Tetchyさんの登録情報 | |
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平均点:6.73点 | 書評数:1603件 |
No.1343 | 8点 | トランク・ミュージック マイクル・コナリー |
(2017/09/01 21:41登録) 時はまだ野茂がドジャースで現役で投げていた時代。シリーズ再開の事件はハリウッドの丘で遺棄されたロールスロイスのトランクから頭を撃ち抜かれた遺体が見つかるという不穏なムードで幕を開ける。舞台はラスヴェガスに移り、カジノに纏わるマフィア犯罪の捜査へと進展していく。映画産業、カジノと復帰したボッシュが手掛ける事件は実に派手派手しい。 かつてはジュリー・エドガーを相棒としながらもほとんど一匹狼状態で捜査をしていたボッシュだが新しい上司が組んだ制度、三級刑事をリーダーとした3人1組のチームとして捜査を進めるようになる。三級刑事のボッシュはリーダーとなり、彼の部下に相棒のジュリーとビレッツが古巣から引っ張ってきたキズミン・ライダーが加わっている。またかつてある時は自分自身の過去と因縁を前作で振り払ったボッシュの、シリーズのまさに新展開に相応しい幕開けと云えよう。 私はエレノアが再びボッシュの前に現れると1作目の感想で述べたが、新しいシリーズの幕開けで合間見えるとは思わなかった。ボッシュの始まりには彼女がどうしても付きまとうらしい。そして前科者となったエレノアは当然のことながら法を取り締まる側に戻れず、ラスヴェガスでギャンブルをしながらその日を暮らしている身である。さらに彼女にはある繋がりがあり、それがために彼女との再会は少なからずボッシュを再び窮地に陥れることになる。 ボッシュが辞職の危機に置かれるのはもはやこのシリーズの定番でもあるが、その展開は実に驚くべきもの。それがゆえにこのボッシュの危機もまた引き立つわけだが、いやはやコナリーの物語構成力には毎回驚かされる。 解決してみれば最後に残るのはなんとも哀しい夫婦の物語だった。愛する者を同一にしながらもお互いが父親・母親でなく、一人の男と女であったことから生じた、頭で割り切れない感情から起こった悲劇だった。 新生ボッシュシリーズの大きな特徴はやはりチームプレイの妙味にある。これまで孤立無援、一匹狼の無頼刑事として誰も信じず、頼らずに捜査を続けていたボッシュだが、亡くなったパウンズに替わって新しい上司グレイス・ビレッツは相変わらず綱渡り的なボッシュの強引な捜査に一定の理解を示し、後押しする。またボッシュがリーダーとなったジェリー・エドガーとキズミン・ライダーのチームは個性的で有能で、尚且つ自身のキャリアを危険に晒すことになりながらもボッシュの捜査の正当性を信じ、付いていく忠義心を見せている。今までボッシュの昏い過去に根差された刑事という生き方といったような重々しさから解放された軽みというか明るみを感じさせる。それは単に久々の殺人事件捜査に携わることからくるボッシュの歓喜に根差したものだけでなく、やはり理解者を得たこと、そして仲間が出来たことに起因しているに違いない。 また忘れてならないのはアーヴィン・アーヴィング副本部長の存在だ。彼もまた警察の規範の守護者として振る舞いながらボッシュに対して理解を示し、彼をサポートする。実に味のあるバイプレイヤーぶりを本書でも発揮している。 前作で過去を清算したボッシュが結婚ということで前に一歩踏み出したのだ。つまり家庭という新たな物を生み出す方へ向かったが、どこか人格的に破綻しているボッシュとの結婚生活は波乱に満ちているだろうから油断できない。もしかしたら次作で既に2人の中は終わりに近づいているのかもしれない。長続きしない結婚かもしれないが、人生に前向きになったボッシュと困難を乗り越え、幸せを掴んだエレノアたち2人の前途を祝してこの感想を終わりたい。 |
No.1342 | 7点 | 八十日間世界一周 ジュール・ヴェルヌ |
(2017/09/01 01:02登録) もはや何も説明する必要もないほど有名な本書。物語も題名を読むだけで解ってしまう実にシンプルでありながらも面白さ満点である、まさに歴史に残る作品だ。 そして物語はまさに疾走感に溢れている。1872年と云えば日本はまだ明治5年。文明開化の言葉が福沢諭吉によって訳される前の年である(因みにこの言葉は明治8年にcivilizationの訳語として紹介された)。まだ飛行機が発明される前であり、したがって船旅が主流だった頃に80日間、つまり2か月と20日間で世界を一周するためにフォッグ卿とパスパルトゥー、そして途中で道連れとなるアウーダ夫人とフォッグ卿を銀行強盗の犯人と目して追う刑事フィックスは世界を駆け抜けていく。 拙速な旅ゆえ、またフォッグ卿が刊行に興味がないため、それぞれ来訪の地の描写やエピソードが浅く感じるが、それでもインドや横浜ではその特有の風土と文化に筆が割かれている(中にはアメリカではモルモン教の僧侶の意味不明なエピソードまであるが)。特に横浜ではフォッグ卿と離れ離れになってしまったパスパルトゥーが着物を着て、旅のサーカス団の一員になって天狗に扮して曲芸をするなどのエピソードも盛り込まれ、なかなか濃密である。当時の風俗もきちんと描かれ、ヴェルヌは極東のこの地のことをどうやって調べたのだろうかとその博識ぶりに改めて感心させられた。 物語の最後、作者は次のような言葉で締めくくる。 実際、人は、それほど大きな利益がなくても、世界一周をするのではなかろうか? 当時まだ旅行が一般的でなかった時代にヴェルヌが、冒険が将来人々の娯楽になることを予見していたことを示す一行ではないか。こ賞金を得るために人は旅に出るのではなく、むしろ思い出という無形財産を得るために金を出して旅に出る現代を実によく云い当てている。 |
No.1341 | 7点 | バトルランナー スティーヴン・キング |
(2017/08/09 23:58登録) アーノルド・シュワルツェネッガーで映画化もされた本書。その映画が公開されたのが1987年。なんともう30年も前のことだ。当時中学生だった私はテレビ放映された高校生の時にテレビで観た記憶がある。但し細かい粗筋は忘れたが賞金のために1人の男が逃げ、それを特殊な能力を備えたハンターたちが襲い掛かるのを徒手空拳の主人公であるシュワルツェネッガーがなんとか撃退しつつ、ゴールへと向かうと朧げながら覚えている。恐らくこの<ハンター>という設定と制限時間内で逃げ切るという設定は現在テレビで放映されている番組「逃走中」の原型になったように思える。 そんな先入観で読み進めていた本書だが、映画とはやはり、いやかなり趣が違うようだ。 映画では地下に広がる広大なコースを舞台にそれを3時間以内に各種のタラップやハンターたちの追跡(なお映画ではストーカーという呼称)から逃れてゴールすれば犯罪は免除され膨大な賞金を得ることが出来るという設定。 原作では舞台はアメリカ全土。1時間逃げ切るごとに100ドルが与えられる。ハンターが放たれるのは12時間後、そして最大30日間生き延びれば10億ドルが賞金として得られるという、時間と行動範囲のスケールが全く違う。そのため更にテレビ放送用にビデオカセットを携え、それを自身で録画してテレビ局に送らなければならない。 