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クリスティ再読さん
平均点: 6.39点 書評数: 1419件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.419 9点 カリブ諸島の手がかり- T・S・ストリブリング 2018/10/21 11:26
日本人は奇書とかアンチ・ミステリとか大好きなんだけど、海外作品でそれっぽい作品が...となると、本作はオススメである。というか、ミステリマニアの玩弄物で終わるは勿体なすぎるくらいの名作だと思う。ポスト・コロニアルとかそういう視点で、広く読まれていい一般性のある作品だと思うよ。
本作のイイ点は、主人公ポジオリ教授の「迷探偵」ぶりである。要するに「迷う探偵」なんだよね。カリブ諸島というさまざまな文化が雑居し混淆するクレオールな社会に、旅行者として紛れ込んだイタリア系アメリカ人のポジオリ教授なので、植民地支配者の側にいながらも、植民地主義には批判的であり、かといって現地の土俗文化に入り込むこともできず、しかもカリブ海域の政治情勢のややこしさも、ポジオリの立場を定めづらいものにしかならない。1920年代だから、長らく続いたヨーロッパの列強のナマな植民地支配がそろそろ終わりを告げて、そのかわりにアメリカの「ソフトな植民地主義」に取って代わろうという時期だ。しかしそれぞれの島で宗主国由来の文化と、原住民駆逐後に導入された黒人奴隷文化、あるいはその後に導入されたインド人・中国人のクーリーたち、と島によってその配合が全く異なることで、「島々の個性」が複雑怪奇を極めている。そこに(ある意味単純な)アメリカ文化を背負ったポジオリが、身に余る「名探偵の名声」をひっさげて、多様な文化を巡礼する話なのである。ポジオリはどの文化にも帰属できない「マージナル・マン」なのである。評者は「名探偵はマージナル・マンであるべきだ」と思ったりするから、ある意味ポジオリは評者の「理想の探偵像」に近いものがある...
まあだから、謎解きは実のところ、何の役にも立たないようなものだ。事件は勝手に起き、迷探偵は途方に暮れ、その意図から外れたような解決をする。本書を絶賛するクイーンは、中期以降「迷探偵エラリイ」像を確立して、ついには「第八の日」で本当にポジオリ的なポジションにエラリイを立たせることになるけども、やはり本作が大きなヒントを与えているんじゃないかな。
そういう作品なので、実のところ「ベナレスへの道」だけがクローズアップされて取り上げられるのは間違いだと思うよ。全体の「名探偵の失敗」構図の中でやはりあのオチも理解されるべきなので、そのために前半4作があるんだからね。短編集トータルで理解すべき作品だと思う。個人的には「カバイシアンの長官」のポワロン長官に惚れる。粗野にして賢明で、パワフルで獰猛な黒人国家ハイチの行政官!

No.418 4点 忘却へのパスポート- ジェイムズ・リーサー 2018/10/16 09:15
スパイ小説全盛期に1作だけ紹介されたイギリス・スパイ小説。「スパイがいっぱい」というタイトルで、デヴィッド・ニヴン主演で映画化されている。映画と連動で翻訳されたのだろう...
テヘランでイギリスのスパイKが行方不明になった。しかし中東のイギリススパイ網が壊滅していたために、その調査に当たる人材がたまたまいなかった....諜報機関の次長マクギリヴレーは、戦時中に知りあった医師ジェースン・ラヴ博士をスカウトすることにした。思いのほか軽い気分でテヘラン行きを承知したラヴ博士は、促成のスパイ教育とスパイ秘密道具を授けられて、「国際マラリア会議」出席を名目としてテヘランに向かう。が、搭乗予定の飛行機が何者かによって爆破された。そもそも生還のアテがあるのだろうか??
大体こんな話。描写はハードで、スパイ活動のデテール感は少しある。イラン国王の暗殺を阻止したラヴ博士が、脱出の際にソ連スパイに捕まって...とか、後半なかなか派手な展開をする。けどね、最終的なソ連スパイの作戦が凝り過ぎでトンデモだし、支給されたスパイ道具の性能がなかなかもってファンタジー。現在でも小ささと性能の要求仕様を満たすのが難しいと思うよ....要するに「電池どうするんだ?」と評者とか、悩む。007が車に仕込む追跡用発振器が、タバコパッケージサイズなのがリアリティってものだ。で巻き込まれ型スパイ、というわけでもなくて、一応はヴォランティア(志願兵。柔道が茶帯だけど強いぞ)だし、中途半端な雰囲気がただような。サポートもなしにシロウトを敵地に送り出すイギリス諜報部、無責任ってもんでしょうよ。
作者はどっちかいうと第二次大戦の戦記ノンフィクションで有名な人のようで、そっちは5作くらい訳されているようだ。フィクションもかなりあるようだが、訳されたのこれだけ。デヴィッド・ニヴン主演ってあたりでピンとくるだろうけど、映画はスパイ・コメディのようだ。いや評者粋なニヴン好きなんだけどね。それこそジェームズ・ボンドの容姿のモデル、とされる俳優さんだし、スパイ映画(もちろん「カジノ・ロワイヤル」)とはご縁が深い人である。

No.417 4点 サキ短編集- サキ 2018/10/14 12:05
困ったな。意外かもしれないが、評者は肌に合わない。シニカルでニヒル、とは言っても着地先の「安定性」みたいなものが垣間見れて、本当の意味で虚無的な部分や狂気はないように感じる。結局上品になるから、逆に一般受けしやすいのかもしれないが....
大体モーリス・ルヴェルあたりと同じ時代のショートショートになるわけだが、ルヴェルの悪趣味や残虐はない。単に「冷たい」だけの短編のような気がするのだが...まあ好きな人にはごめん、としておこう。

