Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.73点 | 書評数:1601件 |
No.1601 | 7点 | 骨の袋 スティーヴン・キング |
(2024/11/19 00:31登録) 本書は妻を突然死で亡くしたベストセラー作家マイクル・ヌーナンが主人公の物語なのだが、その内容は実に流動的だ。 本書の大筋は妻を亡くしたことでライターズ・ブロックになった、つまり書けなくなった作家マイクル・ヌーナンが悶々とする日々を送る中、毎夜夢に登場するTRという正式名称もない町で買ったダークスコア湖の湖畔に建つ別荘へしばらく滞在し、そこで幽霊や生前の妻が取っていた奇妙な行動に出くわすという話だ。 今回作家を主人公にしているせいか、ジョージ・スタークのような虚構のみならず実在する作家の名前が頻出するのもまた一興だ。 それら実在する作家を例に出しながら小説家であることの意義やメリットについても作家であるマイクル・ヌーナンの独白の形で語られる。 例えばミュージシャンは途轍もないヒットを生み出す代わりに飽きられると消えてなくなるが、作家は年を取っても新作を書き、またベストセラーを出せると説く。アーサー・ヘイリーやトマス・ハリスが『ハンニバル』を出してベストセラーになったことを引き合いに出し、ミュージシャンの例ではヴァニラ・アイスが挙がっているのは傑作だった。 また出せば50万部、100万部の売り上げが約束される作家は1年に1冊は出すことが求められ、愛好者の多いシリーズキャラクターを持つ―キンジー・ミルホーンやケイ・スカーペッタが例に上げられている―と家族と再会したような効果があるので奨励されるなど。一方あまり出し過ぎると読者はつまらなく感じたりもするとも書かれている。 また日本では年末のランキングを意識して秋に小説の刊行が活発になるが、アメリカでも秋や新年に出版ラッシュがあるようで、本書でもクーンツが例年1月に新作を出すとかそれぞれの作家が出す作品がどのような類のもので、例えばケン・フォレットは過去の傑作『針の眼』に匹敵する新作を出すと云った情報交換がなされること、更には自分と同じ作風やジャンルの作家と出版時期が被ることでニーズを食いつぶすので避けることなど動向を気にしている様が語られる。 さて本書のメインプロットはシンプルに云えば不当に虐げられて殺害された、浮かばれない亡霊の復讐譚であるのだが、その背景にあるのはいわば記録に残らない、だがそのことを知る住民によって語り継がれる街の黒歴史の物語であることだ。 この何とも不思議な題名、骨の袋。それはトマス・ハーディの言葉に由来している。それはどんなに精彩豊かに描かれた人物であっても、所詮小説の中の人物は実在するくだらない人間には到底及ばない骨の袋に過ぎないという自己否定とも謙遜とも取れる言葉から来ている。つまりは小説内人物はどんなに魅力的であっても血肉を持つ実在する人間の存在感には到底敵わないと述べているようだ。 正直本書は数あるキング作品の中でも特段評価の高い本ではなく、キングと云えばコレ!というような作品ではない。 しかしキングの創作に対する考えやブラック・ライヴズ・マターや妻を亡くした男が目の前に掴めた幸せを奪われた哀しい作品として妙に印象に残ってしまうのだった。 |
No.1600 | 8点 | 寒い国から帰ってきたスパイ ジョン・ル・カレ |
(2024/11/13 00:43登録) 本書はジョン・ル・カレの名を広く知らしめたスパイ小説の金字塔と云われている作品で私もこれまで数あるガイドブックを読んできたが、スパイ小説の名作として必ずこのタイトルが挙げられていた。それはこれまでジェイムズ・ボンドのようなスーパーヒーロー然としたスパイ小説がまかり通っていた時代に秘密兵器や美女が登場しない、実にリアルで泥臭く人間らしいスパイを描いたことがこの作家の最大の功績だと云えよう。 従って今読むといわゆるスパイ小説の典型のように思えるが、実はそれらの系譜の起源は本書なのである。そして私がこの度、ル・カレ作品に着手するにあたり、最初に手に取ったのが本書だ。ル・カレ作品としては第3作目にあたる。 このル・カレの名を知らしめた本書はアレック・リーマスという50歳のベテラン英国情報部員の物語だ。 英国情報部は悉く自分たちの部員を殺害していった東ドイツ情報部副長官のハンス・ディーター・ムントの抹殺を企てる。その任務を負うのがアレック・リーマスで彼はそのために上司の管理官の指示に従い、まず彼が情報部の仲間の目を欺くためにベルリンでの任務失敗の責任を負って銀行課という内勤の仕事に付けられた腹いせに素行不良な情報部員となったと見せかけて馘首になり、彼に目を付けた新聞記者を通じてオランダを介してベルリン行きになり東ドイツの情報部員と接触する。 リーマスの語りを通じて知らされる諜報活動の内容と情報部員であるリーマスの特殊な思考はさすが作者自身が英国情報部の人間だっただけにリアリティがある。 本書に挙げられているスパイの特殊技能や独自の世界観は様々なスパイ映画や小説が書かれている今となっては珍しくもないが、本書が発表された1963年当時では驚愕だったに違いない。これはやはり自身が情報部に身を置いていたル・カレだからこそ書けたディテールなのだ。云い替えれば今日のスパイ小説や映画の素となった1つが本書なのだ。 物語の最終、英国共産党員の一員として東ドイツの共産党員との交流会に駆り出されたリズ・ゴールドと共に逃げ出すときに彼女と交わす会話はまさに任務と愛情のぶつかり合いだ。 スパイとは、諜報活動とは従来の人間の尺度では測れない次元の理論で物事が繰り広げられるが、それはつまり人間らしさという邪魔な感情を排しているからこそ一般の人には理解できないのであり、一方で任務のためならそんな感情をも利用してみせることが出来るのだ。 リズを引き入れて一緒に壁の向こうに行くか、それとも彼女をそのまま見捨てて自分だけ助かるか。 リーマスの選択結果は本書を当たられたい。 そしてこの最終章の章題が「寒い国から帰る」。寒い国とは即ちベルリンの壁で仕切られた東側だと思われたが、最後に至ってその寒い国の真の意味が解る。 そんなタイトルや章題に至るまで作者のダブルミーニングの意図が施された本書はまさに自身も英国情報部に勤めていた作者ならではの仕事だと云えよう。 さて本書ではバイプレイヤーとしてジョン・ル・カレ作品ではおなじみのジョージ・スマイリーが登場する。今回彼が表立って活躍する場面はなく、リーマスが英国情報部を首になってオランダに渡り、そこから東ドイツに送られる間に彼が最後に逢った図書館の同僚で愛人でもあるリズ・ゴールドを訪ねる時と最後リーマスがベルリンの壁を超える時にリズを置いて西側へ来るよう叫ぶくらいだ。調べてみると彼はル・カレのデビュー作からこの3作目の本書まで登場しているようだ。 彼の真の活躍と真価はこの後の作品で読めるようなので、楽しみにしていよう。 スパイ小説を読むことは実は歴史を学ぶことに似ている。しかし学ぶのは学校の授業や教科書では語られなかった歴史の暗部を覗くことだ。死の直前まで現役のスパイ小説家であったル・カレの諸作を読むことは第2次大戦後から現代まで連綿と続く裏側の歴史を追うことでもある。 彼が亡くなった今こそ彼の諸作を読むことは戦争が再び起きている今だからこそ意味があるのだろう。噛みしめるように読んでいきたいと思う。 |
No.1599 | 7点 | 水晶宮の死神 田中芳樹 |
