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ミステリの祭典

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雪さんの登録情報
平均点:6.24点 書評数:586件

プロフィール| 書評

No.286 7点 柳生天狗党
五味康祐
(2020/01/01 03:14登録)
 備中国浅口郡池田村の豪農の息子・蔵人はみまかる間際の父・喜左衛門に「お前は武家の落胤だ」と告げられる。事情を知る小原寺の和尚・呑休によれば、母親を孕ませて去ったのは公儀隠密・柳生十兵衛三厳その人であった。美作への帰路、たまたま亀山窯に立ち寄った新免武蔵が蔵人に授けられた"屑金の構え"を見て、名も知らぬ実の父の正体を看破したのだという。
 蔵人は許婚のお光と契りを交わしたのち、怪盗みみずくの伊三次と連れ立って江戸へ向かうが、その途次同じく十兵衛を父とする四国丹川郷出身の隼人介と、その異父妹・斗美に出会う。隼人介もまた十兵衛に一剣"巌の身"を伝授されていた。
 三兄妹は伊三次と共に江戸住まいの彼の弟分・さみだれの吉三に世話になるが、彼の用心棒となっている〈小石川の先生〉こと汀七郎左衛門もまた、十兵衛の血を引く者だった。薩摩生まれの長兄・七郎左衛門は直に父の教えを受けていたが、母が柳生邸で門前払いされた際顔に痣傷を被ったため、十兵衛と柳生家に深い恨みを抱いていた。
 四人は父の遺児としての証を立てるため、それぞれに江戸柳生と関わろうとするが、やがて彼らは徳川四代将軍・家綱の後継者を巡る老中・板倉重矩と柳生家、館林宰相綱吉を推す大奥それに松平越前候・伊達家・保科家・旗本水野十郎左衛門、そして甲府宰相綱重一派が絡む三つ巴の政治抗争劇に巻き込まれていく・・・
 昭和四十四(1969)年一月から十二月にかけて三四一回にわたり、山陽新聞・高知新聞ほか各地方紙に連載。交通事故後(かなりヤバい件なので詳細は各自wikiで)しばらく謹慎していたあとの再起第一作で、発表後十二年を経たのち没後発見された遺稿から纏められ、刊行されたもの。「柳生武芸帳」の簡略版にして姉妹編といった作品ですが、こちらはちゃんと完結しています。
 七郎左衛門の行方を知るため柳生屋敷を訪れた斗美は柳生藩家老・野取内匠にまるめ込まれ、松平越前守別邸の御前試合で兄と対決することになる。縄術を使う彼女は赤天狗の面を、七郎左衛門は白天狗の面を被り顔を隠した上で。
 また将軍家綱が彼女に惹かれたとみた老中・板倉は一計を案じ、蔵人と隼人介にそれぞれ白天狗・赤天狗の面と将軍直々のお墨付きを与え、無理矢理公儀隠密に引き込む。
 敗れた斗美は大奥に出仕するが、水野一派は彼女を老中の見張り役と見なし、水野の養う隻腕の凄腕剣士・檜垣冴之介に天狗の面を被らせこれを犯させようとする。そして以前に冴之介の片腕を斬ったのは、彼女の兄である七郎左衛門だった――
 いやあ、黒い黒い。なにが黒いって飛騨守宗冬ですよ。老中の思い付きを横からひったくって自分の物にし、コントロールを外れたと見れば、血の繋がった甥だろうが何だろうが大根のように叩っ斬る徹底ぶり。自ら手を下すだけでなく、他者を利用してアッサリ処分するのも手慣れたもの。私欲ゼロでトータルでは完全正義なのもまたタチが悪い。その手口はさすがあの宗矩の子。先に武芸帳読んでると不謹慎ながら「立派になって・・・」と思ってしまいます。
 哀れなのは四兄妹とその関係者。何が何やら分からぬまま天狗にされ、状況も掴めぬうちにズンバラリン。何人かは生き残りますが宗冬としては「まっ、どうでもいっか」みたいな感じです。こんな鬼畜おじさんと関わったのが運の尽き。
 まあ便乗天狗が次々現れるんで、状況なんて掴みようがないんですけどね。それを差っ引いても宗冬おじさんの謀略は凄い。相手の心理を読み切って、作中有数の知者である老中・板倉重矩までも掌に乗せる。元々五味ワールドの頂点に位置するのは政略・謀略ですが、ミステリにおける「操り」としてもかなりのもの。山風に匹敵するか、それを上回っています。これに比べると隆慶一郎とかはまだ甘いですね。
 リアルにダークサイドを覗き見て、より凄味が加わった五味柳生。〈駆け足気味〉と評される後半部分も、そう読み解けば楽しめました。点数は武芸帳を上回る7.5点。


No.285 7点 氷柱
多岐川恭
(2019/12/29 06:13登録)
 人口十万から十五万のどこにでもある日本の小都市・雁立市。しかし、この町に一人の変った男が住んでいた。元中学教師ながら他界した両親から数十万の遺産を譲られ、自然のままに放置された三万坪の敷地を「私の王国」と称して、女中の政と二人きりで隠棲生活を送る中年の男・「氷柱」こと小城江保。人との交わりを絶ち、完全なる傍観者としてただ自然と音楽だけに親しむ静かな日々。
 だがそんな生活も、散歩の途中自動車にはね飛ばされた女の子を見つけたことで終わりを告げる。その場は無関心に立ち去った小城江だったが、人形のように静かな死体は彼の心にもさざ波のようなものを残していた。
 翌朝社会面の片隅の記事を読んだ小城江は、少女――花房ルリ子の轢き逃げ捜査の難航を予測する。彼は発見者兼目撃者として警察へ助言に赴くが、それは彼女の母親・登喜子との出会いと、彼が奇妙な役割を務めることになる一連の殺人の始まりだった・・・
 昭和三十一(1956)年、河出書房『探偵小説名作全集』全11巻の別巻として出されるはずだった一般書き下ろし次点作品で、多岐川恭の処女長編。ちなみにこの時の当選作・仁木悦子『猫は知っていた』は、江戸川乱歩の勧めで公募新人賞の江戸川乱歩賞に回され、翌年見事に小説作品としての初受賞となりました。
 本編はそのまた翌年の昭和三十三(1958)年、『濡れた心』での作者の第4回乱歩賞受賞に伴い、改めて河出書房から刊行されたものです。この年『点と線』『眼の壁』がベストセラーになったばかりの松本清張が激賞し、乱歩と探偵小説文学論を展開した木々高太郎が序文を寄せています。いわば社会派ブームが巻き起こる直前に発表された、異色のデビュー作。
 何よりも特異なのは主人公の造型と性格設定で、上記のようにとにかく自分を無感動に律しようとする。ただ無能力かといえば大きな誤りで、その観察力や推理力は捜査課長の由木警部が一目置くほど。普通はここで彼が探偵役となるのですが、ひねくれた作者のことですからそうはなりません。なんと話はここからクライム&倒叙物に突入します。
 それも小城江の性格ゆえの遅々たる展開。自動車事故が三月で、行動を起こすのは夏になってから。荒んだ登喜子を家に引き取り、何をするでもなく身近に棲まわせる。彼女に惹かれながらも決して手を出すことはせず、キレた登喜子が捨て鉢にアタックしてきてもそのまま。彼はこの状態を〈凪ぎの日々〉と形容しています。
 こういう男が〈弱い者への愛〉のために、法で裁けぬ罪を犯した者たちに私的制裁を加える。それも衆人環視の場所で相手を拘束し、素っ裸にして晒し者にするといった奇矯な方法で。これが描かれる犯行過程もなかなかですが、さらに便乗殺人が行われることにより小城江が最終的に探偵役となるのがまた異色。犯人→探偵の役割転換が行われる作品は他にもありますが、その性格描写も手伝って本書はとりわけ複雑な余韻を残します。
 トリックとかは付け足しぽいですが、海外にも類の無い作品ということで7点。一風変ったラブロマンスとしても読めます。木々先生は惜しがっていますが、真情を秘め隠したこの結末の方がキャラに合っているでしょう。


