皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
していません。ご注意を!
クリスティ再読さん |
|
---|---|
平均点: 6.39点 | 書評数: 1482件 |
No.822 | 6点 | シャーロック・ホームズの記号論- 評論・エッセイ | 2021/02/26 22:49 |
---|---|---|---|
80年代に流行った本である。懐かしい。記号学が大流行の頃で、みんな知ってるホームズと、日本人はよくわからないC.S.パースをひっかけて、記号論に入門できちゃうお買い得な本(しかも薄くてすぐ読める)だから、流行ったわけさ。評者ドイルはとりあえず大体済ませたから、そういえば、で取り上げよう。
ミステリの名探偵の「推理」というと、演繹的推理と帰納的推理が...とかね、そういう説明が「ミステリ入門」とかでされるわけだけど、この本の面白いところは、発見的な推理・推測というものは、この著者のシービオクによると、実は演繹的でも帰納的でもない、パースの用語で言うところの「推測 abduction」というものであり、ホームズの推理法の中に、そのエッセンスが詰まっている、ということだ。 いや「推測」という訳語は、坐りが悪い。「あて推量」とか「仮説的推論」いうくらいの方がどうもいいようだ。つまり、帰納推理だって、現象を観察して何らかの仮説的な推量を形成し、その仮説に対してさまざまなデータがうまく収まるかどうかを判定して、「帰納」するわけで、この「仮説を立てる」という能力を根底的な「能力」として捉えよう、というあたりに、著者がパースを援用する所以があるようだ。 とはいえ、この本の面白さ、というのはどちらかいうとこういう理論風のあたりよりも、モデルのベル博士と、パース、それにドイルに共通する「医師の視線」と、「演劇的な身振り」の合体した、パフォーマンス的とでもいうべきアプローチを見せているあたりのような気もするのだ。要するに、このエッセイは、推理というものを一方的な解釈プロセスではなくて、推理する側とされる側の、無意識的な相互作用の中にとらえよう、としているあたりの面白さなのではないかと思う。 まあ、軽いエッセイなので、すぐ読めるんだけど、ややこしいことがサラっと書かれていることもあって、注意深くないと読んでも意味がないかもしれない。著者は 1920年生まれだから、フーコーとかバルトとかと同世代で、巻末付録の山口昌男との対談だと、「レヴィ=ストロースが構造主義の父だとすると、シービオクはその助産師だ」なんてヨイショしている。守備範囲の広い学者だったようだ。 |
No.821 | 6点 | 三十九階段- ジョン・バカン | 2021/02/26 14:55 |
---|---|---|---|
大古典スパイ小説。なぜ今までお二方しか書いてないんだろう...って評者びっくり。
皆さんご指摘の通り、本作は緩めで乾いたユーモア感あふれる、ハードなくせにのほほのんとした良さが溢れる冒険小説。イギリスの北部の田園地帯を駆け回る、何か「人口密度が低い」面白さ、というものを評者は感じたりするのだ。人と戦うよりも、スパイという野獣か自然現象と戦っているような面白さ、なんだろうか。 いや日本って人口密度が高いからか、どうもせせこましくて、世知辛い。本作ってそういう国民性から見ると対極にあるのでは...なんて思う。シビアな国際政治と陰謀を扱っても、どこか大らか。しかも、主人公のハネーくん、南アフリカの国外植民地出身で、イギリス人とはいえ、島国根性はカケラもなし。だからかね。 昔話だけどスパイ小説がもてはやされていた時期に、誰だったか左翼的な見地でスパイ小説を愛国小説みたいに捉えて批判した人がいたんだが、まあそんなの大人気ない、はその通り。でもグリーンとかアンブラーはガチに左翼なんだけどね....で、逆にそういう見方をするときに、本作みたいなのは「実に健全なスパイ・スリラーの代表」という気もするんだよ。 神経症的に周囲の人を外国のスパイ、と見るようなのが、各務三郎が「現代版恐怖小説」と化したとする「病的なスパイ小説」だとすると、本作が追及するのはあくまで「イデオロギーのクサ味も、政治的主張も、まったく関係なしに万人受けする、コモンセンスな面白さ」だ。エンタメで読み捨てても悪影響なんて、まるでなし(苦笑) イギリス人の国民性のいい部分だけが出たような小説である。いいじゃないか。 |
No.820 | 7点 | クリストファー男娼窟- 草間彌生 | 2021/02/25 19:14 |
---|---|---|---|
日本を代表する前衛アートの女王である。しかし、この人小説も書いていたりするのだ。この本は表題作の他に「離人カーテンの囚人」「死臭アカシア」の3編を収録した短編集である。いや草間彌生、作品タイトルが実に独特で、カッコいい。「マンハッタン自殺未遂常習犯」とか「聖マルクス教会炎上」とか「ウッドストック陰茎斬り」とか、見るからに業が深くて「暗黒!」な世界の期待が深まる、というものだ。
アートの方でも、この人特有の幻視から来るイメージが、病的なんだけど実は一般性がある、というあたりに、実に絶妙なバランスがあるわけだが、小説も同様。ヘンリー・ミラーを連想するシュルリアリスムもあれば、耽美小説とも読めるし、この人固有の病的な幻視・幻覚描写と、性への反撥と固着のアンビバレンツ...と、中井英夫や赤江瀑の系譜の暗黒文学の資格十分の小説である。 「クリストファー男娼窟」は「野性時代新人文学賞」を獲った、小説としては一番有名なもの。コロンビア大に留学中の香港出身の女子学生ヤンニーは、貧乏な学生たちの男娼のアルバイトを斡旋する売春地下組織「パラノイアック・クラブ」を作り上げていた。その一人でヤク中で身を持ち崩した黒人の美青年ヘンリーは、ヤンニーに紹介されたユダヤ人の小金持ちに一週間600ドルで売られる。ヘンリーはそのユダヤ人と閉じこもった山荘で、どんでもない事件を起こす...