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雪さん
平均点: 6.24点 書評数: 586件

プロフィール高評価と近い人書評おすすめ

No.18 7点 メグレとマジェスティック・ホテルの地階- ジョルジュ・シムノン 2018/10/14 22:35
 未単行本化メグレシリーズ第4弾。最後に翻訳されたメグレ長編でもあります。本国では「メグレと判事の家の死体」「メグレと死んだセシール」と共に、3長編一冊合本の形で1942年に出版されています。原題は Les Caves du Majestic (マジェスティックの酒蔵)。
 雑誌「EQ」では例によって訳者の長島良三さんが「ボアロー&ナルスジャックはこの作品をメグレのベスト3に入るものと評価している」とかベタボメしてますがこれはフカシ。「チビ医者の犯罪診療簿」や「O探偵事務所シリーズ」等より、メグレ物の新シリーズは遥かに優れていると言ってるだけです。このあたりシムノンの筆が一番乗ってるのは確かですが。
 物語は超高級ホテル、マジェスティックの地階カフェテリア主任、プロスペロ・ドンジュのある朝の風景にパンして始まります。
 物憂く起き出す同棲相手のシャルロット。自転車に載って出勤するドンジュ。パンクする自転車。はあはあ言いながら自転車を押してタイムカードを押すドンジュ。大・中・小のコーヒー茶碗を用意して、上階行きの簡易エレベーターに注文の飲み物を入れ続けるドンジュ。そして仕事の合間にふと彼が休憩室のロッカーを開けると、中からは絞殺されたホテル客のアメリカ人富豪、クラークの妻の死体が現れる・・・。
 メグレ警視が登場するが彼は全くドンジュに質問しようとしない。不安がるドンジュ。そのうち勤務時間も終わり、出勤時と同様に自転車に乗って帰宅するドンジュ。移り変わる風景。そしてふと肩を叩かれると、そこには自転車に乗ったメグレの姿が!
 シムノンの文章はカメラワークのようだと言われますが、この作品では特にそれが冴えています。
 メグレはドンジュとシャルロットの反応を窺い、彼らと、当時はミミと言ったクラーク夫人の過去に接点が存在する事を確信します。退去後にシャルロットが掛けた電話を盗聴し、間髪入れずミモザの香りに満ちたカンヌに向かうメグレ警視。折りしも祝祭を迎えたカンヌの描写は美しいです。
 カンヌで彼らの旧知の女性ジジを尋問し、三人の男女とミミの秘密を掴んだメグレですが、その頃パリでは新たに同じロッカーから第二の死体が現れ、シャルロットが書いたと思われる密告状によりドンジュが逮捕されていた・・・。
 場面転換が上手く、流れるように物語は進みます。現場となった地階は船の司令塔のようになっており、そこから全体を俯瞰できるようになっています。ヤマトやエヴァの艦橋のような構造だと思って下さい。この構造も事件に一役買っています。
 人の良さそうなシャルロットによる卑劣な告発、一方、真面目で朴訥に見えるドンジュの口座にも二十八万フランもの大金が振り込まれている事が判明し、事件は益々紛糾します。そのからくりはなかなか良く考えられています。
 「メグレと奇妙な女中の謎」より格上ですが、キャラの出来からあちらを推す人もいるでしょう。ベスト10とはいきませんが、シリーズ中では上方に位置する作品だと思います。

