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ミステリの祭典

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平均点:6.73点 書評数:1631件

プロフィール| 書評

No.1231 7点 報復
ドン・ウィンズロウ
(2016/01/25 00:01登録)
久々のウィンズロウはノンシリーズの復讐劇。妻子をテロリストに殺された元デルタフォースの男が遺族たちの賠償金を募ってそのお金でかつての上司が率いる世界各国の精鋭たちを集めた傭兵部隊を雇い、テロリストを追い詰める物語だ。
とにかく物語の展開はスピーディで、勿体ぶったところがなく、デイヴが精鋭たちを雇うのは全ページ610ページ強のうち、178ページと3分の1に満たないところだ。そこからウィンズロウは主人公デイヴ達が標的に迫っていく様を世界中を舞台に入念に語っていく。

さてそんな物語の中心となるデイヴの上司マイク・ドノヴァンが率いる“ドリーム・チーム”の面々はウィンズロウらしく実にキャラが立っている。

訳者が変わったせいではないだろうが、短い文章でテンポよく物語を運ぶのはウィンズロウらしさがあるものの、彼の持ち味であるユーモア交えた小気味いい文体が本書では一切ない。実にストイックに家族を喪い復讐に燃える男のストイックな物語が、専門知識をふんだんに盛り込まれながらも悪戯に感傷を煽るようにならず、ほどよい匙加減で切り詰められた文章で進んでいく。特に描写がリアリティに満ちていて実に痛々しい。例えばよく映画で目の前で敵の頭が吹き飛び、血漿を浴びるセンセーショナルなシーンがあるが、本書ではさらに砕けた頭蓋骨の破片が顔に突き刺さり、それらを除去しないと感染症に罹ってしまうという実に生々しい説明が付け加えられる。
また飛行機から飛び降りる高高度降下落下傘にしても単に潜入するだけに留まらない。高高度から飛来することの危険性―気温が摂氏マイナス48度であるから凍傷や低体温症の危険性がある、飛来する人が“X”の形で降りるのは風の抵抗を受けて少しでも落下スピードを落とす為で、落下スピードが速すぎるとパラシュートを開いた瞬間の衝撃で関節が外れてしまう、等―を詳らかに数行に亘って説明する。それも決して熱を帯びていなく、あくまで淡々と。『野蛮なやつら』や『キング・オブ・クール』で見られた実験的な文体を書いた作者と同一人物とはとても思えないほどの変わりようだ。

特に最後のテロリストの巣窟への襲撃戦はさながらマクリーンの『ナヴァロンの要塞』のようだ。難攻不落の要塞に高難度の進入を果たして12倍もの敵と対決し、ターゲットであるテロリスト、アブドゥラー・アジーズへと迫っていく。そのさなかで過酷な訓練を通じて友情を勝ち得た仲間たちと主人公デイヴは哀しい別れをしなければならない。
デイヴの報復が成就した今、恐らく彼らの物語の続きが描かれるか微妙だ。ウィンズロウ版『ナヴァロンの嵐』がいつか読めることを期待しよう。


No.1230 6点 宇宙クリケット大戦争
ダグラス・アダムス
(2016/01/15 00:02登録)
相変わらず破天荒な物語である。
とにかく1巻から続く脱線に次ぐ脱線の物語は本書も健在。いやはやとにもかくにも作者のダグラス・アダムスは相当な捻くれ者らしい。全てがおふさげの産物だ。子供たちに人気の『かいけつゾロリ』のキャッチフレーズは「まじめにふまじめ」だが、このシリーズの神髄もまさにそれ。3作目にしてどうにかこのふざけを愉しむイギリス人独特のユーモアセンスが見えてきた。

そして1つ気付いたのは恐らくこれはアダムスだけではないだろうが、宇宙ではもはや時間軸と云うのは簡単に覆り、過去に戻ることが出来る物だと認識されていることだ。本書では逆にそれが数々のパラドックスと問題を起こしているとして<実時間を守れキャンペーン>なる物が銀河系で行われているというジョークまである。

そしてまた宇宙では生物の思考が万物の法則や時間をも超越するように考えられていることも本書では頻出する。特にアーサーが崩壊する場所から逃げ出すときになぜか空中に浮いており、そのことに対して疑問を持つと次第に落下し出すので、飛ぶイメージを持つことでその状態を保つエピソードが出てくる。通常であれば非常にナンセンスであり、まさに“トムとジェリー”の世界なのだが、この考え方もSF物ではどうやら至極当たり前の論理らしい。例えば『スター・ウォーズ』に登場する宇宙に満たされているフォースと云う概念もまたその類であり、もっと近い内容で云えば『機動戦士ガンダム』に登場するニュータイプという概念もまたそうだ。
つまり宇宙ではこの時間軸が容易に反転する事、空間もまた容易に移動できること、そして思考がそれらを凌駕する事。

これらを頭に入れて読むとアダムスの描くこのシリーズの不条理なストーリー展開も以前よりはすんなり頭に入るようになってきた。

あと本書には短編「若きゼイフォードの安全第一」が収録されている。この作品のジョークはしかし今では解説がないと理解できないかなぁ。

とにかくようやく3作目に至ってアダムスのジョークのテイストが解ってきた。前2作に比べてはるかに愉しんで読める自分がいた。


No.1229 7点 麒麟の翼
東野圭吾
(2016/01/09 20:43登録)
前作『新参者』で日本橋署に転勤になった加賀が同署で再び相見えたのは一見簡単だと思われた行きずりの殺人事件。そして『赤い指』の事件でタッグを組んだ松宮刑事と再び捜査を共にする。
新宿に本社を持つ建築部品メーカーの製造本部長を務める男性がなぜ日本橋で殺害されたのか?しかも腹を刺されながら日本橋交番を素通りしたのか?そしてなぜ麒麟の像の下で彼は息絶えたのか?

