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クリスティ再読さん
平均点: 6.41点 書評数: 1327件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.607 6点 蒼ざめた馬- ロープシン 2019/11/29 21:17
このところ、赤・黒・緑とカラー題名が続いたので、少し反則めの作品だが本作で「蒼」。晩年のクリスティで同題のものがあるが、ヨハネ黙示録が出典なのでカブるのは仕方ない。たぶんクリスティのものより、世間的にはこっちが有名作品じゃないかな。初期の矢吹駆のテーマが政治テロの倫理を扱ったある種の「転向小説」なこともあるし、そういう意味じゃ「死霊」だって近いものだし...というので、政治テロを扱った小説の大古典といえば、これ。
1905年。モスクワに到着したイギリス人旅行者、ジョージ・オブライエンとは社会革命党のテロ組織のキャップの「わたし」の仮の姿だった。「わたし」は4人の同志たちとともに、モスクワ大公の暗殺の機会を狙っていた。思い切りのいい労働者のフィヨードル、独特の信仰心を持つワーニャ、学生気分が抜けないハインリヒ、主人公に恋心を持つエルナ...「わたし」は、人妻のエレーナとの恋に陥る。暗殺は何度も失敗し、警察の追及に同志たちにも損失が出る。がついに?
で、これは小説なのだけど、作者のロープシンことボリス・ザヴィンコフは現実の要人テロ(内務大臣プレーヴェ・モスクワ総督セルゲイ大公の暗殺指揮)を行った当事者であり、本人が行ったテロを淡々と描いた小説、ということでは類のないものである。

わたしは非合法生活にも、孤独にもなれてしまった。わたしは未来を知ろうとは思わない。過去のことは忘れるようにしている。

わたしは赤い血の職工長だ。わたしはふたたびこの仕事にとりかかるだろう。くる日もくる日も、四六時中、わたしは殺人を準備するだろう。わたしはひそかに尾行し、死によって生き、そしてあるとき歓喜の陶酔がきらめくだろう。

...とまあ、ハードボイルドを体現したかのような、「煮え切った」透明感が素晴らしい。「わたし」=ザヴィンコフは純粋に行動の人であり、その生活も意志もすべて「行動」のために捧げられているのである。そこには躊躇も内面も、まったくあり得ない。これがヤタラとカッコイイ。

秋の夜が落ちて、星が光りはじめたら、わたしは最後の言葉を言おう。わたしの拳銃はわたしとともにある、と。

本作はこの言葉で結ばれる。作者のザヴィンコフはロシア革命でケレンスキー内閣の陸軍次官になるが、ボリシェヴィキ革命で国を追われ反ソ活動を繰り返すが逮捕されて自殺している。まさに剣に生き剣に斃れた生涯である。

No.606 6点 緑は危険- クリスチアナ・ブランド 2019/11/27 21:47
戦時下の軍用病院でのこと、空襲で被災した救護団員の老人が手術台の上で死んだ。続いて手術室付シスターが他殺体で見つかるなど、この病院に姿なき殺人者が跳梁する。応集された医師たちと篤志看護婦たちに容疑が絞られるが、コックリル警部の推理は?
という話。そういえばクリスティでも戦時色の強い「満潮に乗って」とか自身の篤志看護婦歴が反映した「愛の旋律」とかあるから、まさに「クリスティの後継者」風の作品...かもしれないがね、クリスティだとロマン溢れる「読ませる小説」になる部分が、ブランドだとガチの地味パズラーになるあたり、クリスティっぽいというよりクイーンっぽい。これ実際には推理してアテるのは、飛躍した連想が必要だから、大変な部類だと思うよ。
そうしてみると、クリスティって結構パズルを捨てて「キャラの謎」みたいなあたりに絞ってミステリを組み立ててるようにも思うな。軽いユーモア感(男前なウッズ看護婦がいい)はあっても、ああいキャラ造形は本作ではない。まあそれでも、中盤の手術でのあわや!がなかなかサスペンシフル。凶器はまあ見当つくけど、コックリルが立ち会いながらも危機一髪なんだから、警察官としてはミステーク。でも盛り上がるなら、いいじゃないか。

No.605 6点 ブラック・ダリア- ジェイムズ・エルロイ 2019/11/25 15:29
評者は名前の通りに再読中心なので、エルロイあたりの80年代デビュー作家は昔読んでない人が多いんだ。だからまったくの初エルロイである。評判は聞いていて、期待してたよ~~評者マンシェットを崇拝するノワール好きでもあるしね。
けどね、ハードボイルドから贅肉を極限までそぎ落としたマンシェットの方向性とは真逆だね。(異常)心理てんこ盛りだから、ノワールとはいえ、ココロよりもモノで語らせるハードボイルドとは絶対に言えないだろう。これでもか!っとぐちゃぐちゃドロドロの愛憎劇を主人公含む登場人物たちが繰り広げるわけだ。警官主人公で残虐な事件を扱う小説なのだが、意外に読後感はミステリ読んだ、というより一般小説に近い。描かれるタイムスパンがそうそう長いわけではない(実質1946~49年の話)のに、大河ドラマを見終わったようなヘヴィな生涯に付き添った感慨を感じるのは、物語の中で登場人物たちが皆々「変貌」を遂げるからだね。
主人公とパートナーのリーがボクサー上がりのマッチョ警官というのもあるし、なにせ事件が事件である。アメリカ猟奇犯罪史上に漆黒の華を咲かせた「ブラック・ダリア」だ。ヴァイオレンスでお腹いっぱい。けどねえ、エルロイの場合、心理主義なこともあって、暴力に理由が付きすぎる気がする。ホントは理由に首をひねらなければいけないような、唐突で不条理な暴力の方が、よりハードなようにも思う....だからか百万長者になった記念で愛犬を射殺する話とか、終盤の主人公による美術品大破壊の方が、死体損壊なんかよりも「ハード」に感じられる。
というわけで、本作力作だとはもちろん、思う。けど評者の好みとは一致しないところも多い。やや持て余している、というのが正直な感想。少し調べたが、現実の「ブラック・ダリア事件」からは、グロい方向に細部を盛ってあるようだ。まあ別に事実に忠実じゃないと...とか言う気はない。だったらさ、「テレパシー」で書いたアンガーの「ハリウッド・バビロン」を本サイトで扱ってもいいだろう。「ブラック・ダリア事件」は「ハリウッド・バビロンⅡ」の現場写真入り大ネタだよ。
(ひょっとして、評者とかだったら通例に反して「ホワイト・ジャズ」の方がヘンな小説で面白い!となったのかも?教えて tider-tiger さん!!)

