おっさんさんの登録情報 | |
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平均点:6.35点 | 書評数:221件 |
No.121 | 7点 | のろわれた潜水服 フォルチュネ・デュ・ボアゴベ |
(2013/06/18 18:01登録) すみません <(_ _)> 最初にあやまってしまいますが、今回は反則です。 先日、フランスの大衆作家フォルチュネ・デュ・ボアゴベの原作にもとづいた、黒岩涙香の翻案『死美人』をレヴューした直後、思いがけずネットオークションで発見、落札したのが本書『のろわれた潜水服』(作者名表記はフォルチュネ・デュ・ボアゴベ「イ」。ただし本サイトには、慣例のボアゴベで登録)なんですが・・・ じつはこれ、<中一文庫>といいまして、つまり小学館の学習雑誌『中学生の友一年』(昭和37年8月号)の付録なんです。四百字詰原稿用紙で、概算百四十枚 ^^; ユニークな小道具を使ったトリックで知られる、原作『潜水夫』 Le Plongeur(1887)は、やはり涙香が、『海底之重罪』(1889)として翻案しています。 ミステリ入門期に、渡辺剣次の好ガイド『ミステリイ・カクテル――推理小説トリックのすべて――』(1975)で、「アリバイくずし小説としては、おそらく世界で最初に書かれた作品」として紹介されているのを見て以来、機会があったら目を通しておきたいと思っていたのですが(まあ1866年作の、ガボリオ『ルルージュ事件』を読んで、ボアゴベのこの作を、世界初のアリバイくずし小説とするのは誤まりだとわかったわけではありますが・・・)いかんせん『海底之重罪』の古書価は高い。とっても高い (>_<) それがまさか、こんな「翻訳」で読めるようになるとは! 訳者は、怪奇幻想系の短編の書き手であり、ジュニア・ミステリも手がけた氷川瓏。また江戸川乱歩の側近としても知られ、乱歩名義で涙香の『死美人』をリライトしたのは、公然の秘密。前記、渡辺剣次氏の実兄というのも、筆者には感慨深いものがあります。 いつ読むの? 今でしょ! 1846年、夏。フランスの、地中海に面した湾で、ボートで密入国しようとした男が逮捕されるが、男はかたくなに沈黙を守り、一年の禁固刑に服する。 パリの貴族クラブ会員、セルボン子爵はこの男に興味を持ち、彼が釈放時に、当座必要な金を受け取れるよう、手配してやる。こうしておけば、礼を言いに来た男の口から、珍しい身の上話を聞けると考えたのだが・・・預けた金を受け取った男は、そのままどこへともなく姿を消してしまう。 その一年後。冒険好きが高じたセルボン子爵は、ふとしたことからモンマルトルの空家に忍び込み、結果、そこで起きた殺人事件の容疑者として拘引される羽目になる。 すると、子爵の無実を訴え、自分が犯人であると名乗り出てきた男があった。裁判にいたるも、いっさいの釈明をせず、ただ刑に服そうとする彼にかわって、いま、すべてを知る神父が、証人台で語りだす。 「(・・・)被告はすでに死刑を受けるかくごでおります。(・・・)わたしも弁護はいたしません。ただ、なぜバンコルボを殺さなければならなかったか。ここまでにいたった事実だけをお話したいと思います」 この「第一章 深夜の決闘」のあと、「第二章 海底の金塊」「第三章 海の悪魔」は、ガボリオ流のフラッシュバックによる過去パートになります。 前述の「ユニークな小道具」を使った偽「アリバイ」の挿話があるのも、ここです。島田荘司ばりの伏線(犯行当夜、羊飼いが目撃した「ふしぎな化け物」)も張られているのですが、直後に(十中八九、気を利かせた訳者が)丁寧な補足説明をしているので、トリックはすぐにわかってしまう。最終的な解明も、偶然、証拠が発見されたことによるもので、推理ないし探偵活動によるアリバイくずしが導くものではありません(先輩のガボリオと違って、ボアゴベには、おそらく謎解きのプロセスを書く才は無い)。 しかし、海底の大金塊をめぐる雄大な復讐譚――舞台も地中海から大西洋へ、さらにはアフリカ海岸、イタリアのベスビアス火山へと移り変わる――として、その波乱に富んだ展開は興味津津です。敵役も、堂々たる悪漢ぶりで、筆者は荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』Part1「ファントムブラッド」、あれに出てくるディオ・ブランドーあたりを想起しました。 「第四章 正義の剣」で、ストーリーが現在の法廷場面に戻る、サンドイッチ型(現在――過去――現在)の構成も成功していると思います。 あらかじめ、“現代”における情報や謎を提示することで、ドラマとしての“引き”をつくっておく。 冒頭の密入国者のエピソードがそうですし、あるいは深夜、モンマルトルの空家の窓越しに見える、ひざまずき祈り続ける男の姿――その前には「よろいかぶと」に似た不思議な物が(ネタバラシ:「潜水服」だよっ)、というシーンがそう。 そのへんの手際は、もしかしたらガボリオや、のちのコナン・ドイル以上かもしれません。 これは是非じっくり、完訳を読んでみたいものです。 抄訳ものを、完訳で埋めていく路線にも意欲的と聞く、論創海外ミステリあたりでどうか? この極端なダイジェスト版で採点するのは、いかがなものか――という気もしますが・・・長尺のストーリーを効果的に中編サイズにまとめてみせた、氷川瓏のダイジェスト技術にも敬意を表して、それ込みの7点とさせていただきます。 (追記」本サイトの掲示板で、フランス・ミステリの探究に意欲的な、空様より、『のろわれた潜水服』の原作は "Une affaire mystérieuse"(1878) であって、従来言われてきた "Le plongeur(1889)" ではないという、貴重なご指摘をいただきました。新発見の経緯については、掲示板の #31833 をご覧下さい。(2021.12.12) |
No.120 | 6点 | 死美人 黒岩涙香 |
(2013/06/11 11:07登録) 『ミステリマガジン』今年の7月号は、自社本の映画化に合わせた<『二流小説家』特集>。 なんですが、外国作品の舞台を日本に移し替えて映画化、これは“翻案”であるという視座から、なぜかフランス作家カミのコントの翻訳ヴァージョン&翻案ヴァージョン(訳者の高野優氏、頑張る)や、翻案といえばこの人、元祖・黒岩涙香の短編(エミール・ガボリオの原作にもとづく「紳士の行ゑ」)まで併録されているカオスぶり。その発想はなかったw 涙香といえば・・・ 筆者にとっては、学生時代、創元推理文庫の『日本探偵小説全集1』で接した、創作短編「無残」の読みづらさ――句点の無い文語体の文章、改行の無い会話がページにぎっしり――がトラウマになってしまい、長く、敬して遠ざける存在でした。 旺文社文庫で買えた涙香作品(『幽霊塔』『死美人』『鉄仮面』)は、とりあえず押さえてはおいたんですけどね。 そんな“積ん読”の涙香本のなかから、後年、ともかく目を通してみたのが本作品。『本格ミステリーを語ろう!〔海外篇〕』(原書房 1999年刊)で、芦辺拓、小森健太朗の両氏が、フォルチュネ・デュ・ボアゴベの『ルコック氏の晩年』La vieillesse de Monsieur Lecoq(1878 未訳)≒『死美人』(1891-92 『都新聞』連載)を高く評価しているのを知ったのが、きっかけになりました。 そのときの感想は―― なんだ涙香、長編のほうが読みやすいじゃんw そもそも文章の密度がぜんぜん違う、ただ面白いことは面白いけど、“本格”の文脈でどうこう言う話じゃないし、その出来も、あくまで歴史的価値をかんがみ、という留保つきの評価だよなあ――というものでした。 読み返しで、その印象は変わるや否や? 巴里(ぱり)の裏町、雪の降りしきる深夜。巡回中の警官が、大きな籠(つづら)を運んでいた不審者を捕えるも、その主人とおぼしい紳士はとり逃がす。 籠の中から見つかったのは、奇妙にも歌牌(かるた)の札ごしに胸を一突きされた、美女の死体。 拘引した曲者が聾唖者だったため、取り調べは難航するが、巴里警視庁の往年の大探偵、零骨(れいこつ)先生の助力で、犯行現場が突きとめられる。しかしその家――死美人の住家には、別に、頭を一撃された男の死体があったのだ。 そして、二重殺人の容疑者として捜査線上に浮かんできたのは・・・意外にも・・・! 暗躍する怪漢、さらわれる証人、仕組まれた罠――最愛の息子を救うため、警察本署と裁判所を向こうにまわし、いま、零骨先生の、晩年にして最大の闘いが幕を開けんとす。 うん、やはり波乱万丈です。涙香の筆も走りに走って、いま読んでもまったく退屈しない。 でも・・・いろいろ釈然としないw 魅力的な導入部からして――真相を知って振り返ると、なぜ犯人がそれほどの危険を犯してまで、死体を現場から運び去ろうとしたのか、その意図がよくわからない。犯行の動機からすれば、被害者の身元を隠す必要は、まったくない(むしろ、身元がわからないままでは、犯人にとって不都合な)わけですしね。 思わせぶりな、歌牌ごしの刺殺という謎の種明かしも、竜頭蛇尾。 原書との対応を調べた小森健太朗氏によると、本作は「(・・・)圧縮はされていても、相当程度に原作に忠実な訳文であって、決して原作を自由に換骨奪胎したものではない」(東京創元社『英文学の地下水脈』第四章の「註」を参照)とのことですから、原作者ボアゴベ自体に、さして論理性や必然性へのこだわりはないのでしょう。 本書からうかがうに、原作のミステリとしての(歴史的)価値は、以下の三点だと思います。 ①先輩作家ガボリオのシリーズ探偵ルコック(零骨先生www)を借りて、長編“パスティーシュ”を試みたこと。 ②無実の容疑者、その死刑執行まであと何日――という“タイムリミット・サスペンス”を探偵小説に導入したこと。 ③“意外な犯人”パターンの典型を確立したこと。 たいしたものですが、そのそれぞれに、突っ込みどころがあるw ①については――え~っと、ルコックって、こういうキャラクターだったっけ? 老探偵という設定もあって、受ける印象は、むしろ『ルルージュ事件』のタバレですね。しかしガボリオは、ルコックにしてもタバレにしても、具体的な“推理”で主役キャラを立てることが出来るのに、ここではそれは無いんです(冒頭の、“死美人”の住家を暴きだす捜査法は、いちおう『ルコック探偵』へのオマージュではありますが・・・) ②が一番、評価できるポイントでしょう(なので本作を、ひとまず「サスペンス」でジャンル登録した次第)。しかし、あえて言えば、その魅力的な設定に比して、死刑宣告を受けるキャラクターに、もうひとつ、読者をドキドキさせるだけの魅力が無い。最後に語られる、彼が口をつぐんでいた理由にいたっては・・・う~ん、莫迦じゃないの。それじゃ死刑になってもしょうがないよ、自業自得。 ③の“犯人トリック”は、でも途中で作者が底を割ってしまう。結末の意外性より、邪悪な犯人の姦計を基礎とする、中段のスリラー要素で勝負するほうを選択したわけで、それはそれでアリです。 しかし、前段、犯人の心理を(その人物が“犯人”であると悟らせないように)瞥見させる手法――これもガボリオの『ルルージュ事件』から学んだのでしょう――を試みたりしているだけに・・・ちょっともったいなくも思える。 ギリギリまで悪漢の正体を伏せたままで進行させたらどうなっていたろう――1907年に、いまなお古典として残るアノ長編を書いた、某有名ミュージカルの原作者wも、ボアゴベのオリジナルを読んで、そう感じた一人だったかもしれません。 |