ヤンニーとヘンリーは逃亡の果てに、幻想のエンパイアステートビルを登っていく 夜目にも光る銀色のコーヒーは、ヘンリーの男の中身まで、銀色に染めてしまった。ヘンリーの内臓が、蛾の羽からこぼれた粉によって変色してしまうと、ボッブは再びすりよってきた。開かずのドアの内側も多分銀粉で染まっているにちがいない。 いや文章の禍々しさが期待通り、というものである。もちろん草間の単身ニューヨークに渡って「前衛の女王」の名をはせた70年代の体験から作り上げられた血みどろの幻想譚である。 その次の「離人カーテンの囚人」は草間の生い立ちに取材した作品で、鉄道自殺に終わる大変悲惨な話なんだけども、自伝の「無限の網」とか読むと、悲惨さはかなり誇張して盛っていて、これほど悲惨ではない。小説だもんね、「暗黒のシンデレラストーリー」くらいに読んでいいと思う。放蕩の果てにヤクザに食い物にされる父と、その人間の屑のような夫に執着し続ける母との間に、望まれもしないのに生まれた子供たちの一人として生を受けた少女キーコ。親からのネグレクトと折檻から身を守るのは絵を描くことと「離人カーテン」で心を殺すことだった。キーコはこの両親の諍いの板挟みの只中で初潮を迎えた... 白茶色の海のような壁紙の中から、キーコの眼球の奥に、チューリップの花が無数に連なって湧き出てきた。見ればいくらでも出てくる。やがて、チカチカと点滅を繰り返しながら、窓の曇りガラスまでこびりついてきた。彼女は驚いて窓に近よってみた。ガラスの上に湧き上がる花を手でなぞった。すると手の上でもチューリップは無数に増殖していき、手の形さえ、その影の内側に埋没して消えていく。 いや草間彌生のアートの方に親しんでいると、本当にこの描写がアートを連想させて、「この人、ホントに『選ばれて』いるね」と感じさせる。とはいえ、精神病的な描写の理解不能性と、小説としての理解可能性のバランスが、アート同様にきっちり取れていて、意外なくらいに破綻していない。これが不思議なくらいの話でもある。まあだから、エンタメとして読んでも、そうそう不当、ということにもならないと思う。暗黒文学の一つとして、楽しんでいいと評者は考えている。 |
No.819 | 5点 | カシノ殺人事件- S・S・ヴァン・ダイン | 2021/02/24 23:18 |
---|---|---|---|
前作の「ドラゴン」だと長々と龍に関するウンチクしてくれて楽しかったのだが、本作だと蘊蓄が足りないよ~そこらが不満。評者ヴァンスのウンチクを楽しみにしているんだ。
で今回は毒殺で、何件も毒を飲まされる事件が連続する。短い長編で、ヴァン・ダインの気取ったスタイルで書かれるわけだから、「人がどんどん斃れる」ホラーの味が出るかな?というあたり。でも作者が徹底できていないようにも思う。取り調べられていた関係者が続々急に倒れて、どんな毒か不明、というのはうまく恐怖を煽って書けば「怖い」アイデアだと思うんだけどね。で最後はバタバタとスリラー風に展開して終わる。毒殺トリックもまあ常識範囲だが、そう悪いアイデアじゃない。語源を知ってるとね... (ネタばれ?) 実は本作のネタの一つの例の水、事故で飲んだ人が実際にいるらしいけど、別に病気とかならなかったらしい....そりゃ、大量に飲めば別のようだが、コップ一杯くらいなら平気みたいだよ。いやいや本当は、DHMOといって、例の水に近いもので、これを飲んだ人の死亡率が100%の液体があってね、こっちの方が怖い?かもよ。 |
No.818 | 8点 | 事件- 大岡昇平 | 2021/02/23 12:47 |
---|---|---|---|
この作品の意義は、実は作品内で力説されていて、それに触れずにあくまで「フィクション」のエンタメで読むのは、どうか、と評者とかは思うんだ。あえて言うけども、本作はミステリに見えて実はミステリではない。
(死体の具体的な状況などの)それらは現場について、おそるべき詳細な客観性を持って書かれているものである。一般人はそんなものを読む必要は全然ない。犯罪とか戦争とかは、経験しないですまさられれば、それに越したことはないのである。 それら警察の記録を、現代人の病的な好奇心に沿うようにアレンジしたものが、小説やドキュメンタリーとして放出されている。しかしそれらは犯罪の実際について、正しい印象を与えるものではない。 本作は結果として協会賞も獲れば、映画ドラマに映像化された有名作になる。大岡氏というと実はミステリ・ファンの文学者としても有名なんだが、この作品でやろうとしたこと、は「裁判」という「営為」自体を「文学者の目」で再構築しよう、という試みだ。裁判を扱ったフィクションが「裁判を舞台にして、明らかになる人間のドラマ」を描こうとするのと、完全に一線を画しているのが、本作の面目になる。TVドラマも映画も、ありきたりな「裁判物フィクション」としてしか映像化できなかったのだけども、小説の狙いは全然別なところにある。 この小説の中では、具体的な裁判手続きの詳細が事細かに記述される。裁判を主宰する裁判官、告発を担当する検察官、そして被告とそれを弁護する弁護士の3つの陣営による、この「裁判」というゲームの具体的な手続きと、その手続きの中にある「理念」といったもの、そしてその「理念」を手続きにそって運用する判事・検事・弁護士の具体的な運用。これらを事細かに叙述することで立ち上がってくるのは、戦後に大きく改定された刑事訴訟法が具現化する理念「公正」である。この3つの陣営の模擬的な闘争が、判決として具体化される「公正」に結実するプロセスを丁寧に追った小説、と言えばいいのだろうか。人間ドラマ以上に、観念の運動を追求したフランス文学的な味わいが、やはり大岡昇平らしさでもあろう。 ミステリ、がジャンル小説であるのは今更言うまでもない。もちろん「法廷ミステリ」にいろいろな妙味と面白味があって、一大ジャンルになっていることを否定するのではないが、大岡昇平のアプローチはそれとはまったく異なったフリーハンドのものだ。たしかに「事件」には隠れた人間関係が潜んでいて、真相もある意味意外なものであるかもしれない。しかし、この小説を通じて浮かび上がるのは「事件」を媒介とした、刑事訴訟という具体的な制度とその運用手続きの姿なのである。 私はこの場合、持ち出した公正は抽象概念としてではない。公正は言葉としては概念だが、それを運用する裁判官の判断は一つの行為だ、と思っている。 刑事裁判はその手続きのただ中で選択される「行為」の集積であるがゆえに、「人間」の小説としてのテーマになりうるのだ。この大岡の視点の鋭さに敬服。 |
