Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.74点 | 書評数:1617件 |
No.1277 | 10点 | シャイニング スティーヴン・キング |
(2016/10/09 23:44登録) とにかく読み終えた今、思わず大きな息を吐いてしまった。何とも息詰まる恐怖の物語であった。これぞキング!と思わず云わずにいられないほどの濃密な読書体験だった。 誰もが『シャイニング』という題名を観て連想するのは狂えるジャック・ニコルスンが斧で扉を叩き割り、その隙間から狂人の顔を差し入れ「ハロー」と呟くシーンだろう。とうとうジャックは悪霊たちに支配され、ダニーを手に入れるのに障害となるウェンディへと襲い掛かる。それがまさにあの有名なシーンであった。従ってこの緊迫した恐ろしい一部始終では頭の中にキューブリックの映画が渦巻いていた。そして本書を私の脳裏に映像として浮かび上がらせたキューブリックの映画もまた観たいと思った。この恐ろしい怪奇譚がどのように味付けされているのか非常に興味深い。キング本人はその出来栄えに不満があるようだが、それを判った上で観るのもまた一興だろう。 ≪オーバールック≫という忌まわしい歴史を持つ、屋敷それ自体が何らかの意思を持ってトランス一家の精神を脅かす。それもじわりじわりと。特に禁断の間217号室でジャックが第3者の存在を暴こうとする件は既視感を覚えた。この得体のしれない何かを探ろうとする感覚はそう、荒木飛呂彦のマンガを、『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいるような感覚だ。頭の中で何度「ゴゴゴゴゴゴッ」というあの擬音が鳴っていたことか。荒木飛呂彦氏は自著でキングのファンでキングの影響を受けていると述べているが、まさにこの『シャイニング』は荒木氏のスタイルを決定づけた作品であると云えるだろう。 ところで開巻して思わずニヤリとしたのは本書の献辞がキングの息子ジョー・ヒル宛てになっていたことだ。本書は1977年の作品で、もしジョー・ヒルがデビューしたときにこの献辞に気付いて彼がキングの息子であると解った人はどのくらいいるのかと想像を巡らせてしまった。 そしてよくよく読むとその献辞はこう書かれている。 深いかがやきを持つジョー・ヒル・キングに つまり『シャイニング』とは後に作家となる幼きジョー・ヒルを見てキングが感じた彼の才能のかがやきに着想を得た作品ではないだろうか。そしてダニーのモデルはジョー・ヒルだったのではないだろうか。 1作目では超能力者、2作目では吸血鬼、3作目の本書では幽霊屋敷と超能力者とホラーとしては実に典型的で普遍的なテーマを扱いながらそれを見事に現代風にアレンジしているキング。本書もまた癇癪もちで大酒呑みの性癖を持つ父親という現代的なテーマを絡めて単なる幽霊屋敷の物語にしていない。怪物は屋敷の中のみならず人の心にもいる、そんな恐怖感を煽るのが実に上手い。つまり誰もが“怪物”を抱えていると知らしめることで空想物語を読者の身近な恐怖にしているところがキングの素晴らしさだろう。 そう、本書が怖いのは古いホテルに住まう悪霊たちではない。父親という家族の一員が突然憑りつかれて狂気の殺人鬼となるのが怖いのだ。 それまではちょっとお酒にだらしなく、時々癇癪も起こすけど、それでも大好きな父親が、大好きな夫だった存在が一転して狂人と化し、凶器を持って家族を殺そうとする存在に変わってしまう。そのことが本書における最大の恐怖なのだ。 やはりキングのもたらす怖さというのは読者にいつ起きてもおかしくない恐怖を描いているところだろう。上下巻合わせて830ページは決して長く感じない。それだけの物語が、恐怖が本書には詰まっている。 |
No.1276 | 7点 | 夢・出逢い・魔性 森博嗣 |
(2016/09/28 23:51登録) 舞台がテレビ局というのも非日常的であり、一行が那古野を離れて東京で事件に携わるのも新味があり、なかなか面白い。彼らが宿泊するビジネスホテルの描写など何気ないところに妙にリアルな雰囲気があって、共感してしまう。 しかし物語の展開にはかなり違和感を覚えた。特に事件に乗り出す警視庁の人間が紅子に色々と事件の内容を明かすことが実におかしい。紅子が人の警戒心を解く笑顔を武器に色々と話を聞くのだが、捜査上の秘密を素人にペラペラと話さないことは今では一般読者でも知っていることだろう。そこを作者は「紅子に対面すると男性は妙に素直になる傾向にある」と全く説得力のない答弁で逃げている。 更に事件の関係者であり最有力の容疑者である立花亜裕美が小鳥遊練無と共に車で建物から出るのを知っていながら見過ごしていることも実におかしい。普通ならば血眼になって2人の行方を捜すのではないか。そういう緊迫感が警察の口調からは感じられない。この傾向はずっと続き、さらにエスカレートして紅子が望むままに事件関係者たちに逢わせたりと非現実的な昔の推理小説を読んでいるかのような錯覚を受ける。 それはそのまま踏襲され、警察一同集めての推理シーンまでもが演出されるのだが、その謎解きシーンはいつになく派手だ。なんとクイズ番組収録中に真相に辿り着いた紅子がそのまま犯人まで明かすのだ。そこから出演者、司会者、テレビスタッフ、そして刑事の前で紅子の推理が開陳される。 かつて川柳に「名探偵 みなを集めて さてと云い」というほど事件関係者を集めて推理を披露するのは本格ミステリでは定番なのだが、本書では実に聴衆の多い謎解きシーンとなった。番組出演者が32名だから、少なくとも50人近くはいることになる。またこのような場で推理を臆面もなく披露する紅子もらしいと云えば実にらしい。 しかし今回の物語は実にシンプルというか森氏にしては真っ当なミステリであった。小鳥遊練無が容疑者と失踪し、そしてそのために犯人に狙われるというツイストはあったものの、メインの殺人事件が本編の謎の中心であった構成は実に珍しい。なぜならば森ミステリではメインの事件よりもサブとなる謎の方に大きなサプライズがあるからだ。例えば本書では保呂草の他に稲沢真澄という探偵が出てくる。このダブル探偵という設定ゆえに何かサプライズがあるのではないかと思っていたが、実に普通であった。いや実際は叙述トリックを色々仕掛けていたのだが。 そうそう、副産物として今回初めて瀬在丸紅子のイニシャルが明かされる。このシリーズがなぜVシリーズなのかが初めて明らかになる。 さて本書のタイトルは『封印再度 Who Inside』に次いで日本語と英語の読み方が同一のタイトルである。しかし『封印再度』とは異なり、あまりダブルミーニングの妙は本書では感じられなかった。確かに題名の通り夢とショーで殺されるという趣向は含まれているのだが、あまりインパクトがなかったように感じた。 しかし今回は阿漕荘メンバー東京出張編ということもあって紅子と犬猿の仲である祖父江七夏と元婚約者で刑事の林が登場しなかったこともあり、男女の痴情のもつれというドロドロした一面がなかったのがよかった。それ故に瀬在丸紅子、小鳥遊練無、香具山紫子、保呂草潤平たちの活躍に余計な騒音がなくて愉しめた。特に小鳥遊練無は大活躍である。そして最後に美味しいところは瀬在丸紅子がかっさらっていく。可哀想なのは香具山紫子だ。今回も三枚目に甘んじている。彼女が一番凡人であるがゆえにどうにか報われてほしいと思うのだが。 |