No.284 4点 ヴードゥーの悪魔
ジョン・ディクスン・カー
(2019/12/26 11:30登録)
 一八五八年四月十四日、アメリカ南部・ニューオーリンズの街がミシシッピーのほとりでまどろんでいる黄昏時、英国領事リチャード・マクレイは領事館に知人イザベル・ド・サンセールの訪問を受けた。彼女の娘マーゴの様子がおかしいのだという。二十四年前、奴隷虐待の濡れ衣を着せられ暴徒の襲撃を受けた社交界の花形マダム・デルフィン・ラローリーと、彼女に私淑していた〈ヴードゥー・クイーン〉マリー・ラヴォーに魅せられ、夢中になっているらしい。会話の途中イザベルは窓の外に注意を促すが、マクレイは一笑に付す。だがその直後、ガラスが割れて飛び散る音が響く。中庭のまんなかから投げられた陶器の瓶が、部屋の窓をぶち破ったのだ。
 その翌晩《ワシントン・アンド・アメリカン舞踏場》で催されたクワドルーン舞踏会の席上、マクレイの友人トム・クレイトンは偶然仮面を付けて参加していたマーゴ・ド・サンセールの変装を見破る。仮面を奪われ激怒した彼女はそのまま黒い馬車に乗って走り去った。マクレイ達は車中のマーゴを見張りながら二台の無蓋馬車で追跡を試みる。だが、ド・サンセール家に帰りついた馬車の中には彼女の影も形もなかった。
 彼らはサンセール夫妻に愛娘の消失を伝えるが、マーゴはまだ家に帰ってはいないという。そして階下のホールで話し合っていたまさにその時、事件は起こった。階段のいちばん上でふらふらしていた来客の一人ラザフォード判事が、突然頭から前につんのめって転落死したのだ。まるで誰かにつき飛ばされたように。だが一部始終を目撃していたホールの面々は、判事以外誰の姿も見ていなかった。
 こうしてデルフィン・ラローリー事件の煽動者、ホレス・ラザフォードは謎の死を遂げた。二十四年前の四月十五日、ラローリー一家がニューオーリンズを逃げ出したのと同じ日に・・・
 『月明かりの闇』に続き1968年に発表された、ニューオーリンズ三部作の一作目。三部構成ですが導入部では〈誰かに見張られている〉〈娘がどっかヘン〉といったあやふやな展開。
 が、第二部で復讐に燃えるマダム・ラローリーの義理の息子スティーヴ・ホワイトが犯人と目された後、ヴードゥー教の悪魔「パパ・ラ=バ」を名乗るカードが警察や事件関係者に送りつけられ、また探偵役ベンジャミン上院議員の手によって馬車からの消失の謎が解かれるに到りやっと面白くなってきます。
 とはいえノリは歴史物というより通俗物、もっと言えば少年探偵団のソレに近い。消失トリックも残念気味の殺害方法も明らかにソッチ系。第三部で明かされる一連の〈ヴードゥーの流儀〉の反転は確かに意外ですが、これも特殊な知識がないと厳しい。いずれの要素もかなり長めの物語を支えるには足りません。三部作の内では最も良いとのことですが、個別の作品としてあまり高くは評価出来ないでしょう。


No.283 8点 群狼の海
高橋泰邦
(2019/12/23 11:30登録)
 太平洋戦争も敗戦の色濃い昭和十九年十二月の半ば、商船長・高村栄次郎は東神奈川の陸軍輸送司令部へ出頭を命ぜられた。アメリカの機動部隊に制海権を握られた海上を突っ切り、石油を豊富に産出するスマトラ島のパレンバンから、航空燃料を積み取りすみやかに帰港せよというのだ。
 いまや死地と化した太平洋を往復せよとの無茶な命令――かねてからのシーレーンを軽視した軍部の無知に憤りを覚えていた高村は激高するが、輸送司令・堀越中佐とのやりとりに矛を納め任務を受諾する。中佐は油送船・燦洋丸乗組員の人選その他にも便宜を図ってくれた。副官の東堂一等航海士を始め村岡二等航海士、三好甲板長、小川機関長、いずれも気心の知れた仲間だ。加えて息子泰光の同級生・熊谷見習士官。だが肝心の船は貨物船を改造した、急ごしらえの油送船でしかないのだ。
 こうなれば彼らが愛する者たちと共に暮らせるように、再び平和な海を航れるように、経験と能力のあらん限りを尽くして、この船を無事に帰港させてみせる!
 そして特攻油送船・燦洋丸は敵B29の三機編隊が来襲する中、五十五名の乗組員を乗せて軍用棧橋を出航した。はるかインドネシアの石油精製基地・パレンバンへ向けて――
 2000年発表。軍事雑誌「丸」誌に平成十年一月号から平成十一年八月号まで、『死の波を越えて』と題して連載したものを、ふたたび推敲し加筆した上で改題刊行したもの。作者高橋泰邦は翻訳・著作家で、訳書にはC・S・フォレスターの〈海の男ホーンブロワー・シリーズ〉をはじめ先に挙げた87分署シリーズ「電話魔」など多数。作家としては海洋ものの大御所として知られています。
 本書はその最晩年、作者七十二歳の時に完結し、七十四歳で改訂刊行されました。ただし「作者あとがき」にも〈五十余年来の夢がようやく叶った〉とあり、ある意味これを世に出せるようにするために今までがあったというだけあって、枯れた気配は微塵もありません。
 船団ではなく独航(単独航海)の利点を生かし、常識の逆を行く高村船長。わざと海面の荒れる時化を狙い、また潜水艦の攻撃を避ける為に、座礁の危険を覚悟して徹底した迂回と沿岸航法を試みる。短時間のうちに舵手を次々交代させる〈のたくり航法〉、さらに夜間航行を主とするフクロウ・ワッチ。加えて航空機の視認を逃れるため船体を塗り替える保護色戦術。
 ここまでやって運悪く敵に直面した場合でも常識に囚われず、とっさの判断で回頭・転針を行い、臨機応変に作戦を立案し、少しでも生存確率を高めようと努力する・・・
 出発時に「死の宣告」と形容されるほどの任務ですが、乗組員のみならず読者にも〈これなら生き残れる〉と確信させるのが船長たるところ。精神論ではなく、経験と状況判断からくる〈確立論〉を船員たちに提示し、分岐点では必ず決を取りかつ普段の人身掌握も怠りません。人事を尽くし、策を練った上であとは全てを天命に任せます。
 作者の父親をモデルにした半ノンフィクションであり国産海洋文学の傑作。アイデア豊富なサバイバル戦記小説としても読めます。掲載誌の関係で文体は大時代ですが、敬遠するのは少々勿体無い。著者の五十年にわたる文筆生活のすべてが集約された作品です。