No.817 | 6点 | ソラリスの陽のもとに- スタニスワフ・レム | 2021/02/18 08:37 |
---|---|---|---|
評者もSFはプロパーではないので、ハードSF・ファーストコンタクト物の名作として知られる本作だって、タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を見てから原作を読む、という流れになるのは、これ80年代の青春、というものだよ。
「お前はバカだ!」と原作者レムがタルコフスキーを罵った、という有名エピソードがあるくらいに、原作と映画、というのは同じものであるわけはなくて、微妙な緊張関係がいつだって、あるものだ。「原作の中にある、【映画的な瞬間】というものを、映画作家はそっと取り出して、その【映画的な瞬間】を軸として再構築する」というのが「理想の映画化」というものだと評者は思ってる。そういう意味で、原作の「最後まで人間の願望を理解できない、ソラリスの海」という「人間以外の超知性体」、人類というものをカフカの流儀で表現すれば「神の不機嫌な一日の産物」であるような、そういう「理解することが本質的に不可能かもしれない【知性】」として描き切った原作のSFらしい狙いと、映画の狙いは、絶対に合致しない。 なので、映画の結末を知っていると、原作のクールでそっけない結末は何か不完全燃焼な印象を受ける。タルコフスキーという人は結局ソ連から亡命することになるのだけど、いや映画「惑星ソラリス」だって、実のところ「亡命者」が「祖国」に恋々する映画だ。タルコフスキーの資質の根底のところで「亡命者」風の疎外感が強くあって、「亡命」という事件は政治的な事件でも何でもなくて、タルコフスキーの内面のドラマの結末だった、という風にも、評者は解釈しているんだ。 そう捉えると、実はタルコフスキーの映画の方に、SFというよりもグリーンやアンブラーに近いエスピオナージュな味わいを感じても不思議じゃないのかもしれない。ソラリスの海によってソラリス・ステーションに送り込まれた「お客」たちは、ステーションの研究者たちの心の奥底に深く刻み付けられた「過去のトラウマ」を、具体的な人間を「コピー」して「ソラリスの海」から送り込まれたものである。だから、主人公たちはその「お客」にまつわる自分自身の「過去のトラウマ」と改めて直面せざるを得なくなる....「お客」はソラリスからの使者であるとともに、自分自身からのスパイでもある。お客を憎むも、あるいは自分の過去を受け入れるのも、自分自身という面で言えば「ダブル・スパイ」に転落するようなものでしかない。 われわれはいまその接触を実現しているというわけだ。まるで顕微鏡でものぞいているように、われわれ自身の醜悪さを何百倍にも拡大したかたちでね。それこそお笑い草だよ。この上ない恥さらしだと言ってもいい! つまりグリーンやアンブラーが書いた最良のスパイ小説が明らかにしたこと、というのは、読者である平穏無事の市民でさえ、なにがしかの部分が醜悪なスパイであり、さらに自身をも信用しないダブルスパイだ、というまさにそのことだったのかもしれない。そういう「自己のモラル」への懐疑は、タルコフスキー固有であって、レムのものではない。 |
No.816 | 6点 | 亜愛一郎の転倒- 泡坂妻夫 | 2021/02/14 20:49 |
---|---|---|---|
評者「狼狽」も最初4作凄い、という感覚なんだけど、第二弾のこれ、ホントにいい、と思うのは「病人に刃物」くらい。なんでかな?と思うんだけども、「趣向」という言葉で大体説明がつくようにも思う。
要するに、この短編集、作者が狙った「趣向」の色が強いんだよね。それを特に感じるのが「意外な遺骸」で、こういう見立て、作者が面白がり過ぎると、読者は逆にシラケる部分がでてしまうんだよ。いや「趣向」と狙いはわかるんだが、着地点の常識と狂気のバランス感覚でもう一つ面白さが出てない、のでは。「藁の猫」は「DL2号機事件」の縮小再生産みたいなもので、「DL2号機事件」は「ンなアホな」と「...それも、アリ?」が「そこまで、やるか!」に転じるバランスの中で成立してたのが、「藁の猫」だと妙に理に落ちた感じでまとまってしまう。「砂蛾家の消失」はこりゃ「神の灯」の消失次元の入れ替えの「趣向」を「狙い」すぎ。 常識のようで狂気、狂気のようで常識、というあたりの往還の面白さ、というのがやはりこういう逆説系作品の味わいになるようにも思うんだ。逆にあくまで誰も「狂って」いない「病人に刃物」に、アイロニカルな面白さが出てしまうのが、「趣向」を外れた「趣向」の面白さ、なんだと思う。 |
No.815 | 7点 | メグレと宝石泥棒- ジョルジュ・シムノン | 2021/02/14 11:47 |
---|---|---|---|
どうせならで「メグレたてつく」から連続して読む。話が続いているようなもので、「たてつく」で登場した引退したギャングとその愛人の話。このギャングは表向きの正業が繁盛して有名レストランのオーナーにまでなっているが、宝石泥棒の組織者の疑惑をメグレはずっと持ち続けていていた。でも一切しっぽをつかませないまま、襲撃を受けて半身不随。車椅子の生活で愛人のアリーヌの介護を受ける一見平穏な日々。しかし、今も起きる宝石泥棒を陰で操るのはこの男、とメグレは目星をつけていた....「たてつく」でこの元ギャングとアリーヌが意図しない鍵を握ることになったのだが、「たてつく」の解決後すぐに、この元ギャングが射殺された!
