クリスティ再読さんの登録情報 | |
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平均点:6.40点 | 書評数:1334件 |
No.1294 | 6点 | メグレと老外交官の死 ジョルジュ・シムノン |
(2024/09/23 15:45登録) う~ん、評者は結構この作品好きだなあ。 シムノンにはありがちだが「ミステリとしてはどうよ?」な面があるんだけども、舞台設定の妙もあってそれが「人生こんなこともあるんだよね」といった方向に印象が流れる結果になっているようにも思う。ミステリとしては?でも小説としてはギリギリ成立するあたりに、評者は面白味を感じてしまう。 でもさ、この面白味というのも、両親の老いを見て悲しみ、介護とか頭に入れつつも、自分の老いも感じてしまうようなあたりに醸されるようなものだから、若い人にはピンとこない話だと思う。原題だって「メグレと老人たち」だよ。そんなもんさ。 でこの舞台設定の妙、というのが、メグレ物にしては珍しい上流階級が舞台。中の上~上の下あたりに成りあがった下層出身者が疎外感を抱く話はシムノンの定番だけど、この事件の被害者は外交官を引退した老伯爵、そしてその人生を賭けた思い人は公爵夫人。政略結婚で結ばれた夫の公爵が事故死し、ようやく結ばれることも可能になった?その夜に老伯爵は4発の銃弾に見舞われて死んでいるのが見つかる...この老伯爵と公爵夫人の恋がホントにプラトニックなもので、公爵に義理を立てて間接的にしか関係を持たない(でも毎日お手紙!)というもので「十八世紀から抜け出してきたか?」とメグレがボヤくようなもの。でも生まれつきの貴族の話だから....でメグレも納得。それには出身の村でのサン・フィアクル伯爵夫人のイメージとか、メグレ自身が抱えるコンプレックスにも理由があることに気がついて、メグレも苦笑い。 上流相手だと勝手が掴めないのはたとえば「かわいい伯爵夫人」もそうだけど、ムリしないのが「メグレ流」でもあり、メグレというキャラに品位が感じられるあたり。 (まあだからメグレ物を系統的に読むつもりがあるならば、少年時代のメグレに言及がある「サン・フィアクルの殺人」は早めに読むべきだと思うよ) |
No.1293 | 5点 | 卒業−雪月花殺人ゲーム 東野圭吾 |
(2024/09/22 18:30登録) さて評者「茶道ミステリ」第二弾。 評者のお茶の先生って花月が大好きなんだよね。2月に一回くらいはしている気がする..「花月百ぺんおぼろ月(百回やっても悩む...)」と言われるくらいにややこしいものだ。回数目、座る位置、当たった役で「すること」のバリエーションがあり過ぎるし、その上に他の方の迷惑にならないように手際よく、さらには動きが揃うと褒められるポイントとかある。茶道でもスポーツっぽいところがある「鍛錬」。 その花月の上位互換のややこしい雪月花式だから「学生が、よくやるよ~~」というのが正直な感想(苦笑)。で、花月は5人でやるものだから、本作のトリックのキモの部分が現象しない。というか、6人でやるからトリックが実現したんじゃないのかな。加賀がもし間に合っていたら、殺人が起きなかったかもよ。 いや別な「結託」を想定して評者別な人が犯人じゃないかと推理してた(苦笑)あと「密室」の話は、話を密室に持っていきたい、という作者の作為が見えすぎて、苦笑するところもあったな。密室のトリックはつまらない。これは「SFは腐る」と言われたのと同じ陳腐化だと思う。 考えてみれば本作の学生さんたちって評者と同じ卒業年度になりそうだ。とはいえ、地方都市で高校からの持ち上がりで大学でも仲良しグループ、しかもサークルは別、という人間関係が評者はあまりピンとこない...というか、大学生というよりも高校生っぽいイメージ。ヘンに明るいナンパ系サークル的な「リア充」っぽさが、そんな印象なのかな。青春ミステリだけども、小峰元の高校生が老成しすぎなのと比較しちゃいけないが、幼いイメージもあるよ...そうか、そういうあたりが「茶道」と少しミスマッチ感なのかなぁ。 評者的には「昭和の学生生活、懐かし~~」とはならなかった。すまぬ。 |
No.1292 | 4点 | 京都茶道家元殺人事件 山村美紗 |
(2024/09/17 16:35登録) 最近評者、茶道を習いだしている。もう一年半くらいだから、そろそろ面白さを楽しめ始めているあたりかな。だから「茶道ミステリ」って興味がある。もちろん評者最高の茶道ミステリは、塚本邦雄の「十二神将変」だけど、実は習いたくなったのも「十二神将変」の影響が大きかったりする(苦笑) 日本伝統文化をネタにしたミステリを量産したことで有名なのは山村美紗だ。本人も師範の免状を持っているそうで、茶事のデテール描写におかしい個所は特にない。けど事件の背景に京都の茶道の家元の継承問題がある、という話に過ぎない。プロローグ的に清水の焼物市での毒殺があったあと、茶事の濃茶席での毒殺事件、そして琵琶湖畔に立つ別荘での密室殺人(とそのアリバイ)。トリックはあるが、既視感が強い。茶道の歴史とか精神性とかとくに小説では扱われず、俗っぽい人間関係の中での殺人である。軽い文体で読みやすいがただただプロットを追っていくだけ。 まあそろそろ流派の現実、というものも評者も見えてきているところでもあるさ。それでもいろいろな面白さというのは感じるよ。 で、茶道ミステリとしては濃茶回し飲みがある中での毒殺が趣向としては面白い。評者の妄想ネタとしては、茶碗の正面をわざと外して主人が渡し、それが分からない客は毒をスルーして、正面に神経質な被害者がわざと正面を正して毒を口にする、ってどうだろうか(苦笑)専門性が強いから、パズラーだと難しいかな。 |
