人並由真さんの登録情報 | |
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平均点:6.33点 | 書評数:2111件 |
No.591 | 6点 | 殺意の設計 西村京太郎 |
(2019/07/08 03:04登録) (ネタバレなし) 世評の高い31歳の新鋭画家・田島幸平。その妻で27歳の麻里子は、匿名の密告状を契機に、夫が20歳の美人モデル・桑原ユミと浮気している秘密を知った。親族がいない麻里子は、仙台在住の旅館の若主人・井関一彦を手紙で東京に呼び出し、苦しい胸の内を打ち明ける。井関は幸平の親友で、かつては東京で同じように画家を志した身であり、そして麻里子と幸平と三角関係にあった。麻里子の訴えを聞いた井関は幸平とも対面し、良い結果を求めて尽力するが、やがてある夜、田島家の中で突然の死が……。 作者の(比較的)初期長編。 途中で、いかにも、これ見よがしっぽい仕掛けが覗くので、この時期の西村作品はこんなレベルで読者を引っかけようとしていたのか? と一瞬興が醒めた。しかしそのまま読み進めると、作者はしっかりと物語のその奥まで読み手に晒し、そんな上でさらに謎解きミステリとしての興味を煽ってくる。 安易にプロの作家を舐めてはいけないと、少し反省。 とはいえ事実上、物語の中盤には、犯人は絞られてしまうのでフーダニットとしてはそこで崩壊。あとに残る最大の興味は、動機の謎のホワイダニットとなる。 それでこちら読者としてもミステリファンの欲目があるので、ここはひとつ連城の「花葬シリーズ」レベルのスゴイのが来ればいいな、と期待したが、残念ながら結末は意外に地味な感じであった。 ただし容疑者が中盤で狭まった分、探偵役である警視庁の矢部警部補(十津川シリーズや左文字シリーズにも客演する、作者の地味な? レギュラーキャラクター)と犯人役の対決の構図は際立ったけれど。 それでも犯罪計画の組み立てを暴いていく流れは全体的に丁寧で、その辺は好感。物語の後半、脇役として登場して矢部警部補を支援する雑誌ライター(記者)・伊集院晋吉の妙に人間臭いキャラクターも、ちょっと印象に残る。 西村作品の初期の単発ものには結構面白いものがあるので期待したのだが、これはそこまでの思いには応えてくれなかったものの、それなりには楽しめた一冊であった。佳作。 |
No.590 | 5点 | 危険な女に背を向けろ 生島治郎 |
(2019/07/07 16:08登録) (ネタバレなし) クライムものや捜査ものなどのノンシリーズ作品、それもショートショートでも中編でもない、まさに「短編」という長さの作品ばかりを11本集めた一冊。たぶん作者が当時の「小説推理」とかあちこちの中間小説誌とかに書いた(一部書き飛ばした)作品を集成したものであろう。 基本的にオチをつけてまとめる作品が主体だが、早々に結末が読めてしまうものもいくつかあり、はは、昭和っぽいこの種のライトミステリの、のんきな作風だね、という感じでほぼ一色。 異色? なのは巻末の自伝風作品『浪漫渡世』で、これは作者がかつて早川書房に入社し、日本版EQMMの二代目編集長に就任した際の回顧譚。実在人物は変名で登場するが、世代人ミステリファンなら大方の見当はつくはず。生島から見た先輩・田村隆一への深い敬愛と親愛の念、早川清への悪態(? 笑)、日本ミステリオヲタクの先駆・田中潤司へのなんともいえない視線など、それぞれ興味深いし楽しい。 |
No.589 | 6点 | ファラオ発掘 ジョン・ラング |
(2019/07/07 15:36登録) (ネタバレなし) シカゴ大学に在籍の考古学助教授で、41歳になるハロルド・バ―ナビーは、古代パピルスを独自に解読。定説となっている学識が誤りで、実はまだ未発見のかなり大規模なファラオの古墳がエジプトの砂漠のとある地域内に確実に埋もれていると探り当てる。新発見を大学に正直に申告しても正教授の待遇を得るのみで、さらに自分を社交性もない本の虫と蔑んだ大学の名をあげるばかりと思ったバーナビーは、独自に非公式な発掘チームを組織し、本来はエジプト政府の国庫に入るべき古墳内の財宝を盗掘する計画を企てた。スカウトしたル青年ポライターのロバート・ピアスが人脈を駆使し、スポンサーとなる好事家の大富豪、プロの盗賊、さらには考古学を少しは齧った肉体派の男……たちのチームが編成され、古墳の秘密の捜索が開始される。だが作業は随時エジプト公営博物館の遺物局の査察を受け、チームは金銭的な価値のないあくまで学術的な探求を装いながら発掘を続けるが……。 1968年のアメリカ作品。マイクル(マイケル)・クライトンがジョン・ラング名義で書いた初期の長編(これとジェフリイ・ハドスン名義で執筆のあの『緊急の場合は』が68年作品で、どちらかが通算3冊目でまた4冊目)。ラング名義の作品としては3冊目にあたる。 評者が以前に読んだラング名義の作品では初期の某長編がとんでもないボルテージのセックス描写のポルノ・ミステリーだったので、今回もそういうのを少なからず期待したが(笑)、意外にも本作では実質的な主人公となるピアスとスポンサーの大富豪グローバー卿の秘書リザ・バレットとの間に芽生える、昭和40~50年代の日本の少女漫画風の不器用な恋愛模様が描かれるだけ。 昭和の父親が女子中学生の娘に読ませても全然問題がないような内容で、その極端さに驚いた。クライトンってアメリカの笹沢佐保か。 クライトン名義の作品はA級ランクの重量級作品、ラング名義のものは軽スリラーといった認識が自分をふくめて一般的にあると思うが、少なくともこれはそれなりにエンターテインメントとしての読みごたえがあった。 エジプト現地の観光的な描写、かなり資料を読み込んだのであろう考古学的な蘊蓄(21世紀現在の時点でいまもどれくらい正確で的確な叙述かはわからないが)、そして犯罪・ミステリ的な要素はほとんどうっちゃって(物語の主な事件的な要素といえば、主人公チームがエジプト政府の目を欺いて盗掘することくらい)ひたすら発掘の作業を丁寧に描くだけ……なのだが、これが実に面白い。クライトン(ラング)って、やっぱり本物の職人作家だったのだなあ、と改めて感入った。大きく四部に分かれた小説本文の筋立ても巧妙で、そこそこの長さの作品ながら中断できず、一気に一日で読み終えた。 主人公チームの挫けない奮闘ぶりは本気で応援したくなるのだが、一方で確かな犯罪でもあり、どう決着するか……はもちろんここでは言えないが、最後にはすごく気持ちよくページを閉じ終えられた。筆の達者な創作家が才気で書いた作品って必ずしもスキになれないこともよくあるが、今回の場合はその職人的な手際そのものにある種の感興を覚える。とてもよくできた、ちょっとハモンド・イネスみたいな作風に限りなく接近しながら、それでもギリギリの部分でどこか違う、どんな一冊。 |
No.588 | 5点 | 月光の大死角 志茂田景樹 |