当時社会問題となっていたいわゆる「派遣切り」問題を扱いながら、ある会社の本部長を務める男がなぜ日本橋七福神を参っていたのかという小さな謎が加賀を奔走させる。一つの謎が明らかになると浮かび上がる被害者の謎めいた真意。加賀は軽い臆測で事件を片付けず、とことん真相を追及していく。

さらに今回加賀は『赤い指』で亡くなった父親加賀隆正の三回忌を迎えようとしていており、その際に隆正の看護を担当した看護婦金森登紀子の世話になっている。この金森が加賀に隆正の三回忌の打合せをしている時に放つ言葉が今回の事件解決のヒントになるところが本書のミソだ。

一見不和のように見える親子関係。そしてこの悠人と武明の関係はそのまま加賀親子の姿と重なる。加賀は事件を通じて生前の父親の心に向き合うのだ。
この2つの構図をなんと上手くリンクさせることか。そしてこの加賀の父親との不和が『赤い指』を経て徐々に浄化されていく過程こそ、シリーズを読んできた者が得られるカタルシスであり、特権だ。

そしてタイトルとなっている“麒麟の翼”には本書が過ちを犯した人々に向けたそれぞれの再出発の物語であるというメッセージが込められている。それはまた加賀にもまた当て嵌まる。『赤い指』で一旦決着したかに見えた父親との不和。しかし看護婦金森を通じて、何も解決していなかったことを悟らされる。

さて今度は加賀恭一郎の番だろう。次作以降を読むが愉しみだ。


No.1228 7点 砕かれた街
ローレンス・ブロック
(2016/01/05 23:21登録)
ニューヨークに生まれ、マット・スカダーシリーズを中心にニューヨークを描いてきたブロックが9・11後のニューヨークを描いたのが本書。そこにはスカダーは描かれず、ニューヨークに住む人々を描いた群像劇の様相を呈している。
ニューヨークで知り合いや友人の掃除代行をして生計を立てているジェリー・パンコーが出くわす殺人事件を軸にニューヨークに住む人々の生活が語られる。

一方でもう1つの物語の軸となるのは美人の画廊主スーザン・ポメランスのエスカレートするセックス・ライフだ。専属の弁護士とたまに情事を愉しむだけだったのが、ボディ・ピアスを開けたことで潜んでいた性に対する飽くなき探求心が高まり、性欲の赴くままに街を徘徊しては男たちを誘い、アブノーマルなセックスに興じる。その相手が当初殺人事件の容疑者とされていたクレイトンへと繋がっていく。
それぞれ関係のないと思われた登場人物が次第に事件とスーザンの夜の活動によって繋がりを形成し出す。
そう、この800万もの人間が巣食うニューヨークで起きる、9・11のある犠牲者によって引き起こされる狂信的な連続殺人はなんと1人の奔放な性活動を多種多様な人物と繰り広げる女性によって解決の糸口が見出されていくのだ。
これはブロックなりのジョークなのだろうか?アラブ人のテロリストによって破壊されたニューヨークで悲劇のどん底に突き落とされた人々がどうにか傷が癒え、再興に向けて歩き出している人々が再び出くわした悪夢に対して、セックスによってそれまでの価値観を崩され、新たな自分に目覚めていく男たちを生み出す一人の女性がそれぞれの事件を繋げていく。つまりスーザン・ポメランスのセックスこそは再生の象徴と云っているのだろうか?
率直に云ってスーザンが繰り広げるセックスの開拓はほとんどポルノ小説のようである。いやそのものと云っていいほど詳細に、且つ濃密に描かれている。これが1人の哀しきテロリストによる狂信的なニューヨークの再生を謳った暗い色調の物語を一変させているのだ。しかもこの2つは物語に上手く溶け合っているとは正直云い難い。このスーザンの物語は本当に必要だったのか、甚だ疑問である。

ニューヨーカーであるブロックにとって9・11は途轍もないショックをもたらしたことだろう。しかしブロックが紡いだ9・11後のニューヨークは悲劇を乗り越え、それでも強かに生きている人々の姿だった。9・11は終わりではなく、また始まりでもない。確かに以前と以後では変わった物も事もあったが、それはニューヨークの歴史の中での通過点の1つであった。それが証拠に我々はまだ生きているではないか。生活を営んでいるではないか。ブロックが人生讃歌の物語を書くとこんな風になる、いい見本だと思った。


No.1227 9点 地球儀のスライス
森博嗣
(2015/12/25 23:30登録)
とにかく冒頭の3編が素晴らしい。「小鳥の恩返し」の湛える大事な物を喪った切なさ、「片方のピアス」の禁断の恋に溺れるカップルが迎える悲劇、全編手記で展開する「素敵な日記」の読めない展開が最後に一気に想像を遙かに超えた、そして全てが腑に落ちる驚愕の真相と立て続けに打ちのめされる。

その後には完結したS&Mシリーズが短編で2編収録されているのはファンとしては嬉しいサーヴィスであろう。特にその2編では今まで前作に登場しながらも萌絵の影となり支えてきた執事の諏訪野にスポットを当てているのが興味深い。しかもそれらは日常の謎系のミステリでほのぼのとした雰囲気が心地よい。萌絵の非常識ぶりも抑えられていて、これなら普通に読むことができる。

そして次は幻想小説が続く。
作者の幻想趣味が短編では存分に発揮されている。「僕に似た人」、「有限要素魔法」、「河童」の3編。幻想強度としては「河童」<「僕に似た人」<「有限要素魔法」の順になろうか。特に「有限要素魔法」は有限要素法とは関係がないように思えるのだが。

そして最後はオーソドックスでありながらもやはり心に強く残る、想い出の物語。「気さくな人形、19歳」は老人が自分の亡くなった娘にそっくりな女子大生に共に過ごすだけのバイトを頼む。それは自分の財産を娘に残すために老人が周囲に打った芝居というのが動機なのだが、ここはやはりそんな理由ではなく、偶々テレビで見かけた自分の娘そっくりな女性を発見したことで適わぬ想い出づくりをしたかったのだろう。そしてその役目を務めた小鳥遊練無の魅力的な事。イントロダクションに相応しい快作だ。
そして最後の「僕は秋子に借りがある」は実に美しい物語だ。物語が閉じると同時に木元が感じた思い、つまりそれは題名「僕は秋子に借りがある」と思わされる。この物語は作者の想い出に似た宝石のようなものがこぼれ落ちて生まれたようなものなのだろう。当然ながらこれが個人的ベストだ。

しかし小鳥遊練無といい、秋子といい、森氏の描く女性は難と魅力的なことか。西之園萌絵には最初から最後まで辟易し、この短編でも好感度が増すことがなかったので、正直森氏の女性像には失望していたのだが、本書ではその考えを180度変えざるを得なくなった。いやあ次のVシリーズが愉しみになってきたぞ!


