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Tetchyさん
平均点: 6.73点 書評数: 1556件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.1476 3点 工学部・水柿助教授の逡巡- 森博嗣 2020/07/23 00:36
水柿助教授シリーズ第2作目。前作に劣らず、本書でも森氏は自分の思いの丈を存分に語っている。これほど作者の嗜好が、思考がダダ洩れしている作品もないだろう。まさに気の向くまま、思いつくままに書かれている。
これは作者に全てを委ねることを許した幻冬舎だからこそ書けた作品集である。
いやあ、実際作者に好き勝手やらせ過ぎである。本書の出版に際して編集会議がきちんとなされたのか甚だ疑問だ。いやもしくは当時そんな反対意見を差し込めないほどに森氏の作家としての権威が既に高かったということなのか。

今回全体を通して読むと、やはり本書は森氏の私小説と云えるだろう。第1話では理系思考の作者がなぜミステリィ作家になったのか、そのギャップを埋めようと云う意図で書かれているとさえ吐露している―しかしあまりに自由奔放に書き過ぎて全く成功していないようだが―。
結局この企みは成功せず、物語の主軸は一大学の一助教授だった森氏が経験した小説家になったことでの生活のギャップが綴られていく。

また本書の中での水柿君のある心境の変化が興味深い。
助手時代は好きなことをして賃金ももらえるなんて幸せだと思っていたのに、助教授になって研究以外の仕事が増え、特に会議が増えたことで苦痛を覚え、これだけ我慢して嫌な時間を過ごしているのだからお金を貰えて当然だと思うようになったこと。ただ助手時代は好きなことができたが給料は安かったのに対し、助教授では助手時代の2倍以上の給料をもらうようになったのは嫌なことをしなければならない対価が増えたのだと考えているところだ。
私は労働報酬とは嫌なことを我慢してやったことへの対価であり、生活のためにその我慢をしているのであるという考えの持ち主なのでこの水柿君の後半の考えには全く同意だ。
一方で社会人になって一度も好きなことをさせてもらってその上給料まで貰って幸せだ、なんて思ったことは一度もない。かつて勉強させてもらった上に給料も貰っているんだから幸せだと云っていた上司がいたが、当時はサーヴィス残業当たり前の風潮だったので何云ってんだ、コイツと思ったものだ。

おっと作者の心情ダダ洩れの作品だっただけに私の心情も思わず露出してしまったようだ。

さて本書は大学の助教授だった水柿君が奥様の須磨子さんの何気ない提案から小説を書くようになり、それが出版社に認められ、あれよあれよという間に売れっ子作家になって貧乏から脱け出し、お金持ちになったところで幕が引く。

しかし私はこの件を読んで、売れる作家と売れない作家の境界とは一体何なのだろうかと考えてしまった。

ここではもう敢えて水柿君と呼ばず森氏と呼ぶことにするが、森氏が特に小説家になりたいと願ったわけでもなく、偶々手遊びで小説を書いたらそれが編集者の目に留まって一躍売れるほどになった。しかも森氏は自分が小説を書きたいと思って書いてるわけではなく、依頼が来るから書いていると非常にビジネスライクだ。
一方で小説が好きでいつか自分も小説家になりたいと願い、何度も複数の新人賞に応募して落選を繰り返し、ようやくその苦労が実を結び、晴れて作家になれて、自分の創作意欲が迸るままに作品を書いて発表しながらもさほど売れない作家もいる。
熱意があってもその作家の作品が売れるとは限らないが、逆にさほど熱意もないのに書いたら売れている作家がいるというのは何とも人生とはアンフェアだなと感じざるを得ない。それは森氏は天才であり、このような書き方は森氏しかできないことなのだ。つまり一般人が、いや少しばかり才能があっても天才には敵わない現実を知らされた思いが本書を読んでするのである。

本書を冷静に読める作家は果たして何人いるのだろうか。私が同業者ならば自分の境遇と照らし合わせて身悶えするはずだ。ある意味本書は作家殺しのシリーズだ。
さて残りはあと1冊。しかし宣言通りに3作書き、それがきちんと刊行されたということはそれなりに売れたということか。売れる作家は何書いても売れる。やはり作家殺しだ、この本は。

No.1475 5点 氷のスフィンクス- ジュール・ヴェルヌ 2020/07/13 23:43
本書はヴェルヌ作品の中でも今までにない変わった内容となっている。それはエドガー・アラン・ポーの小説『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』が下敷きになっているのだが、それはこのポーの創作と思われる作品が事実であるという前提で、しかもそのポーの作品の登場人物たちが本書の登場人物に浅からぬ縁があり、さらには身分を偽って登場するという展開を見せる。
即ちこれはヴェルヌによる先述のポー作品の続編ともいうべき作品なのだ。

さてこの特殊な構造の作品について色々考えるところがある。

1つはポーの件の小説にインスパイアされたヴェルヌが自身も南極を舞台に物語を紡ごうと考えた時に―私は原典の作品を読んだことはないが―自らその世界観の中での話を書きたいと強く願ったことが動機になったこと。恐らくはこれが本当の理由だろう。

もう1つ思うのはシュリーマンのエピソードだ。トロイの木馬という神話を史実であると信じてそれを証明した彼の姿が本書の登場人物ジョーリングと重なる。無論登場人物たちがポーの作品の登場人物そのもの、もしくは所縁の者たちであるとの違いがあるが、ジョーリングがポーの作品の読者であり、その作品に魅了された彼が偶然その所縁の人物たちと出逢うところが何とも創作から出た真実に導かれる、その流れがシュリーマンの話を想起させてならない。
てっきり作り話だと思われていたことが実は本当にあったことだった、という展開は冒険好きには何とも堪らない設定だ。

また本書はヴェルヌの極地探検小説の集大成とも呼ばれている作品で、19世紀末当時の船舶設備と航海術での南極行の困難さと厳しさが描かれているのもまた特徴的だ。その極寒の地で次から次へと訪れる苦難とそれに加えて南極行のために新たに雇った船員たちによる叛乱と彼らにほだされた船員たちの裏切りといった自然のみならず人間間の戦いのドラマが描かれており、それはさながらアリステア・マクリーンの小説を読んでいるかのようだ。
特に最終、氷山に打ち上げられた彼らの乗るスクーナー船、ハルブレイン号が氷の融解により支えを失い、複数の船員を巻き添えにして転落していくシーンは今までのヴェルヌにない現実的な地獄絵図を見せつける。

さて題名ともなっている氷のスフィンクスとは一体何なのか?
この不思議な言葉は2回物語に登場する。

最初はジョーリングの夢の中で南極点で出遭う、最も高い視座で南極を見下ろす、不可侵的存在。

次は物語の最終で彼が南極から脱出しようとしている時に立ち塞がる氷の山塊として。そしてその山塊は強力な磁力を持っており、それによって逃げることが叶わなかったポーの小説の主人公アーサー・ピムの亡骸とダーク・ピーターズが再会するのだ。
つまり氷のスフィンクスは数々の冒険者を葬ってきた絶対的存在、つまり南極点そのものの象徴であることを示しつつもそこから生還することがいかに困難かを思い知らす試練そのものであるとも云えよう。

No.1474 8点 ザ・ボーダー- ドン・ウィンズロウ 2020/07/12 00:51
『犬の力』から始まる、かつての義兄弟だった麻薬王アダン・バレーラと麻薬取締官アート・ケラーの因縁の物語最終章である。しかしアダン・バレーラは前作『ザ・カルテル』でセータ隊との最終決戦の場で命を喪い、既に退場している。しかしこの男の権力の影響がいかに大きかったか、それを彼の死によって再び麻薬戦争の混沌が激化するメキシコを描いたのが本書である。
『ザ・カルテル』では3.5ページに亘って殺害されたジャーナリストの名が連ねられていたが、本書でも同様で実に細かい文字で2ページに亘って2014年に拉致され殺害された43名の学生たちの名前が書き連ねられている。更に2017年に殺害されたジャーナリスト、ハビエル・バルデス・カルデナスと世界中のジャーナリストの献辞が捧げられている。
時代は下り、犠牲者の数は減ったのかもしれないが、実情は全く変わっていないのだと思わされる献辞である。

今回ケラーが戦う舞台はメキシコではない。彼の舞台はアメリカ本土。
自分が所属している麻薬取締局、アメリカ上院、そして合衆国大統領らがケラーの相手なのだ。
つまりアメリカという病理との戦いがこのサーガの最終幕となっている。

まだ子供だった頃、麻薬という言葉を初めて聞いた時、その恐ろしさからてっきり「魔薬」と書くものだと思っていた。
本書の中でもアメリカが参戦した最も長い戦争はヴェトナム戦争でもなくアフガニスタンでもなく、麻薬戦争なのだと書かれている。もう50年も経ち、今なお続いている。私が生まれる前から続いているのだ。
そしてケラーにとってそれは40年にも及ぶ戦いだ。裏切りと違法捜査、そして殺戮の連続の40年。

正義対悪の構造を持ちながら、肥大する麻薬カルテル達―何しろ自前の軍隊まで持っているボスもいる!―に立ち向かう政府機関の連中ももはや綺麗ごと、正攻法では彼らに敵わなくなっている。毒を以て毒を制す。従って巨大な麻薬カルテルの息の根を止めるには正義の側も悪に染まる必要があるのだ。

いつ終わるとも知れぬ偽りと裏切りの日々を暮す。いつ正体がバレ、家に乗り込まれるかと怯えながら夜中に突然起き出す日々。自然表情や言動が殺伐としたものになり、いつかは一緒になろうと決めた相手の心が離れていく。そしてそれを止められない自分がいる。
もっと大きな悪を捕まえるために命の危険性が高いフェンタニル―なんと触っただけで死に至る劇薬だ―の取引を見過ごし、そのフェンタニルの過剰摂取によって死んだ者を目の当たりにする。

…読書中、こんな思いが頻りに過ぎる。
ここまで人生を賭けて、生活を犠牲にして、心を病んで戦わなければならないものなのか、麻薬戦争というものは?
しかしウィンズロウはそれを読者に見事に納得させる。彼は麻薬ビジネスに関わる人たちの点描を描くことで麻薬に手を出したことでいかに彼ら彼女らが不幸になっていくか、悲惨な末路を丹念に描いていくのだ。
作る側、売る側だけでなく、それを運ぶ側、知らないうちに巻き込まれてしまう側、そして使う側それぞれの変化を描くことで上の切なる疑問に対する回答をウィンズロウは我々読者に与えていく。

いや正確には我々読者の良心に問いかけているのだろう。
こんな人たちが現実に起こっているのにそれでも貴方は見て見ぬふりができますか?
そしてその問いに隠されているウィンズロウの痛烈なメッセージは次のようなものだろう。
もしそれが出来るならば貴方もまたカルテルの仲間なのですよ、と。

断言しよう。アート・ケラーは再び我々の前に姿を現すだろうことを。
しかしそれは即ち裏返せば麻薬戦争が終わらない、麻薬カルテルが一掃されないメキシコの惨状が続くことを意味している。それならばたとえウィンズロウの一読者としてもケラーとの再会は望まない。一人の人間として本書が本当に最終章になることを望むばかりだ。

No.1473 8点 おかしな二人―岡嶋二人盛衰記- 評論・エッセイ 2020/07/10 00:07
二人一組の作家の創作方法とコンビ存続もしくは解消の事情については断片的に語られる、もしくはプライベートなことだからと秘されているのが大抵で藤子不二雄についてもWikipediaでその経緯や理由について触れられているが出典不明扱いとされている。
従って本書のように詳らかに二人一組の作家の裏事情が語られるのは稀有なことで、その分非常に興味深く読むことができた。その内容は二人一組の作家の創作活動の困難さと苦難、そして変わっていく人間関係の哀しさが如実に表れている。


まず驚いたのは岡嶋二人の最盛期は江戸川乱歩賞受賞その時にあり、そこから2人のコンビは坂道を転がるように崩れていったとある。それを実証するかのように乱歩賞を受賞するまでが「盛の部」と付けられ、受賞してからのプロ作家としての活動は「衰の部」となり、「盛の部」の分量はほぼ半分もある。つまりそれほどデビューが長かったのだ。
確かにデビューに至る道のりは長い。