(2024/11/08 00:39登録) ヴィクトリア朝怪奇冒険譚3部作最終作。田中氏のシリーズ物は完結に数十年費やすことがざらなのだが、幸いにしてこのシリーズについては僅か10年で完結することになった。しかし3部作であっても10年も掛かるのが田中氏である。 さて1作目では月蝕島というスコットランド沖の孤島、2作目ではイギリス北部のノーサンバランドにある髑髏城と国外に出ないまでも日帰りするには遠く、その地に行くまでもが冒険となる場所であったのに対し、今回の舞台水晶宮は元々ロンドンのハイドパーク南にあったがロンドン東南郊外のシドナムに移築された建築物である。そう、最終作の舞台はロンドンに住むニーダムとメープルたちが日帰りできる安近短な冒険舞台なのである。 それだけではなく、1作目の月蝕島、2作目の髑髏城が作者の創作であったのに対し、今回の舞台、水晶宮はかつて実在した建物である。この実在した建物の地下に広大な遺跡が存在し、そこを根城にする死神と名乗る仮面の男が今回の敵だ。 さてこれまでのシリーズでは19世紀に実在した人物たちが大いに物語に絡み、それら偉人たちの伝記では書かれていない蘊蓄が読みどころであったが本書でもチャールズ・ラトウィッジ・ドジスンが登場する。と云われてもピンとこないだろうが、実はこれは『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルの本名なのだ。今回登場時はまだ同作を発表していない時期で売れてない作家の1人である。 蘊蓄といえば歴史好きの田中氏の趣味が横溢しているのも特徴で、例えば15世紀にはスコットランドの南西部、ギャロウェイ地方で25年に亘って旅人を襲っては食べていたソニー・ビーン一族という食人族がいたこと、昔、墓泥棒が盛んだったのは医学の発展のために死体解剖をするために医者がなかなか手に入らない死体を欲したから、等々。いわば教科書では習わないイギリスの闇歴史が語られ、それがまた実に当時のイギリスの風習や風俗を偲ばされ、不謹慎ながらこのシリーズを愉しみにしている一面である。 最終巻である本書で気付かされたが、これら3部作が全て1857年にニーダムたちが経験した冒険であることだ。つまりある意味この年は彼とメープルの人生のターニングポイントであったと思えるのだが、本書の最後に語られる語り手のニーダムの回想ではさほど彼の人生を変えた出来事ではなかったとされる。 何しろこのような命の危険を感じるような心臓の鼓動が跳ね上がる冒険を1年に3回もすれば通常ならば吊り橋効果で男女の仲は深まるものである。それが叔父と姪の立場、31歳の男性と17歳の女性の歳の差14歳の間柄でも恋は恋である。お互いの命を思い、そして助け合った仲なのに2人は結婚をしなかった。しかしそれは2人が一緒にならなかっただけでなく、2人とも生涯独身を貫いたのだった。そういう意味では彼と彼女が誰かと一緒にならないと決めた逆の意味でのターニングポイントだったのかもしれない。 つまりこのヴィクトリア朝怪奇冒険譚3部作は実に静かに物語が閉じられる。主役2人の仲は発展せず、彼らが特別な人物になったようにも思えない。いやメープルはそれなりに活躍しているが、ニーダムに至ってはほとんど隠居の身である。 作者の田中氏がなぜ1857年という年を選んだのかも定かではない。歴史を繙くと有名な事件ではセポイの乱があったりアメリカで世界恐慌が起きたりしているが、本シリーズにはあまり関与はしなかった。 とにもかくにも作者はヴィクトリア朝時代を舞台にその時代を生きた偉人や著名人たちを自らの筆で描きたかったのだろう。歴史や風俗、そしてその時代に生きた人々の意外な側面が見れて個人的には楽しかった。 |
No.1598 | 9点 | 鬼火 マイクル・コナリー |
(2024/11/01 00:41登録) ボッシュシリーズというよりももはやボッシュ&バラードシリーズとなったシリーズ2作目ではミッキー・ハラーも絡んで、正しく書くならばボッシュ、ハラー&バラードシリーズ1作目となるか。まあそんな細かい話はこれくらいにして、感想に移ろう。 まず今回のボッシュの立場は刑事ではない。 前作『素晴らしき世界』で彼が予備警察官として雇われていたサンフェルナンド市警の同僚の自殺未遂を引き起こした廉で自宅待機状態である。従って一応予備警察官の職ではあるが、本質的には無職の男である。 そんな立場でもボッシュは今回複数の事件に関わる。 さて前作『素晴らしき世界』で出遭い、コンビを組むようになったレネイ・バラードとハリー・ボッシュだが、まだお互いのことはそれほど知らず、今回初めてバラードはボッシュがミッキー・ハラーの調査員を務めていることを知って嫌悪感を示す。 そう、ミッキー・ハラーは今まで自分たちが捕まえてきた犯罪者を無罪にする、もしくは裁判自体を無効にする警察官にとって唾棄すべき敵だとみなされており、レネイ・バラードもまた例外でないことが判明するのだ。 ボッシュはハラーのことを弁護するが、彼女に彼が異母弟であることを明かさないところにまだ自分の中でもハラーの手伝いをすることが仲間である警察官を裏切っている思いが拭えないことが判る。 従って今回ハラーの弁護を成功させたときに彼は面前で罵られ、裏切り者の誹りを受け、胸を痛める。しかし彼は今度は元刑事として自由の身である真犯人を探すことに注力する。 しかしその正しいことをしようとしても、ハラーの片棒を担ぎ、裁判を無効にしたハリーをロス市警の連中を許すわけがなく、電話をしても激しく突き放される。ロス市警時代に数々の功績を挙げたボッシュでさえ、尊敬を得られず、過去の人物として非難される姿は読んでて胸を痛める。 ではレネイ・バラードはどうか? 彼女はボッシュとは対照的である。 前作でもそうだったが、今回事件のクライマックスで女殺し屋のカタリナ・カバと対決した際に瀕死の重傷を負うが、なんと彼女のために30人以上の警官が献血のために訪れたことが明かされる。 そう、彼女には味方となる同僚がたくさんいるのだ。ただ彼女も今回ボッシュの未解決事件の捜査のための盗聴許可を得るために判事を騙して許可を得たり、ほとんど一般市民と変わらないボッシュを停職中の予備警察官なのだから刑事と名乗って構わないと捜査に介入させたりとボッシュに感化されたのか道を踏み外す傾向が見られた。 信用を失わない程度にしてほしいとヒヤヒヤさせられる。 しかしやはりボッシュの前からは人は去りゆき、バラードの周りには人が集まるのだ。 この対照的な光と影の、陰と陽の2人の刑事の対比がまた読みどころの一つなのだが、せめてバラードだけはボッシュの許を去らないでいてほしいものだ。 そのボッシュも齢70近くになったことが判明するが、作者はそれでもこの男に新たな危難を設ける。なんとボッシュは白血病に罹ったことが発覚するのだ。それは彼が過去に関わった殺人事件で大量のセシウムが奪われた案件で彼がそれを回収したときに被曝したことに由来すると考えられていた。 そう、その事件こそは『死角 オーバールック』で彼が扱った事件だった。2007年の時に刊行された作品の事件がこの2019年に著された作品に影響を及ぼす。 これなのだ。これがシリーズを、いやマイクル・コナリー作品を読む所以なのだ。 それはシリーズを永らく読んできた読者だけが得られる単なる特権意識なんかではない。 それはこのシリーズを共に歩んできたからこそ得られる愉悦なのだ。 そう、我々がボッシュの歩んできた半生を共に体験していることを実感させられるこの瞬間こそが読者としての報いであり、そして何事にも代えがたい黄金なのだ。 巻末の作品リストを見ればまだまだボッシュの物語は続くようだ。刑事でなくなったボッシュは悪をのさばらせさせないというその強い思いで犯罪者の摘発にまだまだ食らいついていくようだ。 「だれもが価値がある。さもなければだれも価値がない」を信条に抱いて。 ボッシュの人生はまだ続く。そして私がその人生を追うのもまだまだ続く。 ボッシュが生きている限り、いやコナリーが物語を紡ぐ限り、私はずっと追いかけていこう。 それだけの価値があるのだ、このコナリーという作家の描く物語は。 |
No.1597 | 7点 | ダーク・タワーⅣ-魔道師と水晶球- スティーヴン・キング |
(2024/10/25 00:46登録) 本書の中心はガンスリンガー、ローランド・デスチェイン若き日の物語が語られる。それは彼が愛した女性スーザン・デルガドとの出会いの物語だ。 しかしその前に物語は前巻のクライマックス、自殺願望のある超高速モノレール、ブレインとのなぞなぞ対決から幕を開ける。 そして彼らがブレインとの勝負に打ち勝ち、降り立ったカンサス州のトピーカで、彼らはその世界が“キャプテン・トリップス”の感染爆発後の世界だと知る。 そう、この現実世界で猛威を奮っている新型コロナウイルスを彷彿とさせる超インフルエンザはキングの大作『ザ・スタンド』で登場したウイルスである。 つまりこの〈暗黒の塔〉の世界と『ザ・スタンド』の世界がリンクしたのだ。しかも本書でこの感染症がレーガン政権の時期であることが判明する。ちなみにレーガンと当時の副大統領ブッシュは感染から免れるため、地下の避難所に逃げ込んだと書かれている。 さて本書のメインは若かりし頃のローランドの恋バナである。この時ローランド14歳。そして任務で彼は訪れたハンブリーの行政長官ハートウェル・ソリンの愛人となったスーザン・デルガドと出遭い、恋に落ちるのである。 町中に知られた権力者の愛人が調査に訪れた美男子の役人と道ならぬ恋に落ちる図式である。しかし元々スーザン自身もいわば愛人という情婦という立場なのだが、相手が町の権力者ならばそんな立場でも一目置かれる存在となっている。 このキング版『ロミオとジュリエット』とも云える二人の恋路はまず始まりまでが実にじれったい。一昔前のラブロマンスのようだ。 