home

ミステリの祭典

login
雪さんの登録情報
平均点:6.24点 書評数:586件

プロフィール| 書評

No.446 7点 プレーグ・コートの殺人
カーター・ディクスン
(2020/11/21 15:06登録)
 一九三〇年九月六日のこと、元陸軍省防諜部員ケン・ブレークは、ノーツ・アンド・クロッシズ・クラブの喫煙室でディーン・ハリディから頼みを受けた。「幽霊屋敷でひと晩明かしてほしいんだ」
『黒死荘』と呼ばれるその邸はロンドン大疫病の際、食料を蓄えて門を閉ざしており、そこに押し入ろうとして拒絶され息絶えた絞刑吏、ルイス・プレージの恨みが纏わりついていた。百年以上前の悪霊を祓う為、命日にあたる今夜そこで、心霊学者ロジャー・ダーワースによる徹夜の勤行が行われるのだ。儀式に先立つ一週間前の夜にも奇妙な事件が起こっており、ディーンの不安は高まっていた。さらに今朝がたにはロンドン博物館の「死刑囚監房」から、プレージの短剣が盗まれたのだという。
 ケンは〈幽霊狩人〉の異名を持つスコットランド・ヤード首席警部、ハンフリー・マスターズを伴い現地に赴くが、その『黒死荘』で鳴り響く鐘の音を合図に始まったのは、異様な殺人事件だった。石室で発見されたダーワースは背中に数ヵ所の突き傷を受けて血の海の中に倒れ伏しており、右腕には例の短剣を握っている。しかも完全な密室の周囲は当夜の雨のため泥の海と化し、足跡さえも残っていなかった・・・
 1934年発表の記念すべきヘンリ・メリヴェール卿シリーズ第一作。今回は心霊繋がりという事で、南條竹則・高沢治の新訳版で読了。本書の254P~255P、ハリー・フーディーニの著作『心霊の間の奇術師』の転用と思われる部分を見ると、霊媒のメソッドは基本この時代から変わってない事が分かります。効果的な方法が残っていくのですからあたりまえですが。
 探偵役となるH・Mの登場は全体の半ば過ぎと遅く、緩衝的存在が無いため、序盤はガッツリゴシック小説風に進行します。このため読み辛いという意見も多々あり。ただこれは幽霊好きの作者が〈いっぺんやってみたかった〉だけでしょう。
 問題の密室に加え念入りな犯人隠しプラス隠れ共犯者と、かなり気合が入っており、カー/ディクスン名義のベスト10に入ってもおかしくない仕上がり。薬物を目眩ましに使うのは好みでないので、私が選ぶと入りませんが。これに絡めてH・Mが証拠の〈白い粉〉を、「わしだったら、その粉を舐めようなんて料簡は起こさんぞ」とか言ってるのが笑えます。この展開だと絶対麻薬か何かだと思うよねえ。陰惨な本編の数少ない笑い所です。
 さらにダグラス・G・グリーンに「ジョン・ディクスン・カーの真骨頂が発揮された幽霊屋敷譚」と評されただけあって、それに相応しい犯人が登場。カー/ディクスンの著作にはバンコラン物以外そこまで凶悪な犯罪者は現れませんが、本書は例外の一つでしょう。ルイス・プレージとこの人物をダブらせたH・Mの最後のセリフも、怪奇譚の〆として綺麗に決まっています。


No.445 8点 medium 霊媒探偵城塚翡翠
相沢沙呼
(2020/11/19 06:53登録)
 陳舜臣と生島治郎が目的で図書館に行ったら、たまたまコレが置いてあったので、借りて読みました。読み出したら止まらなくなって、えらい勢いで読めました。
 第一話の推理に関係ないのにやけに執拗い情景描写とか、第二話の血文字の謎が投げっぱで進むとか、所々ある怪しげな部分には引っ掛かりがありました。評者は性格が悪いので、ヒロインの行動もちょっとわざとらしいかなと思って見てました。
 読後の戦慄に「これはもしかしてオールタイムベスト級なのでは?」と、久々に襟を正して検討に掛かりました。今はそこまで思っていません。個々のパーツを取り出せば「水鏡荘の殺人」での香月史郎の推理や、「女子高生連続絞殺事件」での翡翠のセーラーフェチ考察がハイライトなのではと愚考しますが、これとてジャンルの枠を揺さぶる程ではありません。
 ただ論理の徹底ぶりとその粘着性は凄まじい。作品の構成的に光を当て難い部分ではありますが、最も評価すべき点はそこでしょう。最終的な狙いはある意味ゴーストバスターズ物のセオリー通りですが、実に効いています。厳密には叙述トリックではありませんが、〈疑いながらも死後の世界を信じたがっている〉語り手に、知らず知らずのうちに読者が影響されていきます。結局パーツの組み合わせ方が上手いのだと思います。
 結論としては殿堂入りとは行きませんが、紛れも無く新時代の傑作。変態的なこだわりの気持ち悪さと、ラノベ的な軽さの分マイナス1点か1.5点。ただし読み手の好みもあるとはいえ、8点以下は付けられないでしょう。8.5点の必読本格作品です。


No.444 7点 ダブルオー・バック
稲見一良
(2020/11/18 07:29登録)
 生島治郎が『傷痕の街』を発表した際、さっそくファン・レターを書いて彼の「ファン第一号」になったのが稲見一良である。それから四年後の昭和四十三(1968)年八月、稲見は自身も「凍土のなかから」(『短篇で読む推理傑作選50 上』光文社刊 他収録)で第三回双葉推理賞に応募し、見事佳作第一席となった。愛犬を殺された狩人と脱獄囚二人の山中での戦いを描いたものだが、若干設定を改変した上で本編の第四話「銃執るものの掟」に移し替えられている。
 このデビュー作にある既成作家から「盗作」とのクレームが付けられたため、彼の作家活動はしばらく休止する事になる。正面から立ち向かう事によって謂われなき疑いを晴らし、相手既成作家に詫びを入れさせた稲見だったが、こうした経緯に嫌気がさしたのかしばらく実作から遠ざかってしまった。
 老練ながら沈黙を続けていたその彼が、肝臓癌との闘病を機に〈生涯に一冊の本を〉との思いで書きあげたのが本書。次から次へと持ち主を変えていくポンプ・アクション式の猟銃・ウィンチェスターM12、通称シャクリが浮き彫りにする様々な人生を全四話のオムニバス形式で綴ったもので、平成元年四月に大陸書房から刊行された。各話のタイトルはそれぞれ オープン・シーズン/斧/アーリィタイムス・ドリーム/銃執るものの掟 となっている。なお単行本のカバー帯には、師匠格の生島が熱っぽい推薦文を寄せている。
 肩慣らしながら重い第一話のあと、男の生き方に憧れるバァの店主とその常連たちが、義侠心から当て逃げ事件を起こした養豚業者に立ち向かう第三話など、通常のミステリに近い作品も含まれているが、中核となるのは銃猟の経験を生かした第二話や第四話。山の芳醇な知識とディティールに支えられた自然派ハードボイルドとも言うべきもので、生島とも異なる独特の味わいになっている。特に山小屋暮らしの父親と、喘息持ちの息子との山中での日々と別れを描いた第二話は、第三話に繋がる断章部分も含めて良い。この路線は後に、猟犬探偵・竜門卓の登場する一連のシリーズとして結実した。
 既読作品中では『セント・メリーのリボン』が最も面白かったが、絶筆となった『男は旗』では、それともまた異なる新境地を見せている。病没までの五年間に残した著書は、それまでに書いたエッセイを除き僅か七冊。90年代前半を鮮烈に駆け抜けた作家と言える。