こんな話。いきなり元ギャングの射殺から始まるので、「宝石泥棒」では生きた姿は登場しない。というわけで、皆さんの低評価っぷりを見ると、やはり「たてつく」「宝石泥棒」は連続して読まないと、この元ギャングのマニュエルの、メグレとの腐れ縁に近いキャラを理解しづらくて、面白く感じにくいようだ。マニュエルは「影のボス」と言った感じの悪党なんだけど、適当にメグレとも付き合いがあるので、チンピラの情報を教えてくれたりして、メグレとも持ちつ持たれつの関係にある。で、「たてつく」ではこういう「犯罪者との癒着」とも捉えかねられないメグレの「古いデカ体質」が、官僚的な若い警視総監には嫌われていて...という背景があったのが隠し味で効いている。 シリーズで繰り返し描かれることだけど、メグレって新聞報道を介して、社会的な有名人なんだよね。だからメグレの「古いデカ体質」を嫌う人もいれば、「伝説のメグレ!」と崇拝する向きもあるわけだ。今回事件を担当する若い予審判事アンスランは「崇拝」側で、メグレと一緒にビストロに入ってランチすると妙に感動していたりするのが苦笑。メグレは河岸の自室で部下を指揮するより、こんなビストロで事件を指揮するのが、似合ってる。この「古い」メグレにふさわしく、以前からのマニュエルとの因縁を含めて「メグレのもっとも長い捜査」なんだそうである。 そういう意味で、実は「たてつく」とうまく対比もついていて、「たてつく」で積み残した話が「宝石泥棒」で決着する。この「古いメグレ」の今風の科学的・組織的な捜査とは違う、経験的で即興的な捜査がテーマになる本作、実のところ「即興の名手のシムノン」が、「たてつく」でマニュエルとアリーヌを描いたところで、方針転換して「たてつく」の話に変わった、なんて想像もしたくなるのだ。 ぜひ「たてつく」と連続して読むことを、お勧めする。 |
No.814 | 7点 | メグレたてつく- ジョルジュ・シムノン | 2021/02/13 22:33 |
---|---|---|---|
メグレ、ハニートラップにかかる?
そんな冒頭である。出勤したメグレは若僧の警視総監に呼び出される。政治家筋からメグレに苦情が来ているのだそうだ。政界有力者の姪をホテルに連れ込んだ、というのがその内容。確かに昨晩メグレは電話でおびき出されて、酔っ払った娘をホテルに送って行ったのだが...誰がメグレをハメようとしているのか? というわけでメグレは直接この件の調査をするのを禁止される。定年も近いから、メグレは地位に恋々とするようなことはないが、それでも自分をハメた狙いが分からないことには、どうにもおさまりが付かない。ごく親しい部下や、後期に登場する仲良しの医者パルドンの協力を得て、メグレは「自衛」する。その結果、意外な犯罪をメグレは掘り当てることになる....と、メグレ自身が当事者となるサスペンス、意外な真相、それにメグレが行き当たるプロセス、と後期の作品ではなかなかの秀作になると思う。 ちなみに本作の次に書かれた「メグレと宝石泥棒」は本作と前後編みたいな恰好になっているが、評者は一緒に手に入れて抜かりは、ない。「宝石泥棒」と本作で登場人物が重複して、「宝石泥棒」の冒頭で本作のネタバレを喰らうことにもなるので、ここは評者も連続して読んで楽しむことにしよう。 |
No.813 | 6点 | 西欧の眼の下に- ジョゼフ・コンラッド | 2021/02/13 15:33 |
---|---|---|---|
コンラッドというと、スパイ小説の源流にされる作家でもあるので、本サイトの対象に一応、なると思う。名前はいかにものイギリス人の名前なんだけども、実はこの作家、帝政ロシアの統治下のポーランドで生まれ、両親の反露運動のために北ロシアに一緒に流刑になって、成人したら船乗りになり世界を回って、最終的にイギリスに帰化してイギリスで小説家として活動する...となかなか数奇な前半生をひっさげて作家になった人物である。
というわけで、この小説、「英語で書かれたロシア文学」というカラーがあるのが面白いところ。主人公はペテルブルグの大学生だが、革命派のテロ華やかりし時代、ある日下宿に帰ってみると、顔見知りの学生ハルディンが部屋にいる。今学生運動を弾圧する大臣を爆弾テロで殺してきたところだった...主人公ラズーモフは実は出世主義者で学生運動とは一線を画していたのだが、寡黙なキャラから過激派学生の間では「自分たちの同情者で頼りになる人物」と誤解されていたのだった。逃亡の手助けを頼まれたラズーモフは、警察にこの件を届け出てハルディン逮捕に協力してしまう...しかし、この件でラズーモフの運命は狂わされる。ジュネーブの亡命者たちの間でたくらまれる陰謀を調べるためのスパイとして、当局から派遣されることになったのだ。「英雄ハルディンの同志」という虚偽の肩書の威光だけでなく、このラズーモフの斜に構えた冷笑的なキャラが、ジュネーブでの亡命活動家たちの間でも、誤解されてもてはやされる。ハルディンの妹ナターリアとも知り合い、「兄の同志」とナターリアはラズーモフに好意を寄せる... まあこんな話。筋立てだけだと、とってもエンタメなんだけど、実際の読み心地はこの冷笑的なラズーモフのヘンなキャラ、ジュネーブの亡命者の中心にいるピーター・イヴァーノヴィチのイカサマさ加減、ピーターが寄生する大金持ちのパトロン、ド・S―夫人の奇矯さ、「殺し屋」と異名をとるテロリストでグロテスクなニキタ、などなど、奇人変人オンパレード、というアイロニカルな話である。しかも、この話がハルディンの妹ナターリアの老英語教師の「わたし」によって、ロシアとイギリスの国民性の差を強調しつつ、相対化・客観化して語られる、という仕掛け十分の小説になっている。 なので、この小説、「罪と罰」のパロディみたいな印象を受けるのだ。ウソみたいな話だがラズーモフはナターリアへの愛に打たれてしまって、自罰的な結末を迎えるし、ポルフィーリー判事に相当しラズーモフをスパイに起用する印象的なミクーリン顧問官、さらにあからさまな超人思想は古臭い、と思うのか冷笑的な出世主義のラズーモフのキャラ。何といっても、ラズーモフは素直じゃなくて、その冷笑主義を表に出して、革命家たちを馬鹿にするのだけど、それが逆に「大物」風のポーズと周囲に取られて、一目置かれるさまが、大変馬鹿馬鹿しい。「罪と罰」というよりも「罰と罰」とでもいうみたいなばかげた不条理さを醸し出している。 でもね、ちょっとだけ「意外な真相」も最後には待っている。微妙に、ミステリ? |
