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Tetchyさん
平均点: 6.73点 書評数: 1590件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.42 5点 デスペレーション- スティーヴン・キング 2024/07/21 01:35
今度のスティーヴン・キングが舞台にしたのはネヴァダ州の砂漠にある小さな鉱山町デスペレーション。チャイナ・ピットと呼ばれるアメリカ最大の露天掘りの銅鉱山の町だ。そこにいる狂える警官によって狩られる旅行者たちの物語だ。

物語はしかし最初は田舎の町を独裁する警察官の横暴の数々が描かれるため、悪徳警官小説だと思われた。
よく田舎の町ほど恐ろしいところはないという。なぜなら田舎には町を牛耳る権力者がいれば、その者こそがその町の秩序であり、法となり全てを思いのままに支配することが出来るからだ。つまりいわゆる世間一般の常識が通用しなくなる。
そしてこのデスペレーションでは警官コリー・エントラジアンこそが法である。
しかし物語が進むにつれてこの巨漢の悪徳警官が次第にこの世ならざる者、即ち異形の者であることが判明していく。

物語の半ばで判明するのは鉱山町デスペレーションのある黒歴史だ。銅鉱だけでなく、金や銀も取れていた時代にさらに深く坑道を掘り進めるために緩い岩盤の中を掘っていくのを恐れた白人の鉱夫たちの代わりに雇った中国人労働者たちが落盤事故のために生き埋めになってしまったのだった。その数は白人の現場監督と工程主任を入れた57人。そして鉱山技術者とオーナーたちは救出のために落盤事故を誘発するのを恐れ、結局発破をかけて坑道を閉じてしまったのだった。

狂える殺人警官コリー・エントラジアンは腐っていく身体を人質の1人エレン・カーヴァーを一緒にチャイナ・ピットに連れて行くことで彼女の身体を乗っ取って入れ替わる。もはやコリー・エントラジアンという存在ではなく、殺人鬼は“それ”という存在に呼称も変わる。

本書は善なる神と邪悪な神との戦いへと変貌していくのだが、それはキング作品ではこれまで見られなかったほど、伝奇的色合いが濃くなっていく。鉱山という特殊な舞台ゆえか田舎町に残る言い伝えや呪いの類が本書の恐怖の根源となっている。恐らくは世界各地にある鉱山に纏わる逸話なども盛り込まれているのだろう。

正直この最後の結末を含めて私は本書を十分理解できなかったように思える。さて次は本書の姉妹編であるリチャード・バックマン名義の『レギュレイターズ』を読んで本書で腑に落ちなかった部分を補完してみよう。

No.41 10点 グリーン・マイル- スティーヴン・キング 2024/06/28 00:37
スランプ状態から抜け出したスティーヴン・キング復活の作品と云えば先の『ドロレス・クレイボーン』でもなく、私は本書を挙げる。

作者自身の前書きにも触れているが、本書はキングにとって刑務所を舞台にした2作目の小説である。1作目は映画『ショーシャンクの空に』の原作中編「刑務所のリタ・ヘイワース」で、長編としては2作目になる。そのいずれもが傑作であり、しかも映画も大ヒットしている共通点がある。実は刑務所小説はキングにとっても相性がいいのではないだろうか。
そして「刑務所のリタ・ヘイワース」がそうであるように本書もまた傑作である。いや、もしかしたらキング作品の中で一番好きな作品が本書なのかもしれない。
キングは時々魔法を掛ける。それもワンダーとしか呼べないほどの。

とにもかくにも登場人物のキャラクターが立ちまくっている。語り手の刑務所看守主任ポール・エッジコムはじめ、看守ディーン・スタントン、ハリー・ターウィルガー、ブルータス・ハウエル、そしてパーシー・ウェットモア。

一方で囚人たちもまた粒揃いのキャラクターが揃っている。
エデュアール・ドラクレア、〈荒くれ(ワイルド)ビル〉ことウィリアム・ウォートン、そして何よりも物語の中心となる囚人ジョン・コーフィの造形が素晴らしい。

ポール・エッジコムら他の看守にとって目の上のたん瘤であり、また悩みの種であったパーシー・ウェットモアとウィリアム・ウォートンがまさかこんな形で片付けられようとは。なんという始末の付け方だ。
私はこのシーンを読んだときにキングに神を見た。

最後の最後まで驚きと感動が詰まった作品だった。前書きでキングは結末まで考えてなく、読者同様作者もどんな結末になるか解らないと書いてあるが、それが信じられないほど、全てが収まるべきところに収まり、そしてそれがこれまでにない素晴らしい物語となっていることに驚く。
やはりこれはジョン・コーフィにキングが書かされた物語ではないか、そんな風に思わされてしまう。

前書きに描かれているが、本書は難産だったらしい。しかしその苦労が報われるほどの素晴らしいお話が降りてきていた。生みの苦しみの末に出来上がった本書は現時点で私の中でキング最高作品となった。

久々に読後ため息が漏れ、世界に浸れた物語だった。やはりキングはすごい。まだこんな物語を書くのだから。
そしてその後も傑作を生みだしていることを考えると、本書がまだ彼の創作の途上に過ぎないのだ。
いやあ、もう言葉にならないね、凄すぎて。

グリーン・マイル。それは電気椅子に至る廊下がライム・グリーンのリノリウムが貼られていたことで付けられた俗称だった。
しかしこの言葉は最後に語り手のポールが嘆き呟くように、人生の最期に至る道のりを示すのではないか。
私のグリーン・マイルはまだまだ遠くにある。そして104歳のポールと異なるのは彼がそのことを絶望しているのに対し、私はまだそのことに安堵していることだ。

まだまだ読みたい本がたくさんあり、まだまだ人生を楽しみたい。
私がグリーン・マイルを歩むとき、全て成し終えたと笑顔であるように祈っている。

No.40 8点 ローズ・マダー- スティーヴン・キング 2024/06/04 00:19
本書は長年夫に虐待を受けていた女性がある日突如思い立ち、夫のキャッシュカードを手に逃亡するお話だ。もちろん夫はそれまで支配していた妻の反抗を許すわけがなく、妻の行方を追ってくる。
今まで数多書かれた不幸な女性が困難に立ち向かう話だが、キングが秀逸なのは虐待夫を刑事にしたことだ。つまり本来ならば自身が受けたDVを通報する相手である警察が敵の仲間なのである。

主人公の夫ノーマンがまたひどい人物なのだ。
まず物語は彼が癇癪を起して妊娠中の妻を襲って流産させると云うショッキングな出来事から幕を開ける。
更にはライターの炎でロージーの指先を焙ったり、鉛筆の尖った芯でひたすらロージーの皮膚を無言で突く。血が出ない程度に延々とそれを続けるのだ。
もっとひどいのはロージーの肛門にテニスのラケットを突き刺して悦んでさえいたのだ。
とにかく過剰なまでの女性蔑視者であり、服従していた妻が自分のキャッシュカードを盗んで逃亡したと云う事実に屈辱を覚え、代償を払ってもらうために彼は彼女の行方を執拗に追うのだ。

そして最大の特徴は彼が噛みつくことだ。彼は人の皮膚を、肉を噛みたくて仕方がない衝動に駆られる。
ただこれまでは歯形が着く程度に噛みついていたのだが、妻のロージーが逃げてからはこれが顕著になり、相手の皮膚を突き破って口から血を滴らせるまでになる。さらには人を噛み殺すまでに至る。

また少しでも気に食わないことがあればすぐにその人物を完膚なきまでに叩きのめしたり、銃で撃ち殺したいといった破壊衝動に駆られるのだ。
まさにパラノイアである。
一方で玄関のドアに3つも鍵を取り付け庭には侵入者探知センターを取り付け、自分の車には盗難防止アラームを取り付ける用心深さを持つ。
更には警察としても実績を挙げており、クラックの全市密売網の一斉検挙で最功労者となり、出世し、周囲から一目置かれている存在なのだ。

一方被害者のロージーだがどうも周囲から見下されるオーラを纏っているようだ。逃亡先の街に到着してバスを降りるなり、飲んだくれの男に卑猥な言葉を向けられる。優しく道案内してくれる老人と話せば、少し道筋が知ってることを示せばムッとされる。
彼女にきつく当たるのは男性だけかと思えば手押し車の太った女に虐待された女性たちのセーフハウス〈娘たち&姉妹たち〉への道のりを尋ねると痛烈な罵声を浴びせられ、更に若い妊婦にもきつい言葉を掛けられた挙句に突き飛ばされる。永らく夫に虐待されていたことに由来する自信の無さゆえに負のオーラが滲み出ているのだ。

なんせ結婚してから14年間も虐待されてきたのに加え、ほとんど外出することもなかったのだから無理もない。しかも彼女の家族、両親と弟は結婚して3年後に交通事故で亡くなっており、彼女には駆け込み寺となる場所が、人がいなかったのである。
また彼女が流産したことを悲しむ反面、安堵を覚えるのはもし子供が生まれたら、夫が子供にどんな虐待をするのか想像するだに恐ろしいからだ。自分の流産を、しかも夫の暴力によってなってしまった不幸ごとをそのようにして安堵する彼女が何とも不憫でならない。

さて〈娘たち&姉妹たち〉という安寧の場所を得たロージーは人間らしい生活を取り戻すことで次第に人並みに笑い、そして振舞うことが出来るようになってくるが、彼女を決定的に変えるのが≪リバティ・シティ質&金融店≫での丘の上に立つ女性の後姿を描いた絵との出遭いである。
彼女は絵の中の女性を絵の裏に書かれていた文字から赤紫色を意味するローズ・マダーと名付け、事あるごとに彼女の心の支えになる。

さて今回の敵ノーマン・ダニエルズこの刑事という捜査技術と知識を備え、更に巨躯と怪力と人を殺すこと、傷つけることを厭わない、いや寧ろその衝動が抑えきれない最凶のサイコキラーだが、絶望的に強いわけではなく、ロージーが所属する〈娘たち&姉妹たち〉が開催したイベント会場では護身術と空手を身に付けた巨漢の黒人女性ガート・キンショウに撃退されるのだ。しかも馬乗りになった彼女に小便を引っ掛けられ、ほうほうの体で逃げ出す始末。
つまり誰も彼もが抵抗できないほどの悪党ではないのだ。ここがクーンツとの違いだろう。クーンツの描く悪党は周到な準備をして、どんどん主人公を追い詰めていき、更にはどんな抵抗も効かないほどの圧倒的な力を誇り、どうやっても勝てないと思わせる絶望感をもたらすのに物語の終盤では大したことのない方法や手法で簡単に撃退され、ものすごく肩透かしを食らうのだ。
またこのノーマン・ダニエルズ自身も幼い頃に父親から虐待を受けて育った被害者でもあり、更に女性蔑視の精神も父親に叩きこまれていた。従って彼は女性に抵抗される、自分より弱い者に抵抗されるとすぐに動揺と恐慌を覚える精神の弱さも持つ。

このノーマンの最期はロージーが購入した絵の世界でローズ・マダーによって無残な姿になって殺されてしまうのだが、このノーマンが一般の人でも撃退されたシーンを描いたことで超常現象でしか問題が解決しない訳ではないことを示したのは救いを感じる。

夫の虐待からの逃避と生還といったオーソドックスな物語に絵の世界に入って夫を葬り去ると云うスーパーナチュラルな設定を盛り込んだキングが結んだ物語の結末は、虐待をされた人間のその後をも描き、それを静謐な森の中というファンタジーのように終える。
私はどうにもこのローズ・マダーの絵の話は余計だったように思う。永らく虐待を受けていた女性が救われる話ならば、やはり切りのいい終わり方をしてほしいのだが、キングは安直なハッピーエンドを用意せず、最後にしこりを残して終えるのだ。