従って映画のようにまず次々と必殺の武器を備えたハンターが出てくるわけではなく、ベンは犯罪の逃亡者が行うように、闇の便利屋を通じて偽装の身分証明書を作り、ジョン・グリフェン・スプリンガーと名を変え、変装し、ニューヨーク、ボストン、マンチェスター、ポートランド、デリーへと国中を渡り歩いていく。周りの人間が自分を探しているのではないかと疑心暗鬼に怯える日々を暮らしながら。つまりどちらかと云えば昔人気を博したアメリカのドラマ『逃亡者』の方が設定としては近い。というよりもキングは1963年に放映されていたこのドラマから着想を得たのではないかと考えられる。 完全なる悪対正義の構図を描きながら、映画は制限時間内で特殊能力を持つハンターたちを描いた徹底したエンタテインメント作品となった。そして原作である本書は絶対不利な状況でしたたかに生きる、ドブネズミのようにしぶとい男の逃走と叛逆の物語として描いた。どちらもメディアによる情報操作され、完全に管理された社会の恐ろしさを描きながら、こうもテイストが異なるとはなかなかに興味深い。私は高校生の頃に観た映画を否定しない。作者は設定だけを拝借した、いわばほとんど別の作品と化した映画に対して批判的かもしれないが、逆に別の作品として捉えれば娯楽作品として愉しめたからだ。逆にそれから30年以上経った今、大人になって本書を取ったことは両者を理解するのにいい頃合いだったと思う。 公害問題を扱った本書をパリ協定から離脱したトランプ大統領はいかにして読むのだろうか。『デッド・ゾーン』の時にも感じたがキングがこの頃に著した作品に登場する圧政者たちが現代のトランプ大統領と奇妙に重なるのが恐ろしくてならない。実は今こそ80年代のキング作品を読み返す時期ではないか。アメリカの暗鬱な未来の構図がまさにここに描かれていると思うのは私だけだろうか。シュワルツェネッガーの昔の映画の原作という先入観に囚われずに一読することをお勧めしたい。 |
No.1340 | 7点 | 六人の超音波科学者 森博嗣 |
(2017/08/07 23:27登録) Vシリーズ7作目の舞台は奥深い山中にある怪しい研究所。しかもそこにアクセスする橋は何者かによって爆破され、電話線も断ち切られ、外部への連絡も遮断された状態となる、まさに陸の孤島物ミステリ。更にその研究所の創設者は不治の病に侵され、仮面を被り、車椅子に乗ってそこにあるボタンでコミュニケーションを交わす老人と本格ミステリのガジェットに包まれた作品だ。そして例によって例の如くそんな閉鎖された空間で起きる殺人事件にお馴染みの瀬在丸紅子と保呂草潤平、小鳥遊練無と香具山紫子の面々が挑む。 ところで本書に読んでいるとある違和感に気付く人がいるのではないかと思われる。本書はある意味シリーズ全体に仕掛けられた仕組みが暗に仄めかされていることで実はマストリードの1冊なのかもしれない。 今にして思えばこの土井超音波研究所はデビュー作で登場する真賀田研究所の原型だったのかもしれない。共に自分たちの研究に没頭する科学者たちの楽園であるが、前者は相続という実に詰まらない問題でそれを手放さなければならなくなった砂上の楼閣であったのに対し、後者は大天才真賀田四季によって潤沢な資金によって支えられた理想の楽園となった。 超音波の分野で天才の名を恣にした土井博士は真賀田四季のプロトタイプだったと考えてもおかしくはないだろう。 なぜならプロローグで保呂草は次のように結んでいる。 未来は過去を映す鏡だ。 心配する者はいつか後悔するだろう。 自分が生まれ変わるなんて信じている奴にかぎって、ちっとも死なない。 もしかしたら土井博士は真賀田四季の××かもしれない。そんな想像をして愉しむのもまた森ミステリの醍醐味の1つだろう。 |
No.1339 | 7点 | 朱房の鷹 泡坂妻夫 |
(2017/08/06 23:10登録) 宝引きの辰も実に久しぶり。しかしそんなブランクもひとたび捲れば粋な江戸の世界へ迷い込み、ご用聞きの辰親分の人情味溢れる采配に思わずひゅうと口笛を吹きたくなる。 1話ごとに語り手が変わる手法も相変わらずで、1話目は辰親分の子分算治、2話目は事件の舞台となる内田屋の使い伊吉、3話目は仕立屋の沼田屋の若旦那、4話目は噺家の可也屋文蛙、5話目が経師屋の名川長二郎、6話目が木挽町の建具屋の久兵衛の弟子の新吾、7話目は神田鈴町の畳屋現七の弟子勇次、最終話は小日向水道町で駿河屋という乾物屋をやっている弥平と算治を除いて全て商人の目線で語られる。そのいずれもが宝引きの辰の評判を褒め称えていることで辰が腕利きの岡っ引きであることが解るのである。特に本書では娘のお景のお転婆ぶりと妻の柳の器量が垣間見え、この親分にしてこの母娘ありとどんどん人物像が厚くなっていくところがいいのだ。 さてこれら8編の中には過去の因果が関係している話が少なくない。今もそうであるが日本人というのは過去の因果というのをいつまでも大事にし、またそれを信じることで目の前に起きている不吉事を擬えて安心を得ようとする民族であることが解る。特に様々な事柄や屋号についても掛詞に興じていた江戸町人などはその最たるものだったのではないだろうか。 しかしほとんどが男と女の恋沙汰に絡む因縁に絡んだ事件である。現代とは異なり、言葉や柄、そして因習や慣習を重んじ、更に家業が宿命とばかりに人生を束縛するこの時代、色んなことを諦めざるを得ないのが通例だった中で、どうしてもそれが諦めきれなかった人々がこのような事件を起こす。しかしそれは人間が生きる上でごく普通に主張されるべき権利だったのだ。泡坂氏の各短編には江戸の町人文化と当時の地名や風習が実に色鮮やかにしかも丹念に描かれ、江戸の風流を感じさせるが、一方でその風流さが生きにくい時代の中で見出した娯楽であったこと、そんな中でもがき苦しむ人々がいた事。しかしまた生きにくい時代を愚直に生きる人々にまた素晴らしさを感じるのだ。そんな光と影を映し出している。 さて本書における個人的ベストは「墓磨きの怪」を挙げたい。闇夜に乗じて方々の寺が墓が磨かれているという奇妙な導入部の謎よりもこの話で出てきた正直者の「だからの昇平」が実に魅力ある。騙されているのを知らずに最後まで愚直に墓磨きを続ける、間の抜けた、しかしお人よし。こういう男は放っておけないのだ。 次点は「角平市松」。これもまた商売などは二の次でとことん新しい柄を創作することに意欲を燃やし、最初から最後の工程まで自分でしないと気が済まないという根っからの職人である角平のキャラクターが強い印象を残す。泡坂氏は角平の為人を事細かに描写するわけでなく、その仕事ぶりを語ることで彼の愚直さを語るところが上手い。この角平の創作した柄がその他の作品でも垣間見えるところも粋な趣向だし、そして何よりも私が驚いたのはこの作品で話題になる「角平市松」という架空の柄を紋章上絵師である作者が実際に創作しているところだ。この柄は本書には収録されていないものの、WEBで調べれば出てくるのでぜひともご覧になって頂きたい。こういう手間が物語に風味を与え、創作上の人物角平への存在感を色濃くするのだ。 幽霊騒ぎに縁起担ぎ、そして迷信。そんな現代人から忘れ去られようとしている昔ながらの云い伝えを物語に見事に溶かし込み、なおかつそんな文化の中で生きてきた人たちが明るく、しかし時に心の闇に取り込まれてしまった町人たちを時には厳しく、時には優しく守る宝引きの辰。彼がいるから今日のお江戸も安泰だ。 |