(2019/07/06 14:02登録) (ネタバレなし) 蓼科高原で土建業、観光ホテル業、タクシー業を成功させて、個人の資産だけで100億円以上と噂される大実業家・岩本大作。彼は自分が率いる岩本財閥の威信を示すべく、蓼科高原に約24メートルの大観音像を新規建立した。そのお披露目の式典の前夜、大作は、若い愛人でもある秘書の香田やよいを観音像の内部の空洞にある展望台に誘う。だがそこに待っていた不審な男が大作を刺殺し、事態を驚きながら見守っていたやよいの前から犯人は消えた。さらにやよいが人を呼びに行って戻ってくると、いつのまにか部屋は施錠されている。しかもその中に大作の死体は無かった。鍵は厳重に管理された、密室状況の中での犯人の出現とそこからの逃亡、さらに死体の消失と、謎が謎を呼ぶ事件はさらに新たな展開へと……。 Twitterで話題のバカミス(抱腹絶倒のトリックらしい)ということで興味を惹かれて読んでみたが、う~ん……。個人的には、まあ、読んで騒ぎたくなる人がいるのはわかりますね、と冷めた頭で呟きたくなってしまいそうな、そんな仕掛けであった。 いや現実にそんなにうまくいくかどうかは別として、このアイデアというか力業の着想そのものは悪くないと思うんだけど、手掛かりの出し方やら読者側が抱く疑問の捌き方やらのミステリとしての演出が悉くヘタで、面白がるより先に、もったいないな……という気分が優先してしまった。 あと志茂田先生のミステリはこれで二冊目だが、話が途切れかけると新規の登場人物をぶっこんでいく(そのくせあまり、創造したキャラクターのアフターフォローもない~終盤の某登場人物の、彼氏が死んだあとの反応の薄さはなんなのだ)作劇も素人くさく、その流れで真犯人の設定もダメダメであった。かつて某英国の大作家が似たようなことをやっていたともいえるが、あっちは確信行為で放った変化球、こっちはただのダメミステリであろう。 まあ話のタネに読んでおくのはいいかも。 |
No.587 | 6点 | 箱の中の書類 ドロシー・L・セイヤーズ |
(2019/07/05 20:24登録) (ネタバレなし) 1928年9月のロンドン。中年の電気技師ジョージ・ハリソンとその年の離れた後妻マーガレットが暮らす共同住宅「ウィッテントン・テラス」は、若い2人の入居者を迎える。彼らは二十代半ばのハンサムな画家ハーウッド・レイザムと、その友人で三十代の初めの文筆家ジョン・マンティング。同じ部屋に暮らす二人組は、ハリソン夫妻や夫妻の雇う中年のメイド、アガサ・ミルサムとも日々顔を合わせるが、ある日思わぬセクハラ事件が生じて、その関係は破綻した。やがてそれぞれの生活を始めた面々だが、ウィッテントン・テラスの周辺である変死事件が勃発する。 1930年の英国作品。ウィムジー卿が登場しない唯一のセイヤーズの長編作品で、さらに原書などでは別の英国作家ロバート・ユ-スタス(ロバート・ユースティス表記もあり。(広義の)密室ものの古典名作短編『茶の葉』などで有名)との合作として表記される一編。ただし主筆はあくまでセイヤーズで、ユースタスは化学考証などの協力実務らしいと巻末の解説にはある。 小説全体の9割以上が主要登場人物(特にメインとなるのはマーガレットと、アガサ、それにジョージと前妻との間の息子で成人して別居しているポールなど数人)が特定の相手に書き送る書簡の形式で綴られ、そのスタイルはやはり(全編が)日記手記形式のコリンズの『月長石』などを思わせる。言うまでもないが、日本でも井上ひさしだの湊かなえだの、この手の手法の作品は少なくない。 なんとなく普通の小説と違う形質がシンドそうだなと読む前は思っていたが、実際に読むとまとまった情報を手紙の文面の中で消化しなければならないという前提がかえって物語のこなれを促進し、かなりリーダビリティの高い作品であった。 名探偵ウィムジー卿も不在で終盤の謎解きがいささか破格なため、ポケミスの裏表紙に書かれたジャンル分けではサスペンスに分類されているが、本質的にはフーダニットとハウダニットの興味が最後まで守り抜かれるパズラーの枠内の作品だろう。ただし前者の興味については、登場人物の少なさとその配置ポジションの関係もあってほとんど意外性はないが。 もう一方のハウダニットの求心力も21世紀の今ならなんとなくわかるものの、実際には20世紀序盤の専門的な? 化学知識で作者が読者を言いくるめた感じで、サプライズやロジックを含むミステリ的なセンスで上策かというと、あまりその意味でも良い点はやれない。 むしろ本作で感じ入ったのは、最後まで読んで物語の上の点と点を結んで見えてくる犯人のかなり独特なものの考え方で、これがなかなか印象深い(ちょっとフィルポッツの諸作に似通うものがある~ネタバレにはまったくなってないと思うけど)。 さらに言うならその犯人役と対峙する終盤の探偵? 役のポジションも中期以降の(探偵の方の)エラリイ・クイーンの葛藤みたいで、妙に心に染みた。本作の後半は、登場人物のひとり、ジム・ペリー司祭の言動を介して神学の主題にも接近するが、作品そのものと劇中の犯罪の構図にも神と人間の距離感の投影みたいな文芸が覗くような感触もあり、たぶんその辺もセイヤーズがこの作品で語りたかったことのひとつだろう。 シンプルにミステリとして読むといろいろアレなところもないではないが、小説としては普通にお腹がいっぱいになった。 なお208ページで「ベヴァリー・ニコルズ」の表記で、作中人物が話題にする作家として『消えた街頭』『ムーンフラワー』のビヴァリイ・ニコルズ(Beverley Nichols)のことが話題にのぼる。よく世代人ミステリファンの間で、未訳作品の発掘が望まれる作家ですな。 |
No.586 | 6点 | さらば友よ セバスチアン・ジャプリゾ |
(2019/07/05 19:05登録) (ネタバレなし) ある年の冬のパリ。外地の戦場から戻った職業軍医の美青年ディノ・バランは、中年の外人兵フランツ・プロップから次の仕事(戦場)に誘われるが、バランはそれを辞退。かなり無碍にあしらい、相手の不興を買う。そんなバランに接触したのは「モーツァルト」なる名前の軍医を探す妙齢の美女イザベル・モロオだった。イザベルと男女の仲になったバランは、彼女が元恋人で医者のモーツァルトを頼りにある犯罪行為を企てていることを知り、同じ医者の立場でその代役を買って出た。だが計画が決行されるクリスマスの時期、バランが狙うビルの地下、そこの金庫に大金があるという情報を得て強奪を図るプロップもたまたま現場に現れた。やがて成り行きから地下の密閉空間にいっしょに閉じ込められた二人は、いがみ合い、騙しあいながらも一応の協力体制を結ぶが、事態は二転三転の思わぬ展開を見せていく。 1968年のフランス作品。同年公開の同じ題名(邦題)のクライムサスペンス映画、その台本を著した(監督ジャン・エルマンと共同執筆)作者セバスチアン・ジャプリゾ(ポケミスは「セバスチャン」表記)が、シナリオを脱稿後(たぶん映画の撮影後)に書いた自家製ノベライズ。作者自身、この書籍は通常の小説ではなく、台本に毛が生えたようなものだという主旨の文言を巻頭の前説で述べているが、実際に大筋は映画とほとんど変わらない。 端役の登場人物が登場したり、情事のあと映画では服を着ている場面のヒロインがオールヌードで描かれるとか、いくつかの細部の違いはあるが(なお映画はアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンという当時の二大大物スターの共演が売りなため、地下の犯行現場の場面もほとんど常時、煌々と照らし出されて主役2人をカメラが映し続けるが、小説の方は緊迫感を煽る意味も込めてか照明の落ちた暗い現場の中で物語が継続する)。 