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ミステリの祭典

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平均点:6.73点 書評数:1603件

プロフィール| 書評

No.1283 7点 気球に乗って五週間
ジュール・ヴェルヌ
(2016/10/30 23:26登録)
本書はヴェルヌのデビュー作であるが、既に彼の創作スタイルが確立されていることに驚く。
若い頃から世界一周をして不屈の冒険心を養った主人公サミュエル・ファーガソン博士を筆頭に彼の旅の同行者スコットランド人のディック・ケネディ、召使いのジョーたち3名をそれぞれリーダー、縁の下の力持ち、ムードメイカー、そしてそれぞれが知・力・技を体現しており、実にバランスよく配されている。そしてこのたった3名の登場人物が物語を飽きさせないほど魅力的なのだ。特に本作では召使いのジョーが出色のキャラクターだ。常に明るく、器用で皆の世話をしながら料理もするが、他の2人を助けるためならば命を投げ出すことも厭わない。

またディテールがしっかりとしている。気球を使うことできちんと気球の設計から始まる。例えば不測の事態を想定し、気球は1つでなく、2つにする、しかし2つに分けるとバランスを取るのが難しいため、大きな気球の中に小さな気球を入れて、バルブによって両者のガスが行き来できるようにする、またそれぞれの目方を算出して水素ガスの容量を算出するなどといった見積がきちんとなされ、明示されているのが非常に興味深い。ただゴンドラの直径がたった4.5メートルというのは狭すぎるように感じた。たった16㎡弱の中に男性3人が5週間も共にするのは窮屈ではないかと思うのだが、これは気球の一般的な寸法なのだろうか。
さらに気球だけでアフリカを横断するのに主人公のファーガソンは水素ガスの温度を変えて熱膨張と収縮を繰り返して上昇と下降を行うという方法を考案する。従来の砂袋を落としての上昇やとガスを抜いての下降という方法とは違う、水素ガスを繰り返しリサイクルして旅をする画期的なアイデアについて本書は詳細な計算も織り交ぜ、その機構について延々5ページに亘って説明がなされる。
また生命の源である水の残量についても詳しく数字で語られる。水素ガスを発生するために1.5リットル使用し、残りは3.5リットルとなった、云々。
こういった緻密なディテールが冒険の困難さをリアルタイムで読者に認知させ、自身がまるで冒険しているかのように錯覚させるのである。
また冒険中でも風速、移動距離、高度が常にリアルタイムで記載されており、さらに最後の方では気球からガスが抜け、次第に高度が下がってくるのをどうにか食い止めようと次々と不要な物を落としながらの旅となるが、落とす物1つ1つの重量を記載し、そしてそれによって高度がどれほど上昇したかなどきちんと数字で示しされる。
つまり物語の進行1つ1つに嘘がないのだ。
しかしこれは実に難儀な所業である。わざわざ気球の重量や風速によって移動する距離を計算しながら物語を綴るのだから、生半可な知識ではできないだろう。しかし数学が得意で冒険心に溢れたヴェルヌは未開の地アフリカの地図の上で彼の頭が想像した気球ヴィクトリア号の道程を喜々として空想に耽りながら計算していたのかもしれない。

さてファーガソン博士たちがアフリカ横断を試みるのは数多の冒険家、探検家たちが挑み、数々の発見をしたアフリカの、まだ空白とされる未踏の部分を埋めるためである。物語の途中でアメリカの冒険史がファーガソンによって語られるが、それらは数多くの犠牲の上で成り立ってきたことが解る。砂漠とジャングルという不毛且つ湿度高い熱帯という両極端な地を備える熱波の大陸は人間に容赦ない負担を強いるが、さらに猛獣たちの襲撃と人食いと争いの文化で生きながらえてきた原住民たち、いわゆる蛮族と呼ばれる者たちの襲撃によって殺され、そして食糧にされてきた。それらの強烈な描写もまた本書には含まれており、特にクライマックスではしぼみゆくヴィクトリア号で最も獰猛な蛮族ギニアのタリバ族からの決死の逃避行はまさに手に汗握る迫真性に満ちている。
今でこそ文明が発達して未開の地にも情報が入り、そして国際的な大会に出場するようになったアフリカ諸国。しかしこの閉ざされた大陸がついこの150年前までは恐るべき巣窟だったことをまざまざと知らされた。本書は友人の作った気球に触発されて書かれた作品だと云われているが、実は今は亡き数多き冒険者たちを讃え、後世に彼らの偉業を伝える目的もあったのかもしれない。

しかしこれがデビュー作である。そして今なお面白く読める痛快な冒険小説であることに驚く。書かれたのは1863年!2世紀も前である。改めてヴェルヌの想像力と物語力に驚かされた。


No.1282 8点 勝手に!文庫解説
評論・エッセイ
(2016/10/26 23:55登録)
本書はその名が示す通り、北上次郎氏が文庫化の際、自分にお鉢が回ってこなかった思い入れのある作品の解説を勝手にしてしまおうという一風変わった書評集。もともとミステリマガジン誌上で連載されていた企画を文庫として1冊にまとまったのが本書。既読であるがこのように一冊にして読むとまた味わいが違って読める。

作品は日本編と海外編の2つに分かれているが、『絆回廊 新宿鮫10』、『女たちのジハード』、『暗殺者グレイマン』、『偽りの街』と年末のミステリランキングに入った作品もあれば、話題になった作品もあるのだが、そのほとんどがあまり知られていない作品である。
例えば日本編の中で簡単に挙げてみると『水上のパッサカリア』、『アイの物語』、『競馬の終わり』、『抱影』、『角のない消しゴムは嘘を消せない』、『月のない夜』、『波の音が消えるまで』と、タイトルからは聞いたことはあってもどの作者か解らない作品が並ぶ。そして海外編においてはほとんどが題名だけでなく作者の名前さえも忘却の彼方にいるような、マイナーな作品ばかりが並ぶ。ちなみに大河小説の『氷と炎の歌』を除いてAmazonで調べてみると感想は0~4つがほとんどで、『暗殺者グレイマン』のみが26個で突出していた。

しかしそれらの作品について語る北上氏の書評が実に愛に満ちており絶賛称賛の嵐である。まあ、自身が解説を書きたかった作品だから当たり前なのだろうが、やはりこういう解説は読んでいて気持ちがいいのである(中には北方謙三氏の『抱影』のように物語の構成自体を非難する解説もあるが、それも一読者としての愛のムチのような内容なので理解ができる)。
そして読んでいくうちに本書の目的は北上氏の、実に我儘なリクエストに応えた企画でありながらも、惜しくも出版の海に沈んでしまった隠された名作を再発掘するのがこの企画のもう一つの、いや本来の意図だと気付かされる。

また一方で本書は特に埋もれた海外作品、不遇な扱いで訳出が続かなかった作家たちの作品の復刊を促すエールでもある。クレイグ・ホールデン、コリン・ハリソン、コリン・ベイトマンの諸作などは今から再度刊行されたら読みたくなるような面白さを感じた。

そして巻末に付せらえた北上氏を加えた杉江松恋氏、大森望氏、池上冬樹氏らの座談会を読むと、いかに書評家の方々が解説を1つ書くのに手間と時間を掛けているのかが解る。作品を生かすも殺すも解説次第とまでは書いてはいないが、解説を請け負ったからには最後まで読者を満足させなければならないとまで思っている書評家がいることを知らされる。単に読んで感想書いて終わりではなく、作品に対してその作品に至るまでの作家の遍歴やバックグラウンドなどの調査、はたまたそれまで書かれたその作家の作品の文庫解説を読み解くという下準備をしてから4、5時間あるいはそれ以上の時間を掛けて書くのである。