しかし二人の思いが通じてからはもう止まらず、秘密の待ち合わせ場所を選んではセックスに耽る。まあ、十代2人のセックスだからなんとお盛んなことか。そしてその若さゆえにもう止まらないのだ。ローランドは自分が身分を偽って父親から重大な任務を授かっていることをどうでもいいと思い、スーザンもまた彼女が行政長官と褥を重ねるまで純潔を守らなければならないことなど他愛もないことだと思うほどに、2人の欲望は若さの勢いのまま、迸るのだ。2人の恋はハリケーンなのだ。 この〈暗黒の塔〉シリーズはやたらとこのセックスシーンが登場するのが特徴だ。その行為が新しい何かの誕生を象徴しているからだろうか。 さてこのローランド・デスチェインとスーザン・デルガドの恋は彼が仲間達に悲痛な面持ちで語ることから、悲恋であることは間違いなく、何とも哀しい結末を迎える。 さてこのダークタワーの世界では我々の現代社会とのリンクが見られるが、今回も色々登場する。 例えば最初のブレインとのなぞなぞ対決ではマリリン・モンローの名が出たり、74年のアメリカのTVドラマ“All in the Family”のキャラクター、イーディス・バンカーなんてのも登場する―これがブレイン攻略の糸口になるわけだが―。 またクリムゾン・キングも登場する。もちろんこれはプログレバンド、キング・クリムゾンであり彼らのデビューアルバム『クリムゾン・キングの迷宮』に登場する真紅の王である。 などと書いていたらこのローランド達の住まう世界が我々の未来であることが判明する。つまり何らかの理由で現在の文明が失われた世界なのだ。その何らかの理由が最後になってキングのある作品と繋がることで朧気に見えてくる。 しかし今回でさらにキャラが立ってきたように思える。特にブレインとの決戦で自分の知能レベルまでブレインを誘い込み、日常の下卑たジョークをなぞなぞにして撃破したエディは意外性の男として認知させられた感がある。 しかし更にも増して存在感を醸し出したのがガンスリンガー、ローランド・デスチェインだ。彼の過去が語られることで彼の造形が深まった。いやあ、まさか初対面の女性がときめくほどの美男子だったとは。そして彼の家族も忌まわしい過去を纏っていることが判明した。 愛する女性を2人も喪った哀しき運命の男。それがローランド・デスチェインという男なのだ。 さて今回判明したのはローランドの住むこの〈暗黒の塔〉の世界には〈内世界〉と〈中間世界〉、〈終焉世界〉があることだ。そして〈終焉世界〉には希薄があり、それが不快な音を立てているようだ。ローランドは〈内世界〉の住民でニュー・カナーンという〈連合〉の中心の出身であることが判明する。 これが未来の我々の世界であるわけだが、外側に行くほど希薄という世界の境に近づく。 色々な憶測が出来る巻であった。 そしてそれはこれまでキング作品を読んできた者だからこそ解るリンクでもある。キングは自身の読者を愉しませる術を心得ている。彼の膨大な著作を読む甲斐や意義を感じさせてくれる作家である。 キング・ワールドの中核をなすと云われているこのシリーズの全貌がようやく見えてきた感があるが、まだまだサプライズを期待できそうだ。 |
No.1596 | 7点 | 怪奇疾走 ジョー・ヒル |
(2024/10/22 00:35登録) ジョー・ヒルの今回は短編集。しかも父親スティーヴン・キングとの共作も収録されている。 ジョー・ヒルも父親キング同様、物語が長大化しており、前作『怪奇日和』は1作がページ前後の中編集だったが、本書は、好評を以て迎えられ、一躍ジョー・ヒルの名を知らしめた『20世紀の幽霊たち』と同様の30~70ページ前後の短編集であり、しかも父親キングとの共作も含んでいるとあれば期待も高まるものである。 『20世紀の幽霊たち』でもそうだったが、ジョー・ヒルの短編の舞台は何ともヴァラエティに富んでいる。 アメリカの路上にとある遊園地にあるメリーゴーラウンドやロンドンのウルヴァートン駅、そしてバーモント州のシャプレーン湖にアフリカの狩猟区から異世界の狩猟区、移動図書館、近未来の世界、ニューヨーク州のハメット、イタリアの片田舎スッレ・スカーレ、アリゾナのサーカス、どこかのアメリカの片田舎、カンザス州の背高い草原、ボストン行きの飛行機の中ととにかく同じところが一つもない。 そして内容もまた同様だ。 アメリカの路上を横断するバイカーたちを襲うタンクローリーの話に曰くあるメリーゴーラウンドの木馬たちに突如襲われる闇夜の悪夢、そして出張先のロンドンの列車内で遭遇する狼人間たちの群れ、そして湖に棲むと云われていた怪物との遭遇に空想上の動物たちがいる狩猟区での狩りで見舞われる意外な展開、過去に遡って延滞した本を返却してもらう代わりに運命を変える本を貸す移動図書館、人生のどん底にいる少女の前に現れた友達ロボットとの素敵な一夜、退役した元女性兵士が出くわす見えない脅迫者、片思いの幼馴染を盗られた嫉妬に駆られてその恋人を殺害した男が逃げ込んだ異世界、旅行中の一家が迷い込んだゾンビたちのサーカス、アメリカの片田舎でとある家族の不和と不思議な菊の話、妊娠した妹と共に親戚の家に行く途中で出くわした高い草原に迷い込んだ親子を救おうとしたことで自分たちも脱け出せなくなる兄妹の話、フライト中に核戦争が勃発した乗客と乗組員たちの心模様と扱うジャンルも様々である。 本書の目玉はなんといっても父親スティーヴン・キングとの共作だろう。そのキングとの共作は2編あるが、1編目が最初に収録された「スロットル」である。 これはスピルバーグの『激突!』の本歌取りのような作品だが、タンクローリーに襲われるバイク集団の中心人物が親子であるというのが心憎い。いつも人を馬鹿にしたような態度を取る息子が恐怖に向き合った時にひたすら逃げるだけの態度を取る息子の姿に失望をしながらも、ただ一人ローリーに追われる身になった息子を思うときに蘇るのは幼き頃の肖像。結局憎らしい息子を救いに行く父親はしかし最後は彼を突き放し、戦友と共にいることを選択する。 この父と子の物語を2人はどんな思いで書いたのか、興味がそそられるではないか。 もう1つの「イン・ザ・トール・グラス」は背高い草原に迷い込む兄妹の話だが、2人を導くのは子供の助けを呼ぶ声。つまりモチーフとしてはキング自身の短編「トウモロコシ畑の子供たち」を想起させるのだが、ある意味これはキングから息子へのバトン渡しを示しているのではないか。 ジョー・ヒルは作品はあとがきにも書いているが、過去の色んな名作から本歌取りをして作品を紡ぐことが多いようで、その中には父キングの作品も入っており、特に『ファイアマン』はもろ『ザ・スタンド』と設定が被っている。 それは一方で読者にやはり父親キングを超えることは叶わないのかと物足りなさを感じさせたが、本作を共作とすることでキングは父親から自身の作品の衣鉢を継いで伸び伸びと創作してほしいとメッセージを込めたのではないか。 そういう意味では「スロットル」もまた大型のタンクローリーが襲い掛かる恐怖はキングが昔から扱った“生ある機械の報復”のテーマを感じさせる。やはり本書で父は息子へバトンを託したのだ。 それは最後の収録作が「解放」、原題“You Are Released”であることが象徴的だ。 この物語はしっかりした結末が付けられているわけではない。着陸前にロシアとアメリカの核戦争の開戦に出くわしたボストン行きの飛行機に乗り合わせた乗客と乗組員それぞれのエピソードが語られるだけである。そして機長は管制塔から指示されたアメリカの都市ファーゴが第一核攻撃地点だと判断して北のカナダに進路を取り、それを管制官が無事を祈って物語が終える。 私はこの作品が題名と云い、情況と云い、今後のジョー・ヒルの作家活動を暗示しているように思えるのだ。 ジョー・ヒルがカナダに活躍の場を移すというのではない。上 の父キングとの2作の共演を終えて、彼は本歌取りをしても、自身なりの物語を生み出せばいい、そして父キングからそれは今まで自分の数多ある題材から取っても構わないと背中を押された、文字通りリリースされたように感じた。 もちろん上に書いたように最近の作者は開き直って堂々と父親の作品の設定を似せて作品を書いてきたが、どこかしこりがあったのではないだろうか。 しかし今回ようやくそれが父に正式に認められ、重荷から解放されたように感じられるのだ。世間や書評家、そして読者はどうしてもジョー・ヒルを語るとき“スティーヴン・キングの息子”と付けてしまうだろう。それを彼は嫌がって自身の著者名にキングの名を付けなかったのだが、逆に彼は父があまりに偉大であるから、敢えてその看板を背負おうと決心したのであはないか。ただ彼は父の過去作の亜流であれ、自分の好きなものを書くと決意し、ある種憑き物を落としたかのように思えるのだ。 