Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.73点 | 書評数:1603件 |
No.1263 | 8点 | 陽だまりの偽り 長岡弘樹 |
(2016/07/24 12:02登録) 今や『このミス』の常連となりつつあるミステリ作家長岡弘樹。彼のデビュー作は読者の町にもいるであろう人々が出くわした事件、もしくは事件とも呼べない出来事をテーマにした日常の謎系ミステリの宝箱である。 物忘れがひどくなった老人が必死にそれを隠そうとする。 自身のキャリアを高めるために必死に働くがために一人息子を問題児にしてしまったキャリアウーマン。 卒なく業務をこなし、出世の道を順調に上がろうとする公務員。 同僚にケガをさせたことで自責の念から職を辞し、実家の写真屋を受け継ぐが資金難に四苦八苦する元報道カメラマン。 ある事件から息子との関係が悪くなった荒物屋の店主。 全て特別な人たちではなく、我々が町ですれ違い、また見かける市井の人々である。そしてそんな人たちでも大なり小なり問題を抱えており、それぞれに隠された事件や出来事があるのだ。 これら事件や出来事を通じてお互いが抱いていた誤解が氷解するハートウォーミングな話を主にしたのがこれらの短編集。中に「プレイヤー」のような思わぬ悪意に気付かされる毒のある話もあるが。 人は大人になるにつれ、なかなか本心を話さなくなる。むしろ思いをそのまま口にすることが大人げないと誹りを受けたりもするようになり、次第に口数が少なくなり、相手の表情や行動から推測するようになってくる。そしてそれが誤解を生むのだ。実はなんとも思っていないのに一方では嫌われているのではと勘違いしたり、良かれと思ってやったことが迷惑だと思われたり。逆に本心を正直に云えなくなっていることで大人は子供時代よりも退化しているかもしれない。 作者長岡弘樹はそんな物云わぬ人々に自然発生する確執を汲み取り、ミステリに仕立て上げる。恐らくはこの中の作品に自分や身の回りの人々に当て嵌まるシチュエーションがある読者もいるのではないだろうか。 しかしこのような作品を読むと我々は実に詰まらないことに悩んで自滅しているのだなと思う。ちょっと一息ついて考えれば、そこまで固執する必要がないのに、なぜかこだわりを捨てきれずに走ってしまう。歪みを直そうとして無理をするがゆえにさらに歪んでしまい、状況を悪化させる。他人から見れば大したことのないことを実に大きく考える。本書にはそんな人生喜劇のようなミステリが収められている。 全5作の水準は実に高い。正直ベストは選べない。どれもが意外性に富み、そして登場人物たちの意外な真意に気付かされた。実に無駄のない洗練された文体に物語運び。デビュー作にして高水準。今これほど評価されているのもあながち偽りではない。これからも読んでいこう。 |
No.1262 | 7点 | マラコット深海 アーサー・コナン・ドイル |
(2016/07/23 23:47登録) これがドイル最後の小説のようだ。空想冒険小説ではチャレンジャー教授がシリーズキャラクターとして有名であるが、本書では海洋学者マラコット博士が主人公を務め、冒険の行き先は大西洋の深海だ。 もともとドイルは海に関する短編を数多く発表しており、新潮文庫で海洋奇談編として1冊編まれているくらいだ。そして深海の怪物に関する短編もあり、もともと未知なる世界である海底にはヴェルヌなどのSF作家と同じように興味を抱いていたようだ。 そしてそれを証明するかのようにマラコット博士一行が海底でアトランティス人たちと暮らす生活が恐らく当時の深海生物に関する資料に基づいてイマジネーション豊かに描かれている。 しかし物語のクライマックスと云える邪神バアル・シーパとの戦いは果たして必要だったのか、はなはだ疑問だ。 この戦いをクライマックスに持ってくるよりもやはり物語の中盤で描かれる、彼らの生還を詳細に書いた方がよかったのではないか。 唯一おかしいのは水圧に関する考察だ。本書では深く潜っても水圧が高くなるのは迷信であるとして彼らの深海行の最大の難関を一蹴している。今ではそのような理屈だと物語の前提から覆るのだが、ドイルはどうしても深海冒険物語を書きたかったのだろう。最後の作品でもあるのでそこら辺は大目に見るべきだろう。 しかし最後の作品でも子供心をくすぐる冒険小説を書いていることが率直に嬉しいではないか。読者を愉しませるためには貪欲なまでに色んなことを吸収して想像力を巡らせて嬉々としながら筆を走らせるドイルの姿が目に浮かぶようだ。翌年ドイルはその生涯を終えた。 最後の最後まで空想の翼を広げた少年のような心を持っていた作家であった。合掌。 |
No.1261 | 10点 | ザ・カルテル ドン・ウィンズロウ |
(2016/07/22 23:50登録) メキシコの麻薬社会の凄まじい現実を見せつけた『犬の力』。あの大長編を要して語ったアート・ケラーとアダン・バレーラの戦いはまだ終わっていなかった。 まず冒頭の著者による前書きに戦慄する。延々3.5ページに亘って改行もなく連なる名前の数々。本書を著すに当たってウィンズロウに協力した人々の名と思いきや、最後の行で彼ら彼女らが物語の舞台となった時代で殺され、もしくは行方知れずとなったジャーナリスト達の名だということが判明する。この段階で私はこれから始まる物語が途轍もない黙示録であることを想像した。 アダンが捕まった後のメキシコの麻薬勢力地図は数々のカルテルが生まれ、それぞれが勢力を拡大している群雄割拠の様相を呈していた。本書は複数のカルテルをアダン・バレーラとセータ隊の二大勢力が統合していく凄まじい闘争の物語だ。云わば日本のかつての戦国時代の構図であるのだが、それが生易しいものであると思わされるほど、内容は凄惨極まる。 報復が報復を生み、またお互いの利害が一致すれば敵同士も協定を結んで味方になる。そして利害にずれが生じればその逆もまた然り。昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵でもあり、さらに部下がボスを殺して自らがのし上がる下剋上が当たり前の世界でもあるのだ。 そんな犯罪こそがビッグビジネスであるメキシコで何が正義なのかが呼んでいるうちに解らなくなってくる。社会を回しているのは司法の側なのか、麻薬カルテルの側なのか。これこそ単純に正義対悪の構図では割り切れない複雑な社会の構図なのだ。 