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ミステリの祭典

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クリスティ再読さんの登録情報
平均点:6.39点 書評数:1392件

プロフィール| 書評

No.532 4点 憲兵トロットの汚名
デイヴィッド・イーリイ
(2019/06/16 14:50登録)
短編名手イーリイの初長編である。
第二次大戦直後のフランスに進駐する米軍の憲兵トロットは、同僚マレイのヤミ容疑による逮捕をわざと逃した疑いで、同僚たちから責められていた....嘲る後任者をはずみで殴り殺したトロットは脱走してパリを目指した。何としても疑いを晴らして、根源のマレイをこの手で捕まえるんだ...
と復讐に燃えるトロットを主人公とした...と思わせながら、実はそういう小説ではない。確かに導入はそのとおりなんだけど、あっさりトロットはマレイと行きあってしまい、行き場のないトロットはマレイが属する、偽憲兵をつかった美人局一味に加わることになる。なので、トロットとマレイの腐れ縁の話といった感じのものだ。トロットは手柄を立てて返り咲きたい心もあって、何回もマレイを密告しようとするが、そのつど邪魔が入ってうまくいかない。そのうちに、この美人局一味も空中分解し、なんやらナチ残党絡みらしい話に巻き込まれていく....
まあ、なんというか、ヘンな話である。イーリイらしいヘンさかもしれないが、どうみても不発。トロットの心理を書き込みすぎてて軽快さがない。トロットも何となくマレイに丸め込まれて、しかもマレイ、裏切られるのを承知しながら恩を売るような、食えない悪党である。本当に腐れ縁としかいいようのない、しょうもない関係である。シーンをうまく短編で切り取ったらそれなりに面白いのかもしれないが...ちなみにトロットもマレイも、憲兵でも所属はCID(犯罪捜査部)だから、刑事みたいなものである。悪徳警官モノの変形かもね。
次の「蒸発」とかもっと面白いんだがねえ。


No.531 6点 飛越
ディック・フランシス
(2019/06/16 11:50登録)
フランシス競馬スリラーというと、大人気だったけど、評者特に思い入れがないシリーズである。そこらへん87分署と似ているかもね。
客観評価で見ると、とくに込み入った謎があるわけでもなくて、オーソドックスな冒険モノということになるだろうか。前半で分かる輸出を巡る詐欺行為は、実は今の日本でも消費税をネタにして流行中の手口だよ(苦笑)。
でまあ、本作筋立てなんてホントはどうでもいいのだろう。生まれだけは伯爵の嗣子で、貴族のボンボンと舐められるのが癪なモラトリアム主人公が、アマチュア騎手とか(これもアマチュアの)飛行機パイロットとして、自分の「オトコとしての価値」を証明しようとしているが、両方の知識を活かした競走馬空輸に意地で就職して事件に巻き込まれ....というこの主人公設定自体が、ツボな人はホントにツボなんだろう。ハイソで上品な「ロッキー」みたいなものだ。斜に構えた評者とかだと「男ハーレクインじゃん」となると言えばなるんだけどもね...まあ評者、ハーレイクインにも男ハーレクインにも、別に悪気があるわけじゃない。
まあ好きな人は好きなんだろうね、と思う。いいじゃないか。


No.530 5点 緑色遺伝子
ピーター・ディキンスン
(2019/06/15 19:29登録)
ディキンスンというと、ミステリ枠の作品でもSFっぽい設定があったり、本作みたいに一応SF枠だけど人種差別と文化摩擦を扱ったリアルテイストだったり、ジャンル分けが無意味な作家の代表みたいなものだろう。
いつの頃からか、白人の親から緑色の赤ん坊が生まれるようになったイギリス。この緑色人種を生み出す遺伝子は、ケルト系と関係があるようで、ケルト&緑色人種からサクソン人を守る、厳格な人種隔離が施行されていた。そこにインドから、天才的な医学統計学者ヒューマヤンが、この緑色遺伝子の謎のヒントを掴んだことから、イギリスで研究するように「人種関係局」によって招聘された。滞在先は人種関係局の幹部グリスター博士の家、その2人の娘、ケイトとグレンダとも親しくなるが、緑色人種のメイド、モイラグの敵意に悩むようになる。差別を受けるケルト系過激組織のテロが頻発するなか、ヒューマヤンはモイラグ殺害、グリスター邸の爆破に続いて、過激組織に誘拐された....
という話。ヒューマヤンは天才的な科学者だが、迷信的な信仰も両立する規格外の人物。もちろん、実在の天才数学者ラマヌジャンの面影がある。ディキンスンは、ちゃんとしたリアルな科学者らしさがありながら、それから逸脱する神秘主義を両立させる、言ってみればニューエイジ風の科学者像が得意(「生ける屍」でも「毒の神託」でも...)だが、これがバカバカしく浅薄に見えないのがさすがのところだろう。でもね、ディキンスンの才筆をもってしても、ラマヌジャンの内面を描こうというのは無謀すぎる。
しかし本作だと、この緑色遺伝子に関するヒューマヤンの結論が今ひとつ不明だ。そして、ウェールズやコーンウォールのようなケルト文化の残る地帯、そもそも別国だったスコットランド、ケルト文化の「緑」の島であるアイルランド...と今でもイギリスに残る文化的な差別と軋轢感が、日本人だとピンとこない。難しいなあ。せいぜいIRAくらいなら宗教対立で何とかなっても、本作の人種差別体制はもっと「肌合い」に近いような微妙なものをベースにしているのだろう。
まあ、エンタメとしても今ひとつ歯切れが悪い話。コンピュータにヒューマヤンが仕掛けを施すのだが、訳文なのか、時代なのか、作者のコンピュータ理解の問題なのか、今ひとつ何がなんやらわからない。けどこれは明白に訳の問題だろう。

その負者(マイナス・ワン)が想像上のふたつの立方根を自身以外にもっていて....

