おっさんさんの登録情報 | |
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平均点:6.35点 | 書評数:221件 |
No.221 | 7点 | ミステリマガジン2024年11月号 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2024/10/13 10:51登録) 来たる2025年から、『ミステリマガジン』は季刊で再スタートを切るのだそうな(ただ皮切りの1月号は、特集「ミステリが読みたい! 2025年版」として、2024年11月25日発売予定)。 隔月刊の掉尾を飾る本号は、特集「世界のジョン・デイクスン・カー」と銘打って、本家カーの本邦未訳作品(十七歳のころに書かれた習作)と、世界各国の、カーの亜流、もとい後継者たちの珍しい短編三篇を配し、きちんとした解説を付した、ひさびさに昔の、月刊時代の『ミステリマガジン』(の平常運転の号)が帰ってきた、感がある内容です。 特集関連の「評論」が、実質、「〈セット読み〉でカーの魅力を再発見」という、小山正氏の副読本的エッセイ一編にとどまっているのは寂しいですが(この、合わせ読みの勧め、筆者ならカーの『夜歩く』にはガストン・ルルーのアレだな、とか、いろいろ勝手な想像を膨らませてくれるのが楽しいです)、表紙をドーンとカーのポートレートが飾った本号が、『ミステリマガジン』を見限って久しい層にも、ひさびさの “買い” であることは間違いありません。 特集の短編群だけ、軽く触れておきますね。 御大カーの若書き「運命の銃弾」(1923)は、ヒル・スクール時代に、自身が編集長をしていた学内の文芸誌に発表した、密室もの。古典的なトリックを、 “射殺” にアレンジしたのがミソですが……これは無理だったw。本サイトだと、弾十六さん(リチャード・コネル作「閃光」の翻訳、お疲れ様でした)あたりが読まれたら、ツッコミまくりでしょう。でも、ま、十七歳でこれだけのものが書けるのは、非凡というしかない。アガサ・クリスティー的な、語り口のトリックも、すでに試してますしね。 “スウェーデンのカー” ことヤーン・エクストルムの「事件番号94.028.72」(1968)と、 “中国のカー” こと孫沁文の「昆虫絞首刑執行人」(2022)は、ともに “ボクの考えた最強の密室トリック” 発表会の趣き。シロウトが計画的に人を殺すって、大変な行為だと思いますが、この犯人たちは、殺人なんて些事はササッと済ませて、そのあとの、密室を作る作業に全精力を傾注している印象を受けます。『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(by都筑道夫)なんてものが存在しない、ミステリの世界線。ついでにいえば、そこには松田道弘の「新カー問答」もないww。 さて、と。 しかし、ともかく訳してくれただけで有難い、レベルのお話が大半なわりに、筆者の投稿のモチベーションは落ちない。なぜなら、ひとつ、凄くいいのがあったから! ハイ、 “フランスのカー” ことポール・アルテの2022年作「妖怪ウェンディゴの呪い」(いやしかし、この陳腐なタイトルはなんとかならんかったか)。チェスタトンの「犬のお告げ」を連想させる導入から、半人半獣の怪物ウェンディゴの怪異に発展していくストーリーですが、これはねえ、密室ものではないんです。同日、ほぼ同時刻に、大西洋をはさんだフランスとカナダで、双子の兄弟がそれぞれの妻を同じ方法で殺害した――という摩訶不思議な出来事(偶然なのか、それとも?)の真相を、安楽椅子探偵となったツイスト博士が解き明かしてくれるのですが…… その解決は、科学と神秘のはざまに読者を誘います。論理的に解き明かせる謎と、解き明かせない謎が混然一体となった世界。もしかしたら、カーの下位互換のようなところからスタートしたアルテは、デビューから30年以上経たいま、覚醒し、円熟の時代を迎えつつあるのかもしれない、そんなことすら考えさせてくれる逸品でした。ハヤカワさん、アルテの短編集を出しませんか?(ムラのある長編より、いけると思いますよ) あと、諸般の事情から、『死と奇術師』の作者トム・ミードの短編掲載が見送られたようですが、 “イギリスのカー ”枠が無いのは、やはり物足りなく思いました。筆者が編集者なら、この機に再評価を、ということで、ポール・ドハティを載せたかった。時代ミステリの書き手という面で、カーの後継者ですしね。しかも、アンソロジーThe Mammoth Book Of Historical Detectives (1995) に入っている“The Murder of Innocence”は密室ものとしてもグッドですよ。 あ、 “日本のカー ”は……えーっと、原稿依頼しなかったのか、編集部??? |
No.220 | 7点 | 「ぷろふいる」傑作選 アンソロジー(ミステリー文学資料館編) |
(2024/06/03 18:18登録) いまは無き、ミステリー文学資料館の編纂(編集委員・山前譲)で、光文社文庫から刊行されていたアンソロジー<幻の探偵雑誌>の第一巻です。 ふと思い立って、うん十年ぶりに再読したら、記憶力の減退が幸いして(?)ほとんど初読のように楽しめました。 『ぷろふいる』は、1933(昭和8)年に京都の資産家の青年がぷろふいる社を興して創刊し、1937年まで身銭を切って継続発行した、マニアのマニアによるマニアのための、探偵小説専門誌ですね。 個人的には、何よりも、比類なき評論家・井上良夫のホームグラウンドという印象が強いのですが(あと、アレですね、甲賀三郎の毒舌が炸裂する、創作指南「探偵小説講話」の発表舞台)、本書は創作に的を絞った編集のため、井上評論のサンプルが採られていないのは残念。 収録作品は以下の通りとなります。 ①「血液型殺人事件」甲賀三郎(1934.6-7) 二人の科学者の対立を背景にした、ノン・シリーズの密室もの。理化学トリックを採用しても、ストーリーの眼目は、手口より、犯罪を形成するもっと深い謎の解き明かしにおくというのが、いかにも甲賀流ですが、キャラクター配置が効果的でストーリーも余韻嫋々、これはそのテの路線の最高到達点でしょう。戦後の湊書房版<甲賀三郎全集>に未収録だった(なぜだあ!?)本作を採ったのは、編者の功績です。 ②「蛇男」角田喜久雄(1935.12) 「私」のアパートの隣室、その空き部屋には、しかし「何か」がいる……のか? 本格に変格、短編、長編、現代ものに時代もの、およそなんでも高水準でこなす、娯楽小説のオールラウンダーたる作者の、怪奇幻想方面――でもあるいはサイコなクライム・ストーリー……かも?――の収穫のひとつ。プロットらしいプロットがなくても(「蛇男」なんて概念は単なるマクガフィンでも)語り口で成立させ、読ませてしまいます。 ③「木魂(すだま)」夢野久作(1934.5) 踏切線路の中央に立ち止まっている男の、意識の流れで描かれる(大作『ドグラ・マグラ』刊行の前年に、まるで露払いのように発表された)本作についても、角田作品と同様のことが言えますね。怪談のような……だけども……だけどもすべては神経症の産物のような……文体のマジック。ハイ、〝夢野久作の小説〟です。 ④「不思議なる空間断層」海野十三(1935.4) 角田、夢野のあとに、一見、同傾向のような、夢うつつの話が置かれていますが、作者がSFで名を成す海野、しかもノン・シリーズということで、ストーリーがどこに着地するか予断を許しません。その、作話上のユニークな仕掛けを読みとれず、誤読した甲賀三郎が「探偵小説講話」のなかで酷評し、のちに謝罪したという、いわくつきの作です。仕上げが粗く、突っ込みどころ満載。とはいえ、この時代にこの趣向は斬新すぎます。パイオニア海野十三。日本人作家で『37の短編』を編むなら、入れちゃおうかな、これ。いやマジで。 このあと三作は、生粋の “『ぷろふいる』新人”の連チャンです。 ⑤「狂躁曲殺人事件」蒼井雄(1934.9) まずは『船富家の惨劇』の前年に発表された、作者のデビュー作にして、ヴァン・ダイン型の愚直な本格、堂々130枚。努力は分かる、しかし……ですね。文章下手、詰込みすぎ、写実的な作風とバカミス風トリックのミスマッチ。う~ん、編集部は、もう少しブラッシュ・アップさせられなかったのか。ま、この作者はやはり長編型ですね。 ⑥「陳情書」西尾正(1934.7) 警視総監宛の書簡というスタイルをとった、ドッペル・ゲンガー・テーマの怪異譚。デビュー作ですが、これまた読みにくい。漢字の多い、改行の少ない文章がズラズラっと続きます。癖の強い文章で書き手のサイコっぽさを演出する確信犯でしょうが、夢野久作のような自在さはありませんから、コケオドシめいて、リーダビリティの低さというデメリットばかり目立ちます。う~ん、編集部は、もう少し(以下略)。怪奇小説中心に、他誌でも活躍した書き手のようですが、筆者は食指が動かず、他の作品は読んでません(T_T) ⑦「鉄も銅も鉛もない国」西嶋亮(1936.3) 架空の王国を舞台にした不可能犯罪ストーリーが、さながらプロレタリア小説のような転調でフィナーレを迎える異色作。雰囲気を出すべく、これまた変に凝った、読みにくい文章で綴られますが、短いだけマシ。他の作家が書かないものを書こうとする意図や壮です。この人は、デビュー作の「秋晴れ」もきわめてユニークな密室ものでした。光文社文庫でいえば、鮎川哲也編集長時代の『本格推理』シリーズの、才ある(地力不足の)アマチュア投稿家みたいな感じかな。 ⑧「花束の虫」大阪圭吉(1934.4) 海浜地の奇怪な転落事件を扱った、作者の『ぷろふいる』初登場作品(弁護士・大月対次もの)は、シャーロック・ホームズ式の、なんというか、前掲の蒼井雄同様に、“愚直な本格”という印象。『新青年』でキャリアを積んでいるだけに、文章面は “『ぷろふいる』新人” の比ではありませんが(それでも長台詞は窮屈)、型にはまってしまって、個性を出せていません。やがて来る傑作、ペーソスをきかせたノン・シリーズ「とむらい機関車」(1934.9)のほうが断然いいわけですが、2000年3月という本書の刊行時点で、他で読むのが圧倒的に難しいのは「花束の虫」でしたからね。実際、当時は読めただけで嬉しく、編者に感謝しました。よしとしましょう。 ⑨「両面競牡丹(ふたおもてくらべぼたん)」酒井嘉七(1936.12) 大阪圭吉ほどカッチリした書き手ではありませんが、本格の実践者でもあり、“航空機もの” と “長唄もの” という、ふたつの得意ジャンルをもっていたこの作者の語り口が、筆者は好きです。ホームズの登場しないホームズ譚といった味わいの本作(「ワトスン役」のヒロインが謎めいた出来事に翻弄され、クライマックスで、意外な真実に直面する)は、タイトルから窺えるように純和風の味付けがなされた “長唄もの” の系列で、ドッペルゲンガー・テーマという点では、前掲の「陳情書」と対を成しますが、あっち側にはいかず、きちんと着地します。大阪圭吉同様、この人も長編を残さなかったのが惜しまれるところ。なお、英語が堪能で翻訳も手がけており、前回ご紹介したリチャード・カーネル「いなづまの閃き」(『ぷろふいる』昭和11年9月号)の訳者でもあります。 ⑩「絶景万国博覧会」小栗虫太郎(1935.1) 規格外。明治の遊郭で、老いた遊女が年に一度催す異様な雛祭りから展開していく、ノン・シリーズの本作は、漢字が多いとか改行が少ないとか読みにくいとか、ブーたれる読者をねじふせ、最後までひきずっていくパワーに満ちています。大きな矢車のような遊女の拷問具と、博覧会の観覧車が二重写しになって成立する、世にも奇妙な物語。その強烈なイメージの土台を、構築するための文章の群れ。ハイ、〝小栗虫太郎の小説〟です。 ⑪「就眠儀式」木々高太郎(1935.6) 小栗と並ぶ当時の大型有力新人が、トリを飾ります。何をいまさら感はありますが、大心地先生が精神分析で犯罪を暴く、初期代表作ですね。結局のところ、科学に見せかけた、専門家の一方的な解釈を、押し付けられている気がしなくはありません。しかし、ホームズ、ワトスン形式を踏襲しながら(表面的なものではなく、“依頼人の話” がメインの事件の前フリになるという、ドイルの作劇の勘所を理解しながら)、類型的でない新鮮な物語を作ろうという、作者の意欲はよく出ています。ウザ絡みする甲賀三郎からは批判されましたが、大心地先生による、事件の幕引きに関しても、それは言えますね。まだ探偵小説芸術論(気持ちは分かる、しかし……)など唱える前ですが、ポテンシャルの高さは明白でしょう。 以上、ああだこうだ、長々と書いてきましたが、円熟の甲賀に始まり、清新な木々に終わる、この『「ぷろふいる」傑作選』。芦辺拓による解説、巻末の、重宝する「作者別作品リスト」も含めて、とても良いアンソロジーでした。ゆっくり読み返せてよかったです。 |
