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雪さん
平均点: 6.24点 書評数: 586件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.38 6点 メグレと殺人予告状- ジョルジュ・シムノン 2020/11/12 04:05
 河岸の並木がごくわずかに薄い緑をつけはじめた三月四日、オルフェーヴル河岸のメグレのもとに一通の封書が届いた。それには厚くて大きな犢皮紙に金釘流の字で、こう書かれていた。〈近く、おそらく数日以内に、殺人が起きます。たぶん私の知っているものの手で、たぶん私自身の手で。〉
 差出人の署名はなかったが、使用している特別注文の便箋からすぐ製造元がわかり、用箋は海法専門の著名な弁護士エミール・パランドンのものと判明する。メグレはさっそくパランドン邸におもむくが、その家の異様な雰囲気に触れ、この手紙はいたずら半分のものなどではないと直感するのだった。
 この家にいるだれかが、何かを企んでいる・・・
 1968年発表。『メグレとリラの女』『メグレの幼な友達』の間に挟まるシリーズ第96作で、作品としては後期にあたるもの。再読ですが、前回に比べるとある人物の印象が若干変わったかなあと。初読の際にはそこまで病んでるとは思わなかったんですけどね。読み返すとかなりエキセントリックというか自己演出的。以前『メグレ最後の事件』を評した際に〈本作の発展型〉と述べましたが、それとも異なる感じ。あっちの方がより煮詰まってる感は変わりませんが。パランドン弁護士の蔵書として幾人か名だたる精神科医たちの著作が挙がっていますが、今回かなりそういった実例を意識して書いてます。
 〈天井が非常に高くて、エリゼ宮(大統領官邸)からほど遠からぬところにある〉いかめしい建物で起きた事件。春の目覚めとは裏腹の現場の威圧感が重なって、「想像もできないくらい居心地が悪かった未知の世界」に入ったメグレは酩酊感を覚え、かつてない反応を示します。
 最高裁判所長官の入り婿である小男のパランドンは、誰と争うこともしない好人物ですが、娘や息子は大家の出の母親に反発を覚えて、もっぱら庶民の父親寄りの態度。さらに弁護士見習のルネ・トルテュ、エミールの秘書アントワネットを初めとする仕事の補佐役や召使いたちが、彼らを取り巻いて一種特異な空間を形成しています。メグレは予告状の意図を探り、予告された殺人を未然に防ごうとしますが・・・
 あっさりした筆致ながらなかなかの味。癖はあってもどちらかと言うと好ましい人物が多い中、終盤になって起こる事件。好感を抱いていた被害者の死に直面し、激情からパイプの柄を折るメグレ。『男の首』と真逆のエンディングに、冒頭から繰り返される〈刑法第六十四条〉の問題が、エコーのように覆い被さる作品です。

No.37 6点 メグレと政府高官- ジョルジュ・シムノン 2020/08/22 21:16
 その夜、家に帰ってくるとメグレ警視は、公共事業省大臣のオーギュスト・ポワンから電話があったと夫人に告げられた。至急会いたいという。メグレは指定されたパストゥール大通り二十七番地のアパルトマンに出向くが、そこで途方に暮れるポワンが語りだしたのは、一ヵ月前から前から新聞をにぎわしているクレールフォン事件に関するものだった。
 クレールフォンの大惨事――それはオートサヴォア県にある恵まれない子どもたちのためのサナトリウムが崩壊し、百二十八人の子供の生命が奪われた痛ましい事故だった。サナトリウムを建てた土建請負会社の社長アルチュール・ニクーは上流社会の人間として振舞い、文学・芸術・政治の世界で重要な人々をサモエンヌに招待していたが、ポワンもその中の一人だった。単なる招待客で、ニクーと特別な関係がある訳ではなかったが。
 昨日の午後、国立土木大学の学生監ジュール・ピクマールと名乗る男がポワンの元に現れ、彼が総理の命を受けて探していた故カラム教授の報告書を託して去っていった。通称《カラム・レポート》と言われるそれは、応用力学の権威者ジュリアン・カラム教授が事前調査にたずさわった時のデータで、その中で教授はあの大惨事が起こることを予告しているという。悲劇が起きた今それが公表されれば、政界すべてを巻き込む爆弾になりかねない。ところがそれが、わずか一日のあいだに紛失してしまったのだ。
 朴訥なポワン大臣にある種の共感を覚えたメグレは、証拠湮滅の汚名を雪ぐため非公式に事件を引き受ける。彼の不得意な政治的事件。果たしてメグレは犯人を探し出し、消えたレポートを発見できるのか?
 『メグレと若い女の死』『メグレと首無し死体』の間に挟まる、シリーズ第74作。1954年発表。シャーロック・ホームズものの「海軍条約事件」と同じく機密文書の行方を巡る謎ですが、メグレはホームズとは違うのでケレン味たっぷりの小芝居とかはありません。地道な捜査の末に、ややビターな決着を迎えます。
 傑作に囲まれた円熟期の作品ですが、出来は標準かややその上くらい。サクサク読めるとはいえそこまで魅力的な人物は登場しません。間違って政界入りした感じのオーギュスト・ポワンとの遣り取りに、ほのかな温かみを感じるくらいでしょうか。
 ヴァンデ県ラ・ロシュ・シュール・ヨンの弁護士で、イギリスのスパイや捕虜収容所からの脱走兵をかくまっていたことからドイツ軍に逮捕され、地元の信望を得て国民議会議員となった人物。出身階級や年齢、体つきもメグレと同じくらいで、作品中では何度もお互いに〈兄弟のように似た人間と向きあっているような印象〉を受けています。元々気が進まないこともあり、彼の頼みでなければおそらく初めから承諾しなかったでしょう。
 総理直属の国家警察総局も動き回る中、手元の情報を整理しつつ慣れない捜査にあたるメグレ。《カラム・レポート》の存在を掴んだとおぼしき政界フィクサーの動きから犯人にアタリを付け、一気に隠れ家に踏み込みます。
 レポートを利用して罠を仕掛けた黒幕に深みがあればもっと良かったかな。全体の図式はそこそこですが、描写はあっても面白くない類の人物なのでまあ仕方無いか。でもレストラン《フィレ・ド・ソール》での両者の対峙には、なかなか緊張感があります。

