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ミステリの祭典

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猫サーカスさんの登録情報
平均点:6.19点 書評数:405件

プロフィール| 書評

No.345 7点 ラブカは静かに弓を持つ
安壇美緒
(2023/03/04 18:15登録)
音楽著作権の管理団体に勤務する橘樹は、上司から大手音楽教室への潜入調査を命じられる。生徒としてレッスンに通い、楽曲の違法使用の実態を探るのが目的だ。入社してまだ数年、20代の橘に命令が下ったのは、彼にチェロの演奏経験があったからだ。しかし少年時代に習っていたものの、とある事件に遭遇して以降、彼は悪夢に悩まされ、チェロだけでなく人とも距離を置いて孤独に生きてきた。気が進まないまま赴いた教室にいたのは、同年代の青年チェロ講師、浅葉。気さくな彼の的確な指導の下、橘は少しずつ音楽に触れる喜びを取り戻していく。二人の間には温かな師弟関係が育まれていくが、それだけでなく教室の生徒たちとの交流も生まれ、友人すらいなかった橘の日常に光が差し込んでいく。しかししょせん、彼は浅葉たちをだましている身なわけで、任務が終われば裁判で証人として出廷する予定なのである。ラブカとは深海魚の名前だ。作中、架空のスパイ映画のタイトルに使われているが、2年間も潜伏する橘のコードネーム的な意味合いもあり、彼が長年苦しむ深い海の悪夢の象徴でもあるといえるだろう。終盤には意外な事実が明かされ、さらに橘が大胆な行動を起こすなどスリリングな展開が待っている。だが、本作の読みどころはやはりサスペンスというより、人間ドラマの部分だ。嘘から生まれた信頼関係、師弟関係を、だました側、だまされた側がそれぞれどう受け止めるのか。葛藤と向き合った後の最終場面は胸を撃つ。音楽著作権の説明は分かりやすく、音楽に関する描写もこまやか。練習場面などささやかな場面にもリアリティーが宿っており、作者の力量がたっぷり味わえる一作である。


No.344 7点 誰かがこの町で
佐野広実
(2023/03/04 18:15登録)
岩田喜久子法律事務所に現れた若い女性は、望月良子の娘・麻希と名乗った。亮子は喜久子の友人だったが、19年前に夫と二人の子供とともに失踪していた。乳児だった麻希だけが、何者かに連れられて、養護施設に預けられたという。岩田弁護士から依頼を受けた調査員の真崎雄一は、望月一家が暮らしていた鳩羽地区に向かう。かつてこの土地では小学一年の男児が拉致された翌日に遺体で発見される事件があったが、20年以上たった今も未解決のままである。わが子の事件がきっかけで、自治会がカルト化していく様子を、被害者の母である木本千春は、流されるように見つめていく。事件直後には、地区の防犯係が扇動し、他地区に住む外国人を犯人と決めつけ、自首を求めて大勢で押し掛けたこともあった。有力者への忖度も加わり、安全な街という理想が、監視の強化、異分子の排除へと変容し、住民の間で同調圧力が強まっていったのだ。真崎はすぐにこの地区の異様さに気づく。彼も同調圧力に加担したことが遠因で、仕事も家庭も失っていた。そのため過去の嫌な記憶がよみがえり、悔恨が胸をよぎるのだ。私立探偵小説を彷彿させる真崎と麻希による調査と、拉致事件で一人息子を失った母親の視点によるパートが交互に配されているのが本書の特徴だ。過去と現在の二つのパートが互いに補完し、関連していくことで、未解決事件と望月一家の失踪の真相が、徐々に浮かび上がってくる。全体主義国家の縮図のような一地域の物語は、決してフィクションの中にとどまるものではない。コロナ禍によって、より鮮明になった現代社会が抱える問題点を浮き彫りにする、時宜を得たミステリなのである。