共通の友人を介して知り合った徳山氏。1972年に初めて出逢った2人はその後すぐにコンビを組むわけでもなく、共同で映画製作と写真撮影を請け負う会社を設立するが、全く仕事をすることなく、1年も経たずに消滅。その後も2人の付き合いは続きながらようやくミステリ作家としての一歩を踏み出すのが1977年。そして乱歩賞受賞が1982年とそこから6年を要する。
これほどまでに長くかかったのは井上氏と徳山氏が非常に計画性がなく、行き当たりばったりで生きていることに由来する。この2人の生き方は生活の確たる基盤という物を感じさせず、普通の会社人である私は絶対に出来ない生き方である。

しかしこの雌伏の時にこそその後の岡嶋二人作品の萌芽が育っていたことが綴られる。
この時の2人の対話こそが岡嶋二人という作家の本質と云っていいだろう。時間は無限にある中、お互い思い付きで話す話題がミステリの種になり、ストーリーを生み出すことへ繋がっていく。好き嫌いが激しく、飽きっぽい井上氏は徳山氏の出すネタを詰まらないと思うと一蹴し、それを受けた徳山氏は次にはまた新しいネタや新展開を考えて語り出す。
我儘な井上氏と粘り強い徳山氏。この組み合わせでなければ生まれなかったアイデアがこのデビュー前の対話で繰り広げられる。

本書の冒頭で井上氏はこの対話こそ岡嶋二人の創作活動そのものであるので、岡嶋作品のネタバレをバンバン行うと宣言しているが、まさにこの2人の対話はネタバレそのものだ。いやむしろそれを書かないと逆にこれほどミステリが、ストーリーが生まれる経緯は解らないし、詳しく書いてくれたことで実に興味深く読むことができた。代表作とされる『99%の誘拐』、『クラインの壺』のアイデアも既にこの段階で生れていることに驚かされる。
そしてアイデアを小説にしていくことの難しさ。それまで全く小説などを書いたことのない2人がいかにしてミステリを書くに至ったかなどが語られる。

そんなところから始まった岡嶋二人が受賞に至るまでの道のりは、これから作家を目指す人たちにも読んでほしい内容が詰まっている。

乱歩賞受賞作『焦茶色のパステル』の創作経緯は実に面白かった。ミステリの核となるアイデアは勿論のこと、それを軸に物語にいかに起伏を持たせ、読む者の興味を惹くか、そしてそれを成功させるために主人公をどのように設定するか。今まで『ミステリーの書き方』など作家の創作方法を紹介したエッセイを読んできたが、これほどまでのページを費やしてその経緯を書かれた物はなかった。そして賞を獲るためにはここまで綿密に作品の内容を練らなければ通用しないのだと云うことを痛感させられる。
そして乱歩賞受賞者のみが知るその舞台裏。右も左も解らぬ状態で講談社に招かれ、いきなり記者会見。そしてその後すぐ1週間後に受賞後第1作の短編を書くよう要請されること。ここまでの件をこれから乱歩賞を目指す人には是非とも読んでほしいところだ。受賞するための傾向と対策が、受賞後まで書かれているからだ。つまり受賞を望むには受賞作だけでなく、受賞後第1作の短編まで用意しておかなければならないことを知っておかねばならない。

そしてこの最初に訪れる厳しい締切が岡嶋二人解散のカウントダウンの始まりだったことが述べられる。

そこからはその後の岡嶋氏の活躍からは全く想像できなかった苦しみが延々と綴られ、驚きの連続だ。
受賞作の『焦茶色のパステル』よりも同時受賞した中津文彦氏の『黄金流砂』の方が売れ、デビュー早々に「売れない作家」のレッテルを貼られたこと。
乱歩賞受賞が講談社のみならず他の出版社からの原稿依頼を多数招き、常に締切に追われるようになり、かつてのような徳山氏との対話をする時間が次第に失われていったこと。しかもネームヴァリューも低いから1年に数冊出さないと生計が立てられないため、それを飲まざるを得ないこと。
そしてアイデア案出の徳山氏が次第にその役割を怠るようになり、文章係の井上氏が締切に圧迫され、更に状況が悪くなる。パソコン通信という新しいツールを得てそれぞれが話し合うために移動する時間を節約したにもかかわらず、井上氏側の視点から語られる、徳山氏の応対がどんどん悪化していくこと。
そんな中でかつての2人が持っていたコンビネーションを存分に発揮した作品が傑作『99%の誘拐』であったことが明かされている。

始まったものにはいつか終わりが来る。井上氏と徳山氏によって生み出された岡嶋二人というミステリ作家。その作家によって生み出された作品は赤川次郎氏、西村京太郎氏や内田康夫氏などのベストセラー作家に比べて売り上げは低かっただろう。しかしミステリのガイドブックには彼らの作品は多数挙げられており、その評価は高い。特に『99%の誘拐』は後年文庫のミステリで1位を獲得するに至った。
それはしかしてっきり2人による合作作家という強みを活かしたゆえの結果だと思っていたが、実情は全く違っていたことを改めて本書で知り、驚いた次第だ。無論これは全て井上氏側から語られた話であるため、一方的ではあるのだが。
性格の違い、発想の違いというミスマッチが生み出す妙。それが岡嶋二人の正体だった。しかしやがてその違いが次第に歪みを生み、崩れていく。その始まりが何とデビューとなった乱歩賞受賞だったのは何とも皮肉な話だ。
親しい者が仲たがいしていくのは読んでいて胸が痛くなる。岡嶋二人であった時の2人の関係は、徳山氏側は解らないが、井上氏は苦痛しか感じなくなっていくのが辛くなってくる。なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのかとずっと思いながら創作していたのが行間から滲み出ているのだ。

井上氏側から書かれた徳山氏は自分の周りにいる、Yesと答えながら結局何もやらない要領のいい男のように映った。なぜかこういう男は困ったことに憎めない。井上氏がコンビ解消した後も創作中に彼のことが浮かぶのは彼が仕事ぶりは欠点ばかりだが人間として魅力あるからだ。彼は井上氏に知らない世界を見せ、そして彼をミステリ作家に導いた。そして彼はミステリ作家になる術を、知恵を井上氏に授けたのだ。

井上氏がビートルズフリークであるからだろうか。私はこの感想を書いている今、ビートルズの曲のある有名な一節がふと頭に浮かんだ。
“When I find myself in time of trouble, Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be”
(自分が困っている時、マリア様が来て、知恵の言葉を授けてくれる。あるがままに、と)
“Let It Be”の歌い出しの一節である。

世間を知らないビートルズフリークの、映像関係の仕事に就きたいと野心だけを抱く小生意気な若造が妻子を抱え、明日をも知れぬ生活をしている最中にミステリ創作の知恵を授け、岡嶋二人となり、そして最後通牒を突き付けられ去っていった徳山氏。そんな彼の姿がこの歌詞に重なる。
井上氏にとって徳山氏は知恵の言葉を授けてくれるマリアだったのではないだろうか。
徳山氏がいなかったら岡嶋二人は生まれなかったし、そして井上夢人も生まれなかった。

彼は今いったいどこで何をしているのだろうか。しかし井上氏がこのエッセイの結び「終わりに」に書いたように、今でも井上氏が創作している最中に彼が現れ、知恵を授けているに違いない。
Let It Be、イズミが思った通りに書いたらいいよ、と。

No.1472 10点 贖罪の街- マイクル・コナリー 2020/06/24 23:35
今回もコナリーにはやられてしまった。もはやページを捲ればそれが傑作だと約束されているといっても過言ではない。

ボッシュの停職処分から余儀なくされた早期退職に対する訴訟、それを弁護するのが異母弟のミッキー・ハラー。そしてハラーはボッシュに自分の仕事の調査員になるように依頼する。この2人の職業と関係性を十分に活用しながら実に淀みなくシリーズが展開する様にいつもながら感心する。コナリーはハリー・ボッシュ、ミッキー・ハラーという2人の男の人生を知っており、それを我々読者に提供している、そんな気がするほどの事の成り行きの自然さを感じさせられる。

また本書ではそれまでと異なる描き方がされている。それは事件の犯人の行動が物語の冒頭から同時並行的に描かれていることだ。しかも彼らが刑事であることも判明しており、予め悪徳警察官であることが判っている。これは非常に珍しい。なぜならコナリーはこの手法をサプライズに用いることが多いからだ。
しかしこの新しい手法はまた物語に新たな魅力を生み出している。この2人の行動が不穏過ぎて物語に常に緊張をもたらしているからだ。彼らに監視されるハラーとボッシュ、そしてその他事件関係者たち。彼らが何をしようとしているのか読者は不安の中でページを捲らされる。その先を知りたくて。

今回久々にボッシュは『暗く聖なる夜』、『天使と罪の街』以来、刑事ではない立場にある。従って彼もまた警察の脅威を感じ、いや特権的立場を失っている状態にあることで正しい市民であろうとする。

前科者は必ず犯行を再発する。それは彼らが根っからの悪だからだと悪に対して執着的な怒りを覚えるボッシュ。
一方で人は変われる、やり直せる、だからそんな更生した人を偽りの犯行から護らなければならないと、かつての悪人の贖罪を信ずるハラー。
やがてボッシュもフォスターが真犯人ではないと認める。しかし2人はフォスターが無罪であると信じながらもその目的は異なる。
ボッシュはフォスターを生贄に捧げ、のうのうと生きる真の悪人をのさばらすのを許さず、必ずこの手で真犯人を突き止めようとする。
一方ハラーはフォスターが無罪であることを証明するためにその材料をボッシュに調査させて集めようとする。
元刑事と弁護士の価値観の違い。それがいつしかこの異母兄弟の間に乖離を生む。


私欲のために大勢の人の立場と人生を利用し、そして危なくなればゴミのようにその命を葬り去る。人の死を扱う仕事に就くことで人の死に対して鈍感になり、そして自分の仕事が庶民に対してある種の特権を持つことに気付き、いつしか王にでもなったかのような尊大な男が生んだ悲劇の産物が今回の事件だった。一介の市民となったボッシュが刑事でないことの不便さは即ち彼ら2人が刑事であるがゆえに覚えた特権だったのだ。

コナリーはシンプルなタイトルに色んな意味を、含みを持たせるのが特徴だが、本書の原題“The Crossing”もまた様々な意味で使われている。
まずは元刑事が刑事弁護士の調査員になることをダークサイドに渡る(クロッシング)という裏切り行為という意味で使われ、次は被害者レクシー・パークスが有名な市政管理官補であり、メディアにも多く登場していたことで不特定多数の人間に遭遇(クロッシング)していたことで容疑者特定の困難さを示す言葉として。更に被害者と加害者の動機と機会とを結びつける交差(クロッシング)する瞬間をも意味する。
しかし私はその言葉は次の一言に集約されると感じた。

The Crossing、それは即ち一線を越えること。

まずボッシュは元刑事としてはタブーとされる弁護側の調査員となる一線を越えた。それは逆に彼が別の人間に冤罪を着せ、のうのうと生きている悪を野放しにしてはいけないという刑事の信念に駆られたが故であるのが皮肉なことに一線を越えさせた。
そして一連の事件の主犯であるハリウッド分署風俗取締課の刑事ドン・エリスとケヴィン・ロングは職務を濫用することが甘い汁を吸えることに気付き、刑事としての一線を越えた。彼らは風俗嬢を使い、隠しカメラで一部始終を撮影することで富裕層から大金を強請ることを思い付き、金蔓を生み出していた。それはもはや犯罪者以外何ものでもなく、彼らは悪への一線を越えたのだ。
そしてその2人の悪行に綻びをもたらした形成外科医のジョージ・シュバートも自ら一線を越えたと白状する。患者の1人の風俗嬢の、警察が仕掛けたハニー・トラップに引っかかり、彼は悪徳刑事たちの強請りに屈した。
ただ、誰が彼を責められようか。もし要請に応じて往診に行き、そこで若い女性が誘惑して来たらそれを抗うのは至難の業だろう。彼は全く以て不幸だったに過ぎない。たまたま彼に照準が据えられたのだから。

一線を越えた者たちの内、正しい方への一線を越えたのはボッシュだった。しかしそれがゆえに彼は元仲間たちの警察官から裏切者のレッテルを貼られることになった。なぜなら彼は刑事を犯人として告発したからだ。
正しいことをしながら元仲間たちに蔑まされる。ボッシュの歩んだ道のなんと痛ましいことよ。
そしてその正しさを認めることのできない警察官たちの何とも愚鈍なことよ。
正義を司る者たちが仲間意識を優先して正しき進むべき道を見誤るようになってしまっている。コナリーは今までも正義を裁く側の人間を犯罪者として物語を紡いできたが、それをアウトサイダーになったボッシュによって裁くことでより一層警察組織そのものの歪みが浮かび上がらせることに成功したように思える。