No.36 5点 メグレと死体刑事- ジョルジュ・シムノン 2020/07/26 14:51
 もう一週間以上も雨が降り続き、太陽が瞬時も顔を覗かせぬ一月のある日。メグレ警視は突然プレジョン予審判事の執務室に呼び出され、一週間の特別休暇を与えられる。判事の妹ルイーズの結婚相手、家畜商人エチエンヌ・ノオを厄介な立場から救うため、非公式な形でヴァンデ県の沼沢地帯のいちばん奥深いところにある辺鄙な村、サン・オーバンへ行って欲しいというのだ。
 約三週間ほど前、土地の若者アルベール・ルテローがノオ家にほど近い線路の砂利の上で死んでいるのが発見されたのだが、しばらくして匿名の手紙がばらまかれ、エチエンヌがこの若者を殺した犯人だと、ほぼ公然と名指されたらしい。事件を管轄するフォントネー・ル・コントの検事の話では嫌疑はかなり濃く、正式の捜査を避けるのは難しいだろうとのこと。大事にならぬうちにそれにケリを付けるのが、プレジョンの希望するところだった。
 彼の依頼を受けてサン・オーバン・レ・マレへと向かうメグレだったが、その途中ニオール駅のコンパートメントで、元同僚の私立探偵《死体刑事》ことジュスタン・カーヴルが、同じ列車から降りてくるのに気付く。カーヴルはメグレが警察に入って知りえたうちで、いちばん怜悧な頭脳を持つ男だったが、勤務中に金銭問題の不正が発覚したことで既に司法警察局を辞めていた。
 《死体(カダーヴル)》はいったいサン・オーバンに何をしに来たのか? メグレ警視はノオ夫妻に歓待されるが彼を迎える村の空気は悪く、さらに悉く《死体刑事》に先回りされ証拠を潰される。義兄に助けを求めたエチエンヌも、本音ではメグレに早く立ち去ってほしいようだ。四面楚歌のなか、警視は被害者アルベールの親友ルイ・フィルウと共に、証人たちへの聞き込みを続けるが・・・
 メグレ警視シリーズ第47作。『メグレと奇妙な女中の謎』の次作にあたる長編で、前作及び『メグレと謎のピクピュス』と共に、3冊合本の形で1944年に出版されました。作家としての成熟とエンタメ性を両立させた第二期の作品ですが、意欲作の多い時期にしては残念な事に、あまり良い出来ではありません。
 メグレの行動を抑制したがるエチエンヌ、何かに脅えるその妻ルイーズ、寝入りばなのメグレの寝室に押しかけ、ネグリジェ姿で「わたしはアルベール・ルテローによって妊娠させられました」と告白する娘のジュヌヴィエーヴ。序盤はなかなか良いのですが、村の内部はブルジョアと労働階級の二つに割れており、両者の対立により事件当時の詳細や現場の状況すらはっきりしないままストーリーは停滞してしまいます。
 全体の三分の二を過ぎて、《死体刑事》とある人物との繋がりを掴むことにより物語は一気に動き出すものの、ここまでくると後は予想の範囲内。実行犯とは別の〈真の犯人〉も動機も、ジュヌヴィエーヴの動きから推察可能。加えてメグレのノリも後味も悪く、全体としてスッキリしません。
 読後にサン・オーバンの全景が立ち上がってくるのはこの作者の筆力を窺わせますが、メグレものとしての出来はそこまででもない。〈憎悪の匂いのするロニョン〉とも言うべき《死体刑事》も人間としての底が浅く、到底警視と正面から張り合う地力はありません。酒場や農家の日常、村人たちの描写など光る部分はまま見られますが他に目を引くキャラもおらず、トータルするとシリーズでも下方に位置する作品でしょう。

No.35 4点 メグレと匿名の密告者- ジョルジュ・シムノン 2020/07/05 21:49
 霧雨のようなものが降り続く五月の深夜、メグレ警視はヴォルテール大通りのアパルトマンで、男の他殺体がジュノー大通りの舗道で発見されたとの連絡を受けた。射殺されたのはレストラン《ラ・サルディーヌ》の経営者モーリス・マルシア。やくざ上がりだが今ではパリの名士で、三十歳以上も年の離れた元ダンサー、リーヌと四年前に結婚していた。
 遺体は至近距離から胸を撃たれたのち、現場に投げ捨てられたと思われる。携帯していた自動拳銃(オートマチック)も使われた様子はなく、尻ポケットの札束にも手は付けられていなかった。
 喧噪の圏外にあるかのようなモンマルトルの邸宅(ヴィラ)地に転がっていた死体。それから間もなくオルフェーヴル河岸に、現場付近を知りつくす第九区のルイ刑事が訪ねてくる。黒装束で身をかため、控えめで休みなしに働く内気な男。その彼がここに来たのは、偶然ではない。
 果たしてその通りだった。ルイが使っている密告者の一人が、「モーリスはモリ兄弟の一人に殺られた」とタレ込んできたという。決して彼に名前を教えようとはしないその男は今まで間違えたことはなく、それでいて金も要求しないのだった。
 兄のマニュエルと弟のジョー。三十そこそこのやくざだが羽振りは良く、田舎の館(シャトー)や大邸宅ばかりを狙った押しこみ強盗の主犯と目される連中だ。表稼業の果物商売に使うトラックで、戦利品を運び去るのだろう。本当に彼らがモーリスを殺したのだろうか? メグレの頭の中に、リーヌ未亡人のサロンにあった不釣り合いな骨董家具の存在が浮かぶ。
 リーヌ・マルシアに直接揺さぶりを掛けるメグレ。そんな彼のアパルトマンに今度は直接、「匿名の密告者」からの電話のベルが鳴り響く――
 最後から二番目のメグレもので、『メグレ最後の事件』と同じく1971年発表。『メグレとひとりぼっちの男』の次作ですが、最後期にしてはまあまあの前作に比べると明らかに落ちる出来。疲れ気味なとこへ来てのメグレな事もあり、途中までかなりほんわかしてたんですが、読み終わるとやはり高い点は付けられないなと。
 途中で正体が割れる「匿名の密告者」の、通称《ちび公(ラ・ピュス)》ことジュスタン・クロトン。背が一メートル五十にもならないピエロみたいな小男で、いいキャラに見えたんですが中身はアレ。最後に自滅する犯人たちと絡んで、『メグレと宝石泥棒』を超える泥縄決着を迎えます。メグレも尋問後に胸がむかつき、ドフィーヌ広場で口直しをするくらい。犯人が〈証人はいくらでも用意できる〉やくざの親分な上に、キャラやドラマが良くないのはちょっとなあ。
 色眼鏡の再読ながらルイ刑事が結構いい感じだったし、久々のシムノンで一瞬「これは間違えてたかな」と思ったんですが、結果は平均以下でした。5点くらいは望めますがそれ以上はムリ。それでも癒やしてくれたんで、とりあえず4.5点にしときます。