キングは常々家庭内暴力、家庭の中で圧倒的な支配力を持つ夫や父親を描いてきた。本書はそれまで物語の背景やエピソードとして書かれてきた設定をそのままテーマにした物語である。だからこそすっきりと終ってほしかったのだが、このようなしこりの残る終わり方をしたことはキング自身にとってまだこの家庭内暴力、虐待のテーマは素直に決着を付けられない根の深いものだと云うことだろうか。
この令和の今でも社会問題になっている虐待。確かにその中に取り込まれた者たちには虐待をする者だけでなくされた者も人生において終わりなき代償が必要なのだとキングは云いたかったのかもしれない。

No.39 8点 不眠症- スティーヴン・キング 2024/04/27 01:05
物語の舞台はキャッスルロックに並ぶキングの架空の町デリー。そう、あの大著『IT』の舞台となった町だ。
勿論その作品とのリンクもあり、“IT”に立ち向かった仲間の1人マイク・ハンロンは図書館々長となっている。

さて上下巻約1,280ページに亘って繰り広げられるこの物語はスーザン・デイという中絶容認派の女性活動家の講演を招致することでデリーの街が中絶容認派と中絶反対派に二分され、そして彼女がデリーの街に訪れるXデイに起こる惨事を主人公が食い止める話だ。

しかし途中で物語はスピリチュアルな展開を見せる。そして見えてくる物語の構造を端的に云えば、次のようになるだろう。
デリーの街に蔓延る異次元の存在。彼らが解き放ったサイコパスから街を守るのは不眠症の老人男女2人だった。
冗談ではなく、これが本書の骨子である。
本書の主人公70歳の老人ラルフと68歳のロイスが立ち向かうのは不眠症とエド・ディープノーという男、そして彼にも見えるチビでハゲの医者だ。
まずエドという男はいわば“隣のサイコパス”ともいうべき存在。常に微笑みを絶やさない、好青年ぶりを発揮する。しかし彼もまたオーラの世界と云う異次元を見る能力者であり、デリーの街が持つ特別な≪力(フォース)≫を知覚する人物でもあった。

さて本書で述べられる主人公ラルフの不眠症。実は私にも当てはまることがいくつかあり、背筋に寒気を覚えた。従ってラルフの抱える苦悩は肌身に染み入るほど私事として捉えることができた。本当に不眠症は辛いのである。

そしてラルフとロイスが不眠症が重くなるにつれて見えだすオーラの世界に住まう異次元の存在、3人のチビでハゲの医者たちと称される者たちはラルフが例えるギリシア神話の「運命の三女神」、クロートー、ラケシス、アトロポスと名乗る。
彼らは生物に繋がっている風船紐を断ち切ることで死をもたらす。
しかしアトロポスが風船紐―医者たちの言葉を借りれば生命コード―を断ち切っても死ななかった存在、それがエド・ディープノーなのだ。それはつまり彼こそがデリーの街を二分する騒動や不安をもたらしたマスターコード、災厄の種であるとクロートーとラケシスは述べる。

ラルフとロイスは次第にオーラが見える力を安定させていく。
まず彼らは不眠症を重ねることでどんどん若々しくなっていき、その結果周囲の人たちから不眠症が治ったと勘違いされるが、これは彼らが周囲の人たちのオーラを頂戴する能力を備えているからだ。

なかなか構造が見えにくい物語だったが、ラルフとロイスにオーラの世界を知覚し、そしてオーラを自由に操る能力が授けられたのはある任務のためだった。
3人の医者のうち、≪意図≫の生死を司るクロートーとラケシスは魂の風船紐をアトロポスに断ち切られても生きており、彼はいわば自由に動ける存在で、真紅の王から特別な任務を授かっている。彼がプラスチック爆弾を乗せた飛行機でスーザン・デイの公演が行われるデリー市民センターに突入し、2,000人もの中絶容認派たちを大量虐殺しようとするのだが、クロートーとラケシスが止めるようとしているのはスーザン・デイや2,000人の命を守るためではなく、そこに居合わす特別な存在、その後の世界にとって重要な役割を担う1人の子供の命を救わせるためだった。
それがパトリック。ダンヴィルという少年で18年後に2人の男の命を救うことになっており、そのうちの1人は≪偶然≫と≪意図≫のバランスを保つために死んではならない存在となる。つまりパトリックがその男を救うことで世界の崩壊が免れることになるという、いわば救世主のバトン役みたいな存在だ。
結局“Xデイ”の中心となるスーザン・デイは単なる狂言回しに過ぎなかった。彼女は物語の舞台に上がる前に爆風によって割れたガラスで首を斬られただけである。彼女は全く“特別な存在”ではなかったわけだ。

そして驚くべきことにパトリックが市民センターで裏紙に書いている絵はなんと暗黒の塔の上に赤い服を着た男とそれと対峙する拳銃使いの男の絵なのだ。そして拳銃使いの名はローランドなのだとパトリックは話し、彼はたびたび夢の中でローランドと逢っているらしい。
なんと本書でデリーの街と『ダークタワー』シリーズが繋がるのである。

とにかくもラルフは見事ミッションを果たし、そして彼はその後ロイスと再婚し、実に幸せな日々を送る。そして事件の後、彼ら2人の不眠症はぱったりと止み、やがてオーラの世界のことも次第に忘れていく。
本来ならば物語はここで閉じられるのだが、キングは60ページにも亘るエピローグを語り、衝撃の結末を我々読者に見せる。そしてそれは本書では明らかにならなかったあるイベントの内容の答だった。そしてこのエピローグで私の本書の評価がグッと上がったのだ。それについて触れるためにある印象的なシーンについて述べよう。

ラルフとロイスが最後の戦いに挑む途中で街の老人仲間のフェイ・チェイピンを中心としたチェス仲間が集まってチェスに興じる姿に2人は宝石のような美しいオーラを見出すシーンがある。私はこのシーンを読んだときに思い出したのは東野圭吾氏の『容疑者xの献身』の次の文章だ。
人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある。
そう、人は単に生きているだけで美しいのだ。気の置けない仲間たちと休日、集まってチェスに興じ、笑い、語らい、そして冗談を云いあい、まるで子供のように楽しむ。
それはまさにクリスタルのようなかけがえのないひと時なのだ。そんな素の姿を出している人々はそれだけで美しいのだ。
そしてそれを象徴するかのように物語の最後を迎える。

『IT』で登場したキングが創造したキャッスルロックに次ぐ架空の街デリー。この街には他の街にない特有の見えざる力が働くようだ。

この街の下水道は“IT”の巣窟であったが、今回災厄の中心とされたエド・ディープノーの結婚指輪がこの下水道に飲み込まれる。それは再び災厄が訪れることを象徴しているのだろうか?あの奥深くてジメジメとした下水道の中で。
そして『IT』でも少年たちが子供の頃に一度“IT”と対決したことを忘れていたように、ラルフもクロートーとラケシスに頼まれた使命を果たした後、不眠症が解消され、オーラの世界のことを忘れてしまう。
そして時が流れ、成長したナタリーにアトロポスの魔手が伸びるその時が近づいた時にラルフは不眠症が再発し、やがてオーラの世界のことも思い出していくのである。

あまりに強烈な悪夢を見ると起きた時にその印象だけが残ってどんな夢か覚えていないことがある。
デリーの街もまた同じようで、時に運命の分かれ目と云えるほどの大きな災厄が訪れるが、それを乗り越えるとそれに関わった人々はその強烈さから心を護るためか、その戦いについて忘れてしまうようだ。おそらくそれがこのデリーという街特有の自浄作用なのだろう。
忘却と災厄の街。この呼び名がデリーには似合うようだ。

そして今回ラルフが市民センターに突入しようとした飛行機の中で遭遇した真紅の王は、対峙する者の記憶の奥底に眠るトラウマの対象に姿を変えて現れる。今回ラルフの前に現れた真紅の王は7歳の時にラルフが釣り上げて死なせたナマズ、クイーンフィッシュの姿で現れた。
これはまさに“IT”ではないか。

“IT”、真紅の王と巨大な悪を迎えたデリーにまだ安息は訪れないのか。次の災厄はどんな敵の姿で現れるのか。私の不眠症が解消されないのと同様に、またも誰かが不眠症にうなされそうだ。

No.38 7点 ブルックリンの八月- スティーヴン・キング 2023/02/18 01:20
本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の最終巻である。モダンホラーの帝王と評されるキングだが、本書はそれまででもホラー以外の様々なジャンルの短編が収録されていたが、最終巻の本書でもそれは変わらない。

クライムノヴェルあり、ホームズ物のパスティーシュ(!)あり、ハードボイルドあり、そしてノンフィクションあり、そして詩に童話とこれまでで一番ヴァラエティに富んだ作品集となった。何しろキングの十八番であるホラーが1編もないのだ。そしてそれらはまさにその道の作家が憑依したかのような出来栄えである。いやはやキングの才能の豊かさに驚かされるばかりだ。

さて本書のベストは「ヘッド・ダウン」を挙げたい。ホラーでもなく、フィクションでもない、作者自らがエッセイと述べているノンフィクション作品は自分の息子が所属していたリトル・リーグ・チーム、バンゴア・ウェストが勝ち上って1989年度のメイン州リトル・リーグ・チャンピオンになるまでの足取りを描いた作品だ。
時にスポーツはフィクションを超える感動をもたらすが、本作もそうで、まともなユニフォームさえもない地方の一少年野球チームがコーチ3人の指導の許、勝ち上がっていく様子が実に楽しい。
そしてこんな劇的な出来事を目の当たりにしたキングはこのことを書かずにはいられなかったのだろう。記憶に留めるだけではなく、記録に留め、そして親バカと云われようが、作家と云う特権を活かして読者に触れ回りたかったに違いない。まさに親バカ少年野球日誌。しかしそれがまた実に面白いのだから憎めない。

次点として「ワトスン博士の事件」を挙げる。キングによるホームズ物のパスティーシュである―おまけに密室殺人事件を扱った本格ミステリ!―という珍しさもあるが、実によく出来た内容で驚かされた。ホームズ物のパスティーシュでは正典で書かれなかった理由もまた1つの趣向であるが、本作はそれもまたきちんと設定されており―まあ、ありきたりではあるが―、内容もなかなかに読ませる。キングの文体は情報量が多いのが特徴だが、それが逆に改行の少ない古典ミステリにマッチして違和感を覚えさせなかった

今回これほどまでにヴァラエティに富んだ短編群を読んでキングのどうにも止まらない創作意欲の熱をますます感じてしまった。そしてホラーやファンタジーだけのキングよりも私は短編群で見せた様々なジャンルの彼の作品が好きである。
やっぱりキングは短編もいいよなぁと思わされた。この後も短編集は分冊形式で訳出されているが、願わくばこの流れは決して止めないでいただきたい。

No.37 7点 メイプル・ストリートの家- スティーヴン・キング 2023/02/12 01:20
『ドランのキャデラック』、『いかしたバンドのいる街で』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の3冊目の訳書である。

普通小説、ホラー、モンスター小説、侵略物のSF小説、ジュヴナイル。しかし各編は左に書いたジャンルを見事にミックスさせて一括りにできない作品に仕上げている。
いやだからといって全くストーリーは複雑ではない。寧ろシンプルだ。しかしシンプルなストーリーに複数のジャンルを放り込んでいるのだ。

さて本書におけるベストは表題作の「メイプル・ストリートの家」だ。
なかなか懐けない継父との確執が募る4人の兄妹たちの鬱屈を、最後に家ごと吹っ飛ばすことで解消すると云う何とも豪快な結末に溜飲が下がった。