No.1291 | 6点 | やとわれた男 ドナルド・E・ウェストレイク |
(2024/09/16 23:29登録) 「ハメットの再来」とデビュー当時評された処女長編。 主人公はシンジケートのボス、ガレノーゼの「右腕」、組織No.2として汚れ仕事も引き受けるクレイ。復員後の大学生時代に酔って車を盗んで事故って女を殺した現場を、ガレノーゼに救ってもらった恩義から、ガレノーゼの下で働くようになり出世している過去があった...このクレイが巻き込まれた「トラブル」を解決すべく、ガレノーゼの意向からクレイに探偵役のお鉢が回ってきた。 こんな話。名前からしてガレノーゼはイタリア系でマフィアのわけで、クレイはそうではない。「ゴッドファーザー」のコンシリオーリ、トム・ヘイゲンを想わすプロフィールである。ロバート・デュバル演ずるヘイゲンのように、クレイは自らを「機械」と律して、組織のために感情を消して行動する男である。 うん、話はわかる。けどさ、これって「ハードボイルド」ではないと思うんだ。「煮え切った」魂ではあるが、これほどの割り切り過ぎの人物を一人称で主人公に据えると、「不透明な現実を客観描写のみで、読者の読み込みを誘う」というハードボイルド「らしさ」が消えてしまうんだよね...つるつると動く機械を見ているようなものである。 まあもちろん、主人公が同棲中の恋人エラとの関係に悩むあたりは、いつでも自由に「感情を消すことができる」と自己弁護するわけだけども、それはムシがいい。このクレイのプライベートと事件とのオーバーラップぶりが小説の狙いみたいなものになるのは、なかなかの才筆だとは思うよ。で、ギャング組織の中での犯人捜し、というかなりの変化球設定を処女長編でやってのけるのは、さすがこの作家ののちの大成っぷりをうかがわせるものがある。 よくできてはいるけど、個人的には失敗作だと思うよ。たぶん本人もこれは思っていて、無印「刑事くずれ」が本作のリライトだと思う。 (あとラストシーンにちょいとした仕掛けがある...逆に言うと「うますぎる」のが逆に「難」じゃないのかな) |
No.1290 | 4点 | 窓 マリオ・ソルダアティ |
(2024/09/15 11:03登録) 「牝狼」のやりついで。 「牝狼」自体、訳者は岡田真吉である。ミステリの翻訳もしていたが、キネ旬のコアメンバーで映画評論家として活躍した人である。というわけで、短い「牝狼」の穴埋めとして起用された「窓」も訳者は映画評論家の飯島正。作者は50年代にソフィア・ローレンが主演した「河の女」と「OKネロ」が紹介されたイタリアの映画監督である。戦前の「新青年」から翻訳ミステリ業界は洋画との結びつきが強いというのはいうまでもないのだが、こういう人脈からの紹介作品ということになる。 戦争が終わり20年ぶりにロンドンを再訪した「私」は女友達の未亡人トウィンクルと再会する。二人して訪れた画廊で発見した絵に二人は衝撃を受ける。かつて二人の前から蒸発した画家のもの、さらにはこの二人の前からまさに蒸発した忘れ得ない光景が描かれた絵だったのである。この絵の売主のもとを二人は訪れるが、女売主とその同居人女性は言を左右にして、画家の情報を明かそうとはしない...過去に一体なにがあったのだろうか? こんな話。ポケミス風の判型で90ページほどだから、短め長編にも少し不足気味のボリューム。手法的にはミステリだけど、内容的には私とトウィンクルと画家の微妙な男女関係と、過去の人間関係を「老い」の視点から見つめ直すといったことが主眼。まあミステリ、とは呼び難い。問題の失踪画家のイタリアンな気ままダメ男っぷりにハマる男優をキャストすれば、小洒落た小品文芸映画にはなりそうなものでもある。「かくも長き不在」とかと似たテイストになるかな。 |
No.1289 | 6点 | 牝狼 ボアロー&ナルスジャック |