No.443 7点 死はひそやかに歩く
生島治郎
(2020/11/16 16:26登録)
 実の父親を求めて春をひさぐ少女。家族を探すために密入国した中国人。アル中の元プロレスラー。薬に溺れた自暴自棄の少年。横浜で海のブローカーたるシップ・チャンドラーを営む久須美のもとには、なぜかトラブルと心の傷を背負いこんだ人間が迷い込み、そのたび彼は事件に巻き込まれていく。荒々しい港街を背景に、人間の生きざまを生々しく描き上げた連作ハードボイルド。
 初版は1969年東京文芸社刊。著者のハードボイルド処女長編『傷痕の街』の続編である。今回読了したケイブンシャ文庫版では章立ての体裁になっているが、もとは各々独立した短編集。特に第三章は本書の形で纏まるまで、「淋しがりやのキング」として自選傑作集『鉄の棺』他、少なくとも二度単行本に収録された著者の会心作である(前年1968年に徳間書店から上梓された、同タイトルノベルス版の詳細が不明なので、確言は出来ないが)。
 〈左脚と愛する部下と、それから恋人を失ったあげく〉元町通りの社屋から、南京町の二階屋にひっそりと基地を移した久須美健三が、次々舞い込む港ヨコハマの揉め事に望まぬながらも関わっていく、といった筋立て。三十三歳で不具の身となってから少なくとも十五年以上が経過し、主人公も五十代に差し掛かかっている。いくらか前作のネタを割るような記述も散見されるので、やはり順序立てて読むのが望ましい。
 収録されているのは全四編。ミステリとしてさほど凝ってはいないが、それぞれに特徴的な主要人物を据えた上で、高いリーダビリティで回す印象的な短編ばかり(密輸事件が主体の第二章のみ少々弱いが)。その第二章もちゃっかりした事務所の家主・徐明徳や、久須美に想いを寄せるただ一人の社員・三島景子などキャラの立った脇役で〆ており、良い意味で映像化向きの作品と言える。
 大鹿マロイを思わせる心優しきメキシコ人元プロ・レスラー、チコの存在と、ラストシーンで床に落ちたハートのキングにキャラを二重写しにする第三章が出色ではあるが、歪められた父娘関係が悲劇を齎す第一章や、母親の執念に絡め取られた少年の再生を描く第四章も、そう引けは取らない。
 『黄土の奔流』が生島のベストという確信は揺るがないが、"キマり過ぎ"た紅真吾にリアリティの喪失を感じる向きには、一歩引いたスタンスの久須美健三の方が、より好ましく思えるかもしれない。


No.442 6点 紅蓮亭の狂女
陳舜臣
(2020/11/14 20:48登録)
 昭和43(1968)年9月に講談社より刊行された、著者の第三作品集。同年5月には、本書に先行して第十長篇『濁った航跡』が上梓されている。時期的には歴史大作『阿片戦争』を終え、推理作家協会賞受賞の『玉嶺よふたたび』『孔雀の道』が発表される前の年にあたる。
 収録作は表題作ほか スマトラに沈む/空中楼閣/七十六号の男/角笛を吹けど/ウルムチに消えた火/鉛色の顔 の七篇。清末西太后期の有力皇族・貝勒戴澂(ツアイチェン)や郭沫若と並ぶ近代中国文壇の逸材・郁達夫、日本軍の傀儡・王兆銘政権で特務機関『七十六号』を仕切った李士群や、辺境の地新疆に一種の桃源郷を創り出した独裁者・楊増新など、近代中国に一瞬の光芒を投げかけた後、暗殺・変死あるいは行方不明となった人物を題材にした短篇集である(スパイOBが経済絡みの化かし合いで一杯食わされる「空中楼閣」と、前述七十六号犠牲者遺族の復讐劇「角笛を吹けど」は除く)。
 「紅蓮亭~」は光緒十一(1885)年の早春、京城事件(日本に支援された金玉均のクーデター失敗)直後の北京が舞台。李朝末期の朝鮮半島を巡って清国と牽制し合う明治政府は、相手がわの意向をさぐるために宮廷関係者に接近しようとしていた。ときの駐清公使・榎本武揚の密偵を務める古川恒造は使命を果たすため、とかくの噂のある有力皇族・十刹梅(スチャハイ)の貝勒(ベイレ)に二度に渡って接触を試みる。だが雑技団を使っての工作は、彼の予想だにせぬ惨劇を生むのだった・・・
 密室で両眼をえぐりとられた戴澂の死に続き、血痕もなまなましい部屋で、うしろから短刀を胸につき立てられ殺される使用人。フリークス系のトリックが暴かれる時、四十三年まえ中国が受けた傷跡がぞろりと転げ出す。後味は悪いが少なくとも佳作クラスの作品。
 「スマトラに沈む」は前述の文人・郁達夫の終戦直後の失踪について〈こうもあろうか〉との推察を巡らしたもの。佐藤春夫や芥川龍之介など、日本文壇とも親交の深い作家であったらしい。紀伝体の普通小説に近いが、半ば隠遁者めいた郁の性格描写が印象的である。「七十六号の男」もこの系列に入るが、モデルの差か前者ほどの滋味はない。
 「ウルムチに消えた火」は、『桃源遥かなり』に収録された「天山に消える」の前日譚。スウェン・ヘディンに"地上最高の専制政治家"と評された楊増新は、特徴的な政治手法で安定した社会体制の創出に成功しており、かなり著者の興味を引いたようだ。しょせんは乱世の徒花で、長続きはしなかったろうが。本編は昭和三(1928)年に起きた楊暗殺前後の事件を回想しながら、竹馬の友に想いを馳せる老人の友情譚としてすがすがしく纏めている。
 トリの「鉛色の顔」は、京劇の名女形から五百人を率いる義勇軍隊長に転身した台湾の侠客・張李成(阿火)のその後を創作したもの。こう書くと颯爽とした快男児のようだが、清仏戦争後海賊に転身したとのエピソードから、本編では身を持ち崩した粘着質の俳優として描かれている。単純な身替りトリックだが、それより因果応報とも言うべき結末の感触がキモだろう。
 最近〈ミステリ短篇傑作選〉としてちくま文庫から久々に刊行された『方壺園』には、本書から表題作ほか三篇が付け加えられているが、その代わりに『獅子は死なず』に収録された初期短篇「狂生員」「厨房夢」「回想死」「七盤亭炎上」を入れてほしかった、との声も挙がる。全てが傑作という訳ではないが、既読の中でも「青玉獅子香炉」や「桃源遥かなり」等ごろりとした手触りの中篇は、他の誰にも真似出来ない無類の味がある。司馬遼太郎に匹敵する歴史作家のイメージが強いが、ミステリ作家・陳舜臣にももっと目を向けて欲しい。


