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tider-tigerさん
平均点: 6.71点 書評数: 369件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.35 6点 メグレとマジェスティック・ホテルの地階- ジョルジュ・シムノン 2023/11/20 23:01
『これからも<メグレ警視>シリーズを含めたシムノンの小説をたくさん紹介していきたい』 by 早川書房編集部

~超高級ホテルの地階で女性の死体が発見された。状況的には遺体の発見者ドンジュが犯人のように思えるのだが、メグレは犯人は別にいるとにらんでいた。いつものごとく根拠はあまりないのだが。

1942年フランス。メグレシリーズ第二期最初の作品にして新訳。ミステリとしてしっかりとしたプロットがあり、ホテル内部の背景描写なども存外に丁寧になされている。読み方によって面白くもつまらなくもなりうるメグレシリーズにあって、ミステリ的に普通に読める作品として初メグレにも適した作品ではあるが……。

まず前提として本作はエンタメとしてもミステリとしてもなかなか出来がよい。だが、今回は長所をあげることよりも違和感を中心に書いていきたい。
冒頭の男女の描写は実にいい。お洒落なフランス映画のようだ。
だが、話が進むにつれて少しずつ違和感が。描写に妙な拡がりを感じる。それ自体は悪いことではないが、どうもメグレを読んでいるような気分にならない。カメラの位置がいつもと違うのではなかろうか。なんだかんだメグレを中心というか、カメラはメグレのすぐ近くにある印象だったのに、本作はメグレ置き去りにカメラがあちこち移動しているような印象がある。いい悪いではなく、違うと感じた。 
メグレの気分も妙に安定しており、神経症的な描写に乏しい。さらにメグレ夫人がお喋りすぎる。
ミステリとしても悪くないし、プロットもしっかりしている。みなさんが指摘されているようないい場面、ドラマもある。が、なにか普通のいい話であり、メグレじゃなくてもいいのではないかと感じてしまった。

空さんが翻訳に疑問を呈されていたが、自分も(翻訳由来なのかはわからないが)強い違和感があった。例えば、ホテル内部の描写なんかがシムノンにしてはくどいと感じた。また、シムノンがこんな気の利かない文章を書くのかと感じた箇所がいくつか。二つ例をあげておくと。
20頁『だが、(メグレは)すぐに肩をすくめて、パイプをくわえなおすと、ゆっくりとふかした。朝いちばんの煙草だ。最高の味がする』後の二文、シムノンが書いたとは思えない。
22頁『支配人の顔は暗かった。殺人事件が起きるなんて、ホテルにとっては大迷惑だ』二つ目の文章、小学生が読んでいるんじゃないんだからこんなわかりきったことの説明はいらない。

瀬名さんがれいの連載でこんなことを仰っていた。
『作家の人生観や信条に興味はないが、ただ暇つぶしのために面白い小説を読みたいという(おそらくは大勢の)読者にとって、第二期メグレはうってつけの小説だろう』
本作を読む限りでは、まったく同意である。そして、これって褒めているのだろうか? 今回は主観重視の6点とさせていただきます。

読書メーターなどで反応をみるに早川書房のメグレ新訳シリーズはおおむね好評を博しているようで、いちファンとしては非常に喜ばしく思っている。メグレシリーズは爆発的に売れるようなものではないだろうが、瀬名さんの尽力もあり、ジワジワとファン層が広がっていくのではないかと期待している。特に第二期作品を自分はほとんど読んでいないので(いままでメグレのすべてを知っている風な口を聞いておりましたが、ここで白状しておきます)、冒頭の早川編集部の言には大いに期待している。
そんな動きに水を差すような書評になってしまいました。ごめんなさい。

No.34 6点 オランダの犯罪- ジョルジュ・シムノン 2023/06/22 12:04
~フランス人教授が講演のため訪れていたオランダ北部の町で殺人事件が発生した。教授は被疑者としてオランダに留め置かれることとなり、メグレ警視が彼の地へと派遣されることになった。

1931年フランス。メグレシリーズ初期作品。『メグレと深夜の十字路』の次に発表された。ミステリ色が強いというか、きちんとミステリの手法を取り入れて書かれている。最初に容疑者候補がずらずらと紹介され、最後にみんなが集まって解決に至る。

メグレの捜査は事件関係者宅での牛の出産の手伝いからはじまる。
「こんな職業におつきになったのは初めてでしょ?」
事件関係者18歳のベーチェがからかうように訊いてくる。
「最初ですよ」と、メグレは答える。
※これは初めてやったの意ではなく、「子供時代の最初の仕事は牛の世話でした」すなわち子供時代のサン・フィアクル村での経験を話したのだろうか。
メグレはベーチェの部屋に通される。
「ねえ、パリにいるみたいでしょう?」と、ベーチェ。
うーん。『シムノンは行き当たりばったりに書いていた』という説が疑わしくなってくる。少なくともベーチェの人物像はこの時点で完璧に固まっている。プロットも固めていたのではないだろうか。
本作はかなり計算されて書かれているように思える。作りがきっちりとしていて、メグレ物にありがちな茫洋としたところがあまりない。本格ミステリとして充分に愉しめる。
山のない国が舞台であるという先入観のせいかもしれないが、景色が妙に開けて感じる。メグレ物には珍しい感覚がある。ヨハネス・フェルメールの『デルフト眺望』が思い浮かぶ。

エピローグとなっているノートの章で、怖ろしいというか、すごく痛そうな事実が明らかになる。その事実をサラリとメグレに告げた人物を怖ろしく感じた。そして、ラストの一文が素晴らしい。この一文で千代の富士のお尻のように作品がグッと引き締まった。

メグレ警視シリーズの中には古書価が高騰している作品がいくつかある。『死んだギャレ氏』クリスティ再読さんも触れていらした『メグレ警部と国境の町(未読)』そして、本作もそうした一冊。

瀬名さんが『シムノンを読む』でかなり高評価されている作品だが、自分はそこまでの思い入れはない。ただ、完成度が高い作品だとは思う。シムノンについて瀬名さんの仰ることには大部分賛同できるのだが、実作の評価となるとけっこう違っていたりもする。面白いものだ。
『霧の港のメグレ』についても瀬名さんの評価は高かったが、自分はクリスティ再読さんの評価に近い。
『オランダの犯罪』に対する評価はメグレ物を順番に読み進めている瀬名さんと、中期後期ばかりを最初に読み漁っていた自分の違いもあるような気がしている。
瀬名さんは『メグレと若い女の死』をかなり評価されているが、そこは自分もまったく同じ。
ちなみに映画版はぜんぜん『メグレと若い女の死』ではなかった。まったく別の話といってもいいくらいだ。映画の原題は『Maigret』そう。シムノンが正面から書こうとはしなかったメグレ警視の姿が描かれていた。ちょっと泣きそうになった。