No.1226 4点 宇宙の果てのレストラン
ダグラス・アダムス
(2015/12/20 01:34登録)
最初からぶっ飛んだ内容で正直読んでいる最中はその訳の解らない展開に翻弄される。それは作者に鼻先を摑まれて、ぐるんぐるん振り繰り回されているような一種の酩酊感に似ている。

宇宙における自身の存在のちっぽけさを思い知らせて精神破壊を起こす機械、事象渦絶対透視機。
900年もの出発を保留している宇宙船。
宇宙の果てのレストラン<ミリウェイズ>とは即ち宇宙の終焉を迎えようとする隕石の上に立地するレストランで、終焉を迎える瞬間に未来へとダイヴする。
そしてそこでは料理の材料となる生物が自らお勧めを話し、自殺して極上の料理へと変貌する。
これら小難しい形而上学的な論理を駆使して、実に馬鹿馬鹿しいことを説明しながらストーリーは進む。恐らくこれがイギリス人特有のユーモアなのだろう。本書に書かれていることは実に高度でありながら、実にスケールが小さいのだ。
このおかしみを理解する事が本書を愉しむために必要な事なのだろうが、これがなかなか浸透してこない。

う~ん、まだこの世界観にのめり込めない自分がいる。ただ前回に比べてなんとなくだがアダムスの持つユーモア感は解ってきたように思えるが、笑いがこぼれるほどにはいかないのが正直な感想だ。
この悪ふざけをアクが強いと受け取るのか、しょうもないと思いながらもほくそ笑むのか。
それが問題だ。


No.1225 8点 疾風ロンド
東野圭吾
(2015/12/14 22:58登録)
文庫書き下ろしで刊行された本書はまたもやスキー(スノボ?)シーズンの雪山が舞台となる。そして主人公を務めるのは『白銀ジャック』でも登場した根津昇平と瀬利千晶の2人だ。

本書は細菌テロという重いテーマを持ちながらも、雰囲気は軽妙でコミカルな装いで物語は進む。
まず新種の炭疽菌『K-55』の名自体が作者の名前をもじっていることからも深刻さを避けようとしているのが明白だろう。

しかし構成は単純ながらもさすがはベテラン作家東野、ストーリーに様々な要素を織り込んでいる。
まず脅迫者が事故死したことで『K-55』の隠し場所が解らなくなるというツイストもなかなかだ。さらに必死になって不祥事を揉み消そうと躍起になる東郷&栗林のコンビとは別に『K-55』を先に手に入れて3億円どころかそれ以上の身代金を請求しようと企む研究員、折口真奈美という第3の影。
そして捜索に同行させた栗林の息子秀人が現地で知り合う地元の中学生山崎育美の同級生高野一家に降りかかったインフルエンザで亡くなった妹の死に絡む母親の昏い情念と、コミカルながらも不穏な要素をきちんと用意している。いやあ、いい仕事してますわ、東野氏は。

そしてそれらがきちんとクライマックスに向けて二転三転するストーリー展開に寄与していくのだから凄い。単に思わせぶりなエピソードに終わらず、それぞれがそれぞれの事情で正体も知らずに『K-55』の争奪に関わり、利用しようとする。
正体を知っている者たちの思惑と知らない者たちの思惑が交錯して、クライマックスではスキーヤーとスノーボーダーの滑走しながらの一騎討ちといった活劇も織り込んで最後の最後まで息をつかせないノンストップエンタテインメント小説に仕上がっている。

恐らくおっさんスノーボーダー東野圭吾は経営難で苦しんでいる日本中のスキー場を救わんととにもかくにも爽快で軽快な物語を愉しんでもらいたいという思いで本書を著し、そして多くの人に手に取ってもらうために文庫書き下ろしという形での発刊を選んだに違いない。
従って本書は徹底的に娯楽に徹したエンタテインメント小説である。難しいことは考える必要は全くない。従来の東野作品の読者ならばこの単純さが、ベストセラー作家の走り書きとか、ストーリーに厚みがなくて物足りないなどとのたまうかもしれないが、単純面白主義の何が悪いと開き直って読むのが吉だ。逆にこれだけウィンタースポーツとしてのスキー、スノーボードの疾走感やスキー場の臨場感も行間から滲み出てくるような躍動感に満ちていることをきちんと気付いてもらいたい。読みやすいが故にこの辺の技術の高さが軽んじられているのが東野圭吾氏の長所であり短所でもある。

普段読書をしない人たちに「何か面白い本、ない?」と訊かれたら、今はこの本を勧めるだろう。そして『白銀ジャック』に続いてドラマ化されてもおかしくないくらい映像化に向いている。
こうやって東野圭吾の読者が増えていくわけだが、それも仕方がないと納得せざるを得ないリーダビリティに満ちた作品だった。


No.1224 8点 やさしい小さな手
ローレンス・ブロック
(2015/12/13 00:36登録)
早川書房が2009年に突如企画したハヤカワ・ミステリ文庫での「現代短編の名手たち」シリーズにブロックが選ばれ刊行されたのが本書。名手の名に恥じない傑作が揃っている。特徴的なのは全体的にブラックなテイストに満ちていることだ。

さて個人的ベストを挙げるとするとやはり本編で一番長い「情欲について話せば」になろうか。短編4つ分のネタが放り込まれた内容はもとより、トランプゲームに興じる警官、軍人、医者、司祭と云う奇妙な取り合わせが寓話めいていて奇妙な印象を残す。

「ノックしないで」も捨てがたい。ブロックには珍しくシンプルな作品だが、求めつつもそれを自分から求めない元恋人の女性の心の機微が静かに心に降り積もるかのような作品だ。

そしてスカダー物4編から1編を挙げるとすると「夜と音楽と」になる。なぜ単にスカダーとエレインが夜のデートをするだけの何の変哲もない8ページだけの1編を挙げるのか。それは最後の2行、スカダーとエレインが2人して「誰も死ななかった」ことを喜ぶシーンが妙に痛切に胸に響くのだ。
元警察官で無免許探偵をしていたマットは彼を訪ねる人達に便宜を図って人捜しや警察が相手にしない取るに足らない者たちの死を探る。人捜しであっても彼は誰かの死に必ず遭遇する。しかし警察官であったマットは死自体には何の感慨も抱かず、ニューヨークによくある八百万の死にざまの1つを見たに過ぎないと振舞う。
しかしエレインが襲われることになり、そしてエレインを伴侶とし、安定した生活を得たことで彼らにとって死はもう沢山だと思い始めたのではないか。探偵をする限り、彼は陰惨なシーンに出くわさざるを得ない。しかし2人で一夜を過ごすときは忘れたいのだという思いをこのたった2行に感じさせる。しかし初めてこの短編集でブロック作品を読んだ人たちには「何だったんだ?」で終わる話だろう。つまりこれはシリーズを読んできた者だけが行間から読み取れる深い内容だと云える。そういう意味では今回の「現代短編の名手たち」という企画にはそぐわないのかもしれない。