No.282 7点 弓形の月
泡坂妻夫
(2019/12/21 11:59登録)
 間違って配達された速達を届けに、同じワンルームマンション居住者の小川弓子を訪れた五月は、ドアが閉まる間際封も切られずに捨てられているそれを見て軽い衝撃を覚える。その二日後ある試験を受けにいく途次、五月は階下のごみ集積場から離れて行く弓子に気付いた。無意識のうちにポリ袋から問題の封筒を取り出す五月。それは開封されていなかった。そのまま後を追けていくと、ラッシュアワーが一段落した駅前で若い女性と抱き合う弓子の姿が見えた。彼女は弓子に激しく頬をすり寄せていた。
 サインペンで書かれた封を切ると、便箋にはカタカナで暗号めいた文面が書かれている。差出人の〈李京久重〉という人物と弓子はある鍵によって、二人だけの間で意志の疎通を図っていたらしい。彼らがその内容を第三者に知られることを極度に恐れている、ということだけは判った。
 東海道新幹線に乗り換え三島駅に着いた五月は、劇団「孔雀座」主宰の真吹三津雄に出迎えられる。真吹と共に車で〈試験場〉の山荘「桂華荘」へと向かう五月。このテストに合格すれば、今度の芝居の主役に抜擢されるのだ。失敗は許されない。
 今は彼の手を離れているものの、三津雄の亡き父である日本画家・真吹蘭秋が建てた桂華荘。二日前の出来事とこの建物での出会い、そして謎の封筒の発信元である蘭秋がこよなく愛した小笠原の離島・知足島が、決定的に自らの運命を変えるとは、五月には知るよしもなかった・・・
 『小説推理』1994年1、2月号掲載。「湖底のまつり」以降連綿と書き継がれてきたセクシャル系の集大成で、おそらく泡坂妻夫最大の問題作。初読の際には「えええ?」「なにこれ!?」という感じでハッキリ言ってパニック状態でしたが、じっくり読めば非常に注意深い筆致で書かれた作品なのが分かります。
 ラストでは一見して幻想小説に転化しているように見えますが、五月が小学校に入る前、意識を失い呼び戻された体験談が大きな伏線として敷かれており、これをいまわの際の幻視と解釈すれば齟齬は生じません(呼びかけに芙二子は返事をしていますが、五月は拒否しています)。「湖底~」や「妖女のねむり」のように全てが合理的に説明される訳ではありませんが。おそらくより深く主題に迫るために、民族学的アプローチを選択したのでしょう。序盤の〈おふりかわり〉や暗号部分も、あくまでそれを補強する道具の一つです。
 果たしてX→Yのような医学的事例が実在するのかは分かりませんが、本書刊行時の『驚愕の結末!』という惹句は明らかに出版者側のフカシ。そういった意外性で勝負する作品ではありません。薀蓄がややくどくはありますが、運命的なストーリー展開から来る偶然や暗合の多さ以外の部分は、舞台設定その他を含め周到に構築されています。


No.281 7点 泥汽車
日影丈吉
(2019/12/18 16:08登録)
 日影丈吉最後から二番目の短編集。白水社「物語の王国」シリーズの一つで、他のミステリ寄り作品には赤江瀑「ガラ」、かんべむさし「トラウム映画公社」、泡坂妻夫「黒き舞楽」などがあります。長め短めの各短篇をとりまぜ全6編収録。
 失われゆくものの懐かしさ、愛しさを主題に据えた、幼き日の回想とも夢ともつかぬ作品集で、中でも表題作は出色。幼少期東京のはじっこの町に住んでいた作者。ある日突然原っぱに線路が敷かれ、海の底から掘り出した泥を山と積んだ機関車が、遠くの海から毎日走ってくる。その泥で元は大名屋敷の跡だった池や草原が、どんどん埋め立てられていく。そこをすみかにしていた古い森のつきものであるモノノケやスダマの類も、何もできぬまま美しい月の夜、泣きながら最後の踊りをおどっている。全てが失われた今、森に棲むものたちは果たしてどうなってしまったのか・・・
 これと同じく子供の頃の原っぱでの遊びを描いた短めの「石の山」は出来が良かったのですが、二番目の「じゃけっと物語」は前後のばらけた、ややとりとめの無い名手日影らしからぬ作品。中盤の各篇も弱く、これは前回批評した「鳩」の方が上じゃないかなと思ってたら、五番目の短篇「かぜひき」の第二話「珍客」と、掉尾を飾る「媽祖の贈り物」の二作で持ち直しました。前者は病臥する作者の元に、ある日ふらりと老子その人が見舞いにやってくる話、後者は媽祖(一種の土地神)を信仰する母親マーミャオの祈りを聞き届けた玄天上帝が、兵隊に取られた彼女の四人の子供たちの命を守ろうとする話。特に「媽祖~」は童話めいた語り口ながら余韻嫋々としていて、本書の締めくくりに相応しいものでした。1990年度第18回泉鏡花賞受賞作。


No.280 7点 ちがった空
ギャビン・ライアル
(2019/12/18 09:08登録)
 一流の腕を持ちながら、なぜかそれにそぐわぬ会社で賃仕事に地中海一帯を飛び回るパイロット、ジャック・クレイ。副操縦士のロジャーズと共にトルコを離陸したものの、水のまざった燃料のおかげでアテネに着陸しなければならなくなったのがすべての始まりだった。おんぼろダコタを停止させてからふと滑走路を見やると、一台の飛行機が見える。翼端にタンクのついた高翼の小型機、ピアッジオ・166。機はエレガントに、軽やかに最後のターンにはいり、横風にみじんのゆらめきも見せず着陸態勢をとった。
 ひとつの元素からもうひとつの元素へ滑り移る。こんな真似ができるパイロットは世界に何人もいない。だがスクリューボール・ビュアリング、ケン・キトソンならできる。
 アテネのホテル、キング・ジョージで十年ぶりの再会を祝うジャックとケンだったが、酒に酔った彼はその席でインド分割直後に小王国トゥンガバドラの財宝を奪ったパイロットの話を語り出した。ケンのボスである元藩王ナワーブ殿下は、今もなお持ち逃げされたそれを追っているらしい。弾薬箱にぎっしり、百五十万ポンド相当の宝石を。
 翌朝空港についたジャックは格納庫のかげから出てきたケンに出会った。「しゃべりすぎた」と言う彼はジャックにアテネからの脱出を掛け合うが、駐在員ミクロスの持ちかけた胡散臭い密輸話と同様に、彼はそれを断った。ミクロスも七・六五ミリのベレッタをデスクに隠し持つなんて、今朝はえらく気が立っている。
 まもなくピアッジオは気ちがいじみた勢いで離陸するが、四分の三円を描いて上空を通過した時点で片エンジンがおかしくなり、空転したプロペラはやがて静止する。そのまま機は海上をよろめきながら飛んでいき、やがて視界から消えた。
 ナワーブはすかさずジャックのダコタをチャーターし、地中海でケンの捜索活動を行おうとする。果たして彼は無事なのか? ジャック、ナワーブ、美人秘書ミス・ブラウンと近衛将校ヘルター、そして女性アメリカ人写真家シャーリー・バート。各人の様々な思惑を秘め、ダコタ機はアテネを飛び立つ――
 ライアルのデビュー作で五部構成。アテネからクレタに到る島々やアフリカの玄関口リビア、そしてトルコのトリポリなどの地中海全域が舞台。正統派英国冒険物の流れを継ぐ小説で、1961年の発表時にはP・G・ウッドハウスがベタボメしたそうです。ミステリ部分は「まあそうだよね」という感じで、後の「もっとも危険なゲーム」「深夜プラス1」に比べると捻りが足りませんが、空の世界が中心となった男たちが時折地上に身を降ろす感覚と、世界や風景の捉え方が肌で感じられるのが素晴らしい。航空描写もさることながら、操縦士と副操縦士の間の信頼関係まで伝わってくるのはこの作者ならではでしょう。
 捜索はサクソス島で林に囲まれた十年前のダコタの残骸と、海上に浮いた油とピアッジオらしき機の車輪を発見して終了。その後いったん断ったミクロスの荷運びを請け負いますが、出発直前に彼の射殺死体を発見してから話は急展開。しがない雇われ機長から殺人容疑者へ、果ては宝石争奪戦のキーパーソンとなり、ガッツリ事件に関わっていきます。
 見所はなんといっても嵐を衝いてのピアッジオ飛行と、ラスト付近でのジャックとケンの葛藤シーンでしょうか。ぶっきらぼうな言動の根底にある明るく乾いた感傷が心地良い。ギャビン・ライアルの本質がよく出た処女作で、点数は7.5点。