No.604 8点 赤い収穫- ダシール・ハメット 2019/11/23 22:15
ハードボイルドを確立した記念碑的長編である。
最近の論調だと、たとえばチャンドラーでも「ハードボイルドの概念を歪めた」という評価を下されることも多いわけで、そうしてみると、ハードボイルドはハメットに始まりハメットに終わることにもなりかねない。じゃあ、ハメットとチャンドラーで何が違うのか?ハメットの主人公像はマーロウとどこが違うのか?というのを考えてみたときに、たとえば本作でオプが

あれは、おれじゃない。おれのハートの残りかすは頑丈な衣でくるまれ、犯罪と二十年間かかずりあってきて、どんな殺人でも、自分のメシの種、当然の仕事としてしかみないようになってしまった。だが、こんどのように人殺しを画策して大笑いするってのは、いつものおれじゃない。この町が、おれをこんなにしちまった

と述懐するのを「例外」と捉えて本作の独自性を見る、というのもあるんだろうけども、評者はこれを実はハメット固有の「ハードボイルドの本質」として見たいと思うんだ。そのキーワードになるのは「探偵のエゴイズム」ということになるんだと思う。
つまり、ハメットの探偵が謎を解くのは、抽象的な正義感からでも、金銭で依頼を受けたことにあるのでもないのだ。本作なら暴力の街でのオプ自身のサバイバルも懸かっているわけだが、対立を頂点までに高めてその「神々の黄昏」に立ち会いたいことが、オプ自身の破滅衝動とも隣り合わせなことは、ダイナ殺しをホントは自分がやったんじゃないか?と半信半疑なあたりにもうかがわれる。そっけなく心を閉ざした描写描写以上に、オプはポイズンヴィルの状況に胸がらみにコミットしているのだ。
だからこれは職務でも、職務からの逸脱でもなくて、オプの「エゴ」の物語としての「血の収穫」なのである。探偵は自身の「エゴイズム」によって、状況に働きかけ、それを通じて傷つくかもしれないが、そんな痛みは顔にも出しちゃいけない。

これまでの生き方と同じ固い殻に閉じこもって死んでいく気なのだ。(中略)まばたきひとつぜずに、いかなることもうけとめる男。命つきるまで、それをやりとげる男なのだ。

まさにこの自我という「固い殻」こそがハードボイルドの謂いなのだ。
(逆に言うと、評者が「プレイバック」を高評価する理由は、あの作品だとマーロウの立場と事件介入の根拠がすべて曖昧になってしまって、状況の中でマーロウが立ち竦む姿が、探偵エゴイズムとしてのハードボイルドの結論みたいに感じられるからだろう...)

No.603 6点 港の酒場で- ジョルジュ・シムノン 2019/11/19 01:58
シムノンの港好き、船好きは頻繁に作品舞台になることからもうかがわれるのだけど、本作はタラ漁船の船長殺しを扱って、プロレタリア文学風の味わいさえあるような作品だ。
出港時に水夫がマストから落ちてケガをするわ、途中で見習い水夫が波に攫われるわ、ベテラン船長はらしくもなく自室に閉じこもりっきりで、高級船員たちと険悪な情勢になり、一匹もタラのいない漁場でムダな漁をするわ、一転タラがたくさん獲れたが塩が足りなくて傷んでしまうわ..と散々な出漁だった「大西洋号」がフェカンの港に帰ってきた。その帰港の夜、船長が港に投げ込まれて殺された...この漁の間船長と険悪な仲になっていた電信技士に容疑がかかる。メグレは幼馴染の教師に頼まれて、この技士の容疑を晴らそうと非公式に事件に介入した。メグレ夫人と技士の婚約者とともに、海辺のホテルに滞在するメグレの捜査は...
という話。なので3か月間船に閉じ込められる船員たちの間での人間関係をメグレが探っていくことになる。この頃の古典ミステリっていうと、テンプレ的なブルジョア家庭で、リアリティ皆無の「お仕事」な小説がフツーだったわけだけど、シムノンのリアリズムは地に足がついてて他の作家とは隔絶しているとさえ思うよ。

ぼくらのまわりには、明けても暮れても灰色の水と冷たい霧ばかり。そして、いたるところに、タラのうろこと、はらわた。口のなかには、いつもタラを漬ける塩水の、胸のむかむかするような味があります。

こういう小説。ミステリとしての真相はどうこういうものでもないが、最後真相を掴んだメグレは、婚約者の父の小商人根性がうっとおしくなって逃げだすのがご愛敬。
初期の創元から今は亡き旺文社文庫でなぜか出てたレア本だったけど、今は電子書籍があるみたいだ。けど、旺文社文庫で手に入ったので、電子書籍デビューはお預け。残念。

No.602 7点 薔薇の女- 笠井潔 2019/11/17 11:23
ニューアカ華やかりし頃、「ユリイカ」のバタイユ特集で浅田彰と中沢新一が対談してて、バタイユのことを「大通りを素っ裸で歩いているような人」と評していたのが、なるほど、と膝を打たせたことがあったな。バタイユって人は面白いんだけど、その面白さはマンガ的なものでもあるわけだよ。だから「バタイユ思想をどうこう」と、大真面目に語りだすと、実質はキャラ萌え語りみたいなものだから、客観的にかなりイタいことになって、しかも本人がそれに気が付かない...という情けない目にあうわけだ。
本作が陥ってる状況というのは、そういうこと。「ヴァンパイヤー戦争」は本当にマンガ(アニメがあるし文庫の表紙はもっとカルいし)だからイイんだが、本作の猟奇性連続殺人とかねえ、マンガになってしまっていて、バタイユを模したキャラにその思想を語らせても、今一つ有機的には絡まずに、「作者、バタイユ好きなんだね...」と生暖かい目で見守るられることになる。まあだから本作、矢吹駆のシリーズとしては明白な失敗作である。
けどねえ、純粋にミステリとしてのロジックや「現象学的推理」の在り方としては、大仰な企画倒れで切れ味に欠ける「アポカリプス」よりもうまく処理されていると思うんだ。「アポカリプス」は評者過大評価だと思うけど、ああいう古典的道具立ての方が日本の読者にはウケるんだろうよ。本作の仕掛けはずっと小味なアリバイ絡みなので、マニアへのアピール感が薄いのかなあ。というわけで、思想ミステリというシリーズの狙いでは失敗しているけど、タダのミステリとしては隠れた秀作だと思う。笠井潔はオリジナリティのあるトリックメーカーだよ。

