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Tetchyさん
平均点: 6.73点 書評数: 1602件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.1142 7点 白銀ジャック- 東野圭吾 2014/08/29 13:12
おっさんスノーボーダーである東野圭吾が存分に自分の趣味を全面に押し出したのが本書だと云えよう。冬季オリンピックを題材にしたエッセイ『夢はトリノをかけめぐる』で述べられていたスノーボードをテーマにした作品『フェイク』とは本書のことだろうか。

全てが見えない糸で導かれるかの如くに解き明かされるこのカタルシス。いやいやこれが文庫オリジナルなんてどうしてどうして!物凄くコスパの高い作品ではないか!

今回珍しく思ったのは全編にスキー、スノーボードの専門用語や俗語が横溢していながらもそれらについての細かい説明などはなかったことだ。それは日本人ならば当然だろうと、ウィンタースポーツの門外漢を置き去りにするが如くで、とにかく「俺はこれが書きたかったんだ」と作者が愉しんで執筆していることが行間から滲み出てくるほどだ。物語の最初から終わりまで、まさにスキー、スノーボードの疾走感を覚えるが如く一気読み必至の1冊だ。最近ドラマ化されたのも頷けるほどの出来栄え。録画しとけばよかったなぁ、ドラマ。

No.1141 7点 エクサバイト- 服部真澄 2014/08/22 23:03
今やウェラブル・カメラが販売されるようになった2014年現在。その6年も前にほくろサイズの超小型ウェラブル・カメラと15テラバイトもの大容量記憶端末を体内に埋め込んで一生分の目にした画像を記憶する“ヴィジブル・ユニット”なる装置を創造した服部氏の慧眼にまず物語冒頭から開いた口が塞がらないほどの衝撃を受けた。常に時代の先端を予見し、我々のまだ見ぬ世界を見せてくれる服部氏だが、今回もその期待は裏切らず、いやはるかに超えた高度情報化社会の光と影を見せつけてくれた。

今まで古い書物や残された手記、更には写真と云った媒体を介してでしか当たることのできなかった歴史。それが映像として記録され、再現されることになったのはまだ前世紀の後半になってからだ。そして物語の舞台となった2025年では誰もが歴史の生き証人となり、その目の当たりした画像が貴重な情報となっていく。しかし企業はそれを買うのではなく、寧ろ料金を徴収してストックするサービスを行う。それは誰もが生きていた証を後世に遺したいという欲望を持っているからだ。この人間の原理に着眼し、新たなビジネスを創造した作者の発想の妙。しかしいつもながら何と云う事を考え付く人なのか、服部氏は。

しかしそんな新しいビジネスにも影が潜んでいる。いつもながら服部氏は巨大企業のサービスの裏に潜む企みを一般市民の我々に痛烈に突き付けてくれる。甘い話には裏があるというが、この世の中には建前のカバーストーリーがあり、企業の真の目的は個人のプライヴァシーまで踏み込んで私腹を肥やすことにある。

2025年から2119年という94年という永いスパンで語られる本書は高度化する技術の果てしのない騙し合いがいつの世でも繰り返される虚しさを物語っている。歴史の証言者たろうとした者が遺した記録媒体は100年後では改竄が当たり前になった世の中では真実であることさえも疑われる。真贋を判定するソフトにかけないと情報の真偽でさえ、偽の画像がリアルすぎるがゆえに判断できなくなってしまっている。これぞテクノロジーのジレンマではないだろうか。我々は人々のニーズに応えて色んな物を生み出してきたが、それは果たして本当に正しいものだったのか?ニーズがあるからそれがいけないことだと知りつつも開発され、生み出された物もある。しかしそれを求める人間、いや発想し具現化する者がいる限り、このテクノロジーの果てしのない愚かなゲームは終わらない。

我々はどこに向かい、そして何を得るのか。本書を読んでそんな思いを抱いた。

No.1140 7点 泥棒は抽象画を描く- ローレンス・ブロック 2014/08/21 23:16
4作目ともなるとシリーズキャラクターが定着して読者はローデンバーの住む世界に還ってきた気になり、物語にすっと入り込める。レズで泥棒のパートナーでもあるキャロリン・カイザーを始め、前回の事件で知り合った画家のデニーズ・ラファエルソンも再登場し、端役だった前回とは違い、本書では絵画がテーマでもあって、かなり重要な役割を果たすことになる。そして腐れ縁の警察官レイ・カーシュマンももちろん健在だ。

さてそんな連中が一堂に会する本書の事件とは意外にもキャロリンから端を発する。キャロリンの愛猫アーチーが何者かに誘拐され、バーニイはキャロリンの力になるうちにモンドリアンの絵を盗むことになる。そんな最中に巻き込まれるのがモンドリアンの絵の所有者であり、バーニイに古書の鑑定を依頼したオーダードンク氏の殺人容疑に、町の芸術家ターンクウィスト殺害の容疑だ。

しかしそんな本書の事件の真相は実に複雑。蓋を開けてみれば名画を巡る贋作、また贋作が飛び交う名画詐欺の全貌が見えてくる。

シリーズを重ねるごとに事件の構造が複雑になってきて、読者側も理解するのに最後の解決シーンではかなりの頭脳労働を強いられてくる。それもそのはずで、本書のもう1つの楽しみは古書店主であるバーニイの特徴ゆえに随所に古典ミステリに関する薀蓄やウィットが散りばめられている。それらがクイーンだったり、カーだったりスタウトだったりと日本の本格ミステリファンにはお馴染みの名前や作品が上がってくるのだ。
特に最後ではキャロリン自身がレックス・スタウトの作品みたいに“モンドリアンが多すぎる”と称するのには思わずニヤッとしてしまった。まさにこれこそが本書に相応しい題名だろう。

しかし泥棒バーニイにとって巻き込まれる事件は2件の殺人事件の冤罪とよくよく考えるとかなり重い内容となるのに、このバーニイの軽快さは一体何なのだろう。危機を危機と思わずむしろ嬉々として状況を愉しんでいるかのように思える。事件が重なるごとに彼の状況はさらに複雑になってきているが、次回もまた泥棒の七つ道具を右手に、そしてユーモアを左手に持って我々に楽しい本格ミステリと物語を見せてくれるに違いない。