No.812 | 8点 | 半七捕物帳 巻の六- 岡本綺堂 | 2021/02/11 20:46 |
---|---|---|---|
さてこれで半七も評者は全作完了になる最終巻である。半七最後の「二人女房」(S12)が綺堂の死の2年前の最後の小説(戯曲は死の前年まで書いていたようだ)になるので、作家生活の最終盤まで半七を書き続けたといっていい。ホームズでもブラウン神父でも、その最後の短編集というと、惰性で書いているようなテンションの低さを感じるのだけど....いや綺堂の死に近い最後の半七の作品でも、実に充実している。それが本当に、凄い。よく「出来不出来か少ない」と言われるけども、大正年間のすっきりした語り口の半七もいいし、昭和の半七のこってりした内容も、両方ともそれぞれに良さがあって選び難い。この巻の作品は奇想天外なものがあって、覇気さえも感じるほどである。
江戸城本丸に忽然と現れた男が「東照宮の夢告により、天下を自分に引き渡せ」と要求した男が捕まるが、天狗に攫われて消え失せた「川越次郎兵衛」。とんだ茶番劇なのだが、この事件の設定は安政2年。もはや幕府瓦解は12年後で何か予言のような薄気味悪さもある。幕末に突入した時代がアナーキーさを強めていくなかで、脱獄囚が岡っ引きを追いかける「廻り燈籠」は逆さまの面白さ。岡っ引きでも不肖の若旦那じゃ海千山千の悪党には手も足もでない...半七親分の援助は? 世の中おかしい、となると石の地蔵も踊りだして...の「地蔵は踊る」。そして旗本の家の前には碁盤に載った女の生首が!「薄雲の碁盤」の猟奇、とこの巻の作品のアナーキーさが老年の作家のものとは思えない。 いややはり、幕末の激動の時代と、戦争に向かう昭和10年代とを、やはり重ね合わせる意図が綺堂に意識的にか無意識的にか、あったのでは...と思わせる。なのでこの6巻の作品の「異様さ」は、時代が強いたテンションの反映なのかもしれない。 で半七は府中のくらやみ祭で起きた商家の内儀の失踪を追う「二人女房」で幕を下ろす。これがまた実に力作。この神社の森には鵜や鷺が住んでいて、海で獲物を取った鳥たちが府中の山の中の神社で、その魚を落とす不思議、そしてその鵜を捕えて売る異様な男。そして神輿が通る時には真っ暗闇にする習わしの祭りで失踪した女。いや評者、半七から1作品だけ選ぶ、としたら「二人女房」を推したいくらいの名作だ。 一応この本には昭和6年に書かれた半七の養父の吉五郎を主人公にした中編「白蝶怪」を収録しているのだけど、半七の最終盤の名作たちと比較すると、かなり落ちる。ただ長いだけ、という印象。なのでこの巻に収録するの、どうなんだろうか(「白蝶怪」がつまらないから書籍としては減点。最終盤半七だけなら10点) 半七の小説としてのレベルの高さは信じられないほど。世界に誇ることのできる、日本の大名作ミステリ・シリーズである。 それでも、評者の個人的セレクトはしてみようか。 「津の国屋」「二人女房」「正雪の絵馬」「廻り灯籠」「朝顔屋敷」「鷹のゆくえ」「河豚太鼓」....いやいやまだまだ、たくさんある。困った。ベスト10とか選ぶのは無理なほどだ。そんなシリーズ、他にはたぶんないと思う。 |
No.811 | 7点 | 無間人形 新宿鮫IV- 大沢在昌 | 2021/02/07 15:11 |
---|---|---|---|
鮫の旦那のシリーズは評者好きなんだけど、評者の萌えどころがこのサイトだとややズレぎみなのは、よく分かっているさ(苦笑、評者は目が腐ってるから)。と前振るのは、要するに本作でコレ外しちゃダメだろ、という萌えのポイントが、香川兄弟だ、というあたりなんだ。
この香川兄弟の関係性に、本作では実に萌えるんだ。とくに進の死の直後、弟の死にざまを電話越しに聞いていた兄に気が付いた鮫島が、その電話で兄に語り掛ける....ここが圧巻のシーンになっていると思う。「屍蘭」でも連続殺人犯がその原因となった病人の枕元で立ちすくむシーンとか、このシリーズ、その作品を象徴するような「心理的な陰影が強く出た」名場面が必ずといいくらいあるのが、なかなか素晴らしいあたり。 本作だとママフォースも一度しか出ないし、ゲイミスの味があるこのシリーズとしては、その側面はないけども、王道なBLの味わいがシリーズ中でも一番強く出た作品なんだと思っている。強がっていても実は甘えがあるお坊ちゃんな弟と、冷静沈着な兄。いやいや本当に鉄板のパターンというものです。 ここまで巧妙に仕掛けたシリーズなんだから、絶対作者分かって、やってると思っている。うん、この件については、評者少数意見でも全然気にしないや。 |
No.810 | 8点 | 禽獣の門- 赤江瀑 | 2021/02/06 10:58 |
---|---|---|---|