No.119 | 6点 | ラッフルズ・ホームズの冒険 J・K・バングズ |
(2013/05/24 12:24登録) ここのところ毎月、論創海外ミステリの新刊を手に取る楽しみのひとつに、帯の「刊行予定」ラインナップがあって―― 今度は何が追加されてるんだろう? えっ、この作者を出すの! 待てよ、タイトル(仮題)がこうだとすると原作はアレか!? とひとり想像して悦に入っています。 驚きはしても、それなりに納得して、あまり考えこむことはないのですが、「ホームズ・パロディ集 ジョン・ケンドリックス・バングズ」という本書の(当初の)予告には、悩まされました。 え~っと、誰だっけ、この人? 恥ずかしながら、ホームズ・パロディの作者としてのバングズのことは、ハヤカワ・ミステリ文庫の、『シャーロック・ホームズのライヴァルたち③』やクイーン編『シャーロック・ホームズの災難』に既訳があるにもかかわらず、失念していました。 それでも、バングズ、ジョン・K・バングズ、どっかで目にしたことはあるような? そして思い出したのが――ああ、なんだ、「ハロウビー館のぬれごと」の作者だ (^O^) ハヤカワ・ミステリの傑作アンソロジー『幻想と怪奇2』(当時、早川の編集部に在籍していた、都筑道夫氏の編集)に収録された、幽霊退治のこのユーモア怪談は筆者好みの一篇で、いまでも思い出すと頬がゆるみます。 そうか、あのバングズ(アメリカのユーモア作家でしたね)の本なら、こりゃ読まずばなるまい、と思っていたところへ、「ラッフルズ・ホームズの冒険」という正式な訳題が発表され、ラッフルズ譚びいきでもある筆者としては、刊行を心待ちにすることになりました。 そんな本書。 「サー・アーサー・コナン・ドイルとE・W・ホーナング氏に――ごめん」という献詞でつかみはOKです(「ごめん」という訳語がきいてますね。訳者の平山雄一さん、GJです)。 前半は、1905年に Harper's Weekly に連載され、翌年に単行本化された「ラッフルズ・ホームズ」もの10篇、 ①ラッフルズ・ホームズ氏ご紹介 ②ドリントン・ルビーの印章事件 ③バーリンゲーム夫人のダイヤモンドの胸飾り事件 ④ペンダント盗難事件 ⑤真鍮の引きかえ札事件 ⑥雇われ強盗事件 ⑦ビリントン・ランド青年の贖罪 ⑧ひったくり犯にして厚顔無恥のジムの思い出 ⑨四〇七号室事件 ⑩将軍の黄金の胡椒入れ 後半は、1903年に New York Herald に連載され、1973年になって、ようやく本にまとめられた「シャイロック・ホームズ」もの10篇、 ⑪ホームズ氏、霊界から通信を発する(以下、全話のタイトル冒頭に付された「ホームズ氏、」は省略) ⑫ある重大な告白をする ⑬悪巧みに失敗しつつも一山当てる ⑭歴史をひっくり返す ⑮アリバイを粉みじんにする ⑯著者問題を解決する ⑰「難事件」にとりくむ ⑱ソロモンの弁護士として活動する ⑲伝説を粉砕する ⑳最後の事件 で構成されています。 「ラッフルズ・ホームズ」は、かのシャーロック・ホームズが、アマチュア強盗ラッフルズの娘と結婚し、生まれた主人公が、なぜかニューヨークでw 探偵活動に従事しながら、自身の盗みへの欲求(祖父の血)と正義の実現(父の血)のあいだで揺れ動きます。 ①は、主人公が作家のジェンキンスを自分のワトスン(ないしバニー)役にスカウトする、シリーズの導入部であり、②もまた、彼が両親のなれそめをジェンキンスに物語る、背景説明のエピソード(シャーロック・ホームズとラッフルズ、ご本人たちが登場するという意味では、きわめてまっとうなパスティーシュ)なので、上述のシリーズの特色が明確に打ち出されるのは、③からになります。 そして、④の幕切れで、相方のジェンキンスが思いきった行動に出ることで、コンビの関係性が決定され、お話は俄然面白くなってきます。 もっとも、トリッキーな盗みの手口とか謎解きの妙とか、そういった面でミステリ史に残るような傑作は、一篇もありません。 集中では、ラッフルズ・ホームズに明確な敵役を対峙させ、ユーモアとサスペンスをいい按配でブレンドした、⑥(アリバイ・トリックw のオマケつき)や⑨(コンゲームしてます)を筆者は買いますが、基本的には、ニコニコしながら読んで、あとには何も残らない、気軽なエンタテインメント。 この連作は、それ以上でも以下でもありません。でも、それをきちんと書けるのもプロ。 たまにはいいですよ、こういうのも。“本格”とか“ハードボイルド”ばかり読んでいたのでは、息がつまりますからw 「シャイロック・ホームズ」のほうは、死後、「黄泉の国」で古今東西の有名人と暮らす名探偵が、現世の作家「私」のもとへ(スチーム暖房機を使って!)送ってきた、かの地での冒険譚の数かず。 前記、『シャーロック・ホームズのライヴァルたち③』や『シャーロック・ホームズの災難』に採られている、⑯(「シェークスピア」作品の真の作者さがし)が、まずは代表作でしょうね。 ただ「ラッフルズ・ホームズ」にくらべると、全体に隔靴掻痒感があるのは、モチーフになっている人名や故事来歴への、こちらの親しみの薄さによるものか。訳者は丁寧に註を付けてくれていますが、それで「理解」はできても、笑えるかどうかとなると・・・微妙。 そんななか、個人的にツボだったのは、霊界でホームズのライヴァルになる、先輩探偵ルコックのあつかい。これがヒドイんだw ホームズの足を引っ張るためには手段を選ばず――最後は必ずギャフンと言わされるネタキャラになってます。 いや~、ガボリオが生きててこれを読んでたら、絶対に抗議されてたぞwww |
No.118 | 5点 | 透明な季節 梶龍雄 |
(2013/05/14 18:24登録) 「僕はこの作品はそれほどでもないと思うけど、だけどおめでとう」 ――盟友・梶龍雄が江戸川乱歩賞をとったとき、狩久が電話で梶に云ったという言葉(市橋慧氏インタビュー「父・狩久を語る」より) 太平洋戦争末期、主人公・高志の通う中学にやって来た、新任の配属将校(軍事教官)、通称ポケゴリ。絶大な権力を背景に、生徒はもちろん教師まで呪縛していた彼が、ある夕、神社の境内で、頭部に銃弾を受け死亡する。 凶器は、教練に使用される三八式歩兵銃。しかし犯人は、施錠された武器庫からいかにして銃を持ち出し、またもとに戻しておけたのか? その事件がきっかけで、高志はポケゴリの妻だった薫と知り合い、美しい彼女に惹かれていくのだが・・・ “清張以前”に、短編作家として推理文壇に登場しながら、その後はもっぱら、児童読物の執筆や海外ミステリの翻訳でしかその腕を振るえなかった著者が、再デビューの足がかりにしたのが、江戸川乱歩賞。これはその、第23回(1977年度)受賞作(藤本泉『時をきざむ潮』と同時受賞)です。 70年代後半から80年代なかばの同賞関連作品(受賞作、また本になった最終候補作)は、筆者の学生時代の読書歴と密接に結びついており、そこから日本の“現代作家”に手を広げていったという意味で、個人的な思い入れがあります。 ただ、正直いって本書の印象は薄かった。というか、長編で、この唐突な“種明かし”はいかんでしょ。“小説”のうまさだけで乱歩賞をとられてもなあ・・・と、子供っぽい反感をおぼえたのが本当のところ。他の多くの受賞作家は、受賞第一作をフォローしているのに、梶龍雄はこの一冊で切ってしまったのが、当時の筆者の関心度の低さを如実にしめしています。 でも、それから月日は流れ―― 梶龍雄を本格ものの書き手として買う声を友人から耳にしたり、ネットをはじめるようになって、意外と思えるほどの高い作品評価を目にするようになったりで、少しずつ、その著書を集めるようにはなっていました。 <狩久全集>の刊行をひとつのきっかけに(第6巻所収の「日記」のなかに、友人として梶はたびたび登場するのです)、そうした梶作品に目を通してみるのもいいかな、というわけで、まずは本書の再読からスタートすることにした次第。 主人公の恋愛感情、「犯人」の企み――ああ、作者が範にしたのは、E・C・ベントリーの古典『トレント最後の事件』(1913)だったのか。今回、遅まきながらそのことに気がつきました。 「ポケゴリが死んだ。しかも殺されたのだ。(・・・)誰でもが身内からこみあげてくる、ぞくぞくした喜びに近いものも感じていた。ポケゴリをにくんでいない者は、この学校に一人もいないにちがいないからだ」 という導入部からして、思えばそれを意識していたわけですね。なるほど。 しかし、なにも解明の論理が無いところまで、真似なくてもw 戦時下ならではの事件として、本作の構成の論理は、キッチリ組み立てられています。そして、再読で真価がわかるように、伏線の張りかたもまず申し分ない。 それだけに、真相の一切を関係者の「手紙」で明かすのではなく、もう一工夫して、ポケゴリを撃った人物の特定までは、事前に主人公の推理で出来るように、書けなかったものか。理詰めで考えれば、犯人はどうしてもその人物になる、しかし、なぜ撃ったのか? その動機がわからない――そこまで事件を整理したうえでの、どんでん返し的な「手紙」の提示。うん、この流れがベターだと思うなあ。 「謎やトリック」と「人間」の両立が作者の狙い(「著者のことば」)だったようですが、これも、気持ちはわかる、しかし・・・で、併立にとどまっている。 多くのページを費やして描かれる、年上の女性への思慕が、じつはミステリとしての『透明な季節』のプロットに、必須のものではないのです(その点は、かの『トレント最後の事件』も同様でしょうが、あちらは“名探偵の恋”である点に、別な意味がある)。 また今回、強く感じたのは、薫というキャラクターを作者が美化しすぎだろ、ということ(「ポケゴリはワイフと一度もやったことがないらしいんだ」嘘でしょw 「北上先生と私とは……何というのかしら……恋人というものではなくて……お友達といったらいいかしら……」旦那に内緒で密会しといて何を言うか!)。 綺麗事すぎて、彼女が生身のオンナとは思えません。なんといっても筆者は、あの『不必要な犯罪』の狩久派ですからねwww 作者の意欲が先行して、完成度はもうひとつ、の感は否めないと思います。 それでも、時代ミステリとして、リアリティを担保するディティールの書きかた(軍事教練のエピソード、大空襲の描写エトセトラ)、そして終戦にむけ、まわりのすべてが崩れ落ち、人がただ消えていく日々を“透明な季節”ととらえる梶龍雄のセンスは、心に残りました。 次作に期待しましょう。 |
No.117 | 6点 | シャーロック・ホームズ最後の挨拶 アーサー・コナン・ドイル |
