皆さんから寄せられた5万件以上の書評をランキング形式で表示しています。ネタバレは禁止
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Tetchyさん |
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平均点: 6.73点 | 書評数: 1602件 |
No.1422 | 10点 | 屍鬼- 小野不由美 | 2018/11/30 23:41 |
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重厚長大と云う名に相応しい超弩級ホラー小説が本書。なんせ文庫版で全5巻。総ページ数は2516ページに上る。そして本書を以て横溝正史が日本家屋を舞台に密室殺人事件を導入した第一人者であれば小野氏は日本の田舎町に西洋の怪物譚を持ち込んだ第一人者とはっきりと云える。
本書がスティーヴン・キングの名作『呪われた町』の本歌取りであることはつとに有名で、現に本書の題名に“To ‘Salem’s Lot”と付されている(Salem’s Lotは『呪われた町』の舞台)。私は幸いにしてその作品を読んだ後で本書に当たることができた―本書刊行時はキングなんて私の読書遍歴に加わると露とも思っていなかったから、すごい偶然でタイミングである。これもまた読書が導く偶然の賜物だ―。 あくまで小野氏は日本のどこかにあるような人口1300人の閉鎖的な社会で村中の人々が親戚であるかのような小さな地域社会でお年寄りが日々誰かの噂話をしては、村唯一の医院が情報交換の集会場となっている、そんなどこにでもありそうな田舎の村を舞台にして、実に土着的に物語を進めているのが印象的である。 それは小野氏がこの外場村という架空の村について、日本のどこかにある村であるかのように丹念に語るからだ。 田舎ならではの村社会独特の風習は都会生活のみを体験している人間にしてみればワンダーランドのような設定に思えるが、一旦田舎生活をすればこのような昔ながらの風習やしきたりが今なお続いているのが常識として腑に落ちてくる。 これは小野氏が恐らく大分という地方出身者であることが大きいだろう。私も四国に住んでいた時にこのような土着的な風習に参加する機会があり、寧ろまだ日本にこのようなしきたりが根強く残っていることに感心した思い出がある。そしてそれを体験したからこそ本書で書かれている外場村独特の文化が実によく理解できた。 そんな詳細な背景が設定された外場村とその村民たちを襲うのが着々と訪れてくる死の翳。死に囚われた人々は何かに遭遇し、その後は表情が一様に虚ろになり、何かを問いかけてもはっきりしない。しかも食欲もなくなり、ぼぉっとしたまま、ひたすら眠りを貪りたくなる。そしてある日突然褥の中で冷たくなっているのを発見される。それら一連の連続死は新種の疫病の発生かと思われたが、村に伝わる伝説、死者の起き上がりによる屍鬼の仕業であることが解ってくる。それらのプロセスをじっくりと小野氏はかなりの分量を費やして描く。 読者の目の前にはいかにも怪しい要素が眼前に散りばめられているのに、なぜかそれが線となって結ばれない不安感をもたらす。 そして最も驚いたのは屍鬼が脳生の死者であることだ。本書の前に読んだ東野氏の『人魚の眠る家』が心臓が動いているのに脳が死んだ状態である脳死を人間の死として受け入れるか否かを扱ったテーマであったのに対し、翻って本書に出てくる屍鬼は人の生き血を吸って活気を取り戻す血液を注入された人間であること、それは心臓は死んでいながらも脳は生前と同じ生きている、脳生心臓死の人間であることが明かされる。それもまた生ではないかと議論がなされる。 まさに裏表のテーマを扱った2つの作品を全く同時期に読んだこの奇妙な偶然に私は戦慄を覚えざるを得なかった。 吸血鬼という西洋のモンスターを象徴するモチーフを日本の、しかも高層ビルやマンション、レストランといった西洋の建物らしきものがない、日本家屋が並び立つ山奥の田舎村を舞台にあくまで日本人特有の風景と文化、風習に則って土着的に描くことに成功した本書は和製吸血鬼譚、純和風吸血鬼譚と呼ぶにふさわしい傑作だ。 最初に意識していた小野不由美版『呪われた町』などという思いは最後には吹き飛んでしまった。この濃密度は本家を遥かに上回る。単純に長いというわけではない。上に書いたように本書が孕むテーマやドラマがとにかく濃く、実際これほどの感想を書いても全く以て書き足らない思いがするのだ。 ゆめゆめ油断なさるな。21世紀の、平成になった世にもまだ怪異は潜んでいる。それを信じる大人になってほしい。それがために物語はあるのだから。 まさに入魂の大著と呼ぶに相応しい傑作だ。そしてこんな物語が読める自分は日本人でよかったと心底思うのである。 |
No.1421 | 10点 | 人魚の眠る家- 東野圭吾 | 2018/10/28 20:41 |
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実に、実に解釈の難しい物語だ。人の生死について読者それぞれに厳しく問いかけるような内容だ。
物語の中心であるこの播磨夫妻のパートを読めば、本書は脳死と云う不完全死に挑む夫婦の物語として読める。そして別居中の夫が脳と機械を信号によって繋ぐことで人間の、障害者の生活を改善する技術を開発している会社の社長とであることから、最先端の技術を駆使して脳死状態の人間を徐々に健常者へ近づけるよう努力をするのだ。これを本書の第一の視点としよう。 しかし上に書いたように本書はそんなたゆまぬ夫婦の努力を描きながら、どこか歪な雰囲気が全体に纏われている。 それは瑞穂の母親である播磨薫子の造形だ。通訳の仕事をしているだけあって彼女は通常の主婦以上に理知的だが、一方で頑として譲れないところがある女性だ。自身そんな自分を陰険だと評している。 一方で彼女は娘の回復を願うあまりに自分が魅力的であることを自覚しながらそれを最大限活用してとことん他者を利用し尽くす、一つの目的に対して貪欲なまでの執念を持った女性であることが見えてくる。 この播磨夫妻が物云えぬ人形のような瑞穂を機械の力で動かすところを見て戦慄を覚え、神への冒瀆だとまで云う人々もまた現れる。これが本書の第二の視点だ。 さらに先天性の病気で臓器移植を待つ幼い娘を持つ家庭のことも描かれる。これが第三の視点だ。もし脳死判定によって死亡が確定し、ドナーが現れれば助かったかもしれない命。それを待つ側の夫婦の話が描かれる。 このように植物人間となった少女1人を通じて物語はそれぞれの取り巻く状況を深く抉るように描かれる。 脳死判定で脳死と判定されれば患者は死んだとみなされ臓器移植が成される。しかし一方で心臓は生きているため、完全死ではない。そこにこの法律のジレンマがあるが、その基準となる竹内基準を人の死を定義づけるものではなく、臓器提供に踏み切れるかどうかを見極める境界を決めたものだという解釈だ。 ポイント・オブ・ノー・リターン。つまりそこに至れば今後脳が蘇生する可能性はゼロである。つまり正式には「回復不能」、「臨終待機状態」と称するのが相応しいが、役人たちは「死」にこだわったため、脳死という言葉が出来たようだ。 この話は私の中でようやく脳死判定に対する解釈が腑に落ちた感がした。心臓が生きているから死んでないと解釈するからややこしいのであってそこからは回復が望めないと判断される境界であると実に解りやすく解釈すれば、受け取る側も理解しやすい。やはりこういうデリケートな内容は医師を中心に法律を決めさせたらいいのではないかと思う。 本書の最大の謎とは播磨薫子と云う女性そのものだったと読み終わってしみじみ思う。 彼女がふと漏らすのは母親は子供のためには狂えるのだという言葉だ。それを本当に実行したのが彼女であり、そのことだけが彼女の謎への解答となっている。 しかし播磨薫子は周囲を気にせず、全て自分の意志で行い、そしてそれを貫いた。彼女はただ納得したかったのだ。周囲の雑音に囚われず、娘がまだ生きていることを信じ、そのために出来ることを全てした上で結論を出そうとしていただけなのだ。それは飽くなき戦いであり、それを全うしただけなのだ。これだけは云える。彼女は信念の女性だったのだと。 倫理観と愛情、人の生死に対する解釈、それによって生まれる臓器移植が日本で進まない現状。子を思う母親の気持ちの度合い。難病に立ち向かう夫婦と現代医学の行き着く先。 そんな全てを播磨薫子と瑞穂の2人に託して語られた物語。色々考えさせられながらも人と人との繋がりの温かさを改めて感じさせられる物語でもある。情理のバランスを絶妙に保ち、そして我々に未知の問題と、それに直面した時にどうするのかと読者に突き付けるその創作姿勢に改めて感じ入った。 子を持つ親として私はどこまでのことをするのだろう。読中終始自分の娘の面影が瞼に過ぎったことを正直に告白しよう。我が娘が眠れる人魚にならないことを今はひたすら祈るばかりだ。こういう物語を読むと遠い異国の地で家族と離れて暮らす我が身に忸怩たる思いがする。これもまた東野マジック。またも私は彼のマジックに魅せられたようだ。 |
