小原庄助さんの登録情報 | |
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平均点:6.64点 | 書評数:267件 |
No.247 | 7点 | 乗客ナンバー23の消失 セバスチャン・フィツェック |
(2023/06/14 08:12登録) 囮捜査官のマルティンは、五年前に大西洋横断客船(海のスルタン)号で妻と息子を失っていた。ところが、二カ月前に姿を消したアヌークという少女が、マルティンの息子が持っていたテディベアを手にして忽然と船内に現れたという。マルティンは船に乗り込むが、船内では奇妙な事態が進行していた。 本書はマルティンだけでなく、複数の人物の視点が目まぐるしく切り替わる構成だが、アヌークの母親は何者かに監禁されて罪を告白するように強いられているし、泥棒は船員の悪事を目撃して危機に陥るといった具合に、船内のあちこちで事件が同時多発的に進行するため、出来事の全体像がなかなか見えてこない。特に、章の切れ目で何が起きたかを伏せたまま、異なる視点人物が登場する次の章へと移行してサスペンスを盛り上げるテクニックが効果を上げている。 帯の惹句に「事件解決? そう思ってからが本番。」とあるように、混迷を極めた事態がようやく収束に向かう終盤は、予想もしない方向からのどんでん返しが連打される。あまりに数多くの事件が起きるので、読み終わる頃には読者がすっかり忘れていそうなエピソードが、常識はずれの箇所で説明されるあたりも、著者らしい凝り性ぶりの表れと言えそうだ。殺伐とした印象が強いわりに後味は案外悪くないので、幅広い読者層にお薦めできる。 |
No.246 | 8点 | 黒牢城 米澤穂信 |
(2023/05/19 09:09登録) 織田信長に背いた荒木村重が有岡城に籠城し、帰順の説得に行った小寺官兵衛が土牢に幽閉された。著者はこの史実の中に、外部と隔絶された有岡城で奇怪な事件が続き、村重に相談された官兵衛が探偵役になる虚構を織り込んで見せたのである。 父親が寝返り、人質の少年が殺される「雪夜灯籠」は、現場が厳重に監視され周囲に積もった雪に足跡もない密室もの。「花影手柄」は、夜襲で得た四つの兜首の中から信長の側近の首を捜す一種の犯人当て。村重が和平交渉を依頼した僧が殺される「遠雷念仏」は、被害者を訪ねた人物の動向から真相を導くロジックに圧倒されるだろう。 著者は随所に迫力の合戦シーンを織り込みながら、戦国大名と「国州」の関係、武器や防具の使い方などを徹底した考証で掘り下げ、謎解きの伏線に利用しているので歴史小説とミステリの融合が鮮やかである。 本書は一話完結で進むが、終盤になると無関係に思えた事件が意外な形でつながり、村重が謀反を起こした理由も浮かび上がってくる。村重は組織の論理と個人の倫理の相反に悩み決起したとされる。これは宮仕込みをしていれば誰が経験してもおかしくないので、読者の共感も大きいはずだ。 合戦で多くの死者を出した戦国時代にたった一人を殺した犯人を捜す矛盾や、恥をさらして生きるより名誉の死を選ぶ武士がいた時代の死生観の違いは、いつの世も変わらない生きる意味とは何かを問い掛けている。 戦国時代と同じく社会が不安定な現代は、不安と恐怖が増し、生の充足感が得にくくなっている。このような時代だからこそ、本書のテーマは重く受け止める必要がある。 |
No.245 | 7点 | コーネル・ウールリッチの生涯 伝記・評伝 |