No.601 7点 007/ドクター・ノオ- イアン・フレミング 2019/11/13 20:59
まだ007が無名の頃、輸入書店で「医者は要らない」という訳題で出てた....という伝説があるけど、どこまでホントか知らないよ。例えば韓国人の Dr.盧 で Dr.No がいそうなんだが、言うまでもなく「ドクター・ノオ」と言い切ったネーミングにフレミングのセンスと、井上一夫の訳題が光るわけである。オモテ面はあくまで紳士的なドクター・ノオの造形が、フレミングの数々のヴィランたちの中でも傑出していると思うよ。
少なくとも小説は、カリブ海を同じく舞台にした「死ぬのは奴らだ」の続編である。フレミングはプロットの種類は極めて少なくて、本作なんて「死ぬのは奴らだ」の書き直しみたいなところがある。神秘のソリテアから、野生児のハニーに、粗暴なミスター・ビッグから、陰湿なドクター・ノオに属性を入れ替え。でもヒロインは両方とも超能力アリで、ヴィランは両方ともオカルトを利用して恐怖政治を敷く。海の脅威はそのままで、潜入して捕まって..のプロセスをもっとディズニーランド化したら本作、という雰囲気だろう。ちなみに潜入して捕らえられたボンドが鳥類研究家を名乗るのは、一種の楽屋オチで、ジェームズ・ボンドの名前を拝借した実在の鳥類学者へのご挨拶なんだろうな。
だから本作あたりで、007は完成、ということになる。次は「ムーンレイカー」を書き直して「カジノ・ロワイヤル」のギャンブル性を強調した「ゴールドフィンガー」というわけである。本作の成功でフレミング、勝ちを意識したことだろう。
映画は第一作になるけども、要するに第一作だからね、それ以降と違ってあまり予算がかかってない。セットも小規模である。ドクター・ノオもあっさり死ぬし、俳優さんも大物じゃない。作者が意識してアテ書いたクリストファー・リーだったらもっと迫力があったんじゃないかな。捕まってからの展開は原作の方がずっと辻褄があっていて、映画の方が端折ったような変なアレンジになっている。でも、コネリーが若くて一番カッコいい。
さてこれで、007もコンプ。ベスト5とか選ぶようなタイプの作家ではないな。どの作品もそれぞれ面白い。晩年でも好き勝手やってる感があるのが、フレミングのいいところだ。今回ほぼ再読でコンプして、短編の良さに敬服。ウデのある小説家である。

No.600 8点 死霊- 埴谷雄高 2019/11/10 11:11
評者600点記念で何しようか?と思うと、やはり「奇書」系作品をしたいところだ。だったら頑張ろう...で本作。読了に1週間かかったよ。本作は「奇書」であることにはまったく間違いないだけでなく、本サイトに登場する資格もある作品だ。本書くらい、実にマジメに「黒死館」と「ドグラ・マグラ」の両方の最良の部分を継承しようとした作品もないものだ。「黒死館」のいつ果てることもない超越的でひねくれた論理による「議論小説」の性格と、「ドグラ・マグラ」の妄想の圧倒的なスケール感を、併せて実現しようとした「奇書」なんだもの。しかも逸脱的な熱気もボリュームも十分で、文章スタイルも極めて独自で偏執的....と、独立した「奇書」の資格完備の小説である。実際「虚無への供物」を外して本作を入れた「三大奇書」にしたがる人もいるわけでね。
で、序の中で作者が「探偵小説的構成」と自覚しているように、狭義のミステリ的な興味だってないわけではない。実質上「家モノ」小説なのだし、カラマゾフ兄弟に見立てられる三輪家四兄弟の秘密と、特に4~6章あたりの三輪高志がかかわった前衛党のスパイ査問から、同志心中事件に関わるあたりは、ドラマも動くしミステリ風の興味が強く出ている。また最初の2章とかねえ、「黒死館」級の陰鬱さで素晴らしい。
しかし、10点付けない理由は、7章くらいからホントに話が動かなくなってくるんだね。演劇的だからまだ読ませるところはあるけども、観念の対立図式が移り変わるだけで、文章的にも繰り返しが多くなって、この人独特のレトリックがあたかも仏典のようで、なかなか前に進まない....書き言葉というよりも、口承された経典のような文章になってくる。地の文も前半のタイトな良さのある文章から、やはり全体にクドくなってくるし、やはり面白いのは6章まで、というのが正直な感想である。
まあだから、自閉的に独白を重ねに重ねる三輪兄弟よりも、小説として読むのならば、他者への関係性に開かれた女性キャラクターに注目して読んだ方が面白いだろう。トリックスターの首猛夫以上に、実はトリックスター的な津田夫人は、三輪兄弟に匹敵する「無自覚な形而上キャラ」と見ていいと思うし、「神様」が見せる「日常の奇蹟」みたいなものも興味深い。さらに尾木姉妹を巡って哀切なドラマが動くわけで、これら女性キャラを総合して、ヒロインの津田安寿子がどう動くか?で実は作品が未完に終わる。作品の最後で叫ぶのは、ほかならぬヒロイン津田安寿子なのである.....本作実は、女性が動かしてるんだよ。
というわけで、「神州纐纈城」なら未完でも「時間が静止してしまう」ような興趣があって問題ないのだが、本作が未完なのはやはり竜頭蛇尾という印象になってしまう。6章までのペースと内容で完結してもらいたかったなあ。