企画物と軽々しく読むことなかれ。本書は時代に埋もれ去ってしまった作品たちへの餞の言葉である。
ちょっと大袈裟だがそれだけの賛辞を与えていいガイドブックであった。


No.1281 8点 機龍警察
月村了衛
(2016/10/24 23:57登録)
シリアスな国際犯罪警察小説に少年たちの心をくすぐるパワードスーツを絡ませたらどんな物語になるか。それを実証したのがこの『機龍警察』である。まさにこれこそ大人の小説と少年心をマッチングさせた一大エンタテインメント警察小説なのだ。

機甲兵装といういわゆるパワードスーツ同士の闘いだけでなく、特捜部SIPDという警察内で仇花的存在が本書の特色の1つである。
外部の傭兵と契約し、最先端の機甲兵装龍機兵を供与され、銃の携行を許された特捜部SIPD。
しかし外部の、しかも素性が解らぬ犯罪者まがいの傭兵を招聘し、そんな彼らに警察官の誰もが乗りたいと願う最先端の機甲兵装を奪われ、さらには特捜部に入った警察官は無条件で階級を挙げさせられるため、警察内部では異分子扱いされ、特捜部に入った者はかつての同僚のみならず周囲から裏切者扱いされるという孤立した組織になっている。

いわばこれは21世紀の『新宿鮫』なのだ。大沢在昌によって生み出された警察のローン・ウルフ、鮫島を組織として存在させたのがこの『機龍警察』における特捜部SIPDであるとも云えよう。
警察官でありながら、警察から白い眼で見られ、明らさまに罵られたり、行きつけのお店からも追い出される。そんな確執を抱えながらも日々過激化する機甲兵装を使ったテロリストたちと命がけの戦いを強いられる特捜部たちの姿が骨太の文体で頭からお尻まで緊張感を保ったまま語られる。つまり本書は機甲兵装というパワードスーツが暴れる犯罪者たちを最先端の技術を駆使して生み出した警視庁のパワードスーツが打倒するという単純な話ではなく、このSF的設定が見事に組織の軋轢の狭間で額に汗水たらして捜査に挑む警察官たちの活躍と結びついた一級の警察小説なのだ。更にその警察機構の中に外部から雇った傭兵、警察崩れ、そして元テロリストという異分子を組み込み、戦争小説の側面もあるという実に贅沢な物語である。しかもそれらが見事に絶妙なバランスで物語に溶け合っている。この1作に注いだ作者の情熱と意欲は見事に現れており、読者は一言一句読み逃すことができないだろう。

三人の雇われ警察官、姿俊之、ユーリ・オズノフ、ライザ・ラードナーたちと警察機構の中で忌み嫌われる存在特捜部SIPDの沖津部長、城木、宮近両理事官、夏川、由紀谷両主任、そして鈴石技術主任らのイントロダクションを果たすのに十分すぎる役割を果たす作品である。
さてこれからのシリーズの展開が待ち遠しくてならない。『機龍警察』は21世紀の『新宿鮫』となるか。この1作を読む限りでは十分その可能性を秘めて、いや既にその実力を持っている。


No.1280 5点 御手洗潔の追憶
島田荘司
(2016/10/23 22:03登録)
『御手洗潔と進々堂珈琲』同様、御手洗潔が登場する非ミステリの短編集。シリーズの中心人物御手洗潔と石岡和巳に直接読者からの質問をぶつける、もしくは近況を語らせるというメタフィクショナルな内容がほとんどで、唯一の例外が御手洗の父親直俊が外務省に勤めていた第二次大戦の頃の話が語られる「天使の名前」だ。
この作品も非ミステリではあるが、元々物語作家としても巧みな筆を振るっていた作者のこと、実に読ませる物語となっている。日本の敗戦を予想し、首脳陣へ戦線の拡大を留まらせようと粉骨砕身の努力を傾注したにもかかわらず、無視され、謂れなき誹りを受けて外務省を後にせざるを得なかった直俊の不運の道のりが描かれ、胸を打つ。特に島田が常々自作で披露していた日本の縦社会に根付く恫喝を伴う権威主義への嫌悪感がこの作品でも横溢しており、その犠牲者として直俊が設定されているのはなんとも哀しい限り。しかし戦中は報われなかった彼の最大の功績は御手洗潔をこの世に生み出したことであると声を大にして云ってあげたい。それが彼にとっての救いとなることだろう。

それ以外のファンサービスに徹した作品では読者からの質問に回答したり、未発表御手洗作品について触れられていたり、登場人物の近況が報告されたり、御手洗がウプサラ大学教授時代の彼の博識ぶりを彷彿とさせるエピソードがあったりと御手洗と石岡が実在するかのような語り口である。特に作者島田自身が石岡に読者への質問をぶつける作品では錯覚を覚えるくらいだった。しかし石岡君はどうしたものかねぇ。

今では日本を代表する名探偵シリーズにまで成長した御手洗潔が逆にそれほどまで支持されるようになったのは本書のように事件のみに挑む彼の姿以外の素顔を折に触れあらゆる媒体で作者が語ってきたことが要因であろう。一作家の一シリーズ探偵として登場した御手洗潔が今日これほどまでに人気があるのはこのような地道なファンサービスの賜物であろう。一瞬で事件の構造を看破する天才型の探偵という浮世離れした御手洗潔に血肉を与えることに見事に成功している。

しかし作者がすでに還暦を超えており、即ち御手洗もまた同じような世代であることを考えるとこれからのシリーズは御手洗の過去の活躍を紹介するような形になるのではないだろうか。そしてそれらの事件がまだまだ眠っていることが解っただけで本書は読む価値のある1冊なのかもしれない。


No.1279 3点 ほとんど無害
ダグラス・アダムス
(2016/10/16 00:28登録)
4作目の『さようなら、いままで魚をありがとう』で新展開を見せた本シリーズでは同作ではなおざりになっていたかつてのキャラクターが登場する。

しかし本書の主人公アーサー・デントは前作で知り合った恋人フェンチャーチと仲睦まじい生活を見せられるかと思いきや、いきなり彼女は超空間の事故で消失してしまい、失意のあまり、地球に似た惑星を追い求めて宇宙を彷徨っている。彼の傷心旅行の模様が語られる。
そんな彼に追い打ちを掛けるように今や亜空間通信放送局のキャスターとして宇宙中を飛び回っているトリリアンが現れ、彼との間の子供だと云って娘ランダムを置いていく。

途轍もないナンセンスギャグで始まったこのシリーズの結末はなんとも云いようのない虚無感に襲われるようになるとは誰が想像しただろうか?喜劇で始まったシリーズがかくも空しい悲劇に終わろうとは全く言葉が出ない。

前作並びに本書の解説に書かれているが、著者のアダムスは非常に自由奔放な性格で前作も当初予告した内容とは全く異なった恋愛SF物語になったとのこと。それも作者自身が執筆時に後の奥さんとなる相手と恋愛中だったことが色濃く物語に反映されたとのことで、本書の実に虚無的な物語もまた執筆中に会計士の横領と義父の死という不幸が重なったためにそれが作品に出てしまったようだ。このように自身の私生活が否応なく物語に影響を与えてしまう作家なのだ。そして本書は書かれるわけではない続編だったようで、それがゆえに逆に悲劇的な物語の決着の付け方をしてしまったようだ。
特に本書ではアーサーとトリリアンとの間の娘ランダムの存在が物語の方向性を一気に変えてしまったように思える。それまではトリシアのニュースキャスターとしての宇宙進出と他社に買収された『銀河ヒッチハイク・ガイド』の本社に仕返しをしようと企むフォード、そしていきなり最愛の恋人フェンチャーチを失ったアーサーの宇宙放浪記とそれぞれのキャラクターがいかにして落ち合うかというのが物語の妙味であったように思われたが、それがランダムの登場で一気に瓦解する。特にスペース・チャイルドで自身のアイデンティティを持ちえないランダムが好奇心を発揮して色んなものに興味を持ち、物事の善悪の区別なく行動してしまい、さらに癇癪を起す様は解説にも触れられていないが私生活が物語に素直に反映されるアダムスにとって自身の生活で同様の困難に見舞われたのではないだろうか。