No.34 6点 メグレと死者の影- ジョルジュ・シムノン 2019/09/28 11:50
 万聖節の季節、夜の十時。メグレ警視は管理人からの電話を受け、ヴォージュ広場前のアパートに急行した。中庭からは建物すべての人々の姿が灯のともった窓越しに見えるのだが、いちばん奥の建物に見える男の影が、机に向かってつんのめったまま動かないのだ。事務所の中では男が肱掛椅子に座ったまま、胸のどまん中に弾丸を一発受けて死んでいた。
 レイモン・クシェ、四十五歳。リヴィエール博士に血清開発の資金を提供し、一躍国内有数の製薬会社社長に成り上がった男だった。彼の背中はうしろの金庫にふたをした形だったが、その中にあるはずの三十六万フランの現金はなくなっていた。
 メグレはその後現場に現れた被害者の愛人ニーヌ・モワナールに好意を持つが、ピガール・ホテルの彼女の隣室に住んでいたのは、偶然にも殺されたクシェの息子ロジェだった。更に彼の母親でクシェの前妻マルタン夫人もまた、現場となったアパートの居住者だったのだ。
 現クシェ夫人ジェルメーヌ、ニーヌ・モワナール、そしてマルタン夫人。八百万フランにのぼる莫大な財産を残した死者をとりまく三人の女たちをめぐり、メグレは真実を突き止めようとするが・・・
 1932年発表のメグレ警視シリーズ第12作。「三文酒場」と「サン・フィアクル殺人事件」の間に位置するごく初期のもの。息子のロジェが恋人共々エーテル中毒だったり、前妻マルタン夫人が再婚した哀れな小役人の夫マルタン氏を、クシェと比較しながら日夜いびってたり、アパートにねじけた立ち聞きばあさんや狂女がいたりとか、全体に病んでギスギスしててあまり好きではないんですが、再読してみるとやはり初期作だけのことはあるなと。
 アパートの住人たちの動きが全部シルエットになって映るのは凄く魅力的な設定ですが、これはあまり生きていません。むしろ殺害現場がマルタン夫妻の部屋の窓から手に取るように見渡せることが、より直接的に事件に関わってきます。
 金銭欲とどうにもならない感情が絡んだドロドロに醜悪な犯罪で、終盤になるにつれ、登場人物の感情もまたヒステリックなほどに高まっていく。第十章に挿入される逃走シーンは、短いですが緊張感があります。不発に終わったシルエット設定を生かすために、各要素を分解し組み立て直したのが第二期の「メグレと超高層ホテルの地階」になるのかな。作品としてはこちらの方が明るくて好きです。
 それなりに凄みのあるストーリーですが、好みからはちょっと外れるので6.5点。幸薄そうだけど健気なニーヌの存在が、物語の救いになっています。

No.33 6点 メグレと老婦人- ジョルジュ・シムノン 2019/09/04 07:40
 九月だった。メグレ警視はパリ発ル・アーヴル行きから降りて、乗換えの汽車を待っていた。彼は海の匂いをかぎ、そのリズミカルな響きを聞く思いがしたのだ。メグレは子供の頃の思い出にひたりながら、昨夜の出来事を静かに回想していた。
 オルフェーヴル河岸の本庁庁舎に面会に現れた愛らしい老婦人は、ヴァランティーヌ・ベッソンと名乗った。一世を風靡した"ジュヴァ"クリームの創業者フェルディナンドの未亡人で、今は生まれ故郷のエトルタにある持ち家で一人暮らし。その家で身のまわりの用をさせるのに置いてあった女中ローズ・トロシュが、彼女の身替りとなって死んだというのだ。死因は大量の砒素による毒殺。薬好きのローズは、ヴァランティーヌが前日飲み残した眠り薬を夜中にこっそり服用したらしい。
 メグレはヴァランティーヌの懇請を受けエトルタに赴くが、彼を待ち受けていたのは互いに憎しみ合う老婦人の家族たちが織りなす、複雑な人間模様だった・・・
 1949年発表のシリーズ第60作。「メグレ保安官になる」の次作なので、二度目のアメリカ行きから帰国後、初めて手掛けたものという事になるのでしょうか。発端となる事件こそあいまいですが、中盤辺り老婦人の娘アルレット・スュドルと二人、ひどく暗い夜に海沿いの崖の小道を歩き続ける辺りからけっこう面白くなってきます。
 あけすけに全てをぶちまけながら、激しい言葉でメグレを挑発するアルレット。彼女の義理の兄テオはローズの兄アンリーと酒場で密談し、好人物そうなテオの弟シャルルも代議士の立場を気にしつつ、家族を注視しています。お菓子の売り子あがりの自分をわざと茶化すヴァランティーヌの態度にも、なにか裏がありそう。
 なかなか狡猾な犯人で、ローズの死もラスト付近で起こる射殺事件も、言い抜けが利くように考え抜かれたもの。メグレ物の常道通り、犯行手段よりも容疑者たちの人物を知る事で徐々に真実に迫っていきます。
 真相を知って読み返すと、登場人物同士のニアミスにひやりとした鬼気があります。いつもに増してエンジンの掛かりが遅いメグレですが最後は大車輪の活躍。このおっさん酒ばっか飲んで大丈夫かなみたいな視線だったル・アーヴル警察のカスタン刑事が、途中からおいてけぼりにされてて気の毒でした。