No.1338 | 9点 | ザ・ポエット マイクル・コナリー |
(2017/07/30 14:48登録) コナリー初のノンシリーズである本書は双子の兄の警察官の自殺の真相を調べる弟の新聞記者が探偵役を務める。従って今までのボッシュの破天荒な捜査とは違った事件のアプローチが描かれ、興味深い。 そしてこれまで刑事、しかもハリウッド警察という地方の一警察署の一介の殺人課刑事の捜査を描いてきたハリー・ボッシュシリーズとは違い、複数の州にまたがった広域的連続殺人犯の捜査をFBIと共に同行する形が採られており、行動範囲、捜査の質ともに今までよりも濃い内容となっている。 ハリー・ボッシュシリーズが足で稼ぎ、またほとんど違法とも思われる強引な捜査で絶えず警察のバッジを回収されそうになる危うい捜査の中から集めた数々の情報と証拠を長年の刑事の勘による閃きによって事件を解決する、一匹狼の刑事の過程を愉しむ物語ならば本書はFBIという最先端の操作技術を持つ組織がプロファイリングや警察機構の更に上を行く情報システム、鑑識技術を駆使してそれこそ全米にまたがって多数の捜査官によって事件を同時並行的に捜査する、質、量ともに警察を凌駕する広域捜査の妙を愉しむ作品が本書である。 主人公ジャック・マカヴォイは社会部の新聞記者で、一般的な新聞記者と違い、じっくりと取材をしたドキュメントめいた記事を書くのを専門としている。扱うのはいつも殺人について。殺された人の周囲とその人が殺された事件を丹念に調べ、記事にする。そして新聞記者をしながらいつか作家としてデビューすることを夢見ている男だ。コナリー自身新聞記者からミステリ作家に転身した経歴の持ち主なだけにこれまでの登場人物にも増して作者自身が最も投影された人物のように思える。 物語の合間に挿入される新聞記者としての心情の数々。大きなスクープを当てて注目され、ピュリッツァー賞を獲り、それを手土産に地方新聞社からLA、ニューヨーク、ワシントンのビッグ・スリーの一つへ移り、名新聞記者へと名を馳せた後、犯罪実録作家としてデビューする。町へ行けばそこで起きた過去の事件を思い出し、その現場にまるで観光名所のように訪れて、その時の事件について思いを馳せ、自分を重ねる。興味があるのはそんな事件現場ばかり。自分の行動範囲で発行される新聞には全て目を通し、自分が記事にするに足りうる殺人事件を毎日探している。自分の記事の載っている新聞は自宅に取っておく。ただいつも自分も事件の最前線にいたいという思いが募っていた。自分も彼らの捜査に加わることで事件をもっと臨場感持って感じたかった。事件の起きた“後”を追うのではなく、事件をリアルタイムで捜査官と共に追いかけ、一員になりたかったと願っていた。 ジャックのこの心の吐露はハリー・ボッシュシリーズでデビューし、好評を以って迎えられた1作『ナイトホークス』を皮切りに立て続けに3作出して作家としての地歩を固めたコナリーがデビュー前の自分を重ねているかのように読めて非常に興味深かった。 そして本書ではボッシュシリーズとのリンクも見られる。小児性愛者ウィリアム・グラッデンについて書いたLAタイムズの記者ケイシャ・ラッセルは前作『ラスト・コヨーテ』でボッシュに協力した若手の女性記者である。前作では披露されなかった彼女の記事が本書では読める。ボッシュシリーズから登場するのがこのケイシャの記事だけということから考えても刑事よりも新聞記者にスポットを当てたかったからだろう。 また連続殺人犯がエドガー・アラン・ポオの詩を現場に残しているところが文学的風味を与えている。特にジャックが過去の殺人課刑事自殺事件のファイルとポオの詩篇を比べるためにポオの全集に読み耽る件は実に興味深い。ポオの詩はジャック自身の過去の忌まわしい記憶を想起させ、心の深淵を抉り、そこに潜んでいる冷たいものを鷲掴みしてポオその人の心の憂鬱と同化していく。その様子はなんとも文学的香味に溢れ、深くその詩の世界、いや死の世界へと沈み込んでいくかのようだ。その詩は人々の記憶に眠る死の恐怖を喚起させるとジャックは述べる。これこそが本書の真犯人の最たる動機だったのではないかと読後の今ならば強く感じる。 E-BANKERさんもおっしゃっているように挿入される犯罪者のエピソードはミスリードであるのは解っているので、では逆に誰が連続殺人犯<詩人>なのかを探るのが読者と作者との知恵比べとなっている。私はある人物にスポットを当て、かなり自信があったのだが、敢え無く撃沈してしまった。 捜査の過程で新聞記者のジャックとレイチェルは親密さを増していくが、その結末は苦いものだった。 人は何かを得ようとすると何かを失う。そして得た物か失った物かいずれかが本当に欲しかったものなのかはその後の人生で答えが出るものだ。コナリーの紡ぐ壮大なボッシュ・サーガの世界でまた今後ジャックとレイチェルの2人がなんらかの形で登場し、その後の2人を知ることが出来ることを期待して、また次の作品を手に取ろう。 |
No.1337 | 10点 | 2017本格ミステリ・ベスト10 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2017/07/29 22:56登録) 例年とは違い、待望の2006年から2015年の10年間のベスト選出結果が載っている…と思っていたら本書はなんと1997年から2016年までの20年間のオールタイムベストの選出と対象期間を倍にした企画に変っていたことに驚く。ただし前回が1996年からに対して今回は1997年からと1年のオフセットが行われているのは1997年がこの本格ミステリ・ベスト10が刊行された年であるからだ。 この年のランキングについて語ることは省略し、この20年のベスト選出について語ることにする。 まず1位を三津田信三氏の『首無の如き祟るもの』が獲得したのはその後の10年の本格ミステリがその前の10年間のミステリよりも優れてきたことを象徴しているかのようだ。しかし2位に東野氏の『容疑者xの献身』がランクインされているのはこの作品の普遍性を表している。前回の10年ベストでは3位であり、むしろ評価を挙げていることが凄い。次の『ハサミ男』も5位から3位に、4位の『人狼城の恐怖』は前回と同じ位置につけており、その価値が変わらぬことを証明した。5位の『葉桜の季節に君を想うということ』も前回から1ランクアップ。 つまり1位を除く2~5位は前回とほとんど変わらない作品がランクインしたといえ、つまり一応その後の10年で前回のランキングを打ち破る作品が出たものの、その他上位は変わらなかったという結果となった。 逆に『容疑者x~』以下の作品のランクが上がる、もしくは維持されたのは前回1,2位にランクインした京極夏彦氏の『百鬼夜行』シリーズの『絡新婦の理』と『鉄鼠の檻』の2作が大きくランキングを落としたことが要因だ(前者は18位で後者は12位)。つまりこの妖怪をテーマにしたこのシリーズの刊行が2006年の『邪魅の雫』以降、パッタリと止まった読者の渇望感を三津田氏の刀城言耶シリーズが癒していたのがこの10年であるとの証左がランキングに出ていると云えよう。 その他新しくランキングした作品は6位法月綸太郎氏『キングを探せ』、7位米澤穂信氏『折れた竜骨』、9位有栖川有栖氏『女王国の城』、11位柄刀一氏『密室キングダム』、13位麻耶雄嵩氏『メルカトルかく語りき』、15位円居挽氏『丸田町ルヴォワール』、同15位麻耶雄嵩氏『さよなら神様』、17位麻耶雄嵩氏『隻眼の少女』、18位歌野晶午氏『密室殺人ゲーム2.0』、20位梓崎優氏『叫びと祈り』と11作がランクインし、半分以上が塗り替わる結果となった。