No.279 6点 ジェリコ街の女
コリン・デクスター
(2019/12/15 16:31登録)
 パーティーの席で出会った女性アン・スコットはモース主任警部の目には魅力的に映った。間近に見ると、大きなうす茶色の目につやつやした肌をもつ女はいっそう魅力的に見え、唇はすでに笑いをたたえていた。二人は互いを意識し合うが、ルイス部長刑事からの急報でかれらのささやかな会話は終わりを告げる。別れ際に彼女はモースに手ずから住所を渡した。オックスフォードのジェリコ街、キャナル・リーチ九号。
 それからまるまる六ヵ月後、彼はオックスフォード読書協会のメンバーとしてジェリコ地区を訪れる。彼女の事が頭から離れないモースはアンの家の門前に立つが、ノックに応答は無い。だが人の気配はするのに、錠はかかっていなかった。彼はドアをあけて中へはいるが、やはり応答はなくそっとドアを閉めて立ち去る。ふりかえると灯っていたはずの二階のあかりが消えていた。
 その晩の読書協会での講演は大成功のうちに終わった。だが、上機嫌のモースの耳に救急車のサイレンが響く。不吉な予感を覚えたモースは会を早々に辞去し再びジェリコに向かうが、そんな彼が見たのは首つり自殺したアンの家を取り巻く警官たちの姿だった――
 「死者たちの礼拝」に続くモース主任警部シリーズ第5作。前作に続き1981年度CWAシルヴァー・ダガーを連続受賞。複雑怪奇な「死者~」と第6作「謎まで三マイル」に挟まれた作品ですが、シンプルながら出来栄えは両作よりもやや上。さらに縊死事件の謎では「キドリントンから消えた娘」のアレを上回るトンデモ仮説が炸裂します。
 アンの自殺が頭から離れず、事件担当の同僚ベル主任警部に内緒で調べを進めるモース。果ては違法に現場の合鍵を作り、コッソリ侵入したところを見つかって新米刑事にしょっぴかれる有様。人徳でなんとか彼を丸め込みますが、全てのいきさつを話さざるを得なくなってしまいます。そうこうするうちに現場向かいの十号室で第二の殺人が発生し――
 最初の事件のメインとなるトンデモと、第二の事件のアリバイ崩しの二段構え。仮説のスクラップビルドはありませんが、後半のアリバイも地味に手掛かりが敷かれています。ただ今読むと、「森を抜ける道」に代表される後期作品のボリュームには総合力で及びませんね。ドラマ部分の処理もやや消化不良気味なので、佳作とはならず6.5点。


No.278 7点 悪党パーカー/殺人遊園地
リチャード・スターク
(2019/12/13 06:11登録)
 引退した犯罪プランナー・デントのプランに乗り、集金中の現金輸送車を襲撃したパーカー。首尾良く現金七万三千ドルをせしめたものの、パトカーの追跡に焦ったドライバーの運転ミスで車は横転し、相棒の俳優強盗グロフィールドは逮捕されてしまう。辛くも車からはい出たパーカーは近隣の遊園地〈ファン・アイランド〉に逃げ込むが、現場近くの駐車場には一部始終を眺めている者がいた。ギャングの幹部カリアートと用心棒ベニッジオ、それに彼から金を受け取っていた二人の警官たちだ。
 ラジオで事件を知ったカリアートは悪徳警官オハラに逃走を偽証させ、組織から応援を呼んで奪った金を横取りしようと目論む。だがパーカーは事前に施設のあちこちに罠を仕掛け、ギャングたちを向かえ撃つのだった。
 1970年発表のシリーズ第14作目。総決算ともいえる第16作「殺戮の月」の前日譚で、雪と氷に閉ざされたシーズンオフの遊園地を舞台に、一対多の銃撃戦が展開します。
 必殺の罠を仕掛けてカリアートを葬ったパーカーですが、オハラとの格闘で水中に転落し、体力を消耗してしまいます。しょっぱなにリーダーを失い出直しを図る悪徳警官とギャングたち。パーカーはその隙に冷水で震える身体を拭い、シャワーを浴びて体力を回復させます。ですが翌朝目を覚ました彼が見たのは、後継者を殺され怒りに震えるボスのロジーニと、倍以上に増えた武装ギャングたち。ロジーニはハンド・マイクで仇打ちを宣言しますが、当のパーカーは拳銃を失い丸腰状態。水の中に落ちた拍子に落としてしまったのでした。果たして彼はこの絶体絶命の窮地から抜け出せるのでしょうか? というお話。
 縦横無尽にギミックを用いた対決&脱出物。土地勘の無いパーカーですが、安全策を選んだカリアートがトラブルでもたつく間に管理事務所から地図を入手。施設内の全容を把握し万全の構えで待ち受けます。ポケットブックで170Pほどの短さながら叩き込まれたアイデアの数々はなかなかで、特にミラーハウスの仕掛けは考えてあります。パーカーが鏡に白丸を描きなぐっている時は、全く彼の意図が掴めませんでした。
 邦題はアレですが、遊園地で戦うというのはロマンというか童心をくすぐると言うか、夢のあるシチュエーションですね。電源を点けて施設を稼動させたり、ちゃんと意味もあるけど作者はノリノリでやってます。十数冊書いてまだこんな作品が出るんだから、愛読者がゴロゴロいるのも分かるわ。


No.277 8点 森を抜ける道
コリン・デクスター
(2019/12/10 17:16登録)
 わたしを見つけて、スウェーデンの娘を
 わたしを覆う凍った外被をとかして
 碧空を映す水を乾かし
 わたしの永遠のテントを広げて