(2013/05/03 18:06登録) 1908年から1917年まで、散発的に発表された作品をまとめた第四短編集 His Last Bow(1917)を、恒例の、光文社文庫<新訳シャーロック・ホームズ全集>(日暮雅通訳)で読み返してみました。 収録作は――①ウィステリア荘 ②ブルース・パーティントン型設計書 ③悪魔の足 ④赤い輪団 ⑤レディ・フランシス・カーファクスの失踪 ⑥瀕死の探偵 ⑦最後の挨拶――シャーロック・ホームズのエピローグ―― 本書に関しては、原作の単行本は、なぜか雑誌掲載時と作品の配列を変えていますが、この<全集>版では、それをもとの順番に戻しています。 そしてその、雑誌掲載順という編集方針から、1893年発表の旧作「ボール箱」は、本来の“位置”である『シャーロック・ホームズの回想』に編入されているため(同作については、『回想』のレヴューをご参照ください)、本書には入っていません。 さて。 訳者の「解説」で指摘されているように、「長年の努力(?)がやっと実り、ここへ来てようやく、ドイルはホームズものに追いまくられずに執筆活動をすることができるようになった」わけですが・・・ その反動か、どうもホームズ譚が片手間仕事になってしまったような、ひさしぶりに昔なじみのキャラクターでご機嫌をうかがいました――的な、ゆるさが感じられる作品集になってしまっているように思います。 ホームズ、ワトスンのキャラクター小説としての面白さに特化した「瀕死の探偵」などは、ファンでない読者が読んだら、なんだこりゃ? でしょう。 “日常の謎”に介入したホームズの動向が、最終的にアメリカのピンカートン探偵社の悪漢追跡行と交錯し、事件のほうは勝手に終息する「赤い輪団」(1911)なども、筆者には『恐怖の谷』(1914-15)の前哨戦的興味から楽しめましたが、おおかたの読者には腰くだけもいいところでしょう。 ただ、ドイルのミステリ作家としてのアイデアが枯渇しかけていたとは、筆者は考えません。 たとえば、計画の途中で「犯人」がアクシデントにあい、結果、不思議な謎が生まれるという、「ウィステリア荘」の着想自体は、まことにすぐれたものです。 また、トンデモ系のトリックの陰に隠れがちですが(筆者も今回の再読まで忘れていたのですがw)、「悪魔の足」の、よく似た趣向の事件A、Bの連続性をめぐるパターンの先見性には、オヤッと思わせるものがあります。 先見性といえば、「レディ・フランシス・カーファクスの失踪」あたりも、正規の“死亡診断書”を利用するくだりなど、そこだけ抜き出せば、なかなか面白い。 問題は、そうした妙味のあるアイデアを充分練り込まず、お手のもののストーリーテリングでチャッチャッとまとめてしまっていることでしょう。 時代は移り、すでにソーンダイク博士シリーズのR・オースティン・フリーマンや、ブラウン神父もののG・K・チェスタトンのような、単なる後追いではない、真の実力者が探偵小説のフィールドには現われている。ドイルには、彼らを視野に入れて、負けるものかとファイトを燃やして欲しかったんですが・・・ さてさて。 集中では、“本格”むきのユニークな発想を、水と油のようなエスピオナージふうの背景に落とし込んだミスマッチが、逆に物語を忘れ難いものにしている「ブルース・パーティントン型設計書」が、やはりベストだと思います。何気ない風景描写に思えた書き出しも、真相を知って振り返ると、ミステリとして見事な逆算の結果であったことがわかります。 ラストを飾る「最後の挨拶」は、作中年代が第一次世界大戦前夜に設定された、ホームズ・シリーズの時系列では最後にあたる、まさに副題どおりの“エピローグ”。 ホームズ譚には、これまでにも、上記「ブルース・パーティントン型設計書」のように、国家機密を外国のスパイから守るという、エスピオナージふうの作品が見られたわけですが、これはもう、“ふう”ではなく、純度100パーセントのスパイものになっています。 作品の効果を考えて、ワトスンの一人称ではなく三人称を採用しているという点でも異色作で、その仕掛けはミステリ的には(ミエミエとはいえ)『恐怖の谷』、その第二部の延長線ですかね。 お伽噺の主人公が“現実”に降臨したような、そんな衝撃を当時(大戦中)の読者は感じたことでしょうが・・・ 大河(キャラクター)小説のエピローグとして、理解は出来るものの、個人的には、名探偵のこういう“最後の挨拶”は寂しいなあ。あと一冊、拾遺集があることで、良しとしましょう。 |
No.116 | 7点 | 麻耶子 狩久全集第二巻 狩久 |
(2013/04/26 17:21登録) <狩久全集>(皆進社)の第二巻には、作者の、昭和二十九年から三十年にかけての成果がまとめられています。 編年体の収録作を、まず小説とエッセイその他に分けてナンバリングしておきましょう。 前者は――1.炎を求めて 2.誕生日の贈物 3.鉄の扉 4.女よ眠れ 5.煙草幻想 6.ジュピター殺人事件(藤雪夫、鮎川哲也の連作担当分も収録)7.十二時間の恋人 8.悠子の海水着 9.煙草と女 10.紙幣束 11.なおみの幸運 12.石(昭和二十九年度版) 13.記憶の中の女 14.或る実験 15.あけみ夫人の不機嫌 16.クリスマス・プレゼント 17.ゆきずりの女 18.ぬうど・ふぉと物語 19.麻矢子の死 20.そして二人は死んだ 21.十年目 22.学者の足 23.麻耶子 24.花粉と毒薬 25.銀座四丁目午後二時三十分 26.黒衣夫人 27.呼ぶと逃げる犬 28.砂の上 29.蜜月の果実 30.白い犬 後者は――31.編集後記(「密室」第十二号) 32.匿名小説合評 33.微小作者の弁 34.〔アンケート回答〕 35.編集後記(「密室」第十三号) 36.探偵小説のエプロン・スティジ 37.編集後記(「密室」第十四号) 38.匿された本質 39.後記(「密室」第十五号) 40.後記(「密室」第十六号) 41.詩人・科学者・常識人 42.対談「圷家殺人事件」 43.酷暑冗言 44.うしろむき序説 45.編集後記(「うしろむき」第一号) 46.編集後記(「うしろむき」第二号) 今回、オマケとして収録されているのは、「初稿版・麻矢子の死」(内容に関しては後述)の、直筆原稿30枚の、写真による復刻です。 なお、論創社『狩久探偵小説選』との重複は、27、33、38、43。作者生前唯一の短編集『妖しい花粉』(あまとりあ社)収録作は、5、23、24、28です。 アンカーをつとめた連作中編の本格もの(6)やユーモア仕立ての密室パズル(27)から、コントと称された、いまでいうショート・ショート(2、7、8、10~13、16、17、21、22、25、30)まで、解説(廣澤吉泰)で指摘されているように、「自由闊達さ」に溢れたさまざまな傾向の作品を、作者は商業誌・同人誌に発表しています。 そんななか。 探偵小説専門誌に発表されながら、探偵小説のモノサシではかりきれない、狩久が愛と性、生と死をモチーフにして、自身の人間観を結晶化したような、ブンガクという表現がおおげさなら、ジャンル・狩久とでもいうべき小説が目につくようになってきます。 テーマと“探偵小説”の折り合いがうまくつかず、いちじるしくバランスを崩した「或る実験」のような失敗作もありますが、ナイーブな少年の復讐譚に帰結する「鉄の扉」や、「その女を、僕が犯して殺したのです」という幕切れの主人公の告白とはまったく裏腹な、悲恋の物語に昇華した表題作「麻耶子」などは、この作者にしか書けない小宇宙を形成し、傑作といっていい出来になっています。 ちなみにこの 23.「麻耶子」(『宝石』昭和三十年六月号)は、当初「麻矢子の死」として『探偵実話』用に書かれたものの、地味であるとされ同誌でボツになった「初稿」(今回、オマケとして復刻されています)にもとづく作品。『探偵実話』には、ヒロインの死にかたをひねった、別作の 19.「麻矢子の死」(マギラワシイネ)が発表されています。 “性”を切り口に人間を描く、という試みは、しかし通俗化と紙一重で、実際このあとになるとブンガク性は後退し、ただのエロミスが増えてくるわけですがw それでも、男に犯され夫を殺された女が、犯人をさぐるため、容疑者を次々に誘惑しその反応(また自分を犯そうとするかどうか)を見ていく「花粉と毒薬」の結末のつけかた――スタンリイ・エリンの影響かと思いきや、エリンが訳されるまえの作品でした――や、海辺で女を犯した男を、残酷な陥穽が待つ「砂の上」(筆者のお気に入り)の対比的な構成には、捨てがたい味があります。 いや、おっさんと違って、「セックスの匂いの強い」作品群はちょっと・・・という向きには、神と探偵作家の対話というユニークなプロローグを配し、倒叙ふうの偽装自殺工作のシニカルな顛末を描いた、「そして二人は死んだ」をお薦めしておきましょう。 本書が単行本初収録。素材の一部に、現在では「不適切」と見なされる要素があるため、今後とも商業出版物への再録は難しいと思われる佳品です。 |
No.115 | 6点 | ルコック探偵 エミール・ガボリオ |
(2013/04/16 14:58登録) 『ルルージュ事件』(1868)を皮切りに、『河畔の悲劇』(1867)『書類百十三』(同前)、そして Les Esclaves de Paris(1868 未訳)と続いてきた、いわゆるルコック・シリーズの悼尾を飾る本作は、内容的には、駆け出し刑事ルコックの(『ルルージュ事件』に先立つ)「初手柄」を描いています。 1868年、大衆紙『プチ・ジュルナル』へ連載され、翌年に単行本化されたこの『ルコック探偵』を、筆者は中学生時代、旺文社文庫の松村喜雄訳(初稿版を刈り込んだ、ダイジェスト版による翻訳)で読んでいます。 そのときの感想は――退屈の一言。 しかし、本サイトで未読のガボリオ作品を順繰りに取りあげてきたいま、この“代表作”を放置しておくわけにもいくまいと・・・死蔵していた、東都書房の『世界推理小説大系』第2巻を引っ張り出してきました。オリジナル全長版にもとづく、永井郁訳での再読です。 ちなみに。この永井訳も完訳ではないという声がありますが(国書刊行会版『ルルージュ事件』の、太田浩一氏による「訳者あとがき」)、『大系』の月報に寄せた永井女史の文章を読むかぎり、これは抄訳ではありません。 「第一章 調査」の荒筋は―― 場末の居酒屋で、三人のならず者が射殺され、直後に駆けつけた警官たちにより、労務者ふうの犯人、自称メ(仏語で五月の意)が逮捕される。 喧嘩の果ての単純な事件のようだったが、ルコックだけは、メの言動から、彼が見た目どおりの人間でないことを見ぬき、くわえて残された痕跡にもとづく推理から、現場を逃走した二人の女性の存在を確信していた。 しかし、あくまでその正体を伏し、正当防衛いってんばりの主張で公判にのぞもうとするメ。業を煮やしたルコックは、予審判事を説きふせ、真相究明のため思いきった策に出る。 が、その結果、謎の旅芸人メは、監視の目が光るなか、忽然とその姿を消してしまうのだった・・・ ふう。やっぱり長いね。長く感じる。 翻訳の原稿枚数自体は、全体で九百枚を切っているのに、それが、一千枚におよぶ国書版『ルルージュ事件』よりスラスラ読めない一因は、率直に言って訳文のせいもあります。 敵役の大事な名前を「メ」と訳すような、語感の悪さ(田中早苗訳にしても松村喜雄訳にしても、当該人物の表記は「メイ」です)、さらには随所に首をひねるような表現が見られ――たとえば自殺“未遂”の男が発見される場面を、「哀れな男は服のバンドをひき裂いて(・・・)我とわが身を絞殺していた」なんて訳している)、そこでいちいち目が止まってしまうのですね。 しかも――ちょっと話は飛びますが――エピローグの最終節なんて、まったく意味が通らないので、原文を知らなくても誤訳だとわかりますw 残念ながら、完訳でも、この訳文では復刊できないなあ。 さて。 