訳者あとがきにも書かれているように片や「最高傑作」、片や「シリーズ最低最悪の作品」と本書の世評は賛否両論真っ二つに分かれたようだ。そして訳者自身は両方とも納得できるとしており、私も傑作とまではいかないまでも実に計算されて書かれているとは認めるものの、物語の結末に非常に納得のいかない思いが残っている。

特に前作で鮮烈な印象を残したアーサーの恋人フェンチャーチがたった1行で退場し、全く物語に出てこないのが非常に残念だ。前作が個人的には最も楽しかった作品だっただけにフェンチャーチ不在はなんとも心残りである。

アダムスはこの後の作品を書かずに急逝してしまうのだが、無念だったのかどうかは今となっては不明だ。オーエン・コルファーによる続編も書かれているが私としてはこれでこのシリーズは終わりにしたいと思う。アダムスによって生み出された作品はやはりアダムス自身で閉じられた物語が真の結末だと思うからだ。
しかしそれがなんとも寂しく感じるのが重ね重ね残念でならない。


No.1278 7点 禁断の魔術
東野圭吾
(2016/10/12 23:58登録)
文庫化に際して「猛射つ」を長編化したものを読了。
長編での探偵ガリレオ作品は湯川の葛藤を中心に描かれた物語となっているが、本書もまたその例にもれず、母校の後輩が事件に絡んでいる。

一人の真面目な青年が身寄りの死によってこれから開けるであろう明るい未来への扉を閉ざされてしまう。本書は初めから人生の皮肉さによって読者の心を鷲掴みにする。
しかしそれが表向きの理由だったことが次第に解ってくる。
東野氏は『手紙』、『さまよう刃』、『容疑者xの献身』など一貫してこの法律では割り切れない部分を描き、犯罪に走らざるを得ない社会の犠牲者の辛い立場を描いてきた。古芝伸吾もまたその系譜に連なる犠牲者の1人と云えるだろう。

300ページ足らずの長編で、元は短編に加筆した作品だったがそこに内包されたメッセージ、とりわけ科学者とはどう生きるべきかという根源的な命題を刻み込んだ作品で中身は濃かった。そして今までは科学を悪用した相手に博識でトリックを看破してきた湯川だったが、今回初めて自身で授けた技術の悪用と愛すべき後輩に対峙した湯川の心境はいかばかりだったのか。この事件を経て湯川はさらに人間的な魅力を備えて我々の許に還ってくるに違いない。


No.1277 10点 シャイニング
スティーヴン・キング
(2016/10/09 23:44登録)
とにかく読み終えた今、思わず大きな息を吐いてしまった。何とも息詰まる恐怖の物語であった。これぞキング!と思わず云わずにいられないほどの濃密な読書体験だった。

誰もが『シャイニング』という題名を観て連想するのは狂えるジャック・ニコルスンが斧で扉を叩き割り、その隙間から狂人の顔を差し入れ「ハロー」と呟くシーンだろう。とうとうジャックは悪霊たちに支配され、ダニーを手に入れるのに障害となるウェンディへと襲い掛かる。それがまさにあの有名なシーンであった。従ってこの緊迫した恐ろしい一部始終では頭の中にキューブリックの映画が渦巻いていた。そして本書を私の脳裏に映像として浮かび上がらせたキューブリックの映画もまた観たいと思った。この恐ろしい怪奇譚がどのように味付けされているのか非常に興味深い。キング本人はその出来栄えに不満があるようだが、それを判った上で観るのもまた一興だろう。

≪オーバールック≫という忌まわしい歴史を持つ、屋敷それ自体が何らかの意思を持ってトランス一家の精神を脅かす。それもじわりじわりと。特に禁断の間217号室でジャックが第3者の存在を暴こうとする件は既視感を覚えた。この得体のしれない何かを探ろうとする感覚はそう、荒木飛呂彦のマンガを、『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいるような感覚だ。頭の中で何度「ゴゴゴゴゴゴッ」というあの擬音が鳴っていたことか。荒木飛呂彦氏は自著でキングのファンでキングの影響を受けていると述べているが、まさにこの『シャイニング』は荒木氏のスタイルを決定づけた作品であると云えるだろう。

ところで開巻して思わずニヤリとしたのは本書の献辞がキングの息子ジョー・ヒル宛てになっていたことだ。本書は1977年の作品で、もしジョー・ヒルがデビューしたときにこの献辞に気付いて彼がキングの息子であると解った人はどのくらいいるのかと想像を巡らせてしまった。
そしてよくよく読むとその献辞はこう書かれている。

深いかがやきを持つジョー・ヒル・キングに

つまり『シャイニング』とは後に作家となる幼きジョー・ヒルを見てキングが感じた彼の才能のかがやきに着想を得た作品ではないだろうか。そしてダニーのモデルはジョー・ヒルだったのではないだろうか。

1作目では超能力者、2作目では吸血鬼、3作目の本書では幽霊屋敷と超能力者とホラーとしては実に典型的で普遍的なテーマを扱いながらそれを見事に現代風にアレンジしているキング。本書もまた癇癪もちで大酒呑みの性癖を持つ父親という現代的なテーマを絡めて単なる幽霊屋敷の物語にしていない。怪物は屋敷の中のみならず人の心にもいる、そんな恐怖感を煽るのが実に上手い。つまり誰もが“怪物”を抱えていると知らしめることで空想物語を読者の身近な恐怖にしているところがキングの素晴らしさだろう。
そう、本書が怖いのは古いホテルに住まう悪霊たちではない。父親という家族の一員が突然憑りつかれて狂気の殺人鬼となるのが怖いのだ。
それまではちょっとお酒にだらしなく、時々癇癪も起こすけど、それでも大好きな父親が、大好きな夫だった存在が一転して狂人と化し、凶器を持って家族を殺そうとする存在に変わってしまう。そのことが本書における最大の恐怖なのだ。
やはりキングのもたらす怖さというのは読者にいつ起きてもおかしくない恐怖を描いているところだろう。上下巻合わせて830ページは決して長く感じない。それだけの物語が、恐怖が本書には詰まっている。


No.1276 7点 夢・出逢い・魔性
森博嗣
(2016/09/28 23:51登録)
舞台がテレビ局というのも非日常的であり、一行が那古野を離れて東京で事件に携わるのも新味があり、なかなか面白い。彼らが宿泊するビジネスホテルの描写など何気ないところに妙にリアルな雰囲気があって、共感してしまう。

しかし物語の展開にはかなり違和感を覚えた。特に事件に乗り出す警視庁の人間が紅子に色々と事件の内容を明かすことが実におかしい。紅子が人の警戒心を解く笑顔を武器に色々と話を聞くのだが、捜査上の秘密を素人にペラペラと話さないことは今では一般読者でも知っていることだろう。そこを作者は「紅子に対面すると男性は妙に素直になる傾向にある」と全く説得力のない答弁で逃げている。
更に事件の関係者であり最有力の容疑者である立花亜裕美が小鳥遊練無と共に車で建物から出るのを知っていながら見過ごしていることも実におかしい。普通ならば血眼になって2人の行方を捜すのではないか。そういう緊迫感が警察の口調からは感じられない。この傾向はずっと続き、さらにエスカレートして紅子が望むままに事件関係者たちに逢わせたりと非現実的な昔の推理小説を読んでいるかのような錯覚を受ける。

