おっさんさんの登録情報 | |
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平均点:6.35点 | 書評数:221件 |
No.61 | 6点 | 二人で泥棒を -ラッフルズとバニー E・W・ホーナング |
(2012/01/24 15:28登録) かつて創元推理文庫が、シリーズ企画<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>の第二期分として刊行を予告しながら、幻に終わってしまったのが、『ラッフルズの事件簿』。 コナン・ドイルの義弟にあたるE・W・ホーナングによる、悪漢系ライヴァルの作品集でした。 心の片隅に、ずっとこのラッフルズのことは引っかかっていたので、21世紀に入って論創海外ミステリから、ラッフルズもの全短編集3冊が続々訳出されたのは、まことに嬉しいオドロキでした(同叢書の、業界へのゲリラ的な参入には、もの申したいことが山ほどあったのですが・・・ラッフルズの件で、ひとまず許しましたw)。 本書は、第一短編集The Amateur Cracksman(1899)の翻訳ですが、直訳すれば『素人強盗』となるタイトルを『二人で泥棒を』とし、これを3冊を通してのシリーズ・タイトル(以下『またまた二人で泥棒を』『最後に二人で泥棒を』と続く)にしたのは、お見事。 怪盗ものを、ホームズ、ワトスン流のバディ形式で描くという、ホーナングの狙いをきちんと理解し、シリーズの軽妙さ、キャラクター小説としての側面まで伝えています。 賭博で大きな借金を背負ったバニーは、友人の青年貴族ラッフルズに助けを求めるが、じつはラッフルズには裏の顔があり、そんな彼が提示した解決策は、“二人で泥棒を”というものだった! かくして、冒険の幕が開く・・・ 収録作は―― 1.三月十五日 2.衣装のおかげ 3.ジェントルメン対プレイヤーズ 4.ラッフルズ、最初の事件 5.意図的な殺人 6.合法と非合法の境目 7.リターン・マッチ 8.皇帝への贈り物 1898年にCassell's Magazine に発表された6編に、新たに2編を追加したものです。 最初に断わっておくと、本書にハウダニット(どうやって盗むか)的興趣を期待すると、裏切られます。ホーナングの関心は(少なくともこの時点では)、トリッキーな手口にはありません。 あくまでアマチュアの紳士として、報酬ではなく誇りのために、スポーツと同様のスタンスで盗みに挑む(結果として成功もあれば失敗もある)ラッフルズの、独特のウエイ・オブ・ライフを、既成の道徳・価値観に縛られ揺らぐバニーの視点で描きだす――その面白さなのですね。 あえてシビアに言ってしまえば、一編一編に、ミステリとして特記すべきものは何もありません。 でも。 短編集として、作品の積み重ねが醸し出す味わいがあり、作者がシリーズものの醍醐味をきちんと把握した、職人的ストーリーテラーであることを窺わせます。 その意味で、本書を代表するのが、3と7。前者で、アマチュアのラッフルズに漁夫の利をさらわれた、その道のプロが、後者では脱獄し、ラッフルズに会いに現れます。この両者の“対決”が、「ジェントルメン対プレイヤーズ」「リターン・マッチ」というタイトルが示すように、ラッフルズの得意とするクリケットの試合になぞらえられている点に妙味があります。 そして――悼尾を飾る8(のちの、モーリス・ルブランのルパンもの第一話を想起させる、船上ミステリ)のエンディングの、強烈な意外性。 悲しくも美しい、ラッフルズ版「最後の事件」です。 「えーっ、このあとどうやって続けるんだよ!」と叫んだら、アナタはもう、ホーナングの術中に。 ミステリとしては平凡だから、と見限らないで、この、尻上がりに良くなるユニークな怪盗譚を読み進めていただければ幸いです。 まずは6点からスタートしますが、お楽しみはこれからですよ。 |
No.60 | 7点 | 女狐 栗本薫 |
(2012/01/17 09:51登録) 1970年代後半から80年代初めに、光文社のカッパ・ノベルスから、エラリー・クイーン(フレデリック・ダネイ)を選者にした『日本傑作推理12選』というシリーズが刊行されており、これを若き日の筆者は愛読していました。 日本の予選委員が傑作と判断した、1970年以降の短編を英訳してアメリカに送り、クイーンのお眼鏡にかなった12篇を本にするという形式で、三冊目まで刊行されました。 その『第3集』に収録されていたのが、栗本薫の「商腹勘兵衛(あきないばらかんべえ)」。当時、一読して、よくこういう時代ものをチョイスしたなあ、と、クイーン以前に予選委員の見識に感心したおぼえがあります。 本書は、その「商腹勘兵衛」を含む8篇を収めた、1981年(昭和56年)の時代小説短編集。通読するのは、今回が初めてです。 ミステリを意図した作品集ではないものの、うち幾篇かは、広義の犯罪小説にカテゴライズできるものなので――そして出来も悪くないので(というか、グダグダ加減の目立つ長編より、むしろ小説としての完成度は高い)、紹介してみることにしました。 収録作は―― ①女狐②お滝殺し③あぶな絵の女④赤猫の女⑤蝮の恋⑥商腹勘兵衛⑦微笑む女⑧心中面影橋 アブナイ女と関係したばかりに、人生を踏み外し、行きつく先は(無理)心中――というパターンのお話が三作あるのですが、その“旅路の果て”に至るルートはみな異なり、クライマックスのニュアンスも、きちんと違えて書き分けられています。さながら心中見本市w なかでも、男と女の心理の変化がストーリーの方向性を著しく変転させ、予断を許さない⑧は、秀作。 そうした心中ものにヒネリを加えた③が、本書でいちばんストレートに“ミステリ”していますが、逆に謎解きのマズさも目につき、作者の資質が“解明の物語”に無いことをしめしています。 謎を設定して解き明かすのではなく、“何か”を隠し――隠しごとの片鱗すら見せず読者をミスリードし、結末近くで大きなオドロキを演出する、そうした技巧で成功したのが、最初にも触れた⑥ということになります。 何のことだろう、と思わせるタイトル、「どうだ。腹を切らんか」という印象的な一言で始まる導入部、殉死の予約勧誘という状況設定の面白さ、そしてヒロインとなる萌えキャラ、小説の構造上の仕掛け――栗本薫としても会心の出来ではなかったかと思います。ポオやドイルではなく、O・ヘンリーやモーパッサンの水脈に通じる一品。 重くて暗い、死の匂いに満ちた、栗本ワールドの一面を代表する作品集と言えるでしょう。 その芸風が好みかどうかと言われると躊躇しますが・・・全体に、文章表現にも工夫が見られ、作者が早々にこの路線を放棄して、伝奇と<お役者捕物帖>に行っちゃったのは、残念な気がします。 推察するに――書くのに手間と時間がかかるので、メンドくさくなったんだろうなあ。嗚呼w |
No.59 | 9点 | バスカヴィル家の犬 アーサー・コナン・ドイル |