No.441 5点 中国冒険譚 小説マルコ・ポーロ
陳舜臣
(2020/11/13 02:55登録)
 雑誌「オール讀物」に、昭和53(1978)年2月号から昭和54(1979)年1月号まで連載されたもの。大元皇帝クビライ・カアンに17年間仕え、帰国後『東方見聞録』でヨーロッパに中央アジアや中国を紹介した13世紀のヴェネツィア人、マルコ・ポーロがクビライの密偵を務めていた、との考察で描かれた連作短編集である。陳氏らしく処々歴史的事実や『元史』などの史書に触れているが、〈中国冒険譚〉と副題にある通り、推理・謀略関連の要素を含んだ創作物である。とはいえ『秘本三国志』ほど重くはなく、内容は軽め。歴史的事件にマルコが絡むなどといった事は無い。
 全十話の章立ては 冬青の花咲く時/移情の曲遅し/電光影裡春風を斬る/燃えよ泉州路/南の天に雲を見ず/蘆溝橋暁雲図/白い祝宴/明童神君の壺/男子、千年の志/獅子は吼えず 。年代的には元の至元十五(1278)年から至元二十二(1285)年までの、約七年間について語っている。
 主な出来事は崖山での南宋王朝の滅亡(1279年2月)から二度目の元寇(弘安の役=1281年)まで。前半から中盤にかけては、南宋の遺臣や南人(降伏した南宋人)たちが物語に積極的に絡んでくる。壺合戦や猛獣調伏などイロモノ系の後半より、話としてもそちらの方が面白い。旧南宋領で権勢を振るった福建のアラビア商人・蒲寿庚がマルコに一杯食わせる「燃えよ泉州路」などは、なかなか凝っている。
 他にも一万二千人が参加する式典〈元正受朝儀〉での殺人を扱った「白い祝宴」など、推理系の話はあるが総合的には薄味。文天祥の死やラマの妖僧・楊璉真加一味との対決という形で結構を整えているとはいえ、最後は目に見えて投げていて、陳氏の歴史小説としても正直ファンアイテムに近い。
 連載開始の同年1978年8月には、毛沢東の死去および鄧小平の復権を受けて日中平和友好条約が締結。一種の中国ブームが到来しており、堺正章・夏目雅子主演の日本テレビ開局25周年記念ドラマ「西遊記」(1978年10月~1979年4月)や、NHKテレビアニメ「マルコ・ポーロの冒険」(1979年4月7日~1980年4月5日)などが放映されていた。
 1980年4月からは日中共同制作の全12回シリーズ『シルクロード 絲綢之路』がNHKで始まり、これには陳氏自身も監修者として加わっている。本書もそうした時流に乗り執筆されたものであろう。ちなみに一世を風靡した久保田早紀のシングルレコード「異邦人」のリリースも、1979年10月の事である(笑)。4点にしようかとも思ったが、流石に歴史考証等はしっかりしているのでギリ5点。


No.440 6点 メグレと殺人予告状
ジョルジュ・シムノン
(2020/11/12 04:05登録)
 河岸の並木がごくわずかに薄い緑をつけはじめた三月四日、オルフェーヴル河岸のメグレのもとに一通の封書が届いた。それには厚くて大きな犢皮紙に金釘流の字で、こう書かれていた。〈近く、おそらく数日以内に、殺人が起きます。たぶん私の知っているものの手で、たぶん私自身の手で。〉
 差出人の署名はなかったが、使用している特別注文の便箋からすぐ製造元がわかり、用箋は海法専門の著名な弁護士エミール・パランドンのものと判明する。メグレはさっそくパランドン邸におもむくが、その家の異様な雰囲気に触れ、この手紙はいたずら半分のものなどではないと直感するのだった。
 この家にいるだれかが、何かを企んでいる・・・
 1968年発表。『メグレとリラの女』『メグレの幼な友達』の間に挟まるシリーズ第96作で、作品としては後期にあたるもの。再読ですが、前回に比べるとある人物の印象が若干変わったかなあと。初読の際にはそこまで病んでるとは思わなかったんですけどね。読み返すとかなりエキセントリックというか自己演出的。以前『メグレ最後の事件』を評した際に〈本作の発展型〉と述べましたが、それとも異なる感じ。あっちの方がより煮詰まってる感は変わりませんが。パランドン弁護士の蔵書として幾人か名だたる精神科医たちの著作が挙がっていますが、今回かなりそういった実例を意識して書いてます。
 〈天井が非常に高くて、エリゼ宮(大統領官邸)からほど遠からぬところにある〉いかめしい建物で起きた事件。春の目覚めとは裏腹の現場の威圧感が重なって、「想像もできないくらい居心地が悪かった未知の世界」に入ったメグレは酩酊感を覚え、かつてない反応を示します。
 最高裁判所長官の入り婿である小男のパランドンは、誰と争うこともしない好人物ですが、娘や息子は大家の出の母親に反発を覚えて、もっぱら庶民の父親寄りの態度。さらに弁護士見習のルネ・トルテュ、エミールの秘書アントワネットを初めとする仕事の補佐役や召使いたちが、彼らを取り巻いて一種特異な空間を形成しています。メグレは予告状の意図を探り、予告された殺人を未然に防ごうとしますが・・・
 あっさりした筆致ながらなかなかの味。癖はあってもどちらかと言うと好ましい人物が多い中、終盤になって起こる事件。好感を抱いていた被害者の死に直面し、激情からパイプの柄を折るメグレ。『男の首』と真逆のエンディングに、冒頭から繰り返される〈刑法第六十四条〉の問題が、エコーのように覆い被さる作品です。


No.439 5点 銘のない墓標
陳舜臣
(2020/11/11 08:18登録)
 昭和四十四(1969)年十二月講談社刊。香港を舞台にした二中篇一短篇で構成された、著者の第六作品集。テーマを揃えている事から、どうも雑誌掲載されたものではなく書き下ろしの形らしい。この年は氏が『青玉獅子香炉』で第60回直木賞を受賞した翌年にあたり、さらに翌1970年、第23回日本推理作家協会賞に選ばれた二長篇『玉嶺よふたたび』『孔雀の道』に加え、第十四長篇『他人の鍵』も上梓されている。
 また本書刊行二年前の昭和四十二(1967)年には、香港で文革の影響を受けた中国共産党系住民による暴動が発生しており、あるいは脚光を浴びつつある中華系新進作家に、タイムリーな時事を語らせる狙いがあったのかもしれない。西側世界との接点として国内の混乱をよそに繁栄する香港。そこから流出する中華の文物と、逆に中国各地から香港に流入してくる、個々の難民が背負った過去に焦点を当てた中短編集である。
 収録作は 銘のない墓標/壁に哭く/にがい蜜 の三篇。ただし、最初の中篇二本は少々ゆったりし過ぎている。両篇とも100P以上と相当の分量だが、内容的にそこまでの密度は無い。各篇かなりの部分が、登場人物の過去や歴史背景の説明に割かれている。長めの短篇「にがい蜜」のみはそんな事もなく、二転三転して丁度いい具合になっているが。
 表題作とトリの短篇は文物流出に絡まる作品。前者は終戦直前の昭和二十年三月から四月にかけて来日した、蒋介石政権の党人政治家・繆斌(みょうひん)の和平工作文書を、後者の方は重文・国宝級の逸品、通称・砧(キヌタ)と呼ばれる北宋青磁を、それぞれ扱っている。
 激しさを増す本土空襲に苦しむ日本側に、繆斌から提示された和平案はかなりの好条件で、これは日本の敗北後、満州が共産党に渡るのを恐れた国民党側の譲歩策だったという見方が一般的である。当時の小磯内閣内の不統一のため和平は実現しなかったが、もしこれが成立していれば、広島・長崎の原爆投下は無かっただろう。陳氏はこれに〈不発に終わったクーデター〉という解釈を施した上で、歴史的文書を巡る謀略物に仕立てている。戦争当時のさまざまな悲喜劇を付け加え、巧みに味付けしているにもかかわらず、やや構図が透けて見えがちなのが難。
 それに比べると「にがい蜜」はなかなか上手く狙いを隠している。「倉庫業界の天皇」といわれる大物を父に持ち、ディレッタント風の学者としてデータ収集に勤しむ斎藤誠一。かれは香港で思わぬ出物を掘り出した後、アウトサイダー研究のため秘かに秘密結社・三合会の入会式に立ち会うが・・・
 どこかユーモラスな滋味を湛えたコン・ゲームもの。人物の洞察に重きを置いて、あまりギチギチに行動を縛ろうとしないのが中華風と言えるだろうか。
 六年まえの昭和二十三年、徐州『清官荘』での掠奪に端を発した連続殺人を描くのは中篇「壁に哭く」。並行して複数の操りを見せているが、これなら短篇で済む気がする。長さの割に着膨れ感が強く、集中では最も落ちる。
 以上全三篇。悪くはないが各賞受賞の最盛期にしてはそこまで光るものはなく、どちらかと言えば無難に纏めた作品集である。