No.1139 5点 夜明けの街で- 東野圭吾 2014/08/20 22:46
これは世の女性が読めば男に対する嫌悪感が否応なしに増す物語だろう。妻子ある男が自分を正当化して浮気し、不倫まで発展していく様子と、それを上手く隠して家庭を守ろうとする姿に憤りを覚える女性は少なくないだろう。奥さんに罪悪感あるのなら不倫しなければいいじゃん!と本書を読みながら声高に唱える女性読者の姿が目に浮かぶようだ。
さらに火に油を注ぐかの如く不倫相手の派遣社員仲西秋葉が実に都合のいい女性として描かれている。30代、165センチのすらっとした鼻筋の通った眼鏡美人。しかも渡部の家庭を崩すことは考えておらず、週に一度デートとセックスをしてきちんと家に帰すというまさに世の男が理想とする不倫相手なのだ。しかも渡部の奥さんの有美子は夫の不倫を疑っていない(ように描かれている)。
特に渡部の主観から映る有美子の様子は世の女性ならばそんな嘘はすっかり奥さんにはお見通しなのよ!とばかりにすごい剣幕で読んでいるのではないか。
このまさに男にとって実に都合のいい話はしかし最後でどうにか救われる。

だからといって同性である男性が共感する話かと云えば決してそうではない。私はこの主人公渡部の身勝手な言動に終始腹を立てていた。本書はアラフォー既婚男性である渡部の一人称叙述で語られており、この渡部の言葉や思想がいやに断定的でこれが世の中の男性の思いを代弁しているかのように書かれているのが非常に腹立たしかった。
曰く、妻とのセックスはときめきはなく、ただ外的な刺激に反応しているだけ。世の中の夫婦の大多数はもはや男と女ではない。結婚式と結婚は違う。結婚は安心を得るためにし、その安心を得るために払った代償は大きかった。いい母親はかつてのように恋人の対象ではない、セックスしたい対象でもない、かつて愛した女性とは別物。
こうやって挙げていくだけでも非常に失礼甚だしい渡部語録のオンパレードだ。一緒にすんな!と何度も声に出してしまったことか。

また渡部の生活にもリアルさがないのが気になった。建設会社の主任クラスで移動にタクシーを頻繁に使い、銀座や横浜のバーで飲み食いし、さらにはホテルをとって毎週情事に浸るなんて、およそ一介のサラリーマンの懐事情とはかけ離れた生活をしているのが非常に気になった。こんな生活が出来るほど貰ってないだろう。ましてや家のローンも残っているだろうし、そんなときに真っ先に減らされるのが夫の小遣いなのだから、この辺のリアルさに欠ける描写の数々は東野作品らしくなくて非常に気になった。

そんな不快感を終始覚えた本書は最後の事件の真相が明らかになってどうにかギリギリのところで踏み止まってくれた。やはりこれはミステリだった。事件の関係者がたった4人でしかも特に不可能趣味がある犯罪ではないのに、意外な真相と人の心の裏面を描き出してくれた本書はクイーンの後期の作品に通ずるエッセンスを感じたというとほめ過ぎだろうか。

しかしとはいえ、やはり不倫を正当化する男の話は読みたくないものだ。同性としてなんとも情けなくなってくる。

No.1138 8点 読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100 - 事典・ガイド 2014/08/20 00:12
みなさんおっしゃられているように、本書は今までの海外ミステリのガイドブックに挙げられている名作とは異なり、絶版の多い海外ミステリの中でも今読者が手に入れることのできる作品を選出しているのが特徴的だ。
またさらに選者は配慮して海外ミステリに疎い、または抵抗のある読者に対して比較的読みやすい作品を選んでいる。そのため、作家のいわゆる代表作が挙げられているわけではない。それが本書の功罪であるのだが、私のように海外ミステリを長い間読んできた者にとっては逆に典型的に陥らず、実に新鮮であった。
しかし惜しむらくは各作品紹介における選者の“熱”が希薄であることだ。恐らく杉江氏はもっと語りたかったのであろう。それは歴戦の読者であり評論家である作者の素性を知っていれば当然の理解だ。しかし敢えて各作品について深く語ることをしなかった。これは海外ミステリ初心者に対する配慮ゆえだろうが、逆に海外ミステリ好きにとっては浅薄な印象を受けた。8点はこれに起因する。
恐らく杉江氏自身もその辺のさじ加減にフラストレーションを感じていたのでだろう。このようなガイドブックでは異色の第2部と称して、挙げられなかった、もしくは敢えて挙げなかった作品や作家についてかなりの筆を費やして語っている。しかしそれは逆に想いが強すぎてよく評論家が陥る作品と作家の列記に陥っているのは否めない。

しかし本書の意義は非常に深い。かつて海外ミステリに追いつけ、追い越せとばかりに日本のミステリ作家は切磋琢磨してきた。そして海外ミステリの新作がハードカバーで出版され、それらが売れていた時代があったのだ。しかし昨今は日本の読みやすいミステリのみを読んで育ってきたミステリ読者が非常に多く、海外ミステリを読んだことのないミステリ読者が蔓延しており、もはや海外ミステリの新作は文庫版でしかも1冊1,000円以上は当たり前と云った状況が続いている。この単価の高さは即ち海外ミステリの売れ行きの低さの表れなのだ。そんな絶望的な状況を打破すべく、前述のサイトを立ち上げ、さらに海外ミステリの読者層を拡げんがための本書なのだ。
ここでは敢えて本書に挙げられた作品については触れない。海外ミステリを長く読んできた者にとってはあまり目新しさを感じないガイドブックであることも正直にここに宣言しよう。しかし本書を読むことで海外ミステリに手を出してみようかなと1人でも思えば幸いである。