(2024/09/14 19:38登録) 最初は創元「現代推理小説全集 14」(1957)にマリオ・ソルダアティの中編「窓」と一緒に収録され、のちに創元「世界名作推理小説体系 21」(1961)に「死刑台のエレベーター」「藁の女」と収録されたボア&ナルの長編第4作。結局文庫にならなくて埋もれた作品ということになり、やや入手難だが読めた。今回は「現代推理小説全集」の側にするので、「窓」の方は別途にしよう。 初期のボア&ナルらしい作品と言えばそう。ドイツ占領下のリヨンに、捕虜収容所から逃れたベルナールとジェルヴェイが到着する。ベルナールの「戦争養母」のエレイヌを頼って逃げてきたのだ。しかし、ベルナールはリヨン駅で事故死してしまう。ジェルヴェイは瀕死のベルナールに勧められて、ベルナールに身元を偽ってエレイヌに匿ってもらうことにした。 こんな設定で始まるのだが、貧しいピアノ教師のエレイヌと、霊媒まがいで戦時下でも密かに稼ぐ妹アニェスが、偽ベルナールを巡って鞘当てして緊張する毎日。出生証明書を問い合わせたことで、ベルナールの姉ジュリアがベルナールを訪れてくる....身元詐称がバレるピンチだが、なぜかジュリアはそれを暴こうとはしない。なぜ? こんな密室展開がジェルヴェイ視点で描かれていく。この四人の微妙な駆け引きがすべて。真相はそう不思議なものではないが、ドイツ占領下の理不尽な死などが、緊張感を高めるし、実はジェルヴェイは優秀なピアニストの前歴があって(イヴ・ナットの弟子だそうだ)、入れ替わったベルナールはタダの材木商というのもあって、エレイヌの下手なピアノにイライラする(でも顔に出せない)あたりが面白い。意外にボア&ナルって「芸道小説」の味わいがあるんだよね(苦笑) |
No.1288 | 5点 | ナポレオン・ソロ⑧ ソロ対吸血鬼 デイヴィッド・マクダニエル |
(2024/09/13 17:13登録) さて気楽なものを。ブダペスト駐在のアンクル機関員が、ルーマニアの寒村で変死しているのが発見された。その喉には針で突いたほどの傷があり、一滴の血も残っていなかった....さらに足跡からは、機関員は走って逃げて到達したことが明白なのにもかかわらず、殺害者の痕跡が一切なかった。吸血鬼の犠牲になったとしか考えられない死体の調査のために、ナポレオン・ソロとクリヤキンは派遣された。当代のドラキュラ伯爵を名のるゾルタンと知り合い、地元警察とも協力関係を築くが、同行した通信員ヒルダが吸血鬼らしき男に襲われた!狼の脅威、空飛ぶ吸血鬼、そしてソロたちは怪しいドラキュラ伯爵の城へ.. あとがきだと「密室殺人だ!」なんてアオってくれるのだが、まあ真に受けちゃいけない。もちろん背後には例の組織が? お約束とはわかっているけども、それでもマジメにストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」をなぞってくれていて、ホラー色はそれなりにある。うん、もちろん物理的なタネは放送当時ではSFだけど、今はそれなりに実現されつつもあるようだ。軍事的なニーズはしっかりとあるものだからね。 で...まあお約束だけど、どんでん返しあり。「君たちに感謝する」がオチ。このお気楽さが「カーの...」とか言っちゃいけなくて、なんというか尊い。 (あというと、ソロとクリヤキンが結構「仲よく喧嘩してる」様子にバディ物らしい良さがあるな。でも演じた二人は仲が悪かった、というのが有名な話) |
No.1287 | 5点 | モスコー殺人事件 アンドリュウ・ガーヴ |
(2024/09/12 13:00登録) かなり稀覯に近い本だろうけど、読めた。時事通信社の時事新書からの刊行である。巻末では「ソ連紀行」「素顔のソ連」「亡霊とフルチショフ」「共産主義の見方」「新しい核の時代」といった本が宣伝されている。この小説もそういう流れで日ソ国交回復の時期の「ソ連」への関心を示すものといえよう。 で、皆さんもご指摘だが、訳者の判断で反ソ的・嫌ソ的な部分は省いて訳した、とあとがきで言っている。まあ「反共小説」とツッコまれるが嫌だったんだろうな....とは理解できる。第二次大戦が終わってようやく英ソの民間交流が再開して...という時期のモスクワを舞台として、イギリスからの民間使節団の団長がホテルで殺された事件に、英米のモスクワ在住特派員たちが巻き込まれる話。まだスターリンが権力握っている時期だよ。 こんな時期だから、殺された団長は牧師上がりでキリスト教と共産主義を融合したような思想の持主、一行には労働党の代議士、マルクス経済学者、平和活動家などなど、さらに社会主義リアリズムにカブれてスターリンの胸像を作りたがる女性アーチストとか、ウェールズ民族主義の闘士とか、イギリスの「親ソ派」のいろいろパターンが描かれている。要するにグレアム・グリーンとか初期のアンブラーとかキム・フィルビーとかドイチャーとかE.H.カーとか、イギリスの特定世代の「ソ連びいき」がこの小説の背景。まあだから「ソ連」について批判的な描写をしっかり完訳した方がずっと小説理解につながったようにも感じるよ。 でもちゃんとパズラー的な「ミステリ」の結構を備えていている。ある人物の「秘密共産党員」疑惑が出たりもするにせよ、この事件をソ連当局が問題を大きくしたがらず無実の庶民を身代わりにする一件はあるが、スパイ小説的な色合いは薄い。訳者がオミットしたのも、ソ連批判とはいえ、庶民的な生活視点のものだったんじゃないのかなあ。 まあ、ガーヴのジャーナリスティックなあたりが出た小説であることは間違いない。謎解きは大したことない。 (登場人物がかなり多いから、登場人物一覧がないとツラいよ...) |