No.1275 | 7点 | 盤上の夜 宮内悠介 |
(2016/09/26 23:40登録) まさに鮮烈のデビューであろう。そして創元SF大賞は第1回の短編賞受賞者にこの素晴らしい才能を見出したことで権威が備わったことだろう。そう思わされるほど、この宮内悠介なる若き先鋭のデビュー短編はレベルが高い。 とにかく表題作に驚かされた。四肢を喪った女性棋士灰原由宇の半生が描かれるこの物語はミステリでもなく、また宇宙大戦やモンスターが出てくるわけもない。ただ彼女の棋士のエピソードが語られるのみだ。しかしそこには道を究める者が到達する精神世界の高み、本作の表現を借りるならば天空の世界が開けているのである。この天空の世界はまさにSFである。精神の世界のみでSFを表現した稀有な作品なのだ。 特に孤高であった棋士が最後に放つ言葉が実に心地よい。棋士の対局を孤独で苦しい氷壁登攀に例える彼女がなぜそれほどまでに苦難の道を選ぶのかの問いに、「それでも、二人の棋士は、氷壁で出会うんだよ」と応える。そこには2人でしか会えない世界があるからと。こんな幸せな答えが他にあるだろうか。この台詞は今後も私の中に残り続けるだろう。 そして実在の機械と人との勝負を扱った「人間の王」はいわば伝記である。しかし実在したチェッカーというゲームの天才とコンピューターの闘いは本作以外の作者の創造した天才たちの精神性を裏付けるいい証左になっている。神を頭に宿し、全ての局面を記憶した天才が実在した。だからこそ彼はゲームの極北を見たいと思った。 そんな人物が実在したからこそ、他の作品で登場する灰原由宇や真田優澄、葦原恭二たちの存在が生きてくる。 また麻雀を扱った「清められた卓」での息詰まる攻防戦の凄みはどうだろうか?プロ雀士は面子を掛け、予想外の奇手を打つ謎めいたアマチュア雀士真田優澄と戦いを挑む。他のアマチュア雀士も今まで培ってきたキャリアを賭けて挑む。極北の闘い、宗教と科学の闘いと称された対局はそれぞれを今まで体験したことのないゾーンへと導く。この筆致の熱さは一体何なのだろう。ただでさえ麻雀バトルとしても面白いのに―ちなみに私は麻雀をしないし、ルールも解らないのだが、それでもそう感じた!―、最後に明かされる真田優澄の秘密と彼女が成したことを知らされるに至っては何か我々の想像を遥かに超越した世界を見せられた気がした。 後世に残る、天才たちを生み出すゲームを創作したにも関わらず誰もが相手にしないがために埋没した1人の王を描いた「象を飛ばした少年」が抱いた虚しさはなんとも云えない余韻を残すし、狂乱の人生を生き尽くした2人の兄弟と1人の女性の数奇な人生を語った「千年の虚空」では人智を超えた神の領域に到達するには常人であってはならないと痛烈に主張しているようだ。ここに登場する葦原兄弟と織部綾の人生の凄絶さは到底常人には理解しえないものだ。それがゆえに己の本能に純粋であり、人間らしさをかなぐり捨てて常に答えを追い求めることが出来た。 ここに出てくるのは見えざるものが見える人々だ。その道を究めんとする者たちが望むその分野の極北を、究極を見ることを許された人々たちだ。しかしそんな彼らは超越した才能の代償に喪ったものも大きい。四肢をもがれて不具となった女性、強くなりすぎた故に滅びゆくゲームの行く末を見据えるしかない男、「都市のシャーマン」となり、治癒に身を捧げる女性、統合失調症になったがために才能が開花した男。物事を探求し、見えざるものを見えるまで追い求めていく人々の純粋さはなんとも痛々しいことか。本書にはそんな不遇な天才たちの、普通ではいられなかった人々の物語が詰まっている。 なぜこれがSFなのか。それは上にも書いたように人々の精神の高みはやがて宇宙以上の広大な広がりに達するからだ。また四角い盤上や卓上は常に対戦者には未知なる宇宙が広がる。その宇宙は限られた人々たちが到達する空間である。本書はそんな異能の天才たちが辿り着いた宇宙の果てを見せてくれる短編集なのだ。 |
No.1274 | 5点 | 海外ミステリ・ハンドブック 事典・ガイド |
(2016/09/25 23:23登録) 1991年に早川書房にて編まれた『ミステリ・ハンドブック』は今でも私の必携の書である。その『ミステリ・ハンドブック』を21世紀になった今、新たな1冊を作ろうと企画され編まれたのが本書。実に25年ぶりの刷新である。 本書はランキング形式を排し、カテゴリ別で作品をチョイする形式になっている。いわゆる目利きによるガイドブックだ。 私はこれはこれでいいとは思う。なぜなら最近行われた週刊文春のオールタイムベスト選出も27年前のランキングと上位はほとんど変わらなかったからだ。やはり初期の読書の黄金体験というのはそれぞれの脳裏に鮮烈に印象に残すからいわゆる名作からミステリの世界に入るとその驚きと面白さが常に煌びやかな原初体験として残るからだ。従って今回の早川書房の編集方針には感心したのだが、開巻してすぐに紹介されたのが『シャーロック・ホームズの冒険』であったのにはガクリとするとともに苦笑してしまった。 さて本書ではカテゴリ別にミステリが紹介されていると述べたが、その内容は以下の通り。 「キャラ立ち」、「クラシック」、「ヒーローorアンチ・ヒーロー」、「楽しい殺人」、「相棒物」、「北欧ミステリ」、「英米圏以外」、「エンタメ・スリラー」、「イヤミス」、「新世代」。 上掲の中でやはり特筆すべきは「北欧ミステリ」のカテゴリだろう。昨今の北欧系諸国の作品紹介は実に活発になり、しかもそのほとんどがレベルが高く、年間ベストランキング上位に選出されているが、とうとうガイドブックで一ジャンルを築くまでにもなった。数年前ならば「英米圏以外」で一括りにされていたであろうが、やはり既に認知されてきたということか。しかもそのきっかけを作った『ミレニアム三部作』は「キャラ立ち」にカテゴライズされており、それを除いてもカテゴリーを埋めることが出来るほど成熟していることだろう。 また「イヤミス」がカテゴリーとして別に掲げられていることも興味深い。昔は悪女物とかファム・ファタール物、奇妙な味、鬼畜系などと表現を変えて紹介されてきた作品がこのカテゴリーで集約されている。このジャンルが以後何年続くのか解らないが、数年後にまた紐解いてみて死語となっているか否かを確認するのも一興かもしれない。 ただ今回はカテゴリー別にしたことでH書房作品ばかりが挙げられたのは実に恣意的に感じた。特に多いのがアガサ・クリスティ。4作も収録されている。kanamoriさんもおっしゃっているように3割が他者の作品であることを多いとみるか少ないとみるかは読者次第であろう。私はやはり少ないと感じる。老舗ミステリ出版社であるからその歴史ゆえに出版点数は多いのは解っているが、やはり4割は割くべきだろう。またウィンズロウがニック・ケアリーシリーズや『犬の力』でなくなぜ『ボビーZ~』なのかとかキングがなぜ『グリーン・マイル』なのかとか色々気になるところはあるのだが。 この作品紹介以外にはエッセイが2編と評論が7編続く。しかしそのうち本書のための書下ろしは有栖川氏のエッセイ1編のみで他は全てミステリマガジンで収録されたものの採録であり、瀬戸川氏のジェイムズ評論は『ミステリ・ハンドブック』からの再録である。新たなハンドブックを作ろうと意気込んだ割にはなんとも竜頭蛇尾のガイドブックかと落胆するのもおかしくないだろう。 特別座談会、ジャンル別評論、零れた名作、復刊希望の名作・傑作などもっとミステリを活性化するような企画はあるだろうに、自社の作品を主に紹介し、自社の雑誌の掲載記事を載せて自画自賛している手前味噌感が実に下らなく感じた。 『海外SFハンドブック』の感想にも書いたが、最近の出版社には本当に読みたくなるガイドブックの作り方を知らないのではないだろうか。特にH書房は自社の売上向上のためにやらされているような感じを受けてしまう。本書の約2倍の分量がある『新・冒険スパイ小説ハンドブック』に充実ぶりを期待しよう。 |