(2023/04/29 16:21登録) ウールリッチの作品は謎解きとしては欠点が多い。その欠点を補って余りあるのが、ぞくぞくするほどのロマンティックで誘惑的な文体であり、運命の前では全ての人間が等しく挫折するという、彼の小説を包み込むペシミズム哲学の暗闇のような深さである。 こんなに甘くて苦い小説ばかり書いた人間はどんな生涯を送ったのか。だが、この本を通読しても、ウールリッチの生涯について知りうることはそう多くない。二十冊ほどの長編小説と二百以上の短編を残したが、人生の大半を母親と二人きりでニューヨークの安ホテルに籠って過ごし、享年六十四の葬儀には五人しか参列者が無かった。 それでも著者は存命の関係者に話を聞き、あらゆる資料を博捜する。その結末、ウールリッチの最初の結婚の失敗と、彼のスーツケースに入っていた水兵服の関係など、なまじミステリよりはるかに面白い秘密が暴露されたりもする。 だが、本書の大部分を占めるのは、彼の全作品の紹介と分析である。ウールリッチの小説を隅から隅まで何度も読み直した者にしか書けない巧みなプロット紹介で、興奮を味わうことができた。 |
No.244 | 9点 | エラリー・クイーン 推理の芸術 伝記・評伝 |
(2023/04/29 16:20登録) エラリー・クイーンは、ユダヤ系移民の子としてブルックリンで生まれた従兄弟、マンフレッド・リーとフレデリック・ダネイの合作ペンネーム。 本書は二人の作者と被造物である「クイーン」の足跡をたどった評伝で、ダネイの存命中に発表された「エラリイ・クイーンの世界」を大幅に増補した決定版。この増補版では作者のプライベートな側面が重視され、金銭事情やメディア社会学的な視点も加わって、より複雑で視野の広い本に生まれ変わった。長年の議論の的だった代表者問題や、60年代に量産されたペーパーバック・オリジナルの内幕が公にされたことは、ミステリ読者にとって大きな意味を持つはずだ。 ダネイとリーは「合作方法の秘密」というクイーン最大の謎を最後まで明かさなかった。ネヴィンズは関係者の証言や書簡等からこの秘密に迫り、ある程度の役割分担まで突き止めているが、核心部分は藪の中だ。愛憎半ばするダネイとリーの危うい分業関係は、彼らの精神的息子というべき評論家アントニー・バウチャーが二人の間で引き裂かれていく姿からもうかがえる。これほど性格も文学観も異なるライバル同士が、壮絶な議論と衝突の果てにあれだけの傑作群を生み出せたのは、奇跡としか言いようがない。 |
No.243 | 7点 | 睦月童 西條奈加 |
(2023/04/04 08:45登録) 日本橋で下酒問屋を営む平右衛門は、東北の村から少女イオを招く。平右衛門が従業員にイオを紹介すると、手代の一人が震え出し、店の金に手を付けたと告白した。実は睦月神の加護を受けたイオには、人の罪を映す特殊な能力があったのだ。物語は、イオと平右衛門の息子の央介が、体を売る女が働く川岸に狐火が出る、旗本屋敷で何人もの人間が姿を消す、などに挑むミステリとして進む。 事件の背景は、人間ならだれもが抱えているかもしれない心の闇が置かれているので、読み進めるのがつらくなるかもしれない。また謎が解かれるにつれ、贖罪とは何か、事件で心に傷を負った人たちをいやすには何が必要かという現代とも共通する重いテーマが浮かび上がってくる。ただ、温かい人情が加害者と被害者を救済する鍵になる可能性があるとの問い掛けもなされているので、決して暗いだけではない。 イオと央介が知った睦月神の秘密は、現代まで続く社会の「闇」の象徴となっていた。そのため驚愕のラストを読むと、どのように「闇」と向き合うべきかを否応なく考えることになるだろう。 |
No.242 | 7点 | 超動く家にて 宮内悠介 |