No.1286 | 8点 | 薫大将と匂の宮 岡田鯱彦 |
(2024/09/11 16:03登録) 大昔「源氏物語殺人事件」で読んだことがあったなあ。今回は昭和ミステリ秘宝で。 「薫大将と匂の宮」といえば、源氏物語、宇治十帖を「未完」と解釈したうえで、紫式部を探偵役として宇治十帖の登場人物たちの間に起きた奇怪な「連続自殺事件」を描く(清少納言との探偵合戦も!)ことで有名な作品である。作者はちゃんとした国文学者だから、デテールもしっかり源氏物語の「偽作」になっていて、それこそ「源氏物語・現代語訳」レベルで違和感なく読んでいける。 が、私の心の中で不思議な考えが頭をもたげはじめていたのである。...実をいうと、私は今非常な岐路に立っているのである。それは、この血なまぐさい事件―これを描写する新しい芸術はあり得ないものだろうか、という問題である。 叙述は紫式部という「作者」と、薫・匂の宮・浮舟といった登場人物の「モデル」設定のキャラ、それに式部が仕えた中宮やライバル清少納言といった実在の歴史上の人物を虚実とりまぜて自在に入り乱れるわけで、結構メタな物語記述の面白味がある。薫などが式部が創作したキャラでありながらも、リアルな人物として登場するわけだからね。その宇治十帖直後の人間関係のただ中で「探偵小説」を実現してしまう、という強烈な力業。もうこれはこのコンセプトだけで「凄い!」としか言いようがないなぁ。 ちょっとカングると、岡田鯱彦といえば例の「抜打座談会事件」の中で、唯一の「本格派」として、木々高太郎や大坪砂男ら「文学派」の面々に吊し上げを喰った作家なんだよね。だから「源氏物語」という「文学中の文学」の只中で「本格ミステリ」をやってやろうじゃないの?というアイロニカルな挑戦めいた気持ちがあったのではないのか、なんて思うんだ。ヨミスギかな? とはいえ、昭和ミステリ秘宝収録の短編たちには、パズラー風な作品がない。ほとんど雨月や竹取物語などに取材したパロディ風作品。鼠小僧次郎吉を主人公にした「変身術」がまあ面白いか。でも、それ以上にやはり「夕顔」「空蝉」あたりのプレイボーイ源氏に取材した奇譚「コイの味」に「奇妙な味」な佳さが出ているし、「『六条御息所』の誕生」は源氏の成立過程についての仮説を紫式部と中宮との間の再現的フィクションとして描いて、ここらが短編のベストと思う。 (とはいえ、評者薫よりも匂の宮ヒイキだなぁ...偉大な源氏という父へのコンプレックスに囚われた子供たちの話だと思っているよ。8点は甘口かな。「コイの味」の一途な想いがかなり気に入ってる) |
No.1285 | 6点 | 黒い塔 P・D・ジェイムズ |
(2024/09/10 12:51登録) 評者としては狙ったわけではないのだが「学寮祭の夜」の次に「黒い塔」... イギリス教養派超大作の連続(苦笑)「黒い塔」だって一時的だがポケミス最厚を誇ったわけで、重い暗い長いの三つ揃い作品としてそれなりに有名だったな。出来はもちろん、シルバーダガー受賞。詩人警視ダルグリッシュ「らしい」ポエジーのある作品でもある。 「黒い塔」というタイトルからして禍々しい。クトゥルフか、って思うくらいだが、舞台は身体障碍者の収容施設で次々と起きる不審な死を巡る事件。白血病の誤診から解放されたダルグリッシュが、旧知の神父からの相談の手紙を受けたことから、静養のために施設を訪れる。神父はすでに病死していた。神父の本を遺贈されたダルグリッシュは神父の死に不審の念を抱く...この施設では不審な死が相次いでいた。収容患者が減ったことで所有者はこの施設を閉鎖しようかと苦慮している状態だが、収容患者にもスタッフにもワケアリな過去が顔を覗かせる。さらに施設所有者の祖父がその中で餓死したと伝えられる不吉な「黒い塔」が海岸に聳えたつ.... と雰囲気は「眠りと死は兄弟」とちょっと共通するような、身体障碍者の陰鬱な思いや辺鄙な施設に閉じ込められるスタッフの憂鬱さなどが、強く描かれる小説である。 でもね「学寮祭の夜」より読みやすいよ。セイヤーズだと洒落た感じの省筆が特徴的なので、ぱっと見で意味が分かりづらい時があるけど、ジェイムズだから描写がくどいくらいに丁寧だからね。くどさを嫌がらなければ、断然読みやすい。同じく「文学的」とされるけども、ブンガクの向き具合が逆方向な気もする。 「長いミステリ」。ミステリというものの成り立ちを考えたときに、ある意味「キャラの掘り下げ」がしづらいジャンルでもある。犯人を掘り下げたらバレやすいからね(苦笑)ミステリにはキャラ描写が表面的にならざるを得ない宿命がつきまとう。「学寮祭の夜」ならピーター卿とハリエットの恋愛心理を軸に長さを持たすことができるわけだけど、本作だとこのグルーミーな雰囲気に飲まれるようなダルグリッシュの抒情的資質が「長さ」を持たせるファクターになっているようにも感じる。 まあ「雰囲気ミステリ」といえばそう。最後にルルドへの巡礼に旅立つ一行が、全員事故死したとしても不思議じゃないくらい(そんなことないのだが)。 |
