おっさんさんの登録情報 | |
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平均点:6.35点 | 書評数:221件 |
No.181 | 8点 | 黄色い部屋の謎 ガストン・ルルー |
(2018/11/10 16:43登録) 《司祭館は何も魅力を失わず、庭の輝きもまた失われず》と、かつて幸福な日々を過ごした想い出の場所への郷愁を、手紙にしたためた人がいました。 遠い昔――あれは小3のとき。ポプラ社の、子ども向けのリライト版〈世界名探偵シリーズ〉ではじめて読んだ、ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』の面白さを、筆者は生涯、忘れることはないでしょう。密室に響きわたる銃声から、少年探偵の登場、大人の刑事との知恵比べ、そして廊下で挟み撃ちにされた怪犯人の瞬間消失! と、目くるめく展開に夢中になり、犯人の正体暴露で驚き、最後の謎解きには、思わず溜息をつきました。それまで読んできた、ドイルやルブランの、そして乱歩の、どの本より面白かったのです。 しかし。 何年か経って――ある程度、大人向けの翻訳小説を読むようになってから、宮崎嶺雄訳の創元推理文庫版で再訪した『黄色い部屋』は……初読時の意外性に欠けるのは、当然のこととしても、文章から何からやたら大仰で(18歳の新聞記者が縦横に活躍する世界観自体がね、もう、児童書以外では、ぶっちゃけありえない)冗長に感じられ(とりわけ後半の森番殺しは蛇足。記憶違いでなければ、前述の、久米元一訳の子ども向けリライト版は、このくだりをカットして編集されていたような)、感心したはずのトリックもアラが目立ち(いろいろ難はあっても、導入部の密室構成の、アイデアの組み合わせは素晴らしい……でもあれだけワクワクさせられた中盤の見せ場、廊下での犯人の消失劇は、子供騙し)、残念ながら、作中の「司祭館」のごとく、往時の想いを喚起してはくれませんでした (T_T)。 ミステリの本場イギリスが、まだ短編主体の、“シャーロック・ホームズのライヴァルたち”の時代だった、1907年という発表年代を考えれば、新聞連載の制約のなかで、不可能犯罪を効果的なイベントとして各所に配し、その解明でクライマックスを向かえる創意に富んだ長編として、歴史的価値は計り知れませんが、なまじ、規定演技的な「本格」の要素が打ち出されているだけに、英米“黄金時代”のそれに親しみはじめた、生意気盛りの筆者には、ことさら達成の未熟さが意識されてしまった、というのは、あるかもしれません(同じ密室ミステリの古典でも、はなからパロディとして受け止めた、さながら自由演技ともいうべき、イズレイル・ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』には、そうした不満は感じなかったので)。 ともあれ―― サンクスギビングメモリー。 筆者にとって、『黄色い部屋の謎』はそういう作品。通過儀礼。それでいい。 とまあ、ずっと思ってきたわけです。 ただ、このサイトに投稿するようになって、妙に作者ガストン・ルルーの名前を引き合いに出すことが多くなって、でも取り上げるのは決まって――『オペラ座の怪人』なんですよね。これはやはり、片手落ちではないかw そこで、うん十年ぶりに読み返しを決意した次第です。創元推理文庫版は、2008年に改訂新版(巻末解説の書き手が、中島河太郎――長らくお世話になりました――から、同文庫の『黒衣婦人の香り』で解説を担当した、戸川安宣に変更)が出ており、こちらも所持はしていますが、今回は、最新訳ということで、ハヤカワ・ミステリ文庫版の『黄色い部屋の秘密』(高野優監訳・竹若理衣訳)を試してみることにしました。 おや、意外に読みやすいw 訳文についての感想は、後述します。 あれから幾星霜を経て、ストーリーの細部をすっかり忘れていたせいもあるでしょうが、今回は、いろいろ新鮮でした。 大仰で冗長でアラが目立つし、「本格」としての達成も未熟――といった不満は相変わらずですが、でも、もしかしたらこの作品、「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」の第一歩だったんじゃないか!? 意外でしょう。 でも、じつは『黄色い部屋』って、犯人はヘマばかりやっているにもかかわらず、事件がどんどん「不可能犯罪」になっていってしまって、あとから、犯人が懸命にフォローにまわるお話だったんですよね(なので、トリック偏重を正す「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」を提唱した、都筑道夫の長編評論が「黄色い部屋はいかに改装されたか?」と題されたのは、あらためて考えると、おかしな話ということに)。 その特徴がハッキリ出ているのが、「不思議な廊下」での消失劇です。「トリック」は「子供騙し」。バレますよ、普通。でも、ルルーは、犯人がそうせざるを得なかった状況設定を用意しています。そのまま黙っていたら破滅、ならば、のるかそるか、やってみるしかないでしょう(この点が、同じような「トリック」を、犯人の積極的なパフォーマンスに用いた、某国産ミステリ漫画との違いです)。あとは、迫真の演技でなんとか誤魔化したとww まあ、あれですね、筆者、五十路をすぎてから視力の低下やら物忘れやらが激しくなって、作中の「状況設定」が他人事とは思えなくなったという事情もありますwww そして、重要な小道具として使われているアレは、老いの象徴ですが、同時に、衰えをカヴァーし、以前のようなパワーをくだんの人物に供給するマジックアイテムのようなものだった――と見れば、その所有者の変更がドラマのターニング・ポイントになる、という流れは、良く出来ているのではないでしょうか。 本書のミステリとしてのクライマックスは、謎解きの開陳されるドラマチックな法廷場面ですが……今回、読み返して、筆者がいちばん『黄色い部屋の秘密』というドラマのクライマックスにふさわしいと思ったのは、書かれざる、名探偵と犯人の対決場面でした。いったいどんな会話がかわされ、火花が散ったのか。そこを、あえて隠したのは、読者の想像力を刺激するテクニックではありましょうが、勿体無い気がします。 続編『黒衣婦人の香り』との絡みでの、“省略”だったのかしらん。『黒衣婦人』は既読とはいえ、つまらなかったという印象だけ残して、内容は完全に忘却の彼方なので、こちらも再読する必要が……あるやなしや。う~む。 あ、ハヤカワ・ミステリ文庫版の、本書の訳者が作中で採用した表現にならえば、「黒い貴婦人の香り」となるわけですが、今後、早川さんからこちらの新訳が出ることは……ないだろうなあ。 新訳版『黄色い部屋の秘密』の読みやすさについては、先にちょっと触れました。 一例として、ある証拠物件を見つけた女性のセリフを、創元推理文庫版と比較してみましょう。 「お嬢さまの寝室の床の羽目板の隙間にはさまるようにしてありました。掃除をしたときに見つけたんです」(本書) 「床のへりの溝ぐりのところに!」(創元推理文庫版) 問題点もお分かりですね。訳者が、分かりやすく丁寧に補ってくれています。監訳者の高野優は「あとがき」で、主に原作の、細部の矛盾箇所を修整すべく訳文をつくったため「――原文とは違う情報が含まれたり、原文にはない情報が補足されていることをお断りしておく(したがって、本書は作品研究には向かない。作品研究をするのであれば、原書や既訳も参照していただきたい)」と断わっています。 ここまで、大胆かつ率直に書かれると、これはこれで意義のある試みに、思えなくもない。原文のどこを、どう変えたかの一覧を、資料として付けるべきではなかったか、という思いは、依然、残るにしても。 「この新訳をきっかけに、とりわけ若い読者の皆さんが、フランス・ミステリの古典である『黄色い部屋の秘密』の魅力を知ってくださることを願ってやまない」という、「あとがき」の結びの一文を、虚心に受け止め、ひとまず老害は口をつぐむことにします。 |
No.180 | 7点 | “文学少女”と神に臨む作家(ロマンシエ) 野村美月 |
(2018/09/28 11:04登録) 終わり良ければすべて良し――かな? ライトノベルというレッテルからは、ちょっと想像できないほど重苦しい、ドロドロの展開(がデフォルトの、このシリーズのなかにあっても、今回はことさら)を見せながら、最後は、綺麗にまとめてくれました。 “文学少女”シリーズの第7巻と第8巻(2008年5月、および同年9月のリリース)は、初の上下巻構成にして、シリーズ完結編です。人気を物語るように、このあとも、短編集や外伝が幾つか刊行されていますが、本編のストーリーは、既存の巻の伏線を回収し、ここできちんと終了しています。 語り手をつとめる井上心葉(いのうえ・このは)は、中学生時代、たまたま女性名義で応募した小説が新人賞をとって、覆面作家としてデビューを飾りながら、それが原因で深く傷つき、過去を封印し二度と小説を書くまい、他人と深いかかわりを持つのも避けようと心に決めて、高校に進学しました。 しかし、そこで“文学少女”を自称する先輩、天野遠子(あまの・とおこ)と出会い、この、明るくて聡明で、食べちゃいたいくらい本が好きで、ホントに紙ごと物語を食べてしまう(!?)謎の彼女に捕獲され、強制的に入部させられた文芸部の部室で、来る日も来る日も彼女のおやつ代わりに、三題噺を書かされる羽目に。 そんななか、周囲で起きたさまざまな事件を、遠子が持ち前の奔放な想像力で、文芸作品と重ね合わせて読み解き、関係者の絶望の物語を、希望の物語へ書き変えていくのに立ち会うなかで、彼の、傍観者的なスタンスも変わっていきます。 そして、第5巻『“文学少女”と慟哭の巡礼者(パルミエーレ)』で、心葉はようやく過去のトラウマを克服し、自分に好意を寄せてくれる、クラスメイトの琴吹ななせと付き合いはじめることになりました。 しかし。 遠子先輩と出会ってから、二年。彼女の卒業を間近にして、心葉は思いがけない事実に直面します。一番信頼していたはずの人に、自分は裏切られていたのか!? 本作『~神に臨む作家(ロマンシエ)』は、心葉が最終的に、自身の進路と向き合う話であり、その過程で、天野遠子とは何者だったのかを理解する、巡礼(探偵経路)の物語でもあります。 浮かび上がる、遠子の出生の秘密。幼い頃、その両親を襲った死にまつわる謎(毒は、本当にあったのか? 誰がそれを使ったのか?)。そして――この二年間、何を考えて、遠子は心葉の側にいたのか? 心の闇に囚われた多くの人を、光射す場所に導いてきた天野遠子も、自身、苛酷な現実という檻に囚われた存在であることが分かってきます。そこから彼女を解放するため、彼女から学んだやりかたで、“探偵役”としてクライマックスのステージに立つ心葉。対峙する、さながら凍てついた氷の壁のような相手に、彼の言葉は届くのか? この、土壇場での探偵役の交代(と書くこと自体、ネタバラシでしょうね、でもこれは、書かずにいられない。お許しを <(_ _)>)という趣向が活きています。謎解き自体はアマいものですが、たとえ蟷螂の斧であっても立ち向かっていく、息詰まるような心理対決の演出がそれをカヴァーしています。 それにしても、野村美月は、どんなミステリを読んできたのかしらん? “文学少女”シリーズのなかで、さまざまな文芸作品を語りつくしてきた遠子先輩が、不思議とミステリに関しては話題にしない(第2作『~飢え渇く幽霊(ゴースト)』で、ギャグ的なセリフの中に、クリスティ、クイーン、赤川次郎の名前が並列されているくらいか。第4作『~穢名の天使(アンジュ)』は、ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』がモチーフになっていて、ルルーに関する言及のなかで『黄色い部屋の謎』は出てくるものの、当の『オペラ座の怪人』はあくまでゴシック小説として扱われている)ので、よく分かりません。 語り(騙り)のテクニックへの関心は、あるいは「新本格」の影響もあるかもしれませんが、信頼できない語り手という、文学方面からのアプローチにも思える(各巻で、心葉の一人称記述と併用されてきた、謎めいたナレーションも、第5作『~慟哭の巡礼者(パルミエーレ)』あたりからは、トリック的な意味合いとは別な性格を帯びてきており、それは本作でも同様です)。 この『~神に臨む作家』を読んで、筆者が思いを馳せたのは、P・D・ジェイムズでした。ちなみに、これまで本サイトに投稿してきた“文学少女”シリーズのレヴューのなかで、筆者が引き合いに出してきたミステリ作家を振り返ってみると――トマス・H・クック、マイクル・コナリー、ジョン・ル・カレ、ジェイムズ・エルロイ……ですね。何か凄いなあw それらの作家たちを、野村美月が読んでいるかどうかは、分かりません。ただ、学園もののライトノベルにミステリ的な方法論を導入するにあたり、野村美月が採用したのが、古典的な本格のギミック(漫画で、そちらを実践したのが、たとえば『金田一少年の事件簿』といえるか)ではなく、上述のような、海外の“現代”作家に接近するような試みであったことは、記憶にとどめておきましょう。 これでもう少し、各巻のプロットを、きちんと練り上げてくれていればなあww さて。 遠子先輩の過去を描くということで、これまで“お約束”として目をつぶってきた、ファンタジー要素とリアルの結びつけにどうしても目がいくことになってしまいますが、そこは正直……微妙です。ただ、後半、岩手県の病院である人物の発する「まあ、遠子ちゃん! 『遠野物語』の遠子ちゃん、そうでしょう?」というセリフには、膝を打ちました。寛容の精神で受け入れるが吉、か。 毎回、内外の文芸作品をモチーフにしてきた本シリーズ、大トリの元ネタは、ノーベル賞作家アンドレ・ジッドの『狭き門』です(うへえ。この歳になって、図書館から世界文学全集を借りてきて、読むことになるとは)。愛を突きつめてバッドエンドに至る、理不尽な(でも、だからこそのブンガク)『狭き門』へのアンサーソングが本作、ということで、ハッピーエンドに至るルートが示されて、『~神に臨む作家』は幕を閉じます。 まさに「綺麗にまとめてくれました」。 あえて難癖をつけるなら、でも綺麗(事)にまとめすぎ、かな? 本当は、もっとグチャグチャになるでしょうwww しかし、ま、前作(仕込み作)『~月花を孕く水妖(ウンデイーネ)』のトホホな出来から、よく持ち直しました。 いちおう7点をつけましたが、これは本来、シリーズ総体で評価すべき作品だと思います。であれば、“文学少女”シリーズとして8点。 うん、楽しい読書体験をさせてもらいました。 |