「想像上」は imaginary だからこれ明白に「虚数」のことを言っているんだよ。数学用語は意外なくらいにベーシックな英単語が術語になってるから、気をつけなきゃね。


No.529 7点 雨の殺人者
レイモンド・チャンドラー
(2019/06/15 18:46登録)
創元のこの巻は「大いなる眠り」のネタ2つ「雨の殺人者」「カーテン」、「さらば~」の元ネタ1つ「女で試せ」、三人称ハードボイルド単発「ヌーン街で拾ったもの」、ファンタジー「青銅の扉」という5本立て。
「雨の殺人者」は妹娘側の話、「カーテン」は姉娘側、とそれぞれ別な女性の話を「大いなる眠り」では姉妹として合体させたのが面白い。短編で読んでみると、こっちのが話の辻褄が合いやすくてイイようにも思うんだが...長編版でオミットされたドラヴェックの結末が評者好きだなあ。ちなみに「オレだって知るものか!」とチャンドラー本人も開き直った、運転手殺しの真相は元ネタの「雨の殺人者」でもはっきりしないのがご愛嬌。
「ヌーン街」は三人称でマーロウ物よりも派手にバイオレンス寄り。映画的でスピーディな話で、ありきたりとはいえ、マーロウ物が避けがちで評者とかとても不思議だったハリウッド内幕のネタなのも、映画風味。クールでドライな語り口がナイス。
「青銅の扉」はチャンドラーの英国趣味全開な不思議犯罪小説。ハードボイルドな味はまったくないが、やたらと達者なのが逆に新鮮。今更言うのもなんだが、小説上手だ。
で、「女で試せ」は大鹿マロイを巡る話のちゃんとしたバージョン、という感じのもので、「さらば」だと実のところ枠組みくらいでしかなくて、中途半端な扱いなマロイに、きっちりドラマを作ってみせている。なので後半はほぼ別物で、「さらば」はマロイのキャラを借りただけ、という気がしないでもない。
というかね、日本の読者はチャンドラーをまず長編で読んで、それからファンが短編を読む、という流れになるのは当然なんだけど、作品の成立ももちろん逆だし、「ハードボイルド書き下ろし長編」という出版形態の意味を考えたときに、実のところ「ブラック・マスク」に掲載された短編の方を軸に考えた方のがチャンドラーという作家をちゃんと理解できんじゃないのかな? 執筆時ではパルプ雑誌での「書捨て・読み捨て」だった、小説家としては最底辺レベルの仕事の中で、アメリカ文学の最良の部分が育ってきた...という歴史的な皮肉があって、それが一躍クノップ社ハードカバーの「長編ハードボイルド」に仕立て直されて、表舞台のビジネスに乗って「ハメット・チャンドラー・マクドナルド・スクール」とか呼ばれちゃう流れを通じて、チャンドラーを理解する必要があるんじゃないかとも思うのだよ。
本作の短編は、長編の試作でも、元ネタでもなくて、それ自身で独立した生命を備えた作品、と読んで行きたいと思うんだ。どうだろう?


No.528 8点 隅の老人の事件簿
バロネス・オルツィ
(2019/06/10 21:56登録)
一口に「ホームズのライヴァル」と括られる短編ミステリ専門ヒーローがいるわけだけども、評者の見るところ、そのうち3人だけが「名探偵」から意図的に逸脱しているように思うのだ。「隅の老人」「プリンス・ザレスキー」少し時代が下るが「ポジオリ教授」、この3人は短編で謎を解き明かしながらも、いつしかその謎の彼方に消えていくような印象を評者は受ける。
というわけで評者「隅の老人」を非常に買っている。正体不明、紐を結んだり解いたりする奇癖、犯罪に強く共感する反社会性に加えて、純粋に新聞・検死審問などのオフィシャルな情報だけを語って、未解決の事件の真相を解釈してみせる....ひょっとしたら、その推理はまったくデタラメなホラ話なのかも知れないし、聞き手のミス・バートンを誤導するためのミスリードなのか、本当のところ、よくわからない。
実際、物語の結末が証拠によって隅の老人の推理が裏付けられる話は(おそらく意図的に)ほぼないし、推理の結果因果応報というのも、作中で描かれはしない。語られる検死審問の詳細も、ただ単にリアリティを与えるための口実に過ぎないかのようだ。ありふれた金銭欲などの卑小な動機しか描かれないし、突飛なトリックはなくて、ありふれた人物誤認のバリエーションがあるだけだ。本作のリアルと老人の穿った解釈は互いに食い合って、あたかも奇怪な結び目と化しているかのようだ。
だからこそ、「隅の老人最後の事件」がああいう結末であっても読者に対する裏切りではない。あれは、ああでなくてはいけないのだろう....隅の老人は消え失せる。それこそミス・バートンが見た血なまぐさい悪夢のように。老人がすべての事件の犯人なのかもしれないのだ。

(隅の老人は、新聞とか検死審問とかパブリックな情報源だけで推理するわけで、自身の調査などアクティブな捜査を一切しない探偵、という意味で「安楽椅子探偵の先駆」という評価がされたのでは?という気がするんだよ。「安楽椅子探偵」という字面とその後の概念の成立に引きずられて、否定するのはどうかと思うんだが...)


