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ミステリの祭典

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小原庄助さんの登録情報
平均点:6.64点 書評数:267件

プロフィール| 書評

No.267 7点 金環日蝕
阿部暁子
(2024/10/17 08:38登録)
森川春風は家の近所でひったくりを目撃し、犯人の男を追いかける。途中で少年の加勢もあったが男は逃走。しかし春風は犯人が落としたストラップに見覚えがあった。彼女が通う大学で開催された写真展で、数十個だけ販売されたオリジナルグッズだったのだ。ひったくり犯を一緒に追いかけた北原錬も関心を示し、ストラップの購入者を訪ねていく。
無鉄砲だが論理的に物事を考える春風と、論理的でクールな錬のコンビが実に魅力的。二人が学内の購入者を一人ずつ訪ねてストラップを持っているか確認していく過程は、まさに探偵小説の読み心地。だが、第二章で経済的な境地から詐欺に加担する理緒の視点に移ると物語の雰囲気がガラリと変わる。春風たちが遭遇したひったくり事件と、理緒たちによる詐欺事件にどんな関係があるのか。読み進めていくと中盤に度肝を抜かれた。予想もしなかった事実が明かされるのだ。
本書に登場する犯罪者は皆、複雑な事情を抱えている。苦境から抜け出すため、理不尽さに対する怒りのために悪を働く人々と、悪を働かずに済んだ人々との間に明確な境界線はあるのか。その危うさを突き付けてくる物語。魅力的なキャラクターが多数登場、時にコミカルな場面を挟みつつ、訴えてくるものは重い。


No.266 8点 ワン・モア・ヌーク
藤井太洋
(2024/08/21 08:19登録)
二〇二〇年三月六日、オリンピックを間近に控えた東京に、一人の男が降り立つ。身分を偽り、不穏な金属の塊とともに入国した男の名はイブラヒム。元イラクの核物理学者だ。そして流暢なアラビア語で彼を案内する。女性通訳ボランティアは、デザイナーとしても活躍する但馬樹。二人は東京で原爆テロを起こし、新たな核被災地とするための協力関係にあった。警視庁で外国人が絡む犯罪を担当する早瀬隆二と高嶺秋那、かつてイブラヒムの仕掛けたテロに巻き込まれた経験を持つ国際原子力機関の技官・館野とCIAエージェント・ナズらは、テロリストの真意を探るため奔走し、原爆の実験可能性について検討を重ねるが、三月九日、ついにテロ予告動画が流れる。
日付が示唆する通り、東日本大震災とそれに伴う福島原発事故が、本書を貫く太い背骨になっている。未曽有の災害を前に、知識・情報・技術・感情、何を拠り所に、どう対峙するべきか。リアルな人物・技術描写に引っ張られ読み進めるうちに、あの時悩んだこと、思い至らなかった事、そしてこれからも考え続けなければならないことが、次々と脳裏をよぎる。強烈な風を吹かせる極上のタイムリミット・サスペンスだ。


No.265 6点 Sの継承
堂場瞬一
(2024/07/29 07:53登録)
60年安保闘争の終焉を見届けた実業家の国重は、自力での革命を決意し、彼を慕う化学専攻の大学生の松島を計画に引き込み、革命の武器となる毒ガスの製造に成功する。そして、東京オリンピックを翌年に控えた1963年に、先鋭化した松島は、時期尚早を唱える国重を押し切り、アジトのある前橋市で毒ガス散布に踏み切ろうとする。50年後の現代、国会議員の総辞職を要求した一人の青年が、国会議事堂前の路上で毒ガスを積んだ車に立て籠もる。
第一部では戦争の影を引きずる壮年の国重と、政治の時代の熱気に煽られる若者との間に流れる共感と齟齬が、時代色豊かに描かれる。第二部はタイムリミット型のサスペンスへと一変し、進行中のテロとそれに対抗する警察側への行動がスリリングに描かれる。
この異質な二つのパートを繋ぐのが国重が唱えいる革命である。誰もがそれを夢想と思いながら、どこか共感してしまうことを否定できない。甘い毒が含まれた革命の思想。その毒が容易に広まるネット社会において、それがどのような影響を及ぼすのか。ネットが無ければ不可能だったジャスミン革命のようなことが日本でも起きるのか。本書はオリンピックを控えた二つの時代を描きながら、そんな壮大な思考実験も含んだ類稀なるエンターテインメントである。