No.343 6点 ガラパゴス
相場英雄
(2023/02/11 19:09登録)
日本の労働現場に広がる底知れない闇を覗き込み、背筋が凍る思いがした社会派ミステリ。警視庁継続捜査班の刑事・田川信一は、団地内の一室で見つかり自殺として処理された若い男性の遺体写真から、他殺だったことを見抜いた。田川は不明だった男性の身元を割り出し、彼が派遣労働者として在籍していた各地のメーカー工場を訪ね、一歩ずつ事件の真相に迫っていく。やがて不正を隠蔽する大掛かりな企みが殺人の裏にあったことが浮かび上がった。この小説が描き出すのは、家電、自動車などの工場で働く派遣など非正規雇用労働者の実態だ。募集時とは異なる低賃金、長時間労働でぎりぎりの生活を強いられた末、企業側の都合でのたれ死にしても構わないという態度の大企業、人材派遣会社の田川が出張を繰り返し、地道な捜査を進めて事件構図を明らかにしていく過程は、松本清張の「砂の器」を思い起こさせる。ミステリが謎解きの面白さだけではなく、時代を切り取り活写するのに有効であることを改めて気づかせてくれた。


No.342 7点 血の弔旗
藤田宜永
(2023/02/11 19:09登録)
日本の戦後とは何かを問う壮大な物語である。貸金で財を成した原島の運転手をしている根津謙治は、裏金11億円の強奪をもくろむ。1996年8月15日、謙治は学童疎開の時に出会ったという希薄な関係性しかない川久保、岩武、宮森と計画を成功させる。唯一の計算外は、屋敷を訪ねて来た女を射殺したことだった。謙治たちは大金で派手に遊ぶのではなく、金を元手に表の世界で成功するため実業界へと進む。そのため自分たちを疑う刑事も、金の奪還を進める原島や裏社会の人間も力で排除することができない。頭脳戦から生まれる静かな息苦しいまでのサスペンスには圧倒される。執拗な追っ手をかわしていた謙治たちが、時効直前に見つかった戦争の遺物により新たな事件に巻き込まれる。この展開は、戦中と戦後が断絶していないことを教えてくれる。何より、手を血で汚した事実を遠くに追いやった成功者になろうとした謙治たちは、他国の戦争によって平和と繁栄を維持した戦後の欺瞞を暴いているように思えてならなかった。


No.341 7点 機巧のイヴ
乾緑郎
(2023/01/25 18:00登録)
幕府がある天府には十三層の大遊郭があり、天帝家は女系で継承され、人間と見分けがつかない機巧人形が存在するもう一つの「江戸」。魅惑的な舞台を用意した本書は時代小説、SF、推理小説の要素がすべて詰まった贅沢な連作集である。物語は、凄腕の機巧師・釘宮久蔵と、美しき機巧人形の伊武を狂言回しにして進んでいく。なじみの遊女を身請けして好きな男と添い遂げさせ、自分は遊女の機巧人形と暮らそうとした男が、久蔵に制作を依頼する表題作は、どこで騙されたか分からない仕掛けに圧倒された。伊武が久蔵に、ヤクザに腕を切られた力士に人工の腕を作ってほしいと頼む「箱の中のヘラクレス」は、異形の恋愛譚。久蔵の調査を命じられた隠密が陰謀に巻き込まれる「神代のテセウス」は、壮絶な騙し合いになっているなど、収録作は一作ごとに趣向が凝らされている。微妙なつながりを持っている各章の挿話を、最終話「終天のプシュケー」で収斂させる手法も鮮やかで、最後まで先の読めない展開が楽しめる。驚異的な想像力を使い、人間のように思考する機械が出来たら、何が人と機械を区別するのかや、技術の発達は人類を幸福にするのかという普遍的な問題を掘り下げたのも見事である。


