猫サーカスさんの登録情報 | |
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平均点:6.18点 | 書評数:429件 |
No.269 | 4点 | T.R.Y. 井上尚登 |
(2021/05/18 18:47登録) 明治の東京と上海を舞台に実在の人物を巧みに織り交ぜながら、詐欺師の主人公が軍と軍閥を手玉に取る様子を新人離れした筆致で描いている。主人公を取り巻く脇役たちの造形も、芸者屋の女将をはじめとして中々いいし、頼りなない犬が登場して大活躍するなど、コミカルな味付けもいい。人物造形、構成がよく、波乱万丈のストーリー展開もいい。ただ、既読感があり、新鮮味という点で物足りなさを感じてしまうので、全体の高揚を削いでいることは否めない。 |
No.268 | 6点 | 偽憶 平山瑞穂 |
(2021/05/13 18:51登録) 初めに結論ありきで事実を都合よく捻じ曲げて記憶する。誰もが知らず知らずにそんな思い込みをしているかもしれない。この作品は、忘れていた過去の真実が暴かれる物語である。疋田利幸は、実家に届いた奇妙な手紙を手にとった。ある人物の遺産問題に絡み、利幸が小学六年生の時に行われたサマーキャンプ参加者五人に集まってほしいという。やがて女性弁護士による説明会が行われた。故人の遺産はなんと31億円。しかし受け取る資格があるのは、15年前の夏に「或ること」をした人だけだという。一体あの夏に誰が何をしたのか...。大手メーカー勤務の利幸、バーの雇われ店長の樹、派遣労働で食いつなぐ一彦、自称タレントの智沙、公益団体に勤める今日子。それぞれの過去が生々しく物語られ、次第に個性の違う彼らの人となりや現在の境遇が明らかになっていく。家族、学校、思春期の悩みなど、痛々しく身に迫るエピソードも多い。話の中盤で真相はおおかた判明するものの、キャラクター設定と描き方がうまく、「同窓会ミステリ」としての読みごたえは十分すぎるほど。5人の相性の良し悪しや遺産に対する執着がそれぞれ異なるため、よりサスペンスが高まっている。「偽憶」にまつわる結末も見事。 |
No.267 | 6点 | 邪馬台 北森鴻 |
(2021/05/08 18:54登録) 異端の民俗学者と呼ばれる蓮丈のもとへ、知り合いの古物商から、「阿久仁村遺聞」という資料が送られてきた。その25編から成る手書きの古文書には、村で起こった出来事が民話や伝統のように記されていた。だが、そこに隠された謎を読み解き、「邪馬台国」に関する議論を重ねていく過程で、思わぬ事件が巻き起こる。これまでも多くの学者や作家が邪馬台国の謎に挑んできたのはご存知のとおり。「魏志倭人伝」に記された卑弥呼が治める女王国とは日本のどこにあったのか。ここでは現代の調査と事件を軸に、謎の古文書に含まれる鏡のモチーフをはじめ、廃村、ヤマタノオロチ伝説といった多くの手掛かりから、明治期に村で起こった大量殺人事件、および歴史に隠された邪馬台国の謎が暴かれていく。民俗学や古代史に関する深い考察ばかりか、骨董や美食の蘊蓄なども含め、多彩な魅力がいたるところに詰まっている。 |
No.266 | 6点 | ベイジン 真山仁 |
(2021/05/03 18:30登録) 地球温暖化、原油価格高騰、バイオ燃料への転換がもたらす弊害など、いま世界が抱える問題の大部分は、エネルギーに関するものだといってもおかしくない状況。そして原子力発電に関しても、安全性や放射性廃棄物の問題など、依然大きな不安を残したままである。この作品は、世界最大規模の原発に関わる日本人技術者を主人公とした大型エンターテインメント。舞台は五輪開幕を目前に抱えた中国。日本技術者のみならず、中国側の責任者、そして北京五輪の記録映画の監督に指名された中国人女性の三人の視点で話は展開していく。「絶対的な安全」という目的と「国家の威信」という中国政府のメンツがぶつかったり、大連市の汚職摘発問題が背後にあったり、日本と中国の関係がさまざまな事件に発展していったりと重層的な物語が読み応えを深めつつ、幾多の困難に見舞われながらも最後まで「希望」を捨てない主人公らの姿が身に迫ってくる。さらに五輪開幕日までの悪戦苦闘ぶりが、壮大なタイムリミットサスペンスのように緊張と興奮をもたらす。 |
