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ミステリの祭典

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雪さんの登録情報
平均点:6.24点 書評数:586件

プロフィール| 書評

No.246 6点 死者たちの礼拝
コリン・デクスター
(2019/09/19 03:10登録)
 四月はじめのはだ寒い月曜日。二週間の休暇を持て余したモース主任警部は、何かに導かれるようにセント・フリデスウィーデ教会のドアを開けた。彼はたまたま内陣にいた女性ルース・ローリンスンから、去年教会で起きた殺人事件の切り抜き記事を入手する。信徒たちが最後の賛美歌を歌っているあいだに、教区委員の一人ハリー・ジョーゼフスが聖具室で刺殺されたのだ。直接の死因こそナイフによる刺傷だったが、検視報告は胃の中に致死量のモルヒネがあったことを示していた。
 さらにその翌月には、牧師のライオネル・ロースンが教会の塔から転落死している。直前に聖餐式を行ったばかりで、事故とも自殺ともつかない出来事だった。いったい、この教会には何が潜んでいるのか?
 事件に興味を抱いた主任警部は私的に調査を開始し、担当のベル主任警部にも聞き込みを行う。さらに相棒のルイス巡査部長を担ぎ出し教会の塔に登ったモースだったが、彼らがそこで新たに発見したのは、なかば白骨化した男の死体だった。
 三番目の犠牲者の発見後、インフルエンザで倒れたベルから正式に事件を引き継ぐモース。だが行方をくらました関係者たちの死は、これだけでは終わらなかった・・・
 「ニコラス・クインの静かな世界」に続くモース主任警部シリーズ第4弾で、1979年度CWAシルヴァー・ダガー賞受賞作。初読時は「ウッドストック」「キドリントン」に次ぐものと評価していましたが、改めて再読するとやや微妙。献金詐取や不倫事件をリンクさせ、誰も彼も一癖ありげな不穏さを湛えたオープニングは素晴らしいのですが、結末は必ずしもそれに見合っていません。
 重要証人のルース・ローリンスンが何かを秘めていることや、彼女と関係する犯人らしき人物がブランク描写されるのですが、ルースの人物設定からある程度正体が割れてしまうのが難点。解決のカタルシスを決定的に左右する部分なので、処理が適切であったかどうか疑問です。
 またモース達は結局六つもの遺体を抱え込むことになるのですが、動機がちょっと曖昧。少なくとも少年殺しの必然性はあまり無いように思います。初読の際はこのへんの五里霧中感が良かったのですが、改めて見ると目晦まし的な面が強い。墜死体の眼鏡の件も、暗示される事実はモースの推理を崩しかねないもの。
 総合的には多少のアラより読者を取り込むテクニックを優先した仕上がりですが、そこをどう判断するか。楽しめはしますがシリーズ上位には食い込めないかもしれません。


No.245 7点 THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ
矢作俊彦
(2019/09/17 09:17登録)
 空振りに終わった張り込みの帰路、神奈川県警捜査一課の警部補・二村永爾は初めてビリー・ルウ・ボニーに出会った。彼はドブ板通りの突きあたりに積み上げられた段ボールの山に埋もれ、調子っぱずれの英語の歌をゴキブリに聞かせていた。抱き起こされたルウは人気の無いハンバーガーショップに入ると、二村にスパニッシュ・オムレツとチョリソを奢る。無銭飲食と不法侵入の共犯者。二人はその晩、バー・カーリンヘンホーフで酒を酌み交わす仲になった。
 その週末、横須賀の岸壁に打ち寄せられた死体が見つかる。どう見てもインドシナ系の外国人だが、なぜかその男は英国籍を所持していた。書類上の名前はチェン・ビンロン。紆余曲折の結果、三人のミャンマー人作業員が彼を誤って冷凍庫に閉じ込めた後、死体を海に投げ捨てたと判る。業務上過失致死の疑いも残ったが、結局地検は起訴をあきらめた。だがチェンはあのハンバーガーショップ"カプット"の経営者だった。
 施錠された"カプット"に再び侵入し、拳銃を持った謎の二人組に追われるルウに、刑事としての態度を取れない二村。その月末、ルウが突然彼のアパートを訪れる。「頼みがあるんだ。ぼくのために車を動かしてくれないか」「ぼくを横田まで送ってくれ」
 二村はビリーを三つのトランクと共に横田基地まで送り届ける。彼は百ドル札を二つにちぎって渡すと九十九時間後の再会を約し、低翼双発機シンシアに乗って夜空の片隅にかき消えた。だがビリー・ルウは出発直前マンション駐車場の愛車に、刺殺された女の死体をトランク詰めにしていたのだった。そして彼を乗せた双発機は、台湾山中で消息を絶つ――
 前作「真夜中へもう一歩」からなんと約20年ぶりの二村永爾シリーズ4作目。2004年刊行。言わずと知れたチャンドラーのオマージュ作品ですが、LONGではなくWRONG(間違った)となってるところがミソ。連載『ヨコスカ調書』を修正し1995年、「別冊野生時代」書き下ろし長編として発刊された『グッドバイ』に、『眠れる森のスパイ』や他作品の引用を加え、大幅に加筆修正を施し纏めたもの。『リンゴォ・キッドの休日』の高城由や、情報屋ヤマトなど懐かしい顔触れも再登場。
 責任を取る形で捜査一課から、警察図書館準備室とかいう訳の分からないセクションに左遷された主人公。一気にヒマになるや否や旧知の元鬼刑事・佐藤から、昔馴染みの女将・平岡玲子の失踪調査を依頼されます。依頼主は彼女の養女、平岡海鈴ことヴェトナム系戦災孤児のアイリーン・スー。世界的ヴァイオリニストで、日本公演のかたわら養母に連絡を取ろうとしたところでした。玲子所有の赤いサニー・バンに残された、携帯電話の通信記録とメモ用紙。そこにチャンの名前と"カプット"との繋がりがあったことから、二つの事件は結びついていきます。
 ベトナム戦争をめぐる過去の小事件と、戦後のベトナム開発に絡む現在の大きな事件。小事件は大事件から枝分かれしたものですが、ストーリー的にはこちらがメイン。かなり複雑な筋立てです。過去篇では〈メキシコのオタトクラン〉なんて地名もご丁寧に出しちゃってます。そこまで似せなくてもいいのにねえ。
 なんのかんの言ってもムーディーな本家と異なり、現代が舞台のこちらの事件背景はドブ泥臭いもの。二村はアイリーンに振られた後警察を辞め、由もヤマトも横浜からいなくなって仕切り直し。ルポルタージュ「新ニッポン百景」と同時期の連載なせいか、作中でも変わりゆく日本への毒舌が目立ちます。色々と黄昏てるんで、点数は7点。