No.340 6点 雨と短銃
伊吹亜門
(2023/01/25 18:00登録)
幕末の京都。長州藩士が切りつけられ、その傍らにいた薩摩藩士は逃走して姿を消した。薩長同盟を成立させようと奔走する坂本龍馬は、事態の収拾を図るため、尾張藩公用人の鹿野師光に調査を依頼する。薩摩、長州、そして新選組の策略が渦巻く中、人の命が軽く扱われる状況での探索が語られる。前作同様、実在の人物と架空の人物を織り交ぜて、史実とフィクションを巧みに重ね合わせている。この時代ならではの手掛かりに基づく謎解きもまた鮮烈。史実に対し、現代の私たちが抱くイメージを利用した仕掛けに驚かされっる。その先に広がる人々の思惑と、真相を突き止めた鹿野の味わう、達成感とはかけ離れた思いも記憶に残る。


No.339 5点 魔王
伊坂幸太郎
(2023/01/09 18:29登録)
念じたことを他人に喋らせることが出来る、という特殊な能力を身につけた兄が語り手である表題作「魔王」、弟の恋人が語り手である「呼吸」、そのどちらにも一貫して、憲法第九条の改正や、ファシズムについての議論が繰り返し出てくるが、あとがきには「それはテーマではない」と作者自身が明記している。確かにこの小説は、そうした物事への問題提起に終始しているわけではない。何かもっと大きなものに向かって開かれているし、憲法改正が是か非かというような単純な小説ではない。警告でもないし、社会批判でもない。作者は憲法改正や国民投票と真正面に向き合いながら、この国に生きていること、それがどういうことであるのかを誠実に切り取ったのだろう。時代は少しずつ変化している。私たちはその変化に気づかずにそれに順応していく。この小説に登場する兄も弟も、それに全身で抵抗しているように思える。気づかぬうちに順応されてたまるかと。得体の知れない不気味さを味あわせつつ、抜けるような澄んだ空をも垣間見せる不思議な小説。


No.338 5点 出署せず
安東能明
(2023/01/09 18:29登録)
警官の不正行為「折れた刃」、ひき逃げ事件の真相「逃亡者」、保護司が犯した殺人の深淵「息子殺し」、証拠の保管問題を巡る「夜の王」、五年前の女性店員失踪事件の再捜査「出署せず」の五編が収録されている。表題作は、二百ページを超える長さで、別の事件を重ね予想外の展開をたどる。物語の興趣が深いのは、刑事たちの使命と矜持と職務が絡まり、複雑な倫理があらわになるからだ。柴崎は警視庁で出世の階段をのぼっていたが、部下の拳銃自殺の責任を取る形で綾瀬署に左遷された。しかも今度は、年下の三十六歳の女性官僚・坂元真紀が署長に着任し、情け容赦のない決定を下す。反発を覚える現場の刑事たち。両者の要請に応え、刑務課課長代理の柴崎は悩みながら捜査をする。地味だが力強く読ませる。大きなどんでん返しはないが、小さな意外性と捻りがある。男の困難な職務が充分に描かれ、感情移入を優しくしてくれる。


No.337 6点 特捜部Q アサドの祈り
ユッシ・エーズラ・オールスン
(2022/12/16 18:37登録)
デンマークのコペンハーゲン警察に設置された特捜部Qは、未解決の重大事件を専門に扱う部署。シリーズの特色は、デンマーク社会の暗部や暗い過去が投影された事件、その割に重苦しくない雰囲気、非常にスピーディーな捜査の進行と事件の解決、脇役の活躍と彼らと取り巻く謎などにある。本作では脇役のアサドが実質的な主人公となる。アサドとはいったい何者なのかという疑問はずっと続いてきたが、ついに本作ではその謎が明らかになる。キプロスで遭難したシリア難民の写真が報道されたことを契機にアサド自身の壮絶な過去をめぐる戦い、離れ離れとなっていた家族を守る戦いが始まる。同時並行的に進行する別の殺人予告事件の捜査とアサド対テロリストの戦いが交錯しながら、すさまじいスピードで物語は進行する。本シリーズに活劇場面は珍しくないが、本作終盤のそれは圧巻だあろう。