No.264 6点 5A73
詠坂雄二
(2024/07/03 11:50登録)
東京都内で起きた四件の自殺。死者たちが互いに知り合いだった様子はなく、自殺の手段も全部異なる。そんな四件に共通するのは、ある文字のタトゥシールが死体に貼られていたことのみ。その文字とは「暃」。JIS漢字としてコードを与えられながら、音も意味も不明。用例も全く見つからない「幽霊文字」だった。
山本警部と早川警部補のコンビは、国語学者の意見を聞きに行くなど風変わりな捜査で謎に迫るが、文字を読み方を模索するやり取りの積み重ねは、不条理でどこかしら空虚な雰囲気だ。
合理的に着地しないことは予想出来るが、本書が刊行されたこと自体を踏まえたメタな仕掛けも、前書きの時点ですでに発動している。取り憑かれるような奇妙な魅力を湛えた作品だ。


No.263 6点 MR
久坂部羊
(2024/06/12 08:36登録)
タイトルの「MR」とはメディカル・リプレゼンタティブの略。日本語では「医薬情報担当者」と訳される。自社の薬を売り込むため、医師に直接アプローチする営業担当者のことだ。
大阪に本社を置く製薬会社・天保薬品。南大阪エリアの中心となる境営業所では、16人のMRたちが日々医師へのアプローチを続けている。所長の紀尾中正樹は「人のためになる仕事をしたい」という思いからMRを志した正義感の強い人物だ。
MRの日常は大小のトラブルの連続だ。境営業所のMR市橋和己は、抗生剤の処方ミスを認めない開業医の対応に頭を悩ませ、ある病院では消炎鎮痛剤の仕入れがいきなりゼロになってしまう。市橋は理想の現実の狭間で心は揺れる。頼れるチーフMRの池野慶一、本音をずけずけ口にする山田麻弥、変わり者のチーフMRの殿村康彦など、紀尾中のもとには個性豊かなメンバーが集い、ここぞという場面で力を発揮する。特にコミュニケーション能力に難のある殿村は、この物語の名バイプレイヤーだ。
外資系の大手製薬会社タウロス・ジャパンは新薬・グリンガを大々的に売り出すため、紀尾中たちの動きを妨害してくる。学術セミナー会場での、コンプライアンス違反ギリギリの攻防戦など、スリリングな展開から目が離せない。効率や利益が優先される実社会において、理想を持ち続けることの難しさ。紀尾中の抱える葛藤は、多くの人が共感できるのではないか。製薬業界の光と影をリアルに描いた本作は「お仕事小説」としても読み応えがある。