No.1273 | 7点 | さようなら、いままで魚をありがとう ダグラス・アダムス |
(2016/09/21 23:22登録) シリーズ4作目の本書の舞台はなんと1作目の冒頭でヴォゴン人によって消滅させられた地球だ。約8年もの間宇宙を彷徨っていたアーサー・デントは周囲の人々に数ヶ月程度の休暇を取って久々に帰ってきた程度の歓待を受ける。 相も変わらず語られる内容は荒唐無稽のナンセンスギャグが横溢している。今回アーサーが恋に落ちる女性フェンチャーチも謎めいた女性であるが、それ以外にもいつも雨に追われているトラック運転手ロブ・マッケナに家の中が外で家の外が部屋になっている奇妙な家に住む真実を知る男ジョン・ワトソンと読者を軽く酩酊感に誘うストーリー運びは健在だが、フォード・プリーフェクトのエピソードが幕間に挟まれるものの、前3作に比べるとストーリーの起伏はむしろ穏やかで、アーサーの地球復活の謎を探るメインストーリーが主になっているために実にスムーズに進むように感じられた。これはそう感じるのは私だけでなく、解説によれば刊行当時の評価もそうだったらしい。SFを期待したファンには失望感を、批評家筋では好評だったとあり、私はやはり後者の側の人間のようだ。 これは今までが広大な宇宙を舞台に色んな星の色んな星人の奇妙な生態や習慣、そして環境がどんどん放り込まれていたのに対し、今回は地球を舞台にしていることもあるのかもしれないが、特徴的なのは他のメインキャラクターであるゼイフォードやトリシアたちが全く出てこないことだ。私は今までアダムスのストーリー展開の取り留めのなさに面食らい、煙に巻かれたような読後感にどうも相性の合わなさを覚えていたものだが、本書のようにはっきりとしたストーリー展開をされると逆に味気なさを感じる自分がいて正直驚いた。3作読むことで実はアダムスマジックにかかっていたのかもしれない。 この4作目は今までの作品の雰囲気とガラリと変わっている。今まではとにかく独特な価値観で本能の赴くまま行動するゼイフォードとフォードに振り回されるアーサー、そして鬱病ロボットマーヴィンと世渡り上手のトリリアンらが織りなすドタバタ喜劇だったが、本書ではアーサーと新ヒロイン、フェンチャーチ2人の出逢いと冒険がメインとなっており、今までの登場人物で登場するのはフォードと最後にマーヴィンが出てくるだけである。 つまりこの地球が復活した本書は新たなシリーズの幕開けという位置づけとなるのではないか。『銀河ヒッチハイク・ガイド』第2章とでも云おうか(と思っていたらやはり解説にも作者が3作まででシリーズ完結と云っていたと書かれていた)。 毎度毎度先の読めないナンセンスSFギャグオデッセイ。次は図らずも作者の急逝で最終巻となった物語。決着がつくわけではないだろうが、新たな幸せを得たアーサーとフェンチャーチの2人にどんな冒険が待っているのか、正直不安である。 |
No.1272 | 7点 | 虚像の道化師 東野圭吾 |
(2016/09/19 23:53登録) 文庫版で読了。 本書では内海刑事の登場以来、疎遠になりつつあった草薙刑事と湯川との名コンビぶりが復活しているのが個人的には嬉しかった。 今回も科学知識を活用したトリックが並べられている。マイクロ波、赤外線、電磁波、流体力学、脳磁波、作用反作用の法則。 こう並べるといずれもどこかで聞いたような物ばかり。生活家電に取り入れれらているものもあれば、かつて学生時代に学んだ物もあり、また初めて聞くものもありと今回もヴァラエティに富んでいる。つまり必ずしも最先端の科学技術ではなく、我々の日常生活で既に活用されている技術を駆使したトリックなのだ(一部を除くが)。 しかしこれらの技術をトリックとして使って恰も超常現象のように振る舞う犯人、もしくは事件関係者たちの姿はもはや特異ではなく、日常的になりつつある。それはやはりネットの繁栄により素人が容易に手軽にそれらの技術を応用したツールを手に入れ、アイデア1つで奇跡のような事象を生み出すことが可能になったからだ。つまり科学技術が蔓延することは警察にとっても常に犯人と技術的な知恵比べを強いられることになることを意味している。 そんな科学知識を応用して紡がれる短編はとにかく全てが水準以上。シリーズ初期に見られた一見怪現象としか思えない事件を科学の知識でそのトリックを見破るだけでなく、事件の裏に隠された関係者の意外な心理を浮き彫りにして余韻を残す。そんな粒ぞろいの作品の中で個人的なベストを挙げると「透視す」、「曲球る」、「演技る」の3編を挙げたい。 さて以前にも書いたが湯川は『容疑者xの献身』以前と以後ではキャラクターががらりと変わっている。特に事件関係者に対して手厚い心遣いを、気配りをするようになった。「透視す」ではホステス殺人事件の謎のみだけでなく被害者親子の確執に隠された被害者の真意を突き止め、遺族となった継母に魂の救済を与える。「曲球る」では再起をかけたプロ野球投手に研究としながらも復活に惜しみなく協力し、「念波る」では双子姉妹に秘められた犯人に対する強い疑念を晴らすために嘘をついてまで協力すれば、「偽装う」では心中事件を殺人事件に偽装しようとした娘の痛々しい過去を汲み取り、明日への新たな一歩を踏み出す勇気を与える。 そこには単純な科学の探究者だった湯川の姿はなく、人を正しい道に導く人道的な指導者の姿が宿る。前作『真夏の方程式』で否応なく事件に関わらされた無垢なる容疑者に直面したことが、今回のように予期せず犯罪に巻き込まれてしまいながらも今の最悪を変えようともがく弱き人々へ手を差し伸べる心理に至ったのだろうか。だとすればこのシリーズは間違いなく事件を経て変わっていく湯川学の物語であるのだ。単なる天才科学者の推理シリーズではないのだ。 以前は加賀恭一郎シリーズの方に好みが偏っていたが、今ではその天秤はこの探偵ガリレオシリーズに傾きつつある。本書を読んでその傾きはさらに強くなったと告白してこの感想を終えよう。 |
No.1271 | 7点 | 呪われた町 スティーヴン・キング |