さてそんな本書のベスト作を挙げるとすれば「遅れた返却者」だ。これは本を愛する者全てに読んでほしい物語だ。 私はよく“本に呼ばれる”感覚に陥る。それは特に何の意図もなく選んだ本たちの内容が何らからの関係性を持って数珠つなぎのようにリンクし、心にテーマが刻まれるような不思議な縁を感じることを云うのだが、本作もまさにそのようなもので、延滞した本を返しに来た、既にこの世にいない「遅れた返却者」が本来なら読む事の適わない21世紀の本を渡されることでその後の運命が変わるという設定が素晴らしい。 まさに本がもたらす人生のワンダーである。「読まずに死ねるか!」と云ったは内藤陳氏だが、もしそんな自分の死後に出版される自分好みの本を読むことが出来たなら、読書好きにとって本望に違いない。これはそんな読書家の夢を描いた作品だ。 次点では「シャンプレーン湖の銀色の水辺で」と「きみだけに尽くす」の2作を挙げよう。 前者はレイ・ブラッドベリの名作「霧笛」の本歌取りとも云うべき作品だが、この主人公のゲイルという女の子がお鍋を被ってロボットに扮するなど自分の世界を持った不思議少女であり、近所に住む兄弟の兄が好きで将来結婚を誓っているというのがまた私の心をくすぐった。特に2人が怪物の死体の発見した記念として歯を抜き取ろうとするシーンも郷愁を誘われる。 そんな細々とした生活と子供たちの世界の日常が描かれることで、その子の恋人が家族を呼んでいるうちに怪物の死体と共にいなくなった時の喪失感が堪らない。彼女の人格形成に今後この喪失がどんな影響を及ぼすのか、子を持つ親として気にならずにいられなかった。 後者は未来を舞台にしたシンデレラストーリーで、題名は主人公に尽くすアンドロイドの献身を表している。不遇の若い女性に夢を与える典型的なシンデレラストーリーなのだが、最後の結末は何とも現実的で驚かされた。 未来のシンデレラは夢や友情よりも明日を生きる先立つものととことん現実的なのだ。 私はやはりジョー・ヒルは長編よりも中編・短編向きの作家だと再認識した。上に書いたように本書の題材や舞台は実にヴァラエティに富んでいる。つまり彼の中にも父同様、沢山の物語が詰まっているのだ。 それらをエッセンスを凝縮した短・中編としてどんどん内なる物語を開放してほしい。 そしてそれを父が読み、またキングも触発されて素晴らしい作品を紡ぐ相乗効果を期待したい。 |
No.1595 | 7点 | 不安な童話 恩田陸 |
(2024/10/17 00:32登録) 恩田陸氏の3作目となる本書は生まれ変わりをテーマにした物語だが、それ以外にも古橋万由子のサイコメトリーや近未来を幻視する能力だったり、臨死体験や幽体離脱などいわゆるオカルティックな内容が色々盛り込まれている。 ナイル川に対するピラミッドの配置が天の川に対するオリオン座を模しているという仮説や母親が出産の際に子供の苦痛を和らげるために分泌するホルモンが前世の記憶を消し去る作用がある、等々、オカルト雑誌「ムー」の記事のようなエピソードが語られ、またそれらは私も好きなものだから久々に楽しんだ。 そんな世にも奇妙なエピソードに彩られた物語は最後になって実はオカルトではなくミステリであると判明する。 色んなことが論理的に解明されるが、それでもファンタジーの要素が全くないわけではない。特に恩田氏は人それぞれが持つ特殊な能力についてはそのままとしている。 古橋万由子が高槻倫子と同じく他者の忘れ物を映像的に「観て」云い充てる能力や高槻秒の人の気持ちに同化して感情を読み取る能力だったり、高槻倫子の友人であった十和田景子の過去を見る能力もあった。 それらはミステリであっても人の持つ不思議は解き明かせない、寧ろだからこそ人は面白いというのが恩田氏の創作姿勢ではないだろうか。作中で十和田景子が呟くように「世の中には色々な人がいる」というのが恩田氏のスタンスなのだろう。 そういう意味では本書で最も最たる特徴を持つのは高槻倫子という美しい夭折した画家に尽きるのではないか。 本書は上述のように恩田作品としては3作目にあたり、デビュー作の『六番目の小夜子』、2作目の『球形の季節』がそれぞれ学園ホラーと地方都市ファンタジーと続いたことから本書も扱うテーマが生まれ変わりということでてっきりオカルト、もしくはその設定を前提にした高槻倫子殺人の犯人捜しのミステリだと思われたが、古橋万由子の生まれ変わりという設定さえも論理的に解明される。つまり自身のそれまでの発表作まで本書においてトリックに寄与しているのだ。 本書を以て恩田氏が作品ごとにジャンルを変える作家であることがさらに強調された。ホラーやファンタジーと云った超常現象のみを扱う作家ではなく、ミステリも書けるのだと。 今なお旺盛な創作力で既成概念に囚われない自由な作風と設定の作品を次々と生み出している恩田氏のダイバーシティを認知させる意味でも、案外知られていないが本書の位置付けは重要な作品であると云えるだろう。 |
No.1594 | 4点 | 解放された世界 ハーバート・ジョージ・ウェルズ |
(2024/10/15 00:26登録) 最も感想の書きにくい小説だ。本書の概要には思想小説と書かれているが、これは小説ではなく大説だろう。 本書は1914年にウェルズが発表した作品だが、原子力爆弾が初めて使用された1939年に勃発した第2次大戦と、その後原子力を新たなエネルギーとして利用した社会も予見した小説として歴史的に評価されているが、私としてはその事実だけで延々と作家ウェルズの思想が開陳されるのを読まされるという思いが強かった。 そんな原子力が使用される世界をウェルズは自らの思想を交えながら、フレデリック・バーネットという1人の青年の半生を通じて描く。このバーネットが著した『放浪時代』という自伝的小説を繙くような形でそれらが語られる。 原子力の発明より原子力爆弾を生み出した各国は戦争を始める。 廃墟になったパリやロンドンが描写され、また原爆を投下されたオランダの護岸堤防が破壊されて国中が海水によって浸食される様が描かれる。そしてその渦中にバーネットがおり、浸水した艀の中で浸入した海水によって溺れるオランダ人と家々の残骸を目の当たりにし、世界の終わりだと意識する。そしてこのような戦争は起こしてはならないと決心するのだ。 そんな原子力爆弾を各国が所持して世界戦争に突入する様が描かれる。なんと現実の被爆国である日本でも中国と共闘し、ロシアを襲撃してモスクワを破壊するのだ。そして余勢を買って今度は日本がアメリカのサンフランシスコに原爆を落とそうとするのだ。それをアメリカ軍が迎え撃ち、撃墜された爆撃機が海中で原爆を爆発させる。この辺の描写はその後の歴史を知っている者にしてみれば何とも皮肉な内容である。 そんな世界から戦争を根絶しようとヨーロッパの王国の青年君主エグバート王が世界を一つの国に統合しようと動き始める。 実はこれは1920年に発足した国際連盟という考え方である。しかしウェルズはどうもこの国際連盟を嫌っていたと書かれている。それはその基となった彼の提案した国際連盟案を骨抜きにしたような中味だったからだ。 産業革命によってもたらされた科学の進歩がそれまで科学を得体のしれない魔術だと恐れていた人々の生活と思想を変え、本来人々の暮らしを良くしていくための科学が悪用され、エゴむき出しの指導者―本書ではドイツのビスマルクがやり玉に挙がっている―によって戦争の道具になった。原子力爆弾はその究極だと論じられている。 それはこの科学技術によって便利になった現代社会でどれだけの人間が宗教に向き合っているかという信仰の希薄さをまさに予見している。 人類は人間の想像力や理解を超えた事象を神の奇跡や怒りだとして畏れ敬ってきた。それが今ではほとんど科学理論によって証明されつつある。つまりそれは暗闇に包まれていた神の領域を科学という道具でどんどん明るくしていっている行為である。 原子力爆弾という当時の最先端科学技術によって生み出された究極兵器によって世界の終末の姿と世界各国が向かうべき方向性を見出した本書が最後の最後に宗教家の死で結ばれるのは、科学技術の発展が信仰の死を意味しているように思えて何とも胸の中に何とも云えない負の要素を残して片付かないでいる自分がいる。 今なお我々は原子力という諸刃の剣である新エネルギーを使いこなせないでいる。1986年に起きたチェルノブイリ原発事故に1999年に起きた東海村臨界事故、そして2011年に起きた東日本大震災による原発事故と幾度か人類の危機を迎えるような事故を引き起こしている。それはやはりウェルズが警鐘を鳴らしたように、原子力エネルギーというものが人類の制御できない発明であり、我々が開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまったのではないだろうか。 そして今日本は原発廃止派と反対派の両派に別れている。そう今なおウェルズの鳴らした警鐘の呪縛から逃れられていないのだ。 果たして我々の世界はいつウェルズの呪縛から解放されるのだろうか? |