No.179 | 3点 | オペラ座館殺人事件 さとうふみや |
(2018/08/25 16:42登録) 原作 天樹征丸/金成陽三郎 作画 さとうふみや ――というわけで、はい、漫画です。 1992年に、『週刊少年マガジン』誌上に6回に渡り連載された、『金田一少年の事件簿』シリーズの記念すべき第一作ですね。当初、講談社コミックスの1~2巻にまたがって収録されていて、リアルタイム世代の筆者にはそのヴァージョンの印象が強いのですが、のちのベストセレクションや漫画文庫版では1冊にまとめなおされているので、作品単位の鑑賞という意味では(そして本サイトへの登録という意味でも)そちらがベターでしょう。今回、筆者はコンビニ・コミックの〈講談社プラチナコミックス〉版で読み返しました。 じつはこれ、以前、ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』をレヴューしたさい、関連作品として真っ先に脳裏をよぎり、もしこのサイトでマンガも登録できるのであれば、やっておくのになあ、と思ったタイトルでして…… サイトのルール改正にともない、それが実現可能になったので、じゃあ他の人がケチョンパンにやっつける前に、少しでも擁護しておこうかとw 主人公は――紹介が必要ですかね? 高校2年生で、かの名探偵の孫なる設定の、金田一一(きんだいち・はじめ。以下ハジメと表記)。そのハジメが、幼馴染の七瀬美雪の頼みで、演劇部の合宿の手助けをするため、部員たちとともに訪れたのが、孤島のホテル「オペラ座館」。台風で外界と隔絶した島で引き起こされるのは、ガストン・ルルーの小説をもとにした、ミュージカル「オペラ座の怪人」に見立てた連続殺人。 事件前夜、ホテルにチェックインし、不気味なメッセージを残し姿をくらました謎の男「歌月」が、重要容疑者と見なされるが…… 漫画で「新本格」をやろうとしたけど、旧本格になってしまったでござるの巻、といったところでしょうかww 見立て殺人の心情的な必然性はいちおう認めるとしても――舞台となるホテルの構造を事前に把握して(加えて予行演習して)おかなければ無利な犯行計画という時点で、プロットが破綻しています。個々のトリックがどうこういう以前の問題。 しかし。 そんな批判は、ある程度ミステリに慣れ親しんだ人間のもの。 この第一作では、作者サイドは本格ミステリ・ファンの目など意識していません。むしろ、小説の本格ミステリなど読んだこともない層の読者を対象に、その面白さを伝えようとしているわけで、それを考えれば…… ヤングアダルト向け本格ミステリ漫画の「試作品」としては、プロットの弱さを演出でカバーし、大健闘したという評価もできなくはありません。 連載作品として、6回分のパートがあるわけですが、各パートの“引き”はどれも工夫されています。そして、次のパートの冒頭には、ハジメのナレーションを使った、簡単な「前回までのあらすじ」と、容疑者一覧(各キャラの肖像をまとめて掲載)が付されるという親切設計。 ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』に学んだであろう、そして以後の金田一少年シリーズでも成功の方程式として多用されていくことになる、共感できる“怪人”像の明かされるクライマックス。 正直、本作のクライマックスで犯人の迎える最期は、あまりにお涙頂戴で、筆者はご都合主義のほうを強く感じる(ハジメに、あの“仕掛け”をそのままにさせておくのは、感動的なシーンを作りたい、作者の都合でしかない)のですが、それでも、 こうして・・・・孤島のホテル『オペラ座館』で起きた殺人劇は静かに幕を下ろしたのだ のあと、ある手紙が提示されるエピローグには、心地よい開放感を覚えます。ワトスン役(?)美雪のモノローグではじまったドラマが、最後にまた、ヒロインたる彼女のモノローグで閉じられる構成も良い。この、最終12ページが、本作の最良の部分でしょう。 |
No.178 | 10点 | そして誰もいなくなった アガサ・クリスティー |
(2018/08/04 15:25登録) まるで童話のような。 書架の、退色し手擦れのした、清水俊二訳のポケミス改定版を手にとると、本格的にミステリを読み出した小学校高学年の、ただ無邪気で幸せだった日々が、思い出されます。 新たに創刊された、ハヤカワ・ミステリ文庫の第一回配本のラインナップに選ばれ、その際カバーを飾った、真鍋博の、デフォルメされた島の突端に立つインディアンが印象的な装画もまた、ただただ懐かしい。 お話は――いまさら紹介するまでもありませんね。 第二次世界大戦が勃発した1939年に発表されながら、そうした時代の動きに超然とし――しかし評論家なら、一般市民を巻き込む大量殺戮に、後付けで「象徴」を見出すかも――「娯楽としての殺人」の極みのような趣向に挑んだ、クリスティーのライターズ・スピリットの結晶ともいうべき、型破りにして(なおかつ、それが後世、ひとつの型となった)万古不易の作。 本格ミステリ? 否。その尺度からすれば、これはクリスティー自身の、他の綿密にプロットが計算された秀作群にくらべれば緩いかもしれません。 にもかかわらず、「無敵の人」の夢想した殺人絵図が、まるで何かに後押しされるように完成していくプロセスを、ほかならぬ「神の視点」で語り(騙り)きった、この変格ミステリの迫力は、他を圧しています。 インディアン島、それは筆者にとって、「すべての終り」の地。残酷な運命劇の舞台にふさわしい、ミステリ界の、ダークなネバーランドのような存在なのです。 で終わってもいいのですが……今回、思い立って「クリスティー文庫」の、長年“積ん読“だった青木久惠の新訳版(2010)に目を通したので、いくつか補足をしておきましょう。 現行の原書ペイパーバックでは、差別用語の規制から、‘Indian’が‘Soldier’に改定されているようで、それを翻訳の定本にした新訳では、島の名前が「インディアン島」から「兵隊島」に改まり、作品のモチーフとなる童謡の歌詞に出てくる「インディアンの少年」も、「小さな兵隊さん」に変わっています(原書テクストの改変、そして翻訳テクスト指定の元凶は、おそらくクリスティーの孫にして、本書になくもがなの序文を寄せている「アガサ・クリスティー社」の理事長マシュー・プリチャード。長年の読者の思い出を、どうしてくれる)。それでいて、早川書房では、作者生誕120周年を記念した新訳の文庫入りに合わせ、前述の真鍋博の装画カバーを復活させるという愚挙に出て(嗚呼、兵隊島に屹立する謎のインディアン!)、その定見の無さに、筆者は頭をかかえたことです。 清水俊二の旧訳に、一部、問題箇所があり、作者がフェアプレイに配慮したうえでの読者へのミスリードが、アンフェアな表現に誤訳されているという指摘は、乱視読者こと、読書の達人・若島正の「明るい館の秘密――クリスティ『そして誰もいなくなった』を読む」(初出『創元推理』1996年冬号)で詳細な分析とともになされており、じつは清水訳がハヤカワ文庫の文庫内文庫である「クリスティー文庫」に編入された2003年の時点で、すでにくだんの問題箇所は、臭いものに蓋をするような形で、なんの断りもなく修正されていた(清水氏は1988年に逝去されているので、編集部の一存と思われる)わけですが、最新の青木訳も、ミスリード部分の訳文は、若島教授の指摘に沿ったものになっています。このへんは、「訳者あとがき」をつけて、何か一言、あってしかるべきでした(「永遠の目標」と題された、赤川次郎の巻末エッセイだけでは、本書の「解説」としては不充分)。 そして、どうせ「新訳決定版」を出すのであれば、清水氏の旧訳で、他にアンフェアな表現となっている「意訳」箇所(第十四章、第1節の冒頭)も、原文に即してフェアな表現にすべきだったのに、こちらは清水氏同様の「意訳」でアンフェアなままです。若島氏の指摘した部分だけ、直せばいいというものではないですよ。これは、訳稿をきちんとチェックできない、編集部の問題でもありますが……残念。 |
No.177 | 3点 | がん消滅の罠 完全寛解の謎 岩木一麻 |
(2018/06/23 11:18登録) なんつー、ベタなタイトル。思わず「2時間ドラマかよ」と突っ込みたくなる(さきごろTBSテレビで、ズバリ、3時間枠のスペシャルドラマとして放送されたようですが、筆者は未見)本書は、第15回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した、もと国立がん研究センター勤務の著者の手になる、さながら初期のマイクル・クライトン、ロビン・クックばりの医学サスペンスです。 応募時のタイトルは、いかにも謎めいた『救済のネオプラズム』――最後まで読むとその意味するところが分かる――でしたから、変更には、おそらく版元(宝島社)の営業的な判断が働いたのでしょうね。 でもまあ、結果として、正解かな。なんだかんだいって、自分が興味をもって本を手にとったのも、そのベタなタイトルゆえですからw 普通なら治るはずのない、末期がんの患者からがんが「消失」していく、奇跡のような事案が連続する背後には、果たして秘められた治療法が存在するのか、それとも? 余命診断をした患者の、信じがたい完全寛解に直面した、日本がんセンターの医師・夏目は、天才肌の同僚や保険会社の調査部に勤める後輩(「事件」には、生保の生前給付金を狙った詐欺の疑いもある)とともに、この謎を追うことになるが、やがて浮かびあがってきたのは、学会では無名に等しいにもかかわらず、高い治療成績で各界の実力者の支持を得ている、民間病院の存在だった。しかし、この病院には―― さて。 アイデアは面白いが小説がすこぶる下手、とするか、小説は下手だがアイデアがすこぶる面白い、とするか……の二択ですねww まあこのへんは、筆者の読んだ親本のソフトカバーの巻末に収録された、大賞選考委員各氏の「選評」でも、さんざん書かれていることではありますが。 専門知識を、小説のカタチで、分かりやすく伝えようという努力――たとえば「探偵」サイドの討議を、くだけた酒席の場でおこなうなど――は買えます。大人向けの情報マンガのようなものだと思えばいいのかな。文章やキャラクター造形は月並みでも、がん医療をめぐる最新の情報小説としては、それを期待する読者のニーズに応えます。 肝心の「不可能状況下でのがん消失事件」のプロットは、狙いの異なるタイプA(低所得者コースw)とタイプB(高額所得者コースww)が用意されているのですが、それぞれに医学的な情報が伏線として配置されているので、筆者のような門外漢の読者にも、理解できるものになっています。コロンブスの卵的な発想ですから、むしろ医学的な知識のある人ほど、そのアイデアの質には感心するかもしれません。 ただ、作中、その「消失」トリックとはまったく別な文脈で、次のような記述があります。 それでも、世の中に絶対ということはない。ましてや自分たちが扱っているのは人間という生物なのだ。生物には多くの不確定性が存在する。故に医療に絶対はないのだ。(引用終わり) これは本当に、その通りだと思うんですね。タイプAもタイプBも、その手段を使えば、理論上、がんが消えてもおかしくはない。しかし、消えない場合もあるのではないか? その場合、患者は完全にアウトです。そうした失敗例(殺人行為ですよ)をまったく無いものとしては、いけないでしょう。とくにタイプAのほうは、患者を、本人の知らぬまに、がんとは別なきわめて高いリスクにさらしているわけで、行為者の「動機」を考えると、素直に頷けないものがあります。 動機。 うん、それ。終盤、スリリングな展開と意外性を見せながら、逆にこの小説が失速し、あ~あ、になってしまうのは、結局、「犯人」とそのまわりのキャラクターの動機づけに、まったく説得力をもたせられなかったからです。 神を目指しながら、「正義」のために悪をなし堕ちていく――そんなダーティ・ヒーローとしての犯人像が描ければよかったのでしょうがね。ただのマッドサイエンティストじゃん。「マッド」になった経緯を、作者は「運命」にかこつけて、悲劇っぽくしようとしていますが……無理無理。異常のむこうに普遍がないから、理解も共感もできません。 こいつ(犯人)の家族、みんなおかしいよ (T_T) |
No.176 | 1点 | “文学少女”と月花を孕く水妖(ウンデイーネ) 野村美月 |
