーが安全よりも金を優先して致命的な失態をやらかす。犯罪に関してはトウシロの自分でさえ「これはないない」と思ったものである。終盤のアクションはさすがの面白さで安心?して読める。『顔を雷雲みたいに黒くして』怒っているネイグリは笑える。 本作のパーカーは冷徹非情ではあったが、けっこうな抜け作だし、察しも悪すぎる。もう少し他人の気持ちを理解しようよ――他人のことを尊重し配慮する悪党パーカーというのは調子狂うが――。お陰でいろいろと後味の悪さが残るものの、それでもやっぱり面白い。 ※本作の昭和46年(1971年)に角川文庫から出版されたものを所有しております。こちらはamazonに登録ないようです。定価180円です。もっと古い版もあるのかもしれませんが、参考までに。 |
No.326 | 7点 | 早すぎた救難信号 ブライアン・キャリスン |
(2021/05/05 14:50登録) ~アルジェリア沖でトルコの貨物船から座礁したと救難信号が発せられた。海難救助船タクティシャン号の船長ロスはそれを受けて現場に向かった。そこでロスが見たのは、すでに座礁しているはずの貨物船がまさに座礁する瞬間だった。 『な、何を言っているのかよくわからねえと思うが』~ 1973年英国。キャリスンの初期作品。 海洋冒険小説はそれほど読みつけていないので用語に馴染みがなく、船のどの部分で何が起きているのかすら把握しきれないことがままある。だが、「いまから座礁します」という人を食った発端から、いざ救助に駆けつけてみれば怪しげな乗組員たち、不可解な事故、挙句に殺人事件と吸引力あってなかなか面白い。 ミステリと海洋冒険小説の融合で、事件の大きな構図、真相は今となっては陳腐だが、キャラの裏の顔が読みづらくてwhoの部分は悪くなかった。ミステリとしてもまあまあ楽しめる。人物造型も悪くない。 法廷小説と海洋冒険小説を融合といった趣のハモンド・イネス『メリー・ディア号の遭難』をいくつかの点で踏襲しているのではないかと思わせる。『メリー・ディア号の遭難』の方が構成、文章、展開など洗練されており完成度は高いのだが、意外性やエンタメ指数は本作の方が上だと思う。 『メリー・ディア号の遭難』にはある種の品格、英国人の美意識といったものまで感じるのだが、本作にそうした部分はあまりない。 だが、いい意味での品のなさ、迫力がある。ケインとチャンドラーの違いとでもいえばいいのか。どのように説明したらいいのか考えあぐねていたが、雪さんのキャリスン作品の御書評から引用させていただくと『生々しくざらざらした記述』である。思わず声を上げてしまいそうになった描写が二つ、三つとあった。 作者に責任はないのだが、大きな難点は邦題か。タイトルからすると「救難信号が出されたタイミングが早すぎた」ことが大きな意味を持つように思えるし、謎としても魅力的である。ここが肩透かしだったのは残念。原題は『A Web of Salvage』なわけでありまして、邦題はより吸引力あるものの、ややピントがずれているというか、ずるい。 採点は6点か7点かで迷ったが7点ということで。 |
No.325 | 5点 | アウトブレイク―感染 ロビン・クック |
(2021/02/10 15:43登録) ~「当院で怖ろしい伝染病が発生した、力を貸してほしい」 ロサンゼルスのクリニックから疾病管理センターに知らせが届いた。センターの新米女医マリッサが先鋒として派遣される。患者は頭痛、高熱、出血などの症状がみられ、一気に増悪して次々と死亡していく。クリニックの閉鎖、交通の遮断など実施しながら定石どおりに感染経路を探っていくマリッサだったが、彼女は奇妙なことに気づいた。~ 1987年アメリカ。浦賀の医療ミステリを書評したついで+たまにはリアルタイムなものをということで本作も。リアルタイムとはいっても作品自体はずいぶん古いが。 医療サスペンスの礎を築いたロビン・クックの(『コーマ―昏睡』から数えて)七作目の長編。一般的にはエボラ出血熱がまだそれほど知られてはいなかった頃に書かれている。裏表紙で――エイズ時代の戦慄をこめて放つ――などと謳われているのが時代を感じる。 全体的な構図としては無理筋(目的と手段が見合っていない)のように思えるが、市中に生物兵器が投じられる危険性を示した点は当時としては新しかったのではないかと思う。全体の流れはいつものロビン・クック。ヒロインがいささか身勝手で猪突猛進型なのもお馴染み。そのうえ彼女はモゴモゴ(差別的表現とされそうなので自主規制)。ロビン・クックを読んでいると女医に罹ることに不安を感じてしまうくらいだ。 話自体はなかなか面白い。いつものロビン・クックであり、安定感ともマンネリともいえるその作風は堅実な娯楽性がある。医学的な問題について警鐘を鳴らすといういつものテーマも健在だ。 医学知識としてはずいぶん古びてしまったところあるも、感染症対策の基本的な考え方は変わっていない。ただテクノロジーの進歩により現在では感染症対策がそのまま人民の統制に利用できてしまったりする。 本作の悪役はマヌケ過ぎるので減点。黒幕が見え見えなのも減点。あと犯行態様がちょっと乱暴すぎるのではないかと。フランシスの『利腕』で使われたアレなんかを用いればもっと秘密裡にことを運べたのではないかと考えてしまう。 ラストは「え? そっちなの?」という感じ。個人的にはあっちの方がはるかに好感をもてたのに。 今回のコロナ禍でいくつかわかったことがある。 致死率がそれほど高くはないウイルスで都市機能を麻痺させるような生物兵器を作ることが可能であるということ。 無症状でも他人に感染させ得ることがいかに恐ろしいことであるかということ。 |