いやはややはりブロックは短編も読ませると再認識した。確かに上に書いたようにブロック初体験の読者にとって解りにくい作品もあるし、何よりも短編集でしか読めない悪徳弁護士エイレングラフ物が1編もなかったのが残念でもある。


No.1223 4点 呼びだされた男
ブライアン・フリーマントル
(2015/12/05 01:11登録)
チャーリー・マフィンシリーズ3作目。
まず非常に読みやすいことに驚いた。最新作『魂をなくした男』の、学生に頼んだ下訳のような日本語の体を成さないひどい日本語ではなく、実に滑らかにするすると頭に入っていく文章が非常に心地よい。
そしてこれもまた最新作と比べて恐縮だが、二分冊になるような長大さがなく300ページ強と通常の厚みでありながらスピーディに展開していくストーリー運びもまた嬉しい。若さを感じる軽快さだ。

最近のシリーズ作に比べると非常に構造がシンプルだ。したがって特にサプライズも感じずに、「えっ、もうこれで終わり?」的な唐突感が否めなかった。

また最近のシリーズ作では既に忘却の彼方となっているが、前作で妻イーディスを喪ったチャーリーは彼女の想い出と悔恨に苛まれて日々を暮している。従って折に触れチャーリーのイーディスへ向けた言葉と当時の下らないプライドを後悔しているシーンが挿入される。折に触れチャーリーは自身の行為が生前イーディスが話していた台詞が裏付けていたことを思い出す。疎ましく思っていた存在を亡くしてみて気付く愛しさと妻こそが最大の理解者であったことを自戒を込めてチャーリーは改めて確認するのだ。う~ん、この辺は実に教訓になるなぁ。

さて本書では保険調査員に扮し、そのまま無事に難関をクリアしたチャーリー。特にピンチもなく物語は終えたため、よくこのシリーズが現在まで続いたものだなぁと不思議でならない。この後は『罠にかけられた男』ではまたもやFBIと保険調査員として見えることになり、実に痛快に活躍するのだから本書はシリーズの動向をフリーマントル自身が探っていた小編だったとも考えられよう。


No.1222 8点 バーニング・ワイヤー
ジェフリー・ディーヴァー
(2015/11/29 21:38登録)
現代のシャーロック・ホームズ、リンカーン・ライムが対峙する今回の敵は“電気”。正確には電気を武器にニューヨークを翻弄する敵が相手だ。
普段はその有難みが解らないが、いざ台風や地震で停電が起きるとその大事さに気付かされるのが電気だ。3・11の東日本大震災で計画停電が行われ、当時東京に住んでいた私はネオンサインがない渋谷の街を毎日目の当たりにして、夜闇に乗じて犯罪が起きてもおかしくはないと半ばこの世の終わりのような思いを抱いたものだ。
「電気は、市民の道徳心にもエネルギーを供給しているのだ」の作中の一文には激しく頷いてしまった。
この電気、実は私も仕事で縁がある代物だが、非常に便利であるが反面、非常に恐ろしい物だ。それは本書でも実に詳細に語られている。
いわゆる“見えない凶器”であり、電線のみならず帯電している金属から人間の体内を通って地面に通り抜ける間に絶命してしまうからだ。

さらにライムはキャサリン・ダンスたちがメキシコ警察と共同してメキシコシティに潜伏しているウォッチメイカーの逮捕にも携わる、いくつもの要素が絡まった物語となっている。

そしてそれら一連の事件の絵を描いたのは意外な人物だったことが判明する。
とにかくすごい真相だ。どんでん返しの帝王とも云えるジェフリー・ディーヴァーだが、もう騙されないぞと思いながらもやはり驚愕させられてしまった。
もはやネタは出尽くしたと思ったがこれほどのサプライズをまだ見せてくれるとは、やはりディーヴァーは只者ではない。

ところでディーヴァー自身もこのシリーズを現代のホームズ物と意識して書いているようだ。特に下巻220ページの次の台詞

考えうる可能性を全て排除したあと、一つだけ排除できなかったものがあるとすれば、一見どれほど突飛な仮説と思えても、それが正解なんだよ

はホームズが短編「ブルース・パーティントン型設計図」での台詞

ほかのあらゆる可能性がダメだとなったら、どんなに起こりそうもない事でも残ったことが真実だ

とまるで同じである。もはやこれは確信的ではないだろうか。


No.1221 10点 有限と微小のパン
森博嗣
(2015/11/23 00:54登録)
シリーズ中最も厚い文庫本にして約850ページの大作。そしてそのボリュームに呼応するかのように次々と事件が発生し、様々な仕掛けが物語全体に仕掛けられている。
森氏はギアを1速からいきなり4速へと加速するかの如く次から次へと事件を謎を畳み掛ける。

方々に散りばめられた小ネタとも云える謎が早々と解き明かされるが、これが一つ一つレベルが高く、たびたび「あっ!」と声を挙げてしまうほど驚かされた。

(以下ネタバレ)

一連の殺人事件は案外あっさりと解決される。特に動機なんてものは実になおざりに処理される。
ただ私が思ったのはこの真相はいわゆる世に流布するミステリ全般に対する森氏の皮肉ではないか?ということだった。
一般的に市民が殺人事件に出くわす確率はそう高くはない。私自身、直接的間接的にせよ、殺人事件どころか刑事事件に関わったことはない。本書でわざわざ長崎まで出向いた西之園萌絵がそこで事件に出くわすことがもはや作り物めいているといえないだろうか。ミステリを読み慣れた我々にとってそれらが至極当たり前のことになっているが、実際は旅行先で事件が起こるなんてことは確率的にはかなり低いことであり、森氏はそれを逆手にとってわざと事件を起こさせるという真相を持って来たのではないだろうか。

これほど派手に事件が起こるのだが、本書の主眼はそこにはないところに森氏の潔さを感じる。
そして本書の最大の謎とは「真賀田四季は一体どこにいたのか」だ。
これを特定する犀川の推理は実にロジカルで、実に感服した。久々にこれが理系ミステリであると再認識させられた。

いやはやこの最終作でシリーズに散りばめられた仕掛けが解り、森氏の構想力に脱帽した。回文や四季を髣髴させる謎かけなど、森氏の言葉に対する貪欲なまでの遊び心が溢れ、更にはシリーズを思わず読み直させる種明かしもまた心地よい。まさにシリーズの締め括りに相応しい大作だった。