No.219 | 6点 | ぷろふいる 昭和11年9月号 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2024/03/23 14:10登録) Tetchyさんの、『世界傑作推理12選&ONE』の書評のなかで、リチャード・コンル(コーネル)の「世にも危険なゲーム」(ギャビン・ライアルのあの有名長編の、アイデアの出所ですね。筆者はどっちも好きです)に対する高評価コメントを読んでいたら、急に、同作者の、もうひとつのミステリ短編について書いておきたくなりました。 で、当該短編の載った、探偵小説専門誌『ぷろふいる』の昭和11(1936)年9月号を登録させていただく次第です(「掲示板」で忠告と助言をいただいた人並由真さんに、厚く感謝いたします)。評価点は同短編のみのピンポイントで、セイヤーズとかフレッチャーとか、同号のその他の作品については含まれていません。 作者名リチャード・カーネル表記で掲載された「いなづまの閃き」(酒井嘉七訳)は、荒天の夜、帰宅中の男が、浜辺で頭を強打されて殺されるが、周囲に犯人の足跡はまったく残されていなかった――という不可能犯罪を、被害者の弟をワトスン役に、伯父を探偵役にして描いた一篇。謎解きのデータに関しては完全な後だしで、種明かしを待つしかありませんが、〝鳴らなかった雷〟というユニークな伏線が利いており、照応する豪快なトリックと鮮烈なクライマックスが、忘れがたい作品です。アンソロジー向きだと思うのですが、復刻版『ぷろふいる』第11巻(ゆまに書房)くらいにしか入っていないはず。これは勿体ないですよ。 原作は、不勉強で同定できていないものの、The FictionMags Index のサイトを参照した限りでは、 “A Flash of Light” (ss) Redbook Magazine June 1931 というのが、それっぽいですね。 ちなみに、映画やTVドラマの脚本家として知られ、あまりミステリ・ジャンルで語られることのないコンルですが、1929年に発表した長編 Murder at Sea は、マシュー・ケルトンというアマチュア探偵が活躍する船上ミステリのようです。ちょっと読んでみたいかも。 さて。 「いなづまの閃き」のなかで、個人的にとても印象に残った伯父さんのセリフを引いて、終わりにしましょう。 「――お前がそうしたことをする筈がない、と確信している。しかし、犯人を探査する場合には、自分の最も信じる人物をも、一度は疑えるだけ疑わなければならない。分かってくれるだろうな」 (追記)弾十六さんのご調査により、翻訳と原文の照合が可能になり、「いなづまの閃き」の原作が “A Flash of Light” と同定できました(感謝!)。 戦前訳の常として抄訳であり、弾さんがご書評のなかで気にされているチェスタトンのくだりなどは、カットされています。やはり新訳が欲しい。 探偵役の「伯父さん」はどうやら、Murder at Sea の主役のようです。酒井訳で、登場時に一回だけ「マシュー・ケルトン」と記されているのを見過ごしていました(抄訳では、以降ずっと「伯父さん」なんですよ('Д'))。 あらためて、ご指摘いただいた弾十六さんにお礼申し上げます。(2024.3.24) |
No.218 | 6点 | 奇蹟の扉 大下宇陀児 |
(2024/03/12 18:40登録) 芦辺拓が江戸川乱歩の中絶作を書き継ぎ、自作に再構築した『乱歩殺人事件――「悪霊」ふたたび』(2024)は、〝課題小説の回答〟の域を超えた、仕掛けと趣向に幻惑される、虚実皮膜の力作でしたが…… 作品の出来に影響するような部分でないとはいえ、読んでいて、途中で「作者さあ、そういうとこだぞ」と思わされた箇所があります。 連載小説「悪霊」の執筆に行き詰った、作中の乱歩(!)が、過去に自身が名を連ねながら、代作『蠢く触手』でお茶を濁した、新潮社の〈新作探偵小説全集〉(昭和7年~8年)を想起するシーン。 「――甲賀三郎君はどこかの温泉場に立てこもって、題名が新聞見出しに流用されるまでになった評判作『姿なき怪盗』を書き上げるし、浜尾四郎君はヴァン・ダインに挑戦した『殺人鬼』をしのぐ傑作を書かねばと傍目にもわかるほど消耗したあげくに『鉄鎖殺人事件』という軽妙洒脱な快作をものにした。横溝正史君の『呪いの塔』も、編集者との兼業から作家一本の生活に乗り出そうとする門出にふさわしい力作であった」(引用終わり) この部分を書くにあたって、作者が参照したのは、乱歩の『探偵小説四十年』の、昭和七年度の以下の記述でしょう。 「――甲賀三郎君は(略)一と月ほどどこかの温泉にとじこもって「姿なき怪盗」を書き上げたが、通俗的ながらもプロットがよく考えてあり、甲賀君の長編の代表作となったものである。又、この題名はなかなか魅力があったので、その後、新聞の犯罪記事の表題に、実に屡々「姿なき怪盗」という文字が使われた。(略)そのほか、浜尾四郎君の「鉄鎖殺人事件」がやはり力作で、「殺人鬼」とならび称せられる彼の代表作となったし、大下君の「奇跡の扉」横溝君の「呪いの塔」なども悪い出来ではなかった」(引用終わり) 大下宇陀児の名前と作品だけが、前掲の芦辺作品でハブられています。かりに作者が、個人的に『奇跡の扉』という作品をまったく評価していないのだとしても、あるいは、本格アンチの作家と見なして宇陀児のことを嫌っているのだとしても、乱歩視点で綴る文章に、作者自身の価値観を混入して余計なフィルターをかけてしまうのは、ヨクナイと思うのですよ。 ちなみに、不肖おっさんのフィルターをかけてよければ、乱歩にはこんなふうにコメントさせましょうか。 「――大下宇陀児君の『奇跡の扉』は、『蛭川博士』ほどトリッキーな要素は目立たないものの、英米型の理知探偵小説を踏まえながら、理と情の対立を描いた作で、どこかベントリーの『トレント最後の事件』などを思わせる力作だった」 で、そんな『奇跡の扉』(1932)はというと…… 酒場で知り合った美貌のモデルに入れ込み、スピード結婚した画家は、一緒に暮らすうち彼女の言動に不審を抱き始め、邸を訪れた画家仲間を紹介された彼女が、初対面のはずの相手に接し激しく動揺するのを見て、不審は決定的なものになる。その夜、邸内に響きわたる銃声。寝室で死んでいる新妻のかたわらに落ちていた拳銃。その死は自殺か他殺か―― という感じの導入で、警察が介入する流れになりますが、捜査に納得のいかない事件関係者の一人が探偵役となり、紆余曲折ありながらも、仕組まれたトリックを見破り真相に迫っていきます。メロドラマ色が強いとはいえ、後年、ポスト黄金時代ふうの〝犯罪小説〟を先導した存在として評価される、大下宇陀児の作品のなかでは、きわめてまっとうな〝本格〟っぽいお話です。 ただ残念ながら、作中トリックの処理はイージーだし、アンフェアな記述もある。そのへんは弁護できません。 しかし、「英米型の理知探偵小説を踏まえ」ることで可能になる、〝本格〟批判の物語、一種のパロディとしては、現在読んでもなお新鮮です。 私情から、〝アマチュア探偵〟として真相究明に乗り出していていく青年は、周囲から疎まれたあげく、ついにクライマックスでかく評されるに到ります。 「私は新一君をよく知っている。そしていつも気の毒な人だと思っている、あの人は非常に頭がいい。そして、その、頭がいいという点で、一生涯他人から好まれないのだ。新一君のお父さんは、あの通りの良い人だ。その子供である新一君が、どうしてあんなに他人から白眼視されるのか、そのわけは、新一君の理智が、人柄をすっかり冷たくしてしまったからだ。(略)非常に強いような顔をしていても、世の中には、たいへん淋しい人がいる。新一君は、きっとその一人だろうと思う」(引用終わり) そんな、シリアスすぎるお話は、最後に主要キャラクターが退場したあと、モブキャラ二人の、軽くて明るいやりとりで締めくくられ、読者も緊張感から解放されます。 エンターテイナーとしての宇陀児は、やはり非凡です。ときどきタイトルがピンボケなのは、ご愛嬌(〝奇跡の扉〟って、結局、何だったんだあwww)。 |
No.217 | 7点 | The Hand in the Dark アーサー・J・リース |
(2023/12/31 11:02登録) A「おっさん、ひさしぶり。元気してた?」 B「毎年、この時期はクタクタだけど、なんとか生きてるよ。ただ全然、本が読めなくてね。年の暮れに読めればと積んどいた、<論創海外ミステリ>のアーサー・J・リースも、やっぱり駄目だった」 A「ああ、『叫びの穴』。そういえば、おっさんは昔、作者のリースのことを、同人誌に書いてたっけ」 B「うん、今回訳された『叫びの穴』(1919)は、リースが活動初期に、私立探偵グラント・コルウィンを登場させた二つの長編の、最初のやつなんだけど、二番目のThe Hand in the Dark(1920)っていうのを、たまたま読む機会があったから、読後感を書いたんだよね。大学生の頃の話さ。だからなんだか懐かしくてね、当時、書きつけたノートを引っ張り出してきて、見返してしまった」 A「じゃあせっかくだから、その長編の話でも、聞かせてよ。そもそもなんでそんな、“黄金時代”以前から書いてるマイナー作家の本を、手に取ったわけ?」 A「ドロシー・L・セイヤーズが、アンソロジー『犯罪オムニバス』の序文で、リースの力量を評価してたんだよ。で、博文館が大正時代に創刊した『新趣味』に、その作者の「闇の手」(加藤朝鳥訳)が連載されてたってことだけは知ってたけどさ、単行本にもなってないし、そんなの読めないよね(笑)」 B「だから原書で、と?」 A「所属していた同人グループの主催者が、凄い人でね。興味があるなら探しましょうっていって、とうとう本をゲットしてくれたの。ネットで検索できるような時代じゃないよ。そりゃもう、頑張って読むしかないじゃない(笑)」 A「おっさんも、若くてエネルギーがあった頃だ。で、肝心のストーリーは?」 B「えー、時は、第一次世界大戦末期の1918年9月。所は、「その濠の橋を渡ることは、二十世紀から十七世紀へ逆行することだ」といわれる、イギリスはサセックス州「濠屋敷」。ハウス・パーティの催された夜、突如、響きわたる悲鳴と銃声。