No.244 4点 殺意の海辺
リレー長編
(2019/09/14 15:11登録)
 「お願いよ! これ、わたしの、生きるか死ぬかの問題なの!」
 イギリス南海岸の保養地プレストン。周囲の喧騒にうんざりしながら行楽客で賑わう遊歩道路を歩いていた推理作家フィル・コートニーは、突然駆け寄ってきた若い女にこうささやかれた。金髪にグレーのひとみ。すばらしい美人だが、まるで見ず知らずの女。彼はわけがわからぬまま、彼女と共に見世物小屋のひとつ〈なつかしの幽霊水車場〉行きのボートに乗り込むが――
 ジョン・ディクスン・カーのラジオドラマ「死を賭けるか?(一九四二年CBS放送)」と同シチュエーションで始まる表題作と、ドロシー・セイヤーズが音頭を取り、英国女流作家陣で固めた「弔花はご辞退」。以上二本を収録したリレー中篇集。前者は「News Chronicle」誌に、後者は「Daily Sketch」誌に、それぞれ一九五四年、一九五三年の掲載。著名メンバー頻出の後者はともかく、カー以外ほぼマイナー作家陣で書き継いだ表題作は少々アレな出来。リレーの問題点が全部出たような仕上がりです。
 タイトルとオープニングからカー本人はもっと無難な着地を期待していたと思われますが、立て続けのムチャクチャな展開の中で、バトン走者の一人がペンを滑らせた事からさあ大変。トリを受け持つエリザベス・フェラーズ(「私が見たと蠅は云う」の作者)は、なんとスパイ小説として強引に纏めてしまいます。いきなり核物理学者とか出されても、正直困るよなあ。
 破綻しまくりの前者に比べると後者は遥かにマトモ。周辺から孤立した田舎屋敷に、住み込みコック兼家政婦として雇われたおばはんのサスペンス系推理物です。トップバッターを務めるセイヤーズの筆力はさすがで、ここでしっかり登場人物が描かれるため、後半に至ってもブレが殆どありません。クリスティーと並び称される実力の程を再認識した次第です。
 E・C・R・ロラック、グラディス・ミッチェルと引き継いで、こちらのトリはクリスチアナ・ブランド。サスペンスにどんでん返しも加え、味のある田園ミステリとして手堅く纏めています。願わくばもう少し紙幅があると良かったなあ。
 採点は3点+5点÷2=4点。「弔花はご辞退」の方は、アレな相棒に足引っ張られた感じでやや気の毒。解説の加瀬義雄氏によれば、書き出し部分はセイヤーズ晩年の作品で、欧米のどの専門研究書にも載ってなかったそうです。書誌的にはかなり意味のある発掘みたいですね。


No.243 6点 強襲
フェリックス・フランシス
(2019/09/11 18:12登録)
 シティの金融サービス事務所〈ライアル・アンド・ブラック〉でファイナンシャル・アドバイザーを務める元騎手ニコラス・フォクストン。彼が同僚ハーブ・コヴァクとグランドナショナル観戦に出かけたその日、事件は起こった。開始三十分前に隣席のハーブが心臓に二発、頭部に一発、近距離からいきなり銃弾を三発撃ち込まれて殺害されたのだ。発砲者は目的を達するとすぐさま身をひるがえし、混乱する群集にまぎれて消えてしまった。
 もちろん、レースは中止。全てのテレビ・カメラから死角になる地点を選んでいた事から、殺しのプロの手口だと思われた。陽気で事務所の誰からも好かれていたハーブに、六万人以上の観客の目の前で射殺されるいわれは無い。だがフォクストンは彼のコートのポケットから、"言われたとおりにするべきだった。いまさら後悔しても遅い"と記されたメッセージを発見する。ならばハーブは正しい標的だったのだ。彼には暗殺者に狙われるようなわけがあったのか? そして、その理由とは?
 遺言執行者に指名されていたフォクストンは、ハーブのクレジットカードの利用明細やマネーホームの支払伝票から、彼が英国で開設したクレジット口座をアメリカ人に提供し、インターネットギャンブルやオンラインカジノを利用させていたことを知る。米国では禁止されたIT賭博の運営。グランドナショナルでの惨劇の原因はこれなのか?
 フォクストンは更に残されたデータの分析を進めるが、白昼堂々ハーブを屠った恐るべき殺人者の手は、やがて彼の元にも伸びてくるのだった・・・
 父ディックから執筆を引き継ぎ、息子フェリックス・フランシスが2011年に発表した新・競馬シリーズの第一作。原題"GAMBLE"。毎年一作のペースで上梓され、2019年9月現在シッド・ハレー登場の三作目"Refusal"(2013)を含む9作が刊行されています。もう中堅以上の作家ですね。日本では売れ行きが悪かったのか、最初の一作のみで打ち止め。少々もったいない気がします。
 主人公はグランドナショナルの優勝経験も持つ障害騎手でしたが、チェルトナムのレースで脊髄を損傷し若くして引退。筋肉だけで首を支えている状態で、日常生活には全く支障はありませんが落下や転倒などもってのほか。びくびくしてはいませんが、もしも?という気持ちは常に持っており、この状況が緊張感に繋がっています。その割に結構アクションするんですけど。終盤にはディックの処女作「本命」を意識したと思われる、追いつ追われつの乗馬チェイスもあります。
 射殺事件と平行しフォクストンの顧客である乗馬騎手ビリー・サールが、緊急に十万ポンドが必要だと口座の解約を迫ったのち轢き逃げに遭い、また上司グレゴリー・ブラックのファンド運用に疑いを抱いた大口顧客、ジョリオン・ロバーツ大佐も内密に調査を依頼してきます。ブラックのPCにアクセスしたフォクストンは亡きハーブも同じデータを覗き見していたことを知り、ここでIT賭博とファンド詐欺のどちらが本筋かという事に。
 変な絵ばかり描く恋人クローディアの行動も何かおかしいし、公私共にいっぱいいっぱいな主人公に襲い掛かるトラブルの釣瓶打ち。暗殺者を返り討ちにした後は少々弛みますが、最後は立て続けに意外性を見せてくれます。
 出来栄えは「祝宴」以上「審判」以下。前作「矜持」はアレでしたが、この新シリーズに関しては杞憂に留まりました。アッチでの評判も良いようなので、ハレー登場の第三作だけでも出版してくれないかな。


