home

ミステリの祭典

login
おっさんさんの登録情報
平均点:6.35点 書評数:221件

プロフィール| 書評

No.101 6点 幻想文学入門
アンソロジー(国内編集者)
(2012/12/01 12:55登録)
『怪奇小説精華』『幻想小説神髄』と合わせて全3冊よりなる、ちくま文庫のアンソロジー<世界幻想文学大全>の、本書は解説/評論篇。
このテのジャンルの伝道師としてエネルギッシュに活躍している、東雅夫氏が、内外の――澁澤龍彦や中井英夫、小泉八雲やラヴクラフトなどの――評論やエッセイを選りすぐり、自身の読書遍歴と合わせてガイダンスしていく、濃いガイドブックです(後続の2冊と合わせる意味で、「アンソロジー」に登録しておきます)。

筆者も子供の頃から、お化けや幽霊はもとより、魔人・怪人、仮面・妖怪w のたぐいは好きなほうで、そっち系の本も読んできましたが、興味の中心がミステリに移行したこともあって、闇の輝きに取り込まれる前に、正気にかえってしまいましたw
以下は、そんな、彼岸に行きそこねたミステリ者の戯言です。

先日、本サイトのジャンル設定に関して、微力ながら協力させていただきましたが、内心、ミステリという枠のなかに、部分集合のように「ホラー」や「ファンタジー」があるという図式は、その筋の人には面白くないだろうな、という思いがありました。
なので、本書の編者のコメンタリーを読んでいて、

 「SF」や「本格ミステリ」「ライトノベル」などを広義の幻想文学と捉える見方もありますが、初心者が混乱をきたすといけないので本書では扱いません。

と言う文章に接し、ああ、あちらサイドでは「幻想文学」がいちばん大きいジャンルなのね、と苦笑しました。
ただ、東さんに喧嘩を売るわけではありませんが、「幻想文学」なる大仰なジャンル名、マイナーさから来る文学コンプレックスの裏返しのようで、筆者にはなじめないんだよなあ。
「ホラー(怪奇)とファンタジー(幻想)の両極を有する楕円構造を成している」(「編者敬白」)と言われても、じゃあ、「幻想文学」のなかに、別に「幻想小説」というサブジャンルがあるの? と突っ込みたくなってしまう。

本書に対するミステリ者としての一番の不満は、欧米怪談を原書で渉猟していた江戸川乱歩の、無類に面白い「怪談入門」が収録されていないこと。割愛した事情を編者は言いわけしていますが、このエッセイが創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』(全5巻)につながっていく流れを考えても、これでは画竜点晴を欠くと言わざるをえません。
また『怪奇小説傑作集』以降のモダンな展開を補足する試みとしては、ハヤカワ文庫NVの『幻想と怪奇』(全3巻)が特筆されますが、その編者でもある仁賀克雄氏の、ホラー紹介者としての業績をまったく無視しているのはいかがなものか。仁賀氏の、翻訳者としての仕事ぶりに問題があるのであれば、それはそれできちんと指摘しておけばいい。「臭いものに蓋」あつかいには賛成できません。

とまあ、かなり否定的なことも書きましたが、収録作品自体は、さすがに勉強になるものが多かったです。
白眉は、H・P・ラヴクラフトの「文学と超自然的恐怖」。今回はじめて、この有名な怪奇小説通史の完訳に目を通し、その総花的ではない批判精神に、刺激されること大でした。欠点を指摘されている作品も含めて、自分の目で現物にあたり、論の是非を確かめてみたくなる、そんな文章です。これだけでも、定価分の価値は充分あります。

ところで。
本書は初動が好調で、早くも重版されたようですが(怪談専門誌『幽』のTwitter情報)・・・巻末の「世界幻想文学年表」で、ディクスン・カーの『火刑法廷』(1937)が1969年の作品扱いされているミスは、修正されているのかな?


No.100 6点 生ける宝冠
S・A・ドゥーセ
(2012/11/22 15:48登録)
『スミルノ博士の日記』で、日本のクラシック・ミステリ・ファンに記憶される、スウェーデンのコナン・ドイルことS・A・ドゥーセが、1913年に発表したファースト長編です。
2年前、本サイトの書評を『スミルノ博士』でスタートさせた筆者としては、きりの良い書評の100冊目に、なんとかこれを取り上げたく・・・高い買い物をしてしまいましたw

原題は Stilettkaeppen(ウムラウト記号は代用表記。直訳すると「仕込杖」)。小酒井不木の(抄)訳で大正14年(1925)に『国民新聞』に連載され、翌年に博文館の<探偵傑作叢書>の一冊として刊行されましたが、今回、筆者が使用したテクストは、同じ博文館から昭和15年(1940)に出された<名作探偵>版です。

青年弁護士レオ・カリングの活躍を、「私」こと、友人の新聞記者トルネが記録する、ホームズ譚形式の物語。
「私」とカリングが招かれた、銀行家のホーム・パーティの席で話題にのぼったのは、やはり客人の一人である宝石商の店の、密室状況下のショーウインドウから、ダイヤの宝冠が消失した怪事件。
「是非この事件を僕の手で解決して見たいと思います」と探偵宣言して、帰路、現場検証にのぞんだカリングは、たちまち盗難のトリックを見破り容疑者の目星をつけたようだったが、カリングたちが訪れる直前に、くだんの容疑者は何者かに殺害される。
「私」を襲う怪漢、ストックホルムきっての名刑事の介入――しかしそれもまだ、目まぐるしい展開を見せる事件の、序の口にすぎなかった。
やがて、宝石商主催のパーティで、新たな惨劇が発生する。動機と機会をそなえた唯一の人物は、他ならぬレオ・カリングその人だった・・・

ホームズ譚と同等に、ルブランのルパンものの影響も強く、とにかく、あれもこれもと欲張り過ぎw
恋あり冒険あり、普通ならそうしたパートはワトスン役が一手に引き受けるのに、本作では、トルネとカリング双方が、担当してしまっています。良く言えばサービス満点ですが、悪く言えば散漫。
それでも、鮮明な輪郭をもたない、不定形な事件の連鎖が、まき散らされた伏線を回収しながら、本格ミステリとして収斂していく――あくまで、ゲームのルールが整備された“黄金時代”以前の水準とはいえ――後半の展開は悪くありません。
ああ、甲賀三郎のアレの元ネタは『生ける宝冠』であったかw

プロット/トリックの創意工夫という点で、1917年の第四長編『スミルノ博士の日記』が印象深いのは確かですが、あれは必ずしもドゥーセの代表作とは言い難い面があり(たとえば『野獣死すべし』だけ読んでも、ニコラス・ブレイクという作家はわからないようなもの)、もしこれからドゥーセを読んでみようという奇特な向きがあれば、できれば本作か第二長編の『夜の冒険』に、先に目を通しておくのが吉ですね。

筆者は未見ですが、1992年に本の友社から出版された、<小酒井不木探偵小説全集>の『第6巻 翻訳集<1>』には『スミルノ博士の日記』と『夜の冒険』が、『第7巻 翻訳集<2>』には本作と第三長編の『スペードのキング』が収録されているようです。もしご利用の図書館で読めるようでしたら、是非どうぞ(大枚はたいて買う必要は、おそらく無いですw)。


No.99 6点 思考機械の事件簿Ⅲ
ジャック・フットレル
(2012/11/09 12:15登録)
創元推理文庫のシリーズ企画<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>が、いちおうの終了を見てからじつに20年近くたった、1998年に刊行された第Ⅲ集です。

収録作は―― ①消えた女優 ②ロズウェルのティアラ ③緑の目の怪物 ④タクシーの相客 ⑤絵葉書の謎 ⑥壊れたブレスレット ⑦金の皿盗難事件

①~⑥は、1906年から翌07年にかけて、アメリカの全国紙Sunday Magazine に発表された短編(うち最初の3編が、第2短編集The Thinking Machine on the Case 収録作品)からの拾遺コレクションですが、目玉はやはり、フットレルのファースト長編⑦ということになるでしょう。

1906年、Saturday Evening Post に連載されたこの短めの長編(翻訳の原稿枚数は、300枚程度)、ヴァン・ドゥーゼン教授が登場するのは最終の「第三部 思考機械」のみですが(執筆されたのは、かの「十三号独房の問題」より先だったといいます)、その構成は作品効果と密接に結びついています。こんなお話。

「第一部 盗賊と西部の娘」
仮面舞踏会が催されているランドルフ邸から、高価な金の皿が盗まれる。犯人は、「盗賊」に扮した男と「西部娘」。二人は車で逃走し、追手を振り切ることに成功する。この事件の取材を進める、新聞記者ハッチの前に、容疑者として浮かんできたのは、大学時代の友人ディックだったが・・・

「第二部 娘と金の皿」
「西部娘」ドロシーは、「盗賊」の正体が恋人ディックと信じて、行きがかりから協力したものの、ことの重大さを認識するや行動をわかち、独断で、皿を持ち主に送り返す。ところが翌日顔を合わせたディックは、ある事情から、自分は約束の仮面舞踏会には行っていないと主張。本当なのか? ならばいったい、あの「盗賊」は誰だったのか?
やがてランドルフ邸から、再び金の皿が盗み出されるという事態が発生し・・・

犯行の一部始終が読者に開陳されているようでいて、作者の叙述の工夫(くだんの男は、あくまで「盗賊」としか表記されない)から、犯人の正体は謎に包まれているわけです。
このへんのミステリ・センスは、じつにポスト黄金期のトリッキーなクライム/サスペンスもの(アイラ・レヴィンの『死の接吻』あたりを想起されよ)に通じるものがあり、感心させられます。
そして読者の困惑が頂点に達したとき、満を持しての名探偵登場とあいなるわけですが・・・そこから先は、順当に古めかしいw 推理は一方的な押しつけだし、犯人の設定、その人物の行動原理にも説得力はありません。一篇のなかに、これほど近代性と前近代性が同居しているミステリも珍しい。

でも、あらためて考えてみると、名探偵もののフォーマットのなかでさまざまな実験を繰り返し(「十三号独房の問題」や「呪いの鉦(かね)」のような成功例はあるけれど、残念な結果も多い)、円熟を迎える前に逝ったフットレルの“はじめの一歩”としては、いかにもな作と言えるかもしれません。

構成と語り(騙り)のコンビネーション芸を発展させたのが、⑥(先日、曾祖父の遺品のブレスレットを、強盗に狙われたばかりという女性が、しかし別件で思考機械を訪れる。その相談ごととは・・・?)でしょう。シリーズの総括的な巻末解説で、戸川安宣氏が指摘されているように、この年代、フットレルがここまでミステリにおける“叙述”の問題を自覚していたことは驚異です。そして、結末の付けかたは、別な意味で驚異です。なんという、投げっぱなしジャーマン(この表現、プロレス・ファンでないと通じませんね ^^;)。事件の背景を完全無視だもんなあ!!!

