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Tetchyさん
平均点: 6.73点 書評数: 1602件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.1442 8点 判決破棄- マイクル・コナリー 2019/04/20 23:01
前作がボッシュとの共演だったら、なんと本書ではそれに加えて彼の元妻マギー・マクファーソンとも共同で仕事をする。
更になんと今回ハラーは弁護士でなく特別検察官として雇われ、DNA鑑定によって判決破棄された24年前の犯罪で逮捕された少女殺害犯の有罪を勝ち取るためにマギーを補佐官、ボッシュを調査員として雇い、チームとして戦うのだ。
しかもそれぞれの関係が元夫婦、異母兄弟とそれぞれ微妙な繋がりがある奇妙な混成チームであるところが面白い。
しかし彼らに共通するのは年頃の娘を持つ親であること。ミッキーとマギーは2人の間に生まれたヘイリーがおり、ボッシュは前作『ナイン・ドラゴンズ』で一緒に暮らすようになったマデリンがいる。彼らのこの同族意識が勝ち目のないとされる少女殺害犯の有罪判決への道を歩ませたと云える。

しかしよくもまあこれほど面白い設定と行動原理を考え付くものである。全くいつもながらコナリーの発想の妙には驚かされる。

しかもこのチーム、実にチームワークがいいのだ。
ボッシュはそれまで培った刑事の勘を存分に発揮し、24年前の事件関係者を次々と捜し出す。
マギーは女性ながらの心遣いとベテラン検事のスキルで以ってミッキーをサポートし、ミッキーもまた百戦錬磨の弁護士生活で培ったノウハウを検察側に持ち込み、裁判を有利に持ち込むことに腐心する。
お互い我の強い性格でイニシアチブを取るのが通常の3人であったので、自分の主張を通すことに執着し、常に意見が割れて反発ばかりするかと思いきや、実にバランスよく裁判の準備が進んでいく。
この過程は読んでいて実に面白かった。

ただ悪が成敗されたのにこれほど爽快感がない物語も珍しい。コナリーはアメリカ法曹界が孕む歪みを巧みに扱って我々読者を牽引しながら、最後は渇いた地表へと導いた。

しかしそれでも本書は清々しい。それは子を持つ親たちがそれぞれの立場で最大限に尽力し、真摯に悪に立ち向かった物語だったからだ。

父親と母親は子を護るためなら必死になる。子供たちの知らないところで親たちはこんな戦いをしているのだ。同じ娘を持つ親であるコナリーはもしかしたら自分の娘にこの話を届けたかったのかもしれない。

No.1441 8点 バーにかかってきた電話- 東直己 2019/04/19 21:27
正直1作目は何とも調子に乗った、おちゃらけ気味の主人公<俺>の独特な台詞回しに若書きの三文芝居といった酷評を挙げたが、あれから十数年経ったことで私の中で何かが変わったのか、それとも免疫ができたのか、今回はさほど気にならなかった。
いや勿論所々演出過剰気味の云い回しは本書でも散見されるが、<俺>を一度体験した後ではこの斜に構えることでいっぱしのタフガイを気取る若気の至り的態度に対してどうやら寛容に捉えられるようになったらしい。

また本書の物語が実にミステリアスに進むことも以前よりも抵抗なく読み進む理由の一つとして挙げられる。
コンドウキョウコとだけ名乗る女性から10万円が口座に振り込まれて依頼されるのは何とも奇妙な物ばかり。ある人に会って○月○日に誰かはどこにいたかを尋ねろとか誰かを喫茶店に呼び出してその時の態度を見てほしいといった掴みどころのない依頼だ。
しかし最初の依頼でなんと主人公の俺は電車のホームから突き落とされ、危うく死にそうになる。更に調べていくうちに1年前の不審火の火災事故で近藤京子という女性が死んでいることに気付く、といった具合に次から次へと謎が連続し、それがページを繰らせるのだ。

私はこの謎の女性コンドウキョウコは霧島敏夫の元妻沙織であると途中までは思っていたが、最後のコンドウキョウコの沙織に揺さぶりをかけるという依頼でそれを撤回してしまった。そこがこの作品の妙味であり、作者のトリック(この場合は敢えてそう呼んでも差し支えないだろう)に見事に引っかかってしまった。
暗中模索の中で進む事の真相が最後に沙織からの手紙で判明するのは何とも残念だ。しかし本書は本格ミステリではなく、ライトなプライヴェート・アイ小説であることを考えれば、それもまた納得できるか。

本書の特徴はキャラクター造形に秀でたところにある。特に霧島敏夫という人物は印象的だ。
彼は直接的には物語に登場しない。拉致されそうになった女性を救おうとして暴走族たちに立ち向かい、逆に返り討ちに遭って命を落とす60前のこの男は物語の時間では既に存在しておらず、<俺>が関係者の話を聞いていくうちにその肖像が出来てくる。その手際は実に見事。
特に最後の沙織の手紙で語られる、死の間際に拉致されそうになった女性を必死に助けるためにその女性の足を殴られ、蹴られながらも話そうとしなかった愚直さが胸を打つ。拉致騒動が霧島を殺害するために仕組まれたものであり、その女性自身もグルであったことを一つも疑わずに助けようとしたこの件は物語を、キャラクターを強く印象付ける。

そして最後に忘れてならないのは沙織という女性だ。
今回の物語は全てこの沙織によって描かれ、そしてピリオドが打たれる。主人公の<俺>は彼女のストーリーを円滑に進めるためだけに存在したに過ぎなかった。
それが功を奏したのかもしれないが、主人公の青臭さと身勝手さ、また子供っぽい独白は第1作目と変わらないのに読後感は前より悪くなく、寧ろ良い。
本懐を遂げた女の生きる道を見せてくれた、そんな思いでいっぱいだ。

それは実に遣る瀬無く、切ない話なのだが、コンドウキョウコこと霧島沙織が見事過ぎて爽快感を覚える。もし一歩早く<俺>が沙織の企みを阻止し、彼女が生きる道を選べばそれはそれで実に泥臭いものとなっただろう。やはり本書の結末はこれで良かったのだ。

日本で最も北に位置すると云っても過言ではない繁華街ススキノ。そこでは人知れずこんなドラマが起こっている。北海道を愛し、そして専らススキノを愛する作者はそれを青臭くもセンチメンタルに描く。
第1作目を読んだ時はこの作者の作品を読むのに躊躇いを覚えたが、そんな懸念はこの2作目で払拭された。

またいつか作者の描くススキノを訪れよう。

No.1440 4点 これほど昏い場所に- ディーン・クーンツ 2019/03/27 23:50
久々のクーンツ作品訳出である。最後に訳出されたのが2011年に刊行されたフランケンシュタインシリーズだから実に7年ぶりとなる。

長らく途絶えていたクーンツ作品の訳出が2018年になって訳出されたのはまたも新しいシリーズが始まったからだ。FBI捜査官ジェーン・ホークが主人公を務めるクーンツにしては珍しいミステリ仕立ての作品がアメリカで好評だったからによる。

まずクーンツが女性を主人公にしたことが珍しい。シリーズ物のオッド・トーマス然り、フランケンシュタイン然り、今までの作品ではほとんど全て男性が主人公だった。中には印象的なヒロインが登場する作品もあったが、それでもメインは男性だった。
彼がこのジェーン・ホークを主人公にしたのは新機軸でもありつつ、今やヒットチャートもアリアナ・グランデやテイラー・スウィフトといった女性アーティストが席巻する時代である。そんな最近のトレンドもクーンツは盛り込んだのかもしれない。

久々に読んだクーンツは、かつて重厚長大化し、どんどん肥大していく作品傾向にあった2000年代頃に比べて、いわゆるグダグダとした説教的な話が少なくなり、物語展開がスピーディになったことが特徴的だ。特に短い章立てで次から次へと場面転換が行われるのは今までにない特徴と云えよう。3ページだけの章は当たり前で1ページも満たない章もいくつか散見される。

主人公ジェーン・ホークが立ち向かうのは全米で起きている不可解な自殺事件。
ある日突然普通の生活をしていた人々が突発的に自殺を行う不審死が相次いでいることにジェーンは気付く。そして彼女の夫もまたその中の1人だった。更にそれを調べていくうちに全米で自殺率が年々上昇していることが明らかになっていく。そしてそれらの自殺がある天才たちによって引き起こされていることが判明する。しかしその相手は大富豪とノーベル賞候補の大科学者の2人でしかも彼らの息は政府機関や各方面に掛かっており、しかもウェブで常に監視され、少しでも検索しようものならすぐに嗅ぎつけて追跡してくる。しかも彼女の所属するFBIにも息の掛かった人物がいるらしい。
と、相変わらずクーンツは主人公を絶望的な八方塞がり状態に陥れる。

クーンツ作品はどうやっても勝てないだろうと思われる巨大な敵をまず設定し、徐々に主人公に迫りくるその包囲網だったり、圧倒的な強さを持つ敵と絶望的とも思える対決を強いられるパターンが多く、そんな相手にどうやって主人公は立ち向かうのだろうかと読者はドキドキハラハラさせられるわけだが、その割には決着の付け方が淡白で今までの無敵感を誇っていた強さは一体何だったのかと肩透かしを食らう結末は少なくなかった。
その問題の欠点は改善されたかと期待したが、残念ながらそれはなかったというのが率直な感想だ。
やはりクーンツは設定作りは上手いが、物語の畳み方が下手であることを再認識させられるだけになってしまった。

ただ本書はまだイントロダクションといったところか。ジェーンが全米で起きる不可解な自殺事件という陰謀に加担している大富豪デイヴィッド・ジェームズ・マイケルは無傷のままであり、対峙すらしていない。

さて本書でジェーンが疑惑を抱くアメリカの自殺率の上昇は実は本書のために作られた話ではなく、どうやら本当のことのようだ。半分の州で自殺率は30%までにも上っており、ノースダコタ州ではなんと57%も増加したらしい。
音楽業界を再び例に挙げて恐縮だが、確かに2017年にクリス・コーネルが突然自殺し、その後を追うようにリンキン・パークのヴォーカル、チェスター・ベニントンも自殺したのは実にショッキングな出来事だった。
そんな不穏な空気に包まれたアメリカの現状から恐らくクーンツは一連の自殺が何らかの陰謀によって引き起こされているという本書の設定の着想を得たと思われる。