No.324 | 6点 | 彼女の血が溶けてゆく 浦賀和宏 |
(2021/02/10 15:41登録) ~内科医の聡美は溶血性貧血に苦しむ若い女性患者の治療に苦慮していた。彼女は最終手段として患者の脾臓摘出を選択する。手術は功を奏したかに見えたが、のちに患者は死亡。医療過誤ではないかとメディアに糾弾され聡美は窮地に陥る。 ライター桑原銀次郎は元妻である聡美を救いつつ、スクープ記事をものにしようと動きはじめた。~ 桑原銀次郎シリーズの第一作。浦賀作品の中では読みやすい部類ではないかと思う。医療ミステリとして幕を開け、二転三転ありつつの比較的まっとうな展開は浦賀ファンではなくとも充分以上に魅力的であろう。終盤にはやっぱり浦賀だなとなって、ファンも納得の一冊。後半は少々くどい部分がみられる。特にラストはもっとスッキリまとめて欲しかった。そうはいっても自分は本作のラストは好きだ。 タイトルもいい。響きがよくて意味深い。浦賀作品の中でもっとも好きなタイトルの一つ。 気になったのは主人公の思い込みが強すぎること。まあこれはもしかすると作者の狙いだったのかもしれない。もう一点は作者の認知症に対する理解が少々浅いのではないかということ。印象深いキャラではあったが、あれはちょっとどうなのかと。 完成度と感情移入、この二点を求める人に浦賀はあまり適していないと思う。ある種のもどかしさ、居心地の悪さ、漏らしそうになって駆け込んだ公衆トイレのペーパーホルダーに紙やすりが仕込まれていたときの衝撃、そういうのが好きな人にはお薦めしたい。 浦賀は読者の感情移入を期待しない。それどころか時に拒絶する。読者をわざとイラつかせているような節もみられる。ゆえに自由度が高い作品を繰り出すことができる。これは浦賀の強みでもあり弱みでもあると思う。 浦賀は『脳』に憑りつかれた作家のように思える。『脳』に縛られた作家ともいえるかもしれない。理知的な作風はそのことも関係しているのかもしれない。浦賀の世界では『血』も非常に重要なモチーフである。 浦賀の死因が脳出血だったことは必然のようにすら思えてしまう。 浦賀の脳は頭蓋骨という牢獄から自由になりたかったのかもしれない。 そろそろ浦賀が亡くなってから一年が経つが、どこかに浦賀のそれが存在しているような気がしてしまう。 こういうとりとめもない私の想念は脳が生み出す虚構に過ぎないのだろうと思いつつも。 |
No.323 | 6点 | でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相 福田ますみ |
(2020/11/26 16:54登録) ~福岡で起きた教師による体罰事件。その教師は『殺人教師』として各紙より糾弾され、停職に追い込まれた上に生徒の親から民事裁判まで起こされる。この殺人教師を取材すべく現地に入った女性ジャーナリストは驚愕の事実に直面するのであった。~ 10年ほど前に出版されたノンフィクション。『メグレと田舎教師』の書評を書いていたらこの本のことも思い出したのでついでに書評。本がみつからないので記憶頼りの書評となります。 殺人教師事件は朧気ながら記憶しています。当時はとんでもない教師がいるものだと思ったものです。 事実は小説よりも奇なりを地で行くような話です。本書を読んでいてそんなことは有り得ないだろうと何度思ったことか。 「あの先生がそんなことをするわけはない」周囲の人間は誰しもそう思っているのになぜ彼は殺人教師にされてしまったのでしょうか。 本書から冤罪問題に想いを馳せることも可能ですし、日本社会の構造的な弱点を見る方もいるでしょう。興味深く、良質のノンフィクションです。 『無実なのになぜなにも言わない。無実なら黙っていられるはずはない』 基本的にはそのとおりだと思います。ただ、そういうことをどうしても自分の口からは言えない人が確実に存在します。このことは心に留めておくべきではないかと。 |
No.322 | 6点 | メグレと田舎教師 ジョルジュ・シムノン |
(2020/11/26 16:44登録) ~サン・タンドレという田舎村から小学校の教師ジョゼフ・ガスタンがメグレに助けを求めてやって来た。村の意地悪婆さんが殺害された件で嫌疑をかけられているが、自分は無実だという。村社会の複雑さと自分が村では異物であることをどうにか説明しようとするガスタン。話を聞き終えると、メグレは被疑者がパリに来ていることを伝えるためにサン・タンドレの憲兵中尉に電話をかけた。メグレは深い考えもなく自分がガスタンをそちらに連れていくと告げていた。メグレはそのとき白ワインとカキのことを考えていたのかもしれない。~ 1953年フランス。地味だがなかなかいい作品ではないかと思う。雪さんが『カッチリした造り』と評されているが、自分もシムノンにしてはしっかり作りこまれていると感じる。無駄が少なく多くの人物や細かな事物が有機的に物語に絡んでいる。 口が堅く、外圧に対しては結束の固い村社会に起きた事件、そこで村社会の外側で生きている人間に嫌疑が掛けられる。「犯人は誰なのか」は問題視されず「犯人は誰であるべきか」が重要な社会。