そんな、あくまでマニア向け、コレクターズ・アイテムといった性質の強い作品集である本書のなかにあって、広く一般に推薦できる佳品は③でしょう。「緑の目の怪物」というタイトルが大仰で損をしていますが(原題の“The Green-Eyed Monster”は、英語の慣用句で“嫉妬”のこと)最近、妻の行動がおかしいという夫の訴えに、思考機械が調査を開始する、kanamori さんがご書評で指摘されているような“日常の謎”ものですw
作者が意識したのは、ホームズ譚の「黄色い顔」(『回想』所収)あたりでしょうか。こちらもまた、ヒューマニティに富む幕切れが待っています。
思考機械とヒューマニティ? 水と油のようにも思えますが、長編⑦のエンディングで美女に抱きつかれ、「やめてください。戸惑ってどうしていいかわからなくなるではありませんか」と大慌てしているところを見ても、まったくの朴念仁ではないのです、この教授。

テクニカルな実験の合間に、そうしたキャラの落差を楽しめるお話を、もっと書いてほしかったなあ。
もし、タイタニックの悲劇なかりせば・・・フットレルは、果たしてどんな円熟を見せてくれたのでしょうか?


No.98 9点 大下宇陀児探偵小説選Ⅱ
大下宇陀児
(2012/10/27 13:37登録)
横井司氏の編集・解題になる選集の二巻目です。

●創作篇
①金口の巻煙草(大14、新青年)②三時間の悪魔(昭9、改造)③嘘つきアパート(昭11、改造)④鉄の舌(昭12、新青年)⑤悪女(昭12、サンデー毎日)⑥親友(昭13、週刊朝日)⑦欠伸する悪魔(昭14、新青年)⑧祖母(昭14、サンデー毎日)⑨宇宙線の情熱(昭15、オール読物)

●評論・随筆篇
①処女作の思出②探偵読本(巻一 第二課)③<「魔人」論争>(一方の当事者である、甲賀三郎の文章も収録)④ジャガ芋の弁⑤<馬の角論争>(甲賀三郎の文章を併録)⑥探偵小説不自然論⑦ルパンと探偵小説的よさ⑧鉄骨のはなし⑨処女作の思ひ出⑩作中人物⑪後記(『推理小説叢書2/鉄の舌』)⑫探偵小説の目やす⑬個性と探偵小説⑭自分を追想する―馬の角の回想⑮論なき理論

前巻が、『蛭川博士』を中心に、戦前の宇陀児が既成の探偵小説/スリラーの文法にのっとって書きあげた作品のセレクトだったのに対し、こちらは同時期の宇陀児が、枠組に飽き足らずさまざまな試みを模索したなかでの成果から、「プロットと語り口(ナラティブ)の魅力」(横井司)に着目したセレクションになっています。
くわえて本書の後半には、甲賀三郎や木々高太郎ほど自論を執拗に展開しなかった宇陀児の、しかし真摯で革新的な探偵小説観(「古い形式を破り、何かの新機軸を出そうと努力するところに、進歩が約束される」評論・随筆篇③)を伝える多彩な文章もまとめられており、まさにイタセリツクセリ。

目玉となる長編の④は、大学時代、古本屋で貸本あがりの汚いテクストを入手、惹きこまれるように一読して以来の、大下宇陀児のマイ・フェイヴァリット。こんなお話です。

もと代議士の父をもつ下斗米悌一は、マジメだけが取柄の浪人生。想いを寄せる喫茶店のマドンナにも、気持を打ち明けられないでいる。
受験四回目にして、ようやく弟(こちらは成績優秀)と同時に一高に合格するが、父の破産で自分は進学をあきらめ、家計を助けるため広告会社に就職する。
社長の信頼を得て頭角を現す悌一だったが・・・不運なめぐり合わせから、殺人容疑者として逮捕される羽目に。繰り返される執拗な尋問。しかし彼には、絶対に口をつぐんでいなければならない秘密があったのだ。
そんな悌一の無実を信じて、探偵役として乗り出したのは意外にも・・・

この『鉄の舌』、マイ・フェイヴァリットと書きましたが、じつは長いこと大変な誤解をしていたことに、今回、気づかされました。ずっと、こんなふうに思ってたんですね。
犯人は愚かだし、解決も安直、探偵小説としては弱すぎるけど、人物描写がうまく読み物として忘れ難い・・・
いや~、浅墓でした。
作中の殺人は、しっかりした論理に裏づけられた計画犯罪ではありません。探偵役もまた、やむにやまれず志願した一般人で、特段の推理属性は付与されていません。平凡人と平凡人のお話です。
にもかかわらず、その「解決」が収束感をあたえ、ストーリーが落ち着くところに落ち着いた(当初、作者が続編を意図していたゆえの、ラストの“引き”をのぞけば)という印象をあたえるのは、小説全体の辻褄がぴったり合うよう、キチンとはじめから計算されているからなんです。
事件発生までにじっくり描かれる、悌一の周囲のさまざまなエピソードにすべて意味があったわけで、それはつまり、構成力の勝利。でありながら、人物や文章のうまさが、その緊密な人工性を、一見、そうとは思わせない。その意味では、コリンズの『月長石』などに通じるうまさといっていいでしょう。
大下作品のプロットに注目すべしという、横井氏の指摘はもっともで、⑤のような、他でも読める(創元推理文庫『日本探偵小説全集3』収録)代表短編をわざわざ再録したのも、本書では、心理描写の奥にある、宇陀児の探偵小説作法を浮きぼりにする効果があり、大正解だと思います。
初読の作品では、⑥のラストのセリフに泣かされましたし(これも、そのセリフから逆算してストーリーを組み立てているうまさが光ります)、“日常の謎”をあつかった⑧には、北村薫の遥かな先蹤を感じ、その先見性に感服しました。

戦後の宇陀児の仕事は、それはそれで立派なものですが、宇陀児を宇陀児たらしめている清新な魅力とエンターテイナーぶりが際立つ、これら戦前期の精華を、筆者はこよなく愛すものです。
収録作品トータルの出来に、編集の妙、解説の出来を加えれば、この採点もけっして過褒ではありません。

(付記)長編『鉄の舌』があるため、「短編集(分類不能)」とするわけにはいきませんでしたw (2012・11・13)


No.97 7点 大下宇陀児探偵小説選Ⅰ
大下宇陀児
(2012/10/15 15:15登録)
甲賀三郎をレヴューしている段階で、次は宇陀児に行こうかな、という思いがありました。“戦前派”のなかでは、この人も好きなんですよ。
アイデアに応じて、設定や語りくちを自在に変えていける抜群のエンターテイナーでありながら、妙にそれを恥じて、重苦しいクライム・ノヴェリストを目指してしまった、残念な人ではありますがw
今年、新装なった論創ミステリ叢書が、横井司氏の見事な編集と解題で、宇陀児の二冊組みの傑作選を出してくれたのは、筆者としては渡りに船でした。

本書の収録作は――

●創作篇
①蛭川博士(昭4、週刊朝日)
②風船殺人(昭10、キング)
③蛇寺殺人(昭12、講談倶楽部)
④昆虫男爵(昭13、キング)
●随筆篇
⑤「蛭川博士」について
⑥商売打明け話

①は、この年、作家専業となった宇陀児の出世作。
主人公は、不良グループのリーダー、混血児の桐山ジュアン。
海水浴場に出かけたグループの一人が、いちゃつくカップルを日傘のかげから覗こうとすると・・・あわただしく立ち去り海に消えた人影、あとに残されたのは女の刺殺体。奇しくも殺された女は、不良仲間の一人とつながりがあった・・・
警察の捜査線上に浮かんできたのは、業病を患う“蛭川博士”という怪しげな人物。しかし蛭川邸で、博士とおぼしき惨死体が発見され、事件は新たな局面へ・・・
自身も容疑者と目されながら、心惹かれた娘を助けるため、探偵に乗り出していくジュアン。暗躍する怪人。相次ぐ殺人。不気味な影を落とす蛭川博士は、果たして生きているのか?