もちろん小説版独自の読みどころとして、映画ではなかなか踏み込めない各登場人物たちの内面描写や各キャラの過去の文芸設定なども開陳されるが、これはまあ、この映画に思い入れたファンが公式設定を探る程度の興味として捉えればいいもののような。 ただラスト、映画本編のあとの時勢にあたる、小説独自に追加されたエピローグはちょっと驚いた。エルマン監督や主演の2人までこれと同じ意向で映画のラストシーンを撮り終えたのかどうかはもちろん知らないが、少なくともジャプリゾがこういうエピローグを想定してシナリオを書いていたのだとしたら、評者なんかが映画のラストを観て感じたクロージングの解釈も大幅に変わってしまう。自分はもっとあの最後の(中略)は(中略)なものだと思っていたので。そうなると結構(中略)だよね。 まあ映画を先に観ていなければ、読んでもあまり意味はない一冊かもしれない。逆に言えば映画を観てなんか引っかかった人は、一読してもいいかも(評者も今回、久々に映画本編を再見してから読んだ。もともと好きな映画だったけどね)。 なおAmazonの現状のデータでは翻訳書(ポケミス)は、なぜか1980年の刊行になってるが、実際には1969年5月に初版発売。 |
No.585 | 7点 | 蛾 ロザリンド・アッシュ |
(2019/07/03 20:26登録) (ネタバレなし) ロンドン周辺の田舎町サットンハムデン。当地の、数世紀前に建てられた屋敷「ダワー・ハウス」は、かつてゴールドスミスやボズウェルのような18世紀の大物作家、それに当時の美人女優サラ・ムーアなども滞在した由緒ある旧邸宅だったが、今は一般向けの賃貸物件となっていた。「私」こと経済学の大学研究員で独身のハリー・ハリスは同邸宅を借りようか検討するが、結局、たまたま同じ大学に新任教授として着任したばかりの40代のジェイムズ・ボイス博士と、その妻で30代初めの美人ネモジーニ(ネモ)に先に契約されてしまう。同じ物件を取り合った縁でボイス夫妻と友人になったハリーだが、いつしかその心は魅力的なネモへの劣情に傾いていった。だがそんな中、ハリーはくだんのダワー・ハウスに何か魔性のものが取り付いていることを察知する。それは美貌の若妻ネモの心身に憑依した、150年前の女優サラの死霊であった。 1976年の英国作品。サンリオSF文庫の中では<本書の巻末のあのトピックス>で頗る有名な一冊だが、評者がくだんの事実を初めて知ったのは確か1990年代の「本の雑誌」誌上の記事だったような。それから20年以上経ったいまではTwitterを初めとするwebのあちこちでもういいかげん耳タコのネタで、笑うのにもとっくに飽きた。じゃあ肝心の作品の中身の方はどうなんだ、と本文を読んでみた。 (なおこの本についてまったく初耳で、どこがどうヘンで笑えるのか興味がある人は「ロザリンド・アッシュ」「蛾」「川本三郎」とかのキーワードを並べてWEBを検索してみましょう)。 それで本作がオーソドックスなゴーストストーリーという情報は以前から見知っていたが、実際に読んでみても、いい感じに70年台っぽい当時のモダンホラー的な雰囲気に、正統派の幽霊屋敷譚が組み込まれた一編であった。巻末の訳者あとがきではデ・ラ・メアやM・R・ジェイムズの技法に倣い、といった趣旨の指摘が語られているが、評者はそちらの方にはあまり詳しくないので、何とも言えない。ただしまあ、古色豊かなゴシック・ロマンをモダンホラーに新生させるという狙いの上では、成功しているのではないか、と思う。 (ちなみに物故した女優の死霊が現世のメインヒロインに憑依してと言うと、まんまジャック・フィニイの『マリオンの壁』だが、もちろん向こうみたいなノスタルジア・ファンタジーの情感の類は皆無だ。好事家は、双方を読み比べても面白いかもしれない。) 前半、ハリーの前にサラの亡霊が初めて出現するここぞというタイミングの絶妙さ(地味で古い手法かもしれないが、それだけになかなかコワイ)も、後半、魔性のものが引き起こす連続殺人に地方警察の捜査陣が介入してくるローカル・ミステリ風の筋運びなどもそれぞれかなり手慣れた筆致で、最後までぐいぐい読ませる。主人公ハリー自身が(中略)叙述も、一人称という形式だからこそ、独特の効果をあげている。 なおダワー・ハウスにあだなす死霊サラの行動は、ネモへの憑依が主体だが、一方で相応に気まぐれにも見えなくもない。不条理な魔性のものだからこそ、呪いや悪行に何らかのロジックが覗いた方がかえって怖いのでは、と評者などは思うのだが、まあこの辺は感覚的なものかもしれない。冥界の死霊に行動の規範の類を求めても仕方がないだろうし。 ラストはやや唐突な感じだが、たぶんその展開はサラが(中略)という暗示であろうし、そう受け取るならじわじわ来る余韻がある。 英国産の70年代クラシック風モダンホラー&ゴーストストーリーとして佳作の上。 |
No.584 | 7点 | 鉄条網を越えてきた女 浦山翔 |
(2019/07/01 15:36登録) (ネタバレなし) 1984年8月10日。ニューオリンズで、ポーランド系ユダヤ人の老女コルク・ヘレナが68歳で病死した。小規模な実業家として成功したヘレナだったが、しかし彼女はそんな素性にしても尋常ではない250万ドル前後という莫大な遺産を遺しており、その内の150万ドルをアウシュビッツ博物館、そして残りの100万ドルを渋沢栄一の秘書だった日本人・黒岩喜一もしくはその遺族に贈与すると遺言状にあった。ヘレナの遺言を託された弁護士・細川悦造から故人の背後事情を調べてほしいと請われたのは、細川の友人で大新聞「全国日日新聞」の国際ドキュメント記事担当の記者・清瀬徹準。清瀬は上司の了解のもとに会社の機動力を使い、自らも欧州に赴いて調査を進めるが、それと前後してヘレナの部屋からは、ヨゼフ・メンゲレほかナチス党員への復讐・殺人計画のメモが見つかった。やがてそのメモに名前の書かれていた元SS党員が本当に最近、死亡している事実が明らかになる。 第6回(1986年度)横溝正史賞の佳作入賞作品(同年の本賞は、服部まゆみの『時のアラベスク』)。 第二次大戦時のナチスの非道告発、さらにはロシア革命時の戦災孤児たちの逸話にまで遡る現代史ミステリで、主人公・清瀬が物語のキーパーソンであるヘレナの過去の軌跡を追うのと並行して、変死? した二人の元SS隊員の謎、さらには分不相応すぎる巨額の遺産の謎という現在形のミステリ要素がストーリーに絡んでくる。 推理要素はあまりなく、主人公の綿密な調査のなかで現代史の悲劇、そして同一人物でありながら人生のある局面においては時には神、時には悪魔にもなる人間の恐ろしさと悲しさが浮かび上がってくる筋立て。それでも最後にはちゃんと事件の真相が暴かれる流れではあり、その辺はぎりぎり殺人が主題のミステリらしい。 本作の特筆事項は、あの杉原千畝の晩年にきちんとご本人に取材した作品ということ。おそらく本書の執筆中にご当人が亡くなっている(1986年7月31日)タイミングだから、ミステリ分野ではその意味でも、かなり稀少な一冊となろう。ご当人も奥様ともども「杉山千里」(とその夫人)という名前で劇中に登場し、主人公の清瀬に情報を与えている。 