逆に2005年以前の作品はいずれも前回ランクインした作品ばかりなのはもはや評価が定まってしまったことを意味するのだろうか。 しかしこの20年において麻耶雄嵩氏の躍進ぶりは凄まじい。なんと前回に引き続いてランクインした10位の『螢』を含めると4作がランクインしたことになる。そのうち3作は2006年以降であるから、まさにこの10年は麻耶雄嵩氏の10年だったと云えよう。 しかしながら近年のランキングは上に述べたように新興の本格ミステリ作家がどんどん話題作を生み出し、ランキングを席巻しつつある。まさに群雄割拠の本格ミステリ界と云えよう。それらの作品が今後の10年で名作であると評価され続けるに足る作品であるかどうかは京極氏の作品の評価を見て解るように今後の活躍に掛かっているのである。つまり継続的に意欲作を出すことがその作者の作品を名作足らしめるということがこのランキングで示唆されているのだ。実に興味深い資料だ。 そうなるとやはり2007年から2016年の10年、いや2006年から2016年でも2006年から2015年でもいいのでこの10年のオールタイムベストも見たいものである。またまだなされていない海外本格ミステリについても同様の企画を将来的にはお願いしたい。 しかしこのムック、もっと世間的に広く認められるべきだと思うのだが、なかなか認知度が高まらないように思えてならない。内容の充実ぶりは『このミス』よりもはるかに上。世のミステリファンよ、本書を手に取り、本格ミステリの海に共に身を投じようではないか! |
No.1336 | 6点 | 夢魔の標的 星新一 |
(2017/07/23 22:28登録) 果たして最後に勝ったのは夢魔か女医か?読中は恐怖感が襲うが、読後はやっぱり星印。 |
No.1335 | 5点 | 月世界へ行く ジュール・ヴェルヌ |
(2017/07/20 23:51登録) 本書は1865年に発表された『月世界旅行』の続編である。思わせぶりな前作の結末から5年を経た1870年に刊行された。前作では月へと旅立った一行の安否が不明なままで物語は終了。当時の読者は夢の月世界旅行の行方がどうなったか忸怩たる思いをしていたに違いない。そして今か今かと続編の刊行を待っているにもかかわらず、その後『海底二万里』という大長編を挟んでようやく刊行された。その5年間はいかに長かったことだろうか。 さて現実の世界では初めて人類が宇宙へ旅立つのは1961年ソ連がガガーリンが初めての有人宇宙飛行を成した後、NASAによる月面着陸が成されるのは1969年である。それに先駆けること100年も前の話であるが、いやはやまたもやヴェルヌの博学ぶりと想像力の豊かさを思い知らされた。 しかし博学のヴェルヌとはいえ、今読むとやはり荒唐無稽なところは多々ある。また今回は妙に学術的すぎるところが退屈を誘ったのは否めない。特に慣性によって月の周囲を平行して飛ぶ砲弾の中から月の表面の地図をせっせと描くシーンが続くのだ。そこには過去の科学者たちが名付けた月の地形についての記述が延々語られ、月の地形に疎い私はなんとも苦痛と眠気を強いられるシーンであった。ここまでくると単に著者の知識のひけらかしであるまた月で噴火が起きたり、雪が降っていたりと眉唾物の現象も出てきたり、さらにかつて月面には人の住んでいた名残があるなどという学説も飛び出し、月面着陸が成し得た現代においては空想物語としても入り込めないところがあった。 しかし返す返すもヴェルヌの先見性には驚きを禁じ得ない。作中、乗組員の1人、フランス人の冒険家ミシェル・アルダンが今回の月世界旅行の目的について、全てはアメリカ合衆国が月世界を植民地として手に入れるためだと述べるシーンがあるが、これはまさに100年後、世界の覇者たるアメリカがソ連と激化する二大勢力抗争において、宇宙を制する者こそ世界を制するとばかりに有人による宇宙開発計画を打ち立て、そして見事月面着陸を成し得た雰囲気をそのまま備えている。フランス人のヴェルヌが作中でフランス人の口からアメリカに月世界を支配するためと云わせていること自体が、なんとも恐ろしい予見性を感じてしまった。 とまあ、ヴェルヌの博識とその先見性によっていつものように驚かされはするものの、上に書いたように物語の起伏としては乏しく、作者が知識を披露して悦に浸っている感がしてしまっていつものヴェルヌ作品のようには楽しめなかったのは残念だ。次作に期待しよう。 |
No.1334 | 8点 | クージョ スティーヴン・キング |
(2017/07/16 22:40登録) 一般的に狂犬病に罹った犬が車に閉じ込められた人を襲うだけで1本の長編を書いたと評されている物語だが、もちろんそんなことはない。 クージョに関わる二家族のそれぞれの事情を丹念に描き、下拵えが十分に終わったところでようやく本書の主題である、炎天下の車内での狂犬との戦いが描かれる。それが始まるのが233ページでちょうど物語の半分のところである。そこから延々とこの地味な戦いが繰り広げられる。 しかしこの地味な戦いが実に読ませる。 町外れの、道の先は廃棄場しかない行き止まりの道にある自動車修理工場。旅行に出かけた妻と子。残された夫とその隣人は既にクージョによって殺されている。更に閉じ込められた親子の夫は出張中で不在。そして、これが一番重要なのだが、携帯電話がまだ存在していない頃の出来事であること。またその夫は会社の存亡を賭けた交渉に臨み、なおかつ出発直前に妻の浮気が発覚して妻に対する愛情が揺れ動いていること。この狂犬と親子の永い戦いにキングは実に周到にエピソードを盛り込み、「その時」を演出する。 これはキングにとってもチャレンジングな作品だったのではないか。今までは念動力やサイコメトリーなど超能力者を主人公にしたり、吸血鬼や幽霊屋敷といった古典的な恐怖の対象を現代風にアレンジする、空想の産物を現実的な我々の生活環境に落とし込む創作をしていたが、今回は狂犬に襲われるという身近でありそうな事件をエンストした車内という極限的に限定された場所で恐怖と戦いながら生き延びようとするという、どこかで起こってもおかしくないことを恐怖の物語として描いているところに大きな特徴、いや変化があると云える。更に車の中といういわば最小の舞台での格闘を約230ページに亘って語るというのはよほどの筆力と想像力がないとできないことだ。しかし彼はそれをやってのけた。 本書を書いたことで恐らくキングは超常現象や化け物に頼らずともどんなテーマでも面白く、そして怖く書いてみせる自負が確信に変わったことだろう。だからこそデビューして43年経った2017年の今でもベストセラーランキングされ、そして日本の年末ランキングでも上位に名を連ねる作品が書けるのだ。 これは単なる狂犬に襲われた親子の物語ではない。物語の影に『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドの生霊がまだ蠢いているからだ。つまりクージョはフランク・ドッドが乗り移った形代でもあったとキングは仄めかしている。 こうなるとキングの作品はただ読んでいるだけでは済まない。各物語に散りばめられた相関を丁寧に結びつけることで何か発見があるのかもしれない。キングの物語世界を慎重に歩みながら、これからも読み進めることとしよう。 |