No.527 6点 国枝史郎探偵小説全集 全一巻
国枝史郎
(2019/06/10 08:37登録)
国枝史郎というと「神州纐纈城」で有名な戦前の伝奇作家なのだが、日本で最初に「探偵小説」が受容された1920年代前半に、国枝もこのジャンルに強い興味を持って創作・批評をしていたパイオニアでもある。とくに小酒井不木とは親しい関係にもあるし、「新青年」にも投稿欄の「マイクロフォン」が多いが、単発の評論でも何度も登場している...となかなかの活躍度なのだけども、いわゆる「日本探偵小説史」からは抹殺された存在に近い。
これにはワケがあって、一つは乱歩と折り合いが悪くて、「大乱歩中心」な探偵文壇から特に戦後無視されたこと、トリック中心主義に否定的だったこと、今で言う「社会派」的な作品観だったこと...などがあるように感じられる。
まあ、戦前の「探偵小説」というものも、現在から見るとジャンルが広すぎる印象があるわけだ。都会派で翻訳臭が強くて広義の「謎」を追う話ならば、何でも「探偵小説」だった、というのが「新青年」的な立場と言ってもいいだろう。今でいえば「怪奇幻想」「秘境冒険」「SFスリラー」「国際スパイ」「猟奇心理」に分類される作品が、おおざっぱに「探偵小説」と銘打たれていたわけである。この広いジャンル観でしか、実際のところ国枝史郎の「探偵小説」は受容しきれないようなものである。
この作品社から出た限定1000部の本は446ページのうち、創作23篇で約300ページ、評論35本を約150ページの配分で収録している。だから短編と言っても、文庫換算で20ページ内外の尺がほとんどで、軽いオチがついて逆転の面白さを狙った小品、というものが多い。初出では「翻訳」として発表されたが、実は国枝の創作というものも多くて、「洋行趣味」なテイストがなかなか堂に入っている。ただし、いわゆる「ミステリ」を期待すると肩透かしで、国枝の達者な語り口とロマン味を楽しんで読むのが良かろう。それでもどうだろう、「広東葱」「木乃伊の首飾り」「指紋」あたりがギリギリにミステリに今でも入るかな? ただ、本としては、探偵長編の「沙漠の古都」「東亜の謎」「銀三十枚」「犯罪列車」などは収録していないので、そっちを読んでから本書は読むのがスジだろう。
評論はいわゆる「新青年」カルチャーの裾野の部分を補強する資料としてたいへん貴重といえる。小酒井不木を敬愛していたことが強く窺われて、不木を巡って乱歩と鞘当てしたので、不木が苦慮した...という話ももっとも。また当時の左翼畑の文学がこれも一種のモダニズムとして、新青年周辺にあったわけで、いわゆる昭和大衆文芸の持つ社会改良主義的な色合いを、探偵小説にも盛り込むといい...という論の一方の論者でもあった。そういう例として羽志主水の「監獄部屋」を絶賛しているし、またウェルニーシン「死の爆弾」という作品を推している(すまんがこれは知らない...けど気になる)。評論としてはなかなか目配りもいいのだけども、「新青年」に書いていたのは1928年くらいまでの短い期間で、不木の死と共に熱が冷めたようでもある。そこらへんもこの人の業界プレゼンスが低い理由かもしれない。
戦前の「探偵小説」の外縁を探るにはもってこいの労作だが、本サイトでもちょっとニッチだろうなぁ。

そうして何んとなく同氏の作品には―もし叱られたら謝罪するとして、軟派不良少年の味いが、加味されているように思われます。

誰に対する評だと思います?横溝正史ですよ。なかなか慧眼。


No.526 4点 剣の八
ジョン・ディクスン・カー
(2019/06/06 08:31登録)
さて評判の良くない作品である...実際読んでみると何か「ゆるい」ままズルズル続いて山がかからずに終わる作品だと思う。作品で何を面白いと読むのか、ポイントがはっきりしないんだよね。
一番面白い部分が、訪問者の正体に関する推理なんだけど、これが速攻で前半に推理されちゃうという構成のまずさはどうしたものだろう?最後の真犯人絞り込みの推理が内容的にこれに負けているんだよね。小説としても終始グダグダで読みどころがない。登場人物の一人が探偵作家(政界の事件専門の探偵らしい)でメタっぽいことを少しクスグるから、そっちを活かしたお笑いにするとか、手はあるんだろうけどねえ。
考えてみると、カーって結構な濫作家なんだよね。2つのペンネームを使って、1933年から41年まで、最低年3冊、標準年4冊新作書き下ろしを出しているわけだ。特に本作の1934年は「黒死荘」「白い僧院」本作「盲目の理髪師」それにロジャー・フェアベーン名義の歴史ミステリ「Devil Kinsmere」と5冊出している忙しい年である。カーター・ディクスンの当り年のワリを食ったようなものだろうか。

(よく考えたら名作「〇〇の〇」の元ネタだね。訪問者の正体とか、プチ銃撃戦のW構成とか)


No.525 6点 柾它希家の人々
根本茂男
(2019/06/04 20:23登録)
竹本健治や皆川博子が称賛したことで、「奇書」の呼び声が高い作品なんだけども、まあそれ以上にマイナーな冥草社で1000部限定で入手難、装丁凝ってて「見るからに呪物感滲み出る本(竹本)」なんて言われたらさ、読んでみたくもなるものだよ。大阪府立図書館にあったから借りて読む。
主人公の女性は子どもたちの家庭教師として柾它希(まさたけ)家を訪れた。旧華族風の広壮な邸宅なのだが、庭も屋敷も荒廃するがままで、そこに住むのは傲慢で荒淫の果に衰えた雰囲気の主人と、それぞれに奇怪な4人の子どもたちだった。子供らしくない丁重さがあるが美男揃いの兄弟たちの中では醜く、しかし悲しく引き込まれるような眼を持つ次男の敦、犬を虐待する長男恭平は突然恐怖の発作によって混迷し、三男洋平は兄と一緒に犬を虐待するが母親の自画像から顔だけを切り取る奇行を見せる。四男悌一はシャツばかり何十枚も重ねて着てあたかもすっぽんのようで、うっかり触った初対面の主人公に噛み付く...と奇怪な子どもたちばかりである。主人はいつ尽きるともわからない長い話を主人公に語って聞かせる。それは主人と権高い妻の杞紗子、杞紗子の劣化コピーのような従兄弟の曽根正示の三角関係の因縁であった...
まあだから、ジャンルとしてはゴシック小説で全然問題ない。大枠は「嵐が丘」とか「レベッカ」みたいな話。ただ、主人の語る話に例え話が頻出するのだけども、何をどう喩えているのかよくわからない。
超利己主義者の「さまよえるユダヤ人」エヘエジェルスがキリストの屍を奪おうとして、斧を振り上げた瞬間にいたいけな小児が眼前に出現して立ちすくむ話が、主人と妻と曽根の三角関係に絡めて何度も繰り返され、どうやら突き飛ばされたエヘエジェルスは神の鼻に噛み付いたらしい....なのでこういう譬え話風の観念小説らしさが埴谷雄高の「死霊」に近い味わいなのだが、「死霊」よりもトボけた印象でわざと狙った意味不明さみたいなものを感じる。
「死霊」の重厚さはなくて、結構さらっと読めるし、単行本300ページ位だからそう長いわけでもない。本作が「奇書」だとしたら、「死霊」とか「黒死館」は「大奇書」だと思うよ....「天然」じゃない狙ったようなものを感じるし、熱量値もずいぶん低い。島尾敏雄の「贋学生」にも通じる、妙なニセモノくささを面白がるようなキッチュな韜晦かな?「奇書」と呼んだら過大評価だと思う。
取り柄は呪術的な文章。印象的な形容を何度も同じものに繰り返し繰り返し使い回すのが、口承された語り物のような印象を与える。一文一文が長いけども、構造的に複雑ではなくて、語りの「調子」でつながっているようなものなので、呪文めいたオーラルなニュアンスが強い。また、この人独自の形容詞や漢字使いもあって、文章はなかなか興味深い。