No.262 6点 カード師
中村文則
(2024/05/26 08:13登録)
物語の冒頭、主人公の「僕」に、ある謎の組織から「投資会社社長」を名乗る佐藤なる人物にアプローチせよとの要請が舞い込む。イカサマ占い師にして裏カジノのディーラーである「僕」に託された狙いは、内部破壊工作にあった。
物語の骨格をなすのは、佐藤と内部破壊工作を委ねられた「僕」の食うか食われるかの戦いである。物語は全五部から構成され、それぞれに魅力的なクライマックスが用意されている。第一部で、大きく目を瞠されるのは、殺害される前任者の最後の食事の場面だろう。食事の様子を子細に観察する「秘書」の語りのうちに、小説全体の主題が暗示される。「黙過」ないし、主の「僅かな加減」によって生かされている人間の生の不条理という主題。
第三部は、三章にわたって延々と描き継がれるポーカーシーンに圧倒される。この場面の秀逸さは、ゲーム展開の息も継がさぬドラマにあるが、参加者の一人の急死による唐突なお開きの場面で見せる作家の手さばきも注目に値する。
第四部、佐藤が「遺書」で示したのは、私たちが生きる世界の出来事が、いかに不条理な偶然に左右されてきたか、ということだ。その事実に決定的に傷ついた佐藤だが、その彼が「僕」に差し出した三つの「手記」には、通底する主題があった。それは、いずれも「僕」からポジティブに生きる希望を奪う「黙過」の記録と自らのペシミズムを癒そうとした。その佐藤の「遺書」が、戯画的ともいえる偶然の一致やメロドラマ的な要素にもかかわらず胸を打つのは、彼の運命論がまさに私たちの時代の標と化しつつあるからではないか。


No.261 7点 ヨルガオ殺人事件
アンソニー・ホロヴィッツ
(2024/05/06 08:37登録)
前作「カササギ殺人事件」で起きた事件の余波により、編集者を辞めたスーザン・ライランドは、婚約者とともにクレタ島でホテル経営を始めていた。彼女の前に、イギリスで高級ホテルを所有する夫婦が現れた。八年前に自分たちのホテルの客室で宿泊客が殺される事件が起き、ステファン・コドレスクという従業員が逮捕されていたのだ。だが最近になり、夫婦の次女セシリーが、彼の無罪をほのめかした直後に行方不明になってしまった。
八年前の殺人事件と現在の失踪事件を繋ぐ重要アイテムが、作中作として配置された「愚行の代償」である。イギリスに渡ったスーザンは、かつてアランが取材した足跡をたどり、多くの関係者に疎まれながら証言を集め、さらに「愚行の代償」を読み直し真相を掴もうとする。
作中作と現実の事件をシンクロさせて、これまで見たことのない世界を出現させたのが「カササギ事件」であった。再び作中作を入れ込みながら、前作とは異なる工夫を実現させたのだ。現実の事件と作中作で二つの謎解きが楽しめるのはもちろん、その二つが相乗された本格ミステリの高みに誘ってくれる。


No.260 7点 メキシカン・ゴシック
シルビア・モレノ=ガルシア
(2024/01/22 08:28登録)
舞台は一九五〇年のメキシコ。資産家の娘ノエミのもとに、イギリス人のヴァージル・ドイルと結婚した従姉のカタリーナから手紙が届く。その文面によると、カタリーナは夫に毒を盛られているのみならず、屋敷内を彷徨う亡霊に脅かされているというのだ。従姉のみに何が起きているのかを確認するため、ノエミはドイル家の人々が住む人里離れた「山頂御殿」へと赴く。そこはヴィクトリア朝様式の古風な建物であり、住人たちも異常なほど窮屈な規則を守りながら暮らしていた。やがてノエミは、この屋敷で過去に起きた忌まわしい出来事を知る。
陰惨な大建築、そこに住む因習の一族といった道具立ては、歴代のゴシック・ロマンスの名作と共通する要素だ。しかし、英米のゴシック・ロマンス的な道具立てを、そっくりそのままメキシコという地に持ち込むことで、そこには別のニュアンスが生じる。メキシコは長きに亘って植民地だったが、ドイル一族は旧時代の記憶に固執する白人至上主義者であり、先住民の血を引くノエミに差別的態度を示す。また、ヴァージルの父のハワード頂点とする彼らは家父長制の権化でもあり、この二つの思想がより合わさったような邪悪な企みを秘めている。彼らの慇懃無礼な圧迫を受けつつ、ノエミがその企みをいかにして暴くかが本書の読みどころであり、シャーロット・パーキンス・ギルマンの「黄色い壁紙」を踏まえたゴシック・ロマンスのフェミニズム的再解釈の試みとなっている。