延々と続く麻薬闘争。1つの大きな組織(カルテル)が壊滅してもまた新たなカルテルが生まれ、しのぎを削り、利益と勢力を伸ばし続ける。これはメキシコの果てることのない暗黒神話だ。 作中でもはや麻薬産業は撲滅すべき悪行ではないと述べられている。世界に金融危機が起きる時、もっとも盤石なのが麻薬マネーだからだ。軍需産業と麻薬産業。この世界で最も大きな負の遺産が実は経済の底支えをしているという皮肉。従ってアメリカはもはや麻薬カルテルを殲滅しようと考えていない。彼らにとって最も不利益なカルテルを殲滅しようとしているだけなのだ。これほどまでに世界は複雑化し、また脆弱化してしまったのだ。 前作『犬の力』にも決して劣らない、いやそれ以上の熱気とそして喪失感を持った続編。ウィンズロウは前作同様、いやそれ以上の怒りを込めて筆をこの作品に叩きつけた。 しかしアダン、セータ隊死後もなお新たな麻薬カルテルが横行している。メキシコの暗黒史は今なお続いている。世界は実に哀しすぎる。 |
No.1260 | 7点 | マスカレード・イブ 東野圭吾 |
(2016/06/30 23:43登録) 山岸尚美と新田浩介。本書は『マスカレード・ホテル』の文庫化を期に文庫オリジナルで刊行された名(迷?)コンビの2人の前日譚。 彼らの初々しさを髣髴させるエピソード集と云えるだろう。 例えば今ならば一流のホテル・ウーマンとなった山岸尚美ならばお客様に仮面を着けているなどとは心では思いこそすれ口には出さないだろう。1作目の「それぞれの仮面」の最後の方で元恋人宮原隆司と元プロ野球選手の不倫相手である女性に対して慇懃ながらも本心をオブラートに包んでチクリと皮肉を云うなどとは決してあるまい。こういうところに未熟さを交えるところが東野氏のうまいところか。 そして「ルーキー登場」で捜査一課に配属になったばかりの新田の活躍が描かれる。しかし事件の真犯人は証拠不足のまま逮捕不能となる苦い結末を迎える。これも若さゆえの青さを感じさせる物語だ。 また本書の美味しいところは山岸尚美のパートでは日常の謎系ミステリを、新田浩介のパートでは警察小説と2つの味わいが楽しめることだ。これらを卒なくこなす東野氏の器用さこそが特筆すべき点であるのだが。 この山岸尚美と新田浩介が登場シリーズは共通する題名から「マスカレードシリーズ」とでもいうのであろうか。そもそもこのマスカレードは非日常体験を提供する一流ホテルの従業員山岸尚美が客は日常とは違う仮面を被ってホテルへ集う、そしてその従業員もまた仮面を被って接しているのだというホテルはマスカレード=仮面舞踏会の舞台のようなものだというところから来ているが、本書に収録されている作品はつまりこの世は全て仮面舞踏会に過ぎないのだと云っているように思える。 ただ題名にマスカレードと冠しているためか、仮面、仮面と強調しているのはいささか煩わしい。押しなべてミステリの登場人物はいずれも仮面を被っているもの。最初には思いもかけなかった動機と犯人の素顔が明かされるのがミステリのカタルシスなのだから、何もホテルに来る人物はいつも仮面を被っているなどと強調しなくてもいいのだ。ホテルに来る人だけでなく、我々は皆仮面を被っている。公的な仮面と私的な場面における素顔、いや私的な場面においても仮面を被って演じなければならない時もある。それが我々人間の営みなのだから。 しかしホテル・コルテシア東京のデラックス・ダブルのデポジットが7万円。プレジデンシャル・スイートが1泊18万円!我々庶民には泊まれない高級ホテルである。 さらに新田の登場シーンもホワイトデーの夜に都内のホテルで女性と一夜を過ごしたシーンから幕を開ける。さらに上に書いたような新卒の刑事とは思えない裕福な暮らしぶり。う~ん、双方バブリーの香りがしてちょっと時代錯誤な印象があるなぁ。 ともあれ、日常の謎を含んだホテル・ウーマンのお仕事小説と初々しい若さ溌剌のルーキー、新田浩介が活躍する軽めの警察小説という万人に受けやすいブレンドコーヒーのような作品で、じっくり読むというよりも息抜きで軽く読める読み物といったテイストである。思えば探偵ガリレオシリーズもそうであったが、果たしてこの2人の今後の活躍に我々の胸を打つような重く味わい深い作品に出会えるのか。 いやそれよりもまだシリーズは続くのか、そっちの方が心配だ。 |
No.1259 | 7点 | 殺し屋 最後の仕事 ローレンス・ブロック |
(2016/06/26 23:16登録) 殺し屋ケラー4作目の本書は長編でケラーに最大の危機が訪れる。 今回は前短編集のうち「ケラーの遺産」と「ケラーの適応能力」に登場した謎の依頼人アルが本格的にケラーを抹殺しようとする物語だ。不穏な空気を纏わせた正体不明のアルが本性を現してケラーたちに牙を剝く。それは実に用意周到に計画された罠で、ケラーは依頼で訪れたオハイオ州で州知事暗殺の冤罪を着せられるのだ。犯行にはケラーの指紋がべったり付いたグロッグが使われ、それが警察に凶器として押収される。そして全米にケラーの顔写真が貼り出される。 教科書通りの起承転結の物語運び。まさに無駄のないストーリーテリングでしかも読者の予想通りにはいかないのだ。 ところでケラーの名前だが、ジョン・ポール・ケラーであることが判明する。さらにケラーを追いつめる宿敵はアル、作中ではミスター“私のことはアルと呼んでくれ”とも表記されているが、恐らくこれは原文では“You Can Call Me Al”ではないだろうか。つまりポール・サイモンのヒット曲のタイトルである。そうなるとケラーの名前のジョンとポールはやはりあの有名なロック・バンド、ザ・ビートルズから来ているのだろうか?そんな風に考えて読むのもまた一興か。 閑話休題。 ケラーが逃亡者の境遇に置かれることで過去の仕事でケラーに始末された人々を回想するシーンがたびたび挿入されるため、本書はシリーズの総決算的な作品のように読める。特にドットが亡くなる件ではブロックがこのシリーズにけりをつけようとしているのだと強く思った。 しかしそんな読者の感傷めいた思いを見事にユーモアで翻すのがブロックの筆さばきの妙だ。 しかし死体入れ替えのトリックには唖然としてしまった。日本の本格ミステリ作家ではこんなこと考えないだろう。 しかしこの殺し屋を主人公にしながらも終始落ち着いた雰囲気で展開するこの物語はなんとも不思議な余韻を残す。 