No.599 8点 八つ墓村- 横溝正史 2019/11/04 13:49
最近の文庫裏表紙だと、「現代ホラー小説の原点というべき、シリーズ最高傑作!」だそうである。ミステリ枠で見られてないようだ。まあ、筋立てからして合理性よりも演出優先だから、ホラーにした方が間違いない、という判断も頷ける。
というか、久々に読んで、評者なんかはちょいと「古き良き(でもないんだが)」日本情緒にヤられ気味。特に田舎舞台なので、郷愁に駆られてねえ。まあ本作、ミステリとしては微妙感もあるのだが、横溝正史という極めて達者なエンターテナーだもん、ツボを押さえた上手さが光る。実のところ、この人何でも書けるくらいに器用だと評者思ってるよ。美也子・春代・典子の女性三人の描き分けと主人公への絡ませ方など、エンタメのお手本みたいなものだろう。あ、ミステリ固有の部分で一か所感心したのが、洪禅毒殺の場面で英泉が辰弥を非難した理由。細かいところだが、評者こういう小技が大好物。あと本作、村人が辰弥をリンチしようと追い詰めるなんてシーンがあるのが、日本舞台の作品だと珍しいと思う。昔の日本人、野性がある。
で、なんだけど、評者あたりの世代だと、横溝初体験、というのは犬神家じゃなくて、影丸譲也の漫画なんだよ。なので、せっかく「八つ墓村」やるなら...で入手。「小梅おばさ~ん!」というあたり、少年マガジンで読んで記憶があるよ...やはり鍾乳洞のヴィジュアルで説得力が出るのが素晴らしいことだ。改めて漫画版を読んでだが、内容は原作にわりと忠実。典子は割愛で、辰弥の鍾乳洞探検も1回省略してスピードアップ。山狩りからクライマックスで辰弥が追い詰められるシーンはやや変更があるけど、これは漫画版の演出の方が盛り上がる。しかも、要所要所でミステリとしての論点整理をうまくやっていて、原作の理解度の高さがうかがわれる名コミカライズだと思う。
この漫画がきっかけて角川がいろいろ出すようになって、「イマドキなんで横溝??」と思われながらも売れていって、ATGの「本陣」も結構当たったし、で「犬神家」という流れだったんだよね。だから皆さんの見てる「寅さん八つ墓村」はブームが起きてからの作品になる。というか、角川春樹は松竹に映画化権があったので、映画化を促したんだけど、なかなか実現しないので、業を煮やして自分で犬神家をやったら、後追いで松竹も便乗映画化、だそうだ。
というわけで、影丸譲也の漫画版も、記念すべきコミカライズなので、きっちり歴史に残すべきだろう。漫画版もオススメ、である。

No.598 5点 猫の舌に釘をうて- 都筑道夫 2019/10/31 09:26
たしかに「シンデレラの罠」は大した作品じゃないんだよ...ああいう「趣向」モノは、パズラー以上にふと我に返るとバカバカしく感じる部分もあるんだけど、「犯人=探偵=被害者」趣向をやってみせた本作、これもまあ言ってみれば、たいしたことない。
とはいえ、たぶん都筑の思いは「趣向の小説」というあたりにあるんだろう。趣向、というからには、この趣向が馬鹿馬鹿しく、非現実的であったとしても、その趣向をかりそめのゲームの規則と受け入れて、その見立てに積極的に心を添えていくことが必要である。本作が本屋で売っている商品としての小説であって、作中で主張するような束見本の中に書かれた手記ではないことは、それこそ明白なのである。だからこそ、この「趣向」に心を寄せて楽しむ「見立て」のこころが、読者に要求されるのだ。もちろん、パズラーというものをジャンルではなくてこういう「趣向」と捉えるのなら、パズラー自体も「趣向の小説」の一つである。
そうして読むと、喫茶「サンドリエ」に集う人々、そして同人誌「侏羅紀」の同人たち、といった、「座」の文芸という、日本の伝統文学のありようを思わせる「集い」が本作に描かれているのも、そういう「趣向の共有」という、一種の「幻影の共同体」の話のようにも思われるのだ。また、東京をさまよう主人公が、おそらく今はもう消えた地名にコダワリ列挙するあたりにも、都筑の江戸前な低回趣味がうかがわれて、評者は妙な郷愁みたいなものを感じてた。本作はリアルタイムでの手記になるのだけど、これを「過去」として描くと、実は「三重露出」の翻訳者がわの話になる。あの哀切さには、こういう「失われた人間関係」が潜んでいるようなのである。
だから、意外に本作、「犯人=探偵=被害者」の三重露出のミステリという以上に「貧しい作家の生活記録の上に、事件の進行を二重焼していって、そのあいだに恋の回想を綯いまぜれば、わたくし小説でもあり、本格推理小説でもあり、恋愛小説でもあるユニークな作品が、できあがる」と作中で言っているのが、本来の「三重露出」であったようにも思われるのだ。また本作であまり触れられない主人公が訳する小説の中身が、のちの「三重露出」の翻訳側とまた見立てるならば、「幻の都筑道夫著の『猫の下に釘をうて』」「束見本に書かれた淡路瑛一の手記」「淡路瑛一の仕事の翻訳」の三層の「もう一つの三重露出」もある。後の小説「三重露出」は、本作の書き直しと捉えるのが適切だろう。三一書房の版でも講談社大衆文学館の版でも、「猫の舌に釘をうて」「三重露出」が合本なのは、都筑の意図に即した編集だと評者は思うのだ。

No.597 7点 あしながおじさん達の行方- 今市子 2019/10/30 12:02
久々に「漫画でミステリ」な書評をしよう。今市子というと、代表作の「百鬼夜行抄」は、漫画ならではの叙述トリックがあったり、時系列を並べ替えてミスディレクションするのが常套手段だったりとか、手法としてのミステリを駆使した漫画なんだけども、内容的にはせいぜいカーナッキ主義というか、心霊妖怪+人間の悪意の混在型なので、心霊ホラー系でミステリタッチが優れた漫画ではあっても、本サイトで取り上げるのはややためらわれる。じゃあ超常なしのミステリとしていい作品があるか?というと、本作はいかが。一応BLだけど、男性が読んでもそう抵抗感がないくらい極めてライトなBLなので、気にしないでほしい。
施設で育った吉岡春日は中学卒業を機に、今まで陰から自分を援助してくれていた「あしながおじさん」の元にお礼と高校に進学しないことを詫びようと訪問した。しかしその住所には別人が住んでいて、困惑した春日は管理人室を訪れる。管理人の鈴木夏海は春日に、自分が「あしながおじさん」の一人であることを打ち明けるが、あしながおじさんは5人いるらしい...春日を高校に行かせるため、夏海は春日を引きとって同居させることにするのだが、夏海に執着する同い年の少年ヤスヒロとも一緒に住むことになり、3人の奇妙な同居生活が始まる。さらにマンションの住人で夏海とも腐れ縁のオーナーの養子山本恭兵など、複雑な人間関係が見えてきて、しだいに「あしながおじさん」たちが共有する秘密と春日を援助する理由が明らかになってくる...
というわけで、「ルーツ探し」ものなんだけど、この5人の「あしながおじさん」たちの秘密を、夏海は春日に隠し通そうとして、いろいろと嘘をついてはバレて..が繰り返される。この「嘘」は春日を傷つけるようなものではないのだが、嘘と小出しの真実を通じて画面が大きく切り替わるようなミステリらしい面白味が横溢している。その結果、あしながおじさんたちとその周囲の人々のキャラクターが深まっていき、実に人間臭いドラマを演じていくことになる。