No.1420 | 9点 | エコー・パーク- マイクル・コナリー | 2018/10/21 22:24 |
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本書では『天使と罪の街』でボッシュとコンビを組んだFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが登場し、ボッシュの捜査をサポートする。
さてそのボッシュとレイチェルが対峙するのは絶対的な悪である。レイナード・ウェイツは良心の呵責など一切感じない、人を殺すことが自分をより高みに上げると信じる、正真正銘の悪人だ。しかも深夜にたまたま職質されるまで、それまで行ってきた9人もの女性の殺人が発覚しなかった慎重かつ狡猾なシリアルキラーだ。 このレイナード・ウェイツは本書の前に書かれた『リンカーン弁護士』に登場するルイス・ロス・ルーレイに通ずるものがある。 そして捜査を進めるうちにボッシュはその絶対的悪人こそがもう1人の自分であったことに気付かされるのだ。 このレイナード・ウェイツの生い立ちはそのままボッシュの生い立ちと重なる。いやほとんど同じと云っていい。ただ幸いにしてボッシュは里親に恵まれたのだ。だからこそ闇を抱えながらも刑事になったが、一方で悪に対しては処刑も辞さないほどの徹底した憎悪を持つことになった。 ボッシュはロバートをもう1人の自分であると悟る。YES/NOの分岐点で分かれることになったもう1つの人生こそがウェイツだったのだと。 闇の深淵を覗き込む者はいつしか向こうから自分が覗かれていることに気付く。これはこのシリーズで一貫したテーマだが、まさに今ボッシュは自分の人生で抱えた闇を覗き込んで向こうから自分を見る存在と出逢ったのだ。 ハリー・ボッシュという男を彼が担当する事件を通じて彼が決して逃れない闇を背負い込んでいる、業を担った存在として描くのは12作目にしても変わらぬ、寧ろまだこのような手札を用意していることに驚きを禁じ得ない。コナリーのハリー・ボッシュシリーズに包含するテーマは終始一貫してぶれなく、それがまたシリーズをより深いものにしている。 さて今回の題名『エコー・パーク』はロサンゼルスに実在する街の名だ。このエコー・パークはかつて貧困地区であり、再開発によって中公所得者層が住まう、カフェや古着屋や食料雑貨店や魚介料理屋がひしめく、おしゃれな街へと変貌していった場所で、かつての主であった労働者階級とギャングたちが追いやられた街だ。 なぜこの街の名を本書のタイトルに冠したのか、私はずっと考えていた。確かにその場所は長らくシリアル・キラーとして女性を殺害していたサイコパスの連続強姦魔レイナード・ウェイツが初めて警察に捕まるミスを犯した場所である。 狡猾な連続殺人犯が偶然ながら捕まった場所であること、孤児の時に最も長く住んだところ、そして彼が殺害した女性を埋め、また装飾したトンネル、つまり彼の王国があったところ。エコー・パークこそウェイツことロバート・フォックスワースが辿り着いた園(パーク)だったのだ。 そして一方で単なる地名でありながら、本シリーズ第1作で作家コナリーのデビュー作である『ナイトホークス』の原題 “Black Echo”と同様に“Echo”という単語を使用した題名でもある。 “Black Echo”とは即ちボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いのことを指す。 そしてボッシュは逃亡したウェイツと対峙するために彼が拵えた死体を隠し、埋め、また装飾した隠れ家兼王国であるトンネルに入る。ヴェトナム戦争でヴェトコンと対峙したのと同じように今度は連続殺人犯と対峙し、そこに捕らわれているまだ息のある女性を取り戻すために。 この類似性は敢えて意図的にしたものか。私は本作でFBI捜査官レイチェルがサポートして捜査するボッシュの構造と同じくFBI捜査官だったエレノア・ウィッシュと共同で捜査する第1作がダブって見えて仕方がなかった。やはり同じ“Echo”という名を冠したことにコナリーは意図的であった、そう私は思いたい。 コナリーの作品を読むと人と人の間には絶対はないと思わされる。特にボッシュの場合、その執念とまで云える悪に対する憎悪が周囲の人を慄かせるから、彼が真剣に取り組めば取り組むほど人が離れていってしまうという皮肉を生み出している。 そしてボッシュのパートナー、キズミン・ライダーもまた彼の許を去る。 背中を預けられる相棒を、彼の逸脱する行動を戒めてくれた、元部下で相棒のキズミン・ライダーが去るのはボッシュとしてはかなり痛手だろう。 シリーズはまだ続く。この徹底的に癖のある刑事の相手を次回から誰が勤めるのか。毎回思うが、次作への興味が本当に尽きないシリーズだ。 |
No.1419 | 7点 | 神々のワード・プロセッサ- スティーヴン・キング | 2018/10/18 23:45 |
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本書は前巻『骸骨乗組員』と次の『ミルクマン』の三冊で構成される原書『スケルトン・クルー』の中の1冊なのだが、共通したテーマを備えた短編集だと感じた。
それは狂気。 本書の各編に登場する人物はなにがしかの狂気を抱いていることだ。 まず最初のキングにしては実に珍しい詩の内容からして狂気が横溢している。何しろ「パラノイドの唄」、つまり被害妄想者の妄想を綴った詩であり、狂気ど真ん中だ。 続く表題作は神々のワード・プロセッサなる夢のような道具によって報われない人生を変えるハッピーエンディングの話でありながら、主人公が取る自身の家族を削除し、自分のお気に入りの甥と義姉を手に入れる、これは願いを叶える道具が未完成ゆえに使用限度があるという設定ゆえに狂気の一歩手前で成り立っているのだ。 もしこれが何年も使えるようであれば、主人公は万能な機械を手に入れた狂気の独裁者のような行動を取るだろう。 「オットー伯父さんのトラック」も普通人としての生活を捨て、トラックが自分を殺しに来ると思い、日がな一日家の中の同じ場所に座って待っている妄想者の話だ。 これもその妄想が現実化することで一般人にとって狂人に見えるオットー伯父さんがそうならなかっただけの話だ。 この作品に収められているオットー伯父さんの所業の数々から人々は次第に「変わっている」から始まり、「奇妙な」、「おっそろしく奇態」、「トチ狂っている」、そして「危険性がある」と彼への評価をどんどん吊り上げていく。つまり他者にとって彼は狂人にしか見えないのだ。 「ジョウント」は細やかな誰にでもある、狂気だ。 云わなくてもいいことをどうしても云ってしまう父親とダメだと云われると逆にやりたくなる好奇心旺盛な少年が辿る不幸な結末だ。これは性(さが)なのだ。やってはいけないと頭ではわかっているがそれを抑えきれないのだ。 「しなやかな銃弾のバラード」は純粋に狂人の物語だ。狂人と付き合ううちに自らも狂気の渕に立ち、そして陥りながらも一歩手前で死を免れた人が目の当たりにした狂人の末路の物語だ。しかしその狂気は周囲に伝染し、無い物を見せてしまう。そしてそれ故に彼は臨界を超え、周囲に襲い掛かり、そして自ら銃弾を額に打ち込む。 最後の物語もまた狂気、いや凶器の物語か。動くとそのたびに人が死ぬ、恐ろしい猿の人形。しかもその人形に魅入られるとその人は自らゼンマイを回して猿を動かし、誰かを殺さずにはいられない。狂気を呼びこむ凶器の物語だ。 ただこれらの狂気は誰しもが抱えている狂気のように思える。決して特別な狂気ではない。ストレス社会と云える現代ではこれら登場人物が囚われる狂気は我々もまた持ちうるのだ。 常に誰かに見られているのではないか? こんな現状を誰か変えてほしい! 他者にとってはおかしいと思われようが自分の過ちを報わなければならない。 どうしても喋らずにいられない。 ダメだと云われたら余計したくなる。 自分の才能以外の不思議な何かが今の自分を支えているのではないか? 俺の周りに不幸が訪れるのはあのせいだ! そんな我々が抱く不平不満やエゴを肥大化させたのが本書の登場人物であり、彼らが抱いている負の感情は実はほとんど大差ないのだ。 また随所にキング本人とそしてキングがこれまで紡いできた「キング・ワールド」の断片が覗けた短編集だった。 そして私もまたこうやって感想を書いているわけだが、後日読むと、まるで別人が書いた文章のように感じられることがままある。 それは自分がその作品を読んで抱いた感想が思いも寄らなかった内容だったり、もしくは自分の才能以上のことを書いていたりすることに気付かされる時があるのだが、もしかしたら「しなやかな銃弾のバラード」のように、私のパソコンにも本の感想を書く手助けをしてくれる妖精が潜んでいるのかもしれない。 そう考えるとあながち本書に収められている狂気の物語は単に作り話として通り過ぎるのが出来ないほど、心に留まり続ける、そんな風に思えてならない。 |