No.1137 9点 影の兄弟- マイケル・バー=ゾウハー 2014/08/09 23:29
本書はアメリカとソ連、すなわちCIAとKGBの永い冷戦の歴史を数奇な運命を辿ったアメリカとソ連に別れて育てられた2人の異父兄弟の生き様に擬えて語った一大叙事詩だ。いやもっと端的に云うならば米ソ二大国を巻き込んだ壮大な兄弟ゲンカとなるだろう。

アレクサンドル・ゴルドンとジミトリー・モロゾフ。2人の兄弟の生い立ちはアメリカとソ連が辿った冷戦の歴史そのままだ。アメリカに渡って伯母の許で育てられ、西洋の文化に触れ、アメリカ側からソ連の有様を知るアレクサンドル。
一方ソ連に留まり、孤児院で荒んだ生活を送りながらKGBに所属するジミトリー。父親の死を知らされることでユダヤ人を憎むようになる彼は深く深く憎悪の闇へと堕ちるような人生を送る。
この対照的な二人の生き様はまさに陰と陽。それはそのままアメリカとソ連の辿る歴史の行き様でもある。
我々はアレックスとジミトリーの生涯を通してアメリカとソ連、そして1960年代から90年代にかけての世界情勢の暗部を知ることになる。スターリンのヒットラー信望から端を発するソ連国内での大量ユダヤ人虐殺、いつ失脚し、粛清を受けるか解らない極限の緊張下に置かれたソ連政府の高官や軍人たちは秘密裏に西側諸国へ亡命を企て、ソ連政府は情報漏洩を阻止すべくKGBの工作員たちを派遣し、次々と粛清していく。

この兄弟が殺戮の狂宴を国家権力を用いて繰り広げる絶望的な展開のなか、どう転んでも悲劇的な結末でしかあり得ないだろうと思われた読者の予想をバー=ゾウハーは軽々と覆してくれた。

いやはや何と云う物語を紡いだものだ、バー=ゾウハーは!まさに世界の表と裏を知り尽くした彼しか書き得ない叙事詩だ。

No.1136 7点 黄金のランデヴー- アリステア・マクリーン 2014/07/28 22:43
マクリーン7作目の本書は豪華貨客船上で起こる数々の不審死とミステリ風味溢れる設定で幕が開ける。

いつも通りに行われるだろう出港は小型核兵器を盗んで失踪した科学者の捜索のため、アメリカ海軍の調査で足止めされ、さらには突然の乗客の要請で棺桶をニューヨークまで運ぶ羽目になった豪華貨客船。そんなトラブルでも航海は上々と思われたが、スチュワード長の失踪を皮切りに首席通信士、四等航海士が遺体となって発見される。
そんな展開はまさに船上の密室状態で繰り広げられる本格ミステリなのだが、物語の半ば170ページ前後で犯人は判明し、一味を取り押さえる事に成功して物語は一件落着の様相を呈するのだが、そこはマクリーン、単なるミステリでは終わらない。
そこからはまさに怒涛の展開。船内に忍び込んだテロリスト一味の仲間によって船は制圧され、主人公のジョニー・カーターも機関銃によって太腿を撃ち抜かれ、重傷を負う。

極寒の海、難攻不落の要塞、周囲を敵に囲まれた戦線の只中と人の極限状態を引き出すシチュエーションで不屈の闘志で苦境を切り抜ける人々の姿を描いてきたマクリーンだが、この頃になると自然との闘いというシチュエーションから孤島の中の基地、豪華貨客船という限られた場所で起こる事件に変化してきている。それでも1作から一貫しているのは戦艦や石油採掘基地、ミサイルといった特殊な乗り物や設備の詳細な描写だ。それらが素人がちょっとした取材で付け焼刃的な似非専門家になった程度の浅薄なものではなく、物事の本筋を知り尽くした玄人はだしであるのが毎度感嘆させられてしまう。
それは逆に極限状態の環境でなくてもスリラーは成立することをマクリーンは証明したことを意味する。本書では豪華貨客船での優雅な航海が一転してテロリストたちによるシージャックによって制圧され、また彼らの計画によって通常迎える予定ではなかったハリケーンに出くわすことになるのだ。
そしてそんな荒波の中、太腿に三発もの銃弾を負った主人公ジョニー・カーターはテロリストたちに立ち向かうべく、ヒロインの富豪の娘スーザン・ベレスフォードと共に奮闘する。
よくよく考えるとこれは今現在採用されているハリウッドの一大アクション映画のシチュエーションではないか。

当時出版すれば映画化が定番となったマクリーンも映像化を意識した創作に移行していったことを気付かされたのは何だかさびしい思いがした。これが後期の作品の質を低からしめる要因になったのではないかと思うのだが、それは今後の作品を読むことで判断したい。

No.1135 10点 ポジ・スパイラル- 服部真澄 2014/07/24 11:59
文庫版の本書の帯には「地球を温暖化から救う『秘策』がこの小説にある!」と謳われているが、これは決して誇張ではない。陸海空に渡って環境破壊が叫ばれて久しい閉塞感と危機感で将来不安を抱えている人類に輝かしい未来の姿が本書には描かれている。
今回服部真澄がその切っ先鋭いペンのメスを入れるのは地球温暖化と農林水産省、国土交通省などの利権によって侵食された海洋汚染。このテーマはいつかは取り上げるだろうと思っていたので、とうとうやってくれたという感が強い。

今までの服部作品では巨大企業や勢力によって牛耳られようとしている世界の構図をまざまざと見せつけられ、巨象、いや巨大な鯨のような存在にミジンコほどの個人が対抗するといった構成が多く、それらは痛快ではある物の、やはりどこか無力感が漂い、些細な抵抗といった感が否めなかった。
しかし本書はそのタイトルが示すように、希望の持てる再生の物語であるのが特徴だ。高度経済成長期以来行われてきた海洋開発によってもはや詩の海となりつつある日本の海。それは温暖化を助長させ、もはやどうにもならない所まで行きつつある。しかし海はゆっくりながらも着実に再生していることが示され、干潟や浅瀬を取り戻すことで日本の海、とりわけ東京湾を昔の豊穣な海に戻そうという動き、そして暴力的なまでに生命線を遮断するが如く次々と閉ざされた諫早湾の水門をこじ開け、かつての有明海を取り戻そうとする物語展開が絶望から再生へと向かう希望の物語になり、読んでいてものすごく気持ちがよかった。