それまでは、死ぬまでもう姿を見ることは出来まいと一抹の悲哀の思いを抱きながら諦めていた杞紗子が、むかしと少しも変わらぬ、それこそ、杞紗子のいまの話ではないが、乳母の眼には幼い頃からずっとそのまま少しも変わっていないと思える、絹のように柔らかにひなひなした黒髪を細そりした頚筋にひなやかに巻きつけて、宝のように包んだ、抜けるように肌白い卵型の品のよい顔に、乳母が何年も空恐ろしい思いをさせられてきた、冷たく濡れた眼をきらきら光らせながら、二階の部屋でこうしてくつろいで、赤子のように滑々としてふっくらと盛りあがった唇が、この数年来というもの...

後略失礼、一文の途中で「。」までまだ半分くらいである。こんな調子だが作者オリジナルのオノマトベめいた「ひなひなした」という形容や、これを使った杞紗子の髪の形容はクリシェのように作中で何度も何度も繰り返されている。このリズムや調子にノレれば、そう読み進めるのはツラいものではないが...オチがついているのかついていないのか、判然としないラストで欲求不満(そのうち「死霊」します)


No.524 6点 メグレと口の固い証人たち
ジョルジュ・シムノン
(2019/06/01 14:02登録)
あれ、本作不人気だなあ。雰囲気暗めだからかな...舞台が晩秋で湿っぽいのにメグレが合わないわけじゃなし、このくらいは悪くないと思うんだけどね。
老舗というか古めかし過ぎて倒産寸前のビスケット会社を経営する一家で、押し込み強盗を疑われる状況での主人の死体が見つかった。メグレが出動するが、若い予審判事があれこれメグレに指図したがるわ、この一家は捜査に非協力的でいきなり弁護士を雇って捜査を監視させるわ...とメグレも手足を縛られたような捜査が続く。
けどね、メグレは「私は何も考えない」「メグレ流の捜査なんてない」というスタンスだから、こんな外的制約にだって動じない。家族に対する尋問をせずに、周囲から外堀を埋めていくかのように、徐々に状況をメグレは把握していく。最後は若い判事に花を持たせる余裕あり。
キャラとしては、家風を嫌って家出した一家の長女が、レズビアン・クラブの男装バーテンになっていて、なかなか素敵(苦笑)。シムノンも「家モノ」がたまにあるけど、抑圧されてヒネた息子と疎外された嫁、奔放で距離を置きたがる娘って構図はお得意。今回はハジけちゃう母親(「ドナデュの遺書」とか「サンフィアクルの殺人」とか)はなし。


No.523 7点 電話魔
エド・マクベイン
(2019/05/30 07:47登録)
87分署の宿敵のプロ犯罪者、名前を言ってはいけないあの人の初登場の作品である(苦笑)。評者の持ってる本は昭和53年のミステリ文庫3刷の古めの訳(今は知らんが)、本当に名前を言っちゃあいけない。
「4月30日までに立ち退かないと殺す!」という脅迫電話が、管内の商店に頻々と掛かるようになった。架空注文の配達などの営業妨害にもエスカレートする...相談を受けた刑事たちは、その商店が銀行・宝石店などの金目のターゲットと隣接していることに気が付き出す。キャレラは全裸で見つかった老人の殺人事件に携わるが、どうもこの殺人と商店脅迫の背後には、補聴器をつけた男の影が見え隠れする....何か大きな犯罪が企まれているらしい。果たして4月30日には何が起こるのか?
「赤毛連盟?」となるのは作者承知の上。ドイルに挑戦したのだから、読者の想像を上回らなきゃね...でちゃんと想像を上回ることをやってのけて、きっちり商店脅迫も合理的なプランで納得がいく、というワンアイデアを活かした秀作だ。しかもこの犯罪のリーダーの補聴器を付けた男が「確率」を語るのが印象的で、プランが理詰めなのがいい。もちろん宿敵としてこの後何作も再登場するので、87の外せない作品の一つ。


No.522 8点 テロルの決算
沢木耕太郎
(2019/05/28 14:16登録)
沢木耕太郎というと、一定の世代のある種の人々にとって、「青春のカリスマ」というか「青春の教祖」みたいな存在だった。本作はというと、作者の出世作で大宅賞受賞のノンフィクションの名作である以上に、作者の20代をかけて取り組んだ「青春の決算」なのである。
本作が扱うのは、1960年に起きた社会党委員長浅沼稲次郎の暗殺事件である。これをテロを行った17歳の少年山口二矢と、当時61歳で社会党委員長となり安保闘争の一方の旗頭だった浅沼の経歴を丹念に綴って、この二人が交錯する一瞬を描いている。本作のキーワードはやはり「青春」である...というと、17歳の二矢はともかく、61歳の浅沼が?となるのだろうけども、「青春」が本作を読み解く最大のポイントなのである。
実際、この二人はそのストイシズムで似通っている。二矢はまったく逮捕を恐れずに安保デモに突っ込むし、浅沼も「いざとなったら寝ればいい」とその巨躯を活かして「人間バリケード」のように抵抗して何度も逮捕されている。我が身を顧みない捨て身の闘争者として共通するのだ。