No.259 7点 渚の蛍火
坂上泉
(2024/01/22 08:07登録)
真栄田太一警部補は、琉球警察の本土復帰特別対策室班長の任についている警察官だ。本土復帰の日が迫ったある夜、真栄田は上層部から呼び出しを受ける。本土復帰に伴う円ドル交換のために、沖縄内のドル札を回収していた銀行の現金輸送車が襲撃され、百万ドルが強奪される事件が発生したという。日本政府は円と交換したドルを欠損することなくアメリカ側に引き渡す約束をしている手前、履行できなければ外交問題に発展しかねない。そのため上層部は、真栄田たち特別対策室の面々に極秘裏に強奪事件の犯人と奪われたドルの行方を捜査せよと命じる。捜査の期限は五月十五日、本土復帰の日だ。
地に足の着いた捜査小説のプロットに、任務遂行型の冒険小説でよく使われるタイムリミット型サスペンスの要素を加えた点が特徴である。しかも真栄田達の捜査は、日本政府はもちろん、沖縄に駐留している米軍に内容を漏らしてはいけないという制約もある。返還前に沖縄という歴史的状況が、刑事たちが捜査を行う上での枷となって緊迫感を生み出しているのだ。
真栄田太一は沖縄出身ではあるが学生時代に東京の大学に留学しており、琉球警察に入った後も警視庁に出向していた経験を持つ。そのため琉球警察内部では彼を快く思わない者たちがいた。こうした周囲の目に晒される中で真栄田の心に芽生えるのは「自分は何者か」という問いである。
捜査小説として、かなり入り組んだ構造を持った真相が提示される点にも着目したい。犯人の行動は一見すると無茶にも思えるのだが、それも沖縄の混沌を背景にすると、この上ない説得力と切実さを持ったものとして受け止めることが出来るだろう。歴史に翻弄された人間の物悲しい背中がそこにはある。


No.258 7点 ハロー・ワールド
藤井太洋
(2023/12/21 08:32登録)
主人公は、専門を持たないエンジニアの文椎。タイトルの「ハロー・ワールド」とは、一番初めにプログラムで書かせる文字列のことだ。
表題作の「ハロー・ワールド」で、文椎はブランケンといいうiPhone用広告ブロックアプリを作る。他のアプリと比べて性能が勝っているわけでもないのに、順調にダウンロード数は増えていく。特にインドネシアでの売り上げが高い。そこそこの実績しかないエンジニアが作ったアプリが、遠い海の向こうにいる人たちの人生を変えてしまう。一連の出来事をきっかけに文椎が遭遇する未知の世界は、インターネットの自由を脅かす世界だ。大きな力を持たない個人が抑圧から逃れるのは難しいが、技術者としてできる限りのことをするところがいい。
「五色革命」は、反政府組織の大規模デモによって封鎖されたバンコクで文椎は事件に巻き込まれる。言論や情報を統制する社会が貧しいとは限らない。圧政から解放されたはずなのに、以前よりも人々の暮らしぶりが悲惨になったいる国もある。自由とは危険を冒してまで手に入れる、もしくは守る価値のあるものなのかと考えさせられる。「巨像の肩に乗って」では、ツイッターにまつわる考察が興味深い。最初は革命的に思えたものもいつの間にか権力に取り込まれるという閉塞感を越えて、文椎が最後に至った境地が爽快だ。