No.242 8点 マイク・ハマーへ伝言
矢作俊彦
(2019/09/10 08:33登録)
 ポルシェ九一一Sタルガは首都高のカーヴから横浜の夜空に、弧を描いて墜ちていった。彼らの友人の松本茂樹を乗せて。消火剤で真白けに厚化粧されたポルシェは、どこからどこまで真っ黒だった。誰かがトランクに入れっぱなしにしておいたゴルフ・クラブが焦げた地面に放り出され、あざやかに光っていた。
 A級ライセンスを所持していた松本が、一五〇キロといえど足回りに余裕のたっぷりあるポルシェで事故るはずがない。彼とクルマを共同所有していたマイク・ハマーと四人の仲間たちは、試験開発され首都高速警察隊に極秘納入された怪物パトカーの存在を知る。日産がシルビア・ロータリーと同時開発していた幻のGTに、セドリックのボディを被せた覆面自動車。排気量三二〇〇CCの三百馬力、自重は一・七トン。時速二三〇キロを叩き出すPC、ダットサンSR三二〇。松本はこいつに殺されたのだ。
 ハマーたち五人は茂樹の四十九日を弔ったその夜、首都高にダットサンを誘き出す"パーティー"を企画する。勝負所は首都高速一号線の大師料金所から羽田ICまでの約二キロ。茂樹が落ちたその場所だ。
 1978年発表の矢作俊彦の処女長編。「リンゴォ・キッドの休日」の方が若干早いですが、こちらは中篇二つという扱いなのかな。どれを見ても〈書き下ろし処女長編〉となっているので、まあそういう事にしておきましょう。
 ハヤカワJA版「リンゴォ・キッド・・・」で「ハメットの正嫡はマーロウとハマー! リュウ・アーチャーのプライドは死んでいる!」と熱く語っているように、マイク・ハマーにはかなりの思い入れがあるようですが、この作品の舞台は70年代後半のヨコハマ。"I,THE JULY"と啖呵を切って突っ走る直情型ヒーローの生きる場所はありません。彼の二つ名を持つ主人公含め、仲間は外交官の息子や大病院の御曹司など皆プチブル。ハマー自身も二メートルを越す大男なものの至ってクールな頭脳派で、勤務先のTV局を利用して警察に一矢報いる程度の事しか考えていません。
 またどこか吹っ切れない自分に、忸怩たる思いを抱えているマイク・ハマー。ゆえに綿密な計画も彼のコントロールを離れ、彼自身もスポットライトから次第にフェードアウトしていきます。
 群像劇の中心となるのは切れる頭と硬い意思を持つ手に負えない若者・克哉と、喧嘩屋でいっとき関西の暴力団にスカウトされるも左肩を潰されて帰ってきた翎の二人。ですが彼らが高速で繰り広げるカーチェイスの分量は終盤30Pほど。描写は濃密ながら、ストーリーの大半はそこへ向かうグループ各個人の思いと、過去の回想を中心に語られます。
 彼らに先駆けて逝ってしまった女性、それに続いて事故死した才能の塊のような年下の後輩。二人への割り切れない感情を抱えた、五人のメンバーの物語。洗練度は後期のものには劣りますがどこかアメリカン・ニューシネマの香りのする、力の篭もった作品です。

 追記:単行本の著者紹介には「船会社のメッセンジャーをはじめ、列車貨物係、船員など職を変え、一時はピンカートン・インヴィスティゲイションズ横浜支局に勤務」とあります。ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを崇拝し、「生涯を徹して嘘をつき通し、欺き通した彼こそは作家たる者の最良の手本」と語る作者ですから、「またホラ吹いてんな」くらいにしか思いませんが。とにかくまことしやかにウソを吐く人ですから、本気にしてはいけません。


No.241 6点 ハムレット復讐せよ
マイケル・イネス
(2019/09/06 21:17登録)
 モールバラ公爵邸ブレニム・パレス(ウィンストン・チャーチルの実家だそうな)にも比肩する様式美に満ちた、ホートン・ヒルの大邸宅スカムナム・コート。英国有数の大財閥クリスピン家が所有するこの豪壮かつ清楚なお屋敷で、前代未聞の事件が発生した。ホートン公爵夫人アン・ディロンの肝煎りで催されたエリザベス朝演劇「ハムレット」の上演中に、ポローニアス役を演じていた現職閣僚、オルダン卿イアン・スチュアートが射殺されたのだ。それも第三幕第四場の王妃の居間、劇中で当のポローニアスがハムレットに刺し殺される、まさにその瞬間に。
 事態を重く見た英国政府は首相じきじきの指揮のもと、スコットランド・ヤード一の腕利きジョン・アプルビイ警部をホートンに派遣し、急遽捜査にあたらせる。殺害された大法官オルダン卿はアン夫人の古馴染で、公爵家とは家族ぐるみの付き合い。おまけに彼は『農業水産省案カワカマス・スズキ共同計画』と題された国家機密文書を所持していたらしい。スパイ事件と怨恨の両面を見据え、錚々たる名士たちにとりまかれながらアプルビイは不眠不休の捜査を開始するが・・・
 1937年発表のアプルビイシリーズ第二作。「名作!」「難解!」などといった評価のある作品ですが、実際に読んでみるとそれほどでもないかなと。劇中で繰り広げられるシェイクスピア論・演出論・ハムレットの物語的解釈は高踏的ですが、レベル高い=チンプンカンプンではなくむしろ理解し易いもの。怖気づく必要はありません。というか何事もトウシロにわかりやすく説明出来てこそだよね。シェイクスピアに限った話じゃないけど。
 四部構成で「ハムレット」の素人演劇立ち上げ+殺人事件の捜査を、プロローグとエピローグで挟み込む形。とはいえこの形式にも落とし穴が用意されています。どちらかと言えば殺人とは無縁の演劇指導部分の方が良い感じなのですが、この辺りにけっこう暗示的な手掛かりが仕込んであるので読み返すと面白そうです。登場人物のプロ俳優がリクエストに応えて、即興で名役者デイヴィッド・ギャリックの演技を真似るところとかね。このシーンは異様に力が入っていて印象に残ります。
 じっくりした筆致で書かれてはいるんですが、ヘビーなボリュームに比して総合的にはコンパクトな内容。悪くはないしそれなりに考え抜かれてはいますが、年代を区切ったところでベストテン入りするようなものではありません。最大限に見ても佳作止まりかな。乱歩の採点はフカし過ぎだと思います。6.5点。


No.240 6点 メグレと老婦人
ジョルジュ・シムノン
(2019/09/04 07:40登録)
 九月だった。メグレ警視はパリ発ル・アーヴル行きから降りて、乗換えの汽車を待っていた。彼は海の匂いをかぎ、そのリズミカルな響きを聞く思いがしたのだ。メグレは子供の頃の思い出にひたりながら、昨夜の出来事を静かに回想していた。
 オルフェーヴル河岸の本庁庁舎に面会に現れた愛らしい老婦人は、ヴァランティーヌ・ベッソンと名乗った。一世を風靡した"ジュヴァ"クリームの創業者フェルディナンドの未亡人で、今は生まれ故郷のエトルタにある持ち家で一人暮らし。その家で身のまわりの用をさせるのに置いてあった女中ローズ・トロシュが、彼女の身替りとなって死んだというのだ。死因は大量の砒素による毒殺。薬好きのローズは、ヴァランティーヌが前日飲み残した眠り薬を夜中にこっそり服用したらしい。
 メグレはヴァランティーヌの懇請を受けエトルタに赴くが、彼を待ち受けていたのは互いに憎しみ合う老婦人の家族たちが織りなす、複雑な人間模様だった・・・
 1949年発表のシリーズ第60作。「メグレ保安官になる」の次作なので、二度目のアメリカ行きから帰国後、初めて手掛けたものという事になるのでしょうか。発端となる事件こそあいまいですが、中盤辺り老婦人の娘アルレット・スュドルと二人、ひどく暗い夜に海沿いの崖の小道を歩き続ける辺りからけっこう面白くなってきます。
 あけすけに全てをぶちまけながら、激しい言葉でメグレを挑発するアルレット。彼女の義理の兄テオはローズの兄アンリーと酒場で密談し、好人物そうなテオの弟シャルルも代議士の立場を気にしつつ、家族を注視しています。お菓子の売り子あがりの自分をわざと茶化すヴァランティーヌの態度にも、なにか裏がありそう。
 なかなか狡猾な犯人で、ローズの死もラスト付近で起こる射殺事件も、言い抜けが利くように考え抜かれたもの。メグレ物の常道通り、犯行手段よりも容疑者たちの人物を知る事で徐々に真実に迫っていきます。
 真相を知って読み返すと、登場人物同士のニアミスにひやりとした鬼気があります。いつもに増してエンジンの掛かりが遅いメグレですが最後は大車輪の活躍。このおっさん酒ばっか飲んで大丈夫かなみたいな視線だったル・アーヴル警察のカスタン刑事が、途中からおいてけぼりにされてて気の毒でした。