光文社文庫の三冊のアンソロの2冊目。情念編だけど、赤江瀑、どの短編も「幻想」で「情念」で「恐怖」だから、このアンソロ三冊のそれぞれの個性がある、というほどでもない。それでもこのアンソロというと、表題作の「禽獣の門」が本自体の「重し」になっているようにも感じられる。
短編「禽獣の門」って、本当にヘンな作品なのである。梗概をまとめてみて、評者も正気には思えない。 能の家元の家に生まれて後継を期待されながら「能がつまらない」と家を出た春睦は、デザイナーを職業としつつ妻の綪(あかね)と山口県の漁師町に取材を兼ねた新婚旅行の中で、離島に取り残された...その島で、春睦は妻ともども、若くたくましい漁師に凌辱される。その漁師の背に遺された傷跡は「丹頂鶴」によるものだ、と知った春睦は、妻を振り捨てて丹頂鶴に憑りつかれ、兄弟のように育った後見の雪政とともに、中国山地の寒村に怪物のような丹頂鶴を追い求める。その丹頂鶴を目撃した春睦は、能の家に復帰して新作能「鶴」を初演するが....そこである事件が起きる。 いやこの内容で文庫70ページほど。長めの短編、というか中編には短いか、くらい。テーマはダジャレじゃなくて真面目に「官能と能」。 六月の街を洗いあげる光線はつよく、全身にその鮮烈な刷毛目を浴びてここへ逃げこんできた時の彼女の様子には、どこか昂奮しきった小動物を想い起こさせるところがあった。皮膚の奥深いところで、まだ燦然たる六月の街並みはキラキラと喧騒を伝え交わし、肉の内側で、硝子粉をまきちらしたような無数のきらめきがが余燼をくぶらせていて、彼女は完全に落ち着きを失っていた。 こんな華麗な文章で書かれてしまうと、つい魔法にかかってしまう。いや、読んでいるうちはこの辻褄が合ってて合ってない話が、納得して読めるのである。これが赤江瀑の凄みである。これほどヘンな話でも、イメージの鮮烈なつながりに説得力があるために、ヘンが変に見えないのである。 「蜥蜴殺しのヴィナス」は「兄の失踪と家の謎」で話を釣っていくわけだから、手法としては完全にミステリなんだが....昭和39年に来日したミロのヴィナスの乳房に這う青蜥蜴と、見知らぬ男の脇腹にナイフを突き立ててそのまま失踪した兄。同時に起きたこの2つの「映像」が少年だった主人公に深い傷を与えた。主人公は成人して、ミロのヴィナスの「失われた腕」に囚われたこの一家の因縁を解明する...それでも真相は「ミステリの解決」からは遠いものだ。「アンチ・ミステリ」でもなくて、言ってみればこういう淫蕩な「傷のイメージ」に「ミステリ」を逆用したようなものなのだ。しいて表現を探して「逆ミステリ」とか赤江瀑を思うと、評者は腑に落ちる。 この他「雪華葬い刺し」「シーボルトの洋燈」「熱帯雨林の客」「ライオンの中庭」「ジュラ紀の波」「象の夜」「卯月恋殺し」「空華の森」を収録。やや長めの短編が多い。 ミステリをミステリでなく「使って」鮮烈なイメージを紡ぎだす、というあたり、意外に小栗虫太郎あたりに近いんじゃないか...なんて思う。いやミステリマニアこそ、赤江瀑を読むと「ミステリという文芸」を相対化するような視点が持てるのではないか、なんて秘かに推薦したく思う。 |
No.809 | 8点 | フランケンシュタイン- メアリ・シェリー | 2021/01/31 17:55 |
---|---|---|---|
最近では4種類も翻訳が出ているようだが、読んだのは昔からある創元の森下弓子訳。新藤純子による解説が力作で、解説のためにこれを選んでもいいんじゃない?と思うくらい。
映画などで作られたパブリック・イメージと比較すると、原作小説は本当にマイナー。読んでる人には当然の知識なんだけども、原作での設定は次の通り。 ・「フランケンシュタイン」は怪物を創造した人物の苗字。名前はヴィクター。 ・ヴィクター・フランケンシュタインは博士でも教授でもなくて、ただの学生。 ・怪物には名前はない。 ・怪物のヴィジュアルについて詳細な説明はないが、人間誰もがその醜さに恐れおののき、爪はじきにする。純真な少女だけは恐れずに...とかそういう描写はない。 ・人間社会からは孤立しつつも、怪物は自力で言葉や人間生活の常識を学習し、最終的には「若きウェルテルの悩み」「プルターク英雄伝」「失楽園(ミルトン)」を読んで人間を理解する....めちゃくちゃ、優秀。 ふとした出来心で怪物を作り上げちゃったヴィクターは、無責任にも生まれたばかりの怪物を見捨てて逃亡し、怪物は自力で生き延びて知識を得て創造主のヴィクターを詰問しようと追いかけるが、偶然会ったその弟をもののはずみで殺してしまい、ヴィクターと怪物の関係がコジレにコジレる話。怪物側に感情移入してしまう方がふつーだと思うんだが....創造主vs見捨てられた被造物、身近な人を殺す怨敵、「自分の伴侶を作れ!」と怪物は強制するが、ヴィクターは拒む....とこのヴィクターと怪物との関係に実にいろいろな切り口が現れるために、この関係性の面白さに惹かれてまったく、飽きない。 人はみなみじめな者を嫌う、だったらどんな生き物よりはるなに不幸なこのおれが、嫌われぬわけがない! だが、わが創り主よ、おまえが被造物のおれを憎み、はねつけるのか。どちらかが滅びぬかぎり、切っても切れない縁で結ばれているわれわれなのに。それを殺そうというのだな。どうしてそんなふうに命をもてあそぶことができるのだ? いやこの怪物の告発が雄弁で本当に心に痛い。本質的に孤独な者、世界から疎外された者の叫び以外の何物でもない。だからこの関係性はドッペルゲンガー風の色彩を帯びてさえ、くる。フランケンシュタインと怪物は、深すぎる縁で結ばれていて、どちらがどちかなのか、区別がつかないくらいに、互いの妄執が束縛しあい続ける....この面白味、ロマン味を楽しむ小説なんだと思う。 人がおれを蔑むとき、そいつを敬わなきゃならんのか? ともに暮らして優しさを交わしあえるなら、おれは害をなすどころか、ありとあらゆる善行をほどこして、受け入れてもらえたことに感謝の涙を流すだろう。だがそれはだめだ。人間の五感がおれたちの結びつきには越えられぬ障壁なのだ。 この不条理が小説として素晴らしいポイントになっている。人間が怪物を嫌うのは「理屈」じゃないのである。だから怪物は絶望し、唯一責任を逃れ得ないヴィクターに、「怨敵として憎まれる」という反対方向の愛を捧げ続けるのである....いやこれが、本当に、泣ける話なのである。感動的な大名作。 |