ミステリとしての企みは、江戸川乱歩の××のヴァリエーション、忌憚なく言ってしまえば二番煎じで、その昔に読んだときは、それがマイナス要因に思えました。
再読してみると、真犯人の隠されたパーソナリティへの着眼(最初の殺人の動機に直結)、その人物が「世間体を糊塗」するため、表面上、○を必要としたというあたりに、フォロワーとしての宇陀児の工夫とその時代の“空気”が感じられて面白かったです。
トリック的な意味では、やはり海水浴場のソレが飛びぬけて印象深い。以前、釈然としなかった部分(そのときのテクストは、戦後まもなくの美和書房版)が、巻末の解題に再録された、初出時の挿絵を見るとスッキリ解消しました。
ただ、そのあとじょじょに“蛭川博士”が怪人の様相を呈していく展開には無理がありますね。
宇陀児の筆法が、基本的にリアリズムであることとの齟齬が生じています。作中人物の脳内で、どんどん疑惑と妄想が膨らむだけなら問題は無い(乱歩の××がそういう話ですね)のですが、本作では、平行して警察の捜査活動まで細かく描かれているわけで、そうなると“変身術”を使う怪人の存在なんか、通るはずがない。捜査会議で矛盾が指摘され、たちまち疑わしい人物が浮上してしかるべきですよ。
最初の事件に的をしぼって無駄な殺人をはぶき、中編サイズにまとめればいい材料を、なまじストーリーテリングがあるだけに、サービスたっぷり引っ張って、面白さと引き換えに完成度を損ねたというところでしょうか。

②③④は、いずれも犯人探しの懸賞小説として、雑誌に分載された中編。といっても、フェアプレイや論理的な謎解きに特化しているわけではないので、今日的な“本格”の基準からすれば、どれも失格でしょう。見るべきは、パズルを魅力的なものとしている、宇陀児のシチェーションづくりのうまさです。
とりわけユニークなのが、人間そっくりの胎生昆虫が存在する!? という④。くだんの妄想を主張し、精神療法を受けた男爵の回復具合をみるため、周囲の人間が、別荘に虫の鳴きまねが得意な女芸人を呼んでw 男爵をテストしようとしたところ、そんな彼女が殺されて・・・というお話。二重殺人の趣向も面白く、これは一読の価値ありです。

本書だけでは、まだ宇陀児の真価はわかりません。Ⅱと合わせて味読すべき一冊です。

(付記)作者なりに謎解きの「型」を意識した作品群であること、および第Ⅱ巻との対比を考え、基準を緩めて「本格」に登録しました(2012・11・13)。


No.96 9点 白衣の女
ウィルキー・コリンズ
(2012/10/01 10:45登録)
じつはこれまで、こんなの読んでませんでしたシリーズw

1859年から翌60年(日本だと、まだ江戸時代末期です)にかけて、ディケンズ主催の週刊 All the Year Round 誌に連載された、ウィルキー・コリンズの第6長編にして出世作。
現在、岩波文庫版(中島賢二訳)の全3冊が流布していますが、筆者は、1978年に国書刊行会の<ゴシック叢書>に収められた、中西敏一訳の三巻本(Ⅰ巻には訳者の、Ⅲ巻には小池滋氏の、力のこもった解説つき)で読了しました。

青年画家ウォルター・ハートライトは、真夏の一夜、ハムステッドからの帰途、全身白づくめの美女と出会う。「ロンドンへ行きたい」という彼女は、たまたま通りかかった辻馬車の客となり、二人は別れる。直後、出現した追っ手の馬車。「この道を女が通るのを見かけなかったか・・・白衣の女だ・・・私の精神病院から逃げたのだ!」
やがてハートライトは、カンバーランドの豪家リマリッジ屋敷に住む義理の姉妹、マリアンとローラ(妹ローラの容貌は、なぜか例の“白衣の女”によく似ていた)の絵の教師となる。惹かれあっていくハートライトとローラ。しかしローラには婚約者がいたのだ。姉マリアンの説得に応じ、リマリッジ屋敷をあとにしたハートライトは、失意のうちにアメリカへ渡る。
その年の暮れ、ローラは婚約者パーシヴァル卿と結婚する。
俄然、本性を現わして財産横領に動き出した卿に、妹を助け懸命に対抗するマリアンだったが、卿のバックには、奸智にたけた参謀格のフォスコ伯爵が控えていて・・・
出没する“白衣の女”。その存在を恐れるパーシヴァル卿。秘密に迫ったマリアンを待っていたものは? そして帰国したハートライトを打ちのめす衝撃の事実とは?

かの『月長石』(1868)の素晴らしさは重々承知していても、こちらはいわゆる“推理小説”ではなくスリラー(ゴシック小説の流れを受け継ぐ、センセーション・ノヴェル)であること、くわえて『月長石』を上回るヴォリューム(原稿枚数にしておよそ2,000枚!)であることから、ずっと敬遠してきました。
しかし、覚悟を決めて――そう、たとえば単発の1時間ドラマを観るのではなく、連続ドラマに1クール付き合うような気持で――読みはじめてみると、これはやはり面白い。

作者お得意の、回想手記のリレー形式が効果的で、フォスコ伯爵の仕掛けた大トリックの構図、ハートライトの“足の探偵”がついにパーシヴァル卿の秘密の核心にたどり着く経路、といったミステリ的見せ場が炸裂する後半三分の一まで、緩急自在の話術でつないでいきます。
知恵の戦いを繰り広げながら、相手の力量は認めあっている、気丈なマリアン(本作の真のヒロインは、彼女ならん)と底知れないフォスコ伯爵の造型は見事。
終盤、その伯爵の“正体”露見はやや唐突な印象を与えますが、彼を追いこむ役どころになるキイパーソンを、端役として“あの段階”ですでに描出しているあたり、コリンズの布石はなみなみならないものです。

『月長石』との優劣の比較は、ほとんど評者の好みの問題になるでしょう。隙の無い緊密な構成において、筆者は択一なら『月長石』を採りますが、それはいくぶんミステリ・マニア的偏向かもしれず、ストーリーの躍動感やその物語性で、この『白衣の女』に軍配を上げる人も多いはずです。
皆さんの評価や如何に?

余談ですが、本作を読んでいて、微妙に甲賀三郎の作品が脳裏にちらつきました。獅子内もののスリラー長編『犯罪発明者』への影響はモロですがw 思い返せば最高傑作「黄鳥の嘆き」(「二川家殺人事件」)にも『白衣の女』のエコーが感じられます。
そういえば、『幽霊犯人』は『月長石』ふうでした。
マニア層にむけて“本格” を実践するというより、大衆にむけて探偵趣味をアピールするという意味で、甲賀がコリンズを範にしていたと見るのは、うがち過ぎでしょうか?


No.95 6点 思考機械の事件簿Ⅱ
ジャック・フットレル
(2012/09/17 09:21登録)
創元推理文庫の<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>、第二期ぶんから(1979年12月刊)。
『思考機械の事件簿』は、他の“ライヴァル”たちに比してセールス面で健闘したのか、のちにⅢまで出版される破格の待遇ぶりでしたが、Amazon で見ると、2012年9月現在、このⅡだけ品切れのようです。
オーソドックスなベスト盤的編集のⅠ(「十三号独房の問題」が入っていないという、かなり大きな問題をのぞけばw)のあとでは、落ち穂拾いの感があるのは否めませんが、そのぶん異色の作品にも光が当てられており、一読の価値はあります。

収録作は―― ①呪われた鉦(かね) ②幽霊自動車 ③復讐の暗号 ④消える男 ⑤跡絶えた無電 ⑥ラジウム盗難 ⑦三着のコート ⑧百万長者ベイビー・ブレイク誘拐 ⑨モーターボート ⑩百万ドルの在処(ありか) ⑪幻の家

②以降の10編のうち、②⑤⑥⑨が、シリーズ第二短編集The Thinking Machine on the Case(1908)からの選択。ほかは、Boston American やSunday Magazine に載ったきり、作者の生前の著書には未収録だったものです。①については後述。

多彩な謎づくりとテンポの良いストーリーテリングに秀でるも、しょぼいトリックと釈然としない種明かしに脱力させられる、というのが、フットレル作品の通弊ですね。死者の操縦する“モーターボート”(⑨)然り、雪上の足跡がかき消えての“百万長者ベイビ-・ブレイク誘拐”(⑧)然り。

同一地点で消失を繰り返す“幽霊自動車”(この②は、ハヤカワ・ミステリ文庫版『思考機械』にも採られていることからわかるとおり、シリーズ代表作のひとつと言っていいわけですが)などは、過剰演出が裏目に出て、ストーリーの信憑性が消し飛んでしまいました。
現象が繰り返されれば、証人も落ち着いて対処できるようになるわけで、その噴飯ものの“正体”に気づかないでいられるわけはありませんし、それを承知の“連中”が、ハイリスクな強行突破を続ける必然性もありません。つかまってしまったら元も子もないわけで、だったら多少遠回りでも、次善のルートを捜すのが当然でしょ?

解き明かされる真相が、謎の異常性と釣りあう重みと説得力を有している点で、集中、一、二を争うのは、妻メイの創作した怪談にフットレルが合理的な解答を示したという触れ込みの、共作⑪ですね。
その伝説的エピソードの真偽はさておき、≪問題編≫からたくみに伏線を拾い上げての、家屋消失(プレ「神の灯」)の謎解きは、ありがちな錯覚をベースにしたシンプルなものだけに、逆にストンと胸に落ちます。
また常識はずれの内容を綴った手記を、名探偵が“事実”として読み解く試みは、島田荘司の遥かな先蹤として興味深いものがあります。
あえてイチャモンをつけるなら、あれだけの怪異に翻弄された人間は、そのまま心を病んでしまうのではないか、ということ。わざわざ(手掛りを忍ばせた)詳細な手記を残してから、発狂するものでしょうかねえ・・・

とまれ、力作であるその「幻の家」を、作品配列の最後に持ってきているのは、編集上の常道でしょうが、個人的にオーラスにふさわしいと思っているのは、じつは巻頭に置かれた①なんですね。
1906年にSaturday Evening Post に発表され、のち1970年代にアンソロジーにリプリントされるまで、わずかにフットレルのノン・シリーズ長編The Diamond Master の英版(1912)に併録されたきりだったという、いわくつきの一編です。
ひとりでに鳴り出す、日本製の“呪われた鉦”をめぐる、怪奇趣味と不可能興味の塩梅の良さ、そして解明のプロセスの納得具合は、「幻の家」と双璧。くわえてシリーズ・キャラクターものの探偵小説でそれをやるか、というフィニッシング・ストロークが不気味な余韻を残します(その余韻をより効果的にするには、巻末に配すのがベターと思うわけです)。

フットレルは、思考機械にさんざん「論理」を言挙げさせながら、じつは微妙に割り切れない部分を小説に残す――結局、犯行動機はわからなかった、とか――実験をアレコレやっていて、率直に言ってそれは失敗に終わっているものが大半(手抜きと紙一重)だと筆者は感じていますが、「呪われた鉦」の“型破り”には、心から敬意を表します。
たとえ怪我の功名であっても・・・“それ”はのちの本格ミステリ史に、地下水脈のような系譜をうむことになりました。
過渡期のアメリカ作家フットレル。しかし「十三号独房の問題」とこの「呪われた鉦」に関する限り、“シャーロック・ホームズのライヴァルたち”というくくりを超えて独自性を主張できる、ミステリ短編の収穫と信じます。