No.1333 | 7点 | スカイ・クロラ 森博嗣 |
(2017/07/12 23:13登録) 何処とも知れない、しかし世界のどこかであることは間違いない場所でいつの頃なのかも解らない時代を舞台にいつも以上に仄めかしが多い文章で、世界観を理解する説明めいた文章はなく、主人公カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で物語は断片的に淡々と進んでいく。 その内容はまさに空を飛んでいるかのように掴みどころがない。それぞれが何か秘密を抱えているようだが、カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で進むこの作品では全てが雲を掴んでいるかのようになかなか手応えが感じられない。それは主人公のカンナミをはじめ各登場人物たちがあまり人に関心を持たない性格だからだ。戦時下の前線にいるパイロットや整備士などにとって今いる仲間はいつ死んでもおかしくない、つまり今日は逢えても明日は逢えるか解らない境遇であるため、他人と距離を置き、ほどほどに付き合う程度の人間関係を構築しないからだろう。だからカンナミが色々質問しても「それを知って何になる?」と云わんばかりに沈黙で応える。しかし日数が経つと次第に打ち解けて断片的に自分のことや他人のこと、そして過去のことが断片的に語られていく。まあ、現代の人間関係と非常に似通っていてある意味リアルでもあるのだが。 そんな独特の浮遊感を持ちながら進む作品はしかし、カンナミたちが飛行機に乗って空を飛ぶとたちまち澄み渡る空の青さと雲の白さとそして眩しい太陽の日差しの下で自由闊達に躍動する飛行機たちの姿とカンナミ・ユーヒチが機体と一体になって空を飛ぶ描写が瑞々しいほど色鮮やかに浮かび上がる。そして敵と相見える空中戦ではコンマ秒単位に研ぎ澄まされた時間と空間把握能力が研ぎ澄まされた皮膚感覚を通じて語られる。それは人の生き死にを扱っているのになんとも美しく、空中でのオペラを奏でているようだ。飛行機乗りでしか表現できないようなこの解放感と無敵感をなぜ森氏がこれほどまでに鮮やかに描写できるのか、不思議でならない。 淡々と進む物語は随所にそんな美しい飛行戦をアクセントに挟みながら、カンナミ・ユーヒチの日常と彼の仲間たちの日常、そして変化が語られ、そして徐々に物語が形を表していく。 カンナミの前任者クリタ・ジンロウは果たして本当に上司の草薙水素が殺したのか?カンナミ、そして草薙が属するキルドレとは一体何なのか? 地面から5センチほど宙に浮いたような感覚で読み進めた本書だったが、最後になってどうにかその世界へと着陸することが叶った。森氏が開いた新たな物語世界。次作からじっくり読み進めていくことにしよう。 |
No.1332 | 7点 | パズル崩壊 法月綸太郎 |
(2017/07/11 22:20登録) パズルそしてロジックに傾倒する法月綸太郎氏の短編集だが題名はパズル崩壊。しかしこの短編集を指すにこれほど相応しい題名もないだろう。 各短編を読むとどこかいびつな印象を受ける。 例えば「重ねて二つ」はその動機と密室の必然性、そして犯人が警察の捜査中の現場に死体と共にいるなど、遺体の血液や死臭の問題など普通思いつくような不自然さを全く無視して、男女の遺体が上半身と下半身とで繋がれた死体が密室で見つかるという謎ありきで物語を創作したことが明確だ。次の「懐中電灯」は完全犯罪が切れた電池を手掛かりに瓦解するミステリでこれは実に端正なミステリであるのだが、その次の「黒いマリア」になると、亡くなった女性が葛城の許を訪れて解決した事件の再検証を求める、オカルトめいた設定になっているのだが、事件の内容とオカルト的設定がどうにも嚙み合っていない。これもカーの某作をモチーフにして強引に書いたような印象が否めない。 「トランスミッション」はどこか地に足が付かない浮遊感を覚えてしまう。そして「シャドウ・プレイ」はドッペルゲンガーをテーマにした自分の新作について友人に語っていくのだが、次第に虚実の境が曖昧になっていく。この辺からミステリとしての境界もぼやけてくる。 そして「ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか」ではパズラーの極北とも云える密室殺人が扱われているが、アーチャーシリーズやその他周辺の諸々を放り込んだそのパロディはその真相においてはもはやパロディどころかパズラーの域を超え、いや崩壊してしまっている。 かと思えば本書で最も長い「カット・アウト」には本来のロジックを重ねて法月氏独特の人の特異な心の真意を探るミステリが見事に表されている。 しかし問題なのは最後の短編「・・・・・・GALLONS OF RUBBING ALCOHOL FLOW THROUGH THE STRIP」だ。これはミステリではなく、法月綸太郎のある夜の出来事を綴った物語である。しかし本作こそ本書の題名を象徴しているようにも思える。 はてさてこれは悩める作者の世迷言か?それともミステリの可能性を拡げる前衛的ミステリ集なのか?もしくはパズラーへの惜別賦なのか?ともあれ奇書であることは間違いない。 現在の活躍ぶりと創作意欲の旺盛さから顧みると、本書は一旦法月綸太郎を崩壊させ、ロス・マクドナルドやチャンドラーなどの諸作をも換骨奪胎することで彼の本格ミステリを再構築させたのだ。つまり本書は現在の法月氏への通過儀礼だったのだ。今ではその独特のミステリ姿勢から出せば高評価のミステリを連発する法月氏だが、この世紀末の頃は悶々と悩んでいた彼の姿が、彼の心の道行が作品を通じて如実に浮かび上がってくる。これほど作者人生を自身の作品に映し出す作者も珍しい。一旦崩壊したパズルを見事再生した法月氏。つまり本書はその題名通り、本格ミステリの枠を突き抜けて迷走する法月氏が見られる、そんな若き日の法月氏の苦悩が読み取れる貴重な短編集だ。 こんな時代もあったんだね。 |
No.1331 | 8点 | 妄想銀行 星新一 |
(2017/07/02 10:58登録) オイラの星新一ショートショートランキング第1位の「鍵」が入ってるだけで、この本は読む価値がある。 他の作品も面白いが、なんといっても「鍵」!これに尽きる。 |
No.1330 | 10点 | ラスト・コヨーテ マイクル・コナリー |