なお、本書刊行時の読者との仲介を果たすため、主人公が無知になるのは便宜的に仕方がないのだが、2010年代の今なら小学生でもその名を知っている現代史の偉人・杉原千畝の名前を、海外記事担当の全国紙の中堅記者が対面するまでほぼ知らなかった、というのは……時代である。 情報量の多い物語を捌くため、話が潤滑に進みすぎることに若干の違和感もないではないが、その分、さすがにリーダビリティは高く、一息に読める。 分類すればガーヴの『ヒルダ』や湊かなえの『リバース』のような、冒頭の物語開幕の時点でキーパーソンがすでに死んでいる<故人もの>ということになろうが、その辺の切り口から賞味しても悪くはない。 (ただ、ちょっと小うるさいことを言えば、某キャラクターの行動というか決定で、作者も主人公も何も言わず看過したまま終わっちゃう部分で、これはどうなんだろう…という所も一か所、あるのだが…。) 作者はミステリは結局この一本だけしか残さなかったようだが、先に書いた<80年代における、杉原千畝という偉人の功績の受容史、そのひとつの資料>という面も含めて、古本屋とかで安く買えたら購入しておいてもいいかも。 |
No.583 | 7点 | わが名はユダ E・R・ジョンスン |
(2019/06/29 03:51登録) (ネタバレなし) 「おれ」ことジェリコ・ジョーンズは自分の情婦を寝取った弟分を処罰し、その結果5年間の刑に服して釈放された男。だが当年34歳のジョーンズの正体は「ユダ」と呼ばれるマフィアの殺し屋で、当局は現在もなおその事実を知らなかった。つい今しがた自由の身になったばかりのユダは、余命ひと月の重病であるマフィアの老ボス、トニー・カンドリに呼び出され、ある用向きを頼まれる。それは縄張り争いで揉めている町カンザス・シティで、少し前に行方不明になったカンドリの息子の若きマフィア、ジョニーの捜索だった。先に同じ町でユダの幼なじみブラッキー・ショウが何者かに殺されたこともあり、ユダはそちらの調査もかねてカンザス・シティに乗り込む。そこで彼を待っていたのは、硝煙と裏切りの連続だった。 1971年のアメリカ作品。作者E・R・ジョンスンは1937年生まれ。27歳の時に殺人強盗(第一級殺人罪)で懲役40年の刑罰を受けながら、獄中で小説を執筆。1968年の処女作『シルバー・ストリート』が同年度のMWA新人賞に輝いた。日本でも数冊の翻訳があるが、当人は60歳ですでに逝去している(釈放後の死亡が獄死かは、英語wikiを読んでも読み切れなかった)。いずれにしろ相応の服役歴のあるチェスター・ハイムズやジョセ・ジョバンニを上回る、異色の経歴の作家だったことは間違いない。 それで本作の設定&ジャンル分類はノワールもので間違いないのだが、筋立てそのものは(巻末の訳者あとがきで翻訳担当の隅田たけ子が語る通り)カンザス・シティに乗り込んだ一人称視点のユダが、行方不明の青年ジョニーの行動の軌跡を探り、関係者から情報を得ていく正にハードボイルド私立探偵小説の定石。アクションやサスペンスも相応にあるが、全体的に良い意味で地に足のついた作風である。 この物語の流れに加えて、そもそも主人公自体が暗黒街や地元の警察にとって危険度100%の存在なので、本編の流れには常に一定の緊張感が宿っている。ドライで抑制の効いた文体も、物語が安い情感に流れそうなところで随時手綱を引き締め、ノワール・ハードボイルドとして実にいい味を出している。特に主人公ユダと、彼が成り行きから窮地を救うことになった売春婦の娘コニー・ハントとの距離感は鮮烈な印象を残した。 ミステリとしての決着も練られたものであり、終盤のツイストが鮮やかに決まっている。 必ずしも敷居の低い作品ではないが、小説を読む楽しみを改めて実感させ、翻訳ミステリファンとしても二年に一冊くらいはこういう長編に触れておきたいと思うような、そんな秀作。この作者のほかの翻訳作品も、そのうち手にとってみたい。 |
No.582 | 6点 | ちょっと一杯のはずだったのに 志駕晃 |
(2019/06/28 02:28登録) (ネタバレなし) 累計1000万部に及ぶ大人気ミステリ漫画「名探偵・西園寺沙也加の事件簿」の作者で36歳の美女・西園寺沙也加(本名・西山紗綾)が、秋葉原のマンションの自室で半裸状態の絞殺死体で発見される。沙也加はしばらく前から秋葉原のFMラジオ番組でパーソナリティを務めてそちら方面でも人気を呼び、そんな彼女は同番組のディレクターで7歳年下の矢嶋直弥とひそかな恋人関係にあった。しかも事件現場は密室であり、警察は死体の第一発見者でもあった矢嶋に嫌疑をかける。そして当の矢嶋は酒に酔うと記憶を失う傾向にあり、もしかしたら自分が本当に何らかの弾みで恋人を殺し、その際の記憶を失っているのでは……と案じ始めるが。 現在もニッポン放送に勤務の作者が見知った業界を舞台に著した、かなりフツーのフーダニット&ハウダニット・パズラー。 ちなみに本書の裏表紙には真相にたどり着けない警察が、主人公の矢嶋に無理矢理殺人事件の謎を解けと強要するブラックコメディミステリっぽい筋立てのように書いてあるが、これは盛りすぎ。そういうニュアンスが100%皆無とは言わないが、実際には本作の警察はそこまで無責任でアホな態度に出てはいない。たぶんこのあらすじ、出版社の編集が強権で勝手に(?)センセーショナルさを狙って、書いたんだろうね? 本当に全体的に、昭和の二線級パズラーっぽい作品で、嫌疑をかけられた矢嶋に脇キャラの弁護士たちが種々のアドバイスを与え、読者が読んでタメになるような蘊蓄っぽい法律トリヴィアで尺を稼ぐあたりなど、ああ……いかにも昭和40年代っぽい大衆ミステリだなと、ある種の感慨を覚える(笑)。 そういう意味じゃ決して21世紀の謎解きミステリのAクラス群には入りそうもない作品ではあるが、作者としてはたぶん本気でマジメに練ったのであろう(中略)系の密室トリックとかはすごく微笑ましい、妙に心地よい。 なんか藤村正太とか西東登とかあの辺の、今は大半のミステリファンに忘れ去られた(でも一部の好事家に愛される)Bクラスの昭和乱歩賞作家の隠れた佳作という感じである(と言いつつ、藤村作品も西東作品もまだまだ未読多いです。すみません~汗~)。 いや決して馬鹿にするんじゃなく心からマジメに、たまにはこーゆーふた昔、三昔前みたいな昭和風のパズラーっていいな、という正直な感慨なのだ。 クライマックスの謎解きの演出も、最後の小説のまとめ方もどっか田舎くさいんだけど、とにもかくにも読者を饗応するアイデアを盛り込もうという純朴なサービス精神がふんだんに感じられてスキ。 なんにしろ『スマホ』の作者が、次にこういう埃臭く、かつ真っ直ぐな球を放ってくるとは、思わなかった。 チラチラ気にかけていれば、それなりに楽しいものを今後も書いてくれるかもしれないので、これからもそっとマークしていこう。 |
No.581 | 6点 | 地獄の扉を打ち破れ E・S・ガードナー |