巻なかば、人間消失という状況に直面したルコックは、師匠タバレの助言を求め、それを受けた老人は、安楽椅子探偵的に謎解きをしてみせます。が、完全に底割れした話なので、読者側に驚きはありません。そして自身の失敗を反省し、「今は何をなすべきか分りました」と、ルコックが強大な真の敵への対決姿勢をしめしたところで、第一章は終了。 そこから作中人物の過去にさかのぼり、犯罪が起こるまでを再構成する「第二章 家名の栄誉」がはじまります。『河畔の悲劇』や『書類百十三』では、それでも過去パートを本編に挿入しようとしていましたが(構成上、前者は成功、後者は微妙)、ここではっきり、現在パートとの並置という処理がとられました。 因縁話としてのストーリーの錯綜ぶりは、これまで最高で、まったく別な“時代小説”がはじまったような感を受けます。 新キャラwも多く、正直、その大勢の書きわけはガボリオの手にあまったか、途中途中の人間関係が把握しづらい。 しかし、小森健太朗が『本格ミステリーを語ろう!〔海外篇〕』(原書房)で発言しているような 「第二部に出てくる人物の名前が第一部と違ったり、描写が違ったりで最初のうちは同一人物だとわかんないんですよ。それが最後に殺人に至った時にぴたっと重なる(・・・)」 趣向はありません。主要人物に関しては、出てきた時点でちゃんとわかるように、作者は書いています(第一章で、タバレが「現代人名辞典」を持ちだしているのは、そういうこと)。 紆余曲折を経たストーリーが、冒頭の殺人につながるガボリオの構想力には、ほとほと感心しましたが、いや疲れましたw 今回、気になったのは、そうして第二章でミッチリ書かれたはずの“彼”のキャラクターと、第一章で見事にメを演じきった、いってみればプレ・アルセーヌ・ルパン的“彼”のキャラクターが、じつはうまく重なり合わないことです。もう少し、そっち方面の伏線も張っておかないと・・・。 これは普通に小説としても、ミステリ(その本質は、ルコックV.S.メのスリラーだと思いますが)としても弱点ですね。 やはりガボリオの“最高傑作”は『ルルージュ事件』。ただ同作は、アマチュア探偵に主導権があり、この作者の作風のサンプルとは言いづらい。そういう意味での“代表作”として、本書が挙げられるわけなのでしょうが、出来は数段落ちます。 筆者なら、ガボリオの代表作には『河畔の悲劇』(完訳『オルシヴァルの犯罪』を出して欲しい!)を推しますね。 |
No.114 | 6点 | 悪夢の街 ダシール・ハメット |
(2013/04/04 14:42登録) ハヤカワ・ミステリ642番(1961年刊)。エラリイ・クイーンが編者になって刊行された、計9冊にのぼるハメット短編集のうち6冊目、Nightmare Town(1948)の翻訳です。 収録作は―― ①「悪夢の街」(1924 Argosy All-Story Weekly)井上一夫訳 ②焦げた顔(1925 Black Mask)丸元聡明訳 ③「アルバート・パスター帰る」(1933 Esquire)小泉太郎(生島治郎)訳 ④「新任保安官」(1925 Black Mask)稲葉由紀(稲葉明雄)訳 ①は、酔っ払って砂漠の中の新開地に紛れ込んだ主人公――重りを仕込んだステッキを武器にするタフガイ――が、そこで出会ったヒロインを助け、その“悪夢の街”を脱出するまでの冒険譚。スケールの大きな、街ぐるみの秘密がプロットの眼目で、アイデアに魅力はありますが(当時のアメリカなら、紙上のリアリティはあったか?)結局、関係者の告白で一切が明らかになるのは、謎を解くヒーローの物語として弱いですし、カタストロフをへた“その後の事ども”がフォローされていないのも、ミステリとしては物足りません。 ②④はともにコンティネンタル・オプが語り手――にしては、一人称が「おれ」「私」とマチマチ。統一してほしいなあ、早川書房編集部殿――で、のちのオプもの長編の原型となりました。前者が『デイン家の呪』、後者の進化型が『赤い収穫(血の収穫)』です。そう思って読むせいか――④のほうは再読ですけど――帯に短し襷に長し、という印象ですね。 上流階級の娘たちの失踪が、やがて悪魔的な背景w を浮かび上がらせる②は、「謎解き型」としては、ストーリーの転機となる部分に飛躍が大きすぎます。ミステリ的な真相よりも、オチのつけかたで記憶される一篇。 秘密の任務をおびたオプが、アリゾナ砂漠のとある小さな町に“新任保安官”として赴任してくる④は、大西部時代の終りを活写したリアリズム・ウエスタン(?)としては楽しめるものの(オプいわく「外部資本がはいり、外部の人間が住みつくようになる。それはきみたちでも、どうにもならないことさ! 人間は昔から反抗を試みてきたが、みんな時世には負けたよ」)、お話の決着の甘さは否めない。オプというキャラが本当に際立つのは、やはり非情に徹したときなのですよね。あ、フーダニット部分にはいちおう伏線が張ってありますが・・・別にそれで作品の評価があがるほどのものではありませんw ③は、すでに『マルタの鷹』(1930)や『ガラスの鍵』(1931)を発表し、作家としての名声を確立したハメットが、創刊されたばかりの男性誌に投じた、軽い趣向のショート・ショート。 なんですが、じつは中編サイズの他の作にくらべても、本書のなかでは、これが一番面白かった。 故郷に帰ったタフガイが、地元のゆすり屋を相手に一戦交えた話――が、ラストでそう転ぶか、というオドロキ。なんだハメット、こういうのも書けたんだ! ②のオチのつけかた、そのテクニックにも通じますが、あちらは夾雑物が多すぎた。その点、より切りつめられた枚数だけに、“そこ”に焦点を絞り込んだ、作者の情報操作の手際が光ります。 かりに筆者が、短編ミステリの書き方講座を開講するなら、教材のひとつに使いたいくらいですよ(って、誰が受講するんだw)。 ただ、オチと関係ない部分で、設定的に矛盾しているんじゃないか、という箇所があるので、そこは誤訳によるものかどうか、今後、調べられるものであれば調べておきたいな、とは思っています。 |
No.113 | 8点 | 落石 狩久全集第一巻 狩久 |
(2013/03/28 15:19登録) 東北の出版社・皆進社から限定300部で刊行された、全六巻におよぶ<狩久全集>。その造本、装丁の見事さ、そしてお値段w についてはアチコチで取りあげられていますから――ここでは中味に的を絞って、各巻ごとに見ていくことにします。 まずは第一巻。『別冊宝石』十四号(昭和二十六年十二月十日発行)に掲載された、コンクール応募作の二篇を皮切りに、小説とエッセイ類が編年体でまとめられています。 わかりやすく、小説とエッセイを分けてナンバーをふってみると、 前者は――1.氷山 2.落石 3.ひまつぶし 4.すとりっぷと・まい・しん 5.佐渡冗話 6.山女魚 7.毒杯 8.仮面 9.黒い花 10.擬態 11.恋囚 12.肖像画 13.幸運のハンカチーフ 14.亜矢子を救うために 15.訣別―第二のラヴ・レター― 16.見えない足跡 へんな夜 18.結婚の練習 19.共犯者 後者が――20.〔略歴〕 21.女神の下着 22.作者の言葉(「佐渡冗話」) 23.≪すとりっぷと・まい・しん≫について 24.執筆者の横顔(狩久氏) 25.羊盗人の話 26.≪訣別≫作者よりのお願い 27.対談「八号合評」 28.グループ便り 29.土曜会記 30.後記(「密室」第十号) 31.一〇号創作感 32.或るD・S論 料理の上手な妻 33.後記(「密室」第十一号) となります。そして、オマケとして、市橋慧氏インタビュー「父・狩久を語る」が添えられています。 論創社の『狩久探偵小説選』に採られたものが多く(1~6、11、15、16、19、そして21、23、32の諸篇)、その意味ではこの巻は、やや新味に乏しい内容と言えるかもしれませんが、逆に言えば、狩久を語るうえで落とせない初期の代表作が詰まっているわけで、それを新発見の資料にもとづく解題(佐々木重喜)や、作家の本質に迫る好解説(垂野創一郎)をガイドにたどり直せる本書は、やはり基本のキです。 さて。 筆者にとって狩久と言えば、まず第一に、表題作の「落石」。国産ミステリ短編のオールタイム・ベストを選ぶとすれば、これを落とすことはありません。 スタイリスト狩久にしては、まだ書き方が生硬だし、プロットにも突っ込みどころはある。“本格”としての核は××××トリックなのですが、そもそも犯人に××××を用意する必然性が乏しいうえ、メリットとデメリットを考えたら、まったく釣り合わないトリックなのです。 しかし・・・荒唐無稽と一蹴できないものがここにはある。それは、論理を超えるキャラクターの熱い思い。血の絆の、有無を言わさぬ説得力。片腕を切断することで映画の主役を勝ち取った、鬼気迫る女優のエピソード、そのイマジネーションの鮮烈さが、単なる伏線の域を超え、読者の常識をねじふせるのです。 おそらく技術的な洗練では達成できない、作家が生涯にひとつ、書けるか書けないかという類いの傑作だと思います。 解題に引用された、狩久自身の文章によれば、「落石」の「ハピイエンド」は「母の希望によるもの」だったそうですが、しかしその、当事者の男女による閉ざされた「ハピイエンド」は、狩久を呪縛していくことになります。名探偵が推理を展開すれば、犯罪者が摘発され、闇は払われ、世界の秩序は回復する――という楽天主義を信じられなかったのは、探偵作家としての狩久にとって良かったのか悪かったのか? ふとそんなことを考えたりもします。 罪と罰の問題意識で「落石」の延長線にある作品としては、「落石」のような神がかった“感動”がないため、ラストの自己満足臭が強くなっているとはいえ―― 仮説の構築と崩壊がクリスチアナ・ブランドを思わせる、手の込んだ密室ものの――「窓から入ってみました。冷たくなっていますよ」というセリフのリフレインが効果的な――「共犯者」がやはり秀作でしょう。いささか小説をアタマでこねくりまわしたがる癖のある狩久の、凝り性の面が、本格ものとしてプラスに働いています。 「落石」と、この「共犯者」、そして、床に臥している病人だからこそ可能な完全殺人を倒叙ふうに描く「すとりっぷと・まい・しん」――狩久の文章センスが光ります。ラスト1行は見事!――が、本書の筆者的ベスト3になります。何をいまさら、ですねw 珍しい作品――これまで単行本未収録だった、乱歩テイストの変身願望譚「黒い花」とか――をピックアップして、大いに版元の売上アップに協力してあげれば良かったのでしょうがw まあ今回は“定番”が強すぎたということで。 第二巻以降のレヴューでは、小味な良品を取りあげていければ、と思っています。 |
No.112 | 5点 | 書類百十三 エミール・ガボリオ |