 約一年前の一九九一年七月、ウッドストックの南一マイルにあるA44号線の待避所でスウェーデン人女子学生のリュックサックが発見された。脇ポケットから出てきた書類によって、持主はウプサラ出身の学生カリン・エリクスンと判明。ロンドンからヒッチハイクでオックスフォードへ行ったと思われる彼女の足取りは、バンベリー・ロード周辺で途絶えていた。だが新たにオックスフォードシャー、キドリントンのテムズ・バレイ警察本部に送りつけられた謎の詩は、事件に新たな光を投げかけることとなった。
 警察本部は《タイムズ》に協力を求め、詩の全文を公開し一般からの協力を募る。紙面上で繰り広げられる推理合戦。一連の記事は、ドーセット州のベイ・ホテル〈ライム・リージズ〉で休暇を過ごしていたモース主任警部の興味をも惹きつける。彼女が眠るのはマールバラ公に下賜された広大な面積を誇る大庭園にして世界遺産ブレニム・パレスか、それともオックスフォード大学が所有する古代森林地ワイタムの森か? 加熱してゆく世論と進まない捜査に痺れを切らしたストレンジ主任警視は担当者を交代させ、事件の解決を主任警部とルイス部長刑事の黄金コンビに託すのだった・・・
 1992年発表のモース主任警部シリーズ第10弾。最初期二作「ウッドストック行最終バス」「キドリントンから消えた娘」の変奏版とも言うべき作品で、仮説スクラップビルドの代わりに一般参加の多義的解釈が用意されたもの。内外共に評価は高く、八作目の「オックスフォード運河の殺人」に続きCWAゴールド・ダガー賞を受賞。ただしツートップ程のブリリアントかつ切れ味の鋭い推理はありません。舞台設定の巧みさや各エピソードの面白味、加えて小説作りの上手さなど、総合力で押すタイプの作品です。
 ブレニム・パレスに目星をつけた前任者ジョンスン主任警部に対しモースは《タイムズ》読者の指摘に従いワイタムの森を選択。首尾良く遺体を発見するものの、何とそれは男性のもの。捜査は一時停滞しますがまもなくカリンを撮影した写真が現れ、その背景から全ての発端となった建物〈セカム・ビラ〉に行き着きます。
 初読の際には紙上推理が鼻に付いたんですが、再読するとまあまあ。でもアクセントレベルですねこれ。メインの謎もそこそこ程度。けれども上手く興味を繋いで転がしてるので、ナンバー3作品という格付けに異論はありません。純粋に好みだと今のところ次作「カインの娘たち」になりますが。
 後期のデクスターは推理以外の部分も読ませるので面白い。読み終えた後一番心に残ったのは、モースとモデル・エージェンシーの女、クレア・オズボーンの交際シーンでした。


No.276 7点 魔女の隠れ家
ジョン・ディクスン・カー
(2019/12/07 08:31登録)
 ハヴァフォード大学の恩師メルスン教授の紹介で、リンカーンシャー州チャターハムに住む辞書編纂家ギデオン・フェル博士を訪ねることにしたアメリカ人青年タッド・ランポールは、ロンドン駅構内で灰色のコートを着た若い女にぶつかった。彼女の弁護士とともに現れたフェル博士によると女性の名はドロシーといい、チャターハム監獄の所長を勤める名門の出。そしてその兄マーチン・スターバースは嫡子として二十五歳の誕生日の夜、監獄へ行って、所長室にある金庫をあけて、運だめしをしなければならないらしい。スターバース家の当主たちは代々、首の骨を折って変死していた。兄妹の父親であるティモシーも、その例に洩れなかった。
 ドロシーに惹かれたタッドは運命の夜、〈イチイ荘〉からフェル博士と儀式の一部始終を見守ることにする。丘の上の監獄に向かってゆく一条の白い光と人影。やがてライトの明かりが所長室にさすが、灯は所定の時刻の十分前に消える。彼は沼沢地を走り続けていっさんに〈妖女の隠れ家〉へと駆けつけるが、断崖のはしの井戸のまわりで発見したのはマーチン・スターバースの、ゴムのようにぐんにゃりした死体だった。そして彼の首の骨もまた折れていた――
 1933年発表のギデオン・フェル博士もの第一作。カー/ディクスンの長編としては「毒のたわむれ」に続く六作目。コレラと絞首刑、因縁めいた言い伝えのある沼沢地帯と美しいリンカーンシャーの田園を舞台に、シンプルに纏まった物語が展開します。
 情景描写や雰囲気は濃厚で若干当てられるくらいですが、フェル博士の安定した人格が良い重しとなりバランスが取れています。事件のシチュエーションが視覚的でシンプルなのもGood。シンプル過ぎて犯人が分かり易いのが難ですが。しかし逮捕シーンから皮肉なラストまで終始ドラマ的な工夫が凝らされており、メイン探偵のデビュー作品としては「プレーグ・コートの殺人」よりも出来は良いでしょう。背景となる過去の怪死の謎もキッチリ説明されています。
 ただこの作者のベスト10に入るかどうかとなると微妙。初期作という事もありレッドへリングその他はまだ未熟。なかなか悩ましいものがありますが、「貴婦人として死す」に続く11~15位の次点ポジションかな。


No.275 6点 悪党パーカー/人狩り
リチャード・スターク
(2019/12/05 05:25登録)
 彫刻家が茶色の粘土からこねあげたような手、パサパサに乾いて水気のない茶色の髪、ごっそりそげ落ちたコンクリートのかたまりのような顔に、ひび割れした瑪瑙に似た眼がくっついている。そして、一文字にかみしめた血の気のない口元――
 非情に生まれついた犯罪者パーカーは刑務所の看守を殺して脱獄し、合衆国を横断して舞い戻ってきた。裏切った妻リンと、犯罪組織《アウトフィット》の幹部マル・レズニックに復讐するために。二人はサンフランシスコの南西海上二百マイルのところにある無人島『キーリイ島』での仕事で、南米ゲリラの総額九万三千ドルの軍需品買い付け金を強奪したのち、彼を撃ち仲間たちを殺し、邸宅に火をつけると飛行機で逃亡したのだ。シカゴでしくじり組織を放逐されたマルは、再びカムバックするための資金を欲しがっていたのだった。それに、パーカーの妻リンの身体も。
 マンハッタン東六十丁目の高級アパートに住む彼女を捕らえたパーカーだったが、罪の意識に脅えたリンは睡眠薬を飲み自殺してしまう。女の死体を始末し、使いの男を締め上げてマルの行方を聞き出そうとするパーカー。焦ることはない。時間はたっぷりあるのだ。俺の手が迫るのを、ただじっとそこにすわったまま待っておけ。
 だがリンの死を知ったマル・レズニックは同時にパーカーの生存に気付き、《アウトフィット》が経営するホテル『オークウッド・アームズ』に篭もろうとする。組織の男たちに守られたホテルへの、パーカーの侵入作戦が始まった。
 悪党パーカーシリーズ第1作。「殺しあい」の翌年1962年の発表。「追跡」「逃走」「復讐」「挑戦」の四部構成。リンに続いてマルへの報復を遂げたパーカーは凶暴な感情を持て余し、自分の取り分四万五千ドルを渡せと、組織に直接要求し真っ向から戦いを挑みます。
 一年に一回か二回、給料か銀行の武装車を襲って、リゾート地のホテルで手持ちの金が五千ドルを下まわるまでは次の仕事にかからないという生活をおくる。そんな規則正しいパターンも崩れ去り、妻に撃たれて枷が外れたのか巨大組織を相手に猛然と襲い掛かる。パーカー自身そんな自分を不思議に思うほどで、文字通り生まれ変わったと言っていいでしょう。
 日本だと大藪春彦あたりに該当しますが、パーカーはサラリーマンの溜飲が下がるような無駄口は叩きません。ひたすら問答無用で行動する乾いた男。その本質が存分に現れているのがこの一作目です。
 7点でもいいんですが、ほぼ同時に読んだシリーズ第14作「殺人遊園地」がもっと面白かったんで6.5点。ここまで続いて一向にダレないのは流石ですね。