No.1593 | 7点 | ハリー・ポッターと賢者の石 J・K・ローリング |
(2024/10/11 00:50登録) 映画が先か?小説が先か?で云えば明らかに映画が先だったわけだが、読んでみるとなるほど、映画は小説の内容を余すところなく捉えており、小説ファンにしてみればかなりよい出来だったのではないかと思われた。 映画が先の場合、小説の登場人物は全て俳優にインプリントされるわけでこれが便利なのか不便なのかよく判らない。 私の場合は全然抵抗なく物語に入っていけたし、俳優もイメージ通りだった。内容といえば、やはりこれは長く続くシリーズのイントロダクションの要素が強いのだが、ローリングの手腕は布石を全体に散りばめており、読書に対する発見や驚きを読者にきちんと提供している。これは確かに子供に受けるわけだ。ニコラス・フラメルの謎なんて結構驚いた。あからさまに冒頭に書いているのだから。クリスティ再読さんがおっしゃるようにこれもミステリを重んじる英国の風土が作者にも根付いているのだろう。 魔法の道具の使い方も物語と融合しており、とても素人が書いたものとは思えない。スネイプの使い方が非常に上手く、恐らくはこの最後の敵の正体とスネイプの二面性が読者に大いに受けたのであろう。 で、私だが、やはり映画を先に観ると、登場人物のイメージがすんなりと頭に浮かぶものの、ストーリーが頭に入っているものだから、面白さは半減した。というより、映画がかなりよく作られていることを再認識したというのが正解か。 |
No.1592 | 7点 | レギュレイターズ スティーヴン・キング |
(2024/10/08 00:33登録) 本書は『デスペレーション』の姉妹編。しかし本書は1985年にガンで死亡したとされるリチャード・バックマンが遺した原稿を1994年、彼の妻が見つけ、それを基に手直しを加えて―という設定で―発刊された作品である。 姉妹編と云うのはキング名義で発表された『デスペレーション』と同じキャラクターが登場するからだが、キャラは同じでも役どころが異なっているのだ。 ただし全ての登場人物が別設定というわけではなく、中には同じ役柄のキャラクターもいる。作家のジョン・マリンヴィルと元獣医のトム・ビリングスリーの老人コンビがそうだ。 そして新キャラクターも数多く登場する。 本書のタイトル『レギュレイターズ』はタックに憑りつかれたセス・ガーリンが繰り返し観ている1958年公開のB級西部劇のタイトルで、映画評や台本まで挿入されるこの映画はしかし調べてみるとどうもこれはキングの創作らしい。 また物語の舞台ももちろん鉱山町デスペレーションではなく、オハイオ州のウェントワース近郊のポプラストリートである。南北に走るその通りを挟んで東西に建っている家の住民たちが彼らたちなのだ。そして物語が進むにつれて、鉱山町デスペレーションが物語に関わってくることが判ってくる。 そんな舞台と人物像を、いや配役を変えて繰り広げられる物語は6台のワゴンの乗った奇妙なキャラクターたちによる殺戮劇だ。6台の色違いのワゴンに乗っているのは発光する幽霊に軍服を着たエイリアンに灰色の肌をした無精ひげのバックスキンの猟師服を着た男、ナチの制服を着た顔が暗闇の男などなど。 こんなアニメや戯画的な怪物たちが登場するポプラストリートの人々が迷い込んでしまった世界は今でいうなら『アヴェンジャーズ』の世界に紛れ込んだようなものだろう。娯楽映画として観ている分なら痛快だが、いざあの危地の只中に放り込まれたなら、右往左往してどうしようもない絶望感に浸ってしまうことだろう。 本書は荒廃感が漂う『デスペレーション』とは違い、最後に救いがある。だからこそ私としては両者を比べた場合に本書に軍配が上がるのだ。それはつまりスティーヴン・キングとリチャード・バックマンの対決でもある。最後の最後にしてバックマンはキングに勝ったのだと思うことにしよう。 キングの“ダーク・ハーフ”であったバックマンが“死後”ようやく日の目を見た、そんな風に感じた作品だった。 |
No.1591 | 7点 | ZOKUDAM 森博嗣 |
(2024/09/22 14:11登録) あのお騒がせ集団ZOKUが還ってきた。しかしどうも時制は前作よりも遡るらしい。なぜなら前作のメンバー、ロミ・品川とケン・十河、そしてバーブ・斉藤が初対面であるからだ。 いやしかしどうも読み進めると同じ設定と人物を使った別の世界の作品のようにも思えてくる。これは即ち3人組の悪党たちと2人組の男女の正義の味方という設定だけを踏襲したタツノコプロアニメと同様、人物設定だけを同一にした全く別の話だと思うのが正しいようだ。 そして組織の名前はZOKUではなく今回はZOKUDAM。そう、あの国民的巨大ロボットアニメを彷彿させるように本書では巨大ロボットが登場する。 巨大ロボットと怪獣が戦う設定のロボット物と思わせながら、実は怪獣との戦闘シーンはおろか、TAIGONとZOKUDAMそれぞれの巨大ロボット同士の戦いも出てこない。描かれるのは巨大ロボットに乗って操縦することを任命された2人のサラリーマンが出くわす不満と日常風景である。つまり本書は巨大ロボット物の設定の下で描かれる日常小説なのだ。 そしてそんな特殊状況下にある2人が直面する問題や日常風景が妙にリアルで面白い。 そして最終話に至っていよいよ決戦の火蓋が落とされる。それまで状況に翻弄され、何が悲しくてOLをしていた自分が巨大ロボットに乗って敵と戦わなければならないのかと環境の犠牲者とばかりに嘆いていたロミ・品川も決戦の日が近づくにつれ、訓練の充実度が増し、そしてケン・十河に抱いていた悶々とした欲望やバーブ・斉藤たちに抱いていた嫌悪感などが次第に雲散霧消していき、敵と戦うちいう1つの目標に心身が純化していくところは実に清々しい。 もはや悟りの境地にまで達した2人にとって戦いの結果などはもうどうでもいいのだろう。したがって 最後の連載打ち切り感的な結末も敢えて狙ったものだろう。私はこの結末に対して残念感や嫌悪感を抱かなかった。寧ろこれでよかったと純粋に納得してしまった。 最後まで読むと本書は結婚適齢期を逃し、会社の人事に翻弄されたロミ・品川という女性の物語だったことに気付く。だからこそ彼女がそれまで抱え込んでいた人生の鬱屈や煩悩が消え去り、純化されたことでこの物語は終わりなのだ。 案外私は森作品の中でもこのシリーズが一番好きなのかもしれない。 次の『ZOKURANGER』も愉しみだ。もうタイトルからして今度はアレのパロディなのだろうから、またもや世代ど真ん中なのである。 |
No.1590 | 5点 | εに誓って 森博嗣 |
(2024/09/02 00:32登録) Gシリーズ4作目の本書ではそれまでの事件と違い、リアルタイムで進行する。なんと加部谷と山吹2人のメインキャラクターが那古野市への帰りのバスでバスジャックに遭ってしまうのだ。 本書はまさにそれだけの話と云っていいだろう。 一方バスジャックの車中で山吹といる加部谷もなぜ自分たちがこうも事件に巻き込まれるのかを疑問に思い始める。 この件は正直面白いと思った。なぜならミステリのシリーズキャラクターというのは得てして他の一般人と比べても事件に遭遇する頻度は高くなるし、そうでないとシリーズとして成り立たないからだ。この不自然さについてシリーズキャラクターに疑問を持たせることが素直に面白い。 そして今回もまた数々の謎を残して物語が終える。 恐らくこのGシリーズはシリーズ全体を通してようやくそれぞれの事件の真相、裏側に隠された意図や出来事が判明するのだろう。つまりそれぞれのシリーズ作品はそれら1つの大きな事件を構成する断片にしか過ぎないのではないか。従ってこれら解明されなかった謎の真相がどこかで一気に説明がなされるのではないだろうか。 しかしそれは非常に読者にストレスを感じさせる。通常の大河小説ならば前作に残された謎は継承され、そして新たな謎が生まれるような、読者の好奇心を牽引していくようなスタイルであるのに対し、このGシリーズはその作品で残された謎は放置されたままだからだ。 エピローグで加部谷が呟くように問題は先送りにされるのだろう。それが生きるということだと述べる。これはまさに森氏の実に現実的なスタンスだ。 しかし謎が解決されてこそミステリなんだけどなぁ。やっぱり今回もモヤモヤが残ってしまった。 |