(2013/03/18 16:06登録) 1867年に『プチ・ジュルナル』紙に連載され、同年に単行本化された、ガボリオの第三長編 Le Dossier N○ 113 の、田中早苗による戦前抄訳、概算五百七十枚です。 筆者が読んだ、博文館文庫版(昭和十四年)の訳題は『書類第百十三』ですが、どうも、「第」の無い『書類百十三』(博文館<世界探偵小説全集> 昭和四年)のほうが一般的なようなので、そちらで登録しておきました。 ちなみにタイトルの由来は、作中の事件の取り調べを予審判事がまとめた、一件書類の整理番号です。 パリの銀行の金庫室から、顧客の引き出し要請を受けて用意されていた、現金三十万フランが盗まれた。金庫にこじ開けられた形跡はない。鍵を持ち、文字合わせ錠の合言葉を知っているのは、頭取と出納主任だけであるが、二人はともに事件への関与を否定し、お互いへの疑惑をぶつけあう。 結局、捜査責任者により犯人と目され拘引されたのは、身分の低い出納主任のほうであった。経緯に納得のいかない刑事ファンフェルローは、独自に調査を続けるが行きづまり、警視庁の凄腕「探偵部長」ルコックに助言を求める。 ルコックは、金庫に残された痕跡から推理を組み立て、ファンフェルローに新たな捜査方針を示すとともに、得意の変装を用い、自身も水面下で動き始めた・・・ 全四十五章立ての本書の、第二十一章までで、例によって事件当夜のいきさつは、犯人も含めてほぼ明らかになります。しかし、その背景にはもっと深い謎があって―― 第二十二章から第三十七章までは、それを補完すべく南仏に飛んだルコックが調べあげてきた、二十年以前にさかのぼる「実に恐ろしい因縁」の物語です。 長編のメインとなる事件が、殺人ではなく盗難というあたりで、ウィルキー・コリンズの『月長石』を思い浮かべましたが――とはいえ『月長石』が世に出るのは、翌1868年ですが――フラッシュバックの過去パートからは、悪党の背後に、もっと奸智にたけた大悪党が控えていてというあたり、むしろ同じ作者の『白衣の女』(1860)に近いものを感じました。ジャンル分けの難しい本書を、えいやっと「スリラー」で登録したのも、そのへんの印象の強さによります。前作『河畔の悲劇』の犯人が、ただ逃げているだけだったのに対し、こちらは夜道でルコックに凶刃を振るったりもしますしねw 犯罪メロドラマの紡ぎ手としての、ガボリオのストーリーテリングは健在ですし、“犯罪共同体”が一枚岩ではなく、呉越同舟の様相を呈してくる後半の展開もうまいものだと思います。 ただ『ルルージュ事件』や『河畔の悲劇』に比べると、本書の読後感はスッキリしません。ミステリとしてどうこうではなく、小説としての「解決」に共感できないのです。 まず。 いったん逮捕された出納主任は、冤罪であったことが分かり、無事に復職し結婚までして「ハッピー・エンド」を迎えますが、客観的に見たら、この人のふたつの過失が盗難の契機になったわけで、その重大な責任がまったく問われないのは変です(本人もろくに反省していない)。 そして。 裁判になって真相があからさまにされると、傷つく人がいるから、という理由で、ルコックは悪党の一人の逃亡を黙認しますが(もう一人、主犯格のほうは、露見の恐怖から発狂。ちと安易ですな)、これはアマチュア名探偵ならともかく、司法サイドの人間としてはいかがなものか。 さらに。 じつは今回、事件に関与するルコックには、最後まで明かさない秘密があって、それがラストのちょっとした意外性を生んでいるわけですが――“相手役”のキャラクターがきちんと書けていないので、余韻も無く、なんじゃそりゃ? ですよ。 このへんは、抄訳のせいなのか? う~ん・・・完訳が出たら読みなおしましょうw |
No.111 | 7点 | 探偵コンティネンタル・オプ ダシール・ハメット |
(2013/03/11 10:32登録) 収録作品は―― ①「シナ人の死」(1925) ②「メインの死」(1927) ③「金の馬蹄」(1924) ④「だれがボブ・ティールを殺したか」(1924) ⑤「フウジズ小僧(キッド)」(1925) 昭和32年(1957)に六興キャンドル・ミステリの一冊として刊行され、のちハヤカワ・ミステリに編入された(今回、筆者が読んだのは、重版された早川版)、日本初のハメット短編集です。 訳者は、初期ハメット翻訳の第一人者、砧一郎。編者は――誰かなw 早川の、編集部S名義の「解説」には、アメリカ本国で1945年に出版された、エラリイ・クイーン編の The Continental Op が「本書」とありますが、これはマチガイ。完全なオリジナル編集です。 レヴュー済みの、小鷹信光・編訳『コンチネンタル・オプの事件簿』と重複するのは、“強盗殺人事件”の真相にたどり着いたオプが、依頼者にはあえて別な解答を提示する、余情豊かな佳品②のみですが・・・これというガイドも無かったはずの時代に、なかなか面白いところを集めています。 前記、六興キャンドル・ミステリのブレーンの一人だった、海外ミステリ通・田中潤司氏のセレクトかもしれません。 中国系女流作家の邸で起きた、殺人の調査が発端となる、巻頭作①は、ストーリーを込み入らせすぎて散漫になってしまいましたが、裏社会の大物である怪しい中国人チャンの、一見ユーモラスなキャラクターと、悪党を罠にはめ、結果、死に追いやるオプならではの“解決”ぶりが、忘れ難い印象を残します。 失踪者の探索の途中、他殺体が転がる――という、のちに定石化する、ハードボイルド・ミステリの見本のような展開の③は、チャンドラーやロス・マクドナルドへの直接の影響という点でも重要。オプが出張する、メキシコの地方色もよく出ており(タイトルのもとになっている、酒場「金馬蹄軒」のエピソードがグッド)、ストーリーを通して築きあげられた人間関係と、その非情な決着の対比が鮮やかです。 ④は、オプが目をかけていた後輩が殺される――という発端の設定が、なんらストーリーに深みをもたらさない点(他の探偵が被害者でも、大筋にまったく影響なし)、ハードボイルド・ミステリとしては失敗作でしょう。ただ、「だれが~を殺したか」というストレートなタイトルが示す謎解きは、自然で無理のないものです。のちの名作『マルタの鷹』の、フーダニット部分の原型といえます。 悼尾を飾る⑤は、要注意人物としてフウジズ小僧(キッド)を印象づける導入部がうまく、そこから空間限定(アパートの一室)の巻き込まれ型サスペンスに移行する――以前レヴューした秀作「ターク通りの家」(『コンチネンタル・オプの事件簿』所収)のヴァージョン・アップ版です。 クライマックスの、暗闇の中での待ち伏せのくだりには、少年のころ、ドイルの「まだらの紐」や「赤毛組合」を読んでワクワクした、あの気分がひさびさに甦りました。ちゃんとアタマを使ったアクション・シーンになっているのも、ミステリとして好感度大。 ③と並んで、本書のベストであるばかりでなく、ハメット短編全体のなかでも上位の出来でしょう。 小鷹信光訳での、オプの一人称――仕事の鬼の中年キャラとしてピタリとはまった「おれ」を読んでしまったあとでは、砧訳の「ぼく」で語られるオプにはどうしても違和感がありますし、また訳文が経年劣化しているのも、否定できない事実ですが(たとえば・・・夫から若い妻への呼びかけ「お前さん」が気になって、たまたま手元にあったペイパーバックで原文にあたってみたら、該当箇所は my darling だったw)、それを認めたうえでも、一読をお勧めしたい一冊です。 |
No.110 | 7点 | 河畔の悲劇 エミール・ガボリオ |
(2013/02/28 16:45登録) 1866年に大衆紙『ソレイユ』、および『プチ・ジュルナル』紙にほぼ同時に連載され、翌67年に単行本化された、ガボリオの第二長編 Le Crime d'Orcival(オルシヴァルの犯罪)の戦前訳です。テクストは、昭和四年の、改造社『世界大衆文学全集』第26巻(併録は、同じ作者の『ルコック探偵』)。訳者は、ガボリオならこの人の、田中早苗です。 概算、四百字詰原稿用紙にして三百七十枚程度と、大幅にダイジェストされていることは明らかですが、戦後訳が刊行されていないので仕方ありません。先日、ドイルの『恐怖の谷』をレヴューしていて、事件の起点を過去に遡及する先輩格のガボリオを、急に確認しておきたくなったんですw 舞台はパリ近郊の、静かな町オルシバル。セーヌ河ぞいに建つ、地元名士の伯爵邸に、ある夜、召使いたちがもと同僚の結婚披露宴に出席するため留守にしているあいだ、凶賊が侵入したとおぼしい事件が突発する。 邸内は荒らされ、庭園の水際ではめった刺しにされた夫人の死体が見つかる。くわえて主人の伯爵の死体も、どうやら河に流されたらしい状況である。 予審判事は、急に大金を所持しアリバイの明確でない庭師を、重要容疑者として逮捕させるが、パリ警視庁から派遣されたルコックは、残されたさまざまな痕跡から推理を展開し、事件の裏に隠された企みに迫っていく・・・ 前作『ルルージュ事件』では脇役だったルコックが、正式に探偵役として起用され(アマチュア名探偵のタバレは登場しません)、実質的なルコック・シリーズのスタートとなる作ですが、すでに彼は駆け出し刑事ではなく、パリでは多くの部下をしたがえ「大探偵」と目される存在になっています。 そんな彼の名前も、しかし地方にまでは浸透しておらず、地元の捜査担当者と最初からうまくいくわけではない。それがやがて――というあたりの運びは、さすがにガボリオ、大衆小説の語り部としてうまいものです。 ルコックの推理は、データが充分、事前に提示されていないせいもあって(これは抄訳のせいもあるかもしれませんが・・・)、いまとなって特筆すべきものはありませんし、ディクスン・カーなどは、その凡庸さを「――警察官が時計のネジを巻き直したり、血痕を調べたり、ガボリオの時代このかた使い古されたトリックを駆使して」(エッセイ「地上最高のゲーム」)と晒しあげています。 あまりにイージーゴーイングな犯人の計画も、ちょっとそれはどうなのよ、というところはあります。 そして全二十九章立ての本作の、第十章までで、伯爵邸の怪事件は、フーダニットを含めてあらかた解明されてしまう。 犯人と被害者のあいだには、殺人にいたるまでの何があったのか? というひとつの大きな謎を残したまま。 そこから、某作中人物の記した「厚ぼったい書類」をもとに、関係者の過去がフラッシュバックで描かれていくわけです(ちなみにこの趣向は、まだ『ルルージュ事件』では出来上がっていませんでした)。 そしてじつは、第十一章から第十九章にかけての、その過去パートが・・・むちゃくちゃ面白いんですよ。 筆者は以前、『ルルージュ事件』のレヴューのさい「ディテクティヴ・ストーリーから一転、ノワールに踏み込んだような」という表現を使ったことがありますが、本作にもそれは言えて、古風な犯罪メロドラマがジェームス・ケイン(『郵便配達は二度ベルを鳴らす』)の世界と交錯するようなスリリングさがあります。 第二十章以降は、逃亡し大都会の片隅に身を潜ませた犯人を、ルコックが部下を駆使して駆り立てていく、警察小説ふうのテイストもあり、これも悪くない。 いちがいにハッピー・エンドとは言えないかもしれませんが、救いのあるラストには、素直に感動できました。 本格→犯罪メロドラマ→警察小説の、なんというか、ジャンルが確立するまえのジャンル・ミックスw 抄訳ゆえの買いかぶりなのか、それとも・・・? これは是非、完訳を出してほしいですね。 |
No.109 | 9点 | 恐怖の谷 アーサー・コナン・ドイル |
