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[ 冒険/スリラー/スパイ小説 ]
恐怖省
グレアム・グリーン 出版月: 1959年01月 平均: 6.00点 書評数: 2件

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早川書房
1959年01月

早川書房
1980年08月

No.2 6点 クリスティ再読 2022/05/25 17:39
グリーンのエンターテイメントって何冊あるんだっけ。本作は枠組みは完璧に「巻き込まれ型スパイ」で、慈善市の占い小屋で偶然合い言葉を口にしたばっかりに、盗撮された極秘フィルム入りのケーキをゲットしてしまった男の話....だったら、それこそヒッチコックにありそうだ(まあ、映画はフリッツ・ラングだけどもね)

でもね、たとえば Wikipedia なんかで映画のあらすじを確認すると、一体同じ作品なんだろうか?なんて思う。主人公は重病の妻の苦しみに耐えられずにそれを毒殺したことで逮捕され、裁判の結果精神病院に入れられて出てきた男で、心理の描写がかなり不安定。さらに中盤に記憶喪失になることもあって、「信頼できない語り手」風のところがある。だから、小説は読んでいて主人公の曖昧な主観の中をさまよい歩くような印象がある。

まあ、エスピオナージュ、ってもの自体が、かなり妄想がかったニュアンスを捨てきれないものでもあるわけでもある。小説としては脈絡のないエピソードも入っていたりして、デテールの妙に神経にサワる描写が目立つから、エンタメらしい明快さがないことでは、「密使」やら「拳銃売ります」以上に、ブンガク寄りともいえるだろう。
それでも、空襲下のロンドン、というこれ以上もないくらいに死と隣り合わせの「悲惨なリアル」の舞台なのである。「そう言うと、スリラーみたいでしょ? ところが、スリラーの方が現実に近いんです。」グリーンがスパイ小説に手を染めた理由は、エンタメであるスパイ小説の非情さというものが、すでに現実の非情さに追い越されているというシビアで絶望的な認識にあるのだ。スパイ小説はだから、あくまでも「現実の非情」の後追いに過ぎないことを苦々しく認めざるを得ない。だからこそ、フィクションという形式が、どうやったら「現実の非情」の中に人間性を見出すことができるのか?

そういう問題設定からは、フィクションであることも、リアルであることも双方があらかじめ禁じられた「語り口」を見出さなくてはならないのだろう。前科からエアポケットに落ち込んだように「現実から(そして物語から)疎外されている」主人公の姿、戦争からも疎外された主人公が妄想的なスパイの悪夢をさまよったあげく、終盤に「愛ゆえに」自らエスピオナージュであることを選択するような、そういうヒネクレた小説になっているのだと思う。

最終的には主人公は自ら「恐怖省」に身を投じたようなものであろう。「愛を知るものは恐怖を知る」。グリーンは、愛と恐怖は一体のものだと宣言するのである。

(でもね、「恐怖省」=「愛情省」って1984年だと....オーウェル、ひょっとして?)

No.1 6点 人並由真 2017/03/23 13:31
(ネタバレなし)
 第二次大戦中、空爆下のロンドン。かつて難病の愛妻アリスをその病苦から解放するため、毒薬で<慈悲の殺人>を行った中年アーサー・ロウ。彼は情状を斟酌されて精神病院内で監察を受けていたが、現在は自由の身になり、町の片隅でひっそり暮らしていた。以前は辣腕ジャーナリストで資産にも多少の余裕があるロウは慈善市に赴き、戦時下では貴重な手作りのケーキを買う。そして自宅のアパートに持ち帰って大家のミセス・パーヴィスとともにそれを食べた直後、一人の男が現れ、そのケーキは間違って売ったものなので返してほしいと強行に訴えた。ロウは不審を抱くが、その時、爆撃でアパートは半壊し、訪問者の男は爆死した。ケーキにどのような秘密が潜んでいたのか。関心を覚えたロウは老舗の探偵社オーソテックス社に赴き、さらに自ら、かの慈善市に関連の慈善団体「自由諸国の母 後援会」にも足を運ぶが……。

 1943年の戦時下に刊行されたスパイ・スリラー。1980年の「グレアム・グリーン全集」版で読了(1959年の「グレアム・グリーン選集」版と同じ翻訳者ながら、訳文が推敲されている)。

 筆者的には以前に『拳銃売ります』を読んで以来、本当に久々のグレアム・グリーンである。『拳銃』の(もはや細部は忘れながらも)全編の詩情に満ちた雰囲気をうっすらと覚えているので、あの感覚にまた触れたいという思いで読み始めた。
 とはいえ実際に読み始めてみるとさすがに文芸性の高い内容で(グリーン自身は、本書をあくまでエンターテインメントとして著したようだが)、まず主人公アーサー・ロウの際立った設定とその内面描写の機微が相当の歯応え。

 <妻の苦しみを救うためその手を罪に染める>というある意味で最大のヒューマニズム行為(それは「毒殺」という法律上、もちろん許されない形だったのだが)を行い、ごく一部の世間からは同情と憐憫を受けながらも、それでも結局は「妻殺し」「精神病院帰り」というレッテルのもとに社会の枠組みから排斥されているロウ(彼は戦時下のロンドンの中で積極的にボランティア活動にも参加しようとするが、前述の事由から何度もやんわりとお断りを食らう)。
 この物語は巻き込まれ型スパイスリラーの大枠に分類される内容だが、一方で、そんな孤独なヒューマニストが謀略の中に(その概要も見定まらぬまま)あえて飛び込むことで自分の居場所を探そうとする、切なげな人間ドラマとしても読むことができる。
 まあ刊行時のリアルタイムの現実の敵であるナチス・ドイツへの協力者とそれに関連した事物に迫っていく内容そのものは、さすがに今となっては大時代な面もあるが、全四部に分かれた小説の構成は相応の起伏に富み(ソコはむしろ芝居がかっている印象もあるほど)、21世紀の今日でも普通に愉しめる。
 物語の流れや人間関係の変遷でそれなりに舌ッ足らずとも思える部分も多いが、そこらは読み手が想像で補うことで喰いつける。これはある程度はそういうことを要求する作品でもある。

 ちなみに本書の副読本として新潮選書のアンソニー・マスターズ「スパイだったスパイ小説家たち」、そのグレアム・グリーンの章を読むと、この作品は第二次大戦時、MI6に在籍していた当時の作者が赴任先の西アフリカで執筆。しかもその頃のグリーンは、のちに英国史に残る大物二重スパイ=かのキム・フィルビー(ル・カレの「スマイリー三部作」事件のキーパーソンのモデルであり、フォーサイスの『第四の核』にも実名で登場する謀略の仕掛け人)と懇意で、実際に彼の指示で動いてたというから色々スゴイ。英国スパイ小説史の裏側はフィクションと同様かそれ以上にドラマチックである。

 最後に題名の「恐怖省」とは、国家への無心な隷属か、あるいは反逆者としての破滅かの二択を迫る国家の行政上の観念のこと。作中では中盤の展開でロウが出会った青年ジョンズの口から、ドイツ人(ナチス)国家の暗部の意味合いでこの言葉が使われる。ただしグリーンの公正で理知的なところは、恐怖省はドイツばっかりじゃないだろ、と最後の最後にロウに実感させていること。
 そう、先述の「スパイだったスパイ小説家たち」を読むと、グリーン自身もMI6時代に、人間としてイヤなことを相当にさせられているのが分かるのである。   


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