今まで書いてきたように今回ケラーは州知事暗殺の犯人に仕立て上げられ、全米に顔写真が出回り、指名手配され、逃亡の身となる。しかしそれでもケラーには次から次へと危難が訪れるわけではない。見知った顔のマンションのドアマンには賄賂を渡して口封じをし、立ち寄ったガソリンスタンドで独り身の経営者に面が割れるくらいだ。それまでは終始逃亡者としてのケラーの猜疑心と過去に葬ったターゲットに対する思いが延々と綴られる。 やがて全米指名手配にもかかわらず、ケラーの周りにはとうとう警察の捜査の手は及ばず、ニューオーリンズでケラーの新パートナーとなるジュリアに出会ってからは髪型と色を変え、眼鏡をかけて人相が若干変わり、また新しい身分を手に入れたことで解決してしまう。 直接的にせよ関わりがないにせよ7人もの死人が出る物語である。これだけ人の生き死にも扱っていながら熱を帯びない作品も珍しい。血沸き肉踊らない殺し屋の物語なのだ。 しかしだからといって面白くないわけではない。エキサイティングには程遠いが読み進めるうちにケラーの足取りと読者自身の思いが同調するが如く、先の読めない展開を味わいながら愉しむのだ。そう、美味しい酒をチビリチビリと呑み、悦に浸る味わいが本書の持ち味なのだ。 |
No.1258 | 7点 | 月は幽咽のデバイス 森博嗣 |
(2016/06/22 00:46登録) またもや事件は密室殺人(ホント好きだねぇ)。鍵の掛けられた部オーディオ・ルームでの殺人である。 このオーディオ・ルームが周囲の建物と構造が切り離されているのが通常の密室と違うところだ。音の振動を壁に伝えない、つまり完全に防音するために別構造としているのだが、建築に携わる私は解るものの、素人にこの内容が十分伝わっているだろうか?簡単な図解があれば理解がしやすいと思うのだが。 本書では物語のガジェットとして月夜のヴァンパイアやオオカミ男が現れる屋敷といったオカルティックな噂がかけられているものの、物語のテイストは全くそのような雰囲気とは無縁でいつもの雰囲気。決しておどろおどろしいものではない。読中は正直何のためのガジェットなのか解らなかったが、真相を読むとこれこそが森氏なりのミスリードであることが解る。 このオーディオ・ルームのトリックはいわゆる密室物で禁じ手とされる抜け穴や隠し通路と同じで個人的にはいただけない。建築の分野では確かに実現されているのだろうが、非常に特殊な構造であり、一般的でないし、そこにロジックは介在しない。森氏はあまり事件とは直接的に関係のない零れた水を上下する部屋の手掛かりとして示したのかもしれないが、かえって目くらましになったようだ。 作者のエッセイを読むと解るがいわゆる熱心な本格ミステリファンではない。 従って彼はいわゆる本格ミステリのお約束事に頓着せず、自身の専門分野の視点からミステリを考える。そして殺人の動機に頓着しないのも、結局人の心なんて解らないし、人間の行動や事象全てのことに意味を持たせることが愚かであると自覚的であるからだ。 それは確かに私も同感なのだが、現実社会がそうであるからこそ、ロジックで物語が収まるべくところに収まる美しさをせめてミステリの世界で読みたいのだ。それが読書の愉悦であるというのが持論なのだが、森氏はどうもそこに創作の目的を持たないようだ。 従って本書でもいくつかの疑問は不明のまま物語は終わる。また大きな獣の正体もはっきりと読者には示されない。そしてオオカミ男の真相は明らかにされたものの、冒頭に出た月夜のヴァンパイアについても不明である。ミステリとしては片手落ちも甚だしい幕引きである。 さらに加えていただけないのは小鳥遊練無達一行が飲酒運転をするシーンだ。これは今ならば校正で一発で撥ねられるだろう。理由として非常事態、すなわち「小事にこだわりて大事を怠るな」と云っているが、作中人物とはいえ、こういうことをさせる作者の倫理観に大いに問題がある。またこのまま内容を修正せずに出版した講談社の倫理観もいかがなものかと甚だ疑問である。版を重ねる際はぜひとも修正願いたい。 |
No.1257 | 8点 | 叫びと祈り 梓崎優 |
(2016/06/17 23:57登録) 2016年の現在、たまたま海外に住んでいる私にとってここに書かれている独特の論理や倫理観は全く特別なことではない。日本人の考え方は世界のグローバルスタンダードではなく、先進国となり、儒教の教えが今なお残っている日本の長い歴史で培われた独特の考え方であることを再認識させられる。 本書もまたそうで、国、地域そして宗教の数だけ独特の考え、倫理観がある。 砂漠という過酷な環境で生活せざるを得ない人々にとって何が一番大事なのか? 聖女の存在を信じた修道女にとって聖人とは決して腐敗しない存在でなければならなかった。 強烈な伝染病に侵された部族が滅ぶしかない状況の中で敢えて連続殺人が起こる理由とは? これらの問いの答えが明らかになる時、我々に刷り込まれた人の命を尊ぶ道徳観が脆くも崩れ去る。先進国に住む平和な我々には想像できないほど明日への保証のない後進国では自身が生きるために他者を殺すことなど平気でするのだから。人の死もまた自分の生活のために利用するのが彼らの論理だ。 また梓崎氏がミステリシーンにもたらしたのはこのような海外の国々で醸成された倫理観や価値観を導入しただけではない。携帯電話の普及や最先端の科学を応用した警察捜査が横行する現代にあってまだそれらが介在できない状況があることを示したのもまた本書の大きな成果の一つだ。 目の前に広がるのは砂の海ばかりという砂漠の只中や携帯は圏外となるアマゾンの奥地では人が死んでも容易には警察は来られない。この事実には目を開かされる思いがした。21世紀の今でも警察が介入できない状況があることを梓崎氏は斬新な手法で我々に示してくれたのだ。それはやはり日本だけで物語を繰り広げていては嵐の中の山荘程度の発想しか出来なかっただろう。世界へと外側へミステリを開いていったことがこの成果に繋がったのだ。 そして平和な日本では測れない尺度で物事が進行し、容易に人の命でさえ奪われる環境に身を置いた斉木もまたこれらの物語に取り込まれていく。 彼が記憶を無くす物語「祈り」で彼が抱えた心の傷の深さがしみじみと伝わってくる。彼が回復するのもまた彼が経験した数々の物語だった。 そしてこういう作品を最後に持ってきた作者の手腕に感嘆する。