(2013/02/22 11:53登録) 筆者的不定期連載w光文社文庫の<新訳シャーロック・ホームズ全集>を読む、その第七回にあたるわけですが――今回は、遅まきながら、昨2012年11月に逝去された「石上三登志氏追悼エッセイ」のスタイルを採らせていただきます。 石上さん、一度もお目にかかることはできませんでしたが、ご著書をとおして、エンタテインメント小説や映画の楽しみかたを教えていただいた者の一人です。 出会いは「家にはなぜ顔があるのか」(『別冊幻影城』1976年11月号、掲載)でした。横溝正史とロス・マクドナルドが並べて論じられているのを読んだときの、あの衝撃は忘れられません。 そしてもうひとつ、とりわけ感銘の大きかった石上さんの文章に、「緋色と赤の距離」(東京創元社『名探偵たちのユートピア』――2007年刊――所収)があります。 コナン・ドイルの『恐怖の谷』(1914-1915)の第二部が「まるでハメット・ハードボイルドの具体的な出発点じゃあないのか?」と指摘されたうえで、ドイルとハメットの作家的姿勢、その意外な共通性を浮き彫りにする論調には、「家にはなぜ顔があるのか」以来の、一見、相反するジャンルのアレとコレが“読み”で結びつく快感をおぼえました。 本サイトの Tetchy さん、空さん、E-BANKER さんの『恐怖の谷』評などを見ても、今後は同作が、そうした視点から新しい読者に再評価されていくであろうことは、間違いないと思います。 ただ。 私見では、ドイルのそうした先見性と二部構成の成功・不成功とはまた別問題で、つまるところ面白いふたつの中編を並べただけ、という不満はぬぐえないのではないでしょうか? あの狙いを“長編”として効果的なものとするには、現在パート(ワトスンの手記)と過去パート(某作中人物の「ひと束の原稿」をもとに、ワトスンないし出版代理人のドイルが小説化)を章ごとに切り替え、そのふたつがどう結びつくかを謎とする、のちのビル・S・バリンジャー式の小説技法が必要だったはずです。 そしてフェアプレイをたもつためには、過去パートの主人公の内面描写を完全に排した、それこそ『マルタの鷹』形式にする必要も。 かくいう小生も、『恐怖の谷』を高く評価する一人ですが、その理由は、「第一部」の謎解きが、ドイル流本格ミステリの達成点だということにあります。 そして石上さんが、その部分を比較的あっさり流されていたのが、個人的には大いに不満なのです。 散弾銃で撃たれ(深夜、脱出を困難にするリスクの大きい、そんな凶器でコトに及んだ犯人の意図は?)書斎に転がった死体の指からは、結婚指輪が消えていた――という“負の手掛り”とその解釈の見事さ。ダンベルをめぐる、ホームズの心憎い暗示。真相を知って読み返すと、“不倫カップル”の言動の意味が一変する、まさに本格ものならではの小説作法。 そのあたりの魅力を中心に、いずれは小生がそちらにお邪魔したとき、もしお話させていただく機会があれば、くわしく申し述べたいと思っています。 あ、あともうひとつだけw 「緋色と赤の距離」で石上さんは、『恐怖の谷』にドイルが犯罪王モリアーティを持ち出した意味を、「現実」的に解釈されていますが・・・ 本格ミステリ読みの観点からは、あれはもう、完全にミスディレクションなんですよ。 導入部で暗号文が提示され、それをホームズが解読する。浮かび上がる、巨悪と狙われた被害者の存在。直後にもたらされる、事件発生の一報・・・どうです、ストーリーが動き出すまえに、仕掛けてきているじゃありませんか? え、牽強付会ですか? でもですね・・・ああ、早くそちらで続きを語り合いたい。いましばらくお待ちくださいwww |
No.108 | 8点 | コンチネンタル・オプの事件簿 ダシール・ハメット |
(2013/02/18 12:03登録) いきなり私事で恐縮ですが・・・ 先日あるパーティで小鷹信光氏にお目にかかり、お話させていただく機会がありました。 筆者にとって同氏は、まず何より海外ミステリの研究者・紹介者として大恩人なので、その感謝の思いを伝えたわけですが、「じつは私はハードボイルド・ミステリの良い読者ではなくて」と余計な一言を言ってしまったときの、小鷹氏の「おいおい」という目が忘れられませんw 心を入れ替えて、ハードボイルド再入門してみます。 となれば、まずは「始祖」ハメットからでしょう。 アメリカ探偵小説の揺籃期、1920年代の初頭に『ブラック・マスク』誌でスタートした、ハメットの原点・コンチネンタル・オプものの短編群は、我国ではいまだに本の形で体系的にまとめられていません。 そんななか、現時点で筆者がハメットへの入り口としてベストだと考えるのは――けっしてヨイショではなく――、ハメット生誕百年の1994年にハヤカワ・ミステリ文庫から出た、小鷹信光編訳の本書です。 出た当時、一読して、ああ、『赤い収穫(血の収穫)』や『マルタの鷹』を読む前にこれに目を通しておけたら、どれだけ作品理解が深まったろう、と嘆息したものでした。 収録作は―― ①放火罪および・・・ ②ターク通りの家 ③銀色の目の女 ④血の報酬/第一部 でぶの大女 ⑤血の報酬/第二部 小柄な老人 ⑥ジェフリー・メインの死 ⑦死の会社 冴えない――チビでデブの――サラリーマンが、基本的に“業務”で事件を解決していくさまを、一人称でキビキビ語っていく、いま読んでもなかなかにユニークな、後年に流布した紋切り型のハードボイルドのイメージにはおさまらないシリーズです。 以前、筆者はドイルのシャーロック・ホームズものに関して、その本質は「「名探偵」というヒーローの活躍を描く冒険譚」だと記しました(本サイトの『回想』のレヴューをご参照ください)。探偵活動をなりわいとするヒーローの冒険行が、作者の狙いによって「謎解き型」に特化することもあれば、「サスペンス型」に姿を変えることもある、という意味合いです。 そして、いまあらためてオプものを読み返すと――なんだ、いっしょじゃないか(苦笑)。 ①は、1923年に発表されたオプ登場の第一作。彼がおりおりに「――ジグソーパズルの断片を寄せ集めて一枚の絵に完成させてみようとした」「――頭の中でジグソーパズルの絵が完成しかけていた」と考えることからもわかりますが、これは「謎解き型」以外の何物でもない。しかし犯人のトリックの、肝心の部分にポッカリ穴があいているので、その出来はお世辞にもよくありません。 初期の「謎解き型」なら、同じ23年の「黒づくめの女」(創元推理文庫『フェアウェルの殺人』所収)のほうがずっと良い内容なのですが(ただしこれは誘拐テーマということで、オプ最後の事件である⑦とかぶるため、作品集の彩りを考えると押し込めないか・・・)まあ「放火罪および・・・」の歴史的価値は動かせない。 ②と③の連作が本書のベスト。 ことに、偶然のことから悪党どもの巣窟に捕らわれることになったオプが、知略で状況を改変し――クローズド・サークルwからの――脱出をはかろうとする前者は、ハメットが「サスペンス型」に開眼してシリーズの枠組みを広げたという意味で重要。 そこで取り逃がした悪女との決着を描く後者のエンディングは、これぞハードボイルドですね。やせ我慢と言わば言え、それが男のプライドなのさ。でも、据え膳食わぬオプは、サム・スペード(『マルタの鷹』)に比べればまだまだ甘いw 合わせて本書の約四割を占める中編連作の④⑤はさすがに読みごたえ充分で、ことに、全米の悪党どものドリーム・チームwが銀行を襲撃! 追跡するオプたちを嘲笑うかのように、しかし実行犯は次々に粛清されていく・・・という前者のインパクトは凄い。広げた風呂敷が大きすぎるので、その畳みかたや続編の帰結がいささか竜頭蛇尾に感じられるのは、仕方ないところでしょう。 「謎解き型」の名探偵が、ときに独自の裁きで事件を終結させるように、オプも後者の終盤では“業務”から一歩踏み出して、かなり危ういラインに足を突っ込んでおり――本人は、あくまで「たまたまああなっただけのことです」と言っていますが――ここから『赤い収穫(血の収穫)』まではあと半歩です。 訳文、編集、書誌データ――プロの仕事とはこういうものだ、という一冊に仕上がっており、広く推薦できるわけですが・・・ 個人的に(小さくない)不満がひとつだけ。筆者の考えるオプもののベスト(中)短編が入っていない (>_<) 目次で“異色短篇”と謳われた⑥の、独特の余韻も悪くありませんが、オプの“探偵”としての物語に鮮やかに謎解きが組み込まれた「カウフィグナル島の略奪」(ハヤカワ・ミステリ『名探偵登場③』所収)を落としてしまっては――④とケイパー(襲撃)ものの趣向かぶりを気にされたのかもしれませんが――傑作選として画竜点睛を欠きますよ、小鷹さん。 ちなみに。 「カウフィグナル島の略奪」は、「クッフィニャル島の夜襲」として、嶋中文庫の『血の収穫』(グレート・ミステリーズ9)にも収録されていましたから、興味をお持ちの向きは、是非古本を捜してみて下さい。 (後記)2020年になって、創元推理文庫から刊行された『短編ミステリの二百年2』(小森収 編)に、門野集による新訳で「クッフィニャル島の略奪」が収録されました。(2020.3.29) |
No.107 | 8点 | 魔法少女まどか☆マギカ The Beginning Story 虚淵玄 |
(2013/02/04 15:29登録) 『ミステリマガジン』今年の3月号は、007特集。ウンベルト・エーコの評論が白眉の、まことに読みごたえある内容ですが・・・今回のマクラに使うのは、同号のアニメ・レビュー欄なんですw アニメ・プロデューサーの里見哲郎氏が、いま手がけている『ジョジョの奇妙な冒険』(原作・荒木飛呂彦)を紹介するにあたって――アニメとSFの親和性の高さに比べると、アニメとミステリの相性はもうひとつ、ということを書かれています。 少ない成功例は、大別すると「捕物帳」タイプ(代表例『名探偵コナン』)か「(うまくいった)乱歩の通俗物」(代表例『NOIR』や『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』)になるだろうと。そして『ジョジョ』は後者に属する、というわけです。独特の“現場感覚”が新鮮ですね。 でも里見氏にして、どこか本格ミステリ至上主義(理想は、純度の高いパズラーをアニメでやること、的な)にとらわれている気がします。現代日本のミステリ・ファンは、もっと多彩な試みを受容し、評価できているではありませんか。 もちろん、本格として評価されるようなアニメをつくる、という理想があってもいいのですが、筆者的には(ことさらアニメでまでそれを見たいとは思わないので)、そうしたコンプレックス(?)とは無縁に、もっと柔軟に、仕掛けと趣向を凝らしたオリジナル・ストーリー、その意外性と説得力のバランスでミステリ・ファンをも驚かしてやる、というアニメ作家に出てきてほしい。 里見氏が、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン』などと並べて、エポックメイキングなアニメのSFサイドの例として挙げている『魔法少女まどか☆マギカ』(TVシリーズ全12話。2011年度作品。映画化展開もあり)は、筆者にとってまさに、そういう意味でのミステリ・マインドあふれる傑作でした(ここから本題)。 でも。 中学二年生の女の子の前に、言葉をしゃべり、「僕と契約して、魔法少女になってほしいんだ」と言う、奇妙な白い生き物が現われる――といったお話は、ある程度アニメ耐性の無い人には敷居が高いかな? ズルをして、有名人の助けを借りましょう。 同作品が、日本SF大賞の候補になったとき(受賞作は、上田早夕里『華竜の宮』)の、宮部みゆき氏の選評を抜粋します。 