(2023/02/25 08:02登録) マニ車を模した不思議な家で起こる殺人事件の謎を聞いたことのある名前の探偵が推理する表題作など、いずれも”馬鹿をやる”ことに真剣に取り組んだ十六編を収録している。 例えば「トランジスタ技術の圧縮」は、雑誌『トランジスタ技術』の広告ページを取り除き、収納しやすいように小さく圧縮する(トラ技圧縮コンテスト)という架空の競技の試合で対決する二人の物語だ。名前は梶原と坂田。どうしたって『あしたのジョー』の原作者・梶原一騎と、『王将』の主人公のモデルになった伝説の棋士・坂田三吉を連想してしまう。ストーリー展開は劇画的だが、協議の内容はマニア以外には無意味な作業という落差がたまらない。しかも作中では紙がデッドメディアと化していて、雑誌自体が簡単には手に入らないのだ。王者の坂田に挑戦することになった梶原は、困難な状況の中で圧縮技を磨く。一九八〇年代のカンフー映画で見たような老師も登場し、ノスタルジックな味わいのある一編。 くだらなさを極めるにあたって、懐かしいものにピントを合わせている作品が魅力的だ。「エターナル・レガシー」では、コンピュータ囲碁に敗北し意気消沈する棋士の家に、一九七〇年代に発表された8ビットのマイクロプロセッサ(Z80)を名乗る謎の男がやってくる。(Z80)は自分が開発されたところとは比べものにならないくらい進化したゲームで遊びつつ(おお、いい時代になったもんだな!)と喜ぶ。奇妙な同居人と付き合ううちに棋士の感情は変化していく。旧いものを終わったものとして切り捨てず、かといって懐古趣味にもとどまらない、広がりのある結末になっている。 どう読んでもいいと思わせてくれる楽しい本だ。宮内悠介はこういう作家だ、SFはこういうジャンルだというイメージも超動く。 |
No.241 | 8点 | ベーシックインカム 井上真偽 |
(2023/02/05 07:59登録) ベーシックインカムとは、国民の一人一人に最低限の生活が出来るレベルのお金を一律無条件に給付しよう、という社会保障制度のことをいう。とはいえ、本書は社会派サスペンスでも経済ミステリでもない。全五話のうち、表題作となる最終話には、確かにジョン・スチュアート・ミルやクリフォード・ヒュー・ダグラスの名前が出てくるし、事件現場は大学の経済研究室だが、その核心は、「オートロックのドアと暗証番号で守られた金庫からいかにして通帳が盗まれたか」という謎。基本はあくまでも本格ミステリなのである。 他の四話は、近未来の日本を背景に、新たなテクノロジーが人間の日常生活にもたらす変化を描く。AI、遺伝子操作、VR、身体増強と、SF的設定がミステリ的な謎の解明と密接に結びついているのが本書の最大の特徴。技術は革新されても人間の情は変わらない。驚くほどエモーショナルな連作集だ。 |
No.240 | 7点 | 巷説百物語 京極夏彦 |
(2022/12/23 08:46登録) 勧善懲悪の物語と推理小説が合体しているような作品で、しかも怪談仕立ての展開は、その種の噺が好きな人にはこたえられないだろう。 ネタになっているのは、江戸後期の竹原春泉が描いた「絵本百物語―桃山人夜話」。もちろん、これを知らなくとも十分楽しめるが、知っていればもっと作品を楽しむことが出来る。しかも手回しよく、京極夏彦たちによって図面と現代語訳が、図書刊行会から刊行されている。 江戸中期ころまで、「百物語怪談」と呼ばれる形式の説話集がたくさん刊行されていた。数人のものが集まって一晩で怪談を語り合い、それが百物語に至ると怪異が生じるという伝承があるが、この形式を借りてたくさんの怪談を集めたものである。 ところが江戸も後期に入るとそれが廃れて、逆にたくさんの種類の妖怪の絵のほうが人気を博すようになる。鳥山石燕の一連の妖怪図絵がその代表である。