No.1589 | 4点 | 裏切りの塔 G・K・チェスタトン |
(2024/08/10 01:58登録) 東京創元社が編んだ日本オリジナル短編集。 本書に収録されている「高慢の樹」と「裏切りの塔」はそれぞれ「驕りの樹」と「背信の塔」という題名で『奇商クラブ』に収録されていたため、既読済みなので今回の感想から省くとして残りの2編「煙の庭」と「剣の五」と戯曲「魔術―幻想的喜劇」について述べる。 まず『煙の庭』は実にオーソドックスなミステリだと感じた。雰囲気はあるものの、幻想味や逆説の妙を感じさせなかったからだ。 ただ本作の犯人である博士の心情は私も理解できる。きっちりと生活をしている人ほど秩序を重んじ、そしてそれが適正に保たれていることを好む。しかしそれが叶わない時は心的疲労を抱えて尾を引くのだ。 そしてこの作品のミソは粗野な船長と知的階級の博士2人と並べているところだろう。この労働者階級の人間と知的階級の人間を対比させることで夫人を鋭利なもので突き刺して毒殺した犯人像を前者に引き寄せることが出来るからだ。本書のパラドックスを挙げるとすれば、この2者のイメージギャップということになるだろうか。 そして「剣の五」もチェスタトンにしてはいささかパンチが弱いと感じた。 決闘による討ち死にと見せかけた殺人だったという真相と放蕩息子だと思っていた被害者が実は父親の会社を護るために世界的に有名な出資会社が稀代の詐欺集団であることを見抜いた慧眼の持ち主だったと云うパラドックスはしかし、価値観の逆転として昨今ミステリ小説のみならず子供向けのファンタジーやドラマでもよく使われているため、今となってはインパクトが弱く感じた。 そして本邦初訳の戯曲だが、これはミステリではなく、サブタイトルにあるように幻想的喜劇だ。 妖精や魔法を信じていた若き女性が森の中で出くわした男性が自らを妖精と名乗り、そして奇術師であると告白し、実は魔術師だったと正体を二転三転させていく。最後、その娘に自分が恋をしたことを告白するが、娘は逆に彼が本当の魔術師であったことを知り、それまで彼女の中で育んできた御伽噺の終焉を悟る。これは即ち彼の求愛を受け入れて、もう箱入り娘のような生活ではなく、伴侶として生きていくことを選択し、そして決意したと云う意味ではないか。つまり彼女はようやく大人になったのだ。つまりこれは幻想的喜劇と見せかけて幻想的ロマンスが正確だろう。 しかし今回も痛感したのは古典作品の読みにくさ。いや自分の理解のしにくさと云った方が正解か。 とにかく改行がなく、古い云い回しが続く古典作品は本書のように新訳での刊行となってもその内容をきちんと把握するためには1回きりの読書では十分理解できないだろう。 またチェスタトンは各課題に対するヒントを実に上手く物語に散りばめているが、最初に読んだだけではそれが煙に巻かれたかのように頭に入らないのだが、物語を要約するために読み返すことで手掛かりが判り、本来の物語が見えてくるのだ。つまりはチェスタトン作品を十二分に堪能するには二度読み必須であることを再度感じた。 |
No.1588 | 7点 | 魔力の胎動 東野圭吾 |
(2024/07/31 00:39登録) 『ラプラスの魔女』に登場した羽原円華の前日譚とも云える本書は連作短編集とも云うべき構成で彼女のその驚異的な能力を活かした物語と『ラプラスの魔女』で彼女と関わり合いを持つ泰鵬大学准教授青江修介の名刺代わりの事件が繰り広げられる。また『ラプラスの魔女』で雇われるボディガード役の武尾徹とお目付け役の桐宮玲も登場する。 今回羽原円華の不思議な能力の一端に直面するのは鍼灸師の工藤ナユタ。彼は80歳を迎える師匠が抱える顧客の依頼を受けると日本全国出張して鍼を打っているのだが、その行く先々で羽原円華と出くわす。 本書で扱われているエピソードを読んで思い出してほしいのはこれらはかつて東野氏自身が初期の作品でテーマとして扱った題材であるということだ。 スキージャンプは『鳥人計画』、ナックルボールを投げる投手と捕手の物語は『魔球』、植物人間となった息子に対する両親の思いを描いたのは『人魚の眠る家』、性同一性障害を描いた作曲家のエピソードは『片思い』をそれぞれ想起させる。 ただそれらが二番煎じになっていないところに東野氏のストーリーテラーとして卓越ぶりを感じさせる。 扱っている題材の専門的な知識やアプローチが真に迫っているのだ。 また面白いのは流体の流れを正確に把握する羽原円華がそれぞれのエピソードでスーパーコンピュータ並みに計算して解き明かす一方で、最終的にそれぞれの登場人物の問題を解決するのはそんな数式やロジックではなく、各々の心に発破をかけて思いの力で克服させる、いわば論理よりも感情に働きかけていることだ。 それらは結局物事と云うのは論理や計算などでなく、困難を克服しようとする人の心の持ちようなのだと、いや人の心の力は論理や計算を凌駕する力を持っているというのが円華からのメッセージなのだ。 円華は自分が他の人にはない能力を持っているからこそ、それぞれのエピソードに登場する人物のタレントを状況のせいにして容易に諦めることが我慢ならないのだと思う。 連作短編集のような構成になっている本書だが、一応全体を貫く縦軸の物語はある。 それは羽原円華が自身の母親を巨大竜巻の事故で亡くした苦い過去から竜巻のみならず、ダウンバーストなどの異常気象のメカニズムを解き明かすために乱流の謎を解き明かすため、北稜大学の流体工学の准教授筒井利之の許を訪れていることと、青江が登場する最終章、いや『ラプラスの魔女』に登場する敵、水城義朗の死と甘粕才生へのエピソードへのつなぎ役となっていることが判明する工藤ナユタの再生だ。前者については結局本書では解決しないが後者については本書で一応の決着がなされる。 連作短編集のような本書を読んだ感想はこの羽原円華の特殊能力を活かした物語をシリーズ化するのは五分五分と云ったところだろうか。彼女の自然現象を論理的に解析して予測する能力を活かしたエピソードが本書では5つのエピソードのうち2編のみであることを考えると、ヴァリエーションはいくつか出来るものの、シリーズ化となると流石に厳しいのではと思ってしまった。 しかしもっと成立条件に制約のあるマスカレードシリーズについては東野氏は光明が見えたと述べているから、もしかしたらこの羽原円華の物語もシリーズ化するかもしれない。 万物の理を見切る特殊能力者を主人公に据えた東野作品としては珍しい設定であり、彼女に関わる人間の心を動かす、情理の両輪を両立させた物語だけに新たな作品がどんなものになるのか、大いに期待したい。 |
No.1587 | 2点 | トーノ・バンゲイ ハーバート・ジョージ・ウェルズ |
(2024/07/26 00:45登録) これはポンダレヴォー家の栄光と挫折の記録である。 トーノ・バンゲイという奇妙な題名は人の名前を指すのではなく、語り部のジョージ・ポンダレヴォーの叔父エドワードが発明した一種の強壮剤の名前だ。そしてこの薬は彼らに巨万の富を生み出し、あれよあれよと事業を拡大していく様が描かれる。 本書は数多くの名作を書いたH・G・ウェルズの作品群の中でもほとんどの人に知られていない作品だろう。しかし本書は『タイム・マシン』や『宇宙戦争』、『モロー博士の島』と並んで英ガーディアン紙の読むべき1000冊に選ばれた作品の1つなのだ。 上下巻に別れた本書は上巻では主人公で語り部のジョージ・ポンダレヴォーの恋愛物語が語られる。いや彼の女性遍歴の方が正確か。 下巻からは事業者としてのジョージ・ポンダレヴォーとエドワード・ポンダレヴォーの物語へと展開する。強壮剤として売り出したトーノ・バンゲイをブランド名にして養毛剤、目に効く濃厚トーノ・バンゲイ、疲労回復剤として錠剤やチョコレートまで生み出し、ヒットを連発して事業を拡大していく。 冒頭にこの物語はポンダレヴォー家の栄光と挫折の記録であると書いたが、同時にこれは青年ジョージ・ポンダレヴォーの半生の記録である。彼が育った地方の金満家での暮らしとロンドンでの享楽の日々、そして彼の恋愛変遷とトーノ・バンゲイを中心とした叔父エドワード・ポンダレヴォーの片腕として経営に携わった彼の波乱に満ちた物語である。 色んなことに興味を持ち、そして色んな分野に事業を拡大し、そして様々な階級や分野の人間に出遭えるロンドンで人付き合いもしながらも、これほどまでに人脈が得られない人物も珍しい。最後の最後まで彼は独りなのである。 しかしなかなか内容が入ってこない作品だった。使われている漢字が旧字体であるのも一因だろうが、最初のうちは戸惑うものの、慣れてくればさほど問題ではなくなってくる。 また下巻では新字体になっていることから決して字面に由来するものではないだろう―しかし下巻が新字体に改められているのなら、上巻も修正すればいいのでは。これは下巻の訳出が上巻刊行の7年後になったことが関係しているのだろうか―。 問題は物語に起伏が感じられないのと、語り部のジョージ・ポンダレヴォーの思考が見開き2ページにぎっしりと書かれた文字によって語られ、その内容がなかなか頭に入って来づらいのだ。 ポンダレヴォーは最後、自分で書いた自叙伝めいたこの物語の草稿を振り返って激しい活動と無理な推進とそして空しい不毛との物語だと評し、更に「トーノ・バンゲイ」という題名よりも「空費」とした方がよかったと述べる。 まさに私にとっても空費の読書体験であった。 |