(2012/01/10 15:10登録) 光文社文庫の<新訳シャーロック・ホームズ全集>を読む、その第五回。 犯罪王モリアーティとホームズの対決を描いた「最後の事件」から8年――名探偵を封印したドイルがついにその沈黙を破り(ただし事件発生年を「最後の事件」以前に設定して)、『ストランド』の1901年8月号から1902年4月号にかけて連載した、ホラー・テイストの傑作サスペンスです。 悪漢の正体暴露が早すぎる点(全体の3/4ほどで明かし、残り1/4が、クライマックスの見せ場を含む、長い大団円)が、子供の頃は不満だったのですが・・・ あらためて読み、よくよく考えてみれば、これは、 主人公がカゲでこっそり調査して犯人の目星をつけるも、物証が無いため、わざと犯人に被害者を襲わせ、トリックを押さえて現行犯逮捕を狙う(終盤、警察官のレストレードが招聘されるのはそのため) そんなお話なのですよね。 およそ、「モルグ街の殺人」「マリー・ロジェの謎」「盗まれた手紙」に端を発する、論理による「謎解き型」小説の風上にも置けないわけでw ズバリ「本格」ではありません。 でも。 種明かしをともなった「サスペンス型」として見れば(前記のデュパンものよりは、ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』や横溝正史の『八つ墓村』と肩を並べるほうが、ふさわしいと思うわけで)、これはもう、無類に面白い。 全体を通して、「名探偵」ヒーローの威厳を損なうことなく事件解決を引き延ばす、ドイルの一世一代の語りの妙技と、これはもう、文句なしに素晴らしい、ムードの盛り上げを、素直に楽しむべきでしょう。 あ、「サスペンス型」と断じましたが、例によって、知的興味を喚起するエピソードの挿入はうまく、“片方だけ紛失する靴の問題”は、オカルト要素を排除するための伏線としても出色です。 また個人的に興味深いのは、作中の、ある人間関係の欺瞞。ホワイの部分の説得力はもうひとつですが、この、見た目と違う曖昧な関係は、ミステリ界における、のちのアガサ・クリスティー的(あるいはロス・マクドナルド的)騙しの戦術への道を開くものです。 それでも事件の解決が大味すぎて・・・とおっしゃる向きは、本作を補完する意味で、ピエール・バイヤールの『シャーロック・ホームズの誤謬――『バスカヴィル家の犬』再考』(東京創元社)を読むと良いかもしれません。「ホームズの推理は間違っていた」として、より合理的な別解が提示されています(これは、なかなか刺激的な本で、その別解自体より、それを踏まえた最終的な着地が美しい――いっぽ間違えると、松竹映画の『八つ墓村』ですがw――のは好印象)。 最後に。 この文庫版全集には、各巻ごとに、訳者の日暮雅通氏による解説とは別に、「私のホームズ」なるゲスト・エッセイが収録されていて、本書でそれを担当しているのが、島田荘司氏です。 「バスカヴィル家の犬と、忘れられた、バートラム・フレッチャー・ロビンソン」と題されたその文章は、本作成立の裏話(秘話)を、まるで目撃者の証言のように綴った、まことに面白い内容なのですが・・・ でもそれって、ひとつの「説」にすぎませんよね? なぜ出典を明示しないのですか? またそれを「事実」として紹介する前に、複数の資料にあたって、信憑性を吟味する作業をされたのでしょうか? 等、突っ込みどころが満載なあたり、やはり島荘だよなあw まあ、日暮氏の公正な文章が、その前に置かれているので、比較しながら、いかにも「作家」らしい主観的エッセイとして、おおらかに楽しめばいいのでしょうがね。 |
No.58 | 10点 | ビッグ・ボウの殺人 イズレイル・ザングウィル |
(2011/12/27 19:41登録) 「その十二月初めの忘れがたい朝、目を覚ますと、ロンドンは凍えるような薄墨色の霧に包まれていた」と始まる、この短めの長編は、1891年(『ストランド』誌にホームズものの読み切り連載がスタートした年)に、夕刊紙 London's evening star newspaper に連載され、翌年、単行本化された、ジャーナリスト作家ザングウィルによる、探偵小説パロディの古典です。 ボウ地区で発生した大事件(ビッグ・ミステリ)――密室殺人の謎解きをめぐって、新聞紙上で侃々諤々の投書バトルが繰り広げられるくだりは、何回読んでも面白い。 犯人は猿だろ・・・いや窓ガラスをこう、はずしてだな・・・じつはドアの陰にパッと隠れて・・・違う、外から磁石で掛け金を・・・(ああ、ネットの書き込みみたいだw)。 事件の真相は、推理ではなく告白形式で開陳されますが、作品の狙いを考えればこれは当然の処理で、ドタバタの果てにその告白を導く段取りが、きちんと出来ています。 メイン・トリックは、密室への心理的なアプローチとして画期的なもの。ただし、具体的なその方法だけを抜き出せば、じつは必然性と蓋然性の低い“密室のための密室”です。 それをカバーしているのが、異様な犯行手段と異様な犯行動機を結合する、“犯人の物語”なのですね。 本書はまた、意外な××トリックの古典でもあるわけですが、筆者としては今回の読み返しで、ガボリオが『ルルージュ事件』で試した犯人視点の採用という手法が、ミスディレクションとしてより積極的に活用されている点に、目が向きました(犯人設定で同一トリックにカテゴライズされる、ポオの前例とは料理法が異なります)。 ただし、場面によって視点を固定化するわけではなく(まだ、そうした近代小説の技法は確立されていない)、作者の恣意で人物の内面を自由に瞥見させる手法なので、厳密なフェア、アンフェアの観点からは、微妙なところではありますが・・・。 いっぽう、風俗描写(被害者がそのリーダー格だったため、当時の労働運動が描かれる)と人物スケッチも味わい深く、時の経過とともに二大トリックの衝撃性は失せても、読み物として再読、三読に耐える、笑える古典としてオススメできます。 探偵小説への皮肉なアプローチという面から、チェーホフの『狩場の悲劇』(1884-85)と合わせて鑑賞するのも一興でしょう。 |
No.57 | 6点 | リーヴェンワース事件 A・K・グリーン |
(2011/12/17 19:46登録) ポオ以降、ドイル以前の長編ミステリを読もうシリーズw 古典中の古典、ガボリオ『ルルージュ事件』(仏)とコリンズ『月長石』(英)を取り上げてきましたが、となると次はこれかな、と。“探偵小説の母”アンナ・カサリン(キャサリン)・グリーンのデビュー作『リーヴェンワース事件』(米)です。 使用テクストは、唯一の完訳(原百代訳)を収めた、東都書房の『世界推理小説大系』第6巻――蔵の中から引っ張り出してきました。 最初に読んだのは・・・いつだっけ? 正直、記憶に無いぞ。つまんなかったこと以外、忘れてるw ま、気を取り直して。 1878年――ドイルの『緋色の研究』に先立つこと10年――に刊行され、アメリカでベストセラーを記録した本作の内容は―― 富豪のリーヴェンワースが、自宅の書斎で、頭に銃弾を受け死亡。状況から、容疑者は、ほぼ屋内の人間にしぼられる。 被害者は、二人の若い姪、派手好きなメェリイと生真面目なエリナーを同居させており、遺産相続に関して伯父から排斥されていたエリナーに、不利な証拠が集中するが、いっぽう邸から一人のメイドが不可解な失踪をとげ、事件は複雑な様相を呈してくる。 逆境のエリナーに心惹かれた、青年弁護士レイモンド(被害者の顧問法律事務所に勤める、本篇の語り手)が、捜査担当のエベネッツア・グライス警部に協力して事件の調査に乗り出すと、新たに疑わしい、外部の人間が浮かんできて・・・ というのが、四部構成をなす本作の、第二部までの荒筋ですが、とりあえず面白いのは、プロットにひねりが利いている、ここまでかなあ。 最後まで犯人の正体を伏せ、現代的な本格長編に近付いている点が評価されもする本作ですが、逆にそのぶん、“本格”としての技術的な未熟さが目につくわけで。前述の“プロットのひねり”にしても、ミスリードが強引すぎる嫌いはあります(『ルルージュ事件』の、無理のないどんでん返しとの対比)。 このあとの、失踪したメイドの行方をめぐる第三部は、あからさまな引き延ばし。第四部の、真犯人のあぶり出しかたに、推理の要素は皆無。 あまりに独りよがりな犯行動機(これを、共感できるものにアレンジして必勝パターンとしたのが、本作を好んでいた横溝正史ならん)は、ある意味、現代のほうがピンとくるものがありますが、伏線が張られていないので説得力には欠けます。 一見、古風な『月長石』は、しかし再読すると、必要なことがきちんと書かれていたことに感心させられるのですが、本作の場合、無駄(しかも大仰)な文章が山ほどあるわりに、肝心なこと(推理のためのデータ等)が書かれていない事実を、読み返しでは再認識させられます。 印象的なのは―― 女性作者にしては、メロドラマの核となる女性キャラが木偶人形でしかないのに対して、探偵役のグライス警部が、妙に(?)キャラ立ちしています。『月長石』のカッフ部長刑事を参考にしたのかな? これでもう少し、ちゃんと推理してくれたらw あと、風俗的な興味では、あれですね、被害者の家で開かれる検死裁判(インクエスト)! 思わず目を疑いましたが、グリーン女史は刑事弁護士の娘で、法律関係の知識がバックグラウンドにあるようなので、そのへんに嘘はないでしょう。19世紀後半アメリカの、オールドファッションな法廷場面は、資料的に貴重かと思います。 採点は、歴史的価値を加味しても、ギリギリの6点。 これは復刊してもねえ・・・。 ミステリの発展史に関心がある向きは、古本を探して読むべし。 |