ただ私は何となく本書の内容に乗り切れなかった。短い章立てで進むストーリーはそれがゆえに没入度を低下させ、目まぐるしく切り替わる場面転換にしばしば読み辛さを感じた。
これは全く以て私の憶測だが、昨今SNSでツイッターやフェイスブックなど短いコメントを挙げる風潮があるために、小説に関しても極力短い章立てで読ませることをもしかしたら作者は意識したのかもしれない。

ジェーンは最後2件の殺人を犯した不正なFBI捜査官と報じられ、指名手配されたことを知る。今後ジェーンは一人息子のことを思いながら巧みに変装をし続けて標的であるデイヴィッド・マイケルを目指す。
ほとんど全てのアメリカ人を敵に回して少しの理解者と共に立ち向かう今後はもっとスリリングでじっくり読ませる内容であってほしい。

No.1439 8点 日本傑作推理12選(Ⅱ)- アンソロジー(海外編集者) 2019/03/17 00:37
前作から3年を経て1977年に再度刊行された『ジャパニーズ・ゴールデン・ダズン』。EQJM委員会の序文によれば世界に日本産ミステリの普及の第一歩と意気込んで刊行された前集はアメリカでも好評を以て迎えられたようだ。前集をきっかけに日本のミステリの翻訳出版の兆しが見えたと述べている。しかしこの2019年現在から振り返ると日本のミステリが初めてエドガー賞候補に挙がったのが2004年の桐野夏生作品の『OUT』だったことを考えれば、70年代以降からそれまでの本格的な日本ミステリの海外進出はやはりそれはいくつかの代表的な作品に限られたように思える。

またクイーンが序文で述べているように、第1集の時もそうだったが、男女の恋愛の縺れを扱った作品が多い。
物語や文体などの質はいいものの、それぞれの作品が備えている動機や人間関係はほとんど同じといったところで、それが器を変えながらも行く着くところや人物間の関係は似たようなものだという印象を与えたのかもしれない。上に書いたように実際選者のクイーンも触れており、それはつまり暗にそのようなことを仄めかしているようにも取れる。

しかしそうは云いながらも1集と同じくどれも読ませる。この2回目の“黄金の12編”は実に粒ぞろいだった。見開き2ページに占める文章の割合は昨今のミステリと違い、黒色の比率はかなり高く、短い中に人物設定に不可解な謎、更に人間ドラマが凝縮されており、実にコクが深い。

そんな中、まず私のお気に入りを挙げると松本清張氏の「駆ける男」、陳舜臣氏の「神獣の爪」、佐野洋氏の「妻の証言」の3作となる。
松本氏の作品は物語自体に濃さを感じる。一連の事件の流れと事件関係者の人間関係、それぞれが濃密でじっくり読ませられるのだ。
陳氏もまた自身が中国人という出自を存分に生かした、彼にしか書けない長い年月をかけた、しかも中国人の強かさを存分に味わさせられる作品で主人公の刑事すらも舌を巻く結末に大いに感じ入るものがあった。
佐野氏は本書の中で最も短い作品でありながら、法廷劇の最中で繰り広げられる人間ドラマ、そして読者の思いもしなかった展開と最後はそれら全てが腑に落ちつつ、これまた予想外の人間関係が明かされたりとジェットコースターに乗っているかのようだった。

それら3作を抑える個人的ベストを挙げたいが、本書は第1集にも増して実に素晴らしく、1作に絞れなかった。夏樹静子氏の「滑走路灯」と山村美紗氏の「殺意のまつり」と女流作家2本に前集に引き続いて西村京太郎氏の「柴田巡査の奇妙なアルバイト」を挙げたい。
夏樹作品はまず登場人物の設定、物語の展開と登場人物たちの相関関係全てが最後の結末に奉仕しており、まさに完璧なミステリを読んだ思いがした。
山村作品は20年前の殺人事件の真犯人であると名乗る男の登場から事件の洗い出しと定番の流れを見せながら、いきなりマスコミの寵児となる怒濤の展開を見せ、最後にそんな狂騒の後始末であるかのような意外な結末が開陳される。まさに“殺意のまつり”と呼ぶに相応しい作品だった。
西村氏の作品はまず現役警察官が浮浪者援助のために自ら万引きしてそれを浮浪者の犯行にして逮捕し、双方WINWINの関係にするという着想の妙が素晴らしい。夏樹氏同様全ての設定が最後の意外な結末に生きており、全く以て隙が無いことに加え、とにかく話がユニークでクイクイ読まされる。物語全てに必要な要素が詰まった作品だ。
今ではこの3名はどちらかと云えばその名前を冠する2時間ドラマの影響もあり、いわゆる一般大衆向けミステリ作家という印象が強いが、やはり今なお語り継がれ、映像化されるだけの理由があるのだ。この3名の着想の妙は只者ではなかった。読まず嫌いでいるのは勿体ないと思ったが、流石に全ての作品をこれから読むのは無理か。

しかしこの第2集の選出作品を眺めると第1集と重複する作家が12人中6人と半数を占めるのは予想外だった(松本清張氏、夏樹静子氏、石沢英太郎氏、西村京太郎氏、笹沢左保氏、佐野洋氏)。5割は非常に高い確率である。やはり平成の世でもその名を知られる作家は真の実力者であったということだろう。その中身を読んでも選ばれるに相応しいクオリティを兼ね備えている。恐らく彼らは別格の存在だったのだ。

この頃に『このミス』など年末のランキングイベントをやっていたらどんな結果になっていたのか、実に興味深い。1年に複数作発表する作家ばかりだから、20位の中に同じ作家が2,3作含まれ、作家別で見てもこの採用率同様10名だったという結果になっていたのかもしれない。70年代は作家の実力差が離れすぎていたのかもしれない。

更に昭和感。これが実に面白く感じる。温泉旅行先での女中との密会や警察の不当な誘導尋問、更には深夜番組で登場する若い女性のセミヌードなども、まだ闇のある時代の淫靡さが行間に見え隠れしている一方で、山村作品では古い家屋が壊され、近代的でチャチな家が建てられたと云った描写もあり、時代の移り変わりを感じさせる描写もあって興味深い。

平成最後の年に昭和の作家の作品のアンソロジーを読む。この意味については次の最後の第3集を読んだ時にまた考えるとしよう。次はどんな“黄金”が待っているのだろうか。

No.1438 8点 ナイン・ドラゴンズ- マイクル・コナリー 2019/02/25 22:34
アメリカの警察小説のシリーズ物ではアクセント的にアジアのマフィアもしくは悪党と主人公が対峙するという話が盛り込まれるようだ。ディーヴァーの『石の猿』然り。
アメリカ人にとって独特の文化でどこの国でも根を下ろして生活するアジア圏の人々、殊更中国人というのは実にミステリアスな存在であり、また中国マフィアが世界的にも大きな犯罪組織であることから、西洋文化と東洋文化の衝突と交流というミスマッチの妙は題材としては魅力的に映るのではないか。
ボッシュシリーズ14作目の本書はボッシュもアジア系ギャング対策班、AGUの中国系アメリカ人捜査官デイヴィッド・チューと組んで中国系マフィア三合会を相手にする。

しかしコナリーが凄いのは単に事件を介して中国系アメリカ人や在米中国人たちの文化や生活、思想に触れることでの戸惑いを描くことで作品に興趣をもたらしているだけでなく、中国系マフィアとの戦いに主人公ボッシュが必然的に深く関わるように周到に準備がなされていたことだ。
ボッシュの前妻エレノアが娘マデリンを連れて香港でプロのギャンブラーとしての生活をするのが11作目の『終決者たち』で説明がなされている。それ以降、作中では香港にいる娘との連絡を時折していることが触れられており、途中2作を経てLAに住むボッシュが在米中国人に起きた事件を捜査することで中国文化圏で生活する彼女たちに危難が訪れる本書を案出するのだから、全く以てコナリーの構想力には畏れ入る。

娘煩悩なボッシュに訪れるのが担当した事件の容疑者、三合会というマフィアの構成員を逮捕したことによる代償としての娘の誘拐。しかも自分の手の届かない香港という異文化都市。これは子を持つ親ならばこれ以上ない恐怖であることが解るだろう。不屈の男ボッシュもまたその例外ではない。

人は護るものが出来ると強くなる。しかし同時に護るものが出来ることで弱くもなる。
護るものが出来るとその人にとって支えが出来る。どんな苦難に陥っても護るものがあることでそれを乗り越える原動力となるのだ。自分を必要としている人がいることで心に一本の芯のようなものが出来る。
一方で護るものはそのまま弱点ともなりうる。自分の支えとなっているものを失うことで人は弱くなる。、自分を必要としている人は即ち自分が必要としている人だったことに気付かされ、それを失うことが恐怖に変わる。
ボッシュは自分の娘マデリンを授かった時に自分が救われたと同時に負けたことを知ったと云い放つ。自分が悪に対して異常な執着心を持って立ち向かうためには弱みのない人間でないといけないと思っていたが、娘が出来たことでそれが一転する。
娘は彼にとってかけがえのないとなった瞬間、弱点になったことを。刑事という職業に就く人間はおしなべてこのような想いを抱いているのだろう。

娘を誘拐されたボッシュの焦燥感は子を持つ親ならば誰もが理解できる気持ちだ。特にボッシュが娘を持つようになったのは作者コナリー自身が娘を持ったことで得た気持ちをそのまま反映しているからだ。従って本書でボッシュが抱く、云いようのない恐怖感はそのまま作者が同様の状態に陥った時に抱くであろう心持と同義なのだ。

従って本書はこのマデリン誘拐をきっかけに静から動へと転ずる。愛娘を誘拐されたボッシュの焦燥感と三合会への怒りをそのまま物語のエネルギーに転じ、コナリーはボッシュを疾らす。ボッシュ自身常に動いていないとダメだと常に口に出す。それは誘拐事件が発生からの時間が長引けば長引くほど解決する確率がどんどん低くなるからだが、やはりここはボッシュが娘の安否に対して気が狂わんばかりに焦っているからだ。

常に業の中で生きる主人公に対し、作者はその娘さえ業を背負わせる。この後続くボッシュはこの娘を抱えた日常と過酷な事件の捜査をどのように両立させるのかが焦点となろう。