No.33 8点 汽車を見送る男- ジョルジュ・シムノン 2023/03/21 01:10
~キース・ポピンガは会社でそれなりの地位に就き、決まり切った毎日を送る生真面目な男。世界各地の花の絵がおまけについているからと特定の銘柄のチョコレートばかりを買うような男。だが、社長の悪さに巻き込まれてすべてを失うことになってしまい、だったらいっそ……汽車は軌道をはずれていくのであった。

1938年フランス。シムノンお得意の逸脱の話です。素直に読めば他者に運命を決定されることを拒否して、その縛りから逃れようとする話なのでしょうが、どうにも腑に落ちない描写があったりもして、どんな読み方をすればいいのかと考えてあぐねている部分もあります。いずれにしても面白い作品です。特に後半はスキーの上級者のようなクイックイッと小気味よく曲がりながらの直滑降で飽きさせません。ラストもいい感じです。犯罪心理を描いた小説が好きな方にはお薦めします。

とりあえず訳が古くて読みづらいのです。變とか歸とか實とか勘弁してください。まあそれはともかく。
自分は本作の緊張感と脱力感が交互に訪れるところ。スリリングでユーモラスな点がとても好きです。
ポピンガは『太陽がいっぱい』のように場当たり的で、『太陽が眩しくて』なみにすっとぼけていて、そのくせ気に入らないことを新聞に書かれるといちいちツッコミを入れたうえに手帳にそれを書き込んだりもする粘着質な面もあり、なんだかおかしみを感じさせます。
一緒にいた女に「あんた人を殺したでしょう?」と追及されても「それよりもご飯を食べたい」などと言い出す始末。
自分がシムノンを読んで、強く異邦人を意識させられた最初の作品はこれでした。
作中、ポピンガは「夜汽車というのは二度と戻ってこないような気がする」みたいなことを言っておりました。自分は「結局のところ汽車は軌道をはずれて走ることはできない」などと思うのです。ポピンガの趣味がチェスであることは象徴的なように感じました。

瀬名さんがれいのコラムでシムノンがハメットを読んでいたことに言及されていました。ああなるほどと思いました。
自分はジム・トンプスン、パトリシア・ハイスミス、そして、シムノンの三者はどこかつながっているように感じていました。ここにハメットを入れてもそれほど違和感はなさそうです。
ついでに違和感ありありですが、シムノンはチャンドラーも読んでいたのではないかと想像しております。

御存知の方も多いと思いますが、ハヤカワから立て続けにメグレものが出版されます。刊行が決まっている、もしくは発売済は以下の三作です。
『メグレと若い女の死【新訳】(発売済+映画化)』
『サン・フォリアン寺院の首吊人【新訳】(5月発売予定)』
『メグレと超高級ホテルの地階【初の書籍化】(発売日未定)』

自分が新訳を熱望していたのは『サンフォリアン寺院の首吊人』と本作『汽車を見送る男』です。
どちらも面白い作品なので新訳で出せば新たなシムノンファンが生まれることを期待できると思います。後者だけでも実現したのは非常に嬉しい。
発売済の『メグレと若い女の死』は読みました。近々新訳と旧訳の比較をしたいと思っています。映画を観てからかな。ちなみに『メグレと若い女の死』は中学生文庫版(雑誌の付録)で『かわいそうな娘』と改題されて出版されています。
そろそろ書評をと思っていた自分の中ではセットになっている二作『男の首』『サン・フォリアン寺院の首吊人』は後者の新訳を読んでから書評することにします。

No.32 5点 サン・フィアクル殺人事件- ジョルジュ・シムノン 2022/12/04 18:33
~『死人祭の最初のミサのあいだに、サン・フィアクルの教会で犯罪が起こる旨をお知らせいたします』
こんな具合に犯罪を予告する手紙がメグレの元に届く。
メグレの記憶が確かなら、サン・フィアクルというのは彼の生まれ故郷であった。~

1932年フランス。邦題は『役立たずのメグレ』でもよかったかもしれません。みなさんご指摘のとおりメグレはおたおたするばかりでほぼ何もしておりません。全体的な構図としては『メグレ激怒する』を思わせるところありますが、あっちはいろいろメグレなりに頑張っておりました。本作のメグレは茫然自失状態であります。
最後の晩餐のシーンは自分も好きで、強引に帳尻合わせはできているのかなとも思いますが、失敗作だというご意見も頷けます。瀬名さんも『ダメだこりゃ』的なことをれいの連載で書かれておりました。
本作はメグレ警視シリーズの熱心なファン以外はスルーでよろしいかと。採点は5点とします。

まともな書評はここまでとなります。
以下、かなり独りよがりな読み方となります。

シムノン後期の作『ちびの聖者』と似たところがある作品だと感じます。『ちびの聖者』と本作の間にはほとんど共通点はありません。ただ、両者はともに幼いころから胸に抱き続けているイメージを扱った作品だと思うのです。イメージを昇華させるか、崩壊させるかという大きな違いはありますが。
ある種の人々は幼い頃に胸に焼き付けたイメージ、心象風景とでもいうのでしょう。そうしたものが崩壊、溶解していくことに強い衝撃を受けます。うまく説明できないのですが、子供の頃にしょっちゅう通っていた駄菓子屋が閉店してしまったときの喪失感のようなものでしょうか。
伯父が自分の手を取って、高いところから飛び降りるのを手助けしてくれた、これが伯父のイメージであり、真実のように感じていたとします。そのイメージが崩壊したとき、ある種の人々は強い衝撃を受けるのです。
自分はシムノンはそういう人ではないかと感じています。
ただし、メグレ警視はそういう人ではないようにも思えます。
本作はメグレが生まれ故郷の宿屋で目を覚ます場面から始まります。この目覚めは過去のイメージからの目覚めのように思います。ここから現実へ、真実へと目を向けさせられるのです。
メグレが実際に見ているものと過去に見たものとの対比が頻繁に描写されます。メグレにとっての真実、イメージが次々と崩壊していくのです。茫然自失のメグレ。
サン・フィアクルの殺人事件はメグレにとって人生の転換点となった事件なのかもしれません。

No.31 6点 メグレと宝石泥棒- ジョルジュ・シムノン 2022/09/19 12:22
1965年フランス。後期メグレの佳作の一つ『メグレたてつく』の事後が描かれた作品です。本編の発端はギャングの元締と目されていたマニュエルが自室で射殺される事件なのですが、このマニュエルは捜査対象でありながらもメグレとはある種の協力関係があった人物で『メグレたてつく』でその協力関係の一端が示唆されているのです。
メグレが思い入れをもつ犯罪者が殺害されるという点では『メグレと優雅な泥棒』にも通ずるものあります。殺害された犯罪者に感情移入するメグレがどちらの作品も印象的です。
メグレは正しいことをしますが(逮捕はしますが)、彼らのことを必ずしも憎んではいないのです。憲法でいうところの内心の自由というやつですな。
正しいか正しくないかと好きか嫌いかというのは意外と複雑なものです。
例えば『メグレと火曜の朝の訪問者』に登場するあの男女について、自分の感情もそうです。間違っているのは男だと思うのです。でも、嫌いなのは圧倒的に女の方なのですよ。