No.438 6点 孤独の罠
日影丈吉
(2020/11/09 15:17登録)
 群馬製紙の東京支社につとめる仰木信夫(しのぶ)は結婚二年目にして妻・典代を産褥熱で失い、今また死病の母の介護の為、典代の里方に預けていた生後半年になる赤子・芳夫の訃報を受けて、赤城山麓の利石郷へ向かうところだった。妻の実家の人々に慎ましくもてなされながら信夫は通夜に臨み、寂しい冬景色の中、野辺送りを行う。ところが遺体が焼き上がったとき、火葬場の係員が思いがけないことを告げる。かまの中に遺骨が二人分あるというのだ。
 しめやかに行われていた息子の葬儀を愚弄するような事件に、仰木は戸惑うばかりであった。その不可解な謎の後しばらくして、土地の有力者である親戚の郵便局長・古間が毒殺される。殺人容疑者に擬せられる妹・叶絵の婚約者、椎戸。寒村を覆う無常な事件の真相は?
 昭和38(1963)年11月講談社刊。著者の第九長編にあたるもので、同年には本書に先行して『移行死体』『現代忍者考』の二長編が、それぞれ早川・東都両書房より刊行されています。
 第六長編『女の家』の流れを汲む文学志向の作品で、降りしきる雪のなか、北関東の農家での通夜の情景描写に始まり、次々と家族に先立たれた主人公が、ただ一人残った実の妹と絆を強めようとするも感情の行き違いを埋めきれなかったり、古間の若妻・朱野への思慕を募らせたりと、ときには姑息な考えや打算が先行する、事なかれ主義の一人の弱い人間の姿を切々と描いています。
 年が入ってくるとこういうのは身につまされる訳で、ミステリ以前に小説としてかなり好み。特に喪家から葬儀所までの過程はリアルそのもので、その場の空気が感じられる程です。この導入部に〈焼場で増えるお骨〉という謎を投入して興味を引きながら、他方〈早逝した幼児〉というシチュエーションを用いて、自然に読者と信夫を同化させているのも巧みなところ。冬・春・夏・秋の四章で構成されていますが、冒頭からシンパシーを抱いた読み手をシッカリ掴んで離さない。
 その後も一貫して煮え切らない心情描写が続くんですが、〈誰にでもある心の動き〉の範疇なので、そこまでイヤらしさは無いですね。ストーリー的には日影長編の中で一番好きかもしれません。
 ただ読み返すと、物語面の充実に比べトリック部分があまりに弱い。遺骨の謎も〈まあそれしか無いわな〉という感じで、毒殺事件に至っては付け足し程度。ウジウジした主人公が図らずも神意を代行するエンディングが上々なだけに、この辺もっと工夫があれば、著者の代表作にも成り得たでしょう。個人的にかなり惜しい部類の作品で、涙を呑んだ採点は6.5点。


No.437 7点 桃源遥かなり
陳舜臣
(2020/11/07 01:50登録)
 『方壺園』に続く、著者の第二作品集。昭和三十八(1963)年三月号~三十九(1964)年八月号まで、雑誌「オール読物」ほか三つの小説誌に発表された中短篇を纏めたもので、デビューから直木賞受賞までのほぼ半ほどの時期に当たる。第六長篇「月をのせた海」から、第八長篇「まだ終わらない」に取り組んでいた頃でもある。
 各篇の配列には若干の異動が見られ、発表順に並べると 天山に消える/揺れる/燕の影/桃源遥かなり/香港便り 。書籍ではまず表題作及び「揺れる」の二中篇をじっくり読ませ、その後に「香港便り」他三篇を配置している。不羈奔放な生き方で知られた大正期の混血僧・曼殊大師没後の残影に翻弄される人々を描いた「燕の影」以外は、れっきとしたミステリ作品。この人の本を探求する際、題名のみではジャンル不明多々なのが困り物なのだが、本書もその例に漏れない。だが初期だけあってよりエキゾシズムに溢れ、重みを持つ余韻は長く後を引く。
 表題作にある〈桃源〉は武陵源ではなく、香港から汕頭(スワトウ)までの間、バイヤス湾(中国名:大亜湾)のなかにある海賊島・琵琶山を指す。第二次大戦前の一九三二年、広州市のミッション系女学校で美術教師をしていた呉景雄は失職したのち、海賊の娘との噂のある元生徒・劉碧水のツテを辿って琵琶山の賓客となる。彼女の母であり島の女王=女頭目の映雲に見初められ、理想の愛人を得て夢のような日々を送る景雄。だが彼の存在は、島の平和を致命的に脅かすものだった・・・
 海賊の島とはいえ笑いさざめきながら、女房たちが子供の尻をひっぱたくことのできる世界。そのささやかな楽園をまもるために離奇変幻の策謀をめぐらすある人物の姿を、十五年前の追憶として語った作品。質量共に集中では一番の出来である。
 次の中篇「揺れる」は故郷喪失者の蛋民(タンミン)・ヤンの物語。奇妙な縁(えにし)から教育を受けて水上生活の仲間たちとは別な人間になってしまい、とはいえ陸にも馴染めず、国を捨て一船員として生きるしかなかった男が巻き込まれる事件を描いたもの。殺人容疑は無国籍者の友人・イワンの奮闘で晴らされるが、ミステリ云々よりも港町神戸に生きる人間たちの姿と、男女の繋がりの不確かさや、愛人・八重子の死に伴うヤンの心情の変化の方がより印象に残る。
 「香港便り」は熾烈を極めた「聯戦」と「統戦」、いわゆる台中諜報戦のカムフラージュに使われたスパイOBものの小品。武田泰淳『十三妹(シーサンメイ)』の「忍者おろか」に該当する人物が登場する。つまりは孫子用間篇にあるところの最高級のスパイ、『生間』である。
 最も発表年の古い「天山に消える」は表題作と同じ頃の一九三三年、軍閥割拠中の西北の辺地・新疆省を舞台に据えた短篇。今まさに省を侵さんとする馬賊の梟雄・馬雲昇が、省都ウルムチから派遣された使者たちの到着後、完全な密室のなかで殺される。最後に待つのは山田風太郎『妖異金瓶梅』のラストを思わせる凄まじい展開。とは言え乾いたカタストロフで、中篇の叙情には及ばない。
 以上全五篇。あまり語られないが粒の揃った、アンソロジー選出クラスを含む中短篇集である。