(2016/09/12 23:08登録) キング2作目にして週刊文春の20世紀ベストミステリランキングで第10位に選ばれた名作が本書。そんな傑作として評価される第2作目に選んだテーマはホラーの王道とも云える吸血鬼譚だ。 本書の主役はこの町であり、その住民たちである。従ってキングは“その時”が訪れるまで町民たちの生活を丹念に描く。彼ら彼女らはどこの町にもいるごく当たり前の人々もいればちょっと変わった人物もいる。登場人物表に記載されていない人々の生活を細かくキングは記していく。 これらの点描を重ねて物語はやがて不穏な空気を孕みつつ、“その時”を迎える。 このじわりじわりと何か不吉な影が町を覆っていく感じが実に怖い。正体不明の骨董家具経営者がマーステン館に越してきてから起きる怪事件の数々。キングは吸血鬼の存在を仄めかしながらもなかなか本質に触れない。ようやく明らさまに吸血鬼の存在が知らされるのは上巻300ページを過ぎたあたりだ。それまでは上に書いたように町の人々の点描が紡がれ、そこに骨董家具経営者の謎めいた動きが断片的に語られるのみ。それらが来るべき凶事を予感させ、読者に不安を募らせる。 キングの名を知らしめた本書は今ならば典型的なヴァンパイア小説だろう。物語はハリウッド映画で数多作られた吸血鬼と人間の闘いを描いた実にオーソドックスなものだ。しかし単純な吸血鬼との戦いに人口1,300人の小さな町セイラムズ・ロットが徐々に侵略され、吸血鬼だらけになっていく過程の恐ろしさを町民一人一人の日常生活を丹念に描き、さらにそこに実在するメーカーや人物の固有名詞を活用して読者の現実世界と紙一重の世界をもたらしたところが画期的であり、今なお読み継がれる作品足らしめているのだろう(今ではもうほとんどアメリカの書店には著作が並んでいないエラリー・クイーンの名前が出てくるのにはびっくりした。当時はまだダネイが存命しており、クイーン作品にキング自身も触れていたのだろう)。 吸血鬼カート・バーローがどんどん町の人々を吸血鬼化していき、ヴァンパイア・タウンにしていくところに侵略される恐怖と絶望感をもたらしている、ここが新しかったのではないか。従って私は吸血鬼の小説でありながらどんどん増殖していくゾンビの小説を読んでいるような既視感を覚えた。 また本書の恐ろしいところは町が吸血鬼に侵略されていることをなかなか気づかされないことだ。彼らは夜活動する。従って昼間は休息しているため白昼の町は実に平穏だ。いや不気味なまでに静まり返っている。人々はおかしいと思いつつも明らさまな凶事が起きていないため、異変に気付かない。しかし夜になるとそれは訪れる。近しい人々が訪れ、赤く光る眼で魅了し、仲間に引き入れる。この実に静かなる侵略が恐怖を募らせる。これは当時複雑だった国際情勢を民衆が知ることの恐ろしさ、知らないことの怖さをキングが暗喩しているようにも思えるのだが、勘ぐりすぎだろうか? 古くからある吸血鬼譚に現代の風俗を取り入れてモダン・ホラーの代表作と評される本書も1975年に発表された作品であり、既に古典と呼ぶに相応しい風格を帯びている。それを証拠に本書を原典にして今なお閉鎖された町を侵略する吸血鬼の物語が描かれ、中には小野不由美の『屍鬼』のような傑作も生まれている。 |
No.1270 | 4点 | 殺し屋ケラーの帰郷 ローレンス・ブロック |
(2016/09/04 22:42登録) 前作『殺し屋ケラー最後の仕事』でケラーはニコラス・エドワーズとして身分を変え、リフォーム会社の共同経営者に収まり、さらに彼とドットを罠にかけたアルへの復讐を遂げ、さらにはジュリアという伴侶を得てその妻との間にかわいい娘ジェニーを儲けたケラー。通常ならば大団円で一連のケラーのシリーズに終止符が打たれるはずだったが、人生は上手くいかない物でケラーの前にサブプライムローン問題が立ち塞がり、あれほどあったリフォームの依頼がパタリと止んで閑古鳥が鳴く状態に。そんなところからケラーの第2の殺し屋稼業がスタートする。 かつては一匹狼だったケラーが家族という護る物を得て再び命を奪う仕事に就けるのかと正直疑問だった。ケラー自身もしばらくのブランクを懸念し、またかつての自分のように冷静に処置できるのかと自問自答を繰り返すが、逆に妻のジュリアと幼い娘ジェニーの声を聞くことで逆に安堵を覚える。殺し屋稼業に戻ることでそれまでのことが夢ではなかったのかと錯覚したがそうではないことを再確認し、それでもケラーは仕事が実施できたことで再び自分を取り戻す。 しかしこの感覚は特殊だ。家族を持つからこそそれまで出来たことが出来なくなることは多々あるのに。ましてや人の命を奪い、家族に喪失をもたらす仕事である。それは妻ジュリアも指摘するのだが、ケラーは自分の変化を懸念しはしたものの、やはり前の通りに殺しをやれた自分がおり、それは以前と変わらぬ達成感をもたらしたと述べる。ケラーの精神状態はやはり常人とはちょっと違っているようだ。 今回は以前にも増してケラーが切手にのめり込む描写が非常に多い。殺しの依頼も切手収集のついでになっている。もはや暮らすのに十分な金があるケラーにとってかつての生業だった殺しから切手収集がメインになって主客転倒しているのだ。 しかし殺し屋の話で始まったこのシリーズが切手収集がメインの話になろうとは誰が想像しえただろか?殺しを扱っているのに全く陰惨さがない、実に特殊なシリーズだ。 そしてその切手収集熱はやがてケラーから殺し屋稼業が潮時であると決意させるようになる。アウトローだった彼が妻と娘とリフォーム業と切手転売のサイドビジネスと安定を得た時、もはや彼には殺しをする理由が無くなっていた。 妻の助言で切手転売のサイドビジネスを始めてからはもはや殺し屋稼業よりもそちらの方に興味が大きく傾いてくる。それは趣味にさらにのめり込む環境が出来たこともあるだろうが、やはりこちらの方が安全な仕事であること、そして殺しのためにアメリカの各地に出張して家族と一時的に離れることが次第に辛くなってきたことだろう。ケラーの心の中に家族愛という新たな感情が芽生え、その領域がどんどん大きくなってきたのだ。 殺しを引退したケラーがどんな理由にせよ、ターゲットにアプローチしていく過程、そして依頼を達成するプロセスを書くことがもはやメインではなくなった証拠ではないだろうか。ケラーの引退を示唆しながらアクロバティックな内容で再び呼び戻したブロック自身もこの先のケラーを描くことに迷った、いやむしろケラー自身が彼の中で動かなかったのかもしれない。 前作『殺し屋最後の仕事』がやはりこのシリーズの幕引きだったのではないだろうか。サブプライムローン問題という新たな経済危機がブロックの中にいたケラーを呼び起こしたのだろうが、本書に収められたケラーの姿を見ると、もはやそこには殺し屋ケラーの姿は薄れ、愛する妻と娘を持ち、切手収集を趣味にしたリフォーム会社の共同経営者ニコラス・エドワーズがいるだけだった。 どんなシリーズにも終わりはある。読者を大いに楽しませるシリーズならばその幕引きは鮮やかであるべきだろう。 本書は家族を持ったケラー=ニコラス・エドワーズのその後を知るにはファンにとってはプレゼントのような短編集だったが、かつてのケラーを期待するファンにとってはどこか物足りなく、そして痛々しさを感じさせる作品だった。 |
No.1269 | 10点 | ロスト・ケア 葉真中顕 |