No.94 7点 思考機械
ジャック・フットレル
(2012/09/01 21:58登録)
シャーロック・ホームズのアメリカ版ライヴァルたち筆頭、思考機械ことオーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン教授の活躍は、我国では、ハヤカワ・ミステリ文庫と創元推理文庫の傑作選にまとめられています。
今回は、押川曠・編訳のハヤカワ版『思考機械』(1977)を読み返してみました。

収録作は――①序・思考機械登場 ②失くなったネックレース ③幽霊自動車 ④茶色の上着 ⑤完全アリバイ ⑥余分な指 ⑦盗まれたルーベンス ⑧秘密漏洩 ⑨燃える幽霊 ⑩紅い糸 ⑪13号独房の問題

⑨~⑪は、地方紙 Boston American に掲載されたのち、第1短編集 The Thinking Machine(1907) にまとめられたぶんからの選り抜きであり、①~⑥は、全国紙 Snuday Magazine に発表後、1908年に第2短編集 The Thinking Machine on the Case に収録されたなかから採られています。⑦と⑧は、やはり Sunday Magazine 初出でありながら、生前の作者の単行本には入らなかったものです。

創元版が、『思考機械の事件簿』そのⅠⅡⅢとして巻を重ね、読み継がれているのに対し、ハヤカワ版はこの1冊きりで、とうに絶版。
それでも、名探偵のニックネームの由来となった、チェスの試合のエピソード(①。創元版には未収録)や、代表作中の代表作⑪が収められている点(創元版は、同文庫『世界短編傑作集1』に「十三号独房の問題」として収録済みのため割愛)、コンパクトな入門書として意義がありますし、版画を使った畑農照雄のカバーと、巻頭に付された往時の挿絵の魅力もあって、個人的に、捨てがたい良さを感じる一冊です。

じつは中味のほうは――まあまあなんですがw
オルツィ男爵夫人の<隅の老人>シリーズが、クリスティー流フーダニットのプロトタイプだとすれば、こちらはもう、完全にカー式ハウダニットの源流。
テンポ良く進行する、密室仕立ての⑩や幽霊屋敷譚の⑨などをカーが支持していたのは、当然のようにわかります。
わかりますが・・・いまとなっては、トリック面で、種明かしされたときの脱力感――「幽霊の正体見たり枯尾花」感がハンパではありません。
ことあるごとに「論理」(ロジック)を口に出す、思考機械の推理法も、のちのアメリカン・パズラーにおける、クイーン流の達成を知ってしまうと、率直に云って凡庸。
たとえば、さきほども引き合いに出した⑩など、犯行手段の解明は単なる豆知識の披露ですし、容疑者を限定するのは、都合良く犯人が残してくれた痕跡(それが“紅い糸”)です。手掛りが残される必然性(犯人がミスせざるを得なかった状況設定)まで留意してこそ、本格。

ひさびさに再読して楽しかったのは、デンと不可能興味を打ちだした作より、“隠し場所”とそれを伝える暗号メッセージの組み合わせに機知が光る④とか、外科医のもとを訪れた美女が、指を一本、切断してほしいと願い出る抜群のイントロから、予断を許さない展開を見せる⑥(ちと説明不足ではありますが)あたりですね。
総じてフットレルは、ハウダニットのアイデア・メーカーとしてより、ホームズ譚の導入に使われた“依頼人の話”を、聞き書きではなく関係者視点のエピソードとして独立させたり、探偵役(頭脳労働)と助手(肉体労働)の役割分担を明確にしたりして、短編ミステリの効率化を可能にした、話芸の人として評価すべきではないか、といまの筆者は考えます。

とはいっても。
集中からひとつとなれば、思考機械が公式デビューを飾った⑪になるのは、動かないところ。
“名探偵”に、事件の解明役ではなく、まったく別な役割(友人の挑戦に応じて、知力を駆使し死刑囚用の独房から脱出する)を振り付け、途中経過を描きながらハウドゥイットの謎を維持する――この型破りのストーリーは、シリーズ全体のなかでも異色ですが、主人公のエキセントリックなキャラクターと“問題”のユニークネスのバランスが、見事にとれています。手口もまた、一読、忘れ難いはなれわざ。
思考力で脱出するって、そういう事なの? という思いは、初読時から変わらずありますけどねw


No.93 7点 死化粧する女
甲賀三郎
(2012/08/25 23:10登録)
日本図書センターの<甲賀三郎全集>、最終第10巻は、

『乳のない女』(昭7、やまと新聞)
『死化粧する女』(昭11、黒白書房<かきおろし探偵傑作叢書3>)

の二長編を収めます。

前者は、連載開始時点で、獅子内俊次ものの第一作だったわけですが、単行本化されたのが、『姿なき怪盗』(昭7)、『犯罪発明者』(昭8)のあとの昭和9年ということもあってか、本文中には、それら二作への言及――おそらく連載終了後の加筆――があります。
じつは筆者が今回、本<全集>を読み返すにあたって、いちばん楽しみにしていたのが、この『乳のない女』でした。
といっても、学生時代、ミステリ読みの先輩から拝借した、元版の湊書房版<全集>を通読したさいには、まるで印象に残らなかった作品です。
気になりだしたのは、『このミステリーがすごい!』2000年版の色物企画「世界バカミス全集」(架空叢書。編者は霞流一、四谷中葉、小山正、杉江松恋)のラインナップに、そのタイトルを発見してからです。編者のコメンタリーにいわく。「謎のダイイングメッセージ、驚くべき凶器、意外なる犯人と三拍子そろったド本格ながら、長らく絶版状態にあった幻バカミス、禁を破ってここに登場!?」
え~っ、そんな面白本だったっけ???
こんなお話。

「乳のない女――神林――高円寺」。夜の銀座の街角で、昭和日報の記者・獅子内の腕に倒れかかってきた男装の麗人は、謎の言葉を残して息絶えた。獅子内もまた、背後から何者かに殴り倒され・・・
気がつくと、遺産相続をめぐる連続殺人に巻き込まれ、ついには重要容疑者として警察から追われる羽目になった獅子内。逃走中の彼が、真相究明のため訪れる先々で待ち受けるのは、しかし新たな死だった!

読み返してみて。どこが“ド本格”やねんw
「ダイイング・メッセージ」は、毒に犯された被害者のうわ言だし(とってつけたような“乳のない女”の種明かしも、そんなのは、乱歩や正史にまかせておけばよろしい)、「驚くべき凶器」も、最初の事件のアレだとすれば、使うことのデメリットのほうが、大きすぎ(被害者が犯人のそばで昏倒したら、どうするの?)。「意外な犯人」は、まあミスディレクションの工夫は認めるとしても、最終的に(身元証明のできない“架空人物”では)遺産相続なんて無理じゃないかなあ。
おおらかなヒーロー(「チョッ、警察に追い廻されながら、探偵をするのは、随分、骨が折れらァ」)による、逃亡者型サスペンス――さながら元祖『金田一少年の殺人』w――と割り切って、随所に突っ込みを入れながら、そのジェットコースター的ノリを楽しむのが吉でしょう。

むしろ今回、積極的に推したい気分になったのは、密告状を受け取った弱小新聞の記者が、空家で発生した、奇妙な女優射殺事件(被害者は、なぜか死化粧のように、顔を蒼白く塗っていた)の渦中に飛び込んでいく、併録の表題作のほうでした。
原稿枚数500枚台の『乳のない女』にくらべると、その半分に満たない分量(なので、この『死化粧する女』は、いまなら中編にカテゴライズされるか?)ですが、書き下ろしの単行本とあって作者も気合を入れたのか、いたずらにスリラー調に流れることなく、捜査小説としてまとまっています。
犯行時刻前後、現場付近に、思惑の異なる複数の人間が集まっていたという、人工的なプロットも、キャラクターの動機づけの主軸に愛(男女の、あるいは肉親への)を置くことで、心情的な説得力を持たせていますし、そこから二転、三転してのサプライズ・エンディングには、まぎれもない本格スピリットを感じます。ヒューマンな読後感も良し。
あれ、もしかしてコレ、甲賀のベスト長編候補か?(今回の再読まで、気づかなかったw)。

せっかくですから、この<全集>を読み返してみての、筆者的、甲賀三郎お薦め作品をまとめておきましょう。
スタンダード・ナンバーの「琥珀のパイプ」、『姿なき怪盗』を別格とすれば――

短編では「四次元の断面」(第6巻)
中編なら「二川家殺人事件」(第8巻)
そして長編が『死化粧する女』(第10巻)ですね。

後期の作に集中したのは、我ながら意外。でもこのへんの甲賀は、本当にうまいと思います、ハイ。
もちろん、<全集>未収録作品にも、大物『支倉事件』や、「妖光殺人事件」「血液型殺人事件」といった、要注目のナンバーがあるわけですが・・・そこらはまた、別な機会にレヴューすることにいたしましょう。

(付記)表題長編を対象として、「本格」に登録しました(2012・11・13)。


No.92 9点 プレーグ・コートの殺人
カーター・ディクスン
(2012/08/17 20:38登録)
不可能犯罪(トリック)と怪奇趣味(ミスディレクション)の至上のコンビネーション――カー(ディクスン)がその芸風を確立した、1934年発表の、ミステリ黄金期の精華のひとつを、創元推理文庫の新訳『黒死荘の殺人』(南條竹則・高沢治訳)で再読しました。
小学校高学年のとき、平井呈一訳『黒死荘殺人事件』(講談社文庫版)ではじめて接し、大学時代、仁賀克雄訳の『プレーグ・コートの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)でも読み返していますから、正確には、再々読ですね。
なんだか、夏休みに、ひさしぶりに実家に帰省した気分w