No.56 | 4点 | 鼓狂言 人形佐七捕物帳 横溝正史 |
(2011/12/06 11:53登録) 師走に読む捕物帳には、格別な風情があるような。 たとえそれが、『鼓狂言』であってもw 春陽文庫の<人形佐七捕物帳全集>中、ある意味、もっとも記憶鮮明な11巻の再読です。収録作は―― 1.初春笑い薬 2.孟宗竹 3.鼓狂言 4.人面瘡若衆 5.非人の仇討ち 6.半分鶴之助 7.嵐の修験者 8.唐草権太 9.夜歩き娘 10.出世競べ三人旅 ぶっちゃけ、出来の悪い作が多いです。謎解きが消化不良だったり、ドラマに救いが無かったり・・・収録作のレヴェルは、ここまでで最低でしょう。 ただ。 可もなし不可もなし、といった水準作が多い巻にくらべると、逆になんじゃこりゃあ、という印象の強さはあるんですよ。 たとえば4。「世にも因果なかたわ者を一堂にあつめて、そのなかから、もっとも奇妙きてれつな因果者に、一等賞として金十両進呈しよう」という催しが事件の契機となり、人面瘡をもつ美少年やら、手足の無い、首と胴だけの女(彼女が殺人の被害者になる)やらがゾロゾロ登場します((-_-;)。 読者サービス用(?)の“お色気”も、完全に18禁というか、目も当てられないエログロが展開して・・・これは佐七全話をとおしてのワースト候補。忘れ難いw 以前、佐七が将軍・徳川家斉と共演する「日食御殿」(第4巻『好色いもり酒』所収)を紹介しましたが、その続編的性格をもつ、表題作の3も、「人面瘡若衆」とは別な意味でとんでもない。 将軍じきじきの依頼で、男子禁制の江戸城大奥へ出頭した佐七は、幽霊騒ぎと毒殺魔の跳梁(この両者の関連は?)を探索するため、なんと前代未聞、大奥での泊りこみを開始します! 将軍と取り決めたタイムリミットは48時間。女の争いの渦中に分け入る佐七にも、やがて犯人の凶手は伸びて・・・ いや~、佐七ひとりならともかく、辰や豆六を連れて乗り込むのは無茶でしょ(もしリライトするなら、お目付け役のお年寄――老婆の意に非ず。奥向きの家政をつかさどる大奥の権威――を登場させて、佐七とのバディものにしたら、面白からん。ツンデレ希望)。事件の背景にある、一年前の部屋子の自害の真相も、ちょっと理解に苦しむシロモノ。設定だけは、抜群に興味深いんだけど・・・この臆面の無いストーリーは、まるでインチキなTV時代劇の特番だよぉ。あ、でも、ドラマ化されたら是非観てみたいw まあ、比較的スンナリ読めて、この巻でオススメと言えるのは、シリーズ恒例の、本物はどっちだヴァリエーション(今回は、美少年をめぐる二人の母親)の6と、女の髪飾りを狙う、奇妙な通り魔騒動が殺人に発展する8――ミステリ的趣向はさておき、人情噺としての決着が美しい、この2篇でしょうか。 しかし、くどいようですが、ダメダメな作品のほうが、はるかにインパクトがあるという、じつになんとも、微妙な巻ではあります。 |
No.55 | 4点 | グルメを料理する十の方法 栗本薫 |
(2011/12/01 16:38登録) 夜な夜な大東京の食の巷を流れ歩く、女ふたり組。私、ことキャリア・ウーマンの鮎川えりか、そして、職業不詳、130キロ以上の巨体に原色のドレスをまとい、リンカーンを乗りまわす、小林アザミ。 「食べる」という一点で結びついたこの親友コンビが、今日も今日とて、イタリア料理店で脅威の食欲を発揮していると―― 店内に居合わせた、有名な美食評論家が、食事の途中になぜか席を立ち、調理場へと入っていき・・・そのまま消失。連れの冴えない小男も、即効性の毒をもられ、その場で死亡するという、一大事件が突発する。 成りゆきから謎を追うことになった二人の前に、増え続ける死者。「さいしょが毒殺、次に絞殺、それから刺殺(・・・)さてさて、グルメを殺すに、いろんな方法があるもんだねえ?」 しかし、そんなアザミさんのうえにも、犯人の魔手は迫り・・・ 雑誌『EQ』1986年11月号に、一挙掲載された長編です。すぐカッパ・ノベルスにも編入されましたが、雑誌で目を通し「あ~あ」と思ったので、当時、そちらには手を出しませんでした。 今回、たまたま古書店で光文社文庫版を見かけ、ま、この際だしねと購入し、再読。 いちおうノン・シリーズではありますが、単に続きが出なかっただけで、これは完全にシリーズもののノリで書かれています。 作者が愛してやまなかった、レックス・スタウトのネロ・ウルフもの、その女性ヴァージョンを意図したとおぼしく(『EQ』はウルフ譚の復権も推進していました)、ウルフとアーチー・グッドウィンならぬ、アザミとえりかのキャラ立ちは強烈。マイナスの要素を集めて(語り手のえりか嬢なんて、食べること以外、男とヤることしか考えてないw)それを愛すべき個性に転じる作劇は、お見事。 でも。 真相を承知して読み返しても、謎解きに、あまりに無理が多すぎるんだよなあ。 そもそも発端となる消失劇が、トリックはもとより、その演出意図が理解不能ですし、投毒の経緯も、読者(と日本の警察)を莫迦にするなレベル。 連続殺人の核となる動機の処理も、ズバリ無神経と言わざるを得ません。せめて伏線を張れよお。犯人が、まるでそういう設定の人物に書けてないじゃん。嗚呼。 というわけで、まったくダメダメなんですが、今回、じつは妙に心に残るものもありました。 それは――奇妙な懐かしさ。 バブルの時代の空気感を、本当にひさしぶりに実感したというか。 「一期(いちご)は夢よ、ただ狂へ」 「そういう時代でありましたよ」 ――うん、幻想のノスタルジーかもしれないけど、たしかにいっとき、筆者はその風を感じていました。 感傷的かな? その酔い心地なりとも、評価しておきたいというのは・・・。 |
No.54 | 6点 | ランドルフ・メイスンと7つの罪 M・D・ポースト |
(2011/11/27 11:21登録) 20世紀初頭、アブナー伯父という、アメリカ版<シャーロック・ホームズのライヴァル>、もとい独立不羈の名探偵を創造し、ミステリ史に名を残すポーストが、1896年に、弁護士活動のかたわら刊行したデビュー作品集です。 ホームズもの読み返しの合間に、マーチン・ヒューイット(アーサー・モリスン)やプリンス・ザレスキー(M・P・シール)に寄り道し、さてアメリカの状況は――と目を向けたら、ああ、これ読んでなかったわ! と浮上してきた一冊(長崎出版の海外ミステリGem Collection 13)。 収録作は―― ①罪体 ②マンハッタンの投機家 ③ウッドフォードの共同出資者 ④ウィリアム・バン・ブルームの過ち ⑤バールを持った男たち ⑥ガルモアの郡保安官 ⑦犯意 絶望的なトラブル(問題)に直面し、助力を求めてきた人々を、弁護士ランドルフ・メイスンが救いだす連作なのですが・・・ メイスンがさずける“解決策”は、一見、あからさまな犯罪行為。 しかしそれは、法律の前では犯罪とは見なしえない不正だった(最後のその説明が、絵解きにあたる)という、著者の職業上の知識・経験を逆用した、なんとも大胆な内容になっています。 うち①②⑤は、雑誌やアンソロジーに既訳があり、目を通していましたが、今回、あらためて通読しました。 殺人と死体処理(“罪体”の完全消滅。作業中、排水口の金属部分を交換させる、芸の細かさがリアル)を示唆し実行させる①の強烈さは記憶鮮明。メイスンのダーティ・ヒーローぶりがきわだちますが・・・これはパイロット版というか、ちと別格。 コン・ゲーム路線といっていいシリーズの性格が打ち出されるのは、オチに落語的な味わいがある(筆者のお気に入りの)②からで、この「マンハッタンの投機家」から登場する、メイスン事務所の事務員パークスが、シリーズを通しての(陰の)キーパーソンになります。 センセーショナルだったろう、法律の抜け道教えます――という“売り”は、畢竟、その時代・地域限定のものであり、ミステリの評価としては、一編一編を見るかぎり(悪夢のような①をのぞき)歴史的価値にとどまると思います。 しかし。 悼尾を飾る⑦で明かされる、シリーズの舞台裏と、船上の鮮やかなラスト・シーンが、本書を連作短編集としてうまく完結させており、その余韻は捨てがたいものがあります。 好評にこたえてか、このあと第二短編集と、そして(主人公がもはや“悪徳”弁護士ではなくなっている由の)第三短編集まで出版されていますが・・・蛇足のような気がするなあ。 ランドルフ・メイスンという(シャーロック・ホームズとはまったく異質の)シリーズ・キャラクターを、連作でここまで使い切ってしまったら、あとは出がらしではないかしらん。 あ、でもでも、続きを訳してくだされば、必ず買いますよ、各出版社さま。なのでヨロシクw |