それはそのまま踏襲され、警察一同集めての推理シーンまでもが演出されるのだが、その謎解きシーンはいつになく派手だ。なんとクイズ番組収録中に真相に辿り着いた紅子がそのまま犯人まで明かすのだ。そこから出演者、司会者、テレビスタッフ、そして刑事の前で紅子の推理が開陳される。
かつて川柳に「名探偵 みなを集めて さてと云い」というほど事件関係者を集めて推理を披露するのは本格ミステリでは定番なのだが、本書では実に聴衆の多い謎解きシーンとなった。番組出演者が32名だから、少なくとも50人近くはいることになる。またこのような場で推理を臆面もなく披露する紅子もらしいと云えば実にらしい。

しかし今回の物語は実にシンプルというか森氏にしては真っ当なミステリであった。小鳥遊練無が容疑者と失踪し、そしてそのために犯人に狙われるというツイストはあったものの、メインの殺人事件が本編の謎の中心であった構成は実に珍しい。なぜならば森ミステリではメインの事件よりもサブとなる謎の方に大きなサプライズがあるからだ。例えば本書では保呂草の他に稲沢真澄という探偵が出てくる。このダブル探偵という設定ゆえに何かサプライズがあるのではないかと思っていたが、実に普通であった。いや実際は叙述トリックを色々仕掛けていたのだが。

そうそう、副産物として今回初めて瀬在丸紅子のイニシャルが明かされる。このシリーズがなぜVシリーズなのかが初めて明らかになる。

さて本書のタイトルは『封印再度 Who Inside』に次いで日本語と英語の読み方が同一のタイトルである。しかし『封印再度』とは異なり、あまりダブルミーニングの妙は本書では感じられなかった。確かに題名の通り夢とショーで殺されるという趣向は含まれているのだが、あまりインパクトがなかったように感じた。

しかし今回は阿漕荘メンバー東京出張編ということもあって紅子と犬猿の仲である祖父江七夏と元婚約者で刑事の林が登場しなかったこともあり、男女の痴情のもつれというドロドロした一面がなかったのがよかった。それ故に瀬在丸紅子、小鳥遊練無、香具山紫子、保呂草潤平たちの活躍に余計な騒音がなくて愉しめた。特に小鳥遊練無は大活躍である。そして最後に美味しいところは瀬在丸紅子がかっさらっていく。可哀想なのは香具山紫子だ。今回も三枚目に甘んじている。彼女が一番凡人であるがゆえにどうにか報われてほしいと思うのだが。


No.1275 7点 盤上の夜
宮内悠介
(2016/09/26 23:40登録)
まさに鮮烈のデビューであろう。そして創元SF大賞は第1回の短編賞受賞者にこの素晴らしい才能を見出したことで権威が備わったことだろう。そう思わされるほど、この宮内悠介なる若き先鋭のデビュー短編はレベルが高い。

とにかく表題作に驚かされた。四肢を喪った女性棋士灰原由宇の半生が描かれるこの物語はミステリでもなく、また宇宙大戦やモンスターが出てくるわけもない。ただ彼女の棋士のエピソードが語られるのみだ。しかしそこには道を究める者が到達する精神世界の高み、本作の表現を借りるならば天空の世界が開けているのである。この天空の世界はまさにSFである。精神の世界のみでSFを表現した稀有な作品なのだ。
特に孤高であった棋士が最後に放つ言葉が実に心地よい。棋士の対局を孤独で苦しい氷壁登攀に例える彼女がなぜそれほどまでに苦難の道を選ぶのかの問いに、「それでも、二人の棋士は、氷壁で出会うんだよ」と応える。そこには2人でしか会えない世界があるからと。こんな幸せな答えが他にあるだろうか。この台詞は今後も私の中に残り続けるだろう。

そして実在の機械と人との勝負を扱った「人間の王」はいわば伝記である。しかし実在したチェッカーというゲームの天才とコンピューターの闘いは本作以外の作者の創造した天才たちの精神性を裏付けるいい証左になっている。神を頭に宿し、全ての局面を記憶した天才が実在した。だからこそ彼はゲームの極北を見たいと思った。
そんな人物が実在したからこそ、他の作品で登場する灰原由宇や真田優澄、葦原恭二たちの存在が生きてくる。

また麻雀を扱った「清められた卓」での息詰まる攻防戦の凄みはどうだろうか?プロ雀士は面子を掛け、予想外の奇手を打つ謎めいたアマチュア雀士真田優澄と戦いを挑む。他のアマチュア雀士も今まで培ってきたキャリアを賭けて挑む。極北の闘い、宗教と科学の闘いと称された対局はそれぞれを今まで体験したことのないゾーンへと導く。この筆致の熱さは一体何なのだろう。ただでさえ麻雀バトルとしても面白いのに―ちなみに私は麻雀をしないし、ルールも解らないのだが、それでもそう感じた!―、最後に明かされる真田優澄の秘密と彼女が成したことを知らされるに至っては何か我々の想像を遥かに超越した世界を見せられた気がした。

後世に残る、天才たちを生み出すゲームを創作したにも関わらず誰もが相手にしないがために埋没した1人の王を描いた「象を飛ばした少年」が抱いた虚しさはなんとも云えない余韻を残すし、狂乱の人生を生き尽くした2人の兄弟と1人の女性の数奇な人生を語った「千年の虚空」では人智を超えた神の領域に到達するには常人であってはならないと痛烈に主張しているようだ。ここに登場する葦原兄弟と織部綾の人生の凄絶さは到底常人には理解しえないものだ。それがゆえに己の本能に純粋であり、人間らしさをかなぐり捨てて常に答えを追い求めることが出来た。

ここに出てくるのは見えざるものが見える人々だ。その道を究めんとする者たちが望むその分野の極北を、究極を見ることを許された人々たちだ。しかしそんな彼らは超越した才能の代償に喪ったものも大きい。四肢をもがれて不具となった女性、強くなりすぎた故に滅びゆくゲームの行く末を見据えるしかない男、「都市のシャーマン」となり、治癒に身を捧げる女性、統合失調症になったがために才能が開花した男。物事を探求し、見えざるものを見えるまで追い求めていく人々の純粋さはなんとも痛々しいことか。本書にはそんな不遇な天才たちの、普通ではいられなかった人々の物語が詰まっている。

なぜこれがSFなのか。それは上にも書いたように人々の精神の高みはやがて宇宙以上の広大な広がりに達するからだ。また四角い盤上や卓上は常に対戦者には未知なる宇宙が広がる。その宇宙は限られた人々たちが到達する空間である。本書はそんな異能の天才たちが辿り着いた宇宙の果てを見せてくれる短編集なのだ。


No.1274 5点 海外ミステリ・ハンドブック
事典・ガイド
(2016/09/25 23:23登録)
1991年に早川書房にて編まれた『ミステリ・ハンドブック』は今でも私の必携の書である。その『ミステリ・ハンドブック』を21世紀になった今、新たな1冊を作ろうと企画され編まれたのが本書。実に25年ぶりの刷新である。