No.336 5点 博士を殺した数式
ノヴァ・ジェイコブス
(2022/12/16 18:37登録)
主人公の自殺した祖父である天才数学者が遺した「最後の方程式」を探し求める暗号謎解きミステリ。殺人が起こり、犯人も見つかり、動機も明かされる。そういう意味では確かにミステリの様式には従っているが、あくまで本作の主眼は「方程式」を探すこと。すなわち数学の世界を舞台にした「宝探し」である。宝探しの過程で主人公やセヴリー家の人々のコンプレックスやわだかまりが解消されていき、宝物の発見と同時に自分の人生において本当に大事なものを発見する。作者が用意した偉大すぎる祖父の最後の贈り物の形はチャーミングだ。


No.335 8点 天国への階段
白川道
(2022/11/28 18:44登録)
美しい牧場、恋人、家族、何もかも失った主人公が、暗い闇の中でつかんだ金銭を武器に復讐するといったストーリー。普通こうした復讐のミステリは、その動機や復讐の手段は、どちらかが隠されているものだが、この作品は最初から両方分かってしまう。この作品の牽引力は別のところにある。主人公が埋没しそうなほど、重要な登場人物がみるみる増えていくのも異様。ページをめくるにしたがって、この数多い人物たちが実はそれぞれ自分たち個々の復讐のために生きていることが分かる。Aの知っていることはBは知らない、Bの知っていることはCは知らない、その代わりCはAの知らないことを知っている。ここから生まれるサスペンスがストーリーの牽引力となっている。登場人物が皆、バージョンアップして人生の高いところに昇っていく。この感覚がこのミステリをとても気持ちの良いものにしている。


No.334 5点 誰か Somebody
宮部みゆき
(2022/11/11 18:40登録)
今多コンツェルン会長の個人運転手・梶田が不慮の死を遂げた。犯人を見つけたいと願う梶田の娘たちは、父親の一代記を出版し、世間の注目を集めようとする。編集者の杉村は、義父である今多会長の依頼により、彼女たちに協力することに。しかし姉娘の聡美は、父親の過去を掘り起こすことで、忌まわしい事実が明らかになるのではとおびえていた。彼女を安心させるためにも、杉村は梶田の過去の調査を開始するのだが。本書はかなり地味な印象であり、特に前半の展開は淡々としている。杉村の立場は決して特殊なものではない。良かれと思ってやったことが、かえって非難の的となった経験は、たぶん誰にでもあるに違いない。本書のラストはそんな普遍性がある。真実を知ろうとする探索が、平穏な見せかけの裏に隠されていた醜いものを暴きたててしまう場合もある。最終的に明かされる作品のテーマ自体は、そんなに目新しくはない。しかし、古典的なテーマをいかに巧みにさばくかが作家の腕の見せ所なのだということを改めて教えてくれる。


No.333 8点 永遠の仔
天童荒太
(2022/10/30 18:15登録)
霧に包まれた霧峰を一人の少女が登ってゆくところから始まる。少女には、まるでそれを守護するように二人の少年が付き添っている。三人はアダルト・チルドレン、親の虐待を受けて心を病んだ子供たちである。三人は少女の父親を殺そうとしているのだ。十七年後、三人はそれぞれ看護師、弁護士、刑事となって再会する。そしてあたかも審判のように事件が起こる。本当に父を殺したのか、なぜ父を殺そうとしたのか、これから起こるすべてを破滅させる雷火のような事件とは何か。少年と少女たちが収容されている「動物園」と呼ばれる治療施設での生活と十七年後をカットバックしながら、現代の地獄めぐりのストーリーは圧倒的な力で迫ってくる。それは人間がどうしてもそこから逃れられない親子・兄弟姉妹の絆という根源的なものが小説の強固な軸となっているからだ。救済はないが、素晴らしく感動的な個所がいくつもある。


