小原庄助さんの登録情報 | |
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平均点:6.64点 | 書評数:267件 |
No.227 | 7点 | 営繕かるかや怪異譚 小野不由美 |
(2021/12/28 07:33登録) この連作短編集の主役は「家」である。全六編、いずれの物語でも、それぞれの住まいの中で、或いはそのすぐそばで、ふと妙な出来事が起こり始める。そこを住まいとする者たちは、最初は気にしないようにするのだが、出来事は次第にエスカレートしてゆき、ある時を境に、紛れもない怪異としての姿を露にする。祟りではなく障り。何かが、誰かが障っているのだ。そこに営繕屋が登場する。尾端というまだ若い男で、名刺には「営繕かるかや」とある。つまり彼は家を修繕・改築するのが仕事だ。だが尾端には不思議な評判がある。彼は住まいに手を入れることで、障りを直すことが出来る。かといって彼は霊媒師ではない。障っている誰かの想いを推し量り、そこに宿る無念や悲哀を慮って、営繕によって解放してあげるのだ。 冒頭の「奥底より」では、亡くなった叔母から相続した町屋に独り住まいの女性が、奥庭に面した狭い廊下の向こう、開かずの間と化した奥座敷の襖が、閉めた筈なのに開いていることに気付く。何度閉めてもいつの間にか開いている。そして或る日、そこから女が出てくる。怪異がぬうと顔を出す瞬間の切れ味は、この作家ならではである。だが、かるかやの処置は、あくまでも家に、住まいに対するものであり、従ってこの種のお話にありがちな理屈抜きの神秘性とは一線を画している。尾端は文字通り、住まいを直すだけなのだ。それぞれの主役である家の構造や設計は、緻密かつ明晰に書かれている。かるかやが施す営繕も極めて具体的だ。この趣向が本書に凡百の怪談、心霊、ホラー小説とは全く異なる新しさを与えている。いわばこれは一種の建築小説である。しかしそこでは同時に、人の心も建築として、住まいとして扱われている。 |
No.226 | 5点 | ヒストリア 池上永一 |
(2021/12/18 08:21登録) 物語は、ヒロインの知花煉が、一九四五年三月の米軍の沖縄上陸作戦に逃げ惑う場面から始まる。空襲の爆撃の衝撃で彼女はマブイ(魂)を喪失した。普通なら肉体を失って霊会に行くはずが、どういうわけか肉体は存続した。マブイは爆風で地球の反対のボリビアまで飛ばされた。こうして知花煉は二人になり「私」と「わたし」の物語が並行していく。 肉体とマブイの分離した戦いで、「私」と「わたし」がぶつかり乗っ取りをはかる。同時にその戦いは、当時の米国とソ連の冷戦構造を背景とし、核ミサイルの強奪、キューバ危機の到来、ナチスの亡霊たちの暗躍、ゲバラとの愛などスケールの大きな物語へと発展していく。 冷戦時代の裏面史という側面もあるが、いささか偶然を多用したご都合主義も目立つ。ありえないくらいに歴史上の人物たちが簡単に登場し交錯するからだが、でもそもそも肉体と魂の相克という物語自体がリアリズムから遠く、それでいて想像力の飛翔は極めて伸びやかであるがゆえ、世界史を戯画的に捉えた手法として愉快な気分にも駆られる。 だが、作者が見据えているのは終わりなき戦争であり、アメリカ軍に蹂躙されている沖縄の現状だ。肉体と魂に分離した一人の女性の激動の時代に生きた波乱万丈の歴史がもう一度、終盤で沖縄に焦点があわさる。人間にとって魂の還る場所とは何かが鋭く問われるのである。最後はやや政治的主張が強いきらいもあるが、読み応えたっぷりだ。 |
No.225 | 7点 | 灰の劇場 恩田陸 |