No.239 7点 応家の人々
日影丈吉
(2019/09/01 13:25登録)
 昭和十四年九月、まだ日本の領土だった台湾。治安任務専門の久我中尉は初対面の安土少佐に呼び出され、台南の大耳降街で起きた殺人事件の調査を命じられた。町の中心部にある氷屋で、街役場の吏員が警察署の書記を毒殺した後、移送前に留置場から脱走したのだ。逃亡した黄利財も被害者の鄭用器も二人とも本島人で、現場に居合わせた未亡人・坂西ユリの存在が犯行の原因になったと思われた。
 ユリと日本風の名を名乗っているが、彼女の本名は応氏珊希。台南市にある清朝の名門一族の出である。珊希は前夫の死後まもなく大耳降署の保安係長・坂西警部と再婚したのだが、その坂西もまた毒殺事件の二カ月前、街のはずれにあるマンゴの並木道で刺殺されていた。安土は現場に居合わせたたったひとりの内地人である公学校教師・品木渡の存在に注意するよう言い含め、久我を台南へ送り出す。
 有能者と見なされながら任務になじめぬ久我は、かすかな反抗心を抱きながら本島人の巡査部長・馮次忠の助力を得て調査を続けるが、北回帰線下の台南地方を旅する彼の脳裏に浮かぶのは、いくつもの死に彩られた珊希の妖しい面影だった・・・
 「非常階段」に続く長編第5作。台北が舞台の「内部の真実」と対を為す台湾もので、1961年の発表。スリラーめいた導入部で始まるものの早々にそれをほっぽらかして二十数年前の回想に突入し、エピローグでまた現在の事件に立ち戻るという構成。過去の事件との関連については最後に軽く触れられます。
 大耳降の事件を調査するうちに逃亡した黄の死体が発見され、未亡人珊希も品木に謎の五言絶句をことづけた後失踪。絶句の謎を解いた久我は、珊希の後を追ってさらに南部の高雄州や潮州各地を経廻ります。中盤には品木が台北の雑誌に応募したモデル小説が挟まれるなど、作中の一部は入れ子構造。ただしあくまでも味付け程度です。
 台南の風俗描写や熱帯の空気感などは素晴らしいものの、その本質は本格味の強い「内部の真実」と真逆。本サイトの分類だと実は 冒険/スリラー/スパイ小説 に近い作品で、冒頭部のいきなり展開は作者の親切な忠告でしょう。唐突な展開や伏線の少なさも、そう解釈すれば納得できます。まあ、普通の人は怒るでしょうけど。
 氷屋での毒殺トリックは軽業風できわどいもののかなり面白く及第点。好みだとむしろ「内部の・・・」よりもこっちですが、同意してくれる人は少ないかな。


No.238 6点 仕立て屋の恋
ジョルジュ・シムノン
(2019/08/28 15:34登録)
 パリのヴィルジュイフ(ユダヤ人街)の空き地で、顔かたちが識別できないほど無惨に切り刻まれた娼婦の死体が発見された。通称リュリュと呼ばれるその女のバッグは紛失しており、さまざまな情報をつき合わせて、犯行当時約二千フランの現金が詰まっていたものと推定された。
 そこから二百メートルと離れていないアパートにひっそりと暮らすイール氏は、隣近所の誰からも嫌われている孤独な独身男だった。強制猥褻の実刑、SMものの出版、求人広告をダシにした、詐欺まがいの商売・・・
 イール氏は警察に嫌疑をかけられ、刑事たちにつきまとわれる。しかし彼は無実だった。向かいに住む女性アリスの部屋に入ってきた男が、洗面器で手を洗いながら女物のバッグをマットレスの下にねじ込むのを目撃していたのだ。だが彼は、警察にはそれを告げなかった。
 イール氏は覗き見の対象であるアリス本人に接近しようとし、徐々に二人の距離は縮まってゆく。だが、それは崩壊の始まりにすぎなかった・・・
 1933年の発表。作中描写から時代設定は1924年から発表年までと推察されますが、おそらくリアルタイムでしょう。ナチスドイツがクーデターで政権を握り、国際連盟を脱退した頃。アインシュタインの亡命もこの時期です。主人公はリトアニア生まれのロシア系ユダヤ人なので、「怪盗レトン」の犯人とほぼ同じ立場。犯罪歴がなくとも、うさんくさい目で見られていたと思われます。不穏な時代の不安定な亡命者の物語です。
 シムノンの文章はいつも以上にカメラ・アイのようで、登場人物の行動のみが乾いた目線で淡々と語られます。イール氏の寒々とした生活、それと対を成すアリスの生々しさ、肘を突き合わせてひそひそと囁く人々、怯えと表裏一体になった悪意。
 そうやって潜んでいたものが、機を得て一気に爆発する。正直ここまで暴力的になるとは思っていませんでした。結末にかかり宝石店の主人が「えっ!」という声をもらすシーンと、ダンスホールの娘がイール氏の顔を見て笑いを消すシーン、この二つがアクセントとして効いています。
 第一期メグレシリーズの最終作「メグレ再出馬」と同年の作品。作者が心機一転、新しい表現の可能性を探ろうとした意欲作で、点数は7点寄りの6.5点。ヒロイン・アリスが見せる冷酷さは「女なんてこんなものさ」というシムノンの達観でしょうか。