No.53 | 10点 | 月長石 ウィルキー・コリンズ |
(2011/11/15 12:09登録) 月長石(ムーン・ストーン)――それは、持ち主に災厄をもたらすという、インド由来の大粒ダイヤモンド。その紛失をめぐって、イギリスの貴族ヴェリンダー家で引き起こされた騒動が一段落してから、二年が経った。 「このダイヤモンドの事件では(・・・)罪もない人たちが、すでにあらぬ疑いをうけてきている。後々の人たちが頼りにできるように、はっきりしたことを書きのこしておかないと、この先どんな濡れ衣をきせられる人が出るかもわからない。ぼくたち一族にかかわるこの奇妙な事件のことは、是が非でも書いておかなくちゃならないよ」 ヴェリンダー家の長姉の息子、フランクリン・ブレークの呼びかけで、当時、事件に関係した面々が、リレー式に手記を書き継いでいく。執筆にあたって課せられた「個人的な経験の範囲で、しかも、それ以上にはわたらないように」(執筆時に判明している“その後のこと”を書くのは禁止)というルールを守りながら・・・ 1868年に週刊文芸誌 All the Year Round (ディケンズ主催)に連載され、同年、三巻本として出版された大作。 読むのは、今回が三回目になります。 初読は中学生のとき。文庫にして800ページ近い分量をもてあまし、全然先に進まないよ、長いわ~、と嘆き、明かされる○○○ネタに脱力。 再読したのは、社会人になってから。友人数名との読書会で、たまたま課題作の一冊になったため手に取り――評価を改めました。たしかに長いし、素材の古風さ(東洋の怪しい宝石の因果噺)に鼻白むけど、良くできたプロットだわ、これ。 真相を承知して読み返すと、人物の言動を含めてエピソードのひとつひとつが、正確に計算されて配置されていることがわかります。科学的に微妙な○○○ネタそのものは、もはやギャグみたいなものですが、それを×××即犯人という趣向と結びつけ、さらにその趣向をフェアに成立させるため、小説本体に巧妙な前提条件を用意している点に、ミステリとしての創意工夫を見――我、誤まてりと思い返したわけです。 それからまた年月が流れ・・・ 三読目の今回が、一番、素直に楽しめた気がします。 ポオ直系と言っていい、機械的なプロット構成にもかかわらず、駒として配置されたキャラクターが生き生きと立ち上がることで(コリンズには、そのためのユーモアという大きな武器があります)、その人工性を払拭していくのですね。 ヴェリンダー家の老執事ベタレッジとロンドン警視庁のカッフ部長刑事の造型は、見事と言うしかありませんし、陰のヒロインと言うべき、メイドのロザンナ・スピアマンの悲しい肖像は胸を打ちます。ロザンナの友人が、後半、ある作中キャラクターを前にして「ああ、ロザンナ、あんた、こんな男のどこがよかったのよ?」と呟く場面が忘れ難い。 ポオ以降、ドイル以前の長編であり、現代的な“本格”の基準ではかることは出来ませんが、凝らされたミスリードの技巧といい、フェアな構成といい、厚みのある人物像といい、ガボリオの『ルルージュ事件』と並ぶ、堂々たる古典の雄篇です。 本作を手にして、ダルい、つまんねー、勘弁して~、という感想をもたれる向きもあることは、想像に難くありません。 でも。 できればそんなかたも、本を手元に置いて、筆者のように10年、20年経ったのち、あらためて読み返してみると、また違った感想をもてると思います。そうしたカタチの再読を、心からお勧めします。 その年の話題をさらうような、尖鋭的な新作のあらかたが姿を消していっても・・・本書は依然、静かに読み継がれていくでしょう。 不易の作です。 そう、作中の、黄色(イエロー)ダイヤモンドの輝きが永遠なように。 (追記)その後、コリンズの『白衣の女』を初めて読み、そちらも大いに楽しんだわけですが(くわしくは同書のレヴューをご参照ください)、両作の面白さの要素は異なり、その違いを考えたとき、『月長石』はやはり「本格」というジャンルに置くことがふさわしいと判断し、ジャンル投票しました(2012・11・14)。 |
No.52 | 5点 | 死はやさしく奪う 栗本薫 |
(2011/11/01 00:13登録) 『行き止まりの挽歌』と『キャバレー』の作中キャラがゲスト出演する本作は、昭和61年(1986)初頭に角川文庫で書き下ろされ(この年、角川春樹事務所創立10周年記念作品として『キャバレー』が映画化されることになっており、それに合わせた戦略だったはず)、のちにカドカワ・ノベルズにも編入されました。 今回、埃を払って一読したのはオリジナルの文庫版で、じつに25年におよぶ“積ん読”本の消化です。 タイトルは、作中で効果的に使われている、夭逝したジャズ・シンガー、セアラ・プレストンの The death takes love off so softly から採られていますが――ちょっと調べたかぎりでは、その歌手も曲名も発見できず、それ自体、作者の創作のように思われます(情報をお持ちのかたがいらっしゃれば、掲示板でご教示いただければ幸いです)。 気鋭のサックス奏者・金井恭平の仕事場へ、刑事がやって来る。友人の新藤浩二・麗子夫妻が不可解な失踪をとげたのだという。何の心当たりも無い金井だったが・・・帰宅したマンションで何者かに殴り倒される。 電話のベルで目覚めると、 「恭平――あのひとを、とめて・・・」 切迫した一言で切れた、その電話の主は、麗子だった。十五年間、手ひとつ握ることなく恋し続けてきた女の声を、聞き間違えるわけもない。 やがて彼にもたらされたのは、夜明けの自動車道で中央分離帯に乗り上げ、大破、炎上したポルシェの車中から、新藤夫妻の黒こげの死体が見つかったという知らせだった。暴力団がらみのトラブルに巻き込まれていたらしい二人に、いったい何が起きたのか? 真相を突き止めてやる――決意して動き出した恭平の前に、新たな死者が・・・ いや~、困った。 いや面白いんですよ、この小説は。情に訴える力と読ませるテクニックは、半端じゃない。レイモンド・チャンドラーとミッキー・スピレインが交錯したような終盤の演出は、『行き止まりの挽歌』『キャバレー』と続いて来た、栗本流ハードボイルド路線の到達点といっていいでしょう。くわえてその三作の中では、もっともストレートに“ミステリ”している。 が。おいッ! 栗本薫は、江戸川乱歩賞作家でありますよ。にして、この支離滅裂な謎解きは何だぁ! 犯人は、主人公に事件に関与されたらマズかった、と。じゃ、なんでわざわざ××でちょっかいを掛けたりしたの? それに本当に邪魔だったのなら、頭を殴った夜に、なぜそのまま彼を殺さなかったの? 鍵のかかっていた金井の部屋に、犯人はどうやって侵入したかがなぜ問題にされないのかな? あとさあ、どう考えても、かなりのスピードで走っている車から飛び出して、犯人が無事で済むとは思えないんですけど・・・ 執筆前にプロットを作らないと公言していた栗本薫は、書きながら考え、小説そのものの勢いにまかせて解決をつける、(E・A・ポオとは対極の)天才肌の作家でした。 その方法論は、鮮やかなシーンの創出に結実するも、構造の美しさや細部の整合性に欠けがちという弱点をともないます。 本当なら、第一稿を書きあげたあとで客観的に見直し、修正すべきところを修正したうえで、決定稿とすべきなのです。 あるいは、デビュー当初はなされていたかもしれない、その作業が、あきらかに軽視され、書きっぱなしになっていく。 面白ければいいじゃん、と開き直って、推敲作業の努力を放棄したことが、この稀代のストーリーテラーの零落の一因か、と、改めてそんなことを感じさせられる作ではありました。 |