この原題が非常に本書の本質を掴んでいるがゆえに今回は邦題の『贖罪の街』がなんともちぐはぐに感じてしまう。訳者はあとがきでその理由について述べているが、正直苦しい。私ならば原題をそのままカタカナにして『クロッシング』にするか、それともボッシュも常に吐露している、事件の被害者たちが陥った『ダークサイド』もしくは『アザーサイド』か。簡潔にして多種多様な意味を持つ言葉だけに日本語でそれを成そうとすると実に難しい題名だ。

さて何度目かのボッシュとハラーのコラボレーションとなった本書は双方の持ち味が十分に反映された作品となった。
ボッシュは刑事の職を離れ、一介の民間人というハンデを負いながらも生まれながらの刑事とも云うべき執念の捜査を続け、真犯人に辿り着き、そしていくつもの危難を乗り越えた。
一方ハラーはボッシュが集めた証拠とアドヴァイスを存分に活かし、法
廷でハラー劇場とも呼ぶべき鮮やかな弁護を披露し、見事依頼人の無実を勝ち取った。

しかし我々はもはや何が正しく何が間違っているのか解らない世界に生きている。社会に秩序をもたらすために作られた精巧なシステムが正しくなければならない、誤作動するなどあり得ないと断じる、それを扱う側の人間たちによっていつしかその信頼性を守るために、いやミスを認めようとしないつまらぬプライドのために、正しいことがなされず、いつしか過ちがうやむやに葬り去ろうとされる、もしくは落としどころを付けるために弱者に標的を定め、犠牲として捧げる、そんな歪みが蔓延していた世界にいつしかなってしまった。
そんな世界だからこそ小説の、物語の中だけでも正しいことが正しく落着する結末であってほしい。そのために小説は、物語は書かれ、読まれるのではないか。
コナリーの描くボッシュサーガは正義を貫くことの困難さとそれを乗り越えた人々の、人生の充実を常に与えてくれる。ハラーの物語はいつも結末は苦いが、今回はさすがに爽快感をもたらしてくれた。

No.1471 7点 悪魔の発明- ジュール・ヴェルヌ 2020/06/20 00:52
ヴェルヌが本書で語るのは科学技術の進歩を語る上で直面する、科学は使いようによっては薬にもなるが毒にもなるというジレンマだ。その卓越した頭脳を兵器開発に向けたマッド・サイエンティストと彼を巡るこれまた悪党の代表、海賊の物語だ。

今までヴェルヌは科学の進歩による当時の世界の人々がまだ見たことのない世界と乗り物、そして旅の仕方などを語ってきた。それは彼が人間の想像を、空想を具現化する科学技術の進歩を礼賛していたからで、彼は科学が我々の生活を素晴らしいものに変え、そして一変させる驚きをもたらしてくれた。
しかし後期になるとその科学の進歩が恐ろしき武器にもなる、そしてそれを手に入れた者が世界の覇者となる技術の進歩のダークサイドも描くようになった。
本書においてはもう決定的に途轍もない破壊力を備える兵器を狂える発明家が生み出すという世界の破滅への序曲のような内容となっているのが特徴的だ。

しかし本書はやはり今までのヴェルヌ作品の二番煎じであることは否めない。最新鋭の技術を駆使するのが悪党であることの恐ろしさを描いているが、出てくるモチーフはいずことも知れぬ孤島に作られた秘密基地、巨万の富と威圧感を持つ指導者、最新鋭の技術を持つスクーナー船…。
そうこれはもう1つのネモ船長の話なのである。ダルチカス伯爵、つまり海賊ケル・カラージュは一切の慈悲の心を持たぬ悪として描かれたネモ船長なのだ。物語の途中で基地に迷い込む抹香鯨を容赦なく殺すシーンやシモン・アールの手紙を受け取り、救出に来たイギリス海軍の潜水ボート「スワード号」をスクーナー船で容赦なく体当たりして沈めるシーンなどは思わず『海底二万里』での同様のシーンがフラッシュバックする。
そして祖国を、世界から虐げられ、海に自分の世界を築き上げたネモ船長と同様の境遇なのが発明家トマ・ロックだ。彼は比類なき兵器ロック式電光弾を発明しながら、その自信高さ故、莫大な費用を伴う有償での試験を強要したがために各国からそのオファーを蹴られ、精神を病んでしまった不遇の発明家だ。つまりネモ船長が知力と技術力と財力と指導力を備えていたのに対し、トマ・ロック氏が知力と技術力を、ケル・カラージュが技術力と財力と指導力を持った、つまり2人合わせてネモ船長なのだ。

最強の兵器を手に入れた悪党どもの誤算は狂える発明家の中に残された微かな愛国心だった。彼は敵の中にフランス海軍を見出した時、いや彼らが掲げるフランス国旗を目にしたとき、同胞を自分で生み出した兵器で葬ることに躊躇したのだ。いやそのとき初めて自分の技術を他の国に売ることは彼が生まれ育った国を自らの兵器で無残な姿にしてしまうことに気付いたからだろう。そのとき初めてトマ・ロック氏は自分の才能を認めない人たちや国に対する不平不満のみ抱えていた認証欲求に飢えていた1人の人間から、国を、自国民を愛する愛国者へと変わったのだ。彼の中で原因と結果が一致したのだ。本書の原題が『国旗に面して』ということを考えればやはりこのロック氏の心境の変化こそが本書のメインテーマだったのではないだろうか。

今回は発明家によってロック式電光弾は闇に葬り去られたが、本書が萌芽となっている原子爆弾や核兵器は既に生まれ、各国が持っている。しかし核を生み出す者とそれを使う者は異なるのが現実だ。そのスイッチを押す人が対象となる国を再度見つめ、本当にそれを押す必要があるのかを胸に問うてくれる人であってほしいと願うばかりだ。
北朝鮮の飛翔体実験の連続、中国、北朝鮮を煽る現アメリカ大統領トランプ。世界は今実に危うい状態に陥っている。彼らがケル・カラージュに見えて仕方がないのだが本当に大丈夫だろうか。

No.1470 8点 黒い家- 貴志祐介 2020/06/18 23:45
第4回日本ホラー大賞受賞作で貴志氏の本質的なデビュー作となり、そして映画化もされた本書。
ホラーと云えば怪異現象、超常現象を扱った物が多い中、保険会社員が顧客の訪問先で子供の首吊り死体に出くわし、更にその保険金を巡って遺族であるその両親との陰湿で執拗な催促に取り乱される、そんな風にストーリーの概要を理解していた私はサスペンスでありこそすれ、この題材のどこがホラーなのだろうかと長年訝しく思っていた。そして刊行後22年を経てようやく読む段になってそれが理解できた。

本書は正真正銘のホラーである。
それもとても他人事は思えないほどの迫真性を孕んだ怖さがある。それはどこかにはいるであろう、少し変わった隣人が本書の元凶であるからだ。

まず題材が実に一般的だ。怪我や入院、そして人の死を日常的に取り扱う保険会社が舞台。

自殺した子供の保険金を巡ってその両親との確執にて主人公に降りかかる災厄が本書の内容で、従って物語の細部に保険会社の業務や保険業界の裏話などが丹念に織り込まれており、非常にそれが読み応えのある内容となっている。生命保険会社に勤務していた作者が知る業界の内輪ネタに事欠かない。

自分の顧客が次から次へと身内を殺し、また傷をつけ保険金を請求するサイコパスであった。
本書はこのワンアイデアのみと云っていいだろう。
しかし物語はシンプルなものこそ面白い。本書はまさにそれを具現化した作品だと云える。

実に計算尽くしで書かれた本書は、日本ホラー小説大賞の受賞作であることから、その内容はいわゆる賞を獲るために必要不可欠な小説の要素が教科書通りに放り込まれていることが解る。

まず作者自身が生命保険会社に勤務していた強みを活かし、保険業界のエピソードをふんだんに盛り込み、その業界ならではの内輪話、蘊蓄で読者の興味を惹きつけながら、更に忌まわしい過去を設定している。
主人公若槻は小学校の4年の時に6年生の兄を自殺で亡くしており、それはいじめられていた兄を見つけた際にいじめっ子に見つかり、自分がその当事者の弟であることを知られたくないがために知らんぷりを決め、その結果兄を自殺に追いやったと信じ、それがトラウマになっている。そのトラウマが主人公の若槻が顧客の息子菰田和也の自殺に対して不信感を抱き、調べる原動力となっているのだ。
原因と結果という因果をきちんと設定し、物語を淀みなく進める磐石さを持っている。
更に物語に心理学、生物学などの専門知識を放り込み、読者の知的好奇心を刺激し、次から次へと事件を連続させ、ページを繰る手を止めさせない見事な筆捌きを見せる。もう、受賞のためのファクターが過不足なく盛り込まれており、戦略と戦術を立てて応募されたことが如実に判るのである。
そんな作者の恣意的な創作作法が見えながらもやはり本書は実に面白い。あざとさの一歩手前で踏み止まるバランス感覚に優れているのである。

しかし保険業界とはまさに世に蔓延る魑魅魍魎共を相手にするような職業であることが本書でよく解る。
お金が人間の欲望と直結して駆り立てるものであるがために人の生死をお金で取引するシステムに人はどうにか旨い汁を吸ってやろうとたかるのだ。また生保業界も契約を取れれば天国、取れなければ虫けらのように扱われる極端な成果主義となっていることも慈善事業ではなく金満事業となっている歪みが生じているのだ。
本来突然の死に見舞われた時に遺された者が安心して生活を続けられるように作られたシステムであるのにそこに蓄えられた金をどうにか騙して手に入れようとする詐欺師たちが横行するからこそ保険会社もまた支払いにはより一層慎重となり、そしてなかなか支払いが行われなくなるのだろう。

通常その業界に身を置いている者はそういった業界の特異な状況が常識となり、奇異に感じなくなってくる。しかし貴志氏は保険業界に身を置きながらも一般人の感覚を持ってそのおかしさ、恐ろしさに気付いたのだ。そして彼は自分たちの日常業務こそホラーそのものだと発見したのだ。

一人のみずぼらしい小母さんが恐怖の殺人鬼だったという設定は買えるが、大の男が次から次へと不意打ちとはいえ、彼女によって殺されるのは少し都合がよすぎると感じた。
特に百戦錬磨のヤクザ上がりの強者、「潰し屋」の三善は今まで逢う者皆がその異様さに呑まれていた菰田幸子を震え上がらせるほどの胆力を持った人物であり、正直この2人の対決が見どころの1つだと思っていたが、呆気なく菰田宅で陰惨な死体となって発見されたのは残念だった。菰田幸子の無敵ぶりを示すためのファクターだったのかもしれないが、もっとどうにかならなかったものか。

あとは前作『十三番めの人格―ISOLA―』でも気になった男女の関係の書き方だ。若槻慎二と黒沢恵の2人の関係がなんとも稚拙すぎる。繊細で傷つきやすい性格である黒沢恵が菰田幸子に襲われ、危うく一命を取り留めた後、両親に庇護されることについて自分を2人の思い通りに動く人形のようにならないと決意するくだりがあるが、これも思春期の子の台詞ではないかと思ったくらい成熟味がない。また若槻が彼女を欲するあまりにその思いをぶつけるのもいつの頃の話だと思ったくらいだ。


第1作目が多重人格、大賞受賞の第2作の本書がサイコパスと貴志氏がホラーの題材として選んでいるのは常に人間そのものが持つ怖さだ。その後の諸作のテーマを見ても常に作者が人間の心に潜む悪意や宿る狂気に目を向けてその怖さに注目しているのが解る。本書はまさに受賞するための法則に則って書かれたような教科書的作品であり、怖さを感じる反面、その端正さが逆に気になった。

しかし受賞する目的のために書かれた作品は本書にて終わった。これ以降の作品は貴志氏が思う存分自分の書きたいテーマを扱い、型にはまらない面白さを追求した作品があると信じたい。それまで5つ星の評価はとっておこう。

No.1469 10点 燃える部屋- マイクル・コナリー 2020/06/08 23:23
刑事生活最後の年を迎えるのは前作から引き続いて未解決事件班で、10年前に起きた射殺未遂事件の真相を追うというもの。しかし事件は10年前に起きたが、被害者が亡くなったのはつい前日。
彼の死後、ようやく解剖によって彼の背骨に埋まっていた1発の銃弾を手掛かりに事件の再捜査が始まるという実にドラマチックな幕開けを見せるのである。
しかしコナリーは銃弾がよほど好きなようで人の運命を決定付ける絆を例えるにも使っている。そして本書もその銃弾にて10年前の事件が再度幕を開けるのだから。