「――この作品は、よき企みがあるミステリーとして幕を開け、それぞれに自己実現を希う少女たちの友情物語として進行し、終盤でミステリーの謎解きのために用意されていたSF的思考が披露されるという、実に贅沢な造りになっています」(引用終わり) 展開の“意外性”においても群を抜いた作品なわけですが、単に引っ繰り返しのための引っ繰り返しではなく、“真相”を知って振り返ったときに、きちんと辻褄が合うように、細部まで計算されたプロット(たとえば、主人公サイドの敵となる、「魔女」と使い魔の関係性――その設定がもつ意味)が見事です。 それまで思い込まされていた“世界”が、ガラガラ崩れ落ちるような、中盤6話の“種明かし”に至る段どりの巧さ! エモーショナルな演出(いやマジで泣けます、心が震えます)の土台になっている、本当はきわめてロジカルな作劇を確認するには、脚本を読むにしくはないわけですが、一見、外伝的なタイトルの本書(角川書店)こそが、じつはそんな『魔法少女まどか☆マギカ』のTV版全シナリオを収録した一冊なのです。オマケとして、脚本家・虚淵玄(うろぶちげん)と新房昭之監督の対談などもあり、これまた、すこぶる興味深い。 アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』が大傑作たりえたのは、音楽、美術、そして演技面と、さまざまな才能の結集、その相乗効果によるものであることは、間違いありません。しかし、すべてはこの、まれに見る脚本(ホン)からスタートしているのも事実。 本書は厳密には、角川書店のアニメ誌『ニュータイプ』編集部によるバラエティ・ブックですが、全話のストーリーをひとりで構築しきった虚淵玄の作家性に敬意を表し、あえてその著として「SF/ファンタジー」に登録しました。 |
No.106 | 6点 | お菓子の髑髏:ブラッドベリ初期ミステリ短篇集 レイ・ブラッドベリ |
(2013/01/28 10:40登録) 追悼読書というには、時期遅れもいいところですが・・・ 「SFの巨匠レイ・ブラッドベリ氏が死去、91歳」、その訃報を目にした昨年の6月、たまたま直前に、ちくま文庫から出ていた本書を、何かに突き動かされるように買い求めた筆者でした。 ブラッドベリが「SFの巨匠」であることに、ことさら異議はありませんが――何より筆者にとってのブラッドベリは、子供の頃に『十月はたそがれの国』や『何かが道をやってくる』でみずみずしい文章の魔法を見せてくれた、とびきりの幻想(ファンタジー)作家です。 感受性豊かな時期に出逢い、その情感あふれる文体に惹かれたという点では、ジャンルこそ違え、コーネル・ウールリッチと好一対。じょじょに感傷と美文の過多に飽きがきて、離れていった(いまの筆者には、技巧を感じさせない平明な文章が一番)というところも、この二人は似ています。 さて。 そんなブラッドベリが作家修業中の1940年代後半、パルプ・マガジンなどに発表したミステリ系の作品をまとめたのが本書(かつて徳間文庫から『悪夢のカーニバル』として刊行されていたものの改題版)。 収録作は――①幼い刺客 ②用心深い男の死 ③わが怒りの炎 ④悪党の処理引き受けます ⑤悪党どもは地獄へ行け ⑥長い夜 ⑦屍体カーニバル ⑧地獄の三十分 ⑨はるかな家路 ⑩生ける葬儀 ⑪ぼくはそれほどばかじゃない! ⑫トランク・レディ ⑬銀幕の女王の死 ⑭死者は甦らず ⑮お菓子の髑髏 翻訳は仁賀克雄氏。誤訳・悪訳を叩かれまくった同氏ですが、本書の訳文はまあ、目くじらを立てるほど悪くないのではないか(アパートの火事で、炎が「長屋をめらめらと延びて行」ったりする、残念なところはありますけどねw)。 かつてのブラッドベリ・ファンからすれば、全体に、もう少し柔らかい表現を使って欲しいかな、とも思いますが、もとより仁賀氏に、伊藤典夫や小笠原豊樹を期待しているわけではありませんしw本書の場合、作者の習作時代の作品集ということで、若書き感を伝えている(怪我の功名?)と受けとれなくもない。 それより仁賀さんに言いたいのは、旧訳がある作品の題名を、無理に新しいものに変えないで欲しかった、ということ。 たとえば巻頭を飾る①「幼い刺客」、これはミステリ史上、最「低」齢の犯人が登場する一篇――と書いて、わかる人には即おわかりいただけるように、つまりは「小さな殺人者」(創元推理文庫『十月はたそがれの国』所収)です。原題“The Small Assassin”なので、別に間違った改題ではない。しかし、すでに多くの読者になじみのある名作(荒削りではあっても、そのコワさは、一度読んだら忘れられない)のタイトルを、なぜわざわざイジる? そんな自己主張はいりません。 さてさてw 「きみ」という二人称で語られる②「用心深い男の死」(ラストが東野圭吾『放課後』してるw)、死んだ「ぼく」の一人称を採用した③「わが怒りの炎」などを読むと、文体の工夫で新鮮味を出そうとする作者の意欲が、ビシビシ伝わってきます。 この作者のこととて、あまりストレートに“ミステリ”してないだろうと思いきや、殺人発生、犯人は誰? という謎→解明のプロセスをとったお話が、意外に多い。解明の論理を求めちゃいけませんけどねw ブラッドベリが“あの”パターンに挑戦した⑪「ぼくはそれほどばかじゃない!」や、犯人はなぜ、盲人ひとり殺すのに三十分も要したのか? というホワイダニットの⑧「地獄の三十分」は、ミステリ・ファンなら目を通しておいて損はありません。 集中、筆者がもっとも気に入ったのは、サーカスを舞台にした⑦「屍体カーニバル」です(既読作の①「幼い刺客」は別格)。趣向としてはフーダニットで、個性的なレッドヘリング群が配されていますが、じつのところ真犯人は意外でもなんでもない。でもそこがいい。主人公にとって、まさに「結論はひとつ、それだけだ」なんです。ラスト・シーンの鮮やかさ、結びのセリフの哀しさが、胸に焼きつきます。 ブラッドベリは、この頃からやはり、ブラッドベリ以外の何者でもなかった、と実感できる一冊でした。 |
No.105 | 7点 | 幻想小説神髄 アンソロジー(国内編集者) |
(2013/01/21 10:49登録) 全3冊よりなる、ちくま文庫のアンソロジー<世界幻想文学大全>の、本書は幻想(ファンタジー)篇。なんですが・・・う~む、俺の知ってるファンタジーとはだいぶ違うw 収録作は――①「天堂より神の不在を告げる死せるキリストの言葉」ジャン・パウル ②「ザイスの学徒」ノヴァーリス ③「金髪のエックベルト」ルートヴィヒ・ティーク ④「黄金宝壺」E・T・A・ホフマン ⑤「ヴェラ」ヴィリエ・ド・リラダン ⑥「アウル・クリーク橋の一事件」アンブローズ・ビアス ⑦「精」フィオナ・マクラウド ⑧「白魔」アーサー・マッケン ⑨「光と影」フョードル・ソログープ ⑩「大地炎上」マルセル・シュウォッブ ⑪「なぞ」W・デ・ラ・メア ⑫「衣裳戸棚」トーマス・マン ⑬「バブルクンドの崩壊」ロード・ダンセイニ ⑭「月の王」ギヨーム・アポリネール ⑮「剣を鍛える話」魯迅 ⑯「父の気がかり」フランツ・カフカ ⑰「沖の小娘」J・シュペルヴィエル ⑱「洞窟」エヴゲーニー・ザミャーチン ⑲「クレプシドラ・サナトリウム」ブルーノ・シュルツ ⑳「アレフ」ホルヘ・ルイス・ボルヘス 格調高いなあ。剣と魔法の物語――いわゆるヒロイック・ファンタジーは一切オミット。ジャック・フィニイやレイ・ブラッドベリら、SFよりの(筆者的には一番好みの)作品群も、はなから編者の眼中になし。入門書としては敷居が高すぎませんか、これ? いきなり、宗教的な夢物語の巻頭作で挫折しかけましたよ ^_^; この機会に、ノヴァーリス、ホフマンら有名なドイツ・ロマン派を初体験したり、カフカ、ボルヘスといった苦手な巨匠の噂に聞く短編を読了できたりしたのは、ジャンル・アンソロジーの有難味として素直に感謝しますが、さてそれらが面白かったかというと・・・長すぎるw あるいは、読みにくいww または「訳がわからないよ」www 結局、筆者は、どんでん返しや謎解き/種明かしで、結末にいたり全体の意味が明らかになるタイプの話が好きな、根っからのミステリ者なんですよね。 だから集中、もっともよくわかるのが、⑥「アウル・クリーク橋の一事件」や⑰「沖の小娘」だったりする。どちらも再読ですが、しかしオチがわかっていても、語りくちとイメージの鮮やかさで、充分読み返しがききました。単なるワン・アイデア・ストーリーではない。ことに前者は、広義のミステリ・ファンなら一度は目を通しておくべき傑作です。以降、さまざまなジャンルで流用されたサプライズ・エンディングのパターンの、原点にしてこれが決定版ですから(島田荘司が、某長編で臆面もなくこの○番煎じをやっていたのには、唖然とした憶えがあります)。 そんなわけで、「訳がわからないよ」タイプのお話は苦手なんですが、好みはさておき、凡作と傑作の見極めくらいはつくわけで、本書収録作のレヴェルが無茶苦茶高いであろうことは、わかります。 ⑯「父の気がかり」や⑳「アレフ」は、それでも素直にホメてあげたくないのですがw 七人の子どもたちが、いっしょに暮らすお婆さんの屋敷から、一人また一人と消えていく⑪「なぞ」となると・・・完全降伏、マイリマシタと言うしかありません。 影絵というモチーフを通して、幻想が現実を浸食する怖さを親子の世界に凝縮した⑨「光と影」も、集中、一、二を争う傑作でしょうね。サイコ・ホラーを思わせる結末は、曽野綾子の名作「長い暗い冬」に通じるものがあります。そのどっちも好きじゃないけど、まあ、認めざるをえないw <世界幻想文学大全>を通読してあらためて思うのは―― 東雅夫さん、このかたは確かにすぐれたアンソロジストなんですが、筆者とは相性が悪いんだよなあ。まったく感性が違う。 文芸よりの東さんと、もうひとり、エンタメよりの誰かがいないと、ジャンル普及のバランスがとれないのじゃないか。 とくに幻想(ファンタジー)篇は、誰か頑張ってトライしてほしいなあ。異世界で活躍する美少女の冒険とか、時を超えたロマンスとか、是非、傑作を読ませてくださいwww |
No.104 | 4点 | 悪魔のラビリンス 二階堂黎人 |
