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ミステリの祭典

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殺人をもう一度
戯曲

作家 アガサ・クリスティー
出版日1988年05月
平均点4.67点
書評数3人

No.3 3点 レッドキング
(2022/08/28 19:58登録)
人間存在の本質は実存(≒自由)だから、トリックやロジックのミステリコードで拘束されない限り、誰にも殺人者となる可能性があり、どんな物語も在り得る。あとは、その物語が各読者の趣味に合うか否かだけで・・(自分は否やね)
ところで「五匹の子豚」、真犯人は記憶にあるままだが、他のキャラ達、こんなだったっけ?・・読み返そかな

No.2 4点 クリスティ再読
(2020/01/03 17:39登録)
「EQ」掲載の翻訳が実家にあったので「しなくてもいいか」と放置していたのだが、やることにしよう。言うまでもなく「五匹の子豚」のクリスティ自身の戯曲化である。数藤康雄氏のカラムで少し解説しているのだが、クリスティは「アクロイド」を戯曲化した「アリバイ」が気に入らなくて、その理由は原作に忠実に演劇にしたことで「必要なのは単純化だ」と反省した(「自伝」)。だからクリスティ自身による自作戯曲化は、すべて原作を「単純化」して芝居にしているわけだ。原作がパズラーでも、戯曲はパズラーであるとはまったく言えなくなり、芝居としての分かりやすさ・面白さの方を優先することになる。ポアロ登場作でもポアロを出さないケースも結構あるし、自作戯曲化であっても、原作とは別物と思った方がいいだろう。
本作も原作はポアロ登場なのだが、戯曲では若い弁護士にしてヒロインと結ばれるようにアレンジしてある。当初母の有罪を確信していた弁護士も、ヒロインの婚約者の無神経さに義憤を感じて、ヒロインに協力するようになる...というアレンジがナイス。本人ペースで調査が進む前半は原作よりも自然といっていい。
ただし、後半のオールダーベリーでの過去最現は、どうかなあ。舞台で演じられることはある意味「客観そのもの」だから、それをある個人の主観イメージ、とされたとしても、見る側は客観描写と区別がつかないや。「起きたかもしれないこと」「起きたと信じられていること」「本当に起きたこと」は小説の中では語り手を工夫するなど、叙述に気を付ければ区別ができるけども、舞台で実演しちゃったらどう区別すればいいのだろう?
本作だとある人が述べたことをそのまま舞台で演じて、あとでそれをひっくり返している。これは舞台のミステリとしては評者はアンフェアだと思うんだ。本作は「単純化」したのだけども、単純化が悪い結果を生んでいるように思う。ミステリとしても演劇としても、評者はあまり評価できないなあ。
あと、原作は幾何学的な構成の美があるのだが、この戯曲では構成美は切り捨てられている。これも残念なところ。クリスティの自作戯曲化では駄作の方だと思う。余計な心配だが、本作演じるとなると、俳優さん結構大変だ...早変わりとか回想と今との演じ分けとか、演じ甲斐はあるんだろうけど、負担は大きいよ。

No.1 7点 おっさん
(2011/02/12 07:51登録)
クリスティー文庫未収録の、長篇戯曲を読もうシリーズw 最終回。
すでに取り上げた戯曲「そして誰もいなくなった」、「ナイル河上の殺人」(「宝石」昭和30年6月増刊号のレヴューを参照)、戯曲「ホロー荘の殺人」(こちらは「ミステリマガジン」2010年4月号のレヴューにて)と違って、タイトル――原題 Go Back for Murder ――からは、“原作”が特定しにくいかもしれませんが――

青年弁護士ジャスティンの事務所を、十六年前に起きた父親の毒殺事件(母親が有罪となり、服役中に死亡)を再調査し、真実を明らかにして欲しいという女性、カーラが訪れる。
大人になったカーラが読むよう、母が彼女に遺した手紙には、自分が無実であることが断言されていた。
事件に関わったのは、カーラの両親以外には五人。
ジャスティンは、カーラとともにそれぞれの人物を訪ねて行き・・・

と紹介すれば、ピンと来る向きも多いかもしれません。クリスティーの“回想の殺人”ものの皮切りにして、屈指の名篇『五匹の子豚』(1942)を、著者が60年に劇化したものです。
深町眞理子訳で、まず「EQ」1986年1月号に掲載されたのち、光文社文庫に編入されました。
例によって、ポアロをはずして脚色するにあたり、容疑者を童謡の歌詞になぞらえ“五匹の子豚”に見立てる趣向も削ったため、小説版の題名を流用できなくなったわけですが、いたって平凡な改題のため、損をしていると思います。
関係者の話を聞いて回る第一幕(五場)と、犯行現場の家に彼らを集め、話を突き合わせて(暗転を利用して過去パートをフラッシュバックする演出あり)謎解きをおこなう第二幕の、計六場で構成。
うち、第一幕の脚色は文句ありません。十六年前の事件を動かしようのないものと考えていたジャスティン(彼の亡父が、カーラの母親の弁護に立った)が、調査に乗り出す段取りに工夫があり、次々に容疑者を紹介していく巡礼形式のストーリーにも、起伏があります。
問題は、第二幕。小説版では、関係者五人の手記を通して、読者は複数の視点から事件を眺め、手掛りを検討することが出来るのですが、それが単一の“再現ドラマ”に置換され、たったひとつの発言の不自然さに着目することで、即、真相の提示となる(原作を特徴づけていた、さまざまなダブル・ミーニングの技巧が、伏線として機能していない)ため、呆気なさは否めません。
また、小説では結末の謎解きで浮上する、真犯人のある行為が、フラッシュバックによる再現ドラマの段階で、観客の前に示されるため、動機はともかく機会の点でその人物に犯行が可能であったことが、まるわかりになってしまうという弱点もあります。
ストーリーの単純化にともない、原作の意外性と説得力が大幅にダウンしてしまった、探偵劇としては残念な例ですね。
メロドラマとして見た場合、ヒロインの決着は、ウェルメイドに仕上がっており、『五匹の子豚』とは違った味わいのエンディングを楽しめます。

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