密室状況下で、消え失せたとしか思えない犯人の謎をめぐって、地元警察と招聘されたスコットランド・ヤードの警視による捜査がはじまるが――という感じ」 A「フムフム。それで私立探偵グラント・コルウィンというのは?」 B「原書は厚い本で400ページ近くあるんだけど、事件関係者の依頼でコルウィンが登場するのは、後半200ページなんだ。作者がコナン・ドイルなら、前半は“依頼人の話”パートとして四分の一の長さで処理してたろうね」 A「つまり冗長だと?」 B「いや、前半の捜査パートは、充分に知的好奇心をそそるうえ、互いに主義の異なる警察官のキャラクターも興味深く造形されていて、リーダビリティは低くなかったと記憶している。あのセイヤーズが、リース作品の警察の捜査活動の描きかたを称揚しているのも、頷けた」 A「でも、だったらさ、全編、警察のリアルな捜査だけでよくない?」 B「いや、この作品に関しては、警察の捜査から私立探偵の調査へという転調に、構成上の意味があるんだ。最後まで読むと、それがよく分かる。そしてまた、一種の協力関係をとることになる、私立探偵と警察サイドの微妙な関係性にも、ちゃんと作者は留意していたと思う。だから、読み物として面白かった記憶は鮮明だ」 A「ふーん、それで、解決が素晴らしければ、いわゆる“埋もれた名作”なんだろうけど」 B「そこがちょっと微妙かな。ある証言をきっかけに事件を再検討すべく、現場にとって返したコルウィン探偵の“発見”で、不注意だった犯人の工作は瓦解し、露見を知った犯人の最終章の告白で、ドラマも終結してしまうから……」 A「その話だけ聞くと、やっぱり、本格ミステリの技巧的には黄金時代“未満”なのかな」 B「うん、そのへんの解決パートのイージーさも含めて、この長編は、大下宇陀児のある長編(1932)に凄く影響を与えていると思う。でも、その宇陀児の長編、じつは好きなんだよね(笑)。そしてリースの場合も、犯人像の悲哀が印象的で、それはこうして話をしていても昨日のことのように思えるくらい、脳裡に灼きついてるんだ」 A「おっさんの場合、加齢によるフラッシュバックもありそうだ。最近のことはすぐ忘れるのに」 B「余計なお世話だよ。ともかく、年明けにはちゃんと『叫びの穴』を読むつもりだから、そのときはまた話をしよう」 A「そうだね、今回の話を聞いて、論創社さんには、The Hand in the Dark も訳して欲しいと思ったよ。有難う」 B「うん、それでは――よいお年を、だね」 |
No.216 | 6点 | サインはヒバリ: パリの少年探偵団 ピエール・ヴェリー |
(2023/10/24 12:32登録) 〈論創海外ミステリ〉の303番として、筆者がフランス・ミステリ作家の中でとりわけ心惹かれる、ピエール・ヴェリーの、最晩年のジュブナイル『サインはヒバリ パリの少年探偵団』(Signé : Alouette 1960)が刊行されました。 Bravo! 〈論創海外ミステリ〉は、301番から装丁がリニューアルされ、帯がなくなって、内容紹介はカバーに刷り込まれるようになったので(その理由は……経費削減か?)、装画に添えられた、その、カバーの表のコピーを見ておきましょう。 「誘拐された仲間を探し、知恵と勇気の少年探偵団がパリの街を駆け抜ける。童謡「やさしいヒバリ」が導く先に待ち受ける真実とは……。 第一回冒険小説大賞受賞作家が描くレトロモダンなジュブナイル・ミステリ!」 そして裏のカバーには、「訳者あとがき」の文章も「(……)波乱に満ちたストーリーは、もちろんジュニアからシニアまで、世代を問わずに楽しんでいただける傑作です」と、惹句のように抜粋されています。 誘拐事件の被害者となった孤独な少年と、心ならずも犯行グループに加担してしまった、孤独な巨漢との、心の触れ合いと、それによる両者の変化がエモーショナルに描かれ、いっぽうで「探偵団」サイドの追跡行には、思わぬハードなアクション場面も用意されています(人が死ぬ「世界」であることが明示され、このことはラストの展開にも意味を持ってきます)。意味ありげな暗号通信のエピソードが、本筋の誘拐とどう絡むのか、絡まないのか――そのオフビートな処理も楽しかった。 確かに「世代を問わずに楽し」める冒険譚だと思います(「本格」ものではありません)。 思いますが、かつて晶文社の〈文学のおくりもの〉という叢書で、レイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』などと一緒に、この作者の傑作『サンタクロース殺人事件』と出会った幸せな読者としては、本書もまた、そういう、若い世代が海外小説に親しむためのレーベル(〈論創ヤング・アダルト〉とかね)で、訳文も、もう少し児童を意識した平易なもので紹介されていたらなあ、と、我儘な感想を持ってしまいました(きわめてリーダビリティの高いストーリーのはずが、訳文の表記が気になって、ここ原文ではどうなってるんだろう? と思わず目が止まってしまう箇所がいくつかあったのは、残念ながら、編集部のチェック不足も問題ですね)。 それにしても。 未訳のヴェリーだったら、映画化もされた代表作 Les disparus de Saint-Agil(1935)か Goupi Mains-Rouges(1937)を、まず紹介してほしかったけど――なぜこの作品だったんだろう? 「訳者あとがき」(塚原史)に目を通したあと、ちょっとこの訳者さんについて知りたくなり、ネットで検索してみたら……なんとなくその答えがわかったような気がしました。 塚原氏は、フランスの文学・現代思想に造詣が深い大学教授(著訳書多数)で、父は児童文学者、祖父は童話作家という環境で育たれ、青春時代には、パリに遊学した経歴をお持ちなんですよ。 固い仕事の合間に、あくまで趣味で、世間的な評価とか関係なく、思い入れのある児童書を一冊、訳してみた、そしてどうせなら、それを本にできないか、ということになり、何かのつてで原稿が論創社に持ち込まれ採用になった、というのが答えでは? と、これは筆者の勝手な想像ですが――当たらずといえども遠からずでしょう(と、すみません、これは事実誤認でした。訳者の塚原氏の、思想関連書を担当していた編集者からの提案で、原書提供を受け訳出したものということです。本稿末尾の「追記」も参照されたし)。 縁あってヴェリーの訳書を出されたのですから、これを手始めに、版元は、ヴェリーの訳者として経験をつませてあげてみては如何でしょう? 専門分野の翻訳者としては実績のある人でも、ミステリ翻訳となると勝手がちがうでしょうから、きちんとしたフォローは必要ですがね。 「訳者あとがき」に挙げられた、簡易なヴェリーの作品リストの中で、1934年の Les Quatre Vipères が未訳扱いされていたら、ちゃんと、本にはなっていないが、雑誌掲載の訳が存在することは教えてあげましょう(「ガラスの蛇」EQ'89.5-9 「藪蛇物語」宝石'46.10-12)。 あ、あとこのリスト絡みでは――『サインはヒバリ』と同じ1960年に記載されている Les Héritiers d'Avril(『アヴリルの相続人』)は、筆者の知る限り、同じ少年探偵団が登場する本書の続編のはずで、リストの 並び順が逆では? 宣伝材料にもなるだろうそのへんの情報ついて、「あとがき」でまったく触れていないの は疑問 でした。もっとも、フランス語は専門外で、現物も未見のおっさんのことですから、この件に関しては、こちらの勘違いの可能性もありますが……はてさて? (追記) 本サイトをご覧になられた、訳者の塚原史氏から、〈論創海外ミステリ〉編集部経由で、以下のような内容の回答をいただきました。 ①問題の『アヴリルの相続人』が、『サインはヒバリ』と同じ三人の主人公(ノエル、ドミニック、ババ・オ・ラム)が同じ設定(学校や年齢など)で登場する作品であることは間違いないこと。 ②ただこの『アヴリル…』は、初出が1959年のジュニア向け雑誌 Pilote(パイロット)連載(59年10月~60年3月)だが、書籍版は、Pilote 連載中にアシェット社の〈緑の図書館〉編集長から同叢書への収録を要請されたヴェリーが、かなり改稿して1960年後期に出版されていること。 ③『ヒバリ…』もほぼ同時期の刊行だが、〈ヴェリー三巻選集〉第一巻の解説によると、おそらく数か月の差で『ヒバリ…』が先に出て、『アヴリル…』は同年急死したヴェリーの生前最後の著作になったとのこと。 末尾ながら、塚原氏および〈論創海外ミステリ編集部〉の真摯な対応に、謝意を表します。(2023.10.31) |
No.215 | 4点 | 蒼天の鳥 三上幸四郎 |
(2023/10/17 10:33登録) 若くして逝った友の一周忌に寄せて M君、ひさびさに江戸川乱歩賞受賞作を読んでみたよ。それも、今年のバリバリの新刊。驚いたかな? 毎年ね、各種文学賞の動向をチェックしていた君の顔が、書店でたまたまこの本を手にしたら浮かんでね、ああ、もう君は乱歩賞も読めなくなったんだなあ、と感傷的になってしまったんだ。 作者がシナリオ・ライターで、アニメの『名探偵コナン』に絡んでるっていうのも、君に連想がいった一因かもしれない。『コナン』について、いろいろレクチャーを受けたのも懐かしい想い出だから。元気だったら、きっと、三上幸四郎が脚本を担当した『コナン』のエピソードはですね――と、感想を交えて教えてくれたよね。 本書の感想を君に届けることにするよ。 『蒼天の鳥』というのが、今回、第69回(令和5年)の受賞作だ。 大正13年の鳥取市を舞台に、活動写真「探偵奇譚 ジゴマ」を上映中の劇場で火災がおこり、その騒乱のなか、さながらスクリーンから抜け出したかのような怪人による人殺しが発生、目撃者となってしまった母と娘にも、やがて魔の手は迫り……というわけで、この目撃者親子に実在した人物を配し、作家である母親(当時の「新しい女」たちの一人)とその利発な七歳の娘を「探偵役」とした、なんというか、懐かしの、昭和の江戸川乱歩賞受賞作、みたいな作品だよ。 もっと率直にいえば、最終候補に残ったんだけど、運悪く、佐野洋とか都筑道夫のようなキビシイ選考委員にあたったばっかりに、落選してしまった(けど、惜しまれて刊行に漕ぎつけた)江戸川乱歩賞「候補作」といった感じかな。 巻末の「選評」を読むと、選考委員の皆さん(いや~、綾辻行人とか京極夏彦とか、この顔ぶれがさあ、おっさんを浦島太郎気分にさせてしまう(ToT))、一名を除いてみな優しい。 まあ、シナリオ・ライターが小説を書くと、マウントを取って過剰に否定したがる向きが多かった時代よりは、このほうがいいよね。作者も、シナリオに毛の生えたような、とか叩かれないよう心がけたかどうか、「小説的」表現に心を砕いて時代色を出している。導入部や「終局」を除けば、基本的にヒロイン・田中古代子の視点で進行するストーリーだけど、視点のブレも、気になるほどではなかった(基本的に出来ているから、たまに外すと、あ、と思う程度)。個人的に、文章面で引っかかったのは、「目線」という単語の多様(「視線」でいいのにね。大正時代でしょ、しかも視点人物は言葉にはうるさいはずの作家でしょ)だけど、若い読者なら気にならないだろうなあ。M君はどうだろう? ドラマづくりに関しては、見せ場・見せ場を串団子にしていく手際の巧さ。さすがにシロートじゃない。 略歴を見ると、作者は鳥取生まれの人なんだよね。郷土の女流作家への興味・関心が以前からあって、自分が本当に書きたい素材として温めていたものに、取り組んだんだろうと思う。 その結果―― 小説のトーンはきわめてシリアス。江戸川乱歩の「通俗探偵小説」を想起させる、最初の見せ場(劇場に出現した怪人の犯行)のアンリアルが合理的に解消されないままエピソードが重ねられ、ツイストが加えられながら、知よりも情のエンディングへ、なだれ込むんだ。 貫井徳郎の選評にあった「読み進むのがあまりに辛い」という表現が何を指すのかは分からないけど、おっさん的には、ストーリーの第一歩である、劇場殺人の不合理さを、作中人物の誰一人として問題にせず進行するのが辛かった。特定の人物を殺害する計画としては、成功確率があまりに低いし、犯行後、無事に現場から脱出できる保証もない。構成の(犯人の)論理が初手で破綻しているわけ。マニア受けは、ちょっとしそうもないなあ。 ひとまず努力賞認定で、次作に期待ということにしておこうか。三上氏には、今後もミステリを書き続けていくのであれば、犯行動機と同じくらい、犯行手段選択の動機にも納得性を与えて欲しいと注文をつけて。「探偵小説」らしい外連は楽しいけど、せっかく造形した犯人のキャラクターを、結局、作者の都合(決められたシナリオ)で動く駒にしてしまっては、勿体ないよね。 いやあ、リアリティあるロマンは、難しい。 なんだかんだ、考えさせられる読書ではあったかな。来年も、乱歩賞受賞作がでたら、読んでみるよ。そのときは、また報告するね、M君。 |