※これは昔からある新潮文庫(中村能三訳)の書評です。21作収録。「二十日鼠」「開いた窓」「狼少年」などを収録しているが、半分弱くらいはぎりぎり「ニアミス」と言えるかなぁ。miniさんが書いておられるけども、より「らしい」作品が収録されていない本ではあるようです(評者はあまり詳しくはない..)。

No.416 6点 007/黄金の銃をもつ男- イアン・フレミング 2018/10/10 00:03
評者はどうもワルモノなので、「マジメを売り物にする」奴が嫌いみたいだ。というのは、ル・カレをこのところ5冊やったんだが、何かねえ読んでいて嫌な気分になることが多いんだ。その点、フレミングは、洒落っ気があるのでスノッブな気取りだって嫌な気分にはならない。エンタメに徹してるが、これだけ売れたシリーズのわけで、それはそれである種の「真実」を示しているようにも思うのだ....と、人気絶頂での作者の死によって遺作となった本作は、ある意味このシリーズの本質みたいなものを露呈しているのが面白い。
前作「二度死ぬ」の最後で行方不明になったボンドが、突然帰ってきた...が、この裏にはソ連に洗脳されたボンドによるM暗殺が企まれていた。間一髪で暗殺を逃れたMは、ボンドに療養をさせたのち、回復したボンドに汚名挽回のための任務を与える。カリブ海を根城にソ連の仕事を多く請け負う殺し屋スカラマンガの暗殺である。スカラマンガは「黄金銃を持つ男」として伝説化した殺し屋だった....スカラマンガに接近したボンドに対決の日が近づく。
ボンドの帰還とM暗殺を巡るシーケンスが、「秘密情報部の一般社会インターフェイス」という視点で描かれていて、なかなか興味深い。で、本作は実際のところ「007=殺人許可証を持つ男」というのが、国家の暗殺者だ、ということを露呈しているのだ。正義の冒険者、というよりも暗殺を業とする殺し屋としてのボンドが、伝説の殺し屋と決闘する、というウェスタン調の話なのである。原作でもスカラマンガは何となくボンドを気に入ったかたちで、身近に雇うことにする。同類としての共感みたいなものが、原作でも底流に感じられる。
で、これは映画ではクリストファー・リーがスカラマンガを演じて、これはもうボンドに対する親愛感をまったく隠さない、というか同性愛的なニュアンスさえある(スカラマンガとニックナックの関係も怪しい)。二人は古典的な正々堂々な決闘をする。ほぼスカラマンガのキャラだけを原作から採用して、舞台背景や事件はほぼオリジナルになっているのだが、これはこれで原作のウェスタンな「殺し屋vs殺し屋の話」のテイストを維持できていて、ナイスな映画化だと評者は(あえて)思うのだ。舞台を映画の前作とカブるという理由でカリブ海から香港・マカオ・東南アジアに移して、折からのカンフーブームにも乗っかって...と、かなりお気楽なボンドならぬモンド映画風の作りになっているので、マジメなファンは嫌がる作品で有名なんだがね。
と、舞台が共通する「スクールボーイ閣下」でマジメにベトナム戦争を背景にしたル・カレと対比すると、あちらのマジメさが結局華僑の囲われ者になっていたイギリス人女性を、イギリスの臨時工作員が任務を逸脱して華僑から奪おうとする話..となってしまい、イギリス人の視野の狭い独善性みたいなものを感じて評者はノレないんだな。こっちは「ガキじみた決闘ごっこに血道を上げて、アジアの片隅で腐れ果てるイギリス変態紳士たち」の映画だ。これに巧まざる批評性を読み込こんでみたいと評者は思うのだ。
ま、映画はカジノ・ロワイヤルが 1967 > 2006 な映画バカなら、お気に入りになること間違いなし。映画の方が原作よりも面白い。

No.415 6点 影の顔- ボアロー&ナルスジャック 2018/10/08 16:35
「悪魔のような女」もそうだけど、ボア&ナルは異常な状況に置かれた人間の疑惑や妄想を膨らまして、短めだが長編を構築するという力技で成り立っているわけで、実際オチなんてどうでもいいんだね。で、本作は中途失明者が、かつて知っていた生活と失明後の視覚以外の感覚を総動員して得られる「失明者の生活の感覚」との齟齬に苦しむ話である。カッコよくいえば「盲者のコギト」かな。この生活空間の再建の中に紛れ込んだ疑惑とその成り行きを楽しむのだから、本当にプロセスだけが大事。プロットを取り出しても仕方がないや。
なので桃のエピソードとか、いいな。けど小切手に署名だけして渡すのはいくら何でも警戒心がなさすぎるね...本作はあまりオチははっきりしたものではないので、オチを期待して読むと絶対肩透かし。miniさん同様、そういう読み方をする作品ではないと思う。

世界は何のつながりもないばらばらの外観だけででき上がっており、まるで足下から崩れおちるくさった手すりのように、一度にどっと崩れてしまうかのようだ...

ここらに「哲学」を感じながら読むと楽しめる。

No.414 9点 ビロードの悪魔- ジョン・ディクスン・カー 2018/10/07 21:26
評者はマニア道純粋主義みたいなものに懐疑的なのは、皆さんご承知ではと思うのだが、カーの歴史ロマンの本作は、評者はカーの代表作にしてもいい..なんていうと嫌がる方も多いかもしれない。でもそうなんだもん、仕方ないや。
SFタイムトラベル設定+考証重視の歴史小説+剣戟ロマンだけじゃなくて、タイムリミットサスペンスや意外な犯人まである、本当に欲張りな小説だ。しかも各要素が渾然一体になって持ち味を損なわない、というジャンルミックスのお手本みたいな小説だと思う。
でとくに、歴史小説としての考証の充実感が半端なく、タイムトラベルする主人公が歴史学者、という設定が効いている。「別な時代」の固有な感性と風俗のリアリティ、強いて言えば「(時代の違う人々の感性が)わからない」のが、「わかりやすく」伝わる。これはかなり歴史小説として凄いことだ。評者なんて歴史小説が現代人のコスプレにしか見えなくてシラケることが多いけど、本作の考証のリアリティは素晴らしい。というか、今の時代小説だと何着てるかさえちゃんと書かない(書けない)作品が多すぎるしね。
まあ弱点は王政復古期のイギリス、という時代設定が日本人にはかなり馴染み薄な時代なこと。イギリス史は宗教が絡むから難しいや...まああまり気にせずに楽しんで読むのを優先したほうがいいだろう。
(あと本作が面白かった方には「ゼンタ城の虜」をオススメする。かなり本作は「ゼンタ」を下敷きにしているから読み比べるのが一興)