No.274 6点 室町少年倶楽部
山田風太郎
(2019/12/03 16:15登録)
 「室町少年倶楽部」「室町の大予言」以上2作収録の中編集。雑誌「オール読物」「小説新潮」の一九八九年一月号増刊、三月号にそれぞれ掲載。この次に来る十兵衛三部作のラスト「柳生十兵衛死す」が最後の室町物にして最終長編と言えなくもないので、いずれにせよ山風の小説としては最後期にあたるもの。この後著作家としては「半身棺桶」などのエッセイやインタビューに傾斜してゆきます。
 「薄桜記」の清冽さとはうってかわってイヤテイスト満載。まあ山風ですし。特にアレなのが表題作で、少年探偵団風ですます調のほのぼのから一転してのドロドロ展開。齢八歳の幼き将軍候補・三春丸(後の足利義政)をお忍びで連れ歩き、理想の将軍たらしめんと帝王教育を試みる十六歳の少年管領・細川勝元。下々の生活をつぶさに見せて、さてその結果はどうなったか? という作品。まあ父親がアレだもの、どう教育したってマトモに育つわきゃ無いよねえ。言っちゃ何ですが最初からムダだったと思います。
 「序の章」「破の章」「狂の章」の三部構成で、純真無垢な幼年期が四分の一ほど。あとは破局と責任放棄の果てのでろでろ状態。この小説自体は応仁の乱に突入したとこで終わりますが、乱は山名宗全・細川勝元の二巨頭死後もなお続きここでやっと半分といったところ。勝元の息子の妖管領・細川政元(幸田露伴『魔法修行者』に詳しい)が十代将軍・足利義稙を追放し、以後幕府自体がグチャグチャになってなし崩しに戦国期に突入していきます。このころ日野富子・足利義視の二人が半ばフィクサー化してるのが救われない。
 「序の章」を「さあ、これらの人々の未来には、何が待っているのでしょう?」と結んでいるのがまたイヤらしい。〈これらの人々〉の争闘がいかに室町幕府に祟ったか。風太郎の笑い声が聞こえるようです。
 足利の太陽王たる魔童子・三代将軍義満没後の黄昏に向かう時代を描いた作品集。このころ作者も七十代に近く、巧緻さは磨かれても全盛期の艶が文章から失われてゆくのは如何ともし難い。それを生かす境地を求めて辿り着いたのが室町ものであり、「幽玄」というキーワードだったと思われます。
 各サイトの評価は高いですが、その意味で点数は6点でも下の方。とは言えなかなか良く出来た中編集です。ところで「大予言」の方の各未来記って、どこまでがウソッパチなんでしょうね。


No.273 8点 薄桜記
五味康祐
(2019/12/02 08:25登録)
 元禄年間。旗本中二人とおらぬ剣の腕を持つ武士・丹下典膳は、大坂城番組を命ぜられたため、新婚わずか二月で愛妻千春と別れて暮らすこととなった。が典膳が大坂に赴いたあと、千春の身に芳しからぬ風評が立つ。千春の幼馴染で上杉家の侍・瀬川三之丞が足しげく見舞いに通ううち、あやまちを犯したのではあるまいかというのだ。
 大坂勤番を終え江戸に戻った典膳は事の成り行きに苦慮するが、帰府祝いの謡の席でかねて捕らえおいた狐を斬り捨て、すべては妖怪の仕業と言いくるめる。世間の疑惑も晴れ、夫婦の仲もむつまじく全てはなにごともなく終わったかに見えた。
 だがそれからわずか一月。典膳は突然千春を離縁する。上杉家留守居役を務める舅・長尾権兵衛を訪れ話を切り出した典膳だったが、居合わせた千春の兄・竜之進に一刀を浴びせられ左腕を斬りおとされる。彼は声ひとつあげず、じっと座りつづけたまま斬撃を受けた。禄三百石の旗本丹下家は、無抵抗を咎められそのままお取り潰しとなった。
 忠僕・嘉次平に助けられ深川八幡町の浪宅に居を構える典膳。小石川中天神下の一刀流道場の同門・中山安兵衛はかれの行為に人知れず感銘を受けた。その後高田馬場の決闘で江戸市中の人気者となった安兵衛は居宅を訪れ交誼を結ぼうとするが、なかば世捨て人として暮らす典膳に会うことはかなわない。
 そんな折、富岡八幡宮の社殿で出会った天下の豪商・紀伊国屋文左衛門のはからいで、安兵衛と典膳は遂に席を共にすることとなる。数奇な運命で繋がれた二人の、これが初めての邂逅だった――
 『産経新聞』夕刊紙上に1958年7月から1959年4月にかけて連載。「忠臣蔵異聞」ともいえる内容に加えて二度の映画化、TV化、加えて複数の舞台化など、一般には五味康祐の代表作とされる作品。柳生連也斎、松尾芭蕉、オランダ人の血を引く混血娘・ヘレン等彩りも鮮やか。特に海外雄飛の野心を抱き、典膳に惚れ込んでパートナーに迎えようとする大物・紀伊国屋は強い印象を残します。放蕩の末零落れたと言われる彼が、なお四万両の資産を蓄えていたことは知りませんでした。本編でも良い役回りです。
 ミステリとしての謎は〈なぜ何事も無く終わったと見えた後、千春を離縁したのか〉〈なぜ無抵抗のまま斬られたのか〉ですが、これは最後まで説明されません。およその見当は付きますが。
 途中まで憎々しげに振舞っていた千春の兄・竜之進も、よんどころなく仇役を演じていたことが判明。世間になじられながらも必ずよき理解者を得る典膳ですが、それにもたれかかろうとはせず常に孤高を保ちます。ただ一度だけ千春を忘れ、口入れ稼業の元締め・白竿長兵衛の妹お三と夫婦になろうとしたのが最後の迷いでしょうか。これを振り切った後はただひたすら、己の武士道に殉じます。
 格調高い文章からふくよかな美学の匂う作品。考証癖もこの作者としては比較的少なくおすすめです。


No.272 6点 一角獣殺人事件
カーター・ディクスン
(2019/11/29 11:46登録)
 「ライオンと一角獣が王位を狙って闘った。
  ライオンは一角獣を打ち負かし、街の中じゅう追い回す」