本書はランキング形式を排し、カテゴリ別で作品をチョイする形式になっている。いわゆる目利きによるガイドブックだ。
私はこれはこれでいいとは思う。なぜなら最近行われた週刊文春のオールタイムベスト選出も27年前のランキングと上位はほとんど変わらなかったからだ。やはり初期の読書の黄金体験というのはそれぞれの脳裏に鮮烈に印象に残すからいわゆる名作からミステリの世界に入るとその驚きと面白さが常に煌びやかな原初体験として残るからだ。従って今回の早川書房の編集方針には感心したのだが、開巻してすぐに紹介されたのが『シャーロック・ホームズの冒険』であったのにはガクリとするとともに苦笑してしまった。

さて本書ではカテゴリ別にミステリが紹介されていると述べたが、その内容は以下の通り。
「キャラ立ち」、「クラシック」、「ヒーローorアンチ・ヒーロー」、「楽しい殺人」、「相棒物」、「北欧ミステリ」、「英米圏以外」、「エンタメ・スリラー」、「イヤミス」、「新世代」。
上掲の中でやはり特筆すべきは「北欧ミステリ」のカテゴリだろう。昨今の北欧系諸国の作品紹介は実に活発になり、しかもそのほとんどがレベルが高く、年間ベストランキング上位に選出されているが、とうとうガイドブックで一ジャンルを築くまでにもなった。数年前ならば「英米圏以外」で一括りにされていたであろうが、やはり既に認知されてきたということか。しかもそのきっかけを作った『ミレニアム三部作』は「キャラ立ち」にカテゴライズされており、それを除いてもカテゴリーを埋めることが出来るほど成熟していることだろう。
また「イヤミス」がカテゴリーとして別に掲げられていることも興味深い。昔は悪女物とかファム・ファタール物、奇妙な味、鬼畜系などと表現を変えて紹介されてきた作品がこのカテゴリーで集約されている。このジャンルが以後何年続くのか解らないが、数年後にまた紐解いてみて死語となっているか否かを確認するのも一興かもしれない。

ただ今回はカテゴリー別にしたことでH書房作品ばかりが挙げられたのは実に恣意的に感じた。特に多いのがアガサ・クリスティ。4作も収録されている。kanamoriさんもおっしゃっているように3割が他者の作品であることを多いとみるか少ないとみるかは読者次第であろう。私はやはり少ないと感じる。老舗ミステリ出版社であるからその歴史ゆえに出版点数は多いのは解っているが、やはり4割は割くべきだろう。またウィンズロウがニック・ケアリーシリーズや『犬の力』でなくなぜ『ボビーZ~』なのかとかキングがなぜ『グリーン・マイル』なのかとか色々気になるところはあるのだが。

この作品紹介以外にはエッセイが2編と評論が7編続く。しかしそのうち本書のための書下ろしは有栖川氏のエッセイ1編のみで他は全てミステリマガジンで収録されたものの採録であり、瀬戸川氏のジェイムズ評論は『ミステリ・ハンドブック』からの再録である。新たなハンドブックを作ろうと意気込んだ割にはなんとも竜頭蛇尾のガイドブックかと落胆するのもおかしくないだろう。
特別座談会、ジャンル別評論、零れた名作、復刊希望の名作・傑作などもっとミステリを活性化するような企画はあるだろうに、自社の作品を主に紹介し、自社の雑誌の掲載記事を載せて自画自賛している手前味噌感が実に下らなく感じた。
『海外SFハンドブック』の感想にも書いたが、最近の出版社には本当に読みたくなるガイドブックの作り方を知らないのではないだろうか。特にH書房は自社の売上向上のためにやらされているような感じを受けてしまう。本書の約2倍の分量がある『新・冒険スパイ小説ハンドブック』に充実ぶりを期待しよう。


No.1273 7点 さようなら、いままで魚をありがとう
ダグラス・アダムス
(2016/09/21 23:22登録)
シリーズ4作目の本書の舞台はなんと1作目の冒頭でヴォゴン人によって消滅させられた地球だ。約8年もの間宇宙を彷徨っていたアーサー・デントは周囲の人々に数ヶ月程度の休暇を取って久々に帰ってきた程度の歓待を受ける。

相も変わらず語られる内容は荒唐無稽のナンセンスギャグが横溢している。今回アーサーが恋に落ちる女性フェンチャーチも謎めいた女性であるが、それ以外にもいつも雨に追われているトラック運転手ロブ・マッケナに家の中が外で家の外が部屋になっている奇妙な家に住む真実を知る男ジョン・ワトソンと読者を軽く酩酊感に誘うストーリー運びは健在だが、フォード・プリーフェクトのエピソードが幕間に挟まれるものの、前3作に比べるとストーリーの起伏はむしろ穏やかで、アーサーの地球復活の謎を探るメインストーリーが主になっているために実にスムーズに進むように感じられた。これはそう感じるのは私だけでなく、解説によれば刊行当時の評価もそうだったらしい。SFを期待したファンには失望感を、批評家筋では好評だったとあり、私はやはり後者の側の人間のようだ。
これは今までが広大な宇宙を舞台に色んな星の色んな星人の奇妙な生態や習慣、そして環境がどんどん放り込まれていたのに対し、今回は地球を舞台にしていることもあるのかもしれないが、特徴的なのは他のメインキャラクターであるゼイフォードやトリシアたちが全く出てこないことだ。私は今までアダムスのストーリー展開の取り留めのなさに面食らい、煙に巻かれたような読後感にどうも相性の合わなさを覚えていたものだが、本書のようにはっきりとしたストーリー展開をされると逆に味気なさを感じる自分がいて正直驚いた。3作読むことで実はアダムスマジックにかかっていたのかもしれない。

この4作目は今までの作品の雰囲気とガラリと変わっている。今まではとにかく独特な価値観で本能の赴くまま行動するゼイフォードとフォードに振り回されるアーサー、そして鬱病ロボットマーヴィンと世渡り上手のトリリアンらが織りなすドタバタ喜劇だったが、本書ではアーサーと新ヒロイン、フェンチャーチ2人の出逢いと冒険がメインとなっており、今までの登場人物で登場するのはフォードと最後にマーヴィンが出てくるだけである。
つまりこの地球が復活した本書は新たなシリーズの幕開けという位置づけとなるのではないか。『銀河ヒッチハイク・ガイド』第2章とでも云おうか(と思っていたらやはり解説にも作者が3作まででシリーズ完結と云っていたと書かれていた)。

毎度毎度先の読めないナンセンスSFギャグオデッセイ。次は図らずも作者の急逝で最終巻となった物語。決着がつくわけではないだろうが、新たな幸せを得たアーサーとフェンチャーチの2人にどんな冒険が待っているのか、正直不安である。


No.1272 7点 虚像の道化師
東野圭吾
(2016/09/19 23:53登録)
文庫版で読了。
本書では内海刑事の登場以来、疎遠になりつつあった草薙刑事と湯川との名コンビぶりが復活しているのが個人的には嬉しかった。

今回も科学知識を活用したトリックが並べられている。マイクロ波、赤外線、電磁波、流体力学、脳磁波、作用反作用の法則。
こう並べるといずれもどこかで聞いたような物ばかり。生活家電に取り入れれらているものもあれば、かつて学生時代に学んだ物もあり、また初めて聞くものもありと今回もヴァラエティに富んでいる。つまり必ずしも最先端の科学技術ではなく、我々の日常生活で既に活用されている技術を駆使したトリックなのだ(一部を除くが)。
しかしこれらの技術をトリックとして使って恰も超常現象のように振る舞う犯人、もしくは事件関係者たちの姿はもはや特異ではなく、日常的になりつつある。それはやはりネットの繁栄により素人が容易に手軽にそれらの技術を応用したツールを手に入れ、アイデア1つで奇跡のような事象を生み出すことが可能になったからだ。つまり科学技術が蔓延することは警察にとっても常に犯人と技術的な知恵比べを強いられることになることを意味している。
そんな科学知識を応用して紡がれる短編はとにかく全てが水準以上。シリーズ初期に見られた一見怪現象としか思えない事件を科学の知識でそのトリックを見破るだけでなく、事件の裏に隠された関係者の意外な心理を浮き彫りにして余韻を残す。そんな粒ぞろいの作品の中で個人的なベストを挙げると「透視す」、「曲球る」、「演技る」の3編を挙げたい。