(2016/09/04 00:22登録) 介護という日常的なテーマを扱った本書で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した著者のデビュー作。新人とは思えぬ堂々の書きっぷりで思わずのめり込んで読んでしまった。 介護。それは誰もが必ず1度は直面する問題で2000年に我が国も介護保険制度が導入されたが、今なお介護が抱える問題や闇は払拭されていない。 作者は色んな対比構造を組み込んで物語に推進力をもたらせている。 介護する側される側。助かる者と助からない者。富める者と貧しい者。善人と悪人。 しかし究極の光と闇はやはり大友と<彼>である。これについては後に述べよう。 以下ネタバレを含みます。 重介護老人を自然死に見せかけて計43人もの犠牲者を出した<彼> の所業を暴くプロセスが実に論理的だ。 大学の数学科の元研究員という奇妙な経歴を持つ大友の相棒の事務官椎名によって『フォレスト八賀ケアセンター』の各従業員の出勤記録と殺人が起きた日の曜日との間にある奇妙な相関関係を分析して容疑者に辿り着く。このように具体的な数値データから犯人を導くプロセスは今までミステリで読んだことがない、本当のデータによる犯人の特定であった。これをデビュー作で既に独自色を出すとは恐るべき新人である しかしこの物語は上に書いたように新人作家の一デビュー作であると片付けられないほど、その内容には考えさせられる部分が多い。 介護生活は今40代の私にとってかなり現実味を帯びた問題になっている。実際母親は更年期障害で入退院を繰り返し、義母に至ってはつい先月末に脳梗塞で倒れ、半身麻痺の状態で入院中だ。本書に全く同じ境遇の人物が出てきて私は大いに動揺した。そう本書に書かれていることはもう目の前に起こりうることなのだ。 人を殺すことは悪だと断じる大友も実は人を多く殺したから死刑を求刑する自分もまた間接的な殺人者であることを犯人に論破され、動揺する。つまり人を殺すことは悪い事だと云いながら、社会は治安を守るために殺人を行っているのだ。 しかしそれは必要悪だ。この世は単純に善と悪の二極分化では割り切れないほど複雑だ。しかし実は自然でさえその必要悪を行っている。自然淘汰だ。自然は、いや地球は生態系を脅かす存在を滅ぼすような人智を超えたシステムによってバランスを保っている。 私は本書の犯人の行ったことは自然淘汰に似ていると思った。誰もが最低限の幸せな生活を送る権利があるが、それが実の両親もしくは義理の両親によって侵される人々がいる。そんなアンバランスはあってはならない。それを生み出した日本のシステムを変えるために<彼>は制裁を行ったのだ。 東野圭吾の『さまよう刃』でも思ったが、人は殺してはいけないが死刑のように社会の治安を守る、つまりはシステムを維持するための必要悪としての殺人は存在しうるのではないのだろうか。実に考えさせられる作品だった。日本の介護制度の想像を超える悪しき実態を知ってもらうためにもより多くの人に読んでもらいたい作品だ。 |
No.1268 | 10点 | ナミヤ雑貨店の奇蹟 東野圭吾 |
(2016/08/10 23:25登録) とにかく小憎らしいほど読者を感動させるファクターが散りばめられている。東野圭吾が本気で“泣かせる”物語を書くとこんなにもすごいクオリティなのかと改めて感服した。上に書いたようにテーマが普遍的であり、読者それぞれに当事者意識をもたらせ、登場人物に自身を投影させる親近感を生じさせるからだろう。 そしてかつて『手紙』という作品では本来貰って嬉しい手紙が刑務所に服役中の兄から送られることで主人公の未来を閉ざす赤紙のような忌まわしい物に転じていたのに対し、本書では悩み事を記した手紙が人の心と心を繋ぎ、実に温かい物語になる。映画『イルマーレ』も過去と現在の時空を超えた手紙のやり取りの話だったが、その要素を取り入れているからなおさらだ。読み終わった後、しばらくジーンとして動けなかった。 今ちょうど公私に亘って難局に直面しているためか、私もナミヤ雑貨店に相談したいとさえ思ってしまった。特に浪矢雄治の人柄が実に素晴らしく、なぜこの人はここまで人に対して興味を持ち、また真摯に向くことができるのだろうかと感嘆した。 またもや東野圭吾に完敗だ。しかもとても清々しくやられちゃいました。 |
No.1267 | 4点 | 女王の百年密室 森博嗣 |
(2016/08/08 00:01登録) 森氏独特の価値観が横溢したルナティック・シティの文化や価値観は我々の社会とは一線を画し、非常に興味深いものがある。 この、完全に支配されたシステムを敢えて壊したくなるという衝動は一連の森ミステリの共通項だろう。先に読んだ『そして二人だけになった』も全く同じ動機だった。完璧だからこそ壊し甲斐があり、また完璧の物が壊れる姿もまた完璧に美しいものだと思っていたのかもしれない。 思えば森氏は閉鎖された特殊空間で起きる事件を主に扱っていた。デビュー作の『すべてはFになる』然り、またその作品から始まるS&Mシリーズでも大学の研究室や実験室というこれもまたいわばそれを研究する者にとって恣意的に作られた空間である。 『有限と微小のパン』に出てくるユーロパークもまたそうであり、さらに『そして二人だけになった』のアンカレイジもそうだろう。しかしそれらはまだどこか現代と地続きであったのだが、とうとう本書では2113年という未来を設定し、中国とチベットの辺りにある完全に秩序化されたルナティック・シティという世界を作り上げてミステリに仕上げた。これぞ森氏が望んでいた箱庭だったのだろう。そしてこのルナティック・シティはまだまだこれから出てくる森氏が神として作り出した世界のほんの足掛かりに過ぎないことだろう。 『笑わない数学者』で犀川が「人類史上最大のトリック……?(それは、人々に神がいると信じさせたことだ)」と呟いたが、まさしく森氏は自身が神になることで最大のトリックを考案しようとしたのではないだろうか。 閉鎖空間、秩序、システム、そして崩壊が森ミステリの共通キーワードと云えよう。 あとはそれに読者がフィットするか否か。私はややピースとして当て嵌まらないようだった。しかしそれもまた慣れるかもしれない。次の作品に期待しよう。 |
No.1266 | 5点 | 償いの報酬 ローレンス・ブロック |
(2016/07/31 23:12登録) 時代は遡って『八百万の死にざま』の後の事件についての話。幼馴染で犯罪者だったジャック・エラリーの死についてスカダーが調査に乗り出す。マットが禁酒1年を迎えようとする、まだミック・バルーとエレインとの再会もなく、ジャン・キーンがまだ恋人だった頃の時代の昔話だ。 AAの集会で再会した幼馴染ジャック・エラリーの死にマットが彼の助言者の依頼で事件の捜査をするのが本書のあらすじだ。 マットは警察という正義の側の道を歩み、翻ってジャックはしがない小悪党となってたびたび刑務所に入れられては出所することを繰り返していた悪の側の道を歩んできた男だ。 かつての幼馴染がそれぞれ違えた道を歩み、再会する話はこの手のハードボイルド系の話ではもはやありふれたものだろう。そしてマットが警察が鼻にもかけないチンピラの死を死者の生前数少なかった友人の頼みを聞いてニューヨークの街を調べ歩くのも本シリーズの原点ともいうべき設定だ。 しかしなぜここまで時代を遡ったのだろうか?ブロックはまだ語っていないスカダーの話があったからだと某雑誌のインタビューで述べているが、それはブロックなりの粋な返答だろう。 恐らくは時代が下がり、60を迎えようとするマットがTJなどの若者の助けを借りてインターネットを使って人捜しをする現代の風潮にそぐわなくなってきたと感じたからだろう。エピローグでミック・バルーが述懐するようにインターネットがあれば素人でも容易に何でも捜し出せる時代になった今、作者自身もマットのような人捜しの物語が書きにくくなったと思ったのではないだろうか。 