No.413 6点 死体置場で会おう- ロス・マクドナルド 2018/10/06 22:33
アーチャー初登場の「動く標的」はガチ誘拐物だったけど、それ以降ロスマクは「誘拐?」とはなっても、「誘拐かそうでないかビミョー」という「なんちゃって誘拐」な事件が多いんだね。私立探偵にはガチ誘拐は荷が重すぎるから、わからないでもないが、本作の主人公はアーチャーではなくて、執行猶予中の犯罪者を管理する「地方監察官」である。日本の保護司は名ばかりの公務員でボランティアみたいなものだが、「地方監察官」だと捜査権もあるようで、警察でも邪険にはされない。けどね、誘拐犯の前科者が、その誘拐被害者と一緒に、誘拐直前に主人公のオフィスを訪れるとこから、話が始まるんだよ....「なんちゃって誘拐」というものだ。
身代金要求は届くから、主人公は半信半疑のまま身代金を追って、死体と出くわす。なんか善意からズルズルと事件に介入して...という感じ。だからタイトルがいかにもハードボイルド、な雰囲気を醸していても、カウンセラーみたいな後期アーチャーっぽさがありこそすれ、ハードボイルドらしさは薄い。それでも身元確認のために「死体置場で」落ち合っているので、看板に偽りはない。
アーチャー物でもよかった気がするが、まだこの時期はアクションもこなすハードボイルドな探偵だったからね、そこらへんを差別化したかったのかな。そう悪い作品ではないが、内容的には今ひとつ押しきれない。というわけで、中期のポケミスのみの作品では、
運命>犠牲者は誰だ>ギャルトン事件>本作
になるけど、まあどれも「何で文庫にならなかったかな?」と不思議に感じるくらいの粒揃いではある。

No.412 6点 病める巨犬たちの夜- A.D.G 2018/10/06 21:51
マンシェットの翻訳コンプを記念して、邦訳2冊だけのA.D.G も片付けよう。けどね、これ何とも面妖な小説である。エクスブライヤの田舎ユーモアミステリみたいに始まるが、A.D.Gなんで下ネタだって満開でお下劣。村はずれにキャンプを張ったヒッピーと村人が馴染んじゃうあたり、ほのぼの&アナーキーな良さがある。となると旦那衆と軋轢が...と期待するんだが、この旦那衆、というのが曲者ぞろい。「城」の元持ち主の老嬢が絞殺されたのをきっかけに、その兄「稚児さん」一家が村に滞在するのだが、インドシナで怪しい商売をしていたというイワクがある。先代の棺の中に少女の白骨死体が見つかる異様な出来事ののち、ヒッピーのキャンプの放火には、ギャングなボディガードを従える今の「城」の持ち主「パリっ子ジェラール」に疑惑がかかる。村人、ヒッピー、「稚児さん」一家、城の持ち主「パリっ子ジェラール」一派と組んずほぐれつの「病める巨犬たちの夜」が始まる...
村人とはいえ、ハンティングやレジスタンス経験があったりしてみんな血の気が多い(軽機関銃だって隠してあるのさ!)し、そこはA.D.G。読み終わったあとにちゃんと「ノワール、だったね」と思わせる作品だ。
ま、フレンチ・ノワールって「言語」という面では過激なものが多いわけで、それこそギャングの隠語たんまりなシモナン、ルブルトンから、体脂肪率ゼロのマンシェット、で方言俗語なんでもござれなA.D.Gで、実のところ実験小説みたいに読むのがいいんだろう。生き方もアウトローなら、コトバもアウトロー、そういう実践ということだ。

No.411 7点 大いなる賭け- ロジャー・L・サイモン 2018/10/03 19:41
モウゼズ・ワイン初登場の本作は一応CWAの新人賞を獲ってる。70年代初めのサブカルの雰囲気を味わうんだったら、本作かなりイイ線をいってる作品である。言ってみりゃミステリの「ホテル・カリフォルニア」。
....1969年のベトナム反戦/ヒッピー・ムーブメントの盛り上がりの後で、過激派だったワインも今じゃ二児の父でしがない私立探偵。1969年のお祭りの騒ぎの最中、フリーセックスをワインと楽しんだライラも、進歩派の民主党大統領候補のキャンペーン運動員だ。その候補の「ホメ殺し」を仕掛けた元過激派の政治ゴロの対策をワインに依頼する。しかし、ライラは車ごと崖から落ちて死んだ....青春の挫折に苦い感傷を感じながらも、ワインは陰謀に肉薄していく。黒魔術のセクト、ネバダ砂漠の売春宿、ワインはハーレーで砂漠をぶっとばす!
とホントにアメリカン・ニューシネマの世界を彷彿とさせる話である。もちろんサブカル・ネタも大量に仕込んであるので、そこらを楽しめるかどうか、というかなり高いハードルのある作品だ。評者はそこらへん一応の常識がある年寄りだから楽しんで読めるけど、若い読者が単語をググりながら読むんだったらツラいかもね。