今までその綿密で緻密な取材力とそれを材料にこれから起こるであろう時代の出来事、産業界の動きなどを悲観的に描き、我々を心胆寒からしめた服部氏が、その作者の強みを存分に発揮し、「こういう風にすれば未来はもっと良くなる」と示す本書はこれまでの作風とは全くもって真逆のものであり、実に爽快な読後感を残してくれる。題名の通り、未来は明るいのだと思わせる本書を、政治家、官僚の全てに読んでもらいたい。本書に描かれている日本を待っている。

No.1134 5点 クイーン犯罪実験室- エラリイ・クイーン 2014/07/18 23:12
題名こそ『クイーンの犯罪実験室』だが、中身はミステリとしては作品を支えるには乏しいワンアイデアを基に作られた短編を集めた物。ほとんど推理クイズの域を出ない物ばかりだが、逆に云えばそんなアイデアでもミステリが書けるのかという命題にチャレンジした実験短編小説集と云えよう。

長編ミステリを著すにはネタとして弱いが、短い話ならば書けるワンアイデアを活かした短編が並ぶ。その中には英米、米仏など異国の文化の違いから生まれる違和感からエラリイが推理する短編もあり、日本人が十分楽しめる知的ゲームとなっていないものもある。
しかしそれらは恐らくダネイとリーはいつも2人でこんなアイデアを話して、ミステリの種を探していたのだろうなと云うのがよく解る、知的パズルのような趣を感じる。逆に云えばどんなアイデアでもミステリ短編に仕立てる雑誌編集者の魂というか、商業根性を感じてしまったが。
特に多いのがダイイング・メッセージ物で、特に短い単語や名前から隠されたメッセージを推理する趣向の作品が非常に多い。実に16編中7編と半分近くがそれに類する。そしてそれらが単純な犯人特定の手懸りになるわけではなく、そこからまた謎が深まる、もしくはミスリードとして使われているというヴァリエーションも見せつける。

なるほど確かに本書は犯罪実験室だ。恐らくは言葉遊びや知識を競う遊びをして思いついたアイデアの数々。それらを犯罪に応用することが出来るのかがクイーン2人の試みを示したのが本書。

ちょっとした頭の体操をするにはちょうどいい作品が、そして少しだけ感心してしまうアイデアの妙が詰まった作品が揃っている。そんなアプローチで復刊しませんか?早川書房さん!

No.1133 9点 おかしなことを聞くね- ローレンス・ブロック 2014/07/11 23:53
今や短編集ではジェフリー・ディーヴァーが挙げられるが、それまではブロックのこの短編集が非常に完成度の高い短編集として挙げられており、今なお本書を読むべき作品として挙げる作家もいるほどだ。

ジェフリー・ディーヴァーの短編集がどんでん返しに重きを置いているものとすれば、ローレンス・ブロックのそれはどんでん返しにホラーにサイコ、クライム、悪徳弁護士、対話物、連続殺人鬼、ファンタジー、ネオ・ハードボイルドと実にヴァラエティに富んでいるのが特徴的だ。

個人的ベストは「あいつが死んだら」、「アッカーマン狩り」、「保険殺人の相談」、表題作、「夜の泥棒のように」。
「あいつは死んだら」はその着想の妙を買う。「アッカーマン狩り」は最後3行目の台詞に、そして表題作は古着のジーンズ卸し会社の本当の社名が秀逸。それらが暗示する恐ろしさといったら…。「夜の泥棒のように」はバーニイが登場する作品だが、他人の目から見たバーニイが新鮮で、しかもストーリーもきちんとオチが付いているという絶妙な作品。

とにかく精選された単語、言葉遣いを短いセンテンスで入れるため、一言に凝縮されたその意味が実に濃厚。表題作の会社名、「アッカーマン狩り」の犯人がふと漏らす一言など実に効果的。しばらくこれらは私の脳裏から離れられないだろう。
短編と云うのはこういうことを云うのだと云わんばかりの名品揃い。ブロックと云う作家の全ての要素を出し切った作品集と云えよう。特に作家たちはこの本をお手本にすべきだろう。ストーリーの語り口に運び方、言葉選びなど多く学ぶべきエッセンスに満ちている。

しかしどうして本書も絶版なのだろう。実に勿体ない。

No.1132 8点 使命と魂のリミット- 東野圭吾 2014/07/06 17:16
東野圭吾初の医療ミステリ。大学病院を舞台に脅迫犯による大動脈瘤切除手術の妨害工作と医師たちの必死の救命劇、そして刑事と犯人との息詰まる攻防を描いたサスペンス作品となっている。

刑事と医師と脅迫犯の三つ巴の攻防を描いた本書はミスによる死が生んだ奇妙な復讐劇である。
加害者側は論理的に問題を分析し、正当性を見出そうとするが、人を亡くした人には論理よりも感情が先に立つ。そこがこういった外的要因による人の死の加害者と被害者に横たわる深い溝なのだろう。
そしてそれら情念の炎が消えないままで、自分の大切な人の命を間接的に奪った人が目の前に、手の届くところに現れたら、その人はどうするだろうか?
そんな心のしこりを抱えた人々が奇妙な縁で絡み合う物語だ。

『殺人の門』、『さまよう刃』、『容疑者xの献身』と東野圭吾はやむにやまれず殺人を犯さずにいられなかった人々の姿を描く。そのいずれも大事な物を奪われた者に対する復讐だったり、自らの安心を得るために思わず犯してしまった殺人だったりと、よんどころない事情で犯さざるを得なかった犯罪だ。そのため、その物語を読む読者は犯罪者側が捕まらずに本願成就することを望むかのように応援するような心理に陥ってしまう。
本書の直井穣治もそんな復讐者の一人だ。