No.332 5点 N
道尾秀介
(2022/10/13 18:04登録)
全六章で構成された物語の最初には、奇妙な注意書きが置かれている。このページをめくると、各章の冒頭部分だけが書かれています。そこから読みたい章へと自由に移動し、読み終わったら一覧に戻り、再び次に読む章を選んでくださいと。順番は実に720通りもある。文章が逆向きに印刷されているのは奇数章。本を上下逆さに持つことになり、少し戸惑う。野球少年、ペット探偵、警察官、退職した元教師。舞台はやがて日本の港町からアイルランドに移り、喪失の痛みを抱える者たちの人生が交錯していく。「日本の港町からアイルランドへと移り」と書いたが、読む順番によっては「アイルランドから日本の港町へと移り」となる。ある人物の秘密が後に明かされる展開もきっと、順番によっては意外な人物が脇役として再登場する展開に変じる。物語を読むとは本来、能動的な営みだ。物語は人が読むときにだけ立ち上がり、そこで描かれた風景や語られた言葉をどう解釈するのかは、全て読み手に委ねられている。だからこそ、作者と読者の密やかで豊かなコミュニケーションが生じ得る。そんな読書の本質に、はたと思い至る。たどり着く先にあるのは光あふれる希望か、ほの暗い後悔か。立ち現れてくる自分だけの物語を味わえる。


No.331 6点 本と鍵の季節
米澤穂信
(2022/10/13 18:04登録)
主人公の堀川次郎は高校二年生の図書委員。相棒は同じく図書委員で皮肉屋の松倉詩門。利用者の少ない図書室で暇を持て余す二人のもとに舞い込む厄介事や頼まれた事が、連作短編の形で綴られる。この謎解きが実に多彩で、開かずの金庫に挑戦する「913」は暗号ミステリ。美容師の一言から思わぬ事実が導き出される「ロックオンロッカー」。テスト問題を盗んだ疑いを掛けられた生徒を助ける「金曜に彼は何をしたのか」はアリバイもの。自殺した先輩が最後に読んだ本を知りたいという「ない本」は、証言から真相に到達する安楽椅子探偵もの。収録されている謎解きは趣向こそ違えど、第二話以外はすべて何かを「探す」話である。それは高校生という、何かを探して足搔く年頃のメタファのように思える。本書は、今の自分では出せない結論を、それでも懸命に探す若者の物語なのだ。若い世代にはもちろん、幅広い世代の人たちに読んでいただきたいほろ苦い青春ミステリ。


No.330 5点 化物園
恒川光太郎
(2022/09/28 18:34登録)
この世界には何やら得体のしれぬモノがいて、それに出会ってしまった人間たちの物語ではある。とはいえ、そのことがいわゆる共通した世界観としてあからさまに全作を貫いているのかと問われれば、どこか違和感がある。例えば前半の三篇は、私たちの暮らす「今」を舞台としたホラー作品としてとりあえずは読める。なにせ、空き巣に目覚めた女やひきこもりの男、新興住宅地の「異人」の物語が続くのだ。だが、残酷酷薄な描写にコミカルな味を漂わせたりと、いささかオフビートに「読み」をさらりとかわす。そうした「読み」の違和感をてこに、続く四編で、ここではないどこかへと見事に蹴り飛ばして見せる。戦後だろうか、ある屋敷のお手伝いとして雇われた女の物語があれば、幕末のある村に端を発する物語、あるいはいにしえのアジアを舞台とする物語があり、ちょっとSF的なファンタジックな物語もある。あれよあれよと迷宮じみた異界の夢幻へと連れ去って、そしてそこにはえもいわれぬ通奏低音として「ケショウ」という怪異の存在がある。