ここはスピリットを1969年以降は置いていないんです

そういう幻滅の話。カラフルでマンガのようなノリの良さがあって、ミステリというよりも冒険小説みたいなテイストを感じる。ワインは道化だが、その道化の想いには苦いものがあるな。ワインの彼女になるチカーノのアローラは、次作の「ワイルドターキー」にも登場するんだが、ユダヤ系のワイン、チカーノのアローラと兄弟たち..とこのシリーズは人種もごっちゃ、政治背景もぐちゃぐちゃといった、猥雑な70年代の「リアル」をうまく掬い取っていると評者は思う。もちろん古くはなるから読者がついていくのは難しいけど、先に読んだマジメなプロンジーニよりも、チャランポランなサイモンの方が小説としてはずっと面白い。

No.410 6点 誘拐- ビル・プロンジーニ 2018/09/30 22:06
70年代のネオ・ハードボイルドで一番「らしい」部類のシリーズである。どこが「らしい」かって? 70年代のアメリカ社会の変容によって、ハードボイルドなタブガイが急速にリアリティを失って、ノスタルジアかパロディか、そんなものにしかならなくなった苦い自嘲を込めた探偵像が「新しい=ネオ」ということになったわけである。本作の「名無しのオプ」も、タフガイらしくもなくタバコの吸いすぎによる咳に怯えるし、パルプ雑誌のコレクションが趣味、また参照されるスターもアメリカの大衆文化が花開いた30年代...とおよそ「後ろ向き」な男なんだね。
で本作が第一弾になるわけだ。丁寧な風景・人物描写はあるが、誘拐から殺人に発展した事件のくせにあまり大した「イベント」が起きている印象がない。短めの長編だが、そこらが大いにハードボイルドらしくなくて、御三家だったらきっと短編にしかならないだろう。ハードボイルドらしいスピード感・ドライブ感に、作者は本当に関心がなさそうだ。主人公も警句を吐くでもなく、アーチャー以上に真面目な感じ。その「後ろ向き」なキャラを恋人に呆れられて捨てられるのを、グズグズと内省する。それでもミステリとして手堅いので、そうそうつまらないわけではないんだがなぁ。
「ハードボイルド」とコダワるのがもう必然性がないんだ、そんなことなんだろう...

No.409 8点 虎よ、虎よ!- アルフレッド・ベスター 2018/09/27 22:02
少し気分転換。SFでは超有名な名作である。評者SFはどっちか言うと苦手感が強いんだが、本作は別。結構何回も読み返している本である。

誰? あのフォーマイル? ああそうね。道化だわ。成金紳士。俗悪。低劣。猥褻。

と主人公を評するこの言葉がすべてを語ってるかもしれない。実際、今回読んだ感想としては、「大いなる眠り」に似てるよね...と感じたりもした。圧縮され疾走感に溢れた、熱いコラージュ、という肌触りのことだ。終盤にご都合主義的にキャラが皆恋愛に走るのが奇観なのだが、主人公だってそうなる前は、なかなかハードボイルド、なのである。「ミステリの祭典」的には、チャンドラーが好きなら、楽しんで読めるのでは。
本作のスジとかSFの道具立てについては、今更評者なんかが細かく言わなくても「ネタの宝庫として、メディアを問わず後世への影響力絶大」で充分。それよりも本作の強烈でアツい「俗悪・低劣・猥褻」が導く崇高さが、「ああ、ワルい本読んだ!」というスペシャルな充実感で満たしてくれる。言うならば「精神にカツが入る」ような本なのである。
評点は10点でもいいんだけど、「ミステリの祭典」と銘打つ以上、流石にSFなので遠慮して8点とします。まあ本作なんて何点でもいいさ。パンクにどうやって点をつけると言うんだね。

No.408 9点 殺戮の天使- ジャン=パトリック・マンシェット 2018/09/24 21:50
さて翻訳のあるマンシェットでは評者はラストになる...実はあまり期待してなかった作品なのだが...いや、これ凄いよ。文章がちょっと鬼気迫ってる。「殺しの挽歌」→本作→「眠りなき狙撃者」の執筆順だから、最後から2つ目の作品になるのだが、文章は本作でもう「眠りなき狙撃者」のソリッドさが実現されていると思う。削ぎ落とし、という面ではもう完成していて、「眠りなき狙撃者」では「削ぎ落としたあとに何が広がるか?」だったわけだが、本作では削ぎ落とした単語の間から、マンシェットのヒロインへの愛が噴出する、というトンデモない作品である。
文章のハードさに負けないくらいに、お話もハード。主人公の女性エメは殺し屋。ただし鉄砲玉としてただ殺す、という道具ではなくて、「殺し」の自営業者みたいなものだ。その「営業」はリアルで、身なりを変えては田舎町に滞在して、町の有力者たちのいざこざを陰で煽って、「殺し」を持ちかけて金を頂く、というビジネスだ。「チャップリンの殺人狂時代」に近いテイストを感じる。
もちろんマンシェット。一切の妥協のない客観描写で、プロセスを機械の眼で見つめていく。ここには美化が一切ない。気取りも皮肉もない。あくまで目的に向けて駆動する冷徹なマシンと自らを律し、自らを使いこなしてみせるヒロインがいるだけだ。だからこそ、そのターゲットとなる町の旦那衆方は、お気楽で低俗で曖昧な連中にしか見えないのだ。ヒロインは新しい魚市場の冷蔵装置が壊れていたことから起きた食中毒事件を利用して、港町の有力者たちのいざこざを仕掛けていく...
さあ、狩りの時間である。しかし想定外の事件が起きて、ヒロインは旦那衆と正面衝突することになる。