まあよくある話ではある。こういう話では「××の無実を勝ち取るぞ」と主人公が入れ込んで熱い展開になりがちだし、その方が盛り上がるのだが、メグレは淡々としている。自分が首を突っ込んだのは間違いだったのではないかと自問自答したり、天候が悪くてカキが食べられないなどと嘆くメグレ。こんな村くんだりなにしに来たんだよ。 それなりにミステリらしさがあり、村の子供たちとの心理戦というか、聞き込みの場面はなかなか愉しめる。大人が想像する以上に周囲で起きていることを理解している子供たち。彼らの心情が息苦しくなるような筆致で描かれている。シムノンは自分が子供だった頃にどんなことを考えていたのか、ちゃんと記憶している人間だと思う。 邦題は『メグレと田舎教師の息子』でもよかったのではないかと思ってしまう。6点か7点かで迷ったが、6点で。 訳者がメグレは明らかに田舎嫌いだと断じていたが、空さんがそれは微妙だと仰っているように自分も疑問に感じている。メグレは引退後は田舎に引っ込んで、近所の人と仲良くカード遊びや釣りに興じていたような。 |
No.321 | 6点 | 再び消されかけた男 ブライアン・フリーマントル |
(2020/11/25 13:36登録) ~チャーリー・マフィンが消されかけて早二年の月日が流れていた。チャーリーは大陸での逃亡生活に心身ともに疲れてきており、妻が心配するほどに酒量も増えていた。妻との仲もギクシャクし始めている。そんな日々にあって、チャーリーは敬愛する元上司ウィロビー卿の墓参りのためにイギリスに戻ることを思い立つ。こうしたチャーリーの動きはかつて出し抜いてやった米英情報部の面々の知るところとなった。~ 1978年イギリス。『チャーリー・マフィンシリーズ』の二作目。一作目のラストからして二作目はどうすんのこれ? と思った読者は多い。どの面下げて帰って来るのかチャーリー・マフィン。少し荒んだ堅焼きとなって帰って来た。原題は『Crap hands,Here comes Charlie』 全体的には前作と比しておとなしく小粒感はある。粋な趣向が少しはあるものの、物足りなさを感じる人もいるかと思う。良くも悪くも堅実。愉しく読めるが、安心して読めてしまうのが本書の場合はマイナス点か。 序盤でのチャーリーの荒んだ雰囲気や危険察知能力の衰えは読み手にまで閉塞感を覚えさせる。それはまあいいのだが、落ち目のチャーリーにレベルを合わせるかのように敵がマヌケなことをし過ぎるのがちょっと気になる。敵の中に凄腕がいてチャーリーが危機に瀕して甦っていくみたいな趣向があってもよかったのではないかと思う。 物語の落とし方は悪いとは言わないが、個人的には納得がいかない。 抜きんでた才というか独特の味わいというべきか、そういった書きっぷりはまだ健在。視点移動の強引さも健在。 プロットが若干弱いので水準作+αといったところか。 年長の知り合いにフリーマントルの愛読者がいる。以前この人が真顔で訊いてきたことがあった。 「フリーマントルって一時は本屋にズラッと並んでたけど、いつも不思議に思ってたんだよ。これって一体どういう人が読んでるんだろうって。なんか想像つかないんだよな。どう思う?」 困惑しつつも笑ってしまった。 |
No.320 | 5点 | バトル・ロワイアル 高見広春 |
(2020/11/23 13:04登録) 二十年近く前に読んだのですが、再読はきついのでその時の印象をそのまま書きます。 大誤解されている作品だと思っています。 非常にシニカルな視点で描かれておりますが、そこがあまり理解されていないのではないかと。理解されなかった理由は書き方が非常に稚拙だからです。言い回しが下手だと皮肉は皮肉として認識されないのです。 作者の意図がまったく読者に通じず、それ故に大ヒットしてしまった作品だと自分は認識しています。 |
No.319 | 6点 | プレイヤー・ピアノ カート・ヴォネガット |
(2020/09/12 14:20登録) ~ピアノが勝手に動きはじめて演奏をするのならばピアニストなど必要ない。すべての生産供給が機械によって管理され、その機械の管理者が人民を統べる世界。人民は生活苦に至ることはないが、仕事はほとんど機械が済ませてしまうため、職業の選択肢は極めて少ない。そんな世界に疑問を抱いた管理者(ポール・プロテュース)がいた。~ 1952年アメリカ。 カート・ヴォネガット・ジュニアの初長編。ディストピア小説と紹介されることが多いが、管理の徹底はあっても弾圧の類はないので絶望感、暗さはあまり感じさせない。むしろ生きやすい世界だと感じる方もいるかもしれない。ただ、それゆえにさらなる恐ろしさがある。この世界の管理者は悪意や私欲ではなく、絶対多数の幸福を追求してこの世界を築き上げたからである。 本人がインタビューなどで述べているとおり、ヴォネガットの作品には悪人が出てこない。少なくとも自分は記憶にない。ヴォネガットは悪人には興味がないのだと思う。だが、悪人がいなくとも悪は生まれる。そして、悪人なくして生まれた悪の方が質が悪いような気がする。 管理する側の気付きを話の発端に据えているところはブラッドベリの『華氏451度』と同様。 ヴォネガットにしては堅実な展開だが、堅実ゆえにかいささか古めかしく冗長なところも散見される。長い割には中途半端だとも感じる。人物描写をきちんとやっていますよ、でも、なんか描き切れていない。