先に書評されているお三方のご意見が割れていますが、自分はどの方の御意見にも同意できます。
クリスティ再読さん『ぜひ「たてつく」と連続して読むことを、お勧めする』
自分は前作『たてつく』で登場したマニュエル氏のキャラが非常に面白いと感じておりました。他の作品にも登場しないのかなと期待しました。『たてつく』を読んで、だいぶ経ってから『宝石泥棒』を読んだのですが、すでに逝ってしまった後とはいえ、思い入れのあったキャラの行く末が描かれていたことは非常に嬉しかったのです。マニュエル氏への思い入れがあったうえで本作を読むと、その人間模様があまりにも……さすがシムノン。
雪さん『メグレ物としては標準よりやや下だと思います』
前作の流れを踏まずに作品単体としてみた場合にはこの評価が妥当のように思えます。ミステリとしては被害者が射殺された現場のアパート自体が大きな密室となっていることが本作の特徴といえば特徴ですが、大したものではありません。そして、自分が本作の最大の問題点と感じるのは↓
空さん『事件の重要な関係者の人物像の描き方が、この作家にしてはいまひとつ迫ってこないように感じました』
重要な関係者をもう少し早めに登場させることができていれば、もう少し深掘りができていれば、もしかすると『メグレと運河の殺人』のような感動も期待できたと思うのです。非常に残念なところです。

No.30 6点 メグレと老婦人の謎- ジョルジュ・シムノン 2022/06/14 21:34
~物の位置が変わっている。可愛らしい老婦人はメグレに家宅侵入をされている懸念を訴えるのだが、メグレはそれほど事態を重くは受け止めなかった。ところが、この老婦人が殺害されてしまう。~

1970年フラダンス。シムノン後期の作品。
ホワイダニットのミステリとして小粒ながらにもよくまとまった作品。本作を最初のメグレ警視シリーズに選んだとすると、格別けなすところはないけれど、かといって、すごく面白い作品というわけでもない。「まあまあ」といった感想になるのではないかと。
読みやすい作品だと思います。個人的な感想としてはソーメンのような作品。こういう作品があってもいいのです。
自分のことをよくわかっている哀れな女、その女を母に持ち、その生き方に侮蔑の念を抱きつつも母親そのものを憎むことはできない優しい息子、悪くないんです。でも、そうした翳のあるキャラを配しながらも行間を読ませる深みなく、直線的な筋運びで引っ掛かりも少ない。良くも悪くも無駄がない。きちんと軸を定めて読めるシムノン。

いつもどおりに妄想させていただきます。シムノンの執筆スタイルは己の精神力、体力を削りながら10日ほどで一気に書き上げるというものだそうです。バビル二世がエネルギー衝撃波を連発してどんどん弱っていくみたいな感じですね。この執筆スタイルが還暦あたりになってからのシムノンにはなかなか困難になっていたのではないか。これが後期メグレになんらかの影響を及ぼしているのではないか。
最近、自分も読書の際に栞が必要になってまいりました。
※後期シムノンのノンシリーズの傑作については意図的に、恣意的に目をつむっております。

クリスティ再読さん 本作の御書評より
>>スリーピースのロックバンドだろ、これ
笑いました。コントラバスに幻惑されて、どんなバンドなのかと悩んでいた自分が情けない。ウッドベースならポリスですな。

『メグレ夫人と公園の女(中期の作品)』の御書評でクリスティ再読さんが後期メグレ作品について以下のように言及されていました。
>>メグレ物の後期で「力が落ちた」と感じる原因は、事件の展開だけになってきて、「余計な」楽しい要素が減ってきているためじゃないか...なんて思う。
これ、かなり同感です。言い換えると、ミステリ的な興味が前面に出てきているのではないかと感じています。
『老外交官』『幼な友達』『殺された容疑者』あたりがそんな印象です。
本作は後期メグレのある一面を象徴している作品(例外多数あります)、後期の『代表作』のように捉えております。
自分は『シムノンは還暦になってミステリに目覚めたのか』をテーマに後期シムノンを論じていこうかななんて目論んでいたのです。
冗談はさておき、シムノンが意図的にミステリ興味を前面に押し出していたのか、遊びの要素が希薄になって骨格がむき出しになっただけなのかは興味があります。
後期メグレは本当に枯れてしまっているのでしょうか。
この点について論じるには……もう夏だけど、季節外れの雪でも降ればいい考えが浮かぶかも。

No.29 8点 運河の家 人殺し- ジョルジュ・シムノン 2022/05/22 22:21
瀬名氏が傑作認定し、翻訳出版を自ら推進した二編。
愉しくはないが、素晴らしい。

『運河の家』
主人公のエドメを魔性の女とみる向きもあると思う、というか、そのように読むのが普通だろう。だが、魔性という言葉にはどこか違和感がある。優越感はあっても拠り所がない女とでもいおうか……そもそもエドメは本当に主人公なのだろうかとさえ思ってしまう。
なにをアホなことをと言われてしまいそうだが、どこか『嵐が丘』に近い読み味があった。
うちの母親は中学生だった自分に「嵐が丘は世界一面白い小説」だと言った。真意は不明だが、素直な自分はその言葉に騙されて読んでみた。なんでこんなクレイジーな話を母は違和感なく読めたのだろうと不思議に思ったものだ。本作にも似たような感触がある。
素晴らしい情景描写と共感できないどころか理解さえもおぼつかない人物ばかりのクレイジーな世界。そして、吸引力。本作『運河の家』は『嵐が丘』と違ってエンタメ要素は希薄だが、なぜか先が気になって仕方がない。
『嵐が丘』は魂の物語だと思っている。そして、本作『運河の家』は性(さが)の物語だと感じる。その違いを言ってしまうとネタばれになりそうなのでこのへんでやめておこう。

『人殺し』
こちらは当サイトの重鎮である空さんがかなり前に原書でお読みになっていて、翻訳されていないことが不思議なくらいの作品だと仰っていた。
読んでみたかったが、読むことはなかろうと諦めていた作品をついに読むことができた。その喜びは大きい。瀬名さん、ありがとうございます!
こちらはパトリシア・ハイスミスの傑作に比肩する出来栄えだろうと思う。
結末も見事だが、犯行の動機について言及された部分に自分は驚いた。さらに、これは『運河の家』にも言えることだが、子供や小道具の使い方が憎らしいくらいにうまい。