No.1284 | 9点 | 学寮祭の夜 ドロシー・L・セイヤーズ |
(2024/09/02 17:57登録) さて、問題の作品である。 ハリエットが卒業したオクスフォードの女子カレッジに出没する悪意の手紙や悪質な悪戯をめぐって、ハリエットが内々に学寮長から調査を依頼される。しかし、その悪戯が度を越すようになり、ハリエットはピーター卿に救援を求める... そんな話である。そして、この話の結末に、今までピーター卿の求愛を断り続けてきたハリエットは....というわけで、筋立て自体を取り上げたら「女子ミステリ」の典型的な作品、ということにもある。 しかし、セイヤーズだから、そんな甘い小説ではないわけだ。 前作「ナイン・テーラーズ」がセイヤーズの信仰の問題を隠し題に持っていたように、本作ではフェミニズムの文脈でも語られるような、セイヤーズの「女性としての生き方」が問われるかなりシンドイ作品でもある。確かにこれは「ミステリ」ではあるのだが「エンタメ」とは言い難いところにその本質があると思う。 完全に本サイトとは別の私事に関することなのだが、本作のテーマでもある「女学者たち」について、評者はいろいろと苦々しい思いをさせられてきた経緯もある。だから本作の「犯人」による告発の痛烈さに、思いを晴らす気持ちにもなっていた。学園に閑居する連中が、このところのポリコレ騒ぎに関して潮目が変わりつつあり、その無責任さを暴かれて右往左往するのを欣快と感じているところもあるのだ。 「女性とマイノリティのため」を名乗りながら、実はただの内輪のパワーゲームに興じて、結果として当事者を踏み付けにするさまは、評者の中で確かに本作の背景と重ね合わされている。 たしかにセイヤーズをフェミニズムの視点から読むのも有用である。しかし、それ以上に、本作は「フェミニズムへの告発」の「毒」をしっかりと備えている。 まあとはいえ、ハリエットの心理など「ハリネズミのジレンマ」を思わせて、興味深いのだが、事件の真相がこの二人の恋愛に影響(ショックに近いものだろうが)を与えたことだけは間違いない。愛だ恋だではない、結婚というものの宿命めいた重さが、やはり本作の結末に響いている。 |
No.1283 | 6点 | 東海道四谷怪談 鶴屋南北 |
(2024/08/23 19:52登録) 夏休み納涼番組。日本3大古典ホラーって考えたら、四谷怪談と牡丹燈籠or累ヶ淵は決まりとして、あとなんだろう?雨月から何か取るか、謡曲の鉄輪かなぁ。 (あ〜そういや耳なし芳一があるか。これで決まりか) でまあ、四谷怪談のオリジナル。義士銘々伝の背景があり、世話物で浪人の貧乏話が続く。有名な伊右衛門とお岩の話を軸に、髪梳きやら隠亡堀の戸板返し、蛇山庵室など超有名シーンが連続する芝居。とはいえ、オリジナルの芝居は仏の喜兵衛とその子の小仏小平の話やら、お岩の妹お袖と与茂七vs直助の救いようがない三角関係話など、感情移入しづらい脇エピソードも多いな。 まあだから、有名な仕掛けがある怪現象の場面は、ビジュアルのショックで押し切るケレン芝居ということにもあるわけだ。そうしてみればこの芝居の真のクライマックスは、お岩が毒を飲まされて、面相が変わった状態で伊右衛門とやり取りする、自分を捨てるDV男との愛憎が暗く燃える場面、ということにもなるんだろうな。そして、その後、髪を梳いて恨み言を述べながら死んでいくあたりは事実上一人芝居になってきて、台本の話というわけではなくなる。 そうしてみると、台本で読むと怖くない(泣)歌舞伎はたとえば孝夫玉三郎で昔やった映像を少し見たけど、玉三郎が髪梳きを一人芝居で延々とやっていて、これが見せ場になってくる。 まあ気を取り直して、名作の誉れ高き中川信夫の映画「東海道四谷怪談」(1959)も納涼ついで。いやこれは江戸の夜の闇の深さを表現した映像美が強く出た作品である。かなり原作は端折っていて、赤穂浪士関連は完全にオミット。原作以上に直助(江見俊太郎)が悪党で、伊右衛門(天知茂)は優柔不断でお岩に対する情もいろいろ覗く。リアルな心理劇としてうまく再構成しているのが素晴らしいよ。 |
No.1282 | 6点 | ねじれた奴 ミッキー・スピレイン |