No.1418 | 7点 | プラスティック- 井上夢人 | 2018/10/14 21:29 |
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かつて井上氏がウェブ上で展開していた『99人の最終列車』を彷彿とさせる群像劇。
それは東京のマンションで起きるある若夫婦の殺人事件を発端にした、男女5人の事件を巡るそれぞれの奇妙な道行を描いた内容となっている。 5人の男女、即ち向井洵子、高幡英世、奥村恭輔、若尾茉莉子、藤本幹也の手記もしくは供述で構築されていく物語はそれら登場人物たちの話によって逆に事態が収束していくわけではなく、謎が謎を呼び、そしてそれぞれのアンデンティティがどんどん歪みを増していく。 人格と云う迷路がどんどん解きほぐされ、それぞれの人格が主張する内容が明らかになるのだが、明らかになるにつれ、逆にこれらの人格を宿す本多初美という手記のない人物像が浮かび上がってくる。その結果読者が知らされるのは彼女がいかに報われず、孤独でそして不幸な人生を歩んできたことかという事実である。 そして最終章はこの語っていない人物、本多初美というタイトルの付いた白紙のファイルで幕を閉じる。6つの人格によって形成された本多初美そのものを自身で語るために。そしてそれは逆にこの女性の人生を読んできた読者自身に彼女の思いを託しているかのように。 複数の人物によって綴られた手記が実は一人の人物の手によるものだった。これは1990年代に多くの作家によって書かれた多重人格ミステリの1つに過ぎないと捉えればそれまでだろう。 しかしこの複数の人物によって書かれた物が実は一人の人物によるものだったというのは実は小説家の創作行為そのものではないか。つまり本書は小説家自身を描いたミステリと考えることが出来るだろう。 貴方は本当の貴方でしょうか。もしかしたら貴方は貴方ではなく貴女なのかもしれない。前作ではいささかファンタジー的な設定だったが、本書では現実的に起こりうる話として我々に問いかける。 本書の題名プラスティックの意味は最後に出てくる。 可塑的。つまり自由自在に形を形成できること。つまり現代社会においてそれぞれ相手の性格や地位によって応対方法を使い分ける我々もまた可塑的な存在だ。ただ感情の振れ幅と生まれた境遇が少しばかり普通だっただけで、我々もまた本多初美なのだ。 |
No.1417 | 7点 | ファイアマン- ジョー・ヒル | 2018/10/12 23:30 |
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ジョー・ヒル4作目の長編は竜の鱗状の模様が浮かび上がり、突如身体が燃え上がって死に至るという竜鱗病という奇病が発生し、世界中にパンデミックを巻き起こすディストピア小説である。
さてこの設定、やはり父親のキングの『ザ・スタンド』を想起させられずにはいられない。軍の研究所から流出した殺人インフルエンザ<キャプテン・トリップス>によって大多数のアメリカ人が死に絶えたアメリカを舞台にしたあの大長編はロシア人が開発した胞子をイスラム過激派組織が散布したことで世界中に蔓延した竜鱗病によって世界中が炎に包まれていく様を描いた本書に大きな影響を与えていることは想像に難くない。 さてこれはジョー・ヒルがキングの息子であるという事実ゆえにもたらされる単なる先入観に過ぎないのだろうか。いや私はヒルは敢えてそれを意識して本書を著しているように思える。 それが最も如実に伺えるのがハロルド・クロスという登場人物を眼にしたときだった。このハロルド・スミス。主人公ハーパーがキャンプに着いた時には既にいない。かつてキャンプに所属していたが、他のメンバーとは距離を置き、共同作業をさぼり、仲間の目を盗んで外出し、外部との連絡を取ろうとしていたために、キャンプの保安担当であるベン・パチェットによって射殺された人物だ。 所謂集団の中の爪弾き者で、常に他者を見下して斜に構えている、いけ好かない野郎だが、私は彼を出会った時にすぐに『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーを思い出した。 このファースト・ネームが同じキャラクターは、優秀で美人な姉と比べられることで劣等感を抱え、それを克服するために知識を蓄えることに固執したため、尊大になり、周囲を見下すようになった少年だ。彼は誰かに認めてもらいたかった彼はそれが叶わない鬱屈した日々を手記に憎悪をぶつけて復讐の炎を滾らせる。 そして彼が最後に行動を共にするのが元教師のナディーン・クロス。そう、この性格と云い、手記を残す設定と云い、ハロルド・クロスはこの『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーとナディーン・クロスから名前を取られた人物とみて間違いないだろう。 またこの竜鱗病は何かの暗喩のようにも思える。怒りや恐怖、ストレスなど心が乱された時に人は己の内から発する業火によって焼かれてしまうこの奇病。それは我々日常生活における感情に任せてしまうがゆえに生じるトラブルを指しているようにも思える。 つまり発火の症状を抑えるのが竜鱗病の菌と同調し、対話をすることで逆に竜鱗病を炎を操る術としてプラスに転じることになるということは、我々日常においてもまず感情的にならずに一旦気を休ませ、自問自答することでなぜそれが起こったのかを理解し、そしてそれを相手に還元することで相乗効果を生み出す、つまりアンガーマネジメントを促す警句のようにも読み取れる。 やはり本書はヒル版『ザ・スタンド』と云っても過言ではないだろう。但し彼はその衣鉢を継ぎながら自分なりのパンデミック&デストピア小説を紡いだのだ。キングが書かなければならなかった『ザ・スタンド』同様、本書はヒルにとって書かなければならなかった物語なのだ。 但し彼が書いたのは『ザ・スタンド』とは表裏一体の物語だ。『ザ・スタンド』では生存者たちの集落が<フリーゾーン>であったのに対し、キャンプ・ウィンダムは竜鱗病患者たち感染者たちのコミュニティだ。 先にも書いたがコミュニティの指導者が母性を象徴する“マザー”アバゲイルに対し、本書は父性を象徴する“ファーザー”ストーリーだ。 そして『ザ・スタンド』が生存者たちでマザー・アバゲイルを中心とした善側の人々と“闇の男”と呼ばれるランドル・フラッグ率いる悪側の人々との戦いと、同じ生存者という立場で善と悪に別れた集団との争いだったのに対し、本書は竜鱗病という正体不明の不治の病の感染者対それらの脅威から逃れ、焼滅クルーなる殲滅部隊にて健康と安全を守ろうとする健常者の生き残りを掛けた戦いで、本来恐ろしい存在となる感染者の立場から描いている。 また『ザ・スタンド』で爪弾き者だったハロルド・ローダーは最後に皆への復讐心から爆弾を仕掛けて複数の死傷者を出してコミュニティを後にする、いわば最後まで憎まれる役回りだったのに対し、本書では同様の役回りであるハロルド・クロスは逆にキャンプのある人物の策略によって射殺されざるを得ない状況に追い込まれた人物で、しかも主人公のハーパーは彼の書いた竜鱗病に関する医学的な考察に読み耽り、彼の研究を高く評価する。つまり本書のハロルドは孤独に研究をし、ある程度病気の仕組みを解き明かすところまで来ており、更に新たな生き方を始めようとした矢先に殺された道半ばでその命を奪われた犠牲者として描かれている。 しかし何といっても最も『ザ・スタンド』と顕著に表裏一体であることを示しているのは主人公の設定だ。 『ザ・スタンド』は群像劇の様相を呈しており、各登場人物のドラマの比重が等しく語られるが、ほとんどが男性中心の物語である。闇の男との戦いに挑むのは選ばれし4人の男たちであり、最後に生き残るスチュー・レッドマンがその作品の最たる中心人物と云えるだろう。 