創元推理文庫で上梓される新人の短編集は最後の1編で今までの短編に隠されたミッシングリンクが明かされるのが常だが、それが時にキワモノめいてやりすぎの感が否めないものもあった。しかし本書では主人公斉木が回復するファクターとして用いられる。特に驚いたのは収録作でも異色の「白い巨人」に登場した人物が重要なキャラクターとして再登場することだ。正直この短編のみ本書の世界観とそぐわないため、私の本書の評価が5ツ星ではなく4ツ星となったのだが、まさかこの1編も一つの大きな輪となるとは思わなかった。だからこそ逆に勿体ないとさらに思ってしまうのだが。 最後まで読むとなぜ本書のタイトルが『叫びと祈り』なのかが解る。世界を巡る斉木は人間にとって生きることが困難な世界の残酷さとそこで生きざるを得ないために残酷な道を選ぶ人々に対して叫んだのだ。しかしそれでも世界は美しいと信じたいがために祈りを捧げる。明日を信じてまた斉木はまだ見ぬ世界へと旅立つのだろう。 日本の本格ミステリよ、新たな論理を求めて海の外へ繰り出そうではないか。まだまだ未知なる謎と論理の沃野は果てしなく広がっているのだから。 |
No.1256 | 7点 | キャリー スティーヴン・キング |
(2016/06/12 12:46登録) 本書がこれほど好評を持って受け入れられたのは普遍的なテーマを扱っていることだろう。いわゆるスクールカーストにおける最下層に位置する女生徒が虐められる日々の中でふとしたことからプロムに誘われるという光栄に浴する。しかし彼女はそこでも屈辱的な扱いを受ける。ただ彼女には念動能力という秘密があった。 この単純至極なシンデレラ・ストーリーに念動能力を持つ女子高生の復讐というカタルシスとカタストロフィを混在させた物語を、事件を後追いするかのような文献や手記、関係者のインタビューなどの記録を交えて語る手法が当時は斬新で広く受けたのではないだろうか。 さてとにもかくにも主人公キャリーの生き様の哀しさに尽きる。 初めて彼女が母親の反対を押し切り、自分の意志で選択した行動。それが大惨事の引き金になるという皮肉。報われなかった女性にキングは壮絶な復讐と凄絶な死にざまを与える。 さらに本書が特異なのは女性色が非常に濃いことだ。それは主人公キャリーが女性であることから来ているのだろうが、キャリーを虐めているのは男子生徒ではなく女子生徒ばかりでキャリーの生活の障壁となっているのも前述のように狂信的な母親だ。 さらに生理という女性特有の生理現象がキャリーの念動能力の発動を助長させ、またキャリーの死を看取ったスージー・スネルがその直後生理になっているのも新たなる物語という生命の誕生を連想させ興味深い。 既に物語の舞台であるメイン州チェンバレンで大量虐殺が行われたことは物語の早い段階で断片的に語られる。従って読者は物語の進行に伴い、訪れるべきカタストロフィに向かってじわりじわりと近づいていくのだ。しかしながら1974年に書かれた本書で描写されるキャリーの虐殺シーンはいささかおとなしい印象を受ける。 いわば歩く無差別テロの様相を呈しているのだが、今日のこのあたりの描写はもっと強烈だろう。血の匂い立つような細かくねちっこい描写や痛みを感じさせるほどの迫真性に満ちた生々しさが本書には足りない。 今では実にありふれた物語であろう。が、しかし物語にちりばめられたギミックや小道具はやはりキングのオリジナリティが見いだせる。“to rip off a Carrie”などという俗語まで案出しているアイデアには思わずニヤリとした。 |
No.1255 | 8点 | 追いつめられた男 ブライアン・フリーマントル |
(2016/06/08 00:07登録) チャーリー・マフィンシリーズ5作目の本書は前作『罠にかけられた男』同様、チャーリーは保険会社の調査員という役職でローマに赴くことになる。 そしてとうとうチャーリーは英国情報部の手に堕ちてしまう。彼が組織に大打撃を与えて3作目で、作中時間では7年目のことだった。 また本書ではチャーリーが英国情報部の工作員になるまでの経歴が紹介されている。まずチャーリーの最初の職業が百貨店の社員であったことが意外だった。その時代に妻イーディスと結婚し、その後情報部の試験を受け、そこで才能が開花したのだった。またチャーリーの悩みの種であり、また彼に危機を知らせるシグナルの役目をする不格好な横に平たい足は軍隊時代に重い長靴で長時間歩き回された結果だったことも判明する。 ここに彼の行動原理の源流があると私は思う。つまり彼の足はいわゆるマチズモ色濃い上下関係に対する反発の象徴なのだ。だからこそチャーリーは他の工作員とは違い、自らを犠牲にして国に使えるのではなく、自らが生き残るために国さえも犠牲にするのだ。 KGBの描いた複雑な構図を見事に看破したのがチャーリー。彼の見事な記憶力でKGBがでっち上げた偽造工作を崩壊させたのだった。その根拠が前作でのある出来事というのがシリーズ読者を刺激する。逆に云えば前作を読んでいないとこの面白さも半減するということになるのだが。 絶体絶命の窮地を自らの記憶力と巧みな弁舌で乗り越えたチャーリーだったが、諜報の世界の歪んだ論理の犠牲となる。彼はこのまま牢獄に入れられ、次作『亡命者はモスクワをめざす』へと物語は続いていく。 さて本書で第1作から8作『狙撃』までのチャーリー・マフィンシリーズがようやく私の中でつながり、未訳の9作目を飛び越して残るは10作目の『報復』のみとなった。ここまで読んできたことでこのシリーズもある変容が見られることが分かった。 第1作目と2作目は対となった作品で属する組織に裏切られたチャーリーが復讐を仕向ける話でいわば半沢直樹のように“倍返し”をする話だ。続く3~5作目は親友ルウパート・ウィロビーが経営する保険会社の調査員として事件に出くわすチャーリーでこれは逆に作者自身がシリーズの動向を手探りしていた頃の作品だろう。そして6作目で再び諜報戦の世界に舞い戻ったチャーリーはその後もKGBとFBI、CIA、さらにはモサドとも丁々発止の情報戦、頭脳戦を繰り広げていく。これこそがこのシリーズの本脈だろう。つまり本作はチャーリー・マフィンを諜報戦の世界に戻すために必要だった物語であったのだ。訳者あとがきにもあるように作者自身シリーズを終焉させようと思いながら書いた本書が起死回生の作品となったことが推測される。 さて未訳作品以外で残る未読作品はあと1作。私のチャーリー・マフィンを追いかける旅もようやく彼と肩を並べるところまで来そうだ。 |