しかしこのシリーズは今まで色んな新展開を見せながらも結局はボッシュが一匹狼に戻ることを選択してきた。恐らく作者自身、ボッシュという人物は常に業を抱えて生きている男として設定しているので、幸せな家庭や娘との温かな交流が向かないと思っているのだろうし、また書きにくいのだろう。
それがゆえに娘までに業を背負わせたのかと思うとやりきれない。今はお互いが犯した過ちに対して瑕を舐め合う、新米の父子だが、いずれこの業はこの父子に重荷となってのしかかってくるに違いない。

コナリーがこの父子に課した業の深さを思うと、今後の2人、特に娘のマデリンの行く末が気になって仕方ない。娘を持つ親として。

No.1437 7点 地図のない街- 風間一輝 2019/02/15 23:48
風間一輝。1999年に癌で亡くなり、既にこの世にはいない作家。その作品は多くないが、私は彼のデビュー作『男たちは北へ』で大いに心打たれ、たちまちその世界に魅了されてしまった。

そんな彼の作風はその第一作がそうであったように作者自身の影が投影された人物が主人公を務めるところに特徴がある。無頼派的な人物が作者の言葉を代弁するかのように心情を吐露し、そして難癖を付ける。それは決して付き合いやすさを感じる男ではないけれど、その武骨さが何とも魅力的に見える、不思議な雰囲気を醸し出している。

本書は断酒小説と銘打たれている。そう、アル中がいかにアルコール依存症を同類の仲間たちと共に克服するかが綴られている。従ってここに登場する人物たちは極度のアル中ばかりで信じられないほど酒を飲む。全編これ飲酒シーンばかりと云ってもいいほどの内容だ。

勿論酒を飲んでばかりでは話は進まない。主人公が流れ着き、やがてそこで知り合い飲み友達(アル中友達?)となった仲間たちがドヤ街山谷で続発する真夏の夜の連続行き倒れ事件の謎に肉迫していくことでトラブルに巻き込まれていくのだ。

しかしやはり物語の中心は主人公北岡吾郎とその仲間初島肇と木沢完らが行う断酒計画の顛末だ。
アルコール中毒ことアル中、最近ではもはやアルコール依存症と呼ぶようになったが、昔はよくこのような叔父さんを見たものだった。終始手が震え、顔は酒焼けで真っ赤、話すこともよく呂律が回っていないため不明瞭。典型的なアルコール中毒者を小さい頃私が住んでいた界隈でも見かけた記憶がある。しかし最近は見なくなって久しく、忘却の彼方だったため、これほどまでに大変なのかと再認識させられた。

そしてなんといってもこの作家、無骨な男たちの友情を書かせたら非常に上手い。
桐沢がリンチに遭い、仲間たちが集まり、暴力団員3人に復讐をする顛末はほとんど『スタンド・バイ・ミー』のような青春小説の煌めきを見せる。1人1人ではただの酔いどれだが、束になって掛かればヤクザさえも一網打尽。世は捨てたがプライドは捨ててない男たちの生き様が鮮やかに描かれる。
しかしやはり酔いどれは酔いどれ。ここにはどうしようもない男たちの足の引っ張り合いもまた描かれる。アル中だからこその団結力は裏返せばお互いがアル中であることを確認し合い、そして安心していることを意味する。従って断酒なぞをしてそこから脱け出そうとすれば真人間になった仲間に置いていかれるのではという焦燥感に駆られ、足を引っ張ることも辞さない。彼らの団結力とは皆が同じ人種であることの安心感に由来していることが解ってくる。

社会の底辺を生きる男たちの友情物語は断酒では幕を閉じない。彼らは亡くなった友への弔いを終えた後、再び酒を酌み交わすのだ。それが彼ら人生の落伍者たちの、そして酔いどれたちのブルース。地図にない街山谷。それは未来という地図のない街でもある。明日なき街を行く2人にまたどこかで出逢うことだろう、間違いなく。

No.1436 7点 泥棒はスプーンを数える- ローレンス・ブロック 2019/02/08 23:49
泥棒バーニイ・ローデンバーシリーズも本書が最終作だそうだ。“だそうだ”というのはブロックはこれまでも最終作と思しき作品を著しながら、思い出したように続編を書くからだ。しかし御年80歳であることを考えるとさすがにこの謳い文句は本当のように思える。

今回の話はとにかくいつもとは異なる。軸となるストーリーはあるものの、そこに至るまでがいつもより長く、余分なエピソードや蘊蓄の量がかなり割り増しされているのだ。
軸となる話とはミスター・スミスなる謎の人物からフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の生原稿、そしてアメリカ独立宣言の署名者の1人バトン・グインネットを象徴したボタンの意匠を施した使途スプーンの所有者からの盗みと並行してレイ・カーシュマンが担当する泥棒による富豪の老婦人殺害事件の捜査の手伝いだ。
実際本筋のバーニイが謎の人物ミスター・スミスから依頼された最初の盗みを始めるのが80ページ目辺り。そしてお馴染みの宿敵、刑事のレイ・カーシュマンがバーニイに疑いを掛けた泥棒による老婦人殺人事件を持ち掛けるのが120ページ目辺り。更に本書の題名となっている使途スプーンを盗む計画が動き出すのは190ページ目辺りと、実にとびとびに物語は展開する。そしてこれら約4~70ページの間隙で語られるのはバーニイの女友達で時々盗みのパートナーを務めるペット美容師のキャロリンと繰り広げる多数の蘊蓄とエピソードで彩られた、あっちこっちに脱線する会話なのだ。それらは時に冗長に感じられながら、ブロックお得意の会話の妙味が込められていて面白いのは事実。

さてそんな蘊蓄と脱線で彩られたシリーズ最終作。中身はそれでも本格ミステリばりの内容となっている。
これら事件の謎解きをバーニイは自分の店で関係者一同集めて、さながら昔の本格ミステリのように行う。その前にレックス・スタウトのネロ・ウルフシリーズを読み直して、どういう風に進めればいいのかを参考にするのが面白い。

また昨今の書店経営事情の困難さを象徴するかのように本書が幕を開けることにも触れておきたい。
最初の客がバーニイの店でタイトルが解らないけれども、ずっと探していた本を見つける。恰も購入しそうにレジに来るが、タイトルをアマゾンで調べると電子書籍化されてて、そちらの方が13ドルも安く手に入るので止めることにしたと云って出て行く。
また常連のモーグリという男性は大量に本を買ってくれるが、彼はその本を手元に置いておきたいわけでなく、自身がウェブで売るためのせどりをしていることをバーニイは知っている。常連客の1人が亡くなり、その蔵書を売りたいという連絡を受けて家に云ったら、息子が1冊ずつネットで売ることにしたので止めたと断られた。
ネットの繁栄が実店舗の書店・古書店へもたらす不景気の煽りをバーニイの経営するバーネガット古書店にも訪れていることが描かれている。これが今の書店業界の現実なのだ。

本書はブロック75歳の時の作品。引導を渡すには頃合いだったのだろう。また1つ私が愛読してきたシリーズが終わってしまった。哀しいけれど何事も引き際が肝心で、むしろこれほどのクオリティを保って幕を閉じることが有終の美というものだ。つまり本書における数多くの蘊蓄や寄り道はブロックの内なる書きたいことを最大限に放出したことに他ならない。彼の中にある興味あること、書きたいこと、教えたいことを極力多く入れたかったのだ。老人が若者に酒を片手に蘊蓄を傾けるかのように、古きアメリカの歴史や昨今の出版事情などを聴くが如く、読むのが本書の正しい読み方だ。

No.1435 9点 日本傑作推理12選(Ⅰ)- アンソロジー(海外編集者) 2019/02/07 23:32
エラリー・クイーン存命中、アンソロジストとしても活躍していたアルフレッド・ダネイ氏の許に日本版『黄金の12』を選出する企画が始まった。東京にEQJM(エラリー・クイーンズ・ジャパニーズ・ミステリー)委員会が編成され、1970年以降に発表された短編ミステリの中から厳選された作品を英訳し、クイーンの許に届けられ、更にそこからクイーンのお眼鏡に適った12編を基に組まれたアンソロジーが本書である。その後この企画は3回続き、全3巻のアンソロジーとして刊行されている。
その第1集が本書である。カッパ・ノベルスとして刊行されたものの文庫版が本書で、ノベルス刊行時は1977年。70年に活躍したミステリ作家の歴々がその名を連ねている。それは平成の今なお映画・ドラマなどで映像化された際に番組名にその名が冠として付く錚々たる面々であり、今なお売れ続けているベストセラー作家たちもいる。やはり彼らのネームヴァリューは伊達でなく、本格ミステリの伝説的存在クイーンにも、いや世界にも通用する実力を兼ね備えていたことを証明するようなアンソロジーでもある。

欧米その他海外諸国のミステリは積極的に翻訳され、日本に紹介されているものの、逆に日本のミステリが全く海外に向けて発信されていない現状があった。世界への門戸は入ってくるばかりの一方通行であったのだ。そんな現状を変えるためにクイーンの鑑識眼を通して、海外ミステリの名作・傑作と遜色ない作品を世界に問い、発信するための試金石となるのが本書編纂の大きな目的でもあった。
私が感心したのは篩分けを行うEQJM委員会が評論家ではなく、ミステリのコアなファンや推理小説通として認められている経歴の持ち主5人によって構成されていることだ。往々にして評論家や研究者が選びがちな、作品の背景に隠された歴史的意義や当時の作者の心境など深読みしなければ、もしくは時代背景や私生活にまで踏み込まないと解らないような行間の読み方をすることで得られる読書の愉悦にこだわった作品ではなく、純粋にミステリとして面白い作品がファンの立場で選ばれていることがいい結果に繋がっているように思う。それほどまでに本書収録の各短編のクオリティは高い。
そんな粒ぞろいの短編集。全く駄作はない。全て水準を超えており、中には一読忘れられないほどの印象強い作品もある。