一貫したストーリーがありますよ、でも、途中で投げ出してしまった感のあるラスト。 ユニークだなと感じるのは、ポールの親友にして反逆者のフィナティーにあまり重点を置いて書かれていないこと。通常この手の作品なら彼は最重要キャラであるはず。この感覚がいかにもヴォネガットらしいと感じる。 効率を重視するあまり人間の尊厳を否定してしまう社会に異を唱えると同時に、尊厳を取り戻すという目的のために合理的な考え方ができなくなっている人間にもシニカルな目を向けている。 ヴォネガット作品には冷徹な視線と優しい眼差しがいつも同居している。 ごく短い章立てでサクサクと読ませていく後年のヴォネガットスタイルとは異なるいうなれば普通の小説だが、なんとか教の精神的指導者にして国王などいかにもヴォネガットらしいキャラがすでに登場している。 だが、自分がヴォネガットを感じるのはそういう部分ではない。 序盤で、友人がカーセックスを楽しむために改造した車の特殊なシートをポールがどんなものなのかと操作してみる場面がある。操作し終わると、ポールはその車に「さよなら」と告げる。車はモーターが止まり、ドアが自動で閉まる。そして、ポールに「おだいじに」と言う。 バカバカしいことを物寂しく書く、あるいは深刻なことをバカバカしく書く、自分はヴォネガットのこういうところに魅かれる。 6点か7点か迷ったが、厳しく6点。 |
No.318 | 6点 | オンブレ エルモア・レナード |
(2020/08/20 01:14登録) エルモア・レナードは元々西部小説を書いていたのだが、西部小説のマーケットがTVドラマの西部劇のせいで縮小してしまったためクライムノベルへと移行した。そうした初期の西部小説を埋もれさせるには惜しいと村上春樹氏が訳出、本書には『オンブレ』と『三時十分発ユマ行き』の二作が収録されている。 過度な期待をせず気楽に読んで欲しいという村上春樹氏の言葉には同意だが、両作品ともちょっとしたおまけがあると付記しておきたい。 『オンブレ』1961年アメリカ。 ~七人の男女がそれぞれ目的あって馬車に乗り合わせた。だが、族に狙われて苦境に立たされる。そこで幼少期をアパッチに育てられたジョン・ラッセル(オンブレ)が立ち上がる。~ レナードの西部小説初読み。二重の意味で面食らった。 先に結論を言ってしまうと、面白かったが、エルモア・レナードを知るための最初の一冊としてこれは薦めない。また、西部小説がどんなものかを知りたいという方にも薦めない。 ※自分も西部小説のことはなにも知らないので、後者に関してはあくまで勝手なイメージ。 筋運びは後期レナードに通ずるものがあるものの、語りはまるでレナードらしくないと感じた。やや説明過多。軽快に話が進まない。会話もそれほどこなれていない印象。背景はよく描かれており、雰囲気あるが、レナードはかなり下調べをしていたらしい(これも意外だった。下調べをきちんとするようなタイプだとは思っていなかった)。 気になったのは語り手が近未来からタイムスリップをしてきたかのような妙な違和感。その場の空気にそぐわないというか都会的というか。これはもしかすると訳のせいかもしれない。春樹さんすみません! セリフ主体で軽快に引っ張っていくレナードの語りは天性のものだと思っていたが、下積み時代の研鑽修養の賜物だったのかもしれない。 西部小説なるものを読むのは初めてだった。 自分の知っている西部系はTVドラマ『大草原の小さな家』と『ララミー牧場』と『サーカス西部をゆくーゆくー』という歌と『西部警察』くらいのものであると前置きしたうえで、本作はイメージしていたものとはずいぶん違っていた。 物語の骨格は西部小説なんだと思う。ただ、普通の西部小説が登場人物にこのような深刻な葛藤を与えるものなのだろうか。 哲学的な問いかけをするものなのだろうか。ここが西部小説としては大きな違和感であり、また本作の魅力でもあった。 前半はややまどろっこしいところもあるが、のちにこの丁寧さが効いてくる。それにしてもインディアンに拉致されていた女性にあんな質問をするか? 丁寧にもほどがあるだろう。少なくとも現代視点では完全にアウトである。 いつのまにか奇妙な世界観が構築されてリアリティを駆逐していくあたりはレナードらしいところ。 オンブレのキャラがいい。クールである。現代視点では報・連・相のできないダメな奴かもしれんが、本作はオンブレにはじまり、オンブレに終わるのである。物語は二重構造になっており、オンブレは二つのものと対峙することになる。うちの一つは悪党である。もう一つは正義というか、良識である。単純な筋に複雑な葛藤が持ち込まれて物語に異様な緊張感がもたらされる。なかなか面白い。 個人的にはメキシコ人の悪党の根性?に感心した。いや、そんなことしてないで病院行けよと。 西部小説を枠として使い、独自のものになっている。ややぎこちない部分もあるが、いい作品だった。 『三時十分発ユマ行き』1953年アメリカ。ウエスタン雑誌に掲載。 囚人を護送する保安官。だが、そいつの仲間が助けにくる。そんな話。30頁ほどの短編で『オンブレ』よりもさらに古い作品だが、こちらの方がレナードらしいと感じた。なかなかの作品。 レナードが日本で売れないのはタイトルにも原因があるような気がする。 ラブラバ、アウト・オブ・サイト、スティック、スワッグ、ゲット・ショーティ、スイッチ、グリッツ、タッチ、スプリット・イメージとこんな感じで、日本人にはいまいち内容がイメージできなくてどうにも手に取りづらいのではなかろうか。読後はかっこいいタイトルだなあと思うのだが。 |