ところで当時の『本格ミステリベスト10』の座談会で笠井氏が「私や綾辻君が10作でシリーズ完結と謳いながらいまだに成し遂げてないのに、彼がたった3年できちんと完結したことがすごい」と語っていたのが一番ウケた。
この頃綾辻氏は『暗黒館の殺人』を出すと云っていた頃だったので、その後のことを考えるのもまた一興である。


No.1220 4点 銀河ヒッチハイク・ガイド
ダグラス・アダムス
(2015/11/14 01:21登録)
全く前知識のない状態で手に取った第一印象は題名と文庫裏表紙の梗概から判断してドタバタSFコメディというものだった。
いきなり悪名高い“宇宙の土木業者”で開発計画の名の下、数々の惑星を破壊して回るヴォゴン人によっていきなり地球を破壊されたごく普通の、いや人よりちょっと間抜けで報われない人生を送っていたアーサー・デントが地球に潜入していたベテルギウス人のフォードによってヒッチハイクで救われ、奇妙な宇宙の旅へと連れて行かれるお話。
この内容で間違いはないのだが、非常に読者を選ぶ文体とストーリー運びだと云えよう。

本書に挟まれる過剰なおふざけとも云えるダグラス・アダムスのギャグのセンスがイギリス人には大いに受けたのかもしれない。
とにもかくにもまだ第1巻。本書でこのシリーズの評価を出すのは早計と云うべきだろう。続く2巻目以降に期待したい。


No.1219 9点 新参者
東野圭吾
(2015/11/06 23:31登録)
日本橋署に赴任したばかりの加賀が携わるのは小伝馬町で起きた1人暮らしの女性の殺人事件。その捜査過程で彼は被害者三井峯子の遺留品を手掛かりに捜査を進めていくのだが、彼が訪れる先々ではそれぞれがそれぞれの問題を抱えており、加賀はそれらに対しても対処していく。その問題は市井の人々ならば誰しもが抱える問題で、いわばこれらは殺人事件が起きない日常の謎なのだ。つまり殺人事件の謎を主軸に加賀恭一郎は日常の謎を解き明かしていくのだ。

各章で明かされる各家庭が抱える秘密や問題は我々市井の人間にとって非常に身近で個人的な問題だ。そんな些末な、しかし当事者にとってはそれらはなかなか深刻な問題である。普通に暮らしている人々の笑顔の裏には誰もがこのような問題を抱えている。それは表向きは当事者以外にしか解らない。従ってその問題がひょんなことで表出した時に謎が生まれる。そんな謎を加賀は細やかな観察眼と明晰な推理力で解き明かす。それらは家族の中でも一部の人間しか知らされていない、実に人間らしい家庭の秘密である。

全てが明かされると、この世界は人間の優しさや人情で出来ているのだと温かい気持ちになるから不思議だ。

特筆なのはこの事件を通してシリーズキャラクターとして読者にはお馴染みである加賀恭一郎の人となりが今まで以上に鮮明に浮き上がってくることだ。
日本橋署に赴任したばかりの一介の刑事が人と人の間を練り歩き、事件とは関係のない謎を解き明かすことで1人の人間の死が及ぼしたそれぞれの小さな事件を知り、1つの大きな絵が見えてくる。それを飄々とした態度で、明晰な観察眼と頭脳で解き明かす加賀の優秀さ、いや清々しさがじんわりと読者の心に満ちてくるのだ。
特に第7章で被害者の元夫である清瀬直弘と対峙した時に加賀が清瀬に告げた家族の力の強さは、以前の加賀からは決して出なかった台詞だろう。これはやはり長年確執があった父の死を超えた加賀だからこそ云えた言葉だった。
本書は家族への愛を色んな形と角度から描いたミステリだ。人の心こそミステリだと宣言した東野氏がこんなにも心地よい物語を紡いだのは一つの到達点だろう。


No.1218 7点 死への祈り
ローレンス・ブロック
(2015/11/03 21:24登録)
今回マットが対処する事件は強盗による弁護士夫婦殺害事件。強盗が入っている間に家主が帰って来て強盗によって殺される。これはもう1つのブロックのシリーズ、泥棒探偵バーニイ・ローデンバーがしばしば巻き込まれるシチュエーションだが、その場合は軽妙なトーンで物語が進むのに対し、マット・スカダーシリーズでは実に陰惨な様子が淡々と語られ、恐怖が深々と心に下りてくるような寒気を覚える思いがする。この書き分けこそがブロックの作家としての技の冴えだ。

今回はマットとTJの機転で警察組織を巻き込んで大規模捜査網が敷かれる。かつて個人が巨大な悪に立ち向かうためにミック・バルーと云う悪の力を借りて対峙したマットだったが、前作でミックの組織は瓦解し、彼を残すのみとなった。今回総勢12人も殺害したシリアル・キラーと立ち向かうために組んだ相手が警察組織だったことは元警官であったマットにとって自分の立ち位置が原点に戻ったように思える。

原点回帰と云えばシリーズも15作目になって、マットは更なる過去へ対峙する。それはシリーズが既に始まった時から離縁関係にあった元妻アニタと彼の息子マイケルとアンドリューとの再会である。

さて私がこのシリーズを読み始めたのが2013年の6月だからもう足掛け2年4ヶ月の付き合いになる。既に本書までは既刊だったため、シリーズを1作目から本書に至るまで通して読むことが出来たが、この2年4ヶ月という凝縮された期間であっても本書を読むにここまで来たかと感慨深いものを感じるのだから、シリーズを1作目から、もしくは有名な“倒錯三部作”からリアルタイムで読み始めた人々のその思いはひとしおではないだろうか。
本書で語られているように、マットが断酒してから18年の歳月が流れ、作中での年齢は62歳と既に還暦を超えてしまっている。
しかしマットは登場当初の、人生に打ちひしがれた元警官の無免許探偵という社会的には底辺に位置する人々の一員であったが、15作目の本書では元娼婦の妻エレインが蓄財した不動産収入でニューヨークでマンション暮らしをし、安定した生活に加え、エレインが趣味で始めた画廊からの収入もあり、マットは探偵業を気が向いた時に営むといった、人が羨むような生活を送っている。もはやホテルの仮住まいで定職に就かず、毎日アームストロングの店に入り浸ってアルコールを飲み、時折訪れる人のために便宜を図るように幾許かの金で人捜しや警察が扱わない事件の掘り返しを請け負い、依頼金の1割を教会に寄付して過去の疵を癒す慰みにしている、人生の負け犬のような彼の姿はもはやそこにはない。陰の暮らしから日の当たる世界へ出たマットの姿をどう捉えるかは読者次第なのだろう。