No.265 | 5点 | 贄の夜会 香納諒一 |
(2021/04/28 18:53登録) 都内で「犯罪被害者家族の集い」に参加した二人の女性が、残虐な方法により殺害される事件が起こった。ひとりは両手首を切り落とされ、もうひとりは後頭部を石段に何度も叩きつけられていた。一匹狼として事件を捜査する刑事が主人公となり、正体のわからない不気味な敵と対決していく。作中、ある弁護士が過去に起きた少年猟奇事件の犯人だったり、被害者の夫がプロの殺し屋であるなど、ハリウッド映画のような大胆な設定が導入されている。だが、詳細に描かれている警察捜査の実態はもちろんのこと、主要人物それぞれの過去から日常生活に至るまでが実写的に書き込まれているため、単なる荒唐無稽な犯罪小説にとどまっていない。フィクションとしての厚みがあり、しかも多視点によるスピーディーな展開と迫真の活劇場面が続く。エンターテインメント性の高いサスペンス。 |
No.264 | 8点 | オリガ・モリソヴナの反語法 米原万里 |
(2021/04/23 17:44登録) 子供の頃に何気なく見聞きしたことを、大人になってから、「あれは何だったのだろう?」と疑問に思うことは誰にでもあるはず。この作品の主人公は、中年になったある日、プラハのソビエト学校で過ごした少女時代をたどる旅に出る。彼女が捜すのは、オリガ・モリソヴナという名のダンス教師。常人離れしたダンスの技量を持ち、口の悪さとド派手なファッションで主人公の志摩に強烈な印象を残した高齢の女性だ。オリガとはいったい何者だったのか?彼女が時折見せた不可思議な言動には、どんな意味があったのか?それらを調べるうちに、オリガの秘密とスターリン時代のソビエトの闇を知ることになる。志摩は米原自身をモデルとしており、ソビエト学校時代の描写も彼女の体験に基づいている。ストーリーテリングの巧みさ、登場人物の魅力と生々しさ、物語のスケールの大きさに圧倒される。本書は緻密な取材に深く根ざしたミステリであり、超ド級のエンターテインメントであり、人類が忘れてはならない歴史の記録でもある。 |
No.263 | 5点 | 踊る天使 永瀬隼介 |
(2021/04/19 18:24登録) 現実に起きた犯罪を取り入れたミステリは少なくない。マスコミで盛んに報道された大事件は、写真や映像などのイメージも残っており、活字の世界がより具体的に迫ってくる。この作品のモデルにしているのは、新宿歌舞伎町の雑居ビル火災。もちろん実際の出来事そのままではなく、小説ならではの物語が展開していく。一九八〇年代後半、いわゆる狂乱のバブル経済が最高潮に達しようとしていた日本における肥大した欲望とその裏で生まれた憎しみが事件に絡んでいる。冒頭、ひとりの消防士の視点でビル火災の模様が描写される。激しく燃えさかる建物を必死で消火しようとする姿は、すさまじいほどの迫力。まずは、この臨場感に圧倒され、先を読まずにおれなくなる。振り返れば異常としか言いようのなかったバブル期の熱気と復讐の憎悪を燃やす者たちをめぐる本作は、まさに熱さを感じる一作。 |
No.262 | 5点 | 愛ある追跡 藤田宜永 |
(2021/04/13 18:37登録) ペットを家族の一員として暮らす人が少なくない。一方で少子高齢化、離婚や未婚といった要因でますます家族はバラバラになっていく。この作品は、そんな現代社会を鮮やかに切り取った連作ミステリ。岩佐一郎は横浜のペットクリニックで獣医師として長年働いてきた。だが、あるとき娘の瑶子が殺人容疑に掛けられる。そして瑶子は行方をくらませ、指名手配された。一郎は、わずかな手掛かりをもとに娘を追い日本各地を旅する。渋谷のホテル街から始まる本作の舞台が、やがて伊勢神宮や群馬の温泉地など、ある種の「人が癒しを求める」場所へと移っていくあたり、いわゆるバブル崩壊後、身も心も疲弊した姿を捉えることが物語のテーマにあるようだ。事件の真相を暴く探偵小説というよりも、人と人との触れ合いを描くロードノベルとして、じんわり胸に迫ってくる。 |