No.257 7点 私のハードボイルド 固茹で玉子の戦後史
評論・エッセイ
(2023/12/05 08:48登録)
著者が、高校から大学時代にかけて、映画や小説でアメリカ文化を吸収して、その中から同時代文化としてのハードボイルドを選び取っていく過程は、戦後特有の熱気を背景にしているだけに興味深い。推理小説誌がチャンドラーの代表作を紹介し、性描写や暴力描写が売りもののミッキー・スピレーンの選集が登場、読書会を席捲する経緯が丹念に跡付けられる。
ハードボイルドという言葉を初めて活字にしたのは、映画評論家の双葉十三郎であることも立証される。それまでにも、海外の雑誌でハードボイルドという単語に接し得たはずだが「固茹で玉子」という原義通りに受け取り、新しい分野とは、考えなかったと思われる。
始祖のハメットをアンドレ・ジイドが激賞したという事実は有名で、日本のハードボイルド輸入にお墨付きを与えたようなものだが、当初伝えられた発言そのものは海外の雑誌に掲載された架空会見記によったもので、実際のインタビューと勘違いしたものという。このあたりの重要な考証は綿密で精彩を極め、資料を重視する著者の姿勢が発揮されている。
情報過多の湿っぽい雰囲気が支配する日本の文芸に、きびきびした行動性と乾いた文体を導入したハードボイルド。その意義を改めて認識させる回想録でもある。


No.256 6点 松本清張の葉脈
評論・エッセイ
(2023/11/18 11:18登録)
まず、清張の朝鮮での兵隊体験を、丸山真男の同時期の同じ兵隊体験と比較検討するところから始めている。高等小学校卒で学歴差別を受けていた清張の被差別者としての軍隊体験が、普通の人の兵役体験とは大きく違っていたことはよく知られている。しかし、それを東京帝国大学の助教授で、平時なら権力の側に組み込まれることが約束されているエリートの丸山真男の兵隊体験と対比して分析する試みは、実に新鮮で面白い。
続く第二部は、清張の膨大な業績を「フィクション・ノンフィクション・真実」、「証言・偽証・冤罪」、「社会派推理小説・自殺・失踪」、「美術・真贋・史伝」という独特の四つの切り口で分析している。清張の小説に自殺や失踪が多いことを当時の自殺統計と関連付けて論じた点など、興味深い指摘も多いが、総じて第二部は第一部に比べてやや論理的な飛躍が多く、説明が不十分で説得力に乏しい部分がある。
このような不満は残るものの、清張のフィクションとノンフィクションを往復する独自の方法や大衆性に疑問を投げかけるなど、著者独自の刺激的な問題提起が含まれており、ユニークな清張論になっているのだ。


No.255 7点 アガサ・クリスティーの大英帝国
評論・エッセイ
(2023/11/18 11:04登録)
本書は観光と都市の歴史研究の専門家でミステリファンでもある著者が、クリスティーの生涯と大英帝国の盛衰をたどりながら、名作の魅力の源泉を「観光」と「田園と都市」というユニークな切り口で浮き彫りにした評論である。
ポーの世界初のミステリ「モルグ街の殺人」が発表された一八四一年は、トマス・クックが鉄道による団体ツアーを組んだ観光元年でもあったという。だが、ポーはパリを舞台に名探偵デュパンを活躍させたが、コナン・ドイルも名探偵ホームズを旅に出してはいるが、もっぱら仕事のためで観光ではないと著者は指摘する。
その点「そして誰もいなくなった」をはじめとするクリスティーの名作は、観光ミステリと都市と近郊の田園を舞台にした作品が多いのが特徴で、それが独特の魅力にもなっていることを、具体的に長編六十六作をもとに分類し、鮮やかに分析してみせる。
謎と恐怖を主題とするミステリの評論研究はともすると、トリックとか意表を突くプロットの分析に偏りがちだが、著者はそういう点は十分に理解した上で、クリスティーの魅力の全体像を、乱歩のいう「謎以上のもの」の分析を通して教えてくれるのだ。ミステリへの愛が行間ににじみ出ている好著である。