またこれも時代だろうか、男性作家の女性に対する描写も生々しく、平成の今なら書かないであろう一線を超えて、本能を露わにして書いているように感じた。艶めかしく、色香が溢れ、女性の欲求不満ぶりや男を惑わす身体をしていると云った、性的描写が濃厚。中にはセックスシーンをも盛り込んでいる作品もある。
あとやはり高度経済成長期を経たことで誰もが一番を目指すことを要求された学歴社会による弊害から生まれた作品もあれば、その後の第1次オイルショックといった急激な物価上昇を経験した時代であることから、将来を約束されたものと思われた大学出のサラリーマンが経済苦に瀕し、高卒の商売人が裕福になるといったいびつな経済格差社会を反映した作品もあり、また生命保険殺人など、世相を色濃く反映しているものも見られ、昭和の時代を知る意味でも興味深い側面があった。

また当時を知るという意味では松本清張ブームで推理小説が活発化している時期であったことも興味を惹かれる。クイーンによる序文によれば商売繁盛どころの騒ぎではなく、毎月平均30冊、40編の短編集が出版され、年間2,000万冊以上の販売数であるとのこと。ウェブ社会の発達で書籍離れ、もしくは紙の本から電子書籍へ移行し、年々閉店と倒産が続く出版業界の現在を思うとまさに時代の花形であり、夢のような時期だったことが解る。
しかし70年代の、つまり昭和の時代の作家の筆致は何と濃厚なのだろうか。ミステリ作家と呼ぶには軽すぎて昔ながらの推理作家の呼称の方がしっくりくる。行間から立ち上る登場人物の息吹や生活臭がむせ返るほどに濃密で高度経済成長期で整備が追い付かない未舗装路から巻き起こる土埃やエアコンのない時代の蒸し暑さと汗ばんだ皮膚から発散される体臭までもが感じられるようだ。
登場人物皆がギラギラし、人と人との距離が近く、暑苦しささえ感じる。
そしてそれぞれの家庭に独特の生活臭があるように、それぞれの作家の短編の1ページ目を開ければそれぞれ異なる色合いと風合いを感じさせる。
それはまだやはり作家たちに終戦が経験として地続きであることが起因しているのではないか。実際本書においても終戦直後のことが盛り込まれた作品もあり、それを知らない戦後世代との会話も登場する。この戦後の混乱を経験した作家に根付いた人間に対する観察眼はやはり非常に土着的で、そして野性的であるように感じる。それが登場人物に厚みと汗臭さをもたらしているのではないか。
平成は醤油顔が奨励され、濃い顔の男たちはソース顔と揶揄され、敬遠されたが、各編に出てくる登場人物たちはそんなあっさりとした面持ちを持たず、日々成長する当時の日本社会を象徴するかのように野心を持っており、翳を備えて、陰影に富んだ濃い顔の持ち主ばかりだ。

さてそんな珠玉揃いの短編。石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」、松本清張氏の「奇妙な被告」、土屋隆夫氏の「加えて、消した」が印象に残ったが、個人的ベストは西村京太郎氏の「優しい脅迫者」だ。じわりじわりと強請りの金額を吊り上げる脅迫者と絶望感に苛まれる被害者。溜まらず最後の一線を超えた先に見えた意外な真相。読中は脅迫者のねちっこい強請りに終始心が粘っこくなるような嫌悪感を覚えたが、読み終えた時はその結末の温かさに思わずため息が漏れてしまった。初期の西村氏の作品には傑作が多いと云うが、本作もまたその中の1編であると云えよう。

まさに当代きっての日本を代表する推理作家が揃った短編集であるが、冒頭の本書刊行の経緯を記したEQJM委員会の序文によれば傑作でありながも日本独特の言語・習慣・歴史・風俗に基づいた作品は敢えて外されたとのこと。これも70年代当時の世界からの日本の認識度から考えれば仕様のないことだが、COOL JAPANとして外国人への日本文化の関心と認知度が増した現代ならばどうなっていたかと興味深いところではある。

世界に日本のミステリを!その第一歩となった名アンソロジスト、エラリー・クイーン編集による短編集は期待値以上の読み応えがあった。この後まだ2冊も残っている。つまりあと24編あるわけだ。24回、読書の愉悦を堪能できる、なんとも贅沢なその時を待つこととしよう。

No.1434 8点 スケアクロウ- マイクル・コナリー 2019/02/05 23:20
これは『ザ・ポエット』第2章か?
詩人の事件でコンビを組んだ新聞記者のジャック・マカヴォイとFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが再びタッグを組み、連続殺人鬼スケアクロウに立ち向かう。20世紀の敵、詩人(ザ・ポエット)と違い、21世紀の敵、案山子(スケアクロウ)は更に強力だ。
スケアクロウことウェスリー・カーヴァ―は平時はデータ会社の最高技術責任者の貌を持つ男で、ウェブ世界を自由に行き来し、各会社のサーバーに容易に侵入し、個人情報を盗み出す。ジェフリー・ディーヴァーの『ソウル・コレクター』に出てきた未詳522号を髣髴とさせる。
特にスケアクロウことウェスリー・カーヴァ―がジャックの後任アンジェラのブログ記事から飼っている犬の名前をパスワードにしていると推測して勤務先の新聞社のサーバーに彼女に成りすまして侵入していく有様はいかに我々一般人がウェブに関して無頓着に自ら重要な情報を明かしているのをまざまざと見せつけられる思いがした。

また今回の事件がトランク詰め殺人であることでどうしても同様の事件である『トランク・ミュージック』を想起させられてしまう。作中でもジャックの後任のアンジェラが過去のデータベースを引っ張った際に、ボッシュが担当したこの事件について言及される。つまり本書は同時期に書かれた『ザ・ポエット』と『トランク・ミュージック』に21世紀という時代を掛け合わせた作品と云えるだろう。

ジャックの一人称で紡がれる物語は新聞記者の特性が実に深く描かれている。自身地方の新聞記者からロサンジェルス・タイムズ紙に引き抜かれたコナリーにとってジャック・マカヴォイは自らが色濃く反映されたキャラクターだろう。そこに書かれているのは新聞記者たちがいかにスクープを物にし、のし上がろうと貪欲に事件を追いかけている有様とそのためには他人を出し抜くことを厭わない不遜さを持っていることだ。
解雇通知を受け、後任となったアンジェラは事件記者としては新米ながらもジャックが追いかけることになったスケアクロウの事件を既にキャップと話してジャックの記事ではなく、2人の共同記事にすることをとりなして、一刻も早く大きな事件を扱えるように画策すれば、ジャックは自分の記事がセンセーションを巻き起こすことを期待して掴んだ手掛かりはいつまでも持っておく。更に自分が当事者になることで記者から取材対象者になると、解雇通知を受けたジャックに同情を寄せていた同僚は嬉々としてジャックに訊き込みを行う。
そんな生き馬の目を抜く、上昇志向の塊のような集団が新聞記者たちのようだ。即ちこれはコナリー自身の回顧録でもあるのかもしれない。
一方で顕著なのは花形とされていたメジャーメディア会社であるロサンジェルス・タイムズ紙が斜陽化してきていることだ。インターネットの発展でウェブ化が進み、新聞の発行部数は軒並み減少。従って経費削減としてリストラを行わなければならず、その憂き目にあったのがジャック・マカヴォイなのだ。
高給取りのベテラン記者を排し、安い月給の新人記者に取って換えようとする。実際ロサンジェルス・タイムズ紙は経営破綻し、会社更生手続きの適用を申請したそうだ。コナリーも巻末のインタビューで応えているように、この新聞界を襲う未曽有の経営危機が本書を書く動機になったようだ。それは新聞界に向けたエールであると同時に鎮魂歌でもあるのかもしれない。なぜならジャックは新聞社を去るのだから。

しかし今回もまたストリッパーに絡んだ事件だ。コナリーの物語は本当にこのストリッパーや売春婦たちが巻き込まれる事件が多い。そしてウェスリー・カーヴァ―はハリー・ボッシュと同様に母親がストリッパーである。ストリッパーが母親でありながらもボッシュは悪に染まらず、罪を裁く側の人間となった特別な存在だと強調するかのようだ。

しかしディーヴァーの『ソウル・コレクター』の時もそうだったが、今回は実にリアルで寒気を感じた。情報化社会でもはやウェブがなければ生活できない我々がいかにインターネットに、情報端末に依存して生きており、そして自分たちの秘密をそこにたくさん放り込んでいることに気付かされた。そしてそれがある意味自身の生活を、いや自分自身のアイデンティティそのものを容易に侵す可能性を秘めていることも改めて思い知らされた。
ブログやツイッター、ラインにフェイスブック、インスタグラムなどに代表されるSNSに我々はいかに無防備に自分をさらけ出していることか。悪意あるハッカーたちやクラッカーたちが虎視眈々と狙っている付け入る隙を自ら提供しているようなものである。
しかしこれからはキャッシュレス化が進んでいけば、更にこのウェブで生活や仕事達の大半を処理していく傾向は強まることは避けられない。
そうした場合、何が問われるかと云えば、本書でも言及されているように、堅牢なシステムは無論の事ながら、それを扱う人間の資質だ。他人を盗み見ることが常態化し、悪い事とは思えなくなってくる、いや寧ろ他人の情報すらも容易に手中に出来ることで自らを一般人とは上位の存在、神と見なして他者を単なる名前やIDだけの文字だけの存在としか認識しなくなる怪物が育ち、悪用されるのが恐ろしい。某通信教育会社がデータ管理会社の社員によって金になるという理由でユーザー情報を流出して売り払らわれていた事件を目の当たりにし時と同じ戦慄を覚えた。なんでもそうだが、結局行き着くところは「人」なのだ。
つまりこのウェスリー・カーヴァ―は単に創作上の怪物ではない。本書は実際に起こりうる事件であり、ありうる犯人であるからこそリアルで恐ろしいのだ。

しかしコナリーのストーリー運びには今回も感心させられた。特にジャック・マカヴォイが事件の結び付きを発見していくプロセス、レイチェルが行うプロファイリングの緻密さ、畳み掛けるように起こる2人への危難とそれを打倒する機転。それらは実に淀みなく展開し、全く無理無駄がない。よくあるデウスエクスマキナ的展開さえもない。全てが必然性を持って主人公の才知と読者の眼前に散りばめられた布石によって結末へと結びつく。
ジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリング2人が最高のコンビであることを再度確信した。ジャックは新聞社を辞し、またこの「スケアクロウ事件」を題材に本を著すが、その先はどうなるか解らない。レイチェルは見事FBI捜査官の第一線に復帰したが、彼女はジャックと2人で探偵事務所を開くことに興味を抱いている。
悔しいが、こんなに面白く、そして知的好奇心を刺激され、なおかつ爽快な物語を読まされたら、2人はお似合いであると認めざるを得ないだろう。再びこのコンビでの活躍を読みたいものだ。