(2018/03/24 09:11登録) ライトノベル作家・野村美月の“文学少女”シリーズ第六巻。 遠子先輩の卒業へ向けて、時計の針を進めてきた作品世界の時間を、少し巻き戻し(時系列では、第二巻『~飢え渇く幽霊(ゴースト)』の、すぐあとの挿話になります)、舞台を学園から、学園理事長の所有する、いわく因縁のある山あいの別荘――八十年前に妖怪の仕業とされる惨殺事件が発生、その祟りがいまなお続く――に移して、理事長の孫娘の画策により、そこに滞在する羽目になった、語り手の心葉(このは)たちが体験した、忘れがたいひと夏の出来事を描いた番外編、なのですが…… う~ん、これはちょっと。雑すぎる。 “文学少女”シリーズ本編は、このあと上下巻の『~神に臨む作家(ロマンシエ)』で完結するようですが、それを意識した布石――心葉の現在進行形のナレーションと並列される、恒例の、ゴシック体の文章による謎めいた語りも、今回は本題の事件のミスリードとしてはうまく機能しておらず、結局のところ、思わせぶりな、寸断された「次回予告」で終わってしまっている――に気をとられすぎたのでしょう、プロットが、二の次三の次になってしまいました。本末転倒です。 ミステリ的要素を盛り込んだシリーズのなかにあっても、本作は表面上、もっとも(国産の、テンプレ的な)本格ミステリに接近しており、それがかえって、ディテールの詰めの甘さという、作者の弱点をクローズアップする結果にもなっています。 現在の事件(あたかも屋敷の取り壊しを阻むかのように、伝説の妖怪が姿を現す!?)を契機にして、“文学少女”の豊かなイマジネーションが、諸悪の根源たる過去の惨劇に、新たな解釈を施していく。 その、現在の事件をめぐるアレコレのいい加減さも相当なものですが、何よりマズイのが、八十年前の惨劇の真相。謎の提示に誤魔化しがありますし(ある人物の死体が発見され、埋葬された経緯が不明。結局見つからなかった――だって妖怪に食べられてしまったから――でお茶を濁すならともかく、かりにも埋葬されている以上は、事前の検視をスルーするわけにはいきません)、問題の犯行が、指摘される人物に実行可能だったとはとても思えない。屋敷を血の海と化す大量殺人ですよぉ。なんでこんな無謀なシチュエーションを導入したかなあ…… って、理由はハッキリしてますけどね。“文学少女”シリーズを、ほかのラブコメものライトノベルと差別化してきた、ミステリ風味と並ぶもうひとつの特徴が、内外の文芸作品の本歌取り。で、本作のモチーフに選ばれたのが、泉鏡花の戯曲「夜叉ヶ池」なわけです。当該作のクライマックスでは、荒れ狂う竜神・白雪が洪水を起こし、村と人を水底に沈めます。その竜神の怒りを、作者は本作の過去パートにどうしても重ね合わせたかった――となると、その趣向のためには、そりゃあ犠牲者は一人二人じゃ全然足りない、となりますよ。 なりますけどねえ…… あ、筆者は途中で視聴を断念してしまったのですが、アクションもののマンガを原作とする、『文豪ストレイドッグズ』なるアニメがありまして、そこには「マフィアに拾われて、六ヶ月で35人殺した」という、14歳の少女・泉鏡花(!)が登場します。でもって彼女はですね、異能の持主でありまして、「夜叉白雪」という、甲冑武者姿の人外のものを召還できるわけです。こいつが滅茶苦茶強い。本作『~月花を孕く水妖』の過去パートの犯人も、あるいは異能の持主だったのかしらん。以下、ややネタバラシになりますが―― いちおうこの犯人にも、“相棒”が存在したことにはなっています。なっていますが、それは「滅茶苦茶強い」とは真逆で、無理に輪をかけるだけの存在でしかないのです。 これが島田荘司なら、見てきたような嘘を豪腕で畳掛け、読者を力づくでねじ伏せるのでしょうが……さすがに野村美月にそれだけのパワーは無かった。まあ、フツーの作家には、ありません。だからこそ、お話をつくりこみ、意外性に説得力を持たせる必要があるのですが、その点で本作は失格というしかありません。新人作家がこの原稿を持ち込んだら、突き返されるのは必至。しかし人気シリーズということで、編集者のチェックも甘く、四ヶ月に一冊というシリーズの刊行ペースを守ることが第一で、妥協してしまったんだろうなあ。 前作『~慟哭の巡礼者(パルミエーレ)』の「あとがき」で、作者は次回に「(……)番外編が入る予定なので、本編でなかなか書けない人たちのフォローもしてあげられたらいいなと思っています」と記していました。 本作でスポットが当てられている、学園理事長の孫娘・姫倉麻貴は、シリーズのレギュラー陣のひとりで、とりわけ第二作『~飢え渇く幽霊』では面白い役割を演じていました。そんな、魅力的なバイプレイヤーの多面性を描き、一族の血の絆に束縛された麻貴――もまた、水の檻に囚われた「夜叉ヶ池」の白雪のイメージに重なる――が、その呪縛から解放されていくことを示すエピソードは、作者としても、形にして残しておいてあげたかったのでしょう。書き手のパッションは確かに伝わってきます。 ただ、いっぽうで本作は、“探偵役”の天野遠子を、後輩の心葉との関係性に決着をつけるであろう(はずの)、来るべき最終話へ向けて、ラブコメの“ヒロイン”――シリーズ本編では、ひとまず心葉の友人の琴吹ななせが、その位置をゲットしたかに思われるのですが――として見つめなおすエピソードでもあるわけで、そのふたつのエピソードを、ひとつの番外編でいっしょにやろうとしたところに、無理があったように思います。 相変わらず、次作への引きは巧い。 正直、今回はこの「エピローグ」だけで良かったかな (^_^;) |
No.175 | 6点 | アントニイ・バークリー書評集Vol.7 評論・エッセイ |
(2018/02/24 15:31登録) ・・・そういう時代でありましたよ・・・ 木原敏江『夢幻花伝』より 「スパイ・冒険小説その他編」と銘打たれた、2017年11月発行の、『アントニイ・バークリー書評集』最終巻です。 往時は、海の向こうでも“本格冬の時代”だったし、さかんに書かれ、我国へ大量に紹介されたのも、時局(東西冷戦)を反映したスリラー群だったなあ……と、なぜか物心つかないころを回顧しシンミリしてしまうのは、筆者が十代の頃、激動の60年代を背景にした小林信彦の大河ブックガイド『地獄の読書録』(1980)を愛読したからですね。同書の第二部には、「スパイ小説とSFの洪水」という見出しがついていました。 こちらの第7巻は、SFこそ含まれていないものの、これでオシマイ、ということで、1956年から70年までの『ガーディアン』紙の、フランシス・アイルズ名義の書評欄から、編訳者の三門さんが、既刊に取り込めなかった作家・作品(オランダ生まれのファン・ヒューリックのディー判事ものから、北欧の新進作家の翻訳、再評価の機運にあった、アメリカの闇の貴公子ラヴクラフトまで!)も追加投入しており、シリーズの拾遺集的な性格が強い一冊になっています。 豪華ゲストを迎えてきた巻頭エッセイ・コーナーの、トリをつとめるのは、「近年の英国における古典的探偵小説リヴァイヴァル」を寄せた、英米文学者の若島正氏。海外の情勢にきちんと目配りした内容で(翻訳ミステリに関する文章を書いている、プロの評論家諸氏で、いま、これができない人が多すぎるんだよなあ)啓発されます。 では、いつものように、バークリーが俎上に載せた42名の作家を、ラストネームの五十音順に見て行きましょう(カッコ内はレヴューの総数)。 マイケル・アンダーウッド(14)、ジェイムズ・イーストウッド(1)、ジョン・ウェルカム(1) アンドリュウ・ガーヴ(14、うちポール・サマーズ名義2)、ジョン・ガードナー(1)、ヴィクター・カニング(5)、フランシス・クリフォード(6)、E・H・クレメンツ(5)、サラ・ゲイナム(2)、マニング・コールズ(3)、リチャード・コンドン(1) マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー(1) ジェイムズ・ハドリー・チェイス(5)、レン・デイトン(1)、ライオネル・デヴィッドスン(2) ウラジミール・ナボコフ(1) サイモン・ハーヴェスター(11)、ジョナサン・バーク(8)、ジェフリー・ハウスホールド(4)、ウィリアム・ハガード(10)、デズモンド・バグリイ(1)、ジャック・ヒギンズ(5、うちハリー・パタースン名義4)、コーネリアス・ヒルシュバーグ(1)、ジョン・ビンガム(4)、ロバート・ファン・ヒューリック(7)、ジョン・ブラックバーン(6)、アントニイ・プライス(1)、ディック・フランシス(1)、イアン・フレミング(4)、ジョン・ボーランド(5)、アダム・ホール(2) ヘレン・マッキネス(3)、ヘンリー・S・マックスフィールド(1)、アリステア・マクリーン(2)、ハロルド・Q・マスル(2)、ジェイムズ・マンロー(3) ギャビン・ライアル(3)、H・P・ラヴクラフト(3)、マリア・ラング(2)、ジェイムズ・リーサー(2)、ジョン・ル・カレ(3)、ケネス・ロイス(5) 意外に毒舌が影を潜め、フツーに褒めている例が多い。とりわけバークリーの寵愛を受けているのは、アンドリュウ・ガーヴ(いわく「いつでもベストの作品を提供してくれる作家」)とウィリアム・ハガードで、若干の例外を除いて、新刊が出るたびに絶賛の嵐が吹き荒れます。ラッセル大佐シリーズのハガード(いわく「国際謀略スリラーの頂点に位置する作家」)は、結構、邦訳もあるのに読まず嫌いだったのですが……本サイトでも、クリスティ再読さんが興味深い書評を投じられていますし、ちょっと古本を探してみますか。 ただ、バークリーの書評の魅力の、かなりの部分を占める、ディスり芸が減っているということは、本巻の、読み物としての面白さに影響しています。あのバークリーが、マクリーンを、フランシスを、ライアルを、それにル・カレをどう受け止めたのか? という、こちらの(過大な)期待に対して、コメントがそれを上回らない。良く言って妥当。悪く言えば平凡。 やはりバークリーには――「『女王陛下の007号』(ケイプ、16シリング)では、無敵のボンドがスリリングなスキーレースに参加し、見事賞を射とめる。ミスター・フレミングの標準よりも、多少優れた作品といえるだろう」くらいの、皮肉な言い回しが良く似合うと再確認できましたw 本巻の「後記」には、結びとして、『ガーディアン』紙に載ったバークリーの死亡記事が訳載されています。これが、なかなか心打つ追悼文なんですね。よく探してきたなあ。そして、これをここに置くという、センスに感服しました。最終100ページの、最後の1行は、編訳者のメッセージです。――「ありがとう、そしてさようなら、バークリー!」 (以下は、筆者の勝手な独り言です) 有難う、三門さん。そして、お疲れさま。 しかし、さようならは、いいませんよw この『アントニイ・バークリー書評集』は、このまま終わらせていいものではありません。是非とも、編年体の「完訳」を出すべき。もちろん商業出版で(きちんとした編集者の手が加わったもので)、です。そのために、動いて欲しい。 いつの日か、その本のレヴューを本サイトに投稿できる日が来ることを、楽しみに待つことにします。 |
No.174 | 8点 | アントニイ・バークリー書評集Vol.6 評論・エッセイ |
(2018/02/01 17:26登録) 「読者をまごつかせるあからさまな感傷性、絶えざる誇張表現、作品全体に見られる「ありえなさ」、こじつけめいた結論……まあ、アメリカの読者の皆々様におかれましては、これらの要素はさぞや美味しい糖蜜なのかもしれませんが、われわれアングロサクソン系の人間にとっては、エラリイ・クイーン・ディズニー・ランドの「白雪姫と七人の小人」だかなんだか、つまるところそんなものになってしまうのだ」(『アントニイ・バークリー書評集Vol.1』所収、エラリイ・クイーン作『盤面の敵』評より) 2017年春の、文学フリマ東京で頒布された本書は、全七巻で構成される『アントニイ・バークリー書評集』(フランシス・アイルズ名義で、『ガーディアン』紙に1956年から70年まで連載された新刊月評コーナーから、編訳者がテーマ別に条件抽出したもの)の、ラスト前のクライマックスともいうべき、「米国ミステリ作家編」です。 かの国に、いささか ――どころでない―― 偏見を持つバークリー(アメリカ人とイギリス人を、そもそも同じ「アングロサクソン」とは認識してないもんなあ ^_^;)が、批評家として、ミステリの勢力図を書き変えつつある海の向こうの従兄弟(従姉妹)たちと、どう向き合うのか? 過去最長130ページのヴォリュームに、ぎっしり詰め込まれた74作家の顔ぶれを、まずはご覧あれ。例によってラストネームの五十音順、カッコ内はレヴューの総数です。 アイザク・アシモフ(1)、デイヴィッド・アリグザンダー(6)、デイヴィッド・イーリイ(2)、コーネル・ウールリッチ(1)、チャールズ・ウィリアムズ(7)、ドナルド・E・ウェストレイク(3)、ヒラリー・ウォー(14)、トマス・ウォルシュ(3)、デラノ・エイムズ(6)、ミニヨン・G・エバーハート(2)、スタンリイ・エリン(5)、ハリー・オルズカー(2) アーシュラ・カーティス(5)、E・S・ガードナー(9、うちA・A・フェア名義3)、E・V・カニンガム(1)、パトリック・クェンティン(5)、アマンダ・クロス(2)、ヘンリイ・ケイン(7)、ハリー・ケメルマン(2) リチャード・ジェサップ(1)、トマス・スターリング(1)、リチャード・マーティン・スターン(2)、レックス・スタウト(15)、ヘンリー・スレッサー(2)、フランシス・スワン(1) ドナルド・マクナット・ダグラス(2)、ハーバート・ダルマス(1)、ダーウィン・L・ティ-レット(1)、ドロシー・サリスベリー・デイヴィス(2)、リチャード・デミング(2)、トマス・B・デューイ(2)、ロス・トーマス(1)、デイヴィッド・ドッジ(1)、ローレンス・トリート(2) ヘレン・ニールセン(2) イヴリン・バークマン(9)、パトリシア・ハイスミス(7)、ビル・S・バリンジャー(1)、ドロレス・ヒッチェンズ(2)、ジャック・フィニィ(2)、ロバート・L・フィッシュ(2)、エリザベス・フェンウィック(5)、フレドリック・ブラウン(5)、リリアン・ジャクスン・ブラウン(3)、リイ・ブラケット(1)、ロバート・ブロック(2)フレッチャー・フロラ(2)、ベン・ベンスン(1)、ヒュー・ペンティコースト(7、うちジャドスン・フィリップス名義3)、ジョン・ボール(1)、ハリー・ホイッティントン(1)、ジーン・ポッツ(6)、ライオネル・ホワイト(3) ウィリアム・P・マッギヴァーン(3)、パット・マガー(2)、ジョン・D・マクドナルド(2)、ロス・マクドナルド(4)、エド・マクベイン(6)、ヘレン・マクロイ(2)、ホイット・マスタースン(3、うちウェイド・ミラー名義1)、マーガレット・ミラー(5) ドロシー・ユーナック(1)、リチャ-ド・ユネキス(1) クレイグ・ライス(4)、メアリ・ロバーツ・ラインハート(1)、スティーヴン・ランサム(2)、エドウィン・ランハム(4)、ハーパー・リー(1)、エリザベス・リニントン(13、うちレスリー・イーガン名義5、デル・シャノン名義4、アンヌ・ブレイスデイル名義3)、エマ・レイサン(10)、エド・レイシイ(4)、イヴァン・T・ロス(3)、ホリー・ロス(3)、フランセス・&リチャード・ロックリッジ(2) ふう。リストアップしているだけで、お腹いっぱいになりそうw 驚かされるのは、対象作品の邦訳率が四割におよぶことで、既刊の「英国ミステリ編」と比較すれば、我国における欧米ミステリの受容が、戦後はやはりアメリカ優先でなされてきたことが、判然とします。 とまれ、日本語で読める作家・作品が多く取り上げられているという点は、読者個々の評価を、バークリーのそれと比較検討する楽しみもそれだけ増える(また、未読の面白そうな本へ手を伸ばすきっかけにもなる)と、素直に歓迎すべきでしょう。 中身のほうは―― 徹底した毒舌が冴え渡るかと思いきや、第1巻のエラリイ・クイーンへ対するようなメッタ斬りは、あまりなく(皆無ではありませんがw)、褒めるべきところはきちんと褒め、問題点は問題点として厳しく指摘するスタンスです。 