だが、この種の図絵はいったいいかなる妖怪なのか、どうしてそのような名がついたのかといったことが、ほとんど記されていない。そこで研究者があれこれとその素性を調べることになる。ところが京極は、こうした調査結果を読むだけでは満足せず、その絵に合うような新たな物語で彼の想像力で作り上げようという野心を抱いたのだ。つまり、妖怪絵の背後に許しがたい残虐な殺人事件を幻想し、山猫廻しのおぎんとか行者の又市、百物語の収集家の百介たちが、次々に解決するわけである。その解決方法が手が込んでいて面白い。 古い百物語が、京極夏彦という作家に出会うことで、また新たな百物語が紡ぎ出される。これからも次々に妖怪たちが蘇ってくるだろう。 |
No.239 | 7点 | ゲームの王国 小川哲 |
(2022/12/11 08:10登録) 物語の幕が開くのは、一九五六年のカンボジア。サラト・サルの娘が、捨て子としてプノンペン郊外に住む夫婦に引き取られる。ソリヤと名付けられた彼女は、他人の嘘を見破る能力を持っていた。一方、ロベーブレソンという農村で生まれ育った潔癖症の天才少年ムイタックは、兄と一緒に「どれだけ楽しんだか」自体を競うような遊びを考える。 ポル・ポト率いるクメール・ルージュが革命を成し遂げた一九七五年四月十七日に、ソリヤとムイタックは出会う。二人がカードゲームで対決するシーンがまず素晴らしい。彼らはその時、決められたルールのもとで互角の戦いを繰り広げる楽しさを初めて知るのだ。 やがて始まるポル・ポト独裁政権下の粛清と虐殺の嵐のなかで、ソリヤは政治以下を志し、ルールを破ることが出来ない「ゲームの王国」を創ろうとする。ある事件が原因でソリヤを殺すと決めたムイタックは、人間の脳波を研究して思い出や妄想を魔法に変えるゲームを完成させるが。 二〇二三年に二人が再会するまでの経緯をスリリングに描く。百万人が殺されたとも言われる史実をもとにしているだけに恐ろしい場面は多いが、輪ゴムを崇拝する少年や不正を勃起で探知する男が出てくるくだりはユーモアもにじむ。 |
No.238 | 7点 | それまでの明日 原尞 |
(2022/11/19 09:27登録) 物語は、渡辺探偵事務所の私立探偵である沢崎が、赤坂の料亭の女将の身辺調査という依頼を望月皓一と名乗る紳士から受けるところから始まる。沢崎の口調や依頼人との会話の流れが素敵だし、依頼人が語る渡辺探偵事務所を選んだ理由も印象深い。 起伏に富んだ物語の中で、作者はしっかりと関係者の人となりを描き切る。女将の凛とした接客や、彼女と縁のあった画家の才能と矜持などが沢崎の調査を通じて浮かび上がり、さらに組員の人情や紳士の狡猾さなども見えてくる。同じく人質になった縁で沢崎と行動を共にする青年の造形も絶妙。 人間関係を巧みに編み上げた事件の真相を堪能。最後の最後には、超ド級の衝撃も襲ってくる。 |
No.237 | 7点 | 牧神の影 ヘレン・マクロイ |
(2022/10/29 10:32登録) ギリシャ古典文学者のフェリックス・マルホランドが自室で急死した。その義理の姪で秘書であるアリスンは、翌朝、陸軍情報部のアームストロング大佐の訪問を受け、フェリックスが開発していたという戦地用暗号の所在について訊ねられたが、アリスンには心当たりがない。やがて、人里離れた山中のコテージで暮らし始めた彼女を脅かすように不気味な出来事が続発し、とうとう殺人事件まで起きる。フェリックスが遺した暗号を狙う者の仕業なのだろうか。 暗号の素人であり数学が苦手なアリスンが、数学的な解法とは別の角度から暗号の解き方に迫ってゆくプロセスが本書の大きな読みどころだが、一方で、アリスンがコテージに移住してからのサスペンスの演出も素晴らしい。