No.1433 8点 ZOKU- 森博嗣 2019/02/03 22:53
さてこれは森版『ヤッターマン』とも呼ぶべき作品か。

犯罪にまでには至らない被害の小さな、しかし見過ごすには大きすぎる悪戯を仕掛けるZOKUとそんな悪戯に真面目に抵抗し、阻止せんと追いかけるTAI。
それは「ヤッターマン」における、ドロンボー一味とヤッターマンを観ているかのようだった。

さてそんな「まじめにふまじめ」を行うZOKUのメンバーは、黒幕の黒古葉善蔵にロミ・品川、ケン・十河、バーブ・斉藤で構成されており、プライベートジェットを根城としている。
一方「ふまじめをまじめ」に阻止しようとするTAIは白い機関車を基地にしており、木曽川大安を所長に、揖斐純弥、永良野乃、庄内承子が主要メンバーである。

木曽川と黒古葉はお互い実に親しい幼馴染でいがみ合っていない。寧ろ顔を合わせた時にはお互い談笑する仲だ。昔から悪戯好きだった黒古葉とそれを真面目な木曽川が少年時代から尻ぬぐいしてきた仲である。つまりこれは2人の大富豪が日本全国を舞台に繰り広げる壮大なお遊びなのだ。

一大財を成し、遊ぶお金と自由な時間を手に入れた2人が始めたのは日本全国を巻き込んだ正義と悪の対決ごっこ。こんなワンアイデアから生まれた本書は稚気に満ちていて実に愉しい読書の時間を提供してくれた。

そして作中に出てきたZOKUの数々の悪戯は恐らく森氏が日ごろから想像している「やってみたら面白い事」の数々であるに違いない。大人になって出来なくなったこれらの悪戯、いや大人にならないとできないが実際やれば逮捕されてしまうから出来ない悪戯を森氏はZOKUの面々に託したのだろう。

幸いにしてこの後もシリーズは続き、この憎めない輩たちと再会する機会があるようだ。次作を愉しみに待つとしよう。

No.1432 8点 聖アウスラ修道院の惨劇- 二階堂黎人 2019/01/30 23:22
一読非常に読みやすく、更に本格ミステリ趣味に溢れていながらも警察の捜査状況も、慣例事項など専門的な内容も含めてしっかり書かれており、意外にも好感が持てた。

江戸川乱歩や横溝正史、はたまたジョン・ディクスン・カーが織り成すオカルティックな本格ミステリの世界観を見事に盛り込んだ作品を紡ぎ出している。
ケレン味という言葉がある。それは物語をただ語るだけでなく、作者独特の世界観に読者に導くはったりや嘘のような演出のことだ。先に挙げた乱歩や正史、カーや島田荘司氏などの作品はこのケレン味に溢れている。
そしてまた二階堂黎人氏もまたケレン味の作家である。上に書いたガジェットの数々は自分が面白いと感じた古今東西のミステリの衣鉢を継ぐかのように過剰なまでにケレン味に溢れた作品世界を描き出す。

しかし残念なのは探偵役の二階堂蘭子がまだまだ類型的なキャラクターに感じられることだ。
二階堂蘭子及び黎人2人の主人公たちをいけ好かないブルジョワ階級の、我々庶民である読者とは隔世の存在としているため、どこか親近感を抱くのを阻んでいる感じがある。
とはいえ昨今の本格ミステリは有栖川有栖氏の臨床犯罪学者火村然り、警視を親に持つ法月綸太郎然り、どこも似たような感じであるから、受け入れるべきなのだろう。
しかし今回この万能推理機械のように思われた二階堂蘭子に弱点が発覚する。それは彼女が泳げない、つまりカナヅチであることだ。この設定が物語最終のスペクタクルで活かされることで本書で初めて二階堂蘭子が類型的な万能探偵から一歩抜きんでた思いがした。

また文書庫の秘密を知り、打ちひしがれるマザー・プリシラの様子はそのまま未来の作者そのものを示しているかのように思える。

ど真ん中の本格ミステリをこよなく愛するがゆえに、その愛が深いだけに亜流や境界線上の本格ミステリに対して「○○は断じて本格ミステリではない!」、「本格ミステリとは斯くあるべきだ」と持論を強硬に展開するあまり、本格ミステリ論争まで仕掛けて、論破されそうになると正面からの抗議を避け、外側の部分で議論を煙に巻くという愚行に出た二階堂氏。私はこの「『容疑者xの献身』本格ミステリ論争」における氏の無様な姿に大いに失望した。
更にその後島田荘司氏を旗頭として掲げつつ、『本格ミステリ・ワールド』というムックを立ち上げ、いわゆる『俺ミス』と揶揄されるようになる、自身の認める本格ミステリを「黄金のミステリー」と題して選出するようになった。その結果、このムックはほどなく休刊に至る。

つまりマザー・プリシラこそ作者そのものなのだ。ミステリという宗教の中で本格ミステリのみを信奉し、それ以外のミステリを排するようになり、そして世間の目がやがて自身の好む本格ミステリから外れた作風へ嗜好が変化しそうになると、それを認めず、自分好みのミステリ選出をしてご満悦に至る。
折角これほどまでにたくさんの本格ミステリガジェットと豊富な知識を盛り込んだ面白い作品を書けるのに、それを他に強いるのは愚の骨頂である。作者は己の信じるものを自身の作品で語ることで答えにすればよいだけだ。それを絶対的真理や定理のように強要するのは決してやるべきでない。

聖アウスラ修道院の惨劇は数年後に自らが招いた二階堂黎人の惨劇になってしまった。彼があの日あの時、本書を読んでいたらあのような愚行は避けられたのではないか。未来の自分を予見したのは実はあの論争を引き起こす12年前の自分であった。実に皮肉な話である。

No.1431 7点 九人と死で十人だ- カーター・ディクスン 2019/01/27 23:07
本書の冒頭で作者のディクスンは自身が第二次大戦開戦直後に経験したニューヨークからイギリスへの船旅の経験を基に作られたことが記されている。1本の作品にするほど子の船旅は作者の印象に強く残ったそうだ。

第2次大戦時下という緊迫した状況下での軍需品輸送の密命を帯びたイギリス渡航中の客船を舞台にディクスンが仕掛けた謎は船上での殺人現場に残された指紋に船内に該当する人物がいないという実に奇天烈な物。単に船内の登場人物に限定しない第三者の介入と、更に陸地にある館とは異なる、どこからも部外者が侵入できない船上で第三者の介入がなされたという不可解な謎を用意しているのだ。

久々に読んだカーター・ディクスン作品だが、謎また真相は小粒でありながら全てが収まるべきところに収まる美しさが本書にはあった。同じ客船を舞台にしたドタバタ喜劇が過剰な『盲目の理髪師』よりもこちらを私は買う(ところで本書でも客船での理髪師とHM卿のやり取りが殊更ユーモアに書かれている。これは前掲の作品に呼応したものだろうか?)。

特に指紋のトリックは21世紀でありながら私は本書で初めて知った。しかし21世紀の今でも同様な照合ミスは起きているのかと云われれば疑問ではあるが。

また犯人特定の鍵に使われた様子のない髭剃り用のブラシに着目するところはクイーンのロジックの美しさを感じさせる。
つまりある意味カーター・ディクスンらしからぬロジックの美しさが感じられる作品なのだ。

また注目したいのは本書の舞台が第2次大戦時下というところだ。複数の国を巻き込んだこの世界大戦において無数の人間が死ぬ状況。そんな中で軍需品輸送の密命を帯びた客船に同乗した9人の乗客とその船員たちはそれぞれに名を持ち、そしてそれぞれに使命を、希望を、そして思惑を持っている。大量に人が死ぬ時代に9名の人間が意志ある人間として描かれ、そして殺人劇が繰り広げられているところに本書の意義があるように思える。
世界中で人が次々と死に、誰がどこでどのように死んだのかの確認が後手後手になり、結果、名もなき兵士たちによる死屍累々の山が築かれる中、名を持った人間たちが戦争に加担する船に乗り込み、そして命を落とすところが意義深い。
そういった意味で考えれば唯一軍人の乗客であったピエール・ブノアがジア・ベイ夫人殺しのために作られた架空の人物であったことは大いに皮肉だ。戦線に立つ人間が名を与えられながらも実態がなかった。それはまさに大量死に紛れる匿名の犠牲者を暗示しているかのようだ。

No.1430 7点 真鍮の評決- マイクル・コナリー 2019/01/27 00:40
ボッシュシリーズと並ぶコナリーのシリーズ物として現在も作品が発表されているリンカーン弁護士ミッキー・ハラーシリーズ第2作。1作目が好評で映画化もされたが、コナリー自身もこの作品をもう1つの彼の作品の主軸にするためか、磐石の態勢で2作目を送り出した。
そう、2作目で早くもボッシュとハラーが共演するのである。しかも『ザ・ポエット』で主人公を務めた新聞記者ジャック・マカヴォイも登場させている。さらに物語半ばでは『バッドラック・ムーン』のキャシー・ブラックらしき女性がかつての依頼人であったことも仄めかされている。これはコナリーがこのミッキー・ハラーをボッシュ・ワールドにさらに積極的に取り込むことで、もう1つのシリーズの軸として成立させようと本書にかなり強い意気込みを掛けていることが解る。

異母兄弟でありながら、刑事と弁護士という水と油の関係の2人。作中でも「コインの裏表のようなもの」とお互いを評しているほど、こんな相反する男たちがどうやって協力し合うのか。さすがは物語後者のコナリー、実に上手い設定を導入する。
ボッシュが捜査をするのはハラーの依頼人の事件ではなく、ハラーに依頼人をもたらすことになった彼の友人の弁護士が殺害された事件の捜査なのだ。つまりハラーは友人の無念を晴らすために犯人を捕まえることを求めているため、2人の向くベクトルは全く同じなのである。なんと絶妙な筆捌きではないか。
しかしそれもやがて崩れてくる。ボッシュの捜査はやがてエリオットの方にも手が伸びてくるのだ。確かにこれは必然といえば必然。殺害された弁護士が衆目を集める裁判を担当していたとなればそこに事件の火種があると思うのは当たり前だ。したがってこの異母兄弟は次第にお互いの仕事と任務を護るために反発しあうことになる。