E・S・ガードナーやレックス・スタウトのような、気軽に読める職人型のストーリーテラーは、基本的に高評価で、87分署シリーズのエド・マクベインも然り。また同じ警察小説の書き手でも、ヒラリー・ウォーの場合は、その「探偵小説」的方法論にきちんと目を向け、評価しています。 しかし、ウォー同様、捜査小説にミステリらしい仕掛けを盛り込んだロス・マクドナルドの場合は、一転、コメントが辛口に。以下は、そのサンプルです。 アメリカの犯罪小説には、酷くあからさまに組まれた足場と、実際にあり得そうな人間像を書くことへの軽視が頻繁に見られるような気がしているが、これはミスター・ロス・マクドナルドの新作『さむけ』(クライム・クラブ、15シリング)においても同様である。本作は、長く徹底的に力を入れて書かれた(この力の入れぶりがまたアメリカらしいのだが)、しかしユーモアに欠けた作品である。本書は確かに非凡な作品であるが、あまりにも人工的に作りこまれたその作品を読んだ読者は皆、その結末において「こんちくしょう!」と言わざるを得ないだろう。(引用終わり) 冒頭に置いた、EQの『盤面の敵』評にも通じるものがありますね。要するに、不自然なつくりものである、と。 またバークリーは、女流サスペンスの書き手として、パトリシア・ハイスミスとマーガレット・ミラーを高く評価していますが、ハイスミスがほぼ絶賛されているのに対し、ミラーのほうは、常に何かしら不満が表明されている。とりわけ『殺す風』(「絶対の必読である!」)のサプライズ・エンディングについて「彼女が「読者を驚かせたい」という安易な必要性に迎合してしまったのは残念だが……」とマイナス評価をしているのが印象的です。若き日の筆者は、サスペンス小説に人工的なひねりを加え続けるところに、ミラーのミステリ・スピリットを感じ、ロス・マク同様に愛読していたので、バークリーの指摘をそのまま受け入れることは出来ませんが……刺激されて、あらためてミラーを読み返したくなってきたのは事実です。すべてはバークリーの手のひらの上、でしょうか? 書評というキーワードをもとに、実在人物、作中人物(!)のエピソードを効果的に配した巻頭エッセイ「書評家百態――バークリー周辺篇」も、楽しく読めて勉強になる、出色の出来。 あなたが海外ミステリ・ファンをもって任ずるなら、これは絶対、目を通しておくべき一冊です。 あ、エッセイの書き手の名前を落とすところでした。バークリーといえばこの人、そう、真田啓介氏です。 |
No.173 | 7点 | アントニイ・バークリー書評集Vol.5 評論・エッセイ |
(2017/12/30 14:20登録) 第二十三回文学フリマ東京(2016/11/23)で頒布された第五巻は、「英国男性ミステリ作家編」の下巻。『ガーディアン』紙の新刊月評コーナーで、アントニイ・バークリー(フランシス・アイルズ名義)が1963年1月から1970 年10月まで執筆したぶんを対象とし、該当する作家の書評を編訳者の三門優祐氏が抽出したものです。 お楽しみの巻頭エッセイは、評論家・法月綸太郎の読み込みの深さを見せつける(こういうのを読んでしまうと、レヴューと称して薄っぺらな文章を投稿するのが恥ずかしくなる)「晩年のバークリー」。いずれ、同氏の著作に収録される日も来るでしょうから、法月ファンならずとも、バークリーに興味のある向きは、タイトルだけでも覚えておいて下さい。個人的には、「(……)都筑道夫の冷淡な態度が、日本でのバークリー評価の遅れを招く一因となったことは否定できないと思う」というくだりに、いろいろ考えさせられるものがありました。 さて。 取り上げられた59名の作家を、例のごとくラストネームの五十音順に並べてみましょう(カッコ内は今回のレヴューの総数)。 アーサー・アップフィールド(2)、マイクル・イネス(5)、クリフォード・ウィッティング(1)、ジョン・ウェイクフィールド(1)、ジョン・ウェインライト(3) グリン・カー(2)、ヘロン・カーヴィック(2)、ハリー・カーマイケル(1)、マーティン・カンバーランド(3)、H・R・F・キーティング(5)、ヴァル・ギールグッド(4)、マイクル・ギルバート(4)、ダグラス・クラーク(1)、ジョン・クリーシー(7、うちJ・J・マリック名義6)、V・C・クリントンーバデリー(4)、モーリス・クルパン(4)、ブルース・グレアム(1)、S・H・コーティア(2)、ベルトン・コッブ(5) ロジャー・サイモンズ(2)、ルイス・サウスワース(1)、サイモン・ジェイ(1)、ロデリック・ジェフリーズ(14、うちジェフリー・アシュフォード名義6、ピーター・アルディング名義3)、ハミルトン・ジョブソン(1)、ジュリアン・シモンズ(4)、ヘンリ・セシル(2) D・M・ディヴァイン(6、うちドミニック・ディヴァイン名義2)、ウィリアム・クロフト・ディキンスン(1)、ピーター・ディキンスン(3)、ジョセリン・デイヴィー(1)、L・P・デイヴィス(2)、サイモン・トロイ(3) サイモン・ナッシュ(1) コンラッド・ヴォス・バーク(5)、スタンリイ・ハイランド(2)、S・B・ハウ(2)、デンジル・バチェラー(1)、ジェラルド・ハモンド(2)、バーナード・ピクトン(1)、ジョン・ファウルズ(1)、ナイジェル・フィッツジェラルド(2)、クリストファー・ブッシュ(3)、レオ・ブルース(8)、ジョージ・ブレアズ(7)、ニコラス・ブレイク(3)、モーリス・プロクター(5)、ヴァーノン・ベスト(1)、キース・ヘンショー(2)、ジェレミー・ポッター(2) マーク・マクシェーン(1)、フィリップ・マクドナルド(1)、ジョージ・ミルナー(1)、ローレンス・メイネル(3)、ビル・モートロック(1)、 ピーター・ラヴゼイ(1)、ダグラス・ラザフォード(3)、アントニイ・レジューン(3) ダグラス・ワーナー(2)、コリン・ワトスン(3) “黄金時代”を担った書き手が、じょじょに退場していき(前巻に見られた、F・W・クロフツ、ヘンリー・ウエイド、ジョン・ロードらの名前は、もうありません)、昔ながらの探偵小説をレオ・ブルースやベルトン・コッブ、ジョージ・ブレアズ――求む邦訳、論創社さん!――といった書き手がほそぼそと書きついではいるものの、同時代の、スリラーや犯罪小説の質的変化を前にすると、物足りなさは否めない。そんななか、パズルのプロッティングとキャラクタライゼーションを高いレベルで両立させたD・M・ディヴァイン(「もはや現代推理小説の頂点を占めていると言っても過言ではない存在」)が、当然のように評価を高めています。 そして、本書の書評のなかでも、ジョン・ファウルズの傑作『コレクター』(誘拐・監禁事件を素材にしているとはいえ、発表当時、この長編は、おそらく文学枠だったはず。しかし、これを「フランシス・アイルズ」がミステリ・サイドに取り込んで評価する気持ちは、凄くよく分かる)に対する、それと並んで、白眉と言えるのが――前掲の法月エッセイで指摘されていることの、繰り返しでしかなく、恐縮至極なのですが――新星ピーター・ラヴゼイのデビュー作『死の競歩』(1970)への絶賛でしょう。この翌年に、バークリーは世を去っているんだよなあ。バトンが、灯火が受け継がれる瞬間を、さながら目撃したかのような感慨があります。 本巻をもって、「英国ミステリ編」は終了なのですが…… じつは英国のミステリ作家でも、冒険小説、スパイ小説のジャンルで活躍した面々は、別枠となっています。そちらはまた、来年2018年の投稿でご紹介することにしましょう。 それでは皆様、良いお年を! |
No.172 | 7点 | アントニイ・バークリー書評集Vol.4 評論・エッセイ |
(2017/11/24 10:44登録) 2016年の、春の文学フリマ(東京)で頒布された第四巻は、「英国男性ミステリ作家編」の上巻。抽出すべき作家・作品が多いため、第5巻との分冊になっており、本巻では、バークリーが『ガーディアン』紙に連載した新刊月評のうち、1956年11月から1962年11月までのぶんを対象としています。 英国ミステリ通の、小林晋氏の巻頭エッセイ「バークリー好み」は、示唆に富みつつユーモアが光る好内容。これだけでも一読の価値はあります。 では例によって、取り上げられた51名の作家を、ラストネームの五十音順に並べてみましょう(カッコ内は今回のレヴューの総数)。 アーサー・アップフィールド(6)、マイクル・イネス(5)、クリフォード・ウィッティング(1)、コリン・ウィロック(2)、ヘンリー・ウエイド(1) グリン・カー(4)、ハリー・カーマイケル(3)、マーティン・カンバーランド(2)、H・R・F・キーティング(2)、マイクル・ギルバート(1)、ジョン・クリーシー(5、うちJ・J・マリック名義3)、ブルース・グレアム(2)、F・W・クロフツ(1)、S・H・コーティア(4)、ベルトン・コッブ(6) ロジャー・サイモンズ(3)、ロデリック・ジェフリーズ(3、うちジェフリー・アシュフォード名義1)、ジュリアン・シモンズ(4)、フィリップ・スペンサー(1)、ヘンリ・セシル(1) D・M・ディヴァイン(2) ビヴァリーニコルズ(2) コンラッド・ヴォス・バーク(1)、スタンリイ・ハイランド(1)、ジェイムズ・バイロン(1)、ブルース・ハミルトン(1)、E・R・パンション(1)、バーナード・J・ファーマー(2)、スチュアート・ファラー(2)、ナイジェル・フィッツジェラルド(5)、クリストファー・ブッシュ(6)、マイケル・ブライアン(1)、ダグラス・G・ブラウン(1)、レオ・ブルース(6)、ジョージ・ブレアズ(11)、ニコラス・ブレイク(4)、スチュアート・フレイザー(1)、モーリス・プロクター(5)、シリル・ヘアー(1) シェーン・マーティン(5)、マーク・マクシェーン(2)、フィリップ・マクドナルド(1)、J・C・マスターマン(1)、ウィリアム・モール(1) ダグラス・ラザフォード(3)、クリストファー・ランドン(1)、アントニイ・レジューン(3)、ジョン・ロード(1) アーサー・ワイズ(1)、コリン・ワトスン(3)、サーマン・ワリナー(5、うちサイモン・トロイ名義4) 馴染みの薄い名前も、多いですね。収録作品の翻訳率は(本巻の刊行後に訳出された、イネス『ソニア・ウェイワードの帰還』、ワトスン『浴室には誰もいない』を合わせても)、第三巻の「英国女性ミステリ作家編」同様、20%程度です。 その点に、とっつきにくさを感じる向きもあるでしょう。バークリー書評集で人気投票をすれば、まずぶっちぎりで「英米三大巨匠編(クイーン / カー/ クリスティー)」の第1巻がトップになるでしょうし、もしもう1冊、試しに読んでみて、と一般のミステリ・ファンに薦めるなら、「米国嫌い」のバークリーがあのロス・マクを、マーガレット・ミラーをどう読むか、といったワクワク感が半端でない、第六巻「米国ミステリ作家編」かな、と思います。 しかし、未訳作品の情報に飢えた、筆者のような病膏肓の人間には、ポスト黄金時代の、英国ミステリの推移を浮かび上がらせるリアル・ドキュメントとして、第三巻以降、本巻、そして第五巻と続く流れが、最高に面白い。 犯罪小説が台頭し(その旗手ともいうべきジュリアン・シモンズを、高く評価しつつ、しかし一作一作、批評家としてガチで向き合うバークリーは、なるほど「フランシス・アイルズ」なんだなあ)、いまや「絶滅の危機に瀕している」探偵小説を、どんな作家たちが支えていたのか? その答えがここにあります。 そして、1961年には、ついにD・M・ディヴァインが登場。『兄の殺人者』にコメントする、バークリーの先見の名をご覧あれ。 複数の意図が入り混じりそれぞれ隠された事実が、捜査の中で少しずつ暴かれていく過程を描いたこの作品は、まさに本物の探偵小説だ。残念ながら、警察捜査の在り方が本来あるべきものと違ってしまっている部分があるかもしれないけれど、そういった留保はあるにせよ本作は、もっとも約束された、ずば抜けた処女作である。(引用終わり) 「もっとも」何が「約束され」ているのか、この訳文だけだとチト心もとないのですがねw こういう、文章や表記の揚げ足取りは、バークリー先生の十八番で、ほとんどビョーキ、もとい芸の域に達していますが……翻訳がところどころ明晰さを欠くため、悪文をあげつらう文章が悪文になっている嫌いもあります。 書評集の完結は偉業ですが、来るべき「総集編」のためにも、訳文のリファインに取り組んでくださいね、三門さん。 |
No.171 | 7点 | アントニイ・バークリー書評集Vol.3 評論・エッセイ |