No.51 | 7点 | プリンス・ザレスキーの事件簿 M・P・シール |
(2011/10/28 17:22登録) エドガー・アラン・ポオという天才は、作品の効果を考え、文体を使い分けることで、幅広い傑作をものしました。 「アッシャー家の崩壊」に代表される怪奇幻想系の作には、それにふさわしい(幻想のリアリティを維持するための)ケレン味ある細密な文章を、デュパンもの三部作に代表される謎解き系の作には、基本、平明な文章を採用しています。 ではもし、デュパン譚が、「アッシャー家」のものものしい文体で書かれたらどうなるか? プリンス・ザレスキーのシリーズは、筆者にはまるで、そんな文芸上の実験の成果に思えます。率直な感想を云わせてもらえば――読みづらいわあ、勘弁してw 30年ぶりに手に取った本書(創元推理文庫の<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>第二期分として1981年に刊行)は、当時の印象をくつがえすことなく、難物でした。 でも。 1895年、いきなり三つの短編を収めた書き下ろし作品集 Prince Zaleski の主人公として登場した、引きこもりの探偵王子ザレスキーは、推理小説史上初の“安楽椅子探偵”のスペシャリストです。そして本書には、その記念すべき三作と、それから五十年後に執筆されたという続編「プリンス・ザレスキー再び」、そしてシールのもう一人のシリーズ・キャラクター、カミングス・キング・モンク譚の三作、そして単発ものの「推理の一問題」、計八篇がまとめられています。 リーダビリティだけとれば、後年の作のほうが上です。 が、良くも悪くも、最初の三つに尽きるんですよねえ・・・ 先に筆者は、ポオに関して、幻想のリアルを維持するため、戦略的に細密な文章を選択した旨を指摘しました。 ザレスキー譚の初期三作の場合、名門貴族の変死の夜に人魂(?)が目撃される「オーヴンの一族」にしても、高価な宝石の盗難と返却(?)が繰り返される「エドマンズベリー僧院の宝石」にしても、ヨーロッパ各国での8,000人にのぼる死の連鎖が描かれる「S・S」(清涼院流水かよ!)にしても、その真相は決して超自然ではありませんが・・・常軌を逸しています。イカれた出来事にリアリティを付与するため、イカれた文体で小説世界を塗りつぶす。その方法論は、ポオの応用にほかなりません。 ですから、さながらロデリック・アッシャー(かの「アッシャー家」の当主です)が探偵役を務める感のある、この三篇、年代的にはアーサー・モリスンのマーチン・ヒューイット譚(『事件簿』をレヴュー済み)とほぼ同時期とはいえ、筆者はどうも“シャーロック・ホームズのライヴァルたち”という気がしません。つつしんで、比類なき“オーギュスト・デュパンのライヴァル”に認定したいと思います。 ぶっちゃけ、肌に合わないんですがw 三作のなかからパーソナル・チョイスをおこなえば――挙がるのは、“動機”が耽美で酩酊感をさそう「オーヴンの一族」かなあ。奇妙な状況、奇妙なトリック、奇妙な手掛りも、美しく(?)まとまっています。 「プリンス・ザレスキー再び」や「推理の一問題」、あるいはカミングス・キング・モンク譚も、クレージーな奇想を軸にはしているのですが、一般受けを意識したような平明な(あくまで初期作との対比ですが)文体が、全体に、作品の不自然さをカヴァーしきれていません。 しいて、そちらからも収穫をあげるとすれば、全然ミステリではないw 議論小説「モンク、『精神の偉大さ』を定義す」でしょう。こと論理展開の面白さでは、M・P・シールの白眉です。 にしても、再読でこんなに疲れたのは久しぶり。 栗本薫でも読み飛ばして、寝よ~っとwww |
No.50 | 6点 | マーチン・ヒューイットの事件簿 アーサー・モリスン |
(2011/10/20 17:32登録) 「最後の事件」で退場したシャーロック・ホームズのあとを受けて、『ストランド』誌に登場した、さながらリリーフ的存在の名探偵、マーチン・ヒューイット。その活躍を十篇収めた、日本オリジナルの作品集です。創元推理文庫の好企画<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>第一期全七巻の、悼尾を飾る一冊でした(1978年刊)。 ただし、ヒューイット譚の開幕篇にして一番人気のエピソード「レントン館盗難事件」は、同文庫の『世界短編傑作集1』に収録済みのため、割愛されています(そちらも、他日レヴューせずばなりますまい)。 ヒューイットものは、良く言えば堅実。でもって、悪く言えば地味。「名探偵」ヒーローの活躍を描く冒険譚、という、ホームズもののコンセプトを踏襲しながらも、人物や背景は、誇張を抑えて写実的です。 たとえば「サミー・クロケットの失踪」というお話は、徒競争の選手が競争路のなかほどまで足跡を残し、空中消失する、言ってみれば不可能犯罪ものなのですが、その解決自体は、大山鳴動鼠一匹というか、なんの飛躍もなくつまらない。でも、作品世界にはマッチしており、また徒競争の不正をめぐる背景にはリアリティが感じられ(ホームズ譚の「名馬シルヴァー・ブレイズ」の、都合良くデフォルメされた“競馬界”との対比)、風俗推理としての興趣は失われていません。 意外性と説得力のバランスという点で、集中のベストは「スタンウェイ・カメオの謎」。宝石盗難事件の真相(「こういうお話」と、そのカラクリを一言で説明できる点でも、「レントン館盗難事件」と双璧)を浮き彫りにするヒューイットの謎解きは、そのロジカルな組み立てにおいて、ホームズ譚のどの傑作をも凌駕します。事前に手掛りを具体的に描写せず、漠然とほのめかすにとどまっているのが、残念、この時代の限界ではありますが。 全体にハッタリに欠けるシリーズのなかにあって、沈没船から消えていた金塊の謎を追う「<ニコウバー>号の金塊事件」(miniさんご推薦)は、そのセッティングがきわだちます。不穏な空気の中、海難事故で沈みゆく船を描く導入部から――手掛りを求めて、アクアラングに身を包み、海底へおもむくヒューイット! 読み返していて、筆者は『水晶のピラミッド』の御手洗潔を想起しましたよ。ひところ、コード型本格への反発からアクティブな探偵像の復権を提唱していた、島田荘司なら、大喜びしそうな作です。ていうか、多分これ、読んでるよね、島荘。 とりあえずクラシック・ミステリ・ファンなら――ないし英国ミステリのファンなら、目を通しておいて損の無い一冊です。「レントン館」が入っていれば、7点つけたんだけどなあ・・・。 |
No.49 | 8点 | キャバレー 栗本薫 |