(2017/07/02 00:50登録) 様々な暗喩に満ちた作品だ。 例えばボッシュが休職中に相棒のジェリー・エドガーが解決した事件は銃による殺人事件かと思って捜査すれば、単にエアバッグ修理中に起きた死亡事故に過ぎなかったことが判るのだが、事故当時にもう1人の人間がいた痕跡があったことから調べてみると7年前に起きた2人の女性が殺害された事件の犯人の指紋と一致し、犯人逮捕に至るエピソードが出てくる。実はこの何気ないエピソードが物語の最終へ暗喩になっているのだ。 さらに本書のタイトルにもなっている1匹のコヨーテの存在。ボッシュは事件関係者で母親と親友だった当時メリディス・ローマンと名乗り、今はキャサリン・リージスタとなっている女性と逢った帰り道に1匹のコヨーテと遭遇する。その痩せ細り、毛がばさばさになった風貌に今の自分を重ねる。地震前、ボッシュの自宅の下の崖には1匹のコヨーテがいたが、震災後それはいなくなった。そしてボッシュもまた今は刑事休職中の身でシルヴィアにも去られ、酒を手放せず、目の下の隈がなかなか取れないほど疲れ果てた表情をしている。そんなくたびれた自分は昔気質の古い刑事であり、出くわしたコヨーテももしかしたらLAの住宅地を徘徊している最後のコヨーテではないか、つまりいついなくなってもおかしくない存在だと思うのである。 孤独で育った少年は大人になりコヨーテになった。しかも最後のコヨーテに。本書の原題にはそんな寓意が込められている。 また今回もボッシュはアウトローな強引な捜査を行う。特に今回は強制休暇中であるため、自由に走り回る。しかしその強引さがあるサプライズに繋がるとは全く予想外だった。いやはやコナリーの構成の上手さには唸るしかない。 ボッシュは今まで直視しなかった母親について事件を調べることで思い出を手繰り寄せ、母の大いなる愛を知らされ、また悟る。 「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」 これがボッシュの信条だ。しかし彼は母親に対してはその信条に従わなかった。しかし彼は母親殺害事件の捜査資料を当たるうちに当時の警察が彼女の価値をおざなりにしていたことを知る。それはまた自分もまた同類であったと悟り、信条に従い、母親の死の真相に向き合うことを決意したのだった。 誰もが過去に隠した罪に苛まれて生き、いつそれが暴かれるかを恐れながら生きてきた。そしてその時がハリーが現れることで来たと悟り、ある者は観念して、またある者は必死にそれに抗おうとして、またある者は更なる秘密を暴かれるのを防ぐために死出の旅に発つ。 過去に縛られ、過去を葬り去り、忘れさせようとした人たち。しかし同じく過去に縛られながらもその過去に向き合い、克服しようとした1匹のコヨーテに彼らは敗れたのだ。 ハリーの母親の事件を解決したことでハリー・ボッシュの物語はここで第一部完といったところか。デビュー作の時点で盛り込まれていたハリーに纏わる数々の謎は本書で一旦全て解決を見た。さらに彼はかつてスター刑事としてテレビ出演していた時に得た収入で購入した家も地震によって失った。 母親の愛の深さを知り、また過去に葬り去られた母親殺害の事件を解決したことで母親の無念を晴らしたボッシュ。しかし自身の強引な捜査によって新たな十字架を背負うことになった。しかしジャスミン・コリアンという新たなパートナーを得たボッシュの再登場を期待して待ちたい。今までとは違ったボッシュと逢える気がしてならないからだ。それはきっといい再会になるだろうとなぜか私は確信している。ボッシュがジャスミンに命がけでしがみつこうと決心したように、しばらく私はボッシュに、いやコナリー作品にしがみついていくことにしよう。 |
No.1329 | 8点 | 海底二万里 ジュール・ヴェルヌ |
(2017/06/26 14:59登録) ヴェルヌの代名詞とも云える本書。 主人公はパリ博物館の教授を務めるアロナックス教授。そしてその従順かつ知性と勇気を兼ね備えた若き召使いコンセイユ。それに粗暴な銛打ちの名人ネッド・ランド。このあくまで主人に忠実且つ従順な下僕と類稀なる体力と力を兼ね備えた人物という構成はもはや藤子不二雄作品のようにヴェルヌ作品お決まりの人物構成と云えるだろう。 最も特異なのは今回登場するネモ船長という謎めいた人物が中心に据えられていることだ。地上での生活を捨て、最新鋭の技術の粋を結集して建造した潜水艦ノーチラス号で海底生活を続ける世捨て人ネモ船長は博物学、とりわけ海洋生物に精通しているアロナックス教授に敬意を持ち、ノーチラス号での旅への同行を許すわけだが、自由を与えつつも今後将来ノーチラス号から出ることを許さないという極端な側面を持っている。ただ前述したようにかなり秘密が多い人物である。 まずなぜ地上の生活を捨てて海中で最新鋭の潜水艦で世界中を旅して回っているのか?さらにアロナックス教授達に睡眠薬入りの食事をさせてまで隠す、船員を1人喪うほどの戦いをどこと繰り広げたのか?また地中海では知り合いの潜水夫に逢うと、莫大な金塊を入れた箱を渡して寄付しているようにも見える。これらの不審な行動についてはなかなか明らかにされないまま、読者はアロナックス教授と共にネモ船長に付き合うことになる。 そんなミステリアスな人物の所有するノーチラス号内での生活は非常にファンタジックな魅力に富んでいる。 まず全ての物が海で手に入る物から作られているのが面白い。 また船員の服もベッドもペンもインクもタバコも全て海産物から作られている。 そして肝心の動力は電気であり、これも海水中のナトリウムを抽出してナトリウム電池として電源を受給しており、しかも海底の石炭の熱を使って抽出されている。さらにこの電気は外部からの侵入者に対する防護にもなる。敵がハッチから侵入しようとすると手摺に電気が流れて入れなくなるのだ(床も全て鋼鉄で出来ている船内に電流が流れてなぜ乗組員は感電しないのかという不明な点はある)。 空気は海上から取り込み、タンクに蓄積して数日間深海に潜っていても問題はない。 さらに船中で亡くなった乗組員はインド洋の何処かにあるサンゴの森の墓場に埋葬され、海へと還される。 さらに資金は過去の歴史において沈没した船に積まれたまま海に沈んでいる金銀財宝を独占的に採取して賄っている。 また唯一の基地は大西洋の何処かにある死火山の中であり、誰も住んでいない島にある。 動力、空気、食糧、秘密の整備基地、そして潤沢な財源、それら全てを海で賄っている、ほとんど完璧無比を誇るノーチラス号。 そして海、とりわけ海中を舞台にした小説であるから海棲生物の記述はふんだんに盛り込まれており、さらに世界の冒険家たちによる新大陸発見の歴史である航海史やそれらに伴う数々の遭難事故のエピソード、更に海底ケーブル大西洋敷設という難事業に関するエピソードなど知的好奇心をそそる蘊蓄も満載だ。 ヴェルヌ作品でも『グラント船長の子供たち』に次いで530ページ強のページ数を誇る本書。両書に共通するのは世界の海を舞台にしているところだ。海上と海中の差はあれど、世界中の海の神秘性と特異性を語るにはやはりこれほどのページが必要で、いやこれだけでも足らないほどのロマンと冒険に満ち溢れているとヴェルヌは云いたいのだろう。事実、両書に共通するのはこれでもか、これでもかとばかりに注ぎ込まれるヴェルヌのアイデアの数々である。 海底の森での狩猟、サンゴに囲まれた墓地、深海に眠る大きなシャコ貝の中で静かに育つ人頭大の巨大真珠、誰も知らない紅海と地中海を結ぶ海底トンネル、地中海にある海底火山の噴火、世界中に眠っている金銀財宝、アトランティス大陸にマッコウクジラの群れとの対決に巨大タコとの格闘、更に氷に閉ざされた中での決死の脱出劇、等々。 こんな目くるめく冒険と不思議の数々を空想巡らしながら読む子供たちにとって未来は実に魅力溢れる世界になることだろう。本当にこれは全ての子供に読んでもらいたい作品だ。 本書は数多くの出版社から文庫が出ているが、私が読んだ創元推理文庫版ではヴェルヌ自身が作成したノーチラス号の航行ルートが描かれた世界地図が付されており、これが大いに参考になった。この地図を見ると恐らくヴェルヌはまだ見ぬ世界に想像を膨らませながらどれどれ主人公たちにどんな世界の神秘を見せてやろうかとほくそ笑んでいたことだろう。この大著はそんなヴェルヌの想像力と好奇心によって紡がれた作品なのだ。これほどの筆を費やしてもヴェルヌはまだ書きたいことが山ほどあったに違いない。 日本の南から始まった航行期間10ヶ月弱、航行距離2万里の長きに亘った物語の終焉はそんなヴェルヌの渇望感を表したかのような名残惜しさに満ちている。 |