但し一方で復讐が成就されることを望みながら、彼の行う犯罪で犠牲になろうとする患者がいることで読者に迷いを生じさせる。つまり犯罪はどんな動機であれ、許されるべきではないことをきちんと東野は描く。この辺の微妙な匙加減が非常に上手い。

ただ本書ではいくつか疑問に思う点があった。
その中でも最も大きいのは犯人が病院に2度目の脅迫状を受付の診療申込書に紛れて来客に見つけさせるシーンだが、なぜ警察は監視カメラをチェックしないだろうか?
監視カメラはあると書かれているのに一切その件については触れていない。どんな警察でも監視カメラをチェックするのは当然だと思うのだが。

No.1131 7点 悪魔のスパイ- マイケル・バー=ゾウハー 2014/06/28 23:20
第一次大戦中、パレスチナで活躍したユダヤ人諜報組織NILIの中にトルコ軍の情報をイギリス軍に流し続けた1人の女性スパイがいた。バー=ゾウハーがこの隠れた史実を元に構成されたのが本書である。

本書が史実に基づいていることもあってか、第一次大戦中に名を馳せた実在の人物たちが登場し、登場人物たちと絡み合う。
例えば映画にもなって今なお伝説視されている“アラビアのロレンス”ことロレンス少佐はサウル・ドンスキーとイギリス軍のパレスチナ進攻作戦で論を交わす。
また図らずも女スパイに仕立て上げられたルースの連絡係エンマ・アルトシラーはかつて稀代の女性スパイ、マタ・ハリと共にコンビを組んでいたスパイであり、新任のルースを事あるごとにマタ・ハリと比較して毒づく。
特にロレンスについてはかなり筆が割かれ、また物語のサブキャラクターとしても重要な位置を占めている。

国を跨る巨大な宗教、民族が複雑に絡み合う状況こそ、パレスチナ問題やアラブ諸国が抱える紛争の数々の火種なのだ。大学時代にこの複雑なイスラム諸国の状況については講座を取ったが、やはりいまだに十分に理解できない。それは信仰に対してさほど意識が薄い日本人には次元の違う問題なのだろう。なんせ第二次大戦では大量にユダヤ人を虐殺するドイツがユダヤ人保護を訴えているくらいなのだ。

大義という大きなことをなすために多少の犠牲は必要だというが、その大義のために人生を狂わされた家族がある。ルースたちもまた歴史の犠牲者なのだ。
ところで本編で登場するオーストラリア軍のジェフリー・ソーンダース中佐だが、作者の初期2作で主役を務めていたCIA工作員ジェフ・ソーンダースとは無縁なのだろうか?各登場人物のその後を語るエピローグにそのことについては触れられていないものの、冷戦時に活躍したスパイの父親が実は歴史的な出来事に関わっていたというのは作者のファンサービスだと捉えているがどうだろうか?

No.1130 10点 清談 佛々堂先生- 服部真澄 2014/06/23 22:39
これはまさに掘り出し物の逸品だ!

服部真澄氏と云えば国際謀略小説やコン・ゲーム小説、そしてビジネスの世界に焦点を当てたエンタテインメント小説のジャンヌ・ダルク的存在だが、古美術や骨董品の目利きとして名高い通称“佛々堂先生”が登場する連作短編集はそれまでの彼女の作風を180°覆す、日本情緒溢れる古式ゆかしい物語だ。

扱われる題材は日本画、和菓子、焼き物、和食に山守りと日本に昔から伝わる伝統の物や仕事。そしてそれらが抱える問題は先細りする産業であることだ。いい腕やセンスを持っているのにそれに気付かない製作者がいる、才能はあるのに一皮剥け切れない芸術家がいる、止むを得ない事情で店をたたまざるを得ない名店がある、
佛々堂先生はその本質を見極める目を持って、彼ら自身ではどうしようもできない見えない壁を突き抜けるお手伝いをする。ある意味再生の物語であると云えるだろう。

しかしこれほどまで作風がガラリと変わるものだろうか?作者名を知らずに読むと、例えば泡坂妻夫氏あたりの作品だと思う読者がいることだろう。
元々作者には海外を舞台にした作品が多いため、作品にはカタカナが多用されているが、本書ではそれらを封印するかの如く、漢字とひらがなで表記することで情緒やわびさびと云った粋な世界を感じさせる。

そして作者が本書のような作品を綴ったのには恐らく佛々堂先生が溢す言葉にもあるように、昔なら常識とされたことが世代間の伝達が途切れてしまったために、物事を知らない人が多すぎることに危機感を抱いたからだろう。私も実は年配の方が常識と思っていることを知らないことに気付かされ、失笑を買うことがある。日本人が古来、その知恵によって生み出した機能美を21世紀に残すため、伝えるためにこの作品を著したと私は思ってしまうのである。

氏の作品では約260ページと最も分量が少ないのに、実に濃厚で深みを感じさせる短編集。そして今まで服部作品で弱みとされていたキャラクターの薄さが本書の佛々堂先生で一気に払拭されてしまった。

作家服部真澄が扱う主題からストーリー、プロットを丹精込めて練り込んだそれこそ一級の工芸品のような物語の数々である。

正直に告白しよう。私は本書が服部作品の中で一番好きな作品である。既に手元にある続編を読むのが非常に愉しみだ。

No.1129 7点 泥棒はクロゼットのなか- ローレンス・ブロック 2014/06/20 00:51
泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ2作目の本書でまたまたバーニイは泥棒に入った家で殺人事件に出くわしてしまう。
行きつけの歯科医クレイグ・シェルブレイクから突然頼まれた元妻クリスタルの所持する宝石類を盗み出してほしいという依頼を受けたバーニイはクリスタルが男漁りに外出している安心感からか、思わず長居をしたために(なんと1時間17分もの盗みに没頭していた)、当人が帰ってきたためにタイトルが示す通り、クロゼットに隠れて情事の最中に出くわし、更には殺人事件にも居合わせてしまうという何ともおかしな巻き込まれ方だ。