No.17 5点 サン・フィアクル殺人事件- ジョルジュ・シムノン 2018/10/06 10:02
 「死人祭の最初のミサのあいだに、サン・フィアクルの教会で犯罪が起こる旨をお知らせいたします」
 オルフェーブル河岸の事務室に届けられた犯罪予告を受けて、生まれ故郷の村に向かうメグレ警部。凍りつくほどに寒い冬の朝、幼なじみのマリイ・タタンの宿から教会に赴き、自由席の最後列からじっと参列者たちを観察する。
 まもなくミサが終わる・・・・・・あと三人・・・・・・ふたり・・・・・・
 最後の参列者であるサン・フィアクル伯爵夫人の番になった。だが彼女は身動き一つしない。警部が進み出ると彼女のからだはゆらめき、床にころげ落ちて、そのまま動かなかった!
 1932年発表のメグレ警視シリーズ第13作。初期の長編で、前作「メグレと死者の影」の重苦しいムードを引き摺っています。なかなか強烈な作品でしたね。
 伯爵夫人の死後、登場人物たちがおのおの怪しげな動きを見せるのですが、たいして話は進みません。ですが物語の半ば過ぎ、近隣の町であるムーランに舞台が移ると途端に展開が早くなります。あとは伯爵邸での晩餐会におけるカタストロフまで一直線。
 ですが殺害手段は法の下では裁けない性質のものなので、ある登場人物による罠と私的制裁という形で事件は決着します。メグレはせいぜい立会人という役どころ。短い間に二、三の事実を探り出しはするのですが、最後の急展開にはついていけてません。
 メグレの記憶と対比することで伯爵家の落魄ぶりを強調するつもりかもしれないけど、ノンシリーズ物にした方が良かったんじゃないかなあ。故郷が舞台なのがあんまり生きてないし。そこそこ雰囲気は出てるけど、メグレをおたおたさせてまで無理に登場させる必然性が感じられないので、ぶっちゃけ失敗作だと思います。

No.16 6点 メグレの拳銃- ジョルジュ・シムノン 2018/10/01 02:26
 メグレ警視のオフィスに、夫人から若い男の来客があるという電話が掛かってきます。面会人を片付けて家に戻ると男は既に立ち去った後で、自室からはアメリカ滞在中に送られたS&W45口径のピストルが紛失していました。その後の調査で、男が武器販売店から実包を入手している事が判明します。
 その日の晩、メグレは友人パルドン医師宅の夕食会で「気になる患者がいる」との相談を受けます。フランソワ・ラグランジュという名で、メグレに会いたがっているというのです。メグレは彼のアパートを訪れますが、話とは裏腹に病身のラグランジュに会話を拒否されます。そして彼の息子のアランこそ、メグレの拳銃を盗んだ男でした。
 さらに門番の女の話から、ラグランジュが北駅に怪しげなトランクを預けた事が分かります。そしてその中からは、遣り手の代議士アンドレ・デルテイユの射殺死体が発見されるのでした・・・。
 1952年発表のシリーズ第68作。メグレの友人パルドン医師の初登場作品。シリーズ後半は殆ど出ずっぱりな印象ですが、意外に交友の始まりは遅いですね。パルドンの登場は前半部分で、後半はアランを追ってイギリスに飛んだメグレを、「メグレ式捜査法」で知り合ったスコットランド・ヤードのパイク刑事が出迎えます。
 と言っても、デルテイユ殺害はほぼそっちのけ。勿論二つの事件は関連している訳ですが、物語の大半はアランと拳銃の行方の捜査に費やされます。
 作中メグレが「人情警視」という呼び名に顔を顰めるシーンがありますが、基本的に彼は司法警察に誇りを持ってますので、情に流されて犯人を見逃しはしません。フリーとか管轄外で告発しない方が良い場合には稀にお目こぼししますが。マメに面倒を見るのは無実の者の運命が狂ってしまう場合に限ります。本件はそういう例。
 フランスが舞台だと、ごく一部の地方を除いてたいがい空気が辛気臭いので、たまにメグレが遠出した時の風景描写は良いですね。イギリス編はゆったりとした筆致で、本編の内容もなかなか味わい深いです。メグレがアランに罪を犯させまいと、怯えた猫の話を聞かせる件りがありますが、ラストに再登場する猫の描写はかなり暗示的です。