どちらも異常な心理について描かれてはいるが、まったく異なる魅力があった。
自分にとって『運河の家』『人殺し』ともに人生を感じさせるような小説ではない。ただただ放り出されるような快感があった。
もちろん再読するだろうが、すると新たに書評を書き直したくなるような気がする。

No.28 6点 メグレとルンペン- ジョルジュ・シムノン 2022/05/06 16:29
~セーヌ河岸を根城にする初老のルンペン。寝ているところを何者かに襲われ、川にドボンされる。メグレはルンペンを標的にした犯罪を扱った経験はない。なぜルンペンを狙ったのか。このルンペンは何者なのか。ルンペンは選挙で勝てるのか。~

1962年フランス
フランス大統領選のニュースを耳にして、なぜだかこの作品のことを思い出しました。
訳者あとがきにもあるとおり、本作はほのぼの明るい雰囲気が横溢しています。導入部から『はじまり』を思わせるような前向きな文章が多く、色彩も清々しく明るいのです。メグレ警視は飯でも食いに行こうとしているのかなと思いきや、なんと事件の現場に向かうところ。そんな感じがまるでしない導入です。
このあとの展開も人物、エピソードともにほのぼの愉しい。
メグレが医師と対決する作品はけっこうあります。『間違う』『たてつく』『バカンス』などなど。シムノンは医師という職業に知性の象徴として強い思い入れがあるのでしょう。メグレと医師の対決は緊迫感をはらんだ名場面が多いのです。
本作にも変種ではありますが、対決があります。この対決さえもがほのぼの、清々しいものなのです。
それほど大した作品ではありませんが、なんだか微笑まずにはいられません。シムノンとしては珍しい読み味で、その特異性もあって自分にとってはとても印象的な作品です。

シムノンは常識的な人間ではないのでしょうが、常識がどのようなものであるのかはよく理解している作家だと思っています。そして、メグレ警視シリーズは基本的にはリアリストの視点で書かれたものだと考えています。ところが、本作は理想主義者の視点に立って書かれているかのよう。
『メグレと首無し死体』で登場したような、人生から逸脱し、己を汚そう汚そうとする理想主義者が本作にも出てきます。が、本作の理想主義は悲壮なものにはなりません。
シムノン作品の重要なテーマ『人を裁くことの難しさ』『かつての生活、かつての自分からの逸脱』はリアリストの視点に立つと悲壮なものになりがちでしょう。ですが、これらがどこか明るく、ユーモラスに語られるのが本作の特殊性(あくまでシムノン作品では特殊)です。
本作のラストはリアリストの立場からすれば絵空事でしょう。ですが、ルンペンという設定がここで活きてくるわけです。彼が死ななかったことも大きい。
メグレは仕事としては苦渋を味わいますが、理想主義者であるルンペンがリアリストであるメグレ警視の『理想』『思想』を体現してくれた話とも読めるのではないでしょうか。

シムノンは10日間ほどで作品を仕上げるらしいのです。登場人物になりきって全神経を集中して書くため、消耗が激しく、それ以上は耐えられないからだといいます。
メグレシリーズの執筆は息抜きだとシムノンは言っていたそうですが、本作はシムノンにとってもメグレ警視にとってもまさに息抜きとなった作品ではないでしょうか。
シムノンは消耗しながらも大いに愉しんでいたのではないでしょうか。そんなことを妄想してしまう作品です。

No.27 6点 メグレと田舎教師- ジョルジュ・シムノン 2020/11/26 16:44
~サン・タンドレという田舎村から小学校の教師ジョゼフ・ガスタンがメグレに助けを求めてやって来た。村の意地悪婆さんが殺害された件で嫌疑をかけられているが、自分は無実だという。村社会の複雑さと自分が村では異物であることをどうにか説明しようとするガスタン。話を聞き終えると、メグレは被疑者がパリに来ていることを伝えるためにサン・タンドレの憲兵中尉に電話をかけた。メグレは深い考えもなく自分がガスタンをそちらに連れていくと告げていた。メグレはそのとき白ワインとカキのことを考えていたのかもしれない。~

1953年フランス。地味だがなかなかいい作品ではないかと思う。雪さんが『カッチリした造り』と評されているが、自分もシムノンにしてはしっかり作りこまれていると感じる。無駄が少なく多くの人物や細かな事物が有機的に物語に絡んでいる。
口が堅く、外圧に対しては結束の固い村社会に起きた事件、そこで村社会の外側で生きている人間に嫌疑が掛けられる。「犯人は誰なのか」は問題視されず「犯人は誰であるべきか」が重要な社会。まあよくある話ではある。こういう話では「××の無実を勝ち取るぞ」と主人公が入れ込んで熱い展開になりがちだし、その方が盛り上がるのだが、メグレは淡々としている。自分が首を突っ込んだのは間違いだったのではないかと自問自答したり、天候が悪くてカキが食べられないなどと嘆くメグレ。こんな村くんだりなにしに来たんだよ。
それなりにミステリらしさがあり、村の子供たちとの心理戦というか、聞き込みの場面はなかなか愉しめる。大人が想像する以上に周囲で起きていることを理解している子供たち。彼らの心情が息苦しくなるような筆致で描かれている。シムノンは自分が子供だった頃にどんなことを考えていたのか、ちゃんと記憶している人間だと思う。
邦題は『メグレと田舎教師の息子』でもよかったのではないかと思ってしまう。6点か7点かで迷ったが、6点で。

訳者がメグレは明らかに田舎嫌いだと断じていたが、空さんがそれは微妙だと仰っているように自分も疑問に感じている。メグレは引退後は田舎に引っ込んで、近所の人と仲良くカード遊びや釣りに興じていたような。

No.26 5点 メグレと録音マニア- ジョルジュ・シムノン 2019/10/22 00:14
~パルドン医師の家で恒例の食事会が行われていた。ところが近所の住人が医師宅のドアを叩いた。通りで怪我人が出たという。雨の中、現場に駆けつけるメグレとパルドン医師。二十歳そこそこの青年が刃物で刺されて意識を失っていた。病院に到着してすぐ彼は死んだ。彼の持ち物の中には黒いテープレコーダーがあった。~