さて以前にも書いたが湯川は『容疑者xの献身』以前と以後ではキャラクターががらりと変わっている。特に事件関係者に対して手厚い心遣いを、気配りをするようになった。「透視す」ではホステス殺人事件の謎のみだけでなく被害者親子の確執に隠された被害者の真意を突き止め、遺族となった継母に魂の救済を与える。「曲球る」では再起をかけたプロ野球投手に研究としながらも復活に惜しみなく協力し、「念波る」では双子姉妹に秘められた犯人に対する強い疑念を晴らすために嘘をついてまで協力すれば、「偽装う」では心中事件を殺人事件に偽装しようとした娘の痛々しい過去を汲み取り、明日への新たな一歩を踏み出す勇気を与える。

そこには単純な科学の探究者だった湯川の姿はなく、人を正しい道に導く人道的な指導者の姿が宿る。前作『真夏の方程式』で否応なく事件に関わらされた無垢なる容疑者に直面したことが、今回のように予期せず犯罪に巻き込まれてしまいながらも今の最悪を変えようともがく弱き人々へ手を差し伸べる心理に至ったのだろうか。だとすればこのシリーズは間違いなく事件を経て変わっていく湯川学の物語であるのだ。単なる天才科学者の推理シリーズではないのだ。
以前は加賀恭一郎シリーズの方に好みが偏っていたが、今ではその天秤はこの探偵ガリレオシリーズに傾きつつある。本書を読んでその傾きはさらに強くなったと告白してこの感想を終えよう。


No.1271 7点 呪われた町
スティーヴン・キング
(2016/09/12 23:08登録)
キング2作目にして週刊文春の20世紀ベストミステリランキングで第10位に選ばれた名作が本書。そんな傑作として評価される第2作目に選んだテーマはホラーの王道とも云える吸血鬼譚だ。

本書の主役はこの町であり、その住民たちである。従ってキングは“その時”が訪れるまで町民たちの生活を丹念に描く。彼ら彼女らはどこの町にもいるごく当たり前の人々もいればちょっと変わった人物もいる。登場人物表に記載されていない人々の生活を細かくキングは記していく。
これらの点描を重ねて物語はやがて不穏な空気を孕みつつ、“その時”を迎える。
このじわりじわりと何か不吉な影が町を覆っていく感じが実に怖い。正体不明の骨董家具経営者がマーステン館に越してきてから起きる怪事件の数々。キングは吸血鬼の存在を仄めかしながらもなかなか本質に触れない。ようやく明らさまに吸血鬼の存在が知らされるのは上巻300ページを過ぎたあたりだ。それまでは上に書いたように町の人々の点描が紡がれ、そこに骨董家具経営者の謎めいた動きが断片的に語られるのみ。それらが来るべき凶事を予感させ、読者に不安を募らせる。

キングの名を知らしめた本書は今ならば典型的なヴァンパイア小説だろう。物語はハリウッド映画で数多作られた吸血鬼と人間の闘いを描いた実にオーソドックスなものだ。しかし単純な吸血鬼との戦いに人口1,300人の小さな町セイラムズ・ロットが徐々に侵略され、吸血鬼だらけになっていく過程の恐ろしさを町民一人一人の日常生活を丹念に描き、さらにそこに実在するメーカーや人物の固有名詞を活用して読者の現実世界と紙一重の世界をもたらしたところが画期的であり、今なお読み継がれる作品足らしめているのだろう(今ではもうほとんどアメリカの書店には著作が並んでいないエラリー・クイーンの名前が出てくるのにはびっくりした。当時はまだダネイが存命しており、クイーン作品にキング自身も触れていたのだろう)。

吸血鬼カート・バーローがどんどん町の人々を吸血鬼化していき、ヴァンパイア・タウンにしていくところに侵略される恐怖と絶望感をもたらしている、ここが新しかったのではないか。従って私は吸血鬼の小説でありながらどんどん増殖していくゾンビの小説を読んでいるような既視感を覚えた。

また本書の恐ろしいところは町が吸血鬼に侵略されていることをなかなか気づかされないことだ。彼らは夜活動する。従って昼間は休息しているため白昼の町は実に平穏だ。いや不気味なまでに静まり返っている。人々はおかしいと思いつつも明らさまな凶事が起きていないため、異変に気付かない。しかし夜になるとそれは訪れる。近しい人々が訪れ、赤く光る眼で魅了し、仲間に引き入れる。この実に静かなる侵略が恐怖を募らせる。これは当時複雑だった国際情勢を民衆が知ることの恐ろしさ、知らないことの怖さをキングが暗喩しているようにも思えるのだが、勘ぐりすぎだろうか?

古くからある吸血鬼譚に現代の風俗を取り入れてモダン・ホラーの代表作と評される本書も1975年に発表された作品であり、既に古典と呼ぶに相応しい風格を帯びている。それを証拠に本書を原典にして今なお閉鎖された町を侵略する吸血鬼の物語が描かれ、中には小野不由美の『屍鬼』のような傑作も生まれている。


No.1270 4点 殺し屋ケラーの帰郷
ローレンス・ブロック
(2016/09/04 22:42登録)
前作『殺し屋ケラー最後の仕事』でケラーはニコラス・エドワーズとして身分を変え、リフォーム会社の共同経営者に収まり、さらに彼とドットを罠にかけたアルへの復讐を遂げ、さらにはジュリアという伴侶を得てその妻との間にかわいい娘ジェニーを儲けたケラー。通常ならば大団円で一連のケラーのシリーズに終止符が打たれるはずだったが、人生は上手くいかない物でケラーの前にサブプライムローン問題が立ち塞がり、あれほどあったリフォームの依頼がパタリと止んで閑古鳥が鳴く状態に。そんなところからケラーの第2の殺し屋稼業がスタートする。

かつては一匹狼だったケラーが家族という護る物を得て再び命を奪う仕事に就けるのかと正直疑問だった。ケラー自身もしばらくのブランクを懸念し、またかつての自分のように冷静に処置できるのかと自問自答を繰り返すが、逆に妻のジュリアと幼い娘ジェニーの声を聞くことで逆に安堵を覚える。殺し屋稼業に戻ることでそれまでのことが夢ではなかったのかと錯覚したがそうではないことを再確認し、それでもケラーは仕事が実施できたことで再び自分を取り戻す。
しかしこの感覚は特殊だ。家族を持つからこそそれまで出来たことが出来なくなることは多々あるのに。ましてや人の命を奪い、家族に喪失をもたらす仕事である。それは妻ジュリアも指摘するのだが、ケラーは自分の変化を懸念しはしたものの、やはり前の通りに殺しをやれた自分がおり、それは以前と変わらぬ達成感をもたらしたと述べる。ケラーの精神状態はやはり常人とはちょっと違っているようだ。

今回は以前にも増してケラーが切手にのめり込む描写が非常に多い。殺しの依頼も切手収集のついでになっている。もはや暮らすのに十分な金があるケラーにとってかつての生業だった殺しから切手収集がメインになって主客転倒しているのだ。
しかし殺し屋の話で始まったこのシリーズが切手収集がメインの話になろうとは誰が想像しえただろか?殺しを扱っているのに全く陰惨さがない、実に特殊なシリーズだ。