しかしそれでもブロックはしっとりとした下層階級の人々の間を行き来する古き私立探偵の物語を書きたかったのだ。それをするには時代を遡るしかなかった、そんなところではないだろうか? 2013年からシリーズを読み始めた比較的歴史の浅い私にしてみても実に懐かしさを覚え、どことなく全編セピア色に彩られた古いフィルムを見ているような風景が頭に過ぎった。私でさえそうなのだから、リアルタイムでシリーズに親しんできた読者が抱く感慨の深さはいかほどか想像できない。これこそシリーズ読者が得られる、コク深きヴィンテージ・ワインに似た芳醇な味わいに似た読書の醍醐味だろう。 物語の事件そのものは特にミステリとしての驚くべき点はなく、ごくある人捜し型私立探偵小説であろう。しかしマット・スカダーシリーズに求めているのはそんなサプライズではなく、事件を通じてマットが邂逅する人々が垣間見せる人生の片鱗だったり、そしてアル中のマットが見せる弱さや人生観にある。 古き良き時代は終わり、誰もが忙しい時代になった。ニューヨークの片隅でそれらの喧騒から離れ、グラスを交わす老境に入ったマットとミック2人の男の姿はブロックが我々に向けたシリーズの終焉を告げる最後の祝杯のように見えてならなかった。 |
No.1265 | 3点 | 麻薬運河 アリステア・マクリーン |
(2016/07/27 23:11登録) イギリスに流入する麻薬ルート殲滅のために国際刑事警察シャーマンがその源であるオランダはアムステルダムに潜入して捜査を行うというのがあらすじだ。 知っての通り、オランダはドラッグの使用が合法化されている。誤解をしないように説明するとあくまでそれはハシシやマリファナといったソフトドラッグに限られたことであり、ヘロイン、コカイン、モルヒネ、LSDといったハードドラッグについては規制がされている。現在の法律の基礎となったオランダアヘン法の改正がなされたのは1976年。本書が発表されたのは1969年とあるから合法化以前の物語である。 しかしながら相変わらずマクリーンの文体は読みにくい。いきなり主人公シャーマンの長々とした不平不満の独白から展開する物語は、またもいきなり主人公が渦中に投げ込まれ、逃走劇から始まる。彼の素性が解るのは導入部のチャプター1の終わり、20ページの辺りからだ。それまでは何の情報もなく、ストーリーが流れる。これはアクション映画としての常套手段であり、実に映画的な作りであると云えよう。 さらにその後も場面展開が目くるめくように切り換わるがその内容も説明的でありながら光景を思い浮かべるのが困難で、やはりマクリーンは文章はあまり上手くなかったのではと結論せざるを得なくなった。 そしてやたらと美女が出てくるのは映画化を意識してのことだろうか。まず主人公シャーマンの部下マギーとべリンダはそれぞれ黒髪と金髪の美人捜査官。そしてシャーマンの相棒だったジミー・デュクロの恋人アストリッド・ルメイもまたオランダ人とギリシャ人の混血美人。麻薬中毒者のファン・ゲルダーの娘トルディもまた人形のような美人。さらに教会の尼さんは美人揃いとどれだけファンサービスに努めるのかと思うばかり。 先に読んだウィンズロウの『ザ・カルテル』は作者の麻薬社会に対する怒りの情念のようなものが文章から溢れんばかりだったが、マクリーンのこの作品は映画化を意識したかのようなスリルとサスペンスとアクションを盛り込んだエンタテインメントに徹している。しかしサプライズを意識するあまり、読者は暗中模索の中で物語を読み進める。毎度のことながらこれが非常に気持ち悪くてなかなか没入できなかったのだが。 作品を量産する手法に気付いたベストセラー作家の作りの粗さに気付かされた作品だ。私が好んで読んだマクリーンはここにはなかった。なんとも哀しいことだ。 |
No.1264 | 3点 | そして二人だけになった 森博嗣 |
(2016/07/26 23:35登録) 閉鎖空間で1人、また1人と殺される、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』に代表される典型的な“嵐の山荘物”だ。 しかも登場人物は主人公を含め、たった6人。しかも主人公2人以外は全536ページ中327ページ辺りで殺害されるという展開の速さ。正直残り200ぺージも残してどんな展開になるのかと変な心配をしたくらいだ。 そしてさらに388ページ目で外界への脱出に成功する。正直ここからの展開は全く以て読者の予想のつかないところに物語は進む。 橋という両岸を繋ぐ構造物の特性に着眼したトリックを読んだときは「おっ!」と思ったものの、それだけの労力を費やすことに疑問を持ち、さらに意外な真相が明らかになるにつれて、どんどん評価が下がっていった作品だ。 とにかく矛盾だらけだし、今までの話はいったい何だったんだと腹を立ててしまった。 また死体の手に握られていた木、粘土、煉瓦、モルタル、金属、そして金と銀で作られたボールに込められたミッシング・リンクも気を持たせた割には正直「それで?」といったものであるし。 全てがすっきり解決しないのが森ミステリの特徴であるが、動機、真相ともに実にすっきりしない作品だったことは非常に残念。他の作品で森氏はミステリを舐めていると痛烈に批判する感想を目にしたが、本書はとうとう私にそう感じさせた作品として苦く記憶に残るものとなった。 |
No.1263 | 8点 | 陽だまりの偽り 長岡弘樹 |
(2016/07/24 12:02登録) 今や『このミス』の常連となりつつあるミステリ作家長岡弘樹。彼のデビュー作は読者の町にもいるであろう人々が出くわした事件、もしくは事件とも呼べない出来事をテーマにした日常の謎系ミステリの宝箱である。 物忘れがひどくなった老人が必死にそれを隠そうとする。 自身のキャリアを高めるために必死に働くがために一人息子を問題児にしてしまったキャリアウーマン。 卒なく業務をこなし、出世の道を順調に上がろうとする公務員。 同僚にケガをさせたことで自責の念から職を辞し、実家の写真屋を受け継ぐが資金難に四苦八苦する元報道カメラマン。 ある事件から息子との関係が悪くなった荒物屋の店主。 全て特別な人たちではなく、我々が町ですれ違い、また見かける市井の人々である。そしてそんな人たちでも大なり小なり問題を抱えており、それぞれに隠された事件や出来事があるのだ。 これら事件や出来事を通じてお互いが抱いていた誤解が氷解するハートウォーミングな話を主にしたのがこれらの短編集。中に「プレイヤー」のような思わぬ悪意に気付かされる毒のある話もあるが。 人は大人になるにつれ、なかなか本心を話さなくなる。むしろ思いをそのまま口にすることが大人げないと誹りを受けたりもするようになり、次第に口数が少なくなり、相手の表情や行動から推測するようになってくる。そしてそれが誤解を生むのだ。実はなんとも思っていないのに一方では嫌われているのではと勘違いしたり、良かれと思ってやったことが迷惑だと思われたり。逆に本心を正直に云えなくなっていることで大人は子供時代よりも退化しているかもしれない。 作者長岡弘樹はそんな物云わぬ人々に自然発生する確執を汲み取り、ミステリに仕立て上げる。恐らくはこの中の作品に自分や身の回りの人々に当て嵌まるシチュエーションがある読者もいるのではないだろうか。 しかしこのような作品を読むと我々は実に詰まらないことに悩んで自滅しているのだなと思う。ちょっと一息ついて考えれば、そこまで固執する必要がないのに、なぜかこだわりを捨てきれずに走ってしまう。歪みを直そうとして無理をするがゆえにさらに歪んでしまい、状況を悪化させる。他人から見れば大したことのないことを実に大きく考える。本書にはそんな人生喜劇のようなミステリが収められている。 全5作の水準は実に高い。正直ベストは選べない。どれもが意外性に富み、そして登場人物たちの意外な真意に気付かされた。実に無駄のない洗練された文体に物語運び。デビュー作にして高水準。今これほど評価されているのもあながち偽りではない。これからも読んでいこう。 |