No.214 | 7点 | ロマンの象牙細工 評論・エッセイ |
(2023/07/27 15:39登録) 最後に読んだ森村誠一は何だっけ? 朝刊各紙の訃報記事を眺めながら、考えました。ノンフィクションの『悪魔の飽食』(1981)だよな、うん。 でもま、あれは立派な仕事ではあるけど、小説に限るなら――同じカッパ・ノベルスの書下ろし『致死海流』(1978)か。密室とアリバイ崩しの二本立てで、原点回帰の悪くない作品だったけど、初期の荒削りなパワーが、逆に懐かしくなったような記憶が、うっすらとあります。 すっかりご無沙汰しているうちに、しかし著作は続々と増えていき……ちょっと確認しようとウィキペディアのリストをスクロールしていたら、眩暈に似た感覚を覚えました。 訃報記事で一様に代表作として挙げられているのは、映画との相乗効果で社会現象を巻き起こした『人間の証明』(1976)で、これは実際、作者にとって転機となった力作(ディーン・R・クーンツ流にいえば、ジャンル小説から一般大衆小説へのステップアップ)ですが、同じ角川映画つながりなら、筆者的には『野性の証明』(1977)のほうに思い入れがあるんだよなあ。 “本格推理”のジャンルでいえば、なんだかんだいっても、やはり『高層の死角』(1969)と、あと『密閉山脈』(1971)でしょうね。 カッパ・ノベルス時代(?)の、『超高層ホテル殺人事件』(1971)や『黒魔術の女(1974)』あたりの、アイデアのトンデモなさも忘れがたいw。“清張以後”とはいえ、ちゃんと、ミステリの読書体験のベースに乱歩やディクスン・カーがある人なんですよ。嫌いにはなれない。 けど、好きにもなれない。疲れるもんwww。 というわけで、情念のストーリーテラー森村誠一の作品群は、基本、一度読んだらそれきりで、読み返すことのない、おっさんですが……唯一の例外が、このエッセイ集『ロマンの象牙細工』(講談社 1981)です。 講談社から刊行された、自身の《長編推理選集》全15巻、及び《短編推理選集》全10巻の「月報」に載せた文章を中心に、推理小説に対する忌憚のない私論を展開、興味深い楽屋噺も披露してくれています。 白眉は、「森村推理悪口集」。デビュー以来、森村作品に対して寄せられた批判、悪口のたぐいを集め(例の〈SRの会〉の奴とか、若き日の、瀬戸川猛資なる人のナマイキな文章も引用されてます)、作者がコメントしていくという、凄い内容です。このメンタルの強さは、皮肉でなく、素晴らしい。プロとしてのプライドの高さ。たとえ傷つき、何度か死のうとも生き返る、フェニックスのごとき生命力。もちろんそこには、多くの読者によって支えられているという、自信の裏打ちがあるわけですがね。 一読をお薦めする次第ですが、もしできれば―― 小泉喜美子が『小説推理』に長期連載したエッセイを加筆訂正してまとめた『メイン・ディッシュはミステリー』(新潮文庫 1984)を併読されると、興味は2倍にも3倍にもなりますよ。まさに水と油。蛇とマングース。 でも、どっちも面白いんだよなあ(無責任)。 |
No.213 | 8点 | ガラスの橋 ロバート・アーサー自選傑作集 ロバート・アーサー |
(2023/07/18 19:20登録) 嬉しいな、アーサーの自選アンソロジー Mystery and More Mystery (1966) が、まるごと訳されるとは。ホント、長生きはするものだと、しみじみ思わされました。訳者(小林晋)と担当編集者(扶桑社ミステリー)には、ただただ感謝。 ちょっと前に、同じタッグによる、ミシェル・エルベ―ル&ウジェーヌ・ヴィル作『禁じられた館』を絶賛しているので、おっさん偏向してね? と勘操る向きもあるかな。でも、素直な気持ちです。 あの都筑道夫に、自作「天狗起し」の創作裏話を綴った、「死体を無事に消すまで」という、無類に面白いエッセイ(晶文社の同題の評論集(1973)に収録)があり、そのなかで紹介されているのを読んでから、ずっと心に刻まれていたタイトルなのです。 都筑氏曰く――「(……)自作の楽屋ばなしを書きませんか、といわれたとき、私は Mystery and More Mystery を思いだした。この本の末尾には、集録した短編のいくつかを例に、作家は推理小説のトリックをどういうふうに思いつくか、具体的に書いたエッセイがのっている。それが私には、たいへんおもしろかった」。 ね、読みたくなるでしょ? 収録内容は以下の通り。 著者序文 ①マニング氏の金の木 ②極悪と老嬢 ③真夜中の訪問者 ④天からの一撃 ⑤ガラスの橋 ⑥住所変更 ⑦消えた乗客 ⑧非情な男 ⑨一つの足跡の冒険 ⑩三匹の盲(めしい)ネズミの謎 本書収録作品について 森英俊・編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』で、ロバート・アーサーは、50音順の作家配列のおかげで、いの一番に取り上げられています。 ただ、そこから、ショート・パズラーのエキスパート的作家、たとえばエドワード・D・ホックの先輩格のような存在をイメージしてしまうと、それはちょっと違うな、と。今回、本書を通読することで、認識を新たにしました。 2013年から14年にかけて、扶桑社ミステリーから、《予期せぬ結末》という、海外作家の個人短篇集のシリーズ(井上雅彦・編)が出ていました。 残念ながら、3冊(『予期せぬ結末1 ミッドナイト・ブルー』ジョン・コリア、『同2 トロイメライ』チャールズ・ボーモント、『同3 ハリウッドの恐怖 ロバート・ブロック』)で終了してしまいましたが、筆者はこれが大好きで、《異色作家短篇集》再び、という気分で愛読していました。 ロバート・アーサーも、基本、そっち側の作家だと思うのですよね。だから本書は、かりに『予期せぬ結末4 ガラスの橋』として出版されたとしても、まったく違和感のない内容になっています。 ただ、いわゆる“異色作家”たちが、謎解き型のミステリにほとんど関心を向けないか、手を染めても本来の実力を発揮できていないのに対し、アーサーは、その形式をよく理解し、加えて、狭義のミステリ・マニアを喜ばせるすべも体得している(非パズラーではありますが、ミステリ好きの老嬢が、ミステリの読書体験を武器に悪漢を出し抜く②「極悪と老嬢」などは、その典型)、それがこの人の最大の強みでしょう。 “雪の密室”からの女性消失を描いた、オールタイム・ベスト級の表題作⑤(本書未収録の「51番目の密室」と並ぶ、アーサーの代表作)を別格とすれば―― ①マニング氏の金の木、⑥住所変更、⑧非情な男 と、これが“私のベスト3”かな。余計なコメントは不要。“異色作家”たるアーサーの実力、とくと御覧じろ。 そして――バラエティに富んだ本書の興味を、倍増してくれるのが、くだんの、作者自身の手になる「本書収録作品について」です。 原書の Mystery and More Mystery が児童書として出版された(!)事情を訝しんでいたのですが、創作を志す若い芽を伸ばそうというアーサーの意図が汲みとれるようで、この裏話エッセイはとてもイイ。 「ガラスの橋」のファンタスティックなトリックは、作者の少年時代の、ふたつの別々な体験が結びついたものなんですね。「でも」と、雪国育ちの筆者のなかの、リアリストが囁きます。「アレとソレは等価じゃないよね」。「ん、何が言いたい?」。「つまりさ――アレでこうはならんやろ」。「(一瞬の沈黙ののち)なっとるやろがい!」。そう、理性が何と囁こうが、作品のクライマックスで現出する、あの鮮烈なイメージは、筆者のなかで終生、消えることは無いのです。『本陣殺人事件』がそうであるように、『斜め屋敷の犯罪』がそうであるように……。 本書が呼び水になって、ロバート・アーサーのさらなる紹介が続くことを、願ってやみません。 |
No.212 | 7点 | ノッティング・ヒルの謎 チャールズ・フィーリクス |
(2023/06/08 12:25登録) あのジュリアン・シモンズが『ブラッディ・マーダー 探偵小説から犯罪小説への歴史』のなかで、ウィルキー・コリンズの『月長石』(1868)に先立つ、英国最初の長編探偵小説として論評したことで(その件に関しアチラでは異議も出ていますが、それについては後述)、広くミステリ・ファンに知られることになった作品。 1862年に週刊『Once a Week: An Illustrated Miscelleny of Literature, Art, Science & Popular Information』に匿名で連載され、1865年に書籍化。ぐっとくだって1945年に、大部のアンソロジー Novels of Mystery of the Victorian Age (モーリス・リチャードソン編)に、ウィルキー・コリンズの『白衣の女』(1860)などと一緒に再録されていますから、それがシモンズの目に留まったのですね。 論創海外ミステリの「刊行予定」に、ひところ 「ノッティング・ヒルの怪事件 チャールズ・フェリックス」 として挙げられていましたが、いつしか予定表から消えてしまい、ま、気長に待つか、と思っていたら……まさかの岩波文庫『英国古典推理小説集』(佐々木徹/編訳 2023)に収録され、同アンソロジーのトリを飾る形で、電撃的に日本の読者へお目見えとなりました。 有難い話ではあります。 しかし、古典作品に、複数の翻訳があって(解説を含めて)読み比べられる状況は、一読者としては望ましいと思うので、営業面で厳しいことは事実でしょうが、進行していたはずの、論創社版『ノッティング・ヒル』も……出せるものであれば出してもらいたいですね。 さて、本編。 探偵R・ヘンダソンが、生命保険会社の幹部に送った、調査報告書と関係資料(書簡、日記、供述書エトセトラ)を、チャールズ・フィーリクスが編纂したという体裁の作品です。 ヴィクトリア朝に流行した「書簡体小説」のヴァリエーションですが、犯罪に関する物語を、複数のキャラクターの叙述で多角的に構成するという点では、ウィルキー・コリンズの大ヒット作にして、いわば家庭内ゴシックともいうべき 新ジャンル “センセーション・ノヴェル” を確立した、名作『白衣の女』の驥尾に付しています。 