僕のあしながおじさんがばらばらになっていく。手紙の上の二次元のあしながおじさんが、しだいに骨格と肉づきを持った生身の人間に再構築されていく。知れば知るほどどんでもない「あしながおじさん」で、時にはこわいくらい生々しくて見たくない面も見せられるけど、こわいのに目が離せない...

という春日の感慨が本作をきわめて要領よく要約している。
まあこの「見たくない面」には、このあしながおじさんたちの間のキーワードとして同性愛があるためでもある。BLだからね、夏海も高校の元恩師がゲイバーを開いてて、女装してアルバイトする話、夏海と山本恭兵の間の初体験話、恭兵の恋人である秋吉薫(女性的な男で花を背負って登場する)とのゲイ婚話とか、話題は豊富で「友情以上」の男同士の関係性みたいなものをうまく描いているのも、なかなかリアルな良さがある。
というわけで、BLだからって、漫画だからって、ナメちゃ、いけない。「百鬼夜行抄」の宣伝文句は「四季折々に妖魔あり」だけど、「BLマンガ折々にもミステリあり」というべきか(苦笑)。

No.596 1点 意識の下の映像- リチャード・レビンソン&ウィリアム・リンク 2019/10/28 20:38
評者本作ばっかりは撲滅したいとずっと思っていた作品である。酷評するのでそのつもりで。
いわゆる「サブリミナル効果」というものは、事実上ニセ科学なんだよ。1957年のジェームズ・ヴィカリーのコカ・コーラとポップコーンの映像を映画館でかかる映画に投射したら売り上げが..という話は、これはまったくのホラ話で、こういう実験は全く行われていなかったことが、調査の結果明らかになっている。これは80年代くらいには心理学ではもう常識だった。評者も学生時代にこの件を調べたことがあって知っていたんだ。実際、この報告の後で大問題になって、いろいろな心理学者が追試を行ったのだけども、効果がある、という結果はまったくでなかった。でしかも、後にでっちあげをヴィカリーが告白したこともあって、この件は少なくともこのヴィカリーの「古典的」なやり方については、決着している。
しかし2000年代に入って、いくつか「意識できない閾下の刺激で、行動に与える効果があった」という報告がなされたことは事実だ。ただし、その効果もヴィカリーのもののような派手な内容ではないし、かなり限定された状況下での限定的なもので、「まあ影響を与えたと言えなくも...」というようなレベルの印象がある。またどの程度他の研究者で追試されているのか、という面ではまだ検証中というくらいの問題のように思われる。というわけで、この「意識の下の映像」で取り上げられたような、ヴィカリー流の効果はほぼ都市伝説レベルのデマと結論していいし、番組制作時点でもこの件がデマだということは、少し調査すれば判明したであろう。
しかし「シティ・ハンター」での悪乗りから、アンフェアだという指摘を受けて、放送業界がこの件を自粛していることは事実である。まあ、効果があろうとなかろうと、アンフェアなことは間違いはないから、公共の電波を占有して、というあたりでの公共的な責任と、事なかれな体質からこういう自粛をすることになったわけである。しかしだからといって、サブリミナル効果が「ある」わけではない。
この騒ぎの原因は、要するに「メディアが視聴者の心理を操作しているのではないか?」という根の深い疑惑というか、警戒というか、不信感が底にあるわけである。この「サブリミナル」という単語は、この不信感を強烈に刺激してしまったんだよね。だから、これほど「サブリミナルはデマだ」と心理学者が主張しても、一向にこの事実は世間には届かない。信じたいことを皆さん、信じてしまうのだ...
まあ、そういうことに過ぎないなら、そう評者が怒るようなことではないのだが、評者は実験的な映像作品を作ってたことがあってね、作品の中で、速いカットで交代させて..とかやると、こういう一知半解の人々が「サブリミナルだ!」とか非難してくれるわけである...こういう短いカットをつなぐのは、それこそロシア・モンタージュ派からの伝統だし、実験映画だったらそれこそコマ単位のフラッシュだけでできたコンラッドの「フリッカー」だってある(まあ光過敏性てんかんは別問題で)わけだ。この手のヘンに耳年増にメディアに過敏な人々が、訳知り顔でマジメに実験する作品を批判するのに、評者はうんざりしたのだよ。
実のところ、映画のコマに1コマ余分なコマをつなぐのは、見てると結構わかるのだ。編集していて「切りミスってる!」と気が付くもの。逆に気が付かなくするのには、明暗を揃えておくとか考えて繋がないとダメなくらいのものである....人間の視覚は色に敏感だから、そもそもコカ・コーラの赤が目立たない、なんてことはいくら1コマだってありえないわけだよ。
というわけで、評者は「サブリミナル効果」というデマを広めてしまった本作、本当に撲滅したいと思っている。最低点は当然。