コケイな議論理屈をこねる者は革命を毒するものだと知れ。モウ議論や理論は必要ではない。この後理屈をこねる者は敵と見做すぞ。何よりも実行が大切だ。

と書いたのはテロを行った二矢ではなく、浅沼自身なのである。
しかし、浅沼の革命は裏切られ、浅沼自身も身を汚す。浅沼が兄貴分と慕った麻生久は、左翼的な社会改造の手段として、近衛新体制を利用しようと考え、率先して戦時体制づくりに協力した。浅沼も麻生に同調して活動するのだったが、頼みの麻生はすぐに急死し、浅沼は自らの心情と立場の矛盾に苦しむ....この苦衷が戦後の浅沼の滅私奉公的な活動の駆動力であると、作者は見ている。
「行動」とはそれ自体として見たら空虚なものなのだ。まさにその空虚を埋めるためにさらに行動に駆り立てられ、過激化していくようなものなのだ。17歳にしてテロルを実行した二矢にも理論はなく、ただただ「行動」だけがある。この空虚はいかにしても埋められない....
浅沼は中国訪問によって、ユートピア的ビジョンを得るが、それを笑うことができようか。それは遅ればせながらの青春、悔恨に満ちた青春の狂い咲きのような蘇りを浅沼は見ていたのだ。その中国訪問の高揚の中で発した言葉は、右翼人士の憤激を買って浅沼は狙われる....それゆえ二人は「青春の昏い翳り」の中で交錯するのだ。

(評者そういえば文藝春秋に載ってた初回を読んだ記憶があるんだよ....高校生だったと思う。青春の空虚さの真っ只中)


No.521 8点 毒の神託
ピーター・ディキンスン
(2019/05/26 14:05登録)
さて評者お気に入り作家ディキンスンも、訳書の未読がそろそろ残り少ない。「緑色遺伝子」くらいはあとできそうだが...でとっておきの本作。SFミステリとか「ファンタジー・ミステリ」といったテイストの作品で、たぶん代表作でもいいのかもしれない。ディキンスン「らしさ」が満開で、それがプロットと有機的に結びついているのが、いい。
本作の背後にあるのは、「思考可能なことは、その道具である言語によって制約される」という言語=哲学観で、よく「サピア=ウォーフの仮説」と言われるものだ。主人公とハイジャッカーのアンの育った西洋文明、サルタンとアラブ人だちが属するアラブ世界、沼人たちの世界、ダイナが代表するチンパンジーの世界...主人公モリスは、その言語能力によって、サルタンの息子の英語教師でもあり、沼人の言語を研究する研究者でもあり、また天才チンパンジー、ダイナに「言語」を教える研究に携わる。さらにハイジャック騒ぎではサルタン国の外務大臣(苦笑)まで臨時に命じられる...まあこの主人公ならそれぞれの言語と世界を媒介しうる立場にあるのだが、その営為は上記仮説からすると、報われないものになるのかも...と凡手ならば図式的にそうなるかもしれないところを、さすがにディキンスン、そんなに単純に物事を終わらせてはくれない。
物語の輪は「思考の檻である言語」と、それから脱出する「創成としての言葉」の間をめぐるが、その中で確固と見えていたそれぞれの言語と文化がいつしか混交しはじめる。サルタンの息子は主人公との関係を「バットマンとロビン」になぞらえることで理解するし、沼人は主人公とタブーである奇怪な生物ダイナの関係を「妻」として納得する。沼人の少女は主人公の空想の姉妹マギーの名を与えられて、ジーパンにヨギベアーのTシャツをまとう....と、それぞれがそれぞれに、枠組みを乗り越える。だからこそ、「殺人事件の目撃者」であるチンパンジー、ダイナは、サルタンの殺人犯をその指で指し示す。
この奇妙な価値転倒の味が一番のディキンスンらしさ、と評者は思う。

世界は二つあり、いずれもまことだ。(中略)すべを知るものは、一つのことを二度行える。それぞれの世界で一度づつ。人の魂は語る言葉の内に住む—そうでなくてなにゆえ、唄い手は聞く者の魂を踊らせられる?


No.520 6点 アラビアンナイトの殺人
ジョン・ディクスン・カー
(2019/05/26 13:12登録)
さてカーの(狭義の)ミステリでは最長編?な本作、「冗長」とみる方が多いのはまあ、否定しようがないのだけども、それでもね、志だけは結構高いように思うよ。本家の「アラビアン・ナイト」に触発されて、スティーヴンスンが「新アラビアン・ナイト」を書いて、カーは結構これに影響されている(たとえば「赤後家」の冒頭)のは言うまでもないことなんだけど、本作はその一番特徴的な、「複数の語り手が事件を別な角度から叙述する」というアイデアの中に、ミステリとしての謎と手がかりを込めようとしているわけだ。語り手は正直だが、それぞれ事件の一部しか見ていなくて、重ね合わせても全体像をカバーしきれない死角みたいなものが生じて....をうまく書けたら、本当に凄い傑作だったのかもしれない。「間主観性のミステリ」なんてね。
わけの分からない状況が、だんだんと整理されてきて、薄皮が剥がれていくように状況が明らかになっていく...これするには「長さ」は必要だし、うまくファースを織り込んでそれなりに頑張ってるとは思うんだよ。ただ、盲点になるものがあまり魅力的でないし、導き出される真相にも意外性がない。残念でした。
ただこの構想を批判するとなると、本作の作中タイムスパンが短すぎるのが、足を引っ張ってる、という見方ができるのかもしれない。これを時間をおいて...とうまくやったら、あれそれって「五匹の子豚」かな。

(長さなら「ビロードの悪魔」が勝ってるようだ...あっちは実に面白いが、冒険小説味が強いからねえ)