No.254 8点 カササギ殺人事件
アンソニー・ホロヴィッツ
(2023/10/28 08:36登録)
一九五五年、サマセット州のある村で、パイ屋敷の家政婦メアリの葬儀が行われた。当主夫妻が海外旅行中に、メアリは密室状態の屋敷で階段から転落死したのだ。彼女の息子ロバートが村人から疑われたが、動機を持つ人間はほかにも大勢いた。ロバートの婚約者から真相解明を依頼された探偵アティカス・ピュントは、それを一旦は断る。自身に死期が迫っていることを知っていたからだ。しかし、パイ屋敷で新たな惨劇が起きたと知り、これが自分にとって最後の事件になることを予感しながら腰を上げる。
というあらすじから察しが付く通り、この作中作はクリスティーの世界を彷彿させる。一章ずつ視点人物が変わる構成も、誰も彼もが怪しい関係者たちの描写もクリスティー的。このいかにもイギリスの古典本格ミステリ調の世界に浸りながら読んでいると、目が点になるような文章で上巻が終わり、下巻に入ると最初のページで呆気にとられることになる。その先はまさに怒涛の展開で、作中作の謎と現実に起きた事件の謎が絡み合いながら解明されてゆく。
全編に張り巡らされた伏線も本書の大きな読みどころだが、特に強調しておきたいのは、終盤の謎解きパートに突入した時、思い出せないような伏線がない点だ。しっかり読者の記憶に残るような形で登場させておきつつ、それを伏線だと気づかせない超絶技巧が味わえる。


No.253 6点 ハメットとチャンドラーの私立探偵
評論・エッセイ
(2023/10/09 06:50登録)
ロバート・B・パーカーはスペンサー・シリーズの作者として知られているが、ハードボイルド小説の研究家としても有名である。
ハードボイルド探偵に「純の純なるアメリカ人」の姿を見出すという視点は、現在ではさほど珍しいものではないが、この論文が発表された当時としては目新しいものだった。これはハードボイルドの熱心な読者でもあり、なお且つアメリカ文学に少なからぬ興味を抱いたパーカーならではの着眼点というべきだろう。
この論文の随所に見られるアメリカ文学からの引用やアメリカ社会に反映されているものが多い。とりわけアメリカ社会に対する見解には卓越したものがあり、その視点が実作者としてのパーカーを位置づけているといっても過言ではない。


No.252 5点 日本探偵小説論
評論・エッセイ
(2023/09/22 12:20登録)
日本の探偵小説を、それ自体の流れだけで考察することには、あまり意味がない。著者は江戸川乱歩の次に川端康成を論じ、地味井平造や大阪圭吉に続けて、内田百聞や谷崎潤一郎を論じる。また小栗虫太郎の人外魔境ものや橘外男の満州ものの延長線上に、ポストコロニアル小説として、川端康成の「雪国」や林芙美子の「浮雲」を取り上げる。日本の探偵小説という枠組みを、思い切って広げて見せたのである。
ただ、あまりに多くの作家、作品を取り上げたために、一人の作家、一編の作品については、やや論述の物足りなさを覚えないこともなかった。尾崎翠、村松梢風、花田清輝、野口赫宙などの作家や、戦時下のいわゆる「暗黒時代」の探偵小説作品にも、もう少し具体的に触れて欲しかった。それにしても、日本の近代文学の本質を十年前後という時間の中に凝縮して見せた批評の力技は、ただ感嘆する以外ないのである。


No.251 6点 清張とその時代
評論・エッセイ
(2023/09/22 12:08登録)
清張が私小説の手法を得意分野とせず、もっぱら実生活とかけ離れたエンターテインメントの創造に興味の中心を向かわせていたのは間違いない。ではあるが、数は少ないが「父系の指」という私小説、あるいは自叙伝「半生の記」、エッセーなどに彼の本音が垣間見える。著者はこれらを詳細に読み込み、清張の本音が純然たるフィクション、いわば彼の十八番の仕事にどういう形で反映されてきたのか、検証するのである。
それだけではなく、実際に清張が生まれてから亡くなるまでの時代背景を見つめ直す。つまり個人史だけではなく、もっと大きな歴史の中に清張を置くことによって、この作家が大成した謎に迫ってもいる。
下積み時代を長年経てきた人が、どのようにして偉業を成し遂げ、人生の完成形を極めてきたか、その謎を探る本でもある。