No.237 7点
日影丈吉
(2019/08/25 01:30登録)
 日影丈吉最晩年の短編集。一九八七年八月号~一九九一年十月号まで、雑誌「ミステリマガジン」にポツポツと掲載された幻想作品を中心にして編まれたもの。死後も律儀に投票所に通う男の話「墓碣市民」から遺作となった「極限の吸血鬼」までの7編に未刊行初期短篇2編を加え、作家としての日影の覚え書きとも言える〈三冊の日記帳〉を掉尾に置いています。
 現実と幻想世界の境界に立つ登場人物が、ふと異界を覗き見ながら深くは踏み込まず感情もさほど差し挟まず、踵を返してまたとぼとぼと日常生活の中に戻っていくといったものが主体。水木しげる世界というかある種の諸星大二郎作品風というか。何度も道のまんなかに現れるシェパードが、奇妙に昔風の印象を残した洋食屋に作者を案内しようとする「冥府の犬」と、山田正紀の「妖鳥(ハルピュイア)」に影響を与えたと思われる表題作が良い感じ。
 特に病院を舞台に据えた「鳩」がラストに見せる鮮烈なイメージは出色で、この短篇の発表時作者はなんと満83歳。この年齢の作家が脂の乗った数世代のちの作家を現在進行形でインスパイアするというのは、まったくもってタダゴトではありません。これが心不全により東京町田の自宅で逝去する三ヶ月前の話で、次の「極限の吸血鬼」発表の同月にお亡くなりになってますから、横溝正史同様死ぬまで一作家であり続けた人だと言えるでしょう。幻想文学の書き手は夭折者が多く、ここまで息の長い創作家の存在は異例です。
 一九八九年には白水社刊行の『泥汽車』で、満場一致の上第十八回泉鏡花賞受賞。この時満81歳。坂口安吾といっしょに同人誌を作ってたという作者らしく、同席者も含めてなんかジジイばっかの授賞式だったみたいですが。この妖怪のようなしぶとさは、若年時から老荘思想に親しんできた事にもあるようです。
 その辺りの創作のアヤが感じられるのが巻末の〈三冊の日記帳〉。早川書房の先行作品集『夢の播種』収載短篇「旅愁」の原型と思われる悪夢が語られるなど、無視してよい内容ではありません。死の影が強く射す幼年期の自伝「硝子の章」と併せ滋味も深く、個人的に読み応えがありました。解説によると『泥汽車』もかなり良さそうなので、そのうち読んでみたいと思います。点数は敬意を表して1点おまけ。


No.236 8点 魔群の通過
山田風太郎
(2019/08/23 04:52登録)
 元和元(1864)年11月、禁門の変に相前後し筑波山で挙兵した水戸天狗党は内部分裂の結果、敗北した。第一次長州征伐に平行して那珂湊と戦闘を続けてきた六万の幕府連合軍に、那珂湊勢が主将と仰ぐ藩主名代・松平大炊頭が突如単独降伏したのだ。あまつさえ大炊頭率いる大発勢は他の二軍、筑波勢と武田勢に攻撃しようとし、党は完全に継戦能力を失った。
 だが大炊頭は一言の弁明も許されず賊魁として切腹を命じられる。大炊同様心ならずも戦争に巻き込まれた天狗党総大将・武田耕雲斎は、藤田小四郎率いる筑波勢を合わせてはるばる京都へ上洛し、時の天子に自らの苦衷を訴える事を決断した。四男源五郎と嫡孫の金次郎が、幕軍大将の妾・おゆんと、水戸佐幕派重鎮の娘・お登世の二人を人質として連れ帰ったことも、彼の判断を後押ししていた。
 「京には、故斉昭公のご子息慶喜さまが禁裏守衛総督としておわす。人質がいれば、まさか赤沼牢の家族にも手は出すまい」
 耕雲斎を戴く千人余の大武装集団は常陸と下野の外縁部を抜け、はるばる信濃から美濃へと、道なき道を、大山脈を踏破し行軍する。凍りつくような初冬の星空の下、ものものしい大軍は巨大な爬虫類のように動き出した・・・
 1976年11月~1977年5月まで雑誌「カッパまがじん」掲載。明治もの「地の果ての獄」の「オール読物」連載とほぼかぶる形。「天狗党? ああそーいうのもあったね」ぐらいの認識しかない人間を瞬時に物語世界に連れ去り、濃密な情報を叩き込みつつ疾風怒濤のドラマの中に放り出す練達の手腕は、さすが山風。白紙に近いアタマの中に、哀切極まりない人間像を刻み込む。
 耕雲斎の一子源五郎・初孫金次郎の二人、十五歳と十七歳の少年をあえて主人公に据え、少年戦士野村丑之助や豪僧全海入道・大軍師山国兵部などの魅力的な登場人物を配置。かれらにも勝る印象を残す幕府若年寄・田沼玄蕃の愛妾おゆんと、薄倖の少女お登世を対置。「修羅維新牢」に引き続き登場する後の豪商・天下の糸平こと田中平八も復讐劇の〆に一役買います。
 「天狗行列には数挺のおんな駕籠がまじっていた」との沿道の目撃者の記録から、一気に奇想を羽ばたかせた作品。並みいる風太郎作品群の中でもとりわけ救いの無い展開です。というか不勉強でして、大陸なら知らず国内でこれほどまでの大殺戮があったのを改めて知りました。
 天狗党進軍後も終わらず、さらに執拗に繰り返される誅戮。
 あの懸軍万里の大行軍は何のためであったか。あの超人的なエネルギーの燃焼の報酬は何であったのか。
 語り手である源五郎少年ことのちの福井地裁判事・武田猛は、果たしてその先に何を見たのか? 結末の解釈は読んだ方それぞれの胸に委ねたいと思います。


No.235 7点 カインの娘たち
コリン・デクスター
(2019/08/21 08:06登録)
 モース主任警部が捜査を引き継いだ、大学の元研究員の刺殺事件は意外な展開を見せた。容疑者と思われた博物館係員の男が行方不明となり、数週間後に刺殺体で発見されたのだ。凶器は博物館から盗まれたナイフだった。二つの殺人に何か関係が?やがて、殺された男に恨みを持つ三人の女の存在が浮かび上がるが、彼女たちには鉄壁のアリバイが!(内容紹介より)
 「モース警部、最大の事件」に引き続き発表された、シリーズ第11作。1994年発表。簡にして要を得た説明なのでそのまま抜粋しましたが、こうなるのは本書も3/4を過ぎたあと。作中でも「事件はスピーディーな進展を見せてはいない」などと書かれてしまいます。二部構成もあまり生きてはいません。
 ではつまらないのかというと決してそんな事はなく、盗難品のナイフを使ったアリバイ・トリックはかなり考え抜かれたもの。体調のはかばかしくないモースも、いつもの仮説スクラップビルドとまではいきませんが時折光る推察を見せて引っ張ります。
 ただかなり厚めではあるので、ミステリとしての興味だけで読むと展開が遅いのはキツい。中盤付近で吐血したモースが緊急入院したり、ラストで熱い告白を受けるなど、ドラマ部分の派手さに食われた感もあります。まあこの主人公は人間臭過ぎて、倒れたからといって突然生活態度を改めたりなどしないのですが。
 文章もますます充実しており、むしろ熟成過程。じっくり読めば、そこまで低評価に甘んじるような作品ではないと思います。モースが引退を示唆するなど、明らかに畳みに来ているのがマイナスに働いたのかな。主任警部が万全の状態でガンガンのたうち回っていれば、また評価も違ったでしょう。採点は少し甘めの7点。