(2021/10/27 18:52登録) 映画の予告編で頻繁に目にする「事実に基づく物語」というキャッチフレーズ。この作品は「事実に基づく」とはどういうことかを問う小説だ。1994年に45歳と44歳の女性が橋から川に飛び降りて自殺した事件を題材にしている。2人は大学の同級生で一緒に暮らしていた。何があったのか。 作者本人を彷彿とさせる小説家の「私」は、デビューしたてのころ、新聞の三面記事でこの事件を知り、いつか書かなければいけないと思っている。しかし既存の「事実に基づく物語」にありがちなように、2人の生い立ちを詳しく調べたりはしない。「誰かが死を選んだ理由など、時を隔てた縁もゆかりもない人間に理解できるはずがないではないか」という結論を早々に出す。 小説は事件そのものではなく、「私」の中におよそ20年もこの2人のことが「棘」として刺さり続けているという「事実」に基づいて書かれているのだ。「私」は「なぜその棘が刺さったのか、どこで刺さったのか」を考えていく。死者のプライバシーに極力立ち入らず、自分の心の謎を探るという斬新なモデル小説になっている。 構成もユニークだ。「私」が小説の制作過程を実況中継する「0」、MとTという仮名の女性を主人公にした作中作「1」、「1」の舞台化をめぐる人間模様を描く「(1)」の三つのパートに分かれている。灰色がかった海を見下ろす能楽堂、「灰の劇場」を想起させる場所で、「私」がMとTの声を聴く場面は恐ろしい。書く「私」と書かれる2人、虚実の境界が溶けあい、他人の人生について想像することの暴力性を突き付けられるからだ。 それでも「私」は書く。MとTが死んだ理由を創造する。終盤に描かれるのは「日常」という「未知の絶望」との遭遇だ。その静かで明るい絶望は、老いを意識し始めた世代にはとりわけ切実に感じられるだろう。 |
No.224 | 5点 | ミステリ・ベスト201 事典・ガイド |
(2021/08/07 09:16登録) 内容はタイトルに示されているように、201作の海外ミステリを紹介するというものだが、あちこちで紹介され尽くしたような古典的名作を並べるのではなく、八十年代以降に翻訳された作品だけを扱っているのが特徴となっている。年代を制限したために比較的マイナーな作品を掲載することが出来たという点、あるいは各執筆者の趣味がそのままに反映されているという点に関しては、この方法は成功していると言えそうである。評価基準として総合評価のほかに、「面白さ」「味わい」「格調」「人物」「その他」について五段階評価をしているのも面白い。 ただし気になる点がないわけではない。現代のミステリは驚くほど多様であるためにジャンル分けしないという発想は理解できるのだが、厳密な意味でのジャンル分けが困難であることは認めるにしても、便宜的な意味でのレッテルがなくしてしまえるほどに無意味なものだとは思えない。これはある意味では読者の拠りどころを奪い取るような行為であり、紹介本という形をとっているわりには、比較的読者に苦労を強いるような作りになっているともいえるのである。 執筆者の作品に対するこだわりや愛着の深さはコメントに凝集されており、その理解と深さは行間からひしひしと感じ取れるのだが、そのために紹介本としては言葉足らずになっている部分も目につく。 |
No.223 | 6点 | 別の人 カン・ファギル |
(2021/07/17 10:23登録) いわゆるデートDV、親密な関係の相手からの暴力行為を発端に、ひとりの女性が過去と向き合う物語。 有能な上司で、みんなの憧れの存在であるイ・ジンソプと交際したジナは、当初殴られても彼の怒りを誘発したのは自分だという認知の歪みに陥る。しかし暴力はやまず警察へ。罰金のあまりの安さに、告発を決意する。 だが真の地獄はここからだった。インターネット上に現れたのはジナへの誹謗中傷と、野次馬の好奇の目。プライバシーと過去が暴露されていく。 本書は、二次被害のむごさと同時に、ジナの多面性もとらえる。彼女はある書き込みにより、自らの故郷、そして大学での記憶に再度直面することになるのだ。 死んだ同級生、堕胎した友達、片想いの先輩をものにした恋のライバル、短期間だけの恋人。ジナ自身、決して清廉潔白ではない。 複雑な人間関係は、加害と被害をときに反転させる。力の不均衡に屈した経験が、人生にどんな影響を及ぼすのか、本書は描き出す。シリアスな出来事の連続で、思わずページを閉じたくなるほどだが、これは誰の身にも起こりうることの警告の書でもあるのだ。読後感は温かく、救いがある。 |