(2024/08/21 17:21登録) さて復活後マイク・ハマーの異色作として有名なもの。 先行する書評の皆さま方、けっこうバレてる(苦笑) まあ、バレたくなる気持ちも分かります。 だけども、描き方とかこういうネタのパズラー系作品とニュアンスが違う辺りが面白いなあ。でもクリスティの同系統作(タイトル?)は意外に近いのかも。 ハマーは誰もが文句なしの「ヤンキー気質タフガイ探偵」のわけだから、子供には優しくて懐かれる。本作の焦点の人物は天才少年ラストン14歳。身体的には未熟だから、誘拐されてハマーが体を張って救出。ハマーともワケありな元ストリッパーの女ロキシーを世話係に、ハマーが悪徳刑事から救った運転手を護衛代わりに、と「ハマー・チーム」が何となく出来上がるのが妙に面白い。このラストン君、ハマーと対比したらバットマンに対するロビン。サイドキックっぽくてナイス。 で、この天才少年誘拐事件から始まり、科学者であるその父が女性助手の家におびき出されて殺され、女性助手も失踪...という事件を通じ、その科学者の遺産を狙う甥っ子姪っ子などなどの企みと、この「天才を作る」研究の裏側などクロスオーバーが描かれるわけだ。冒頭で運転手をリンチした悪徳警官にも因果応報を期待してよし。 まあだから、いろいろ内容盛りだくさんで目まぐるしく事件が起きて、ツルツル読める作品でもある。達者に書かれているけども、全体像は取っ散らかっていて、行き当たりばったりなところは否めないな。例によってハマーはいろいろ講釈を垂れるわけだけども、特に本作の訳(佐和誠)だとガラ悪くベランメエなあたりで、講釈の嫌味な部分が出なくて「ハマーってヤンキーだなぁ(苦笑)」といった感じで「ショーモないけども...」と憎めないや。 で、マイク・ハマーと言えば、最後の犯人との直接対決! なかなかの変化球。こういうの好き。出来の悪い子ほどかわいい、といった感情に揺さぶられる。 |
No.1281 | 7点 | 追いつめる 生島治郎 |
(2024/08/16 09:45登録) 生島治郎の直木賞受賞作。単身で暴力団に挑む元刑事を描いて、ハードボイルドの導入に強い影響を与えた作品である。この直木賞での松本清張の選評が興味深い。 この作のテーマになった事件の裏側は私も知らないではないので、多少の不満(たとえば組織が描かれてない)もあるが、上質なハードボイルドで、読んで文句なしに面白い。 評者も本作の舞台の神戸に10年以上住んでいたので、山口組と神戸のつながりについてはリアルな「土地勘」みたいなものも感じるんだ。阪神大震災で消滅してしまったが、オシャレな観光都市でない焼け跡闇市の猥雑さを残した神戸の街並みに、山口組の原風景がある。そんな雰囲気をこの小説は活写している。今読むとこの小説の「社会派」のあたりが、ハードボイルド以上に印象深かったりする。 というか、今の人が本作を読んだら「新宿鮫のネタ元」と言われるだろうね。組織に属しているようで属していない一匹狼を主人公にしたハードボイルド警察小説、ということなんだから。結城昌治の真木シリーズがロスマクを日本的な湿度の中に再構築したのとは別口で、チャンドラーのナニワブシ解釈の源流としてやはり本作の歴史的価値は高いことは否定できないよ。 とはいえ、評者の好みから言えば、チャンドラー以上に「語り過ぎる」気はする。斎藤警部さんの引用文にタダ乗りして恐縮だけど、最後の引用文だと「私は扉を閉めた。棺桶の蓋を閉めるときと同じ響きがした。」で終わらせるのが「ハードボイルド」だと思うんだ。まあこれでも十分ロスマクっぽいが。 (余談:主人公側の秘密基地が老舗「トアロード・デリカッセン」なのにニヤニヤしっぱなし) |
No.1280 | 4点 | メグレと匿名の密告者 ジョルジュ・シムノン |
(2024/08/15 15:24登録) さてお二方が低評価で一致しているメグレ物ラス2作。怖いもの見たさ、みたいな気持ちで今回セレクト。 ヤクザ上がりのレストラン経営者の死体が発見された。シャトーの美術品をごっそり頂く空巣事件と被害者の年若い妻が気になるあたりで、「喪服刑事」ルイが持ち込んだ匿名の密告。この密告はヤンチャなヤクザ兄弟を指していた... 確かに既視感はいろいろあるなあ。メグレ物には暗黒街(ミリュー)が背景にある事件も数多いし、財産狙いの若い妻とか、密告で話が動くあたりとか、今までのメグレ物のモチーフがいろいろ展開されて、飛行機で南仏出張も色を添える。 最終的にはメグレの取り調べがクライマックスに来るわけで、型通りのメグレではあるし、描写もはっとするような生彩があるところもないわけではない。 でもさ、「何やりたかったの?」と言いたくなる話。確かにメグレ物でも「キャラを動かしていると何となく話になってくる」と「手癖」で書いていると思しい作品もあるわけだけど、本作はキャラを動かしても何の化学変化も訪れなくて、そのまんまの話でしかない。充実していた頃はそれでも話になったのだけど、さすがにシムノンの老化をうかがわせることになってしまっているようだ。 それでもリーダビリティがしっかりある、というのは凄いことなのだろうか? |
No.1279 | 5点 | 黒いアリバイ ウィリアム・アイリッシュ |