ともあれマットが裕福になり、エレインとの夫婦生活が充実していくにつれて、このシリーズ特有の大切なペシミズムやムードが失われていくような気がするのは私だけだろうか。
相変わらず読ませる物語であることは認めよう。しかし上に書いたようにかつて読んでいたようには私の中に下りてくる叙情性といったような物が薄れて行っているのは確かだ。しかしそれでも私はいいと思う。エレイン、TJ、ミックと彼を慕う人々の中でマットが事件と対面していくのもやはりこのシリーズの特徴であるからだ。

さて次の『すべては死にゆく』は未だ文庫化されていない。このシリーズ全作読破のために一刻も早い文庫化を望む。しかしブロックの新作は文庫で出ているのになぜこの作品だけ文庫化されないのだろうか?


No.1217 7点 数奇にして模型
森博嗣
(2015/11/03 00:24登録)
S&Mシリーズ9作目の本書ではこのシリーズの原点回帰とも云える密室殺人事件を扱っている。しかも同時に2つの密室殺人が離れた場所で起こるが、どちらも容疑者は同一人物だったという、魅力的な謎をいきなり提示してくれる。

本書で特徴的なのは『幻惑の死と使途』以降付されていなかった登場人物表が復活していることだ。『幻惑の死と使途』、『夏のレプリカ』、『今はもうない』は登場人物表を付けられない、凝った構成の作品だったからだが、本書でそれが復活しているということはつまり原点回帰的な密室殺人ミステリであることを意味している。

さて本書では森氏の趣味がある意味横溢していると云っていいだろう。まず事件の舞台となるのが模型作品展示・交換会、つまりモデラー達の集いである。作者自身がかなり本格的な鉄道模型マニアであることから、これは満を持してのテーマだったと思われる。そのためか登場人物が模型やフィギュアに対する哲学を語るシーンがそこここに挟まれており、それらは作者自身の考え・意見であると窺える。

そしてもう1つ特徴的なのはコスプレイヤーも登場するところだ。モデラー達よりもその色合いは薄いものの、本書では西之園萌絵がコスプレしているところに注目されたい。まずは上記の展示会でのオリジナルキャラクターのコスプレに、事件の容疑者寺林に話を聞くために彼が入院している病院の看護婦に成りすまして潜入する。コスプレマニアにとってはある意味萌え要素が盛り込まれており、やはり西之園萌絵の名の由来はオタクやマニアにとって馴染みの“萌え”から来ているのかと思わず勘ぐってしまった。
もう少し云えば、本書の章題に注目したい。「土曜日はファンタジィ」、「日曜日はクレイジィ」、「月曜日はメランコリィ」とラノベ的な軽さを持っており、これもオタク要素を盛り立てている。本書の題名に隠されたもう1つの意味、「数奇にして模型」≒「好きにしてもOK」の如く、森氏は奔放に本書で遊んでいるようだ。

真相を知ると至極面倒な手続きを踏んだ事件だったと云える。正直「夜はそんなに長いか?」と疑わずにいられない。この真相のバランスの悪さがカタルシスを感じさせないのが残念だ。

初登場の萌絵の従兄、大御坊安朋もまた実にエキゾチックなキャラクターである。妾の子という暗い生い立ちにありながら作家にして女装家でオネエ言葉を連発する、1998年と今から17年前の発表当時では実に濃くて生理的に受け付けない人物であっただろうが、オネエタレントが芸能界を闊歩する今では免疫が出来て寧ろ魅力的に映った。

またこのシリーズのもはや特徴となっているが、殺人を犯すことの動機の浅薄さ、不可解さは逆にネット社会で人とのコミュニケーションがリアルよりも電脳領域での比率がかなり高くなっている現在の方が実に解りやすくなっている。モデラーとして優れた作品を、理想とする作品を作りたい願望が尖鋭化しすぎて、もはや人の死すら自身の材料としか見えなくなったこと、そしてその趣味に没頭したいが故に邪魔となる存在を排除したという実に端的な動機は現代社会の人間関係の希薄さが問題視されている今だからこそ腑に落ちる。

そして9作目にして初めて犀川は犯人と対決する。犯人の毒牙に落ちようとする萌絵を救うため、身体を張って彼女を護り、怪我を負う。ドライでクールなミステリだったシリーズがホットでフィジカルな色を帯びて正直驚いた。

唯一変わらないのは西之園萌絵に対する嫌悪感である。本書でも彼女は我儘で傍若無人、傲岸不遜であった。萌絵と私には決して近づくことができない斥力が働いていると認識しよう。いやはや身の回りにいなくてよかった。


No.1216 7点 本格ミステリ・クロニクル300
事典・ガイド
(2015/11/01 20:41登録)
2000年代の10年間の本格ミステリシーンを振り返ったガイドブック『本格ミステリ・ディケイド300』の前身となったのが本書。1987年から2002年の足掛け16年間の本格ミステリシーンを振り返っている。この中途半端な年代の意味はいわゆる新本格という新たな本格ミステリのムーヴメントが生まれた年、即ち綾辻行人が『十角館の殺人』でデビューした1987年から15周年経ったことを示している。綾辻以後の本格ミステリの発展と変容をつぶさに追っており、資料的にも実に興味深い内容となっている。

綾辻登場から新本格1期生と云われる法月綸太郎、歌野晶午、我孫子武丸に東京創元社からデビューしたもう1つの新本格の書き手、有栖川有栖と日常の謎という新たなジャンルをもたらした北村薫の登場、後を追うかの如く登場した二階堂黎人に京極夏彦と森博嗣の鮮烈なデビュー、そして巻末の評論に笠井潔に「脱格系」と称された佐藤友哉に浦賀和宏、西尾維新と作家の名前を挙げるだけで本格ミステリがその15年で辿った変容が解るのが興味深い。それらの激しい変容はまるでそれまでになかった新製品が世に出て急激に発展していくような右肩上がりの進化を見ているようだ。例えばテレビが発売され、白黒からカラーになり、そしてブラウン管から液晶へ、さらにアナログ放送からデジタル放送へと急激に変わっていったように。
そしてそれらのムーヴメントでは必ず多くの才能が結集するのだが、中には急激に大量化した作家群、作品群の中に一定のレベルにありながらもあまりにも迅い流れに追いつけず、埋没していった作家たちも数多いる。本書でもそれらの作家の作品が挙がっており、実に感慨深いものを感じた。