とにかくキングはどんなジャンルの話も書けるのだという思いを強くした。
この短編集では普通小説も収録されている。これは逆に他の作品も読める短編だからこそ著したのだろう。
さすがにキングのビッグネームでもこの手の普通小説は長編では盛り上がりに欠けて売れ行きも芳しくならないだろう。
さて“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”もあと1冊。次はどんな悪夢が、どんな風景を見せてくれるのだろうか。

No.36 7点 いかしたバンドのいる街で- スティーヴン・キング 2022/02/09 23:59
短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の本書は6作が収録され、総ページ数は330ページ強。1冊目が7作収録で320ページ弱だったから2冊合わせて13作と650ページほどの分量だ。
しかもまだ半分なのだから、キングの短編集の分厚さには驚かされる。

2冊目の本書には貧困層の黒人夫婦の息子が作家になった秘密、洗面所から出てきた動く指に悩まされ、格闘する男の話、トイレの決まったブースに入っている白いスニーカーの持ち主に纏わる話、迷った挙句に辿り着いた街の恐怖、一家の長を喪った女性の一大決心と世界の終末の話、田舎町を訪れた若いカップルを襲った怪異現象の正体などがテーマになっている。

そしてそれぞれの物語のアイデアは単なる思い付きに過ぎないものも多い。

ろくに教育も受けていない両親から生まれた子供が作家になった。
もし排水口から人間の指が覗いていたら怖いなぁ。
いつもあのトイレのブースに同じ靴があるんだよな。
折角の旅行だから知らない道を通って“冒険”しようじゃないか!
我が身に起きた不幸のために世界の終りだと感じた時、本当の世界の終りが来たら?
空からヒキガエルが大量に降ってきたら気持ち悪いよな。

それらは我々の周囲にもよくある話だったり、またふとしたことで頭に浮かぶふざけ半分のジョークのような思い付きだったりする。
しかしキングがすごいのはその思い付きからその周辺を肉付けしてエピソードを継ぎ足して立派な読み物にすることだ。

そんなことが起こる人々、そんな奇妙なことに直面する人たちはどんな人だったら物語が生きるか、その人たちは職業に就き、どんな生い立ちを辿ってきたのか、独身か結婚しているのか、家族と暮らしている子供か、それとも一人暮らしなのか恋人と同棲しているのか、とどんどん肉付けしていく。そして普通の生活をしている我々同様に彼らは自分たちに襲い掛かる災厄に対して信じようとせず、一笑に附することで最悪な結末を迎えることになるのだ。

そんな中、「自宅出産」は本書における個人的ベストだ。
まずは典型的な父長制である家族が頼りにしていた父親が死に、その代わりとなる夫もまた死ぬことで身重である女手一人で生きていくファミリードラマ風の展開から一転して世界中で死者が蘇る怪奇現象に見舞われるという全く予想もつかない展開に思わず声を挙げ、そしてネタバレになるが、死んだ夫が蘇るに至り、それを我が身に宿る我が子のために撃退して生きていく決意をする主人公が頼りない娘から逞しい母親へと変わった姿になんだか胸を打たれる。
こんな奇妙な女細腕奮闘記、キングにしか書けないだろう。

これほどまでに物語を紡ぎながらも我々の心の奥底にある恐怖を独特のユーモアを交えて掻き立てるキングの筆致はいささかも衰えていない。
さてようやく半分の折り返し地点である。次はどんなイマジネーションを見せてくれるのだろうか。

No.35 7点 ドランのキャデラック- スティーヴン・キング 2021/12/21 23:50
キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目。しかし1冊の短編集が4冊に分かれて刊行されるのは出版社の儲け主義だと思われるが、キングの場合、逆にこれくらいの分量の方が却っていいから皮肉だ。

その内容は妻を殺された男の復讐譚、ある発明をした弟を殺した小説家の告白文、厳格な教師の哀しき末路、吸血鬼の連続殺人事件を追う記者が出くわした真の恐怖、ギャンブルで抱えた多額の借金を返済するために子供の誘拐を請け負った男が辿った悲惨な結末、人を食うと噂される屋敷の歴史、ゼンマイ仕掛けの歩く歯の玩具を貰い受けた男がカージャックに遭う話とこの1巻目だけで実にヴァラエティに富んでいる。

そんな中、収録作中3作が怪物を扱った作品だ。この頃キングは45歳。この年になるとサイコパスなど人間の怖さを扱う作品が多くなりがちで、なかなか怪物譚などは書かなくなると思うのだが、キングは本当にモンスターが好きらしい。

またキング作品のおなじみのモチーフであるサイキック・バッテリーとしての家の物語や“意志ある機械-正確には今回は器械だが―”の話もあり、初心を忘れないキングの創作意欲が垣間見れる。

しかしそれらおなじみの、いわばパターン化した作品群であるが、成熟味を増しているのには感心した。

例えば怪物譚で云えば「幼子よ、われに来たれ」ではいわば厳格な教師に従わない生徒に直面して精神の異常を覚える話か本当に生徒は怪物だったのかと不穏な余韻を残して幕を閉じれば、「ナイト・フライヤー」の鏡に見えない吸血鬼が小便を、しかも血の小便をするシーンは戦慄を覚える。

「丘の上の屋敷」ではキャッスルロックの数少ない年老いた住民たちの群像劇と彼らの会話が延々と続く中で、彼らの話題の中心となっている丘の上の屋敷を主のいない今誰が増築しているのかと語ることでもはや家自体が自ら増築していることを仄めかされる―この作品は2回読んだ方がいい。1回めではキングの饒舌ぶりも相まってとりとめのなさが先に立ち、作品の意図を掴むのが難しい―。

そして最後の「チャタリー・ティース」ではゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃが新しい主を待ち受けていることが判るのだが、なぜそのおもちゃが彼を選んだのかは不明だ。

そう、作家生活19年にしてキングの描く恐怖はさらに磨きがかかっているのだ。しかもそれらが映像的でもあり、また鳥肌が立つような妙な不可解さを感じさせる。

西洋人の恐怖の考え方はその正体の怖さを語るのに対し、日本人は得体の知らなさそのものの恐怖を語る。つまり恐怖の正体が判らないからこそ怖いというのが日本式恐怖なのだが、本書のキング作品もどちらかと云えば後者の日本式の恐怖を感じさせる。

そんな円熟味を感じさせる作品集のまだ4分冊化されたうちの1冊目なのだが、早くもベストが出てしまった。それは「争いが終わるとき」だ。
この作品は最初何を急いで書き残そうとしているのか判らないまま、物語は進む。つまり物語自体が謎であり、メンサのメンバーになっている両親から生まれた兄弟の生い立ちが語られ、どこに物語が向かっているのか判らない暗中模索状態で読み進めるとやがて強烈なオチが待ち受けていたという構成の妙が光る。そしてそのオチが見事に手記の形態で書かれていたことにも繋がっており、久々唸らされた作品だ。

短編が売れない昨今の出版事情の中、敢えて短編集を出すのは彼には大小さまざまな物語を書かずにはいられないからだ。
そしてそれは今なお続いており、つい先日も『わるい夢たちのバザール』という短編集が分冊で訳出されたばかりである。

ちなみに冒頭にも述べたが本書は“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”、即ち“悪夢と夢のような情景たち”と題された短編集の一部である。つまり本書刊行後、28年を経てもなおキングの悪夢は続いているのだ。
それではその悪夢を引き続き共有しようではないか。

No.34 7点 ドロレス・クレイボーン- スティーヴン・キング 2021/10/21 23:35
本書は前作の『ジェラルドのゲーム』と同じく皆既日食の時に起きた事件の話だ。アメリカの東西で皆既日食の時に起きた事件を語る趣向のこの2作はしかし厳密な意味ではあまり関連性がない。

本書は章立てもなく、ひたすらドロレス・クレイボーンという女性の一人語りで展開する。
通常こういう一人称叙述の一人語りは短編もしくは中編でやるべき趣向だが、なんとキングはこれを340ページ強の長編でやり遂げたのだ。まあ、もともとキングは冗長と云えるほどに語り口は長いので、キングなら実行してもおかしくはないのだが。

さて全くの章立てなしで最初から最後まで通して語られる物語はドロレス・クレイボーンという女性が犯した殺人の告白であり、彼女の半生記でもあり、またセント・ジョージ家の家族史でもあるのだ。そしてふてぶてしい老女の一人語りはなぜ彼女がふてぶてしくなったのかが次第に判ってくる。彼女は理不尽な日々を耐えるうちにふてぶてしさの鎧を身につけていったことに。

前半はドロレスが長年家政婦として仕えていたヴェラ・ドノヴァンとのやり取りが語られる。
このヴェラの世話の一部始終を読んで立ち上るのは介護の問題だ。ドロレスが長年やっていたのは裕福な老女の世話でそこには介護の苦しみが描かれている。そういう意味では介護問題が社会的問題になっている今こそ読まれるべき作品であろう。
しかしドロレスは見事それをやり遂げる。そして22歳で家政婦になってからこれまでずっと彼女に仕えるのだ。そこには単なる主従の関係を越えた、お互いの秘密を共有した鉄の絆めいたもので結ばれるのだ。

さてその絆とは一体何なのか?
それが後半のいわば物語の核心で語られる、当時容疑を掛けられても起訴に至らなかった夫ジョー・セント・ジョージ殺しの一部始終である。
このジョー・セント・ジョージと云う夫、キング作品に登場する家族の例にもれず、問題のある亭主である。

ドロレスには内なる目というイメージを持っている。それは物事を客観的に見つめる、殺意という名の目だ。彼女は夫ジョーの度重なるろくでなしぶりに殺意を募らせ、その目が次第に大きくなっていくが、今一歩踏み切れないでいる。しかしその葛藤をヴェラは気付き、促されるままにドロレスは夫ジョーの行った家族への仕打ちと彼に対する報復の思いを吐露するが、一歩踏み切れないでいることも打ち明かす。
そしてドロレスの決意を押したのはヴェラだった。彼女がドロレスからその話を聞いた時、彼女は目のことを話す。ドロレスは自分が持っている目のことをヴェラもまた知っていること、または彼女もまたそれを持っていることを知り、後押しされるのだ。
これが2人の強固な絆を築くこととなった。

皆既日食の日を共通項に2つの異なる密室劇を描いたキング。
片や脳内会議が横溢した決死の脱出劇、片や1人の女性の記憶で語られる半生記。
その両者の軍配はどちらも地味ならばやはり余韻が深い本書に挙げる。

No.33 4点 ジェラルドのゲーム- スティーヴン・キング 2021/09/23 00:08
もはや監禁物はキングの数ある作品群の中で1つのジャンルを形成したと云えるだろう。
『クージョ』、『ミザリー』に続き、キングが用意したシチュエーションは子供のいない弁護士と元教師の夫婦が別荘で拘束プレイに興じようとして、抵抗した挙句に夫が心臓発作で亡くなってしまい、一人ベッドに手錠につながれた状態で取り残された妻の話だ。まあ、何とも苦笑を禁じ得ない状況であるが、直面した当人にとっては生死にかかわる大問題である。

正直シチュエーションはこれだけだ。これだけのシチュエーションでキングはなんと約500ページを費やす。妻ジェシーが夫に抵抗して心臓発作を起こして亡くなってしまうのが30ページ目。つまり残りの470ページを使って拘束された妻の必死の脱出劇を語るのだ。しかしよくこんなことを小説にしようとしたものだ。

この実に動きのない状況の中にもかかわらず、それだけのページを費やしているのはやはりキングの豊富な想像力によって生み出される次から次へと降りかかる危難、困難の数々と拘束されたジェシーの頭の中で巻き起こる妄想や回想の数々だ。