そしてその切手収集熱はやがてケラーから殺し屋稼業が潮時であると決意させるようになる。アウトローだった彼が妻と娘とリフォーム業と切手転売のサイドビジネスと安定を得た時、もはや彼には殺しをする理由が無くなっていた。
妻の助言で切手転売のサイドビジネスを始めてからはもはや殺し屋稼業よりもそちらの方に興味が大きく傾いてくる。それは趣味にさらにのめり込む環境が出来たこともあるだろうが、やはりこちらの方が安全な仕事であること、そして殺しのためにアメリカの各地に出張して家族と一時的に離れることが次第に辛くなってきたことだろう。ケラーの心の中に家族愛という新たな感情が芽生え、その領域がどんどん大きくなってきたのだ。

殺しを引退したケラーがどんな理由にせよ、ターゲットにアプローチしていく過程、そして依頼を達成するプロセスを書くことがもはやメインではなくなった証拠ではないだろうか。ケラーの引退を示唆しながらアクロバティックな内容で再び呼び戻したブロック自身もこの先のケラーを描くことに迷った、いやむしろケラー自身が彼の中で動かなかったのかもしれない。

前作『殺し屋最後の仕事』がやはりこのシリーズの幕引きだったのではないだろうか。サブプライムローン問題という新たな経済危機がブロックの中にいたケラーを呼び起こしたのだろうが、本書に収められたケラーの姿を見ると、もはやそこには殺し屋ケラーの姿は薄れ、愛する妻と娘を持ち、切手収集を趣味にしたリフォーム会社の共同経営者ニコラス・エドワーズがいるだけだった。
どんなシリーズにも終わりはある。読者を大いに楽しませるシリーズならばその幕引きは鮮やかであるべきだろう。

本書は家族を持ったケラー=ニコラス・エドワーズのその後を知るにはファンにとってはプレゼントのような短編集だったが、かつてのケラーを期待するファンにとってはどこか物足りなく、そして痛々しさを感じさせる作品だった。


No.1269 10点 ロスト・ケア
葉真中顕
(2016/09/04 00:22登録)
介護という日常的なテーマを扱った本書で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した著者のデビュー作。新人とは思えぬ堂々の書きっぷりで思わずのめり込んで読んでしまった。
介護。それは誰もが必ず1度は直面する問題で2000年に我が国も介護保険制度が導入されたが、今なお介護が抱える問題や闇は払拭されていない。

作者は色んな対比構造を組み込んで物語に推進力をもたらせている。
介護する側される側。助かる者と助からない者。富める者と貧しい者。善人と悪人。
しかし究極の光と闇はやはり大友と<彼>である。これについては後に述べよう。

以下ネタバレを含みます。

重介護老人を自然死に見せかけて計43人もの犠牲者を出した<彼> の所業を暴くプロセスが実に論理的だ。
大学の数学科の元研究員という奇妙な経歴を持つ大友の相棒の事務官椎名によって『フォレスト八賀ケアセンター』の各従業員の出勤記録と殺人が起きた日の曜日との間にある奇妙な相関関係を分析して容疑者に辿り着く。このように具体的な数値データから犯人を導くプロセスは今までミステリで読んだことがない、本当のデータによる犯人の特定であった。これをデビュー作で既に独自色を出すとは恐るべき新人である

しかしこの物語は上に書いたように新人作家の一デビュー作であると片付けられないほど、その内容には考えさせられる部分が多い。
介護生活は今40代の私にとってかなり現実味を帯びた問題になっている。実際母親は更年期障害で入退院を繰り返し、義母に至ってはつい先月末に脳梗塞で倒れ、半身麻痺の状態で入院中だ。本書に全く同じ境遇の人物が出てきて私は大いに動揺した。そう本書に書かれていることはもう目の前に起こりうることなのだ。

人を殺すことは悪だと断じる大友も実は人を多く殺したから死刑を求刑する自分もまた間接的な殺人者であることを犯人に論破され、動揺する。つまり人を殺すことは悪い事だと云いながら、社会は治安を守るために殺人を行っているのだ。
しかしそれは必要悪だ。この世は単純に善と悪の二極分化では割り切れないほど複雑だ。しかし実は自然でさえその必要悪を行っている。自然淘汰だ。自然は、いや地球は生態系を脅かす存在を滅ぼすような人智を超えたシステムによってバランスを保っている。
私は本書の犯人の行ったことは自然淘汰に似ていると思った。誰もが最低限の幸せな生活を送る権利があるが、それが実の両親もしくは義理の両親によって侵される人々がいる。そんなアンバランスはあってはならない。それを生み出した日本のシステムを変えるために<彼>は制裁を行ったのだ。

東野圭吾の『さまよう刃』でも思ったが、人は殺してはいけないが死刑のように社会の治安を守る、つまりはシステムを維持するための必要悪としての殺人は存在しうるのではないのだろうか。実に考えさせられる作品だった。日本の介護制度の想像を超える悪しき実態を知ってもらうためにもより多くの人に読んでもらいたい作品だ。


No.1268 10点 ナミヤ雑貨店の奇蹟
東野圭吾
(2016/08/10 23:25登録)
とにかく小憎らしいほど読者を感動させるファクターが散りばめられている。東野圭吾が本気で“泣かせる”物語を書くとこんなにもすごいクオリティなのかと改めて感服した。上に書いたようにテーマが普遍的であり、読者それぞれに当事者意識をもたらせ、登場人物に自身を投影させる親近感を生じさせるからだろう。

そしてかつて『手紙』という作品では本来貰って嬉しい手紙が刑務所に服役中の兄から送られることで主人公の未来を閉ざす赤紙のような忌まわしい物に転じていたのに対し、本書では悩み事を記した手紙が人の心と心を繋ぎ、実に温かい物語になる。映画『イルマーレ』も過去と現在の時空を超えた手紙のやり取りの話だったが、その要素を取り入れているからなおさらだ。読み終わった後、しばらくジーンとして動けなかった。

今ちょうど公私に亘って難局に直面しているためか、私もナミヤ雑貨店に相談したいとさえ思ってしまった。特に浪矢雄治の人柄が実に素晴らしく、なぜこの人はここまで人に対して興味を持ち、また真摯に向くことができるのだろうかと感嘆した。

またもや東野圭吾に完敗だ。しかもとても清々しくやられちゃいました。


No.1267 4点 女王の百年密室
森博嗣
(2016/08/08 00:01登録)
森氏独特の価値観が横溢したルナティック・シティの文化や価値観は我々の社会とは一線を画し、非常に興味深いものがある。

この、完全に支配されたシステムを敢えて壊したくなるという衝動は一連の森ミステリの共通項だろう。先に読んだ『そして二人だけになった』も全く同じ動機だった。完璧だからこそ壊し甲斐があり、また完璧の物が壊れる姿もまた完璧に美しいものだと思っていたのかもしれない。

思えば森氏は閉鎖された特殊空間で起きる事件を主に扱っていた。デビュー作の『すべてはFになる』然り、またその作品から始まるS&Mシリーズでも大学の研究室や実験室というこれもまたいわばそれを研究する者にとって恣意的に作られた空間である。
『有限と微小のパン』に出てくるユーロパークもまたそうであり、さらに『そして二人だけになった』のアンカレイジもそうだろう。しかしそれらはまだどこか現代と地続きであったのだが、とうとう本書では2113年という未来を設定し、中国とチベットの辺りにある完全に秩序化されたルナティック・シティという世界を作り上げてミステリに仕上げた。これぞ森氏が望んでいた箱庭だったのだろう。そしてこのルナティック・シティはまだまだこれから出てくる森氏が神として作り出した世界のほんの足掛かりに過ぎないことだろう。