(2017/10/26 09:41登録) 2015年以降、おもに春秋の文学フリマ(東京)で頒布されてきた『アントニイ・バークリー書評集』が、今年2017年11月発行の第7巻で、ひとまず完結を迎えるようです。貴重な資料をコツコツと出し続けてこられた、編訳者の三門優祐さんの努力には、素直に頭が下がります。 既刊分をとりあえず全部押さえながら、本サイトには最初の2冊の感想を投下したきりだった、己が怠惰さを反省。遅まきながら、後続の巻を順次、取り上げていくことにしましょう。 『ガーデイアン』紙に1956年から70年までのあいだ、月イチのペースで連載された、フランシス・アイルズ名義の書評コーナーから、第1巻に収録されたアガサ・クリスティーを除く「英国女性ミステリ作家」の作品評を抽出し、年代順に並べたのが、この第3巻。バークリーを「日本で一番多く手掛けてきた」編集者・藤原義也氏による、編集裏話が満載の巻頭エッセイ付きです。 本文のレヴューで俎上に上った、総勢30名に及ぶレディーたちを五十音順に紹介すると、以下のようになります(カッコ内はレヴューの総数)。 マージェリー・アリンガム(4)、ドロシー・イーデン(2)、パトリシア・ウェントワース(1)、サラ・ウッズ(11)、キャサリン・エアード(4) パトリシア・カーロン(2)、ガイ・カリンフォード(5)、アントニイ・ギルバート(8)、スーザン・ギルラス(3) シャーロット・ジェイ(2)、P・D・ジェイムズ(3)、メアリ・スチュアート(4)、エリザベス・ソルター(3) マーゴット・ネヴィル(1) グウェンドリン・バトラー(11、うちジェニー・メルヴィル名義4)、エリス・ピーターズ(3、うちイーディス・パージェター名義1)、エリザベス・フェラーズ(13)、パメラ・ブランチ(1)、ジョーン・フレミング(11)、シーリア・フレムリン(7)、マーゴット・ベネット(1)、ジョセフィン・ベル(10)、ジョイス・ポーター(5) ナイオ・マーシュ(5)、グラディス・ミッチェル(11)、パトリシア・モイーズ(7) エリザベス・ルマーチャンド(1)、ルース・レンデル(6)、ヘレン・ロバートソン(2)、E・C・R・ロラック(2、うちキャロル・カーナック名義1) 英国女流のミステリが好物な筆者は、こうして収録作家名を書き写しているだけで、胸がドキドキしてきます。同時に、取り上げられた作品の邦訳率が20%でしかないという事実に、憤懣やるかたない思いを抱くわけですが(60年代のポケミスには、もう少し頑張って欲しかったぞぉ)、そのぶん未知の作家・未訳作品の読書ガイドとして有益な一冊に仕上がっているので、マニアのみならず翻訳レーベルの編集者諸氏には、是非、目を通し、刺激を受けていただきたい。 たとえば、以下のようなバークリーの書評に触れてしまったら、これを読まず(訳さず)にどうするんだ、という気になりますよ。 クライム・クラブがサラ・ウッズの才能を発掘したことに対して称賛を贈りたい。彼女の処女作 Blood Instructions(クライム・クラブ、12シリング6ペンス)はまったく完成された傑作である。古典的な筋書きを現代に甦らせた正真正銘の探偵小説である本作は、非常に人間的な登場人物を擁しつつ、ある種驚かされる超然とした語り口の魅力も兼ね備えている。熱く推薦する次第である。(引用終わり) バークリー先生、いつもこれくらい素直に褒めればいいのにw 過去の巻で苦言を呈してきた、訳文のふつつかさも大分解消されてきて、まだところどころ、原文を参照したくなるような表現はあるにせよ、継続は力なり――を感じさせる一冊になっています。 この第3巻に関しては、すでに kanamori さん(お元気であらせられましょうか)が行き届いた紹介をしてくださっており、筆者もその内容には全面的に同感なので、これ以上、屋上屋を架する必要はないのですが……最後にひとつだけ。 バークリーは、お気に入りの作家は、基本、コンスタントに取り上げているのですが、必ずしもすべての新刊を紹介しているわけではなく、ときどきポンと抜けている場合がある。編訳者の三門氏や kanamori さんが挙げていらっしゃる、ジョイス・ポーターの『切断』は代表的な例です。個人的に残念に思っているのは、パトリシア・モイーズの『殺人ファンタスティック』(1967)が無いことですね。バークリーが敬愛してやまなかった、かのナイオ・マーシュでいえば、代表作のひとつ『ランプリイ家の殺人』にも通じる佳品(筆者がとりわけ気に入っているモイーズ作品)で、あのファースっぷりが、バークリー先生の嗜好に合わなかったわけはないのに。なぜ取り上げなかったのかな。私、気になります! |
No.170 | 5点 | 亡者の金 J・S・フレッチャー |
(2017/03/18 10:22登録) 20世紀初頭、イギリス本国はもとより、アメリカで(時の大統領ウッドロウ・ウィルスンの絶賛がきっかけで)広範な読者を獲得し、我国でも、戦前に好評をもって迎えられた、スリラー作家の雄J・S・フレッチャー。 しかし、代表作と伝え聞く『ミドル・テンプルの殺人』と『チャリング・クロス事件』の翻訳を探し求めて読んだ、若き日の筆者は、その筋立てのあまりのご都合主義に憤慨し、こんな場当たり的な作家は、いっときのブームが去ってしまえば忘れられて当然、再評価の要なしと決め込んだものでしたが…… 。 まさか21世紀になって、フレッチャー作品が欧米で、ペイパーバックや電子書籍で復活を遂げようとは! ストーリーテラーの作品の、生命力を軽視していましたね。 そうした海の向こうでの動きを受ける形で、ほぼ半世紀ぶりに実現したフレッチャーの邦訳が、この『亡者の金』です。版元の、論創海外ミステリの編集者が、イギリスの Amazon のカスタマーレビューを目にして面白そうだと思ったのが、セレクトのきっかけという話を耳にしました。このへん、ネット時代ならでは、でしょう。 手にとり、虚心にページを繰ってみると―― うん、ともかく、読ませる。 お話は、主人公が、思慮に欠ける青年時代に巻き込まれた事件を回想する形で進行するのですが(語りくちは、さながらオトコ版M・R・ラインハート)、母親と二人暮らしの家に、謎めいた、もと船乗りが下宿することになる『宝島』ふうの導入部から、ストーリーの方向性を変える出来事が次々に発生し、「このあと、どうなる?」という興味でぐんぐん引っ張っていきます。そのテンポの速さは、同時代のF・W・クロフツとは好対照。 キャラクター造形の弱さ(主人公は最初から最後まで愚かなままで、成長しない)を補っているのが、豊かな背景描写で、イングランドとスコットランドの国境地方(ボーダーズ)、北海に面した辺境を舞台にした冒険行――当然、海もサスペンス・シーンに一役買います――には、エキゾチックな魅力が横溢しています。 けれど。 面白く読まされはしたものの、筆者の、長年のフレッチャー嫌いを撤回させるまでには、いたらなかった (^_^;) 「このあと、どうなる?」の絶妙さに対して、「何がおこったのか?」の裏打ちが、やはりフレッチャーは杜撰すぎるんだよなあ。 もとより、過去の読書体験から、この人の場合、殺人事件の謎解きなどは刺身(メインとなる陰謀)のツマのようなものだと承知してはいたのですが……それにしても、お話が動き出すきっかけとなった、謎めいた会合(主人公が、病床の下宿人から、自分の代わりに友人に会いに行って欲しいと頼まれ、深夜、遠方の廃墟に向かい――死体と遭遇する)が、あとから振り返ると、意味不明すぎる。 著作リストを見ると、『亡者の金』を刊行した年、フレッチャーはイギリス本国でこれだけのミステリ長編を本にしています。 The Borough Treasurer (1919) Droonin' Watter 米題 Dead Men's Money (1919) 本書 The Middle Temple Murder (1919) 『ミドル・テンプルの殺人』 The Seven Days' Secret (1919) The Talleyrand Maxim (1919) The Valley of Headstrong Men (1919) 勝手な推測ですが、大半が連載小説だったのではないでしょうか。フレッチャーが、細かいところまで考えず、とにかく書き出して、あとはお話の勢いにまかせるタイプだったことは、『亡者の金』を読んでも、まず間違いないと思います。 その奔放な想像力が、ときとして、きちんと伏線を張るタイプの作家には出来ない、鮮烈な意外性を生み出すことは否定しません。 ヒッチコック映画を観ていたら、突然、監督がダリオ・アルジェント(『サスペリア2』『フェノミナ』)に変わったような衝撃を、筆者は本書の終盤で受けました。これは、ちょっと忘れられない。 好きか嫌いかといわれたら、やっぱり嫌いですけどねw |
No.169 | 7点 | “文学少女”と慟哭の巡礼者(パルミエーレ) 野村美月 |
(2017/01/28 10:31登録) 初恋の少女は、なぜ死を選び、彼の目の前で、校舎の屋上から身を投げたのか? 聖条学園・文芸部の部長、天野遠子(あまの とおこ)と、文芸部の後輩、「ぼく」こと 井上心葉(いのうえ このは)のコンビを主役に据え、毎回、彼らの周辺で発生する“事件”に、内外の文芸作品の本歌取りともいうべき趣向を凝らしてきた、野村美月の人気ライトノベル“文学少女”シリーズ(ファミ通文庫)。 遅まきながら読みはじめて、年甲斐もなくハマってしまい、発表順に、 ①“文学少女”と死にたがりの道化(ピエロ)2006.5 ②“文学少女”と飢え渇く幽霊(ゴースト)2006.9 ③“文学少女”と繋がれた愚者(フール)2007.1 ④“文学少女”と穢名の天使(アンジュ)2007.5 とレヴューを済ませてきました。 筆者の読書・レヴューのペースは亀の歩みですが、あらためて発行年月を振り返るってみると、シリーズものとして、作品の刊行ペースの安定性は凄いですね。 第五弾にあたる本書(2007.9)は、遠子先輩の卒業が迫るなか、心葉くんが、自身のトラウマになった過去の体験と向き合わざるを得なくなり、隠された真実を知ろうと動き出す――これまでのシリーズの総決算的エピソードです(マイクル・コナリーでいったら、ボッシュものの第四作『ラスト・コヨーテ』ポジション)。 今回、モチーフになっているのは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。中学時代の心葉と、彼が憧れた少女・美羽(みう)の関係性が、『銀河鉄道の夜』の孤独なジョバンニと、その幼馴染カムパネルラの関係性(銀河鉄道に乗った二人は、星座から星座へ宇宙を旅するけれども、最後にカムパネルラは、ジョバンニを置いて遠くへいってしまう……)と重ね合わされているわけです。 お話は、これまで通り、語り手である「ぼく」の一人称と、別な人物によるナレーションが併置されるスタイルで進行します。ワンパターンのようでいて、毎回、そこにどんな新しい趣向が凝らされているのか? というのが、このシリーズの読みどころのひとつでもあります。本書の場合、心葉くんの「ぼく」に対する、もうひとりの語り手、正体不明の「僕」が何者なのか――は、早い段階でほぼ自明となります。そこに叙述トリック的な意外性はありません(過去作には、かなりトリッキーな仕掛けが施されたものもあります)。しかし、「僕」パートの持つ、真の意味が明らかになる中盤の展開は、やはり衝撃的です。 絶望的な状況を綺麗に終息させ、希望の光を灯してくれる遠子先輩は、もはや“探偵役”ではなく、“運命の修理人”でしょう。 舌を巻くのは、作者・野村美月のしたたかなシリーズ構成力で、これまでの巻がすべて、パズルのピースのように機能し、あて嵌まっていく。オーバーな言いかたであるのは承知していますが、それはたとえば、ジョンル・カレのスマイリー三部作を読んで来て、『スマイリーと仲間たち』に至ったときの感銘、あるいは、ジェイムズ・エルロイのLA四部作で、ついに『ホワイト・ジャズ』を迎えたときの感嘆と変わらないものです。 問題は――“文学少女”シリーズを順番に読んでこないと、この凄みが分からないことで、本作を単体で、読め、読め、読めと絶賛するのは(過去作のネタバラシという意味からも)躊躇せざるを得ません。 このサイトが「ミステリの祭典」でなく「ライトノベルの祭典」だったら、それでも、ドラマ的な要素と感動で9点は付けていたと思います。“ミステリ”としては、お話が動き出すきっかけとなる、病院内での転落事件(心葉のクラスメイトであり、前作「穢名の天使」で親密度が増した、ななせを巡る出来事)にやや無理がある。 さて。 心葉自身の問題には、ひとつの区切りがつきました。 このあとシリーズは、通子先輩の卒業というイベントへ向けて、クライマックスを盛り上げていくのでしょうが…… 例によって、最終ページに強烈な“引き”が用意されていました。 あざとい。野村美月、本当にあざとい。 続きを読まさずにおくものか――という、この気迫にはシャッポを脱ぎます。 |
No.168 | 8点 | わらの女 カトリーヌ・アルレー |
(2016/12/03 15:52登録) そのアンモラルな内容が忌避されてか、フランス本国では出版を拒絶されるも、1956年にスイスで刊行されるや話題となり、各国への翻訳紹介を通して、女流サスペンスの実力者カトリーヌ・アルレーの名を一躍知らしめた、第二作。 日本でも高く評価され、筆者が大人向けのミステリを読みはじめた70年代後半において、もはや新しい“古典” といった位置づけでした。ベイジル・ディアデン監督によって映画化*されたさい、主演を演じたショーン・コネリーとジーナ・ロロブリジーダのスチール写真がカバーに使われた、創元推理文庫版も、書店でよく目にしました。 本格ミステリ・キッズであろうと、このへんを読んでいないと大人のミステリ・ファンの仲間入りができない感じがヒシヒシと。だから、背伸びをして読んだわけです。クリスティーやクイーンを好きな小学生がw で、そのときの感想は――なるほど面白い。でもこういうのは、これ一冊で充分な、そんな傑作だよなあ……でしたww それはたとえば、江戸川乱歩編の『世界短編傑作集』で、「オッターモール氏の手」(トマス・バーク)や「銀の仮面」(ヒュー・ウォルポール)を読んだときの気分に近く、感銘は受けながらも、同じ作者の他の作品が読みたくはならなかったのです。 そこには、後味が悪く終わるのが新しい、という風潮(?)への、子供なりの反発があったのだと思います。絶望的な状況から、でも知力で逆転してこそミステリじゃないか、という。 後年、佐野洋の『推理日記』を読んでいて、「推理小説のミスについて」と題された章で、そんな『わらの女』の中心的着想に、じつは大きなアナ――法律上の問題――があったことを知りました(もともとは、結城昌治が日本推理作家協会の機関誌に発表した意見)。 言われてみれば、これは確かにその通りなんですね。『わらの女』は、シンデレラのようなお伽噺(直接的なモチーフは、ヒロインと援助者の関係性を踏まえた、バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』――あの『マイ・フェア・レディ』の原作です)が、過酷な“現実”に着地するお話だけに……法律という、おおもとのリアルを歪めるわけにはいきません。筆者のなかで、好きになれないタイプの傑作、といった位置づけだった『わらの女』が、傑作になりそこねた、すこぶる残念な問題作に変わりました。 そして時は流れ―― ほぼ四十年ぶりの、再読です(その契機となったのは、本サイトでレヴュー済の、『アントニイ・バークリー書評集Vol.2』なのですが、それについては後述)。 うん、なんだかんだいって、こりゃ面白いわ、やっぱり。 作者の第一作『死の匂い』を、ちょっと前に読んでいただけに、ストーリーテリングの格段の向上には、目を見張る思いがしました。心理描写の巧みさ、その筆力に加えて、作品全体に、華麗なる通俗性とでもいいたいものが備わっている。