エメの姿は闇に沈んで見えなかった。もし見えたとして、美しい姿とは言えなかった。いや、あるいはむしろ、これこそ美しい姿だというべきか。それは趣味の問題である。

クライマックスのさなかで突如ギアが切り替わる。読者はその突然のギアの切り替えで頭をブツけるだろう。作者が乱入して正面衝突するのだ。この作者はヒロインに負けないくらいに、狂っており、愛に満ちている。だから本作はこの破調において真に感動的なのだ。そして「聖テロリズム」としか言いようもないラストを迎える。

ハイヒールを履き真紅のイブニングドレスを着たエメは、傷一つない驚くべき美しさを湛えて、モンブランの山塊の斜面にも似た雪の斜面を足取りも軽く登っていった。「淫蕩にして冷徹な女たちよ、この書物をあなたたちに捧げる」(カッコ内ゴシック)

追記:マンシェットは訳が出てるものはコンプ。6冊だから楽なものだけど、いや評者総ツボで本当に大好き! 「危険なささやき」以外は全部オススメですが、わかんない人は死んでもわかんない、というタイプの作家だと思います。

No.407 9点 十二神将変- 塚本邦雄 2018/09/24 16:48
昭和の歌聖塚本邦雄が書いた唯一のミステリである。「虚無への供物」の中井英夫は短歌雑誌の編集者を生業にしていて、仕事の中で塚本邦雄や寺山修司を世に出したわけだが、塚本邦雄というとね、中井英夫とはアドニス会でもシャンソン評論でも、なかなか深いご縁がある歌人なのである。もちろん本作、期待通り「虚無への供物」を塚本流に読み直した雰囲気が濃厚にある。
本作の人間関係は、織部以来の縁に繋がる茶の湯の宗匠貴船家、その隣人で精神病理学者の飾磨天道一家とその義弟で居候のサンスクリット学者淡輪空晶、貴船家に職家として仕える菓子の真菅屋とその分家で茶花で仕える幹八。それに薬種問屋の最上家に青蓮院別院の住持設楽空水、と伝統日本の町衆の美と贅の家族たちである。
薬種問屋の枠を越えた海外との取引で繁盛する最上家の次男最上立春がホテルで死んでいるが見つかった。死因はヘロイン。傍らに十二神将の像が転がっていた。飾磨家の長女沙果子は立春が亡くなった晩に、叔父の空晶の離れに立春が潜んでいた気配を感じていた...貴船家の女宗匠である未雉子の妊娠に沙果子は気づいていた。胎の子の父は立春ではないかと沙果子は推測する。この人々は大きな秘密を抱えていた。貴船家の別荘にある魔法陣を象った九星花苑で、阿片罌粟が栽培されており、この罌粟畑はこの人々にまつわる奇怪な縁に基づくものだった...父と叔父がこの結社に関わっていながらも、飾磨沙果子と兄・母はその秘密を知らない。沙果子は立春の死をきっかけにその秘密に気づいていく...
まあそんな話。主人公っぽい沙果子は雰囲気的に奈々村久生に似たああいう感じのモダンな女性。氷沼家御一統とこの家族関係は何か似ている。貴船家主催の「名残の茶事」の席上で、立春を殺した犯人も判明するし、九星花苑に秘められた謎が解かれるから、形式上はミステリで問題ない。十二神将の謎は五色不動の謎みたいだ。アンチ・ミステリというわけではないが、「虚無への供物」からその美意識だけを抽出強化したような作品である。

奥女中擬きの摺足で不断といふのに五枚小鉤の足袋、わざわざ着替へてきたのが秋草模様の小紋というのも厭みだ。

旧仮名のこういう濃密な文章(文庫はさすがに旧字ではない)。けどね、意外にユーモア感があるときもあって、読みづらい感じはないし、それぞれキャラは立っていて(叔父の淡輪空晶がイイ)難解な小説では決してないが....翌日貴船家の茶会だからって、お呼ばれの飾磨家もで「恥かかないように稽古しておこうか?」と自宅で一家で稽古するような家だよ。日本の町方の美意識が、バロックに歪んでいくようなさまを満喫できるような小説だから、古典とモダンと両方の美意識に理解があったほうがいいだろう。

パパヴェ・ソムニフェルム、苦い香りを放つ禁断の花、純白の魔の花、何と貴船の迷宮庭園、形而上の空中花壇を飾るのにふさはしいことか。

阿片の夢と禁断の花、秘められた同性愛と男たちの絆。天上の花園と地上の魔花が、日本の美の上に妖しく咲き誇る、ちょいとした奇書である。だからこれが「十二神将変」という長歌への反歌みたいなものか。

おとうとといへども神はあらぬ夜をあさぎに萌ゆる天の白罌粟

「虚無への供物」にはボリュームとスケール・逸脱感で及ぶべくもないが、赤江瀑がややお安めなことを比較すれば、こういう系譜の中での十分に名作といわれるくらいの実力のある作品だと思う。「虚無への供物」をもっと読みたいワガママな読者におすすめな、その奥の院「罌粟への供物」みたいな小説。

後記:2022年年始に本作の改版が河出文庫で再出版! 前の版入手が難しかったから、うれしい!! こんなこともあるんだね。買って再読。日本語の美しさに酔い痴れる。こういうの読むと、お茶の勉強もしてみたくなる。