喉の渇きを覚えたジェシーが夫がセックスの前にベッドの棚に置いた氷の入った水のコップを取り、そして口に運ぶのも大いなる苦行となる。手錠に繋がれたまま、コップに手を伸ばし、棚を傾けさせて自分の方に引き寄せて取るまでに16ページを費やし、そしてコップを手にしたものの、今度は手錠の鎖のために口にまで持って行けないため、落ちていたDMを拾ってそれを丸めてストロー代わりにして飲むまでに18ページを費やす。このコントでもありそうな様子がジェシーにとっては生きるか死ぬかの死活問題なのだ。

窮地に次ぐ窮地の中、ジェシーはとんでもない秘策に出る。それは自身の血を潤滑剤にして手首を抜き出すことだ。傷をつけるのは水を飲み干したガラスコップ。
いやあ、私はこの着想を読んだとき、キングという作家はなんとも頭がいい作家だと感心するとともに旋律を覚えた。何と悪魔的な手法を思い付くものだと。
そこからの手錠との格闘は読んでいるこちらが痛みを覚えるほど凄惨だ。

本書でキングが描いた、もしくは描きたかったのは次の2点なのではないだろうか。

まずはたった1人で取り残された状況で人の思考はいろんな方面に及び、そして過去を掘り返す。それは封印していた忌まわしい記憶でさえも。本書ではその忌まわしい記憶が主人公を窮地から救う手立てを与えるヒントになっているのが皮肉だが。いやむしろ思い出したくない記憶にこそ、ヒントがあり、それを乗り越えたからこそこれからも窮地に直面しても乗り越えられるという意味だろうか。

もう1つは自分1人しかいないはずの家の中で誰かがいる気配を感じることはないだろうか。よくあるのは一人暮らしの部屋でシャンプーしているときに誰かが後ろに立っていると感じるというあの感覚。
主人公ジェシーも同様に奇妙な男の存在を感じる。しかし彼女が気を喪って目が覚めると誰もいなくなっており、しかも自分に害が及んでいないことから気のせいだと思い出すが、最後の最後で実際にいたことが判る。
つまり自分1人しかいないはずの部屋に誰かがいるという錯覚を覚えながら、実際に誰かがいたという恐怖だ。しかもその人物は何をするわけでもなく、ただそこにいたのだ。この何とも云えない気持ち悪さがしこりとして残り、そしてジェシーはたびたびその幻影に惑わされる。
その幻影を振り払うのに必要なのはその人物に逢いに行き、確かめることだった。そしてそれは叶い、確かに彼がジェシーと逢っていたことを認める。そしてジェシーはその男の顔に唾を吐きかけ、仕返しをしたのだった。

つまり忌まわしい過去や記憶、そして付きまとう幻影を振り払うには目を背けず、なかったことにせずに対峙するしかないとキングは訴えているのか。

本書は1963年7月20日に起きた皆既日食を軸にしたもう1作『ドロレス・クレイボーン』と対になる物語らしい。つまり本書に散りばめられ、謎のままに終わった部分についてはそっちで判明するのだろうか。

No.32 7点 ダーク・タワーⅢ-荒地-- スティーヴン・キング 2021/09/06 23:26
今回の目的は<暗黒の塔>を目指すとともに1巻で亡くしたジェイク・チェンバーズを再び彼の世界からこちらの世界に引き入れ、仲間にすることだ。つまり前作で手に入らなかった3人目の仲間こそがこのジェイク・チェンバーズであることが明らかになる。
さてこのジェイク。最初にガンスリンガーの世界に来たときは彼の住む世界、つまり我々の住む世界でガンスリンガーの宿敵<黒衣の男>ウォルター・オディムによって道路に突き出された結果、車に轢かれて亡くなってしまい、そしてローランドたちの世界、今回<中間世界>と称されている世界に移るわけだが、そこでもローランドの<暗黒の塔>を取るかジェイクの命を救うかの二者択一の選択に迫られ、そして亡くなってしまう。

中間世界で一旦命を落としたジェイクは再び我々の住まう世界で新たな命を授かり、日常を生きている。しかし彼には以前自分が双方の世界で亡くなった記憶を持っていた。
この辺のパラドックスについてキングはローランドとエディとの対話で説明がなされる。一本の人生の線があり、その時々で選択せざるを得ない状況に出くわし、そこで道が2つに分岐するが、それは実は2つではなく、その2つの選択肢と平行に別の分岐点が生まれ、それらが並行している。そして選んだ選択肢の記憶は残しながらも選択によって生まれた別の分岐点、即ち新たな世界に人は亡くなると移行し、再び人生を歩む。しかも一旦自分の世界と<中間世界>での記憶を留めたままに。
昔の映画で『恋はデジャヴ』という何度も同じ日を行き来する男の物語があったが、つまりはそれと同じか。<中間世界>に来た人間は一旦そこで命を喪うとリセットされ、また別の次元の世界を生きることになる。しかし記憶は留めたままだから、自分が命を落とした事件も知っているのだ。

ただこういう設定はあまり好きではない。それはある特定の人物を特別視し、いくら死んでも再びどこかの世界にいて同じような暮らしを送るならばそこに死に対する恐怖が生まれないからだ。
したがってキングが描いたのはジェイクの「ここではないどこか」を渇望する心だ。ジェイクは自身が生きている現実世界よりもローランドが<暗黒の塔>を目指す<中間世界>こそ自分の居場所があると確信するようになる。物語の前半は生き死人と化したジェイクが本来いるべき場所<中間世界>に行くまでの物語を濃厚に描く。

このジェイクが<中間世界>に再び舞い戻るシーンは新たな生の誕生のメタファーだ。
例えば彼をこちらの世界に引き入れるためにはその場所を守る妖魔がおり、それと戦っても勝つことはできない。したがってジェイクを引き入れるためにはそれを引き付けていなければならないがその方法がセックスをすることなのだ。
セックスは妖魔の武器であると共に弱点でもあり、その相手をするのがスザンナである。即ちジェイクがこちらに世界に来るまでの間にセックスし続けなければならない。
そしてジェイクが<中間世界>に来るシーンについて作者自身も明確に比喩しているようにそれはまさにお産を象徴している。
我々の世界と<中間世界>とを結ぶドア。その中に入り込み、漆喰男によって<中間世界>への扉をくぐるのを阻まれていたジェイクをローランドが助け、そしてエディがローランドもろともジェイクを引き入れるさまをキングは産婆の役割を果たしたと例える。
つまり1巻で印象的な登場をしながらも特段目立った活躍もせずに消え去った少年ジェイクを再びこの物語に引き戻すことこそがシリーズの新たな生の誕生、即ちこの<暗黒の塔>シリーズの新たな幕開けを象徴しているのだ。

そして本書の後半は<荒地>を横断する高速のモノレール、ブレインを求める旅へと移る。そのブレインはジェイクが彼の世界の図書館で借りた『シュシュポッポきかんしゃチャーリー』に由来する。
我々の世代で人語を解する機関車と云えば『きかんしゃトーマス』だ。だからそれになぞらえて考えれば、確かにどこか不気味なものを感じる。私が『きかんしゃトーマス』を観たのは幼少時代ではなく、我が子が興味を持ったからで、つまり大人になってから観たのだが、最初は確かに薄気味悪くてどこに可愛さを感じて、これほど人気があるのかが判らなかった。
しかし次第に慣れてくるといつしかそんな思いは消え去ってしまっていたのだが、そんな恐怖を大人になっても覚えているのがキングの凄さか。ある意味、自身の子供時代をコミカルに描いた『ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこに通ずるものがある。
そしてそのモチーフをそのまま畏怖の対象としてキングはブレインという人語を解する機関車として登場させる。それはさながらスフィンクスのように謎解きに正解しなかったら容易に業火で焼き尽くす恐怖の存在として。

しかしキングがこのガンスリンガーシリーズの世界観をどこまで作っていたかは知らないが、私はどうも行き当たりばったりで書き始めたかのように感じる。
今回初めて出てくる12の正門とそれを守る守護者の存在、そしてそれらを対角で結んだ線の交点に暗黒の塔があるという設定も最初から構想していたとは思えない。対角に結んだ先にあるのであれば12の正門全てを訪れる必要はないし、どうも設定にしては弱さを感じる。

そして物語はローランドが一行の命を懸けてブレインに謎解き合戦を仕掛けて終了する。ローランドの胆力で傲岸不遜な知的モノレール、ブレインを制する間際にローランド自身からこのような危うい提案が出されるとは思わなかった―メンバーには人語を少しは解すビリー・バンブラ―のオイまで加わっているのだ―。
まさに物語はこれからというときにいきなり梯子を外されたかのような結末に驚いているが、作者もそれは承知のようで弁明めいた長いあとがきで触れている。

とにかく果たしてこの命の削り合いがどのように展開するのか、次巻を待つことにしよう。

No.31 7点 ニードフル・シングス- スティーヴン・キング 2021/08/22 23:41
『図書館警察』所収の中編「サン・ドッグ」でも触れられていたように本書は長らくキングの数々の物語の舞台となったキャッスルロック終末の物語である。
キングがどうしてこの町を葬ろうとしたかは解らないが、『デッド・ゾーン』に『クージョ』、『スタンド・バイ・ミー』など名作とされる物語の舞台だっただけにその終焉は感慨深いものがある。

ニードフル・シングス(Needful Things)、つまり「必要なもの」とか「必需品」を指す言葉だが、本書における意味はそれぞれの客にとって「無くてはならない物」、もしくは「喉から手が出るほど欲しいもの」である。
リーランド・ゴーントの店は客が集めている物や興味を持っている物、更には小さい頃に欲しくて手に入らなかった物などが置いてあり、客がそれに触れると物に宿った記憶が呼び起こされ、頭の中に映像として浮かび上がる。そしてそれが客の所有欲を掻き立て、欲しくてほしくて堪らない衝動に陥るのだ。何もかも犠牲にしても構わないほどに。
そんな激しいまでの欲望をゴーントは利用し、客にそれを買わせる。相場よりも破格に安い値段と足らない分を町の住民への悪戯との引き換えに。

それらはやがて持ち主の心を支配する。欲しい物、ようやく手に入れた宝物は持ち主の執着心を煽り、やがてそこから聞こえる声に従うようになる。それはリーランド・ゴーントの声で、彼は物に囚われた人たちの心を操るように約束した悪戯をするよう促すのだ。
つまり彼らの手に入れたニードフル・シングはリーランド・ゴーントの依り代であるのだ。
従って物語の終盤では彼らの手に入れた品々がゴーントによるまやかしによって信じさせられたものであることが次々と判明していく。

しかしよくまあキングは人の欲望について様々な視点から語るものだと感心した。
喉から手が出るほど欲しい物とは人それぞれによって様々だ。
例えば蒐集家は長らく探し求めていたレア物を目にしてどうしても欲しくなるだろうし、子供の頃の思い出の品を見つけると同様に欲しくなるだろう。
また大ファンのアーティスト関連のグッズもまた垂涎の的であろう。
一方で自分の人生が崩壊しようとしているまさにその時にその状況を打開できるものが現れれば、何を差し置いても手に入れるだろう。
また長年悩まされる病の苦痛を少しでも和らげてくれるアイテムがあれば最初は半信半疑だったとしても実際にその効用を感じれば、もう手放せなくなるだろう。

これら町の人が欲しがるもの、望むものを売る謎の骨董屋≪ニードフル・シングス≫の店主リーランド・ゴーントの正体はいわゆる“尋常ならざる者”だ。
そんなゴーントの特殊能力を見抜く力を持った者がいる。その一人が保安官のアラン・パングボーンだ。