No.222 | 8点 | 独逸怪奇小説集成 アンソロジー(国内編集者) |
(2021/03/18 10:00登録) 今でこそ翻訳物のホラーというと、キングやクーンツら人気作家を擁する米国が本場のように思われているが、戦前の日本では、米国のポオと独逸(ドイツ)のホフマンが怪奇幻想物の双璧と目されていた。 また、本書に収められているシュトローブルの「刺客」は、森鴎外の名著「諸国物語」に訳載され大正期から親しまれてきた名作だし、やはり本書所収の「蜘蛛」をはじめとするエーヴェルスの諸作は、モダニズムと探偵趣味の雑誌「新青年」に訳載され好評を博した。独逸表現主義映画に傾倒していた谷崎潤一郎は、エーヴェル原作の「プラーグの大学生」を最愛の一本に挙げ、江戸川乱歩は「蜘蛛」を改作して「目羅博士の不思議な犯罪」を執筆している。 独逸怪奇文学紹介の先覚者、前川道介が渉猟の折節、慈しむように翻訳した有名無名作家の珠玉作二十八編を収める本書は、日本探偵小説の一源流であり、夢幻の美と魂の戦慄に満ちた、ゲルマンの怪奇世界再発見に最適の一巻である。 |
No.221 | 6点 | 透明性 マルク・デュガン |
(2021/02/25 08:40登録) 時は2060年代。地球温暖化により多くの人間はバーチャル空間で暮らし、北欧に移住した。グーグルなどの巨大デジタル企業が人類の全ての情報を可視化し、健康状態、遺伝子、思想傾向、性的嗜好までを掌握する。アルゴリズム分析によりマッチング率の高い相手との結婚が提案され、離婚率は低下。データは抜き取られるかわりにベーシックインカムで収入が担保され、貧困問題もほぼ解決だ。 一見平穏ながらこれは「操られているという意識なく操られる」専制デモクラシー下での、自由と個性を奪われた生活である。女性主人公は自家用車の自動運転装置を外してハンドルを握りスリルを味わうが、この行為も違法。事故にあう自由すら許されない。 物語は、グーグルを出し抜き、主人公の小企業が不老不死のシステムを構築して全世界の度肝を抜く。魂のありようで死後の復活が可能となるそれは、彼女を神と仰ぐ、新しい宗教となるのか? 「かつて誰も私ほど他人の生死を左右する権利を持った者はいない」高度な情報社会を皮肉り、人類の強欲を戒め、利他を問い直す本書のテーマは今日的だ。地球による人類への報復という展開も、真実味がある。次世紀に何を残せるのか、本書を通して考えてみるのも面白い。 |
No.220 | 7点 | イヴリン嬢は七回殺される スチュアート・タートン |
(2021/02/03 10:11登録) 人は、自分の想像力や性格の限界を無意識に決め付けて日々同じ決断を下し、同じ過ちを繰り返す。だとしたら、全く同じ一日を最初から何度も繰り返すことが出来たら、限界を超えて正解に辿り着けるのか。こんな夢想をテーマに、本格推理にSFの要素を入れ込んでいる。 舞台はイングランドの森の中に建つ「ブラックヒース館」。所有者の娘イヴリン嬢の帰還を祝って仮面舞踏会が開かれる。そんな朝、「アナ!」という叫び声をあげた自分に驚いて「私」が覚醒する。だがアナが何者なのか分からない。翌朝目覚めると、同じ日の朝で、「私」は執事コリンズに、その翌日は遊び人ドナルドになっていた。 