No.317 | 5点 | 虎の潜む嶺 ジャック・ヒギンズ |
(2020/08/15 00:53登録) ~英国情報部の局員ポール・シャヴァスは中共の植民地と化したチベットからダライ・ラマを救出した腕利きだった。それから三年が経ち、再びチベットへの潜入を命じられる。中共に軟禁されながらもチベット人のために医療に従事しているホフナー博士を救出すること。実は博士は米ソの宇宙開発競争に決定的な変革をもたらすであろう天才数学者であった。~ いろいろとややこしい作品。まず初出は1963年イギリス。ジャック・ヒギンズではなくマーティン・ファロン(『死にゆく者への祈り』の主人公と同じ名前)の名義で出版されている。ただし、1996年に改稿のうえ第一章と十九章が加えられて新たに刊行されており、改稿版の名義はもしかするとヒギンズになっているかもしれない。日本ではその改稿版が1998年に翻訳出版された。 全部で六作ある英国情報部局員ポール・シャヴァスものの第二作目だが、一作目は翻訳されていない。さらに邦訳されている三冊は出版社もバラバラのようで、どうにも薄幸なシリーズである。 ついでに言わせてもらうと、クリスティやマクベインなど作品の内容によって変名を使用する作家はけっこう多いが、ヒギンズに関してはなぜ名義を変えているのかよくわからない。 さらっと読めて退屈はしない。ただ、そこそこ面白いで止まってしまう。おおむね予想の範囲内で話が進み、すごみがない。敢えて挙げれば拷問シーンはよかったかな。 原題は『Year of the Tiger』ダライ・ラマがインドへ亡命したのが1959年、本作はその三年後に起きた事件であるから1962年、すなわち壬寅年。だからなんだという話である。邦題の『虎の潜む嶺』であるが、こちらは意味ありげだが、実は原題から虎(寅)だけ引っ張ってきて適当につけたとしか思えない。内容とは乖離している。 タイトルの座りの悪さがそのまま本作の通底音になってしまっているかのよう。 加筆されて入れ子構造になっているも、それって必要だったのか? せっかくキャラを立てたのにそのキャラを使いこなせず。 チベットはただの舞台で深掘りはせず、チベット人があまり出てこない。チベットの精神文化、宗教を持つものと持たないものの違いなど考察して欲しかったところ。宗教を持たない人間の恐ろしさを説く作品はあまり多くないので。 ホフナー博士の数学的発見が物語とうまく絡んでいないし、中共が博士の価値をまるで理解していないので、そこから生まれる緊迫感がない。 各部品はそこそこよくできているが、それら部品がカチリと嵌まらないもどかしさのある作品。平均よりほんの少し上くらいか。 文庫版の故生賴範義氏の表紙絵がかっこいい。氏はヒギンズ作品の表紙絵をいくつも手掛けていたが、同じく虎のつく作品として『虎よ、虎よ』の表紙も担当していた。 |
No.316 | 6点 | 殺人処方箋 リチャード・レビンソン&ウィリアム・リンク |
(2020/08/09 16:27登録) ~精神分析医レイ・フレミングは目障りになってきた年上の女房をやっつける決心をした。レイの妻が殺害された時、レイは愛人を利用してのアリバイ工作によればアカプルコにいたはずだったが、冴えない刑事がしつこく食い下がってくる。刑事コロンボ初登場作品~ 先週ようやく未読コロンボを一冊やっつけました。 犯人はコロンボを見下し、危険視し、やがて、コロンボとの対決を愉しみはじめます。いくつかの趣向が凝らされてなかなか愉しい。ですが、コロンボは直接対決で雌雄を決す(この表現はそのうち使用できなくなるのでしょうか)のではなく相手の弱点を衝きます。そこへかなり苛烈な攻撃を仕掛けます。ドラマ版ではここまで無慈悲ではなかったような気がします。すみません、記憶が定かでありません。 ドラマを最後に観たのはかなり昔なのでこういうことを申し上げるのは不安もありますが、これはもしかするとノベライズ版をより高評価する方がいらっしゃるかもしれないと思いました。 最初の作品だからコロンボのキャラがまだ固まっていないと思いましたが、そうではなくて、ノベライズした人が原作を壊さないギリギリのラインで独自解釈をしたのかもしれません。 というのも自分はコロンボのノベライズについては大きな誤解をしておりました。アメリカ版のノベライズがあって、それを翻訳しているのだと思い込んでいたのです。 ところが、(wikiによると)コロンボのノベライズ作品は英語版を翻訳したのではなくて、訳者と記載されている人がドラマから書き起こした日本独自のものらしいのです。 そうなってくるといわゆる訳者によって内容が大きく左右されることになりそうです。 本作のノベライズは石上三登志氏が担当しています。この人は『構想の死角』のノベライズも担当していました。驚きました。正直なところ『構想の死角』に関しては小説として読むには耐えられるギリギリの文章だと感じていました。本作ではそこまで文章は気になりませんでした。 以下、あくまで自分の解釈ですが、かなり内容に踏み込みます。 このノベライズ版はメグレ警視について言及あります。犯人はコロンボがメグレ警部を気取っているなどと思うのです。 ※ドラマ版はこの点記憶にありません。 