No.1254 | 7点 | 失われた世界 アーサー・コナン・ドイル |
(2016/06/02 23:48登録) シャーロック・ホームズに次ぐドイルのシリーズキャラ、ジョージ・チャレンジャー教授第1作目の本書は今なお読み継がれる冒険小説だ。 未開の地アマゾンの奥地に隆々と聳え立つ台地の上に独自に発展した生態系があり、そこには絶滅したとされた恐竜が生息していた。 この現代に蘇る恐竜というモチーフは現代でもなお様々な手法で描かれているが、miniさんもおっしゃっているが今なお映画化されているクライトンの『ジュラシック・パーク』の原典が本書であると云えよう。 しかし最も特筆すべきは冒険の舞台であるメイプル・ホワイト台地の精密な描写である。あたかもジュラ紀に舞い込んだジャングルの風景を詳細に描写する様はまさに目の前に映像が浮かび上がってくるようで、しかもそれらの映像は先に述べた映画『ジュラシック・パーク』シリーズの映像で補完されるがごとくである。ジャングルの蒸し暑さと未知の世界を行く登場人物の緊張感の迫真性はとても1912年に発表された小説とは思えないくらい、リアリティを持っている。ドイルの想像力の凄さを改めて思い知らされた。 さて本書は秘境冒険小説の原型とも云える記念碑的作品であるが、実は本書でドイルが最も語りたかったのは男の成長譚ではないだろうか? 特に語り手である弱冠23歳の新聞記者エドワード・マローンが野心だけが大きな実のない男から苦難の冒険を経て他者に認められる男として帰ってくるための物語、そんな気にしてならない。 そしてまた学会で異端児として扱われているチャレンジャー教授が自説を証明するための苦難の道のりを描いた物語でもある。つまり権威として認められるには男は冒険をすべきだというのが本書の真のテーマではないだろうか? それが特に最終章に現れている。南米で原始の時代から生息する生物のみならず独自の進化を遂げた生物の発表をするために舞台に立ったチャレンジャー教授、ジョン・ロクストン卿、サマリー教授、そしてエドワード・マローンのなんと晴れやかなことよ!困難に立ち向かい打ち勝った男の晴れ晴れとした姿こそドイルが書きたかったものではないだろうか。 そしてもはや男となったエドワード・マローンに冒険の契機となった恋人のグラディスでは役不足だったのである。だからこそドイルは最後にグラディスがマローンの帰りを待ち切れずに妙な小男と結婚したという珍妙なオチを用意したのである。男の冒険心を天秤に計るような女にはそんな小男こそがお似合いだ、というわけだ。 あくの強い面々によってなされた冒険譚。失われた世界に生きる生物の神秘よりもこれら愛すべき男たちの成長にエッセンスが込められていることに気づいたのが本書を読んで得た大きな収穫だった。 |
No.1253 | 8点 | マスカレード・ホテル 東野圭吾 |
(2016/05/31 07:14登録) 昨今流行りのお仕事小説にこれまた昨今ブームとなっている警察小説を見事にジャンルミックスした非常にお得感のある小説となっている。 人を笑顔で迎え、常に感謝の気持ちを忘れないと心がけるホテルウーマンと常に人を疑ってあらゆる可能性を考える刑事という職業のミスマッチの妙を実に上手く物語にブレンドしている。 また本筋の殺人事件の捜査とは別に本書ではホテルを舞台にしていることでヴァラエティに富んだ珍客が登場するのがいいアクセントとなっている。 これらはいわば日常の謎である。こんなエピソードをちりばめながら水と油の存在だった山岸尚美と新田浩介の関係を近づけていく。そして後々にこれらのエピソードもメインとなる事件に有機的に関わってくるのだからまさに抜け目のない出来栄えだ。 さてこのようにまさに面白い小説の良いお手本のような本書であり、まさに完璧だと思われるのだが、1点だけどうしても気になるところがある。 それは監視カメラについて警察があまり言及がなされないことだ。例えば犯人が毒入り(と思われる)ワインを送った際、警察は購入先を捜査し、コンビニで買ったことを突き止めるが、対応した従業員による聞き込みしかせずに防犯カメラの映像を確認すらしない。そこに違和感を覚えるのである。 他にも監視カメラや防犯カメラを使えばいつどこに誰がいるか、もしくはいたかが解るにも関わらずである。クライマックスシーンの山岸尚美の行き先についてもそうだ。候補として挙げられた部屋番号が判明しているのだから、当該階にあるホテルの廊下に設置されている防犯カメラを調べればいいのである。昨今のTVドラマでは防犯カメラの映像が実に効果的に使用されており、また他の警察小説でも同様の手法を取り入れているのに、なぜか東野作品における防犯カメラを警察が活用する頻度が実に低いのである。 特に本書の場合、携帯電話を使った電話番号差し替えのトリックや闇サイトにおける重層的な交換殺人と実に現代的な犯行計画が用いられているのに、捜査側のアナログ感が非常にアンバランスだと感じた。これは作品にとっては瑕疵にすぎないかもしれないが、他の作品でも同様に感じたことでなかなか改善がなされないので敢えて挙げさせてもらった。 今回のベストパフォーマンス賞は能勢刑事に決定! |
No.1252 | 7点 | 人形式モナリザ 森博嗣 |
(2016/05/24 12:32登録) ちょびっとネタバレ気味です。 メインの殺人事件の真犯人は思った通りだった。もはや王道のミスディレクションが今回の事件のトリックで非常に解りやすい(まあ、最後の一行もあるが)。 しかし森ミステリのもはや定番ともいうべきか、本筋の殺人事件の真相には驚きがなく、むしろサブストーリーの謎やガジェットの真相の方に実は大きなサプライズがあるが、本書も例外ではなかった。 なんとシリーズ2作目でもこんな仕掛けを用意しているとは思わず、窃盗犯の正体にはひっくりコケてしまった。 あと最後のモナリザについては解ってしまったが、このような仕掛けの写真が出回っている今だからこそなのかもしれず、当時としては斬新だったのかもしれない。 さてこのVシリーズ、S&Mシリーズと違い、男女の恋のもつれ合いが前面に押し出されている。前シリーズでは西之園萌絵が准教授の犀川にアピールするものの、犀川が知らぬふりをしてさらりとかわす一方で、萌絵のピンチになると命を擲ってでも彼女を救おうとするギャップがファンには受けていたが、このシリーズでは主人公の瀬在丸紅子に離婚歴があり、その元夫林は愛知県警の刑事でダンディーな風貌で女性にもて、結婚中に部下の女性刑事と愛人関係にあったというドロドロとした愛憎劇が底流に含まれている。 