必死に状況を把握しようともがく「私」の前に、中世の「黒死病医師」の仮装男が姿を現し、その日の夜に実行される。イヴリン嬢殺害の真犯人を特定した者一人だけが、このタイムループと人格転移の世界から解放されるという情報をもたらす。 不穏な空気漂う館を泳ぎ回り、同じ一日を8回、別人として繰り返しながら、「私」は必死で謎を追う。初めは、理不尽な状況に混乱するばかりだった「私」が何度も巻き込まれるうち、反撃に転じていくのだ。 繰り返すということは、前の失敗を回避するための対策が出来るということ。メモや方位磁石などを効果的に配置しておき次回の転移に備える周到さを見せ始める。面白いことに、終盤乗り移った宿主の想像力や性格が「私」のそれと混じり合い、自分の限界以上の多視点の獲得した新たな「私」が誕生する。張り巡らされた罠の裏をかき、仲間との連帯で危機を乗り越えていく。英国伝統の本格推理とSFの合体劇にワクワクし、予想外のオチに驚愕する。 |
No.219 | 7点 | 天離り果つる国 宮本昌孝 |
(2021/01/20 09:26登録) 地震による山崩れで、一夜にして消滅したという、飛騨白川郷の帰雲城を舞台にした、壮大なロマンである。 帰雲城主の内ケ嶋氏理が治める白川郷は、金山銀山を持ち、鉄炮に必要な塩硝を製造している。そんな白川郷に、竹中半兵衛を師とし、織田信長に仕える津田七龍太がやってきた。 領民が平和に暮らす国と、氏理の娘で最強の姫武者である紗雪をはじめとする、多くの人々に魅了された七龍太。信長の意に反してまでも、白川郷を守ろうとする。織田から豊臣へと流れゆく時代の中で七龍太は、頼もしい仲間たちと共に戦い続ける。しかし彼には、大きな出生の秘密があった。 史実を踏まえながら、どれだけ虚構の翼をを羽ばたかせることが出来るのか。その好例が本書と言ってもいい。恋・謎・戦いなど、エンターテインメントの要素を幾つもぶち込んだ物語は、とにかく痛快。しかも佐々成政が冬の立山連峰を踏破した"さらさら越え"や、帰雲城の消滅といった史実や伝説が、巧みにストーリーに織り込まれている。その中から浮かび上がる、理想の国の姿は、あまりにも美しい。 |
No.218 | 7点 | 江戸染まぬ 青山文平 |
(2021/01/20 09:26登録) 収録されているのは7作。家族に対するさまざまな思いを抱く武家の妻の心中を描いた「つぎつぎ小袖」から、兄が一目ぼれした相手を横取りしようとした放蕩児の次男が、意外な出来事により、生き方を変える「台」まで、どの作品も味わい深い。 しかも短い枚数にもかかわらず、ストーリーは曲折に満ちていて、容易に先を読ませない。ひょんなことから江戸に行った男が、町に新たな文化をもたらす「町になかったもの」や、ふらふらと生きて用心棒になった男の前に、いきなりある史実が現れる「日和山」など、語り口の妙が楽しめるのだ。江戸の空の下に息づく七人の人生が、小説の名手により、鮮やかに切り取られているのである。 |
No.217 | 7点 | 誓願 マーガレット・アトウッド |
(2020/12/24 09:54登録) ディストピア小説の名著「侍女の物語」の同作家による約35年越しの続編だ。前作がキリスト教原理主義の台頭によって女性の生殖・出産が国家に管理されるという悪夢的な話だったのに対し、本作はその世界からのサバイバーたちの静かな連帯の物語となる。 重厚ながら、3人の語り手を擁する断章形式は読みやすい。監視国家ギレアデにおいて女性たちは、教育係の「小母」、司令官の配偶「妻」、家事手伝いで母親代わりも担う「マーサ」、出産のための機械である「侍女」の4階級に分類されるが、本作では司令官の娘アグネス、小母たちを組織する最高指導者のリディア小母、ギレアデ外の娘デイジーがそれぞれに語るのだ。 