じつは内容のほうも、悪漢の企みなど『白衣の女』を明確に意識したもので、凡手が書けばただの亜流で終わりそうなものですが、コリンズがあくまで、ヒロインを巡るスリルとサスペンスを主軸とし、探偵パートを終盤に持ってきたのに対し、フィーリクスは、探偵パートを主軸とし、“情報”を次々と開示することで(しかし個々の情報は断片的で、なかなか正しく配置されず、事件の全貌がつかめないことから)作品の興奮性と面白さを演出し、コリンズとは一線を画すことに成功しています。 いって“推理” の要素がそれほどあるわけではないのに、その構成と語り口は、これが探偵小説でないなら何が探偵小説なんだ、と確かに思わせてくれる。フーダニットではなくてハウダニット。 そして、謎めいたさまざまな事実が、最終章で正しく配置され、事件の全貌がついに明るみに――出ない。出ないんだ、これが!!! しかし、それはまた、冒頭に意味ありげに語られていた別な “謎”に対する、答えでもあるのです。 似非科学に立脚した噴飯もののハウダニット小説、と切り捨てられておかしくないお話が、まるでポストモダン文学のように錯覚されてしまうマジック。いやあ、これは評論家好みの小説ですわ。ジュリアン・シモンズ(と編訳者)が気に入ったのはよく分かる。 でも、こんな快作、もとい怪作を(そのユニークネスにひとまず7点は付けときますが)、カタギの読書人向けの『英国古典推理小説集』なんて本に入れていいのかしらん? 黙って論創社にまかせておいて良かったのに、と思うおっさんなのでした。 あ、ジュリアン・シモンズが本作を「英国最初の長編探偵小説」と認定した件に関しては、シモンズは「勃興期のミステリ・ジャンルへの女性の貢献を不当に無視しています」と、あちらのフェミの論客連から抗議の声があがったんですよ。「英国最初の長編探偵小説」といったら、メアリ・エリザベス・ブラッドンの The Trail of the Serpent(1861)じゃありませんか、というわけです。ブラッドン女史は、近代文藝社から、センセーション・ノヴェルの代表作『レイディ・オードリーの秘密』(1862)の翻訳が出ていますね。 『ノッティング・ヒル』が、もし企画のバッティングでお蔵入りになったら、かわりにこちら、The Trail of the Serpent を出してみませんか、論創社様? |
No.211 | 8点 | 英国古典推理小説集 アンソロジー(国内編集者) |
(2023/05/29 09:54登録) あの岩波文庫が贈る、要注目の書です。 カバー袖の宣伝文句によれば――「ディケンズ『バーナビー・ラッジ』とポーによるその書評、英国最初の長編推理小説と言える『ノッティング・ヒルの謎』を含む、古典的傑作八編を収録(半数が本邦初訳)。読み進むにつれて推理小説という形式の洗練されていく過程が浮かび上がる、画期的な選集」と言うことになります。 19世紀の英文学が専門の編訳者(本書のどこにも略歴は載ってませんが……岩波の読者なら、ディケンズ作『荒涼館』の訳者である佐々木徹先生は、知ってて当然の存在?)が、しかし文庫レーベルということもあって、あまり学術的になりすぎることは避け、読書人一般向けに編んだ、啓蒙の書という印象ですね。いや、充分マニアックではありますがw ただ、いわゆるミステリ・マニアの感性とはズレがあり――端的な例が、書名にも使われている「古典推理小説」という表記。そこはやっぱり「古典探偵小説」じゃないと、しっくり来ないでしょ――作者紹介欄のコメントや解説文を読んでいても、ツッコミどころは目につきますが(知識ミスを補い、ブラッシュ・アップしてくれる、マニア気質の担当編集者がいてくれたら……という印象は拭えませんが)、それでも、アカデミズム方面からの貴重なアプローチであり、古参のミステリ読者にも、新鮮な発見と考える材料を与えてくれる、「注目の書」であることは間違いありません。 収録作は―― ①『バーナビーラッジ』第一章(抄録)チャールズ・ディケンズ (付)エドガー・アラン・ポーによる当該作の書評2点(①連載中の展開予想編 ②完結後の総括編、それぞれを抄録) 実作と評論の無類に面白いセットで、これは企画の勝利ですが、対象となる『バーナビー・ラッジ』の書誌データ(ディケンズ自身の編集になる、週刊『Master Humphrey's Clock 』に1841 年 2 月~11 月まで連載)は、しっかり記載しておくべきではないかな? そのうえで佐々木先生には、アメリカの地における、同作の出版状況までフォローしていただきたかったと思います。『バーナビー』の、故・小池滋氏の完訳(集英社)について言及していないのは遺憾。ポーがディケンズをダシにして自論をブチあげる、第2書評の全訳が、東京創元社の『ポオ全集〈3〉詩・評論・書簡』に収録されていることにも、触れておいて欲しかった。先人へのリスペクトって、大事でしょ。あと、解説でポーの「推理小説、あるいはそれに非常に近い作品」をピックアップしながら、「黄金虫」を黙殺しているのはいかがなものか? ②「有罪か無罪か」ウォーターズ(1849) 警察官による実録を謳った、往時流行の創作のサンプル。悪漢を追跡し逮捕にいたる、探偵経路の面白さ、ですね。変装あり腹話術ありw。本邦初訳とされていますが、個人出版とはいえ、昨2022年にヒラヤマ文庫の、ウォーターズ作『ある刑事の回想録』で訳出されたばかりでした。個人的には、未訳のもののなかから、あちらではアンソロジーにも採られている、元祖・科学捜査もの “Murder Under the Microscope”を選んで欲しかったな。 ③「七番の謎」ヘンリー・ウッド夫人(1877) 初訳。このあとのコリンズともども、1860年代から1870年代にかけて隆盛したセンセーション・ノヴェルを代表する作家の手になる、初期(偶然の導きで真実が判明する)フーダニットの一例。解決が弱いといってしまえばそれまでですが、やるせない真相は、黄金期のアガサ・クリスティーなどをスキップして、後年の、ルース・レンデルあたりを思わせる苦さがあります。巻末解説で「深読みに過ぎるだろうか」と記される、訳者の考察に頷かされます。 ④「誰がゼビディーを殺したか」ウィルキー・コリンズ(1880) 雑誌初出時のタイトルに拠った訳題を採用していますが、作品紹介欄のコメントでも書かれているように、コリンズは単行本収録時に改題しています。北村みちよ編訳『ウィルキー・コリンズ短編選集』(彩流社)に、そちらのタイトルに基づく「巡査と料理番」として既訳があります。臨終の告白から、事件発生の一報が告げられる、語り手の若き巡査時代の一場面へ切り替わる、“つかみ”のうまさ。さすがコリンズ、物語る力が違います。余韻嫋々。極端な偶然の利用は、ストーリーテラーの特権かww。解説でコリンズの推理小説的作品を列挙しながら、定評ある短編の「人を呪わば」(岩波文庫の『夢の女・恐怖のベッド』にも、「探偵志願」として収録されているのに……)を無視しているのは、しかし、どんなものか。 ⑤「引き抜かれた短剣」(1893)キャサリン・ウイーザ・パーキス 初訳。知られざる“シャーロック・ホームズのライヴァルたち”の一人、女性探偵ラヴディ・ブルックもの。この作者・作品は知らなかったな。地の文で嘘を書いてはいけない、と、ポー大先生に乗っかって、訳者が駄目だしをしていますが、作者の視点を徹底的に配して、完全にラヴディの三人称一視点(意識の、同時進行)で書き貫けば、その点はクリアできます。まあ、そうなるとハードボイルドですがねwww。しかし実際、本シリーズは、パズラー的観点より、女性私立探偵ものの先駆け的な観点から、再評価すべきだと思います。男性と対等に仕事をし、偏見なくきちんと評価される世界は、作者の理想だったのかもしれませんが、いま読むとその先見性に驚かされます。 ⑥「イズリアル・ガウの名誉」(1911)G・K・チェスタトン えーっと。「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」枠だそうです。すでに諸方面からツッコミが入っていますから、ここでは、万一、未読の向きがあれば、これと⑦だけは読んでおきましょう、というにとどめておきます。まあ、「推理」の恣意性に踏み込んでいる、という評価軸だとすれば、あえて、このアンソロジーの後半に据えてもいいのか……な? でも、人名表記は従来通り「イズレイル」のままにしておいて欲しかった。 ⑦「オターモゥル氏の手」(1929)トマス・バーク えーっと。「黄金時代に入ってからの作品だが、かねてから評価の高い名品であるので、出版年代にこだわらずに採択した」そうです。すでに諸方面からツッコミが入っていますから(以下略)。エラリー・クイーンがアンソロジー収録時に冒頭1ページをカットした流布版ではなく、完全版の翻訳ではありますが、創元推理文庫の『世界推理短編傑作集4』(2019)で、既にそちらも読めるようになったからなあ。作中の探偵役(?)を待ち受ける衝撃の結末、という評価軸であれば、あえてこのアンソロジーの後半に据えてもいいのか……な? でも、人名表記は従来通り「オッターモール」のままにして(以下略)。 ⑧「ノッティング・ヒルの謎」(1862~1863)チャールズ・フィーリクス さて、本邦初訳、本書の眼玉の登場ですが―― 「おっさんより投稿者の皆様へ ここまででもかなりの言葉数を費やしてしまいました。異例のことですが、筆者には、長編「ノッティング・ヒルの謎」を別に登録して、レヴューしてみたい希望があります。 サイトのルール的にそれはどうよ? という声もあるでしょう。そうした意見が多くあるようであれば、あらためて本稿を修整して、「ノッティング・ヒルの謎」の感想をこちらに記すことにします。 「掲示板」でみなさまのご意見を伺わせていただければ幸いです」 (追記)上述の件について、掲示板で特に反対意見が見られなかったことから、「ノッテイング」に関しては、筆者は別枠で単体のレヴューをさせていただくことにします。我儘ともいえる要望に対し、賛同のコメントをお寄せいただいた nukkam、人並由真のご両名に、あらためて謝意を表します。 (2022.6.7) |
No.210 | 6点 | 左の眼の悪霊 和田慎二 |