いやはや実に読ませる作品だ。典型的と云えば典型的、マンネリと云えばマンネリだが、それでも安心印で面白く読めるのがこのシリーズのいい所。
しかしそれでも本格ミステリの妙味がこの作品には溢れている。

特に今回はバーニイが被害者クリスタルの親しい人々を捜すのにマット・スカダーよろしく酒場のはしごをする件が非常に面白い。そしてそれが単なる作品のアクセントだけに留まらず、事件の裏に隠されたある犯罪とそれを仕組んだ謎の弁護士ジョンの判明に一役買うのだから、実に上手いではないか。

そしてバーニイが間抜けな強盗と化した、隠れたクロゼットに家主から鍵を掛けられ、出られなくなったことさえも、なぜ被害者がクロゼットに鍵を掛けたのかという理由が実に秀逸で久々に本格ミステリの持つサプライズを味わった思いがした。

こんな風にスラップスティックな調子なのに、そんな状況でさえ本格ミステリの妙味に変えてしまうシェフ、ローレンス・ブロックの腕前。なんて素晴らしいんだ。

さて今や絶版状態のこのシリーズ、今までブッ○オフなどで古本で買って読んでいたのだが、今回は電子書籍で読んでみた。
最初は使いにくさに戸惑ったが、慣れればさほど苦痛ではなかった。
でもでもやっぱり紙の本の方が読みやすいなぁ。

No.1128 10点 赤い指- 東野圭吾 2014/06/15 10:03
人にとって家族とは何なのだろうか?そして人にとって死に際に何が胸に去来し、そして残された者たちはその人にしてやれる最良の事とは一体何なのだろうか?

『容疑者xの献身』で直木賞を受賞し、ミステリ界のみならず出版界全体の話題になった後の第1作目。それはもう1つのシリーズ、加賀刑事物の本書だった。そんな期待値の高い中で発表された作品はそれに十分応えた力作だ。

読む最中、様々な思いが頭を駆け巡る。まず本書が中学生による幼女殺害事件、即ち未成年による犯行だということだ。東野圭吾は未成年によって我が娘を蹂躙された上、殺害された父親の側からの復讐を描いた『さまよう刃』という何とも遣る瀬無い作品があるが、本書では逆に殺人を犯した未成年の息子をどうにか捜査の手から守ろうと奮闘する普通の家庭を描いている。但し東野氏は今回を同情の余地のある犯行とせず、犯罪者の直巳をあくまでどうしようもない身勝手な社会不適合者とし、さらにその愚息を守ろうとする母八重子も実に身勝手で自己中心的な人物として描き、読者に感情移入をさせない。
更に犯行隠蔽のために父昭夫が思いついたあるトリックは先の『容疑者xの献身』のそれの変奏曲と云える。
もしかしたら本書は『容疑者xの献身』の批判的な意見に対しての作者なりのアンサーノヴェルなのかもしれない。

しかし善悪や好き嫌いで単純に割り切れない、長年連れ添った縁という人生の蓄積が人の心にもたらす、当人しか解りえない深い愛情に似た感情を、東野氏は加賀の父親との関係を絡ませて見事に描き切った。

今までのシリーズで断片的に加賀と父親正隆の不和は加賀の若い頃にあった父の母親に対する仕打ちが原因だということは語られていたが、本書では松宮という正隆の甥でしかも同じ警察官の目を通じてその根が思いの外、深いように知らされる。しかし最後の最後で当人同士しか解りえない絆や理解を披露してくれたことで、この陰鬱な物語が実に心が晴れ渡るような読後感をもたらしてくれた。

こんなたった300ページの分量で、しかもどこにでもありそうな事件からどうしてこんなに深くて清々しい物語が紡ぎ出せるのか。東野圭吾はまだまだ止まらない。

No.1127 7点 黒い十字軍- アリステア・マクリーン 2014/06/12 22:00
イギリス情報部員ジョン・ベンタルが挑む潜入捜査。オーストラリアで起こっている技術者たちの謎の失踪事件をベンタル自身が燃料工学の専門家に扮して一連の事件の謎を探るという話だ。

舞台は南国の島国フィジー。ヤシの実に白い砂浜、肌を撫でる貿易風に揺られながらハンモックで昼寝をする。およそ諜報活動とは無縁の世界で繰り広げられるのは楽園に隠されたイギリスの秘密基地。しかも今回は男女の情報部員による任務ということでどこか007を思わせる設定だ。作者マクリーンも意識的なのか、偽装した夫婦として任務を課せられたマリーとベンタルが当初は反目し合いながらも次第にお互いを想いあうようになる。下手をすればハーレクインロマンスと見紛うかのような内容だ。
それもそのはずであとがきによれば本書はイアン・スチュアート名義で書かれた作品とのこと。つまり従来のマクリーン作品とは一線を画した舞台設定と登場人物を想定した作品なのだ。

そんなマクリーンの手によるスパイアクション小説はしかし突飛な小道具や秘密兵器といった物は一切出ず、ベンタルが次第に傷を負い、ボロボロの身体で満身創痍になりながらもどうにか新型兵器ダーク・クルーセイダーの持ち出しを阻止しようと奮闘する。主人公が何でも一流の腕でこなすスーパーマンのような男ではなく、敵と味方の反感を買いながら、自分が死ぬことなど厭わない不屈の心を持っているところがマクリーンらしい。

珍しく軽さを感じる文章でクイクイ読ませる作品だったが、結末はかなり苦いものだった。しかしこの読みやすさは今後もあってほしい。防諜機関の長である上司のレイン大佐を自らの手で射殺したイギリス情報部員ジョン・ベンタルの今後が描かれるのか、皆目見当つかないが、もう1作くらいなら彼が主役を務める作品を読んでみたいと思わせる、なかなかな作品だった。