No.32 6点 仕立て屋の恋- ジョルジュ・シムノン 2019/08/28 15:34
 パリのヴィルジュイフ(ユダヤ人街)の空き地で、顔かたちが識別できないほど無惨に切り刻まれた娼婦の死体が発見された。通称リュリュと呼ばれるその女のバッグは紛失しており、さまざまな情報をつき合わせて、犯行当時約二千フランの現金が詰まっていたものと推定された。
 そこから二百メートルと離れていないアパートにひっそりと暮らすイール氏は、隣近所の誰からも嫌われている孤独な独身男だった。強制猥褻の実刑、SMものの出版、求人広告をダシにした、詐欺まがいの商売・・・
 イール氏は警察に嫌疑をかけられ、刑事たちにつきまとわれる。しかし彼は無実だった。向かいに住む女性アリスの部屋に入ってきた男が、洗面器で手を洗いながら女物のバッグをマットレスの下にねじ込むのを目撃していたのだ。だが彼は、警察にはそれを告げなかった。
 イール氏は覗き見の対象であるアリス本人に接近しようとし、徐々に二人の距離は縮まってゆく。だが、それは崩壊の始まりにすぎなかった・・・
 1933年の発表。作中描写から時代設定は1924年から発表年までと推察されますが、おそらくリアルタイムでしょう。ナチスドイツがクーデターで政権を握り、国際連盟を脱退した頃。アインシュタインの亡命もこの時期です。主人公はリトアニア生まれのロシア系ユダヤ人なので、「怪盗レトン」の犯人とほぼ同じ立場。犯罪歴がなくとも、うさんくさい目で見られていたと思われます。不穏な時代の不安定な亡命者の物語です。
 シムノンの文章はいつも以上にカメラ・アイのようで、登場人物の行動のみが乾いた目線で淡々と語られます。イール氏の寒々とした生活、それと対を成すアリスの生々しさ、肘を突き合わせてひそひそと囁く人々、怯えと表裏一体になった悪意。
 そうやって潜んでいたものが、機を得て一気に爆発する。正直ここまで暴力的になるとは思っていませんでした。結末にかかり宝石店の主人が「えっ!」という声をもらすシーンと、ダンスホールの娘がイール氏の顔を見て笑いを消すシーン、この二つがアクセントとして効いています。
 第一期メグレシリーズの最終作「メグレ再出馬」と同年の作品。作者が心機一転、新しい表現の可能性を探ろうとした意欲作で、点数は7点寄りの6.5点。ヒロイン・アリスが見せる冷酷さは「女なんてこんなものさ」というシムノンの達観でしょうか。

No.31 5点 メグレと妻を寝とられた男- ジョルジュ・シムノン 2019/07/27 13:58
 十二月、週末の土曜日。いつも通り仕事を終え、オルフェーヴル河岸にある警視庁を出たメグレ警視だったが、ポン=ト=シャンジュの橋のなかほどまで来たとき、誰かに尾けられているような気配を覚える。シャトレ広場から無事にリシャール・ルノワール通りのアパルトマンに帰宅したものの、そんな彼を自宅で待つ者がいた。
 ガラスの檻と呼ばれている司法警察局の待合室で〈土曜日の客〉と名付けられた男、レオナール・プランション。口蓋裂で嘆願するような色合いを帯びた視線の、ペンキ塗装の請負業者。プランションはメグレに何通も手紙を書き、幾度も警視庁を訪れたものの気後れがして、ついに直接気持ちを打ち明けようと自宅へやって来たのだという。
 彼は新たに雇った二枚目の職人ロジェ・プルーに妻のルネを寝取られ、疎外され、身の置き所も無いような共同生活を二年余りも続けていたのだ。トロゼ通りの自宅には愛娘のイザベルもいるのに、家庭生活もここまで築き上げた仕事も、何もかもを取り上げられようとしている。
 プランションは「女房を殺したいんです・・・あるいはあの男を。うまく片を付けるには、二人とも・・・」と言うが、メグレにはどう手の施しようもなかった。とりあえず毎日電話をかけるよう約束させたが、いかなる罪も犯していない以上彼にはなにもできない。
 それでも翌々日月曜日の六時過ぎ、アベッス広場のカフェからメグレに電話を入れるプランションだったが、それを最後に彼の消息は途絶えてしまう・・・
 メグレシリーズ第87作。「メグレと善良な人たち」の次作で、1962年発表。夕食が台無しになった事よりも彼のことが気にかかって頭から離れないメグレは、分署に電話を入れてプランションの家を監視させたり、ジャンヴィエやラポワントを役所の人間に仕立てて、家の間取りやルネ・プランションを調査させます。自ら電話して反応を探ることもしばしば。
 そうこうするうちにプランションが失踪。プルーやルネは彼がふたつのスーツケースをさげて出ていったと語ります。建物塗装業の持ち分も自宅や家財道具を含む一切合財も、三百万フランの現金と引き換えに、全てを放棄したのだと。メグレはプルーの尋問中にサインをさりげなく鑑識に回しますが、本人の署名かどうかははっきりしません。しばらく曖昧な状況が続いた後、一気に事件は決着します。
 不具にコンプレックスを抱くプランションとは対照的に、どこへ行っても他人に影響力を及ぼすプルー。「幸せでした」と語る時期にも夫を裏切っていたルネ。二人は「人を攻撃するような冷静さを持っている点で、野獣を思わせる」と形容されます。この結婚が悲劇に終わるのは、避けられない事だったのかもしれません。題材が題材ですし、全体に後味は良くないです。

