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ミステリの祭典

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銘のない墓標

作家 陳舜臣
出版日1991年10月
平均点5.00点
書評数1人

No.1 5点
(2020/11/11 08:18登録)
 昭和四十四(1969)年十二月講談社刊。香港を舞台にした二中篇一短篇で構成された、著者の第六作品集。テーマを揃えている事から、どうも雑誌掲載されたものではなく書き下ろしの形らしい。この年は氏が『青玉獅子香炉』で第60回直木賞を受賞した翌年にあたり、さらに翌1970年、第23回日本推理作家協会賞に選ばれた二長篇『玉嶺よふたたび』『孔雀の道』に加え、第十四長篇『他人の鍵』も上梓されている。
 また本書刊行二年前の昭和四十二(1967)年には、香港で文革の影響を受けた中国共産党系住民による暴動が発生しており、あるいは脚光を浴びつつある中華系新進作家に、タイムリーな時事を語らせる狙いがあったのかもしれない。西側世界との接点として国内の混乱をよそに繁栄する香港。そこから流出する中華の文物と、逆に中国各地から香港に流入してくる、個々の難民が背負った過去に焦点を当てた中短編集である。
 収録作は 銘のない墓標/壁に哭く/にがい蜜 の三篇。ただし、最初の中篇二本は少々ゆったりし過ぎている。両篇とも100P以上と相当の分量だが、内容的にそこまでの密度は無い。各篇かなりの部分が、登場人物の過去や歴史背景の説明に割かれている。長めの短篇「にがい蜜」のみはそんな事もなく、二転三転して丁度いい具合になっているが。
 表題作とトリの短篇は文物流出に絡まる作品。前者は終戦直前の昭和二十年三月から四月にかけて来日した、蒋介石政権の党人政治家・繆斌(みょうひん)の和平工作文書を、後者の方は重文・国宝級の逸品、通称・砧(キヌタ)と呼ばれる北宋青磁を、それぞれ扱っている。
 激しさを増す本土空襲に苦しむ日本側に、繆斌から提示された和平案はかなりの好条件で、これは日本の敗北後、満州が共産党に渡るのを恐れた国民党側の譲歩策だったという見方が一般的である。当時の小磯内閣内の不統一のため和平は実現しなかったが、もしこれが成立していれば、広島・長崎の原爆投下は無かっただろう。陳氏はこれに〈不発に終わったクーデター〉という解釈を施した上で、歴史的文書を巡る謀略物に仕立てている。戦争当時のさまざまな悲喜劇を付け加え、巧みに味付けしているにもかかわらず、やや構図が透けて見えがちなのが難。
 それに比べると「にがい蜜」はなかなか上手く狙いを隠している。「倉庫業界の天皇」といわれる大物を父に持ち、ディレッタント風の学者としてデータ収集に勤しむ斎藤誠一。かれは香港で思わぬ出物を掘り出した後、アウトサイダー研究のため秘かに秘密結社・三合会の入会式に立ち会うが・・・
 どこかユーモラスな滋味を湛えたコン・ゲームもの。人物の洞察に重きを置いて、あまりギチギチに行動を縛ろうとしないのが中華風と言えるだろうか。
 六年まえの昭和二十三年、徐州『清官荘』での掠奪に端を発した連続殺人を描くのは中篇「壁に哭く」。並行して複数の操りを見せているが、これなら短篇で済む気がする。長さの割に着膨れ感が強く、集中では最も落ちる。
 以上全三篇。悪くはないが各賞受賞の最盛期にしてはそこまで光るものはなく、どちらかと言えば無難に纏めた作品集である。

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