本書の内容は私の読書遍歴と当時のミステリシーンを追想するような形で読んだ。まず浮かんだ正直な感想は、「非常に懐かしい」だった。昔読んだ作品を改めてその存在意義と本格ミステリにおける価値を批評的に読むことで新たな知見を得ることもしばしばであった。
本書が刊行されたのは2002年で今なお文庫化されていない。このようなガイドブックは歴史的資料として非常に価値があるだけに、絶版化されることが運命づけられている単行本でしか刊行されていないのは非常にもったいない。そして刊行から13年経った今なお読んでもその内容には時代錯誤的な認識がなく、今に続く本格ミステリに通ずる源流を読み取ることができる(笠井氏の脱格・破格の名称はさすがに死語だと思ったが)。

早川書房から24年ぶりに海外ミステリ・ハンドブックやSFハンドブック、スパイ・冒険小説ハンドブックが新たに刊行されたり、マストリード100シリーズとして色んな趣向でミステリのガイドブックが刊行されたりとなぜか最近はガイドブック刊行が喧しい。そんな今だからこそ本書もまた文庫化されてはいかがだろうか。

しかし1990年の時点で既に積読本があることにショックを受けてしまった。ホント私の積読本は死ぬまでに捌けきれるのだろうか。それが一番の問題だ。


No.1215 7点 双生児
クリストファー・プリースト
(2015/10/19 01:42登録)
SF作家のプリーストが今回取り上げたテーマは第2次大戦時代を扱った改変歴史物語。J・L・ソウヤーと云う名の双子の奇妙な人生譚だ。

第2次大戦時の英国首相として有名なチャーチルの手記が言及する良心的兵役拒否者でありながら現役の英空軍爆撃機操縦士という相矛盾する価値観を内包するソウヤーと云う人物の正体は同じイニシャルを持つジャックとジョウゼフのJ・L・ソウヤーと云う全く同じイニシャルを持つ双子のそれぞれの来歴が混同されたことだったと判明する。戦争の混乱期にありがちな間違いであるのだが、プリーストの語りならぬ騙りはそんな定型に陥らない。

まずJLとジョーという同じJ・L・ソウヤーという名前の双子が片や英国軍の軍人の道を、一方は兵役拒否者として赤十字で働く道を選んだそれぞれの人生が手記や記事の抜粋などの様々な形式で語られる。
メインとなるのが戦争ドキュメント作家スチュワート・グラットンが興味を示したチャーチル直属の副官となったほとんど無名のソウヤーなる人物で、それが読者の1人が自身のサイン会に持参した手記によってJ・L・ソウヤー大佐であることが高い確率で確認される。
しかしそこに書かれている内容と関係者の証言や手記とは異なる事実が判明してくる。

これらの記述は様々な人物による手記や著作、記事の抜粋によって構成されている。これが全て“信頼できる語り手”であるか否かは不明であり、それらによって物語が進んでいることに留意されたい。従って前に書かれた内容が新たな事実によって否定され、物語のアイデンティティが揺らいでいく。

これは夢か現か妄想か?この足元が揺らぐ感覚はまさにプリースト作品ならではのものだ。

とにかく読書中は付箋だらけになってしまった。しかしそれこそが本書を読み解くのに必要な作法であることは物語の最後に気付かされる。上に書いたように2人のソウヤーの手記の内容は異なり、さらには挿入される様々な記事や手記においてもまた辻褄が合わないことが多々書かれているため、前に書かれた文章を行きつ戻りつしながら補完していくことが必要なのだ。しかしそれがまた物語の、いや本書で語られる歴史の真実を揺るがせることになるのだから侮れない。

さて誰が嘘をつき、誰が真実を語っているのだろう?いやもはや事実の受け取り方はその者に与えられた情報や体験によって構成されるが故に、純然たる真実はあり得ないのか。
一見ストレートな物語と見せかけて読み返すと様々な語り―騙り?―が散りばめられていることに気付かされるという実に複雑な構成を持っていることに気付かされる。全くプリーストは相変わらず一筋縄ではいかない作家だと思いを新たにした。
この複雑な物語を解き明かす一つの解釈として巻末の大森望氏の解説に書かれた緻密な説明は必読。ホント、この作品には解説本が必要だ。


No.1214 8点 真夏の方程式
東野圭吾
(2015/10/10 00:50登録)
帝都大学の研究室を離れて、警視庁の管轄外での事件ということで定型通りに草薙と内海から事件の捜査を依頼されるわけではない。草薙が登場するのは100ページを過ぎた辺りとシリーズの中で最も遅い。つまり本書では湯川が出張先で草薙達に先んじて事件に出くわす、変則的な構成を取っている。しかも草薙と内海は東京で湯川の援護射撃をするのみ。最終的に2人が合流するのが全460ページ中396ページと最後の辺りとシリーズの定型を崩しているのが興味深い。

さらに本書はある意味、シリーズの約束事を裏切ることで成り立っていると云える。
まず今回のパートナーが柄崎恭平という少年であることが驚きだ。シリーズ当初の短編で湯川は自身が子供嫌いであることを公言しているが、本書では電車で伯母夫婦の許に向かう恭平が湯川に助けられることが発端となっている。子供嫌いの人物ならば恐らく子供が困っていても無視するだろうと思われるのでこの展開は実に意外だった。
そして最も私が驚いたのは湯川が今回事件の捜査に自発的に関わっていることだ。特に旅先で知り合った柄崎恭平と云う少年から事件のことを知らされると自ら遺体発見現場に案内してくれと申し出る場面では面喰ってしまった。事件に携わることで親友とかつての恩師に手錠をかけるようになってしまった湯川が再び草薙そして内海に協力していく経緯は『ガリレオの苦悩』や『聖女の救済』で語られているが、しかしそれでも湯川は事件が起きた直後は捜査協力に後ろ向きであった。しかし今回は上に書いたように自ら申し出るようになる。
子供嫌いの男性で警察の捜査に興味を示さない男が本書では全く逆の姿勢を見せている。シリーズの基盤が揺さぶられるような展開だ。

最先端科学を売りにした探偵ガリレオシリーズだが、長編になると科学よりも、事件に関わった人たちが表面に見せない、人と人の間に起きた齟齬から生じる奇妙な縺れを探ることに主眼が置かれている。純粋な左脳ミステリであるこのシリーズが長編では右脳ミステリになるのだ。