No.15 6点 メグレと運河の殺人- ジョルジュ・シムノン 2018/08/21 01:53
 マルヌ川とソーヌ川を結ぶ運河の村デイジーの水門付近で女性の遺体が発見された。死因は扼殺。〈サザン・クロス〉号の船主ランプソン大佐夫人メアリーは、数日前から行方不明になっていたのだ。だが司法解剖の結果、なぜか彼女は殺害前に数日間生かされていると判明した。さらに続けて〈サザン・クロス〉の乗員ウイリーが殺され、現場にはランプソンの所属するヨットクラブのバッジが落ちていた。だがメグレは別船〈プロヴィダンス〉号で船の一部の様に扱われている、魯鈍な大男に目を向ける――。
 メグレシリーズ2作目。なんと初期も初期、処女作「怪盗レトン」の次に書かれた作品です。今回はほぼプロットの妙とかありません。ドラマ全振り。
 メグレが馬車道をせっせこ自転車漕いだりとか所々面白い場面はありますが、基本的にパッとしない話が続きます。特に意外性も無い。
 しかしですね、これが突然宗教画のような美しいエンディングを迎えるのです。「運命の修理人」メグレは、最後に犯人と被害者の物語を編み上げてゆく。そして平凡なストーリーは類の無い物語に変わる。「怪盗レトン」ではまだエンターテイメントの範疇に留まっていた、シムノンの作家としての特質が存分に発揮されます。
 被害者の旦那も良いですね。一族から半ば放逐されて自堕落な生活を送っている、シリーズによく出てくるタイプですが、英国紳士で芯には凛とした所が残っている。ラスト二章はこの大佐と、犯人と、そしてメグレの三者それぞれの心情が滲み出ていて印象に残ります。
 という訳で読後感は非常に良いのでした。トータルでは多分凡作でしょうが。

No.14 5点 メグレと宝石泥棒- ジョルジュ・シムノン 2018/08/18 09:49
 元やくざのボス、マニュエル・パルマリが所有するアパルトマンの自室で銃殺された。車椅子暮らしのマニュエルは出所後引退を表明していたが、メグレは彼を頻発する宝石強盗事件の黒幕と睨んでいた。彼の手足となっていた情婦のアリーヌに目を付けるメグレだが・・・。
 シリーズ第92作目で1965年の作品。「メグレたてつく」の続き物で、パルマリと情婦のアリーヌは前作でメグレに重大なヒントを与える役回りでしたが、今回はそれぞれ被害者と容疑者です。
 幕開けはのどかに始まるんですが、陰惨な話ですねこれ。ラスト付近もかなり棘々しいです。密室とありますが、鍵を使っただけなのでべつに何でもありません。
 パルマリのアパルトマンでの聞き込みも、シムノンにしては人物整理が悪いですね。重要な人物を含め数人に焦点を絞るのが普通でしょう。プロットはそれなりに凝ってますが、印象的なキャラクターが不在なのであまり生きてません。
 あとがきに「メグレもののうちでも5本の指に入るもの」となっています。長島良三さんは一級の訳者ですが、メグレシリーズに関しては普及を図ろうとするあまり、いささか寸評に公正を欠くきらいがあります。後に選んだ自薦メグレにもこの作品は入っていません(「ミステリマガジン」1990年3月号「ジョルジュ・シムノン追悼特集」、長島さんの選んだのは「メグレと若い女の死」「メグレと殺人者たち」「モンマルトルのメグレ」「メグレ罠を張る」「メグレと首無し死体」番外として「メグレの回想録」)。まだ筆に力はありますが、メグレ物としては標準よりやや下だと思います。