No.30 6点 メグレとかわいい伯爵夫人- ジョルジュ・シムノン 2019/07/08 15:06
 凱旋門やシャンゼリゼからほど近い高級ホテル、ジョルジュ・サンクの三三二号室で深夜三時半、「かわいい伯爵夫人」と呼ばれる女性客、ルイーズ・パルミエリが睡眠薬自殺を図った。彼女はすぐにヌイイのアメリカン病院に緊急搬送され、辛くも命をとりとめる。
 翌朝十時十分、同じくジョルジュ・サンクの三四七号室に宿泊する億万長者、ウォード大佐が自室の浴槽内に浮かんだ状態で発見される。彼の腹心ジョン・T・アーノルドからかかってきた、定期電話に応答しなかったのだ。大佐と伯爵夫人とは周知のカップルであり、いずれは結婚するものと思われていた。
 八時に出勤してきたリュカ刑事はオルフェーヴル河岸で夜の出来事の報告を受け取るが、夫人の自殺未遂について、メグレに報告するのを怠ってしまう。ウォードの死を受けたメグレ警視がジョルジュ・サンクに赴いた時には、既に病院内にパルミエリ伯爵夫人の姿は無かった・・・
 「メグレ推理を楽しむ」に続く79番目のメグレもの。1958年の作で、原題は "Maigret voyage(旅するメグレ)"。タイトル通り病院から姿を消した伯爵夫人を追いかけてメグレが、まず観光地コート・ダジュールを抱えるニースへ、そしてスイスのジュネーヴへと、保養地から保養地へ飛び回ります。
 彼の苦手なハイソな世界で起きた事件。その中でも今回の被害者はトップクラスで、比肩するのは「メグレ氏ニューヨークへ行く」に登場するアメリカの億万長者、ジョアシャン・モーラぐらいなもの。いつものブルジョアたちは本文の中で「要するに小商人が大きな財産を作ったにすぎないのだ」と片付けられます。
 否応無しにそういった環境に置かれたメグレ警視が右往左往するのが本書の見どころ。ウォードの腹心アーノルドや、伯爵夫人ルイーズの前夫でベルギーの富豪ジョゼフ・ヴァン・ムーレンの自信に圧倒され、なんとなく居心地も悪そうです。
 旅行を終えオルリー空港からパリに帰還したメグレは、再び現場であるジョルジュ・サンクに舞い戻り、華やかなホテル内からスタッフの立ち働くホテルの舞台裏をさまよい歩き、その過程でやっと事件の足掛かりを掴みます。世界の頂点に位置する彼らもまた、一人の人間にすぎないことを。
 シリーズの中でも短めの作品ですが、なかなかに興味深い一冊です。

No.29 6点 メグレと賭博師の死- ジョルジュ・シムノン 2019/05/13 13:29
 深夜に鳴った電話のベルでメグレ警視は夢から揺り起こされた。相手はその夜、夫婦で月例の晩餐会を済ませた友人のパルドン医師。寝入りばなを起こしてしまってすまないが、すぐこちらへ来てもらえないかと言う。マイナス十二度を越す一月の寒気の中、ヴォルテール通りを訪れたメグレに、パルドンは犯罪の匂いがすると思われる出来事を語る。
 メグレ夫妻と別れた後、背中を射たれた女が二十五、六の青年と一緒に診療所にあらわれ、治療中に二人ともいなくなったと言うのだ。女は三十そこそこのブロンドで、通りがかりの車に銃撃されたのだという。そのくせ男は警察にも病院にも連絡していなかった。名前と住所を書き留めるよう告げると、こちらがそばを離れた隙に姿を眩ましてしまったのだ。二人は彼の患者のような貧しい人たちではなく、特権階級といった感じで、かなり親密な間柄に見えた。
 メグレは雪で封鎖された街道の状態から飛行機で移動したと睨み、オルリー特別空港警察に該当者の人相その他を問い合わせる。二人の乗った赤のアルファ・ロメオはパリのナンバー・プレートをつけて空港駐車場に停まっており、カップルは三時十分発のアムステルダム行きに乗ったとのことだった。
 翌朝自宅で遅めの朝食を摂るメグレのもとに、パルク・モンスリ街にある邸宅で男が射殺されたとの連絡が入る。被害者はフェリックス・ナウールという四十二才のレバノン人。昨夜のカップルは、オランダ人とコロンビア人。彼はふたつの事件に、関連する匂いを嗅ぐ。
 1966年発表のメグレ警視シリーズ第93作。「メグレたてつく」「メグレと宝石泥棒」両姉妹編の次作で、作品としては後期に属するもの。原題 "Maigret et l'affaire Nahour(メグレとナウール事件)"。 被害者フェリックス・ナウールは賭博シンジケートと組んで行動する賭博師で、ソルボンヌで専攻した確率論を武器にカジノと遣り合う一匹狼。当然事件は注目を集め、ナウールと別れた後アムステルダムで再婚するはずだったオランダ人妻エフェリーナも傷ついた身体を抱え、フランスに帰ってきます。彼女とコロンビアの金鉱王の息子ビセンテ・アルバレドに、ラウールの秘書で同じくレバノン人のフアド・ウエニを加えた四角関係がストーリーの読み所。メグレの苦手な上流階級の事件ですが、事前にある程度大枠が掴めているからか、今までほどには苦労しません。とはいえ、食えない証人連中に梃子摺らされるのは変わりませんが。
 子供のまま大人になった、母親の自覚の無いシンデレラが引き起こした事件。一種の復讐譚ですね。後期の例に漏れずあっさりめな作品ではありますが、舞台や人物設定は結構考えてあります。メグレと尋問で再三対峙するフアドは、なかなかに手強い相手です。

No.28 6点 メグレ推理を楽しむ- ジョルジュ・シムノン 2019/04/12 14:28
 悪性の気管支炎をわずらい、床についたメグレ警視。治癒したものの不調は続き、パルドンをはじめとする医者たちから休暇をとるよう勧告される。夫人と共にサーブル・ドロンヌのロッシュ・ノワール・ホテルでのヴァカンスを予定したメグレだったが、あいにく受け取った返信には「全室予約済み」とあった。
 ヴァカンスに疑問を持ち始めたメグレは、夫人にパリで休暇を過ごすことを提案する。公けにはサーブル・ドロンヌに泊まっていることにし、ふたりでこっそりパリの町を散歩するのだ。乗り気になった彼は留守番電話その他必要な手を打ち、リシャール・ルノワール通りにある自宅の電話にも出ないことにした。
 それから三日目、朝刊紙をひととおり買いこんだメグレは、ある事件の見出しに目を留める。それはオースマン通りのさる有名な医師の診察室兼アパルトマンで、はめこみ戸棚の中から全裸の女性の死体が二つ折りにされて発見されたという記事だった。死体はその医師フィリップ・ジャーヴの妻エヴリーヌ。夫妻は六週間のカンヌ滞在にむかったはずで、その間は若い医者ジルベール・ネグレルが代診としてやって来ていた。
 折りしもヴァカンスの時期で、オルフェーヴル河岸の刑事たちの半数は不在。ジャンヴィエ刑事がはじめて警視の代理を勤めるわけだが、僅かな新聞報道からしても重大事件らしい。興味を惹かれたメグレは、決して役所に行かないことを条件にパルドンの承諾を得、新聞記事のみから事件に取り組もうとする。
 1957年発表のシリーズ第78作。「メグレの失態」の次に書かれた作品で、時期としては円熟期から2年ほど後になります。今回は改めて再読。
 初読の際の印象はあまり芳しくなかったんですが、刑事部屋でなく一般大衆の視点から事件を眺めるメグレの姿が読み返すとかなり新鮮。合間合間にジャンヴィエに情報や示唆を与えながら、メグレ夫人と一緒にパリのあちこちを散策します。「メグレのパイプ」「メグレと殺人者たち」など、各事件のその後の現場案内もあり。
 新聞ではその後ほどなく、夫フィリップもまたカンヌから飛行機でパリに戻っていたことが明らかになり、犯人はネグレルとジャーヴ、二人の医師のどちらかに絞られるのですが、それを決定する手掛かりは軽い思いつき程度。この物語の場合、かえってそれが効果的な気がします。
 大詰めの夜、ある関係者と一緒にセーヌ川ぞいの歩道からオルフェーヴル河岸を見つめ、ジャンヴィエによる事件の決着を見守るメグレの姿が印象的でした。