新訳は、平明な文章という点でかなり健闘していますが、それでも率直に言って、本書の前段はとっつきにくい。
まだカーの小説技術が不充分で、来るべき事件の容疑者となる、個々のキャラの色分けが出来ていないことが大きいですし、情報伝達が詳細な説明にとどまり、それが視覚的イメージに昇華されない(“現場”周辺の地形とか、パッと思い浮かんだ人、います?)のも、作者の描写力の問題です。
最初のクライマックス(いわくつきの石室での、密室殺人)へ向けて、ともかくテンションの高さで、しゃにむに引っ張ろうとしている感じは否めない。

そんな本作が俄然、面白くなるのは、私ことケン・ブレークの巻き込まれ型ミステリから、巻なかば過ぎ、真打ちヘンリー・メリヴェール卿の登場で、名探偵システムの物語へとシフト・チェンジしてからです。
謎に困惑し行きづまった語り手と、あとを引きうけた冷静な探偵の対照――コナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』を応用したであろう(古文書による怪奇ムードの醸成や、真犯人をめぐる設定等でも、本書は『バスカヴィル』を踏まえていると思います)この劇的構成は、長編本格ミステリ作法の、ひとつの理想形といえるのではないでしょうか。
そして、そんな御大H・Mのパースペクティブから一連の出来事を振り返ることで、事件の様相が、ガラリと変わる(全21章中の、第14章「死んだ猫と死んだ妻」)。

そのあと、第二の殺人をはさんで、ストーリーは最終局面になだれこみ、密室の解明と意外すぎる真犯人の暴露(薄氷上のスケート? でも妙技であることは間違いなし)に相成るわけですが・・・
じつは筆者が、読み返すたびに感心するのは、前記の、中クライマックスともいうべき、H・Mの“安楽椅子探偵”的事件整理(お話の転機)の部分なんです。
あるキャラクターの思惑を洞察することで、その人物の裏面工作が事件のキモであることを解き明かす。
エラリー・クイーン流の、ロジカルな推理ではありません。しかし、人間の振るまいに関して、人生の達人(古狸とも言うw)がくだす、意外だけど自然な解釈として、H・Mの名探偵デビューを見事に印象づけています。
陰惨なムード(格調が高い英国の怪談というより、パルプ・マガジンのB級ホラーっぽいのは、やはりカーのアメリカ人の血でしょう)を吹き飛ばす、豪快な人間性といい、幕切れのセリフの決め方といい、やっぱりこのオヤジ、好きだわ。

あ、最後に。
先に、この頃のカーはまだ小説がヘタ云々と書きましたが(円熟が見られるのは、1940年代の初頭から中頃にかけてでしょう)、本書の終盤の大捕物の演出は、ドラマティストの力量を見せつつ、主要キャラ二人を最後に見事に立てていることを付記しておきます。本格ミステリというより、それはちょっとノワール的なテイストで、筆者が今回、そこから連想したのは、レイモンド・チャンドラーの『さらば愛しき女よ』だったりします。


No.91 4点 蟇屋敷の殺人
甲賀三郎
(2012/08/08 17:32登録)
日本図書センターの<甲賀三郎全集>、その第9巻は、表題長編ほか短編2作を収めます。

①蟇屋敷の殺人(昭13~14、讀物と講談)
②情況証拠(昭8、新青年)
③月魔将軍(昭12、オール讀物)

コメントは年代順に。

疑わしきは罰せず――を実践してきた、刑事弁護士でもある高名な法学者が、アパートの密室でガス中毒死する。「自殺でもなし、他殺でもなし、過失死でもな」し(おお、ジョン・ロードの秀作『ハーレー街の死』のようだ)、その死の真相は? 
という②は、“情況証拠”や自白による裁断がいかに危険きわまるものであるか、をテーマにするはずであったと思うのですが、エピソードを錯綜させすぎて(自身の代表作となった「琥珀のパイプ」の呪縛)、主題がかすんでしまいました。シリアスなトーンと、突っ込みどころ満載のお莫迦なトリックも水と油で・・・残念ながら、企画倒れ。
ただ、惰性で創作するのではなく、書きたいことへ向けて一歩踏み出している、その前向きさは確かに伝わってきます。意欲的な失敗作、とでも言うべきか。

それにくらべると。
人里離れた深山の尾根で道に迷い、不思議な西洋館に泊めてもらうことになった主人公が、怪しい殺人劇に巻き込まれる③は・・・
狂女や蝋人形といった、乱歩・正史ばりのおどろおどろしい道具立てが、どうも甲賀には合わないうえ、使い方が下手なので、オースティン・フリーマンのソーンダイク博士ものから流用した“科学的”トリックまで、胡散臭さをきわだたせる結果に終わっています。
小説としての後味も悪く、力作率の高い甲賀の山モノ(「緑色の犯罪」「誰が裁いたか」「二川家殺人事件」)の中にあって、これはまあ、駄作の部類ですね。

で、順番は最後になりましたが、残る表題作に触れておくと――

ある朝、丸の内の工業倶楽部前に停まっていた車の中から、首を切られた男の死体が発見される。所持品と車体ナンバーから、被害者は、世田谷に豪邸(通称、蟇屋敷)をもつ資産家の、熊丸氏と推定されたが・・・
どっこい熊丸氏は生きていた。容貌も似かよっているし、持物から自動車まで同氏のものでありながら、死体はまったくの別人だったのだ! 一転して容疑者となる熊丸氏だったが、前夜の行動に関しては、かたくなに口をつぐみ続ける。
ひょんなことから事件に関与することになった、探偵作家の村橋は、親友の萱場警部に素人探偵宣言をして、行動を開始するが・・・矢継ぎ早に起こる殺人。目撃される怪物(目も鼻もないノッペラボー)。暗躍する謎の女。村橋と萱場警部の身にも、魔の手が迫る!

日中戦争の勃発から第二次世界大戦突入までのはざま、そのなんともキナ臭い時代に書かれたにしては、およそ時代色・国策とは無縁の、娯楽に徹した探偵小説です。
その夏炉冬扇ぶりは、いっそ気持ちいいくらいですし、スリラー調の展開はとっていても、従来型の“怪人対名探偵”とはまた一味違った、ひねりが利いています。
しかし、正直、長いんだよなあ。引き延ばしの果てに訪れる、衝撃の結末も、結局のところ、伏線にもとづかない、真相の一方的な押しつけですから、説得力も何もあったものじゃない。
いちおう、エラリイ・クイーンの戦後の某作の趣向に、先鞭をつけているんですがね(ま、アレに先鞭をつけても、あまり自慢にはならないかw)。
この作品などは、連載終了後そのまま本にしないで、刈り込むべきところを刈り込み、矛盾を訂正し説明不足を補い――という改稿の手続きを踏めば、いわゆる“本格”ではないにせよ、特異なテイストの“捜査型”ミステリ(さながら、F・W・クロフツ、ミーツ島田荘司)として、面目を一新したかもしれません。

さて。
この<全集>も、残すところあと1巻。最終回は、かの小山正氏スイセンの、幻のバカミスを読み返すことになります。
乞うご期待w

(付記)表題長編を対象として、「スリラー」に登録しました(2012・11・13)。


No.90 7点 世界を売った男
陳浩基
(2012/07/28 12:51登録)
――そして目覚めると、私は車の中にいた。
頭が痛い。夫婦が犠牲になったマンション殺人事件の捜査中、同僚の刑事と衝突したあと、したたか酒に酔って、そのまま駐車場で一夜を明かしたのか・・・?
あわてて署に向かったが、なんだか変だ。真新しい建物の外観。「2009年」と記されたポスター。
今年は2003年ではないのか!?
とまどう私の前に、ひとりの女性雑誌記者が現われた。休暇中の私、香港西区警察署の許巡査部長と、ここで待ち合わせをしていたのだという。しかも、彼女の取材目的は、“六年前”のマンション殺人事件だった!
私は彼女とともに、事件の真相を洗いなおしながら、失われた記憶を追い求めていくが・・・

中国語で書かれた未発表の本格ミステリ(-)を対象とする、台湾の島田荘司推理小説賞の、第2回(2011年度)受賞作です。作者の陳浩基(ちん こうき、サイモン・チェン)は、すでにホラーなどの著作もある、香港のプロ作家。
かなり特殊なベクトルの賞ですが、第1回受賞作の、籠物先生(ミスターペッツ)『虚擬街頭漂流記』が面白かったので、今年翻訳された本書にも、手を伸ばしてみました。

“私”をめぐる幻想的な謎とその帰結は、あるタイプのSFを思わせますが、それを合理的なミステリとして可能にするネタが×××というのは、まさに(『眩暈』以降の)島田荘司直系ですね。
医学知識による種明かしは、ミステリとしてアト出しにならざるを得ないわけですが、一人称パートと並行して描かれる、三人称視点の「断片」で、あるエピソードが具体的に描かれるため(個人的には、一人称と三人称を混在させる小説作法には抵抗があるものの)、読み物としては納得しやすくなっています。

いっぽう、肝心の(?)マンション殺人事件のフーダニットのほうは、説得力があるとは言えません。無理筋の古典的トリックをひと捻りしているわけですが、ひとつの事件をめぐって「同じような患者」が別々に二人も出てきては、嘘だろ、おい? にしかなりませんし、シロウトの一方的な解釈(21世紀どころか、1950年代レベル)で納得できるほど、それは単純な問題ではありません。

まあ、島田学派の優等生による、「21世紀本格」(幻想的な謎を、最新科学によって論理的に解明する)への模範解答ではあるけどね――と、生暖かい評価w で片づけようかと思っていたら、ラスト・シーンでやられました。
そうか、ひとつ“問題”が残ってたんだよね。それを最後の5行で・・・こう処理するか!
生暖かい、ではなく、暖かい目で見守ることにしましょう。
できればこの作者の、他の作品も紹介してくれませんか、文藝春秋さま。