No.261 | 9点 | 白夜行 東野圭吾 |
(2021/03/30 17:54登録) 一九七三年、大阪の近鉄布施駅近くにある七階建ての空きビルで男の死体が発見されるところから始まる。それから二十年、時間の流れとともに新しい場所と新しい人間が次々と登場し、そこに過去の登場人物たちがまた現れ、奥行きを広げていく。この事件の真相を解明に退職してもなお執念を燃やす刑事が、真犯人を突き止めるというストーリー。目まぐるしく移り変わる時代に、それぞれの季節を生きようとする者と、それを拒否してモノクロームの夜を生きるしかない者がいる。彼らが二十年に渡ってつくり、壊していく人間関係の中に、現代人が心の中に押し込めている孤独感や愛憎のかたち、虚無を浮かび上がらせていく社会派ミステリである。現世は極楽と思えば極楽、地獄と思えば地獄。モノクロームの冬に花を咲かせようと白夜を行く者の哀切さは、時代の陰に張り付いた虚無を実感させる。 |
No.260 | 7点 | 秘密 東野圭吾 |
(2021/03/30 17:54登録) スキーバスが崖下に転落して多数の死傷者が出た。その中に杉田直子と藻奈美という母子が含まれていた。母は病院で息を引き取り、娘は一命を取り留めた。そして母の葬儀の日、奇跡的に意識を回復した娘の肉体には母の人格が宿っていた。こうして始まった父と娘(夫と妻)の奇妙な二重生活を、さながらホームドラマのように淡々と描き出していく。夫婦の性生活、藻奈美の進学問題など次々に難問が持ち上がるが、二人は力を合わせて乗り越えていく。この奇抜なプロットには一定のリアリティーがあり、結末の謎解き部分にも納得させてしまうほどの説得力がある。それというのも、「秘密」を共有する父と娘(夫と妻)の関係の描き方が絶妙だからで、その境遇と心情の切なさに、感涙を禁じえなかった。 |
No.259 | 8点 | 卵をめぐる祖父の戦争 デイヴィッド・ベニオフ |
(2021/03/16 19:02登録) 舞台は、ナチスドイツに包囲され、すさまじい飢えと寒さに苦しむレニングラード。17歳のレフは死んだ敵兵から盗みを働いた罰として、1ダースの卵を調達するように命じられた。相棒は青年兵コーリャ。2人は文学について女について、とめどもなくしゃべりながら、命がけで任務を遂行しようとする。彼らのユーモアとペーソス漂う饒舌な会話が素晴らしい。緊迫した時世に卵探しというのは滑稽だが、人肉売買、敵軍の将校の慰み者になっている少女たちなど、エピソードには戦争の悲惨さが生々しく投影されている。だが2人の丁々発止の会話のおかげで、作品のトーンは暗くない。忘れがたい冒険青春小説。 |
No.258 | 5点 | 聖なる怪物たち 河原れん |
(2021/03/16 19:02登録) 人々の黒い思惑が複雑に絡み合って出来上がった事件をめぐる医療サスペンス。赤字経営、急患対応、医療ミスなど現代の病院におけるさまざまな問題を背景にしながら、作者はあまりにおぞましい事件を驚愕のミステリとして仕上げた。ここに描かれているのは、単に医療の現場だけの問題にとどまらない。誰もが自分かわいさのあまり過ちを犯すばかりか、巧妙に隠蔽し、その連鎖がさらに最悪の事態を招きよせてしまう。心理の負の一面の題材にした、極めて不気味で身につまされる物語。怪物とは私たち自身かもしれない。 |
No.257 | 5点 | サロメ後継 早瀬乱 |