特にリディア小母は、ギレアデの成立過程や統制方法の裏話を明かす。忠義心の持ち主にみえた彼女も、保身と恐怖から国家の理想像を内面化してきた小心者の一面があり、今は手稿を遺すことでいわば内部告発に踏み込んでいく。「この手記を読んでいるあなたはだれだろう?そして、いつのことだろう?」ギレアデ滅亡後の未来に歴史的検証を託すのだ。 一方で、デイジーもアグネスも、大胆な行動によって自らの未来を切り拓く。このあたりはサスペンス要素もたっぷりで手に汗握る。女性の自由意志や性が徹底的に禁忌とされる本作の世界観は実にフィクション的ではあるが、現実社会でも女性の「声」は奪われがちで、それは現在進行形だ。 知性と行動、声を発する勇気が身を助け、世界に変化をもたらすという力強く温かなメッセージを受け取ることだろう。 |
No.216 | 7点 | 海神の島 池上永一 |
(2020/12/08 09:03登録) 軍用地主の「オヴァ(祖母)」花城漣が残した遺産をめぐって、その孫で夜の銀座の覇権を狙うホステス・汀、フリーランスの海中考古学者・泉、スキャンダルまみれの地下アイドル・澪の美しき3姉妹が繰り広げるデッドヒートは、各国政府まで巻き込んで、破天荒だが現実的だ。 相続の条件は失われた「海神の秘宝」を見つけること。謎の解明に、海中遺産、古代史、先史学、戦争遺跡など考古学の最新情報を取り入れつつ、前人未到の深海へ探索していくシーンは圧巻。実際、奄美・沖縄をめぐる考古学の研究からは近年、人類史を塗り替えるような貴重な発見が相次いでいる。沖縄において米軍基地と先史学は極めてリアルに結びつくということにもなる。 池上ワールドにおいて最も価値があるのは「個人の欲望」である。肯定される基準は、求める力の純度、つまり美しさなのである。欲望に忠実な者ほど、その純粋さ故に翻弄もされるが、その姿は困難な時ほど圧倒的に魅力的で生き生きとしている。 逆に正義だの国家の主権だのといった、建前で行動する者に対しては厳しい。現実の沖縄の平和運動に対して辛辣な批判が投げかけられ、思わずたじろいでしまった。しかし、その先に突き抜けた沖縄の平和を求める強い意志が込められていたりするから、油断ならないのだ。島の本源的な存在によってさらけ出してみせた冒険小説の快作だ。 |
No.215 | 5点 | キルン・ピープル デイヴィッド・ブリン |
(2020/11/13 08:43登録) ブリンと言えば、宇宙を舞台にした壮大なスケールの大作で知られるが、この作品は一転して、私立探偵もののユーモラスな軽ハードボイルドだ。ただしもちろん、ただの私立探偵小説ではない。 自分の魂(定常波)を陶土にコピーすることで、ゴーレムと呼ばれる複製を何体でも好きなだけ作る技術が一般化した未来。 もしそんな技術が開発られたら世の中はどう変わるか?そのもっともらしい細部を喜々して描くかたわら、探偵が陰謀に巻き込まれて窮地に陥るお馴染みのお話が進行する。もっとも、主人公が途中で死ぬのは当たり前。複数の「おれ」が入り乱れていくつものプロットが同時進行し、めまいのような独特の効果が生まれる。ユーモアたっぷりの奇天烈エンターテインメント小説だ。 |
No.214 | 8点 | 夏草の記憶 トマス・H・クック |
(2020/10/27 09:09登録) アメリカ南部の田舎町に住む医師のベンは、30余年前に起きた事件を思い出す。同級生だった少女のケリーはなぜ、無残に人生を断ち切られてしまったのか。また、町の郊外にある「ブレイクハート・ヒル」というロマンチックな丘は、なぜそんな名前が付けられたのか。 現在と過去を往復しながら、非常にゆっくりと謎が解き明かされていくストーリーである。内気な少年の目に映る少女のまぶしさ。そして幻滅。 初恋とその喪失を描いた小説だが、それだけにはとどまらない。