(2019/06/27 19:38登録) (ネタバレなし) メイスンがデビューする『ビロードの爪』(1933年)の前年、1932年に「ブラック・マスク」に掲載されたガードナーの当時のシリーズキャラクターものの5編を集めた中短編集。ミステリデータサイト「aga-search」の情報によると、日本独自に編纂・集成した一冊らしい。 収録作は ①「あらごと」(幻の怪盗エド・ジェンキンスもの) ②「ブラック・アンド・ホワイト」(同) ③「二本の足で立て」(秘密機関員ボブ・ラーキンもの) ④「浄い金」(青年弁護士ケン・コーニング&秘書ヘレン・ヴェイルもの) ⑤「地獄の扉を打ち破れ」(同) ①と②は完全な正編&続編の姉妹編。ガードナーのストーリーテラーぶりが短い紙幅の中でも十全に発揮された作品で、特に②の方は通例の義賊ものというかプロフェッショナルによる悪党を罠にはめる作戦ものならモブキャラに終りそうなある種の登場人物を物語の表に出し、ひねった筋立てに仕上げた秀作。前身である犯罪者からの精神的な脱却を望みながら、悪党相手には縦横無尽の機動力を出し惜しみしないジェンキンスのキャラクターもいい。 ③は①②同様、一人称の「わたし」で物語が開幕するが、先の説明通り、主人公は別のキャラクターに交代。物語の場も変っているのだが、読む際にその辺の頭の切り替えがしにくくて面白がるペースを掴み損ねた(涙)。④⑤のコーニングものが三人称なので、収録の順番はこの③を一番最後にしてほしかった。最後のオチを読むと、これがこのラーキンものの第一弾だったのかな? ④⑤の主人公コンビは本書の裏表紙などでは、メイスン&デラの前身キャラクターという触れ込みで紹介されているが、評者がここしばらくメイスンものを読んでいないこともあるせいか、とても新鮮な感じで面白かった。特にヘレンのおきゃん(死語か?)なヒロインぶりは、評者がアメリカンミステリの秘書キャラクターに求める魅力が炸裂で、すごく楽しい(笑)。このコンビの未訳の事件簿がもしまだ残っていたら、どんどん訳してほしい。それで⑤の方の、夫のために自分を有罪にしてほしいと願い出てくる依頼人から始まる筋運びは、たしかにメイスンものの先駆っぽいぞ。なおフーダニットのミステリとしてはそれなりに意外な設定の犯人だと思うが、犯行の流れにひとつふたつ疑問が残らないでもないが。あと⑤の事件の内容そのものは、邦題ほど強烈で大袈裟なものではないと思うけど(笑)。 なお本書は表紙周りや奥付を見る限り、全部が井上一夫の翻訳のようだが、④のみ実際には平出禾の訳文(本文の最後に小さくそう表記してある)。 んー、ガードナーのシリーズキャラクターものの短編集、今からでも何冊かまとめて発掘刊行されてもいいんじゃないかな。翻訳権ももしかしたらもうフリーになってるかもしれないし。 (もともとの掲載誌が同じだかバラバラだかのどっちかで、翻訳権上の制約がかかるんだっけ。) |
No.580 | 4点 | 歌と死と空 大岡昇平 |
(2019/06/27 18:04登録) (ネタバレなし) 昭和35年7月18日。27歳の中堅流行歌手の有本晶子(しなこ)が、睡眠薬を呑んで死亡した。過去にヒット曲を続発した晶子だが、最近は活躍の場も減り、人気の衰えを悲観しての自殺と思われた。だがそれからちょうどひと月後の8月18日、さらにまた9月18日。晶子と関わりのあった芸能界の関係者が相次いで殺される。そしてその殺害現場の周辺では、晶子の特徴のある歌声が流れていた……。 作者の処女ミステリ長編『夜の触手』に続く長編推理小説第二弾で、新聞小説として連載されたのち、カッパ・ノベルスで書籍化された。 私事になるが、実はこのカッパ・ノベルス版、今は亡き父親の蔵書にあった思い出があり、今回もそれゆえAmazonでこの元版の古書を入手して読んだ。題名自体もなんか昔からロマンチックな感じであり、いろんな意味で相応になんとなく思い入れのあった作品なのだが……うーん、ダメでしたな。 虚飾にまみれた芸能界を舞台に、ウールリッチの二大傑作『黒衣の花嫁』『喪服のランデヴー』を思わせるような連続復讐譚の枠組みの中でフーダニットが進行する……と書けば、まあその趣向自体にウソはなく、すごく面白そうなんだけど、感情移入できる主人公が最後まで不在なくせに、多数の登場人物の叙述は散漫(人格的にいやらしい人間が多い上に、描写上のカメラも悪い意味ですごく奔放に切り替わる)。読みにくいことこの上無かった。 それで最後に明かされる真相&物語の結末も、いや、通例ならばそういう事態に至る前に、もう少し警察はまともに動くでしょ? 少なくとも捜査線上に名前の挙がっている関係者の面通しの類くらい、何かしらの形でやるよね? という疑問が生じたのだが、その辺にまるで応えていない。 読者は作者の並べた作中の現実の事象のこまぎれに付き合わされ、最後に実はこんな真相だった、と語られるだけだった。これでは良い評価はあげられないだろう。 あと、毎回の殺人の現場に犯人が持ち込んだあるガジェットがあまりにチープ。こんなものを事件の関係者の側に持って行って、張り込んでいる警察の捜査陣から職質でも受ければ一発で犯行が露見してしまうと思うのだが、これはそういう危機感以前の問題のような。 昭和の読み物文化としては、読者のみなさんの憧れる芸能界は実は汚濁にまみれた世界で、女性歌手は枕営業と足の引っ張り合いにかまけ、歌番組やレコード業界の裏方はオンナのつまみ食いと収賄を当たり前にやってるんだと告発小説を書いて、それでことが済んだのかもしれないけど、とても21世紀に残る作品ではなかった。カッパ・ノベルスの裏表紙の結城昌治の推薦文の一節「警察の捜査活動や歌謡曲界の内情なども綿密に調べてあって」というのもどこかむなしい。 まあ昭和30年代の風俗描写の数々だけは、それなりに楽しかったけれど。 |
No.579 | 6点 | 罪ある傍観者 ウェイド・ミラー |
(2019/06/26 19:34登録) (ネタバレなし) 1946年2月4日の夕方。元警官で私立探偵の経歴もあったが、今はサンディエゴの安宿「ブリッジウェイ・ホテル」で常勤のホテル探偵として働くマックス・サーズディは、4年前に別れた妻ジョージアの突然の訪問を受ける。ジョージアはサーズディとの間にできた息子トミーを連れて開業医のホーマー・メイスと3年前に再婚していたが、そのホーマーが学会に出かけて留守の間に、何者かが当年5歳のトミーを誘拐したのだ。犯人は、追って連絡する、警察には知らせるなとの書き置きのみを残していた。夫ホーマーに連絡が取れないジョージアは、困り果てたあげくに前夫のサーズディを頼ってきたのだ。現在のメイス家は医者と言っても、共同経営者と診療所を開業したばかりで貯金もない。となると謎の犯人の狙いは、何かホーマーの握る情報か? あるいは彼の沈黙か? サーズディは窮地の息子を救うため、メイス家の周辺を調べはじめ、同時に、ブリッジウェイホテルの支配人で地元の裏社会にも通じた老女スミティからも情報を求める。だが事件はトミーの安否とはまた別の所で、予想もしない連続殺人へと発展していった。 1947年のアメリカ作品。1950年代から日本版「マンハント」の紹介記事などで、その活躍のみ日本のミステリファンに知られながら、実際の翻訳書の刊行は1985年の本書まで待たされた、合作作家(後年に相棒の片方が逝去し、単独で活動)ウェイド・ミラーによる私立探偵マックス・サーズディもののシリーズ第一弾(なおサーズディものの長編は、これ以外に一本だけ「別冊宝石」に一挙掲載の形で先行して邦訳がある)。 