かてて加えて本書の登場人物の岩崎家も乙女文楽の創始者岩崎雅代の夫の家族と彼女が愛人だった彫刻家江尻駿火との間に生まれた子供たちの家族とが混在している奇妙な関係性がある。つまり通常の家族の形とは違ういびつな関係の人々が物語を形成しているのだ。 瀬在丸紅子というどこか浮世離れしたシングルマザーという特異なキャラクターに、謎めいた探偵保呂草潤平に紅子の元夫で刑事の林とどこか善人とは云いきれない怪しい魅力に満ちた登場人物が主役であることで実際何が起こるか解らないミステリアスな雰囲気に満ちている。それを中和するのが小鳥遊練無と香具山紫子のコミカルな2人。実に面白いバランスで成り立っている。 あらゆる意味で先行きが興味津々なこのシリーズ。次作も非常に愉しみだ。 |
No.1251 | 7点 | 貴婦人として死す カーター・ディクスン |
(2016/05/22 15:54登録) 決して許されない恋に落ちた男と女が先のない行く末を儚んで心中する、というよくある悲劇が一転して2人は至近距離で何者かに撃たれた後に崖から転落したという不可解な犯罪へと転ずる。この辺の転調が実にカーらしいケレンに満ちている。 さて以下からはネタバレを含みます。 今回ルーク・クロックスリー医師の手記で構成した作者ディクスンの狙いとは“信用のならない語り手”をテーマにしたことだ。 さらに犯人の隠された秘密や人となりが判明するに当たり、このテーマの裏に隠れたもう1つのテーマとは“家族であってもそれぞれが十分に理解しているとは云えない”という実に普遍的なテーマだったのだ。 駆け落ちする男女を犠牲者にすることで色恋沙汰の悲劇という実にオーソドックスな作品かと思いきや、ディクスンの思わぬ意図に感心させられてしまった。 そして本書ではさらにイギリスに迫りくる第二次大戦も本書にほのかに影響を与えている。真相が解明された時には既に手記を残したルーク・クロックスリー医師は戦死しており、また真犯人もまた従軍して不在となっている。明日をも知れぬ戦時下という特殊状況ゆえにリタは道ならぬ恋に落ち、真犯人は恋人を捕られたという実に軽い動機で殺人に至った。何一つ確かなものがない時代だったからこその逃避行であり殺人であった、そのようにも解釈ができる。 今回は新訳改訂版であったため、実に読みやすかった。せっかくのカーの諸作を古めかしい旧訳の古めかしい文体で読むよりも遥かにいいので、東京創元社にはこのまま新訳改訂版の出版を継続してもらいたい。 |
No.1250 | 4点 | 海外SFハンドブック 事典・ガイド |
(2016/05/19 23:58登録) 昨今縁あってボツボツとSF作品を読むようになってきたため、純粋に初心者の立場からSFに触れようと本書を手に取ってみた。 正直本書に収録されている作家たちは名のみぞ知れ、まったく馴染みがないため、作品に対する興味はミステリよりも沸かなかった。むしろSFというジャンルはやはり小難しいという思いを強くした。 残念なのが代表的な作家を取り上げ、彼ら彼女らの代表作の解説が延々と続いていることだ。 ランキングは記されているものの、単なる順位紹介に留まっており、門戸が開かれていない感は否めない。 また延々と続く作家の紹介の後は日本人作家の座談会が少々と作家たちのオールタイムベストの紹介、そしてSF史を綴ったコラムが続く。しかし内容としてはそれだけである。残り140ページは索引ばかりとなんとも呆気にとられてしまった。 最近の編集者たちはガイドブックの作り方を知らないのだろうか?ランキングもしくは主だった作家たちの作品の紹介をして、少しばかりコラムを載せればガイドブックが1つ出来上がる、そんな風に思っていないだろうか。 確かにそのような作りのガイドブックも昔からあったのだが、書かれていた内容はもっとディープで筆者の熱を感じるものばかり。もしくは新たな物語の見方を示す、まさに読み巧者の鋭い目利きといった内容がコラムには含まれていた。 本書を含め、最近のガイドブックは書影とタイトルでページ半分を費やし、残り半分の限られたスペースで作品に関する内容と作品が書かれた時代背景などを紹介するものだから浅薄に思えてならない。またコラムも作家名と作品名の羅列に過ぎないものが多く、門外漢にしてみれば、「だから何なんだ?」と思わず云いたくなる代物ばかりだ。 もっと1つの作品もしくは作家を突き詰めていろんな書評家がディープに論じてほしい。それこそが読者を知らない世界へ導く有効な道標となりうるのである。 もし本書に収められている作品を読んだ後に振り返って本書を紐解いたとき、本当の価値が解るのではないか。そう期待して本書は傍らにとっておこうと思う。 |
No.1249 | 7点 | マンハッタン物語 アンソロジー(海外編集者) |
(2016/05/18 23:59登録) 本書は先に『ブルックリン・ノワール』なるブルックリンを舞台にしたアンソロジーが先にあり、それに続くシリーズとして今度はマンハッタンを舞台にしたアンソロジーをローレンス・ブロックが編者を務めた物。 作者の選出はブロック自身が行ったようだが、日本の読者には馴染みのない作家の作品で構成されているのが特徴的だ。本書に収録されている作家の内、日本で知られているのはジェフリー・ディーヴァー、トマス・H・クック、ジョン・ラッツ、S・J・ローザン、そしてブロック本人ぐらいだろう。その他10名の作家は邦訳がなく、あっても1冊のみと云った未紹介作家の名前が並ぶがそれぞれが個性的でしかも読ませる。アメリカ作家の懐の深さを思い知らされた次第だ。 原題にノワールと掲げられているからかもしれないが、全体的に物語は暗鬱でペシミスティックだ。そしてどちらかと云えば誰もが誰かを出し抜こうと手ぐすね引いて待っている、そんな悪意が行間から立ち上ってくる。 そんなノワール色濃い短編集だが、個人的ベストはS・J・ローザンの「怒り」、ジャスティン・スコットの「ニューヨークで一番美しいアパートメント」、C・J・サリバンの「最終ラウンド」を挙げたい。 最近は編者としての技量も発揮しているブロック。創作よりもアンソロジーを編むことに専念する大御所作家が多い中、ブロックはその後も自作を発表しているところが素晴らしい。本書はニューヨークに馴染みのない日本人にはなかなか街の空気までも感じられないだろうが、日本未紹介作家の佳作たちに触れる数少ないチャンスである。 ジャスティン・スコットとC・J・サリバンの作品が読めただけでも収穫があった。他の未紹介作家の邦訳が進めばいいのになと思わされた短編集である。 |