No.1328 | 3点 | 最後の抵抗 スティーヴン・キング |
(2017/06/18 23:55登録) どうにも煮え切らない小説である。いわゆるダメ男小説、人生の落伍者のお話である。 主人公ドーズは高速道路の延伸工事のため、自分の自宅と自身の勤めるクリーニング工場の立ち退きを迫られるが、頑なにそれを拒む。移転のための費用も出るし、また工場もいい条件を提示する不動産会社もあるのに、ドーズはそれに一切関与しようとしない。彼は高速道路の延伸自体を認めたくないのだ。そして移転することは政府の勝手な申し出に屈することになる、そうドーズは考えている。 しかし彼の行動は正直褒められたものではない。妻には移転先の物件を探しているふりをして、いつも嘘を云って誤魔化し、会社の上司にも不動産会社が紹介する物件に多数の不備があり、購入後は多額の修繕費が掛かると、調べてもいないのに嘘八百を並べ、終いには期限が過ぎればもっと価格を下げて提示してくるとまで云いのける。 しかし長らく勤めていたクリーニング工場の責任者という地位と職業も失い、更には妻にも逃げられながらも、一体何がこのバート・ドーズをそうさせるのか? 土地に固執する人々の大きな特徴として帰属意識の強さが挙げられる。先祖代々の土地を人様に渡すことを極端に嫌う、昔からその土地で生きている人たちにその特徴は顕著だ。ドーズは先祖代々住み着いた土地ではないが、彼にとってウェストフィールドは思い出の地なのだ。時折挟まれる妻メアリーとの思い出が非常に眩しいのもそのためだ。 まだ食うのもやっとな若い2人が内職してテレビを購入するエピソード、一人目の子の死産を乗り越えて、ようやくできた2人目の息子チャーリーとの思い出とその死。そんな困難もありながら、ささやかだけど幸せな時間を妻と共に過ごしてきた思い出の家を法律を盾に奪おうとする行為が許せなかったのだろう。ドーズは思い出に生きる男なのだ。 そして恐らくドーズは一方で安定を壊したかったのではないか。自宅のみならず自分の勤める工場の移転も強いられ、意のそぐわぬことをしてまでの安定に何の意味があるのかと常に自問自答していたのではないか。常人であれば普通に選択すべきことを敢えてしなかったのはそんな鬱屈した日常を破壊したかったのではないだろうか。つまり伸びてくる高速道路は彼の鬱屈した心の象徴でそれを壊すこと、もしくは誰もが従った土地買収に抗うことが彼にとって一皮剝けた新たな自分を生み出すことだと信じていたのではないだろうか? 独りよがりな理屈と自分勝手な行動と自分のことを棚に上げて人を怒鳴り、または訳の分からない説教をしようとする男バート・ジョージ・ドーズ。この、どうやっても共感を得られる人物像ではない狂える、そして女々しい男だ。キングは本書を「もっとも愛着のある作品」と称しているらしいが、私にはやはり単なる狂人が迷い彷徨い、そして崩壊するだけの話としか読めなかった。本書の舞台はベトナム戦争が終わった後の1973年だ。アメリカという国中にどこか鬱屈した空気が流れていた時代だろう。だからこそ戦争に負けた政府に従わない男をキングは書こうとしたのかもしれない。本書を著すことがベトナム戦争に負けたアメリカに対するキングのささやかな「最後の抵抗」だったのではないだろうか。 |
No.1327 | 8点 | 午後の恐竜 星新一 |
(2017/06/12 15:59登録) 「午後の紅茶」を思わせるのどかな題名と表紙絵だが、表題作の最後に明かされるオチは戦慄の一言。傑作。 |
No.1326 | 7点 | 恋恋蓮歩の演習 森博嗣 |
(2017/06/12 00:55登録) 豪華客船の上で起こる密室での人間消失と絵画盗難。ただ人間消失事件は正直必要か?と思った次第。 以下大いにネタバレ。 まず絵の所有者を部屋から出すためならば話があると持ち掛けさせてカフェテリアで拘束してもらうなどすればいいだけである。スキャンダルについても目的の男を呼び出したら自室で襲われたと見せかけるなどの他の方法もあったはずだ。 何しろ殺人事件となれば警察が介入して事が大事になるのにもかかわらず絵画の略奪を計画しているところにわざわざ警察を介入させる意味が解らない。絵が盗まれただけであれば警察もわざわざヘリコプターまで投入せずに次の停泊地である宮崎で警察が乗り込んでくるだけだろう。事を荒立てずにスマートに盗みを済ませてほしいと依頼した割には逆に大騒ぎになるような略奪計画である。実際船内は人が落ちたことで大騒ぎしているし。 また海に注意を向けるためにわざわざ海に落とすというのも詭弁である。船の中で人が見つからない、もしくは物が見つからないとなるとすぐに海に落ちた、落としたのではと思いつくのは当然である。海に何かが落ちなかったら船の中だけで考えると云うのはかなり無理な論理ではないだろうか。 さて今回は今まで道化役でしかなかった香具山紫子にスポットが当てられる。しかしてっきり香具山紫子のシンデレラ・ストーリーになるかと思いきや、さにあらず、やはり小鳥遊練無と瀬在丸紅子のマイペースに翻弄されて結局いつも役割に。「マイ・フェア・レディ」になり損ねた紫子が報われる日はいつ来るのか。それともずっとこのままなのだろうか。「わたしの人生っていったいなんやろ」と一人気落ちせずに頑張れ、紫子! ミステリとしては標準並みの謎の難易度で全てではなくとも謎の一部は私にも途中で解ってしまうほどの物だったが、今回は事件の謎よりも物語の謎、いや保呂草という男の行動こそがメインの謎だったように思う。 この考えの読めない探偵兼泥棒の、常に客観的に物事を冷静に見つめ、目的のためには人を利用することも全く厭わない(その最たる犠牲者が香具山紫子なのだが)、あまり好感の持てない人物だが、彼の信念というか、信条が本書では意外な形で明らかになる。 常に計画的打算的に行動する保呂草自身の本当の心情は不明だが、恐らく本書でそれまで保呂草嫌いだった読者の彼に対する評価はそれまでよりも大なり小なり好感を増したのではないだろうか。実際私はそうなのだが。 ところで題名『恋恋蓮歩の演習』とはどういった意味だろうか?まず目につくのは「演習」の文字。これは前作で保呂草が盗み出すように依頼された幻の美術品「エンジェル・マヌーヴァ(天使の演習)」から想起されるのは当然だし、登場人物も各務亜樹良と関根朔太と共通していることからも繋がりを連想させる。 一方「恋恋蓮歩」という四文字。これは森氏独特のフレーズで造語かと思ったら実は「恋恋」は「思いを断ち切れず執着すること」、「恋い慕って思い切れない様」、「執着して未練がましい様」という意味で、一方の「蓮歩」は「美人の艶やかな歩み」という意味らしい。 この2つの単語を繋げたのは森氏の言葉に対する独特のセンスなのだが、つまり「恋恋蓮歩の演習」は「恋い慕って思いが募る女性が行う艶やかな歩く練習」ということになる。う~ん、そうなるとこれはやはり大笛梨絵、瀬在丸紅子ではなく、今回保呂草の計画に一役買った香具山紫子を表した題名になるのだろうか。 