No.436 7点 ロセンデール家の嵐
バーナード・コーンウェル
(2020/11/05 13:44登録)
 十二世紀に血塗られた剣でもってイングランドのデヴォン渓谷を領有して以来、チューダー朝の迫害にもめげずカトリシズムの信仰を守ってきた伝統ある名門、ストウィ伯爵家。だがその第二十八代当主ジョン・ロセンデールは、窮屈さへの反発から責務を捨てて出奔し、三十四歳の今日まで愛艇〈サンフラワー〉を駆って世界の港を放浪する日々を送っていた。
 そのきっかけは彼が〈太陽のかけらをかすめとったかのような〉ゴッホ初期の逸品、「ストウィのひまわり」を盗んだ疑いを掛けられたことだった。「ひまわり」には、窮迫した伯爵家を救うに足るほどの価値があったのだ。だが絵は売却される直前、ジョニーの管理していた銃器室から忽然と消え失せていた。名家の家運は決定的に傾き、身に覚えのない彼は一族郎党の白い目に耐えられず、一隻のカッター(一本マストの小型帆船)と共に海へと逃げ出したのだ。
 母危篤の知らせを受け、四年ぶりに帰国したジョニーに世間は冷たかった。臨終間際の母にさえ罵られ、双子の妹エリザベスは敵意を剥き出しに「絵はどこにあるのよ?」と責め立てる。彼を暖かく迎えてくれそうなのは、かつて命を救ってくれた親友チャーリー・バラットくらいのものだが、彼は折悪しく不在だった。
 故国に失望したジョニーは再び海へ向かおうとするが、そこで彼は係留された〈サンフラワー〉へのふたりの侵入者と、おびえた眼に涙を浮かべた女性に遭遇する。それがジョニーと勝気な美女、ジェニファー・パラビチーニとの邂逅だった・・・
 1989年発表。原題"SEA LOAD"(海の貴族)。ナポレオン戦争時代の英雄・シャープ少佐シリーズに代表される冒険歴史・海洋小説の書き手だった著者が、『殺意の海へ』に続いて発表した二作目の現代海洋もの。同時に、紛失した時価二千万ポンド(1990年当時のレートで約50億円前後)の名画「ひまわり」を巡る、変形の誘拐ものとしても出色。
 いきなり始まる海洋描写はマクリーンばりの重厚さでビビりますが、それも冒頭20Pほどで後は通常モード。海と共に生きてきた主人公も陸(おか)に上がれば只のカッパで、心意気は立派なものの殺されかけて泣き喚いたり、成功した友人に全面的に依存したりと、情けなさの方が目立ちます。全五部もある物語の2/3以上がそんな感じ。ボヘミアン気取りの卑しさはありませんが、特に頭が切れる訳でもなく行動も場当たり的で、こいつ大丈夫かなと思ってしまいます。それが第三部で恋人共々敵の罠にハマり、死線を彷徨って以降徐々に変わってくる。
 守るべきものが生まれ、さらに「復讐」という目標を得て、いかなる理由であれずっと逃げ続けてきた男が、海の知識の限りを尽くし独力で戦闘のプロに立ち向かってゆくようになる。第五部、主人公が敵の指示から相手の狙いを読み取り、裸同然の小舟で悪党ギャラードに奇襲を掛ける、チャネル諸島水域での死闘は読み応えアリ。それまでのひ弱さとは完全に決別しており、あとがきにある"女王陛下のヨット乗り"の資格十分。幕切れもよく出来ていて、黒幕の正体プラスそれとは別の意外性で纏めています。
 やや分厚く全てが硬質という訳ではありませんが、最後に一気に盛り上がる良質な冒険スリラーで、その読後感を含め〈海のディック・フランシス〉と言い切っていいでしょう。1991年度第10回日本冒険小説大賞受賞作。ちなみに二、三位はスティーヴン・キング「IT」と、マイクル・クライトン「ジュラシック・パーク」でした。


No.435 7点 キングとジョーカー
ピーター・ディキンスン
(2020/11/05 02:35登録)
 現実とは異なる家系をたどった英国王室。王女ルイーズは、いつもと同じ朝食の席で、父王の秘密に突然気づいてしまう。しかしその朝、とんでもない騒動が持ちあがった。食事の皿に、がま蛙が隠されていたのだ!
 こうして、謎のいたずら者=ジョーカーの暗躍がはじまった。罪のないいたずらは、ついに殺人に発展。王女は、ジョーカーの謎ばかりか、王室の重大な秘密に直面する……CWAゴールド・ダガー賞2年連続受賞の鬼才が、奇抜な設定と巧緻な謎解きを融合させた傑作、復活!
 1976年発表。ディキンスンはジュブナイルと大人向け作品をほぼ交互に発表している作家でその境界も曖昧、ゆえにこれがミステリとして何作目かはなかなか判断し辛いのですが、どうやら"The Lively Dead"に続く九番目の長編にあたるようです。同年にはガーディアン賞受賞の『青い鷹』も刊行。同賞はイギリスの優れた児童文学作品に与えられるもので、過去の著名な受賞作は、アラン・ガーナー『ふくろう模様の皿』(1968)、リチャード・アダムス『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』(1973)など。ちなみに翌1977年にはダイアナ・ウィン・ジョーンズの "Charmed Life"シリーズ(『魔女集会通り26番地』『魔女と暮らせば』)が選出されています。
 本書も十三歳と四分の一になる英国王女ルルを主人公にした擬似ルリタニア・テーマで文章も流麗。細部に渡って王室一家(ファミリー)の日用品及び生活様式が描写され、その豪華さとは真逆に自らを客観的かつ皮肉に眺めている人々と、彼らの間で起こったスキャンダルと殺人を描いています。筆力があるだけにキャラクターに魅力があると俄然輝きを増すのがディキンスンですが、本書はその典型と言えるでしょう。邦訳済の中でもとっつきやすさは一番で、個人的には「泥んこも素敵なドレスになってしまう」王妃の秘書、ナニーことアナナ・フェローズの描写がやや少なめなのが残念。
 ミステリとしてはたまねぎの皮を剥くように現れる王室スキャンダルの後、より過激にというか殺伐さを増したジョーカーがバッキンガム宮殿に不吉な影を投げかけ、それに王女ルルが巻き込まれるといった構成。苦さを含んだ結末ですが、少女の成長物語と考えれば活劇部分の顛末も含めてアリかな。初期作品であるピブル警視シリーズほどの捻りはありませんが、総合力ではかなりのもの。現時点では第四長編『眠りと死は兄弟』の方が上ですが、再読したら案外逆転するかもしれないので、とりあえず7.5点は付けておきたいです。


No.434 7点 花嫁のさけび
泡坂妻夫
(2020/10/30 16:14登録)
 混血の映画スター・北岡早馬とフランスで念願の結婚式を挙げ、幸せの絶頂に立った松原伊津子。だが日本で彼女を迎える北岡家の人々は今もなお、約一年前に急逝した前妻・鍵島貴緒の追憶に囚われ続けていた。挙式からわずか四日後、そんな伊津子の境遇と重なるような早馬主演の映画〈花嫁の叫び〉がクランクアップする。そして彼らの結婚を祝う撮影所での毒杯ゲームの最中、新たな悲劇が起こり、邸の庭からは別の死体まで発見された・・・
 マジシャンとしても名高い著者が、技巧の限りを尽くした傑作ミステリー、遂に復刊。
 ほぼ一年ごとの発表だった初期三作から二年後の1980年1月、『湖底のまつり』に続いて刊行された、泡坂妻夫の第四長篇。同年12月には第五長篇『迷蝶の島』も上梓されています。
 これ以後も氏の長篇は、1988年のノンシリーズ第十一長篇「斜光」までほぼ年一冊ペース。つまり本作の発表までにはかなりの手間暇を掛けている訳で、連城三紀彦「運命の八分休符」同様、目立たぬ力作と言っていいでしょう。その狙いからか著者のエッセイでも「掘出された童話」やヨギ ガンジーシリーズ二長篇などと異なりほとんど言及されませんが、それらの精緻さにも劣らぬ最高レベルのテクニックが注ぎ込まれています。地味ながら泡坂作品ではひょっとしたらこれが一番かも。
 シチュエーションこそデュ・モーリアの名作「レベッカ」を本歌取りしていますが、読後に両者の冒頭部を比較すればその違いは明らか。ストーリーも似て非なる展開で、〈思い込み〉〈食い違い〉を利用したこのような"ずらし"が、読者を迷宮に誘い込みます。一見派手な「毒杯ゲーム」よりも、物語の影に隠れていた前妻の死の謎がメインになってくるのは、その好例。全体的に玄人好みの作りです。
 ただ全貌が明らかになっても、総合的には初期三作に及ばないかな。「湖底のまつり」とは別方向の〈騙し〉を志向したものですが、情感溢れる前作とは逆に、意図せずして硬質の感触になっているのがちょっと面白いです。