No.1248 | 7点 | 星籠の海 島田荘司 |
(2016/05/11 23:48登録) 本書は文庫で上下1,140ページ物大長編であるが、文字のフォントが大きいため(文庫版で読みました)、90年代に毎年のように記録を更新するが如く刊行された大長編ほどの大部では無いように感じられる。そして物語の枠組みはそれらの作品で見られた様々なエピソードをふんだんに盛り込んではいるものの、全てが御手洗の扱う事件も含めて広島県の鞆という町が舞台となっている。 御手洗が今回扱う事件は愛媛県の松山市の沖合にある島、興居島で頻繁に死体が流れ着く怪事から物語は幕を開け、やがてその源である福山市の鞆に行き着き、そこで新興宗教が起こした奇妙な征服計画に対峙する。 この物語を軸にして他に3つのエピソードが盛り込まれるのだが、特に小坂井茂という端正な容姿だけが取り柄の優柔不断な男が辿る、女性に翻弄される永遠のフォロワーの物語が後々事件の核心になってくる。一歩間違えば誰しもが陥るがために実に濃い内容となっていてついつい先が気になってしまうほどのリーダビリティーを持っている。 小坂井茂自身が事件を起こすわけではない。この主体性の無さゆえにその時に出遭った女性に魅かれ、云われるまま唯々諾々と従いながら人生を漂流する彼の生き方が自分を犯罪へと巻き込んでいく。つまり何もしない、何も考えないことが罪であると云えよう(ここで重箱の隅を1つ。小坂井の友人田中が経営する自動車整備工場でガソリンをポリタンクに入れているという件があるが法律では禁じられているのでこの辺は重版時に修正した方がいいかと)。 また今回御手洗が立ち向かう相手は日東第一教会というネルソン・パクなる朝鮮人によって起こされた新興宗教というのも珍しい。最終目標の敵が明らかになっていることも珍しく、いかに彼を捕えるかを地方の一刑事である黒田たちと共に広島と愛媛を行き来する。とにかく今回は御手洗が瀬戸内海を舞台に縦横無尽に動き回る。私は読んでいてクイーンの『エジプト十字架の謎』を想起した。 この日東第一教会、恐らくある実在する新興宗教をモデルにしているのだろうが、本書に書かれているようなことが実際に行われていると考えると実に恐ろしい。社会的弱者に対してこのような宗教は巧みに心に滑り込み、救済という名目で洗脳を行う。それは自分も含め、誰しも起こり得ることであるが故に縁がなくて本当によかったw そしてそれに加えて星籠なる兵器を巡る歴史ミステリ要素も含んで盛りだくさんの本書は比較的万人受けするミステリだろう。 ドイルが築いた本格ミステリに冒険的要素を加えた正統な御手洗ミステリの復活を素直に喜びたい。とにもかくにも故郷を舞台にした島田の筆が実に意欲的で、作者自身が渾身の力を込めて書き、また愉しんでいるのが行間から滲み出ている。本書は映画化が進行しているとのことでそちらも愉しみだが、それを足掛かりに国内のみならず世界を駆け巡る御手洗の活躍をスクリーンで今後も観られることを期待しよう。 |
No.1247 | 7点 | 狙撃 ブライアン・フリーマントル |
(2016/05/11 00:07登録) フリーマントル版『ジャッカルの日』だが、それでも本書では今までにも増して諜報機関に従事する人々の織り成す人間喜劇と云う色合いが濃くなっている。 経理畑の上司の目を欺いてどうにか諸々を経費で落とそうと画策するチャーリー。 一方でチャーリーの使った費用を徹底的に調査し、彼をどうにか失脚させようと腐心するがあまり、任務に関するアイデアが全く出ない無能な上司。 CIAの夫と結婚したのに全然スリリングでないことが不満の妻。 といった具合に一流の情報機関にいながらも彼らは非常に庶民っぽいのだ。 前作『暗殺者を愛した女』ではKGBの暗殺者の亡命がテーマだったが、2作続けてロシアからの亡命者をテーマにするということは、恐らく彼が取材で得たKGBの情報を余すところなく自作で使いたかったようだ。 謎の暗殺者を突き止めていくMI6、CIA、モサドのそれぞれの代表者たちのうち、やはりチャーリーの冴えが光る。自分が生き残ることを第一義としてきた窓際スパイゆえの周囲の欺き方、身の隠し方、振舞い方に加えて一時期ロシアで暮らした事で得た彼らの国民性をも熟知しており、一見何の隙もないと思われた影なき暗殺者のロシア人故の不自然な振る舞いを手掛かりに突き止めていく辺りは実にスリリングでしかも痛快だった。 そして本書のミソは舞台がスイスのジュネーヴであることだ。永世中立国であるスイスではテロに対する部門はあるものの、そもそもテロが起きるという発想がなく、平和のイメージを損ねることを嫌う。従って本書の防諜部長ルネ・ブロンはそんなスイスの空気の読めなさを象徴するような道化役になっている。 チャーリーの恋人ナターリャに不穏な影がかかる意味ありげな結末であるのにもかかわらず、次作“Comrad Charlie”は未訳のまま。恐らく邦訳は今後もされないだろう。どんな事情があるのか不明だが、全く残念でならない。 |
No.1246 | 7点 | オクス博士の幻想 ジュール・ヴェルヌ |