(2023/04/16 12:11登録) ガストン・ルルーの『黒衣婦人の香り』のレヴューのなかで、余談ながら、和田慎二の『スケバン刑事』のタイトルをあげたら――その連載(と、美内すずえの『ガラスの仮面』もね)読みたさに、月二回刊の少女マンガ誌『花とゆめ』を買っていた中高生時代の想い出がプレイバックしてきました。ミステリ・キッズであると同時に、少女マンガ・キッズでもあったんだよなあ、あの頃の自分。 といっても、70年代の和田慎二の、『別冊マーガレット』時代から『花とゆめ』時代にかけての、ハッタリをきかせた、ストーリー・テリング全開のサスペンスものの数々(を少女読者相手にやってたんだよなあ)は、もし、きっかけさえあって手にとったらば、誰であれ性別関係なく、お話の面白さに引き込まれてしまったはずです(まあ、筆者が衝撃を受けた初・和田慎二は、小学生時分にクラスの女子から借りた、講談社コミックスmimi『緑色の砂時計』の、サスペンスものではない表題作だったりするんですがw) で。 そんな作者の代表作である『スケバン刑事』を、ミステリ・マンガという観点から、まるっと登録することも考えたのですが…… なにしろ1976年から1982年にかけて――エピソード単位の学園探偵ものが基本テイストだった第1部(ホントはここで一度、完結)から、ブランクをはさんで、やがてスケールの大きな大河ドラマ的ストーリーへ発展していく第2部まで、元版コミックスにして全22巻におよぶ大作だけに、簡単なレヴューで概観し採点するのは、乱暴すぎます。だからといって、たとえば「毒蛇逆襲編」みたいに、特定のエピソードをピックアップして副題を登録するのというのも、問題でしょうし…… 悩んだすえ、自分のなかでの妥協案として、同名ヒロインの麻宮サキが登場し、『スケバン刑事』のプロトタイプとなった読み切り短編「校舎は燃えているか!?」(『花とゆめ』1975年15号)を取り上げることにし、同作を最初に収録した書籍である、花とゆめコミックス『左の眼の悪霊』(1975)を登録することにしたわけです(のちに『スケバン刑事』の、当初の完結巻となった第8巻にも、作者の希望により再録されましたけどね)。 収録内容は以下の通り―― ①「左の眼の悪霊」(1975年 『花とゆめ』13号、14号) ②「校舎は燃えているか!?」(1975年 『花とゆめ』15号) ③「パパにくびったけ!」(1975年 『花とゆめ』17号) ④「リョーシャとミオ」(雑誌未掲載) このうち③は、作者のデビュー作「パパ!」に連なるホームドラマ、④はデビュー前に作者が個人誌として発行したメルヘン・チックな掌編の再録、ということで、さながら和田慎二バラエティともいうべき盛り合わせになっているわけですが、本サイト的にはどちらも対象外。 表題にもなっている①は、掲載誌の月二回刊を記念してスタートした企画〈怪奇とロマン ゴシック・シリーズ〉に寄せられた、前後編各50ページにも及ぶ力作です。広大な領地を有する謎めいた旧家の、相続人候補として招かれた受動的な少女が、そこで怪異に出会うことになり――という、本場イギリスのゴシック・ロマンの伝統を踏まえながら、じつはメイン・ヒロインの役割は、彼女と同伴して館を訪れた親友(不幸な境遇の二人は、鑑別所で出会った)のほうに振られており、そんな能動的な少女の活躍は、サポート役として登場する和田慎二ワールドの住人・神恭一郎の存在もあって、来るべき『スケバン刑事』の露払いをするかのようです。 が、そのせいで――前半、秘密の “城” (日本史から抹殺された異人の城!)まで持ち出してムードたっぷりにゴシックの風呂敷を広げながら、後半、それを畳む段になると、「さあ反撃にうつるぞ」という神恭一郎のセリフに象徴されるように、怪異を物理で撃退する怒涛のアクション編になってしまうんですがね。四百年以上にもわたり、何千人もの人間が犠牲になってきたという、壮大なハッタリがカラ回っているのは残念。しかし、この想像力と腕力は、瞠目に値します(うん、やはりこの人と美内すずえのストーリー・テリングは、当時、新しい才能の台頭で変革の時代を迎えていた少女マンガ界にあっても、別格)。 さて、そんな、飛距離充分の大ファールのあとにくるのが(間を開けず、同じ雑誌の次の号に掲載されたというのが凄い)、文句なしのホームラン、潜入捜査ものの②「校舎は燃えているか!?」です。 手錠をはずされ、暗器のヨーヨーを貸与され、母校に戻ってきた不良少女(はい、スケバンですww)麻宮サキ。いま学園は、旧校舎でおきた爆弾騒動、そして新たな爆破が続くという噂で不穏な空気のなかにあった。サキは馴染みの用務員に接触し、宿直室で寝泊まりしながら、爆弾事件の調査を開始する。彼女は、ある条件のもと、仮釈放された「学生刑事」だった―― ひさしぶりに読み返してみて、想い出補正無しに、やっぱりこりゃあ面白いわ、と思うと同時に、これ、たった34ページだったのかよ‼ と驚かされました。 主人公のキャラクターを立てながら伏線を張り、中盤の回想で「学生刑事」という(大法螺の)システムが必要とされる、もっともらしさを担保したうえで、絡み合った事件をほぐしていき、ハウダニット(新校舎を爆破する方法)の気づきから、一気にタイムリミット・サスペンスへ。クライマックスでは、小道具のヨーヨーが印象的に使われ、最後の1ページで、サキが学生刑事を引き受けた理由が明かされ余韻を残す。 コマを小さく割り、省略をきかせることで、この枚数でこれだけのストーリーを語れるんだなあ。 細かいツッコミどころとか、もう、どうでもいい。 特記すべきは、本作が長編『スケバン刑事』のパイロット版であるにもかかわらず、単体の短編として綺麗にまとまり、終わっていることです。そして、言ってしまえば――エッセンスは全部これに入っている。 で、ですね。 本サイトが「コミックの祭典」だったら、この、花とゆめコミックス版『左の眼の悪霊』は、和田慎二へのステップ・ワンとして絶対オススメ、ということで、8点付けていたところですが……自粛しました。 でも、埋もれた学園ミステリの逸品を含む、バラエティに富んだ作品集として、それでも6点は、あげておきたいと。 だってねえ、「炎眼のサイクロプス」(原作 石川理武、作画 宇佐崎しろ)を掲載した『週刊少年ジャンプ』2021年3・4合併号に、レヴューで5点を付けた、おっさんとしては、それより上じゃないとマズイわけですよwww |
No.209 | 4点 | 黒衣婦人の香り ガストン・ルルー |
(2023/03/18 17:05登録) ご存じ『黄色い部屋の謎』Part2。 カバーと本文ページの経年ヤケが目立つ、1976年の創元推理文庫版(石川湧訳)、栞紐の付いている初版で読み返しました。 が……、うん、やっぱりね、読み辛い。字が小さいんだもんw 「黄色い部屋」の事件から2年後。 心の傷の癒えたマチルド嬢は、正式にダルザック夫人となり、新婚旅行に旅立つ。しかし、悪夢はまだ終わっていなかった。奴が帰ってきたのだ。死んだはずの悪漢、さながらアルセーヌ・ルパンのライヴァルにしてファントマの前身のような、変装名人バルメイエが、再びマチルド嬢の前に姿を現す。 SOSを受けた、我らがルールタビーユは、「わたし」ことサンクレールとともに、夫妻の滞在するヘラクレス半島の古城に向かうのだが……。 ストーカー野郎・バルメイエの影に怯えるサスペンス編の第Ⅰ部から、要塞と化し外部からの侵入が不可能なはずの城内で、異形の密室事件が発生する、謎解き編の第Ⅱ部へ。誰がバルメイエなのか? 果たしてバルメイエは、生きているのか? とまあ、ストーリー自体は、波乱に富んでて、面白そうではあります。そして、意外にルルーが、本作においても、フェアなミステリを志向していたらしいことは、一人称の語り手サンクレールの「……わたしたちに少しずつわかったとおりに真相を明らかにするよう、この物語の中で忠実につとめるつもりである」という導入部の文章(じつはこれ、きわめて重要)からも確認できます。「黄色い部屋」がそうであったように、隠れモダーン・ディテクティヴ・ストーリー要素(なぜバルメイエは、わざわざ自分に不都合な行為をせざるをえなかったのか? というホワイを巡る論理のアクロバット)があって、その発見は、今回の再読の最大の収穫でした。 が……、うん、やっぱりね、読み辛いww サンクレールの、というか原作者ルルーの、大時代すぎてシリアスな内容がほとんどギャグになってしまうような文章表現(とりわけ、主人公ルールタビーユ個人の、秘密の掘り下げに筆を費やした第Ⅰ部において著しい)に責任の大半があることは間違いないでしょうが、訳文もまた、やたらと隔靴掻痒な表現が多く、先日、ネットの某掲示板で、最近出たフランス・ミステリの訳文が読み辛いとか叩かれてましたが、なんのなんの、こっちは読み辛さのレベルが違うぞぉwww できれば「新訳」で再読したかった。 とはいえ、あらためて、作品の出来そのものを考えると……「新訳」は望み薄かなあ。ありていにいって、失敗作ですから。 前述のように、案外とフェアプレイを意識してみたり、モダンなホワイダニットの要素を盛り込んでみたりと苦心はしていますが、基本的なプロットが、無理筋すぎる。 ただ、失敗作であっても、その設定に関するアイデアは、なかなかに蠱惑的で、表立って語られることの多い「黄色い部屋」とはまた別な意味で、後世のクリエイターに、少なからず影響を及ぼしていそうです。 本サイトで、すでに弾十六さんがご指摘されているように、ディクスン・カーはその筆頭。換骨奪胎の名手カーは、確実に本作を叩き台にして、記念すべき長編第一作を世に送り出していますし、若き日に「黄色い部屋」を愛読したことで知られるアガサ・クリスティーにも、じつは本作のエコーが強く感じられる、無理筋の長編(1936)がありますw また、クリスティ再読さんは、そのレビューにおいて、「乱歩通俗ミステリへの影響」を示唆されていますが、筆者は、乱歩が通俗路線に走る前の、比較的、短めの長編(1926~1927)をまっさきに想起しました。『黒衣婦人の香り』では、表面上のサスペンスとは別に、水面下で異様な心理サスペンスが進行していたことが、最後になってわかるわけですが、なまじの「謎解き」ミステリ仕立てが仇になって、その一番の、小説的な凄みが不完全燃焼に終わっています。その、いかにも乱歩好みな設定を、発展させたのが、前述の乱歩長編の、「あの」場面ではなかったか――などと夢想するわけです。「黒衣婦人」の初訳『古塔の幻』が、金剛社の〈ルレタビーユ叢書〉で出たのが1921年ですから、乱歩が読んでないわけないですものね。 あと、ずっとくだって、和田慎二の漫画『スケバン刑事』の、第一部クライマックスのエピソードなども、引き合いに出して熱く語りたい誘惑にかられるのですが、それはまた別な機会にでもww というわけで。 たとえ駄目な作品でも、ミステリ・ファンに限らずエンタテインメント小説のファンならば、目を通しておいて、いろいろ損のない一冊であるかとは思います。そうした価値を鑑みての、4点ではありますが…… 最後にこれだけは言っておきます。悲劇のヒロインっぽく描かれてますけど、実際のところは、もう、ホント――「マチルドが悪いんだよ」。 |
No.208 | 9点 | 禁じられた館 ミシェル・エルベ―ル&ウジェーヌ・ヴィル |
(2023/03/04 15:13登録) こういうのでいいんだよ。 こういうので。 1930年代に、フランスで長編密室ミステリ3作をものした合作チーム、ミシェル・エルベール&ウジューヌ・ヴィルの、ファースト長編 La Maison interdite(1932)が、電撃的に扶桑社ミステリーから訳出されました。 良い出来だという噂は耳にしていましたが――いやこれが、本当に良かった。 いわくつきの館を買い取った成金の富豪のもとに、再三、舞い込む、退去をうながす脅迫状。最終警告を無視した雨の夜、館を訪れた謎の男。轟く銃声。あとには富豪の死体が残され、逃げ場の無いはずの館から、訪問者は消え去っていた……。この、最盛期のディクスン・カーを思わせる不可能犯罪をめぐって、司法関係者が複数の容疑者を犯人に擬し、推論バトルを繰り広げるなか、私立探偵まで参戦。舞台を移した法廷で、ついに解き明かされる真相は? カーを想起させる作品でありながら、複雑さとは対極の、じつにシンプルな、それでいて意外性のある解決が、エレガントだと思います。マニア層を意識した密室ものって、どうしても過剰にエスカレートしていきがちじゃないですか。どこの国とはいいませんがw 帯の推薦文を有栖川有栖さんが書いているのも(というか、編集部が有栖川さんに依頼したのも)、そういう意味で、分かる気がしますね。帯裏の、編集者の手になるコピー*からも、ホンモノの「幻の傑作」を発掘した、という興奮が伝わってきます。 フランス本格にしばしば抱く、肉付けの不足感は、正直、この作にもありますが、タイトなプロットの魅力はそれを補ってあまりあり、最後の一行まで、楽しく読むことができました。 アントニイ・バークリー、というより、のちのレオ・ブルースを思わせる要素もあって、訳者の小林晋氏が惚れ込んだのも、むべなるかな、です。 ともかく。 本格ミステリ・ファンなら、マストの一冊。 *曰く「英米で本格ミステリの黄金期を迎えていた1930年代。同じころ、フランスでは一体どんなミステリが書かれていたのか?『黄色い部屋の謎』以降、フランスでフェアプレイ重視の探偵小説は本当に根付かなかったのか? その答えが……ここにある!」。ああ、『黒衣婦人の香り』の立場がないww ということで、次回は『黒衣婦人』について書いてみましょうか。 |