そして彼は<フリーゾーン>への道行で合流するフラニー・ゴールドスミスと恋仲になり、そしてフラニーはスチューの子供を妊娠する。 一方本書のハーパー・ウィロウズもまた妊婦であり、しかも主人公なのだ。彼女は竜鱗病に罹った後に狂ってしまう夫ジェイコブの許を離れ、ファイアマンこと竜鱗病患者でありながら炎を操ることのできるジョン・ルックウッドと恋に落ちる。 ジョー・ヒルはこの身重の女性を妊婦には到底厳しいと思える環境に置き、ハーパーに困難を与える。しかし彼女はそれらに耐え、次第にシンパを作っていく。 それは看護婦と云う死と向き合う職業から来る、人の生死に対して冷静さを保てる心の強さもあるが、やはり子供を宿した母親としての強さが彼女を掻き立てるのだろう。つまり母性の強さを本書では強調する。 母性の象徴である<フリーゾーン>という安住の地で男性性を強調し、男たちの戦いとした『ザ・スタンド』と一方で豊かな父性でコミュニティの住民たちを温かく包み込むキャンプ・ウィンダムを舞台にそこで集団心理が巻き起こす狂気の中でやがて生まれてくる赤ちゃんのために何が何でも生き抜こうと上を向く母性を強調した本書。この見事なまでの対比構造はやはりこれがジョー・ヒルが父親に向けた自分なりの『ザ・スタンド』に対する返信なのだと解釈せずにはいられない。 本書を今読み終わった時、この竜鱗病患者が世界中にパンデミックを引き起こし、世界が健常者と感染者とに二分され、そして健常者によって焼滅クルーによる集団虐殺や迫害され、行き場を失い、世間の人々の目を逃れ、隠遁生活を強いられるこの光景は今の日本の風景と重なり、単なる絵空事ではないように思えた。 昨今日本では東日本大震災を皮切りに毎年どこかで震度5を超える大地震が起き、集中豪雨に晒され、そして大型台風被害に見舞われている。以前ならばそれは一過性のものとして、「その後」には普通の生活がまた始まっていたが、今の日本ではそれらの災害で土砂災害、浸水、液状化などが相次ぎ、インフラがストップし、生活困難者が続出し、仮設住宅での避難生活を強いられる人々が増えている。つまり今までの「その後」ではない、以前送っていた普通の生活が「その後」続けることができない人々が増えてきているのだ。 本書は竜鱗病という作者が想像した感染症によって普通の生活を護ろうとする健常者とそんな健常者たちの迫害から身を隠すように生活を強いられる、二分化された世界を描いたディストピア小説であるが、この二分化された世界は別の形で既に日本に訪れているのだと痛感した。 最後の安住の地であるマーサ・クインの島を目指す道行でハーパーたちは健常者たちによる施しを受ける。飲み物を供され、食事とトイレを提供し、休憩する場所も与えられる。求めれば薬さえも与えてくれる。無論それは家の前に置かれたテーブルに物が置かれ、それを住民が窓から監視する状態であり、提供される休憩所に食事と飲み物が置かれていると云った具合に、全く接することなく、間接的ではある。これもまた被災した生活困難者に対して普通の生活を送っている人々が日本のどこかで行われている風景なのだろう。そしてこの行為をまだそのような事態に直面していない我々がすべきことだと心に刻まなければならない。 そして連続する天災が地球温暖化に起因することであるとすれば、既に手遅れになっているとは思わず、我々が地球に対してすべきことは何なのかを今まで以上に考えなければならないだろう。 ファイアマンの世界は実はもうそこまで来ているのかもしれない。本書とは違う形で。 |
No.1416 | 8点 | リンカーン弁護士- マイクル・コナリー | 2018/10/11 23:39 |
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ミッキー・ハラーことマイクル・ハラー。
実はこれまでボッシュシリーズで名前が登場したことがある人物だ。まずこのマイクル・ハラーという名前だが、ボッシュの実の父親の名前でもある。彼が売春婦だったマージョリー・ドウとの間に作った子供がハリー・ボッシュ。そして本作の主人公ミッキー・ハラーは彼が再婚したラテン系のB級映画女優との間に作った子供で、父と同じ名前を持つ弁護士。つまりボッシュとミッキーは異母兄弟に当たるのだ。 犯罪者を捕まえ、刑務所に送る刑事と容疑者の無実を信じるようが信じまいが、無罪を、もしくは刑の軽減を勝ち取ろうと手練手管を尽くす刑事弁護士。お互い水と油の関係である2人が奇しくも血の繋がりのある兄弟という設定にコナリーの着想の冴えを感じさせる。 父親は伝説的名弁護士としてその名を遺しているが、このミッキー・ハラーは貧乏暇なしとばかりに複数の案件を請け負い、法廷から法廷へ走り回る。東奔西走を地で行く走る弁護士だ。そして彼の最大の特徴は上にも書いたが事務所を持たず、高級車リンカーンを事務所にしているところだ。 弁護士が主人公であるリーガル・サスペンスは通常自分が担当する裁判において依頼人の身元や事件を調べていくうちに意外な事実・真実が浮かび上がり、真相が二転三転するのと、圧倒的不利と思われた裁判を巧みな弁護術で無罪を勝ち取る構造であるのに、主人公に多大なる負荷を掛け、ピンチに陥れるのが常のコナリーは弁護士ミッキー・ハラー自身にも刑事ハリー・ボッシュ同様に危難に見舞われる。 悪を撲滅するには法を逸脱した捜査を厭わないボッシュに対し、悪人であろうが無罪を勝ち取る、もしくは少しでも刑を軽減することを信条に法を盾に正義をかざしてきたハラー。悪を食いぶちにしてきたハラーはルーレイの事件で目が覚めるのである。 「無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない」 これはハラーの父親が遺した言葉である。弁護士にとって理解しがたい言葉がこの瞬間ハラーに重くのしかかる。彼はジーザス・メネンデスという無実の人間を冤罪で刑務所に送り、人生を台無しにした重しを課せられたことを悟るのだ。 さてもう1つのコナリーの新シリーズの幕開けとなった本書だが、ふと気づいたことがある。それは2つのシリーズに共通して娼婦に焦点が当てられていることだ。 ボッシュが花形のLA市警から警察の下水と呼ばれるハリウッド署へ左遷させられる原因となったのが娼婦殺しのドール・メイカー事件であり、また彼の母親も娼婦であり、4作目で母親が殺害された事件を探ることになるが、このミッキー・ハラーシリーズの幕開けが娼婦殺害未遂事件、そして過去に娼婦殺しの罪で服役した依頼人が冤罪であったことなど、コナリーは娼婦に纏わる事件を多く扱っているのが特徴だ。ノンシリーズにも同様に娼婦を扱った『チェイシング・リリー』という作品もある。 元ジャーナリストであったコナリーがボッシュの人物設定に作家ジェイムズ・エルロイの母親である娼婦が殺害された「ブラック・ダリア事件」を材に採っているのは有名な話だが、それ以後の作品においてこれほど娼婦を事件に絡ませているのは何か別の要素があるのではないか。身体を売ることで生活の糧を得ている彼女たちはしかし、女優を夢見てハリウッドに出て、夢破れた美しき女性も多いはずで、押しなべてコナリー作品に出る娼婦はそんな美貌を持った者たちである。 単に現代アメリカの犯罪、社会問題をテーマにするのに社会の底辺に生きる彼女たちが題材に適しているだけなのか、それとも彼がジャーナリスト時代に娼婦たちを取材することがあり、そこで彼の心に作品を通じて訴える何かが植え付けられたのかは不明だが、裁判を担当する検察官テッド・ミントンの口を通じて、こう語られる。 「売春婦も被害者になりうるんだ」 私はアメリカ社会において売春婦がどのような扱いを受けているのかを知らないが、自分の身を売る、よほど蔑まされた存在としてかなり見下されているようだ。そんな人間でも裁判を受ける権利があり、相手は法の下で裁かれるべきだと謳っているように思える。 今まで一連の作品を加え、今後コナリー作品を読むに当たり、これは新たな視座が得られるポイントなのかもしれない。 息もつかせぬ一進一退の法廷劇のコンゲーム的面白さと、そして犯罪者の疑いのある人々を弁護することの意味と恐ろしさをももたらす、コナリーの新たなエンタテインメントシリーズ。 またも読み逃せないシリーズをコナリーは提供してくれたことを喜ぼう。 |
No.1415 | 1点 | 悪魔のカタルシス- 鯨統一郎 | 2018/10/07 22:06 |
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結論から云うと時間の無駄だった。あまりに広げすぎた内容は収束しないまま終わる。むしろ物語の決着をつけるのを作者が放棄したようだ。