1作目から登場人物も刷新され、一旦リセットされた感もある。つまり前作はイントロダクションとすれば本書がシリーズの基礎を作り、そして本格的な始まりを示す作品であると云えよう。

やはりこういうリーガル・サスペンスで面白いのは我々一般人では未知の世界である法曹界の常識や戦術などが垣間見られるところだ。人は感情の動物である。いかに論理的に説明しても感情的に割り切れなければどうしてもそちらに引っ張られてしまう。陪審員制度では法律の素人である彼らの心をいかに掴むかが重要になってくる。つまり人間心理を熟知するものこそ法廷を制するのだ。そこには正義よりもむしろ法廷を支配線とする情熱が勝るといっていい。したがってハラー達弁護士、起訴する側の検察は自分の味方につけさせるために彼らはありとあらゆることを仕掛ける。
また今回最も読み応えがあったのは検察側と弁護側がそれぞれ陪審員を選定するシーンだ。延々30ページに亘って描かれるその攻防は人を読む目が試されるプロセスが詳細に書かれている。日本も裁判員制度が採用されたため、本書に書かれていることはまさに他所事ではなくなった。日本でも同様なことが行われているのだろうか?そしてもし私が裁判員に選ばれたとき、私は法廷に立つまでに至るだろうか、など考えさせられた。

しかし終わってみればこれまでのコナリー作品のキャラクターが登場する割にはさほど大きく関わらなかったという印象だ。まずジャック・マカヴォイはほとんど蚊帳の外的な扱いだったし、ボッシュも節目節目で出てくるとはいえ、いつものような押しの強さが少なかったように思う。特に物語の主軸であるエリオットの事件に関わると見せながらも最後までその核心には迫らず、外周を廻ってハラーの動きを見ていた、いわば裏方的な存在だった。これはどこまでシリーズキャラクターの共演を期待するか、読み手側の受け取り方によって本書の感想は大いに変わるだろう。
それで私はと云えば、やはり初の2大シリーズキャラクターの共演と謳うならば、もっとゴリゴリお互いの立場を主張して争ってほしかった。いかなる犯罪者も自分の手を汚してまで裁くことを厭わないほどの極端な正義感の持ち主である警察側のボッシュと、その人自身が犯罪者か否かは問わず、弁護士として成り上がるためにはいかなる手練手管も尽くして依頼人を無罪に持ち込もうとする弁護側のハラーという、自分の道を信じる男同士の熱いぶつかり合いとその中で生まれる友情を見たかったのが本音である。すでにボッシュがハラーを異母弟と認識していたことで彼が敢えて身を引いて、寧ろ擁護者的な立場でハラーを見守っていたのが私にはボッシュらしくなく、また物足りなく感じたのだ。

今後はもっとゴリゴリボッシュとやりあうことを期待しよう。

No.1429 7点 IT- スティーヴン・キング 2019/01/25 21:48
少年時代は忘れ得ぬ思い出がいっぱい。良い物も忘れたいような悪い物も全て。本書は自分のそんな昔の記憶を折に触れ思い出させてくれ、そしてその都度私は身悶えするのだ。羞恥心と未熟さを伴いながら。

ところでキングの短編に「やつらはときどき帰ってくる」という作品がある。
それは高校教師の許に少年時代にいじめられた不良グループが再び当時の姿で舞い戻ってくるという作品だ。
28年前の悪夢との対峙を扱った本書は単にその時町を恐怖に陥れた怪物の対決のみならず、過去の自分とそして自分の忌まわしい過去との対峙でもある。
人は最悪の時を迎えた時、時が過ぎればそれもまたいい思い出になる、笑い話になる、そう願いながらその最悪の時をどうにか耐え抜き、やり過ごそうとする。何もかもが順風満帆な人生などはなく、そんな苦い経験、忘れたい屈辱などを経るのが大人になることだ。時がそんな負の思い出を浄化し、いつしか他人に語れるまでに矮小されていくのだが、そんな苦い過去を想起させる出来事が再び起きた時、それはつい昨日の出来事のように思い出される。
そして自問するのだ。あの時の自分と今の私は少しは変わったのか、と。

かつてとても怖かったいじめっ子と再び出くわすかもしれない恐怖、密かな想いを持っていた相手との再会。お互いそんなこともあったと笑って話せるほど、自分の中で折り合いがついているのか、と自分に問うことになる。
故郷に戻ることは即ち追いかけてくる過去に囚われることでもある。
但し過去は全て忌まわしい物ばかりではない。その時にしか得られない体験や友達が出来、それもまた唯一無二なのだ。

ビル、ベン、リッチー、エディ、マイク、ペヴァリー、スタン。この7人が、運命とも云える出逢いを果たし、仲間となるシーンが何とも瑞々しく、爽やかで無垢な人間関係が築けた私の少年時代の思い出を誘う。初めて出逢っても一緒に遊べばもう友達になっていたあの、楽しかった日々を。そして彼らが出逢った時にまるでカチッとパズルが収まるべく場所に収まったようなあの想いもまた、仲間としか呼べない強い結び付きを感じさせるあの瞬間を思い出させてくれる。そう、私にもそんな時期が、そんな出逢いがあったことを。

さてそんな彼らが対峙する“IT”とはどのような怪物なのか。
最初に登場した時はボブ・グレイと名乗るペニーワイズと異名を持つピエロとして現れる。しかしそれぞれの目の前に現れる“IT”の姿は一様に異なる。
エディ・コーコランという犠牲者の前では半魚人のような怪物とし現れ、エディ・カスプブラクの前では瘡っかきの梅毒持ちの浮浪者の姿で現れる。
弟の敵討ちに出かけたビル・デンブロウとリッチー・ドーシアの前では狼男として現れる。しかも「リッチー・ドーシア」の名前が入ったスクール・ジャケットを着て。
また“それ”は亡くなったビル・デンブロウの弟ジョージのアルバムの中の写真にも潜む。明らかにビルたちが生まれる前の親たちの若い頃の白黒写真にも現れ、そこから襲ってくる。しかもその写真に触れるとその中に入り込み、傷だらけにする。
ペヴァリーにとって“IT”は彼女しか見えない大量の血液だ。水道の蛇口から溢れる鮮血は家族の中では彼女しか見えない
やがて“IT”が見る人によって様々なイメージで見えることが解ってくる。
それらはつまり彼らの潜在意識下における恐怖の象徴ではないか。
“IT”はつまり彼らが少年少女時代に抱いたトラウマなのかもしれない。

しかしなぜ彼らは再び戻って“IT”と対決しなければならないのか。彼らが少年時代にそうしたように、第2のビルたち<はみだしクラブ>がデリーに現れ、彼らに任せてもいいのではないか。しかもマイク・ハンロンからの電話がなければ彼らは“IT”のことはすっかり忘れていたのだから。
彼らが再び舞い戻ったのは“血の絆”という特別な盟約を交わしたからだ。まだ純粋さが残っていた彼らは再び“IT”が戻った時、「そうしなければいけない」という義務感に駆られたからだ。
しかし時間は人を変える。少年時代の約束を未だに守ろうとすること自体、難しくなっている。それはそれぞれに生活が、守るべきものがあるからだ。
しかし彼らは1人を覗いてそれまでの暮しを、仕事を擲ってまでも集まる。“血の絆”に従って。つまり“IT”とは子供の頃を約束を愚直なまでに守る大人たちがまだいてほしいというキングの願望によって生み出された作品なのではないだろうか。

キングは冒頭の献辞にこの物語を捧げていることを謳っている。その結びはこうだ。
“―魔法は存在する”
この魔法とは30年弱の周期でデリーの街に現れる“IT”と呼ぶしかない災厄を少年少女が討ち斃す奇跡を指していると捉えるだろうが、忙しい現代社会で人間関係が希薄になりつつ昨今において、少年少女時代に交わした約束を守り、大人になったかつての少年少女が再会し、再び対決すること自体がキングにとって“魔法”だったのではないか。30年近くの歳月を経ても再会すればかつての気の置けない気軽な友人関係に戻る、これこそが友情という名の魔法ではないだろうか。
私はキングが自分の子供たちに魔法は存在するのだから今の友達を大切に、とそれとなくメッセージを込めているように思えた。

“IT”。
このシンプルな代名詞はその時の会話や場面で示すものが、意味が変わる。たった2文字の中に宇宙よりも広い意味を持つ。そして“それ”とか“あれ”とか“IT”を示す言葉が会話に多くなった時、それは健忘症の兆しだともいう。本書の主人公たちも“IT”の存在は忘れてしまい、そして戦いに勝利した後もまた忘れていっている。
“IT”とは私たちが老いと共に大事な何かを忘れていくことの恐ろしさ自体を現した言葉なのかもしれない。そして40も半ばを超えた私にもこの“IT”に当たる、忘却の彼方にある、何かがあるのではないか。そう、それこそが“IT”なのだ。

No.1428 5点 ミステリは万華鏡- 評論・エッセイ 2019/01/22 23:45
北村薫氏によるお馴染みのミステリに纏わるエッセイ集。今回のコンセプトはとにかく縛りなく自由にミステリについて語ることになっている。従って本書では北川氏が『これはミステリだ』と感じた物事について自由に書き綴られている。「万華鏡」という題名は、一概に万華鏡と云っても色んな種類があるらしく、そのことからミステリも万華鏡の如く、色んな種類があるという意味で取ったようだ。

北村氏がミステリだと感じた物事を自由に書き綴っていることからどこか一貫性が欠ける感は否めなく、いわゆる稀代の読書魔である北村氏によるディープなミステリ話を期待すると肩透かしを食らうことだろう。
押しなべて感じられるのはミステリど真ん中の作品についての言及が少なく、純文学からラジオで聞いたある話、他人から聞いたエピソードなど、多事多彩な方面から得た話の中に北村氏がこれぞミステリだと見出した内容が多く書かれている。