誰しも近隣住民との間に何らかの不平不満を抱いているものだ。それは性格的に合わない、生理的に受け付けないといった本能から由来するものでいわゆる苦手意識から来るものだったり、表層化したいざこざや諍いが今に至って尾を引いていたりと、大小様々だ。
人はそんな負の感情を仮面に隠して世間に向き合い、近所付合いを続けている。しかし自分に何か不利益なことや謂れのない悪戯といった害を被るとそれが引き金となって潜在下で押し留められていた不平不満が鎌首をもたげたかの如く、頭をよぎり、そして証拠もないのに犯人だと確信に変わる。
もしくは相思相愛だと思っていた関係もたった1枚の写真と手紙で愛から憎しみへと変わる。
または隠しておきたい背徳的な趣味嗜好を明らかにされることで怒りが生まれる。
我々の住む生活圏とはこんな些細な異物で狂う歯車のような微妙なバランスの上で成り立っているのだ。
キングはこの人間たちが持つ感情の機微を実に的確に捉えるのが非常に上手い。

やがてそんな悪戯が町の住民たちの猜疑心を生み、そして町の崩壊まで至るようになる。
これは即ち暴動の始まりである。アメリカで、中国で起きている警察に対する、政府に対する暴動はそれぞれが小さな発端から市を、州を、国中を、そして世界中を巻き込む抗議活動に発展し、そして暴動へとエスカレートしていった。
本書ではキャッスルロックという小さな町の住民間の小さな諍いが肥大し、やがて町を滅ぼすまでの暴動に発展する様を描いた作品なのだ。

そして『スタンド・バイ・ミー』に登場したキャッスルロック一の不良エース・メリルも物語の中盤になって現れる。既に齢四十八となったエースのキャッスルロックを離れ、戻ってくるまでの物語も11ページ費やされる。
つまりキングがキャッスルロック最期の話に選んだ主役はその住民たちだったのだ。彼ら彼女らはそれぞれそこで生まれ、育った者もいれば、他所から来た者もいる。そして彼ら彼女らは一様に何の問題もなく、それまで生きてきたわけではない。
人は皆物語の主人公だという言葉があるが、キングは本書でまさにその言葉通りに皆が主人公の物語を紡いだのだ。

キングが本書で描いたのはほんの些細なことで人は不可侵領域に押し入り、そして諍いが起きて社会が崩れ去る様だ。我々の共同体とはなんとも脆い楼閣であるのか。
そして物語とは云え、その一部始終を上下巻1,300ページ強を費やしてじっくりとねっとりと見せつけられる後ではやはり人は心底信じあえることはできないのだと痛烈に嘲笑している作者の姿が目に浮かぶようだ。

さて私は本書に対して思うところがある。それは本書はキングにとって作家生命の再生の物語でもあったのではないかということだ。
思えばなかなか作家としてデビューが適わなかった彼がボツにした原稿を妻のタビサが見出して投稿したところ、見事デビューとなり、そしてその後映画化もされ、破格の扱いとなった作品『キャリー』もまた町が崩壊する物語だ。念動力の能力を持つ超能力少女キャリーがプロムパーティーで屈辱的な扱いを受け、怒りに駆られてその力を発動して町1つを壊滅に追い込む物語がキングのデビュー作であり、ベストセラー作家としての第一歩を踏み出すことになった。
この長らく親しんできたキングが生み出した架空の町キャッスルロックを崩壊させるこの物語はつまり当時スランプに悩んでいたキングが再生を図るための破壊の物語であったのではないだろうか。
キングのキャッスルロック・サーガを意識的に取り上げ、そしてそれらを無に葬り去るのが本書だ。そうすることでデビュー作と同様の栄光を掴み、作家として更なるステップアップを望んだのではないだろうか?

破壊と再生を繰り返す作家キング。彼がなぜ2010年代に再び傑作群を発表するようになったのか、本書以降からそれまでの作品の変化を追う興味が湧いてきた。

物語の最後、ゴーントが去る馬車の腹には次のような一文が書かれていた。
“すべては買い手の責任”
何かを手に入れれば何かを喪う。欲望に駆られて衝動的に買い物をすればそれには大きな代償を支払うことになる。本書は物欲主義に陥った資本主義に対する警告を促す作品か。それとも単に何でも欲しがる子供たちに向けての説教のための物語なのだろうか。
ともあれ何かを買うときは慎重に考えることにしよう。でないととんでもない代償を払わされることになる。それも家族や町が崩壊するほどに。

No.30 7点 図書館警察- スティーヴン・キング 2021/03/20 00:15
中編集“Four Past Midnight”を二分冊化して刊行されたうちの後半部が本書である。世間の評判は1冊目の『ランゴリアーズ』の方が高く、同書は97年版の『このミス』で18位にランクインしているのに対し、本書は圏外にも入っていない。私はその題名から『ランゴリアーズ』よりも本書の方への興味が高かったが、今回読んでみて世間の評判が正しいことに残念ながら気付いてしまった。

それはやはり「図書館警察」に対して期待値が高すぎたことによるだろう。
正直に云えば図書館警察という題材から想像した物語がこんな話になるとは思わなかったのだ。もっと図書館の大切さを、必要性を絡めたホラーとなることを期待したのだが、結局は怪物と少年の痛ましい虐待の記憶との戦いというキング特有の物語に落ち着いたのがつくづく残念でならない。
それは恐らくこの題名から私は有川浩氏の『図書館戦争』のような物語を創造してしまっていたのだと思う。そちらは図書館を護る自衛隊のような存在、図書隊がメディア良化法という悪法を強要する同委員会が送る軍との戦いを描いた作品だが、それと同じように図書館のルールを取り締まる警察の話だと思ってしまったからだった。
もう1つは最初に主人公のサム・ピープルズが図書館を訪れた時に、図書館の雰囲気に恐怖し、一刻も離れたい場所だと称したことだ。それはつまりサイキック・バッテリーとしての建物というキングがよく用いる題材として図書館自身が恐怖の舞台であるかのように思ってしまったのも一因だ。確かに最後の対決の舞台は図書館であるが、図書館が異形の者を生み出した、呼び寄せたのではなく、この作品はあくまでアーデリア・ローツという怪物の物語であった。そこが最後まで違和感を拭えなかったのである。

次の「サン・ドッグ」を読んですぐに想起したのはつい最近刊行されたキングの息子ジョー・ヒルの中編集『怪奇日和』に収録された「スナップショット」だ。記憶を奪うポラロイドカメラを持った男が女性に付きまとう物語だが、「サン・ドッグ」は目の前にない物が写るポラロイドカメラを持った少年の話だ。
両者に共通するのはキングの妻であり、ヒルの母であるタビサがポラロイドカメラを購入したことだ。そこにそれぞれがこのカメラに対してインスピレーションを得て、ポラロイドカメラをモチーフにしながら異なる作品を描いたことに興味を覚えた。
この作品も今振り返ればキングが初期から題材にしている“意志ある機械”の怪異譚である。この異界を写すポラロイドカメラがやがて使い手の心を侵食し、そして異界から怪物を呼び出させる。しかしカメラが写し出す風景に関する逸話については触れられない。ただ巨大な犬が近づき、やがてその犬が怪物へと変容していく様、そしてこのままいけば撮影者は間違いなく殺されるだろうことがカウントダウン的に語られる。シンプルな話ほど怖いと云うが、それ故に色んな説明の長さが目立った。単純な話を余計なぜい肉で太らせたような作品になったのはつくづく残念である。

あと本書で見られる他作品とのリンクはまず「図書館警察」では『ミザリー』の主人公の作家ポール・シェリダンがナオミ・ヒギンズが図書館で借りる本の作家の1人の名前として登場する。
もう1つ「サン・ドッグ」はキャッスルロックが舞台とあって逆にリンクを意識的に盛り込んでいるようだ。まずこの作品での悪役となるポップ・メリルの甥は中編「スタンド・バイ・ミー」に登場する不良のエース・メリルであり―彼がその後強盗を行い、ショーシャンク刑務所に4年服役していたことも明かされる―、更には『クージョ』の話もエピソードとして出たりもする。しかしこのキャッスルロックも次作で幕が閉じられるとのことだ。なんだか勿体ない思いがする。

あとなぜかキングでは玉蜀黍畑が不安を掻き立てる場所として登場する。玉蜀黍畑を舞台としたアンファンテリブル物、その名もズバリの「トウモロコシ畑の子供たち」から「秘密の窓、秘密の庭」でも作中で登場する盗作疑惑の小説で登場するのが玉蜀黍畑。そして本書「図書館警察」でもデイヴがアーデリア・ローツに誘われ、かくれんぼをして魅了されてしまうのが玉蜀黍畑だ。それはまさに彼が踏み入ってはならない領域の入口として書かれている。

これからのキングは恐らくどんどん話が長くなっていくのだろう。それは創作の設定材料としてノートに書かれるメモの内容のほとんどを作品に盛り込んでいるからではないか。
私は1冊の本に登場する人物に対してこれほどまでに緻密な性格設定と生活設定を考えているのだと誇示しているかのようにも見える。
しかしそれは作家として読者に語るべきではない裏方作業のことだ。この創作の裏側まで書かれていることに興味を覚えるか、逆にそこまで語らなくてもいいのにと幻滅するかがキングのファンとしてのバロメータとも云える。
今現在の私はここまで書く必要はあるのかと疑問を覚える方なのだが、これが物語の妙味として、もしくはこれぞキングだとキング節として味わえるようになるのかが今後変わっていくのかが私のキング作品に対する評価のカギとなることだろう。

No.29 7点 ランゴリアーズ- スティーヴン・キング 2021/03/06 00:31
キングの中編集“Four Past Midnight”に納められた4編の内、2編を収めた作品集。

本書に付された序文によれば『恐怖の四季』がそれまでに思いつくままに綴った作品を収録した物であったのに対し、本書はキングが不調で引退したと思われていた2年間に書かれたホラーであることが異なっている。

余談だが、映画『スタンド・バイ・ミー』が大ヒットした映画監督のロブ・ライナーは自分の設立したプロダクションを<キャッスルロック・プロダクション>と名付けたらしい。

また本書では各編に創作ノートが付けられているのも特徴だ。そこにはキングはそれぞれの物語の着想を得た時の状況やあるアイデアから物語が膨らみ、各編へと至った経緯が語られており、興味深い。
特に私が驚いたのはキングが「アイディア・ノート」を一切作っていないこと。彼は良いアイディアはすぐには忘れられるものではないとし、自然消滅するようなアイディアはつまらないものだと思っている。そしてよいアイディアは折に触れ頭に浮かび上がり、次第に形になっていくものだと述べている。

「ランゴリアーズ」では旅客機の隔壁の亀裂を必死に抑え込んでいる女性のイメージが浮かび、ベッドに就いている時にその女性が亡霊であることに「気付き」、そこから物語が出来ていったそうだ。
このようなエピソードを読むとやっぱりキングは全身小説家とも云うべき常に物語が頭にある稀有な作家なのだと思い知らされる。
そんなキングが生み出した本書2編に私は作者の作家としての苦悩と恐怖を感じた。

本書の表題作である「ランゴリアーズ」。
ランゴリアーズという黒い球体のような物体が何兆もの夥しい数で現れ、大きな口を開けて世界を食べていく。ランゴリアーズが噛んだ後は何も残らない暗闇、即ち無になる。球体で大きな口と云えばパックマンを思い浮かべるが、恐らくキングもそれからイメージを喚起したのかもしれないが、キング版パックマンであるランゴリアーズは何とも恐ろしい。彼らが食べる後にはそれこそ何も残らない。登場人物の1人が云うように奴らは永遠の虚無を掘り起こしているのだ。