静寂の中、落ち葉を踏みながら歩いてくる何者かの足音と衣擦れの音。人間のものとは思えない奇妙な足跡。コテージのかつての住人に関する不吉な噂。「夫人」を名乗っていながら女装した男にしか見えない隣人。誰もいないのに揺れるロッキングチェア。月明かりの中で山羊のように跳ねながら歩く異様な影と、アリスンを脅かす数々の現象は、恐怖が霧のように濃くなってゆく過程がマクロイならではの繊細な筆致で綴られていて圧巻である。本書の暗号はいくらなんでも難解すぎてお手上げでも、このサスペンスの演出は堪能できた。 |
No.236 | 6点 | 私の消滅 中村文則 |
(2022/10/18 07:31登録) 記憶は、個人の同一性と結びつく。それなら、記憶が操作され実際とは異なる記憶がはめ込まれたら、人は別人格を生きることになるのか。本書は、悪意と暴力、記憶と人格が描出する見えない線への挑戦だ。 サスペンス的な展開の中、精神分析や洗脳の歴史が盛り込まれる。日本社会で現実に起きた連続幼女殺害事件の犯人の心理が分析される。記憶と人格と人生が入り乱れて「私」とは誰か、という問いと謎を読者に突きつける。 吉見という精神分析医は、興味本位の悪意で人の心理を捜査する。悪の側面だけを過度に強調した、性格を描いて平面的にならないのは、幾重にも錯綜する要素によって、周到な手際でストーリーが構成されているからだ。悪意の連鎖と復讐劇が繰り広げられている。 これまでも作者は、さまざまな悪意、心の闇を作品化してきた。言葉によって形にすることで、始めて対峙でき、時には乗り越えられるというように。今生まれるべくして生まれた緊張感ある作品だ。 |
No.235 | 8点 | 昆虫図 久生十蘭 |
(2022/07/14 09:11登録) 表題作の「昆虫図」は短い掌編で、殺した妻を床下に隠し、虫たちが腐臭に群がっても住み続ける男の話。「母子像」では美しすぎる母に恋する少年が戦時中、サイパンの洞窟で餓死よりは心中を選ぶほかの家族たちを見て、すすんで母に絞殺されようとする。「昆虫図」も「母子像」も様式を極めた結構の少し先に、引用のような異常な文が現れる。それは何かに魅せられた者の放心状態。 「予言」の安部は精神病学者の石黒に怨まれ、強力な暗示に錯乱してピストルで己を撃つ。その暗示世界に没入する瞬間、演奏会でありえないものを視る。この無音・無意味の恐ろしさは引用のほかには伝達のしようがない。これを十蘭が書き得たこと、そこにはわずかな偶然性と同時に、ものすごい振り幅の跳躍が介在している。 本書の白眉「ハムレット」は、ハムレットを演じ時空を超えてエリザベス朝を生きる役者と周囲の愛憎劇自体が戯曲ハムレットの批評になりえている。頭で書ける描写ではない。偶然も通じない。十蘭の特異な遍歴の見聞全てを自家の薬籠に入れる以外、現代人に決して書けない。 |
No.234 | 9点 | ドグラ・マグラ 夢野久作 |
(2022/07/14 08:57登録) この作品には確定不能の解釈が無数にはらまれている。騙りてである記憶喪失の青年が、椅子に終始座らされ、二人の教授から事件について延々語られ、記録書を読まされ続ける。 この語り手が通常の語り手と大きく異なるのは、彼が作者とも読者とも目される甚だ奇異な位相を与えられているからだ。彼の錯乱は本書をやはり何百ページも語られ続けた読者の錯乱をも誘発する。 本書には無声映画、活動写真の影響が見て取れる。作品が読者本意で読まれる書物と異なり、映写機都合で作品を観せる映画という趣向には、夢野の好んだ見世物小屋の座長的権限が付与され、作中、木魚片手に七八七八の節回しで読まされる読者泣かせの阿保陀羅経もまさに映画的強権といえる。 |