No.595 6点 裁くのは俺だ- ミッキー・スピレイン 2019/10/27 10:24
マイク・ハマー初登場で一大センセーションを引き起こしたベストセラーである。「殺し屋みたいな私立探偵」といったあたりの道徳的批判はともかくも、昔からよく「キセル小説」(冒頭と最後だけが金で、中間が竹)の典型例として挙げられてきた作品でもある。
まあ読んでて、中間部が本当につまらないんだよね。しかも実はこの中間部は単に死人を量産するだけで、ほとんど謎解きにも絡まないものだし...ハマーが女性とイチャイチャするのがメインみたいなもの。まだ本作では本妻というか秘書のヴェルダがそこまで姉さん的なパートナーにはなってないので、アクションor独白⇔エロ、の往復。この独白でも、もう少しするとヘンな哲学味を帯びてきて、それはそれで面白くなるんだが、本作ではまだ余裕がない。
けどね、最終章は俄然盛り上がるのだ。評者は昨晩最終章の手前で眠くなったから「翌朝のクリアな頭のお楽しみ!」と寝て、朝読んで今書いているところだったりする。真相が全然ワケワカな状態で最終章を迎えるハマー、「日曜日は悪い日だった」と落ち込みを見せているが、ここから月曜の夜まで悩みに悩んで手がかりを得る...この落ち込んでるあたりの描写が、何か、いい。テンション低い位置から徐々にエンジンがかかっていき、読む評者の期待感も迫り上がってくる。で、真犯人を待ち伏せして...でエロと暴力がないまぜになった真相解明&「裁くのは俺だ」で頂点を迎える。エクスタシーというものだ。
なので、本当に最終章のためだけにあるイビツな小説。最終章8点、それ以外4点で、何となく平均して6点。

No.594 6点 三重露出- 都筑道夫 2019/10/25 11:50
本作の最大の謎はタイトルである。「二重露出」なら何のことはないのは明らかだ。アメリカ人の書いた日本舞台のスパイアクションと、翻訳者の周辺をめぐる事件の裏の、もう一つの層はいったい何か?というのを問わずに、本作を語れないよ。実のところ、翻訳者の周囲をめぐる沢之内より子殺しの真相は、今一つちゃんと解明されずに、読後にも不完全燃焼感が強い。いったい何のために翻訳者サイドの話があるのかが、本当に謎な本なのだ。
今回評者は講談社大衆文学館の「猫の舌に釘をうて」と合本になっている本(昔三一書房の「都筑道夫異色シリーズ」でも同じ合本で読んだ)だが、中野康太郎の巻末エッセイ「『三重露出』ノートまたは誰が沢之内より子を殺したか」が収録されていて、このエッセイがこの「もう一つの層」の解明に挑んでいる。このエッセイを読むのがたぶん本作についてどうこう言う場合には必須になるような気がするんだが...まあこれ紹介すると本当にバレなので、その内容紹介はやめておく。
なのでまあ、いくら精緻に仕掛けをしたとしても、それが伝わらなければ意味はない。そういう意味じゃあ本作は大きな欠陥のある作品とも言える。けどね、ちょっとこの謎への評者なりの回答もしてみようか。
実は本作映画になっている。「俺にさわると危ないぜ」1966年日活で、小林旭主演、長谷部安春監督である。アキラ主演ということは、主人公サム・ライアンも本堂という名前の日本人戦場カメラマンになっている(苦笑)。だから、ガイジンの目からみた不思議の国ニッポンという「007は二度死ぬ」要素も翻訳者サイドの話もまったく切り捨てていて、モンド風味の忍法帖スパイアクションに特化している作品になっているが...じゃあ、本作が原作者の意図に反して商業上の理由でそうなった、かというと、そうとも思えない。都筑道夫自身が脚本に入っていて、しかもこの頃は都筑道夫が映画ヅイている時期なんだよね。前年に東宝でやはりコメディ風味スパイの「100発100中」を原作なしの脚本で担当しているわけで、その続きでどうみても「俺にさわると..」には積極的にかかわっているとしか思えない。実際、原作のデテールをきめ細かく映画に拾い上げて絵にしている印象なんだもの。
監督も宍戸錠ハードボイルド三部作の一角の「みな殺しの拳銃」や「野良猫ロック」を監督したあと、テレビのポリス・アクションの大物ディレクターになった長谷部安春で、今見ると旧作の「カジノ・ロワイヤル」を連想するくらいの、才気でブッ飛んだ、いい意味で「ヘンな作品」である。評者昔文芸地下のオールナイトで見て、都筑道夫「三重露出」原作の字幕でノケゾったものだよ。ただし、本作、予算使い過ぎ(冒頭の戦場シーンの弾着が豪華!)と鈴木清順風の演出が「わけわからない!」と会社に怒られて、安春が一時干された...という話があるんだけど、実は海外では「Black Tight Killers」というタイトルで今やカルト映画の人気作になっている。
そういう成り行きを見てみると、いや実はこの映画が「三重露出」のもう一つの「露出」なのかもしれないや、とか思うんだがいかがだろうか。

No.593 6点 サロメ- オスカー・ワイルド 2019/10/23 22:00
「黒蜥蜴」も乱歩&三島でやった余勢を駆って、「美的殺人」という面では先駆者であり最大のアイコンである本作はいかが。20世紀の初頭あたりには、全世界的にサロメが大ブームになったわけで、「世紀末、病んでる」の代名詞みたいなものである。もちろん日本にだってすぐに入ってきて、初めての訳は森鴎外だし、松井須磨子がサロメ演じてたりする。最近でこそ知名度が落ちているけども、唯美とか耽美とか、その手に憧れるなら必須科目である。岩波ならビアズリーの、アール・ヌーヴォーの代名詞の挿絵も同梱。挿絵を肴に頽廃感の相乗効果を味わえばいい。
で、本作をミステリとして読むなら、「異様な動機」というのがまずポイントだと思う。サロメはヨカナーンに恋するがゆえに、口づけを拒まれたがゆえに、その首を刎ねて生首にキスをする....ネクロフィリアといえばそう、サディズムといえばそう、女性自身による主体的な性欲のアカラサマな主張なのも当時では刺激的なわけだし、もちろん黒蜥蜴だってこのサロメの子孫のわけだ。ならば明智はヨカナーンとして、サロメの接吻を拒み続けて、黒蜥蜴に首を刎ねられてから、接吻される...評者どうもサロメと黒蜥蜴がごっちゃになっているようである(苦笑)。そういう読み方も、いいじゃないか。殺人物語に美とポエジーを求めるのならば、一度は読んでおく必要のある作品であることには、間違いない。

No.592 7点 黒蜥蜴- 江戸川乱歩 2019/10/20 22:37
三島の戯曲の方は評者は別途書いているので、今回は乱歩原作側について書くことにしよう。まあ出版だって戯曲側は「三島由紀夫作」だしね、筋立ては借りてても文章も作品力点も全然別物なんだもの、一緒にするのは乱暴というものだ。
戯曲と原作の一番の違い、というのは、戯曲が「恋」を中心に描いているのに対し、今回読み直して感じるのは、原作は「エロス」が主題なんだと思うんだよ。まあ乱歩というと、幻想短編だろうと明智通俗物だろうと、とにかくエロスに満ち満ちた独自の文章が最大の魅力のわけだけど、たぶん通俗長編でのエロス充実度では本作が頂点に立つのではないかと思う。