そしてこの迫りくる虚無。全てを無にしてしまうランゴリアーズはキングの潜在的な恐怖を具現化したもののように思える。それは忘却だ。
本書の中編が書かれたのは序文にもあるように世間で引退したと思われていた時期の2年間に書かれている。つまりキングがスランプ状態に陥った時の作品だが、この『ランゴリアーズ』はその時のキングの心情が色濃く表れているように思われる。
それまでのキングはその頭の中からどんどん湧き出す物語があり、それを紙面に落として数々の作品を生み出していたわけだが、その彼が急にスランプになり、書けなくなった。そうすると世間では彼が引退したとみなし、もう過去の作家だと思われているのではないかとキング自身が忘れ去られようとしていると思い込み、その恐怖がランゴリアーズを生み出したのではないか。
登場人物の1人パイロットのブライアンが呟く。ランゴリアーズに食い尽くされた大地にあるのは真っ暗闇の無、虚空。飛行機の燃料が尽きる時、そこには激突は出来ず、ただ墜ちるしかない。虚空に向かってどれだけ墜ちていくことができるのだろう、と。それはまさにひたすらスランプに陥ったキングがこのままどこまで堕ちていくのかと想像を絶する不安を抱えていたことを暗示しているかのようだ。

この作品で狂える銀行重役クレイグ・トゥーミーこそ当時の作者の醜い部分を表した人物であるように思える。ランゴリアーズの襲来を恐れるあまり、盲目の少女の胸にナイフを突き立て、重傷を負わせ、1人の死者を出し、ボストン行きに固執する彼はキングの焦燥感をそのまま写した鏡のようなキャラクターと捉えるのは間違いだろうか。

そして異世界に迷い込んでしまった彼らが生還するには知らぬ間に潜り抜けてしまった“時間の裂け目(タイム・リップ)”という彼らの住む世界とランゴリアーズの蔓延る世界の境界に空いた裂け目を再び潜り抜けるしかないと考える。それはLA発ボストン行きのフライトの途中にあると思われ、彼らはそれを逆に辿ることにする。つまり出発点に戻る、過去に戻るために。
何とも象徴的な作品だ。ランゴリアーズの住む世界はキングが恐れた、自分がスランプを脱せずにこのまま忘れ去られようとしている暗鬱な未来を象徴し、このスランプから逃れるために原点に戻ろうとする、当時のキングそのものの心境、覚悟が行間からにじみ出ているかのようだ。

そして彼らは見事“時間の裂け目(タイム・リップ)”を見つけ、1人の乗客を犠牲にして生還する。しかしその生還も単純ではない。彼らは過去に戻りながら、その過去の時点の未来に戻ったのだ。そして現在が追いかけてきて同調し、元の世界に戻る。しかし戻った彼らは他の人々とは少し違って、なんだか輝いて見える。登場人物の1人ローレルが、新しい人間になったようだと云うが、これもまさにキングの心情そのものではないか。

キングは本書を『恐怖の四季』とは異なり、全てホラーを書いたと述べた。しかし本書は確かに異世界に迷い込み、そこで発狂する人間が登場し、それによって殺人が起こり、尚且つランゴリアーズという全てを無にする怪物が登場するパニック・ホラーではあるが、結末は何とも清々しい。
つまりこの「ランゴリアーズ」という作品そのものがスランプを脱し、再びモダンホラーの世界に戻りながらも、それまでの作品とは違った風合いを持った作品を放つ新生キングの誕生の声高の宣言書のように読み取れるのだ。

しかし一方次の「秘密の窓、秘密の庭」は逆に小説家という職業に付きまとう根源的な恐怖を描いている。自分が紡ぎ、世に送り出した小説が実は今まで自分が読んだ他者の小説の影響を潜在意識下で受け、模倣、剽窃したのではないかという恐れだ。
スランプに陥り、新たな出発を誓いつつ、その一方で今から書くものは本当に自分のオリジナルなのだろうかと自らを苛むキングの姿が見えるようだ。
従ってある日知らない人が訪ねてきて、「あなた、私の作品、真似したでしょ!」と糾弾され、次第に狂っていくモート・レイニーの姿はキングの根源的な恐怖の象徴なのかもしれない。

またこの作品では映画化される予定の作品が昔の作品に類似していることから頓挫したエピソードが出てくるが、これもまた作者の実体験のように思われる。人間が生まれてそれほど数えきれない数の物語が語られ、書かれてきた現在、完全なオリジナルの作品は皆無と云えるだろう。同じパターンの話を設定と語り口を変えてヴァリエーションを増やして生み出しているというのが現状だ。例えばこの「秘密の窓、秘密の庭」の話自体、今やそれほど驚かされる話ではない。しかしこの作品が映画化までされたのはそこに作家キングの影や彼自身が抱く潜在的な恐怖が滲み出ているからだ。

この時期のキング作品には彼自身の創作意欲が放つエネルギーがもはや虚構に留まらず、現実世界にまで及んでいると感じさせられるほどの凄みがある。

No.28 7点 ダーク・ハーフ- スティーヴン・キング 2020/06/06 00:54
文庫裏の粗筋を読んだ時、キングはなんということを考えつくのだろうと、その奇抜さと着想の斬新さに驚いてしまった。まさか作家の別のペンネームが独り歩きして現実世界に現れ、作家周辺に脅威を及ぼすとは。しかもその<邪悪な分身(ダーク・ハーフ)>はおおもとの作者と同じ指紋、声紋を持つ、全くの生き写しのような存在なのだ。
キング版『ジキル博士とハイド氏』とも云える1人の人物から生まれた2つの人格の物語はしかし本家における二重人格とは異なる、全く新しい趣向で語られる。

まず本書の着想の基となったのがキング自身の経験によるものだ。キングはその迸る制作意欲を止められず、当時出版業界にまかり通っていた1作家は1年に1冊だけ出版するという風潮からリチャード・バックマンという他のペンネームを使って作品を2作以上発表することにしたのだが、やがてバックマン=キングという説が流れ出し、公表するに至ったという経緯がある。

本書はある意味メタフィクションと云っていいだろう。なぜならサド・ボーモントを通じてキングがバックマンとして作品を書いていた時の心理が描かれているように捉えることのできる描写が見られるからだ。

最初は単に金を稼ぐために生み出したもう1つのペンネーム。しかしその正体を秘密にすることで作者はばれないよう、文体を変え、そして書くテーマも変える。しかしそううすることで次第に自分の中で別の人格が生まれてきた、つまりキングの中でバックマンは単に名前だけの存在ではなくなったことが暗に仄めかされるのだ。
そこから出たアイデアがもう1つのペンネームが別人格となって実在し、本家の作家の脅威となるというものだ。本書はこのワンアイデアのみだと思われがちだが、色んなテーマを内包している。

ところでこの頃のキングは物語の主人公を作家にしたものが目立つ。『ミザリー』は狂的なファンによって監禁されたポール・シェリダン、次の『トミーノッカーズ』でもウェスタン小説家のボビ・アンダーソンを、そして本書ではサド・ボーモントと連続している。

この一連の作品群において作中作を盛り込んでいるのは迸る創作への意欲とアイデアがありつつも一作品として仕上げるにはアイデアが煮詰まっていないもどかしさ、つまりスランプに陥ったキング自身の足掻きが行間から見えるようだ。そして“書く”ことへの業を作家は背負っているのだと仄めかしているようにも思える。

ジョージ・スタークが具現化して現れた理由とは、まず自分を架空の葬式で葬り去った者たちへの復讐とサド・ボーモントにジョージ・スターク名義の新作を書かせることだ。そしてその期限が延びるにつれてスタークの肉体はどんどん朽ち果てていく。腐った死体さながら皮膚は剥がれ、肉はジュクジュクになり、膿が全身から流れ、腐臭を発するようになる。作中のスターク自身の言葉で云えば凝集力が無くなっていく。それはつまり作家は書いて作品を発表することでその存在意義を示せるのだというメタファーのように取れる。書かない作家はただの人であり、そしてほとんどの作家は存命中にその功績を認められ、ベストセラーになったとしても、死後ずっとその作品が残り続けるのは非常に稀だ。だからスタークは死を恐れた。

作品が書かれぬことで彼はどんどん死体に近づいていく。それはまさに歴史に埋もれていった没後作家たちが人々の記憶から風化していくかの
ように。

それを示唆するように物語の最終局面においてサドとスタークは対峙し、スタークの新作『鋼鉄のマシーン』を交替で書いていく。その際にサドがスタークに言葉を掛ける。
書くための唯一の方法は書くことだと。

そして文章が書かれ、物語となり、それが続くことで次第にスタークは腐った肉体が再生していく。それは作家の存在意義は書くことにあるのだと云う隠喩だ。
そしてサドがスタークと共にこの新作を書くことを選んだのは葬り去ったはずのスターク作品の新作のアイデアが浮かび、どうしても書きたい衝動に駆られたからだ。まさにこれこそ小説家の業だ。それは多分キング自身がバックマンを葬ったことへの後悔を表しているのかもしれない。

人は誰しも二面性を持っている。陽の部分の陰の部分だ。「ダーク・ハーフ」とは即ち誰しもが備える陰の部分、暗黒面であり、それは別段異常なことではない。
普通我々一般人は犯罪や戦争などとは無縁の生活を送り、朝起きて仕事に行き、夜帰って家族と束の間の時間を過ごし、休日は家族サービスや趣味に興じる。
しかしその一方このキング作品のようなホラー、本格ミステリ、その他犯罪小説、サスペンスといった殺人やまたそれを行う殺人犯の物語を好んで読む人もいる。それはある意味それら普通の人々に中に潜む悪を好む部分、≪邪悪な分身(ダーク・ハーフ)≫なのかもしれない。

つまり全てが清らかで普通であることは実に退屈であり、人は常に何かの刺激を求める。しかし犯罪に手を染めることができないからこそ、人はその代償を物語に求める。己のダーク・ハーフを充足させるために。
現在我々はネット空間という新たな場所を手に入れ、そこでは日中、学校や職場では見せない別の自分の側面をさらけ出す。そしてネット空間は匿名性ゆえに自分の内面をより率直に露出することができるのだ。そんな匿名の世界にはしばしばネット社会でのマナーを逸脱して素の自分をさらけ出し、ダークな一面を見せる人たちもいる。


物語の最終、ジョージ・スタークがサイコポンプであるスズメの大群によって葬り去られた後、1羽のスズメがサド・ボーモントに蜂の一刺しを加える。それは善人は善人らしく振る舞い、決してダークサイドを表に出さぬようにしろ、さもなくば次はお前の番だという警告なのだ。

全ての人が常に善人であるわけではない。しかしその暗黒面は他者に迷惑を掛けず、我々作家が紡ぎ出すミステリで満たしなさい。そんなことを作者が告げているような気がした。

朝起きた時、スズメがいつもより多いと感じたら、自分のダークサイドが多めに出てないか、気に留めるようにしよう。

No.27 3点 トミーノッカーズ- スティーヴン・キング 2019/08/11 00:30
数々のホラー作品、近未来小説、ダークファンタジーを書いてきたキングが今回手を伸ばしたのはSF。なんと地下に埋まっていた空飛ぶ円盤が掘り起こされたことで町が侵略されていく話だ。

しかし題名のトミーノッカーズはそんなSF敵設定とは程遠い内容だ。
キングの前書きによればその名の“トミー”がイギリスの昔の兵士の糧食を指す俗語であることからイギリスの兵卒を指す言葉となっており、トミーノッカーズはそこから食料と救助を求めて壁を叩き続けながら餓死した坑夫の亡霊を指すようだ。その他トンネル掘りの人喰い鬼といった意味もあるようで、いわゆる幽霊とか化け物に類いする怪物を指す言葉であり、空飛ぶ円盤とは全く真逆の物だ。