ただ追う事件はそれだけでなく、もう1つある。それは1993年に起きたボニー・ブレイ放火事件だ。当時大半の子供を含めた9名の死者を出した放火事件で、なんと被害者の1人がボッシュの新相棒ルシア・ソトだったのだ。彼女はこの事件で亡くなった保母と5名の仲間たちのためにこの未解決事件を解決するために刑事になったとも述べる。

本書のタイトル『燃える部屋』、原題“The Burning Room”はルシアがこのボニー・ブレイ放火事件で生き長ら得ることができた地下の無許可託児所のことを示す。

そしてもう1つの意味は事件の核心に近づいた時、それが思わぬ権力者や社会的重要人物に突き当たった時には慎重に物事を当たらなければならないことを云い表す際にボッシュが火事で燃えている部屋はドアを決して開けてはならないと表現したことによる。

本書では刑事事件の捜査に各種の検索エンジンが活用されていること、容疑者との尋問はスマートフォンの録音アプリが使われており、グーグルマップで行き先を検索したり、はたまたウェブ新聞の勢いに押され、閑散としたLAタイムズの事務所の様子が描かれていたりとIT化による利害がやたらと目に付くようになっている。
そしてウェブ上では自分の意見を自由に発言できるようになったことで注目が増し、多くのシンパを得てムーヴメントが巻き起こしやすくなる一方で、リテラシーを理解しない人間がその発言で世界中から袋叩き状態になる、いわゆる炎上することも多くなってきている。
つまり本書の『燃える部屋』とは我々ウェブを活用する人々が持っているブログやSNSのアカウントのことを示しているのではないかとまで考えるのは少し穿ち過ぎだろうか。

しかし何といっても本書の一番の読みどころはボッシュと相棒の新任刑事ルシア・ソトの師弟関係だ。
ボッシュは自分を彼女に投影し、そして彼女を自分と同じような刑事、いやもしくは自分を超える刑事に育てようとしているのが文面からひしひしと伝わってくる。そしてそれを理解し、ボッシュの期待に応えようとするルシアの姿もまた健気に映り、なんともこの2人のやり取りが今までにない爽快感をもたらす。なかなか相棒に恵まれなかったボッシュが退職間際でようやく自分と同じ価値観を持つ相手を得たことが読んでいるこちらも嬉しく思わされてしまう。

メルセド襲撃事件。ボニー・ブレイ放火事件。この2つの事件は結局結び付きがないまま終わるがどちらもボッシュ×ルシアのコンビで真相に行き着くがその結末はいつものように苦いものだった。
どちらも完全に割り切れない。特にその後の続きを読むに至っては。

この2つの結末は前途ある有望な刑事ルシア・ソトに事件解決の現実を教えるための物だったように思う。

悪は暴かれ、裁かれなければならない。
しかし物事はそんな単純に割り切れる物ではなかったことを彼女は悟らされる。胸の中に燃えていた思いの行き先は一気に燃え立ち、そして消失する者だと思っていたが、燻ぶり続け、心に熾り続けていくことを彼女は経験した。たとえそれが事件を解決したことになっても。

我々読者がミステリや物語に求める物は何か。それはその時その人によって違うだろうが、明らかに大きな1つの共通項としてあるのは物事が解決し、爽快感をもたらされることだろう。

事件が起き、そこに謎があり、もしくは主人公がのっぴきならない境遇に陥って先行きが読めない状態にあり、それが主人公たちの行動によって見えなかった部分が明らかになり、収まるところに収まって物語が閉じられる。
それは我々の日常生活において起こること、世間で起こる現実の事件が物語で語られるようにすっきりとした形で終わらないからだ。

小説とは、物語とは率直に云えばその中身にどんなにリアルが伴っても、作り事、虚構に過ぎない。
しかしだからこそそこに割り切れる結末を求め、読者は日常生活で抱える鬱屈を解消するのだ。

しかしコナリー作品は決して100%の結末を我々に提供しない。なにがしかのしこりを常に残して物語は終わる。
それはある意味リアルであり、もしくはある意味イーヴンであれば申し分ないと云う妥協、いや物事への折り合いをつける着地点を示しているかのようだ。
それが逆に読後感に余韻を残し、しばらく読者の胸に留まるのだ。言葉を変えれば読者の胸の中に物語が、登場人物たちが生き続けるのだ。

物語の最後、停職処分を食らったボッシュが未解決事件班皆の拍手を背中に受けて署を後にするシーンが胸を打つ。これがあったからこそ本書は我々読者に爽快感をもたらしてくれた。
それはボッシュが必ず帰ってくることを信じた同僚たちのエールか、もしくは長年の功績を讃えた餞の喝采か。どちらかは解らないし、どちらも正しいのかもしれない。

ただボッシュがこの後も登場するのは我々は判っている。どのような形で我々の前に姿を現すのかは不明だが、再会するボッシュは、頭の先から爪先まで変わらぬボッシュであることだろう。

No.1468 7点 動く人工島- ジュール・ヴェルヌ 2020/06/07 23:35
ヴェルヌの冒険譚の内、諸国を回る作品は処女作の『気球に乗って五週間』から『海底二万里』、『八十日間世界一周』、『グラント船長の子供たち』に『征服者ロビュール』など数多くある。
それらの移動手段は船に気球に潜水艦、気球船、はたまた象などその他様々な乗り物が駆使されていたが、本書のそれはまさに破格。タイトルにあるように今回諸国を回るのは島そのもの。27平方キロメートルの面積を持ち、その中にはミリアード市という独立した都市を備えた、電気を動力に推進する巨大なスタンダード島だ。

アメリカの会社<スタンダード島株式会社>によって建造されたこの島は<太平洋の宝石>の異名を持ち、島の面積の3/4は農耕地で牧場、菜園、果樹園までもがある。

そして唯一の市ミリアードは5平方キロメートルの面積を持ち、完全にアメリカからも独立した自由都市で商工会議所、株式取引所はなく、関税によって市の予算を賄う。しかし人口は1万人しかおらず、なぜなら市内に不動産を持つことはどんな大金持ちでも許されておらず、全て賃貸。しかも中流層以上の物でないと住めないほど家賃が高い―最低でも家賃は100万フラン!―。但し電力、暖房、圧縮空気、水道などは無償支給。最先端の設備を備えており、ホテルは温水・冷水が給水される蛇口に風呂湯沸かし器、扇風機に自動ブラシ、そして香水噴霧器まであるのがフランス人らしい発想だ。

この島の最たる特徴は冬の季節に寒さから免れるよう南洋の島々へ避寒できることだ。従って島の住民は冬を知らずに1年を過ごすことができるのだ。

現代ならばマンガで扱われるようなアイデアをヴェルヌは晩年の作品で小説として著していたのだ。

今までにないスケールの移動機器スタンダード島。それはどんな嵐にも動ぜず、他の船に接触しようが傷ひとつ追わない堅牢無比の島。
この夢のような乗り物でさえしかし人間の傲慢さで脆くも崩れ去る。物語の最後にヴェルヌが投げ掛けるのはこんな神の摂理に反するような物は作るべきではないと批判的な意見だ。

ある意味それはこれら科学技術の発展が後の第1次、第2次大戦へと繋がっていったことを予見しているようで改めてヴェルヌの先見性に驚きを覚えるのである。

No.1467 7点 ダーク・ハーフ- スティーヴン・キング 2020/06/06 00:54
文庫裏の粗筋を読んだ時、キングはなんということを考えつくのだろうと、その奇抜さと着想の斬新さに驚いてしまった。まさか作家の別のペンネームが独り歩きして現実世界に現れ、作家周辺に脅威を及ぼすとは。しかもその<邪悪な分身(ダーク・ハーフ)>はおおもとの作者と同じ指紋、声紋を持つ、全くの生き写しのような存在なのだ。
キング版『ジキル博士とハイド氏』とも云える1人の人物から生まれた2つの人格の物語はしかし本家における二重人格とは異なる、全く新しい趣向で語られる。

まず本書の着想の基となったのがキング自身の経験によるものだ。キングはその迸る制作意欲を止められず、当時出版業界にまかり通っていた1作家は1年に1冊だけ出版するという風潮からリチャード・バックマンという他のペンネームを使って作品を2作以上発表することにしたのだが、やがてバックマン=キングという説が流れ出し、公表するに至ったという経緯がある。

本書はある意味メタフィクションと云っていいだろう。なぜならサド・ボーモントを通じてキングがバックマンとして作品を書いていた時の心理が描かれているように捉えることのできる描写が見られるからだ。

最初は単に金を稼ぐために生み出したもう1つのペンネーム。しかしその正体を秘密にすることで作者はばれないよう、文体を変え、そして書くテーマも変える。しかしそううすることで次第に自分の中で別の人格が生まれてきた、つまりキングの中でバックマンは単に名前だけの存在ではなくなったことが暗に仄めかされるのだ。
そこから出たアイデアがもう1つのペンネームが別人格となって実在し、本家の作家の脅威となるというものだ。本書はこのワンアイデアのみだと思われがちだが、色んなテーマを内包している。

ところでこの頃のキングは物語の主人公を作家にしたものが目立つ。『ミザリー』は狂的なファンによって監禁されたポール・シェリダン、次の『トミーノッカーズ』でもウェスタン小説家のボビ・アンダーソンを、そして本書ではサド・ボーモントと連続している。

この一連の作品群において作中作を盛り込んでいるのは迸る創作への意欲とアイデアがありつつも一作品として仕上げるにはアイデアが煮詰まっていないもどかしさ、つまりスランプに陥ったキング自身の足掻きが行間から見えるようだ。そして“書く”ことへの業を作家は背負っているのだと仄めかしているようにも思える。

ジョージ・スタークが具現化して現れた理由とは、まず自分を架空の葬式で葬り去った者たちへの復讐とサド・ボーモントにジョージ・スターク名義の新作を書かせることだ。そしてその期限が延びるにつれてスタークの肉体はどんどん朽ち果てていく。腐った死体さながら皮膚は剥がれ、肉はジュクジュクになり、膿が全身から流れ、腐臭を発するようになる。作中のスターク自身の言葉で云えば凝集力が無くなっていく。それはつまり作家は書いて作品を発表することでその存在意義を示せるのだというメタファーのように取れる。書かない作家はただの人であり、そしてほとんどの作家は存命中にその功績を認められ、ベストセラーになったとしても、死後ずっとその作品が残り続けるのは非常に稀だ。だからスタークは死を恐れた。

作品が書かれぬことで彼はどんどん死体に近づいていく。それはまさに歴史に埋もれていった没後作家たちが人々の記憶から風化していくかの
ように。

それを示唆するように物語の最終局面においてサドとスタークは対峙し、スタークの新作『鋼鉄のマシーン』を交替で書いていく。その際にサドがスタークに言葉を掛ける。
書くための唯一の方法は書くことだと。

そして文章が書かれ、物語となり、それが続くことで次第にスタークは腐った肉体が再生していく。それは作家の存在意義は書くことにあるのだと云う隠喩だ。
そしてサドがスタークと共にこの新作を書くことを選んだのは葬り去ったはずのスターク作品の新作のアイデアが浮かび、どうしても書きたい衝動に駆られたからだ。まさにこれこそ小説家の業だ。それは多分キング自身がバックマンを葬ったことへの後悔を表しているのかもしれない。

人は誰しも二面性を持っている。陽の部分の陰の部分だ。「ダーク・ハーフ」とは即ち誰しもが備える陰の部分、暗黒面であり、それは別段異常なことではない。
普通我々一般人は犯罪や戦争などとは無縁の生活を送り、朝起きて仕事に行き、夜帰って家族と束の間の時間を過ごし、休日は家族サービスや趣味に興じる。
しかしその一方このキング作品のようなホラー、本格ミステリ、その他犯罪小説、サスペンスといった殺人やまたそれを行う殺人犯の物語を好んで読む人もいる。それはある意味それら普通の人々に中に潜む悪を好む部分、≪邪悪な分身(ダーク・ハーフ)≫なのかもしれない。