 ロワイヤル通りのルモアンの店でパリの気だるさに浸かりこんでいた元情報部員ケンウッド・ブレイクは、歩み寄ってきた元同僚イヴリン・チェインの謎かけに応えたことからとんだトラブルに巻き込まれた。歌は任務の合い言葉で、彼らは謎の「一角獣」を運んでくる外交官ジョージ・ラムズデン卿を追って、これからホテル『盲人館』へ行かねばならぬのだという。「一角獣」は神出鬼没の怪盗フラマンドに盗難を予告されており、フランス政府は彼を逮捕するため名探偵ガストン・ガスケを派遣したのだった。
 イヴリンと共に嵐の中一路オルレアンに向かうケンだったが、シャルトル近郊で赤いボアザンに乗った男に逮捕されかける。ケンはルモアンで彼のパスポートを奪ったその男を殴り倒し、警官と大立ち回りをした末その場から逃げ出すが、増水したロアール河に足止めされてとうとう車から降りざるを得なくなる。さらに彼らを追いかけて情報部長ヘンリー・メリヴェール卿までやって来た。ついでにフラマンドを自分の手で捕まえるのだと息巻くH・M卿。だが嵐も洪水も熄まない。そうこうするうち近くの平地にラムズデン卿の乗る飛行機が不時着した。
 修理が終わるまで機の乗客たちと中州の城館『島の城』に緊急避難するH・M一行。だが館の主ダンドリュー伯爵は彼らの到着を待っていたのだと語る。そして彼はH・Mに、フラマンドから来たという予告状を見せるのだった――
 1935年発表のH・M卿シリーズ第4作。「パンチとジュディ」の前作で、上記のとおり冒頭からわやくちゃな展開。ケン・ブレイクは常識家ぶっていますが、本作での行動はどう見てもH・Mの同類です。
 フラマンドとガスケ、変装の名人が二人も登場。物語はここから更に混乱の度を増し、最後はケンとイヴリンの二人がガスケに犯人扱いされるとんでもない展開に。難解さは続編を超え、カー/ディクスン全作品中でも指折りの悪辣さを誇ります。偶然に偶然が重なり、H・Mの推理も仮説と仮定の積み重ね。これを当てられる人間は相当なものでしょう。
 ただ解説にもあるように失敗作と切って捨てるには惜しい。犯人隠蔽と密接に結びついた不可能犯罪のトリックはなかなか。一進一退の推理に加えて趣向もてんこもり。ゴチャゴチャした構成とアンフェア臭が低評価の理由でしょうか。どことなくインチキ臭いけど、ファンなのでそれも面白く感じてしまいます。6.5点。


No.271 5点 大いなる手がかり
エド・マクベイン
(2019/11/27 11:37登録)
 いつやむとも知れないいやな三月の雨の日、男とも女ともつかぬ黒ずくめの身装りをした人物がバス停留所に立っていた。黒いレインコート、黒ズボン、黒靴、黒い雨傘、そのかげになって頭と髪はみえない。発車まぎわのバスに乗りこむと、その人物はパトロール警官のまえから姿を消した。
 停留所の標識の傍らに鞄が置いてあるのを眼にした警官ジェネロは歩み寄り、それを拾いあげた。さほど重くはない。ジェネロは鞄を開け、手を差し込んだ。彼はその顔を恐怖にゆがめ、反射的にその手をひくと標識に思わずしがみついた。旅行鞄のなかにあったものは、手首のやや上部で切断された、男の手だった――
 「キングの身代金」に続くシリーズ第11作。1960年発表。全篇に渡ってじとじとした雨が降り続く中、身元不明の"手"の主を巡って87分署チームが動き出します。届出のあった失踪者たちを探りますが捜査はなかなか進展せず、そうこうするうち屑鑵からもう片方の手首が発見。それでも一向に事件の目星は付きません。
 雲隠れしていた失踪者の一人からの話と、失踪人調査室の刑事の思いつきから行方不明のストリッパーの存在が浮かび上がりますが、これが事件に関係しているのかどうかは分からない。苛立つ刑事たち。行き詰った挙句珍しく愛妻テディに八つ当たりしたり、同僚を殴り倒すスティーヴ・キャレラの姿が見られます。
 解決はやや唐突かつ猟奇的。同年にヒッチコックの有名なサスペンス映画「サイコ」が封切られており、マクベインもこれに影響されたのかもしれません。結構貪欲な作家なので。作者のグロ趣味が出た最初の作品ですね。おとなしめの犯人ですが「手首を切り落とした理由」に狂気が現れています。
 とはいえまだ精神分析への関心も薄く、熟成されてはいない。4年後のドナルド・E・ウェストレイク「憐れみはあとに」と比較してもやや落ちます。総合すると魅力的な掴みを生かしきれなかった標準作ですかね。


No.270 6点 忍法創世記
山田風太郎
(2019/11/24 05:09登録)
 明徳元(1390)年三月、時は南北朝争乱時。長きにわたり角逐を続けてきた大和の柳生と伊賀の服部は悪因縁を断ち切るため、柳生三兄弟と伊賀三姉妹の婚礼という形で和合を成し遂げようとしていた。両者の境にある月ヶ瀬の南岸桃香野で、梅花あふれるなか合一の儀式を行うのだ。
 ところがこれに待ったを掛ける者が現れた。いずれも南朝に組する大塔衆と菊水党だ。将軍家指南役中条兵庫頭に率いられる前者は柳生に、寵愛の能役者世阿弥につれられた後者は伊賀に肩入れし、それぞれ剣術と忍法とをもって南朝方の持つ〈三種の神器〉を北朝方に渡る前に争奪・護持しようとしていたのだ。南朝の右大臣・吉田宗房と北朝の柱石・管領細川頼之の談合により、南北合一が成ろうというまさにその折りのことだった。
 彼らの到着前に桃香野の儀に敗れた柳生の次兄・七兵衛と伊賀の末娘・お鏡は、それぞれ婿と嫁として敵地に迎えられ、七兵衛は忍法、お鏡は剣術を学ぶこととなる。大塔の宮・護良親王の命脈を守り、剣術の祖・中条兵庫の弟子たる七人の大塔衆と、楠公・楠正成から伝承された忍法を操る七名の菊水党、そして彼らに鍛えられた柳生三兄弟と伊賀三姉妹、果たしてこの神器争奪戦の行方は?
 雑誌『週刊文春』に、昭和44年4月28日号~昭和45年2月2日号まで連載。二十六作ある風太郎忍法帖の最終作にして、最後に単行本化された作品。年代順に並べると次に来る「伊賀忍法帖」が百七十二年後の戦国期ですから、時代的にはかなり間が開くことになります。
 十名VS十名の変則トーナメントですが、序盤から中盤にかけてはやや単調。柳生兄弟も伊賀の姉妹も未熟な上、いちいち忍法を考えるのがめんどくさかったのか、花の御所や五条大橋での対決で大塔衆・菊水党の約半数がふるい落とされます。
 ただ本命の神器争奪に入ると雰囲気は一変。南朝の本拠地・吉野の奥地に舞台を移し、八咫鏡・八坂瓊勾玉・天叢雲剣を巡って夫婦となるはずだった三兄弟と三姉妹の個別対決に。半数以下となった大塔菊水も執念を燃やし、残念気味だった剣術忍法決戦にもがぜん力が入ってきます。
 特筆すべきはこの後半に登場する妖剣士〈牢の姫君〉こと幸姫。大塔衆を統べる十五歳の天才少女剣士で、憤死した護良親王のおん曾孫姫。曽祖父の怨念の籠もった凶刃「牢の御剣」を操り、大剣士中条兵庫すら怖れる剣の天稟を秘めています。
 風太郎作品は剣聖最強ですが、その嚆矢たる存在を圧倒し去る実力、天皇家に連なる血筋、妖艶にして残酷可憐な天性とほぼ無敵で、本作のみならず忍法帖シリーズ有数のキャラクターと言えるでしょう。彼女が中盤付近でチラチラ登場していれば、出来栄えはもっと上がったかもしれません。
 それに対するに室町の魔童子ことトリックスター足利義満を配し、花の御所での世阿弥演ずる薪能をバックに結末を付ける豪華さ。作者評価の低さゆえ危惧されていましたが、忍法がアレな以外はかなりの作品でした。ただ「八犬傳」と同格とまでは言えないなあ。6.5点。


