皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
していません。ご注意を!
[ 本格 ] 矢の家 アノー |
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A・E・W・メイスン | 出版月: 1953年09月 | 平均: 5.10点 | 書評数: 10件 |
早川書房 1953年09月 |
東京創元社 1956年01月 |
東京創元社 1959年05月 |
1959年05月 |
東京創元社 1960年01月 |
新潮社 1961年01月 |
東都書房 1962年01月 |
角川書店 1965年01月 |
東京創元社 2017年11月 |
No.10 | 5点 | ボナンザ | 2020/06/14 10:37 |
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古典ではあるが今読むと流石に古臭いか。キャラクターは作りこまれていて物語としては面白いと思う。 |
No.9 | 5点 | E-BANKER | 2018/10/27 11:48 |
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本業がミステリー作家とは言えない(らしい)メースン。
でも本作はいわゆる黄金期への橋渡しとして重要な作品であるという。いずれにしても必読ということなのだろうか? 1924年の発表。原題は“The House of the Arrow”(そのまんま) ~ハーロウ夫人の死は、養女ベティによる毒殺である・・・。夫人の義弟による警察への告発を受け、ロンドンからは法律事務所の若き弁護士が、パリからは名探偵アノーが、「事件」の起きたディジョンの地へ赴く。ベティとその友人アン。ふたりの可憐な女性が住む“矢の家”グルネル荘で繰り広げられる名探偵と真犯人の見えざる闘い。メースンの代表作~ うーん。 他の方も何だか煮え切らない書評を書かれているが、それも何となく分かる感じだ。 何だかモヤモヤしてるのだ。 何がモヤモヤしてるのか?と問われると答えにくいのだが、読み進めていて、ここがポイントだなという箇所がよく分からなかったと言えばいいのか・・・ フーダニットは他の方もご指摘のとおり、特に古典作品では「よくある手」なのだと思う。 いにしえの読者なら、「まさか!」と思ったのかもしれないが、昨今の読者にとっては何でもなく映ってしまう。 (もう少しダミーの容疑者を増やしてもいいのにな・・・) でも、時代性を考えればよくできてる。 後出し部分もなくはないけど、出来るだけフェアに手掛かりを示しておこうという意思は感じる。 最後のノートルダム寺院のくだりも作者の作家としてのセンスを感じる。(物語のオチとして) でも高い評価はやっぱり無理かなー 次世代に繋がる要素はいろいろと考え出したけど、それをうまい具合にまとめるまでは至らなかった、 そんな感じか。 そういう意味では、まさに“橋渡し”という言葉がピッタリ当て嵌る。 |
No.8 | 3点 | 虫暮部 | 2017/12/28 16:38 |
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私は、作品が書かれた時期その他を考慮した読み方は出来ない。で、これはどこを楽しめば良いのか判らなかったなぁ。紹介文で謳われる“名探偵と真犯人との見えざる闘い”は本当に全然見えない。事件の真相もがっかり。
文章についてだが、ジム・フロビッシャーを視点人物に据えた三人称を基本にしつつ、ところどころ他の人物の心理にも(軽く)分け入った記述が混ざっていて、反則とは言えないまでも違和感を覚えた。 |
No.7 | 6点 | クリスティ再読 | 2017/01/04 16:01 |
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ちょっと古典を。思うのだが、一口に黄金期と言っても、20年代のミステリと30年代に入ってからとはフェアプレイの意識が随分違うように感じるのだ。クリスティでも「スタイルズ荘」とか「ゴルフ場」は読者が論理的に推理して真相を探偵に先んじて...というようなものではないし、ヴァン・ダインでもポーカーで犯人を指摘するとか趣向としては分かるけど、読者と探偵役の「機会の平等」に対する配慮みたいなものが、概して20年代は欠けているようには感じるんだね。