1969年フランス。読みはじめてすぐに、これは今でいうオタクについて書かれた先駆的な作品ではないかと予感した。ところが、そんな話ではぜんぜんなかった。
そもそもフランス語の原題には『録音マニア』という言葉は含まれてはいないらしい。やむを得ない事情があってこの邦題となったそうだが(詳細は空さんの御書評を参照)、録音マニアなる言葉は使用すべきではなかったと思う。
本作は前半と後半が分断されて別の話のようになってしまうので、前半は結局なんだったんだろうとキツネにつままれる読者もいるかもしれない。タイトルに録音マニアとあるのにいつのまにか録音はどうでもよくなってしまい、疲労感は増大する。
結局シムノンが何度か扱ったあの手の話になってしまうのだ。それだったらテープレコーダーを活かして新機軸の話にすればよかったのにと思ってしまう。当時はテープレコーダーなんてものは珍しく、それを登場させるだけでも意義はあった?のかもしれないが。
さらにこの作品は過去の作品のさまざまな要素(エピソードやキャラ、構造など)が見え隠れしている。細かいこと言わせてもらうと、メグレ夫人が外出するのに花柄のワンピースじゃ寒いかしらみたいなことを言って、メグレが大丈夫だよと返事する作品が他にもあった気がするし、ラストシーンまであの名作とかぶる。
ただ、ラストの印象はガラリと変わっている。メグレが優しすぎる。シムノンも年を取ったのかなと思わせる。これはこれでなかなか味わいがあって嫌いじゃないです。
※空さんと雪さんが『メグレとワイン商』は本作のリメイクと指摘されていますが、自分は未読です。
多作だし似たようなことを書いてしまうのは致し方ないとは思うものの、どうも悪い意味での継ぎ接ぎ感がある。きちんと先を見通して書いたのではなく(いつもそんな感じらしいのだが)、いわゆる手癖で書いているように思えた。これは失敗作だと思う。
ただ、メグレシリーズのいいところ?は完成度が高かろうが低かろうが、あまり関係なく、面白く読めてしまうことである。だから最低でも5点はつけたくなってしまう。
本作も4~5回は読んでいるが、やはり面白い。メグレ夫人もいい感じだし。
シムノンで4点以下をつける作品……空さんが低評価、雪さんもダメな作品の例としてあげていたのがあるけど、候補はあれくらいかな。

No.25 7点 メグレ、ニューヨークへ行く- ジョルジュ・シムノン 2019/07/29 23:48
~ニューヨークにいる父の身になにか悪いことが起きているらしいので、一緒に様子を見に行っては貰えないだろうか。
大富豪ジョン・モーラの息子ジーンは父親の身を案じている。退官して片田舎でカードや家庭菜園に興じていたメグレだったが、重い腰を上げて船でニューヨークへ旅立った。ところが、下船直後にジーンはいずこかへ消え去り、やむなくメグレは一人でジョン・モーラ氏を訪ねる。若い秘書に居留守を使われた挙句、どうにか面会は叶ったが、ジョン・モーラ氏はメグレの話をまともに取り合おうとしない。フランスからはるばるやって来てのこの扱いは不愉快極まりなかったが、小男の大富豪ジョン・モーラはただのイヤな奴ではなく、なぜかメグレに強烈な印象を残した。
そう。彼は冷たい眼をしていた。~

1946年フランス作品。あとがきにもあるとおり、メグレものなのに舞台がニューヨークなんてと思う方は多いでしょう。自分もそう思いました。が、本作は他人さまにお薦めしやすいメグレです。いい作品だと思います。
(個人的には前作『メグレ激怒する』の方が好きですが)
前作に続いて本作も退職後のメグレです。メグレットは前作でも遠出をさせられましたが、今回は海を越えてのニューヨーク。そんなわけで部下はいないし、土地鑑もないし、狐につままれたような成り行きや無礼な扱い、苦手な英語、お互いをファーストネームで呼び合うアメリカ人と小さなものから大きなものまでメグレを苛立たせます。
なにが起きているのかさっぱりわからない序盤。今回のメグレの役回りは私立探偵的であります。前作でもそんな立ち位置でしたが、本作はより捜査している感があり、筋立てにはハードボイルドっぽさも少しあります。
また、ユーモラスな味付けも濃厚な作品です。シムノンのユーモアって基本的には狙っている感じではなく(もしかしたら作者はユーモアのつもりですらないのかもしれませんが)、微妙なくすぐりなのですが、本作でメグレの助手となるデクスターに関してはちょっと狙った感があります。アル中になって自尊心を失くしてしまったロニョンといった風でなんともいえない滑稽な人物です。
ミステリとしては突飛に感じる点もありますが、個人的な嗜好として動機が人物描写によって強化されている作品は好印象です。
※状況(弱みを握られた、身内を殺されたなど)だけではなく、人物(こういう人間だからこそ、その行動を起こした)もしっかり描くことにより、重層的に事件発生の必然性が描かれているということです。
職務ではなく私人として捜査しているせいなのか、メグレがかなり感情を露にしております。前作より本作こそ『メグレ激怒する』だったのではないかなあと感じます。
変化球気味だしミステリとして特に優れているわけではなく、メグレものの醍醐味がいくつか損なわれてもいる作品でもありますが、メグレものならではの特徴というか良さが非常にわかりやすく出ている作品のように思います。

No.24 6点 メグレと首無し死体- ジョルジュ・シムノン 2018/11/21 01:57
~サン・マルタン運河を航行する船のスクリューには男の腕がひっかかっていた。運河の底を洗うと他の部位も次々と発見された。だが、首だけがみつからない。
厄介な事件になりそうだったが、早々に糸口がみつかった。メグレは捜査の途上、電話を借りるために立ち寄った居酒屋の女主人のことが気にかかり、やがて彼女は事件に関係しているのではないかと考えはじめた。

1955年フランス。
かなり特異なミステリです。そうはいっても良い意味で、ではありません。首無し死体とくれば被害者が誰なのかが肝となります。まずは被害者が誰なのかを解き明かし、続いて容疑者の特定がはじまるのが通常でしょう。なのに、本作はとんでもない偶然から早々に容疑者が浮かび上がってしまい、必然的に被害者も特定されてしまいます。物語の序盤~中盤でほぼ事件解決のメドが立ってしまうのです。なのにメグレだけがわからないわからないと悩む。
雪さんは最初に読んだ時「なんやこれ」と思われたそうですが、かくいう私も初読時にはほぼ同じ感想でした。メグレシリーズをある程度読み込んでから再読して目から鱗が落ちるように面白さがわかった作品です。
読みどころはミステリ的な事件解決を完全に度外視して、メグレにとっての事件解決に異常に拘っている点でしょう。そこに興味が湧かなければただの駄作で終わる作品でしょう。採点は6点としますが、ミステリとしては4点以下です。
メグレは容疑者の顔が浮かんでこないことに苛立ちます。メグレと容疑者のぶつ切りの会話、なにも隠そうとしていないように思える容疑者、自分の行く末すら無関心に見える容疑者、その異常性に気付き、この容疑者に興味が湧けば、かなり愉しめる作品ではないかと思います。
最終ページや以下の文章などから、メグレの容疑者に対する畏敬の念すら感じられます。
~転落する人たち、とくに好んで自分を汚し、たえず下へ下へと転落することに夢中になる人たちは、いつの場合でも理想主義者なのだと~

