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[ 冒険/スリラー/スパイ小説 ]
パーフェクト・スパイ
ジョン・ル・カレ 出版月: 1987年04月 平均: 3.00点 書評数: 1件

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早川書房
1987年04月

早川書房
1987年04月

早川書房
1994年07月

早川書房
1994年07月

No.1 3点 Tetchy 2025/07/26 01:35
一筋縄ではいかないと云われているジョン・ル・カレの作品の中でも飛び切り難解だと称されるのが本書。襟を正す思いで臨んだが確かにこれは難しかった。

これまでのル・カレ作品でも時制が現在パートと回想パートが混在してしばしば混乱を招いたが、本書ではそれが更に拍車をかける。かてて加えてものすごい数の登場人物が登場し、登場人物表にも記載されていないキャラクターたちが大勢、しかも高頻度で登場する上、名前も同じ人物が複数登場するため、理解するのにかなりの時間を要した。
いや果たして十分理解しているのか読後の今も正直自信がない。

これまで以上に混乱を招く、この取り留めのなさは本書がル・カレの自伝的小説とされているからだろうか。主人公マグナス・ピムの父親リックは詐欺師であったことが彼の筆によって明かされていくのだが、その肖像は自身の父親そのままらしい。つまりマグナス・ピムはル・カレであり、父親リックは彼の父親がモデルなのだ。
そしてマグナスがスイスに留学していたようにル・カレもまたスイスに留学しており、リックが詐欺師だったように彼の父親もまた詐欺師だった。しかも訳者あとがきによればリック以上の詐欺師でル・カレ自身も生前はかなりの迷惑を被ったらしい。
つまり本書自身が作者にとって父親への鎮魂の書であるように思えるのだ。

上下巻に亘って語られるのは英国情報部員のマグナス・ピムが父親の死の知らせを聞いて葬儀に立ち会った後、忽然と姿を消し、英国の片田舎の下宿屋で自分の半生と父親のことを書き綴っていく彼の回想とマグナスを探し出そうと躍起になって足取りを探る上司ジャック・ブラザーフッドの捜索行の一部始終だ。

通常の世界に生きる我々は仕事で付き合いのある上司や同僚、部下や後輩たちがそれぞれの私生活を熟知することはまずない。公と私それぞれのテリトリーを護っているからで、無論家族ぐるみの付き合いをしているのであればその境界線はもっと私的な領域に食い込んでくるだろうが、それでも家族もしくは自身しか知り得ない領域と云うのは存在する。
しかしスパイ、諜報の世界となれば話は別だ。情報部はスパイ候補の人間やスパイする側の身辺を徹底的に洗い、家族構成から生い立ち、日常生活のルーティーン、趣味嗜好などを徹底的に調べ上げ、プライベートを丸裸にするからだ。
マグナスもまた彼の素性や政治思想などがあらかじめ調べられた上で英国情報部員としてスカウトされるのだが、やはりそれでも1人の人間の全てが知られるわけではない。一介のスパイが決してインテリジェンスを生業とする英国情報部でも知ることのできなかった生い立ちと秘密裏に親交を進めていたある男との交流が語られていく。そしてなぜマグナス・ピムが父親の死の瞬間にやっと自由となったと妻に吐露し、そして突如姿を消して自分の半生を文章に綴ることになったのか、その真意を探る物語でもあるのだ。

マグナスは不動産業で詐欺師のように金を集めていた父とは異なる道を進んだが、彼は諜報の世界に身をやつし、妻を、人を、そして国をも欺いてきた、いわば父と同じように国を相手に詐欺を働いてきたような男だ。
彼の半生記は常に息子トムに向かって語りかけるように書かれている。それはつまり自分が辿ってきた道を詳らかに残すことで息子には同じ過ちをしてほしくないという父親からのメッセージという意味を込めて書いたのだ。

本書の題名『パーフェクト・スパイ』は原題も“A Perfect Spy”とそのままだ。作中でも彼の友人アクセルが述べるようにこの「完全なスパイ」とは主人公マグナス・ピムを指す。
なぜ彼は「完全なスパイ」と云われたのか?

私は彼が「完全なスパイ」だと思うのはスパイであることを最後に息子に明かし、そして記録として遺して同じ過ちを起こさぬように、いわばスパイの愚かさを知っていたからこそ「完全なスパイ」だったのではないかと思う。そして潔く自分の死で以てピリオドを打った、真の意味でのスパイであったのだ。

しかしこれもまた私という一読者の受け取り方に過ぎない。本書は実に様々な視点と時制から描かれ、十全にその内容を理解することが難しい作品である。ル・カレの本心が、特に父親に対する本心が最も色濃く表れているからこそ、最も主観的な作品であるがゆえに、とめどなく溢れる思いに満ちて纏まりに欠けるように思えるのだ。

いやはや本当に手強い作品だった。訳者自身もあとがきで難解な代物だったと述べているほどだ。読了後も何か腑に落ちたわけではなく、マグナス・ピムの真意、即ちル・カレの真意について色々と思いを巡らされる作品である。それは上手く理解できなかったからであり、そしてそれは今後ずっと完全に理解できぬままであろう。

完全なスパイは完全な詐欺師でもある。
そしてマグナスは詐欺師である父親を厭い、自分の血を呪った。しかし父親よりも子が先に死ぬことは罪深きことである。父親が亡くなることでようやく彼はその呪縛から解き放たれ、自由になり、そしてその命を絶つことが許されたのだ。

それはつまりル・カレもまた本書を書くことで父親からの呪縛に解き放たれたかのように。

しかしこれもまた解釈の1つにしか過ぎない。
とどのつまり、スパイを理解すること自体が不可能であるならば、確かに本書こそがパーフェクトであると云えるのではないだろうか。


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