(2013/01/06 16:37登録) 名探偵・二階堂蘭子が、正体不明の残虐なシリーズ犯人と、虚々実々の頭脳戦を繰り広げる<ラビリンス・サーガ>、そのプロローグにあたるのが本書です。 作者が2000年と2001年に『メフィスト』誌に発表した、2本の中編――「寝台特急≪あさかぜ≫の神秘」「ガラスの家の秘密」を第1部、第2部として並べ、後者の初出時のエピローグを第3部「解けゆく謎、深まる謎」とすることで、全体を長編ふうに仕立てなおしています。 このシリーズは、以降、明確に長編路線にシフトしていくわけですが、本書に関しては、先日レヴューした、有栖川有栖『妃は船を沈める』――あそこから連想が働いての再読です――同様、“連作集”が正札ですね。 有栖川“連作”の、つなぎの処理のスマートさに比べると、こちらはその点、ヘタ、もといベタw ふたつの事件に、共通の犯罪プランナーが関与していた、しかし奴の行方はわからない、戦いはまだ始まったばかりだ・・・というノリですからね。 そこだけ見たら、ひところ作者の二階堂さんが敵意をむき出しにしていた、『金田一少年の事件簿』(の「魔術列車殺人事件」とか「速見玲香誘拐殺人事件」とか)と大差ない。 もちろん作者的には――大差ありだろ、トリックの活かしかた、ミスディレクションや伏線の技術etc.をちゃんと見て評価してくれ、と言いたいわけでしょうが・・・ 殺害予告を受けていた奇術師が、走行中の寝台車の、密室を構成する個室から消え失せ、かわりに室内からは、駅のホームで彼を見送ったはずの女性助手が、死体となって発見された!? という第1部「寝台特急≪あさかぜ≫の神秘」は、なるほど謎の設定は水際立っているし、トリックの手順も良くできている。森村誠一『東京空港殺人事件』の華麗な変奏、もしくは藤原宰太郎/桜井康生の推理クイズ「消えた殺し屋キラー」(学研ジュニアチャンピオンコース『あなたは名探偵』収録)のヴァージョン・アップ版ですね。 しかし・・・作中の山本警部のセリフじゃありませんが、「奴の真の目的は何だ!? この事件で何を目論んでいたんだ!?」。 結局、客観的にはこの事件、手間暇かけたわりには、自演乙な奇術師がお得意のトリックを弄して助手を殺し、逃げ去ったようにしか見えません。煙幕が煙幕としての意味をなしていない、トリックのためのトリックです。 筆者が読んだ講談社ノベルス版の巻末には、国内ミステリの“怪人対名探偵”の系譜を考察した、横井司氏の解説が収められていて、これはなかなかの力作なのですが、ひとつ、大きな問題があります。それは以下の文章。 怪人対名探偵というコンセプトは、トリックの必然性――なぜ密室にしなければならないのか、というリアリズムに基づく要請を退けるために有効である。なぜ密室にするのか、それは不可能犯罪を好む犯罪者だからなのだ。トリックの必然性をこのようにしてカッコに括ってしまえば、トリックの方法(ハウダニット)に頭を集中させることができる。(引用終わり) 横井さん、あなたほど見識のある人が、こんな世迷言、もとい世迷わせ言をいってどうするんですか? その道は、完全に袋小路でしょ? 設定のユニークネスで、マイナスをプラスに変える、のちの歌野晶午の『密室殺人ゲーム王手飛車取り』あたりを、そうした文脈で評価するなら理解できますが、本書に関しては、褒め殺しにしかなりませんよ。 まあ二階堂さんも、“怪人対名探偵”の枠組みを、必然性の無いトリックの在庫処分にばかり利用しているわけではなく、第2部「ガラスの家の秘密」の密室トリック――こちらは、晩年のディクスン・カーの長編、ないしは同作者のパスティーシュ的短編へのチャレンジか?――には、ありきたりではあっても、必然性が付与されています。 ガラスという共通のモチーフを有する、有栖川有栖「残酷な揺り籠」(『妃は船を沈める』)と、趣向の違いを読み比べてみるのも面白いですよ。 ただこちらは、<ラビリンス・サーガ>として、本筋以上に大河ドラマ的布石に注力されているので、単独の作品として評価しづらい面はありますけどね。 ちなみに、魔王ラビリンスのアジトの地下で見つかった、戦中のものと思われる四人の白骨死体の謎は、『魔術王事件』に続く『双面獣事件』で明らかにされます。 いずれ、シリーズ完結編(?)『覇王の死 二階堂蘭子の帰還』を読むまえには、あれにももう一度目を通しておかないといけないかなあ(あんまり気が進まないんですけど ^_^;)。 |
No.103 | 5点 | 妃は船を沈める 有栖川有栖 |
(2012/12/23 15:39登録) 先日のレヴューで、東雅夫氏の編んだ『怪奇小説精華』(ちくま文庫)を取り上げました。今回は、そこからの派生読書です。 前掲書で、いくつかの古典怪談を読み返し、また未知の作家の新鮮な衝撃を体感したなかで、筆者にとってのベスト作は、実際に怪奇現象を描くことなく、しかし読者の心のうちにまぎれもない怪異を現出させる、W・W・ジェイコブズの「猿の手」でした。 干からびてミイラ化した“それ”は、本当に持ち主の願いを三つだけ叶えてくれるのか? というその呪物テーマの名作をモチーフにした本格ミステリ連作が、本書なのです。 作者が2005年と2008年に、ミステリ専門誌『ジャーロ』に発表した2本の中編――ファム・ファタール役をつとめる同一キャラクターが、いわくつきの“猿の手”を持っているという設定――を並べ、あいだに「幕間」を書き下ろすことで、全体を長編ふうに仕立てなおしています。(「はしがき」で有栖川さん自身は、犯罪学者・火村英生シリーズの第八長編と明言していますが、やはり“連作集”が正札でしょう)。 前篇にあたるのが、第一部「猿の左手」(こちらは初出誌で目を通していました)。 睡眠薬を呑んだまま、車ごと海に転落した男。殺人ならば、容疑者は、周囲に若い男をはべらせ、「妃」の異名を持つ女傑・三松妃沙子をふくむ、彼の周囲の三人にしぼられる。しかし、じつは彼らの誰にも、犯行をなしえない事情があった・・・ という事件を、火村は、一点突破の閃きで解決に導きます。その“気づき”のポイントとなるのが、ジェイコブズの怪談の解釈をめぐる、作家アリスとの論議。 視点を変えて読むと、まったく別の“真相”が浮かび上がるという意味で、まことに興味深い内容です。私は同意しませんがw なるほど火村説は「気味が悪いほど筋が通ってる」。でも却下。なぜか? 作者ジェイコブズが、ある作中人物を、その“真相”から逆算してキャラ立てしていないからです。 火村(=リアル有栖川有栖)は、プロットの辻褄合わせしかしていない。 そしてその姿勢が、そのまま、くだんの解釈から導かれる、第一部「猿の左手」の“意外性”の弱点にもなっています。ある状況下でなされた、非常識な命令。その荒唐無稽さを、あとづけのロジックで懸命にフォローしようとしていますが・・・動機づけの弱さはいかんともしがたい。 筆者としては、ケレン味に欠けても、後篇に相当する、第二部「残酷な揺り籠」のほうに、点を入れたいですね。 結婚して家庭に入った――かつての奔放な“夢”を乗せた“船を沈め”た――妃沙子の家の離れで、大地震の直後、かつて彼女の取り巻きの一人だった青年の射殺体が発見される、こちらの話のほうを評価するのは、精緻に展開する、火村の解明の論理が美しいから・・・ではありません。その点に関しては、警察の現場検証をわざと曖昧にしたうえでのワンマンショーじゃないか、という不満をぬぐえないと思います。 それでもともかく、火村は真犯人を理詰めで限定する。しかし――論理だけでは、この犯人は落ちなかった。火村には理解できなかった、「異様で空想的」ともいえる事件関係者のもつれた心情を、作家アリスが洞察することで、事件は終息するのです。理と情のコラボがここにはあります。まずは、合わせ技一本、というところ。 |
No.102 | 7点 | 怪奇小説精華 アンソロジー(国内編集者) |
(2012/12/13 21:18登録) 全3冊よりなる、ちくま文庫のアンソロジー<世界幻想文学大全>の、本書は怪奇(ホラー)篇。「訳文の正確さや読みやすさよりも、その文学的味わい、文体の洗練を重んじる姿勢から(・・・)戦前戦中に世に出た旧訳の数々を、あえて積極的に採用」した(「解説」より)という、昨今の新訳ブームに水をぶっかけるような一冊ですw 収録作は―― ①「嘘好き、または懐疑者」ルーキアーノス ②「石清虚/竜肉/小猟犬(『聊斎志異』より)」蒲松齢 ③「ヴィール夫人の幽霊」ダニエル・デフォー ④「ロカルノの女乞食」ハインリヒ・フォン・クライスト ⑤「スペードの女王」A・S・プーシキン ⑥「イールのヴィーナス」プロスペル・メリメ ⑦「幽霊屋敷」エドワード・ブルワー=リットン ⑧「アッシャア家の崩没」エドガー・アラン・ポオ ⑨「ヴィイ 」ニコライ・V・ゴーゴリ ⑩「クラリモンド」テオフィール・ゴーチェ ⑪「背の高い女」ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン ⑫「オルラ」モーパッサン ⑬「猿の手」W・W・ジェイコブズ ⑭「獣の印」J・R・キプリング ⑮「蜘蛛」ハンス・ハインツ・エーヴェルス ⑯「羽根まくら」オラシオ・キローガ ⑰「闇の路地」ジャン・レイ ⑱「占拠された屋敷」フリオ・コルタサル このラインナップを見た筆者の、率直な印象は――どんだけ「文学」(文豪)好きなのよ、東さん? もとより怪奇小説の歴史は古く、数かずの文学者が、ジャンルの礎石となる傑作・秀作を残してきたわけですが・・・それでもやはり、二十世紀の初頭に、怪奇専門の作家たち――アルジャーノン・ブラックウッド、M・R・ジェイムズ、H・P・ラヴクラフトetc.――が登場することで、“恐怖の黄金時代”が開かれたわけでしょう。そうした専門作家のマスターピースをまったく無視して、入門書的なアンソロジーを編むのはいかがなものか? 解説には「・・・収録作品の選定にあたっては、内外の主要なアンソロジー採録頻度、評論研究書での言及頻度を重要な指針、目安としている。もとよりそれらを厳密に数値であらわすことは不可能だし、その必要を認めるものでもないが・・・」とあります。なぜ「不可能」? なぜ「必要を認めない」? 少なくとも採録頻度なら、東氏が参照したアンソロジーを列挙し、統計表を作ればすむことで、そのデータは、愛好家には大いに裨益するはず。 筆者は少年時代、江戸川乱歩の丹念なガイド――たとえば「英米の短篇探偵小説吟味」をおさめた『続・幻影城』には、資料として「英米傑作集十五種の収録作家頻度表」と「――収録作品頻度表」が付けられています――で海外ミステリに入門した人間なので、こういうアバウトな「客観性」にはイライラしてしまうのです。 いっそ、俺の主観で選りすぐった、ワールドワイドな文豪怪談傑作選だ! と開き直ってくれたほうが、どれだけスッキリすることか(あ、でもそうすると、“文豪”じゃないW・W・ジェイコブズは落とされちゃうか? ⑬「猿の手」は、この本の中でもベスト作なのにw)。 実際、定番名作からはずれたセレクト(恥ずかしながら、筆者が初めて目にしたような作品群)にこそ、編者の個性が光っていると思います。 どうやら世界で最初に書かれた“怪談会”の物語らしい、①「嘘好き、または懐疑者」(150年頃)が、すでにして怪奇小説パロディの様相を呈しているのには、驚かされました。じつに面白い。 そして、鮮烈な読書体験という点では、⑯「羽根まくら」(1917)、⑰「闇の路地」(1942)、⑱「占拠された屋敷」(1951)と続く後半の流れが凄い。ウルグアイ、ベルギー、アルゼンチンの(筆者にとって)未知の作家たちの繰り出す不条理な作品世界に、目まいを覚えました。 ラスト1行でタイトルの意味が明らかになる「羽根まくら」などは、まだワン・アイデア・ストーリーとしてわかりやすい部類ですが、日常と極端な非日常が地続きになっている、あとのふたつ、とりわけ、ドイツとフランスで発生した、大量殺戮ならびに大量失踪が、二冊のノートを通してリンクする――のか?――「闇の路地」ときたら・・・結局、最後まで何が起こったのか理解できないのに、異様なパワーでねじ伏せられてしまいました。好みはさておき(ホントは、前記「猿の手」みたいにストレートな話か、真相は明かさないまでも、唯一のホラー的解釈を示唆して終わる、⑥「イールのヴィーナス」みたいな話が好きなんですけどね)、これは傑作でしょう。 東氏には、こうしたポスト黄金期の収穫をこそ、『新・怪奇小説傑作集』(全5巻)のようなカタチで編んでもらいたいと、強く思ったことでした。 |