軽蔑するわね、僕だって車くらい動かせるさ。

これである。今の萌えジャンルとしての「僕っ娘」の言葉遣いとは全然別の、女言葉と不良少年スタイルの蓮っ葉さとが混在してモザイクとなったような、黒蜥蜴の言葉遣いに、まずヤられる。男かとおもえば女、女かと思えば男、といった性を超越した、ではなくてジェンダーもセックスも未分化な両性的なエロス、というものを黒蜥蜴は体現している。三島の戯曲には、美と恋はあっても実はエロスがない。乱歩の黒蜥蜴はセックスを欠いたエロスなのだろう。だからその恋は、ゲームとマゾヒズムによってのみで、表現されるのだ。船中での黒蜥蜴と明智の会話でも、三島では恋の策略、というニュアンスが強く出るのに対して、乱歩では黒蜥蜴のサディズムとそれを受け止める明智のマゾヒズムの方を、評者なぞは強く感じるのだ。
まあここらへんの事情は雨宮の扱いの差にも出ている。三島の黒蜥蜴は雨宮の美に目を止めて犠牲にしようとするのだが、あまりに醜く命乞いをする姿を見てシラケて手下にするのに対して、乱歩では雨宮のマゾヒズムを認めて手下にするのだ...だからこそ、乱歩では恋の成就ではなくて、サド=マゾ関係の逆転によって、結末がつくわけである。
乱歩と三島、それぞれの「黒蜥蜴」の観点が大きく異なることが、今回の再読では最大の読みどころになった。まあ同じようでも、全然違う、というのが結論。それぞれがそれぞれに、独自の面白味があると思う。
(そういえば早苗さん眼鏡っ娘だ...乱歩は萌えの先駆者かしら)

No.591 6点 ロセアンナ- マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー 2019/10/19 21:23
87分署は言ってみれば「両さん」のわけで、キャラさえ把握していれば、どの巻から読んでもそうそう支障はない。マルティン・ベックは大河ドラマなので、やはりこれは第1作から順次読んでいくことにしようか。大昔に大流行したときに、本作・バルコニー・笑う・消防車くらいは読んだ記憶があるが、としてみると過半数は未読になる。ちょうどいいお楽しみになるだろう。
大昔スウェーデンというと、ススンでる、というジョーシキがあったことは、もう年寄りしか知らないんじゃないかな。異常性犯罪を扱った本作はそういう意味じゃ、宗教関係で性に厳しいアメリカでは出づらくて、スウェーデンらしいススンだ警察小説、ということにもなるだろう。60~70年代の性解放という時代背景を頭に入れて読むと、本作の意義とか見えると思うよ。
湖から全裸死体として見つかった、アメリカから来た奔放な娘ロセアンナの性生活と、犯人との接点を探っていく話である。手がかりを得ては行き詰まり、得ては行き詰まりの繰り返しで徐々に捜査が進むさまが堅実。最後の罠もそういう仕掛けだから、本当に本作はアメリカじゃ書けないなあ。
本作は第一作というのもあってか、ベックもコルベリも何か若々しいイメージ。ベックの心気症気味はすでに登場しているが、本作だとコルベリに「ベックの相方」以上の個性と、ベックからの信頼感を強く感じる。バディ萌えしそうだ。まだアクの強いラーソンなど登場しないしね(するけど、別人だ)。ステンストルムも尾行名人で活躍するのが、数作後のアレを知ってると感慨がある。当時から思っていたことなのだが、旧訳だとフツーの刑事たちも「警視」と訳されてて、えそんなにエラいの??だったのだけど、やはりこれはそんなにエラいわけではない(新訳は「警部」になってるみたいだが、「警部」は管理職だから違和感が..)。単に Inspector の訳語で、それが各国の警察制度の中でいろいろな意味に使われているからだけのことのようだ。タダの捜査官とか刑事くらいの意味で捉えるのが適切だろう。「バルコニーの男」で Chief Inspector にベックが昇進して、これが「警部」相当くらいだと思うんだ。だから本作ではまだ管理職ではなくて、ベックも実働部隊である。
とはいえ、イマドキのニッポンでも、婦警がシングルマザーというのはいまだ実現できてないだろう。スウェーデン、ススンでるなあ!