邦題が原題の直訳なのかどうか私にはわかりませんが、メグレと首無し死体なるタイトルはダブルミーニングのように思えてしまいます。首無し死体とは被害者と同時に容疑者をも指す言葉ではないのかと。
「首無し死体」=「顔のない死人(も同然の女)」
名作だと思いますが、メグレ警視シリーズをある程度読み込んでから読むべき作品だと思います。

No.23 6点 メグレとリラの女- ジョルジュ・シムノン 2018/07/21 01:08
友人のパルドン医師に薦められてメグレは夫人とともにヴィシー温泉に湯治に行く。同じ時刻に同じ場所で温泉の湯を飲む毎日。そのため同じ人間を何度も見かけることになる。リラ色の服を着た婦人もそんな一人だった。孤独を誇りに感じているようなこの奇妙な婦人にメグレは関心を持った。
数日後、この婦人の写真が地方紙に大きく掲載された。

1968年(67年かも)発表。前回書評した「メグレと殺人予告状」の一つ前に書かれた作品。殺人予告状が「メグレと火曜の朝の訪問者」だとすると、こちらはさしづめ「メグレと若い女の死」といったところか。
被害者の過去をほじくり返すいつものメグレだが、事件の裏で起きたある出来事が鍵となっていて、この出来事がわかってしまえば犯人は自然と特定される。
この出来事がなかなか面白いと思った。さらに読者がこの出来事について推測ができるようきちんと材料が提示されている。ミステリとしては「メグレと殺人予告状」は殺される人間を推測するという楽しみ方ができたが、本作には事件の原因となる裏の出来事を推測する楽しみがあると思う。
両者ともシムノンらしからぬ読者を意識した(のか?)丁寧さがある。
リラの女の造型、特にその二面性の描き方なんかが面白い。
相棒となる元部下のルクール警視とメグレの絡みもいい。犯人が確定しての最後の尋問でもたつくところなんかもよかった。
「殺人予告状」と「リラの女」は地味だが、意外と完成度は高くて、遊び(無駄な場面)もあって、小説としてなかなか面白いのではないかと思っている。
気になったのは犯人の人物像がちょっと単純な点。それから、この事件が殺人に至ってしまったのはかなり強引。チャンドラーのとある作品でも本来は殺人に事件になるはずはなかったのに犯人が~ゆえに殺人になってしまったものがあったが、本作は犯人の人物像からしてチャンドラーの作品よりも強引さが際立ってしまう。

ちなみに本作での自分のお気に入りの場面。
~(温泉のお湯を適量飲むため)彼(メグレ)も他の人同様、目盛りのついたコップを買い込んだが、メグレ夫人は自分も欲しいと言い張った。~
本作はメグレ夫人の出番がかなり多い。どの作品でも夫人はメグレの気分をつねに察知する。今さらだがシムノンはどの作品においてもメグレ警視の気分を執拗に描く。ここまで登場人物の気分を大切にする作家は珍しいように思う。メグレものになれてくると、こちらもセリフだけでメグレの機嫌の良し悪しがわかったりする。シムノン自身が非常に気分屋で、もっと言うと精神的に不安定な人物だったのだろうと憶測したくなる。

おまけ
本作は訳者による「あとがき」がすごかった。「後足で砂をかける」という言葉がピタッとあてはまる前代未聞の代物だと思う。
簡単にまとめると以下のようなことが書かれていた。
メグレ警視シリーズはミステリとしては優れているのかもしれないが文学としては二流。シムノンは人種差別主義、階級差別主義があり、それがメグレ警視に投影されている。本来文学というのは弱者に寄り添ってウンヌンカンヌン。
あとがきを長々と評価しても仕方がないので詳述しないが、とにかく肝腎なところでピントがずれているし、文学観も独善的に過ぎるよう自分は感じた(いくばくかは理解できなくもない部分はあったが)。
第三者の書評ならなにを書こうと勝手だが、訳者があとがきでこんなことを書くのはありなのか? 底意地悪く作者を貶し、褒めている部分でさえ嫌味が仄見える。こんなあとがきは見たことがない。ある意味貴重。

No.22 6点 メグレと殺人予告状- ジョルジュ・シムノン 2018/07/16 19:50
メグレの元に殺人を予告する手紙が届く。これはただのイタズラではないとメグレは直感した。部下に便箋を調べさせたところ、特殊なものだったので海法専門の弁護士エミール・パランドンの家で使用されている便箋だと判明した。メグレはパランドン家を訪ない、家人たちと話をする。この手紙を書いたのは誰なのか。本当に殺人は実行されるのか。

1968年メグレシリーズ後期の作品です。以前に書評した『メグレと火曜の朝の訪問者』の焼き直し的な面が色濃い作品です。脂っこさがなくてさらりと流したような趣ある作品ですが、こういう老成した味も意外と好きです。
殺人予告状など届いても手に汗握るようなことはなく、おどろおどろしい事件が起こるわけでもありません。メグレがパランドン家の人間と話をして、徐々にこの家の人間関係、問題が浮き上がってくるばかり。話が動くのは非常に遅く、ミステリというよりは家族小説のような様相です。
奇妙な家族ではありますが、各人物にメグレと火曜の朝の訪問者ほどの作りこみはありません。そうかといって類型に流された安易なキャラ作りはしていないと思います。ちょっとした一文で類型から外れた人物に仕立て上げる技術は健在です。
殺人予告状を書いたのは誰なのか、なんのために書いたのか。
さらに本作は登場人物が多いこともあり「誰が殺されるのか」を考えながら読み進めると面白いと思います。推理する楽しみとは少し違いますが、いくつかの可能性を想像することはできます。驚きはありませんが、納得のいく展開でした。各人物の言動などは自然でありながらきちんと計算もされているので、洞察する愉しみのある作品です。

No.21 7点 モンマルトルのメグレ- ジョルジュ・シムノン 2018/02/16 10:13
キャバレー『ピクラッツ』で働く踊り子のアルレットが酔っ払って警察署にやって来た。
アルレットはリュカ巡査部長に「伯爵夫人がオスカルに殺される」などと主張するも、急に態度を変え、自分は作り話をしたのだと言を翻す。
作り話というにはいささか具体的で真に迫ったところもある。
半信半疑のまま、リュカは彼女を家に帰した。
そして、数時間と経たぬうちにアルレットは何者かに絞殺されるのであった。

1950年発表のメグレシリーズ黄金の50年代の嚆矢となる一作であります。ハヤカワミステリマガジン1990年3月号「ジョルジュ・シムノン追悼特集」にて矢野浩三郎、野口雄司、長島良三、都筑道夫の四氏にメグレシリーズのベスト5作品をそれぞれ選んで貰ったところ、四名全員が選んだ唯一の作品が本作『モンマルトルのメグレ』だったようです。
※ソースは瀬名秀明氏のwebでの連載です。