 追記:巻末におけるパラグラフで、全体が手記の体裁とも読めるのに気付きました。映画シナリオと二重写しの筋立てといい、色々とメタ構造を駆使した、企みの多い小説です。


No.433 6点 崑崙の河
陳舜臣
(2020/10/28 08:08登録)
 香港を題材にした『銘のない墓標』に続く、著者の第七作品集。「中国が舞台になっている小説、または中国人が登場する小説ということを基準にして」、一九六二年九月から一九七一年四月にかけて約十年の間に、各誌に発表された作品を選んだもの。表題作ほか長めの短篇五篇を収録。同年二月には乱歩賞作家書き下ろしシリーズの一冊として、第十六長篇『北京悠々館』も刊行されている。
 あとがきには「タテにすっぱりと切りおろしたもので、過去のさまざまな変遷図があらわれているかもしれない」とあるが、中国を舞台にした最初の二篇、第二次大戦直後のボールペン販売宣伝を目的にした崑崙山脈最高峰・積石山(アムネ・マチン)学術調査隊での謀殺事故を扱った表題作「崑崙~」と、国共内戦中の一九三〇年、軍閥工作資金として運搬中の金塊をめぐり、トラックに乗り合わせた人々が殺し合う「紅い蘭泉路」以外、そこまで作風の変化は見られない。表も裏もあるごく普通の人々が、ふとした機会に己の暗部に囚われてゆく姿を描いたものばかり(綺譚風の「鍾馗異聞」のみやや例外)。この作者らしく中身の詰まった筆致ではあるが、総じてダーク寄りの短篇集と言える。
 「崑崙の河」は十数年前のスナイダー博士溺死事件の謎を追うと見せかけて、どんどん妙な方向に転がっていく。不倫相手を殺人依頼者とおぼしきアメリカ人実業家に奪われた主人公の〈私〉。大阪に赴任し、たまたまターゲットの近くに宿舎を割り当てられたのを機に殺意は膨らんでいき、準備を進めたのちいよいよ計画を実行に移そうとするが・・・
 交錯する二つの狂った心が形作る相似形。それに救われた主人公の胸には木枯らしが吹き、虚ろな寒々しさに包まれる。表題作だけあって集中ではこれが一番。
 「~蘭泉路」はこの人の短篇には珍しく動きが早く、しょっぱなから登場人物がバンバン消されていく。蘭州から金泉に向かう定期便トラックの六人の乗客。その中には工作機関QKKの運搬役・孫継明の他に、監視任務を帯びた三人の同志が乗り込んでいる。いったい誰が工作員なのか? そうこうしている内に、〈私〉を除いた全員が死んでしまい・・・
 よくあるパターンだが、陳氏のこういう作品は意外。トリックよりも目まぐるしい展開で魅せる小説である。明日をも知れない時代には、人は簡単に鬼になる。
 「枇杷の木の下」は、実作者のエッセイ風小説。淡々とした語りがしみじみと心に染みる。運命に翻弄されながら道を切り拓き、母国から遠く離れて生を全うした二人の姿が読後に浮かんでくる。ミステリ要素は味付け程度だが、好みでは「崑崙~」の次に来るもの。
 同趣向だがやや軽い「鍾馗~」の後、本書のトリを務めるのは混血児ミドリを取り巻く三人の幼馴染みの物語「紅い蜘蛛の巣」。タイトル通りのヴァンプ物だが、他の作品とは異なりある程度先は読める。この手の現代ものも悪くはないが、本書の場合近代ものの方が出来が良い。

 追記:本書の積石山(アムネ・マチン)がどの山を指すのか不明だが、崑崙山脈の最高峰は中央部のムズダク山(海抜7,723m)。作中「エヴェレスト山より高いのではないか」との記述があるが、おそらく大半が未調査峰だった頃の話なのだろう。


No.432 5点 立待岬の鷗が見ていた
平石貴樹
(2020/10/26 11:32登録)
 5年前に起きた連続殺人・傷害致死事件。美貌の作家として注目され始めた柚木しおりは、その一連の事件の関係者だった。彼女の作品を読んだことをきっかけに、舟見警部補は以前にも事件の解決を導いた青年ジャン・ピエールに、再び捜査協力を依頼。関連があるのかどうかも分からなかった3つの事件について当時の記憶を辿り始める。
 積み重ねられた事実と痕跡で、見えてくる事件の真相!
 「このミス」2020年版:第10位にランクインした『潮首岬に郭公の鳴く』に続いて発表された、ジャン・ピエール・プラットシリーズ第二弾。2020年7月刊。今回は湯ノ川署警部補・船見俊介の依頼を受けて、二〇一三年三月冬に函館山周辺部で立て続けに起きた、三つの事件の謎に挑みます。タイトルに掲げられている立待岬での最後の事件(事故?)が、イレギュラー的な轢き逃げで犯人も別人臭く、各事件がリンクしてるようなそうでもないような雰囲気なのがミソ。
 〈微妙〉〈地味〉と割とボロクソ批評されてますが、この手のミステリは結構好きなのでそこまで苦痛には感じませんでした。前作同様題名が暗示的なところも良いです。構想としてはそんなに劣っていませんね。
 ただ問題なのは悪意の不在。良くも悪くも『潮首岬~』は、犯人像が最後の告白込みで読者に強い印象を残しますが、こちらはそういった要素皆無。一部真相に触れる為詳細は省くとして特にドラマ的な素晴らしさとかもなく、比較するとややセールスポイントに欠けます。まあ〈今度は八つ墓村〉という訳にもいかないので、それだけ掴みが弱くなるのは仕方無いんですが。
 ミステリとしては作中作から導かれるジャン・ピエールのプロファイリング「無意識のパターン」がキモですが、これは平石氏自身の著作にもかなり当て嵌ってくる事なのでどうなのかな。あまり持ち上げるほどでもないような。前作の場合世間の注目も集まってたし、確たる裏付けも出てきたしで良かったんですけどね。今回の場合数年前の事件で証拠も弱いため、このスピーチで決定打という訳には行きません。
 総合的に纏めると・・・やはり地味かな(笑)。立待岬関連はまあまあですが、そこをとっぱずすとちょっとしょぼくさい。若干落ちるけど前作とあまり差を付けるのも何なので5.5点。その辺にしときます。