No.1586 | 7点 | 東野圭吾公式ガイド 作家生活35周年ver. 事典・ガイド |
(2024/07/24 00:24登録) 本書は2012年に東野圭吾25周年祭りというイベントの一環で刊行されたガイドブックの増補改訂版である。 前回よりもマイナーチェンジしたのが読者投票による人気ランキングの記事だ。これが25周年記念の時の再録で、しかも前回が20位までの紹介とそれ以降のランキングが載っていたのに対し、今回は10位までの紹介に留まっているのが残念だ。正直前回から10年経っていることを考えると読者層も広がっているだろうから、再度読者投票のイベントをした方がよかったのではないだろうか。ただコロナ禍でそのような大々的なイベントが出来なかったのかもしれないが。 このように内容としては前作に若干デコレーションが施されたようなものだが、それでも今回加わった記事の中には興味深いものもあった。 まずはなんといっても東野氏がマスカレードシリーズの続編を考えていることが判ったことが大きい。一流ホテルへの潜入捜査という限られたシチュエーションのこのシリーズだが、その制約の大きさゆえに『マスカレード・ナイト』までが限界だろうと思われたが、東野氏は『~ナイト』を経たことでシリーズとしての今後の可能性が見えてきたとのこと。 あと『素敵な日本人』は私が推測したように当初は季節ごとの短編ミステリを書くことにしていたのが、別の注文として受けたSF短編が評判が良かったため、結局企画が破綻してしまったとのこと。多分触れられているのは「レンタルベビー」のことだと思うが、私は逆にそれで良かったように思う。 あとは本書で私がこれまでの作品で気付いていたミッシングリンクについても触れられていたのは残念だ。そのリンクについては敢えてここでは触れないでおこう。 あとやはり巻末に据えられたロングインタビューは非常に興味深く読めた。 なぜこれほどまでに出せば売れる作家になったのかについてその前と後の違いが聞けているのが素晴らしい。スノボで自身の大会を開くまでになっていたことやスノボを通じて様々なジャンルの人々と出会い、ネットだけでは築けなかったであろう人間関係についても触れられており、共感を持てるところもあった。 またベストセラーを次から次へ生み出す東野氏が生まれる萌芽となったきっかけが1997年に空白期間を敢えて設けたことが明かされている。 それまで年間5,6冊ぐらい出版していた作者が敢えてここで白紙に戻したのは出版しないことで自らの存在感を読者に抱かせるための戦略だったと明かされる件はかなり驚いた。 東野氏が今なおベストセラー作家であるのは、彼が人と交流し、そして関心を常に外に向けているからだ。彼は自作が売れることで出版社が潤い、そして他の売れない作家たちの作品の出した損失を補填していることを十分理解している。だからこそ彼は使命感を持って臨んでいるのだろう。 しばらく東野圭吾氏はトップの座を譲りそうにない。本書を読んでその思いを強くした。 |
No.1585 | 5点 | デスペレーション スティーヴン・キング |
(2024/07/21 01:35登録) 今度のスティーヴン・キングが舞台にしたのはネヴァダ州の砂漠にある小さな鉱山町デスペレーション。チャイナ・ピットと呼ばれるアメリカ最大の露天掘りの銅鉱山の町だ。そこにいる狂える警官によって狩られる旅行者たちの物語だ。 物語はしかし最初は田舎の町を独裁する警察官の横暴の数々が描かれるため、悪徳警官小説だと思われた。 よく田舎の町ほど恐ろしいところはないという。なぜなら田舎には町を牛耳る権力者がいれば、その者こそがその町の秩序であり、法となり全てを思いのままに支配することが出来るからだ。つまりいわゆる世間一般の常識が通用しなくなる。 そしてこのデスペレーションでは警官コリー・エントラジアンこそが法である。 しかし物語が進むにつれてこの巨漢の悪徳警官が次第にこの世ならざる者、即ち異形の者であることが判明していく。 物語の半ばで判明するのは鉱山町デスペレーションのある黒歴史だ。銅鉱だけでなく、金や銀も取れていた時代にさらに深く坑道を掘り進めるために緩い岩盤の中を掘っていくのを恐れた白人の鉱夫たちの代わりに雇った中国人労働者たちが落盤事故のために生き埋めになってしまったのだった。その数は白人の現場監督と工程主任を入れた57人。そして鉱山技術者とオーナーたちは救出のために落盤事故を誘発するのを恐れ、結局発破をかけて坑道を閉じてしまったのだった。 狂える殺人警官コリー・エントラジアンは腐っていく身体を人質の1人エレン・カーヴァーを一緒にチャイナ・ピットに連れて行くことで彼女の身体を乗っ取って入れ替わる。もはやコリー・エントラジアンという存在ではなく、殺人鬼は“それ”という存在に呼称も変わる。 本書は善なる神と邪悪な神との戦いへと変貌していくのだが、それはキング作品ではこれまで見られなかったほど、伝奇的色合いが濃くなっていく。鉱山という特殊な舞台ゆえか田舎町に残る言い伝えや呪いの類が本書の恐怖の根源となっている。恐らくは世界各地にある鉱山に纏わる逸話なども盛り込まれているのだろう。 正直この最後の結末を含めて私は本書を十分理解できなかったように思える。さて次は本書の姉妹編であるリチャード・バックマン名義の『レギュレイターズ』を読んで本書で腑に落ちなかった部分を補完してみよう。 |
No.1584 | 7点 | 2021本格ミステリ・ベスト10 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2024/07/12 00:35登録) 『このミス』と本書2つはランキングが似通ってきたのだが、この年のランキングについて両者を比べてみると『このミス』2位であった阿津川辰海氏の『透明人間は密室に潜む』がランキングを制しており、一方『このミス』1位の『たかが殺人ではないか』は4位となっている。やはり本格ミステリに特化したランキングだけに本格ミステリとしての純度の高い方が数多くの支持を得ているようだ。しかしだからといって両者の特色が色濃く表れているわけではなく、例えば本書内のランキングと『このミス』のランキングを先述の2作を除いて()内に記してそれぞれ比べてみると 2位『蟬かえる』(11位) 3位『名探偵のはらわた』(8位) 4位『楽園とは探偵の不在なり』(6位) 6位『ワトソン力』(20位圏外) 7甥『欺瞞の殺意』(7位) 8位『鶴屋南北の殺人』(20位) 9位『法廷遊戯』(3位) 10位『エンデンジャード・トリック』(圏外) と10位内に重複する作品が8作もあり、また両者とも10位圏内の作品も6作もあると、やはり投票者が重なっていることと、それぞれのランキング本の趣旨を理解して選出作を意識して変えている投票者が少ないこと、もしくは投票者の多くが本格ミステリ好きが多いことがその要因のようだ。 11~20位を見てみると両者のランキングでも20位圏内の作品は『立待岬の鷗が見ていた』(20位)『巴里マカロンの謎』(19位)、『あの子の殺人計画』(16位)と3作品とかなり重複作が少なくなる。つまりこれは11~20位内のランキングの方に本格ミステリ度が高くてマニアの支持を得ている作品が多いように思える。 さてやはり驚愕なのは阿津川辰海氏の1位獲得だろう。僅かデビュー4年目にしての1位獲得はでデビュー作がいきなりランキング1位を獲得した今村氏、2年目の井上氏に次ぐ快挙である。本書に阿津川氏のインタビューが載せられており、そのことについては後述するが、東大卒でもあることからかなり頭のいい作家なのだろう。『このミス』でも既に彼の作品が毎年ランクインしているが『本格ミステリ・ベスト10』ではデビュー作以降全てがランキングしている。 また海外のランキングは『このミス』同様ホロヴィッツの『その裁きは死』が2位に2倍近い得票差を付けて断トツの1位。個人的にはこのホーソーンシリーズ、本格としての端正さは認めるものの、主人公のホーソーンのキャラクターが好きになれないため、あまり手放しで喜べないのだが。 