No.808 | 8点 | あるフィルムの背景- 結城昌治 | 2021/01/26 20:48 |
---|---|---|---|
今回ちくま文庫版で。だから「葬式紳士」やら「温情判事」のオマケ付き。
でもね、この短編集だったら「孤独なカラス」である。 死んだ父がアフリカでヘビになったのが本当なら、聞こえる声は父とちがうのか。ちがうみたいだ。みんな、むかしからヘビで、女のお腹にいっぱいに詰まっていて、生まれるときに一匹ずつ人間の姿になって、死ぬとまたヘビになって、それからアフリカに行ったりインドに行ったりして、それから母ちゃんみたいな女のお腹にいっぱいにつまって、そして生まれるときにまた一匹ずつ人間になって.... と児童の統合失調症と思われる「カラス」と仇名される少年の事件を、その妄想に寄り添って語ったのが「孤独なカラス」である。極めて悲惨な話なのだが、この少年の妄想ベースで語っているために、独特のファンタジックな味わいが出ている。このサラサラした語り口に、結城昌治の練達の「芸」を観るべきだと評者は思うのだ。語り過ぎず、読者に想像の余地を十分に与える、やや古風かもしれないが、透徹した美意識の産物のように評者には感じられる。 (追記:この蛇の幻想から連想して、異端のシナリオライター深尾道典の「蛇海」とか「蛇の棲む家」とか探して読んだ...深尾の方が後なのだが、人と蛇の幻想の中での合一、というテーマは神話的で奥深いものを感じる) 実際、この短編集のそれぞれの話は、なかなかエゲツないものが多いのだ。しかし、この結城の「語り口」によって、奇妙に冷静に相対化がなされて、不思議なオブジェを見ているような気持になる。とある不美人のプライドを扱った「みにくいアヒル」なぞ、その典型例だろう。 このように、突き放した、というよりも「感情を排した」語り口はハードボイルドに通じることになる。表題作の「あるフィルムの背景」は、突然自殺した妻の死に関わるブルーフィルムの謎を追う夫の検事の話。妻を喪った夫の、激しい悲しみに加えその原因を作ってしまった自責が底流にある。それでも筆は感傷に溺れることなく、あくまでも描写はクールな客観性のもとにある。 これが最良のハードボイルド、なのだと思う。 |
No.807 | 9点 | 危険な童話- 土屋隆夫 | 2021/01/23 14:09 |
---|---|---|---|
どうも土屋隆夫の作品に辛くなりがちで、評者自分でも忸怩とした思いを抱いてたんだけどね...いや本作は、素晴らしい。
土屋隆夫の弱点、というのは要するに、今となってはその文芸趣味が古臭すぎる、というあたりにもある。が本作では見事にその文芸趣味がミステリが噛み合っている。そりゃ文句つけようないです。トリックがファンタジーに、ファンタジーがトリックに相互に転化するようなスリリングな瞬間がある。これがミステリという文芸の最良の部分なのだと思う。そして、そのただ中で立ち上がるのが、守るべきものの為に世界全てを敵に回すのも辞さない犯人の肖像だ。これが実に、泣ける。 いやだからね、最後の犯人の遺書以上に、最終章の童話の結末が残酷だ。 しずかに おやすみ/おかあさんも ねむります/お月さまは/もう きては下さいません/でも いつか/きっと 新しいお月さまが/お生まれになります/あなたが 大きくなってから/あなたと なかよしになって/しあわせを はこんで下さるお月さま/そのときが/おかあさんには みえるようです 本作にはそういう喪失の痛みが、ある。この残酷は、ファンタジーでしか慰められないために、ファンタジーから透けて見えざるを得ない、リアルの人生の不条理な残酷さなのである。 |
No.806 | 5点 | 新版 大統領に知らせますか?- ジェフリー・アーチャー | 2021/01/20 18:22 |
---|---|---|---|
そして一人の狂った上院議員が三月十日に議事堂を冒涜しようとしています
「今日、本作」は狙いました。日本では深夜の話ですが、何もないといいですね。 本書の冒頭はまさに、一月二十日、新アメリカ大統領の就任式の日。副大統領から大統領の死によって昇格し、再選された初の女性大統領、フロレンティナ・ケイン。彼女は懸案だった銃砲規制を実現しようとしていた。それに敵対する人々の中で、ケイン大統領を暗殺しようとする陰謀が企まれていた。決行予定は三月十日。FBI捜査官のマークは、その陰謀が偶然耳に入った男の事情聴取に病院に赴いた。半信半疑で支局に戻るのだが、その証人と同室の患者、それに再度聴取に向かった上司と同僚が立て続けに殺された! 背後には上院議員の誰かがいるようだ。マークはFBI長官の秘密の直属捜査官として、黒幕の上院議員の調査を命じられた。しかし容疑者の上院議員の一人の娘と、マークは恋に落ちてしまう。恋人の父が謀主? 「大統領に知らせ」れば、暗殺は回避できても、陰謀の徒党は分からずじまいになる...果たして暗殺計画を阻止し、黒幕を暴くことができるのか? という話。マークの側をメインにたまに犯人側、そしてターゲットの大統領とFBI長官の側も描写するタイプの小説。手に汗握る緊迫したサスペンス...と言いたいところだけど、実は、緩め。ウンチク小ネタが多くて冗長、お約束の連発で、あたかも小洒落たTVドラマを見ている感覚。とくに恋愛描写はのんき。まったり楽しむくらいなら上出来。 とはいえね、本作(新版は1987年出版)の事件設定は1999年らしい。だから現実ではクリントン二期目に相当するそうだ。1987年時点の作者の予想では、21世紀にはとっくに女性大統領もアメリカの銃砲規制も実現している、と思ったからそう設定したのだろうけど、2021年の今に至っても、まだどっちも実現してないのが、本当に不思議なことである。 |