で、本作はそういう20年代標準のミステリ。探偵役のアノーが実に油断ならない。「心理的闘争が」どうのこうのと云われる作品なんだけど、アノーがいろいろと逆トリック的にひっかけてくるあたりがポイント。油断も隙もあったもんじゃない。評者的にはアノーに好感を持つとかちょっと無理だなあ(よく比較されるが、ポアロだと何と可愛げがあることよ)。コロンボから人の良さそうな感じを抜いたような、極めて演技的・俳優的(悪い意味での)なキャラである。なので読んでいてアノーに鼻面をつかまれて引き回されたような印象を受ける。 ミステリとしては、皆さんおっしゃる通り、犯人当ての興味とかほぼ、なし。誰が見ても犯人こいつだろ、という感じ。しかも集団犯罪でもあるから、マジメに犯人当てとかしようとすると空しい。とはいえルパン物風の冒険的な要素とか、ロマンチックなハラハラ感とかはちゃんとあって、時代差を割り引いて読めば、一応ページターナーの資格はある。 |
No.6 | 5点 | nukkam | 2016/09/16 23:54 |
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(ネタバレなしです) 「薔薇荘にて」(1910年)から実に14年を経て1924年に発表されたアノーシリーズ第2作の本格派推理小説です。謎解きの水準は大きく進化していて読者に対して手掛かりをフェアに提示することをかなり意識しています。ただし登場人物の描き方のバラツキがひどくて犯人はこの人しかありえないだろうと容易に見当がつきやすいのは大きな欠点でしょう。まあ冒険小説や歴史小説の分野で名高いメイスンをアガサ・クリスティーのようなミステリー専門作家と比較してはちょっと不公平かもしれませんけど。 |
No.5 | 6点 | 斎藤警部 | 2015/10/14 14:29 |
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若い時節に読むには古式ゆかしい地味な物語でしたが、ゆったりと豊かな愉しい時間を過ごしたものです。
いま思えば「明るいグリーン家」「健康的なハッター家」といった趣き(ゎらぃ)。とは言え殺人は起きる。 折りを見て再読したい一作です。 |
No.4 | 5点 | 蟷螂の斧 | 2015/05/31 11:21 |
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裏表紙より~『ジャンヌ=マリー・ハーロウ夫人がなくなって、その遺産は養女のベティに残されることになった。ところが、夫人の義弟ワベルスキーなる怪人物が登場して、恐喝に失敗するや、ベティが夫人を毒殺したのだと警察へ告発した。孤立無援の少女ベティはハーロウ家の顧問弁護士に救いを求め、いっぽう、パリ警視庁からはアノー探偵が現地に急行する。執拗な悪念をいだく犯人と、これに対する探偵の火花を散らす心理闘争は本書の圧巻で、犯罪心理小説の変型としても、サスペンスの横溢している点では類例のすくない傑作!』
本作(1924)は「グリーン家殺人事件(1928)」の先駆け的な作品であるとのことで手にしたものです。あるプロットやディテールで共通項は7~8点ありますね。そのうちの特徴的な3点が「Yの悲劇(1933)」へと引き継がれていました。もっとも3作品とも受ける印象は全く違っています。なお、ヴァン・ダイン氏は本書をベスト7に選びリスペクトしていますので、影響を受けていたことが覗えますね。内容的には、本来フーダニットであるはずですが、裏表紙の「犯人」と探偵の心理戦とあるように、どちらかといえば倒叙的な面が強い。つまり、犯人がバレバレ?(まあ2人のうちどちらかですから~苦笑)。 本作にはその後の「十戒」や「二十則」(1928)で指摘されているような項目が3点ほどありますので、現在視点で読むのは相応しくなく、黄金時代の過渡的な作品として捉えた方が良いのかも。 |
No.3 | 7点 | mini | 2014/06/03 10:01 |