それは新聞・雑誌の記事や一編の詩であったり、美術館の展覧会に掲げられた一服の絵に対する解釈文だったり、図鑑に付せられた文章だったり、更には靴箱の番号まで、と実に多岐に亘る。
そしてそんなエピソードにミステリを、とりわけ不可解な謎の探究として本格ミステリ魂を感じる北村氏の講釈が延々と語られる。この辺りはちょっと本格ミステリ愛を通り越して少し病的に感じられるのだが。

本書で一番面白かったこの探究心をそそるエピソードに次のようなものがある。

「濁音、半濁音、ん、小さい字、音引き、普通の字を全て含んだ1つの単語はあるか」

という疑問だ。つまりこれは通常の「あいうえお、かきくけこ、…」といった普通の字と「がぎぐげご、ざじずぜぞ、…」と濁点が付いた字、「ぱぴぷぺぽ」と丸がついた半濁音の字、そして「きゃきゅきょ、しゃしゅしょ、…」といった小さい字が含まれる字、即ち拗音、そして「ん」、それら全てを持つ1つの単語を探す話だ。こういったゲームは実に私の知的好奇心をそそるのだが、女性の方々はいかがでしょうか?ちなみに本書ではその単語がきちんと紹介されます。

そして私もそうだが、その作品を読んで抱いた思いを100%文章にして感想として表出するのは実に難しい。今までそれが出来た感想は1%にも満たないだろう。この心に抱いた、云いたいのに言葉に出来ないもどかしさをいかに感想として吐き出すか、そんな命題を解決するためにまた語彙を増やし、そして表現を知り、血肉とするために読書を重ねるのだ。
即ち読書とは自分の知識や人生経験から生じる解釈や感慨を作品の中に見出すこと、更にその感想を書くことはそれらを言語化することで、それをするために知識や表現を蓄えることなのだ。全てが環となって巡り巡る行為なのだ。そしてそれらを可能にするには上に書いたような知的好奇心やそれ以上の探究心で色々な謎を自ら解くこと、もしくは自ら作った謎に対して第三者から思いもしなかった解釈をされて気付かなかった自分を知ること、などを重ねることで有意義になっていくのだ。

ミステリは万華鏡、即ち色んな種類の万華鏡もあるように全ての話だけでなく、絵、音楽もなぜそうなったのかを考えることで万華鏡の如く見方が変わってくることを示しているのではないだろうか。
実は謎は己の内にあるのだ。それを謎と感じる感性にこそミステリは宿る。

私はこの題名と内容がイマイチピンと来なかったが、北村氏には我々が見たこともない万華鏡が見えているに違いない。

No.1427 7点 虚空の逆マトリクス- 森博嗣 2019/01/20 22:31
私は遅れてきた森作品の読者だが、逆に今だからこそ書かれている内容が理解できるものがある。そう、森作品に盛り込まれているIT技術は刊行当時最先端のものだからだ。

それが電脳世界を舞台にした1作目の「トロイの木馬」。
この作品は島田荘司氏が21世紀初頭に当時生え抜きのミステリ作家たち数名に新たな世界の本格ミステリ作品を著すとの呼びかけにて編まれたアンソロジー『21世紀本格』に収録された作品で、システムエンジニアを主人公とした物語だが、一読、これが2002年に書かれたものであることに驚愕を覚えた。
ここに書かれている在宅勤務による電脳世界―この用語ももはや死語と化しているが―を介しての仕事、ネットワークトラップである「トロイの木馬」のこと、更には小型端末と表現されたモバイル機器と16年後の今読んでも全く違和感を覚えない現代性がある。いやむしろ発表当時に読んでも全く何を書いているのか解らなかったのかもしれない。IT社会として情報化が進み、タブレットやスマートフォンが流布した現代だからこそ理解できる内容だ。

長編が非常にクールかつドライで一定の距離感を持った、理系人間が書く論文めいた作風であるのに対し、短編は幻想的かつ抒情的でセンチメンタリズムを感じさせる、文学趣味が横溢した作風と趣が異なっているのが特徴だ。
長編が左脳で書かれた作品とすれば短編は右脳で書かれた作品とでも云おうか。そしてどこか非常に森氏の日常や感情が短編には多く投影されているように思える。いわゆる森氏の人間的エキスが色濃く反映されているように思えるのだ。

またどこまで本気なのか解らないが内容にそぐわないタイトルである「ゲームの国」は『今夜はパラシュート博物館へ』にも同題の物があり、それは森作品のタイトルのアナグラムが横溢していた。
そして今回は回文。つまりタイトルのゲームの国とは恐らく言葉のゲームに親しむ作者自身の稚気を優先した作品世界そのものを指しているようだ。

そして何よりもボーナストラックとも云うべきはS&Mシリーズの「いつ入れ替わった?」だ。
本作では引っ付いては離れ、または平行線を辿るかと思えば、接近していくが寸前のところで決して接しない反比例の双曲線とX軸、Y軸のような2人の関係に進展が、それも大きな進展が見られる。
シリーズ本編の最終作で肩透かしを食らった感のある読者は本作を必ず読むことをお勧めする。

さて本書のベストを挙げるとすれば「赤いドレスのメアリィ」となるか。何とも云えない抒情性を私は森氏の短編に期待しているが、それに見事に応えてくれた作品である。
人を待つ。何ともシンプルな行為だが、これほど孤独を感じさせる行為もない。しかもその行為が長ければ長いほど人はその人の待ち人に対する思いの深さを思い知らされる。数多あるこの種の作品がいつも胸を打つのは待っている人の想いの深さが計り知れないがゆえに感銘を打つからだ。そして本作もまた同じだ。
やがて人に忘れられる町の片隅の神話。そんな物語だ。

恐らくはシリーズファンにしてみれば「いつ入れ替わった?」は渇望感を満たす1編になるだろうが、やはり私は西之園萌絵にそれほど好意的ではないのでベストとまでには至らない。

しかし全てを明かさないスタイルは本書も健在。
読者はただ単純に読んでいると本書に隠された謎や真意、真相が見えなくなっている。もしかしたら私がまだ気づいていない仕掛けがあるのかもしれない。作者のこの不親切さはある意味ミステリを読む姿勢が正される思いがして、うかうか気が抜けない。
読者もまた試されている。そういう意味では森氏の短編集は問題集のようなものになるかもしれない。

No.1426 7点 私が殺した少女- 原尞 2018/12/25 23:37
物語の流れは実に淀みがない。起こりうるべきことが起き、そして巻き込まれるべき人が巻き込まれ、そして沢崎もまた行くべきところを訪れ、全てが解決に向けて繋がっていく。
そしてじっくり練られた文章は更に洗練され、無駄がない。無駄がないというのは必要最小限のことだけを語った無味乾燥した文章ではなく、原氏が尊敬するチャンドラーを彷彿させるウィットに富んだ比喩が的確に状況を、登場する人物の為人を描写する。特に対比法、類語を重ねた描写がそれぞれの風景や人物像を畳み掛けるように読者に印象付けていく。真似して書きたくなる文章が本書にはたくさん盛り込まれている。

そして第1作からも徹底されていることだが、毎朝新聞や読捨新聞といったどこかで聞いたような名前の架空の新聞名、チェーン店名を使うのではなく、原氏は現実にある新聞社や雑誌名、店舗名を作中に織り込む。それがリアルを生む。
更に沢崎が読む新聞記事の内容に実際に起きた事件や出来事を織り込むことによって物語の時代が特定できるようになっている。作中では決してある特定の日付を挙げているわけもなく、調べればそれが出来ること、またそれが沢崎が我々の住まう現実にいるようにさせられるのだ。
例えば競馬のエピソードで一番人気のサッカーボーイが日本ダービーで15着に終わるという実に不本意な結果だったことから1988年5月29日前後の事件であることが解る、と云った具合だ。

また本書が作者自身が身を置く音楽業界が一枚噛んでおり、物語の至る所にそれらの情報や知識、はたまた音楽論などが散りばめられて興味深い。
ヴァイオリニストの少女に纏わるクラシック音楽界の話、音大を出て音楽の世界に進むそして作者自身が身を置くジャズの話。特に登場人物の1人でロック・ミュージシャンをやっている甲斐慶嗣の話は音楽業界に精通した原氏が知る人物の断片を垣間見るようだった。

かつて大沢在昌氏はある小説で「探偵は職業ではない。生き方だ」と述べたが、まさにそれは沢崎そのものを指しているようだ。そして彼は探偵という生き方しかできないから、他人の目を憚ることなく、自我を通し、そして畢竟、自分を嫌うしかないのだ。
他者におもねることなく、誰がなんと思おうが自分の信じる道を貫き、そして自分が知りたいことを得るためには周囲が傷つこうが構わない、そんなハードボイルドの主人公の姿にかつては憧れを抱いたものだが、私も歳を取ったのだろう、そんな生き方をする沢崎が何とも不器用だと感じざるを得なかった。
探偵とは他人が今を生きるために隠してきた過去や取り繕ってきた辛い現実を炙り出してまで真実を知ろうとする執念を貫く生き方だ。そしてその代償として自分の中の大切な何かを失う生き方だ。

これだけの物を著すのに数年かかるところを本書は第1作の翌年に出版されている。そしてその後短編集を出した後、6年ぶりに長編第3作を、そして9年ぶりに長編第4作、14年ぶりに第5作とそのスパンはどんどん長くなっている。
しかし私の読書もまた同じようなものだ。次の短編集『天使たちの探偵』を読むのは恐らく同様の歳月を経た後だろう。その時の私がどんな心持で探偵沢崎と向き合うのか。

私にとって探偵沢崎シリーズを読むことは沢崎と私自身の人生の蓄積をぶつけ合うようなものかもしれない。前作を読んだ時は沢崎は憧れだった。しかし今回読んだ時は沢崎は若気の至りをまだ感じさせる矜持を捨てきれない男だと感じた。

次に出逢った時、私は沢崎にどのような感慨を抱くだろうか。

沢崎は変わらない。ただ私が変わるのだ。私がどう変わったかを知るためにまた数年後読むことにしよう。

No.1425 7点 エラリー・クイーンの冒険- エラリイ・クイーン 2018/12/20 23:47
旧訳版では収録されていなかった「いかれたお茶会の冒険」と序文が収録された、完全版であると知ったため、改めて入手して読むことにした。
従ってそれ以外の短編については感想は書かず、ここでは未読作品である「いかれたお茶会の冒険」とその他旧訳版との相違や当初気付かなかったことについて述べていきたい。