No.234 6点 割れる 陶展文の推理
陳舜臣
(2019/08/20 03:23登録)
 岩佐商事株式会社香港支店のタイピスト林宝媛は、十五年まえ留学でアメリカに渡ったきり消息を絶った兄・東策を探すため、一か月の休暇をもらい日本に渡った。有望な青年学者として家族の期待を一身に受けていた彼は、母国の政治情勢に動揺し突然商人に転進したのだ。少なからぬ額の金を米ドルで二度ほど送金したあと、ニューヨークをひき払ってサンフランシスコへ行くつもりだというのが最後の手紙だった。
 なんどもアメリカへ出した便りはみな差し戻され、兄との音信はつかないまま。ただ一人だけ『林東策という留学生あがりの中国人が、日本へ行きたいと言っていた、――そんな話をきいたことがある』と知らせてくれた人がいる。宝媛はそんなあやふやな情報を頼りに、はるばる神戸にやって来たのだった。
 神戸支店の元駐在員三浦達夫の斡旋で、同じビルの地階にある桃源亭主人・陶展文宅の離れを借りることになった宝媛だったが、彼女に好意を持った家主の展文は、ツテを辿って東策の行方を探そうと申し出る。係官の知り合いに頼んで外国人登録の原簿を調べるのだ。
 二人は手分けして林姓の在住者に当たるが半月後の朝、突然展文宅に生田署の神尾警部から電話がかかってくる。神戸の一流ホテル、イースタンで殺人事件がおきたのだ。被害者は知り合いの光和アパート主人・王同平。そして彼を撲殺したあとホテルから姿を消したのは、東京在住の中国人実業家となった林東策だった。ここしばらく彼のことを調べていたのが、警察の注意を惹いたのだ。陶展文は宝媛を励ますと共に、三浦や弟子の新聞記者・小島の協力を得て東策の嫌疑を晴らそうとするが――
 陳舜臣の第五長編。陶展文シリーズとしては「三色の家」に続く三作目で、いずれも同年1962年の発表。短めですが謎解き部分のアリバイ崩し以外詰め込んだ感は無く、複数の要素を絡めながらむしろ悠々と筆を進めています。先の展文もの二長編のゴツゴツした手触りに比べて余裕が増し、より手馴れた捌き具合。後の名作「炎に絵を」に通じる味わいもあります。
 肝心の展文の推理は「こう考えるのが最も自然」といった程度でさほど強力ではありませんが、筋運びは「弓の部屋」の流れを受けて格段に上手い。もっともあちらほど魅力的なトリックではないですが。
 難点を言えば、犯人がメインの偽装工作に寄り掛かり過ぎていることでしょうか。作中にも「もろいアリバイ」という言葉が出てきますが、このあたり少々安易な気がします。


No.233 5点 寄り目のテディベア
エド・マクベイン
(2019/08/19 00:59登録)
 銃撃による昏睡状態から抜け出した五ヵ月後、弁護士マシュー・ホープが復帰して最初の仕事に選んだのは、大手メーカー〈トイランド・トイランド〉を相手取ったテディベアの製造差し止め訴訟だった。玩具デザイナーの依頼人レイニー・コミンズは、トイランドの新製品『寄り目のくまグラディス』を、彼女がデザインした『寄り目のくまグラドリー』の模倣であると主張していた。元の勤務先の社長ブレット・トーランドが自分のアイデアを盗み、来たるクリスマス商戦の主力商品として販売しようとしているのだと。
 レイニー自身もグラドリー同様に斜視で、特殊な眼鏡でくまの目を正常に見せるアイデアは自らの体験に根差していると彼女は語る。だが事前審理での判事の反応は鈍く、被告席についているブレットとエッタのトーランド夫妻は静かに弁論を見守っていた。
 マシューは裁判の行方に自信をなくしたレイニーを勇気付けるが、翌水曜日の朝地元テレビ局の放送をつけた彼の眼と耳に飛びこんできたのは、ブレットが昨夜遅く彼のヨットで射殺され、レイニーが容疑者として拘留されたというニュースだった・・・
 1996年発表のホープ弁護士シリーズ第12作。前作で肩に一発、胸に一発の銃弾を撃ち込まれたホープはまだ完全には復調しておらず、恋人の州検事補パトリシアとの仲もしっくりいっていないようです。作中でも頻繁に不自由な身体に悪態をついています。とはいえ今回は彼が病躯を推す場面が多い。というのは専属の私立探偵チーム、ウォレン・チェインバーズとトゥーツ・カイリーのコンビが開店休業状態だからです。
 ホープの退院直後にトゥーツは旧知の悪徳警官と再会しコカインを吸引。再び悪癖がぶり返した彼女を、ウォレンは陸地から遠く離れたフロリダ洋上に監禁。強制的に禁断症状に落とし込み、中毒状態から解放しようと試みます。殺害現場もヨット上、二人のドラマもヨット上。これらを二重写しにして、交互にストーリーが展開します。
 それまでの行きがかりからレイニーの弁護を引き受けるホープ。ですが彼女の証言は二転三転し、彼にも全てを告げません。この辺りの微妙なアヤが見どころですかね。レイニーの所持品――金のヴィクトリア朝の指輪や、スカーフの行方が小道具に使われています。それが無くても、地の文からある程度の想像は付きますが。
 総合的には『小さな娘がいた』よりまたちょっと落ちた感じ。童話縛りがキツくなってたようで、第十作『メアリー、メアリー』あたりから枷を外すよう、エージェントを通して版元と交渉してたようですが、色々ゴタゴタしてくるとモチベーションを保ち続けるのが難しいのかもしれません。このシリーズもあと一作で終了なので、最後の踏ん張りに期待したい所です。


No.232 6点 麻薬密売人
エド・マクベイン
(2019/08/16 15:46登録)
 クリスマスも間近な年の瀬の夜、耳がちぎれそうな寒さに震えるパトロール警官は、通りの奥にあかりを見た。くろぐろとした闇のなか、警官は導かれるように一軒のアパートに近づく。地階の階段の開いた口から、あかりは溢れていた。リヴォルヴァーをひきぬき用心しながら地下室に足を踏み入れると、部屋のずっと奥の寝棚に少年が腰かけている。紫色の顔をして、ひどく不安定な恰好で前のめりになって。
 頸のまわりは紐で縛りつけてあり、紐の端は格子窓に結びつけられている。そいつが彼のからだを支えているのだ。両手は熟睡しきっている人間のように両脇にだらりとさげ、掌を上に向けている。片方の手から数インチ離れた場所に空の注射器がころがっていた・・・
 被害者はプエルト・リコ系の十八歳の少年アニーバル・エルナンデス。死因はヘロインの射ち過ぎ。事件担当のスティーヴ・キャレラ刑事はあからさまな自殺の偽装にキナくささを感じますが、犯人の狙いは掴めません。注射器をはじめ現場からは鮮明な指紋が検出されますが、前科はないらしく身元の照合も出来ません。
 朦朧状態の被害者が紐を結べる筈がないと分かっていながら、わざわざ自殺に見せかけたのはなぜなのか・・・
 キャレラは三歳上の姉マリアに聞き込みをしますが、彼女からは何も聞き出せません。マリアはアニーバルを麻薬中毒に引きずり込み、自身も薬の代金を稼ぐために娼婦にいそしんでいました。引き続き分署管内の麻薬取引をあたるうち、やがて「ゴンソ」という売人の名前が浮かび上がってきます。そいつがアニーバルの死後、彼の顧客たちに麻薬を売りつけているらしい。
 その頃、捜査班を一手に仕切るピーター・バーンズ警部の下に、身元不明の人物からの電話が掛かってきた・・・
 1956年発表のシリーズ第三作。「冬はまるで爆弾をかかえたアナーキストのように襲いかかってきた」という、有名な書き出しで始まる作品。どちらかと言えばレギュラー刑事たちのドラマが主体。訳者は作家の中田耕治氏ですが、癖の強い訳なので読者の好き嫌いは分かれるでしょう。
 被害者となるプエルト・リコ人姉弟とその母親、及び犯人像、謎の男からの脅迫に揺れ動くバーンズ警部一家など、ドラマ部分はかなりよく出来ていますがミステリ要素はほとんどないですね。そういうのを期待して読むとつまらないかも。刑事物のキャラクター回みたいな作品です。個人的には瀕死のキャレラを見舞う密告者(はと)、ダニー・ギムプのエピソードが好き。
 作者は本書でスティーヴ・キャレラを殺すつもりだったそうですが、辛気臭くても一応クリスマス・ストーリーではあるので、この結末で正解でしょう。87分署シリーズが成功した一番の理由はキャレラではなく、聾唖の妻テディの存在にあると思いますので。本編を最後にキャレラ夫妻が退場していれば、ここまで長くは続かなかったかも。