(2011/10/12 15:47登録) プロのジャズマンを目指して、大学の仲間たちから飛び出し、場末のキャバレーで実戦をつむ、サックス奏者・矢代俊一。 そんな俊一に「LEFT ALONE」を何度もリクエストする、店の常連客でヤクザ社会の実力者・滝川。 緊張感を孕んだ二人の不思議な関係は、やがて友情へと変わっていくが、俊一の才能が波紋となり、それはヤクザ同士の抗争へとエスカレートしていく。 ギリギリの土壇場で、滝川が迫られた決断とは・・・? 昭和58年(1983年)作。今回が初読です。 ブック・ガイド『本格ミステリ・フラッシュバック』(東京創元社)の、栗本薫の紹介コメントのなかでは「映画・舞台化もされたハードボイルド」(千街晶之)としてミステリのくくりに入れられていますが、“ハードボイルド”の解釈は十人十色としても(そのへん、私自身も、今後、ハメットやチャンドラーを読み返しながら、おいおい考えていきます)これはミステリではないよなあ。 でも。 ミュージシャンの成長小説のベースに、モチーフとしてヤクザ映画の世界観を取り込んだ効果は、見事なものです。 後年の、歯止めが利かなくなった栗本作品と違って、あくまで“男の友情の物語”に踏みとどまっているのも良し。 個人的には、ヤクザの滝川の心情吐露はウエットにすぎ、主人公との対比の意味でも、そこは“言わぬは言うにまさる”書き方、つまりハードボイルド・タッチで決めて欲しかった気がしますが・・・それをやったら栗本薫じゃないしなあw あと、クライマックスでダイ○マイ○を使うんだったら、伏線張っとけよお、という突っ込みは、いちおう入れておきます。ミステリ作家なんだからさあw で。 これはマジなコメントですが、もし、小説を書いて、そのなかで音楽を表現したいと考えている人がいたら、本書はマストです。音のうねり、その変化を、キャラクターの内面描写で感じさせるテクニックは素晴らしく、格好のお手本になると思います。 点数は、本サイトで「これはミステリではない」ものを(参考作品として)取り上げる、若干のためらいから8点にとどめますが、本書はおそらく、作者のおびただしい小説群のなかでも、最上ランクに属する一篇です。 感動しちゃったしね。読んで良かったです、ハイ。 |
No.48 | 7点 | 小倉百人一首 人形佐七捕物帳 横溝正史 |
(2011/10/08 10:41登録) 春陽文庫の<人形佐七捕物帳全集>も、いよいよ二桁に突入の第10巻です。収録作は―― 1.小倉百人一首 2.紅梅屋敷 3.彫物師の娘 4.括り猿の秘密 5.睡り鈴之助 6.ふたり後家 7.三日月おせん 8.狸ばやし 9.お玉が池 10.若衆かつら 以前、このシリーズをアトランダムに読んだときは、きわだった印象の無い巻と思ったのですが、読み返してみると、たしかに傑出した作は無いものの、意外に読み物として楽しめる作が目につき、前巻(『女刺青師』)や前々巻(『三人色若衆』)にくらべると持ち直しています。 集中のベストは、二人のうち本物はどっち? という佐七でおなじみのパターンに、ひねりを利かせた3でしょう。人情噺としても、よくまとまっています。余談ですが、近年の本格ミステリの収穫、三津田信三の『○○の如き○○もの』(さて、何作目でしょう?)、あの発想源はコレではないかしらん。 佐七ファミリーが俳句に凝りだす9(変形のダイイング・メッセージもの・・・かなw)、嫉妬に駆られたお粂の活躍がユニークな2(シリーズ中、屈指のケッサク「離魂病」――第6巻『坊主斬り貞宗』所収――を引き合いに出して、すべて丸く収めてしまうエンディングがグッド)あたりも良いのですが、個人的にピック・アップしておきたいのは5ですね。 「これはいったいどうしたことじゃ。拙者はどうしてこんなところに寝ているのだ」 喧嘩で頭を打たれ意識を失った、非人(士農工商の下の位置づけの、最下層)の鈴之助。 目を覚ますと、急に侍言葉で暴れだした。 それを見ていた女房のお小夜は、涙ながらに言う。 「あなたさまは眠っていられたのでございます。三年のあいだ――」 鈴之助とお小夜が非人の境涯に落ちる原因となった、三年前の仕組まれた心中未遂事件の謎を、佐七が暴く。 別々に男と女を殺して(この場合、被害者はまだ死にきっていなかったんですけど)、その二人を一緒にしておいて心中に見せかける、という着想が光ります。そう、じつはこれ、松本清張の、あの『点と線』(昭和32~33年)の先取りなんですよ(「睡り鈴之助」は昭和17年の作)。 また、横溝正史の投稿作家時代の、幻の時代小説「三年睡った鈴之助」の改作らしいという点でも、正史ファンなら要チェックです。 設定の問題もあって、なかなか再録は難しいでしょうから、興味をお持ちの向きは、古本をお探しください。 |
No.47 | 9点 | シャーロック・ホームズの回想 アーサー・コナン・ドイル |
(2011/09/27 11:44登録) ホームズ譚のターニング・ポイント(第一期 完)となった『回想』(1893)を、光文社文庫<新訳シャーロック・ホームズ全集>で読み返しました。 前作『冒険』の収録作に続いて、『ストランド』誌に発表された十二篇が収められています。え、十一篇じゃないの? とおっしゃるアナタは鋭い。 連載再開後の二作目「ボール箱」は、不道徳な内容になったと反省したドイルの意向により『回想』から省かれ(米版の同書初版にのみ収録)、1917年になって、ようやく第四短編集『最後の挨拶』に再録されたという、いわくがあり、それを本来の発表順に戻して『回想』で読めるようにしたのが、光文社文庫版なのです。 そして、筆者はこのカタチを支持します。 作品数が、『冒険』と対になって美しい、というのが、まずあります。そして何より、作品を順に並べることで、○を許せなかった男の悲劇である「ボール箱」(眼目は、シリアスな「犯人の物語」ですが、ミステリとしては、××の取り違えの趣向が面白い)のあとに、○を許す感動的なエンディングの「黄色い顔」(ホームズの思い込みが外れる、プレ・アントニイ・バークリーのような側面も興味深い)が来る、対照の妙が素晴らしい、というのが最大の理由です。 『回想』をあるべき姿に復元した、訳者の日暮氏に感謝するゆえんです。 さて。 筆者はホームズ譚の本質を、「名探偵」というヒーローの活躍を描く冒険譚と考えます。小説形式はほぼ一定でも、演出上の力点をどこに置くかで、それが謎解き型になったり、サスペンス型になったり、クライム・ストーリー型(「犯人の物語」に主眼がある場合ですね)に変化すると思うわけです。 そんなホームズものの、では短編ベストは何か? と聞かれたら・・・悩ましい問いではありますが、筆者は謎解き型、つまり「本格」大好き人間なので、答はこうなります。 『回想』の巻頭作だよ。 そう、「名馬シルヴァー・ブレイズ」です(個人的には、「白銀号事件」ないし「銀星号事件」という訳題に愛着がありますが・・・競走馬の名前ですからね、カタカナ表記は妥当でしょう)。 「犯人」の計画の破綻からスタートする事件の組み立て、混在するふたつのベクトルを、それぞれ「足」と「頭」で整理するホームズ像、そして解明のためのデータ提出のうまさ(○をめぐる有名なセリフのやりとり、その前提となるのは別々なふたつのデータなのですが、その最初のデータの出しかたには舌を巻きます)――トリック重視の「黄金時代」を飛び越え、かの都筑道夫が提唱したモダーン・ディテクティヴ・ストーリイの萌芽すらもった、傑作です。 中盤、「グロリア・スコット号」「マスグレイヴ家の儀式書」と、ある意図をもって若き日のホームズの肖像を描出した作者は、「ギリシャ語通訳」でホームズの兄を登場させるという布石を打って、ラストに「最後の事件」を持ってきます。 シリーズの商業的な成功にもかかわらず、文学的な観点からもっと野心的な作品を書きたいと考えたドイルは、過度の思い入れもなく、淡々とホームズ譚を閉幕させました。その素っ気ないくらいの筆致が、逆に、言葉に尽くせないワトスンの無限の悲しみを感じさせる――とまで言うのは、まあ、いくらなんでも贔屓の引き倒しですねw 「赤毛組合」や「まだらの紐」といった、問答無用の代表作を配した『冒険』にくらべれば、やや華に欠けるとは言えますが、極彩色ばかりが全てじゃない。 モノトーンで統一された本書も、殿堂入りたるにふさわしい、永遠の書です。 |
No.46 | 10点 | ルルージュ事件 エミール・ガボリオ |