No.89 7点 夢の女・恐怖のベッド
ウィルキー・コリンズ
(2012/07/22 15:57登録)
 mini 様

掲示板8843番「ジャンルの導入」は、具体性のある興味深い提言で、その実現を期待したいところです。
ただ、ジャンル区分のコメント中、「警察小説」のような小説スタイルと、「C.C.」(クローズド・サークル)のような状況設定のパターンが混在しているのが、気になりました。<ジャンル一覧>からは、、後者のような(サブジャンル的)要素は排除したほうが投票がスッキリするのでは、と愚考する次第です。

いや、それでも問題はあって、たとえば大長編『白衣の女』と『月長石』で黎明期のミステリ史に名を残す、ヴィクトリア朝の巨匠ウィルキー・コリンズの本書なんか、どうジャンル分けしていいものやら。
mini さんには釈迦に説法でしょうが、この『夢の女・恐怖のベッド 他六篇』は、作者の2冊のオムニバス短編集、After Dark(1856)、The Queen of Hearts(1859)からの選りぬき7作に、珍しい後期作1作を添えて、1997年に岩波文庫から刊行された、日本オリジナルの作品集です。

①恐怖のベッド ②盗まれた手紙 ③グレンウィズ館の女主人 ④黒い小屋 ⑤家族の秘密 ⑥夢の女 ⑦探偵志願 ⑧狂気の結婚

恐喝ネタの手紙を取り戻せ! という、ポオの先行作を意識した②は、軽く暗号w をからめた隠し場所捜しの探偵譚に仕上がっていますが、これが「人を呪わば」という旧題で有名な⑦(江戸川乱歩編『世界短編傑作集1』の巻頭作)になると、そうした“探偵の物語”自体が、パロディのネタにされています。
といって、ユーモアが基調の本でもない。
「夢のなかの女」として、やはり創元推理文庫の『怪奇小説傑作集3』に収録されている⑥は、サイコ・テイストもおりまぜながら、予知夢の恐怖をシリアスに描いています。
襲いかかるトラブルは、なにも怪奇なものとは限りません。“現代都市”の一角に、ポオの「陥穽と振子」ばりの殺人メカニズムを現出させた①(サブジャンル的には、最初期の密室物のひとつ)あり、田舎の小屋に一晩、大金をかかえて過ごすことになった娘を二人の悪党が狙い、屋内v.s.屋外の必死の攻防がスタートする(元祖「ホーム・アローン」のw)④あり。

およそ書き手に、ジャンル作家などという意識の無かったであろう時代、手だれのストーリーテラーが、読者の興を引くためミステリ(謎)やサスペンス(緊張感)の技法を縦横に使いこなして小説を展開しているわけです。

小説技法としての、謎。
それは、導入部で特定のキャラクターに印象的なスポットを当て、「何が彼(ないし彼女)をそうさせたのか」という興味でグイグイ引っ張る③や⑤にも、顕著に見ることが出来ます。このへんは、さすがに誰も、ミステリ視することはないでしょうが、・・・
でも、真実の開示がクライマックスを形成し、そこで全体の意味が明らかになり読者の心を動かすという構造は、探偵小説のそれと本質的に変わるものではありません。

ヴァラエティに富む佳作が多い半面、この一作という決定打に欠ける嫌いはありますが(それが、「信号手」「追いつめられて」とふたつの傑作を擁する『ディケンズ短篇集』との差でしょう)、長編作家の余技にとどまらない、立派な職人芸のコレクション。
そんな本書を、しいてジャンル分けするとしたら――やはり、そのものズバリ、“短編集”しかないような気がしますw

え、ひとつコメントしてないだろ、ですか?
唯一の後期作⑧(1874年作)でも、コリンズの、話術自体は衰えていません。
ただねえ、ちょっと問題提起(法制度への批判)に気を取られ過ぎて、作者の強みであったはずのプロット(この場合、トラブルの原因となる、“策略”の説得力)が、ずいぶん表層的なんです。
「この話は実話に基づいている」式の註記も不要なこと。見えている現実をなぞるだけで小説のリアリティは生まれないことを、はからずも証明したような、そんな感じですね。

いや~、相変わらずの長文で失礼しました。
作品のジャンル区分の、mini さんの素案等ありましたら、また掲示板でご披露いただければ、と願っています。

おっさん拝


No.88 6点 体温計殺人事件
甲賀三郎
(2012/07/15 11:05登録)
日本図書センターの<甲賀三郎全集>第8巻です。

①体温計殺人事件(『新青年』昭和8年3月号) ②二川家殺人事件(原題「黄鳥の嘆き」『新青年』昭和10年8~9月号) ③霧夫人(『キング』昭和12年4月号) ④魔の池事件(『新青年』昭和2年1月号) ⑤誰が裁いたか(『ぷろふいる』昭和9年1~3月号) ⑥錬金術(『キング』昭和2年1月号) ⑦空家の怪(『新青年』大正14年11月号) ⑧奇声山(『新青年』昭和4年4月号)

代表作クラスの中編三つ(①②⑤)ほか五編の短編からなるセレクションですが、この<全集>らしく、配列にまったく意味が無い。
変則的ですが、短編グループ、中編グループにわけてコメントしていきます。

まず短編。
③は後期作です。高原のホテルの、一夜のセンチメンタリズムは魅力ですが、起訴された(無実の)殺人容疑者が証拠不充分で免訴になったから、真相を秘してもいいだろうという主人公の認識に問題があります。“彼”は対世間的には、ずっと灰色の存在ですよ (>_<)
④は、「琥珀のパイプ」の語り手が、かの怪青年(その正体は、帝都を騒がす怪盗・葛城春雄だった!)と再会を果たす・・・凡作。長編の一部を抜粋したようなエピソード(トリック的には、さながら『金田一少年の事件簿』)で、続編での決着を匂わせながら、それが執筆されることはありませんでした。
⑥⑦は、コンゲームあれやこれや。ともに軽い落とし噺ですが、前者の、人物設定(弁護士と理学士コンビ)と手口の対比には妙味があります。
巻末⑧の“奇声山”とは、主人公の会社に臨時採用された、ヘンテコな声の中年社員のニックネーム。社内男女の駆け落ちをめぐって意外性は用意されていても、伏線の照応は無いので、これをミステリというのは苦しい。でも、悲哀を感じさせるサラリーマン小説(そんなのも甲賀は書いてました)として、妙に心に残る小品です。

続いて中編。
『新青年』の百枚読切りの企画で発表された、これぞ正面押しの本格というタイトルの密室ものが、表題作①。犯人の計画に、関係者の複数の思惑が交錯し、そこにアクシデントまで発生して事件を紛糾させる――力作なわけですが、枝葉が出すぎて、引き延ばしが目立つわりに、肝心の解決は駆け足で説明不足。理化学トリック(でもこれって、ほとんどアンフェアな“未知の毒物”レヴェル)の解明も、メカニズムを地の文でダラダラ説明されて煩雑なだけです。

これが⑤になると、トリック自体は「体温計」と大差ないものの、それがクライマックスの構成要素に取りこまれ、緊迫した状況下で一気に種明かしされるので、単なる解説にとどまらず、劇的効果をあげています。この「誰が裁いたか」は、十年目ごとに繰り返される変事のうち、二番目のそれの解釈があまりに大味で、必ずしも成功作とは言えませんが、シンプルなストーリーでありながら深みを感じさせる(中編サイズをいかした)構成と話術に、作者の円熟のきざしを感じ取れます。

そして――
華族の友人が、突然、日本アルプスの雪渓を掘り返し始めたのは何故? というイントロも見事な②こそ、そんな甲賀の到達点とも言うべき傑作。
ハウダニットだけ抜き出せば凡庸な短編にしかならないネタを、背景に工夫を凝らし、鮮やかに膨らませて中編としました。犯罪の根っことなる謎の正体、その情報をじょじょに提示していく段取りのうまさ。ここにはもはや、「体温計」に見られたような、ストーリーの複雑化のためだけの、レッドヘリング群は存在しません。謎と解明のプロセスを、少数精鋭が支えてドラマが進行します。
結末が来たところで、スポットが意外な人物に照射される幕切れは、たとえば、後年の東野圭吾の『放課後』のように評価の是非が分かれるところかもしれませんが、心理的な布石は打たれており、筆者はそのスパッとした切れ味を買います。

収録作品の順番にきちんと配慮をはらい、巻頭にヴォリュームある「体温計」を置いたのなら、同等の分量のこの「二川家」をラストに持ってきて締める、べきでしたね。そうした編集であれば、玉石混交であっても、7点は付けたものを。残念。

(付記)表題中編を対象として、「本格」に登録しました(2012・11・13)。


No.87 5点 ハード・ラック・ウーマン
栗本薫
(2012/07/09 10:28登録)
オレの名はシン、三十三になって定職にもつかず、年下の仲間とロック・バンドをやってる。
そんなオレたちのバンドの追っかけだった、家出娘のライが殺された。犯され、メッタ刺しにされて工事現場に転がった彼女。誰も、本名すら知らなかった女。
警察は、バンド・メンバーを疑ってやがる。
なぜオレは、死んでから、こうも彼女のことが気になるんだ。知れば知るほど、オレと似た匂いのする女――ハード・ラック・ウーマン・・・

読み残しの栗本薫作品から、昭和六十二年(1987)の単発長編――「ぼくら」シリーズの脇を固める、長髪のギタリスト・石森信のスピンアウト作品――を手にとり、既視感にアレレ、と思いました。
こりゃー、あれだ、中編「ライク・ア・ローリングストーン」(以下「ライク」)の長編化だ。
「ライク」には、通称ネコというバンド少女が登場して主人公を翻弄するのですが、それを殺人の被害者にすることで、全体を探偵小説ふうに構成しなおしたのが本書。
「ライク」を表題作にした中編集は、この前年(昭和六十一年)に文庫化されていますから、その際に自作を読み返した著者が、あ、これ長編でいけるな~、彼女のキャラを謎にして、探偵役が調べていくことで次第にそれが明らかになる形なら・・・バンドマンの主人公ならシンが使えるか・・・三部作ラストの『ぼくらの世界』もそろそろ文庫になるから、番外編を出すタイミングも悪くないだろうし・・・と思ったかどうか。
筆者が読んだ講談社文庫版には、「あとがき」がありませんし(断わり書きは必要でしょ、栗本センセ)、解説(ミュージシャンの難波弘之氏。同時代の、作者の友人の証言として興味深い)もその意味では役に立ちませんが、上記の推測は、当たらずといえども遠からずでしょう。