No.231 6点 リンゴォ・キッドの休日
矢作俊彦
(2019/08/15 04:14登録)
 昭和五十一年春。県警本部捜査一課に所属する二村永爾は六週間ぶりの休日の朝、旧知の横須賀署署長・岡崎の呼び出しを受けた。米軍軍港の突堤先っぽから引き揚げられたワーゲン、その中で拳銃自殺していた男の事件を私的に洗ってほしいというのだ。車が沈んでいたのは、先端から二十メートルも沖合。最終速度が時速九十キロはなくては、そこまでぶっとばない。なのにエプロンの上には急停車の跡がはっきり残り、ハンドブレーキは手がかりになっていた。さらに問題の拳銃は、屍体を飛び越して座席の反対側に転げ落ちていたのだ。
 偽造旅券を所持していた男の名はフェリーノ・バルガス。フィリピン国籍を詐称する日本人と思われ、ドーランで色黒の地肌を偽装し、他にも数年前の高速回数券など奇妙なものばかりを持っていた。
 一一〇番に知らせが入ったのは、今朝七時四分。ボストン訛りの英語でまくしたてた通報はすぐに切られ、高台の館ではクラブに勤める女・清水裕子が撃たれていた。心臓を一発。その銃弾が、バルガスの左こめかみを撃ち抜いた弾と一致したのだ。銃はロシア製の七・六二ミリ"トカレフ"。二つの事件は関連しているが、単純な無理心中といった訳でもなさそうだ。しかも、裏では公安がすでに動いている。
 二村は巨人戦の開幕チケットと署長のポケットマネー二万円を手に、事件以来行方を晦ましている裕子の友人・高城由(より)を探すべく情報屋・ヤマトと接触を試みるが、そんな彼を尾けまわす者がいた・・・
 二村永爾シリーズ第一作。初出は雑誌「ミステリマガジン」1976年12月号~1977年1月号に前後編分載。当時ラジオの仕事に携わっていた作者によると、横須賀を舞台にした映画製作の資金を得るべくシナリオをあわてて小説に書き直したそうですが、これはやや韜晦気味の発言。チャンドラー「長いお別れ」のエピグラフを巻頭に掲げ、文庫化の際には長尺の評論を加えるなど、実際にはかなりの意気込みを持って執筆されたと思われます。
 神奈川県警と公安警察、東西ヤクザに加え特ダネ狙いの雑誌記者、おまけに暴走族など、関係者は多彩ですが事件の骨子は単純。くっついた枝葉を取り払い、最後に浮かび上がる男女の惚れた晴れたをどう評価するかといった作品。とはいえイマイチ思い入れのない時代背景なので、あまり胸に響きません。もう少し年配の方だとまた違うかもしれませんが。
 文章もハヤカワ文庫版当時は「カッコいい!」と思ったんですが、後年のものに比べるとやや露骨。それでも大沢在昌が激賞するくらいスタイリッシュなんですが。矢作はどんどん上手くなってるからなー。実質処女作とはいえ、やはり若書きという事になるんでしょうか。それも凄い話だけど。ちょっと無駄に込み入ってるので、点数は6点相当。


No.230 5点 アララテのアプルビイ
マイケル・イネス
(2019/08/12 16:54登録)
 太平洋を眺めながらサン・デッキの喫茶室でくつろぐ六人の船客たち。だがUボートが発射した魚雷を受け船は沈没し、彼らは漂流生活を余儀なくされる。ひっくり返ったドーム型のカフェはガラス面を下に、バー・カウンターとテーブルの脚は舵の代用品に、ソーダ・ファウンテンのシートを帆にと、珍妙な筏はぷかぷかと陸地を目指す。
 船?はやがてエキゾチックな南の島に流れ着くが、無人島生活を満喫する間もなく、船客の一人サー・ポント・ウヌムヌが後頭部を殴られた死体となって海に浮かんだ。いったいなぜ黒人の人類学者は殺されたのか? スコットランド・ヤードの警官で漂流者の一人ジョン・アプルビイは、異様な状況下での殺人に困惑するが・・・
 1941年発表のイネスの第七長編。サロン風のディスカッションから10Pほどで船は沈没。これでサバイバルが始まるかというと全然そうではなく、喫茶室にはシェリー酒やキャビアやビスケット等の食料品が満載。基本的にどこか浮世離れした雰囲気が続いた後、遭難者たちはわりとあっさり島に漂着します。その島も食料は豊富で、海亀を焼いたりココナツジュースを啜ったりと全く緊迫感がありません。
 やがて殺人が起こると多少は引き締まりますが、中盤になるとまたストーリーが大転換。ふざけてるんじゃないかとも思える展開なんですが、最後まで読むと戦時ミステリの一種ですねこれ。バトルオブブリテンが終わって、独ソ戦に突入した頃の発表だからあたりまえか。後半には殺人も続発し、ソレ系のアクションシーンもあります。
 最初から最後まで文学的薀蓄に彩られた作品。ですが翻訳は軽妙。名作だとは全然思いませんが、風変わりな要素を楽しみたい人にはいいかも。