(2011/09/16 13:26登録) パリ近郊の村で、ひとり暮らしの寡婦(二年まえからその地に住みついた、素性のわからない女)が、自宅で殺害される。 予審判事ダビュロン、警視庁の治安局長ジェヴロール、その部下のルコック刑事らが駆けつけ、捜査がスタートするが、雲をつかむような状況に、ルコックの進言で、名探偵の呼び声高いタバレ老人が招聘されることに。 現場周辺を観察したタバレは、残された些細な痕跡から推理を組み立て、捜査の方向を指し示す。 さらに、思いがけず身近なところから有力情報を得たタバレは、浮上した犯行動機から一気に容疑者を特定し、物証の裏付けも重なって、警察は容疑者の逮捕に踏み切る。 しかし、その尋問を担当するダビュロン予審判事には、容疑者とのあいだに微妙な縁(えにし)があって・・・ ホームズ譚再読の合間に、ちょっとガボリオに寄り道、くらいの気持で手に取ったら――あまりの面白さに呆然としました。 じつは以前、この『ルルージュ事件』(1866)は、田中早苗訳の岩谷書店版を読んで、同じ作者の『ルコック探偵』などに比べて、ストーリーが格段に良いという認識は持っていたのですが、いかんせん抄訳だからなあ、もし完訳で読んだら冗長かもしれん、と思っていたのです。 しかし、国書刊行会の完訳(太田浩一訳)は、予想をはるかに超えるリーダビリティの高さで、途中からはもう、一気呵成でした。 いちおう「世界初の長編ミステリ」と謳われていますが、メアリ・エリザベス・ブラッドンのThe Trail of the Serpent(1861)やチャールズ・フェリックスのThe Notting Hill Mystery(1865)*の存在を考慮すると、即断は禁物です。 ポオを意識した「推理」の要素は、導入部のつかみに過ぎず、本書のミステリ的面白さを支えているのは、告白によるドラマチックな情報の提示をコントロールする、作者のストーリーテリングです。 長編探偵小説としての「型」がまだ無いための(『ルコック探偵』になると、良くも悪くもガボリオなりのフォーミュラが出来上がっていますが)試行錯誤的な回り道が、逆に、事件関係者の肖像に深みをあたえていきます。 作中トリックの扱いは下手で、ほとんど効果をあげていませんが(それをのちに、うまく処理したのがF・W・クロフツ)、プロットのミスリードは成功しています。どんでん返しが、人間心理に照らして無理がなく、そうだよな、そのほうが自然だよ、とストンと胸に落ちる点を、筆者は買っています。 また物語は、神の視点で語られ、作者は視点を自由に移動させていきますが、視点人物のなかに真犯人もいて、それを悟らせないような内面描写が選択されている意味は、大きいと思います。まだトリックとして洗練されてはいませんが、アガサ・クリスティー的な語りくちによる詐術の、萌芽といっていいでしょう。 ディテクティヴ・ストーリーから一転、ノワールに踏み込んだようなクライマックスは迫力に満ち、ご都合主義的な設定が、痛烈な皮肉(犯人の最期の一言を見よ)に反転するのも見事。 「世界初」という歴史的価値だけの骨董品ではありません。 現代ミステリで、たとえばP・D・ジェイムズあたりが好きな読者なら、その驚くほどのモダンさを実感できるはずです。 必読、でしょう。 *チャールズ・フィーリクス作「ノッティング・ヒルの謎」として、2023年に岩波文庫の『英国古典推理小説集』(佐々木徹・編訳)に収録されました。(2023・6・27 注記) |
No.45 | 7点 | 地獄島 栗本薫 |
(2011/09/13 23:30登録) 人気女形・嵐夢之丞の追っかけをしていたのが、本編のヒロイン、浅草奥山のスリ・切支丹お蝶。 大好きな夢さんの失踪に心を痛め、用もないのに、閉鎖された芝居小屋のまわりをうろついていると、ふと行きあって、夢之丞によく似た若い内儀・お時を、かどわかしから救ってやることに。 おりしも江戸では、夢之丞そっくりの美人小町が連続して殺されるという事件が進行していた。 お時に心惹かれ、その身を案じたお蝶は、こっそり彼女を守ってやることを決意するが・・・ 歌舞伎役者を探偵役にした、ユニークな短編連作『吸血鬼 お役者捕物帖』の続編(昭和六十一年刊)。じつは初読時の印象が悪すぎて、なかなか読み返す気にならなかった長編です。 昔に受けた、悪い印象の理由は、大きくいって、ふたつ。 ①捕物から伝奇へ、ストーリーの方向性を根本から変え、シリーズをもとの流れに戻せなくしてしまったこと。 ②どんでん返しが、初期設定を完全に無視したものであること。 純真な青年読者w は、好きな作者に裏切られた想いでいっぱいになったわけです。 でもいま、あらためて、虚心坦懐に向き合ってみると――う~ん、面白いわ、これ。 善と悪、キャラが乱舞し起伏に富んだストーリーを、栗本薫は達意の文章(作中、大時代な表現を多用するので、ヘタと誤解されるかもしれませんが、あくまで作品のトーンに合わせた確信犯)で綴っていきます。 チマチマした謎解きにこだわらず、奔放に想像力を広げられるこちらのほうが、作者の本領だったんだなあ・・・と痛感します。 終盤、舞台を、伊奈の国・平野の沖合“地獄島”に移してのクライマックスは、止まらなくなった作者がオカルト要素までぶちこんでの暴走。 大混乱のなか、何がなんだかわからなくなってしまうものの(ホームズ譚でいえば、「最後の事件」のあとに「空家の冒険」を書いたはずが、ラストでもう一回「最後の事件」をやってしまったような・・・)、それを畳み掛けるような文章でカバーし、ラストは (夢さん、先にゆくよ。きっと、お前と、また会うから) 地獄の底までも追ってゆく。 お蝶はゆっくり、船の渡り板に足をかけた。それが、地獄島との別れであった。 と、決めてみせます。 これから嵐夢之丞シリーズを読まれるという奇特なかたに、老婆心ながら、怠慢な作者にかわって、ひとつだけ忠告するとしたら、実質的な第一作「離魂病の女」(『十二ヶ月 栗本薫バラエティ劇場』所収)は、無視してください。あの設定はナシです。『吸血鬼』と本作を読んだあとに、もし興味があったら“番外編”として目を通し、パラレルワールドの夢さんを楽しんでやってください。 と、但し書きをつけたうえで。 本作は、<お役者捕物帖>というシリーズの世界を維持することには失敗しましたが、その代わり、ヒーローとしての嵐夢之丞を惜しみなく使いきって、単品の伝奇小説としては一級品になっている、と評価しておきます。 |
No.44 | 7点 | モルグ街の殺人・黄金虫 -ポー短編集Ⅱ ミステリ編- エドガー・アラン・ポー |
(2011/09/03 10:18登録) 新潮文庫の新訳(巽孝之・編訳)ポー短編集、その二巻目は、ズバリ<ミステリ編>です。意外にこのコンセプトのポー・アンソロジーは希少なので、これが“定番”となるような内容を期待し・・・ガッカリしました。 収録作は、以下の6篇。 「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」「群衆の人」「おまえが犯人だ」「ホップフロッグ」「黄金虫」 一番の問題は、見てわかるように、デュパンもの第二作「マリー・ロジェの謎」を、外していること。その理由を、巽氏は解説の中で、「現実に起こったメアリ・ロジャース事件を作家自身が解決しようと試行錯誤しながらぶざまに失敗しているためである」と説明しています。 筆者の率直な感想は――阿呆か。 こう書くと、一部の奇特な住人から、次のような声が聞こえてきそうです。 「だけど、おっさんもさあ、マリー・ロジェは退屈とかコメントしてたじゃん」 はい、確かに(『ポオ小説全集3』のレヴュー参照)。 でもですね、<ミステリ編>を謳うのであれば、ポーの最狭義のミステリたるデュパン三部作(謎と論理のエンタテインメントの、ホップ・ステップ・ジャンプ)を押さえるのは、基本のキ。ここで個人の主観はいりません。 常識的に考えて、これに「黄金虫」と「お前が犯人だ」を加え、そののち初めて、ページ数を勘案しての、編者のパーソナル・チョイスが許されるべきでしょう。 「マリー・ロジェ」を省いて、「群衆の人」と「ホップフロッグ」を採ったのが見識だ、という意見(があるとして)に与することは出来ません。 まあ、「群衆の人」に関しては、一ミステリ・ファンとして、収録自体に異議はありませんが(よろしければ、『ポオ小説全集2』のレヴューをご参照ください)、復讐劇の「ホップフロッグ」は・・・どうかなあ。巽氏は結局、これって「モルグ街」と×××××××つながりなんだよね、と、それを云いたかっただけじゃないのかしらん。 で、問題点その二は、訳文。 じつは、本書にまず期待したのが、かつて芦辺拓氏が指摘してミステリ・ファンに知られるようになった、「モルグ街」の旧訳に多く見られる、ある設定上の誤訳(原書房『本格ミステリーを語ろう! 