No.519 6点 黒鳥譚・青髯公の城
中井英夫
(2019/05/20 08:40登録)
「奇書」というのは、それに感応する読者の人生を歪めることも往々にしてあるのだけど、当然それ以上に作者の人生を強く歪めるものだ。夢野久作は「ドグラ・マグラ」の後すぐに急死しているし、小栗虫太郎は「黒死館」の後はこのような「超本格」路線は止めて冒険ロマン風な作風に転換した。中井英夫はどうか、というと「虚無」が戦後の一時点の精神のありさまの全体像を如実に切り取ってしまったがために、それ以降のどんな作品も「虚無」のバリエーションにしか読めなくなってしまう..という呪いをかけられたのかのようだ。
評者が今回読んだのは昔の講談社文庫で表題の他に「死者の誘い」を収録。それぞれがそれぞれに「虚無」のバリエーションである。「黒鳥譚」はそれが作中作「凶鳥の黒影」であって、蒼司&紅司の兄弟の話であるかのように、「青髯公」は赤と緑の因縁話であるかのように、そして「死者の誘い」は「花亦妖輪廻凶鳥」の一篇、氷沼家(というか中井自身の家)をモデルとし、中井の父を投影して毒草園を育てる

その病院の院長 - って、ポオの小説みたいに、むろん初めから気違いなんだけど、その院長が新種の花を育てているでしょう、だから"花模様"と、植物学の開祖の"リンネ"をひっかけて、こんな外題にしてみたのですが、どうでしょう?

と紅司が温めている作品構想をベースに、「虚無」の第3章と同じく、現実の事件、現実の自殺者の記事をそのまま採用して、「戦後のこの日に」「かくの如く」自殺した自殺者に想いを寄せる「誘い」をテーマにしている。
というわけで、どの作品も「虚無」のバリアントであるかのようだ。作者自身によってさらに砕かれて散乱する「虚無への供物」それ自身の迷宮に、またさらに迷い立ち尽くのは、「虚無への供物」自体がそれ自身「虚無」に対する実体を備えない「虚」の「供物」であるからだろう。


No.518 8点 事件屋稼業
レイモンド・チャンドラー
(2019/05/17 23:10登録)
ハードボイルドは一人称か三人称か?となると、チャンドラーは一人称のイメージが強いわけだけども、三人称ハードボイルドだってイケるじゃないの?となるのが、本書収録の「ネヴァダ・ガス」である。カメラアイに徹した描写が続き、実に乾ききっている。素晴らしい。主人公デルーズの心理にさえ一切踏み込まず外面描写に徹しており、きわめて研ぎ澄まされた美さえ感じるよ...いいな。「待っている」に似ているが、短い「待っている」がホテルという場所でのスケッチみたいなものなのに対し、こっちは動き回ってネヴァダ・ガス(青酸ガス)を仕掛けた車にまつわる事件を解決している。「待っている」の浪花節もなくて、マーロウが甘ったるく感じるくらいのハードな主人公である。今まで読んだチャンドラー短編のベスト。
「事件屋稼業」「指さす男」の2作はマーロウ登場。「事件屋稼業(trouble is my business)」は昔「怯じけついてちゃ商売にならない 」ってアジのある訳題があったな。「指さす男」はマーロウが知り合いのギャンブラーの儲け仕事を手伝って、罠に掛かりそうになる話。マーロウ主人公だと、状況を相対化するような警句も出るために、軽妙になる印象がある。チャンドラー的にも動かしやすいんだろう。賭場の経営者キャナレスがなかなかナイスなキャラである。
で「黄色いキング」はやはり三人称でホテル探偵が、ご乱行のミュージシャンにからんだ事件に介入する話。本作は結構意外な方向に話が転がっていくが、張り詰め具合は「ネヴァダ・ガス」ほどではない。4中編すべて文庫100ページほどだが、一つ一つを大事にして、それぞれを一気に・一息で読みたいな。ハードボイルドの浪花節に、評者は関心が薄いせいか、三人称ハードボイルドを、それ自体で一つのジャンルだと捉えるのはどうだろう?なんて思うんだよ。

そして創元では本書に「簡単な殺人法」が収録。ハヤカワ版「むだのない殺しの美学」を推挽される向きがあるようだけど、Art(芸術=技法)であって、Aesthetics (美学)じゃないからね。また Simple というのは、人を殺す連中は妙に殺人手段に凝ったりしない、ということだから、「むだを省く」だと向いてる方向が違うのでは.....チャンドラーの訳題については、新しいからいい、というわけじゃないと思っているよ。

ハメットは最初から、人生に対して鋭い積極的な態度をとった人たちのために書いた。そうした人たちは物事の暗黒面を恐れることなく、そこで生活した。

この超有名エッセイでは、ある意味チャンドラーがモンテーニュばりのモラリストとして殺人小説に向かい合っている、というのが見て取れる。今ドキのニッポンの読者だと、ハードボイルドの拳銃沙汰を様式美みたいに感じかねないのだが、戦前のアメリカではこの拳銃沙汰が、「美学」でも「美意識」でもなくて、ほかならぬ「リアル」だったことを銘記しておかないとね。だからこのチャンドラーのスタンスを「美学」と捉えるのは二重に不当なことのようにも思う。


No.517 5点 名探偵登場
ニール・サイモン
(2019/05/14 22:25登録)
「影なき男」のやりついでで本作。5人の名探偵たちが100万冊のミステリを読破したミステリ・マニアの大富豪の招きに応じて館に到着した....ハードボイルド派探偵サム・ダイヤモンド、イギリスの田舎に住む老嬢ミス・マーブルズ、カタリナ島警察の中国人警部シドニー・ワン、ベルギー人で美食家、口髭と卵頭がチャームポイントのミロ・ペリエ、犬を連れた小粋な都会派探偵夫婦チャールストン夫妻。盲目の執事やら落下する石像の奇怪な歓迎のあと、晩餐の場に登場した招待主は深夜12時に殺人が起きることを予告して、名探偵たちに挑戦した....