No.431 6点 モリアーティ秘録
キム・ニューマン
(2020/10/24 09:40登録)
 一八六九年に創立された民間銀行、ボックス・ブラザーズは世界金融危機の煽りを食らって破綻、CEOディム・フィラミーラ・ボックスは告発されその実態は明らかになった。この銀行の最古のサービスは、犯罪者向けの「オフショア財産管理」だったのだ。
 ディム・フィラミーラは窮地を逃れるため、バークベック・カレッジ教授クリスティーナ・テンプルに貸金庫の中で約八十年間、手つかずのまま放置されてきたタイプ原稿の鑑定を依頼する。それは犯罪王モリアーティの右腕として活躍した傑物、ジョワキ戦役の英雄にして賭博狂の大物ハンター、セバスチャン・モラン大佐の執筆した回想録であった――
 ヴィクトリア朝華やかなりしころ、犯罪商会(ザ・ファーム)の首魁としてジェイムズ・モリアーティが相対してきた個性豊かな犯罪者たちと怪事件、世紀の悪党(ヴィラン)たちの知られざる素顔を、大胆な発想と魅力的なキャラクターをもって描いた、博覧強記の著者による破格のホームズ・パスティーシュ。2011年刊。
 シャーロック・ホームズ『緋色の研究』に相当する第一章「血色の記録」から、ライヘンバッハの滝での死闘の内幕に迫る「最後の事件の冒険」までの七つの中短篇の中に、同時代の各種世紀期末小説に登場する犯罪者や怪人たちをブチ込んでグツグツのシチューに仕立てた、クロスオーバー闇鍋クロニクル。味わい尽くすには半端でない裏教養が必要となるが、ニヤニヤしながら不真面目に読んでもそこそこ面白い。装丁は真っ当だが、これを本気にしてはいけない。第五章「六つの呪い(「六つのナポレオン」とJ・ミルトン・ヘイズの詩「黄色い神の緑の眼」が元ネタ)」とかを読めば分かる。
 語り手モランの筆致は由緒正しきヴィクトリア朝犯罪小説のソレで、一貫して下品。救い主と見せてかっぱぐ「血色~」は一応シリアスなので、最初はジョン・ガードナーの『犯罪王モリアーティ』シリーズみたいに進展するのか?と思わせる。"あのあばずれ"こと歌姫アイリーン・アドラーがモリアーティを引っ掛ける「ベルグレーヴィアの騒乱」まではまだいいが、第三章の「赤い惑星連盟(なにやってんすか教授)」で、モリアーティが一人三役とかこなすあたりから徐々におかしくなってくる。次の「ダーバヴィル家の犬」はかなり気合の入ったゴシックミステリに仕上がっているが。
 下巻に突入して始まるのは、怪人たちとのドンチャン騒ぎ。ヒマラヤのイェティからエジプト女王の生まれ変わりと称する妖艶な美女、イタリアのカモラ党やら若かりし頃のカスパー・ガトマン(『マルタの鷹』の敵役)まで登場する。個人的には"ボルジア家の黒真珠"に固執する不死身の巨人ザ・ホクストン・クリーパーがツボ。続く第六章「ギリシャ蛟竜」では三人のジェイムズ・モリアーティが頭をゆらめかせる事になるので、これも似たようなもの。総じてムチャクチャである。ここで初めて、教授の内面の一端が明らかにされる。
 最終章「最後の事件の冒険」にはある種の哀感が漂う。「狩るものと、狩られるもの。捕食者と被食者。生者と死者。銃と獲物」というアイリーンの台詞。そしてモリアーティに仕える猟犬としてのモラン。ナポレオンはなぜ最終的に敗れ去るのか、それは歴史の必然なのか。
 疑いもなく力作だが、当初からの構想ではなく短篇を纏めたがゆえの限界もまた感じ取れる。惜しくも佳作には至らず6.5点。


No.430 6点 サーキット・メモリー
森雅裕
(2020/10/22 07:20登録)
 時は一九八四年。十二年前、四サイクルマシンで世界選手権全クラス制覇を成し遂げ日本車の黄金時代を築いたのを最後に、レースから完全撤退した二輪のトップ・メーカー梨羽技研。五年前の一九七九年、カムバックを発表し再び四サイクルのNR五〇〇をデビューさせたものの、既に時代の趨勢は二サイクルエンジンに移り、ナシバチームは苦戦を余儀なくされていた。
 そのNRを駆るのは、黄金期の総監督たる技研社長・梨羽善三の妾腹の息子・保柳弓彦。彼は二サイクル三気筒のNS五〇〇を与えられたチームメイトの板妻圭介とコンビを組み、堅実なランディングによってランキング・トップに立っていた。圭介とは年間チャンピオンを争うライバル同士でもある。
 そして迎えた全日本選手権第十二戦。投入された新NRは無理なエンジンアップの為にリタイヤ。弓彦は一点差で圭介に抜かれ、チャンピオン争いは鈴鹿の最終戦に持ち越されることになった。圭介はナシバ傘下でレースを仕切るNRC社長・板妻周平の息子。何らかの思惑があったのかも知れないが、転倒の原因が何であれ、どこにもその怒りをぶつけることは許されないのが、この社会のルールだ。
 悪態をつく弓彦に、メカニックの西寺慎吾が「二十年前の秘密に関するフィルムを見せたい」と耳打ちしてくる。明日マンションで会うと約束する弓彦。だが翌日レポーターたちを振り切り自室に飛び込んだ彼が見たものは、チャンピオンカップで撲殺された西寺の死体だった。
 死んだメカニックが見せようとしていた十六ミリフィルム―― そこには一九六五年、ナシバの三五〇ccレーサー板妻純司が日本グランプリで事故死した際の映像が写っていた。そして殺人と前後して、弓彦と芸能界に入った異母兄妹の五月香、このどちらかが純司の実の子だという噂が流れ始める。圭介の伯父である純司は、同時にマスコミを牛耳る板妻グループの嫡子でもあったのだ。
 にわかに騒然となる二人の周辺。そしてレコード大賞候補となったアイドル歌手・五月香に、グループの総帥・板妻徳太郎が直接接触してきた・・・
 鮎村尋深シリーズ一作目の『椿姫を見ませんか』に続いて同年六月、カドカワノベルズから刊行された、著者の第四長編。カバー裏〈作者のことば〉には「この作品は、ずっと以前に世に出るはずだったが、諸般の事情で遅れたもの」とあるので、ひょっとしたら事実上の処女作にあたるのかもしれない。ロードレースという日進月歩の世界を舞台としたため、色々と辻褄合わせに苦労したようだ。舞台設定は異なるが『椿姫~』とは共通する要素を持った、ある種プロトタイプ的な作品である。
 犯人は割れ易いが、ミステリ的にはその上手を行く存在が仕組んだ企みが焦点となる。ハイソなキャラクターばかりだが、そんなものを全部吹っ飛ばすような最終レースの行方が物語のキモ。親指を除く左足指の骨折と肋骨二本、満身創痍ながらレースに拘る、弓彦たちの決意が気持ち良い。ライバル圭介も御曹司ながら、フェアな態度で彼と競り合うことに。殺人絡みは正直5点クラスだが、最後のデッド・ヒートでプラス1点。