No.229 6点 死者の舞踏場
トニイ・ヒラーマン
(2019/08/09 21:42登録)
 ナヴァホ族のインディアン警官ジョゼフ・リープホーン警部補は、ズーニ族の保留地で起きた二少年の行方不明事件に協力することとなった。十四歳になるナヴァホの一少年ジョージ・ボウレッグスを発見するのが、彼の任務だった。もうひとりの少年エルネスト・カータは十二歳のズーニで、彼の自転車が置き捨てられていた地面に"大変な"量の血液がしみこんでいたと言う。カータは来たる神聖なシャラコの祭りで、《小さな火の神》シュラウィツィの役柄を務めることになっていた。
 FBI、麻薬捜査官、州警察、ズーニ警察。複数の捜査陣が入り乱れる中、リープホーンはないがしろに扱われながらも黙々と捜査を続ける。弟のセシルの話では、エルネストの自転車を返しに行ったジョージは精霊〈カチナ〉が来るのを見て逃げ出したらしい。翌朝登校し同級生エルネストの不在を確認すると、そのままどこかに消えてしまったのだ。
 二人が石器を盗んだことを聞き込んだリープホーンは、古代フォルサム人の調査を行っている人類学者・レイノルズ博士とその助手テッド・アイザックスのキャンプに赴くが、彼らはそれを否定する。そのあと訪れたヒッピーのコミューン〈ジェイスンズ・フリース〉にもボウレックスの姿は無かった。もう十二月に入り、寒波が来れば凍死者の出る時期だ。いったい、ボウレックスはどこに姿を消したのか?
 そしてガレスティナ渓谷のオーソ岩棚から、半ば埋められたエルネストの死体が発見される。リープホーンはなんとしてもボウレックスを見つけようと再びジョージの家に向かうが、既にそこでは彼の父親ショーティーが撲殺されていたのだった・・・
 1974年度MWA長編賞受賞作。P・D・ジェイムズ「女には向かない職業」を抑えての栄冠で、リープホーンシリーズとしては処女作「祟り」に続く2作目。インディアン部族ごとの力関係とかわかりませんが、どうやら文化的・精神的格付けはズーニ>ナヴァホなようで、主人公リープホーンも行方不明のボウレックス少年も、ズーニ族には白人に対する以上に悶々とする感情を抱いています。ピーター・ディキンスンだと異文化へのアプローチは学術的興味のみになりますが、ヒラーマンの場合はもっと身近で自然な感じ。インディアン的思考がプロットにストレートな形で組み込まれています。
 迷信とは距離を置き〈自然の調和〉を重んじて事件にパターンを見出そうとするリープホーンもどちらかと言えば鈍重な存在。ズーニ神話をなぞった要素や、彼の前に再三現れる〈カチナ〉こと〈サラモビア〉の仮面を被った男の存在などもケレンには繋がらず、ひたすら地味に進行します。
 土壇場まで「どうなるねん」といった五里霧中の展開なんですが、これがラスト10P程で一気呵成に解決。以前にあった「あの事件」を思わせる真相。鮮やかというよりごく自然な疑問点から解明に至るのは好ポイント。ただし敷居は高めで、誰でもウェルカムな作風ではありません。


No.228 6点 モース警部、最大の事件
コリン・デクスター
(2019/08/08 08:26登録)
 モース主任警部もの5作にツイストを利かせた作品やホームズパスティーシュなど中篇2作を含む、全11編を収録した多彩な作品集。年代的には「世間の奴らは騙されやすい」からボーナストラックの「信頼できる警察」まで、ほぼ十五年間に渡ります。これは英国では、短篇小説のためのマーケットが極めて限られているからだそう。原題 "Morse's Greatest Mystery and Other Stories"。1993年刊。
 かなり良い短編集で、特にモース物はキャラや世界観がきちんと確立しているだけに、ウィスキーの香りというか読んでてコクがあります。イギリス・ミステリ傑作選既収の二作を筆頭に、非モース物の方が捻りは利いてはいますが。アイデアに加えてプラスアルファがあると強いですね。
 そんなわけでトップ3はいずれもモース登場作品で、皮肉な盗難張り込みの顛末を描いた「近所の見張り」、若島正さんお薦めの「ドードーは死んだ」、被害者がコンクールに応募した短篇ミステリを分析し、殺人事件を解決するミニ長編「内幕の物語」。この三つ。いずれも中身が詰まってます。ドイルの「花婿失踪事件」を下敷きにした「花婿は消えた?」と、艶笑譚「モンティの拳銃」も悪くないですが。
 中軸は充実してますが、巻頭と巻末は少し弱い。これらが同レベルなら7点は固かったでしょう。なおクリスマス・ストーリーでもある表題作のタイトルは、「モース警部の大いなる謎」くらいに解釈すべきだと思います。


No.227 5点 北京の星
伴野朗
(2019/08/06 11:12登録)
 いまだベトナム戦争の続く1971年、北京の中枢権力機構「中南海」は激動のさなかにあった。米軍のラオス侵攻をよそに、北ベトナム軍の後押しをする中ソの対立は激化。文化大革命の混乱は最高潮に達し、毛沢東夫人・江青を筆頭とする『四人組』が台頭。副主席であり人民軍を掌握する林彪は彼らと組み、虎視眈々と毛沢東後の最高指導者の地位を狙っている。そんな中、毛沢東本人が脳血栓により倒れたのだ。
 彼の長年の盟友で今や中国にとってかけがえのない存在となった周恩来は、前立線ガンの身を推して人民の未来のため、百年の計のために乾坤一擲の大勝負に出る。南北ベトナムを挟んで戦争状態にあるアメリカと和解し、彼らの進んだ技術力を取り込んで、文革で荒廃した中国を再生させるのだ。だがそれは、第二次大戦中からアメリカと組んできた台湾には、到底受け入れられない事だった。
 国際政治の裏側で過熱する暗闘。その余波は香港にも届いてきた。中央新聞香港支局長・仁志広は、北京で国外退去命令を受けた特派員・秋尾栄一を出迎える。どうやら特大のスクープを握ったらしい秋尾は、探りを入れる仁志に〈第三次国共合作〉というヒントを残しただけで、湾仔(ワンチャイ)の安宿の浴槽のなかで自殺を遂げる。左利きの彼が、わざわざ左手首を切るだろうか? 十万ドルのネタを握っていた男が? 秋尾は何者かに消されたのだ。
 仁志は遺品を引き取り、彼の所持していた中国煙草「牡丹」の巻き紙の中に、書かれた文字を知る。ただ一文字―― 醋、と。そして仁志から秋尾のスクープを得る為、「周恩来の使者」と名乗るフリーライター・長瀬美加が接触してきた。だが彼ら二人は既に、林彪の香港工作部隊を指揮する殺し屋『羅刹女』の監視を受けていたのだった・・・
 1971年、ニクソンの「密使」大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーの極秘訪中を巡る、国際抗争の裏面史を描いた謀略もの。「北京の星」とは周恩来その人のこと。長瀬美加は『羅刹女』に拉致された後、水死体となって発見。彼女と情を通じた仁志は復讐に燃え、美加の組織と台湾情報機関の副局長・楊徳順の助けを借りて上海に潜入。文革の嵐が吹き荒れる中国本土で冒険を繰り広げます。
 『羅刹女』の正体はバレバレなものの、「醋」の謎はそこそこ。仁志を取り込みつつ平然と捨石にする、諜報組織の非情さも良い感じ。大詰めのパキスタン・イスラマバード近郊でのテロ阻止は、目標のキッシンジャーが中国へフライトした後なので、やや拍子抜け気味ですが。
 3年の上海赴任を終えた作者が〈6.4天安門事件〉の報に接し、その遠因を追求しようとしたもの。天安門の原因となった、若き日の趙紫陽も登場します。朝日新聞を退社し作家業一本になる前の作品で、1989年発表。その史料価値も含めて、点数は5.5点。

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