No.250 7点 シャーロック・ホームズの科学捜査を読む
事典・ガイド
(2023/08/11 08:15登録)
各章が、ホームズ作品のエピソード、それと関わりを持つ特定の操作技術、そしてその技術を生み出す契機になった、あるいはそれが適用された有名な事件の物語という三つの部分から成り立っている。例えば「別人になり切る」では、ホームズが変装の名人だったことを想起したうえで、彼の捜査に影響を与えたフランス人で、やはり巧みに姿を変えたヴィドックの「回想録」に話が進み、さらに変装した犯人を見破る刑事の活躍が語られている。
また「有罪の確証」では、「赤毛組合」の依頼者が手首に中国特有の刺青をしているという記述から出発して、犯人を固定する技術の変遷をたどる。まず、当時の新しい技術である写真が活用され、次にパリ警視庁のベルティヨンが人体測定法を考察し、それが指紋による固定に取って代わられる顛末が語られる。犯罪の歴史は、それを捜査する科学知識の発展の歴史をも浮き彫りにしてくれるのだ。
その他に毒物学、血痕判定など、現代の犯罪捜査にもつながる興味深い話題が満載。犯罪実録ものを読む楽しさと、法医学を通じて社会の変化を知るという知的欲求が同時に満たされる。


No.249 5点 江戸怪奇標本箱
藤巻一保
(2023/07/24 07:05登録)
怪談には人の恨みの物語が多く、またそれが好まれもするのだが、この作品には、そうしたドラマは少ない。悲しい因果をはらんだものは出てくるが、それは霊魂の器となるもののバリエーションの一つとしての収録である。
だが、カタルシスをもたらすようなドラマはなくとも、怪しいものたちの不思議な逸話や因縁を語ることは、物語るということの原風景に近いはずだ。作者は、いたずらに合理的な説明をしてものの不思議さや魅力を損なうようなことはしない。かといって神秘を説こうとするわけでもない。
そして、江戸の見世物小屋で見られた干魚など生臭ものを集めて作った仏像にうかがわれる「善悪ひっくるめた業の肯定」が、こうしたものたちにはあるという。見世物小屋のように、人の業から珍物、奇物が次々と生み出され、無限に増えてゆく。怪奇なものの多彩さは、人の業のバリエーションにほかならないのだ。その意味では、やはり人間のドラマなのである。
作者の興味は、この種の話を膨大に書き残した江戸の好事家たちの心と響き合っている。一見は悪趣味とか無意味と見える仕事こそ、人間への深い関心に根ざしているものなのだ。


No.248 5点 呪文
星野智幸
(2023/07/05 09:18登録)
舞台は、東京の某私鉄沿線がモデルと思しき松保という名の商店街。理不尽なクレーマー騒動を逆手に取って、松保商店街組合の若きリーダーである居酒屋店主・図領が、若者に人気に隣駅に押され世代交代もうまくいかずに寂れかかっていた商店街の復活を企てる。
章ごとに複数の登場人物の視点を切り替えることによって、この小説は何の変哲もない平凡な街で、取り返しのつかない状況が刻々と進展し、拡大してゆく様を臨場感たっぷりに描いている。ここでの「正しさ」を支えているのは、理想や希望と呼ばれているものである。当然のことながら、これらには誰もが抗い難い。理想も希望も枯渇していると思われているなら尚更である。真のディストピアは、ユートピアの仮面を被っている。
だが作者の目論見は、救世主や英雄と思われた者が実は悪魔の手先だった、という寓話的な仕掛けには留まらない。この小説のタイトルに冠された「呪文」という語は、具体的には後半に出てくるあるスローガン、合言葉、託宣のことだが、むしろ焦点は呪文にあっけなく憑依される弱さを、呪文を口にすることで得られる強さと勘違いをすることの怖さ、恐ろしさである。日本社会に潜在するネガティブなエネルギーが充填されている。

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