(2024/08/14 17:03登録) シリーズ3作目というのは、シリーズを継続するために方向性を定める、一番大事な局面だと思うんだ。「黒衣の花嫁」「黒いカーテン」に続くのがこれ....いや、何かハズしているにも程がある。トンデモ作と呼ばれても仕方ないかも。 確かに「黒シリーズ」で有名なんだけども、ウールリッチがどこまで「シリーズ」を意識していたかって微妙だと思うし、またアイリッシュ・ホープリー名義との差別化ってあってなきがごときにものとも思う。「死者との結婚」とか「暗闇へのワルツ」がウールリッチ名義でいけない理由って、評者はよくわからないや。 で本作、ミステリというよりも、事実上はホラーだと思う。南米の都市に解き放たれた黒豹が次々と巻き起こす惨劇...で、すべて若い女性の被害者視点で語られる「狩り出される者の恐怖」が、小説のメイン。ウールリッチだからそれぞれの女性たち(スラムに住む少女・貴族階級の箱入り娘・人気者の娼婦・アメリカからの観光客)の書き分けもしっかり、不気味な追跡者に怯えつつ逃げ惑う姿をしっかり描いていて、そういう側面だと成功していないわけでもないんだよね。腐っても全盛期のウールリッチの文章なんだもん。でもこの恐怖の感情が小説にテーマになっているわけだから....まあ、ミステリと呼ぶのはちょっとどうよ、というのが評者の評価。 まだからミステリ的な「真相」ってのは、話を収めるための「オチ」みたいなものだから、整合性とかアンフェアとかどうでもいいじゃん?というのが正直なところ。まあウールリッチ、明白にミステリ枠からはみ出す作品を「夜は千の目を持つ」「野生の花嫁」「死はわが踊り手」とか容易に数え上げることもできるわけで、そもそもジャンル感とかシリーズ要素とかあまり意識もしていないのではないのか、なんて思う。 まあ本作からウールリッチを読み出す方もいないと思うけど、そういう人がもしいたら絶対誤解するだろうなあ。いや、「アリバイ崩し」だと思って手に取る本格マニアが? |
No.1278 | 6点 | 血は冷たく流れる ロバート・ブロック |
(2024/08/13 16:51登録) さてブロックの異色作家短編集。ラヴクラフト直弟子でもあるから、他の巻よりホラー色が強めかな。うん、でも「異色作家」だから、ホラーとはいえ正攻法ではなくて、全然ホラーに見えなくてもオチだけホラーネタ、というのが多い印象。アイデアストーリー色が強い方だろう。技巧派で積極的に仕掛けてくるから、短めの作品にいい印象があるな。 それが駄洒落だったりすると軽く見られるかもしれないが、それでも薄気味悪いダブルミーニングで示されたら、いいじゃないか。それまでのプロセスがしっかりしているから、駄洒落オチも評者はあまり気にならないなあ。「治療」なんて精神科医を表す俗語の Head Shrinker を地でやってみるアホな力技は結構快感があったりしたね。 であとブロックの特徴というと、いわゆる「ハリウッド物」があること。井上雅彦の解説でもクトゥルフ神話と同格にブロックが「ハリウッド神話」をネタにしている、と指摘している。だからこれ、アンガーの「ハリウッド・バビロン」の小説版、といえばいいのか。井上氏は「映画界にただ一人存在する謎の女(ミス・ミステリ)」と称された女優の死とハイプでセンセーショナルな映画宣伝が絡んだ事件を扱った「べッツィーは生きている」をこのハリウッド物の典型作としている(実は最後の一行モノの秀作でもある)けども、ほぼほぼ「サイコ」と同じ世界観で同時期に書かれた「最後の演技」も、モーテルが舞台。このモーテルの主人、自室の壁じゅうに20〜30年代のボードビル界のスターたちの写真を貼りめぐらせて過去に浸る男。泊まった男がメイドとして働くその養女を誘惑するが、その結果は....結構グロ。うんでもさ、この写真の中に おどろくほどハンサムな二人の男女の写真には「ジョージとグレイシー」と、サインしてある そうだ。わかるかな、これヴァン・ダインで有名な、グレイシー・アレンとジョージ・バーンズだよね。あと「あの豪勢な墓を掘れ!」がジャズミュージシャンに恋人を取られる男の話を一種の吸血鬼譚として描いているのが面白い。怪異というのはノスタルジックなものなんだよ。 いやだから、ブロックって異色作家としては意外なくらいに長編作と共通する肌合いを感じたりする。本短編集で一番完成度の高いのは「名画」なんだろうけども、逆に言えばこういうのはブロックの個性は抑えめになる。「くじ」とか「おとなしい凶器」とか「レミング」と同じような古典短編だろう。 |
No.1277 | 6点 | 落ちた仮面 アンドリュウ・ガーヴ |
(2024/08/08 09:05登録) 「ヒルダ」に続く第2作。若書きというのもあって、後年の芸風とは少し違う。 舞台はどうやらカリブ海に浮かぶ英領植民地(現在独立準備中)のようだ。人並さんはイネスを連想したようだが、評者は舞台のつながりで、A.H.Z.カーの「妖術師の島」とか、ストリブリングの「カリブ諸島の手がかり」に近い肌触りを感じた。ましっかりとローカル色を描写してリアルなのは、これもガーヴらしさであるのは確かだ。幕開きがハンセン氏病患者を隔離する島の話で「陰惨な話だと嫌だな~」とは思うが、そんなにこれは突っ込まれないから安心しよう。 で本作で強烈な個性を発揮するのは、この植民地の衛生局局長である。ブルドーザーのような実行力と、聖者のように無私の道徳的規律を誇る男。