No.269 6点 パンチとジュディ
カーター・ディクスン
(2019/11/21 03:10登録)
 元英国情報部員ケンウッド・ブレイクは、婚約者イヴリン・チェインとの結婚式を前にして強引にヘンリー・メリヴェール卿に呼び出された。トーキーで待ち構えていた情報部長のH・Mと警察署長のOBチャーターズ大佐は、彼に元ドイツ・スパイ、ポール・ホウゲナウアの身辺を探るよう指示する。ホウゲナウアは情報部に、指名手配中の国際ブローカー「L」の正体を二千ポンドで明かそうと持ちかけてきたのだ。
 途中で偽名のバレるアクシデントはあったもののとにかくモートン・アボットに辿り着いたケンだったが、なぜか早々と警察に拘束される羽目になってしまう。手違いからか当のH・Mとチャーターズが、ケンの逮捕命令を出したというのだ。イヴリンとの挙式は明日の午前十時半。こんなところで油を売っている暇は無い。
 警官に化けてさっさと署から逃走するケン。追っ手を巻きながらようよう目的の屋敷を訪れるが、書斎で彼を待っていたのは肘掛椅子に腰掛けたまま笑っているホウゲナウアの毒殺死体だった・・・
 「一角獣殺人事件」に続くケンとイヴリンのスクリューボール・コメディ。1936年発表。なかなか面白い作品ですが、作者に頭を掴まれ反対方向を向かされて、強制的に突っ走らされる展開には拒否感を持つ人もいるでしょう。以前書評した「首のない女」よりもはるかに嫌らしく、初読の際にはなにがなにやら分からない。しかし読み返すと事件の連続でテンポも良く、作者の語りの上手さを感じさせます。
 警官に引き続き今度は牧師に扮装。駆け付けたイヴリンの助けで背広に着替えたのちにホテルの窓から泥棒まがいの侵入、ギロチン窓の恐怖、第二の死体の発見、偽札を使用して逮捕されかかり知人の助けで救出と、混乱の連続。笑わせる最後のオチも良く効いていてよろしい。
 ただ変則的な構成に加えミステリとしては前作に比べると弱いかなと。ドタバタ騒ぎの中に手掛かりを仕込むいつもの手ですが、今回それほど冴えてはいません。ストーリーテリングで勝負する型の作品です。


No.268 7点 傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを
矢作俊彦
(2019/11/18 10:28登録)
 雑誌『小説現代』2008年5月の特別編集版「不良読本」にて読了。70年代"伝説"と謳われたドラマのオリジナル小説で、〈原案 市川森一〉の文字に加え副題も〈傷だらけの天使リターンズ〉と、まさに正統続編。なお市川はこのドラマの全26回中、衝撃的な最終回を含む最多8脚本を担当したメインライター。
 海道龍一朗の巻末エッセーによれば第三話で当時のアイドル中山麻理がヌードシーンを披露したのが決定打となり、鬼より怖いPTAに隠れもない「有害番組」と指定されたそうです。まあヌード自体はその前からちょこちょこあったそうですが。ワタシはこの番組を視聴していませんし、何の前知識もありませんが、しかしそんな事とは無関係にこの話は面白い。
 最終回で高飛び寸前古巣に舞い戻り、風邪を引いてくたばった相棒・乾亨をドラム缶に入れて夢の島(当時の一大ゴミ集積場)に葬った元探偵事務所調査員・木暮修。
 それから約三十数年ののち。マニラ、ジョホールバル、マカオ、香港と逃げまくった五十七歳の修は日本に帰国し、東京近郊のとある公園でホームレス生活を送っていた。段ボールハウスにひとり息子の健太が描いた『おとおさんのえ』を貼り、育成したゲートボールチームの賭けで小銭を稼ぎながら、市役所の担当職員や仲間の浮浪者たちと戯れる日々。
 だが同じ頃ネット空間『第四世界(フォースワールド)』では"コグレオサム"の虚像が肥大化し、いわば世界的な存在となっていた。さらに実在の彼を連れてくる事を条件に、ゲーム内で多額の懸賞金が掛けられる。その騒動に巻き込まれ浮浪者仲間のドーゾが死んだ。仕掛人は誰で、果たしてその狙いは何なのか?
 修とその相棒"シャークショ"は調べを進めるうち、新東京都知事・石山信次郎と組んだヒルズ族の長老的存在にして元東京アンダーワールドの女帝、あの綾部貴子に再会するのだった・・・
 確固としたキャラクターに支えられたテンポの良い会話やギャグ、アクション、そしてストーリー。インターネットが題材なのは賛否両論あるでしょうが、それもドラマの決着に繋がるのでOK。常人には計り知れない貴子の愛憎やスケール感もよく出ています。
 ただ映像化前提のせいか、『ロング・グッドバイ』などに比べるとこの作者の持ち味である複雑さが薄い。より一般向けとも言えますが。その点も含めてギリ7点。旧作要素をよく拾ってるんで、傷天ファンならもう少し加点するかもしれません。


No.267 5点 月明かりの闇
ジョン・ディクスン・カー
(2019/11/15 09:43登録)
 南北戦争のきっかけとなったサムター要塞から二マイルと離れていないサウスカロライナ州ジェイムズ島。兄リチャードの死により実家を継ぐため、ゴライアスから島に戻ってきたヘンリーだったが、南部の名門メイナード家には英領植民地時代から伝わる言い伝えがあった。初代リチャードが決闘で打ち倒した海賊、ビッグ・ナット・スキーンの亡霊がトマホークを振るうというのだ。約二百八十年前の当主リチャードに加え、百年前には南北戦争の英雄ルーク・メイナード提督も変死していた。いずれも頭の右側が叩きつぶされ、周囲には足跡も凶器も見つからなかった。
 裕福ながら堅苦しいヘンリー・メイナードと愛らしくセックスアピールに満ちた娘のマッジ、そして彼女をとりまく求婚者たち。人々の間に奇妙な緊張が高まる中、次々と小事件が起こる。案山子の盗難、屋敷の周囲をうろつく謎の人影、そして武器室からのトマホークの消失――
 そうしたなか月の夜浜辺に面したテラスで、ヘンリーがやはり頭の右側を潰されて殺される。だが砂のように牡蠣殻を敷き詰めた白いテラスにも下の浜辺にも、被害者の足跡以外にはなんの形跡もなかった・・・
 1967年発表のギデオン・フェル博士最後の事件となった作品。"足跡のない殺人"がテーマですが、しょぼくさいメイントリックよりも人間関係を軸とした構想がなかなか。騎士道系ラブロマンス万歳のカーでこういうのは珍しいです。この内容で引っ張りすぎとか、フェル博士がこんなハウダニットで苦戦する筈ないやんとか言いたい事は色々ありますが、黄金時代全盛期の作家としてはこの時期まずまず健闘しているのではないでしょうか。黒板にメッセージを書き残す道化者〈ジョーカー〉の存在とか、深夜の廃校での冒険とか結構楽しませてくれます。
 ただピタゴラスイッチ系のアレは脱力もの。シビアな評価の原因はおおむねこれでしょう。贔屓目に見てもギリギリ5点。個人的には「悪魔のひじの家」より楽しめたんで、そこまで低評価したくないんですが。
 カーはこの後も毎年作品の刊行を続け、ウィルキー・コリンズを探偵役に据えた「血に飢えた悪鬼」の発表後に亡くなりました。最後に構想されていた長編はダグラス・グリーンによれば「海賊の道」とのタイトルだそうで。たぶん歴史物だと思いますが、どんな物語だったのかは興味あるところです。

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