つまり全てが清らかで普通であることは実に退屈であり、人は常に何かの刺激を求める。しかし犯罪に手を染めることができないからこそ、人はその代償を物語に求める。己のダーク・ハーフを充足させるために。
現在我々はネット空間という新たな場所を手に入れ、そこでは日中、学校や職場では見せない別の自分の側面をさらけ出す。そしてネット空間は匿名性ゆえに自分の内面をより率直に露出することができるのだ。そんな匿名の世界にはしばしばネット社会でのマナーを逸脱して素の自分をさらけ出し、ダークな一面を見せる人たちもいる。


物語の最終、ジョージ・スタークがサイコポンプであるスズメの大群によって葬り去られた後、1羽のスズメがサド・ボーモントに蜂の一刺しを加える。それは善人は善人らしく振る舞い、決してダークサイドを表に出さぬようにしろ、さもなくば次はお前の番だという警告なのだ。

全ての人が常に善人であるわけではない。しかしその暗黒面は他者に迷惑を掛けず、我々作家が紡ぎ出すミステリで満たしなさい。そんなことを作者が告げているような気がした。

朝起きた時、スズメがいつもより多いと感じたら、自分のダークサイドが多めに出てないか、気に留めるようにしよう。

No.1466 2点 奥様はネットワーカ- 森博嗣 2020/06/04 23:37
軽めの題名に軽めの登場人物とポップなイラストがふんだんに盛り込まれた作品だが、描かれている物語はなかなか凄惨で重苦しい。
某国立大学を舞台に起きる連続殺人事件。その大学の化学工学科の面々を中心に物語は進む。

各章はほとんど各登場人物を中心に書かれ、そこに書いてある心情が実に暗鬱で内省的。この頃は『四季』4部作を発表した時期と重なり、同4部作で見られた観念的な記述が本書でも踏襲されている。詩的で抽象的で観念的で、独善的。自分の世界に入り込み、ますます排他的になっている印象を持つ。

インターネットの普及によりいわゆるネット人格が叫ばれてきたことだ。二重人格、三重人格という人たちはかつて精神異常者の中でも最上級の物として恐れられてきたが、インターネットが普及することでほとんどの人が匿名性のあるハンドルネームを持つことになり、それによってネット社会という非日常を手に入れることで内面から湧き出る新たな人格が生まれた。
つまり本書はこの新たなツールによって誰しもがネット人格という別人格を持つことができ、それがサイコパスに発展する危うさを描いていた作品と捉えることも可能だろう。

また題名となっているネットワーカの奥様は、ウェブで偽りの日記を付けていたスージィではなくルナだったという軽い叙述トリックになっているが上記を踏まえるとスージィもまたその自身の思い込みによって仮想の奥様であり、あながちミスディレクションでは無いとも深読みできるのである。

当時森氏の人気は絶大でまさに引く手数多の状態。そんな状況で流石に筆の早い森氏でもやっつけ仕事の1つや2つはあったことだろう。本書はそんな感じを受ける作品だ。

No.1465 8点 閉ざされた夏- 若竹七海 2020/06/03 23:33
いやあ、地味な作品ながら実に読ませる。そして面白い。


物語は架空の都市新国市。そこで生れ育ち、そして夭折した架空の作家高岩青十の功績を遺すために建てられた高岩青十記念館が舞台。そこに勤める嘱託の学芸員、佐島才蔵とその妹のミステリ作家でもある楓を通じてそこで起こる殺人事件の謎を解き明かすといった内容だ。

こう書くと実にオーソドックスなのだが、実は殺人事件は物語の中でも約半分くらいのウェートしか占めない。残りの50%は才蔵たち学芸員たちの日常と、架空の作家高岩青十と、彼を取り巻く人々の隠された過去の謎だ。そしてこの残りの50%が実に面白い。


どこか浮世めいた世界で、正直私なんかはこのような施設に勤務する人たちの一日はどんな風に過ぎていくのだろうと思っていただけに本書に書かれている内容は新鮮だった。
とはいえ、正直云って彼らの平素の業務は日常の管理と印刷物の発注ぐらいで本書のメインとなっている特別展の企画の準備の様子が知的好奇心をそそるのだ。

とはいえ、正直云って彼らの平素の業務は日常の管理と印刷物の発注ぐらいで本書のメインとなっている特別展の企画の準備の様子が知的好奇心をそそるのだ。
特別展のパンフレットの校正の様子はもとより、特に青十が趣味で集めていた絵葉書の内容から日記に記載されているものを探し出す作業が面白い。
特に当時の切手を頼りに昭和12年に葉書の郵送費が値上がりした史実に基づいて時系列に並べて関連性を繋げたり、また日記の記述から当時の貨幣価値を探るといった歴史探偵的興趣に溢れている。そこで参考にされていた『値段の風俗史』という本は個人的にも興味を覚えた。いつかは手元に置きたい書物だ。
また著作権が切れると出版社は遺族に金を支払う義務が発生しなくなるので一気に復刊やリメイクが進むことになることも昨今の昭和の名作の復刊ブームや映像化の現状を見ているようで興味深い。なお本書では著者の没後50年が期限と書かれているが、令和元年現在では没後70年まで延長されている。
また当時の記述から流行や風物を問答で探るなども実に面白い。私がやりたい仕事とはまさにこのようなものだ。

登場人物らが実に人間的であるがために後半の殺人事件が起きてからのギャップが激しい。
才蔵をして春の陽だまりのようなのんびりとした穏やかな職場だと云わせた記念館が一転人間不信の塊の伏魔殿のように変わっていくのは物語に、登場人物たちに没頭していただけに何とも切ない思いがした。

またデビュー作『ぼくのミステリな日常』が会社の社内報という印刷物という位置付けであったことで各編にその月の内容を記載した目次が挿入されていたのが特徴的だったように、本書でも若竹氏は色んな資料を物語に取り入れている。
まさに印刷され、そこに字が書かれて読まれるものであれば全てミステリに取り込む、それが架空の物であってもという若竹氏の刊行物や小説を含む書物への思いの深さを思い知る一端だ。

この物語の舞台を記念館としたのはなんとも皮肉だ。
記念館とは故人を偲び、その功績を、足跡を遺したいという想いから成り立っている。大抵の人は生きていた痕跡はその周囲の人の記憶に留まり、そしてそれらの人が亡くなることでやがて消えていく。
しかし記念館は形として、記録として残すことでその館が存在する限り、故人の記録や記憶は無くならない。
本書は思慕や想い出を遺したい、後世へと引き継ぎたいという一途な思いと過去を葬り去りたいと望んだ人たちが招いた悲劇。
生きていた証を残したいというのは誰もが抱く願望だ。しかし皮肉なことにそれらの人の思いとは裏腹に残したい物は全て消え去る。
そして案外故人の生前の痕跡を残す記念館は当の故人にとって葬り去りたい過去まで晒される、実に迷惑な代物なのかもしれない。

No.1464 7点 カルパチアの城- ジュール・ヴェルヌ 2019/08/12 23:21
冒険SF作家のヴェルヌの異色作と謳われている本書。内容は吸血鬼伝説で有名なルーマニアのトランシルヴァニアを舞台にした悲恋の物語。

しかしたった230ページ強の作品は実にストレートな内容ながらそこにヴェルヌらしさを織り込ませているのはさすが。
即ち村人たちの代表が城を探索しに行こうと意気揚々とした雰囲気を水差すように突然旅籠に悪魔の物としか思えない脅迫の声が響き渡ったり、城の濠で突然足が動かなくなったり、跳開橋を降ろそうと鎖を触った途端に気を失って崖から落ちたり、夜中にかつて愛した歌姫の歌声が聞こえたり、はたまた亡くなったはずの歌姫その人が現れたりと到底あり得ない事象が起こるのだが、これらは全て科学的に解明がなされる。
つまり本書は今まで幻想だと思われていた、怪異だと思われていた事象が科学によって解明されること、もしくは科学によって魔法は生まれるのだというのを証明した作品と云えるだろう。

おどろおどろしい物語設定の中に近代的技術が混ざり合うことで物語の最初と最後では全く味わいが異なっている。それを可能にしたのはやはりトランシルヴァニアの山岳地帯とその中でも最も原始的な地帯と云われている人口数百人のヴェルスト村を物語の舞台にしたこと、そして曰く付きのカルパチア城の城主を謎めいたゴルツ男爵にしたことだろう。

物語はシンプルだが、そこに放り込まれた装飾の数々は従来のヴェルヌ作品同様実に濃密だ。物語の舞台となっているヴェルスト村及びその周辺の地形や成り立ち、さらに架空の城カルパチアの成り立ちと城主ゴルツ男爵一家及びそれに対抗するテレク伯爵の歴史などがふんだんに語られ、恰も1つの伝記を読まされているかのような真実味に溢れている。

(以下ネタバレ)

ヴェルヌにしては珍しく1人の女性への一途な愛をモチーフにしているが、その女性、歌姫は幻に過ぎなかった、しかも当時最先端の技術で作り上げた幻想だったという真相は、今ボカロとして絶大な人気を誇っている初音ミクを扱った先駆的なテーマだと考えるのは行き過ぎだろうか。
いや私はこの作品が書かれた19世紀と21世紀の今ではほとんど男たちの考えることは変わらず、科学の進歩につれてそれがどんどんリアルになり、現実との境が曖昧になってくるだけに過ぎないのではないかと思わざるを得ない。
テレク伯爵とゴルツ男爵は初音ミクに没頭するファンたちと何ら変わらないのだ。

ただ一ついいことは初音ミクは共有できることで彼らと違い、歌姫を我が物にしようと争う必要がなくなったことだ。それこそが科学の進歩の大いなる成果と云えるだろう。

No.1463 8点 罪責の神々- マイクル・コナリー 2019/08/12 00:41
今回ハラーが扱う事件はアンドレ・ラコースというデジタルポン引きの殺人容疑の弁護で、奇妙なことに彼は殺害された娼婦当人からハラーが優秀な弁護士だと勧められたという。そしてその娼婦の名はジゼル・デリンジャー。
ハラーは全く心当たりがなかったが調べていくうちにかつての依頼人グローリー・デイズことグロリア・デイトンであることが判明する。

コナリーの作品の特徴の大きな1つとして過去の作品の因果が新たな事件に大きな要因として作用してくることが挙げられるが、今回もまたその例に漏れない。
上に書いたようにグロリアの初登場シーンは麻薬所持で起訴をされそうになったところをハラーに助けを求めるシーンだ。つまりグロリアは既に麻薬取締局の手先になっていたことが仄めかされている。この何気ないエピソードの1つでこのような壮大な物語を描くコナリーの着想にまたもや唸らされた。

そればかりでなく、今回は原点回帰であるかのように第1作の登場人物がやたらと出てくる。

一方でこれまでのシリーズで新たに加わったメンバーも更にキャラクターが濃くなり、シリーズとしての醍醐味も増してきた。

そして今回初登場のデイヴィッド・“リーガル”・シーゲルを忘れてはならない。
彼はハラーの父親の弁護士事務所の共同経営者で弁護の戦略を立てていた人物であり、またハラーの弁護士としての師匠でもあった。50年近いキャリアを持つ彼はまさに生きる伝説の弁護士であり、あらゆる手法に精通した人物だ。『スター・ウォーズ』で云うところのヨーダ的存在だ。
老人ホームでチューブを鼻に繋がれ酸素を供給されている状態なので正直彼が今後のシリーズに登場するかは解らないが、ぜひとも次作にも出てほしいキャラクターだ。

コナリーの作品には以前も書いたが3つの大きな要素がある。
1つは警察やその他捜査機関の連中が決して清廉潔白な人物ではなく、彼らもまた犯罪者になりうると謳っていること。
もう1つは娼婦が関わる事件が多い事。
そして最後の1つは過去の作品の因果が大きく作用していることだ。

やはり特徴的なのは1つ目と2つ目だ。
1つ目はこの要素を作品に持ち込んだことでコナリーはいつも我々に驚きと何とも云えない荒廃感漂う読後感を与え続けていることだ。
パターンと云えばパターンだが、これがまた不思議と盲点となり、そして常に苦い気持ちを抱かせてくれる。

もう1つの娼婦についてはボッシュが娼婦の息子であると云う設定から事あるごとに物語に登場する職業だと云っていいだろう。この頻度の高さは正直異常である。
前にも書いたかもしれないが、娼婦という職業を選ばざるを得なかった生活に貧窮した女性たちを描くことと、そんな社会の底辺でも逞しく強かに生きていく彼女たちを描くことでアメリカ社会の現実を知らしめようとしているようにも取れる。