『笑わない数学者』で犀川が「人類史上最大のトリック……?(それは、人々に神がいると信じさせたことだ)」と呟いたが、まさしく森氏は自身が神になることで最大のトリックを考案しようとしたのではないだろうか。
閉鎖空間、秩序、システム、そして崩壊が森ミステリの共通キーワードと云えよう。
あとはそれに読者がフィットするか否か。私はややピースとして当て嵌まらないようだった。しかしそれもまた慣れるかもしれない。次の作品に期待しよう。


No.1266 5点 償いの報酬
ローレンス・ブロック
(2016/07/31 23:12登録)
時代は遡って『八百万の死にざま』の後の事件についての話。幼馴染で犯罪者だったジャック・エラリーの死についてスカダーが調査に乗り出す。マットが禁酒1年を迎えようとする、まだミック・バルーとエレインとの再会もなく、ジャン・キーンがまだ恋人だった頃の時代の昔話だ。

AAの集会で再会した幼馴染ジャック・エラリーの死にマットが彼の助言者の依頼で事件の捜査をするのが本書のあらすじだ。
マットは警察という正義の側の道を歩み、翻ってジャックはしがない小悪党となってたびたび刑務所に入れられては出所することを繰り返していた悪の側の道を歩んできた男だ。
かつての幼馴染がそれぞれ違えた道を歩み、再会する話はこの手のハードボイルド系の話ではもはやありふれたものだろう。そしてマットが警察が鼻にもかけないチンピラの死を死者の生前数少なかった友人の頼みを聞いてニューヨークの街を調べ歩くのも本シリーズの原点ともいうべき設定だ。

しかしなぜここまで時代を遡ったのだろうか?ブロックはまだ語っていないスカダーの話があったからだと某雑誌のインタビューで述べているが、それはブロックなりの粋な返答だろう。
恐らくは時代が下がり、60を迎えようとするマットがTJなどの若者の助けを借りてインターネットを使って人捜しをする現代の風潮にそぐわなくなってきたと感じたからだろう。エピローグでミック・バルーが述懐するようにインターネットがあれば素人でも容易に何でも捜し出せる時代になった今、作者自身もマットのような人捜しの物語が書きにくくなったと思ったのではないだろうか。
しかしそれでもブロックはしっとりとした下層階級の人々の間を行き来する古き私立探偵の物語を書きたかったのだ。それをするには時代を遡るしかなかった、そんなところではないだろうか?

2013年からシリーズを読み始めた比較的歴史の浅い私にしてみても実に懐かしさを覚え、どことなく全編セピア色に彩られた古いフィルムを見ているような風景が頭に過ぎった。私でさえそうなのだから、リアルタイムでシリーズに親しんできた読者が抱く感慨の深さはいかほどか想像できない。これこそシリーズ読者が得られる、コク深きヴィンテージ・ワインに似た芳醇な味わいに似た読書の醍醐味だろう。
物語の事件そのものは特にミステリとしての驚くべき点はなく、ごくある人捜し型私立探偵小説であろう。しかしマット・スカダーシリーズに求めているのはそんなサプライズではなく、事件を通じてマットが邂逅する人々が垣間見せる人生の片鱗だったり、そしてアル中のマットが見せる弱さや人生観にある。

古き良き時代は終わり、誰もが忙しい時代になった。ニューヨークの片隅でそれらの喧騒から離れ、グラスを交わす老境に入ったマットとミック2人の男の姿はブロックが我々に向けたシリーズの終焉を告げる最後の祝杯のように見えてならなかった。


No.1265 3点 麻薬運河
アリステア・マクリーン
(2016/07/27 23:11登録)
イギリスに流入する麻薬ルート殲滅のために国際刑事警察シャーマンがその源であるオランダはアムステルダムに潜入して捜査を行うというのがあらすじだ。
知っての通り、オランダはドラッグの使用が合法化されている。誤解をしないように説明するとあくまでそれはハシシやマリファナといったソフトドラッグに限られたことであり、ヘロイン、コカイン、モルヒネ、LSDといったハードドラッグについては規制がされている。現在の法律の基礎となったオランダアヘン法の改正がなされたのは1976年。本書が発表されたのは1969年とあるから合法化以前の物語である。

しかしながら相変わらずマクリーンの文体は読みにくい。いきなり主人公シャーマンの長々とした不平不満の独白から展開する物語は、またもいきなり主人公が渦中に投げ込まれ、逃走劇から始まる。彼の素性が解るのは導入部のチャプター1の終わり、20ページの辺りからだ。それまでは何の情報もなく、ストーリーが流れる。これはアクション映画としての常套手段であり、実に映画的な作りであると云えよう。
さらにその後も場面展開が目くるめくように切り換わるがその内容も説明的でありながら光景を思い浮かべるのが困難で、やはりマクリーンは文章はあまり上手くなかったのではと結論せざるを得なくなった。

そしてやたらと美女が出てくるのは映画化を意識してのことだろうか。まず主人公シャーマンの部下マギーとべリンダはそれぞれ黒髪と金髪の美人捜査官。そしてシャーマンの相棒だったジミー・デュクロの恋人アストリッド・ルメイもまたオランダ人とギリシャ人の混血美人。麻薬中毒者のファン・ゲルダーの娘トルディもまた人形のような美人。さらに教会の尼さんは美人揃いとどれだけファンサービスに努めるのかと思うばかり。

先に読んだウィンズロウの『ザ・カルテル』は作者の麻薬社会に対する怒りの情念のようなものが文章から溢れんばかりだったが、マクリーンのこの作品は映画化を意識したかのようなスリルとサスペンスとアクションを盛り込んだエンタテインメントに徹している。しかしサプライズを意識するあまり、読者は暗中模索の中で物語を読み進める。毎度のことながらこれが非常に気持ち悪くてなかなか没入できなかったのだが。

作品を量産する手法に気付いたベストセラー作家の作りの粗さに気付かされた作品だ。私が好んで読んだマクリーンはここにはなかった。なんとも哀しいことだ。


No.1264 3点 そして二人だけになった
森博嗣
(2016/07/26 23:35登録)
閉鎖空間で1人、また1人と殺される、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』に代表される典型的な“嵐の山荘物”だ。
しかも登場人物は主人公を含め、たった6人。しかも主人公2人以外は全536ページ中327ページ辺りで殺害されるという展開の速さ。正直残り200ぺージも残してどんな展開になるのかと変な心配をしたくらいだ。
そしてさらに388ページ目で外界への脱出に成功する。正直ここからの展開は全く以て読者の予想のつかないところに物語は進む。

橋という両岸を繋ぐ構造物の特性に着眼したトリックを読んだときは「おっ!」と思ったものの、それだけの労力を費やすことに疑問を持ち、さらに意外な真相が明らかになるにつれて、どんどん評価が下がっていった作品だ。
とにかく矛盾だらけだし、今までの話はいったい何だったんだと腹を立ててしまった。

また死体の手に握られていた木、粘土、煉瓦、モルタル、金属、そして金と銀で作られたボールに込められたミッシング・リンクも気を持たせた割には正直「それで?」といったものであるし。

全てがすっきり解決しないのが森ミステリの特徴であるが、動機、真相ともに実にすっきりしない作品だったことは非常に残念。他の作品で森氏はミステリを舐めていると痛烈に批判する感想を目にしたが、本書はとうとう私にそう感じさせた作品として苦く記憶に残るものとなった。

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