しかし一方で英題“A Sea Of Deceit”は“偽りの海”という意味。邦題と英題を兼ね合わせる人物はとなると大笛梨絵になるだろうか。いずれにしても色んな解釈ができる題名ではある。 最後に読み終わった後に保呂草自身のプロローグに戻ると、文字に書かれた時点で現実から乖離し、全ては虚構となる、そして全てが書かれているわけではなく、敢えて書かないで隠された事実もあるし、今回はその時点における意識をそのままの形で記述することを避けるとも謳われている。森作品、特にこのシリーズにおいてこの「書かれていること全てが本当とは限らない」というメッセージが通底しているように思われる。それはやはり保呂草潤平という謎多き人物がメインを務めているからかもしれない。 それはつまり、自分の直感を信じて読めばおのずと真実が見えてくるとも告げているように思える。ただ読むだけでなく、頭を使いなさい、と。だからこそ森ミステリには敢えて答えを云わない謎が散りばめられているのかもしれない。それこそが現実なのだからだ、と。 |
No.1325 | 7点 | さらわれたい女 歌野晶午 |
(2017/06/07 23:20登録) 誘拐ミステリも数あるが、今回歌野氏が仕掛けたのは狂言誘拐。それも夫の愛情を確かめたいがための誘拐という、ちょっと浮世離れしたお嬢様育ちの容姿端麗の人妻の変わった依頼で幕を開ける。 1992年というバブル真っ盛りの時期に書かれた本書。そこここに時代を感じさせる記述が散見されて懐かしさを覚えた。偽装して現れた誘拐の捜査をする警察官が来ていたのがアルマーニ調のスーツ(となぜかアタッシェ・ケースにクマのぬいぐるみを携えての登場と、逆に目立つような恰好なのがよく解らないのだが。とにかくパーティーや女性へのプレゼントが横行していた当時こんなアンバランスな恰好が普通だったのか?)だったり、まだ携帯電話は普及しておらず、自動車電話やショルダーフォンがセレブの持ち物となっていた時代だ。そんなまだアナログ社会で狂言誘拐を頼まれた便利屋が立てた方法がなかなか機知に富んでいて面白い。 警察からの逆探知を逃れるために今では災害時に使われるようになったNTTが提供する伝言ダイヤルサービスや今は無き悪名高いダイヤルQ2を利用して、録音やパーティラインによるやり取りで直接電話を繋げないようにしたり、自宅ではなく会社の方に電話したりするなど、工夫が凝らされていて読み手の予想の斜めを行く展開でどんどん読まされてしまった。 しかしそんなコミカルなムードも物語半ばで一転する。狂言誘拐の依頼人の女性が潜伏先で何者かによって殺害されてしまうのだ。そして依頼を請け負った便利屋が依頼人に渡した誘拐計画のメモをネタに殺人犯に犯罪隠蔽の片棒を担がされることになる。 誘拐する側とされる側の側面で描きながら、いつしか殺人の罪を着せられ、やがて殺人事件の捜査へと転じるツイストの効いた作品。そう、本書は誘拐あり、殺人あり、人捜しありの実に贅沢なミステリなのだ。 しかしこの頃歌野氏は本書の前に『ガラス張りの誘拐』という同じく誘拐を扱った作品を書いている。誘拐ミステリはなかなか数多く書かれるものではないのでこれは非常に珍しいと思える。そしてそちらも本書同様意表を突く展開でなかなか事件の様相が掴めなかった。しかしその反面アイデアに走り過ぎて作品としてのバランスに欠けるような印象も拭えなかった。 しかし好評を以って迎えられた乱歩の文体を模した『死体を買う男』を経た本作は『ガラス張りの誘拐』で覚えた消化不良感を払拭する出来栄えでとにかく謎から謎の展開でクイクイ読まされてしまった。ただやはり結末の付け方は慌ただしく、読書の余韻としては物足りなさを感じた。アイデアはいいものの、物語としては不十分。つまりこの頃の作品には『葉桜~』に至る以後の歌野晶午作品の萌芽が見られる貴重な作品群といえるだろう。 |
No.1324 | 7点 | 乙女の悲劇 ルース・レンデル |
(2017/06/04 12:27登録) ウェクスフォード警部シリーズ10作目は謎めいた一人の年輩の独身女性を巡る物語だ。 本書でも語られているように変死体で見つかった彼女はもはやただの無名の存在ではなくなる。彼女を殺害した人物を探るために過去を一つ一つほじくり返され、人間関係がその為人が暴かれ、好むと好まざるとに関わらず、1人の人間の伝記が出来上がっていく。しかしこの被害者の女性ローダ・コンフリーは調べども調べども住所さえも明らかになっていかない。彼の父親や叔母にでさえ自分の住所を教えなかった女性。 やがて捜査線上に一人の男性が浮かび上がる。作家のグレンヴィル・ウェスト。最初は年増女が勘違いして熱を挙げただけの存在かと思われたが、たまたま手に取った彼の著作の献辞にローダの名前を発見して、その関係性に太い繋がりが見えてくる。ウェクスフォードの捜査の手は彼の方に伸びていくが、フランス旅行中というのは大きな嘘でイギリス国内に留まり、行方を転々としているのだ。ウェクスフォードは今度はグレンヴィル・ウェストという謎めいた男に囚われてしまう。 しかしそれはある一つの言葉でこれら1人の女性と1人の男性の謎めいた人生が氷解する。 このように一人の女性の死が人生という名の迷宮に誘う。私や貴方が普通に言葉を交わすご近所相手、もしくは会社で一緒に働く相手は彼ら彼女らの多数ある生活の側面の一面に過ぎない。いつも見せる顔の裏側には数奇な人生の道程が隠されているのだ。 また本書ではこの50代の独身女性の謎めいた死を巡る謎と並行してもう1つの物語が語られる。それはウェクスフォードの長女シルヴィアの夫婦不仲の問題だ。本書が発表された70年代後半は折しもイギリスではウーマン・リブ旋風が吹き荒れていたらしく、シルヴィアもその風に当てられて、家庭に籠って一生を終える人生に異を唱え、女性の自由を高らかに叫び、家庭に閉じ込めようとする夫に反発する。 そしてこのサブテーマが本書の核を成す事件と密接に結びつくのがこのシリーズの、いやレンデルの構成の妙だ。 今や自立する女性が当たり前になり、結婚適齢期が20代の前半から後半、そして30歳でも独身で社会の一線で活躍する女性が普通である昨今を鑑みると、現代の風潮が生まれる黎明期の時代に本書が書かれたことが判る。男が働き、女が家を守る。当たり前とされていた価値観が変革しようとしつつある時代においてレンデルは昔ながらの夫婦であるウェクスフォード夫妻と現代的な考えに拘泥する彼の長女夫婦の軋轢を通じて時代を活写する。未だに解決しないこの男女雇用、機会均等の問題を上手くミステリに絡めるレンデルの手腕に感嘆せざるを得ない。 しかし『乙女の悲劇』とはよく名付けたものだ。この一見何の衒いもないシンプルな題名こそ本書の本質を突いているといっていいだろう。報われない若い時代を過ごした女性の悲劇。愛した相手によって人生を狂わされた女性の悲劇。図らずも産んだ子が不具だったために毎晩酒を飲むことで紛らせている女性の悲劇。さらに自立した女性を目指すも結局家庭に収まることを選んだシルヴィアもまた一種の悲劇となるのだろうか。私はそれもまた幸せの一つの形だといいたいのだが。 50歳の無器量な女性の変死体から濃厚な人生の皮肉を描いてみせ、更には女性の社会進出という普遍的なテーマを見事に1人の女性の悲劇へと結び付けたレンデルの筆の冴えを今回も堪能した。 |