No.406 8点 犠牲者は誰だ- ロス・マクドナルド 2018/09/23 09:58
アーチャー物としては一番入手性が悪い部類の作品なんだけど、結構な異色作である。アーチャーの過去に関する記述が具体的なこともあって、ロスマク読むんなら読んでおかないとマズい、と思うような作品だよ。
本作はアーチャーが出張から帰る途中のハイウェイで、瀕死の男を見つけたところから始まる。空軍基地によって栄えたが、基地の廃止でさびれた町が近くにあり、事件はこの小さな町の人々の人間関係を巡るものだった...アーチャーにしては珍しいスモールタウン物、と読める作品なのだ(強いて言えば「青いジャングル」がそう?)。空軍基地が撤退して、町はシケている...モーテルとナイトクラブを経営する男と、瀕死の男を雇っていた運送業者、この2人の家族と周辺の愛憎関係をめぐる、ロスマクでも一番狭い人間関係の話、になるだろう。スモールタウンということもあって、この2家もハイソにはほど遠い庶民的というか成金的というか、そういうトーンの話である。
でしかも、ギャングが少し事件に絡むので、アーチャーが殴る・殴られるは頻繁だし、アーチャーが積極的に発砲するシーンも複数あって、「動く標的」以来のバイオレンスぶりである。お約束的でリアリティの薄い「動く標的」のバイオレンスと違い、雰囲気が暗くて「田舎町のリアル」がベースの作品なので、さらにハードな印象を強めている。
というわけで、「ハードボイルドらしさ」という点ではロスマクのベスト作品になるように評者は思う。比喩も後期的に落ち着いてきていて、初期の浮ついた感じではないしね。でしかも

あの照明から百ヤードばかりの地点で、私は膝をつけ肘を地面につけた。この姿勢が、あの緑なすオキナワの凄惨な戦闘の、無煙火薬と火焔放射器と黒焦げになつてころがつている肉体の匂いを思い出させた。

....からバッテリイを盗んだ咎で私をつかまえた。彼は私を壁の前に立たせて、それがどういうことなのか、どういうところに堕ちて行くかを話した。彼は、私をそういう道に追いやらなかつた。私はその後、何年も彼を憎んだが、二度と盗みを働かなかつた。しかし、ものを盗む人間の気もちは、私はおぼえている。窓のない部屋で生活するような感じがするのだ。

と、後期の透明な「質問者」アーチャーとはかけ離れた、正直に自分を語るアーチャーの姿を味わうことができる。その面でもレアな作品である。腰を据えて読むべし。評者は中期じゃ「運命」>本作>「ギャルトン事件」だと思う...

No.405 7点 007/ロシアから愛をこめて- イアン・フレミング 2018/09/17 19:48
007というと娯楽スパイの代名詞なんだけどね...けどさ、本作までの原作って「ムーンレイカー」を除くと派手なトンデモ陰謀はないんだよ。本作でもトビラには「この小説の事件はともかく、背景の大部分は正確な事実にのっとっている。...この将軍の人相その他についてのわたしの描写は正確だ」と、MI6勤務歴のある作家に見得を切られちゃったら....どうしよう?? スパイの秘密活動のリアリティを、一読者がどう判定するんだろうね?
少なくとも本作までは、ハードボイルド+スパイ(+あと恋愛?)、という狙いで書かれていたと見るほうが適切なんだと思う。本作の映画化までは、そんなに売れていたわけでもないようだし。映画だってトンデモ路線の第1作「ドクター・ノオ」以上に、シリアス描写の多い本作が大ヒット。映画の方も原作のシリアスさを活かした出来であって、娯楽トンデモ路線が定着するのは次の「ゴールドフィンガー」からだと見たほうがよさそうだ。
小説の方だが、前半のスメルシュ側の作戦立案をじっくり描写しているあたりが、小説として実に冴えている。フレミング、小説上手だよ。ボンドだけに特化した作戦を立案したために、「罠かな?」と疑われても、あまりに特化し過ぎてるので、「まさか?」となってついついひっかかる、というあたりリアルな駆け引き感があって、いい。さすがチェス・マスターのプランである。後半「執行」は「計画」のリアライズとして意識して読むのが面白いと思う。
でまあ映画だけど、古典的な序破急を無視した、最初から全速力のジェットコースター式スリラーの元祖。スリラー映画は明白に演出面で「007以前/以降」があるからね、観てなきゃモグリ、というものでしょう。個人的にはローザのロッテ・レーニャに思い入れがある...この人「三文オペラ」の作曲家クルト・ヴァイルの奥さんで、舞台初演で娼婦ジェニーを演じて、パブストの映画化で名曲「海賊ジェニー」を歌った人(LOVE)。「海賊ジェニー」の残忍非情さがローザにつながる..のは読みすぎだろうけどね。映画出演は少ないけど、「ワイマール文化の名花」とまで呼ばれた舞台人である。ロバート・ショウやペドロ・アルメンダリスもそうだけど、この頃の007のキャスティング・センスは神がかっている。
(あと小説でボンドが「ディミトリオスの棺」を持ってイスタンブールにいくチョイスがナイス)

No.404 5点 判事への花束- マージェリー・アリンガム 2018/09/16 23:33
アリンガムというとその昔は訳書が少なくて、よくわからない作家の代表みたいなものだったけど、少ない訳書の本作、読んだらどんな作家か更にわからなくなるような作品だ。
2代目として従兄弟たちが経営する老舗出版社の金庫室で、共同経営者の一人の死体が見つかった。その男、数日前から失踪していて、心配した従兄弟の一人が、友人のキャムピオン氏に調査を依頼していた。が、その従兄弟が検屍法廷での評決で犯人に指名されてしまった。前日にその金庫室に入ったのに、そこにあったはずの死体を見ていなかったのだ。いよいよ裁判が始まる。キャムピオン氏は友人の無実を信じて調査を開始した....20年前に不可解な人間消失を遂げた別な従兄弟の事件、社宝とされてきた古典作家のエロ戯曲原稿の行方は?