No.233 | 6点 | 熔果 黒川博行 |
(2022/07/03 07:32登録) 警察を懲戒免職になった後、競売屋の調査員として働く伊達が、堀内に一緒に仕事をしようと持ち掛ける場面で始める。フットワークが軽くコミュニケーション能力も高い伊達と、過去に負った傷がもとでステッキがないと歩くこともままならず孤独な堀内。二人は占有屋を立ち退かせるため、ある落札物件に向かう。そして福岡で起こった金塊強奪事件とのかかわりを嗅ぎ取り、消えた五億円の金塊の行方を追う。 「熔果」の熔は、鉱石や金属が溶けることを意味する。「果」は因果の果。溶かして鋳直することが可能な金塊をめぐるクライム・サスペンスにぴったりの題名だ。金以外の何かが溶けていることも象徴しているだろう。 例えば、事件の背後にいる「半グレ」と呼ばれる犯罪集団。群れながらも無秩序に、手段を選ばず金を稼ぐ。半グレのリーダーを探して日本各地を走り回る堀内と伊達もまた、刑事の本質を持ったまま裏社会に溶け込んで、違うものに変化した男たちだ。堀内と伊達が悪党を狩る動機に、金欲しさだけでは説明できない情熱が感じられるからこそ、本書は魅力的なのである。 |
No.232 | 7点 | 真・慶安太平記 真保裕一 |
(2022/06/28 09:29登録) 慶安四年に、兵法者の由井正雪が起こそうとした幕府転覆計画、いわゆる「慶安の変」を題材にしている。しかし主人公は正雪ではなく、徳川二代将軍秀忠の落とし種で、高遠藩主、山形藩主を経て、会津藩の初代藩主十なった保科正之だ。 「知恵伊豆」の異名を持つ老中の松平信綱は、まだ正之が若い頃から、彼を警戒していた。徳川家に、いらぬ騒動を招かぬためである。秀忠の三男である松平忠長を自害に追い込むなど、権謀の限りを尽くして徳川家に邪魔な存在を排除していく信綱。その牙は正之にも向けられる。そして長年にわたる暗闇は、慶安の変が発覚したときに、クライマックスを迎えた。 読み進めるうちに、複雑な生い立ちに負けることなく、誠実に生きていく正之の人生に魅了された。信綱の仕掛けた陥穽をかわしていく、正之の成長が頼もしい。 そして物語の後半になると、正雪の驚くべき正体が明らかになる。これには仰天した。しかも前半のエピソードが伏線になっているではないか。本書は優れた歴史小説であると同時に、ミステリのサプライズも味わえるのだ。いかにも作者らしい、斬新な慶安の変を堪能した。 |
No.231 | 8点 | 刑罰 フェルディナント・フォン・シーラッハ |
(2022/05/13 08:04登録) 「犯罪」や「罪悪」には、エンターテインメント的なプロットで読ませる作品もあったが、人間の業を深く見据えて象徴性を高める純文学的な作品が目立った。 本書では、その象徴性がより強くなり人間の名前などは削ぎ落とされ、文体はいっそう簡潔になり、抽象化されている。それでいて細部の手触りは生々しく緊密で、息を詰めて読んでしまう。ねじれたユーモアで運命の残酷さをえぐられる。それは皮肉な運命に対する理解と同情が、ある種の救済として示されるからでもあるだろう。 ともかくここには、名人芸と呼びたくなるほどの鮮やかな語りと、心が震えるほどの深遠で複雑な人生の姿がある。まさに必読の傑作だろう。 |
No.230 | 5点 | 夜の底は柔らかな幻 恩田陸 |