冒頭から被害者(アルレット)に盛んに言い寄っていた若い男の存在が明らかになっております。
この若い男の正体は最初の数頁で仄めかされ、63頁(河出文庫版)であっさり判明してしまいます。
この男が犯人である可能性を仄めかしつつ正体を伏せたまま後半まで引っ張るのも一つの手というか常道でしょうが、シムノンはこの道を採りません。こんなプランは彼の脳裏を過ぎりもしなかったことでしょう。なぜならシムノンだからです。
この謎の男R氏は熱弁を振るいます。
「彼女は違うんです、ぼくのことを真剣に考えてくれていました」
「ふうん、そうなの(ニヤニヤ)」と、メグレはこういう感じ。
このへんの会話は面白い。キャバクラに嵌っていた知人のMくんを思い出します。Mくんも「彼女は違う」と言ってました。
脇役も良く、ロニョンはいつもの通りいい味を出している。ピクラッツにおける人間模様などなかなか面白くて、後半にはスリリングな展開もあったりして非常に出来が良い作品です。お薦めの一作です。
犯人がなかなか興味深く、読者に好奇心を抱かせるような書き方がされています。正体が明らかになるにつれてメグレとの絡みを少し期待しました。ところが、人物像は曖昧なままに終わってしまいました。
ラストを考えるに仕方ありませんが、残念でした。
また、アルレットについても曖昧な部分が残されておりました。
なぜアルレットはオスカルのことを密告しようとしたのか。
なぜ急に態度を変えて、オスカルなんて知らないなどと言いだしたのか。
謎の男R氏の言うように『彼女は(本当に)違うんです』そんな風に思いたいですね。

確かに本作のタイトルは『メグレとR氏』の方がよかったかも。もしくは原題に忠実に『ピクラッツのメグレ』にして欲しかったところです。

以下、参考までに前述のミステリマガジンアンケートの結果を記載しておきます。
「メグレ・シリーズ・ベスト5」
•矢野浩三郎『メグレのバカンス』『メグレと若い女の死』『メグレ罠を張る』『モンマルトルのメグレ』『メグレと幽霊』
•野口雄司『黄色い犬』『メグレと殺人者たち』『モンマルトルのメグレ』『メグレと若い女の死』『メグレ間違う』
•長島良三『メグレと若い女の死』『メグレと殺人者たち』『モンマルトルのメグレ』『メグレ罠を張る』『メグレと首無し死体』(番外)『メグレ警視の回想録』
•都筑道夫『メグレ罠を張る』『メグレと首無し死体』『モンマルトルのメグレ』『メグレと優雅な泥棒』『猫』(非メグレもの)。

私が選ぶとしたら『メグレと若い女の死』と『メグレと殺人者たち』は入れると思います。都筑さんが『メグレと優雅な泥棒』に一票投じてくれているのがとても嬉しい。人さまにお薦めはしづらいが、私も大好きな作品です。
概ね良い作品が選ばれているとは思いますが、もう少しヴァリエーションがあった方が面白いのになあとも思いました。
特に初期作品にあまり票が入っていないのが気になります。
日本ではもっとも有名な作品と言えそうな『男の首』に一票も入っていない! これは私もベスト5には入れませんが。

2018/05/11 追記
R氏としましたが、L氏とすべきでした。綴りを知らなかったもので。

No.20 7点 怪盗レトン- ジョルジュ・シムノン 2017/09/24 22:21
国際刑事警察委員会より暗号化された電報が届く。それには国際犯罪組織の長と目されているピートル・ル・レトンがブレーメンからアムス、ブリュッセルを経由してパリへとやって来たことが記され、さらにレトンの人相風体がこと細かく記載されている。
レトンが乗っている北極星号をお迎えすべく停車場へ馳せ参じるメグレ。メグレは自分の客と思しき人物をホームで視認するも、その直後、北極星号で騒ぎが起きた。洗面所で男が死んでいる。その男も電報に記載されたレトンの人相風体と一致する。

メグレシリーズの記念すべき第一作目。冒頭からストーブやパイプといったメグレお好みの小道具が登場する。
レトンをお迎えするにあたって、メグレはなぜ部下を連れていかなかったのか? まあそんなことはいいとして、本作はまっとうなエンタメ作品でありながらメグレシリーズとしては異色作である。
シムノンは後年「ストーリーには興味がない」と発言しているが、本作ではストーリーを意識してエンタメ小説を書こうとしているように感じられた。
オチはメグレらしからぬものであるように思えた。が、悪くない。
写真を見ての推測、そんなことまでわかるのか、メグレにはわかるのだ。
空さん御指摘のとおり説明的な文章、シムノンらしからぬ文章が散見される。
自分が特に違和感のあった一文↓
~メグレの顔はこわばっていた。が、泣きはしなかった。泣くことのできぬ男であった。~

原題は『ラトヴィアのピエトル(人名だが、道化の意もある。含みありそう)』うーん、こっちの方がいいな。レトンは怪盗ではないように思えるが、日本での発売当時だったら怪盗にしておいた方が売れそうではある。

クリスティ精読さんが言及されていたが、数年前から作家の瀬名秀明氏がネット上でシムノン作品の書評を順々に発表している。瀬名氏はメグレシリーズは一作目から順番通りに読んでいくのが正しい読み方のように思えると述べていた。順番通りに読むべきなのかはともかくとして、最初に本作を読むのはいいと思う。
シムノンの試行錯誤が感じられるが、良作だと思うし、なにより自分は本作が好きだ。

No.19 6点 メグレと政府高官- ジョルジュ・シムノン 2017/07/30 18:40
とある施設で100人以上の子供が犠牲となる大惨事が発生した。その施設の建築に大反対する専門家が過去に意見書を提出していたことが判明し、その意見書を巡って本来は無関係だったとある政府高官が窮地に陥り、メグレに救いを求めた。

実際に当時フランスで起きた惨事を下敷きに書かれた作品だそうで、メグレものとしては珍しい試みです。この手の話だったら他の作家の手にかかればもっと複雑巧緻なプロットで、本の厚さも倍以上になりそうなものですが、シムノンはすっきりとまとめています。
いつものようにさほど驚きはありませんが、展開はスピーディーで読み易く、エンタメとしてなかなか楽しめる作品ではないかと。
メグレは窮地に陥った政府高官に好意を持ち、気のせいかもしれませんが、メグレの男気を見たような気がしました。悪役にもう少し深みが欲しかったかな。
この時期の作品としては心理小説的な側面薄く、個人的には少し変わり種な作品のように思っています。
『リュカは不満だった』と題された章では珍しくリュカがメグレに不満を露にしており印象的でした。メグレへの不満というよりもメグレのことを心配していたのだと解釈しておりますが。メグレはやはり、リュカ、ジャンヴィエ、ラポワントの三名を最も信頼しているようですし、この三名はもちろんメグレに忠実です。ただ、リュカだけはメグレのようになりたいという願望があるようです。