しかし裁判も恐ろしいものだ。
本来悪を罰するために行われる裁きが、弁護士、検事の口八丁手八丁で歪められていく様、また証拠不十分であれば罰せられない現実から、証拠を捏造して狙った獲物を刑務所に送り込もうとする捜査官も存在する。

またそれを隠匿するために麻薬を無実の人の家に忍ばせ、不当逮捕を企む。更には裁判で敗色が濃厚になると他の服役囚に襲わせ、無効化させようとする。

罪を裁くために行われる裁判が高等なロジックの上に成り立ち、また公平さを重んじるあまり、法律や規則にがんじがらめになって罰せられるべき者が罰せられず、無実の人が罪を着せられ、刑務所に送られるようになる。手段が目的となっており、悪を征するために正義が悪を成すと云う本末転倒な社会に、システムになり、そしてそんな危険な思想が横行している。それが現代社会なのだ。

世の中全てが正しく解決されることは限らない。寧ろ現実世界はうやむやになって人々の記憶から忘れ去られる事件ばかりだ。そんな世の中だからこそ我々は答えが出るミステリを読むわけだが、コナリーは実に現実のシビアさを突きつける。
まあ、今日はこれくらいで良しとしようといった具合にはカタルシスを与えるかのように。

さてリンカーン弁護士という非常に特徴的なキャラクター設定で登場したミッキー・ハラーを通じてコナリーは時に弁護士側、検事側、刑事裁判に民事裁判と多面的にアメリカの法曹界を描いてきたが、ここに来てようやくシリーズの本流を刑事裁判に絞ることに決めたようだ。
本書の結びにはかつてのように刑事裁判を続けることへのハラーの疑問や悪を裁く側の検事長への立候補するなどと云った意外な展開、悪く云えばハラーの心情のブレがない。それはやはり本書で初めて無実の人間を救ったことが大きな要因だろう。
そして悪人を釈放することで遠ざかっていた娘の愛情も今回の事件で取り戻し、ハラーは自分の進むべき道を見定めた感がある。最後の決意表明はボッシュ同様に弁護士としての使命感に溢れ、まさに決意表明と云った感がある。

次作はまたボッシュと組んで事件に取り組むようだ。色んな犠牲の上に今の自分があると悟ったハラーの次の活躍が非常に愉しみだ。

No.1462 3点 トミーノッカーズ- スティーヴン・キング 2019/08/11 00:30
数々のホラー作品、近未来小説、ダークファンタジーを書いてきたキングが今回手を伸ばしたのはSF。なんと地下に埋まっていた空飛ぶ円盤が掘り起こされたことで町が侵略されていく話だ。

しかし題名のトミーノッカーズはそんなSF敵設定とは程遠い内容だ。
キングの前書きによればその名の“トミー”がイギリスの昔の兵士の糧食を指す俗語であることからイギリスの兵卒を指す言葉となっており、トミーノッカーズはそこから食料と救助を求めて壁を叩き続けながら餓死した坑夫の亡霊を指すようだ。その他トンネル掘りの人喰い鬼といった意味もあるようで、いわゆる幽霊とか化け物に類いする怪物を指す言葉であり、空飛ぶ円盤とは全く真逆の物だ。

一方でキングが本書で語るのは宇宙から来た存在が徐々にアメリカの田舎町の住民たちの頭の中に侵入し、意のままに操っていく侵略の恐ろしさだ。

この得体のしれない未知の存在を人々は古来から伝わる亡霊トミーノッ
カーズと名付けた。

SFと亡霊譚という全く真逆なものを結び付けたことがキングのアイデアだろう。

またトミーノッカーズが町の人たちに憑依するとそれぞれの思考が読み取れるようになる。つまりテレパシーで会話が出来るようになる。更にはなぜか次々と歯が抜けていく。彼らはそれを“進化”の過程だと告げる。
人々は抜けた歯を見せるように笑顔を見せる。歯の抜けた人が笑うとき、我々はどこかその人が白痴のように見えてしまう。そしてそれはどこか狂人めいた感じも受ける。この何気ない設定が街の人々が徐々に侵略され、狂人へと変わっていく様子を如実に描いているように思われる。こういう何気ない設定を持ち込むのがキングは抜群に上手い。

やがてヘイヴンの町の人々はお互いの考えが読み取れるようになり、“進化”を阻もうとする町民たちを排除しようとする。
それはさながらウイルスの蔓延のように急激に広がっていく。いやある意味、カルト宗教の信者のように実に排他的になり、トミーノッカーズを受け入れない者たちを粛正するのも厭わなくなる。

都会よりも田舎の町の方が恐ろしいと云う。
それは1人の権力者によって牛耳られ、そこに独自の法が成り立ち、町民たちはそれに従わざるを得なくなる。その権力者が町民たちを恐怖で縛る場合と、絶大な信頼を得て確固たる支持を得て権力の座を維持する場合の二通りがあるが、厄介なのは後者の方だ。
なぜならその場合は町民からの反発がない。つまり反抗勢力が生まれず、その権力者が外部にとって敵であったも町民たちにとっては外部からの圧力を退ける英雄としか映らない。
トミーノッカーズの侵略はまさに後者に当て嵌るだろう。彼らはボビ・アンダーソンという1人のリーダーの許に来たるべき“進化”を成し遂げるために他を排除しようとする。この異変に気付いた者は懐柔されようとするか、異分子として排除されるかいずれかだ。前半の治安官ルース・マッコースランドの抵抗はこの田舎の町の集団意識の恐ろしさをむざむざと知らしめている。

私は本書における宇宙船の登場により、人々が“進化”と呼ぶ変化が訪れる諸々の事象はどこか既視感を覚えた。
即ち歯が突然ポロポロと抜け出すこと、目から出てくる血の涙、耳から血が出る、主人公の1人でヘイヴンの異変に取り込まれず、頭の中を読まれることなく、抵抗できる外から来た人物ジム・ガードナーがしかし嘔吐物の中に血が混じっていること、髪の毛が抜けだすなどの描写から連想されるのはボビ・アンダーソンが掘り出した宇宙船とは即ち放射能漏れを起こす原子力発電所のメタファーである。
つまり原子力発電所こそは人間が手を出してはいけないパンドラの箱なのだという作者のメッセージが読み取れる。

上に書いた異常現象はそのまま被爆者の症状に繋がる。そして目に見えないが確実に人々に蔓延っているトミーノッカーズは放射能その物のようだ。

更にヘイヴンの町に訪れる人たちが一様に頭痛を訴え、身体の各所に異変を覚える。さながら原発事故が起きたチェルノブイリのように。

つまりキングの本書におけるテーマとは核の、原発の恐ろしさを訴えているのだ。

そしてキングは物語の終盤で明らさまに臨界、チェルノブイリという原子力に纏わる用語を使っている。やはりこの推察は正しかったのだ。

この救いの無い、メイン州の田舎町ヘイヴンの壊滅していく様を描いた本書は、まさに臨界事故によって死の町となったチェルノブイリのメタファーだ。
残されたトミーノッカーズたちが宇宙船が飛び立った後、“障壁”が取り除かれ、町へ侵入することができた軍隊によって次々と排除されていくのは、当時キングが頭で描いていた被曝者たちへの旧ソ連の対応を表しているかに思え、何とも不快だ。

本書で唯一の救いはエピソードの最後で兄のマジックによってアルテア4という異世界に連れ去れたデイヴィッド・ブラウンがガードナーの努力により、無事帰還するところだ。そしてそんな仕打ちをした兄に対して弟は何も覚えてなく、以前のように兄を慕い、添い寝する。
これがなかったら、本書はただ虚しいだけに終わっただろう。

しかしこの上下巻併せて1,240ページにも及ぶ大著である本書は、それまでの大作と異なり、やはりかなり困難を感じた読書になった。
先に書いたようにキングが本書でやりたかったこと、訴えたかったメッセージは判るものの、それがスムーズに物語に結実していなく、また鬱病患者特有の長々とした説教めいた、狂人の主張が折々に挟まれていることでバランスを欠き、物語としてなんともギクシャクとした印象を受けるのだ。

恐らくは、私も記憶しているがチェルノブイリ原発事故は未曽有の危機だった。原子力という未知のエネルギーが及ぼす影響を、恐ろしさを初めて知った事故だった。そしてまだ事故の収束が見えなく、被害が拡大し、我々の生活にどのような影響があるのかも見えない刊行当時、作者自身も今まで経験したことのない不安と恐怖を覚えたことだろう。その動揺が本書には垣間見れる。だからこそ纏まりに書けるのかもしれない。

キングはとにかく書かなければならなかったのだろう。
この未知なる恐怖を克服するためにも。とにかく書くこと、いや作中にガードナーがボビに云うように彼は何かによって書かされたのかもしれない。天から降ってきたアイデアによって。そんな衝動と動揺の産物が本書なのかもしれない。

今は2019年。
チェルノブイリ原発事故や東海村の臨界事故、1999年のノストラダムスの大予言、それらを経験しながらも我々は今、世紀末を乗り越え、ここにいる。

しかし1987年に刊行された本書は世界の終わりを感じたキングの絶望と恐怖が如実に表れた作品となった。

あの事故が起きた時、人々はどう思ったのか。

そんな歴史の足跡の、証言として本書を捉えるとまた違って見えるが、しかしキングの名を冠するのであれば、やはり改稿して再刊すべきではとの思いが拭えない、そんな思いを抱いた作品であった。

No.1461 7点 四季- 森博嗣 2019/08/07 23:40
真賀田四季という不世出の天才が登場したのは本書刊行までではS&Mシリーズの『すべてがFになる』と『有限と微小のパン』のみ。後はVシリーズの『赤緑黒白』にカメオ出演した程度だが、それは四季としてではなかった。
正直たったこれだけの作品の出演では真賀田四季の天才性については断片的にしか描かれず、私の中ではさも天才であるかのように描かれているという認識でしかなかった。

しかしこの4部作で森氏が彼女の本当の天才性を描くことをテーマにしたことで彼女が真の天才であることが徐々に解ってきた。

そうはいっても3歳で辞書を読み、数カ月で英語とドイツ語を完全にマスタし、5歳で大学の学術書を読み耽り、6歳で物を作り出すといったエピソードで彼女が天才であると思ったわけではない。
そんなものは言葉であるからどうとでも書けるのだ。例えば仏陀なんかは生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を差し、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と叫んだと云われているから、こちらの方がよほど天才だ。つまりこれもまた仏陀が天才であったと誇張するエピソードに過ぎなく、これもまた想像力を働かせばどうとでも強調できるのだ。

では真賀田四季が天才であると感じるのはやはり彼女の思考のミステリアスな部分とそれから想起させられる頭の回転の速さを見事に森氏が描いているからだ。
常に感情を乱さず、もう1人の人格を他者に会話させながら、書物を読み、そして相手もしたりするところやそれらの台詞が示す洞察力の深さなどが彼女を天才であると認識させる。最も驚いたのは最後の方で実の兄真賀田其志雄が自殺しているのを見て、兄の代わりになる才能を明日中にリストアップしましょうと各務亜樹良に提案する冷静さだ。事態を把握した時には既にその数時間先、いや数日も数週間も、数年先も思考は及んでいるのだ。こういったことを書ける森氏の発想が凄いのである。

天才を書けるのは天才を真に知る者とすれば、森氏の周りにそのような天才がいるのか、もしくは森氏自身が天才なのか。
これまでの森作品と今に至ってなお新作で森ファンを驚喜させるの壮大な構想力を考えるとやはり後者であると思わざるにはいられない。

春は出逢いと別れの季節である。真賀田四季は2人の其志雄と別れ、そして瀬在丸紅子と西之園萌絵と出逢った。いやそれ以外の人物ともまた。

続く夏は情熱の恋の季節と云う。
例えば先に書いた各務亜樹良は本書で退場するが、その理由は南米へ飛んだ保呂草潤平の後を追うためだ。彼女はもう自分に正直であろうと決意し、保呂草の許へと飛ぶのだ。この謎めいた女が実は心の奥底に斯くも情熱的な想いを抱いていたことを知るだけでも読む価値はある。

そして類稀なる天才少女真賀田四季もまた例外なく思春期を迎え、そして恋に落ちる。それは冷静でありながらもどこか破滅的、そして天才らしく冷ややかに情熱的な恋だった。

幼き頃からその天才性ゆえに全てにおいて誰よりも早い彼女は恋に落ちた途端にすぐに愛を交わし、そして妊娠を経験する。彼女の相手は叔父の新藤清二。彼女は大学教授の両親の遺伝子を持っていながら医師である叔父の遺伝子を持っていないことで、その全てを備えた子供を作るために彼と寝たのだ。しかしそれはそんな打算だけではない。彼女は新藤に恋をし、彼を欲しいと思ったのだ。