ですが、コロンボを見てメグレを連想したりするものでしょうか。メグレが浮浪者に間違われるなどありえないのでは。正直なところ「なぜメグレ?」と思いました。 それが、この犯人が母親と妻、二人の女に苛まれていたと述懐したところで得心できました。 二人の女に苛まれている男ときて『メグレ罠を張る』みたいだなと思いました。訳者ももしかしたらそう感じたのかもしれません。 ただ、本作ではコロンボは動機にほとんど触れておりません。 表面上は若い女ができて、煩わしくなった古女房を片付けたという単純な話です。ところが、その裏に精神分析学的な動機が隠されていたようなのです。作中でそれを解き明かしていくのはコロンボではなくて、犯人自身です。 女に苛まれ、女を始末しますが、そんな時でも女に助けを求めてしまう。そして、そこから計画は綻んでいくのです。なんとも皮肉な話であります。本作に関してはコロンボではなくて犯人が主役だという言説もなんとなく頷けます。 |
No.315 | 6点 | 権力の墓穴 リチャード・レビンソン&ウィリアム・リンク |
(2020/08/07 00:23登録) ~正気に返ったとき、ヒュー・コールドウェルは妻の首に手をかけていた。もう取り返しがつかない。ヒューは隣人であり友人でもあるロス市警の副総監マーク・ハルペリンに泣きついた。マークは気前よく殺人の揉み消しに手を貸してくれた。そして、今度はマークの家で殺人事件が発生するのだった。~ ドラマ版の『なんだと!?』が未だに耳に残っています。 痛快ランキングならシリーズ中上位に入るであろう作品です。 犯人がイヤな奴ランキングでも好成績を残せそうです。 このイヤな犯人マーク・ハルペリンはコロンボの上司です。コロンボシリーズ定番の女房殺しですが、ちょっと捻って交換殺人の亜種みたいになっております。最初から犯人がわかる男コロンボでもちょっとこれは難儀しそう。かと思いきや最初からマークをぴったりマーク。目をつける切っ掛けはいつもどおりのちょっとしたことですが、相変わらず冴えています。 シリーズ中でもっとも好きな作品の一つです。 マークがコロンボを愚鈍だとみなしていたのはちょっと無理があります。挙げた☆の数に特異な捜査法とコロンボは仲間内から一目二目置かれていたのは間違いないでしょう。 コロンボを最大の危険要素とみなして捜査から排除しようとする、もしくはコロンボとの知恵比べに興を覚えるといった展開の方が自然でしょう。ただ、本作の痛快さはコロンボを徹底的にバカにしていた上司が最後に足払いを食らうところにあるので、ここはやはりリアリティを捨ててドラマ性重視で正解でしょう。 話自体がなかなか面白く小説で読んでも十分楽しめる作品だと思います。ただ、小説ならではの良さはあまり見えてこない。前に書評した『構想の死角』はドラマだけでなく小説も読んでおきたい作品でしたが、こちらはドラマを観たのであれば小説まで読む必要はないように思います。殺人を犯す際の犯人の心の動きなどなかなか印象的ではありましたが。 ネタバレ、本作既読の方へ 終盤、罪を着せようとした泥棒(ジェサップ)にマークがこんなことを言いました。 「ジェサップ、きみはコールドウェルさんの家から宝石を盗んで奥さんを殺した。その次には私の家内を殺した。それでも満足できないで、こともあろうにコールドウェルさんを恐喝した。きみは第一級殺人罪で……」 これっておかしくありませんか? ジェサップは誰も殺していないからこそ、本当の殺人犯を恐喝できるのであって、もしジェサップが殺人を犯したのであれば、なにをネタにコールドウェルさんを恐喝したのでしょうか。マークなに言ってんだ? むしろ、ジェサップがコールドウェルを恐喝している現場に警察が踏み込んだ時点でほぼGAMEOVERでは? |
No.314 | 6点 | 漱石と倫敦ミイラ殺人事件 島田荘司 |
(2020/07/26 16:11登録) なぜだかたまに読み返したくなる作品です。 本作は長所もありますが、瑕疵もけっこうあります。おっさん様が犯人側の思惑通りにいくのか疑問とされていましたが、自分も同感です。そんなのうまくいくわけがない。 ですが、遊び心を愉しむ作品のように思いますので、ここは穏便に。むしろ爽やかなラストを評価したいところです。感動というか、爽やかだと自分は感じました。 ホームズと漱石どちらも好きな自分にはかなり美味しい趣向です。両者の齟齬はなかなか笑えます。両者にそれぞれ花を持たせているところも好感します。それだけでも自分は満足です。ただ、漱石パートは文体はまあまあ似ているのですが、言葉の選び方や漱石の人物像に違和感はありました。 他の方が評価されているように、トリックは大味であまり感心しません。ただ、事件の構造というか性質はいかにもホームズものにありそうなもので、ホームズのパロディとしてそんなに悪くないように思います。 ホームズものもトリックは「はあ?」というのがけっこうありますし。 直木賞候補となった作品でもあります。山口瞳が強く推していましたが、他の審査員はほとんど評価せず、むしろ、なぜ山口さんはこれをこんなに推すのだろうと不思議そうにしている審査員もいたくらい。 山口瞳が『格調の高い文章』と評価していましたが、これは自分もちょっとよくわかりません。ただ、ワクワクする作品というのは同意します。 全体として文章が格調高いとは思えなかったのですが、ものすごく好きなシーンがあります。漱石がホームズに別れを告げんとベーカー街に赴く際の描写です。ここは格調が高いといってもよいと思います。 『冷たい風が高い建物にあたって』で始まる二頁ほどの風景描写、文明批評は素晴らしい。なぜだかここだけは覚醒した感があります。本作の個人的なツボです。 ちなみに直木賞の選評での渡辺淳一の酷評は『頭で書かれた小説の最たるものだが、』と始まっていましたが、下半身で書かれた小説よりは頭で書かれた小説の方が好ましいと思います。 ※渡辺氏の初期作品には好きなのもあるのですが……。 この作品は漫画にもなっていて(連載中)お試し版だけ読んでみたのですが、島田荘司が五木寛之に見えて仕方なかったのでありました。 |