突如悪魔の姿が見えるようになった26歳の若者、牧本祥平が同様の能力を持つ者たちを集め、悪魔の侵略に立ち向かうといった内容だが、作者はその単純なプロットに、一捻りも二捻りも加えることで複雑化し、先の読めないストーリー展開を拵えようとしているが、逆にそのために収集がつかなくなってしまったようだ。 これは恐らく何冊か書き続けられる伝奇サスペンス小説として書かれれば、また違った読み応えとなったかもしれない。 先の読めない展開に次第に強まっていく悪魔の勢力。侵略物の小説としては定番ながら世界が広がる要素を備えている。 しかし脚本のようにあくまでシンプルで紋切り型な文体に展開が早く、また登場する登場人物もじっくり描写されることもなく、物語を進めるためのキャラクターとして書かれているかのように鯨氏の扱いは実に淡泊だ。 書き方によってはもっと面白く書けたと思えるだけに。この結末はまるで某有名少年誌の不人気で連載打切りを云われたマンガのように、唐突で投げやりだ。 本書の冒頭には作者からのメッセージでこう書かれている。 「あなたにはこの本を読まない権利があります」 つまり本書は最後のメッセージに照らし合わせれば作者自身が読むのをやめることを進めている作品だ。つまり作者自身がその出来栄えから読まなくてもいいよ、駄作だからと云っているのかもしれない。 実際その通りで、この本は読まないでいい本だった。 本書は書き下ろし作品である。この原稿を受け取った担当者はどのような感慨を抱いたことだろうか。私はある意味冒険だったのではないかと思う。作者の意図が読者に通じるかを試すための。 しかしもしそうだとしてもそんな作者の意図は別にして小説として問題の作品だ。 これを手に取る人は作者の云う権利を行使することを強くお勧めする。 |
No.1414 | 7点 | 梟の拳- 香納諒一 | 2018/10/04 23:23 |
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2014年第60回江戸川乱歩賞を受賞した下村敦史氏の『闇に香る嘘』は全盲者を主人公にした斬新なミステリとして選考委員の満場一致で決定した作品だが、それに遡ること約20年前に香納諒一氏によって全盲者を主人公にした作品があった。それが本書『梟の拳』である。
但し下村作品の主人公村上和久はいわゆる一般市民であったのに対し、本書の主人公桐山拓郎は元ミドル級のボクシングチャンピオンで、網膜剥離によって全盲を余儀なくされた人物。勝負の世界に生きてきた彼は勝ち気で短気な性格であり、まだ若い彼は言葉遣いもぞんざいである。桐山は引退後その経歴を活かして妻をマネージャーにしてタレント生活を送っている。 彼が巻き込まれる事件はチャリティー番組中に起きた知り合いの死に端を発した、原子力業界に絡む政治と金の、そして過去日本が行ってきた非道徳的な行為に纏わる、日本の暗い闇だ。 とにかく次から次へと出てくる、利権を貪ることを一義とした団体、組織が次から次へと出てくることで、最初はかなり目まぐるしく変わるストーリー展開に戸惑いを覚えた。 やがて調査するうちにチャリティー番組に隠された不穏な金の動きが発覚する。毎年3千万ものお金が寄付金に水増しされ、そのお金が≪日本原子力平和研究センター≫から出てきており、そして≪朝日荘≫、≪ひなげし学園≫、≪あけぼの荘≫といったいずれも障害者の面倒を見る福祉施設に寄付されている。 正直この寄付に関する真相はおぞましい。いきなり宇宙の彼方へと飛ばされたかのような真相である。 東日本大震災に由来する福島第一原発事故で原発への反対が厳しいからこそ、フィクションとはいえ、この原発業界を扱ったおぞましい内容が実に心にずしんと響く。あの事故以来、原発業界が伏魔殿のような扱いをされているがゆえに、この内容はさもありなんと思えてしまう。 タイトルに示す『梟の拳』は盲目のボクサー桐山が幾度となく彼らの前に立ち塞がった≪須藤グループ≫が放った刺客、名もない大男との決戦で、絶対不利の中、留美の機転で照明が消された中で見事にノックダウンしたその拳を指していることと思われる。 梟は夜目が利くが盲目の彼は目が見えない、しかし目以外の耳、その他五感で見て、拳を放つ。過去の栄光に縋って、失うことばかり恐れていた彼。勝つことのみに固執しながら、暗くなかったら俺の方が勝っていたと相手に云われ、それを認めたその時、桐山は変わったのだ。彼が得たのは盲目でも勝てるという矜持ではなく、勝ち負けなどはいらないという境地だったのだろう。 1995年に発表された本書。読み始めは盲目になった元ボクシングチャンピオンが徒手空拳で個人が組織と戦う、ハードボイルド小説を想像していたが、最後に明かされるのは原発建設に隠された国家的陰謀という実に重たい内容だった。 舞台となる24時間のチャリティー番組について例えば恰も寄付に駆け付けたかのように見える芸能人たちが企画の段階でスケジュールに織り込まれていること、寄付で集まる金額と同じくらい番組制作費にお金がかかっており、単に売名行為に過ぎないこと、など作者はあくまでフィクションであると断っているが、案外信憑性の高い話かもしれないと思わされる。実は本書を読んだのは今年2018年の放送直前だっただけに非常にタイムリーであった。 そして現在その安全性と存在意義が問われている原発とこちらもまた23年経った今もまだタイムリーな話題で、しかも内容はかなりセンシティブだ。 今読んだからこそ、響くものがある。またも私は読書の不思議な繋がりに導かれたようだ。 |
No.1413 | 7点 | 夜の海に瞑れ- 香納諒一 | 2018/09/30 23:21 |
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久々に真っ当なハードボイルド小説を読んだ気がした。
香納諒一デビュー作の本書はハードボイルド小説を書く事に真摯に向き合っている姿勢が感じられ、作者の作家になることに対する並々ならぬ決意という物を感じた。 第1作目にして、作者は結構複雑なプロットを用意している。 暴力団の影がちらつく余命幾許も無い老人の頼みとその老人が記録上、シベリア抑留者の死亡者リストに上がっていること、老人が何故麻薬と金を持ち逃げしたのか、逃亡する老人を複数の暴力団のみならず、ロシア人もなぜ追いかけるのか、などなどなかなか読ませる。物語の進め方も一つ一つ手掛かりが解るたびに更に謎と新たな関係者が登場し、事件の裾野がどんどん広がっていく構成になっており、飽きさせない。 第2次大戦の混沌を巡る深い因縁が事件の裏側に横たわっているという真相も作者のこの作品に賭ける意欲がひしひしと伝わってくる。 そしてこの作者の魅力として、しっかりとした描写力と人物像の造形深さが挙げられる。主人公碇田の一人称描写で語られる本書において視線のブレがなく、また時折挟まれる自然描写の雅さなど、物語を形成する風景についても筆を緩める事がない。一つ一つの言葉を慎重に選んでいるのが実によく判る。 そして魅力ある登場人物の数々。付き添いの看護婦の弥生、悪友ともいうべき安本兄弟の兄、兵庫県警の綿貫刑事、敵役の恩田庄一など、それぞれに癖があり、物語に膨らみを与えている。 特に碇田の敵役である安本兄弟の兄と恩田のキャラクターが際立っている。河合組側の人間、安本と敵対する森田組側の人間、恩田。しかし、その2人は吉野老人を中心に動いており、それぞれが違った形で主人公碇田をサポートする(いや正確には、サポートを余儀なくされるのだが)。この辺の敵味方が入り乱れる構成がそれぞれのキャラクターを惹き立てる事に成功している。 さて、結局のところ、本作は『血の収穫』を思わせる構成となっている。 最終的に行き着くところは「河合組」と「森田組」の麻薬取引先を巡っての抗争だ。 『血の収穫』といえば、ハードボイルドの始祖ダシール・ハメットの代表作である。このことからも作者が、自分はハードボイルド作家としてこれからやっていくのだと宣言している風にも取れる。俺はこういう小説が書きたいのだ!と声高に叫ぶ声が聞こえてくるかのようだ。 傑作とはまで行かないまでも佳作であることは確か。語弊があるように聞こえるだろうが、正に典型的なハードボイルド小説、プライヴェート・アイ小説である。 しかし、これがデビュー作であるのならば上出来の部類だろう。この時、作者香納諒一30歳か。 |
No.1412 | 7点 | 春になれば君は- 香納諒一 | 2018/09/23 22:07 |
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負けました。このような気持ちにさせられるなんて。題名もいい。 |
No.1411 | 10点 | 終決者たち- マイクル・コナリー | 2018/09/16 23:02 |