それにしても。
一般社会のルールから外れたダメ人間であっても、好きなことにしゃにむになって、いまその瞬間を完全燃焼しようとするキャラを立てさせると、栗本薫の独壇場ですわ。シンにしてもライにしても、なんでこんな連中のベタなドラマに感情移入させられてしまうのか。
チンケな客観を吹き飛ばす、強烈な主観のマジック。これはもう、文章力のなせるわざとしか云いようがありません(それはまた、文章の劣化が、たちまちドラマの説得力の低下につながる危険をはらむわけですが・・・)。

被害者の人間性を理解する旅路が、そのまま主人公の自己再発見につながるプロセスは見事で、旭川(ライの生まれ故郷)の夜の町での石森信の心の叫びは、ROCK小説としての本書の、見事なクライマックスになっています。
その旅路の果てが、犯人探しのゴールになり、同時に犯人の人間性の理解にまでつながれば、これはもう、それこそシムノンのメグレ警視シリーズやルース・レンデルのウェクスフォード警部シリーズのセンにつらなる、立派な現代ミステリになったのでしょうが・・・

そうはならなかったw
ミステリ・プロパーの読者ほど、この結末に腹を立てるだろうなあ。確かに現実の殺人事件なんて、そんなものかもしれない。リアルっちゃあリアル。でもね、探偵小説としては、それはただの逃げですよ、栗本センセ。
それに、“あの”シチュエーションだと、ただそれだけで犯人を理解した気になるシンが、急に上から目線の決めつけ野郎になってしまう。もし、作り物のミステリに対するリアルで押し切る(開き直る)つもりなら、犯人はもっと普通――「なぜあんな奴が? わからない・・・」――)でよかった。

採点は難しいですね。
ミュージシャン小説としてなら、満点。純粋にミステリとしてなら、零点近いw ただ、パズラーを意図したものでないことは自明で、微妙な狙いが空回ったと、好意的に見られないこともない。
苦肉の策で、あいだをとっての5点認定としました。


No.86 7点 ライク・ア・ローリングストーン
栗本薫
(2012/07/06 21:47登録)
読み残しの、栗本薫作品から。
昭和五十六年(1981)から翌年にかけて、『別冊文藝春秋』に発表された、三つの中編

①ライク・ア・ローリングストーン ②One Night ララバイに背を向けて ③ナイトアンドデイ

を収めています(単行本は昭和五十八年の刊)。
いずれも作者の好きなポピュラー・ミュージックのタイトルを題名にし、作者が青春を過ごした「70年代」への郷愁を詰め込んだ、風俗小説です。

筆者が学生時代、愛してやまなかった栗本薫の短編集に、やはり国内外のヒット曲をタイトルにからめた『天国への階段』(角川文庫)というのがありまして、地方在住の身には、そこで描かれるさまざまな“都会の青春”が、たまらなくまぶしく、いとしく、せつなかった。
“青春の終わり”を活写した本書の収録作――とりわけ、「ぼく」が自由奔放な生きかた(を象徴する女性キャラ)に憧れながら、ギリギリのところで“さいごのチャンス”を捨て、日常を選択してしまうエンディングの表題作①は、胸に迫る――を読んでいて、馬齢を重ねるうちに忘れていたあのころの記憶まで呼び戻され、不覚にもジンとしてしまいました。
とはいえ、もとよりミステリの作品集でないことは承知して読み始めたので、これを本サイトのレヴューに取り上げるつもりはありませんでした。

しかし②を読むにいたり・・・
これはねえ、ラスト2行でクライム・ストーリーになるんですよ。
凶行を暗示するフレーズの見事さ。あまりにも身勝手な思い込みで、殺意が確定してしまう怖さ。しかしディテールの積み重ねは、それを必然と思わせるのです。
“ストーカー殺人者の出来るまで”を描いて出色のこの作を、強引にミステリに引きつけて語りたい誘惑を抑えきれませんでした。
補助線として、パトリシア・ハイスミスやルース・レンデルを持ち出してもいいのでしょうが、他人とうまくつきあえず個人幻想の中に入り込んでいく、バンド青年(ロックとブルースのオタク)の造型から筆者が連想したのは、じつは江戸川乱歩の初期短編でした。「屋根裏の散歩者」だったり、「虫」だったり。
そしてそれらの短編に、乱歩の若き日の厭世感が投影されているように、「One Night ララバイに背を向けて」にも、まぎれもない作者自身のパーソナリティの反映があります。
作中キャラと違うのは、現実の栗本薫が、乱歩同様、“小説”で社会との接点を持ちえ救われたということでしょう。
これは、ことあるごとに先達・江戸川乱歩への愛着を表明してきた作者が、そのもっとも本質的な部分で乱歩の眷族であることを示している作かもしれません。

エロ劇画(死語?)に憑かれたマンガ家を描く③は、肩の力を抜いたような軽い仕上がりですが、シリアスな傑作ふたつのあとの締めとしては、これでいいのでしょう。
庶民(ぼく)のアーティストに対する夢(犯罪幻想)をもって終わるこの作で、われわれ読者もまた、ゆるやかに日常に帰還できます。

栗本薫の中短編集のなかでも、おそらく上位にランクされる本書ですが、採点は「ミステリの作品集でない」ことを考慮して、7点にとどめました。


No.85 8点 ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利
ロバート・バー
(2012/07/02 18:56登録)
スコットランド系の作家・ジャーナリストであるロバート・バーが、友人コナン・ドイルのホームズ譚を意識し、プライド高きフランス人探偵を創造して、その回想手記という形式で、英国(捜査法)批判をおりまぜながら展開していく、ユーモア・ミステリ集(1906年刊)です。
創元推理文庫の“隠し玉”として予告されたこともありましたが、最終的には2010年に国書刊行会が出してくれました。
シリーズ・キャラクターもののミステリ短編は、アンソロジーで特定の“代表作”だけ読むより、事件簿を通読することで味わいが深まるので(安定した世界観を楽しめたり、微妙な変化にニヤリとできたり)、遅まきながらこの訳出は嬉しかったですね。

遅まきながら――と書きましたが。
もともと創元推理文庫が<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>に力を入れていた1970年代後半は、クラシック・ミステリでも、トリッキーな路線(フットレルの思考機械とかですね)に需要が多かったと思います。あの時代なんかには、本書はぴったりしなかったかもしれない。
でも90年代末以降、国書刊行会の主導でアントニイ・バークリーやマイクル・イネスの紹介が続いたことで、その豊饒さがマニアのミステリ観のクリーニングを果たしたのではないか。近年は、ウッドハウスの復権もありましたしね。
日本のクラシック・ミステリ・ファンにとっては、さまざまな遊びに慣れたいまが、むしろ本書の読みごろかもしれません。

収録作は、アメリカの週刊誌Saturday Evening Post に、1904年から05年にかけて発表された、以下8篇。

①ダイヤモンドのネックレスの謎 ②シャム双生児の爆弾魔 ③銀のスプーンの手がかり ④チゼルリッグ卿の失われた遺産 ⑤うっかり屋協同組合 ⑥幽霊の足音 ⑦ワイオミング・エドの釈放 ⑧レディ・アリシアのエメラルド

①のみ、刑事局長をつとめていた「我輩」ことヴァルモンが、その職を追われる羽目になった顛末を物語る、フランス時代の失敗譚で、②以下は、ロンドンで私立探偵を開業してからの物語となります。
同時代の<隅の老人>連作(オルツィ男爵夫人)などが、殺人事件の謎解きに特化して、そのパターンのなかで技巧を凝らし黄金時代パズラーへの道をつけた(ぶん、冒険譚としてのホームズものの自由度は失われた)のに対し、こちらはそうした“進化”とは無縁に、宝石や手形の盗難、隠し場所捜しから反政府組織への潜入捜査、はては脱獄の幇助w(⑦です。今回、初訳されたなかではこれがケッサク)まで、探偵活動の豊富なヴァリエーションを包摂したホームズ譚のありかたにならっています。

その古風な物語性が、逆に魅力で、ミステリのテクニカルな興味で突出した作は少ないものの(ロバート・バー版「盗まれた手紙」とも云える、大胆なトリックでアンソロジー・ピースのひとつになった④などは、むしろ例外)、破天荒な、でも人間臭いキャラのヴァルモンがガイドする、ヴィクトリア朝の奇談の数かずは、軽妙な訳文(平山雄一)の力もあって、読み物としての光彩を失っていません。

そうした流れのなかで、従来、江戸川乱歩がその“奇妙な味”を絶賛したという、ひとつ覚え的な評価でなんとなく古典化した感のある⑤(「放心家組合」という旧題でおなじみですが、たしかに「うっかり屋」のほうが意味は通りやすい)の、先見性――時代を超えて残る、真の傑作でした――も確認できます。
あつかわれている詐欺事件の性格も、もちろん面白いのですが、何よりこの時代に、名探偵の“違法捜査”をバッサリ斬っている、その風刺精神が凄い。これに関しては、乱歩の読みを是正する、「訳者解説」の文章も必読。
既訳は、話の枕に相当する一章ぶんがまるまるカットされているので、「放心家」なんかもう読んでますから、という向きも、本書で再読すると、新たな発見があるかもしれませんよ。


No.84 5点 犯罪発明者
甲賀三郎
(2012/06/27 16:33登録)
日本図書センターの<甲賀三郎全集>第7巻です。ラインナップは――

①犯罪発明者 ②眼の動く人形 ③瑠璃王の瑠璃玉 ④傍聴席の女 ⑤ニウルンベルクの名画 ⑥緑色の犯罪 ⑦アラディンのランプ ⑧蛇屋敷の殺人

看板探偵・獅子内俊次が登場する表題長編ほか、怪弁護士(事件の裏で、ちゃっかり金品をかすめ取る)手塚龍太ものの短編七作を収録しています。

本書の前半を占める①は、昭和八年の『日の出』に連載された、短めの長編(現在の感覚からすれば、原稿枚数300枚未満は長編とは見なしがたいでしょうが、そのジェットコースター的なストーリーテリングは、完全に“連載長編”ノリです)で、獅子内ものの発表順としては『姿なき怪盗』と『死頭蛾の恐怖』のあいだに位置するも、作中の時系列は『姿なき怪盗』以前、獅子内が昭和日報に入社して一年目という、若き日の冒険譚です。

世田谷に住む、友人の検事宅で歓談した獅子内は、そこで、女中が無断でいなくなったという話を聞かされる。その帰り道、獅子内が出会ったのは、松澤村(公立の精神病院がある)へ行きたいという不審な男だった。直後、編集長から、収監中の殺人容疑者が脱獄したことを知らされる獅子内。さてはさっきの男が・・・?
友人の検事まで巻き込んで、目まぐるしく展開していく事件。出没する謎の老人。今回の敵は、自在に人を発狂させる、恐るべき“犯罪発明者”だ!