No.27 8点 メグレと深夜の十字路- ジョルジュ・シムノン 2019/02/23 16:55
 パリ郊外の十字路に建つ「三寡婦の家」と呼ばれる屋敷――かつて三人の老嬢が変死したそこに、謎めいた片目の外国人とその妹が引っ越してくる。既存の住人たち、ガソリンスタンドと保険屋の夫婦との間に、徐々に緊張が高まってゆく中で事件は起こった。保険屋の自動車が盗まれ、三寡婦の家のガレージに駐められていたのだ。
 そして、その車内にはアントワープのダイヤモンド商人の射殺死体が!
 更に夫の死体を引き取りに来たその妻も矢継ぎ早に射殺され、事件はますます紛糾していく。部下のリュカ刑事は現場である十字路に異様な雰囲気を感じ取り、メグレ警視に忠告するが・・・。
 メグレシリーズ第7作。かなり初期の作品で、「男の首」「黄色い犬」「サン・フォリアン寺院の首吊人」とほぼ同時期のもの。エンタメ寄りのシリーズ秀作。序盤の異様なムードに加え、ここでこれを使うかという意外な真相アリのお奨め作品。
 謎の外国人兄妹(特に妹の方)、陽気なガソリンスタンドの店主、チンケな保険屋等、登場人物も魅力的。江戸川乱歩はあまり評価しなかったようですが(なんとなくわかる気がする・・・)、古手のシムノン翻訳者松村喜雄氏など、フォロワーも多い。河出のメグレシリーズ追加分で本書の翻訳を担当した長島良三氏も、おそらくその一人でしょう。
 個人としても独断と偏見でメグレものベスト3には入れたい作品。なおあとの二作はとりあえずヒミツ。そのうち発表します。

 追記:長島さんということで河出書房の新書版で読了しましたが、HPB版「深夜の十字路」の訳者、秘田余四郎氏は戦前に名人と謳われた字幕翻訳家で、戦後の清水俊二さんのような存在。そのうちHPB版も精読して、両者を比較してみたいところです。

No.26 5点 メグレと善良な人たち- ジョルジュ・シムノン 2019/02/10 13:39
 ヴァカンスから戻ったメグレ警視は、真夜中の電話を受けて夢から脱け出した。モンパルナスのノートルダム=デ=シャン通りで犯罪が発見されたという。やっかいな事件になりそうなので来て欲しいというのだ。
 殺されたのは元ボール紙工場の経営者ルネ・ジョスラン。肘掛椅子に座っているところを至近距離から二発の銃弾を受けていた。妻と娘が芝居を観に向かった後の出来事だという。居残ったルネは婿のポール・ファーブル医師とチェスを指していたが、ポールが偽電話で呼び出された直後に射殺されたのだった。
 自ら鍵を開けて迎え入れている所から犯人はごく親しい仲と思われたが、家族も知人も心当たりは無いという。捜査を進めても、規則正しい生活を送るルネを悪く言う人間はいないのだ。
 何の曇りもない中産階級の人々の間で起こった事件――だが止むを得ない理由なしに殺人など行われはしない。メグレは夫の死体を発見した直後に自失状態に陥った、ジョスラン夫人に注意を向けるが――。
 シリーズ第86作。「メグレと優雅な泥棒」の次に書かれた作品で、前作と同じく1961年発表。とらえどころの無い事件で、作中何度も「善良な人たちか・・・・・・」「もちろん、そうだろう!」などとメグレが愚痴ります。
 残された家族も何かを隠しているような、薄皮を隔てたような対応で、全てを積極的に打ち明けようとはしません。とりわけ未亡人フランシーヌは態度こそ冷静そのものですが、常に身構え神経を尖らせています。
 そんな事件もトランス刑事がアパルトマンである発見をしたことにより大きく動き出し、やがて一家の抱える秘密が明らかになります。
 エンディングは静かなもので、全般に描写はあっさりめ。この時期の作品としては及第点というところでしょうか。余韻というほどのものはありませんが、読後感はそんなに悪くないです。

No.25 5点 メグレと老外交官の死- ジョルジュ・シムノン 2019/01/19 18:02
 メグレ警視は局長を通じて外務省から内密の呼び出しを受けた。既に引退した老外交官サン・ティレール伯爵が、ドミニック通りのアパルトマンの書斎で回想録を執筆中、数発の銃弾を浴びて殺害されたのだ。伯爵は七十七才。四十年以上彼に仕える家政婦マドモワゼル・ラリュ-との二人暮らしだった。
 彼は積年の恋人である公爵夫人イザベルとの恋を温め続け、公爵の急死により晴れて彼女と再婚することになっていた。それは周囲の人々すべてが周知している事実だった。伯爵は温和で公私の敵もなく、もはや政府の機密にも関与していない。実際、彼を憎む人物など見当たらないのだ。
 メグレは老女ラリューの視線を意識しながら、過去に生きる人々に接触するが・・・。
 シリーズ第84作。1960年発表で、円熟期からそろそろ後期に入りかけた頃の作品。メグレの苦手な上流階級の事件で、道徳観や世代の壁もおまけつき。ティレール伯爵アルマンが恋人を譲っただの譲られただの、潔く身を引いたのと話を聞かされ「人間ってそんなもんじゃないでしょう!?」などと内心軽くキレるメグレ。被害者や周辺の人物に共感しようにも、倫理観が違い過ぎて全くとっかかりが無い。読んだ中では彼が最も苦戦した事件ではないでしょうか。
 メグレシリーズとしては若干短いですが、土壇場まで五里霧中の状態。しかし被害者の孫からある証言を得たことで、急転直下の勢いで事件は解決します。新機軸を謳っていますが、正直身構えるほどの真相ではないですね。シムノンにトリックを期待して読んではいけません。富豪たちの世界が舞台の「メグレとかわいい伯爵夫人」のように、慣れない環境に戸惑うメグレの姿を楽しむのが読み筋ではないでしょうか。