No.805 | 5点 | 狂い壁狂い窓- 竹本健治 | 2021/01/18 21:00 |
---|---|---|---|
古い、朽ちかけた館。どこまでも薄暗く続く廊下。誰かが蹲っているような物陰。かすかな息づかい。そこはかとなく漂う死臭.....幼い頃から乱歩の小説を貪り読んで育った私には、そういった設定がたまらなく懐かしいものに思える(カバー折り返し著者の言葉)
という狙いの作品。ただね、竹本健治なので、乱歩のエロスはない。読んだ印象は少女怪奇漫画風なホラーに、ミステリの味付けがあるもの。語り手を伏せてぐじゅぐじゅとした描写が続いたりとか、いつの話なのかよく分からない殺人の記憶とか、そういったものの堆積でできているのだが....いちおうミステリとホラーの間を狙った内容になっている。とはいえ、相互に良さを殺し合ってるようにも思える。ミステリとしては躱されたようなヘンな真相だし、ホラーとしては解明されたら興ざめ。客観的にはキッチュだと思うけど、キッチュに徹しきれないところもある。失敗作だと思う。 けどまあ、昔の学生下宿みたいな変な建物だなあ....間取りのヘンさに、妙なリアリティを感じる。なんか懐かしい。 |
No.804 | 7点 | 変調二人羽織- 連城三紀彦 | 2021/01/16 20:18 |
---|---|---|---|
「変調二人羽織」はデビュー作なんだよね。話が縺れすぎる難はあるんだけど、最初から「やりたい世界」が確固としてある、のが凄いところ。噺家の破鶴の高座を見てみたくなるくらいに、その「破格」の芸の描写が魅力的(芸道小説得意だもんなあ)。その情念とミステリの仕掛けが噛み合って、それを東京の空を飛ぶ丹頂鶴のイメージで総括してみせる。文章が気負い過ぎなのが微笑ましいけど、処女作としてこれ以上のものって難しいと思う。
あとはやはり「六花の印」だと思う。明治の人力車と現代の自動車、男と女、カットバックで語られる2つの話の共通点と、それがどういう仕掛を狙っているのか?が、事件の謎とはべつに興味を引いてくる。そして、止まった銀時計という共通項が、2つの一見自殺に見える事件のトリッキーな真相を暴き出す....それを語る老刑事の思い出と影に隠れた男との因縁。いや短編ってのが信じれないくらいに話が盛りだくさん。 としてみると、「メビウスの環」とか「依子の日記」とかは、「ボアナル風」で評価できてしまうようにも思う。やはり「変調二人羽織」と「六花の印」には、作者がため込んできた「書きたいことの混沌」を窺わせるエネルギーという、このデビューの時期でしか味わえぬ、「時分の花」の面白さがある。これを整理して熟成したのが「戻り川心中」の諸作ということになるのだろう。 |
No.803 | 5点 | サボイ・ホテルの殺人- マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー | 2021/01/13 22:03 |
---|---|---|---|
マルティン・ベック6作目。今まで上司だったハンマルは退職し、代わって上司になったのが官僚上がりのマルム。現場が判らず政治性が強いために、どうもベックとはウマが合わない....ベックと言えば娘の独立を機にスキマ風が吹いていた妻とは別居。前作でチョンボしたスカッケはマルメに転勤、とシリーズも後半突入でいろいろ身分立場に変化が起きている。
スエーデン第三の都市マルメNo.1の格式を誇るサボイ・ホテル。そのレストランで会食中の男が、突然乱入してきた刺客に射殺された。警視総監直々の命でベックはマルメに出張する。殺された男はいろいろな事業を経営する実業家なのだが、武器密輸を陰で営む死の商人の疑惑がかけられていた。国際的な非合法ビジネスのトラブルに基づく暗殺なのでは?と余計な政治的な思惑がベックには重荷だった。爪楊枝の探し物名人モーンソンと組み、スカッケを配下にベックはアウェイのマルメで捜査を開始する..... 思うのだが、このシリーズの刑事たちが87と違う側面っていうと、刑事たちの個人的な欠点に容赦がない、という点かもしれない。ベックは心気症だし、コルベリは新人をいじめて結果的に因果応報を受けるし、メランデルは変人、ルンはグズ、ラーソンは乱暴者...でスカッケは身にそぐわない野望が滑稽なほど。もちろん長所はあるのだが、短所もすぐに指摘できるくらいに明確に描いている。エンタメらしい「理想化」が薄くて、こんな奴ら身近に居られても困る...なんて思わないわけでもない(苦笑)。その分、ヒーローでもアンチヒーローでもない、リアルな肌触りの警察小説になっているのが一番の特色。 前3回がベックの配下の刑事たちの話が中心になったが、本作では妻と別居し、マルメに出張のベックにフォーカス。独身を楽しむベックに食欲も戻るのがゲンキンなくらいのもので、ちょいとしたロマンスもあり。事件そのものよりも、そっちの方が面白い。 |