仕立て屋の恋 別題「群集の敵」 |
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作家 | ジョルジュ・シムノン |
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出版日 | 1992年05月 |
平均点 | 6.00点 |
書評数 | 4人 |
No.4 | 6点 | 雪 | |
(2019/08/28 15:34登録) パリのヴィルジュイフ(ユダヤ人街)の空き地で、顔かたちが識別できないほど無惨に切り刻まれた娼婦の死体が発見された。通称リュリュと呼ばれるその女のバッグは紛失しており、さまざまな情報をつき合わせて、犯行当時約二千フランの現金が詰まっていたものと推定された。 そこから二百メートルと離れていないアパートにひっそりと暮らすイール氏は、隣近所の誰からも嫌われている孤独な独身男だった。強制猥褻の実刑、SMものの出版、求人広告をダシにした、詐欺まがいの商売・・・ イール氏は警察に嫌疑をかけられ、刑事たちにつきまとわれる。しかし彼は無実だった。向かいに住む女性アリスの部屋に入ってきた男が、洗面器で手を洗いながら女物のバッグをマットレスの下にねじ込むのを目撃していたのだ。だが彼は、警察にはそれを告げなかった。 イール氏は覗き見の対象であるアリス本人に接近しようとし、徐々に二人の距離は縮まってゆく。だが、それは崩壊の始まりにすぎなかった・・・ 1933年の発表。作中描写から時代設定は1924年から発表年までと推察されますが、おそらくリアルタイムでしょう。ナチスドイツがクーデターで政権を握り、国際連盟を脱退した頃。アインシュタインの亡命もこの時期です。主人公はリトアニア生まれのロシア系ユダヤ人なので、「怪盗レトン」の犯人とほぼ同じ立場。犯罪歴がなくとも、うさんくさい目で見られていたと思われます。不穏な時代の不安定な亡命者の物語です。 シムノンの文章はいつも以上にカメラ・アイのようで、登場人物の行動のみが乾いた目線で淡々と語られます。イール氏の寒々とした生活、それと対を成すアリスの生々しさ、肘を突き合わせてひそひそと囁く人々、怯えと表裏一体になった悪意。 そうやって潜んでいたものが、機を得て一気に爆発する。正直ここまで暴力的になるとは思っていませんでした。結末にかかり宝石店の主人が「えっ!」という声をもらすシーンと、ダンスホールの娘がイール氏の顔を見て笑いを消すシーン、この二つがアクセントとして効いています。 第一期メグレシリーズの最終作「メグレ再出馬」と同年の作品。作者が心機一転、新しい表現の可能性を探ろうとした意欲作で、点数は7点寄りの6.5点。ヒロイン・アリスが見せる冷酷さは「女なんてこんなものさ」というシムノンの達観でしょうか。 |
No.3 | 6点 | クリスティ再読 | |
(2018/05/20 18:48登録) 久々のシムノンになったが、ごめん映画は見てないや。小説だけの評価として書くことにする。 娼婦が殺された。近くのアパルトマンに住むユダヤ人のイール氏は、青白くぶよぶよと太った見かけと、何をして食べているか不明で、その変人ぶりから近所の人々に嫌われていた。イール氏がカミソリで頬を切った流血を目撃した管理人の話から、イール氏と娼婦殺しが結び付けられるようになっていった。イール氏はそんな話とはお構いなしに、アパルトマンの向いに住む女アリスに恋心を募らせてストーカーまがいの挙に出ていた。イール氏が覗きをしていることに気づいたアリスは... という話。酒鬼薔薇事件のときにも、近隣での変質者狩りみたいな噂があったのを記憶しているけども、このイール氏には弱みもいろいろあって、これらからのっぴきならない窮地に追い込まれていく。そういう社会の悪意みたいなものを、この小説はハードボイルド的といっていいくらいの客観オンリーの描写で描いている。小説はイール氏の内面にも、アリスの内面にもまったく踏み込まない。極端に「乾いた」描写が続く。 というわけで、ジッドがシムノンを称揚して、逆に「異邦人」をクサした理由が何か、よくわかる。「異邦人」がやったことなんて、実はシムノンがとうの昔に達成したことだったわけだ。カミュは「インテリ向けのシムノン」だった... |
No.2 | 6点 | 空 | |
(2017/02/16 19:56登録) 先に映画を見た後で読んだ作品の再読。 パトリス・ルコント監督による映画の原題は、"Monsieur Hire"(イール氏)で、小説の原題よりさらにそっけないものです。コメディー映画から出発したこの監督の才能を証明する作品として絶賛された映画は、仕立て屋イール氏を演じるミシェル・ブランとその店を映す冒頭からどきっとさせるような映像派ぶりを発揮してくれます。小説の方の職業設定には、臣さんも書かれているように、実はこの邦題は合いません。 本書カバー写真からもわかるとおり、主役のブランは禿ですがむしろエレガントな紳士的風貌なのに、小説では「変人で、落ちつきがない」人物に描かれています。また小説ではだらしなさそうなアリス役のサンドリーヌ・ボネールは清楚な感じで、どちらも小説の印象とはかなり違います。 なお、本作はデュヴィヴィエ監督により "Panique" のタイトルで1946年に最初に映画化されています。 |
No.1 | 6点 | 臣 | |
(2012/04/21 14:04登録) 原題を翻訳すると「イール氏の婚約」だそうですが、邦題には映画のタイトルをそのまま採用しています。「仕立て屋の恋」では映画の印象が強すぎるし(映画は観ていませんが)、イール氏は仕立て屋ではないですし、あまりにもかけ離れた感があります。一方の「イール氏の婚約」では味も素っ気もありません。 本書は恋愛物とは言いがたく、心理サスペンスと呼ぶのがぴったりで、このタイトルではピンときません。ただ、イール氏のアリスとの恋が物語の根幹をなしていることにはちがいありません。 物語は、イール氏に殺人の容疑がかけられそうになるところから始まりますが、この冒頭でなんとなく結末を想像してしまいました。イール氏とアリスが三人称の近視眼的な視点で描かれているので、ちょっとした動作でも、自分の目で見ているような感覚になります。そんな描写によってイール氏を身近に感じたせいか感情移入でき、自分の想像した結末にはならないことを祈りましたが、はたしてラストは・・・。 裏窓からの覗きや、薄汚れた感じのするアパートでの情事など、湿っぽい印象があり、抵抗感もありましたが、シムノンの明快で畳みかけるような短文に読書欲をそそられ、結果的には貪るように読んでしまいました。 |