と書くととてもおもしろそうなんだけど、ほぼあらゆる要素が腰砕ける、というとんでもない作品なんだよ。「判事への花束」とタイトルはついていてもガチの法廷攻防があるわけでもないし、最終的にはうやむやになる。アリバイ工作もないわけじゃないが、正面切ってどうこうというものでもない。犯行方法はやや変わってるが、びっくりするようなものでもない。人間消失も大したものでもない。キャムピオン氏と元泥棒の召使とのやり取りが気が利いている、というほどでもない....こうやってまとめてみると、いいところ一つもないな(苦笑)。
しかしね、幕切れが関係者の「その後」を描いていて、これがなかなか、いい。いいと言うのもオカシな話だと思いながらも、評者とか妙な共感をおぼえるんだ。アリンガムって、わけがわかんない作家だ....

No.403 8点 スマイリーと仲間たち- ジョン・ル・カレ 2018/09/16 17:14
スマイリー三部作というと、どうも「ティンカー、テイラー」「スクールボーイ閣下」だけがクローズアップされるきらいがあるけども、掉尾を飾る本作も前2作に負けないというか、勝ってる部分も結構ある名作だと思う。まあこの3部作、最初から読まないと面白みが薄いので、最後の本作に到達するまでが...はあるんだろうけども、これを読まないのはもったいない級の作品なのは間違いない。
基本は「ティンカー、テイラー」風の、スマイリーの行動中心の作品である。本作では被監視対象の亡命者「将軍」殺しを巡って、それが大事にならないように以前の担当者であるスマイリーに後始末を依頼する、というのが名目である。スマイリーは前作「スクールボーイ閣下」でウェスタビーの不始末の責任を取るかたちで引責して、引退状態なのを無理して再出馬するわけだ。だから「ティンカー、テイラー」以上に「孤独な戦い」を強いられる。もちろん、地味に関係者を回って話を聞いて...が主体なので、ほとんどハードボイルド私立探偵小説風の読み心地である。これがなかなか、いい。回る対象はほぼ昔の直接の配下や仲間たちなので、懐かしがる者もいれば、スパイ稼業に反発する家族を抱えていたりして、それぞれにそれぞれの人生感がある。元アレリン派で点灯屋のチーフだったヘスタエイスなんて、中東美術品バイヤーとしてそこそこ成功していて、過去のいきさつを蒸しかえすスマイリーに「ジョージ、いちどでいいからきいてくれ。たのむから、な、ジョージ。いちどだけでもおれにも説教のまねをさせてくれ」と引退スパイが「いまになってクレムリンめがけ騎兵隊最後の突撃かい」と年寄りの冷水なのを忠告するシーンが、情感ダダ漏れでいい。
結局スマイリーの調査はイギリス国内では済まなくなって、結局西ドイツで死体をみつけ、フランスで....と背景をスマイリーが把握したところで、スイスでの「スマイリー組」の作戦指揮になる。もちろん先程のヘスタイエスも昔取った杵柄でバックアップの点灯屋としてスマイリーを援護する。3部作の最後のなので、ちょっとした「同窓会効果」があって、うるっとくる。長らくお付き合いした甲斐があるというものだ。
作戦はカーラのプライベートの弱点を突くものなので、まあ言ってみれば「鉄の規律」対「人間の情」といった、わかりやすいあたりでまとめてある。前半の静と作戦の動、同窓会効果、結末と、エンタメのツボを押さえた職人的な面白小説、といったもの。グランフィナーレとしては上々。

あとねえ、三部作全体でみると、一番ヤな奴は政府の監視役のオリヴァー・レイコンだ。キラワレ者である曲者サム・コリンズがもう少し活躍してくれると評者はうれしかったんだが、本作ではただの提灯持ちでつまらない...「死者にかかかってきた電話」以来のお付き合いであるギラムくんの没個性は何とかならんか。

No.402 8点 細い線- エドワード・アタイヤ 2018/09/15 21:17
この1作だけでミステリ史に名を残した、犯罪心理小説の傑作である。ひょっとして作者が殺人を犯した実体験に基づいてる...だったとしても納得するくらいの迫真性である。地味だけども何回も何回も再刊されており、絶対に古びないタイプの「パターン発明的な」名作だとおもう。
親友の妻と不倫する主人公は、SMプレイでついやり過ぎたようで相手を絞殺してしまう。どうやらうまく警察の嫌疑を逃れたらしいが...しかし、息子の急病、同僚の使い込みといった日常の事件が、繊細な主人公の神経を痛めつける。主人公は「自らの殺人を告白したい」という想いに囚われるようになったのだ。告白された妻は自らの生活を守りたいし、妻を殺された親友だって告白に困惑するばかりだ。さて、どうなる?
という極めて型破りな小説なんだけども、微に入り細に入った心理描写が納得のリアリティを与えている。人間心理ってのはね、慣性というか変化を嫌う保守性があるから、愛する人がとんでもないことを言い出しても、向き合うことが難しいんだよ。そういう機微を存分に描いたオトナの名作。おすすめ。

No.401 6点 ブラック・マネー- ロス・マクドナルド 2018/09/15 20:50
「運命」から「一瞬の敵」までのロスマクって、本当にハズレのない絶頂期なんだけど、しいて言えば本作が一番人気が薄いように思う。この人気のない理由が評者なんていろいろ考察したくなるあたりである...たとえば本作のちょうど中間あたりで読むのをやめて、プロットをまとめたのを、最後まで読んで改めて真ん中までのプロットを読み返すと、全然違う作品なのでは?と思うくらいに「どういう話なのを追い求める」そういう話のようだ。どうも日本の読者はこういうの、苦手なように評者は感じる。
それでも話の骨格はたぶん「人の死に行く道」を再利用したもので、あっちはヘロインというガジェットの争奪戦なのだけど、こっちはタイトルの「ブラックマネー=脱税した裏資金」を奪い合う話(だけでもないが)と、妙にリアルにしたあたりは、工夫のわりに効果が上がってないようにも思う。ガジェットだって、いいじゃないか。何か迷ってるのかしらん。
依頼人も金持ちだけど非モテなボンボン。「こんなにすさまじい食いっぷりをみせる男に出会ったのははじめてである」とアーチャーが呆れる過食症っぷりを見せる(ストレスはあるんだけどね)。この依頼人が他人に奪われた婚約者を取り戻してほしい、という筋ワルな依頼で、アーチャーも当初気ノリしない感がありあり。途中傷ついた坊っちゃん、アーチャーを解雇するとかあるし、およそ本作、かっこいいとかハードとか、そういう印象がないんだよね。しかし評者、本作嫌いじゃないんだ。ワルモノみたいに見える謎の婚約者の過去が結構共感できるようなものだし、ブラックマネーを奪われたギャングは卒中で廃人化しているし....と生真面目なロスマクにしては、あれ?となるくらいのオフビートさがある。
まあこれを失敗と見る人を責めるのは難しいと思うけど、こういう不揃いなゴツゴツ感が評者は逆に好きだ。家族悲劇が大好きな日本の読者には向かない、ロスマクじゃ一番読者を選ぶ作品だろう。