No.13 6点 メグレと田舎教師- ジョルジュ・シムノン 2018/08/04 02:36
 パリから遠く離れたシャラント県からオルフェーヴル河岸を訪れた教師。嫌われ者の老婆射殺事件の容疑者である彼は、メグレ警視に海辺の寒村ラ・ロシェルでの再捜査を依頼するのだった。村の名産である白ワインと牡蠣目当てに、現地に赴くメグレだが・・・。
 シリーズ72作目。秀作「メグレと若い女の死」の前作に当たります。シムノン円熟期と言っていいでしょう。
 村を舞台にしたメグレ作品には「メグレとグラン・カフェの常連」「メグレと死体刑事」等がありますが、比較すると非常にカッチリした造りですね。舞台劇的。殺害時刻のアリバイは勿論、容疑者の教師や子供達、村人や被害者、各人のその時の位置関係が謎解きに関わってきます。こういうのは珍しい。今までの村物は正直イマイチ感が強かったので、根本から変えてみたのだと思います。
 教師一家は周囲からハブられ気味で、実質村を仕切っている助役のテオがメグレの相手です。そして村人のほとんどは幼馴染。ここでのメグレはテオの誘導で「はよ帰れや」という扱いなので、聞き込み捜査も碌に進展しません。それでも老婆の葬式の際に、心を閉ざす教師の息子を掴まえたことから光明が見えてきます。
 メグレは大人がアテにならないんで子供たちに当たるんですが、どの子も老けてますねえ。大体シムノンの描く子供はかわいくないです。話的には凶器のカービン銃の口径が小さすぎて普通人間なんか殺せねえよ、ってのもミソですね。被害者の眼球に当たってるんですが。
 色々テコ入れしたせいか出来はなかなかです。小作りというか全般に地味ですけど。

No.12 6点 メグレと首無し死体- ジョルジュ・シムノン 2018/07/20 13:33
 サン・マルタン運河から上がったばらばら死体を検視した後、メグレはふと目に留まった居酒屋に立ち寄るが、その店の痩せた褐色の髪の女主人が彼の注意を惹く。司法解剖の結果は「五十過ぎの男性、長時間立ったまま過ごす職業で、湿った地下室に出入りし、ぶどう酒を扱う者」だった。メグレはそのまま酒場に居付き、女主人と幾日も短い会話を交わし続けるが・・・。
 メグレ警視シリーズ第75作。「メグレと若い女の死」「メグレ罠を張る」等の秀作に挟まれた、人によってはシムノン最盛期に挙げる時期の作品です。けれど大筋でも分かる通り、しょっぱなにメグレが入った店で事件の解決が皿に乗せて差し出されるといった、かなり無茶な展開を見せます。類似の展開は部分的に他のメグレ物にもありますが、この作品はそこが極端。ストーリーも基本的に動きが無く、平板な会話が続くだけ。初読の人間は「なんやこれ」と思っても仕方ないでしょう。現に私がそうでした。
 この作品の真価はメグレと女主人のぶつ切りの会話にあります。答え辛い質問をされても殆ど躊躇わず、最小限度の回答だけを平然と口にする。
 メグレは次第に、彼女が自分とほとんど同じほどの人生経験を持つ相手だと認識し始めます。この辺のやり取りや会話の意味は、シリーズを熟読していないと分からないでしょう。ジュール・メグレという人物を知っていないと、まず表面上の平穏さの裏にある異常さが理解出来ないのです。全てが終わった後でメグレ夫人は夫に呟きます。「わたしはねたましかった」と。一連の遣り取りが女主人にも何かを残したのは、最後に飼い猫の世話を託したことで分かります。
 ラストで彼女の過去が判明するのですが、それを考慮に入れても全てを汲み取れたとは思えません。やはり名作ではあるのでしょう。初メグレがこれでいったんシリーズを投げ出してしまったせいか、今でも苦手な作品の一つです。