端的に書くと、過去に存在した差別を社会が隠蔽したために、思いがけないかたちで、悲劇が甦ってしまったという物語なのである。 差別を行ってきた歴史をしばしば忘れようとする現在の日本で、この小説はとても切実に心に響くのではないか。 差別は悪であることを知りながら、どうしようもない憎しみを抱えたとき、差別を利用してしまう人間の心理。それを非常にリアルに描いているところも恐ろしい。 自分の一言が、どんなに他者を傷つけたかを、ずっと知らないでいる鈍感さ。自分は差別をしない、と思い込んでいる人間が最も危ういことを、この小説は深く見つめている。 ミステリ小説の醍醐味は、結末のどんでん返しにあるが、この作品では、全く意外なところに作者のトリックが仕掛けられている。 これに気づく人は少ないだろう。そして、その企みが分かったとき、過去の傷だと思っていたことが、現在も生々しく血を流していることに衝撃を受けるのだ。 |
No.213 | 6点 | 現代語訳 怪談「諸国百物語」 アンソロジー(国内編集者) |
(2020/10/08 08:51登録) 江戸時代、「百物語」と呼ばれる怪談会が流行した。夜に灯心を100本ともし、恐怖譚が語られるごとに、1本ずつ消していく。全てが消された時に怪奇現象が起こるとされ、「御伽百物語」や「太平百物語」など相次いで刊行された。 参加者が集まる部屋と隣の部屋は無灯、一番奥まった部屋に灯心を備え、1話終えたら手探りで灯心が置かれた部屋へ...。中世の御伽衆に由来するとも武家の肝試しに始まったとも伝えるが、訳者によると本書はその嚆矢とされる「諸国百物語」の「おそらく初めて全話を通しての現代語訳」だという。 北は奥州仙台から南は九州筑前・豊後まで全国各地の怪奇話を収める。幽霊や蛇、執心にまつわる話が多いが、恐ろしい内容ばかりではなく、おかしみのある逸話や霊を供養して幸福な結末を迎えるものもあり、物語はバリエーションに富む。 抑圧され黙殺されてきた存在や悲痛な心情を異形のものとして捉え直し、そして語る。緩やかに社会へと還流させようとする試みも透けて見える。 |
No.212 | 6点 | アンドロメダ病原体ー変異ー ダニエル・H・ウィルソン |
(2020/09/25 08:49登録) マイクル・クライトンの「アンドロメダ病原体」の続編としてクライトンの遺族公認で書かれた作品。 正体不明の病原体「アンドロメダ因子」が米国の街を全滅させた前作から50年後。病原体の再発見を警戒する米国は世界規模での監視システムを構築していたが、観測ドローンが赤道直下のアマゾン奥地で不思議な巨大な構造物を発見する。その地域ではアンドロメダ因子の変異種による感染症も発生していた。 劣悪な環境下、致死率の高い感染症と戦うのは極めて困難だが、さらに巨大構造物「特異体」の予測不能の動きが恐怖を増幅させる。感染症発現には人為的介入が疑われ、さらなる変異の危険性も。事件は宇宙にまでつながる壮大なスペクタクルへと発展していく。 感染症との戦いは単に医療だけの問題ではなく、先端技術の新たな応用開発や政治的闘争、さらには人間の無知や欲望との戦いでもある。なお本作は単独でも楽しめるが、前作を先に読むといろいろな工夫や登場人物の背景などが見えやすくなる。 |
No.211 | 6点 | 預言 ダニエル・キイス |