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先日に論創社からキャロリン・キーン「歌うナイチンゲールの秘密 ナンシー・ドルーの事件簿」とA・E・W・メイスン「被告側の証人」が同時刊行された、当サイトの登録ではナンシー・ドルーの方は無視されてましたけど(苦笑)
メイスンのはアノー探偵が登場しないノンシリーズ作である その作家の中で一番有名な作品が黄金時代の作なので黄金時代作家と誤解されやすい作家が数人居る 例えばフィルポッツなどは極端な例で、「赤毛のレドメイン家」が1922年なのでよく黄金時代本格派作家の1人みたいに分類されがちだが、フィルポッツはホームズ古典時代から戦後の50年代まで著作が有る息の長い作家である A・E・W・メイスンも1900年以前から書き始めており、アノー探偵が初登場する「薔薇荘にて」は1910年の作だ、今回論創社から出た非シリーズ作は1913年の作である ところが代表作「矢の家」が1924年なのでどうも黄金時代本格派作家に分類されがちだが、どちらかと言えば古典時代と黄金時代との間を埋める1910年代の過渡期作家の側面が強い つまりE・C・ベントリーあたりと近い位置付けの作家じゃないかなぁ、「トレント最後の事件」は「薔薇荘にて」の3年後の作だ そもそもA・E・W・メイスンという作家自体ミステリー専門作家ではなく、ジャンルは多岐に渡る一般大衆文学作家として当時人気の流行作家だった、何でも書ける職人だからミステリーも書いちゃいました、って感じの作家である メイスンはイケメンだったのか?作家に転身する以前は俳優を目指していたが、俳優では芽が出ず仕方なしに作家業始めましたみたいな人で、演劇に未練が有ったのか戯曲も書いている 今回論創社から出た「被告側の証人」も実はメイスンの戯曲分野の最高傑作と言われる作のノベライゼーションだ したがってメイスンを黄金時代の本格派作家達と同列に比較して論じるのは適切では無い様に思う、秘密の通路も事件の中で重要な要素を占めてはいるが存在自体は中盤で明かされているし、密室トリックの解法が秘密通路だったとか通路の発見で全ての謎は解けたとか、そういう風な使われ方をされているわけじゃないしねえ 代表作「矢の家」は「薔薇荘にて」に続くアノー探偵登場2作目で、全体ではノンシリーズの方が多いが「矢の家」以降もアノー探偵登場作は数作書かれている ヴァン・ダインはそのミステリー評論内で、自身の探偵役ヴァンスとアノーを心理的探偵法としての共通点を指摘しているが、それほど似ているとは思わない、むしろ「僧正殺人事件」と並んで、後の犯罪心理小説への影響の方を感じた また本格派としては事件が起きての事後処理的な探偵の捜査ではなくて、探偵側の捜査と犯人側の対応が同時進行しているというパターンを意図的に使ったという構成に意義を感じた やはり名作としてミステリー史に残っているのは妥当だ、ただ初心者が読むと誤解し易い作なので、ミステリー読者として中級以上向けだと思う |
No.2 | 6点 | 空 | 2013/10/04 23:25 |
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フーダニット系であるにもかかわらず、犯人の意外性がほとんどないという不満もあるようですが、個人的にはこの犯人の人物設定と最初のミスディレクションは悪くないと思います。またメイントリックは、犯人にとって都合の良い偶然による証言で、これもからくりはすぐ見当がつくでしょうが、解決部分を読むと、その証言部分での犯人の行動など、うまく考えられています。まあ毒殺事件前からの匿名の手紙にも関わる真相は、もっと単純化できなかったのかとは思いましたが。
それにしても、アノー探偵は今回もファースト・ネームやパリ警視庁での役職を明かしていないんですね。「このアノーが間違うわけがない」といったような自信満々のセリフは、ポアロにも通じるものがありますが、それをクリスティーのようなユーモアでくるんでいないので、いやみな感じがするのが欠点と言えるでしょうか。 |
No.1 | 3点 | Tetchy | 2008/06/10 21:06 |
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アノー探偵が無個性で、あまり印象に残らなかった。
あと、隠し通路は真剣に謎を考えていた当方にとっては、「ズルい!」と思ってしまい、そこで興味を失ってしまった。 |