No.11 6点 メグレ再出馬- ジョルジュ・シムノン 2018/07/15 21:32
 メグレが引退した身を休めるオルレアン近郊ムン=シュル=ロアールの別荘。真夜中過ぎに夫人の妹の息子、フィリップが泡を食って駆け込んできた。メグレの口利きで司法警察局に就職した彼は、コカイン取り引きの重要容疑者ペピートを拘束に向かった先のキャバレーで、彼の死体と遭遇してしまったのだ。さらに動転したフィリップは凶器の拳銃を手に取ってしまう。
 慌てて店を飛び出した彼は、さらに用意されていた証人とぶつかり、完全に犯人に仕立て上げられてしまったのだった。
 メグレは嵌められた甥っ子を救うため、再び事件に乗り出さざるを得なくなる。だが既に捜査権限の無い彼に、かつての部下たちや司法警察の援助は一切期待できないのだ・・・。
 シリーズ第19作。前期メグレのトリを務める物語で、原題もそのものズバリ"Maigret"。原書でタイトルにメグレの名前が入るのはこの作品が初めてです。
 フィリップと共にタクシーでパリに急行するメグレ。甥の身柄を警察に預けた彼は、黒幕と睨んだキャバレーの元締めカジョーと交渉します。フィリップ直属の上司であるアマディユー警視はメグレの再登板が面白くないらしく、現在彼の下に付いているリュカ達も、その立場を越えて協力する事はできません。ままならないながらも靴の底を掻くようにしてカジョーを刺激し続けたメグレは、遂に当局のバックアップを取り付けた上で一発逆転の罠を胸に秘め、単身彼の自宅に乗り込むのでした。
 前期の特色である、何が起こるか分からないような息苦しさはもう無いですね。よりスマートな娯楽作の方向に寄ってきて。でもそこかしこに結構良い描写があります。例えばメグレと心を通わせ、捜査に協力する商売女が出てくるんですが、聞き込み目的でカジョーの部下と寝た後でそっちに情が移っちゃう。そのへんを悟って複雑な気持ちになるメグレとかね。
 最後にメグレが仕掛ける罠もかなり面白いです。こんな小技も使えたんだなと。それに加えて序盤やエピローグの田舎暮らしの風景描写もいい感じ。皆さん厳しいけど、付けるとすれば小説的な良さも含めて7点寄りの6.5点。気持ちとしては7点付けたいんですが、さすがにそれは無理かな。

No.10 7点 メグレ夫人のいない夜- ジョルジュ・シムノン 2018/07/13 10:19
 アルザスの妹の手術に立ち会う為にパリを離れたメグレ夫人。彼女の不在に落ち着かぬメグレは、強盗事件を張り込み中のジャンヴィエが胸に弾丸を撃ち込まれたとの急報を受ける。ジャンヴィエを見舞ったメグレはその足で、夫人の留守を機に、容疑者ポーリュが下宿していたアパートの住人となるのだった・・・。
 以前取り上げた「メグレの回想録」の次々作。間に秀作「モンマルトルのメグレ」を挟んだ作品。tider-tigerさん同様、私も「モンマルトル~」よりもこっち派です。
 物語の前半は善良そうな管理人、クレマン嬢のアパートで起こる諸々の出来事。父の残したアパートを商売抜きに経営する彼女には一見、何の問題も無さそうに見えますが、それにも関わらずメグレは逆に、一挙一動を彼女に監視されているような印象を受けます。この辺りから作品に、初期作にも通じるような異様な緊張感が溢れます(あんま続かずすぐに終わりますが)。
 後半ではクレマン嬢の秘密を知ったメグレが、もう一度改めて現場を見直す所から。ここからやっと本筋の事件が始まります。しかし二つの事件が全く無関係という訳でもなく、両者はある意味皮肉な形で繋がっていたのでした。
 ラストに展開される、メグレと犯人との切実な駆け引き。その実二人はある女性の事だけを考えているのです。外にくるみの実のような雹が叩きつける中で、電話による彼との取り引きは終わります。全ての幕が降りた後で「忘れないでくださいよ…」と、メグレに念を押す犯人。
 偶然の巡り合わせから起こったこの事件。「馬鹿なことをしてくれて!」とメグレはポーリュを恨みます。ジャンヴィエさえ撃たれていなければ、ひょっとすると見逃したかもしれません。センチメンタルで構成が甘いのは確かですが、それでも好みで7点位は付けたいところです。