ちなみにウェイド・ミラーの別名義が、数冊の警察小説ジャンルの翻訳があるホイット・マスタースン(マスターソン)なのも世代人ファンには有名。 評者は今回、本書巻末の小鷹信光の解説を読んではじめて(あるいは改めて) ①マックス・サーズディものの長編は全部で6作あること(つまりそのうちの二作のみ既訳)。 ②ただしその6長編は、さらに大きな枠組みのシリーズ「サンディエゴシリーズ」全7作の真部分集合的な括りであり、第一作目にはサーズディが未登場。この第二作『罪ある傍観者』から彼がシリーズの柱になったこと(要はガボリオのルコックみたいなものだな~厳密には向こうは、脇役から主役化だけど)。 ③サーズディのシリーズは単にエピソードの数を重ねていく事件簿の形式に止まらず、サブキャラクターとの絡みなどにおいてある種のシリーズ構成的な仕掛けがあったらしいこと。 ……などなどの情報を知る。特に3の要素は面白そうだが、ナンにしろ翻訳の数が少なすぎるので、その妙味を十全に知ることができないのは実に残念。 ただまあ、実はそんなサーズディシリーズの完結編である第6本目が、先に書いた、別冊宝石に翻訳掲載された長編『射殺せよ!』であり、つまりコレは読もうと思えば日本語でいつでも読める(評者も本は確実に持ってはいるので、そのうち読んでみよう)。 それで話を戻して本書『罪ある傍観者』のレビューというか感想だが、作者ミラーのコンビの目線はミステリの創作者としてはそれなりに高い位置にあり、主人公の探偵の息子がさらわれたサスペンスに物語の焦点を絞るかと思いきや、そちらはそちらでもちろん重大な災厄として主人公にも読者にも意識させつつ、その傍らで浮かび上がってきた別の事件の方にストーリーの軸足を少しずつ移していく。このあたりの話の組立ては、なかなか良い。 犯罪にからむ登場人物のキャラクターがやや弱く、もうちょっと印象的に書き込んでればいいものを、と思う部分もないではないが、いつもの評者のように登場人物のメモを作りながら読めば特に大きな問題も無い。事件の構造のなかでそれなり以上に比重の大きいキャラクターの何人かが、サーズディと出会う前に死んでしまい、読者にも印象を残さない辺りはあまりよろしくないけれど。 ストーリーはテンポ良く進み、中盤で、仕事を世話してもらっているスミティお婆ちゃんをワトスン役のように見据えながら、サーズディが自分が考えた事件についての推理を語り、整理していくのも、私立探偵小説の枠内で謎解きミステリとしての興味を求めたい作者の狙いに沿っている。 事件関係者とのディベートの中で、相手の思惟を自分の計算通りに操縦していく(悪事としてではなく、あくまで便宜的な意味でだが)サーズディのキャラクターのしたたかなたのもしさもいい (しかしサーズディの旧友である地元警察のクラップ警部補とか、本作の警察陣は本当に、サーズディに親身だわ。まあ実はこの人の方が、もともとのシリーズ第一作の主人公だったみたいだが)。 ただラストは……残念ながら、作者がこの作品を丁寧に、きちんとした謎解きもサプライズも設けたミステリにしようと務めた分だけ、却って、先が読めてしまった(汗・涙)。 50年代ハードボイルドの少なくない作品は実のところはた目には意外なほど、折り目正しい謎解き&フーダニットの興味を探っているので(その上で伏線が足りなかったり、ロジックが甘かったりすることもままあるが)、残りあと数十頁……この作品がきちんとミステリとして着地するには……というところでクライマックス以前に物語の底、作品の仕掛けが覗いてしまうことがあるが、今回は正にソレだった。実を言うと、この河出の「ザ・アメリカン・ハードボイルド」叢書の中には、他にもそういう作品が……(これはこれ以上言えない)。 とは言いながら、これはたぶん70年前のリアルタイムで読めばそれなりにインパクトのあった、よく出来た作品だったことも分かる気がする。ある意味ではあまりにも真っ当すぎて、純朴なミステリすぎて、今ではちょっとキツくなった……そんな種類の作品ではある。 そこで、さっきの話題「マックス・サーズディものは、シリーズ構成そのもので何らかの勝負をしていたらしい」に戻るのだが、もしかしたら作者のミラーたち自身も「私立探偵小説の枠内で、ミステリらしいミステリを書いていてもいつかはきつくなる、ならば……」と早くから気づいて、自作のシリーズ探偵の行方に何かしらの文芸性を与え、シリーズの流れに何らかのギミックを盛りこんだのか……とも仮想した。 もしも本当にそうならば、正にそういう作者の狙いこそをこちらもしっかりと実感してみたい、と思うんだけどね。 まずはそのうち、くだんのシリーズ最終作『射殺せよ!』を読もうか。 |
No.578 | 7点 | ポーラー・スター マーティン・クルーズ・スミス |
(2019/06/25 03:18登録) (ネタバレなし) 時はソ連国内にペレストロイカの新風が吹き始めた1980年代。シベリアとアラスカの間、ベーリング海峡からアリューシャン列島に及ぶ海域で、乗員300人弱のソ連の大型漁獲加工漁船ポーラ・スターは、米ソの合弁事業としてアメリカの小型トロール船二隻とともに長期漁業に従事していた。だがそんなある日、ポ-ラ・スター号の厨房係で、漁業計画に関わる三隻の漁船の乗員である複数の男性たちと肉体関係を持っていた若い娘ジーナ・パチアシュヴィーリの変死体が発見された。ポーラ・スター号の船長ヴィークトル・マルチューク、そして中央政府から派遣されていた政治士官のフェードル・ヴォロヴォーイ一等航海士は、形式的で作業現場の実状を無視したモスクワの干渉が及ぶ前に、この事件の真相を独自に明らかにしようと決定。捜査役を、魚の加工係である一人の中年男性に任せる。彼の名はアルカージ・レンコ。かつてモスクワ検事局(モスクワ警察)に籍を置きながら、さる事情から中央を追われて流浪の日々につき、いまはこの船上に生きる場を求めた男だった。 1989年のアメリカ作品。翻訳刊行時に日本でも話題を呼んだ大作『ゴーリキー・パーク』に続くアルカージ・レンコシリーズの第二作で、前作のラストで劇的な決着を迎えた彼がその後どうしてこのような境遇になったかは、本作中の回想シーンで語られる(前作を覚えてる人には、結構泣ける描写にもなっていると思う)。 物語の大半は、ポーラ・スター号を統括する面々から前歴を見込まれ、さらにアメリカ人相手の英会話も可能ということから特別の捜査権限を託されたアルカージ・レンコが被害者の周辺や事件現場を調べて廻る流れ。設定的には警察小説の変種のような感じだが、実際には主要登場人物と主人公とのマンツーマンの接触・対話を積み重ねていく私立探偵小説の趣に近い。 (なお本サイトでのジャンル登録は、一応の公的な捜査権限を与えられた捜査官という意味で「警察小説」に分類しておく。) 中盤になると何者かにアルカージが襲われる危機や、それなりに派手な窮地からの脱出劇もあるが、紙幅の割には筋運びはおおむね緩やか。それでも退屈しないでほぼ一気に読み終えられたのは、薄暗く、そして湿ったような乾いたような、北方漁業場の大型加工船内という舞台装置が、常に読む側に一定感の緊張を求めているからだった。 