また四季が子供を欲しいと思ったきっかけが瀬在丸紅子であった。
彼女が認めた天才の一人、瀬在丸紅子は子供を産んだことで全ての精神をリセットしたと四季は理解した。彼女は今まで出逢った人の中で瀬在丸紅子こそが自分によく似ていると感じていた。しかし彼女は紅子のように自分はリセット出来ないだろうと考えてはいたが、何かを忘れるという行為に憧れていた。そして紅子と同じように好きな人の子供を作れば何かが変わると思ったのだ。

四季が新藤と愛を交わしている時、エクスタシーに達する瞬間、彼女の中の全ての意識が、思考が全て停止するのを体験した。

しかし彼女はやはり情よりも理で生きる女性だった。妊娠をする、子供を産むという行為は本来であれば祝福されるべきなのにそれにショックを受ける両親が理解できない。ひたすら憤り、そして堕胎を促す両親に対して、四季は自らの手で彼らに引導を渡す。第1作『すべてがFになる』で語られていた少女時代の殺人が夏に描かれる。

春では兄が伯母を殺害し、夏では四季自身がとうとう両親に手を下す。そして彼女は近親者の子供を宿す。考えるだにおぞましい人生だ。
しかしその理路整然とした思考と態度ゆえに、森氏の渇いた、無駄を省いた理性的な文体も相まってその存在は血の色よりも純白に近い白、いや何ものにも染まらない透明さを思わせ、澄み切っている。

そして両親を殺害した四季は自分もまた新藤清二と共に自分の子供によって殺されることを認識する。そうすることで真賀田四季と云う存在をアップデートするかのように。
我が子という新しい生と両親の死という誕生と消滅の両方を経験した真賀田四季。
彼女は平気で死について語る。それはまさにコンピュータで使われる二進法、0と1しかない世界のように実に淡白だ。生と死の間に介在する人の情に対して彼女は全く頓着しない。必要であるか否かのみ、彼女の中で選択され、そして判断が下される。

次の秋は森作品ファンへの出血大サービスの1作。
それまでと異なり、なかなか真賀田四季本人が登場せず、寧ろ犀川創平と西之園萌絵とのやり取りと保呂草潤平と各務亜樹良の再会とそれ以降が中心に語られ、S&Mシリーズの延長戦もしくはVシリーズのスピンオフといった趣向で、主人公である真賀田四季は全283ページ中たった10ページしか登場しない。

さて秋はやはり実りの秋と呼ばれる収穫の季節だ。まさにその季節が示す通り、収穫の多い作品となった。
前作で保呂草の許に飛んだと思われた各務は逆に保呂草に捕まり、その秘めたる恋を始まらせる。
西之園萌絵の収穫はやはり犀川との婚約だろう。そして彼の母親瀬在丸紅子との会談で得られた人生訓もまた大きな収穫だ。
犀川創平は妃真賀島の事件に隠された真賀田四季の動機がようやく明かされた。
まさに収穫の1冊である。

最後の冬は遥かな未来に向けての物語か。
冬では一旦『秋』でそれまでのシリーズとの結び付きを語ったことでリセットされ、これからの物語のための序章というべき作品として位置づけられるようだ。
従って今まで本書までに刊行されてきた森作品を読んだ私でさえ、本書に描かれている内容は曖昧模糊としか理解できていない。本書が刊行されて15年経った今だからこそ上に書いたシリーズへと繋がっていくことが解るのだが、刊行当初は読者は全く何を書いているのか戸惑いを覚えたことだろう、今の私のように。

冬は眠りの季節。ほとんどの動物が冬眠に入り、春の訪れを待つ。本書もまた新たなシリーズの幕開けを待つ前の休憩といったことか。英題「Black Winter」は眠るための消灯を意味しているように私は思えた。

そして真賀田四季。『四季 春』で生を受けたこの天才はしかし以前のような無機質な天才ではなくなっている。いっぱいやらなくてはならないことがあるために人への関与・興味をほとんど持たなかった天才少女は娘を生み、外の世界に飛び出して自分で生活をしたことで感受性、母性が備わり、慈愛に満ちた表情を見せるようになっている。
頭の中の演算処理が上手く行っている時にしか笑わなかった彼女が人の死に可哀想と思い、花を見て綺麗と感じ、空を見て色が美しいと思うようになっている。

物語の最後、犀川は四季に問う。「人間がお好きですか」と。そして四季は「ええ……」と答える。綺麗な矛盾を備えているからと。論理的であることを常に好む彼女が行き着いたのは愛すべき矛盾の存在。それこそが人だったのだ。

真賀田四季はまだその生命を、いや存在を残してまだまだ色々とやることがあるようだ。但しその彼女は今までの彼女ではなく、人への興味を持ち、そして自らにその人格を取り込んで生きている。もはや時間を、空間をも超越し、終わりなき思弁を重ねる1人の類稀なる天才が神へとなるプロセスを描いたのがこのシリーズなのだ。そしてそれはまだ途上に過ぎない。

但し解るのはそこまでだ。それは仕様がない。なぜなら私のような凡人には天才の考えることは解らないのだから。

今後のシリーズで『四季』で生れた数々の疑問が解かれていくのだろう。その時またこの作品に戻り、意味を理解する。ある意味『冬』が全森作品の行き着く先なのかもしれない。

No.1460 7点 美神解体- 篠田節子 2019/07/10 23:38
登場人物はわずかに2人というまさにぜい肉をそぎ落とした作品で僅か220ページにも満たない中編とも云える作品だが、なかなか読み応えがあった。

まず主人公の名は麗子。苗字はない。幼い頃から器量が悪いために恋人はおろか、実の親からも疎まれてきた女性。
そんな誰からも相手にされず、相手にされても常に見下されていた存在だった彼女は一念発起して大整形に踏み切り、完璧な美人顔を獲得する。
しかしそれがあまりに完璧すぎたため、人間味がなく、逆に畏怖と困惑の表情で迎えられてきた。とにかく何をしても裏目に出てしまう幸運に恵まれない女性、それが麗子だ。

その麗子を初めてまともに見てその美しさを礼讃したのが平田一向。新進気鋭の若手デザイナーで世間の注目を集めている彼は医学部を中退し、工学部に入り直し、在学中にイタリアのデザインコンクールで入選したことをきっかけに工学部も中退してデザイン事務所に就職し、今は独立して仕事を直接受けている。
彼はしかし完璧な美を愛でる男性だが、彼にはそこに生命の美しさを求めない。彼にとって人間の血や涙と云ったものは汚らわしいものであるため、即物的な美を常に求めるのだ。それには幼い頃に伯父がベネチアで買ってきた『解体できるヴィーナス』と呼ばれる完璧な美女を模した医学用の人体模型に魅せられたからだ。

はっきり云って平田は大いなる矛盾を抱えた存在である。完璧な美を追求し、そんな人間を見つけて興味を覚え、その中身を見たいと熱望するが、そうすることで人体から出血し、生臭い臓物が出て、しかも食べた物が発する悪臭を最も嫌悪するのだから。
それはつまり好きな物は欲しくて、好きなことはやりたいが、汚れるのはいやという実に子供じみた我儘と大差ないと云える。
一方麗子もただ屈辱に甘んじていた女性ではない。そう麗子もまた独占欲の強い人間なのだ。彼女は自分の手に入らないと思ったら嘘を平気でつき、更に運命と思えた男を手中に入れるためにはどんな手を使ってでも自分の方に目を向けさせるために罠を企むことをする。
それは彼女が平田一向との出逢いに運命を感じ、彼を最初で最後の男性だと強く思っているからだ。従って彼と世を捨てて2人だけで暮すことや、もしくはこのまま雪の中の山荘で2人で死ぬことも厭わない女性だ。つまり彼女もまた盲目的に1人の男性を愛してしまう、ストーカー気質の危ない女性であるのだ。

ところで不気味の谷というのを御存じだろうか。
人型ロボットやCGアニメなどの技術が発展し、より人間に近い造形にしていくと人は徐々に好感を増していくが、あるところに達すると嫌悪感を覚えるようになる。その領域のことを不気味の谷と云うが、麗子の容姿はまさにその不気味の谷に位置する領域にあった。
それは彼女が単に外面的な美しさに囚われ、内面を磨かなかったからだ。いつも劣等感を抱き、時に強い嫉妬を抱いて復讐行為をする彼女は云わば心の無い人形に過ぎなかった。

しかし彼女は最後平田一向の自分への行為が愛ではなく、歪んだ欲望であることに気付き、自分が抱いていた平田への一途な愛という呪縛から解き放たれる。彼女が抱いていた平田の愛は幻想であり、この人のためなら死ねると感じた決意も実は一時期の物であったと気付き、彼女は生きることを選択する。つまりようやく彼女は嫌悪していた自分自身を愛することができ、そして外面と内面が一致する。麗子が持っていた不気味の谷はこの外面と内面との間に大きく隔たっていた溝だったのかもしれない。

人は見た目が9割だと云う。そして現実に美人の方が得するようになっている。従って人は自分の容姿をできるだけよく見せることに努力をする。恵まれた容姿を持つ人の、自分の容姿に対する思いは様々だが、容姿に恵まれない人の思いは常に一緒で、より美しく、より端正になりたいと願う。だからこそ美容産業は衰退せず、今なお隆盛であり、毎年新たな化粧テクが生まれ、今や男性用の化粧品も市場が拡大してきていると聞く。

毎年世界各所ではミスコンテストが行われ、美を競い合う。また芸能界でも次から次へその世代を代表する美しい女性たちが現れ、世を魅了する。歴史の中でも1人の美人によって滅んだ国や美人によって身持ちを崩した偉人も数多くいる。

美の追求、それは永遠に終わらない世の理だ。ただ幸いにして私は自分の人生を擲ってでも一緒にいたいと思った美人に逢ったことがない。それこそが幸せなことなのかもしれない。それほどまでに美は人を狂わせるのだから。

No.1459 10点 ブラックボックス- マイクル・コナリー 2019/07/09 23:41
コナリー25作目である本書は作家デビュー20年目という節目の作品となった。
それを意識してか、内容も20年前にボッシュが関わったロス暴動に巻き込まれた女性外国人記者殺害事件の再捜査になっている。
しかしそこはコナリー、物語はそれだけに留まらない。20年目の25作目と作品数も数を重ねているにも関わらず、その精緻なプロットには全く以て舌を巻いてしまった。
いつもながら物語の発端はシンプルながら、事件の捜査が進むうちに判明してくるプロットは複雑で実に混み入っているが、謎が謎を呼ぶ展開は全く以て飽きさせない。

注目したいのが事件の動機が湾岸戦争へと繋がっていくことだ。
ボッシュシリーズの幕開けはヴェトナム戦争時代の戦友の一人ウィリアム・メドーズ殺害事件だった。つまりそれはハリー・ボッシュという男がヴェトナム戦争のトンネル兵をしていた帰還兵であることを強く意識した幕開けであり、その後もこの元ヴェトナム従軍兵という過去はボッシュの中のトラウマでありつつ、闇を見つめ続ける宿命として描かれる。
そしてこの20年目の作品で再び扱われるのは戦争に纏わる忌まわしい過去。
しかし既に21世紀になった今、戦争はもはやヴェトナム戦争ではなく湾岸戦争なのだ。この20世紀末に起きた湾岸戦争に従軍したある一隊、カリフォルニア州兵部隊が起こしたスキャンダルが事件の正体なのだ。それはやはり20年目の25作目という節目を意識した原点回帰的作品ことの証左でもある。

さて私が本書のタイトルを刊行予定で見た瞬間に思ったのは、久々にコナリー作品のタイトルに「ブラック」の文字が躍ったということだ。
初期のコナリー3作品は原題、邦題それぞれに意識してこの「ブラック」が使われていた。
1作目の『ナイトホークス』の原題が“The Black Echo”、2作目が邦題、原題ともに『ブラック・アイス』、3作目は邦題が『ブラック・ハート』と、原作者、訳者ともにボッシュの持つ、ヴェトナム戦争帰還兵という経歴に由来する、心の奥に蟠る暗い情念を意図してこの「ブラック」が使われていた。
そしてそれから18年(原書では19年)を経て久々にこの「ブラック」の文字を冠したのは勿論作者としても意識的だったことは間違いない。
なぜなら本書は作家生活20年目の集大成的な作品の趣を備えたオールスターキャスト登場と上に書いたようにボッシュの原点回帰的な内容になっているからだ。

