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ミステリの祭典

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プレイヤー・ピアノ
カート・ヴォネガット・ジュニア名義

作家 カート・ヴォネガット
出版日1985年10月
平均点6.50点
書評数2人

No.2 7点 糸色女少
(2023/09/13 22:05登録)
工業が徹底的に自動化され、文化的活動も目的の明確さと効率が最優先になった未来のアメリカ。格差は極端になり知識階級と単純労務者と軍人に大別された。知識階級の上位に属する主人公は、いくつかのきっかけにより体制に反旗を翻すのだが。
ヴォネガットの長編デビュー作で、いわゆるデストピア小説に分類できるが、後の作品よりストレートながらヴォネガットらしい特異さが既に読み取れる。社会・文明批判は人間個々に跳ね返ってくるという皮肉と、人間性の肯定も否定も所詮は立場違いの同じ生物によるものだという達観である。人々の愚かな行いへの眼差しに、愛情よりシニカルさが勝っているのが初々しく感じられる。
機械化管理社会という舞台設定は、わかりやすくSF的であるが、本作はSFというより、そうした肯定、否定される、あるいは全く変化しない「アメリカンウェイ」についての小説であるように読める。

No.1 6点 tider-tiger
(2020/09/12 14:20登録)
~ピアノが勝手に動きはじめて演奏をするのならばピアニストなど必要ない。すべての生産供給が機械によって管理され、その機械の管理者が人民を統べる世界。人民は生活苦に至ることはないが、仕事はほとんど機械が済ませてしまうため、職業の選択肢は極めて少ない。そんな世界に疑問を抱いた管理者(ポール・プロテュース)がいた。~

1952年アメリカ。
カート・ヴォネガット・ジュニアの初長編。ディストピア小説と紹介されることが多いが、管理の徹底はあっても弾圧の類はないので絶望感、暗さはあまり感じさせない。むしろ生きやすい世界だと感じる方もいるかもしれない。ただ、それゆえにさらなる恐ろしさがある。この世界の管理者は悪意や私欲ではなく、絶対多数の幸福を追求してこの世界を築き上げたからである。
本人がインタビューなどで述べているとおり、ヴォネガットの作品には悪人が出てこない。少なくとも自分は記憶にない。ヴォネガットは悪人には興味がないのだと思う。だが、悪人がいなくとも悪は生まれる。そして、悪人なくして生まれた悪の方が質が悪いような気がする。

管理する側の気付きを話の発端に据えているところはブラッドベリの『華氏451度』と同様。
ヴォネガットにしては堅実な展開だが、堅実ゆえにかいささか古めかしく冗長なところも散見される。長い割には中途半端だとも感じる。人物描写をきちんとやっていますよ、でも、なんか描き切れていない。一貫したストーリーがありますよ、でも、途中で投げ出してしまった感のあるラスト。
ユニークだなと感じるのは、ポールの親友にして反逆者のフィナティーにあまり重点を置いて書かれていないこと。通常この手の作品なら彼は最重要キャラであるはず。この感覚がいかにもヴォネガットらしいと感じる。
効率を重視するあまり人間の尊厳を否定してしまう社会に異を唱えると同時に、尊厳を取り戻すという目的のために合理的な考え方ができなくなっている人間にもシニカルな目を向けている。
ヴォネガット作品には冷徹な視線と優しい眼差しがいつも同居している。

ごく短い章立てでサクサクと読ませていく後年のヴォネガットスタイルとは異なるいうなれば普通の小説だが、なんとか教の精神的指導者にして国王などいかにもヴォネガットらしいキャラがすでに登場している。
だが、自分がヴォネガットを感じるのはそういう部分ではない。
序盤で、友人がカーセックスを楽しむために改造した車の特殊なシートをポールがどんなものなのかと操作してみる場面がある。操作し終わると、ポールはその車に「さよなら」と告げる。車はモーターが止まり、ドアが自動で閉まる。そして、ポールに「おだいじに」と言う。
バカバカしいことを物寂しく書く、あるいは深刻なことをバカバカしく書く、自分はヴォネガットのこういうところに魅かれる。
6点か7点か迷ったが、厳しく6点。

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