これは誰にしもあり得る過去のひと時の過ちがきっかけとなった事件。
それぞれがごく普通の日常を護ろうとした。しかし過去の過ちはそれを崩そうと彼らを苛むように忘れた頃に訪れる。彼らにとって忘れたい忌まわしい過去が、いやもしくはそっと胸に潜めておきたい儚い恋の想い出が歪な形で追いかけてくるような思いがしたことだろう。そしてそんな過去から日常を護るにはもはや殺人と云う最悪の非日常に身を落とすしかなかった。しかしそれが負の連鎖の始まりだった。普通の生活を続けようとするのが斯くも難しいのか。これが人生の綾なのだろうか。

まさに期待通りの作品だった。湯川が解いた真夏の方程式は実に哀しい解を導いた。しかしその解ゆえに湯川はまたより魅力的に変わる事だろう。シリーズはますます深みを増していくに違いない。


No.1213 7点 殺しのリスト
ローレンス・ブロック
(2015/10/04 17:27登録)
殺し屋ケラーシリーズ2冊目の本書は長編だが、構成は連作短編のように複数の殺しの依頼について語られる。
しかし一連のケラーの仕事がケラーを狙う男がいることを裏付ける要素を含んでいるという構成になっているのだ。

そしてサイドストーリーの面白い事。
特にケラーが陪審員に選ばれて裁判に参加するエピソードは屈指の面白さを誇る。警官が盗品のビデオデッキを買ったが、それは確信的な行為だったのかと警官の有罪か無罪かを巡る裁判では次から次へ事件の関係者が現れ、実に複雑な様相を成し、当然のことながらケラーを含む陪審員の議論は右往左往する。正直読んでいて何が何だか分からなくなるのだが、この訳の分からなさと色んな人種の混ざった陪審員の面々が織りなすドタバタディベート劇が実に面白い。まさに“裁判は踊る”とも云わんばかりだ。

殺し屋対殺し屋の対決。本書のメインテーマであり、こう書くと派手なアクションと駆け引きが繰り広げられる一大エンタテインメントのクライマックスを髣髴させるが、全くそんな色合いはない。
殺し屋を主人公としながら物語の雰囲気は飄々としており殺伐したものがない。そして殺し屋が主人公であれば当然付き纏う銃器や武器の詳しい説明なども一切ない。リアリティと云う面では全くそれが欠落していると思われるが、よくよく考えると今の殺し屋とは実は我々の生活に巧みに溶け込んで銃火器などを派手にぶっ放すことはないのではないだろうか?つまりこれほど静かに殺しが成されること自体が実はリアリティがあるのかもしれない。
そう考えるとやはり最も特異なのはケラーが依頼される殺しの理由が不明なことだ。ケラーのターゲットの中には殺される理由が解らない善人が少なからずいる。しかし依頼はあり、それは遂行される。確かに来るべき大きな裁判を控えた重要な証人と云う、まさに狙われるべき理由があるもいるが、実業家や単なるサラリーマンもいる。いや後者が大半だ。そしてそれはいわゆる市井の人間でも殺しのターゲットになることを示している。ウィットとユーモアに物語を包みながらも、その裏側にあるのはどんな理由であれ、人を殺したいと思っている現代人の荒廃した心であることに気付くべきだろう。

まさにローレンス・ブロックにしか書けない作品。それが故に最後のロジャーとの決着のつけ方が意外性に凝ったがために爽快感にかけることになったのは残念である。やはり殺し屋物は純粋にアクション物を期待してしまうのか。私がケラー物のテイストに馴染むのにはまだ時間が足りなかったようだ。


No.1212 4点 金門橋
アリステア・マクリーン
(2015/09/25 23:58登録)
王道のハリウッドアクション映画さながらの、テロリストによる政府高官を人質にした緊迫の籠城劇である。

金門橋で陣取ったテロリスト、ブランソンは政府に5億ドルもの身代金を要求する。大統領を筆頭に国賓として招かれていたアラブ産油国々王らVIPの身代金に加え、爆弾を仕掛けられた金門橋の身代金が上乗せされていた。
爆弾は上空を飛行するヘリに乗ったテロリストの1人がリモコンを持っていつでも爆破できるようになっている。
この一部の隙のない計画の中、唯一の誤算は人質の中にFBIエージェントで主人公のポール・リブソンがいたことだった、とまるで一級のアクション映画の煽り文句のような状況設定でありながら、物語が進むにつれて色んな綻びが見えてくる。

通常このような籠城物であれば、犯人の要求を数時間単位で成立させ、それが適わないとなると1人、また1人と殺されていくのが常だが、全くそのような緊張感はなく、ブランソンの宣伝のためにマスコミ連中が金門橋上を右往左往する余裕さえある始末。
さらに緊張感の無さに拍車をかけるかのように、完璧無比と思われた犯罪が次第に綻んでいくのだが、これが実に容易に事が進む。橋に仕掛けられた爆弾を遠隔操作する爆弾は早々と無効化され、絶大の信頼を置く片腕はリブソンによっていとも容易に捕獲される。そんなことにも気付かず余裕綽々で構えているブランソンに対し、対策本部の連中はもはや彼に畏怖を持たず、彼の部下が気付いた彼らの機器が故意にレーザー光線で壊された疑いに対して、小馬鹿にしたように反論し、論破する。さらにブランソンの切り札であった犯行後の犯罪人引き渡し条約を結んでいない国への逃亡は受入先の国の大統領から拒否されるという始末で、いつの間にか単なる道化役に堕してしまっている。片や火中のなんとやらでブランソンや彼の片腕に疑われながらも、敵の数歩先を読んで強かにやり過ごすリブソンも口笛を吹きそうな余裕さえ感じさせられ、アクション大作としてはスリルをさほど感じさせない構成が残念でならない。

またマクリーン作品の最たる特徴である専門知識も鳴りを潜め、金門橋に関しての薀蓄もたった2ページが費やされているだけである。最盛期のマクリーンならば金門橋を取り巻く周辺特有の霧の濃さに関する地形的な特徴などを延々と語り、また濃霧に縁のない人々を唸らせる思いも寄らない弊害なども盛り込まれ、サスペンス性をどんどん重ねていったことだろう。
舞台は一流でありながら、進行は牧歌的という実にアンバランスな内容を読むに、やはり往年のヴァイタリティは枯れてしまったマクリーンの作家としての衰えを激しく感じてしまった1作だった。

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