一方でキングが本書で語るのは宇宙から来た存在が徐々にアメリカの田舎町の住民たちの頭の中に侵入し、意のままに操っていく侵略の恐ろしさだ。

この得体のしれない未知の存在を人々は古来から伝わる亡霊トミーノッ
カーズと名付けた。

SFと亡霊譚という全く真逆なものを結び付けたことがキングのアイデアだろう。

またトミーノッカーズが町の人たちに憑依するとそれぞれの思考が読み取れるようになる。つまりテレパシーで会話が出来るようになる。更にはなぜか次々と歯が抜けていく。彼らはそれを“進化”の過程だと告げる。
人々は抜けた歯を見せるように笑顔を見せる。歯の抜けた人が笑うとき、我々はどこかその人が白痴のように見えてしまう。そしてそれはどこか狂人めいた感じも受ける。この何気ない設定が街の人々が徐々に侵略され、狂人へと変わっていく様子を如実に描いているように思われる。こういう何気ない設定を持ち込むのがキングは抜群に上手い。

やがてヘイヴンの町の人々はお互いの考えが読み取れるようになり、“進化”を阻もうとする町民たちを排除しようとする。
それはさながらウイルスの蔓延のように急激に広がっていく。いやある意味、カルト宗教の信者のように実に排他的になり、トミーノッカーズを受け入れない者たちを粛正するのも厭わなくなる。

都会よりも田舎の町の方が恐ろしいと云う。
それは1人の権力者によって牛耳られ、そこに独自の法が成り立ち、町民たちはそれに従わざるを得なくなる。その権力者が町民たちを恐怖で縛る場合と、絶大な信頼を得て確固たる支持を得て権力の座を維持する場合の二通りがあるが、厄介なのは後者の方だ。
なぜならその場合は町民からの反発がない。つまり反抗勢力が生まれず、その権力者が外部にとって敵であったも町民たちにとっては外部からの圧力を退ける英雄としか映らない。
トミーノッカーズの侵略はまさに後者に当て嵌るだろう。彼らはボビ・アンダーソンという1人のリーダーの許に来たるべき“進化”を成し遂げるために他を排除しようとする。この異変に気付いた者は懐柔されようとするか、異分子として排除されるかいずれかだ。前半の治安官ルース・マッコースランドの抵抗はこの田舎の町の集団意識の恐ろしさをむざむざと知らしめている。

私は本書における宇宙船の登場により、人々が“進化”と呼ぶ変化が訪れる諸々の事象はどこか既視感を覚えた。
即ち歯が突然ポロポロと抜け出すこと、目から出てくる血の涙、耳から血が出る、主人公の1人でヘイヴンの異変に取り込まれず、頭の中を読まれることなく、抵抗できる外から来た人物ジム・ガードナーがしかし嘔吐物の中に血が混じっていること、髪の毛が抜けだすなどの描写から連想されるのはボビ・アンダーソンが掘り出した宇宙船とは即ち放射能漏れを起こす原子力発電所のメタファーである。
つまり原子力発電所こそは人間が手を出してはいけないパンドラの箱なのだという作者のメッセージが読み取れる。

上に書いた異常現象はそのまま被爆者の症状に繋がる。そして目に見えないが確実に人々に蔓延っているトミーノッカーズは放射能その物のようだ。

更にヘイヴンの町に訪れる人たちが一様に頭痛を訴え、身体の各所に異変を覚える。さながら原発事故が起きたチェルノブイリのように。

つまりキングの本書におけるテーマとは核の、原発の恐ろしさを訴えているのだ。

そしてキングは物語の終盤で明らさまに臨界、チェルノブイリという原子力に纏わる用語を使っている。やはりこの推察は正しかったのだ。

この救いの無い、メイン州の田舎町ヘイヴンの壊滅していく様を描いた本書は、まさに臨界事故によって死の町となったチェルノブイリのメタファーだ。
残されたトミーノッカーズたちが宇宙船が飛び立った後、“障壁”が取り除かれ、町へ侵入することができた軍隊によって次々と排除されていくのは、当時キングが頭で描いていた被曝者たちへの旧ソ連の対応を表しているかに思え、何とも不快だ。

本書で唯一の救いはエピソードの最後で兄のマジックによってアルテア4という異世界に連れ去れたデイヴィッド・ブラウンがガードナーの努力により、無事帰還するところだ。そしてそんな仕打ちをした兄に対して弟は何も覚えてなく、以前のように兄を慕い、添い寝する。
これがなかったら、本書はただ虚しいだけに終わっただろう。

しかしこの上下巻併せて1,240ページにも及ぶ大著である本書は、それまでの大作と異なり、やはりかなり困難を感じた読書になった。
先に書いたようにキングが本書でやりたかったこと、訴えたかったメッセージは判るものの、それがスムーズに物語に結実していなく、また鬱病患者特有の長々とした説教めいた、狂人の主張が折々に挟まれていることでバランスを欠き、物語としてなんともギクシャクとした印象を受けるのだ。

恐らくは、私も記憶しているがチェルノブイリ原発事故は未曽有の危機だった。原子力という未知のエネルギーが及ぼす影響を、恐ろしさを初めて知った事故だった。そしてまだ事故の収束が見えなく、被害が拡大し、我々の生活にどのような影響があるのかも見えない刊行当時、作者自身も今まで経験したことのない不安と恐怖を覚えたことだろう。その動揺が本書には垣間見れる。だからこそ纏まりに書けるのかもしれない。

キングはとにかく書かなければならなかったのだろう。
この未知なる恐怖を克服するためにも。とにかく書くこと、いや作中にガードナーがボビに云うように彼は何かによって書かされたのかもしれない。天から降ってきたアイデアによって。そんな衝動と動揺の産物が本書なのかもしれない。

今は2019年。
チェルノブイリ原発事故や東海村の臨界事故、1999年のノストラダムスの大予言、それらを経験しながらも我々は今、世紀末を乗り越え、ここにいる。

しかし1987年に刊行された本書は世界の終わりを感じたキングの絶望と恐怖が如実に表れた作品となった。

あの事故が起きた時、人々はどう思ったのか。

そんな歴史の足跡の、証言として本書を捉えるとまた違って見えるが、しかしキングの名を冠するのであれば、やはり改稿して再刊すべきではとの思いが拭えない、そんな思いを抱いた作品であった。

No.26 10点 ミザリー- スティーヴン・キング 2019/06/18 23:39
私も映画化作品を観たこともあり、またガーディアン紙が読むべき1000冊の1作に選ばれた、数あるキング作品の中でも1,2を争うほど有名な作品。映画も怖かったが、やはり小説はもっと怖かった。
説明不要のサイコパスによる監禁物であるが、驚かされるのが作品のほとんどが監禁状態で語られることだ。しかも物語の舞台は95%以上が狂信的なファン、アニー・ウィルクスの家で繰り広げられている。
限られたスペースで物語が繰り広げられるキング作品は先に書かれた『クージョ』が想起されるが、あの作品もメインの舞台となる車の中での監禁状態に至るまでの話があった。しかし本書は始まって5ページ目には既にアニー・ウィルクスの部屋にいるのである。文庫本にして500ページもの分量をたった1つの部屋で繰り広げるキングの筆力にまず驚かされる。

とにかく主人公ポール・シェルダンを監禁し、自分だけの新作を書かせる熱狂的なファン、アニー・ウィルクスが怖い。
このアニー、とにかく自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起す女性だ。
これほどまでに人に執着し、自分の思い通りにならないことに癇癪を立てる人がいただろうか。いや、いるのだ、実際この世には。

愛。それは何ものにも代え難い感情で困難に打ち克つ力として愛をテーマに人は物語を書き、詩を書いて歌にする。人が誰かと一緒になるのも愛あればこそだ。
しかしこの強い感情が実は最も人間の怖さを発揮することになることを本書は知らしめる。
アニー・ウィルクスはポール・シェルダンの書くミザリーシリーズという小説が大好きで大好きで次作が出るのを待ち遠しくしていたのに作者がこの主人公を殺してしまったから、それが許せなかった。自分の好きな作品を返してほしい。そして彼女にはそれが出来た。なぜならその作者が満身創痍の状態で自分の家にいたからだ。
彼女は献身的に重傷の作者を介護し、自分に逆らうとどういう目に遭うかを知らしめるために彼を支配した。彼が自分の手中から逃れようとしたら彼の足を切断し、自分の思い通りの話を書こうとしなかったから拇指を切断した。
彼の行方を尋ねに来た警官を殺害した。
それもこれも自分の大好きなミザリーシリーズの、自分のためだけに作者が書いてくれる続きを読みたかったからだ。
ファンというものは有難いものだが、一方で恐怖の存在にもなりうる。そしてこれはただの作り話ではない。キングが遭遇したある狂信的なファンの姿なのだ。

これがもしキング自身が抱いたトラウマだったら、彼は本書を著すことでトラウマを克服し、解消しようとしたのではないか。つまり彼は自分の紡ぐキング・ワールドに狂信的なファンの幻影を封じ込めようとしたのではないか。
そう、忘れてはならないのは本書がサイコパスによる監禁ホラー物だけの作品ではなく、小説家という職業の業や性を如実に描いた作品でもあることだ。

上述したように本書は95%がアニー・ウィルクスの家で繰り広げられるが、この長丁場を限られた空間で読ませるのは狂えるアニーのエスカレートするポールへの仕打ちとそれに対抗するポールの生への執着だけではなく、ポール・シェルダンという作家を通じて小説家の異様なまでの創作意欲、ならびに創作秘話が語られることも忘れてはならない。
最初はどうにか助かりたいと思って苦痛を抑えるために屈辱的なことも敢えて行った彼が次第に回復するにつれ、自分の命を繋ぎ留めるミザリーの新作に次第にのめり込んでいく。今までファンのためだけに書き、自身では早く終わらせたくて仕方がなかったミザリーがアニーという狂信者によって続編を書くことを強要され、文字通りその身を削って命懸けで案を練るうちに彼の中に今までになく充実したミザリーの物語が展開するのだ。それはさながら極限状態から生まれたアイデアこそが傑作になりうるといった趣さえある。
一度始めた物語は最後まで書きあげたい、自分の頭にある物語を形あるものとして残したい。満身創痍の中、必死に『ミザリーの生還』に取り組むポールはキングそのもの。

狂信的なファンによる監禁ホラーというシンプルな構造の本書は上に書いたようにファン心理の怖さ、そして自己愛が強すぎる者の異常さと執念深さのみならず、小説家という人間の業、更に物語が人から人へと広がっていくマジックなど、非常に多面的な内容を孕んでいたが、それだけに実は終始しない。
実はここに書かれていることが現実となるのである。

交通事故に遭い、満身創痍になったポール・シェルダンは本書を著した12年後のキング自身の姿である。彼自身も車に撥ねられ、重傷を負い、そして片脚に障害を負う。
この作品が他のキング作品と異なる怖さを秘めているのは、そんな現実とのリンクが―しかも未来を暗示していた!―あるからこそなのかもしれない。
キングは本書をフィクションとしてキング・ワールドに封じ込めたのではなく、実はキング・ワールドが現実にまで侵食してしまったのだ。
一人の作家が描いた世界がとうとう現実世界へ波及した稀有な作品として本書は今後私の中で忘れらない作品となるだろう。

No.25 7点 ダーク・タワーⅡ-運命の三人-- スティーヴン・キング 2019/05/15 23:55
この物語はどこか我々の世界との共通項を持つ不思議な世界を舞台、特に西部劇に触発されただけに西部開拓時代のアメリカを彷彿とさせるファンタジー色が強かったが、本書ではなんと我々の住む現実世界へガンスリンガーは現れる。
彼の前に立ち塞がる黒衣の男ことウォルター・オディム、またの名を魔導師マーテン。この敵に立ち向かうために3人の仲間を集める。なんというベタな展開か。少年バトルマンガの王道とも云うべきプロットである。
しかしそこはキング。この仲間が非常に個性的。いや通常の物語ならば恐らくは厄介過ぎて仲間になんかしたくない、清廉潔白とは程遠い素性の人物ばかりが登場する。