特に被害者ジーナの変死が殺人だと、船の乗員全員が容疑者となり、四ヶ月ぶりの内地への上陸がストップになる危険性も生じ、そんななかでアルカージに下手なことを言うなら殺してやる、という周囲の無言の圧力が高まっていく。この辺りのシチュエーションはめちゃくちゃテンションが高い。古今東西のミステリ史上でも最大級の逆境の中での捜査を強いられた、名探偵キャラクターのひとりではないだろうか。 ミステリとしてのストーリーはある種のホワイダニットを通じてフーダニットの謎解きに落ち着くが、作品そのもの、小説としての本当の読みどころは、事件の真相が割れたのちのクライマックス、アルカージと某主要キャラの対峙と、双方の思惟の決着にあるだろう。ネタバレになるのでここでの詳述はできないが、その該当キャラに作者なりの造形を盛り込んだ人間ドラマが実に印象深い。決めとなるシーンのビジュアルイメージはかなり鮮烈だ。 英語Wikipediaを見ると作者スミスは2019年の現在もまだ健在のようで、アルカージ・レンコシリーズもすでに原書で9作を数えているらしいが、日本ではこの後の第三作、第四作のみが既訳。このシリーズもおいおい読んでいこう。特に第三作はサワリを覗いただけで、なかなか面白そうだし。 |
No.577 | 6点 | 明日に別れの接吻を 笹沢左保 |
(2019/06/22 04:41登録) (ネタバレなし) 元・運輸省航空局の官吏・須賀原純は今から6年前、複数の仲間と組んで愛妻の麗子をレイプした不良大学生・西脇を、激昂の果てに殺してしまった事実があった。夫の殺人の2日後に麗子は自殺。状況を斟酌された須賀原は実刑3年、執行猶予5年の判決を受けた。麗子の実妹で、今は恋人関係になった美由紀の支援を受けながら、あと2週間ほどで執行猶予の期間が完了する須賀原。そんな彼を訪ねてきたのは、旧友の浦松周作だった。浦松は何者かを殺してしまったと告白し、須賀原にアリバイの偽証を願う。しかし今は警察沙汰を何よりも避けたい須賀原がその願いを拒否すると、浦松は須賀原の住むアパートの部屋~地上7階から身を投げて死んだ。浦松の死に引け目を感じた須賀原は、旧友が片言で語った殺人の事実を調べ、事件の真相を追おうと考える。だがそれは、場合によっては彼の執行猶予取り消しにも繋がるかもしれない、危険な行為でもあった。 作者の初期作品で、設定はサスペンス寄りだが、事件の概要が見えていくなかで次第にアリバイ崩しの謎解きものに接近していく。 それで肝心のアリバイトリックは、日本の国産ミステリ史上最高級に敷居の低いアイデアではないか!? と半ば呆れて半ば感心した。作者は60年代後半の狂乱の多作期のさなか、先にこのワンアイデアを思いついたのち、あとからミステリとしての結構を固めたんだろうと思うけれど、とにかく一度読んだら忘れることはあるまい。 あと、タイムサスペンス的な筋立てだからあんまり物語に停滞があると困るのはわかるけれど、捜査(調査)を続ける主人公の前であまりにもホイホイと都合良く物事に動きがあり、関係者が現れてくれる。これも気になった。 ただラストは泣ける。これまで読んだ笹沢長編作品では『裸の家族』と並ぶ泣かせの効いたクロージングで、あんまり悪い点はつけたくない。 ということでこの評点。 |
No.576 | 7点 | ハイ・シエラ W・R・バーネット |
(2019/06/22 04:15登録) (ネタバレなし~途中までは) 伝説のギャング、ジョニイ・デリンジャーの一味の若手として、無期懲役刑を受けていたロイ・アール。37歳になった彼は特赦で釈放されるが、実はそれはベテランの犯罪プランナー、ビッグ・マック・マガンのお膳立てによるものだった。金庫破りの大仕事を企むマックは、20代前半の強盗チームを指導・統率する役割にロイの技量と経験を必要としていた。ロイは、若者の強盗チームの中に若い美人娘=娼婦のマリイ・ガーソンがいることを仲間割れの火種にならないかと警戒するが、それでもマガンの依頼を受けて計画を進める。だがそんなロイは、貧しい元農場主の老人ジム・グッドヒュウとその一家と知り合い、そしてジムの美しい孫娘ヴェルマに心を惹かれてしまう。ロイは、足に障害があるヴェルマのためにマガンを通じて整形外科手術の心得がある人物ドック・ベントンを呼び、彼女の治療を図るが……。 1940年のアメリカ作品で、翌1941年にボガート主演で公開された映画『ハイ・シェラ(別題「終身犯の賭け」)』(映画の邦題は「~シェラ」表記)の原作でもある古典的ノワール小説の名作。作者バーネットは1929年の『リトル・シーザー』以降、20作近くの長編ミステリを上梓したが、本書はその代表作のひとつとして知られる。 評者は十年以上前に映画版は先に観ているが、クライマックスのシーンが印象的なほか、大筋は原作と同じようなものの、部分的に細部の描写の比重のかけ方が原作と違っていたような記憶しかない。そういう意味では大枠はほぼ知っていたものの、相応に新鮮な気持ちで今回楽しめた。 中年というにはまだ少し若いが、それなりにトウの立った犯罪者の主人公がかたぎの身障者の娘に肩入れし、力になってやろうとするというのは日本のヤクザ映画なんかにいかにもありそうな作劇で、それだけ書けばまんまヒギンズの『死にゆく者への祈り』だな、という王道パターンだが、本作の主人公ロイの方は100%無償の思いで若い娘ヴェルマに尽くそうと考えているわけではなく、もしそれが叶うなら年の相応に離れた彼女に自分が傾けた苦労や尽力のほども認めてもらい、恋人関係にも夫婦にもなりたいという正直な本音がある。 つまりロイは煩悩から身を引いた聖人的な主人公では決してなく、愛情の駆け引きとしての慈善をちゃんと計算に入れながら行動している。 人によってこういう主人公の心根をどう取るかはわからないが、個人的には嘘偽りのないきれい事抜きの本音だからこそ、そこが却ってリアルでいい。ドライかもしれないが、ある種の人間味があっていいとも思う。 ただし……。 (以下、しばらくネタバレ注意) 結局、若い美少女ヴェルマの障害を治してやって、そうやって愛情表現をしていれば、いずれ相手は自分になびくだろうと思っていたロイだが、実はヴェルマには故郷に同年代のかたぎの恋人がおり、ロイのことは良いお兄さん分くらいにしか思ってなかった。それで足を治してもらったのち、はっきりと正直にわたしはあなたのことをナンとも思ってなかったというヴェルマの言葉にロイはショックを受ける。 ……このへんがまあ、21世紀の小説として読むなら、そこまで尽くしても自分に鼻もひっかけてもくれない小娘になおも入れ込み続けるオトコ主人公の方が精神的に幼い、と評価されちゃう。読み手としてはあまりに不器用な恋愛観に不満を覚えてしまうのだが、その辺はまあ1940年作品のクラシック。 そもそももしかしたらこの作品『ハイ・シェラ』そのものが、のちに続くこの手の作品(ヤクザ者が堅気の娘に肩入れもの)のオリジンのひとつになった可能性もあるかもしれんし、物語の組み上げ方を責めるには及ばないんだけど、一方で今の目で見るとモヤモヤするのは事実。 まあその分、もう一人のヒロインのマリイの方が、ちゃんとメインヒロインとしての立ち位置を確保されるのだが、本当なら、そもそも相手のオンナの本質も前もって確認しようともせず、娼婦のズベ公(容姿も心根も可愛いけれど)よりも、堅気の美少女ってだけでヴェルマの方に目を向けてしまったロイが悪いという判定をダメ押しするばっかである。 まあ本作は小説としてもクライムミステリとしても、多彩な登場人物のからみ合い、良い意味でのお約束パターンの作劇の網羅、さらにはわずかな運命のボタンのかけ違いが重なって、その結果、事態が致命的に歪んでいくサスペンス……などなどで、21世紀の今読んでも充分に面白い作品ではあるのだけれど、一方でそういう主人公の三角関係? 的な部分で一種の古さを感じてしまったのも正直なところであった。 (ここでネタバレ注意は解除) 以前に『リトル・シーザー』も読んでしっかり楽しめたし(『アスファルト・ジャングル』は大昔に買った翻訳本が見つからない~涙~)、作者バーネットは筆力そのものは間違いなくありそうな書き手なので、他の作品が翻訳されればいくらでも読みたいとは思うんだけれど。 |