はい、本作パロディですよ。本サイトでは説明不要な名探偵たちだが、ビッグネームに伍して「影なき男」のニック&ノラ・チャールズ夫妻が加わっているあたり、「影なき男」の映画界への影響の大きさが窺われようものだ。喜劇大得意のニール・サイモンのオリジナル・シナリオによる映画(1976)から、ヘンリー・キーティング(判るよね?)がノベライズしたものが、映画の公開に合わせて出ている(訳は小鷹信光)。まあだから、読んでから見る。
....小説として読むと、意外につまらない。しかしねえ、映画にすると実に小洒落たナンセンス映画で素晴らしい。なんせ出演者が凄すぎる。謎の大富豪は作家のトルーマン・カポーティ(狂ってる)、執事はアレック・ギネス(渋すぎる)、サムはピーター・フォーク(うさんくさすぎる)、ワン警部はピーター・セラーズ(西洋人に見えん)、デヴィッド・ニヴン(パウエルの代りをできるのは二ヴンだけだ)、エルザ・ランチェスター、ジェームズ・ココとまあ、大名優大怪優揃えまくって、バカなことをしまくるこの豪奢さが、かぎりなく愛おしい。小説で読むにはタダのナンセンスだが、映画で見たら「凄いギャラ貰って大バカしている」壮大な無意味さに賛嘆するしかないんだよ。この無意味さがまさにかつての映画にあった輝きだ。いいな、素敵だな。
それでもね、本作はそういう愛すべき名探偵たちに対する逆説的な賛辞でもあるのだ。

諸君は長い間 才知におぼれすぎ慢心したのだ/長年にわたり読者をだまし/どんでん返しでバカにしてきた/最後の5ページで初めて犯人登場とは何だ/手掛かりも情報も隠しぬき/誰が犯人か推理させない
だが今や形勢逆転/100万の怒れるミステリー読者が復讐するのだ/私が諸君をカモったと知れたら/諸君の本など二束三文のたたき売りだ

とこれも一種の「真犯人は読者」の作品なのだよ。だからこそ、小説の最後ではキーティングが愛すべき名探偵をもう一度ヨイショする。

なんという連中だ!おかげでまた推理小説を読みたくなってきたではないか。偉大な名探偵たちに、神の祝福あれ!


No.516 5点 影なき男
ダシール・ハメット
(2019/05/13 22:37登録)
ハメットという作家は全5作の長編小説が、2大レジェンド「血の収穫」「マルタの鷹」、地味だが最高傑作に挙げられることの多い「ガラスの鍵」...と超打率の作家なのだけども、実は本作もサブカル影響力のかなり強い「小レジェンド」と言っていい作品である。本作を映画化した1938年のウィリアム・パウエル&マーナ・ロイ主演作品が、それこそ「署長マクミラン」とか「ブルームーン探偵社」みたいな「夫婦探偵物コメディ・スリラー」のプロトタイプみたいな役割を果していることが、日本のミステリファンの間では無視されがちなのだ。残念。映画はねえ、実に小洒落たユーモアのある素敵な作品だよ...
まあ小説の側だって、ハメットらしく会話と行動オンリーで描いて、そもそもちゃんとハードボイルド文なのである。しかし、主人公のニック・チャールズは「金持ちの妻を得て探偵を引退した男」なんだよね。早い話、ナマっている。必要に応じてタフに振る舞うこともあるが、内心そういうタフさはもう「ガラじゃない」と思っている...「謎々やウソや...そういうのを楽しむには、少しばかり年齢をとりすぎているし、くたびれている」と述懐する。これは映画が当たってカネに不自由しなくなり、リリアン・ヘルマンという伴侶を得たハメットの偽らざる実感が投影されているわけだ。
だから、本作は「早すぎたネオ・ハードボイルド」くらいに読んでもいいのかもしれない。「冒険の時代」は終わってしまい、「家庭と日常」に力を持て余さざるを得なくなった「元タフガイ」の物語として読まざるをないわけだ....妙な「男の美学」を求めたがる日本のハードボイルド・ファンにはちょいと鬼門な作品と言っていいのかもね。人気ないのはそういうことだろう。
だからハメットは酒に溺れる。映画だとパウエルが本当にマティーニを飲み続けなのがご愛嬌。目的をなくしてセンスを無駄遣いしているようなもので、そういうあたりを醒めた目で描くには映画の方がおすすめ。

彼女にふりまわされてへとへとにならないようにすることだ。ウソを指摘すると、彼女はそれを認め、そのかわりに新しいウソをつく。そのウソをまた指摘すると、それを認めてからまた新たなウソをつく。これが無限に続くんだ。
と評されるミミ(とか「マルタ」のブリジッド)の造形って、実にハメットらしくても、チャンドラーもロスマクも真似できなかったキャラだと思うんだが、これも不思議なことだと思う。こういう理屈を超越したキャラが描けるかどうか、で考えたら、ハメットって別な意味でも凄いんだよね。

(あとウィリアム・パウエルは、ファイロ・ヴァンス役者で人気を確立した名探偵役者だが、ヴァンスはあまり好きではなくて、ニックを代表作にした人でもある。ハメットとヴァン・ダインの妙な因縁がここにも、ある)


No.515 5点 野獣死すべし
ニコラス・ブレイク
(2019/05/12 18:21登録)
皆さん何か高評価の方が多いようだ...けどねえ、評者は本作悪い意味で心理的、悪い意味で凝りすぎな作品のように感じるな。心理的な手がかり、って意外に逆な説明をされても何となく納得してしまうようなところもあるからね。毒殺のHowが謎のようで謎でないのが、ミステリとしては減点対象なんじゃないかと思う。どうだろうか?
何となく本作あたりのイギリス新本格って、戦後じきくらいに感じがちなんだけど、本作だと1938年だから「ナイルに死す」とか「ユダの窓」くらいの年代の作品なんだよね。これらと比較したら...なんかチマチマしてヘンな方向に凝った作品だと思わないかな。轢き逃げに対する復讐(まあ「そして誰もいなくなった」でも取り上げられているが)という、20世紀的な動機を取り上げながら、意外に内容が古臭い印象だしねえ。新しい要素・古い要素、ミステリ・小説とバランスの悪さみたいなものが目につく。
あと、これは訳なんだけども、子供に「ヴァージルを読ませる」はないでしょうよ。ヴェルギリウスだよね。マトモな古典教養がある作家なんだけども、例の22個の質問もそうだが、こうやってマトモに教養が出てみると、なかなか嫌味なものである。
(あとどうにも気になるので書くが、悪役のラタリーって Rattery で、「野獣」ならぬドブネズミ扱いなんだよね...いくら悪役とはいえ印象よくないな。どうも評者そもそもニコラス・ブレイクとは相性極めて悪そうだ....)