No.429 7点 さよならは2Bの鉛筆
森雅裕
(2020/10/18 11:11登録)
 一九八七年七月刊行の著者の第一作品集。一九八六年十月から一九八七年五月にかけて、雑誌「中央公論増刊 ミステリー特集」に掲載された中篇ばかりを三本収録。同年四月には自衛隊ハードバイオレンスアクションシリーズ〈五月香(めいか)ロケーション〉の完結編『漂泊戦士(ワンダーエニュオ)』も上梓されている。内容を見るにどうも美少女版ウルフガイのようなものらしい。それに影響されたか、本書で主役を務める"フレイア伝説"学内二位・鷲尾暁穂の設定もかなりはっちゃけている。
 巻頭にある彼女の身上書で目立つところを拾ってみると、習癖:椅子の上にあぐらをかいて、ピアノを弾く。 酒量:バーボンのダブル十杯でも死ななかったという記録あり。ただし、イギリスが嫌いなのでスコッチは飲まず。 さらに愛読書は矢作俊彦と、なかなか凄まじい。まあ大藪春彦や西村寿行に手を出すよりは健全だと思うが。
 なお父親である小説家の昌宏によれば、「"リンゴォ・キッド"や"ピンチヒッター"を初版本で持ってるような女子高生に育てた覚えはない」という。学内では腐れ縁の悪友である"フレイア伝説"学内一位・仙道朋恵と罵倒し合っている事が多いが、根は古風な女。ここまで述べたことからも分かる通り、作者の矢作愛に満ちた中篇集である。
 作中設定によると、彼女等が通うフレイア学園大学附属高校は全校三百人。外人教師も多く博物館や教会もある「山手町(ブラフ)の有名な御令息、御令嬢たちの音大付属」らしい。モデルは横浜の名門校、フェリス女学院。ハマっ子ではないのでこれがどれ程のグレードなのかいまいちピンと来ないが、とにかく卒業生のセーラーが高く売れるような学校だそうだ。
 そんな〈お嬢様〉に深夜の高速で大バトルをさせるのが第二話「郵便カブへ伝言」。女子高生にあるまじき暴走行為の数々に著者のファンは、「ここまでくるとやりすぎ」「いくらなんでもまずいだろ」と困惑したようだが、先に元ネタを読んでると思わず笑みが零れてしまう。タイトルといい内容といい、勿論矢作俊彦の処女長篇『マイク・ハマーへ伝言』のオマージュ作品。暁穂の計画に協力するモヒカン頭の暴走少女・トサカこと藤村操などの脇役も良く、集中では一番の出来である。大沢在昌に加えて森雅裕、この頃のクリエイターに矢作が与えたショックは絶大なようだ。
 他にも第一話「彼女はモデラート」でいきなりポルシェ・タルガが転落するわ、圭一郎やルリ子といった日活俳優名が頻出するわとやり放題。「探偵物語」風の表題作も、全編そこはかとなく矢作イズムに満ちている。勿論キザ丸出しである。
 「モデラート」は妊娠中の級友が車ごと崖からダイブした事件から、学内に巣食う少女売春の元締めを突き止める話。割とオーソドックスで黒幕の正体も分かり易いが、それでも結構凝っている。名門女子校が舞台とは思えないくらいポンポン人死にが出るけど、まあいいか。好みだとこれが二番目。
 「さよなら~」は彼女らの卒業式直後に始まる。級友である混血ドイツ娘の駆け落ちを手伝う暁穂だが、あにはからんや孫娘の留守中に純ドイツ人の祖父は急死。しかも彼は車椅子の身でありながら、生前探偵にある人物の身元調査を依頼しようとしていたらしいのだが・・・
 ミステリ的な部分よりもキャラの方が目立つ作品。とはいえ悪くなく、内容的には最もこの作者らしい。本作で初登場する主人公の母親・ヴァイオリニスト鷲尾幽穂が最後に全部持って行く。流石に年の功だけあって、キザにも年季が入っている。
 以上全三篇で、点数は矢作ファン票をプラスして7点。ただし正味でも準佳作の6.5点くらいは望める内容である。


No.428 6点 潮首岬に郭公の鳴く
平石貴樹
(2020/10/16 13:12登録)
 函館で有名な岩倉家の美人三姉妹の三女が行方不明になった。海岸で見つかった遺留品の中には、血糊のついた鷹のブロンズ像。凶器と思われたこの置き物は、姉妹の家にあったものだった。祖父は何かを思い出したかのように、芭蕉の短冊額を全部持って来させると、自らは二月ほど前に受け取った脅迫文を取り出した。三女の遺体が見つかっても、犯人の手掛かりは得られないまま、事件は新たな展開をみせる――。驚愕の傑作誕生!!
 両親をテロで失い、カトリック神父の叔父に引き取られたフランス人少年ジャン・ピエール・プラットが、作者の生まれ故郷・函館を舞台に数々の難事件に挑む新シリーズ第1弾。2019年10月刊。平石氏といえばアメリカ文学者にして東京大学名誉教授という異色の経歴と、新本格台頭前の不毛な時期に発表されたクイーンばりの本格パズラー『だれもがポオを愛していた』の充実ぶりが注目されましたが、対する本書も横溝正史『獄門島』を本歌取りした見立て殺人ものとして話題になりました。
 とはいえ内容的には執拗というかむしろ地味。松尾芭蕉の俳句に合わせ、次々三姉妹を狙った犯行が繰り返される反面ビジュアル要素は薄く、語り手となる湯ノ川署警部補・舟見俊介の私生活を差し挟みながら、淡々と捜査の過程が描かれます。前述のように作風的にはエラリー・クイーンに近いので、ストーリーテラーとしての才能が要求される横溝テイストとは相性が悪いですね。トリックもプロットも丁寧なだけに、作品的にかなり損してます。我慢して読んでいくとそれが分かるのですが。
 オマージュとしての読後感は予想以上。丁寧に"踏んだ"上で、元ネタを巧みに移し替えています。事件が全て収束したのち犯人が秘めていた情念を告白するシーンは本作のハイライト。横溝とはまた違った遣る瀬無さを感じさせるラストです。
 本来なら7点クラスの出来ですが、題材がキャッチーな割にはそれを活かせていないので6.5点。ただし、良いものを読ませて貰った満足感は十二分にあります。


No.427 6点 落下する緑
田中啓文
(2020/10/13 17:17登録)
 『本格推理』入選時に故鮎川哲也氏より絶賛された、幻のデビュー作にはじまる本格ミステリ。大人の雰囲気に彩られた《日常の謎》的連作短編集ついに登場。師から弟子へ連綿と受け継がれたクラリネットの秘密、消えた天才トランペット奏者の行方、国民的時代小説家の新作を巡る謎、三〇〇〇万円もするウッドベースを壊した真犯人は何者か、など七編を収録。冴え渡る永見緋太郎の名推理。著者おすすめジャズレコード、CD情報付。
 1993年から2009年まで光文社から「文庫の雑誌」形式で出版されていた、公募アンソロジー『本格推理』第2巻に所収の表題作をシリーズ化し、2003年9月から2005年6月号まで雑誌「ミステリーズ!」に掲載した五編を付け足したもの。本書のための書き下ろし「虚言するピンク」を含め、全てタイトルに色を冠した短編で構成されている。この作者には珍しくグロもゲロも出てこない、極めて真っ当なミステリ作品である。
 主人公・永見緋太郎は語り手のバンド〈唐島英治クインテット〉に所属する二十六歳のテナーサックス奏者。音楽のこと以外考えない天才肌でやや浮世離れしている反面、楽器や奏法・和楽洋楽上下関係その他に一切の執着を持たず、自由な発想を駆使して事件の真相に迫っていく。やや常識外れではあるが、あらゆる意味でこだわりの無い永見のキャラクターは、この連作集の大きな魅力である。
 著者自身彼と同じくバンドメンバーとしてテナーサックスを吹いているだけに、作中の擬音感覚は独特。「ぶぎゃっ、ききききぃーっ、くぶわっ、ぼけけもけけ・・・・・・」だの「ぎゃおおおおおおっ」だの、門外漢のド素人には「ホンマにそう聞こえるんか?」としか思えないが、スタージョンの「ぶわん・ばっ!」とかにもそういう表現があるので、実際にスウィングしてるとまた違うのだろう。
 出来が良いのは不可能状況での盗難や破損を扱った「落下する緑」「揺れる黄色」そしてトリの「砕けちる褐色」。次点は伝説のブルースシンガーのコンサートに悪役ジャズ評論家を絡めた「挑発する赤」か。好きなジャンルを思いきり書いているだけに楽しく読めたが、僅か数作のうちにトリックが被るのは少し気になる。
 とはいえ逆さになった抽象画の謎から意外な事実が判明する表題作のラストシーンは見事。正直これ一発でシリーズに引き込まれた。鮮烈なイメージを喚起する絵画は、実はミステリとかなり相性が良い。泡坂妻夫の「椛山訪雪図」や「藁の猫」、横溝正史のジュブナイル「悪魔の画像」等と共に、アンソロジー〈絵画ミステリー傑作選〉も、やろうと思えば編めるかもしれない。

586中の書評を表示しています 141 - 160