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ボッシュシリーズ新章の開幕である。何度この言葉を書いたことだろうか。刑事を辞し、私立探偵を営んでいたボッシュはロス市警が新設した復職制度を利用し、刑事に復帰する。配属先はロス市警未解決事件班。ドラマにもなっているいわゆる「コールド・ケース」と呼ばれる未解決事件を取り扱う部署で過去の事件に取り組むことになる。
相棒は元部下のキズミン・ライダーで、班長は年下ながらボッシュに深い理解を示しながら、チームを掌握し、団結心を鼓舞するリーダーシップを持つエーベル・プラット。更に班内は署の精鋭ばかりが集まっている。つまりボッシュはこれまでに比べて恵まれたチームで働くことが出来、そして捜査も自然チームワークが主体となる。一匹狼として独断捜査をしていたそれまでのボッシュとは異なっている。 しかし未解決事件を扱う班に配せられたというのは皮肉なことだ。なぜならこのボッシュシリーズは過去の闘いの物語だからだ。彼は常に過去に向かい、そして新たな光を当てることに腐心している。失われた光をそこに見出そうと過去という闇の深淵を覗く。そしていつも闇からも自身が除かれていることに気付き、取り込まれそうになるところを一歩手前でこらえるのだ。 自身が抱える闇と対峙し、そして事件そのものが放つ闇に向き合う。何年も前に埋められた骨が出てきても諦めずその過去に挑む。それがこのハリー・ボッシュという男の物語だ。 もう1つ忘れてならないのはアメリカに根深い人種差別問題がテーマになっていることだ。 コナリーは黒人に暴行を加えた白人警官が無実となったことで勃発したロス暴動を扱った『エンジェル・フライト』以降、同じくロスを舞台に刑事として働くボッシュの活躍を通じて人種差別根強いロスを描いてきた。そしてそのネガティヴなイメージを払拭させようと躍起になっているロス市警を舞台に1988年というまだ差別の風潮が根強いロスを描くことで、コナリーは人種差別によって引き起こした事件を深堀している。それは浄化という名の下で、不名誉をリセットしようとしているロス市警、いやロサンジェルスと巨大都市自体を風刺しているかのようだ。根本的に変わらないと悲劇はまた起きると痛烈に警告するかのように。 未解決の殺人事件が当事者に及ぼす影響とはいかなものだろう。ボッシュとライダーが当時の関係者に事情聴取のために訪ねると、一様に彼ら彼女らはまだレベッカの事件のことを覚えており、開口一番に犯人が見つかったのかと尋ねる。つまりそれは皆の中で事件が終っていないことを示しているわけだが、それがまたそれぞれの人生の転機となっていることが見えてくる。 しかし上に書いたようにいくら犯人が捕まろうがその事件の当事者たちには終わりはないのだ。区切りはつくだろう。しかし彼ら彼女らはその人の理不尽な死を抱えて生きていかなくてはならない。 罪を憎んで人を憎まずというが、本当に愛する者を奪われた人たちがそんな理屈では割り切れない感情を抱えて生きていけるわけがないと本書の結末は大声で訴えかけてくるが如く、苦い。 今までのシリーズ作は常に過去に対峙するボッシュシリーズの特徴を踏襲しており、ボッシュ自身の過去から今に至る因果が描かれていた。 ボッシュに関わった人物たちが過去に犯した罪や過ちが現代に影響を及ぼし、それがボッシュ自身にも関わってくる、もしくはボッシュの生い立ちに起因する様々な事柄が事件に思わぬ作用をもたらす、そこにこのシリーズの妙味と醍醐味があると思っていた。 しかし本書の読みどころは過去の事件に縛られた人たちの生き様だ。そしてそれ自体がそれまでのシリーズ同様の読み応えをもたらしている。 ボッシュ自身の過去に固執することなくボッシュが事件を通じて出遭う人たちを軸に濃厚な人間ドラマが繰り広げられることをコナリーは本書で証明したのだ。 しかしこれだけの巻を重ねながら毎度私にため息をつかせ、物思いに浸らせてくれるコナリーの筆とストーリーの素晴らしさ。 物語の最後、容疑者の殺害に意気消沈するボッシュにライダーが次のように云う。 「あなたがなにをするつもりであろうと」(中略)「わたしはあなたについていくわ」 私もコナリーが何を書こうともずっと付いていこう。そう、決めた。 |
No.1410 | 8点 | 謎のギャラリー 名作博本館- 評論・エッセイ | 2018/09/14 23:55 |
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北村氏が自身の読書遍歴の中からそれぞれリドルストーリー、中国公安小説と日本最初の本格ミステリー、こわい話、ギャンブル、ゲーム小説、恋愛物語、謎解き物について語ったエッセイ。
まず驚かされるのは北村氏の驚くべき読書量。古典から現代、そしてもちろん国内のみならず中国までも包含したミステリのみならず純文学や大衆小説まで精通している。従って本書で語られる作品は多種多様。『円紫師匠と私』シリーズの主人公「私」は呼吸するように本を読むほどの本好きとして描かれているが、それはまさにこの作者北村氏本人に他ならないという思いを新たにした。 こういったいろんな本について語りたいエッセイではどうしてもその本の内容に触れなければならないが、単に粗筋を書いただけではその作品の本質に触れることが出来ないこともざら。従ってどうしても物語の核心に触れることを余儀なくされるのだが、本書では挙げられた作品の核心に触れる時は、ストップマークとしてジャンケンのパーのマークが挿入され、核心に触れる部分が終るところには「もういいよ」を示すチョキマークが挿入されるという親切設計となっている。 読者をしている人が行き当たる命題の1つは「人生にどれだけ本が読めるだろうか?」ということだろう。その命題に対し、まず明らかなのは誰もが世にある全ての本を、小説を、物語を読むことはできないということだ。でも読みたい本はたくさん目の前にあり、が、しかし時間は限られている。私も40を半ば過ぎて後残りの人生での時間を考えることが多くなった。 そんな限られた時間で人はせっかく読むのだから面白くない本を読んで時間を浪費したくないと考え、年末のランキング本で上位に入った作品を選んだり、ベストセラー本を選んで、時間の浪費リスクを極力回避しようとする。また気合の入った読書家であればそれこそ寝る間を惜しんでいついかなる時も本を携え、空き時間が少しでもあれば本を開いて読むことだろう。または速読のスキルを磨いて1冊に掛ける時間を短縮し、多くの本を読むようにする、とこの命題に対する人の答えは様々だ。 そしてこういった本に纏わるエッセイ、そしてアンソロジーを編むためにあれこれ色んな作品を挙げては話をするエッセイもまたこの命題に対する答えの一助となっていることだ。 知らない作者が多く、まだまだ自分の読書量が少ないものだと思い知らされた。北村氏が感じ入った作品がどんなものかを知るのも興味の1つだが、やはり自分が手に取らないであろう作品を読む機会を得ることがこういったエッセイを読む1つの意義だと思う。 北村氏の物語への愛情と、編集者とのちょっとお茶目なやり取りがアクセントとなったエッセイは私にまた物語への興味を掻き立ててくれた。 ああ、1日が30時間あればいいのに。このようなエッセイを読むと、いつもそう思う。 |
No.1409 | 6点 | アップフェルラント物語- 田中芳樹 | 2018/09/12 23:57 |
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オーソドックスだが、宮崎駿の映画を観ているような筆捌きは見事! |
No.1408 | 7点 | 十五少年漂流記- ジュール・ヴェルヌ | 2018/08/16 23:51 |
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ヴェルヌの代表作の1つで児童文学の傑作として今なお読まれている名作。私の父親が子供の頃に読んで大変面白かったと云っていた本書。そして今なお子供の夏休みの読書感想文の課題図書の1つに挙げられている本書を40も後半の歳になって初めて今回手に取った。