(2016/04/21 23:14登録) フランスの奇才ヴェルヌの中編集。本書には表題作、「ザカリウス親方」と「氷のなかの冬ごもり」の3編が収録されている。 本書に収められた3編はどれも色合いが異なっており、ヴェルヌの知識と作風の幅広さを感じさせる中編集となっている。 表題作ではマッド・サイエンティストの狂った実験で平穏な町が狂騒を帯びていく物語だが、その原因が最後になって明らかにされるため、読んでいる最中はサクス博士が何かをしていることは薄々解るものの、一体何が町に起きているのかが解らない所がページの繰る手を止めさせない。トンデモ科学譚として個人的には好きな作品。 ドイルもこのようなトンデモ科学譚を書いており、次もその類かと思わせると一転してオカルト譚になっており、大いに予想を裏切る。ザカリウス親方は次々と自分の作った時計が止まっていき、次第に職人としての自信を喪失していき、それが職人の寿命を縮めていく。悪魔の化身のような老人も現れるが、なぜ時計が故障するのかは解らないまま物語が閉じられる。 最後はこれまたヴェルヌの十八番である海洋冒険譚でマクリーン作品の元となったのではないかと思わせる極寒の海での捜索行が描かれる。特に敵役を配して単純な人捜しの物語にしていないのがヴェルヌの物語作家としての上手さだろう。 と、物語の色合いも異なれば実はそれぞれの舞台の国も異なっている。表題作はベルギーの架空の町で、2作目はスイスのジュネーヴ、3作目は自国フランスのダンケルクと、ヨーロッパの国々を舞台にしているところもまた冒険小説家として世界に目を向けていたヴェルヌの視野の広さを想起させる。 ともかくも本書と前回読んだ『グラント船長の子供たち』を読んで思ったのは19世紀の作品だがヴェルヌの作品は今でも鑑賞に堪えうるクオリティを備えていることだ。直截に云えば「今読んでも面白い」。物語として起伏に満ち、また描写や説明も微に入り細を穿っていて興味深かった。 |
No.1245 | 6点 | このミステリーがすごい!2016年版 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2016/04/18 23:45登録) 今さらながら感想を挙げ忘れてました。 ランキングの詳細は省略するとして、個人的に今回のランキングはその年の面白いミステリを忠実に反映した非常に満足のいく物と感じた。国内では以前から評価が高かったものの、奇妙なルールで『このミス』投票の対象外となった柚月氏が初めてランクインし、さらに本格ミステリで毎年といっていいほどデビューしている新しい才能の出現とランクインは手放しで喜びたい。早速深緑野分氏のデビュー作『オーブランの少女』は文庫化されるや否や購入した。ああ、またも読みたくなる作家が増えてしまった。 そして海外では相変わらず海外作品を取り巻く状況は厳しいものの、逆に精選された作品が訳出されている感が年を追うごとに強まり、どれもこれもが読みたくなる作品ばかりだ。物故作家の新訳刊行が活発な状況もまた歓迎したい。 そんなミステリシーンを盛り上げ、読者層を広げるのにやはり『このミス』の果たす役割は非常に重要なのだが、今回は特別企画がゼロと実に内容の薄い物となったのは寂しい。何も毎年何らかのアンケート企画をしろと云っているのではなく、かつての『このミス』の定番だった座談会もカットされているとは如何な物だろうか。またミステリに関するコラムもほんの添え物程度と、ミステリ愛が薄いとしか思えない。このようなランキング本はその年のミステリシーンを記録する資料としても貴重であるため、総括する内容にしてほしいのだ。 価格を抑えるために内容を薄くしても何の意味もない。内容を厚くするために価格が上がることは大歓迎である。『このミス』はもっと自誌が果たす役割を自覚した内容に還ってほしい。それが一ミステリ読者としての切実な願いである。 |
No.1244 | 7点 | 暗殺者を愛した女 ブライアン・フリーマントル |
(2016/04/17 20:56登録) チャーリー・マフィン、アジアへ!シリーズ7作目の舞台はアジアでまず最初に訪れるのが何と日本!題名も“Charlie Muffin San”とフリーマントルらしく人を食ったタイトルだ。 まずコズロフがCIAと出会う場所が鎌倉と云うのがミソ。東京タワーや東京駅といった80年代当時の外国人が抱く日本の典型的な観光地を選ばず、都心から離れた観光地を選ぶところが日本の情報に通じていることを感じさせる。しかしその後は銀座線に乗ったり、銀座でしゃぶしゃぶを食べたり、イレーナと落ちあうのにはとバスを思わせる観光バスに乗ったりと、恐らくは来日したフリーマントルが経験した日本訪問時の出来事をそのまま利用しているように感じ、なかなか面白い。また80年代当時の日本の風景も懐かしさを感じる。この頃はまだ駅の改札口は自動化されてなく、切符バサミの音を蟋蟀の鳴き声のようだと例えるフリーマントルの発想が実に興味深い。 今回フリーマントルは日本での滞在で入念に取材を重ねたようで特に複雑な東京の鉄道網の乗継について正確に説明しているところに驚きを覚えた。恐らく海外作家でこれほど細かく日本の公共交通機関の乗継に触れたのは彼の他にはいないのではないだろうか? しかし本書の邦題には唸らされた。『暗殺者を愛した女』とは妻イレーナを指しながら、コズロフのために馴れない暗殺に挑戦する愛人オーリガをも示している。どちらもしかしこの1人の暗殺者の犠牲者であるのは間違いない。作中でしきりに描写されるイレーナの、女性としてはあまりにも大きすぎる体格について彼女自身が涙ながらに自身のコンプレックスについて吐露するシーンには同様の悩み―その体格ゆえに女性らしく淑やかに慎ましく振舞おうとしても威圧的になってしまい、相手が委縮してしまう―を抱える女性には痛切に響くのではないだろうか。 ただ1つだけ重箱の隅を包むなら、日本はちょうど雨季の最中だったという件だ。これは恐らく“rainy season”を訳したものだと思うが、雨季とは熱帯地方のそれを指すのであり、日本に雨季はない。ここはやはり梅雨時と訳すべきだろう。実に細やかな訳がなされている稲葉氏の仕事で唯一残念に思ったところだ。 しかしフリーマントル作品でこのチャーリー・マフィンシリーズは安心して読める。それはチャーリーが必ず生き残るからだ。 フリーマントルのノンシリーズの主人公の扱い方のひどさには読後暗鬱になってしまうほど悲劇的である場合が多い。確かにこのシリーズもチャーリーが生き残る為に周囲に行う容赦ない仕打ちによって情報部員としての生命を絶たれる登場人物も多々あり、本書でもある人物が亡くなるという悲劇はあるものの、読者は、決して組織の中で正当に扱われていない風貌の冴えない一介の窓際スパイが長年培った処世術と一歩も二歩も先を読む明察な頭脳でMI5のみならずCIAやKGBを手玉にとって最後には生き残る姿に胸のすく思いを抱くからだ。 これは今日本で多く親しまれている池井戸作品と同様のカタルシスがある。本来であれば池井戸作品同様に評価されてもいいのだが、国際政治という舞台が日本の読者に敷居の高さを感じさせるのであろう。 しかしそれでもチャーリー・マフィンシリーズはフリーマントル特有の皮肉さが上手く物語のカタルシスに結びついた好シリーズであるとの思いを本書で新たにした。 |