No.207 | 6点 | 聖者の行進 伊集院大介のクリスマス 栗本薫 |
(2022/12/25 12:26登録) ネットの「クリスマスにまつわるミステリ」というワードから、まっさきに連想したのがコレだったりする。 もっといいミステリは、ドイルにもクリスティーにも横溝正史にも……他にいくらでもあるのにね。でも、自分に嘘はつけない。 というわけで―― 「なんか、ここんとこ、変なのよ、うち」。 名探偵・伊集院大介が親しくする、レズビアンの姉御・藤島樹(ふじしま・いつき)が経営するバーに、師走のある日、かつて彼女がホストとして勤めていた、ゲイ・クラブの名物ママが突然、訪ねて来て旧交を温め、店にまつわる悩み話をして帰ったあと……クリスマスに自身の店で変死体となり、樹と大介に発見されることになる本書(2004)は、ミステリとしての出来不出来を超えて、筆者にとって、心に焼き付いて離れない、いわば偏愛の一冊なのです。 『絃の聖域』(1980)に始まる伊集院大介シリーズは、おおざっぱにいって、怪人シリウスが暗躍する(そして大介の伝記作者だったはずの森カオルが、ワンオブゼムに降格してしまう)『天狼星』(1986)以前と以後で、前期・後期に分けられると思いますが、作者の筆力とミステリのクオリティのバランスがとれ、安定していた前期(短編集『伊集院大介の冒険』(1984)は、その格好のショーケース)に比べると、そのどちらもが失速していく後期は、ネット社会の事件を描いた『仮面舞踏会』(1995)という例外的な傑作(と、作者の着物趣味がスパークした力作『女郎蜘蛛』(2005)かな)を除けば、まあファン以外、読む必要はありません。 本書も然り。 「ジョーママはそれこそ六尺ゆたかもいいところ、180はゆうにこえる背丈と、150kgではきかないかもしれない、相撲取りなみの体格を誇る、かつては青山六本木で一番有名なおカマの一人だった」と描写される被害者を、いかにして首吊り自殺に偽装して殺害できたのか(あわわ、ネタバラシかw)というハウダニットの部分などは、砂上の楼閣で、ちゃんとした“本格”に馴れている人には、「おいおいおい」かもしれません。 にもかかわらず。 ミステリのクオリティの劣化は否定できないにもかかわらず、作者の筆力が、奇跡的に、一時的にではあるにしても、戻ってきていることに、筆者は胸を揺さぶられます。 語り手を務める、五十路を超えた男装の麗人・藤島樹。彼女は、『魔女のソナタ』(1995)で脇役として初登場し、『水曜日のジゴロ』(2002)でメインに抜擢されたキャラクターで、作者が自身を重ね合わせていたのは、ほぼ間違いありません(若き日の自身の投影が、『優しい密室』(1981)の、女子高生時代の森カオルであったように)。それがあってか、キャラの立ちかたが半端でなく、その一人語りは、切なく、しかし力強く、魅力的です。 そして、伊集院大介の謎解きのあと、タイトルのもとになったディキシーランド・ジャズの名曲「聖者の行進」の歌詞に載せて、樹の脳裏を、死んでいった者たちの、そしてやがて自分も続くことになるであろう、陽気な葬列のイメージがよぎり、消えていくラスト・シーンは、これぞ栗本薫。 「(……)落ちてくるひそやかな闇と静けさのなかで、わたしはそっと、ジョーママにむかってつぶやいた。メリー・クリスマス」。 ああ、ミステリ以外の部分は満点だw |
No.206 | 8点 | 欧米推理小説翻訳史 評論・エッセイ |
(2022/06/06 11:21登録) 『ハヤカワミステリマガジン』2022年7月号の記事で、長谷部史親氏が今年の4月に亡くなっていたことを知りました。 筆者の世代だと、膨大な蔵書を持っているミステリ同人業界の凄い人・谷口俊彦さん、という印象が強く、プロとなり“文芸評論家”を名乗られるようになってからの、ハセベフミチカ氏には、正直、一流の書誌学者だからといって、一流の評論家たりえるとは限らないなあ、と、そんな(悪い)見本を見るような思いを抱き続けていました。 最近、あまり名前をお見かけしないな、とは思っていましたが……前掲の号の追悼文(ワセダ・ミステリ・クラブの後輩である、西上心太、三橋曉の両名が執筆。同誌に連載を持っている、ワセミスOBの某氏からは――書いていただけなかったんだろうなあ)を読むと、晩年は、やはりいろいろあって、業界からフェードアウトされていたようです。 日本推理作家協会賞を受賞した、『欧米推理小説翻訳史』(1992 本の雑誌社)は、帯のコピーに 「明治にルブラン、大正にクリスティー そして昭和のクロフツまで、推理小説はいかにして日本に移入されたか」とあるように、「――何らかの意味で日本へ影響を及ぼした作家たちを選び出し、個々の作家の翻訳史にスポットを当て」た労作で、筆者も多大の影響を受けました。ネット時代以前に、現物をきちんと確認しながら綴られた、孫引きでない書誌的データ(これは容易に真似できません。古書店主でもあった、著者の真骨頂)には感服させられます。 ただ、客観的な「翻訳史」に、プラスアルファとして、ご自身の感想や意見を付け加えようとすると、独断と偏見が露呈されてしまう。たとえば、こんなふうに――「クリスティー、ヴァン・ダイン、クイーンといったトリック中心の推理小説が、一度読んで解決を知ってしまったら二度と読む気になれないのに対して、カーの作品が繰り返し読むたびに新しい感興を呼び起こすのは、小説としての内的成熟があるからにちがいあるまい」。はあ、そうですかw とはいえ。 そういう、書き手の悪い癖みたいなものをさっぴいても、本書が、翻訳ミステリに関心がある者にとって、読まで叶うまじき一冊であることは動かせません。 もともと雑誌『翻訳の世界』に連載されていた「欧米推理小説翻訳史」を、連載途中で本にした関係で、書籍刊行後の連載分(A・E・W・メイスンなど)は未収録ですし、その後、掲載誌を『EQ』に変えてからの、「続・欧米推理小説翻訳史」は、本になることなく終わりました。 著者には、生前に是非、それらを完全収録した『欧米推理小説翻訳史 増補改訂版』を出していただきたかった。 いただきたかったんですが…… とりわけ国書刊行会の、<世界探偵小説全集>以降の、クラシック・ミステリ・リバイバル(長谷部氏の予想を裏切る事態が、進行していきます)を踏まえた加筆訂正を考えると、執筆の手も止まってしまったのでしょう。 残念です。 |
No.205 | 7点 | 亡命客事件 大下宇陀児 |
(2022/04/23 14:25登録) あ、宇陀児(うだる)、やっぱり小説うまいわ。 そんなことを改めて感じさせてくれる、湘南探偵倶楽部さんの、今年2022年、最新の復刻本です。 初出が『新青年』昭和二年二月号という、短編作品ではありますが、春陽堂の『探偵小説全集(3)大下宇陀児集』(昭和四年)を底本にして、表紙裏に同書の書影、表紙に「事件の舞台となった天下の奇勝 木曽川 寝覚ノ床」のカラー写真を刷り込み、ストーリーに即した列車の路線図を付録に添えるなど、作り手の熱意が伝わる一冊になっています。それだけに――校正が不充分で、字下げの不統一といったミスが散見するのが、本当に残念。割高になっても、そこだけは、外部委託でカバーして欲しかったなあ。 長野県内と思われる、温泉町に逗留中の「私」は、その首に三千円の賞金がかかっていると自称する、支那からの亡命客・洪さんと知り合い友誼を結ぶが、洪さんはある日、観光のため列車で町を出たまま消息を絶ってしまう。やがて、浦島太郎伝説で知られる、寝覚めの床の渓谷で発見された、洪さんと思しき首なし死体。支那からの刺客の仕業か? しかし、「私」の友人である、弁護士・俵巌(たわら がん)の推理で、まったく別な人物が拘引されることになり……。 ミステリとしては、ベタもいいところでしょう。定石通り。 でも、そんなベタな素材で、ちゃんと読者を楽しませ、心に残るストーリーを構築できているのが、宇陀児の非凡なところ。導入部の、洪さんというキャラクター(陽気でいながら、故国に対する思いは熱い)のスケッチがいいんですね。 終盤の展開が駆け足にすぎる嫌いはありますが、ラストは、綺麗に決めてくれました。 初期短編で、このレヴェルのものが埋もれているというのは、正直、嬉しいオドロキでした。発掘してくれた、湘南探偵倶楽部さんには感謝(その念を込めて、採点は一点オマケ)! 奥付を見る限り、編集・制作にあたられているのは、お一人のようですが……くれぐれも出し急ごうとはなされずに、悔いのない本を残していって欲しいと、願わずにはいられません。 |
No.204 | 6点 | ゴルゴ13 /GOLGO13’S MYSTERY OMNIBUS さいとう・たかを |
(2022/03/05 12:56登録) 本の背に、「この「ゴルゴ13」がすごい!! ミステリー、推理小説ファン必見のオムニバス!!」というコピーが刷り込まれた、800ページにも及ぶ、コンビニ・コミックの大冊。 筆者が読んだのは、2022年1月6日発行の、第3刷です。奥付を見ると、初版は2010年8月11日で、コンビニ売りのMy First Big版「ゴルゴ」が通算100巻を迎えたときの記念号が、昨2021年の作者の逝去を悼み、重版されたもののようです。 表紙には、「今までの100巻の中からミステリー・ファン垂涎の推理小説テイスト物語を集めたプレミアム・ザ・ゴルゴ」との惹句もあり、これまで、さいとう・たかをのあまり良い読者ではなく(「劇画」の生みの親であり、創作のシステマチックな分業体制を確立し多作を可能にしてきた、その徹底したエンタテインメント職人ぶりは見事と思いながら……)、代表作の「ゴルゴ」すら、食堂や床屋で、それこそ散発的に目を通す程度だった筆者の目が、思わず留まりました。 収録作は、以下の通り。②⑧のみ既読、あとは初見です。 ①神に贈られし物(第115話、脚本:早里哲夫、1977) ②芹沢家殺人事件(第100話、脚本:浜家幸雄、1975) ③蒼狼漂う果て(第141話、脚本:きむらはじめ、1979) ④死に絶えた盛装(第26話、脚本:K・元美津、1970) ⑤60日間の空白への再会(第99話、脚本:浜家幸雄、1975) ⑥破局点(第94話、脚本家不詳、1975) ⑦ピリオドの向こう(第126話、脚本:K・元美津、1977) ⑧2万5千年の荒野(第213話、脚本:きむらはじめ、1984) さすがに読みごたえがあります。お腹いっぱいになりました。 ただ、コンビニ・コミックに多くを求めるわけではありませんが、これって「ミステリー」かいな、と思わせるお話も散見するので、誰が収録作を選んだか、なぜその作品が選ばれたか、そのへんについて軽く触れた、デザート的な文章が欲しくなりました。ネット情報によると、2010年の初版には、杉江松恋氏による「解説」が付いていたようなのですが、今回の増刷ではカットされています (T_T) 厳戒態勢が敷かれた、大統領指名大会の行われるスタジアムで、候補者の狙撃を敢行するゴルゴ。テロリストとして彼をマークしていたFBI捜査官は、公務執行妨害と傷害の別件で、ひとまず彼を確保することに成功するが……という「神に贈られし物」は、いかにして凶器の銃は持ち込まれ、犯行後、隠蔽されたか? を軸にしたハウダニット。