まずヴェルヌのこの不朽の名作が『地底旅行』や『月世界旅行』、『海底二万里』、『八十日間世界一周』といったビッグネームと比べて後の年に書かれていることに驚いた。ヴェルヌ御年60歳の1888年に発表され、作家としては円熟の領域からやや下った時期に書かれている。 そして本書は明らかに児童を、少年少女を対象にして書かれているのが明確であり、先に書かれた『神秘の島』のジュヴナイル版といった趣である。 いかな名作であってもこの歳になってこのような児童文学を読んで果たして愉しめるかと思っていたが、それはまったくの杞憂であった。 面白い、実に面白い。そして次から次へと創意工夫で困難に立ち向かう少年たちに胸躍らされてしまう。とにかく彼らの生活力の豊かさが凄いのだ。 彼らの無人島生活は悲惨さよりもむしろ楽しさが強調され、全く悲愴感がない。 但し全く問題がないかと云うとそうでもなく、15人の仲間たちの軋轢が存在し、やがて顕在化してくる。 また思春期の少年たち特有のスクールカーストが備わっており、それぞれ自分の能力に自負を持つ生徒たちとの対立があり、派閥が生まれている。 私はこのような危難に遭遇した少年たちは、生き延びるという大目的のためには一致団結して困難に立ち向かうと思っていただけに、この15人の中での分裂が盛り込まれていることに驚いた。ヴェルヌはいわゆる学校生活で起こる、このような仲良しグループたちの反発をこの漂流した少年グループにも持ち込むことで、少年たちのリアルな世界を作っている。これを1888年に盛り込んでいることに驚かされるのである。 本書の原題は『二年間の休暇』というように彼ら15人の少年が無人島で過ごし、故郷に帰り着くまでに要した期間は2年という長きに亘ってであった。 「男子三日逢わざれば刮目して見よ」という言葉があるように、少年たちにとっての2年は飛躍的に成長を遂げる期間だ。 なんと清々しい物語だったことか。やれば出来ると少年少女たちを励ますのに実にいい物語だ。親元を離れて無人島で子供たちだけで暮らすという絶望的な状況を彼らは持ち前の陽気さと知恵と勇気で乗り越える。今年も夏休みの読書感想文の課題図書の1つに挙げられていたが、今なお読まれるだけの価値はあるし、そしてこんなに面白い本を読むことが宿題として与えられている子供たちはそれを選んだ先生、そして何よりも作者のヴェルヌに感謝すべきだろう。 今頃になって本書を初めて手に取ったが遅きに失したという思いは一切ない。寧ろ少年時代に戻ったかのような冒険心が蘇ってきたことに感謝したいくらいだ。 本書は人生で読むべき作品の1つとして是非とも皆に読んでもらいたい名作だ。 |
No.1407 | 7点 | 骸骨乗組員- スティーヴン・キング | 2018/08/12 23:49 |
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キング自身による序文によれば本書に収められている短編の書かれた時期は様々で18歳の頃に書かれた物もあれば、本書刊行の2年前に書かれた作品もあったりとその時間軸は実に長い。
勢いだけで書かれたようなものもあれば、じっくりと読ませる味わい深い作品もあったりと様々だ。 本書に収められた6編のうち、5編は短いものでは8~12ページのショートショートと云えるものや、20~30ページの短編の中でも短いものが収録されている。しかし最後の1編「霧」は220ぺージを超える中編であり、やはりどうしても抑えきれない物語への衝動が感じさせられる―しかしこの作品も含めて残り3冊を1冊の短編集として刊行するアメリカ出版界の短編集不振が根深いことが想像させられる―。 しかしこの6編、実に多彩である。 各編については敢えて触れないが、やはり本書のメインは中編の「霧」になるか。 作者自身のB級ホラー趣味を存分に盛り込んでいるのだが、それだけではなく、ショッピングセンター内で起こる人間ドラマも濃密だ。閉鎖空間で生まれる人同士の軋轢、異常な状況で首をもたげてくる人々の狂気を描いたパニック小説の様相を成し、やがて最後は決して安息をもたらさない霧から逃げきれないままの主人公たちを描いたディストピア小説として終わる。まさに力作である。 全く以て1つに括って語れないキングならではの短編集。 本書に収められた「カインの末裔」の如く、思わぬ不意打ちを食らい、「死神」のように見てはいけない物を覗き、そして「ほら、虎がいる」のようにページを捲った先には虎に遭遇するかもしれない。それはまさに「霧」のように、残された2冊の内容も全く先が読めないようだ。 キングの云うことに従って彼の手を離さぬよう、次作も彼の案内されるまま、奇妙で不思議な、そして恐ろしい世界へと足を踏み入れよう。 |
No.1406 | 7点 | ナ・バ・テア- 森博嗣 | 2018/08/03 23:50 |
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この『スカイ・クロラシリーズ』、前作同様、端的な描写と独特の浮遊感を湛えた文章で紡がれる。それはクサナギの一人称を通じた戦闘機乗りの、そしてキルドレという特殊な人間の思いだ。その思いは断片的で、実に恣意的だ。つまりこのシリーズはミステリではなく、ジャンル的には純文学に近い。
中心となって描かれるのはクサナギが任務に就いている時の戦闘シーン。短文と改行を多用し、極力無駄を配したリズミカルな文章で紡がれるそれは、数ページに亘り、ページの上部のみに文字が集約され、そして短文であるがために下部が白紙であることで、さながら文章自体が空の雲と空を飛ぶ様子を表しているような感覚を与え、読者が実際に空を飛び、そしてクサナギの感じるGすらも体感するように思える。 また戦闘機乗りの独特の死生観も実に興味深い。 彼らは相手と戦うために飛ぶ。そして実際に相手を撃墜して還ってくる。そのまた逆も然り。 しかしそれが彼らの仕事であり、人生であると悟っている。命を賭けた仕事という重い職責を負いながらも死と生とは切り離し、純粋に飛行機に乗って戦うことをゲームのように楽しんでいる。ゲームに敗れて死ぬことは任務を、与えられた人生を全うしたことであり、だから飛行機に乗らない人たちになぜ死ぬかもしれないのに戦闘機に乗るのか、怖くないのか、なぜ戦うのか、相手を撃墜することに躊躇いはないのかと、いわゆる一般的な生殺与奪の観点で職務について問い質されること、そして撃墜した死んだことに対して可哀想だと同情されることを嫌う。 自分たちはやるべきことをやって死んだのだからこれほど幸せなことはないと誇りを持っているのだ。唯一残る悔いは相手よりも自分が未熟であったという事実を突きつけられること。命を賭けた勝負の世界に生きる戦闘機乗りの心情とは本当にこのような物なのだろう。 時間軸で云えば2作目の本書は過去へと向かっている。ミステリが既に起きてしまった事柄の謎を探る、つまり過去に遡る物語であることを考えれば、第1作は序章だ。 私は文庫版で読んだがその橙一色に染め上げられた表紙は恐らく黄昏時の空を示しているのかもしれない。恐らく草薙水素が絶望に暮れる夜に至る前の物語だという意味が込められての色なのか。 夕暮れ時はどこか切なく哀しい思いにさせられるが、本書の中の草薙水素はまだ元気だ。None but Air。空以外何もない。今日も草薙水素は空を飛ぶ。絶望に明け暮れるその日が来るまで。 |
No.1405 | 7点 | 震源- 真保裕一 | 2018/08/02 23:42 |
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しかし気象庁と地震とは真保氏はまたもや何とも地味な主人公の職業とテーマを選んだものだ。こんな地味な題材を用いながらしかし、真保氏はエンタテインメントを紡ぐことに成功している。
とにかく話が進むうちに新たな謎が次から次へと出てくるため、全く先が読めない。 しかし江坂の行動原理に対して設定の甘さを覚えてしまう。一介の気象庁の人間である彼が森本を執拗に追うのは、彼がかつては気象研究所への席を争った相手であり、愛人問題で仕事のミスが多かったことで当直しないように忠告しながら、それをさせてしまったことが、彼をその椅子から蹴落とすことになったことで責任を感じている思いからである。 しかしそれは森本も云うように彼自身の自己責任の問題であり、江坂には全く非がない。それにも関わらず自身にも責任の一端はあるとしてそれに固執して森本の世話を焼くのは単に自分に酔っているとしか思えない。 江坂は自分が納得したいから行動するというが、それも自分の辞職を掛けてまで行うことかと首肯せざるを得なかった。江坂がここまで執心する性格付けとして火山の観測業務は地味な作業の積み重ねで手間暇かけて調べることに慣れているからだとなされているが、この執念はちょっと異常だ。 更に森本のプライヴェートに介入し過ぎである。元仕事仲間が家庭崩壊の原因となった愛人問題について別れた家族に訊くという不躾さに、更にその愛人の居所をその家族から訊くという厚顔さ。また森本の娘靖子に、頑なな心を少しでも柔らかくするためとは云え、やたらと自分の過去を話すところは、下心も透かして見えるほどである。