No.9 6点 メグレとベンチの男- ジョルジュ・シムノン 2018/07/10 13:33
 路地奥で発見された男は驚いたような表情を浮かべて死んでいた。死体を引き取りに来た妻は、派手な色の靴にもネクタイにも見覚えは無いという。さらに彼は勤務先の倒産を妻にも悟らせず、普段通り通勤を繰り返していた。常にベンチに腰掛けていたという男は、いったいどこから生計を得ていたのだろうか?
 メグレ警視シリーズ68作目。50年代前半、傑作とは言わぬまでも佳作未満の作品を次々発表していた時期のもの。そこまでではないですがこの作品も結構好きです。登場人物がいずれもなかなか味わい深い。
 結局妻に徹底管理された男の二重生活ものなのですが、束縛から解放された彼が求めた品々とか、大事にしている交友関係とかの描写がいいのです。特に良かったのは被害者の元同僚の、獅子鼻の優しい女。「メグレと殺人者たち」の、常に母性の対象を求め続ける斜視の女性を思い起こさせます。決して美人では無いこういうタイプを描かせるとシムノンは上手い。
 例の派手な靴(「カカドワ」と言うそうです)も過去に流行したタイプの靴で、作中でもメグレが昔買ったまま、気恥ずかしくて一度も履けずに処分してしまった、という描写があります。ある年代の人々の共通の記憶なのでしょう。茶色となっていますが「ガチョウのうんこ色」とあったので、漠然と黄色かと思ってました。
 ミステリ部分は過去の短編と同ネタだそうですが、まあシムノンなので問題ありません。人物や生活描写の方がメイン。またそれを裏書きするような結末です。
 殺された男の相棒の、昔大立ち回りをやった陽気な小男もいい感じに調子が良くてろくでもないですね。メグレシリーズでこういうタイプの裏表の無いのはあんまり見かけません。

No.8 4点 メグレの回想録- ジョルジュ・シムノン 2018/07/07 16:51
 一方的にシムノンのモデルにされた「実在の」メグレ警視が、ナマの姿を読者に語るという凝った形式を採ったメタフィクション。作者肝煎りのメグレ同人誌と思ってもらえばいいです。秀作の世評高い「モンマルトルのメグレ」の前に発表された、いわゆる円熟期の作品。作家として一番脂の乗った時期に、こんなしょうもない物を書くのがけっこうおちゃめです。
 この中ではシムノンは行き過ぎなくらい自信家として描かれており、好き勝手に実像を歪めた挙句、口論になると「メグレ、黙らないか!」と怒鳴りつけたりします。その対応に内心むかむかした本人がこういうものを書いたと、そういう事になっております。
 幼少期の思い出、メグレ夫人とのなれそめ、本庁での初逮捕その他のエピソードなど、ファンにとっては何回も読み返せるスルメのような読み物。「怪盗レトン」でトランスが殺されたのは実は別の刑事のエピソードで、退職後「O探偵事務所」を開いたのが正しい、最初期にメグレの部下として登場したデュフールは実はメグレに仕事を教えた刑事、など細かい訂正もあります。
 ただしメグレに興味の無い人間には単なる新人刑事奮闘記か実録もどき。表記の点数が妥当な所でしょう。
とはいえメグレファンには必携の書。決して"読まなくてもいい"作品ではありません。その場合の採点は6点相当にはなるでしょうね。

No.7 5点 メグレの打明け話- ジョルジュ・シムノン 2018/06/28 16:29
 メグレ警視シリーズ1950年代最後期に当たる作品。リドルストーリー仕立てですがそれほど徹底してはいません。むしろ一旦裁判に軸が移れば、直接担当の捜査主任でも容疑者とは容易く面会できない状況、及び世論に押し流されて生じる捜査の歪みなどを描きたかったのだと思います。当時のフランス社会で実際に起こった事件の影響もあるかもしれません。徐々に捜査官から権限が取り上げられ、検察側の管理体制が強まってゆく様子は、この前後のメグレ物の中で繰り返し語られます。
 メグレが無罪前提で証拠を精査したのはやはり、刃物でメッタ刺しという残虐な犯行が、実際に当たった容疑者の人物像とはかけ離れていたからでしょう。ただし彼の心象がどうあろうとも、変化してゆく警察制度はもはや彼に充分な捜査の余裕を与えません。そのあたりの憤懣も仄見えています。
 いろいろと問題作ではありますが、それ以上の出来ではありません。これを受けたであろう次作「重罪裁判所のメグレ」の方が、物語としてはより充実しています。