2位以下の作品で『このミス』のランキングと重複しているのが2位『網内人』(14位)、5位『死亡通知書 暗黒者』(4位)、6位『指さす標識の事例』(3位)、7位『カメレオンの影』(12位)、8位『死んだレモン』(16位)、9位『ザリガニの鳴くところ』(2位)、10位『時計仕掛けの歪んだ罠』(8位)と8作、10位圏内が5作とこちらも似通っている。ただ2020年はコロナ禍により新訳の海外ミステリの点数自体が激減しているため、母数自体が少ないのだからこれは致し方ないかと云える。 さてその他の企画や特集だが、まず何といっても阿津川辰海氏のインタビューだろう。先述のように今の彼の作品の質が圧倒的な読書量に裏打ちされていることが判る内容となっている。彼はずっとミステリを読んで育ってきたようでとにかく読書量が凄い。しかも新本格のみならず古典ミステリにも触れた、かつて綾辻氏や法月氏と云ったミステリの申し子の本格ミステリ作家とも云える人物である。第2の米澤穂信氏になるような、本格ミステリの旗手となることを期待したい。 この年はやはりコロナ禍というこれまでにない社会状況の変化ゆえか、投票者も書店に行く機会が減ったことでずいぶん情報制限がかかったランキングになったのではないか。 例えば文芸誌や週刊誌で取り上げられた、話題の作品には目を通すがそれ以外の書店に行かないと見つけられない作品などはあまり俎上に上がらなかったのではないだろうか。 また海外ミステリの出版点数の少なさには特異な状況とはいえ、何とも云えない哀しさを感じる。寧ろ逆にこれまで絶版となっている傑作・佳作の数々を新訳版として出してくれるといいのだが。 このコロナ禍という特殊な世相での年末ランキングとなった本書を読んで、やはりこのような企画本はその年その年の世相を映す鏡の役割を果たすのだと強く感じた。 数年後、いや願わくば3年後ぐらいに本書を読み返したときに、ああ、こんな時もあったなぁと思うことだろう。 |
No.1583 | 3点 | 神々の糧 ハーバート・ジョージ・ウェルズ |
(2024/07/07 01:45登録) H・G・ウェルズが今回テーマにしたのは食すと巨大に成長する〈神々の食物〉と呼ばれたヘラクレオフォービアなる食物を巡る話だ。2人の科学者ベンシントンとレッドウッドによって生み出されたこの食物は正直云ってどんな風に作られ、そして量産されているのかは詳細に語られない。ただその食物は作られ、そして与えられ、そして自然界に流出してやがて生物が巨大化していく。 いわばモンスター小説の様相を呈してくるのだが、実はウェルズはモンスターパニック小説のような単純明快な物語に展開しない。 本書の着想の妙はなんといっても通常ならば動物実験に留まるべきこの〈神々の食物〉を発明した科学者の1人レッドウッドが発育が思わしくないからという理由で自分の子供に分け与えるところにある。私はこの展開を読んだときに何とも短絡的な人物だと驚嘆した。しかしその後の展開からそうではなく、これは科学者としての性を描きながらも、二極化する人類の物語なのだと気付いた。 やがてヘラクレオフォービアによって巨大化する子供たちも増えてくる。科学者たちの友人コッサーは自ら2人に頼み込み、ヘラクレオフォービアをお裾分けしてもらって3人の息子たちに与えて育てる。 また実験農場の管理人だったスキナー夫婦のうち、スキナー夫人は騒ぎが大きくなる前にヘラクレオフォービアを盗み出し、近所の子供キャドルズに食べ与える。 更にはレッドウッドの専属医でかつての教え子だったウィンクルズ博士は王家かかりつけの医者となり、遺伝的に背の低いその王家の王女殿下にヘラクレオフォービアを食べ与えて、巨大な王女に育てる。 更にこのヘラクレオフォービアは非常に作りやすい食物であることから世界中へ広がっていき、世界各地で巨人の子たちが続々と生まれて、やがて青年となっていく。そう、本書はその間の20年もの歳月が流れる物語なのだ。 この<神々の食物>は色んなメタファーと捉えることが出来るだろう。それを直接摂取する人間にとっては害はないが、それによって巨大化した人間たちは普通の人間たちが決めた法律や権利にがんじがらめになり、それがストレスとなって暴走する。 私は<神々の食物>とは新興宗教のようなものだと解釈した。麻薬は摂取する人に害を及ぼすのでこれとは異なる。しかし新興宗教は信ずる者は救われる。しかしそれを強引に布教しようとする人間によって普通の人々は拉致され、もしくは生活を脅かされるようになる。その名前からして宗教めいた雰囲気を備えている。 巨人たちの点描にはマイノリティの迫害や複雑化したシステムや法律に対する皮肉、そして身分違いの恋物語とヴァラエティに富んだエピソードが盛り込まれている。 巨大生物の誕生から異なる2種族の生存を掛けた戦いへと物語の表情を変え続けた本書はどこか収拾がつかないまま放り出されたような感じだ。実は本書の結末の直前でレッドウッドはこれは夢ではないか、自分は夢を見ているのではないかと思案に耽るシーンがある。もしかしたらウェルズは本書を夢オチで片付けようとしたかもしれないのだ。それほどまでにこの物語の結末の付け方には難儀したのだろう。最後にレッドウッドの息子が巨人たちに行う演説も自分たちの存在価値を、将来像を高らかに述べて終わり、正直困惑してしまう結末だ。 つまりこの困惑は後の冷戦に繋がる列強国の憂鬱そのものではないだろうか。 つまりこの巨人たちは核兵器のメタファーではないだろうか。科学者によって開発され、どんどん増え続けて地球を何万回も破壊するほどの数を持ってしまい、それを使うと世界が滅ぶことから使用できず、かといって自国の防衛のために確保しておかねばならない。まさに世界各国が持て余している核兵器そのものではないか。 本書が書かれた1904年にはまだ原爆さえもなかった時代だ。だから作者が核兵器を念頭に置いて本書を著したとは思えない。しかし奇しくも本書は巨人たちの存在がその後の核兵器を準えるようになってしまっている。本書の巨人たちの行く末がきちんと書かれていないこともまた今なお核兵器が存在し続けていることを示唆しているようにも思える。 本書のウェルズが結末を見出さなかったように、複雑化した社会がシンプルに変わるのはまだまだ遥か彼方のことのようだ。 |
No.1582 | 7点 | ミステリアム ディーン・クーンツ |
(2024/07/05 00:31登録) 名作『ウォッチャーズ』のアインシュタインを彷彿とさせる人語を解する知能の高い犬が再び登場するのが本書である。 しかもそれは1匹だけでなく、何頭も登場する。ごく僅かな人間しか知られていない高度な頭脳を有する犬たち、すなわちミステリアムが存在する世界を描いている。 作中、ミステリアムの1匹キップを飼っていたドロシーがこの犬たちについて遺伝子工学の産物ではないかと話すシーンがある。彼女は画期的な実験で生み出された犬が研究所から逃げ出したのではないかと述べる。 『ウォッチャーズ』は知性ある犬アインシュタインの子供たちが生まれ、主人公がそれら遠くへ巣立っていき、そしてアインシュタインの子孫が広がっていくと述べて閉じられることから、このミステリアム達の存在はアインシュタインの子孫たちと思って間違いないだろう。従って本書は『ウォッチャーズ』から33年を経て書かれた続編と捉えることが出来よう。 クーンツはもしかしたらキングが『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』が36年後に書かれたことに触発されて本書を著したのかもしれない。クーンツはいつもキングを意識しているように思えるので。 しかしやはり読書というものは不思議なものだ。今回の敵の1人リー・シャケットは古細菌を取り込んだゆえに超人的な能力を手に入れた人狼になり、人々を次々と噛み殺していくが、この前に読んだ田中芳樹氏の『髑髏城の花嫁』もまた敵の正体は人狼であった。 しかし、幕切れは何とも呆気ない。 その後物語はダイジェスト的にその後のブックマン親子たち仲間の行く末などが語られて閉じられる。これらはなんと560ページ中最後の50ページ強でバタバタと片付けられるのである。 またもやクーンツの悪い癖が出てしまったように感じる。 圧倒的なまでに強大な敵を仕立て上げ、到底敵わないと思わせながら最後は101匹ワンちゃん大襲撃的力技で物語を片付けてしまう強引さ。特に敵の1人ロドチェンコが極度の犬恐怖症だったことで数多くの犬に囲まれて恐怖のあまりに全てを自白することで発覚すると云う低次元の情報漏洩なのだから苦笑せざるを得ない。 今回は題材が良かっただけに本当にこの終わり方は勿体ない。 |