No.590 6点 花田清輝全集 第八巻- 評論・エッセイ 2019/10/19 16:54
そういえば評者同様に、権田萬治氏も花田清輝に心酔したことを書いているね。花田清輝は折に触れてミステリ論とかミステリ評論とかもしているし、「あべこべに、わたしは、およそ四半世紀以前、その困難を身をもって痛感し、心ならずも推理小説家になることを断念して、それよりもはるかに容易な批評家という職業をえらんだ、いわば、一種の落伍者にすぎないのです(「推理小説のモデル」)」と書いていたりするくらいだ。まあ韜晦のキツい花田のこと、どこまでがホントかわかったもんじゃないが、少し前に評者が評した「鳥獣戯話」の材料でミステリを書こうというプランもあったらしい。なので本サイトでは、読書ガイドくらいなつもりで紹介するのもいいだろう。
花田清輝だと、短文の時評とか評論が主体なので、本で見たときにはミステリ関連の評論が散らばっている。「自明の理(1941)」に収録されている「探偵小説論」と、「時の娘」を論じた「ジョセフィン・ティ」と「ハードボイルド派」を収録した「乱世をいかに生きるか(1957)」を別にして、講談社の全集8巻が一番「ミステリ濃度」が高いだろう。しかもミステリ趣味の強く出たシナリオ「就職試験」も収録している。この第8巻は「近代の超克(1959)」を中心に、単行本未収録のこの年の評論を収録した本なのだが、「探偵小説日本の傑作九篇」(内容は完全犯罪安吾捕捕物帖二銭銅貨不連続黒死館人生の阿呆刺青本陣D坂)「無限の皮肉―ケネス・フィアリング『大時計』」「救済と採算―ガードナー『最後の法廷』」の書評3本、「推理小説のモデル」「推理小説の余分」の2つの評論がまあストライクだし、周辺的なものでは「ヒッチコックの張扇」「科学小説」それに読書日記の「日録」で1か月の間に読んでいる狭義のミステリを挙げると「犬神家の一族」「リスとアメリカ人(有馬)」「透明怪人(乱歩)」「源氏物語殺人事件(岡田鯱彦)」「エジプト十字架の秘密」、となる。関心のほどがうかがわれる。短評のレベルでも「ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』のおもしろさは、原子物理学者の眼で、フォークロアの世界をながめている点にある」なんて、実にイイ点突いている。それ以外にもハードボイルドやチャンドラーを引き合いに出して論じてる箇所もいろいろ、ある。
まあ「推理小説のモデル」は柳田国男に名探偵の資質を見出したり、「推理小説の余分」がロブ=グリエの「消しゴム」論からアンチ・ロマンにひっかけて書いたものなので、はぐらかされたような印象もある。しかし、花田のミステリへの注目は、花田独特の「大衆芸術論」から来ているので、かなり本質的なものだと思うのだ。花田の論の特徴として、対立しあう2つのカテゴリを、対立しながらも相互の往還させるようなダイナミズムがあるのだけども、アヴァンギャルドと大衆芸術とを、相互に往還するサイクルの中に、ミステリという都市のフォークロアに重要な契機を認めているからである。だからかなりマジメに系統的にミステリ、読んでいるんだよ。
なので、花田のミステリへの本音みたいなものをそれでもうかがわせる評論は、やはり「自明の理(1941)」収録の「探偵小説論」ということになる。この年代のものにしては、意外にパズラーに代表されるミステリの「論理」を「論理的なロココ趣味」と読んで否定的で、それよりもポオからハードボイルド派に直接つながるような内容で興味深い論である。

したがって、今日の探偵小説の世界に新しいいぶきを吹きこむためには、我々は「偽計」と絶縁し、ふたたび「古き惨虐性」に帰る必要がある。それは論理を捨て去ることではなく、逆に論理本来の機能を回復することであり、デ・クィンシーのいったように、殺人の構成に不可欠の要素として、さまざまな企み、光と影、群集、詩、感情といったようなものを、懐疑と神秘の雰囲気の中に置いてみることである。

ほぼチャンドラーの「シンプル・アート・オブ・マーダー」に匹敵する内容だと評者は思うんだよ。花田の立論としては、花田らしく「論理」と「非合理な現実」の往還を基礎において、その両者を粉砕する激越な運動を待ち望んでいるのだ。
まあ今回改めて花田の評論をまとめて読んで、左派を代表する論客であったにもかかわらず、倫理的ではなくて論理的であり、固定した対立ではなくてその対立が互いに相手側に変換されるような運動の中に、新しいアヴァンギャルドを花田は夢想している。この花田のスタンスが、実に一所不住の自在さを感じさせて、時代に寄り添いながらも時代を超えた面白さを感じる。評者のスタイルも強く花田に影響されていると思う。まあ、そんなことは、どうでもいい。

No.589 5点 喪服のランデヴー- コーネル・ウールリッチ 2019/10/15 17:40
「黒」シリーズでは本作で最後になるわけだけど、どんどんとマニエリスティックな方向に走ってる印象がある。ウールリッチ耽溺者ならハマれていいのかもしれないが、情緒過多になりすぎてて、若干シラケる部分も今回は感じているよ。
もちろん女性主人公復讐話の「黒衣の花嫁」の方がウケやすいし、映画化も狙いやすい(トリュフォーの名作もある)。男主人公だったら一般ウケしづらいかもしれないが、作者が自己投影しやすいのは確かだ。本作は作者が自分に溺れてしまったような印象なのは、やはり失敗、ということなんだろう。
要するに「うまいなあ」と思わせる部分がウールリッチらしく、この人にしか書けないような...であるまさにそのことが、既視感を強く感じるというあたりに、本作のデッドエンドっぽさを感じる。まあ仕方ないことなんだけどね。それにしても主人公、改めて振り返ると相当凶悪...と思ってしまうあたりが、ウールリッチの魔法にも限度はある、ということなのかもね。
(刑事のカメロンくん、無精キャラで何か評者コロンボみたいなキャラにイメージしてた。防御率悪いから、名刑事じゃあない。あと余談。上村一夫の語り口ってウールリッチを研究したんじゃないか?と気が付いた。どうだろう)

No.588 7点 スイート・ホーム殺人事件- クレイグ・ライス 2019/10/14 10:29
高校生の頃に読んだときには、退屈で退屈で...でその後敬遠していた作品なんだけど、逆に言うと「今再読して自分がどう感じるか?」ということの方が実に興味深かった。こういうのが、再読の醍醐味なんだろうね。ミステリとしては「密度」が低いし、ダメな人は本当にダメな作品なのは、他の皆さんの評をみればその通りな作品である。
まあ本作、子供が大活躍する作品であるにもかかわらず、まったく子供向きじゃないし、本作の幸福感とかユーモアなんて、高2病真っ盛りの高校生ゴトキにゃわからないよ。本当に「大人向けの童話」と思って読むべきなんだろう。推理作家の母親よりもしっかりした子供たちが、母親の小説の宣伝のために事件を解決しようと奮闘し、あまつさえナイスガイの警部と母親をくっつけようとするんだもん。こんな子供たちいるわけない。けども、この「いるわけない」に作者の愛と夢のすべてを注ぎ込んだ小説なんだよね。本作の幸福感がライスの悲惨な人生から生まれたものだ、と思ったら、かなり粛然とするものがあるよ。人生経験を重ねてからにこそ、読むべき小説だろう。
あと、子供の突飛な思い付きで出てる発言に、時々訳者がとまどっているような印象を受ける個所がある。だから訳は意外なくらいに読みづらい。これは訳者が合ってないのだと思う。それこそ小泉喜美子に頑張って訳してもらいたいようなものだ。

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クリスティ再読さん
ひとこと
大人になってからは、母に「あんたの買ってくる本は難しくて..」となかなか一緒に楽しめる本がなかったのですが、クリスティだけは例外でした。その母も先年亡くなりました。

母の記憶のために...

...
好きな作家
クリスティ、チャンドラー、J=P.マンシェット、ライオネル・デヴィッドスン、小栗虫...
採点傾向
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