※本作は1954年の作品ですが、この年と翌55年は大当たり。本作の他に『メグレと若い女の死』『メグレ罠を張る』『メグレと首無し死体』の三作が書かれておりますが、いずれも傑作(私見では『メグレと政府高官』はもっとも読み易いが、ちょっとランクが落ちる)。私はこの二年間がメグレシリーズの頂点ではないかと思っております。

No.18 5点 メグレ夫人のいない夜- ジョルジュ・シムノン 2017/07/23 14:15
強盗事件の容疑者ポーリュのアパート前で張り込みをしていたジャンヴィエ刑事が何者かに撃たれた。ジャンヴィエを撃ったのはポーリュなのか?
メグレはジャンヴィエの任務を引き継いで、問題のアパートの一室に泊まり込むのだが……。

本作では妹の看護のためメグレ夫人はパリを離れている。でかい図体を持て余したメグレが夫人の不在で途方に暮れてしまう導入が微笑ましい。そして、ジャンヴィエが撃たれて、このへんまでは快調。
ところが、読み進めるにつれて小説全体としてはいまいち完成度が低いなと。ミステリとして弱いのは平常運転だが、二つの事件の絡め方もいまいち。一旗揚げようとパリに出て来て失敗する田舎の若者、二人の人物を対比させようとしたのかもしれないが、鮮やかに決まっていない。
そもそも話の方向が散漫でテーマや作品の色合いがくっきりと浮かび上がってこない。なにがしたかったのかよくわからない作品。5点。

以下 私情
実は同じ時期に書かれた名作の誉れ高い『モンマルトルのメグレ(7点の予定)』よりもこの作品の方が好きです。
小説全体の完成度とは無関係なところで小説家としてのシムノンのうまさが炸裂しまくっていて、そこがたまらないからです。まあ、技術の無駄遣いといおうか、非常に燃費の悪い作品だと思います。
少しだけ挙げると。
観察しているつもりがいつのまにか観察されているメグレ。強盗事件の容疑者を父親のような視点で見てしまう息子が欲しくてたまらなかったメグレ。世界には善人しかいないかのような話しぶりのアパートの管理人。ポーリュ逮捕の切っ掛けと経緯。
そして、ジャンヴィエを撃った犯人とメグレの電話での会話がいい。
犯人「こっちには、服を着替えて空港にゆき、国外にいく飛行機に乗る時間はありますよ」
メグ「そうするがいいさ」
犯人「逃げても構わないんですか?」
メグ「かまわん」
駆け引きなんですねえ。そして、妥協点を探す二人。だが、彼らにはとある共通の目的があったりする。泣ける。
なぜ部品は素晴らしいのに組み立てに失敗する?
作者が「ストーリーには興味がない」とか言ってるからだ!

メグレをわかりやすく示す場面があったので引用して終わります。
ホームズの「アフガンに行ってましたね」との違いは明白です。
メグ「植民地にいたことがあるのかね?」
犯人「どうしてわかります?」
 説明するのは難しかった。言葉では表現できないなにかが感じられるのだ。顔色にも、眼つきにも、この種の早い老けこみにも。いまではメグレには、相手が四十五歳をこしていないという確信があった。

No.17 6点 黄色い犬- ジョルジュ・シムノン 2017/07/02 13:59
メグレ警視シリーズの初期作では、最初に読んだのはこれでした。
創元から出ていた『男の首』と本作がカップリングになっている入手し易いやつです。
なんとなく導かれて収録順を無視し『黄色い犬』から先に読んだのですが、ちょっと面喰らいました。
それまで読んできた作品はメグレの身辺の描写から始まるものばかりでしたが、本作は港町の寂寥とした風景の描写から入り、いきなり事件です。
この後も町の外れで暮らす浮浪者、そちこちに現れる不気味な犬、失踪する新聞記者と思わせぶりな材料が並び、あれ、今回のメグレはミステリなんだなと変な感じでした。
メグレシリーズはミステリの基準では測りにくい作品ばかりなんですが、本作は否応なくミステリの土俵に上げられてしまう。そうなってしまうと、まあそれほどのものではないという評価で6点くらいに落ち着く作品でしょうか。
チム・チム・チェリーと化したメグレにはポカーン。どのような思考過程を経てそんなことをしたのかさっぱりわかりませんでした。

メグレシリーズを真剣に読みはじめた頃は中期以降の作品を手にすることが多かったので(なぜか初期作品は手に入りにくかった)、初めての初期作品はある意味新鮮でした。
自分はメグレ警視が人情家とは思っておりませんでした。いや、人情はあるのですが、それは眼差しに集約され、行動で示したりはしない。職務に忠実で私情は排し、為すべきことをなす人物だと考えていました。ところが、本作ではメグレは情に掉さし具体的な行動を起こします。なぜあの人物にそこまで肩入れするのか。今まで読んだ作品に出て来た可哀想な人たちとどこかが違うのか。よくわかりませんでした。
そして、ハッピーエンド!!!
これまた珍しい。個人的にはちょっと不思議に思う作品です。
もちろん嫌いではありません。

No.16 5点 メグレ再出馬- ジョルジュ・シムノン 2017/03/21 19:27
刑事となったメグレの甥は麻薬取引の現場に張り込みの際、ドジを踏んで殺人の濡れ衣を着せられる。すでに引退してパリ郊外の田舎に引っ込んでいたメグレだったが、甥を窮地から救うためにかつての職場に舞い戻る(もちろん復職するわけではありません)。だが、かつての名警視など現警視にとっては靴の中の石のようなものなのであった。

ミステリとしてはいまいち冴えず『まだ名作じゃない』って感じの本作。黒幕との最後の対決でメグレは黒幕に関して大胆な推理を披露しますが、これがちょっと強引過ぎる。メグレの推測が想像、もしくは妄想の域に達してしまっているような。ただ、この場面は後年の名作『メグレ罠を張る』に繋がっているような気がしないでもありません。
本作では説得力に欠けたメグレの妄想も『メグレ罠を張る』では、相変わらず根拠は不明でも異様な迫力と説得力を伴って進化し、名場面が生まれたように感じました。
本作の採点は5点だけど、好きな場面がけっこうありました。メグレとリュカのプロフェッショナルらしい素っ気ない会話にうっとりと聞き入る甥っ子、息子のことを心配するあまりメグレの邪魔をしてしまう義妹、メグレを浮かれたおのぼりさんだと勘違いした娼婦、彼らに対するメグレの視線。メグレは甥や義妹の欠点を冷徹に見透しながらもその欠点を憎みはしません。ものすごくイライラはしていますが。
「リュカ、きみには言える、きみにだけは~」
いやあいいねえ、5点のくせに。

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tider-tigerさん
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