いや~、プロットは支離滅裂、謎解きの辻褄は合わない、お手上げですw
第六感に頼って事件の渦中をうろつき回った獅子内は、結局のところ、“真相”をある人物から教えてもらい、あとはホームズ譚の「瀕死の探偵」の故知にならって犯人を罠にかけるだけ。
まあ犯人の設定自体は面白いものの、化学者でもなんでもない人間が、「極く少量を注射されると忽ち気が違ってしまうと云う恐ろしい薬品」を発明したといわれてもねえ ^_^; 
突っ込みどころをさがして楽しむ、病膏肓の甲賀三郎ファン以外、読む必要はありません。

本書後半、<手塚龍太探偵譚>としてまとめられた諸作を読むと、やはり、甲賀は短編作家であるとの認識を強くします。
②から⑥は、昭和三年の『新青年』に、“連続短編”として掲載されたもの(④と⑤の、雑誌発表順と、本書の収録順が、なぜか入れ替わっていますが)。⑦⑧は、昭和八年と十二年の同誌に、単発的に書かれたものです。
正面切った謎解きではなく、種明かし形式の奇談が中心ではありますし(ディテクションの興味で“本格”といえるのは⑧くらい)、出来不出来の差もあるのですが、一話ごとヴァラエティに富んだ背景の事件に、毎度、主人公をどう絡め、印象づけるか――真相の暴露プラス、ピンハネw――の工夫は軽妙です。

特記すべきは⑥でしょう。その昔、筆者が湊書房版の<甲賀三郎全集>を通読したさい、ことアイデアの面白さでは一番と感じた作です。
いま読み返してみても、緑色に染められたシュールな風景のなかで起こる“事故”の真相、そのチェスタトンばりの奇想は強烈。
ただ、それともうひとつの“事件”の結びつきが弱く、チグハグな印象を受けることと、ストーリー的にはむしろメインなはずのその“事件”のほうの動機、手段が説得力に欠けることで、国産短編の傑作になりそこねました(“甲賀短編の傑作”になったのですw)。
この作の美点としては、語り手が、死に場所を求めて八ケ嶽の山中を行く、印象的な導入部もあげておきます。ぶっちゃけ、描写力に才があるとは言えない甲賀ですが(絵画の盗難をあつかった⑤などは、お話自体はまずまずの出来なのに、肝心の名画を文章で“見せて”くれないのは・・・作家としてどうよ、という感じ)なぜか山を描くと、妙にビシッと気合が入りますね。

なお。
手塚龍太ものは、連続短編の悼尾を飾るこの「緑色の犯罪」のあと、四年の時を隔てて、シリーズ・ベストともいえる「妖光殺人事件」で『新青年』に復活します(以下、⑦⑧と続く)。
なのに、よりによってこの「妖光」だけ本書からオミットされている。責任者、出てこ~いw(ちなみに、国書刊行会の甲賀本『緑色の犯罪』には、表題作ほか、「ニウルンベルクの名画」と「妖光殺人事件」が手塚ものからチョイスされています。これはお薦めの一冊です)

(付記)表題長編を対象として、「スリラー」に登録しました(2012・11・13)。


No.83 4点 緋牡丹狂女 人形佐七捕物帳
横溝正史
(2012/06/16 10:19登録)
春陽文庫の<人形佐七捕物帳全集>の、最終第14巻です。収録作は――

1.松竹梅三人娘 2.鬼の面 3.花見の仮面 4.身代わり千之丞 5.戯作地獄 6.緋牡丹狂女 7.影法師 8.からくり駕籠 9.ろくろ首の女 10.猫と女行者

正直なところ、新味の無いイマイチな話、謎解きされても釈然としないお話のオンパレードです。
表題作の6は無意味に長い。
7は、佐七がまだ独り身のときのエピソードですが、それをなぜここに持ってきたのか意味不明。夏のお話だからともかく入れちゃえ(各巻は、季節の順の作品配列)、ということで、本書が出た昭和五十年当時、横溝ブームの渦中で新作(!)を執筆中だった正史には、もう改稿の余裕もなかったのでしょうね。
しいて、集中のお薦めを挙げるとすれば、タイトルが前振りになっていること、江戸時代ならではのトリックに犯人像を印象づける書き方のうまさということで、9ですかね。品の無い、イヤな話ではありますが、ミステリ・ファン向き。

佐七シリーズ全180話のうち、この<全集>で150話がまとめられたことになります。完走記念に振り返っておくと――
最高傑作は、問答無用の面白さと、まとまりの良さで中編「くらやみ婿」(7巻)。
トリッキーな趣向でミステリ・ファンにアピールする秀作が、連続殺人もの「風流六歌仙」(6巻)に怪盗ものの「日本左衛門」(13巻)。
草双紙趣味の怪談仕立てから、人情噺として余韻を残す「雪女郎」(2巻)と、佐七ファミリー(恋女房のお粂、子分のふたり・きんちゃくの辰にうらなりの豆六)の大活躍が楽しい「離魂病」(6巻)。
浮気性の佐七とやきもち焼きのお粂の夫婦喧嘩という、シリーズの一面w を代表させて(しかし油断していると、最後にアッと言わされること必至の)「五つめの鐘馗」(2巻)。

このへんは、もし機会がありましたら、騙されたと思って目を通していただければ・・・と願ってやみません。
岡本綺堂の<半七捕物帳>が写実派なら、こちらはまあ印象派で、時代物の愛好家でなくても大丈夫、敷居は低いですw

シリーズの、気になる残りの30話は、出版芸術社の<横溝正史時代小説コレクション 捕物篇>の『幽霊山伏』と『江戸名所図絵』にまとめられています。
なぜこれが春陽文庫未収録なのか、と不思議に思うくらい面白い作も目につきますから(もちろん出来不出来の差は激しいですがw)、こちらもおってご紹介しましょう。


No.82 5点 幽女の如き怨むもの
三津田信三
(2012/06/08 11:34登録)
たまには新刊も読んでみようシリーズ国内編w ホラーとミステリのハイブリッドを模索する、三津田信三の刀城言耶シリーズ、長編第6弾です。

戦前――地方の遊郭<金瓶梅楼>に売られてきた少女・桜子は、やがて花魁・緋桜として働き始めるようになる。しかし、その遊郭の最上階には、何やら得体の知れないものが棲みついているようで・・・
戦中、戦後と名を変えて続く遊郭で、緋桜と言う源氏名の花魁がデビューするたびに、相次ぐ怪異。とり憑かれたような身投げの連鎖。偶然なのか、因縁なのか、それともそこに、隠れた犯罪意志は存在するのか?

作者の十八番である、どんでん返しの連続技が見られない点に、不満をもたれる向きもあるようですが、あのデススパイラル、ホラーとミステリの綱引きにいささか食傷気味の筆者には、最初から最後まで、ホラーでもミステリでもありうるグレーゾーンのなか、核になるアイデアで一発逆転を狙うこの試みは、むしろ好ましく思われます。
問題は、そのアイデアの具体化に無理があり(無理なところにいくら伏線を重ねたところで)、結果、多重解決のダミー解として退けられる程度の説得力しか、確保できていないことでしょう。
日記(第一部)、インタビュー原稿(第二部)、作家のドキュメント(第三部)にもとづく、刀城言耶の謎解きパート(第四部)が、完全にある人物とのなれ合いになってしまい、有耶無耶のうちにイイハナシダナーで決着してしまうのも疑問。
もしその“解釈”が正しいとすれば――複数の人間を手にかけ、問題解決の手段として殺人を選択することをためらわない犯人を、いっさい追及しないことが美談ですか?

さて。
前作『水魑の如き沈むもの』あたりから向上したリーダビリティは、本書でも健在で、ことに第一部の、初代・緋桜の日記パートなどを読むと、これがあの、小説の下手だった三津田信三かと、感慨を禁じえないものがあります。
ただねえ、うますぎて、あの作中キャラの“日記”にはとても思えないw 完全にプロの“小説”です。緋桜さんに言ってあげたい。アナタ、この筆力があったら、苦界を出たあと文章でご飯が食べられますよ。
冗談はさておき。
この“日記”が遊郭に残される経緯(「ちょっと迷ったけど――」p.252)が、じつは筆者には一番の謎でした。不自然すぎるでしょう、これ?

テクストの不自然さと言えば、言耶の「はじめに」もそうですね。
本書は、将来の出版にそなえて彼が整理した、複数のテクストの集積という体裁をとっています。
それなのに、なぜか第四部を執筆する前に、序文をしたためている。そのヘンな設定(と言いわけ)は、作者がギリギリのところでミスディレクションを盛り込むため採用されたものですが・・・
でも、あの「第四部」を書いてしまった以上、「はじめに」の文章は書きなおさないとマズくありませんか、探偵作家の刀城言耶さん?

採点は、筆者好みの“遊郭小説”を堪能したことw と、怪異の原因が判然としないため生じる、岡本綺堂的モダン・ホラーの味わいをめでてのものです。

221中の書評を表示しています 121 - 140