No.313 | 6点 | 戦場の画家 アルトゥーロ・ペレス・レべルテ |
(2020/07/05 21:03登録) ~戦場カメラマンのフォルケスは戦争を描いた壁画の作製に勤しんでいた。写真では表現しきれない戦争を残しておきたかったのだ。そんなある日、クロアチアの元民兵を名乗る男がフォルケスの元を訪れる。かつてフォルケスの写真の被写体となり、それがために筆舌に尽くしがたい苦痛を味わったという。男はフォルケスに「おまえを殺す」と宣告する。だが、すぐには殺さない。わたしはあなたのことをもっと知りたいと男はいう。こうして元カメラマンと元民兵の奇妙な対話がはじまるのだった。~ 2006年スペイン作品。のべ6日間にかけて行われる対話と二人の回想がほぼすべてである。二人の世捨て人が戦争の法則を紐解いて、戦争の壁画を構築していく物語とでもいうのか。個人的には罪と悪の違いについて再考させられた。 多大なる緊張下で行われる知的なバトルは負ければ死に直結する(と自分は考えながら読んでいた)。元民兵は学のある男ではなかったが、物事の勘所を的確に捉え、厳しい環境を生き抜いてきたこともあってかフォルケスの本質を冷徹に見抜いていく。 戦場カメラマンの葛藤、撮影者と被写体の関係、写真と絵画の違いなどから哲学的な問いについて考察がなされていく非常に面白い作品ではあるが、けっこう理屈っぽくて難しい部分もある。絵画の知識がある程度あった方がより愉しめる。 どうしてフォルケスは警察に保護して貰わないのだという疑問が浮かびそうだが、二人が生きてきた世界には警察の保護などというものは存在しない。 衝撃的なフォルケスの告白のあとの静かなラストは解釈が分かれるところではないかと思う。 とても面白かったが、広義のミステリーにすら入るかどうかギリギリのところ。フォルケスの恋人に関する謎など、謎はいくつか存在するもののミステリーとしては弱いので採点は6点とします。 著者の作品は本作と映画化されている『ナインスゲート~呪いのデュマ倶楽部』しか読んでいないが、本作は最初に読んで作者の作品の案内図としてもよし、作者の集大成として最後に読むもよしという気がする。 |
No.312 | 6点 | ホロー荘の殺人 アガサ・クリスティー |
(2020/07/05 21:01登録) 1946年イギリス。 本作はクリスティによる文学的なミステリの代表格のように言われておりますが、これが文学的であるのなら例えば『五匹の子豚』だって文学的な作品といえるように思います。 そもそも文学的とはどういう意味なのか? 書評ではよく使われる言葉ですし、私自身もよく使用します。が、冷静に考えると意味のよくわからない言葉であります。おそらく確固たる定義は存在しないでしょう。 自分にとって文学的というものを突き詰めると主に以下の二点でしょうか。 文章でしか表現できないことが書かれているもの。 文章の力で愉しませることができるもの。 いわゆる文学的なテーマを扱っている、人間をきちんと描いているだけでは充分ではないように思えます。 ※あくまで持論です。 私の考えでは本作はミステリとして優れているわけではありませんし、それほど文学的でもありません。けれどもなかなか面白い作品です。人物描写を丁寧にすることにより、およそありそうもない事実に説得力をもたせ、事件を複雑化することにはある程度成功しています。 逆に見るとクリスティ再読さんの仰るミステリとしての脆弱さを人物描写で誤魔化しただけともいえるでしょう。 確かに軽快に転がされたというよりも、無理矢理引き摺られた感はあります。 これがそれほど特殊な作品なのかが疑問です。本質的にはいつものクリスティのような気がするのですが。 自分が本作を評価するのはドラマとしての面白さです。前半は少々かったるいと感じるところもありますが、後半は非常に面白い。 病気のおばあさん、被害者の息子の使い方、洋服屋で奮闘するエドワード、将来の使命を覚悟するポワロ、奇妙なダイイングメッセージなどなど好きなところがけっこうあります。 この作品でもっとも白けたのは拳銃発見の唐突さでしょうか。正直なところなんだそりゃと思いました。 格別高評価はしないけれど、面白く読んだ作品です。ミステリーとしては5点ですが、おまけして6点。 本作で私がもっとも印象に残っていたのは以下のセリフでした。このセリフに深い意味があると思いこんで、とても怖かったのです。 「あらたいへん――これが剪定鋏の困るところなのよ、あまりよく切れるものだから――いつもうっかり刈るつもりじゃないところまで刈ってしまう。後略」 想像させて怖がらせる、これぞ文学です(かな?)。 ※昔から思っていたのですが、ホロー荘と聞くと自分はどうしてもそれほど高級ではないアパートで起きた殺人を連想してしまいます。どうして本作は邸とか屋敷とか館ではなく「荘」なのでしょうか。 |