さてその「いかれたお茶会の冒険」はエラリーが友人のリチャード・オウェン邸に招かれたところから始まる。
邸の主人の失踪事件が本書のメインだが、正直この事件の犯人は読者の半分は推測できるに違いない。そしてその動機も読んでいると自ずと解る、非常に安直なものだ。
しかしそこから死体の隠蔽方法、更にエラリーの犯人の炙り出しが面白い。
そして犯人は早々に解っているものの、それを特定する証拠、そして死体の隠し場所が解らないエラリーは奇妙な贈り物を贈って周囲の動揺を誘い、大鏡の裏の隠しスペースをそれら贈り物から暗示させ、死体を見せることで犯人の自白を強要するのだった。
この贈り物に隠されたメッセージが『鏡の国のアリス』に出てくる歌の一節でこれが大鏡の裏に隠しスペースがあることを示唆している。即ちアリス尽くしのガジェットに満ちた作品なのだ。
そしてエラリーが企図した奇妙な贈り物を贈って不安感を煽る趣向は成功している。なぜなら読んでいる最中に私もこれら奇妙な贈り物の真意が解らず、何者がどのような真意で行っているのか解らず不安に駆られたからだ。
派手さはないがクイーンの見立て趣味とまた犯人を特定するためには罠をも仕掛ける悪魔的趣向などが盛り込まれた作品でエラリーがロジックのみでなく、トリックも施すことを示した作品だ。

今回この「いかれたお茶会の冒険」以外は再読だったが、改めて読むとクイーン作品のリアリティの無さに再度苦笑せざるを得なかったと云うのが正直な感想だ。

さて冒頭にも述べた旧版との比較をここからしてみよう。

まず「アフリカ旅商人の冒険」ではエラリーを大学に招いた教授の名前が旧訳版ではアイクソープ教授となっているのに対し、本書ではイックソープ教授と表記が改められている。 “イッキィ―退屈でつまらないと云った意味”、“イック―いやな奴という意味がある―”といった洒落が出ていることから恐らくはこちらが正しいのだろう。

また旧版とはタイトルが若干変えられているのもあり、冒頭に挙げた未収録作品だった「いかれたお茶会の冒険」は当時は「キ印ぞろいのお茶の会の冒険」となっている。このキ印という言葉、2018年の今ならばほとんど死語だろう。「きちがい」の隠語として使われていたが、今となってはそんなことを知る人も少なくなり、また「きちがい」もまた差別用語となっているから、変えざるを得なかったのだろう。

また「三人の足の悪い男の冒険」も旧版では「三人のびっこの男の冒険」だったが、これも同様に「びっこ」が差別用語に指定されていることによる改題だろう。

しかしようやく完全版の刊行となったことは喜ばしい。旧訳版を読んでから9年経っていた。
信ずればその願いは通ず。9年は長かったとは思わない。いつまでも待つぞ、こんな風に望みが叶うなら。

No.1424 7点 ミルクマン- スティーヴン・キング 2018/12/09 23:42
キング三分冊の短編集の最後である本書はヴァラエティ豊かな作品集となった。
得体のしれない男ミルクマンの話2編にファンタジックかつロマンティックな男女の話を描いたもの、そして謎めいた怪物が湖に巣食う話、次々と人を殺しながら目的地に向かう男女2人の物語、漂着した惑星の生きた砂の話に凄まじく狂った漂流者のサヴァイヴァル小説、苦手なおばあちゃんと留守番する話、そして人生の終焉を迎える話。
不条理な話から定番の未知なる生物、暴力衝動、殺人衝動に駆られる人、極限状態に置かれた人間、一人で病人と共に留守番しなければならない子供、一度も島から出たことのない老婆、いずれもモチーフは異なりながら、そのどれもがキングらしい作品ばかりだ。

本書では「トッド夫人の近道」と「おばあちゃん」、そして「入り江」をベストに挙げる。
「トッド夫人の近道」はワンダーを描きながらこれほどまでに清々しい思いをさせられる、キングならではの唯一無二の傑作。
「おばあちゃん」は少年が幼い頃に怖くて仕方がなかったおばあちゃんと一緒に留守番をしなければならないという、誰もが経験ありそうな実に身近な嫌悪感やちょっとした恐怖―怯えという方が正確か―を扱いながら、最後は予想もしない展開を見せる技巧の冴えに感服させられた。
短編集の最後を飾る作品でもある「入り江」は死出の旅立ちの物語だ。島で生れ、島で育ち、一度も本土に渡ったことのない老婆が初めて本土に渡る時は死を覚悟した時だ。
ある死者は云う。生きていることの方が苦しいんじゃないか、と。私は最近こう思う。もし癌や重篤な病に侵され、生命維持装置や植物人間状態になった時、それで生かされていることはもはや人生なのかと。人生の潮時を見極め、そして自ら選択する、そんな風に自分の人生は始末を付けたいものだ。
しっとりとした読後感が心地よい余韻を残す。この作品が最後で良かったと思わせる好編だ。

短編ではかつてワンアイデアで自身が抱いていた原初的な恐怖を直截に描いているのが特徴的と思われたが、『恐怖の四季』シリーズを経た本書ではワンアイデアの中に色んな隠し味を仕込んで重層的な味わいが残るような感じがする。「トッド夫人の近道」なんかはその好例で作者が意図しているにせよしてないにせよ私の中で想像力が広がり、余韻が増した。もしかしたら他の短編もまだ消化不十分で後日ふと隠し味が蘇ってくるかもしれない。

しかし彼の頭の中にはどのくらいのキャラクターがいて、そしてどのくらいの人生が詰まっているのだろうといつも思わされる。彼の頭にはヴァーチャル空間のセカンドライフが接続されている、そんなように思わされた。

No.1423 8点 死角 オーバールック- マイクル・コナリー 2018/12/02 21:55
エコー・パーク事件で再会したFBI捜査官レイチェル・ウォリングが再び関わってくる。前作の事件から6カ月経っており、その時は元心理分析官の技量を買われ、プロファイリング方面での活躍だったが、今回は現在所属している戦術諜報課の一員としてボッシュと医学物理士殺しの事件の捜査を共同で行う。
そしてFBIと共同で捜査する事件はなんとテロ事件。医療に使われている放射性物質セシウムを強奪した犯人を追うノンストップ・サスペンスだ。

しかも犯人は中東訛りを持つ複数の人物とされており、まさにこれは9.11のニューヨークの悲劇をテーマにした作品と云えるだろう。但し舞台はニューヨークではなく、ロスアンジェルス。つまりイスラム系過激派によるテロがロスアンジェルスで行われようとしているという設定だ。

つまりここで描かれているのは9.11後のアメリカの姿だ。滑稽なまでにテロに関して、特に中東アラブ系のアメリカ人に対して過敏になり、真偽不明の噂やタレコミを信じて警察はじめ政府の組織が総動員される。まさに大山鳴動して鼠一匹の感がある。9.11の6年後だからこそ当時混迷していたアメリカの姿を描くことが出来たのかもしれない。

更に驚かされるのが、ロスアンジェルスを襲うであろう未曽有のテロ事件というサスペンスだと思われた本書が実は真っ当な本格ミステリだったことに気付かされるのだ。上記に示した全てがミスリードだったことが判明する。

9.11に関与したアラブ系、イスラム系外国人への失礼なまでの注意深い眼差し、放射性物質や液体爆弾などのテロの材料となりうるものに神経を尖らせていたそれらアメリカの機関の対応と当時のアメリカの世相を嘲笑うかのような真相は繰り返しになるが9.11が起きた2001年から6年経ったからこそ書ける内容なのだろう。そしてまたもや捜査する側が犯人だったというコナリーの痛烈な皮肉。
色々含めて、いやあ、ある意味ブラックすぎるわ。

そんなことを考えると原題の意味するところが非常に深く滲み入ってくる。“The Overlook”は名詞では「高台」を示しており、即ち事件現場となったマルホランド展望台を指すが、動詞では「見晴らす」、「見落とす」、「見て見ぬふりをする」、「監視する」といった正の意味と負の意味を含んだ複雑な意味合いの単語となる。邦題では「見落とす」の意味合いを重視し「死角」としているが、本書はその他どれもが当て嵌まる内容なのだ。

しかし本書でなんとボッシュがレイチェル・ウォリングとタッグを組むのは3回目だ。もはやエレノア・ウィッシュを凌ぐコンビになりつつある。
そして彼ら2人は会うたびにお互い似たような匂いと雰囲気を持っていることに気付かされ、心の奥底では魅かれ合っているのに、あまりに似ているがために一緒になれず、いつも苦い思いを抱いて袂を分かつ。それは自分の中の嫌な部分を相手に見出すからだ。
お互い危険な状況に身を置く職業であり、レイチェルは常に心配をさせられるのが嫌だとかつては云っていたが、本当の理由はレイチェルはボッシュに、ボッシュはレイチェルに見たくない自分を見るからではないだろうか?

敵対する組織にお互い身を置きながら魅かれある男女。つまりコナリーはボッシュシリーズを一種の『ロミオとジュリエット』に見立てているのだ。障害があるからこそ男女の恋は一層燃え立つ。コナリーはそれを現代アメリカの犬猿の仲である警察とFBIを使って描いている。

今までのシリーズの中でも最短である事件発覚後12時間で解決した本書はしかし上に書いたようにミステリとしての旨味、登場人物たちの魅力、テロに過剰反応するアメリカの風潮などがぎっしり凝縮されており、コナリーの作家としての技巧の冴えを十分堪能できる。特にレイチェルはコナリーにとってもお気に入りのようで、ボッシュとの縁は当分切れそうにない。

また訳者あとがきによればコナリーは短編も素晴らしいとのこと。
長編も素晴らしく、短編もまたとなれば、まさに死角なしの作家である。現在までコナリーの短編集は刊行されていない。どこかの出版社―もう講談社しかないのだが―でいつか近いうちにコナリーの短編集が刊行されることを強く望みたい。

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