No.6 3点 死の脅迫状- ジョルジュ・シムノン 2018/06/26 15:25
 未単行本化メグレシリーズ第3弾。6作品中唯一の中編です。殺害予告を受けて本部長に泣き付いたある富豪宅に、名指しを受けたメグレが嫌々出向く話です。
 といっても正直出来は微妙。泊り込みのメグレを含めた晩餐の席上、殺害の時刻を迎えるまでがクライマックスですが、解決そのものは本部長への報告として事後一気に語られるだけで味も素っ気もありません。
 おまけに一家全員が不潔で嫌な奴揃い。「メグレと口の固い証人たち」の陰気臭いビスケット会社の社主一族をさらに酷くした感じです。唯一買えるのは富豪の家へ出向くまでの風景描写ぐらいですね。
 元々全24巻のシムノン全集に付け足された、40年代の埋もれた中編。パイロット版というか叩き台というかそんな感じです。作者生前は刊行されなかっただけに改稿の予定でもあったのでしょうか。今となっては分かりません。
 他の中短編と比較しても出来は悪く、「マニア以外は読まなくていいよ」といった所でしょうか。

No.5 7点 メグレと奇妙な女中の謎- ジョルジュ・シムノン 2018/06/17 13:35
 未単行本化メグレシリーズ第2弾。日本では「ピクピュス」の次に翻訳掲載されました。本国では「メグレと謎のピクピュス」「メグレと死体刑事」と、3長編一冊合本で1944年に出版されています。中編「ホテル"北極星"」同様キャラ萌え作品ですね。夢見がちな女中に振り回されながら彼女を殺人犯から守ろうとするメグレを描いたチャーミングな長編。「ピクピュス」には及ばないものの良い感じです。
 折からの別荘ブームに乗って土地成金となった元船員の因業爺"義足のラピィー"。
自宅で押し込み強盗に殺害された彼が全財産を残した相手は弟でも甥っ子でもなく、奇妙な帽子を被った住み込み女中だった。しかし彼は年金以外の現金を殆ど自宅に置いていない。果たして強盗の目的は何なのか?
 メグレは非協力的な女中フェリシイと事あるごとに衝突しながら事件の謎に迫ろうとするが......。

 フェリシイ「やっぱりあんたなんか嫌いだわ!」
 メグレ「私は、フェリシイ、あんたが大好きだよ!」

シムノン最盛期だけに文章もなかなかのもの。メグレのベスト10とかそんなのではないですが、愛着の持てる一品です。

No.4 6点 メグレ最後の事件- ジョルジュ・シムノン 2018/06/17 09:11
 これを酷評された事でシムノンが全ての小説から筆を絶ったいわくつきのメグレ物。気が差したのかその批評家は断筆後のシムノンを直後にヨイショしてます。
訳者の長島良三さんもあとがきとは別の場所で「後半は駆け足でストーリーだけを追っていく感じ」とかおっしゃってます。まあそういう面もあります。
 でも後期メグレの中では割と好きな作品です。前作「メグレと匿名の密告者」がパッとしなかった分(読んだ中では第77作「メグレの失態」と並んで最低クラス。)持ち直したとすら思います。これで終わりなのは残念至極。
 警視総監に司法警察の局長就任を打診されたものの気乗りせず、デスクに並べたパイプを弄って黙々と遊ぶメグレ。彼の元にある上流夫人が、失踪した夫の捜査を依頼しにやってきます。彼女が精神の均衡を失いかけているのはその時点で分かります。
 徐々に捜査を進めていくうちに描かれる、この夫人の肖像が本編の見所。第96作「メグレと殺人予告状」に出てくる女性像をさらに徹底した感があります。頽廃したムードとある種の哀れさが全編を覆う作品です。