No.311 | 6点 | 記憶の果て 浦賀和宏 |
(2020/06/29 23:48登録) ~浦賀が死んだ。知らなかった。 「浦賀さん死んじゃった」 浦賀の死を告げたメルカトルの言葉は、今でも頭の中で鳴り響いている。まるで不快な、出来損ないの音楽のように。その音楽は頭の中で、メロディとハーモニーが勝手に増殖して、日に日に不快さを増していった。 忘れようとすればするほど、その音楽のボリュームは上がってゆく。~ ※上記は本作の書き出しの一部名詞を入れ替え、一文だけ差し換えています。敬称略とさせて頂きました。 語り手の安藤直樹は冒頭で父親の自殺を母親から知らされます。最初はジメジメとした青春小説といった様相ですが、そこにSF要素が加わってきます。 なぜ父親が自殺したのかがわからないため、安藤は父親のパソコンの電源を入れてみます。モニターに『あなたは誰?』の文字が。安藤が自分の名前を入力すると『わたしは安藤裕子』と表示されました。さらにこの安藤裕子なる女性?は『父さんはどうなったの?』と問いかけてきます。 この謎が物語の骨格なのですが、ここに反ミステリの要素も加わります。 安藤は名探偵が嫌いだからミステリは嫌いだと嘯きます。彼には本格ミステリ以外の小説はつまらないという友人がいます。 謎がいくつか生まれますが、きちんと決着がついているとはいえません。わざと決着をつけなかった作品です。 ミステリの読者が興味深く読めなければ反ミステリとしては失敗だと思います。ミステリに興味のない人間にとって反ミステリ小説などなんの意味もありません。 つまらなくはないのですが、さりとてさほど意味があるとも思えない部分が多すぎる作品です。 作中安藤の自意識が溢れんばかりに押し寄せてきますが、大人が共感できるような語り手ではないし、若い人でも彼の剥き出しの自我、誤魔化しにどこまで付き合い切れるかは疑問です。 読み易いかどうかでいえば、ダラダラ長いも読み易いと思います。文章がうまいか下手か問われると返答に迷います。小説を書きはじめたばかりの高校生が好んで使いそうな言い回しが頻出します。そうかと思うと目が醒めるような一文がフッと顔をのぞかせるときもあるのです。 語り手が自身を制御できていないさまがよく描かれています。青臭く、回りくどく、緊張感というよりは焦燥感のようなものがありありと窺えます。 書き手(作者自身)が自身を制御できていないのか、計算ずくで制御できていない人物を描いているのかがよくわからないのです。 ※私が所有するのはノベルス版。 文庫版はかなり改稿されているそうですが、そちらは未読。 まあまあ面白いとは思いますが、はっきりいって下手な小説だと思っています。なのにとても印象深い。文章がうまいとか、ストーリー展開が巧みだとか、発想がすごいとかではありませんが、なにか得体のしれない才能があると感じました。 メフィスト賞を象徴している作家は我れ思うに二人います。殊能将之と浦賀和宏です。二人とも若くして死んでしまいました。 メルカトルさんが掲示板に書き込みされた次の日に訃報を読んで、浦賀の本名を知り、涙が出そうになりました。 |
No.310 | 5点 | 生物学探偵セオ・クレイ 森の捕食者 アンドリュー・メイン |
(2020/06/21 15:25登録) ~かつての教え子が殺害された件で生物学の教授セオ・クレイは逮捕された。だが、犯人はどうやら野生の熊だったらしく、クレイは釈放された。事件に興味を抱いたクレイは釈放されたあと自身で調査を試みる。クレイの下した結論は熊を模した連続殺人犯が野放しになっているという恐るべきものだった。~ 2017年アメリカ。原題『The Naturalist』シリーズ化されており、今のところ二作目まで翻訳出版されている。作者のアンドリュー・メインは奇術師としてけっこう有名な人物らしい。 不器用で気弱だが頑固な変人学者クレイのキャラが不器用な叙述とほどよく調和しており(あえて不器用に書いたのか作者が本当に不器用なのかは不明)、熊を装った連続殺人犯というアイデアもそそられる。展開も非凡で話がどんどん奇妙な方向に転がっていくのは面白いのだが、残念なことにリアリティには疑問がある。 生物学探偵という看板にも大いに疑義がある。ここに興味を引かれて手に取った本であったが、生物学的なアプローチで事件の真相に迫るわけではなかった。セオ・クレイは生物学者ではあるが、あまりそれらしさはなくて、むしろ情報工学者としての知識、テクノロジーの力で事件を嗅ぎ当てていく。そのテクノロジーに納得のいく説明がないのでかなりご都合主義に感じられてしまう。そんな簡単に~をみつけてしまえるもの? 殺人に対するユニークな視点、先を読ませない(こんなん読めるか!)展開、ほどよく奇人変人なクレイの造型、ヘタウマな文章などなど美点?もあるが、後半に私の許容範囲を超えた逸脱もあったりして、とにかく粗の目立つ作品だった。 怖いもの見たさに一読してみるのもいいかもしれない。採点は低めだが、個人的には面白い作品だったと思う。 こいつが犯人ではないかと強く感じていた人物がいたのだが、ぜんぜん違っていた。というよりも犯人を推理できるような話ではなかった。 |