しかも亡くなった森本の身元確認を行った翌朝にも自分と父親とのことを持ち出して話をするところによほどこの男は靖子に好かれていると自信があるのだなと思ったくらいだ。 また上に書いたように35にもなって独身で父親への反抗心が残っている彼はどこか幼い感じを覚えてしまう。特に上に書いたように辞職を決意してまで、納得したいからと云って人の苦い過去を掘り起こしてまで、プライヴェートに介入するやり方はちょっと度が過ぎる。しかも彼が自身の好奇心を満たせば満たすほど、当事者は傷ついていく。 さらに後半は奄美大島の西の東シナ海沖で海上保安庁と海上自衛隊が合同で行っている秘密の演習の謎を探るために気象庁へ辞表を提出してまでそれを取材している雑誌記者と行動を共にして、かつて趣味でやっていた登山の経験を活かして、怪しいと思われる硫黄鳥島に潜入しようとまでする。もはや一介の気象庁の職員というレベルを超えた行動力と活躍を見せる。正直ここまで人生を賭けてまで調査する江坂の行動は度が過ぎると思った。 しかしそんなことを云っていると本書の物語自体が成り立たないのだが。 また物語の渦中にある森本俊雄が50にもなって愛人を作った理由が明かされなかったのも心残りだ。家庭のある身でありながら、なぜこの歳で若い女性に溺れたのか。実直な仕事ぶりを見せていた彼なりの理由が知りたかった。それが十分語られず、自らの過ちで家族が取り返しのつかないことになり、離婚するまでに至った彼の行動の真意が知りたかった。 読み終えた今、感じるのは実に複雑な構成の物語だったということだ。脇役に至るまで細かな背景を描き、1人の行方知れずの人物を捜すために福岡と鹿児島を往復し、人から人へと訪ね歩いて、細い一本の糸を辿るような私立探偵小説の様相を呈しながら、一転して東シナ海沖で隠密裏に動いている海上保安庁、海上自衛隊の演習の謎を探るためにセスナを使っての調査、そして夜間の硫黄鳥島への潜入行と冒険小説へと転身させ、最後は日本に巣食うスパイの正体を探る諜報小説で終わる。目まぐるしく変わる小説のテイストに戸惑いを隠せない。 そして何よりも一抹の割り切れなさを抱えて終わることが実に勿体ないと感じる。 1人の男の辞職の真意を自分が納得したいからという理由で追い求めた男が始めた行動によって失われた代償はあまりに大きかったと思うのは私だけだろうか。 少なくとも日本の隠されたもう1つの貌を知った江坂の明日は今までのそれとは違うはずだ。それを彼が本当に望んだことなのか、それを考えると彼は知り過ぎてしまったのかもしれない。知ることの恐ろしさと虚しさを感じた作品だった。 |
No.1404 | 7点 | 痩せゆく男- スティーヴン・キング | 2018/08/01 23:50 |
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肥満の問題は現代社会の最大の関心事と云っていいだろう。もう実に数十年に亘って数々のダイエットが紹介され、そしてダイエット本がベストセラーの上位に上ってきたが、今なおそれが続くのは決定的なダイエット方法がないからだ。
そう、現代人が最も悩まされているのは肥満なのだ。 しかし本書の主人公ウィリアム・ハリックは全く逆。彼は食べても食べても瘦せていってしまう。 この現代社会の抱える問題とは真逆を行くウィリアム・ハリック。 この食べても食べても太らず、むしろ痩せていく男ウィリアム・ハリックはまさしく羨望の的なのだが、これがキングの筆に掛かるとこの上ないホラーになる。彼はジプシーの老婆を誤って轢き殺すことでそのジプシーの老人に痩せていく呪いを掛けられてしまうのだ。 本書はこのウィリアム・ハリックが徐々に瘦せゆく過程を描いたホラーでありながら、タイムリミットサスペンスの妙味も含んでいる。通常タイムリミットサスペンスとは、全てが手遅れになる「その日」、もしくは訪れるべき「その日」に向けて、日数がカウントダウンされるのだが、本書ではウィリアム・ハリックのどんどん減っていく体重の数値がその役割を果たしている。この辺の着想の妙はまさにキングならではだ。 本書はリチャード・バックマン名義で刊行された作品で、開巻されて目に入るのは妻への献辞。その妻の名はクローディア・イーネズ・バックマンとなっている。 知っての通り、キングの奥さんの名は作家でもあるタビサ・キングである。そう、キングは自身がバックマンとは別人であると欺くために架空の奥さんの名を仕立て上げたのだ。しかも作中人物に「まるでスティーヴン・キングの小説みたいだ」と云わさせるまでして別人であることを主張している。 それでも世間の目はごまかせず、ファンの間ではキング=バックマンではと噂され、とうとう自白したとのこと。いやあ、なかなか文体や雰囲気などは変えられないのだろう。本書はそのきっかけとなった作品で本書刊行翌年の1985年にキングはリチャード・バックマンを封印したとのことだった。 ウィキペディアによれば元々は当時の1年1作家1作品というアメリカ出版界の風潮に、多作家であるキングが別名義を仕立てることで2冊出そうとしたらしいが、既にベストセラー作家になっていたキングが別名義でどれだけ売れるのか試したかったとも云われている。しかし上に書いたように本書刊行後、キングであることを明かすとこの作品の売上が上がったそうだ。 作品の質よりもビッグ・ネームに読者は惹かれる。作中、人生はツーペーだ、つまり釣り合いは取れてるとハリックはタドゥツに云う。彼が娘を轢き殺し、その代償で痩せていく呪いを掛けられた。これがツーペー。だからおしまいにしようと。しかしタドゥツ・レムキはそんなものは存在しないと否定する。 上に書いたようにバックマン名義よりもキング作品であったと知られたことで売り上げが伸びるのであれば、やはり世間はいい作品であれば売れるといったほどツーペーではないようだ。そういう意味では本書はキング自身の人生をも証明した予言の書と云える、と考えるのはいささか考え過ぎだろうか。 |
No.1403 | 8点 | 2018本格ミステリ・ベスト10- 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 | 2018/07/31 23:49 |
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今年も年末恒例の企画として刊行された『本格ミステリ・ベスト10』。特に2017年は新本格ミステリが30周年を迎えた年としてその特集号となっている。
まずはその新本格30周年を迎えた記念すべき年のランキングを制したのはなんと『このミス』同様、鮎川哲也賞受賞作である新人、今村昌弘氏の『屍人荘の殺人』だった。これで本作はなんと週刊文春の年間ベストランキングも制し、新人のデビュー作にして初の3冠達成という偉業を成したことになる。今までそんな作品はヴェテラン作家でさえ成し得なかったことだ。これはまさに30周年に相応しい“事件”だと云えよう。 そしてその後のランキングは、まさに「本格ミステリ」に焦点を当てているだけあって、『このミス』とは異なるランキングとなっているのが嬉しい。近年本格ミステリが台頭してきて『このミス』とのランキングの近似性が目立っていただけにこのオリジナリティは実に楽しい限りである。 今回の特集に目を向けると、やはり上に述べたように新本格30周年の特集が光る。法月綸太郎氏、三津田信三氏、青崎有吾氏の本格三世代座談会は実に世代性が色濃く出て、実に面白かった。同じ本格ミステリを書きながら、読書歴は異なるところ、特に青崎氏は法月氏ら新本格第1世代からの読者であることや海外ミステリから入っていきながらも昨今の出版状況で絶版が多くて法月氏のように十分に読みたい本が読めないことなどが述べられていて、私ですら世代差を感じた。 更に新本格の30年の歩みとして発表作品の変遷、更に30年間で生み出された本格ミステリの各カテゴリーにおける傑作や扱われたテーマなどについてコラムが付されており、まさにミステリ濃度100%の内容だった。もっとページを増量して更にディープに特集してもいいくらいだと思った。 今回も例年通り、内容の充実ぶりにたっぷり堪能させられた。 やはり自分の中には本格ミステリへの渇望感が常にあるのだ。毎回このムックを読むとこの本格ミステリ好きマインドが胸を焦がし続ける。 そんな積読本が多い状態でまたも無視できない新人が登場した。今村昌弘氏の作品はもう私の本棚の一画を占めることが決まったも同然だ。 そしてまた私は増え続ける蔵書を前に途方に暮れるのである。それでもなお今年もまた読み逃せない傑作が生まれることを期待しよう。 とにかく読まねば、読まねば。 |