(2021/03/02 18:48登録) 人から人へと伝わっていく欲望と人間の弱さから生まれる自傷行為にまつわる奇妙で恐ろしいミステリ。東京多摩地区の、とある産業会館の講習室で手首が発見された。小さな箱に入った指のない左手だった。捜査を担当した刑事は、部屋を使用していた「約束の地」という服飾雑貨会社を訪ねた。やがて、事件に関わった人たちが次々に謎の死を遂げて行ったり失踪したりしていく。事件の背後には、リストカットを繰り返す女性たちがおり、さらにはオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」を演じる団体と心に病を抱えた人たちの存在が浮かび上がってくる。弱さゆえに欲望から逃れられず、いつまでも自分自身を傷つけてしまう者たち...。探偵小説としての展開もさることながら、全体に異様な感覚が漂っている。予断を許さないミステリアスな話で、しかもホラーなのだ。切断された手首の捜査をしていた井出川刑事が主人公かと思えば、その刑事は第一章で消えてしまう。第二章以降に登場するのは、井出川刑事の息子や娘。だが彼らもやがて物語の舞台から消えていく。一体どこへ着地するのか、その興味で最後まで読ませる。 |
No.256 | 4点 | 月と陽炎 三咲光郎 |
(2021/03/02 18:48登録) 13歳の康平はある時、中年の男と8歳の少女を殺し死体をバラバラにして処分した。それから十数年は、最新の更生プログラムのもと、康平はある町のコンビニで働くようになる。そのころ町では女性の失踪が多発していた...。この作品、前半は康平の今を取材しようとする女性記者が登場するなど、ごく普通の犯罪ミステリに思えるが、後半になり一転する。破綻と言っていいほど破天荒なストーリーが進行していくのだ。なんと町がテロリストにより破壊され、それに国際的な民間警備組織が立ち向かう、一種の軍事アクション小説へと変貌する。当たり前のように虐殺が起こり、国家レベルの異常な計画や個人的な陰謀が明らかになってくる。しかし妙な面白さを生み出しているのは、そんな現実離れした展開あればこそ。特異な問題作といえるサスペンス。 |
No.255 | 6点 | 闇に濁る淵から レニー・エアース |
(2021/02/15 18:01登録) イギリス南東部ののどかな美しい村で、少女がレイプされ死体となって発見された。第一発見者のマッデンは、かつてロンドン警視庁の敏腕警部補だったが、女医ヘレンと再婚したのをきっかけに職を辞し、現在は農業主をしていた。マッデンを優秀な捜査官たらしめているのは「自分たちが拝命している職業はただの手間仕事ではない、気遣い、思いやることなのだ」という信念だった。マッデンは警察の捜査の傍らから見守り、緻密な推理を展開し有益な助言をする。やがて浮かび上がってきたのは意外な容疑者だった。スリリングな犯人との攻防も読ませるが、何よりも人間として奥行きのあるマッデンをはじめ、脇役にいたるまで魅力的な登場人物の造形が素晴らしい。とりわけマッデン夫妻の強い絆と愛情は胸を打つ。豊かな自然を舞台に、人間ドラマを堪能できた。 |
No.254 | 6点 | 市民ヴィンス ジェス・ウォルター |
(2021/02/15 18:01登録) 一人の男の再生の物語。小さな田舎町でドーナツ屋の店長をするヴィンスには、封印された暗い過去があった。ある犯罪事件に絡み捜査当局との取引に応じ、全く知らない町で別人として過去と対峙する決意をする。過去に何があろうとも、全てを捨てて違う名前で新しい人生をやり直すことが出来るのか。その問いが、ヴィンスの胸には常に渦巻いている。それが彼の煩悩の源であると同時に、ただ漫然と生きるのではなく、いかに自分らしく人生を送るか。そんなことを考えさせられる深い作品であった。 |
No.253 | 6点 | あんじゅう 三島屋変調百物語事続 宮部みゆき |
(2021/02/01 18:02登録) 袋物を商う三島屋夫婦の姪「おちか」が、怖い話や不思議な話を聞く「三島屋変調百物語」の第二弾。といっても前作とのつながりはないので、本書から読み始めても楽しめる。ほぼすべての見聞きに南伸坊のかわいいイラストが掲載されていて、物語と挿絵をセットにしていた時代小説の伝統を復活させた趣向も嬉しい。自分を忘れた村人を恨む土地神「お早さん」にとりつかれた少年を救う方法を考える「逃げ水」や、男が怨念を込めた仏像が、桃源郷のような隠れ里を恐怖に包む「吼える仏」は、自然や霊魂を崇拝する素朴な信仰が、いつしか狂言へと転じる恐怖を活写しているので、カルトが生まれる原因や、宗教戦争がなくならない理由といった現代社会の闇ともリンクしているように思えた。