この植民地の医療に絶大な力をふるうわけだが、シュヴァイツァー博士のように原住民(黒人)のために献身する...でもさ、シュヴァイツァーだって結構人種差別したって話があるようだよ。白人って厄介だなあ。今パリ五輪真っ最中でこんな白人の尊大な差別意識の話題が良く出てるから、困ったものだね。 この植民地都市が「フェスタ」で盛り上がる夜に、いかがわしいクラブで黒人の行政官が刺殺された。この殺人を巡る話で、ガーヴにしては珍しく多くの登場人物の視点を飛び回る構成。ガーヴって一人称だったり、三人称でも視点限定してたりして、読者の感情移入を誘うのが上手なんだが、本作は自由に人物の内面に侵入して語る。 というわけで、これは人並さんもバラしているからバラすけど、一種の倒叙。殺人者の内面をしっかり描いて、だんだんバレていくプロセスを楽しむ話。ガーヴってちょっと「異常」な殺人者を外側から描いてスリルを盛り上げる作家だけど、本作はまだ試行錯誤かな。 で...なんだが、ガーヴと言えばあれ。うん、しっかり最終盤で大爆発。ほとんど「爽快!」とっていいくらいに、素敵。本格的な〇〇で、少しも臆せず犯人と渡り合う。このキャラのファンになりそう(苦笑) 異例の扱いはあるけども、それでも「ガーヴらしさ」はしっかり発揮されている。「ヒルダ」よりずっと素直に資質が花開いていると思う。話に例の要素以外あまりヒネりがないのに、不満な人もいるだろうけど、評者は結構気に入っている。 |
No.1276 | 7点 | 興奮 ディック・フランシス |
(2024/08/05 16:42登録) オーストラリアで成功した牧場主、ロークはイギリス競馬界の不正の調査のため、有力者のオクトーバー伯爵に乞われて身を厩務労働者に窶してイギリスの競馬界に潜入する。イギリスでのキャリアの手がかりはオクトーバー家の厩舎からだが、「金になれば何でもやる悪い奴」に偽装して悪人の誘いを待つ身、伯爵の妹娘が誘惑するのをロークは撥ねつけ、妹娘はロークの方が誘惑したと伯爵に吹き込む... いやね、評者久々に本作読み直して、これって「寒い国から帰ってきたスパイ」と構造が似ているんだよね、と気が付いたんだ。自らが掲げる正義のために、あえて自らの名誉を汚して堕落して....という主人公の「ありかた」が似通っていることになる。「寒い国」は1963年で本作はその2年後1965年の作品。この「堕落」のプロセスにマゾヒスティックな愉しみがあったりするのが、両者に共通する味わいのようにも思うんだよ。 まあ「寒い国」はそういうスパイの姿を描いて、大義と道徳が相対化されるあたりのややブンガク的な狙いがあるんだが、本作では任務を放擲してオーストラリアに戻れば今まで通り、という安全弁があったりもする。こっちがエンタメとしては読者は安心であるには違いない。もちろん危険が迫りハラハラドキドキはあるんだが、大人の冒険として楽しめばいい。 フランシスのこのシリーズって「競馬スリラー」と通称されるわけだけど、「スリラー」というよりも実は「冒険小説」なんだろう。実際、主人公ロークはしっかりと教養もあって、不潔でみすぼらしい身なりを引け目にさせないくらいの人間的な力もあったりするわけで、007以上に貴種流離譚というニュアンスも強く感じる。 イギリス流の「スリラー」ってプロットのアヤに人々が翻弄されるアイロニカルな話、というイメージが評者にはあるんだけども、そういうあたりで主人公が屈せずブレない「冒険小説」との差異化ってあるのではないのだろうか。 |
No.1275 | 6点 | 仮面の男 ボアロー&ナルスジャック |
(2024/08/02 16:21登録) そろそろ中期になるあたりのボア&ナル。 食い詰めたヴァイオリニストの主人公は、遺産相続を求めるための替え玉話を依頼されてそれを受ける。南仏の別荘で美貌の妻、その兄、怪しげな話を持ち掛けた使用人と暮らすことになるのだが... という話だけど、人物紹介が「○○を名乗る男(女)」と書かれているくらいに、この替え玉話はいかにも怪しげ。まあだからヴァイオリニストの手記で綴られる、この替え玉話のプロセスに「何の裏が?」で話を引っ張っていく導入あたりでは、結構ワクワクしながら読み進める。 で、皆さまがご指摘の要約バレの要素があるわけだけど、いやさあ、バレないようにすると、この導入の話からズレていく話だから、何とも評しにくいことにもなる作品なんだ。で、記述がその妻の日記になるあたりから、裏の狙いがバレてきて、転機となる事件があって、それからはこのヴァイオリニストの身を案じつつも秘密に苦悩する妻の話になる。話が当初の見かけからヘンな方向に転がっていく話だったりするんだ。 おいな~打ち明けろよ!って評者思っちゃった。だからあまり話にノレなかったなあ。 あといいのは、マトモな音楽小説だったりするあたり。ヴァイオリニストは不遇だけど、埋もれた天才っぽいあたりが、具体的なレパートリーで描写されてリアルに感じられた。「女魔術師」同様の芸道小説の味わいが小説全体の隠し味になっているようにも思う。 |