No.1126 8点 無名戦士の神話- マイケル・バー=ゾウハー 2014/06/05 21:45
1984年5月28日、アーリントン国立墓地にヴェトナム戦争無名戦士の葬儀が当時のレーガン大統領の弔辞を伴って行われた。マイケル・バー=ゾウハーが選んだ本書の題材はこの史実に基づく無名戦士の身元を探る物語である。
しかしそこはバー=ゾウハー、単に身元不明の遺体の正体を探るだけの話にはしない。その遺体に残された弾丸と手榴弾がアメリカ製であるという仕掛けを施す。つまりこの兵士が味方に殺されたのではないかというスキャンダラスな謎を放り込む。

謎の解明に当たるウォルト・メレディスの前に立ち塞がるのが無名戦士が所属していた元第37連隊々員だったスティーヴ・レイニー。ある時は先回りして同士に連絡して協力しないように手を回し、中には既に自らの手でその命を奪った同胞もいる。それほどまでにして隠す無名戦士の死とは一体どんなスキャンダルなのかと俄然興味が増してくる。

しかしこの真相は実に微妙だ。何が正義で何が悪なのか?敵と味方に別れて大量の殺戮を行う戦争という特殊状況の中では我々が日常的に持っている倫理観は通用しないのだ。

今なおヴェトナム戦争については語られることが多い。特にデミルはライフワークとしているようにも感じられる。そのどれもが異口同音に語るのが初めてアメリカが正義ではなくなった戦争だということだ。そんな無益な戦争で犠牲になった兵士たちが人間性を喪い、狂気に駆られてもはや普通の生活さえも送れなくなった戦争の惨たらしさが本書でも書かれているが、それは本当に人間のやることなのかと背筋に寒気が起きるようなことばかりだ。そんな戦争だったからこそ無名で死ぬようなことはあってはならない。無名戦士の名を明らかにすることはすなわち兵士を一人の人間として尊厳を取り戻すことに繋がるのだ。
しかし、だ。本書を読んだ後では事はそう簡単ではないことに気付かされた。無名戦士を葬ることでまだ還らぬ夫や息子、父親の入れ子として弔うことが出来るのも確かだ。そして何よりももはや人間であることさえも喪失してしまったあの戦争の真実を晴らすことは場合によっては残された遺族の尊厳をも汚辱にまみれさせることをバー=ゾウハーは本書の結末で痛烈に突き付けた。

本書には戦争が決して英雄的行為ではなく、人間が生んだこの世で一番愚かな行為であることを示してくれた。従って英雄などいないのだ。そこにあるのは戦争を美化するための神話や伝説があるだけだ。真実は常にそんな美談とは対極の位置にある、バー=ゾウハーは静かに我々に教えてくれた。
ミステリ以上の味わいをまたもやもたらしてくれた。しかし今回は殊の外、考えさせられ、苦かった。

No.1125 7点 NOS4A2―ノスフェラトゥ―- ジョー・ヒル 2014/05/31 14:36
常に我々の想像を超える世界を見せてくれるジョー・ヒルが今回描いた世界は特殊能力者たちの世界。主人公ヴィクは自転車に乗って近道橋を渡り、失った物を取り戻す能力を持つ。彼女の宿敵となるのは「NOS4A2」、ノスフェラトゥ、つまり吸血鬼の名をナンバープレートに冠するロールスロイス・レイスを駆り、子供たちを自分の世界<クリスマスランド>へさらう連続誘拐魔チャールズ・タレント・マンクスⅢ世。

しかし本書は単純な対決の物語に作者はしなかった。ヴィクとチャールズ・マンクスとの戦いはなんと数十年にも及ぶのだ。1986年に能力が発現したヴィクが初めてチャールズと対峙したのは1990年。そこから現代に至る約四半世紀もの間、2人の戦いは続く。そしてその戦いはヴィクの息子ブルース・ウェインをも巻き込み、ヴィクは母親としてチャールズ・マンクスと対峙するのだ。

いつもそうだが、ジョー・ヒルの描く物語の主人公は決して聖人君子のような素晴らしい人間でもなく、また愛すべき人柄を備えた人物ではない。
しかしどんなに破綻しているように見えながらも、それぞれの家族も子供を愛する気持ちは強く持っていることをこの物語は強く訴える。
子供を平気で虐待し、または自分の好きなことをするために育児放棄する親の許にいるよりは、毎日がクリスマスである、自分の夢想が創り上げた<クリスマスランド>にいて、楽しく過ごす方が子供たちにとってはいいではないかと子供たちをさらうチャールズ・マンクスは腐った現代社会において闇の救世主のように映る。しかしダメな親であっても子を愛する気持ちはかけがえのない物だと必死にマンクスの魔手から我が子ブルースを救おうと奮闘するヴィクとルーの姿は喪われつつある親子の絆の深さの象徴だ。他者から見れば不幸としか映らない家庭環境が実は当人たちにとってはそれもまた幸せの1つの形なのであることを投げかける。

瀕死の重傷を負いつつも、鋼鉄の馬トライアンフを駈るヴィクの姿は物語の前半に出てくる昔のアメリカドラマ、「ナイトライダー」の主人公マイケル・ナイトのようなヒーローのようだ。まさに女だてらの「Knight Rider」ではないか!手負いの母親ほど手強いものはない。母の愛こそ最強の武器なのだ。

しかしそれでも上下巻合わせて1,120ページもの分量が必要だったのかは甚だ疑問だ。300ページくらいは余裕で削れるのではないだろうか。抜群の奇想とそれを物にする技量はあるものの、長編小説となると妙に饒舌になるヒルは率直に云って短編向きのような気がする。作品を重ねるにつれ、長大化が進むヒルだが、向こうのエージェントならびに出版社はヒルにもっと文章を削ぎ落とすようアドバイスすべきではないだろうか?
この長さがなければ手放しで傑作と太鼓判を押そう。それほどまでに爽快な読後感を抱かせてくれる物語なのだから。