そしてもはやシリーズのオアシス的エピソードとなっているのがボッシュと娘マデリンとのやり取りである。親子の少し不器用で子煩悩なボッシュとのやり取りが実に面白い。
このエピソードが胸に心地よく響くのは娘マデリンがボッシュを父親として好いていることが解るからだ。
今回囚われの身となったボッシュが処刑されるのを覚悟した時に頭に思い浮かべるのは娘の車の運転練習をした時のエピソードでその時彼女が自分も警察官になりたいと云ったと描かれている。野獣のようだったボッシュにとってマデリンはこの上もなく大切な存在であり、そしてマデリンも父親を一人の刑事として尊敬していることが更に物語に厚みをもたらしたように思える。

コナリーの作品が面白いのは過去の因果がボッシュの現在に及ぼしていることだ。それはつまり過去にこそ作品の種は蒔かれており、それを忘れずにコナリーは育つのを待ち、そして時が来た時に刈り取っているからだ。そうすることで物語と作品の世界に厚みが生まれ、そしてハリー・ボッシュを、登場人物たちに血肉を与えることに繋がっている。それがシリーズに濃いドラマを生み出し、そして常に傑作レベルの水準を保っているように思える。
こう書くとコナリーと同じようにすれば誰もが傑作を掛けるのかと勘違いしてしまうが、そうではない。そういう眼を持っているからこそ、このコナリーという作家は優れているのだろう。

また遅まきながら25作目において今回痛烈に気付いたのはボッシュが相手にしているのは法ではなくあくまで人だということだ。
無慈悲なまでに殺された人がいる。自分の都合で人を殺した奴がいる。その人が殺されたことで哀しむ人がいる。そんな人達を目の当たりにし、相手にしてきたからこそ、ボッシュは正義に燃えるのだ。
彼は悪に対して異常なまで憎悪する。悪事を働きのうのうと生きている輩に対して鉄槌を落とすことを心から願っている。従って犯人を捕まえるためには多少のルール違反も厭わない。そうしないと捕まえることのできない悪人がこの世にいるからだ。

ボッシュは事件を解決する。それは犯人が解らないまま事件が葬り去られる遺族の無念を晴らすためであると同時に悪がのさばっている現実を良くしようとするためだ。
しかし犯人が逮捕されても被害者遺族の無念は続いたままであることをボッシュはその都度思い知らされるのだ。
それでも彼が犯人を追う。“それが私たちのしていること”という信念に従って。

その被害者の北米人特有の色の白さから白雪姫事件と名付けられた今回の事件。
事件は解決したが童話のように幸せな結末とはならなかった。無念が、犯人への怒りが遺族とボッシュ自身にも残ったままだった。
これがコナリー版白雪姫。
殺人事件にハッピーエンドはないと痛烈に突き付けられた思いがした。

No.1458 7点 地軸変更計画- ジュール・ヴェルヌ 2019/07/04 23:49
なんという奇妙なタイトルだろう。
地軸変更計画。
今までアフリカや世界一周といった未開の地への冒険、地底や海底に世界の空、はたまた月世界へと舞台を広げていったヴェルヌの創造力はとうとう地球そのものへまで発展した。

彼が今回選んだテーマは北極。
本書発表当時まだ人類は北極点まで達していなかった。これが現実となるのは本書発表の1889年から37年後の1926年にアメリカのリチャード・バードの飛行機による往復飛行まで待つことになる(因みにが徒歩による北極点到達は1969年のイギリスの探検家ウォリー・ハーバートによってようやくなされる。なんと80年後だ)。
しかし今回の話はいつものように前人未到の地に行くと云う単純なものではない。今度はその地そのものを動かす。いや正確には地球そのものを動かそうと云う話だ。
傾いた地軸を変更し、北極を極寒の地から温暖な地へと変えることで行きやすくし、北極の地を手中にするという実に壮大なトンデモ科学系小説なのである。

さて本書で登場するのはあの『月世界旅行』、『月世界へ行く』に登場した、大きな大砲で月世界到達を目指したインペイ・バービケインを会長に掲げる大砲クラブの面々である。
なんと3度目の登場である。よほどヴェルヌはこの陽気で破天荒な一行がお気に召したらしい。


そんな彼らが何かをしでかすのはやはり大砲。
今回計画した地球の地軸を変更するのも巨大の大砲を地球に対して水平に発射し、その反動で地球を動かそうというもの。作中でも語られているがいわゆるビリヤードで球を曲げる時に表面をかすめるように打つのと同じような方法を用いるのである。

そしてこの発表に世界は騒然となる。地軸の傾きを変更することで海の水位が変化し、高低差は最大で8,415メートル変化すると予想され、つまり海抜3,000メートル未満の地域が水没すると推定されている。
こういうディテールがきちんと書かれるのがヴェルヌ作品の面白さだ。

それよりも私は地軸の変化による異常気象の発生の方が大いに気になる。つまり太陽との距離が近くなることで地表に覆われていた氷が解け、それが逆に地球全体を冷気が覆うことになり、逆に世界の大半が氷の世界に覆われることになることのではないか。映画『デイ・アフター・トゥモロー』の世界である。

物語の最終局面で明らかになる彼らのこの途轍もない大砲の正体はなかなか面白いものである。

さて物語の冒頭のメインである北極の地を競売にかけるのに参加する国々の代表者の面々もお国柄を色濃く反映していて面白い。
オランダ代表のジャック・ヤンセン、デンマーク代表のエリック・バルデナック、スウェーデン=ノルウェー代表のヤン・ハラルド、ロシア代表ボリス・カルコフ、最後のイギリス代表ドネラン少佐たちは、一度は得体のしれないアメリカ相手に5ヶ国共同戦線を張ろうと企むがそれぞれの国のプライドが邪魔をしてご破算となる辺りも当時の欧米情勢が反映されていて面白い。

しかしなぜここにヴェルヌの母国フランスが入っていないのだろうか。一応作中ではこのような北極を売り買いするような計画に携わることを良しとせずに事態としたとある。いわゆる“クールでない”ことに興味を示さないというフランス人気質を著したのかもしれない。

そしてやはり特徴的なのはいきなり北極の所有権を競売にかけると提案したアメリカの独善性である。
まさにこれこそが当時の各国のパワーバランスを示しているように思える。かつて世界中に植民地を持っていたヨーロッパ諸国もアメリカという巨大な新興国の勢いに押され、世界での地位が衰退しつつあることが本書で窺える。つまりこの国の勢いそのものをヴェルヌは北極実用化協会こと大砲クラブに託したのではないか。

後に宇宙開発にいち早く乗り出すのがソ連とアメリカだった。ヴェルヌは勢いのあるアメリカがいつかは自分が描いた宇宙へ乗り出すことを期待していたのではないだろうか。
つまりこの大砲クラブは即ちヴェルヌが想像した将来のNASAの姿であり、大砲を宇宙と置き換えて考えれば、失敗しても挫けずに挑戦するアメリカへのエールではないか。

しかし一方で最後に登場していいところをかっさらうのがフランス人の数学者アルシッド・ピエルドゥーであるところにヴェルヌのフランス人としての自負が感じられるのである。まだまだ若造アメリカには負けんわいとでも云っているかのように。

まあ、そういう意味では本書はフランス人特有のエスプリに満ちた作品と云えるかもしれない。
私には片目をつぶって舌を出しているヴェルヌのお茶目な顔が見えたような気がした。

No.1457 10点 ミザリー- スティーヴン・キング 2019/06/18 23:39
私も映画化作品を観たこともあり、またガーディアン紙が読むべき1000冊の1作に選ばれた、数あるキング作品の中でも1,2を争うほど有名な作品。映画も怖かったが、やはり小説はもっと怖かった。
説明不要のサイコパスによる監禁物であるが、驚かされるのが作品のほとんどが監禁状態で語られることだ。しかも物語の舞台は95%以上が狂信的なファン、アニー・ウィルクスの家で繰り広げられている。
限られたスペースで物語が繰り広げられるキング作品は先に書かれた『クージョ』が想起されるが、あの作品もメインの舞台となる車の中での監禁状態に至るまでの話があった。しかし本書は始まって5ページ目には既にアニー・ウィルクスの部屋にいるのである。文庫本にして500ページもの分量をたった1つの部屋で繰り広げるキングの筆力にまず驚かされる。

とにかく主人公ポール・シェルダンを監禁し、自分だけの新作を書かせる熱狂的なファン、アニー・ウィルクスが怖い。
このアニー、とにかく自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起す女性だ。
これほどまでに人に執着し、自分の思い通りにならないことに癇癪を立てる人がいただろうか。いや、いるのだ、実際この世には。

愛。それは何ものにも代え難い感情で困難に打ち克つ力として愛をテーマに人は物語を書き、詩を書いて歌にする。人が誰かと一緒になるのも愛あればこそだ。
しかしこの強い感情が実は最も人間の怖さを発揮することになることを本書は知らしめる。
アニー・ウィルクスはポール・シェルダンの書くミザリーシリーズという小説が大好きで大好きで次作が出るのを待ち遠しくしていたのに作者がこの主人公を殺してしまったから、それが許せなかった。自分の好きな作品を返してほしい。そして彼女にはそれが出来た。なぜならその作者が満身創痍の状態で自分の家にいたからだ。
彼女は献身的に重傷の作者を介護し、自分に逆らうとどういう目に遭うかを知らしめるために彼を支配した。彼が自分の手中から逃れようとしたら彼の足を切断し、自分の思い通りの話を書こうとしなかったから拇指を切断した。
彼の行方を尋ねに来た警官を殺害した。
それもこれも自分の大好きなミザリーシリーズの、自分のためだけに作者が書いてくれる続きを読みたかったからだ。
ファンというものは有難いものだが、一方で恐怖の存在にもなりうる。そしてこれはただの作り話ではない。キングが遭遇したある狂信的なファンの姿なのだ。

これがもしキング自身が抱いたトラウマだったら、彼は本書を著すことでトラウマを克服し、解消しようとしたのではないか。つまり彼は自分の紡ぐキング・ワールドに狂信的なファンの幻影を封じ込めようとしたのではないか。
そう、忘れてはならないのは本書がサイコパスによる監禁ホラー物だけの作品ではなく、小説家という職業の業や性を如実に描いた作品でもあることだ。

上述したように本書は95%がアニー・ウィルクスの家で繰り広げられるが、この長丁場を限られた空間で読ませるのは狂えるアニーのエスカレートするポールへの仕打ちとそれに対抗するポールの生への執着だけではなく、ポール・シェルダンという作家を通じて小説家の異様なまでの創作意欲、ならびに創作秘話が語られることも忘れてはならない。
最初はどうにか助かりたいと思って苦痛を抑えるために屈辱的なことも敢えて行った彼が次第に回復するにつれ、自分の命を繋ぎ留めるミザリーの新作に次第にのめり込んでいく。今までファンのためだけに書き、自身では早く終わらせたくて仕方がなかったミザリーがアニーという狂信者によって続編を書くことを強要され、文字通りその身を削って命懸けで案を練るうちに彼の中に今までになく充実したミザリーの物語が展開するのだ。それはさながら極限状態から生まれたアイデアこそが傑作になりうるといった趣さえある。
一度始めた物語は最後まで書きあげたい、自分の頭にある物語を形あるものとして残したい。満身創痍の中、必死に『ミザリーの生還』に取り組むポールはキングそのもの。

狂信的なファンによる監禁ホラーというシンプルな構造の本書は上に書いたようにファン心理の怖さ、そして自己愛が強すぎる者の異常さと執念深さのみならず、小説家という人間の業、更に物語が人から人へと広がっていくマジックなど、非常に多面的な内容を孕んでいたが、それだけに実は終始しない。
実はここに書かれていることが現実となるのである。

交通事故に遭い、満身創痍になったポール・シェルダンは本書を著した12年後のキング自身の姿である。彼自身も車に撥ねられ、重傷を負い、そして片脚に障害を負う。
この作品が他のキング作品と異なる怖さを秘めているのは、そんな現実とのリンクが―しかも未来を暗示していた!―あるからこそなのかもしれない。
キングは本書をフィクションとしてキング・ワールドに封じ込めたのではなく、実はキング・ワールドが現実にまで侵食してしまったのだ。
一人の作家が描いた世界がとうとう現実世界へ波及した稀有な作品として本書は今後私の中で忘れらない作品となるだろう。