〔海外篇〕』参照)が修正されていることだったのですが、その点、相変わらずでした。 巽先生、このコンセプトで本を編むなら、文学も良いですけど、もう少しミステリ周辺に目配りしましょうよ。 で。 訳文についてのこの先は、畢竟、好みの問題と断っておきますが、現代的に訳そうとした部分が、逆に違和感を感じさせ、裏目に出ている気がしました。 たとえば「モルグ街の殺人」の犯行現場が「中から鍵のかかった密室」だったり(ミステリのテクニカル・タームとしての「密室」が定着するのは、もっとずっとあと)、「盗まれた手紙」で、デュパンが「ライティングデスク」の蓋を開け(19世紀のフランスです)、取り出した手紙を警視総監が「速読」(!)したりすると、筆者は頭を抱えてしまいます。 「お前が犯人だ」で、「グッドフェロウ氏がパーティを展開した区画」という表現が出てきたときには、意味をとりかね、丸谷才一訳を確認しましたよ。するとそちらでは、「グッドフェロウ氏が一行を案内した地域」。これなら誰でもわかります。それにしてもパーティって・・・R.P.G.かよ。 最後に良い点についても触れておくなら、それはもちろん、書誌的なデータが万全であること。 たとえば「盗まれた手紙」。解説で、初出が<ギフト>1845年版であると明示するのは当然として、そのあとカッコして、同書が(1844年9月刊行)であることまでフォローしてくれています。こういう配慮は、本当に有難い。 採点は、失望の大きさから5点以下にしたいのが本音ですが、とりあえず基本的な作品レヴェルの高さと、そうした資料性を買って、不承不承の7点となりました。 |
No.43 | 7点 | 黒猫・アッシャー家の崩壊 -ポー短編集Ⅰ ゴシック編- エドガー・アラン・ポー |
(2011/08/28 15:18登録) 2009年、ポーの生誕200年に合わせて新潮文庫が刊行した、2巻本の傑作選を読んでみることにしました。今回は、<ゴシック編>と銘打たれた、その一冊目です。 この作者については、すでに『ポオ小説全集』全4巻と『ポオ 詩と詩論』(ともに創元推理文庫)のレヴューを済ませています。 しかし、そこでも指摘したように、当該テクストには種々の問題があり、諸手を挙げての推薦は出来ないことと、光文社文庫の“新訳”で読み返しはじめたドイルのホームズ譚が、予想以上のあがりの良さであったことから、ポーの“新訳”にも手を出してみることにしたわけです。 収録作は、以下の6篇。 「黒猫」「赤き死の仮面」「ライジーア」「落とし穴と振り子」「ウィリアム・ウィルソン」「アッシャー家の崩壊」 編訳者は巽孝之。巻末解説を読んでもアカデミックな印象を受けますが、ミステリやホラー畑の人ではなく、アメリカ文学専攻の、ポー研究の第一人者のようですね。なので、きちんとした資料にもとづく年譜をふくめて、資料的な側面は申し分ありません。 ただ訳文は――旧訳にくらべて格段に読みやすいという印象は受けませんでした。もともとモノがポーなので、しかもテーマ的に、私の好きな軽妙なタッチの作品群(「使いきった男」だったり「眼鏡」だったり)ははなからセレクト外なので、誰がどう訳してもドイルほどリーダビリティは無いw 創元版にくらべて、作品が新訳で面目を一新したとは言えないでしょう。 また、解説はアカデミック――と書きましたが、<ゴシック編>を謳いながら、ゴシックとは何か、またそこにおけるポーの位置づけとは、といった記述が無いのは、こちらのような“ジャンル読者”には物足りない。怪奇幻想小説と書いてゴシック・ロマンスとルビを振るあたり、アバウトすぎると思います。 まあ次巻の“ミステリ編”との対比で、ポーのホラーを集めましたよ、くらいに考えておくべきか。とすると、一篇だけスーパーナチュラルの要素が無い「落とし穴と振り子」(これを換骨奪胎したのが、ドイルの「技師の親指」ならん)が浮いてしまうような。 個々の作品のレヴェルの高さは、いまさらコメントする必要もないでしょう。 一般の大衆小説と違って、基本的にポーは、キャラクターに感情移入させる筆法をとりません。 そのため読者は、ホラーであっても、作品と冷静に距離を置いて、共感ではなく理解すること(理解して――心が動く)を求められますが、その努力を惜しまなければ、知的に構成された鮮烈な悪夢という得難い報酬が待っています。 たとえば編中、もっとも知名度が落ちるのは「ライジーア」でしょうが、しかし、これなどポー好みの“美女の死と○○”をあつかって、作者の小説技術を端的に示す出来栄えとなっています。 この一篇は、ラストのセリフこそクライマックス。逆に言えば、クライマックスが即ラスト。そこですべてが完成されるように組み立てられ――そのあとには何も無いのです。一切の余分な説明を排してカーテンが降りる。読者を無限の闇に残したまま・・・ 本書もまた、無条件に推薦できるテクストとは言いかねますが、ポーを語るうえで、押さえておいて損の無い一冊ではあります。 |
No.42 | 10点 | シャーロック・ホームズの冒険 アーサー・コナン・ドイル |
(2011/08/22 13:46登録) 光文社文庫の日暮雅通・個人全訳で読み返すホームズ譚、その第三回は、シリーズ(そして作者)を一気にブレイクさせたファースト短編集です。創刊されたばかりの新雑誌『ストランド』の1891年7月号から、翌年6月号まで、毎月、読み切り連載された――最初は6篇の契約だったのが、圧倒的な好評に、急遽あと6篇の追加が決定された――黄金の1ダースです。 日暮氏の訳文は、たとえば旧来“ジプシー”と訳されていた人々が“ロマ”とされているように、アップツーデートなもので、古典らしい格調には欠けますが、読みやすさは一品。19世紀のお話が、新作の時代小説のように読めます(平易な注釈が巻末にまとめられているのも良し)。 中味のほうは――けっして緻密に構想された作品群ではなく、ある意味、ストーリーテラーが馬車馬のように商売に徹した成果なわけですが、縛られた形式のなかで変化を考えていくことで、イマジネーションと話術が高まり、ドイルの探偵作家としてのセンスが開花していきます。 巻頭の「ボヘミアの醜聞〔スキャンダル〕」を見てみましょう。 ポオの「盗まれた手紙」を換骨奪胎した、貴重な写真の奪回作戦。 ゴージャスな依頼人、ヒーローV.S.ヒロイン、加速するストーリー、変装とアクション、初回にして予想外の決着・・・いや面白い。こりゃ人気がでるわけですわ。 「きみならどうやって探すんだい?」 「探したりはしない」 「じゃあ、どうするんだ?」 「本人に場所を教えさせるのさ」 これこれ、このやり取り。この謎かけからクライマックスへ一気にもっていくのがドイル流。隠し場所は(ちょっと分かりにくい場所なら)別にどこでもいいw 「魅力的な謎」と「意外な解決」のあいだ、小説の構造上、どうしてもダレがちなところをどう面白くつなぐか、その技術において、ドイルは卓越しています。 つまるところ、ポオのデュパンもので中核に置かれていた推論行程を継承せず、探偵の身体的活動、“冒険”の興味で引っ張るわけですが、先の引用でわかるように、ポイントでは知的興奮を喚起することを忘れません。 「すると道を訊ねたりしたのはあの男を見るためだったのかい」 「あいつを見るためじゃない」 「じゃあ、何を?」 「あいつのズボンの膝さ」(「赤毛組合」) 「でもね、ようやく解決への鍵をつかんだんだ」 「その鍵はどこにあるんだい?」 「浴室さ」(「唇のねじれた男」) とはいえ一篇一篇を取り上げればムラもありますし、あるいは最上の作品といえど、プロットを批判的に分析したら論外となるかもしれません。たとえば――アレはそんなふうに飼育できないの、非科学的じゃん!!! なるほど。でもね、人間がアレに対する生理的嫌悪感を無くさない限り、あのお話は、そのショックと悪夢のようなリアリティを失わず、読み継がれると思うんだよね。 そう、いにしえのお伽話のように。 よくある“完成度が高い”といったレヴェルをはるかに超え、探偵小説の神話的イメージを封じ込めた本書のような作品を評するには、やはりこの一言がふさわしいと思います。 曰く、偉大。 |