No.1262 | 7点 | マラコット深海 アーサー・コナン・ドイル |
(2016/07/23 23:47登録) これがドイル最後の小説のようだ。空想冒険小説ではチャレンジャー教授がシリーズキャラクターとして有名であるが、本書では海洋学者マラコット博士が主人公を務め、冒険の行き先は大西洋の深海だ。 もともとドイルは海に関する短編を数多く発表しており、新潮文庫で海洋奇談編として1冊編まれているくらいだ。そして深海の怪物に関する短編もあり、もともと未知なる世界である海底にはヴェルヌなどのSF作家と同じように興味を抱いていたようだ。 そしてそれを証明するかのようにマラコット博士一行が海底でアトランティス人たちと暮らす生活が恐らく当時の深海生物に関する資料に基づいてイマジネーション豊かに描かれている。 しかし物語のクライマックスと云える邪神バアル・シーパとの戦いは果たして必要だったのか、はなはだ疑問だ。 この戦いをクライマックスに持ってくるよりもやはり物語の中盤で描かれる、彼らの生還を詳細に書いた方がよかったのではないか。 唯一おかしいのは水圧に関する考察だ。本書では深く潜っても水圧が高くなるのは迷信であるとして彼らの深海行の最大の難関を一蹴している。今ではそのような理屈だと物語の前提から覆るのだが、ドイルはどうしても深海冒険物語を書きたかったのだろう。最後の作品でもあるのでそこら辺は大目に見るべきだろう。 しかし最後の作品でも子供心をくすぐる冒険小説を書いていることが率直に嬉しいではないか。読者を愉しませるためには貪欲なまでに色んなことを吸収して想像力を巡らせて嬉々としながら筆を走らせるドイルの姿が目に浮かぶようだ。翌年ドイルはその生涯を終えた。 最後の最後まで空想の翼を広げた少年のような心を持っていた作家であった。合掌。 |
No.1261 | 10点 | ザ・カルテル ドン・ウィンズロウ |
(2016/07/22 23:50登録) メキシコの麻薬社会の凄まじい現実を見せつけた『犬の力』。あの大長編を要して語ったアート・ケラーとアダン・バレーラの戦いはまだ終わっていなかった。 まず冒頭の著者による前書きに戦慄する。延々3.5ページに亘って改行もなく連なる名前の数々。本書を著すに当たってウィンズロウに協力した人々の名と思いきや、最後の行で彼ら彼女らが物語の舞台となった時代で殺され、もしくは行方知れずとなったジャーナリスト達の名だということが判明する。この段階で私はこれから始まる物語が途轍もない黙示録であることを想像した。 アダンが捕まった後のメキシコの麻薬勢力地図は数々のカルテルが生まれ、それぞれが勢力を拡大している群雄割拠の様相を呈していた。本書は複数のカルテルをアダン・バレーラとセータ隊の二大勢力が統合していく凄まじい闘争の物語だ。云わば日本のかつての戦国時代の構図であるのだが、それが生易しいものであると思わされるほど、内容は凄惨極まる。 報復が報復を生み、またお互いの利害が一致すれば敵同士も協定を結んで味方になる。そして利害にずれが生じればその逆もまた然り。昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵でもあり、さらに部下がボスを殺して自らがのし上がる下剋上が当たり前の世界でもあるのだ。 そんな犯罪こそがビッグビジネスであるメキシコで何が正義なのかが呼んでいるうちに解らなくなってくる。社会を回しているのは司法の側なのか、麻薬カルテルの側なのか。これこそ単純に正義対悪の構図では割り切れない複雑な社会の構図なのだ。 延々と続く麻薬闘争。1つの大きな組織(カルテル)が壊滅してもまた新たなカルテルが生まれ、しのぎを削り、利益と勢力を伸ばし続ける。これはメキシコの果てることのない暗黒神話だ。 作中でもはや麻薬産業は撲滅すべき悪行ではないと述べられている。世界に金融危機が起きる時、もっとも盤石なのが麻薬マネーだからだ。軍需産業と麻薬産業。この世界で最も大きな負の遺産が実は経済の底支えをしているという皮肉。従ってアメリカはもはや麻薬カルテルを殲滅しようと考えていない。彼らにとって最も不利益なカルテルを殲滅しようとしているだけなのだ。これほどまでに世界は複雑化し、また脆弱化してしまったのだ。 前作『犬の力』にも決して劣らない、いやそれ以上の熱気とそして喪失感を持った続編。ウィンズロウは前作同様、いやそれ以上の怒りを込めて筆をこの作品に叩きつけた。 しかしアダン、セータ隊死後もなお新たな麻薬カルテルが横行している。メキシコの暗黒史は今なお続いている。世界は実に哀しすぎる。 |
No.1260 | 7点 | マスカレード・イブ 東野圭吾 |
(2016/06/30 23:43登録) 山岸尚美と新田浩介。本書は『マスカレード・ホテル』の文庫化を期に文庫オリジナルで刊行された名(迷?)コンビの2人の前日譚。 彼らの初々しさを髣髴させるエピソード集と云えるだろう。 例えば今ならば一流のホテル・ウーマンとなった山岸尚美ならばお客様に仮面を着けているなどとは心では思いこそすれ口には出さないだろう。1作目の「それぞれの仮面」の最後の方で元恋人宮原隆司と元プロ野球選手の不倫相手である女性に対して慇懃ながらも本心をオブラートに包んでチクリと皮肉を云うなどとは決してあるまい。こういうところに未熟さを交えるところが東野氏のうまいところか。 そして「ルーキー登場」で捜査一課に配属になったばかりの新田の活躍が描かれる。しかし事件の真犯人は証拠不足のまま逮捕不能となる苦い結末を迎える。これも若さゆえの青さを感じさせる物語だ。 また本書の美味しいところは山岸尚美のパートでは日常の謎系ミステリを、新田浩介のパートでは警察小説と2つの味わいが楽しめることだ。これらを卒なくこなす東野氏の器用さこそが特筆すべき点であるのだが。 この山岸尚美と新田浩介が登場シリーズは共通する題名から「マスカレードシリーズ」とでもいうのであろうか。そもそもこのマスカレードは非日常体験を提供する一流ホテルの従業員山岸尚美が客は日常とは違う仮面を被ってホテルへ集う、そしてその従業員もまた仮面を被って接しているのだというホテルはマスカレード=仮面舞踏会の舞台のようなものだというところから来ているが、本書に収録されている作品はつまりこの世は全て仮面舞踏会に過ぎないのだと云っているように思える。 ただ題名にマスカレードと冠しているためか、仮面、仮面と強調しているのはいささか煩わしい。押しなべてミステリの登場人物はいずれも仮面を被っているもの。最初には思いもかけなかった動機と犯人の素顔が明かされるのがミステリのカタルシスなのだから、何もホテルに来る人物はいつも仮面を被っているなどと強調しなくてもいいのだ。