No.514 6点 ストレート・マン
ロジャー・L・サイモン
(2019/05/11 19:04登録)
モウゼズ・ワインのシリーズは、作品ごとに背景を変えて、突飛といっていいくらいの変化に富んでいるのだけど、今回はアチラのお笑いの世界である。「ストレート・マン」というのは要するに「ツッコミ役」のことで、「ボケ」は「ファニー・マン」というのだそうだ。メインの事件は漫才のペアのうち、「ツッコミ」が謎の転落死して自殺でとりあえず片づくが、麻薬漬けの「ボケ」が精神病院から失踪して、兄であるニューヨークの麻薬王のもとに行ったらしい。何かキナくさい背景があるようだ..
で、この漫才ペア、ベルーシ&エイクロイドがモデルっぽい。しかしボケ役のベルーシが黒人で、エディ・マーフィーが入ってる感じ。しかも強烈な毒舌芸。

アフリカで(飢えで)人が死ねば死ぬほど、おれたちは妙なものを食べる。もうすぐアフリカ大陸では全員が死に、おれたちはウースター・ソースをかけたアイスクリームを食べるだろうよ

「スタンダップ・コメディ」だ...だから、シモネタ・政治ネタ・宗教ネタが満開で、自虐的人種ネタとか放送できない級の過激芸である。
「モウゼズ・ワイン」というと、そもそも話の辻褄を合わせるよりも、ノリよくカラフルでスピード感のある冒険譚といったものだから、こういう「スタンダップ・コメディ」と隣合わせのようなものだ。今回はこっちのテイストにそもそも話を振っているので、話の辻褄ははっきり言って、どうでもいい。「ハードボイルド探偵」をメタに、かつ自虐的に皮肉ってみるクールさが、本作でも突出する。作中で自分を探偵作家の「ロバート・パーカー」だって詐称するんだよ(苦笑)。当時の日本の流行りの言い回しだと「スキゾ」が言い得て妙。形式として「ミステリ(ハードボイルド)」を採用した風俗小説みたいに読んだ方がいいだろう(「フーコーの振り子」かな)。
本作だと売れないスタンダップ女性芸人を助手として採用して一緒に動くのだが、この助手、捜査の内容をスタンダップのステージで演じちゃってバカ受けするとかね、融通無碍に作品とお笑いの間を行き来する作品になっている。まあちょっとした怪作だけど、やはり面白さを味わうには、アメリカンジョークで笑える、というハードルの高さがあるかな。まあ80年代くらいのサブカルのネタがそもそも分かってないとキビシイし。ワインもヒッピーからヤッピーになってしまい、鏡に映るその顔は自嘲に歪まざるを得ないわけで、批判的な自意識は黒人に仮託された自己批判になる。スタンダップだからこそ自己言及的に言いうるだろう、「リベラルな過激派」ワインを信じるな。

白人を絶対に信じるなってことだ。どんな白人でもな。モータウンを聞いたり、ヒューイー・ニュートンをかばったり、ストークリー・カーマイケル(ニュートンもカーマイケルもブラック・パンサーの幹部)をほめたり、ジェシー・ジャクソンを応援したり、黒ん坊女を取り換えたり、おれたちを助けてやろうとするリベラルな過激派どもを信じるな。こいつら下司野郎どもは二十年前にどっかの行進に参加したからって、おれたちを所有していると思ってやがる。


No.513 8点 007号の冒険
イアン・フレミング
(2019/05/08 22:22登録)
007の人気が上がってきたので、「プレイボーイ」などの一般誌からの依頼を受けて書かれた007の短編集である。だったら無理しない。番外の顔見世興行みたいなものだから、ボンドのキャラを今更深めなくても読者は喜んでくれる。筋立てにも工夫せず、ウケそうなサワリの場面をつないで逃げ切ればいい....で書かれたようなものなんだけども、逆にフレミングは、その余裕の中で、文章をギリギリまでに彫琢したようなのだ。

大きな黒いゴムの防塵眼鏡のかげで、その目は火打石のように冷ややかだった。時速七○ですっとばすBSAM二〇オートバイ ― からだも機械も宙に踊っているのだが、その目だけは静かに落ちついている。防塵眼鏡に守られて、ハンドルのまんなかあたりのちょっと上で、ぴたりと前方を見つめる黒いその目は、まるで拳銃の銃口みたいだった。

模範的なハードボイルド文といっていいだろう。ほぼ全作この調子で緩みのないタイトな文章で綴られている。大変心地よい。

自足荘の広いベランダでは、夕日の最後の名残りが赤いしみを照らしだしていた。小鳥の一羽が、手すりをこえて、ハヴロック夫人の心臓のすぐ上に行って見おろす。これは、蜜ではない。小鳥は陽気に花をとじかけたふようの草むらのねぐらのほうへ飛び去ってしまった。

でしかも、この「読後焼却すべし(For Your Eyes Only)」では、このハヴロック夫妻の仇討ちをMから私的に依頼されたボンドが、その娘と協力してターゲットを殺す。短編の幕切れでは、この娘、

ジュディもそのうしろにつづいた。歩きながら彼女が、髪をたばねていた草とリボンをとると、金髪がはらりと肩にたれかかった。

で小説が終わる。映画の最後でストップモーションで終わる(昔「ラスチョン」なんて呼んでたが)ような効果だ。映画を見なくたって、映画を見たかような視覚的な満足感を得られる。素晴らしい。名文家フレミングの絶頂期の筆の冴えを堪能するがいい。

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