No.3 6点 メグレの退職旅行- ジョルジュ・シムノン 2018/06/14 13:56
 見落としがちな角川文庫のメグレ短編集の二冊目。一冊目の「メグレ夫人の恋人」よりもこちらの方が好きです。 三期に分かれたメグレ物の一期と二期の合間に書かれた十数編の短編を二冊に分け、長めの作品を集めたのがこちらという事になります。  ミステリとしてよろしいのは「バイユーの老婦人」ですかねえ。 メグレ物とは思えない大胆なトリックを弄しておりまして、形を変えて後年のメグレ長編に流用されております。
 ピカイチなのは最も長い「ホテル"北極星"」。 退官間際のメグレが殺人現場のホテルで、かたくなに身元を隠すヤンチャ娘にいいように引っ掻き回されるという、たいへん楽しいお話です。 この娘さんのキャラが非常によろしい。
 この二編に次ぐのは英仏海峡に臨む港町での、嵐の夜の殺人を扱った表題作かな。
降り込められた宿の中に犯人が…という、一種のクローズドサークル物です。雰囲気たっぷりな以外はたいしたもんじゃありませんが。
 中短編メグレはキッチリオチが着いてるのが良いですね。後期に行くに従ってどんどん薄味になっちゃいますから。文章が枯れてなければそれでも読めるんですけど。

No.2 5点 メグレ式捜査法- ジョルジュ・シムノン 2018/06/11 09:57
 ユトリロの絵のような煤けたイメージのあるメグレ警視シリーズですが、今回の舞台は南仏の楽園ポルクロール島。メグレ青春の物語「メグレの初捜査」と並んで、一気に華やいだイメージを持つ作品です。所々の風景描写も素晴らしい。普段が辛気臭いだけに期待も高まります。
 ・・・なのですが、どうも芳しくない。スコットランド・ヤードからの研修生パイク刑事の注視を受けながらいつもとは勝手の違う捜査に当たるメグレなど、様々な要素を含んで意欲的に始まりながら最終的に無難なところに着地してしまった感じです。
 初期作「メグレと死者の影(創元邦題「影絵のように」)もそうでした。「これならもっと面白くなる筈でしょう」と読み終わった後に言いたくなります。最盛期と言える40年代の作品なので余計にそう思うのかもしれませんが。
 ボアロー&ナルスジャックの評論に取り上げられたり、欧米ベストに採られたりする本作ですが、この年代の作品としては一枚落ちると感じました。文章のノリとか入れればメグレシリーズの標準よりやや上ではあるんですけどね。

No.1 8点 メグレと謎のピクピュス- ジョルジュ・シムノン 2018/05/15 01:25
 ちょこちょこメグレ物を集めて80編程読んでいるのですが、これは当たり。雑誌「EQ」に載ったまま単行本化されていない6つの作品の一つです。そのうち長編の数は5本、その中で最初に掲載されたもの。
 冒頭から謎の署名と殺人予告、女占い師の死、殺害現場に閉じ込められた老人と、後期メグレを読みつけていると大丈夫かいなという気にさせられますが、このへんのメグレ物はマンネリ打破で意欲的に新機軸を試みていた時期なので問題ありません。
この作品のネタを転用すると、マジに枯れた年代のヤツが三本くらい書けます。
 といっても一部は過去の短編の転用なのですが、それを単なる焼き直しに終わらせず脇筋にして本筋と交差させて膨らませているのは流石です。
 犯人の遣り口にメグレは結構憤激するのですが、そこには皮肉な結末が待っていて、
最後にはもうどうでもええわとばかりに奥さんの元に帰ってゆくのでした。
 いやあ、いいなあ。
 個人的にメグレ物のベスト10には入ると思います。
と言っても「シムノンを読む(瀬名秀明さんのやつ)」お勧めの「オランダの犯罪」は読んでないですけどね。
 もっと面白い未読のメグレがあるといいなあ。楽しみ楽しみ。

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雪さん
ひとこと
ひとに紹介するほどの読書歴ではないです
好きな作家
三原順、久生十蘭、ラフカディオ・ハーン
採点傾向
平均点: 6.24点   採点数: 586件
採点の多い作家(TOP10)
ジョルジュ・シムノン(38)
ディック・フランシス(35)
エド・マクベイン(35)
連城三紀彦(20)
山田風太郎(19)
陳舜臣(18)
ジョン・ディクスン・カー(16)
カーター・ディクスン(15)
コリン・デクスター(14)
都筑道夫(13)