ヘロイン中毒者でヤクの運び屋、両足を失くした二重人格の黒人女性、そして社会的に成功したシリアルキラー。
どう考えても旅の仲間にはふさわしくない、いや寧ろ避けたいか、敵の配下にいるような人物たちがローランドが我々現代世界から選び出すことのできる仲間なのだ。
こんなことを考えつくのがキングが凡百の作家を凌駕する、突出した才能の持ち主であることの証左であるのだが、果たしてこんなまとまりのないメンバーを伴にしてどうやってこの先長大な作品を描くのかと読んでいる最中はモヤモヤさせられた。

しかしキングはこのあり得ない仲間たちを引き入れる結末を実に鮮やかに結ぶ。

このなんとも扱いにくい輩、もとい仲間たちの引き入れ方が実に変わっている。
ガンスリンガーの旅路の途中に現れるドア。そこにはそれぞれ対象の人物を象徴する言葉が刻まれている。エディ・ディーンのドアには<囚われ人>、オデッタ・ホームズのそれには<影の女>、最後は<押し屋>と書かれたジャック・モートのそれ。
そのドアを開けるとガンスリンガーは我々の住む現実世界で対象となっている人物の意識へと入り込むことができ、さらには現実世界で手に入れたものを彼の世界へ持ち込むことが出来る。
そして意識に入り込んだ人物をドアに引き込んで現実世界から消すこともできれば、2人で同時にドアを開けて仲間と共にガンスリンガーが現実世界に姿を現すことが出来るのである。
これはかつてキングがストラウヴと共作した『タリスマン』の世界に似ている。

この現実世界の対象人物たちがガンスリンガーの仲間になっていくそれぞれのエピソードがまた実に濃い。
三者三様の毛色の異なる短編が収められたような内容はまさに自由奔放なファンタジー。どんな方向へ物語が進むのか全く予断を許さない。キングは頭の中に浮かぶ物語を思いつくままに紙面に書き落としているかのようだ。そしてそれを見事に<暗黒の塔>という大きな幹を持つ物語へと繋げる。

冒頭私はこのダークタワーシリーズを少年バトルマンガの王道のような作品だと述べた。しかし読後の今はそのコメントがいかに浅はかなものだったと気付かされた。
この何ともミスマッチな仲間が最終的に強い絆を備えた3人の仲間へと着陸する物語運びには脱帽。これがキングであり、やはり並の作家ではなく、少年バトルマンガの王道と断じようとした私の想像を遥かに超えてくれた。
そしてそれは人それぞれに生きている意味や役割があることを示しているようにも感じた。

1巻目はイントロダクションとも云うべき内容で正直このダークタワーの世界の片鱗の中の片鱗が垣間見れただけで正直展開が想像もつかなかったが、本書においてようやくその世界観や道筋が見えてきた。そうなるとやはりキングが描くダークファンタジーは実に面白い。

危うさを秘めた3人の旅はようやく始まったばかりだ。

No.24 7点 IT- スティーヴン・キング 2019/01/25 21:48
少年時代は忘れ得ぬ思い出がいっぱい。良い物も忘れたいような悪い物も全て。本書は自分のそんな昔の記憶を折に触れ思い出させてくれ、そしてその都度私は身悶えするのだ。羞恥心と未熟さを伴いながら。

ところでキングの短編に「やつらはときどき帰ってくる」という作品がある。
それは高校教師の許に少年時代にいじめられた不良グループが再び当時の姿で舞い戻ってくるという作品だ。
28年前の悪夢との対峙を扱った本書は単にその時町を恐怖に陥れた怪物の対決のみならず、過去の自分とそして自分の忌まわしい過去との対峙でもある。
人は最悪の時を迎えた時、時が過ぎればそれもまたいい思い出になる、笑い話になる、そう願いながらその最悪の時をどうにか耐え抜き、やり過ごそうとする。何もかもが順風満帆な人生などはなく、そんな苦い経験、忘れたい屈辱などを経るのが大人になることだ。時がそんな負の思い出を浄化し、いつしか他人に語れるまでに矮小されていくのだが、そんな苦い過去を想起させる出来事が再び起きた時、それはつい昨日の出来事のように思い出される。
そして自問するのだ。あの時の自分と今の私は少しは変わったのか、と。

かつてとても怖かったいじめっ子と再び出くわすかもしれない恐怖、密かな想いを持っていた相手との再会。お互いそんなこともあったと笑って話せるほど、自分の中で折り合いがついているのか、と自分に問うことになる。
故郷に戻ることは即ち追いかけてくる過去に囚われることでもある。
但し過去は全て忌まわしい物ばかりではない。その時にしか得られない体験や友達が出来、それもまた唯一無二なのだ。

ビル、ベン、リッチー、エディ、マイク、ペヴァリー、スタン。この7人が、運命とも云える出逢いを果たし、仲間となるシーンが何とも瑞々しく、爽やかで無垢な人間関係が築けた私の少年時代の思い出を誘う。初めて出逢っても一緒に遊べばもう友達になっていたあの、楽しかった日々を。そして彼らが出逢った時にまるでカチッとパズルが収まるべく場所に収まったようなあの想いもまた、仲間としか呼べない強い結び付きを感じさせるあの瞬間を思い出させてくれる。そう、私にもそんな時期が、そんな出逢いがあったことを。

さてそんな彼らが対峙する“IT”とはどのような怪物なのか。
最初に登場した時はボブ・グレイと名乗るペニーワイズと異名を持つピエロとして現れる。しかしそれぞれの目の前に現れる“IT”の姿は一様に異なる。
エディ・コーコランという犠牲者の前では半魚人のような怪物とし現れ、エディ・カスプブラクの前では瘡っかきの梅毒持ちの浮浪者の姿で現れる。
弟の敵討ちに出かけたビル・デンブロウとリッチー・ドーシアの前では狼男として現れる。しかも「リッチー・ドーシア」の名前が入ったスクール・ジャケットを着て。
また“それ”は亡くなったビル・デンブロウの弟ジョージのアルバムの中の写真にも潜む。明らかにビルたちが生まれる前の親たちの若い頃の白黒写真にも現れ、そこから襲ってくる。しかもその写真に触れるとその中に入り込み、傷だらけにする。
ペヴァリーにとって“IT”は彼女しか見えない大量の血液だ。水道の蛇口から溢れる鮮血は家族の中では彼女しか見えない
やがて“IT”が見る人によって様々なイメージで見えることが解ってくる。
それらはつまり彼らの潜在意識下における恐怖の象徴ではないか。
“IT”はつまり彼らが少年少女時代に抱いたトラウマなのかもしれない。

しかしなぜ彼らは再び戻って“IT”と対決しなければならないのか。彼らが少年時代にそうしたように、第2のビルたち<はみだしクラブ>がデリーに現れ、彼らに任せてもいいのではないか。しかもマイク・ハンロンからの電話がなければ彼らは“IT”のことはすっかり忘れていたのだから。
彼らが再び舞い戻ったのは“血の絆”という特別な盟約を交わしたからだ。まだ純粋さが残っていた彼らは再び“IT”が戻った時、「そうしなければいけない」という義務感に駆られたからだ。
しかし時間は人を変える。少年時代の約束を未だに守ろうとすること自体、難しくなっている。それはそれぞれに生活が、守るべきものがあるからだ。
しかし彼らは1人を覗いてそれまでの暮しを、仕事を擲ってまでも集まる。“血の絆”に従って。つまり“IT”とは子供の頃を約束を愚直なまでに守る大人たちがまだいてほしいというキングの願望によって生み出された作品なのではないだろうか。

キングは冒頭の献辞にこの物語を捧げていることを謳っている。その結びはこうだ。
“―魔法は存在する”
この魔法とは30年弱の周期でデリーの街に現れる“IT”と呼ぶしかない災厄を少年少女が討ち斃す奇跡を指していると捉えるだろうが、忙しい現代社会で人間関係が希薄になりつつ昨今において、少年少女時代に交わした約束を守り、大人になったかつての少年少女が再会し、再び対決すること自体がキングにとって“魔法”だったのではないか。30年近くの歳月を経ても再会すればかつての気の置けない気軽な友人関係に戻る、これこそが友情という名の魔法ではないだろうか。
私はキングが自分の子供たちに魔法は存在するのだから今の友達を大切に、とそれとなくメッセージを込めているように思えた。

“IT”。
このシンプルな代名詞はその時の会話や場面で示すものが、意味が変わる。たった2文字の中に宇宙よりも広い意味を持つ。そして“それ”とか“あれ”とか“IT”を示す言葉が会話に多くなった時、それは健忘症の兆しだともいう。本書の主人公たちも“IT”の存在は忘れてしまい、そして戦いに勝利した後もまた忘れていっている。
“IT”とは私たちが老いと共に大事な何かを忘れていくことの恐ろしさ自体を現した言葉なのかもしれない。そして40も半ばを超えた私にもこの“IT”に当たる、忘却の彼方にある、何かがあるのではないか。そう、それこそが“IT”なのだ。

No.23 7点 ミルクマン- スティーヴン・キング 2018/12/09 23:42
キング三分冊の短編集の最後である本書はヴァラエティ豊かな作品集となった。
得体のしれない男ミルクマンの話2編にファンタジックかつロマンティックな男女の話を描いたもの、そして謎めいた怪物が湖に巣食う話、次々と人を殺しながら目的地に向かう男女2人の物語、漂着した惑星の生きた砂の話に凄まじく狂った漂流者のサヴァイヴァル小説、苦手なおばあちゃんと留守番する話、そして人生の終焉を迎える話。
不条理な話から定番の未知なる生物、暴力衝動、殺人衝動に駆られる人、極限状態に置かれた人間、一人で病人と共に留守番しなければならない子供、一度も島から出たことのない老婆、いずれもモチーフは異なりながら、そのどれもがキングらしい作品ばかりだ。

本書では「トッド夫人の近道」と「おばあちゃん」、そして「入り江」をベストに挙げる。
「トッド夫人の近道」はワンダーを描きながらこれほどまでに清々しい思いをさせられる、キングならではの唯一無二の傑作。
「おばあちゃん」は少年が幼い頃に怖くて仕方がなかったおばあちゃんと一緒に留守番をしなければならないという、誰もが経験ありそうな実に身近な嫌悪感やちょっとした恐怖―怯えという方が正確か―を扱いながら、最後は予想もしない展開を見せる技巧の冴えに感服させられた。
短編集の最後を飾る作品でもある「入り江」は死出の旅立ちの物語だ。島で生れ、島で育ち、一度も本土に渡ったことのない老婆が初めて本土に渡る時は死を覚悟した時だ。
ある死者は云う。生きていることの方が苦しいんじゃないか、と。私は最近こう思う。もし癌や重篤な病に侵され、生命維持装置や植物人間状態になった時、それで生かされていることはもはや人生なのかと。人生の潮時を見極め、そして自ら選択する、そんな風に自分の人生は始末を付けたいものだ。
しっとりとした読後感が心地よい余韻を残す。この作品が最後で良かったと思わせる好編だ。

短編ではかつてワンアイデアで自身が抱いていた原初的な恐怖を直截に描いているのが特徴的と思われたが、『恐怖の四季』シリーズを経た本書ではワンアイデアの中に色んな隠し味を仕込んで重層的な味わいが残るような感じがする。「トッド夫人の近道」なんかはその好例で作者が意図しているにせよしてないにせよ私の中で想像力が広がり、余韻が増した。もしかしたら他の短編もまだ消化不十分で後日ふと隠し味が蘇ってくるかもしれない。

しかし彼の頭の中にはどのくらいのキャラクターがいて、そしてどのくらいの人生が詰まっているのだろうといつも思わされる。彼の頭にはヴァーチャル空間のセカンドライフが接続されている、そんなように思わされた。

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