(2022/04/13 08:12登録) 舞台設定が極めて高密度。イロと呼ばれる超能力を持つ「在色者」が社会に溶け込み暮らす世界で、特に在色者が多い特異点、途鎖国。周囲に伊予などの地点がありモデルは明らか。現実とは違い独立国だ。 主なる語り手である女性捜査官・有元実邦は、数々のテロ事件を引き起こした強力な在色者を山中に追う。そこでは、山の王の地位をめぐり問答無用の殺し合いが繰り広げられていた。 周到な世界観と鮮やかな描写を堪能できる。森の清浄な香りから蠅が飛び回る悪臭・異臭まで。おのずと眼所に立ち上がる光景。強力な在色者が生き物を空中に吊り上げ一瞬で球状に丸めてしまうグロテスクなシーンすら、作品世界の理のなかで活きている。 明確な着地点を与えないのは恩田流。物語が決着した後も、宙ぶらりんの読者は、この特異な世界を彷徨うことになる。 |
No.229 | 6点 | 蝶の眠る場所 水野梓 |
(2022/03/19 07:27登録) 物語は、日曜日の夕方から始まる。小学校の校舎屋上から少年が転落死した。テレビ局の社会部に勤める榊美貴は、デスクから連絡を受け、地元の警察署へ急行した。やがて警察は、少年の死亡は事故によるものと発表したが、美貴は自殺の線を捨てきれなかった。 ヒロインの美貴は、まだ幼い一人息子を育てながら働くシングルマザー。左遷同様の異動を命じられるが、それでも少年の悲劇と過去の事件との繋がり、三世代にわたる家族の秘密など、真相を求め取材を重ねていく。 事件の奥に別の事件が潜み、さらにその関係者の間にも隠された秘密があると言った展開で、いったいどのような場所に着地するのか、最後まで予断を許さない。 著者もまたテレビ局でドキュメンタリー番組の制作に関わり、報道番組のキャスターを務めているという。その体験がヒロインの描写や言動をリアリティーを与えているのだろう。事件をめぐる警察や関係者への聴き取り、DNA鑑定や証言にまつわる再調査の過程など、ひとつひとつのエピソードを丁寧に書き込んでいる。 もっともデビュー作だけに力が入りすぎたのか、いささか題材を詰め込みすぎの上、手垢の付いた類型的な部分も目立つ。だが、これだけ複雑に絡み合った事件をまとめ上げた構成力は瞠目すべきものだ。なにより、不幸な境遇に落ちた人たちの心情はもちろん、そんな状況へ追いやった側の胸の内をさまざまな形で描き出しているところがいい。冤罪というテーマを中心にじっくりと読ませる。 |
No.228 | 7点 | ヒトコブラクダ層ぜっと 万城目学 |
(2022/01/29 09:56登録) 舞台はオリンピックを終えた東京。新型コロナウイルスの影がないことに一瞬戸惑うが、のっけから人を食ったような万城目節が冴え、虚構の世界が立ち上がる。三つ子の榎土3兄弟の夢と汗、困惑と闘いに満ちた冒険行の始まりだ。みみっちいけど壮大で、難しげな発言をポンと置いてみたりする。筆遣いがちょうどいいあんばいで、気持ちよく振り回される。 3兄弟は両親が隕石の犠牲になった後、長男・梵天の号令一下、結束固く生きてきた。ただ彼らには特殊能力があった。梵天は壁の向こうを透視でき、次男・梵地はあらゆる外国語が分かる。三男・梵人は未来を予知する。しかしいずれの能力にも制約がある。そしてそれぞれ大事に抱いている夢があった。 そんな彼らが梵天の夢をかなえるため、宝石泥棒を働いたことから事態は急展開する。得体の知れない人物に脅かされ、なぜか3人そろって自衛隊の訓練生活に放り込まれる。訓練を終えるやPKOの一員としてイラクに派遣され、呆然としている間になぜか古代メソポタミアに迷い込む。 アメリカ海兵隊、自衛隊広報、古代の神も絡んで怒涛の活劇になだれ込んでいく。手に汗握る展開なのに、どこか悠揚たる筆致がにじみ出て、そこはかとないおかしみを醸し出す。 細かい仕掛けも巧みで、最後には驚きの真相も待っている。それにしても、万城目のようなアイデアと想像力勝負の小説を書き続けるのは、非常に難しいことなのだ。その領域で、過去の自分を超えようと挑戦する姿勢は称賛に値する。 |