No.329 6点 犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎
コニー・ウィリス
(2022/09/16 18:41登録)
タイムトラベルもののSFミステリ。ではあるが、血涌き肉躍る活劇があるわけではない。二〇五七年の英国が舞台。死亡率の極めて高い新型インフルエンザが世界的に大流行して人口は激減し、文明は停滞しているという設定。第二次大戦の空襲で焼失した大聖堂の復元計画があり、それに欠かせないのが聖堂内にあったはずの花瓶なのだが、行方が知れない。主人公のオックスフォード史学科大学院生は、花瓶を求めタイムマシンで十九世紀へと旅する。大半はこのヴィクトリア朝を舞台としたお話に割かれていて、だからどこか歴史小説の趣もある。読んで爽やかなのは、おおらかで落ち着いた時代を、ゆったりとした筆致で描いたことにあるのだろう。恋模様一つとっても、品がよく優しい。もちろん筋書きもなかなかに巧みで楽しめる。


No.328 5点 謎解きはディナーのあとで
東川篤哉
(2022/09/01 18:22登録)
世界的大企業の令嬢・宝生麗子に付き従う執事兼運転手の影山が探偵役。収録された六編では、奇妙な死体、密室、ダイイング・メッセージなど、本格ミステリのお約束ともいえる謎が扱われている。ある意味、見慣れたトリックだが、それぞれのトリックに独自のアレンジを加え、ミステリに慣れた読者にも楽しめるように手堅く仕上げている。また、トリックの解明がすぐさま犯人の特定に結び付く話は少ない。むしろ、トリックが判明した後で、影山が別の手掛かりを指摘し、そこから犯人が割り出されていくという流れになることが多い。その際に用いられる手掛かりは、ギャグに見える部分にさりげなく仕込まれており、場合によっては風祭警部の迷惑発言によって引き出されることもある。重要な手掛かりをギャグでカモフラージュしながら、ぬけぬけと提示する手法は作者の真骨頂でしょう。


No.327 6点 原因において自由な物語
五十嵐律人
(2022/08/17 18:47登録)
現在から数年先が舞台で、顔の良さを数値化した顔面偏差値を高精度で測定するアプリが存在する世界。本書の重要人物の佐藤琢也は、その数値が低いことを糸口として、学校でいじめられていた。追い詰められた彼は、五階建ての廃病院から飛び降りることを決意する。もう一人の重要人物、二階堂紡季は、人気作家だが、作家生命を左右しかねない重大な秘密を抱えていた。琢也の決意の謎に紡季の秘密が想定外のかたちで融合する。まずはその展開に圧倒される。各自の苦悩に引き寄せられ、それぞれのストーリーが紡季の恋人である弁護士を介して融合する構図に驚愕し、結びついたことで新たに浮かび上がる謎にからめ捕られる。そのうえで、ともすれば不可解に思える行動に走る登場人物たちの心の奥底にある痛みや切なさを知って震撼するとともに、かなり苦い味わいだが、紡季の小説家としての決断を通して、物語という存在の重さ、強さ、そして可能性の大きさを、改めて認識することになる。


No.326 9点 六人の嘘つきな大学生
浅倉秋成
(2022/07/31 19:02登録)
就職活動という状況の心理戦と、その先にある意外な真相を描いている。若者に人気のIT企業スピラリンクスの新卒採用、その最終選考に残った六人は、一ヶ月後の選考日に協力して課題に挑むことになると告げられた。内容次第では全員に内定が出される可能性がある。それが一転、採用枠が変更され、内定は一人だけに。そして不穏な告発文が持ち込まれ、議論は不信と不破の渦巻く展開に。六人のチーム形成から選考当日までの間で、徐々にそれぞれの人物像が浮かび上がる。そして密室での心理戦から、歳月が過ぎた後の真相解明の過程が語られる。その中で人物像にさらに意外な側面が加わって、物語そのものが鮮やかな反転を見せる。一人の人間を知ることの難しさというテーマが、就職活動という状況と結びつく。人の心という謎を、精緻なミステリに仕立てている。

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