ホテルに来る人だけでなく、我々は皆仮面を被っている。公的な仮面と私的な場面における素顔、いや私的な場面においても仮面を被って演じなければならない時もある。それが我々人間の営みなのだから。 しかしホテル・コルテシア東京のデラックス・ダブルのデポジットが7万円。プレジデンシャル・スイートが1泊18万円!我々庶民には泊まれない高級ホテルである。 さらに新田の登場シーンもホワイトデーの夜に都内のホテルで女性と一夜を過ごしたシーンから幕を開ける。さらに上に書いたような新卒の刑事とは思えない裕福な暮らしぶり。う~ん、双方バブリーの香りがしてちょっと時代錯誤な印象があるなぁ。 ともあれ、日常の謎を含んだホテル・ウーマンのお仕事小説と初々しい若さ溌剌のルーキー、新田浩介が活躍する軽めの警察小説という万人に受けやすいブレンドコーヒーのような作品で、じっくり読むというよりも息抜きで軽く読める読み物といったテイストである。思えば探偵ガリレオシリーズもそうであったが、果たしてこの2人の今後の活躍に我々の胸を打つような重く味わい深い作品に出会えるのか。 いやそれよりもまだシリーズは続くのか、そっちの方が心配だ。 |
No.1259 | 7点 | 殺し屋 最後の仕事 ローレンス・ブロック |
(2016/06/26 23:16登録) 殺し屋ケラー4作目の本書は長編でケラーに最大の危機が訪れる。 今回は前短編集のうち「ケラーの遺産」と「ケラーの適応能力」に登場した謎の依頼人アルが本格的にケラーを抹殺しようとする物語だ。不穏な空気を纏わせた正体不明のアルが本性を現してケラーたちに牙を剝く。それは実に用意周到に計画された罠で、ケラーは依頼で訪れたオハイオ州で州知事暗殺の冤罪を着せられるのだ。犯行にはケラーの指紋がべったり付いたグロッグが使われ、それが警察に凶器として押収される。そして全米にケラーの顔写真が貼り出される。 教科書通りの起承転結の物語運び。まさに無駄のないストーリーテリングでしかも読者の予想通りにはいかないのだ。 ところでケラーの名前だが、ジョン・ポール・ケラーであることが判明する。さらにケラーを追いつめる宿敵はアル、作中ではミスター“私のことはアルと呼んでくれ”とも表記されているが、恐らくこれは原文では“You Can Call Me Al”ではないだろうか。つまりポール・サイモンのヒット曲のタイトルである。そうなるとケラーの名前のジョンとポールはやはりあの有名なロック・バンド、ザ・ビートルズから来ているのだろうか?そんな風に考えて読むのもまた一興か。 閑話休題。 ケラーが逃亡者の境遇に置かれることで過去の仕事でケラーに始末された人々を回想するシーンがたびたび挿入されるため、本書はシリーズの総決算的な作品のように読める。特にドットが亡くなる件ではブロックがこのシリーズにけりをつけようとしているのだと強く思った。 しかしそんな読者の感傷めいた思いを見事にユーモアで翻すのがブロックの筆さばきの妙だ。 しかし死体入れ替えのトリックには唖然としてしまった。日本の本格ミステリ作家ではこんなこと考えないだろう。 しかしこの殺し屋を主人公にしながらも終始落ち着いた雰囲気で展開するこの物語はなんとも不思議な余韻を残す。 今まで書いてきたように今回ケラーは州知事暗殺の犯人に仕立て上げられ、全米に顔写真が出回り、指名手配され、逃亡の身となる。しかしそれでもケラーには次から次へと危難が訪れるわけではない。見知った顔のマンションのドアマンには賄賂を渡して口封じをし、立ち寄ったガソリンスタンドで独り身の経営者に面が割れるくらいだ。それまでは終始逃亡者としてのケラーの猜疑心と過去に葬ったターゲットに対する思いが延々と綴られる。 やがて全米指名手配にもかかわらず、ケラーの周りにはとうとう警察の捜査の手は及ばず、ニューオーリンズでケラーの新パートナーとなるジュリアに出会ってからは髪型と色を変え、眼鏡をかけて人相が若干変わり、また新しい身分を手に入れたことで解決してしまう。 直接的にせよ関わりがないにせよ7人もの死人が出る物語である。これだけ人の生き死にも扱っていながら熱を帯びない作品も珍しい。血沸き肉踊らない殺し屋の物語なのだ。 しかしだからといって面白くないわけではない。エキサイティングには程遠いが読み進めるうちにケラーの足取りと読者自身の思いが同調するが如く、先の読めない展開を味わいながら愉しむのだ。そう、美味しい酒をチビリチビリと呑み、悦に浸る味わいが本書の持ち味なのだ。 |
No.1258 | 7点 | 月は幽咽のデバイス 森博嗣 |
(2016/06/22 00:46登録) またもや事件は密室殺人(ホント好きだねぇ)。鍵の掛けられた部オーディオ・ルームでの殺人である。 このオーディオ・ルームが周囲の建物と構造が切り離されているのが通常の密室と違うところだ。音の振動を壁に伝えない、つまり完全に防音するために別構造としているのだが、建築に携わる私は解るものの、素人にこの内容が十分伝わっているだろうか?簡単な図解があれば理解がしやすいと思うのだが。 本書では物語のガジェットとして月夜のヴァンパイアやオオカミ男が現れる屋敷といったオカルティックな噂がかけられているものの、物語のテイストは全くそのような雰囲気とは無縁でいつもの雰囲気。決しておどろおどろしいものではない。読中は正直何のためのガジェットなのか解らなかったが、真相を読むとこれこそが森氏なりのミスリードであることが解る。 このオーディオ・ルームのトリックはいわゆる密室物で禁じ手とされる抜け穴や隠し通路と同じで個人的にはいただけない。建築の分野では確かに実現されているのだろうが、非常に特殊な構造であり、一般的でないし、そこにロジックは介在しない。森氏はあまり事件とは直接的に関係のない零れた水を上下する部屋の手掛かりとして示したのかもしれないが、かえって目くらましになったようだ。 作者のエッセイを読むと解るがいわゆる熱心な本格ミステリファンではない。 従って彼はいわゆる本格ミステリのお約束事に頓着せず、自身の専門分野の視点からミステリを考える。そして殺人の動機に頓着しないのも、結局人の心なんて解らないし、人間の行動や事象全てのことに意味を持たせることが愚かであると自覚的であるからだ。 それは確かに私も同感なのだが、現実社会がそうであるからこそ、ロジックで物語が収まるべくところに収まる美しさをせめてミステリの世界で読みたいのだ。それが読書の愉悦であるというのが持論なのだが、森氏はどうもそこに創作の目的を持たないようだ。 従って本書でもいくつかの疑問は不明のまま物語は終わる。また大きな獣の正体もはっきりと読者には示されない。そしてオオカミ男の真相は明らかにされたものの、冒頭に出た月夜のヴァンパイアについても不明である。ミステリとしては片手落ちも甚だしい幕引きである。 さらに加えていただけないのは小鳥遊練無達一行が飲酒運転をするシーンだ。これは今ならば校正で一発で撥ねられるだろう。理由として非常事態、すなわち「小事にこだわりて大事を怠るな」と云っているが、作中人物とはいえ、こういうことをさせる作者の倫理観に大いに問題がある。またこのまま内容を修正せずに出版した講談社の倫理観もいかがなものかと甚だ疑問である。版を重ねる際はぜひとも修正願いたい。 |