No.1124 7点 エル・ドラド- 服部真澄 2014/05/17 23:35
服部真澄は常に時代を先行する。数々の時代を先取りしたセンセーショナルな題材を扱ってきた彼女が本書でテーマに挙げたのはもはや世界的に巨大な産業へと発展したアグリビジネスの実態だ。
物語は3本の柱で構成される。
1つは蓮尾の親友であった少年アダムが焼死したシングルトン一家放火殺人事件の謎。
もう1つは時代の寵児と呼ばれる科学ジャーナリスト、レックス・ウォルシュが一大センセーションを巻き起こすであろうと思われる次作を巡っての謎。
最後の1つは世界のワイン事情を左右すると云われているワイン・ジャーナリスト、シリル・ドランの新作の訳出を巡る物語。
これら3つの物語は1つの大きな軸に収束していく。それは世界の農業事業を牛耳る巨大コングロマリット「ジェネアグリ」の存在だ。そしてそのジェネアグリが率先して開発しているのが遺伝子組み換え作物、GMOと呼ばれるキメラ作物だ。

真相は今までの服部作品を読んでいれば想像するに難くはない。服部氏にとってアメリカという巨大な鷲は恐るべき存在なのだろう。デビュー作『龍の契り』からアメリカが香港返還に絡むところから始まり、その後の『鷲の驕り』、『ディール・メイカー』とアメリカが世界を牛耳ろうと画策しようと企む構造を一貫して描いてきている。圧倒的な取材力で世界の最先端技術をテーマに作品を綴ってきた服部氏が取材過程で目の当たりにした光景なのか、それは定かではないが、アメリカという国が持つ底知れぬ恐ろしさを知るがゆえに同国が与える世界への脅威は氏にとって決して離れる事の出来ないテーマなのかもしれない。

ただ人物造形はいつものように浅く、この浅さこそが服部作品の弱点だと私は考える。真相が明らかになるにつれ、さらにその奥に隠された真相が一枚一枚、ヴェールを剥がされるように明らかになり、やがて与えられていた真相はひっくり返り、正義が悪に、悪は道化師に、囮に、と価値観が覆される物語構成は一級のスパイ小説、エスピオナージュを髣髴とさせるのだが、そんな重層的なストーリーを引っ張る強烈なキャラクターが氏の作品にいないのも事実。それについては今後の服部作品に期待しよう。

アジアへの利権、特許、IT産業にアニメ産業、さらにアグリビジネスへと様々な分野で世界市場を乗っ取ろうと知恵を絞るアメリカ。これら服部作品に書かれている事象はそう遠くない未来に起こりうるであろうアメリカによる世界経済侵略なのかもしれない。次は我々に服部氏はどのような衝撃を与えてくれるのか。グローバリゼーションという明るい価値観の影に咲く仇花をまたその筆で描いてくれることを楽しみにしていよう。

No.1123 8点 八百万の死にざま- ローレンス・ブロック 2014/05/08 19:42
本書こそローレンス・ブロックという作家の名を世に知らしめ、そしてマット・スカダーシリーズを一躍人気シリーズにした作品だ。私立探偵小説大賞受賞作。

作中、市井の事件がマットが毎朝読む新聞の記事から挙げられる。それはどれもが奇妙な諍いの記事。どこかで誰かが誰かを傷つけ、また争っており、そこに死が刻まれている。キムの事件を担当する刑事ジョー・ダーキンと酒場でお互いが見聞きしたそれらの事件を挙げ合う。そして最後にジョーは昔あったTV番組を挙げる。“裸の町には八百万の物語があります。これはそのひとつにすぎないのです”それは警官たちにとっては八百万の死にざまがあるだけなのだという言葉で締め括られる。
その後マットはその言葉を意識し出す。新聞を読むたびに出くわす不条理とも云える死にざま。単なる比喩としか思えない八百万もの死にざまは、マットの中で本当にそれだけの死にざまがあるのではないかと思えてくる。そんな八百万の死にざまのうち、マットが扱うのはキムの死は1つにしか過ぎない。八百万のうちの1つにしか過ぎないのだが、その1つは自分にとって途轍もなく大きな意味を持っているのだ。

また本書では今までのシリーズと違うことが2つある。
1つは今までの事件は過去に起きた事件を掘り起こすことがマットの依頼だったのに対し、今回の事件は進行形で起きることだ。依頼人だったキムの死から始まり、彼女のヒモ、チャンスが抱える街娼の1人サニー・ヘンドリックスの死、そしてクッキーと云う名のオカマの街娼の死と続く。連続殺人鬼を扱いながら過去の事件を題材にしたのが前作『暗闇にひと突き』なら、本書では連続殺人事件そのものをマットが扱う。前作が静ならば本作は動の物語であると云えよう。
もう1つは上にも書いたが本書では前作『暗闇にひと突き』で登場したジャン・キーンが登場することだ。今までのシリーズでは警官のエディ・コーラーを除く全ての登場人物がスカダーにとって行きずりの人々だったが、このジャンは初めてスカダーの心に巣食う忘れえぬ人物として刻まれている。そしてスカダーは本書で初めて禁酒を行うが、ある時暴漢に襲われ、過剰な暴力で撃退し、酒にまた救いを求めようとする。しかし以前酒に飲まれた彼はそれを心の底から怖れるのだ。そして彼が見出した唯一の救いの光がジャンになる。
このシリーズに広がりが生まれた瞬間だ。

自分の依頼人だったコールガールの死から始まった一連の殺人事件の物語は最後の一行に至り、これは実はマットの自分との闘いの物語だというのが解る。
今までこのシリーズ1冊に費やされたページ数は270ページほどだったが、本書は480ページ以上にもなる。つまりマットが自分の弱さに向き合うのにそれだけの物語が必要だったのだ。
正直私はこの最後の一行がなければ評価は他の作品同様7点のままだった。しかしこの最後の一行で物語の真の姿とマットが抱えた苦悩の深さが全て腑に落ちてきたことで一つ上のランクに上がってしまった。

自分の弱さを認めたマットは無関心都市ニューヨークの片隅で起きる事件に今後どのように関わっていくのか。今まで人生の諦観で自分を頼る人たちに便宜を図っていた彼が自分の弱さと向き合いながら事件とどのように向き合うのか。さらに評価が高まっていくこのシリーズを読むのが楽しみで仕方がない。

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