作品中盤の見せ場で、危難を乗り越えるべくヒロインが、衆人環視下、あるモノを別な場所に移動させようとする(無茶だけど惹きこまれる)シークエンスは、象徴的。 前記の、看過できない大きなミスが存在するにもかかわらず、作品自体は、ギリギリのところで成立しています。 裁判は開かれなかった。 からです。無理な計画だったのに、僥倖により、「悪い奴ほどよく眠る」が実現されてしまった、その、運命の紙一重を、しかし当の本人は知らないのだ……と解釈することが、とりあえずできる筈です。 そこで気になるのは――作者のアルレー自身は、作中の陰謀の論理的矛盾に無自覚だったのか? という事。前掲の『死の匂い』のレヴューで筆者は、「未知のことを書くなら、調べる。そしてディテールを詰める――そんな、プロ作家として当然の姿勢が、まだこのときのアルレーには出来ていなかった、とまで言うのは酷でしょうか」と書きました。これもその伝で、アルレーが単に、法律面に疎く、アタマの中だけでお話を考えた結果なのか? いや、ある程度プロットを作った(あるいは、書きはじめた)時点で、リサーチの結果、ミスに気がついたのではないか? しかし、ミステリとしての基本構想は捨てるには惜しい、どうする、と悩んだ結果が、あのクライマックスなのではないか? という気が、いまの筆者にはしています。じつはご都合主義だった、ヒロインの最終的な選択を、華麗なテクニック(必殺の文章力)で誤魔化した疑惑www ズルさもプロに必要な資質とすれば、そのふてぶてしさは、あっぱれと言えますが……さて、実際はどうだったんでしょうね。 ところで。 『アントニイ・バークリー書評集Vol.2』(三門優祐・編訳)に収められた、『わらの女』評のなかで、バークリーは、次のようなコメントをしています。 (……)「邪悪」なるものについての容赦のない研究であり、「悪魔たち」のガリア的な無慈悲さが、事後に回想される形で描かれる(引用終わり) これが、筆者の記憶する『わらの女』の内容にそぐわず、作品を読み返して確認しよう、というのが、そもそもの始まりでした。引っかかったのは、「悪魔たち」という複数形と、回想という小説形式の表現。あらためて『わらの女』を読んでみて、これはやはりマチガイだと実感。うっかり屋さんバークリーの、筆の誤りか? しかし、訳者の三門氏が何の注記もしていないところをみると、三門氏は『わらの女』を読んでいないか、ストーリーを覚えていない可能性が高い。失礼ながら、誤訳の疑惑も。原文はどうなっているんでしょうね。 *今回、参考まで観ておこうかと、映画版のソフトを探したのですが、果たせませんでした。しかし、思いがけず、2015年に韓国で制作された『わらの女』原作の映画があることを知り――その『隠密な計画』のDVDは視聴することができました。原作のミスを修正するため、ドラマ内の人間関係が改変されており、いきおいメロドラマ色が強まっていますが、これはこれでアリだと思います。物議を醸すのは、終盤のオリジナル展開でしょう。作品のトーンがガラリと変わって、韓流メロドラマが、B級バイオレンス・アクションになってしまいます。しかし――その昔、『わらの女』のバッド・エンドに反発し、絶望的な状況からの逆転を希望した身としては、脚色者の気持ちが分かってしまうんだよなあ……。 |
No.167 | 4点 | 白骨の処女 森下雨村 |
(2016/10/07 16:46登録) 「あらまあ、ちっともシンクロナイズしないのね、話が……」(第二章「銀座から堂島へ」) 今年2016年に、復刊の報に接して、筆者がいちばん驚かされた一冊がコレ。 本書『白骨の処女』は、『新青年』初代編集長にして、江戸川乱歩のデビュー作「二銭銅貨」を世に送り出したことでも知られる、〈日本探偵小説の父〉森下雨村の、実作者としての活動を代表する長編で、全十巻すべて書き下ろしという、新潮社〈新作探偵小説全集〉の第二回配本として、昭和七年(1932)に刊行されました。 ちなみに、同全集のラインナップを刊行順に記しておくと―― 甲賀三郎『姿なき怪盗』 森下雨村『白骨の処女』 大下宇陀児『奇跡の扉』 横溝正史『呪いの塔』 水谷準『獣人の獄』 江戸川乱歩(岡戸武平の代作)『蠢く触手』 橋本五郎『疑問の三』 夢野久作『暗黒公使』 浜尾四郎『鉄鎖殺人事件』 佐左木俊郎『狼群』 となります。 復刊されるにしても、論創ミステリとかミステリ珍本全集あたりの、それなりに高価なハードカバー叢書でのリリースであれば、そこまで仰天はしなかったでしょうが――まさかの河出文庫ですからね。出版の経緯が最大のミステリw 財布に優しく、戦前の探偵小説愛好家には、まことに有難い文庫化ながら、果たして定価800円(税別)で採算はとれるのかしらん? と危ぶんでいました。しかしこれは杞憂だったようで、セールスが好調だったとみえ、なんと年内に、同じ作者の続刊『消えたダイヤ』の発売も決定しました。いや~、めでたい。 これで、営業妨害とかあまり意識せず、勝手な感想を垂れ流しても大丈夫でしょうww 読後の印象を、一言でいうと―― クロフツだと思った? 残念! フレッチャーちゃんでした! と、正直まあ、そんな小説だったな、と。 堅実なF・W・クロフツ(『樽』)と、放縦なJ・S・フレッチャー(『ミドル・テンプルの殺人』)、この英国の二作家は、いまとなると意外の感を禁じえませんが、かつての我国では並び称される存在でした。 江戸川乱歩は、その「探偵小説の定義と類別」(『幻影城』所収)のなかで、探偵小説を「ゲーム探偵小説」と「非ゲーム探偵小説」に分け、凡人型探偵が起用されることの多い後者の「代表的な作家はフレッチャーとクロフツであろう」とし、「クロフツはトリックにも独創があるが、フレッチャーなどは主としてプロットの曲折の妙味によって読ませる作風である」と述べています。 乱歩と親交のあった、戦前最高の探偵小説評論家・井上良夫も、クロフツの『樽』を取りあげた「傑作探偵小説吟味」(国書刊行会『探偵小説のプロフイル』所収)のなかで、本格探偵小説を二つの型にわけ、作中探偵と読者が知恵の戦いをするタイプの代表的作家にヴァン・ダイン、もういっぽうの探偵イコール読者ともいうべき行きかたをするタイプの代表作家にフレッチャーとクロフツをあげ、「フレッチャー氏は筋の巧みさに於て優れ、クロフツ氏は論理的複雑さに於て彼を凌駕する」と述べていました。 そして、翻訳者として、このフレッチャーとクロフツをはじめて日本に紹介した立役者が、森下雨村なわけで、本書においては、おそらく、自身が感心した両作家を混ぜたような味を狙ったものと推察できます。 導入部の、東京における、盗難車両内の青年の変死事件――これがアリバイ崩しに収斂していく過程をクロフツ・パート(A)とするなら、舞台を新潟に移しての、富豪令嬢(変死した青年の婚約者)の奇怪な失踪事件――が、復讐悲話に収斂していく過程はフレッチャー・パート(B)といっていいでしょう。 が、このA、B、ふたつのパートが、うまく混ざっていない。多段式ロケットの、機体切りはなしのようなものと割り切れば、一周回って、新しいタイプのミステリという評価も可能かも知れませんが、切りはなされるAパートがなまじトリッキーなぶん、親の因果が子に報う、大時代なBパートとのチグハグさが気になります。 と、まあ、ここまでの文章を読んでこられたかたには、もうお分かりでしょうが、筆者はフレッチャーが嫌いですw まだ血気盛んな青年だった頃、海外の評者によってフレッチャーの代表作とされている、『ミドル・テンプルの殺人』と『チャリング・クロス事件』を読んで、その、あまりにご都合主義な筋立てに、本気で腹を立てた覚えがあります(なので、論創海外ミステリが掘りおこしてくれた、mini さん推奨の『亡者の金』も、つい敬遠気味)。 フレッチャーに範を取った(?)本書も、謎また謎、意外また意外の展開を支えているのは、許容範囲を超えた“偶然”に依存した「あまりにご都合主義な筋立て」なわけで、いちいちツッコミを入れる気にもなりませんが……ひとつだけ書いておくと、Bパートの事件で、犯人はなぜわざわざ苦労して、死体を隠したのか? 犯行の動機を考えれば、そんなことをする理由はまったくありません。むしろ、令嬢の死体は発見されてナンボのはず。でも、それでは――作者が困るんですね. (>_<) さて。 では、そんな『白骨の処女』は、復刊の意義の無い、まるきり過去の遺物――見どころは、戦前の、先駆的なアリバイ崩しものとしての価値だけだったのか? というと、じつは、一概にそうとはいえません。 これは、雨村の、省略をきかせた文章の力が大きいのですが、作品のリーダビリティはきわめて高く、東京~新潟~大阪にまたがる、新聞関係者の、警察当局を向こうにまわした広域捜査の合間に、点景としてちりばめられた当時の風俗描写、自然描写が、小説的興趣を盛り上げます。乱歩は勿論、甲賀三郎にも、大下宇陀児にも無い、その、雨村ならではの魅力は捨てがたい。 そして、忘れてならないのが、「サスペンスフルなアリバイ小説の金字塔」と題された、山前譲氏の巻末解説。作品の読みどころ、そのポイント紹介を最初と最後に分け、作者のプロフィールをあいだにはさみ、原稿用紙5枚程度で森下雨村を解説するという、これはまことに簡にして要を得た、プロの技です。レヴューと称して、サイトにいつもダラダラした文章を投稿している、どこぞのおっさんは見習うべきでしょう。 本書の、トラベル・ミステリ的要素に着目した山前解説に敬意を表し、筆者のジャンル投票は「トラベル・ミステリ」としておきます。 |
No.166 | 2点 | 隅田川殺人事件 内田康夫 |
(2016/08/11 16:26登録) 親族と共に披露宴会場へ向かう途中の花嫁が、隅田川を渡る水上バスから、神隠しにあったように姿を消してしまう。 やがて、隅田川とは「水つづき」である築地の掘割で、新婦を思わせる年恰好の、女の他殺体が見つかる。新郎の知人として披露宴に出席していた、母・雪江の依頼で、ルポライターの浅見光彦が、珍しく東京を舞台とする事件の調査に乗り出すことになるが、その行く手に待ち構えていたのは、浅見光彦史上、最大の危機だった!! 内田康夫のちょうど五十番目の著作で、平成元年(1989年)にトクマ・ノベルズから初刊が出た、浅見光彦シリーズとしては二十七作目の長編です。 本サイトの、西村京太郎作品のレヴューで前回ご紹介した、コンビニ売り「トクマ・ノベルズ大活字マガジン」の、第2号(平成28年2月6日号)に再録されているのを見つけ、性懲りもなく求めましたw 巻頭のグラビア記事に、作品の舞台となった隅田川周辺の写真が配されているので、読書に疲れたら――五十歳の大台を超えてから、目の老化を意識すること切です。嗚呼!――そちらを覗いて、春の桜や、夏の夜空の花火でリクライゼーションできるのも良いな、というのが購入動機になっている、というのはナイショですww じつのところを言うと、巻末の、内田康夫著作リスト(内田康夫財団編)が目当てでしたwww この作者は、昔『天河伝説殺人事件』とか、初期の作をアトランダムに幾つか読んで、良い意味でも悪い意味でも「自由だなあ」と痛感し―― “どこへ向かって歩いているかわからない人ほど遠くへ行ける” という、ナポレオンの言葉を思い浮かべたりして――、羨ましいやら呆れるやら。気になる存在ではありながら、でも、ミステリ・マニアのはしくれとしては、ちょっと認めるわけにはいかない感がまさり距離をおいてしまった、筆者にとっては、なかなか微妙な存在です。 その、ストーリーテラーならではのフリーダムさは、我が(?)栗本薫にも通じるものがありますが、栗本薫の場合は、それでも謎解きミステリを書くとなれば、ポオ以降の伝統や型は意識していました。内田康夫になると、そのへんの、よってたつ土台が無いので、変化に富んだお話を滑らかに物語る反面、駄目なときは、ミステリ作法の基本のキすら出来ていない、“型なし”の弱点を露呈してしまいます。 ひさびさに読んだこの『隅田川殺人事件』は、そんな、駄目なときの内田康夫でした (T_T) 謎の設定、展開、解決、どれも論外です。 常識的に考えて、水上バスを降りるまで、いっしょに乗った親族が、“主役”の花嫁がいなくなったことに気づかないという状況は、まずあり得ません。一歩譲って、たまたま隅田川周辺で何かのイベントがあって船上は人でごったがえしていた、とでもいう設定が出来ていれば、まだしもですが。 そして、ともかくこの導入部であれば、花嫁に何か秘密があって、彼女が自分の意志で――何らかのトリックを使って――姿を消した、というふうに展開させるのが、まあ定石でしょう。じっさいに作者は、途中まで、そういう流れで筆を進めています。娘が行方不明だというのに、なぜ家族は捜索願いを出さないのか? という謎(最終的に、有耶無耶にされます)も、背後の秘密を匂わせる、布石だったはずです。 ところが、作者に霊感がわいたかして、目先の意外性を優先しストーリーにツイストを加えてしまったため……全体の整合性が滅茶苦茶になってしまいました。 最終的に浅見の口から語られる、大味な消失トリックの説明(おそらく、だろうな、かもしれない――が連呼されます)は、お話の中盤、他ならぬ浅見自身が否定してみせた要素を、まったくクリアしていません。 そして訪れる、衝撃のラスト! 良くも悪くも、「自由だなあ」です。隅田川というモチーフを、最大限にいかしてはいます。しかし、犯人の現行犯逮捕が失敗に終わった以上、浅見の告発を裏付けるモノは――何もないのでは? 釈然としないことがありすぎて、読了後、念のため、もういっぺん、最初から読みなおしてしまいました (^_^;) ミステリとして論外、という結論は変わりません。 しかし、不満たらたらで再読しながらも、場面場面のエピソードには、初回同様、結構、惹きこまれている自分がいたのは、悔しい。 知に訴えかける要素では、この小説は、はっきりいってシロウト以下の出来ですが、情に訴えかける要素では、やはり、さすがプロということでしょう。読者を楽しませる努力を惜しんでいません。その「読者」に、どうやらミステリ・マニアは含まれていないらしいにせよ、です。 ジャンルの登録は、隅田川を渡る水上バスが“現場”になったということで、なかば強引に「トラベル・ミステリ」とさせてもらいました。さすがに、これを「本格」とする気にだけは、なれなかったので…… |
No.165 | 2点 | 寝台特急カシオペアを追え 西村京太郎 |