No.24 5点 メグレ保安官になる- ジョルジュ・シムノン 2018/11/26 04:49
 メグレ警視はアリゾナ州ツーソンに滞在していた。研修旅行のカリキュラムとして、アメリカの法制度や捜査手順を視察するのだ。当地の裁判所ではある事件の審問が行われており、彼は名誉副保安官の資格でそれに立ち会うこととなった。
 砂漠を走る線路脇に放置されていた女性の轢死体と、彼女と連れ立って歩いていた五人の兵士を巡る事件。事件関係者たちの矛盾する証言。これは事故なのか、それとも殺人なのか?メグレは慣れぬ異国の制度に戸惑いながら、真実を見定めようとする。
 メグレ警視シリーズ第59作。1949年発表。原題は Maigret chez le coroner (検死審問法廷のメグレ)。日本語邦題はイロモノですが、内容はマトモです。
 メグレものとしては非常に珍しく、現場図面が二度ほど挿入されます。が、推理的要素はほとんどなし。ツーソンで現実に起こった事件を参考にしたのでしょうか。事件の解明よりも、アメリカの法廷の様子や社会風俗の描写に筆が注がれています。このあたり実際に一時ツーソン在住だったシムノンの経験が生きています。
 第二次大戦後の世界のリーダーとして台頭したアメリカの実情を、フランスの読者に示す意図で書かれた作品でしょうか。そうは言ってもメグレもやられっぱなしではなく、審問が進むにつれて焦点を絞り、現地の副保安官にメモを手渡し、判決前に犯人の名前を当ててみせます。
 メグレが犯人を当てた事で副保安官は僅かに胸襟を開き、陪審制度といっても我々が事実の出し方をコントロールしているので、フランスとやってる事はそう変わりませんよみたいな事を語ります。おそらくこれはシムノン自身の見解でもあるのでしょう。地味めのノンフィクションみたいな作品です。

No.23 8点 オランダの犯罪- ジョルジュ・シムノン 2018/11/25 13:57
 ある五月の午後、メグレ警部はオランダの港町デエルフジルを訪れていた。ナンシー大学の教授であるフランス人犯罪学者ジュクロが、殺人事件の容疑者として禁足されていたのだ。被害者は地元にある海軍兵学校教授コンラッド・ポピンガ。彼は庭の倉庫に自転車を入れようとする途中、自宅から拳銃で撃たれていた。ポピンガ家に滞在していたジュクロは銃声を聞き、凶器の銃を握って駆け付けたのだった。
 風呂場で発見した銃をうっかり握ったままにしてしまった、と主張するジュクロ。メグレは事件を読み解くため、まず被害者を誘惑していた乳牛輸出業者の娘、ヴィトージュ・リイワンスに接触するが・・・。
 メグレ警視シリーズ第8作。「メグレと深夜の十字路」の次作にあたる、ごく初期の作品。創元推理文庫版は手が出ないので、雑誌「宝石」の松村喜雄・都筑道夫コンビによる初訳版でなんとかかんとか読みました。"デエルフジル""リイワンス"とか固有名詞が変なのはそのせいです。横溝正史の「悪魔が来りて笛を吹く」の連載最終回が併載されてたりして、ちょっと戦後初期の空気を感じる頃の初訳300枚一挙掲載。挿絵は松野一夫画伯。
 デエルフジルの街並みは小綺麗な赤煉瓦造りで、港を船が行き来し、絵葉書のよう。住民たちは健康的な市民階級ばかりで、悪い評判が広まるのを警戒しています。
 地元オランダ警察のピペカン刑事は「外部の人間の仕業」と片付けてメグレを丸め込もうとしますが、そんな手に乗るメグレではありません。彼は地元の意向などいっこう頓着せず捜査を進め、最後に容疑者全員を集めて事件の再演を行います。このときメグレと連れ立って夜道をそぞろ歩き、ポピンガ家に向かう事件関係者たちの姿が強く印象に残ります。
 犯人解明は消去法によるものですが、それよりも人間関係のもつれから生じた物理的盲点を、巧みに利用した犯行計画がなかなか。それらが渾然となって一枚の絵ともいうべき鮮やかな映像を描き出すところが、いかにも初期のシムノンです。
 読者の心に残る人物像には欠けますが雰囲気もよく、それらを考え合わせるとギリギリ8点といった所でしょうか。メグレ物ベスト10に入るかどうかの微妙なライン。シリーズ初期の佳作です。

No.22 5点 メグレとワイン商- ジョルジュ・シムノン 2018/11/12 14:18
 ワイン販売会社の社長オスカール・シャビュが、個人秘書とラブホテルを出た所を待ち伏せにあい射殺された。オスカールは手当たり次第に身近な関係の女を漁り、借金を申し込んだ友人をあからさまに侮辱して喜ぶような男だった。唯一の肉親である父親とも疎遠で、妻との間もビジネス本位の繋がりしかないオスカール。メグレ警視は彼に恨みを持つ多くの人間を探り、直接社員たちの前で殴られ、放逐されたある男に目を付けるが・・・。
 メグレ警視シリーズ第99作。前作「メグレと録音マニア」の改訂版。被害者の好青年をイヤな奴にして犯人と二重写しにし、衝動による犯行から怨恨を動機に変え、容疑者をワイン会社関連に絞ってより関係性を深めています。
 これらは全て、ある場面を効果的に演出するためのものであり、それには成功しています。被害者は攻撃的に振舞っていますがその行動は自分の弱さを隠す為のものであり、交際相手の女たちには全てを見抜かれています。臆病な男だと。なりふり構わず頭を下げて会社を拡大させた見返りを、成功した今求めているのだと。
 冒頭で身勝手な理由から実の祖母を撲殺し、金を奪った青年の取調べシーンが描写されますが、最後にメグレと心を通わせたかに見えた気の弱い犯人の姿に、この人物が重なります。弱さの裏返しとしての攻撃性という主題はより明確になっていますが、個人的には前作の方が好みです。