No.400 10点 ドグラ・マグラ- 夢野久作 2018/09/10 22:20
400件を記念して何をしようか、と考えていたら、マンションのゴミ捨て場になぜか「ドグラ・マグラ」が捨てられていた...これは天啓というものだ。どなたか存じませんが、読後精神状態が不安定になったのが怖くなって、捨てたものと好意的に解釈することにして、ありがたく頂戴することにする。
最初に読んだのは中学生で図書館のポケミスだったが、それ以降大学生時代、映画公開直後、30台半ば...と3回位買って読んでいるはずなんだが、そのたびごとに友人に借りパクされて、手元にないんだよ。一所不住なあたりが本作らしいが、巡り巡って還ってきたようなものかもしれないな。「丸善・ジュンク堂書店限定復刊」のポケミスである。
今回読んでね、本作で展開される科学理論が、一周りしたせいか意外なくらいに示唆的だ、ということに気がついた。まあ「キチガイ地獄外道祭文」でなされる精神医療批判は、いわゆる「反精神医学」によって現在では人権上もまっとう極まりない批判であることはいうまでもないし、監禁ではなくてノーマライゼーションを重視した「開放治療」だって昨今では違和感のあるような議論ではない。「脳髄は物を考える処に非ず」も、たとえばベンジャミン・リベットの実験(ググってみな)から「意識とは、ニューロンの機能の副作用であり、脳状態の付帯徴候・随伴現象に過ぎない」という結論が示唆されるわけで、「自意識」というものが「原因」というよりも「結果」だ、つまり「意識」が考えるのではなくて、脳全体が「考えて」いるのだ、というようなことも言えるようなのだ....で、一番奇怪な「胎児の夢」ですら、「細胞の記憶力」をDNAによる継承、と見て、ドーキンス流に「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」と捉えるなら、比喩として当たってなくもないと思うのだ。20世紀前半の科学理論では異端奇説の部類だったのだが、一回り回って「異端奇説」が現代科学の結論を示唆するように見えるのが、本作の先駆性かもれないよ。評者のコジツケだったらごめんね。
で、このような理屈の道具立て・スタイルのコラージュ・意図的なメタな混乱の上に、実のところウェットな物語が仕込んである..と感じられるのは、おそらく本作の混沌を整理して、ウェットな部分をきっちりと表現した松本俊夫監督の映画があるせいかもしれない。実は最終盤、結構泣けるのだ。絵巻物に仕掛けられた両博士の意図を挫く罠、正木博士が「キチガイ地獄外道祭文」と自嘲するその真意など、隠し味として情味があってこれがなかなかいい。映画のオリジナルで、原作の混沌をうまく交通整理して端折るために、「ボクのお母さんです」というセリフ(このときの松田洋治の表情が実にイイ)を追加したことで、映画の方向性がうまく定まった印象があるのだが、これ、さすがは松本先生である....この作品が持つ「情け」の部分をさり気なく強調していたのである。映画も原作のテイストを活かした傑作なので、ぜひぜひおすすめしたい。
今回ポケミスの復刊で読んだのだが、年寄りのワガママで申し訳ないが、「ドグラ・マグラ」なら「活版」の印字感のある版で読みたいな... このポケミス、本書の特色でもある、フォントを変えた見出しや約物の多い版組の特徴を、なるべく活かすように頑張ってはいるのだけども、もう一つ迫力が出ていないように感じる。活字でないオフセットの限界かもしれないが、「佶屈聱牙」な雰囲気が出るといいと思う。
本作の比喩を借りて結論を言えば、本作は「近代文学の神経中枢とも見るべき探偵小説」である。小説読むなら、本作を読まずに済ますなんて、そもそもありえない。異端の奇作、というよりも、本作は今ではニッポン暗黒文学が誇りとすべき「王道のポストモダン小説」だと思う。それこそフーコーとかバタイユに本作を読ませて、感想を聞きたいと思うくらいだよ。

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クリスティ再読さん
ひとこと
大人になってからは、母に「あんたの買ってくる本は難しくて..」となかなか一緒に楽しめる本がなかったのですが、クリスティだけは例外でした。その母も先年亡くなりました。

母の記憶のために...

...
好きな作家
クリスティ、チャンドラー、J=P.マンシェット、ライオネル・デヴィッドスン、小栗虫...
採点傾向
平均点: 6.39点   採点数: 1419件
採点の多い作家(TOP10)
ジョルジュ・シムノン(105)
アガサ・クリスティー(97)
エラリイ・クイーン(48)
ジョン・ディクスン・カー(32)
ロス・マクドナルド(26)
ボアロー&ナルスジャック(26)
アンドリュウ・ガーヴ(21)
エリック・アンブラー(17)
アーサー・コナン・ドイル(17)
ウィリアム・P・マッギヴァーン(17)