(2016/04/02 16:02登録) 先日、コンビニで「トクマ・ノベルズ大活字マガジン」なるものを発見。「週刊アサヒ芸能」の増刊として、徳間書店が毎月、人気作家の旧作を雑誌形式で、“長編丸ごと入って500円”と謳って大型活字で刊行していっているようです。 その第一号(平成28年1月6日号)が、西村京太郎の『寝台特急カシオペアを追え』。初刊が平成12年8月の長編です。鉄道ファンならぬ筆者でも、今年3月の、北海道新幹線の運行開始にともなうカシオペア廃止のニュースは耳にしていましたから、気をひかれて手に取ってみると、巻頭に「西村京太郎作品に登場する寝台特急」というグラビア・ページはあるし、巻末に山前譲氏作成の「西村京太郎著作リスト」(初刊のみを対象にした、その著作数は、昨年末の時点で568!)はあるしで、それらを眺めているだけでも、結構、楽しめそうなので購入しましたw 西村作品は、比較的、初期の長短編をいくつか読んでいて、どれもそれなりに面白かった記憶はあるのですが、作者がトラベル・ミステリの第一人者になってからは、量産される十津川警部シリーズを追いかける気力もなく、すっかりご無沙汰になってしまいました(その点で、ほぼ山村美紗といっしょですww)。 それでも、第一線で活躍し続けるエネルギッシュなストーリー・メーカーとして、その存在を頼もしく思う部分はあり(なんだかんだいって、マニア受けする作家だけでは、ミステリも存続できないわけで)、この、せっかくの機会に、そんな流行作家の仕事ぶりを拝見させてもらうのも悪くないと考えた次第です。 こんなお話。 誘拐された娘の身代金2億円を持って、携帯電話による犯人の指示に従い、北海道行きの寝台特急カシオペアに乗り込んだ、資産家の父。犯人に先手を取られた十津川班の面々は、あわてて東北新幹線でカシオペアを追う。しかし、郡山で追いついたときには、カシオペアの車内に父親の姿はなく、2億円も消えていた。犯人からの連絡は絶え、人質も解放されないまま、時間が過ぎていく……。 やがて、青函トンネルを抜けた、その同じカシオペアのラウンジカーで、今度は乗客の男女が二人、射殺体で見つかる。この殺人と、誘拐事件に関連はあるのか? 道警に協力を要請した十津川たちが、殺された身元不明の男の、左腕の入れ墨の図柄を手掛かりに、捜査を進めていくと、第二の殺人事件が発生し――やがて同じ犯人グループによる、第二の誘拐事件まで発生することに! なるほどねえ。 ともかく読みやすい。読点を多用した文体に、最初はオヤッと思わされるのですが(まあ、他ならぬ筆者が、文章の読点過多をあげつらうのは、天に向かって唾するようなものですが)、慣れてしまえばライトノベルとおんなじで、クイクイいけます。その、とことん無駄をはぶいた文体は、ある意味、ダシール・ハメットを超えたかもしれないwww ミステリとしての出来は、まあ、褒められたものではありません。冒頭の誘拐事件からして、夕方、下校途中の女子大生をどうやって人目につかず連れ去れたのか分かりませんし、その父親の車のダッシュボードに、誰が、いつ、どうやって、列車のキップを入れることが出来たかの説明もありません。わざわざ列車内で殺人をおこす意味も不明ですし(被害者ふたりが列車を降りたあと、別な場所で殺せば、誘拐事件との関連を詮索されることも無かったでしょうに)、思わせぶりな入れ墨の手掛かりの処理――同志の誓いとして、同じ入れ墨をしたグループが存在する――には、首をひねるばかりです。 思うに、作者は、導入部のシチェーションだけで書きはじめている。作中の、十津川と亀井刑事のあいだのディスカッションなど読んでいると、ああ、西村さん、いっしょになって真相を模索しているな、とよく分かりますw 全体を律する謎などなく、事件が次々に起きることで目まぐるしく展開するストーリーとは、どこかで出遭ったような気がする。何が記憶を刺激するかと思ったら――ああ、そうか甲賀三郎だww しかし。 見切り発車したストーリーを強引にまとめあげ、ラストのタイムリミット・サスペンスに持ち込む腕力は、これはやはりたいしたものだと思います。西村京太郎の、道場の試合ではなく、野試合で勝ち抜いてきたキャリア、その自信が伝わってきます。 それにしても、ギリギリ土壇場で、十津川が犯人グループのリーダーに対して打った、起死回生の一手。これはフィクションの世界でしか許されないだろうなあ。 採点結果だけ見ると悲惨に思われるかもしれませんが、でも、もう少し十津川警部シリーズを読んでもいいかな、という気になっている筆者なのでした。 |
No.164 | 5点 | 死の匂い カトリーヌ・アルレー |
(2016/02/20 09:52登録) 長編第2作『わらの女』で国際的な評価を受けた、フランス女流サスペンスの名手カトリーヌ・アルレーが、それに先立つ3年前、1953年に発表していた、全編アメリカが舞台のデビュー作です。 このサイトへの投稿で、折にふれ『わらの女』に言及してきながら、じつは当の作者アルレーに関しては、昔々、その『わらの女』を読んだきりという、情けない読書歴しかなく……急に、これではイカンと思い立ち、ネットを介し古本で本書を購入してみました。 それにしても、筆者の学生時代、1970年代から80年代にかけて、アルレーは創元推理文庫の人気作家のひとりで、新作が続々と訳され、著作の多くが――TVのサスペンス・ドラマの原作に使われる頻度も高く――書店の棚で“現役”を続けていました。パトリシア・ハイスミスやマーガレット・ミラーなどに比べても、当時の日本では遥かにメジャーな存在で、ミステリ・ファン以外の固定読者が、相当ついていたと思われます。それがいまや、版元に在庫が残っている著作は『わらの女』のみ。栄枯盛衰の感慨を禁じえません。 さて。 ではまず、『死の匂い』の登場人物リストを見てみましょう。 ステラ・フォールディング…大富豪の一人娘 スペンサー・ブリッグス……医者、ステラの夫 ミス・ベルモント……………看護婦 と、載っているのは、この三人だけ。うん、いかにもフランス・ミステリですねw たちどころに、少数精鋭の心理劇が予想されます。 実際には、序盤でステラの父親も登場するわけですが、彼はすぐに退場(病死)します。卒中で倒れ、他の医者から見放されたこの父親を、独自の療法で一度は快方に向かわせたのが、気鋭のスペンサー医師であり、それがきっかけで、ステラとスペンサーは結婚することになるのです。しかし、独占欲の塊のようなステラは、専門の研究に従事したいという夫の願いを認めず(結婚のエサとして、研究施設への資金提供を約束していたにもかかわらず、はなから、そんな慈善的なことに金を使う気はなく)、女王のように彼を支配しようとするため、たちまち結婚生活には暗雲が――創元推理文庫の、おなじみの、扉のストーリー紹介の文章の表現を借りれば“死の匂い”が――漂いだします。 本書の原題はTu Vas Mourir ! ですから、そのまま訳せば「あなたは死ぬでしょう!」といった感じでしょうか。 冒頭、半身不随になった「私」ことステラの絶望的な“現在”が描かれ、そこからストーリーは回想形式で進行し、終盤、またステラの“現在”の意識に戻るという構成がとられています(ふと、同趣向の、栗本薫の短編「真夜中の切裂きジャック」を連想しました。文章を断絶させる印象的なエンディングといい、栗本センセ、『死の匂い』を意識してたことは、まず間違いない)。どうしてステラはこういう羽目になったんだろう? という疑問を読者にいだかせ、たちどころに小説世界に惹きこむ効果が大きい半面、次作『わらの女』のような、逆転のサプライズには欠けます。 そして、この現代版グラン・ギニョルの最大の弱点は、「どうしてステラはこういう羽目になったんだろう?」という、さきの疑問に対する答えに、およそ医学的な説得力がない事です。ある前提は用意されていますが、その病気のことを、作者がきちんと調べたうえでの嘘でないため、お話全体が、魔法の薬をめぐるファンタジーになってしまいました。 未知のことを書くなら、調べる。そしてディテールを詰める――そんな、プロ作家として当然の姿勢が、まだこのときのアルレーには出来ていなかった、とまで言うのは酷でしょうか。しかし、寝たきりになったステラの介護の模様を描くにあたって、食事の不便さに筆をさきながら、排泄行為のほうはまったく無視するというあたりを見ても、作品に真実味をもたせることに、作者が心を砕いていたとは思えないのです。徹頭徹尾、頭の中だけでこねまわした、猫と鼠のゲーム、そのシミュレーションにすぎません。 そんな、およそリアリティのない、観念的な小説が、面白いわけはないのです――本当なら。 ところが。 困ったことに、読ませるw もうねえ、筆力というものはどうしようもない。およそ感情移入などできるはずもない、自業自得のダメ女の内面描写が、しかし病的な興奮を喚起し、夢の中の出来事のようなドラマに迫真性をあたえてしまっているのですね。 それまでずっと“ツン”だった彼女が、恐ろしい体験をへて変貌をとげ、最後の最後に“デレ”る――くだりの、意識の洪水は、圧巻です。 それにしても、アルレーは本書を書いたとき、何歳だったのでしょう? 作者が言明を避けているため、その生年については、1920年から、24年、35年まで諸説ありますが、もし1935年生まれだとすれば……刊行時、18歳 !? いくらなんでもそれは無いだろう、と思いつつ、作品の、前記のようなリアリティの欠如を考えれば、あるいは、という気も。だとすれば、しかし、この才気、パワー、テクニックは、桁外れの化け物ですわ。 |
No.163 | 7点 | スペイドという男 ハメット短編全集2 ダシール・ハメット |
(2016/01/30 11:11登録) 1970年代に、全四巻が予定されながら、半分で刊行が止まったまま、結局、編訳者の稲葉明雄氏の逝去(1999年没)もあって中絶した、創元推理文庫のハメット・アンソロジー。 その第2巻は、『スペイドという男』として1986年に改装版が出るまでは、長く『ハメット傑作集2』として流通しており、今回、筆者が“積ん読”の象の墓場(?)から掘り起こしてきたのも、その旧版のほうです。 なんだかんだで、収録短編の過半数を、他の本で読んでしまっていたため、これまで、イマイチ通読する意欲が湧かなかった一冊でしたが、さて……。 収録作は以下の通り。 ①スペイドという男(1932.7 American Magazine)②二度は死刑にできない(1932.11.19 Collier’s)③赤い灯(1932.10 American Magazine)④休日(1923.7 Pearson’s Magazine)⑤夜陰(1933.10 Mystery League Magazine)⑥ダン・オダムズを殺した男(1924.1.15 Black Mask)⑦殺人助手(1926.2 Black Mask )⑧ああ、兄貴(1934.2.17 Collier’s)⑨一時間(1924.4.1 Black Mask)⑩やとわれ探偵(1923.12.1 Black Mask) これに、『フェアウェルの殺人』(旧題『ハメット傑作集1』)同様、エラリー・クイーンの“序文”が付されている構成ですが、今回は、その文章の出典が、クイーンの編んだハメット・アンソロジー The Adventures of Sam Spade and Other Storiesであることが明記されています(と、こういう、当たり前のことが前巻では出来ていなかったんだよなあ)。 「訳者あとがき」によれば、前掲書の収録作品(①②③⑦⑧)に、新たにコンティネンタル・オプもの二編(⑨⑩)と、稲葉氏が「とくに気に入っているもの三篇」(④⑤⑥)を追加したのが本書ということになるわけですが#……しかし、この編集方針は、あまり感心しません。 だってねえ、1944年に出版された The Adventures of Sam Spade and Other Stories は、それまで雑誌掲載のまま埋もれていた短編をクイーンが掘り起こしてまとめた労作(60年代初頭まで、都合9冊が刊行された、クイーン編纂のハメット・アンソロジーの皮切りで、あの〈クイーンの定員〉では #098 に挙げられています)なわけですよ。本来、きちんとした形で、つまりクイーンの選択になる本としてそのまま紹介すべき一冊を、お手軽に利用しているようにしか思えない。結果として、親本(?)より充実した内容になったとしても……稲葉氏のアンソロジストとしての姿勢には疑問が残ります。 気を取り直して、作品を見ていきましょう。 本書のウリは、まずは、名作『マルタの鷹』の主人公・サム・スペイド(創元推理文庫版での、探偵名の表記。ハヤカワだとサム・スペードですね)が活躍する、三作しかない希少な短編がすべて読めるということに、なります。 筆者は、「スペイドという男」は創元推理文庫の『世界傑作短編集4』で、「二度は死刑にできない」と「赤い灯」は、講談社文庫から出ていたハメット短編集『死刑は一回でたくさん』(各務三郎編)で既読でしたが、どれもストーリーをまったく忘れている始末で、その意味では、新鮮な気分で読み返すことができました。 が――う~ん、微妙。『マルタの鷹』の設定を踏襲しただけで、まったく陰影のない、アルファベットのVっぽい顔立ちをした金髪野郎が、ゴチャゴチャ入り組んだ事件をバタバタ解決していくだけの、平凡な仕上がりでした。 3編のなかでは、枚数に余裕のある「スペイドという男」が、二次創作的なキャラクター小説として、トリックと手掛かり(消えたネクタイ)を配した謎解き小説として、まあ、そこそこ無難な仕上がりといえなくはありません。しかし、顔見知りの警察関係者を差し置いて、巻き込まれた殺人事件の現場で捜査の主導権を握ってしまうスペイドは、まるで“エラリー・クイーンのライヴァルたち”の仲間入りをしてしまったみたいです。褒めてるんじゃありませんよ。作中、私立探偵が“名探偵”としてパフォーマンスを披露できるだけの、前提がまったく用意されていないんですから。 民間の私立探偵が、警察(公立探偵)と対立するのではなく、協力して、というか、むしろ警察を利用して仕事を遂行するというシチュエーションは、同じ作者のコンティネンタル・オプものでも、まま見られました。本書収録の「一時間」(“ゴチャゴチャ入り組んだ事件をバタバタ解決”する話が、かっきり一時間におさまることで、逆に笑いを誘う。