寡黙なゴルゴのキャラ造形(作中、発するセリフはなんと、「弁護士を呼んでくれ」のみ)により、彼が何を考え、一連の行動をとっているのかが、最初は分からないのですが、あとになって真意が分かり思わず膝を打つ、という展開で、最後の一コマの捜査関係者のセリフで、はじめてタイトルの意味も判明します。巻頭作にふさわしい、秀作でした。 シリーズのなかには、ゴルゴの出生の秘密にまつわるエピソードが幾つかあって(どれが正解かは確定されないまま、別な可能性が示されていき)、通称「ルーツ編」とされていますが、戦後まもなくの迷宮入り事件に端を発する「芹沢家殺人事件」は、その代表的なひとつ。ゴルゴでミステリ、といったら、まあ、これは鉄板でしょう。「そ、そんなばかな!! あまりに突拍子もない推理だ!!」、「ば、ばかげている!! あまりに非現実的だ!!」という、作中人物のツッコミはまったくその通りで、特に密室状況下のホテルの一室でいかにして証人は消え去ったかという副次的な謎の解答は、無茶もいいところですが……作画の熱量と演出で、捻じ伏せられます。さいとう・たかをが、ただシナリオを機械的に絵にしていたわけではないことを、如実に示す作でもあります。ひさしぶりに読み返したら、事件に人生を狂わされていく捜査関係者のドラマが、なんだか島田荘司テイストだな、と(本当は逆で、島荘のほうが似ているわけなんですが)。 このあとに、中ソ国境で保護された、核実験の被害者の遊牧民が、じつは二・二六事件の生き残りであることを知ったジャーナリストが、スクープを求めて現地へ渡り、そこでゴルゴを目撃することになるという、同じ「ルーツ編」の「蒼狼漂う果て」を並べているのは、しかし、いかがなものか。こういう番外編的な(しかも濃密な)のは、たまに読むからいいのにねえ。スナイパーのゴルゴが警護役を引き受けるという新味はありますが、襲ってくる敵を坦々と片付けていくだけで、そこに何の策も無いのが、おっさんとしては、物足りません。 おそらく人気の点では遥かに劣るでしょうが、ミステリ的には、正体不明のターゲットが誰に扮しているかをゴルゴが推理する、「死に絶えた盛装」のほうが、初期作ゆえのブレ(饒舌なゴルゴ!)はあっても、好ましい。ただしこのタイトルは、下手だわw 若き日のゴルゴのエピソードが回想される、刑務所ものの「60日間の空白への再会」も、タイトルが舌足らずですね。脱獄トリックが盛り込まれたりしていますが、前提となる、「この依頼はプロがプロに対しての依頼である」という、ゴルゴに託されたメッセージの謎解きには、首をひねるばかりです。ゴルゴで刑務所 / 脱獄ものということであれば、筆者が読んだ範囲では「檻の中の眠り」(第5話、脚本:小池一雄、1969)がベターなので、入れ換えたいww 犯罪心理学者が、理論的な行動予測でゴルゴを追いつめていく「破局点」は、お話自体は充分に面白いです。相手の理論を無効化する手段が、結局、「さとり」の妖怪が出てくる民話のような原始的なもので、機知の要素に乏しい、なんていうのは、頭の固いミステリ・ファンの難癖ですねwww 今回、初読の6編のなかで、巻頭の「神に贈られし物」と双璧を成すと思っているのが、お次の「ピリオドの向こう」です。このお話、まずもって、ゴルゴへの依頼内容が、ヘン。ある女性が左耳に付けているイヤリングを、撃ち落として欲しい、というんですからね。もっともE・D・ホックの怪盗ニックものと違って、そこにホワイダニットの要素はなく、依頼人の動機は明確に説明されます。しかし、それを受けたゴルゴが狙撃を敢行する、まさに直前――何者かが放った弾丸で女性は射殺され、ゴルゴは、警察の非常線を突破し逃亡しながら、自分を巻き込んだ事件の解明に乗り出していきます。副次的なロマンスの要素も良く、クライマックスの収束性といい、余韻を残すエンディングといい、まず申し分ありません。 で、オーラスを飾るのが――「2万5千年の荒野」。 最初に断っておきますが、これはどこからどうみても、ミステリではありません。作中の「事件」、ではなかった「事故」へのゴルゴの関わらせかたも強引すぎて、お話の完成度は決して高くないと思います。 でも。 あえて言います。これは必読。1984年の発表時よりも、このエピソードの持つテーマは、いささかも意味を失わず、むしろ後年になるほど、重要性・迫真性を増しています。 1986年、チェルノブイリ。 2011年、福島。 そして―― いや~、柄にもなく真面目ぶってしまった。スミマセン。 アンソロジーとしての統一性に欠ける嫌いは否めないので、採点はちょっと抑えめにしましたが、本書は、長大な『ゴルゴ13』シリーズ(作者の逝去後も、新作が供給され続けている!!)に手をつけかねている読者への、入門書としては、決して悪くないと思います。 繰り返しになりますが、「解説」を削除しないで出して欲しかったな。 |
No.203 | 1点 | パルプ地獄變 ―紙漿の草叢に活路を求めて 伝記・評伝 |
(2022/02/05 11:05登録) 『コーネル・ウールリッチの生涯』の著者フランシス・M・ネヴィンズ Jr. 曰(いわ)く――「ウールリッチの独創的な世界がパルプ・マガジンを舞台に形づくられはじめるのは、一九三四年のことである。だが、彼の自伝はハリウッドに剽窃されたという幻の作品『アイ・ラブ・ユー、パリ』からその四半世紀後の母親の死までが完全に空白となっており、ミステリ作家としての再出発にまつわる苦労談はいっさい記されていない。しかし、一九三四年にパルプ・マガジン市場への参入をめざした者の姿を記した資料が、別の作家の手により残されている。この年は、ウエスタン、推理小説、映画やテレビの脚本など、多彩な分野で長いあいだ活躍した、ウールリッチと同世代の才能豊かな作家フランク・グルーバーが、イリノイ州の片田舎から作家としての成功を夢見てニューヨークへやってきた年でもあった。そして、ウールリッチとは異なり、グルーバーは大不況のどん底時代における通俗小説業界の様子を鮮明に記録しているのだ」。 その、1967年に刊行されたグルーバーの貴重な回想録が、同人出版の形で、綺想社というところから、昨2021年に訳出されました。限定100部、頒価6,000円也。 部数を考えれば、価格設定には目をつぶりましょう。よくぞ出してくれました、と感謝したいところですが……いや読んでみたら、これがちょっと、ヒドかった。戦前の邦訳探偵小説研究書で悪訳として有名な、H・D・トムスンの『探偵作家論』(広播洲 訳、春秋社)を思わせるシロモノでした。 まあ、「解説」と銘打たれた訳者あとがき(大網 鐵太郎)の、手抜きと独りよがりに終始した悪文に目を通すだけで、本文の出来のほうも察しがついてしまいます。その書き出しに曰く――「この本のオリジナルのタイトルは、『パルプ・ジャング』という、執筆者である、フランク・グルーバーが、世界恐慌の最中、ニューヨークに出て、タイプライター一丁で、極貧の中で悪戦苦闘するノンフィクションである」。オリジナルのタイトルは The Pulp Jungle です。日本語表記するのであれば、きちんと『パルプ・ジャングル』と書きましょうよ(校正、してるかあ?)。本のどこにも原作の刊行年を書かないのは、読者が勝手に調べろってことでしょうか。 しかし。 いちいちサンプルをあげて叩く気力も失せてしまうくらい、訳文の出来は論外ですが――そんな訳文を通しても、「パルプ・ジャングル」で孤独な闘いを生き抜き、(お金と)夢を手に入れていくグルーバーの熱量の高さは、充分に伝わってきますし、ウールリッチやチャンドラーが登場するエピソード自体は面白い。引き合いに出されることが多い、ミステリのプロット作法「十一箇条」を中心に、自伝の終盤に披露されるグルーバー流創作術は、経験に裏打ちされたサバイバルの知恵であり、示唆に富みます。 同人出版全体の信用を損なうといっていい、この訳書は、わざわざ取り上げる価値は無いのですが(採点はマイナスをつけたいくらいですが)、原作のポテンシャルを考えて、あえて登録しました。 求む、改訳。 |
No.202 | 9点 | コーネル・ウールリッチの生涯 伝記・評伝 |
(2022/01/29 10:11登録) ホントはね、採点は10点満点でもいいと思うんです。 凄い本だ――という思いは、翻訳が出た2005年の初読時も、ひさびさに読み返したいまも、変わることなくあります。 ミステリ史上最高のサスペンス小説の書き手だった、コーネル・ウールリッチの謎につつまれた生涯を、ウールリッチ研究の権威フランシス・M・ネヴィンズJr. が、徹底したリサーチと(作家的)想像力で再構築しながら、最初期のストレート・ノヴェルからパルプ・マガジン・ライター時代に量産された短編群、そしてターニング・ポイントとなった『黒衣の花嫁』以降の一連の長編を読み込み、ひとつひとつ、粗筋を紹介しながら批評していき、巻末には詳細な作品データを付した労作で、1989年度のMWA最優秀評論・評伝賞受賞(ネヴィンズにとっては、『エラリイ・クイーンの世界(王家の血統)』に続いて二度目の受賞)も当然。加えて翻訳を担当したのが我国きってのウールリッチ研究家・門野集氏とあって、日本側のデータ補足も遺漏なく、とにかく丁寧な本造りがなされています(早川書房の担当編集者の仕事ぶりも立派)。類書も無く、ミステリ・ファンが生涯、愛蔵するに足る、基本文献ともいうべき上下2巻本であります。 ただ。 無茶苦茶なことを云うようですが……類書が無いのが、問題なんですね。ダシール・ハメットに関する評伝や伝記なんかだと、複数あって(邦訳があるものに限っても、ダイアン・ジョンスンのとか、ウィリアム・F・ノーランのとか)、それぞれに視点や評価が違う。読者が相対化できるわけです。 ウールリッチの場合、本書がワン・アンド・オンリーなため、これが「巨匠の真実を描いた伝記の決定版」(邦訳の、帯のコピーより)と、無条件に受け取られてしまいかねない危険があります。 「真実」? あくまでネヴィンズの主観です。 たとえば、必要以上に言及される、ウールリッチの同性愛癖。これって、本人がカミング・アウトしたわけではなく、没後の、関係者の「証言」に基づくものなわけですが、その証人たちが、ウールリッチという人間にあまり良い印象を持っていなかったことは留意しておく必要があります。バイアスが相当、かかっている可能性は否定できない。 バイアスといえば、ネヴィンズは本書で、ウールリッチを、古典的な探偵小説の世界観を否定した、ノワール文学の創造者の一人として位置づけていますが、そのネヴィンズ史観が、作品評価にも影響していて、「古典的な探偵小説」のヴァリエーションとしての技巧的サスペンス小説、その書き手としてのウールリッチという側面が、不当に無視(あるいは軽視)されている嫌いがあります。たとえば、『黒衣の花嫁』を分析するなら、ミッシング・リンク・テーマという視点は欠かせないはずなのに、それは無い。かりに、ジョン・ロードの古典『プレード街の殺人』は読んでいなかったとしても、なぜクイーンの『九尾の猫』に言及しないのか? 個々の作品評価に関しては、異論百出でしょう。 「ミステリ作家コーネル・ウールリッチ」を再評価する、また別な試みがあって然るべきだと思います。 しかし。 コーネル・ウールリッチ(ウイリアム・アイリッシュ)は、筆者がミステリ入門期に愛読した作家なので、この作家への自身の愛の所産ともいうべき評伝を書きあげたネヴィンズへの、無意識の妬みが、あるやもしれません。今回のレヴューのいちゃもんには、バイアスが相当、かかっている可能性は否定できない(苦笑)。 |