また双子の孫を嫌う祖母の妄念が、その死後も平穏な家庭に暗い影を落とす「藪から千本」は、逃げ場のない家庭で、人間ならだれもが持っている負の感情が奇妙な現象を引き起こすので、恐怖がリアルに感じられるのではないだろうか。ただ因縁なる屋敷に住む人外のモノ「くろすけ」と老夫婦の交流を描く表題作「暗獣」や、脇役として物語のあちこちに顔を出す明るく無邪気な少年たちの活躍、そしてエピローグに用意された心温まる結末は、人と人とが信頼の絆で結ばれれば闇に打ち勝つことが出来るという強いメッセージとなっており、読後感は心地よい。 |
No.252 | 5点 | 汝、隣人を愛せよ 福澤徹三 |
(2021/02/01 18:02登録) 半年前に購入した中古マンションの8階で妻と暮らす真壁昌平は、クリスマスイブの夜、「静かにしてください」とプリントされた手紙を受け取った。騒音クレームなのだろうが、宛名は無かった。だがその後、陰湿で悪質な嫌がらせが頻発していく。騒音問題、ゴミの不法投棄、凶悪なクレーマー、管理組合の紛糾。おそらくマンションの住人の多くが経験している隣人トラブルが、これでもかと登場する。それに伴い主人公自身も仕事と私生活で不運に見舞われてしまう。さらに、自殺者の幽霊らしき足音までが屋上から響く。現代人の恐怖を丸ごと盛り込んだ「他人事ではない」ホラーサスペンス。 |
No.251 | 6点 | 密やかな結晶 小川洋子 |
(2021/01/19 18:08登録) 舞台は閉ざされた島。リボン、鈴、エメラルド、切手、香水、鳥...。何かが一種類ずつ消えていく。実体としてなくなるのではなく、人々の記憶から消滅するのだ。もしそれが手元にあれば、捨てたり燃やしたりしなければならない。消えたもののことを覚えている人たちがいる。彼らは秘密警察による「記憶狩り」で捕らえられ、連れ去られる。かくまう組織もあるが、秘密警察の力は圧倒的で、逃げ延びるのは難しい。島は不穏な空気に満ちている。父母を亡くし、一人で暮らす小説家の「わたし」は、フェリーの整備士だった旧知のおじいさんと助け合い、励まし合って生活をしている。担当編集者のR氏も記憶を失わない人だとわかる。「わたし」はおじいさんと力を合わせ、R氏を自宅の隠し部屋にかくまう。「わたし」とR氏の交流は密かに続く。やがて「小説」が消滅する日が来る。本が焼かれるが、それでも「わたし」は物語をつむごうとする。それは、声を失ったタイプライターの話だった。この作品は寓話的な小説である。そしてアンネ・フランクの「アンネの日記」も想起させる。ナチスの理不尽な迫害を逃れ、隠れ家で書き続けた日記は、記憶をつなぎとめ、時空をこえて未来へつながる営為だった。秘密警察に引きずられてゆく女性が叫ぶ。「物語の記憶は、誰にも消せないわ」。原稿用紙の束を前にしてR氏が言う。「ますめの一つ一つに言葉が存在しています。そして書いたのは君だ」結末を破滅と捉えるか、解放とみなすかは読者に委ねられる。そして記憶とは何か、物語は誰のために存在するのかという問いもまた、読者に残される。 |
No.250 | 6点 | 蜂の巣にキス ジョナサン・キャロル |
(2021/01/19 18:08登録) 主人公のベストセラー作家サムは、ひどいスランプに悩んでいたが、少年時代に美少女ポーリンの死体を発見したことを思い出す。そこで、その事件を題材にノンフィクションを書くことにした。だが取材を進めるにつれ、ポーリンの奔放な生き方、それに翻弄されていた男たちの姿が浮かび上がってきた。さらに今になって、事件の関係者の一人が殺され、獄中で自殺したポーリン殺しの犯人の父親にメッセージが届く。三度も結婚に失敗しているサム、サムと恋仲になるヴェロニカという謎めいた女性、息子の無実を信じている犯人の父親、亡くなったポーリン、全員が手に入らないものを必死に求め、一時はそれに成功したと錯覚する。だが残酷な真実に気づいた時、そこに待っているのは深い絶望。人間の切ない願いと愛と希望、そして、それが打ち砕かれた時の悲嘆と諦念を哀切に描き切っている。 |