前掲『死刑は一回でたくさん』にも収録)と「やとわれ探偵」(オプが“やとわれ探偵”となったホテルでおきた、意味ありげな謎の三重殺人――の、意味のなさ! オフビートな佳品)にも、その要素はあります。しかしオプものでは、それがむしろ、一匹狼ではない、主人公の属する組織(ピンカートン探偵社がモデルである、全国規模のコンティネンタル探偵社)の大きさを感じさせることになり、紙上のリアリティは保たれていたのです。 短編に関するかぎり、スペイドものは、試行錯誤を繰り返したオプものより、後退してしまっています。シリーズ最後の登場となった、「二度は死刑にできない(死刑は一回でたくさん)」の幕切れでは、犯人を前にいかにも“悪魔”然としたセリフを決め、笑ってみせたスペイドですが、いやいやオプが、「金の馬蹄」(ハヤカワ・ミステリ『探偵コンティネンタル・オプ』所収)で犯人におこなった非情な仕打ちに比べれば、甘い甘い。 『マルタの鷹』の、あの結末(スペイドと秘書エフィとの関係性の変化、そして相棒の未亡人と続けていくことになるであろう、虚無的な日常の予感)を無かったことにして、キャラクターを流用し形式的に続きを書くのであれば、むしろ完全に二次創作に徹して、『マルタの鷹』の前日譚のエピソード――スペイドと相棒との出会いやら、その妻と不倫にいたる経過やら、を何らかの事件と絡めて――でも描いたほうが、ファン・サービスになり、商売上もよかったかもしれません。まあ、それを潔しとするような作者でなかったことは、分かるのですがね。 本書の真価は、じつのところ、雑多な印象を受けることは否めないにしても、ハメットの初期から後期にかけての、作家としてのさまざまな試みを概観できる、ノン・シリーズもののほうにあると言えるでしょう。 胸の病気で入院中の患者が、一か月分の生活費をもって外出する、その散財の一日の出来事を綴った「休日」は、まだハメットがコンティネンタル・オプものを書きはじめる前に文芸誌に発表された、習作の域を出ない(と個人的には思う)掌編ですが、主人公のモデルが、結核を患い入退院を繰り返したハメット自身であろうことが、付加価値になっています。この、最初期の、ミステリでもなんでもないお話など読むと、もともとのハメットは、普通文学のほうに行きたかった人なのかな、という思いを強くします。 「夜陰」については、後述。 「ダン・オダムズを殺した男」と「殺人助手」は、オプものの合間に『ブラック・マスク』誌に書かれた作品です。脱獄囚の“旅路の果て”の物語である前者(前掲『死刑は一回でたくさん』にも収録)は、あらためて読むと、三人称客観描写のハードボイルド文体のテスト・ケースにも思えてきます。あまりにも大きな偶然に依存しているのが難ですが、舞台となる西部の背景描写は素晴らしく、一種の寓話として、目をつぶるべきか。これ一作きりの、刑事くずれで醜怪な容貌の私立探偵アレック・ラッシュものの後者(ハヤカワ・ミステリ『名探偵登場⑥』に採られていたんだよなあ)は、「三人称客観描写」を謎と解明の物語に適用している点で、オプものからスペイドものへの移行の、準備段階とも言える作品。ですが、お話を複雑にしすぎて、前記の文体では、読者が作中の人間関係をスムーズに把握できない弊害をもたらしています。また、当初の犯行計画にも大きな論理的欠陥(カトリーヌ・アルレーの『わらの女』にも通じる問題)がありそう。そんなわけで“名探偵”ものとしては失敗作なのですが……小説がまったく別なものに変わってしまうような、ラスト5行が凄い。ハードボイルドの定型に亀裂が入り、ノワールが深淵を覗かせています(そのへんの凄さは、初読時の、子供の頃の自分には、ま、理解の外だったでしょう)。 そして。 スペイドものの長短編を経て、ハメットの作家としての最後期の仕事といえるのが、「夜陰」と「ああ、兄貴」です。うん、ともに今回が初読のこの2編は、いいですよ。主人公の“おれ”とトレーナーの兄の関係性、その魅力でグイグイ読ませるボクシング小説の後者は、最後に殺人も発生しますが、その謎解きは――幾つかの可能性は語られるものの――ないんですね。リドル・ストーリーとも違う。あくまで起こってしまったことが問題で、あとからその真相を云々したところで、死者が帰ってくるわけでもない、という、いわば脱ミステリの境地で終わるわけですが、それが肩すかしにならず、余韻に昇華されています(内容的に、女性読者にお勧めしたいハメット作品――と個人的には思っていますw)。 余韻といえば……「夜陰」も然り。夜道を通りかかった“私”が、嫌な男たちに絡まれている女の子を助け、車で彼女の希望する酒場に連れていってやる――という、ストーリー的には、ただそれだけの掌編。なのですが、最初期の「休日」と決定的に違うのは、そこに、作話上のある仕掛けが隠されている点(「訳者あとがき」の、稲葉氏の本作に対するコメントは、できれば先に読まないのが吉)。オチのつけかたの妙味という点では、過去に言及したことのある、同じ作者の「アルバート・パスター帰る」(筆者のお気に入り。本サイトの、ハメット『悪夢の街』のレヴューをご参照ください)にも通じますが、オチが、意外性の演出にとどまらず、それ以上の小説的効果をあげているという点では、こちらに軍配があがるでしょう。「普通文学のほうに行きたかった人」かもしれないハメットが、既存のミステリ短編の枠にとらわれず、しかしまぎれもないミステリ・スピリットを発揮してみせた、この洗練された逸品を投じたのは、『ミステリー・リーグ』誌――わずか四号で終焉を迎えはしたものの、あのエラリー・クイーンが、『EQMM』以前に情熱をもって世に送り出したミステリ専門誌の、創刊号でした。 # 念のため、The Adventures of Sam Spade and Other Stories の初刊本(1944)の収録作を資料で確認してみると―― 「 赤い灯」「二度は死刑にできない」「スペイドという男」「殺人助手」「夜陰」「判事の論理」「ああ、兄貴」 となっており、稲葉氏の記述とは若干の齟齬がありますが、これは同氏が使用されたテクストが、1945年のデル・ブックス版ということで、収録作に異動があった(アブリッジされた版であった)ためと思われます。 |
No.162 | 9点 | マルタの鷹 ダシール・ハメット |
(2015/12/31 16:14登録) ひさしぶりにハメットを読もうと、ハヤカワ・ミステリ文庫の『マルタの鷹』〔改訳決定版〕を手にした直後に、訳者の小鷹信光氏の訃報に接しました(12月8日、逝去。享年79)。 ハードボイルドの“鬼”であり、何より海外ミステリの研究者・紹介者として、筋金入りのプロでした(氏が編まれたアンソロジーを、一冊でも読まれた人なら、実感されるでしょう)。 筆者は一度だけ、あるパーティでたまたま小鷹氏とお話する機会があり、『コンチネンタル・オプの事件簿』のレヴューのなかに、そのときのエピソードを記しています。 寂しいなあ。 今回読んだ「改訳決定版」(2012年 発行)は、このところ早川書房が押し進めている、いささか無節操な感のある「新訳」とは性格が異なります。1988年6月にハヤカワ・ミステリ文庫から刊行された旧訳版『マルタの鷹』の訳者である、小鷹氏自身の手になる改訳なのです。 新たに付された「あとがき」によると、アメリカ文学研究者の諏訪部浩一氏が2009年から《英語青年》のウェブサイトに連載された〈『マルタの鷹』講義〉(のち、紙の本としてまとめられ、第66回 日本推理作家協会賞の評論部門を受賞)に接し、「きびしい英語教師の添削に身をすくめる生徒の気分」となり、旧版の翻訳時の「辞書の不備、検索の不徹底さ、深読みのいたらなさ、安易な誤読、単純な校正ミスなどを思い知らされ」、その反省から改訳を決意されたようです。これはしかし、なかなか出来ることではありませんよ。頭が下がります(筆者などは、ミステリがアカデミックな研究材料となることへの抵抗があり、諏訪部氏の本に目を通す気にもならずにいたのですが……料簡の狭さを、いま反省しています)。 はからずも、追悼のための読書、といった感じになってしまいました。あまりのタイミングに、いささか運命的なものを感じたりもしています――って、我ながらオーバーな表現ですね。 でも、たまたまそういう偶然があった、というだけのことなのに(そして、世界が恣意的であるなんてことは、人生五十年も生きてくれば、当然のように分かっているはずなのに)、ついそこに特別な意味を見出したくなるのが、人間というもの。 『マルタの鷹』第7章で、主人公の私立探偵サム・スペードが、ヒロインたる、一筋縄ではいかない依頼人・ブリジッド・オショーネシーに語る、有名なフリットクラフトのエピソード(まるで問題の無い日常を送っていた男が、あるとき、オフィスから昼食をとりに外に出たまま、忽然と行方をくらましてしまうが……その原因は、たまたま建築中のビル工事現場から彼の近くに落ちてきた、一本の梁にあった)のように。 筆者は中学生時代に、創元推理文庫版(村上啓夫訳)でいちど『マルタの鷹』を読んでいますが、そのときは、随所に印象的な場面や描写があるとは思いながらも(とりわけ第二章で、スペードが警察からの電話で眠りを妨げられ、起きだしてパートナー殺しの現場に向かうくだりの、客観的なナレーションは、忘れがたいものでした)、肝心のお話は、どこがどう面白いのか分からず、前述の「フリットクラフトのエピソード」も、なぜスペードが突然、当面の事態とは無関係に思えるそんな話を持ち出したのか、理解不能でした。 あらためて読み返してみれば、ああ、これは愛の告白だよなあ、とピンとくるわけですが(こちらも、それなりに年をとったということです ^_^;)。ブリジッドと何やらつながりがあるらしい、怪しい男を呼びつけ、両者を激突させることで局面の更新をはかる前に、「きみは、おれの人生に落ちてきた梁なんだ」というメッセージをブリジッドに伝えようとした――でも、まったく伝わらなかったんですね。 そして……そんな、人生を変えるような恋と冒険(お宝の争奪戦。いってみれば、このお話はオトナ版の『宝島』なんです)をしたはずのスペードは、でも最終的に、フリットクラフトと同じような“日常”に吸収されていってしまう。あとに残るのは、宴のあと――たとえそれが、狂乱の宴だったとしても――のような虚脱感。ああ、これはやっぱり名作だわ。 表面上の設定や部分的な要素を、後続の作家たちは模倣・流用しまくったわけですが、本書は本来、ハードボイルド・ミステリへの葬送曲ともいうべき作品であり(その意味では、探偵小説のパロディとして執筆されたはずなのに、結果として“黄金時代”を先導する役割を担うことになった、E・C・ベントリーの『トレント最後の事件』と近いものがありそうな)、ジャンルの創始者たるハメットが、これを書いてしまったことに、ある感慨を覚えます。 似たようなことは、『赤い収穫』の再読時にも感じました。主人公を徹底的に使い切って、搾りかすみたいにしてしまったら――そりゃハメット、シリーズものとして続きを書くのは楽じゃないよぉ。 そして。 真相を知ったうえでの再読で明瞭になるのは―― 本書が、じつはミステリとしていったい何が“謎”なのかを、巧みに隠している、きわめて技巧的な作品であったのだなあ、ということ。ごく初期の段階で、その謎は提示されているにもかかわらず、初めて読む人は、事件の連鎖(ミスディレクション)に気をとられ、何が中心となる謎なのか把握できず、まったく別な興味で読み進めるでしょう。それが、最後になると…… という、その“仕掛け”を可能にしているのが、ハメットが本書で採用した、探偵役の三人称客観描写(その行動に密着しながら、しかし内面にはまったく踏み込まないという、作者の視点)なのです。 探偵役の一視点で展開するハードボイルド・ミステリが、露呈しがちな弱点は、主人公の内面描写をおこないながら、作者の都合で謎解きに関する思索を選択してオミットする不自然さです。かりに、調査の過程で、手掛かり自体はフェアに提示されていたとしても、主人公の内面から、推論を組み立てるプロセスが欠落していては、本当の意味でフェアとは言えないでしょう。往々にして、ハードボイルドの名探偵は、いつのまにか全部お見通し――か、でなければ、急に閃いて全部分かりました――になってしまう(ような気がする、というのが本当ですね。あんまりハードボイルドを読んでない人間なので、アテにしないでください w)。 『マルタの鷹』も、一見、そんなふうに見える。 ですが、クライマックスの対決場面でスペードが開陳する謎解きは、それまでの混沌とした状況のなかにあって、段階的に得られたデータを総合したものです。その指摘を念頭において、最初からお話を振り返れば、スペードのなかで疑惑がじょじょに確信に変わっていったプロセスを、それがじっさいには書かれていないにもかかわらず、読者は紙背に読み取ることが可能になる、そしてそれは、スペードという陰影のあるキャラクターの肖像を、あらためて浮かびあがらせることにもなるのです。 とまあ、本書のきわめて実験的な三人称記述を、筆者はそんなふうに理解したわけですが……本当は、もっとブンガク的な意味(ヘミングウェイの影響とか?)があるのかも知れません。そのへんは、いずれ諏訪部先生の「講義」で勉強させてもらうつもりですw 『赤い収穫』のパワーと『マルタの鷹』のテクニック、前者の破天荒さと後者の完成度、どちらを上に置くかは、これはもう、個々の評者の好みでしかないでしょう(『デイン家の呪い』なんて無かったww)。 あえて差をつけるため、本書の採点を9点としましたが(レヴュー登録済の『赤い収穫』は10点です)、これは、最後のほうの、スペードの告発(二段階に分かれており、第一の告発が、必然的に第二の告発に繋がる)の、警察に対する有効性にやや疑問を感じたためで、一介の私立探偵のコトバだけで、裏付けなしに簡単に警察が逮捕に向けて動くものか? という、その甘さをマイナス要因としたことによります。 あと、小説としてさらに欲を言えば―― 舞台となるサンフランシスコが、随所に細部描写はあるものの、それが細部描写にとどまって、主人公サム・スペードの「おれの町」として立ち上がってこないウラミがあります。町と、そこで生きる人々のポートレイトに、もう一工夫欲しかったと思います。 やがてカリフォルニアを舞台に、ハードボイルド・ミステリのそうした潜在的な魅力を引き出したのが、フィリップ・マーロウの創造主・レイモンド・チャンドラーということになるのでしょうが、それはまた別な話。 |