(2020/09/03 09:36登録) 「アルジャーノンに花束を」から半世紀を経て、80歳を超えた後の長編小説の本作は、従来の人間心理探究をモチーフに据えてはいるものの、その全体は9.11同時多発テロ以後に渦巻く国際テロ組織の謀略を中心にした、エロスとヴァイオレンス満載のスパイ小説のスタイルで貫かれているのだから、驚くしかない。 主人公は、天才的な女優的資質に恵まれながらも境界性人格障害や妄想性統合失調症などに苦しみ、精神科病院で治療を受ける金髪の美女レイヴン。彼女がふとしたことで記憶してしまった預言詩の中には、マルクス・レーニン主義を標榜するギリシャ人中心の17Nとイラン人中心のMEKという二大組織が手を組んで米国に仕掛けるテロ計画が暗号として刷り込まれており、そのため彼女はテロ集団に誘拐されるばかりか、FBIやCIAからも追い回される。 だがレイヴンは、実は死んでしまった双子の妹ニッキを今も心に同居させている多重人格者でもあり、転んでもただでは起きない。時には007のボンドガールもかくやと思われる過激な攻勢に出る。かくして同時多発テロを超える陰謀は、いとも意外な結末を迎えるのだ。 ちなみに、レイヴンの名はエドガー・アラン・ポーの名詩「大鴉(ザ・レイヴン)」による。それが、今は亡き美しい恋人への挽歌だったことを思い出せば、クライマックスの衝撃は一層心を打つだろう。 |
No.210 | 6点 | ピュア 小野美由紀 |
(2020/08/21 08:47登録) 五つの短編が収められているが、いずれも他人から求められる役割と「自分自身」の葛藤を描いている。なかでも表題作は衝撃的だ。 環境汚染により荒廃した未来では、強靭で攻撃的な身体に変化した女たちは人工衛星に住み、男たちは地球に残った。そして女たちは時折、自身の義務ににして名誉である妊娠のために地表を訪れ狩りをする。 男と交尾した後、女は相手を捕食するのだ。男女の地位を過激に反転させた設定だが、そこには現実の性差の息苦しさ、異性への不信や不満が投影され、思いのほか腑に落ちる。 男女どちらにとっても「らしさ」を求める社会的強制力は重い。自分自身も知らず知らずに偏見にとらわれており、内面化された価値観から抜け出すことは難しい。その悲哀は「ピュア」の世界を男性側から描いた「エイジ」を読むことで、深く理解されるだろう。 |
No.209 | 6点 | 双生児 クリストファー・プリースト |
(2020/07/31 10:04登録) 一種の改変歴史もので、この手の小説は、歴史のifを描くのが常道だが、そこはワザ師プリーストだけに、よくある改変歴史ものとは似ても似つかない。 主役の一卵性双生児は、オックスフォード大学のボート選手。英国代表としてベルリン五輪に出場し、ヒトラーを生で目撃。さらにはルドルフ・ヘスとの対話あり、美少女を連れての脱出行あり、三角関係あり。恋と冒険の瑞々しい青春小説パートを経て、双子は戦争の渦にのまれていく。 第二次大戦初期を背景に(大事件ではなく)ありふれた人間的な営みによって歴史の流れが変わってゆく過程を描きたかったそうだが、いたるところにトラップが仕掛けられ、一瞬も油断できない。小説の中で迷子にならないように気を付けて、じっくり読んでほしい一冊。 |
No.208 | 7点 | 盗まれた街 ジャック・フィニイ |
(2020/07/20 10:41登録) ある田舎町で、自分の親や知人を「本人ではない」と言い出す住民が増え始める。主人公の医者とその愛人は、人間に成長しかけている豆のようなものを発見し、これが人間にとって代わっているのだと判断する。 恐ろしいのは、住んでいる田舎町の良く見知った人たちの、誰が脳侵略されているのかわからないことだ。窓から覗いた親戚の食卓での会話は、主人公たちの交わした会話をグロテスクに模倣したお芝居であり、彼らは演じながら笑っている。 ラスト、町から逃げ出そうとして、隣町へ向かう主人公たち二人のあとから、見慣れた町の知人たちが大勢で追跡してくるところは圧巻だ。この作品、いささか冗長ではあるが、田舎町の描写のリアルさなどで今でも古びてはいず、後にノスタルジイSFを多く書くことになるフィニイの才能が発揮されている。今では脳侵略ものの古典と言われ、これ以後、脳侵略というのはSFの一ジャンルとなっている。 |