No.21 6点 メグレ警視のクリスマス- ジョルジュ・シムノン 2018/11/10 03:23
 表題作の中編1本と、短編2本を独自編纂したメグレもの中短編集。うち「メグレ警視のクリスマス」は雑誌「EQ」にて既読済。
 各々の出来についてはさすが皆さん的確な評価をなさってらっしゃいます。ただ「クリスマス」は諸要素も含めて「メグレのパイプ」と並べてもいいかも。若干甘いかもしれませんけどね。シムノンにしては子供の描き方がマシな方なのも好ポイント。全体にこまっしゃくれた、かわいくないのが多いですから。
 ネタ的にはこの2編は同パターン。解説に述べられている「メグレと老婦人の謎」を含め、似たシチュエーションの作品は短編長編そこそこあります。ホームズ物からある鉄板ネタですね。クリスマスストーリーに徹したのが前者、魅力的な導入部とアクションを付け加え、淀みなく纏めたのが後者ということになるでしょうか。
 「メグレと溺死人の宿」はミスリードが光る作品。この状況でなければ当然思い付くべき真相です。タイトル含めて騙しにかかってます。冷静に考えれば答はそれしか無いんですけどね。
 「クリスマス」はアンソロジーでもそこそこ見かけます。暗く煤けたイメージのあるシムノンにしては珍しいハッピーエンド。こういうのをもっと描いても良いと思いますが、たまにだからいいのかも。

No.20 6点 メグレ警視と生死不明の男- ジョルジュ・シムノン 2018/11/06 06:05
 "無愛想な刑事"と呼ばれるロニョン刑事の妻から、メグレ警視に電話がかかってきた。アメリカ人とおぼしきギャング達に、二度に渡って家捜しをされたのだという。家を空けていたロニョンとは連絡が取れたが、彼はフレシィエ通りで停車した車から投げ捨てられた怪我人の謎を追っていたのだ。だが、生死不明の男は第二の車に拾われ、既に消えてしまっていた。
 メグレはロニョンの独走を責めるが、片意地を張ったロニョンは捜査を続け、やがて彼の消息は途絶えてしまう・・・。
 1951年発表のメグレ警視シリーズ第67作。「メグレと消えた死体」と、「メグレの拳銃」の間に入る作品です。
 "無愛想な刑事"ロニョンの良心的な勤務ぶりはメグレも認めるところで、なにくれとなく気にかけているのは他の作品でも触れられているのですが、本作ではもう少し突っ込んだ描写が為されています。
 いわく、彼のひがみっぷり、独走傾向、いつまでも抜けない子供っぽさ・・・。それに加え、彼がメグレの配慮に薄々気付いていながらそれに甘えていることも指摘されます。
 メグレは言います。「自分を被害者扱いにするのはいいかげんにやめないか?」「一人前の男として私に話したまえ」
 ロニョンの方は共依存関係を求めているのかもしれませんが、メグレの方は配慮はしても、彼をオルフェーブル河岸に迎え入れるつもりは無いようです。
 肝心の物語では、メグレは散々忠告されます。「この件に関わらない方がいい」「アメリカの犯罪者はプロだ。それに比べればフランスの連中なんか子どもみたいなものだ」
 それに対してメグレは、刑事部屋のメンバーと共に珍しくスタンドプレーでギャング達と対決します。彼らの隠れ家に踏み込むシーンは緊迫感がありましたが、その割にはあっさり決着が付いたなと。この辺りは実際にアメリカ住まいだったシムノンの皮肉も入っているかもしれません。
 「勝負ははじまっている。はじまっている以上、最後までやる」
アクションを中心に、全体的に引き締まった雰囲気の漂う作品です。7点には及ばないものの、6.5点。

No.19 5点 メグレと録音マニア- ジョルジュ・シムノン 2018/10/22 06:41
 ヴォルテール大通りのパルドン医師宅の夕食会に招かれたメグレ警視。だがそのひと時は突然の闖入者によって破られた。ポパンクール大通りで若い男が襲われたというのだ。突風をともなった氷雨の中、現場に向かうパルドンとメグレだったが、被害者は既に手の施しようのない状態だった。
 搬送先の病院で事切れた青年の名はアントワーヌ・バティーユ。ミレーヌ化粧品社主の息子で、背後からナイフで数回刺されていた。犯人は、被害者が倒れてからも後もどりしてさらに刺し続けたというのだ。それも目撃者の眼前で。
 メグレは彼の父親に会い、アントワーヌがテープレコーダーと集音マイクを用いて街の人々の生活を録音していたことを知る。犯行直前に酒場で録られたテープには、押し込み強盗の打ち合わせと思われる会話が残されていた。
 アントワーヌは犯罪に巻き込まれて殺されたのだろうか・・・。
 メグレシリーズ第98作。シリーズ末期に近い頃の作品で、次作「メグレとワイン商」は本作のリメイク版です。「ワイン商」はテーマをより強調するために贅肉を削った感がありますが、本書は本書でなかなか。メグレがムン=シュル=ロアールでカード遊びをするシーンなど、ゆったりとした趣があります。個人的にはこっちの方が好み。
 前々回は「メグレの拳銃」を取り上げましたが、あちらがパルドン初登場なのに対し、こちらは彼の最後の登場作品。冒頭部の夕食シーンでは、メグレにかなり深刻な告白をしています。
 シリーズはこの後5作ほど書かれますが、後半部の準レギュラーとなったパルドンは「もう一人のメグレ」と呼ぶべき存在。一時は医師の仕事に疑念を呈しても、メグレが現場に執着し続けるように、やはり貧民街の患者たちに接し続けるのでしょう。

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雪さん
ひとこと
ひとに紹介するほどの読書歴ではないです
好きな作家
三原順、久生十蘭、ラフカディオ・ハーン
採点傾向
平均点: 6.24点   採点数: 586件
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