No.575 | 5点 | 三浦岬「民話」殺人事件 宮田一誠 |
(2019/06/17 18:27登録) (ネタバレなし) 神奈川県三浦半島の東端で、ある男性の腐乱死体が見つかる。死体は「阿川」と記された名刺を持っていたが、その素性は不明なまま日数が過ぎる。かたやこの事件を取材した地方新聞「神奈川新報」の28歳の記者・阿川肇は、くだんの死体がもしかしたら19年前に行方不明になった父・万平ではないかと疑念を抱く。二十数年前の阿川家にはある日突然、万平がいずこからか女児の赤ん坊を引き取り、小学生の肇はその子を義妹「すまる」として慈しんだ。だが後になると、そのすまるは、実は父がどこかから誘拐してきた子供ではないかと思い当たるフシがあった。さらに父の失踪の直前、すまるもまたどこかへといなくなり、万平は息子に、お前の妹すまるは死んだと無理矢理に納得させようとしていた。死体は父なのか? そして妹すまるは本当に死んでしまっているのか? 改めて過去から現在までの軌跡を追い掛ける肇の前に、神奈川県内での文化振興企画「かながわのむかしばなし50選」にからむ不正疑惑、さらには意外な昔日の悪事が浮かび上がってくる。 「書下ろし長編サスペンス推理」と銘打たれた社会派ミステリ。作者の宮田一誠は、第一回「幻影城」新人賞の小説部門にて、推薦新人枠で受賞した作家「宮田亜佐」の新たなペンネーム(ちなみにこの第1回目の佳作入選~小説デビュー~が、泡坂妻夫と田中文雄、宮田と同じもう一人の推薦新人が筑波耕一郎である)。 評者は宮田亜佐名義の唯一の長編『火の樹液』(1978年)はまだ未読だが、それからほぼ10年後に再デビューとなった本作の方を、興味が湧いて先に読んでみた。 タイトルだけ見るといかにも昭和の二線級パズラーっぽい作品のようだが、実際の内容は、ジャケットカバーの折り返しに「郷愁あふれる中に、権力の腐敗を鋭く抉った渾身の書下し長編」とある通り、むしろキーパーソンとなる行方不明の父・万平の過去にからむ神奈川政界の暗部、さらにはその周辺の文化組織や財界の腐り具合の方が主題。ぶっちゃけて言えば通俗の社会派ミステリで、民話(現代の創作民話)という物語モチーフもプロットに導入する狙いはわかるが、いまいち効果を上げてないのでは? という印象もある。 あと謎解き要素は実際にはほぼ皆無で、過去の悪事の真実は、悪人当人や犯罪関係者の回想や心情吐露を通じてどんどん明らかになっていく。ある意味で、探偵役目線での謎解きストーリーにこれだけまったく色目を使わない割り切り方はスゴイな、とも思った。 ただまあ、まったくダメダメ作品かというとそんなこともなく、悪役となる政界の大物(特に師弟関係の二人)の徹底したゲスっぷりは突き抜けた快感もある。背徳の欲望からのダマし合い、足の引っ張り合いのドラマはこれはこれで楽しく、タマにはこーゆーのも面白いな、という感じであった。 ネタのまとめ方はよくないし、生煮えの部分も多い作品なんだけど、ある種の熱量は感じられたのも事実。気が向いたら他の長編もいつか読んでみよう。 |
No.574 | 7点 | 海竜めざめる ジョン・ウインダム |
(2019/06/16 17:30登録) (ネタバレなし) 「私」こと英国の放送局EBC(BBCに非ズ)の若手契約スタッフ、マイク・ワトソン。彼は愛妻フィリスとの新婚旅行の船旅中、アフリカの洋上で5つかそれ以上の怪異な巨大な球体が天空から飛来し、海中に没するのを目撃する。ワトソンが客船の船長に目撃談を語ると、前年にも類例の事態が確認されていたことが判明。ワトソンは早速、EBCを通じてこのニュースを流すが、その報道は官民各所の関心を呼び、やがてこの最近、各地で不審な海難事故が生じていることも明らかになってくる。かくして海軍省ウィンタース大佐の支援体制のもと該当の海域への調査が行われるが、深海に沈めたバチスカーフ(本文中では「バチスコーフ」表記)は調査員を乗せたまま海中で消失。そして洋上の船とバチスカーフを連結するワイヤーは途中から、かみ切られたのでも引きちぎられたのでもなく、まるで超高温で溶解されたように丸くその端が溶けていた……! 1953年の英国作品。『トリフィドの日(トリフィド時代)』のウィンダムによる長編SF。 子供の頃はこの魅力的な邦題とそれっぽい英国版の原題(The Kraken Wakes)からガチで大型恐竜、またはクラーケンのような非常識なサイズの大怪獣が登場するのかと期待したが、実際の内容は当たらずとも遠からず……ではあった。 現実に書かれた時代がそうだから当たり前なんだけど、50年代SFモンスター映画の雰囲気が芳醇で、かつて中子真治の「フィルム・ファンタスティック―SF・F映画テレビ大鑑」全6巻のうち、真っ先に第2巻と第3巻にとびついた評者のような人間からすれば、ツボにはまりまくりの一冊であった(笑)。どのような怪獣SFになるかは、ネタバレになるからここでは書かないが。 主人公の夫婦コンビ視点から語られる、宇宙モンスターのために世界各地の日常が徐々に危ういものになっていく感覚が絶妙で、地球の危機に対応する学会のはみ出し者風の科学者ポッカー博士が、事態の推論に関してホームズとワトソンの逸話を引用するのも楽しい(主人公ワトソンが自分と同じ名前を思いがけないところで聞いたと、地の文でツッコミを入れるのも笑える)。 新古典クラシックSFとして、終盤に迎えるそれっぽい世界的なパースペクティヴも加速感があっていい。海洋国家だった英国への文明批評も程よいさじ加減で、品があってよろしい。 (まあ細かいことを言えば、後半、主人公たちの生活の基盤で、あの辺はどうなってたんだとか、いくつかツッコミたくなるところはあったけれど。) 物語の最後の着地点についてはもちろんここでは書かないが、個人的にはなかなか気持ちよく頁を閉じ終えられた。旧作なんだからクロージングはコレで良かったとは思う。(中略)について、妙な余韻が残るところも悪くない。 あとネタバレにならないように注意しながら書くけれど、ラストの展開は日本語で読めたことがとても幸福であった。Webを検索すると、21世紀にはどっかの日本の学者さんが、作者ウインダムが導入したこの設定について独自の考察をしてるみたいである。どっかでその論文、お目にかかる機会でもあればよいが。 |
No.573 | 7点 | 血まみれの鋏 ブルーノ・フィッシャー |
(2019/06/16 01:51登録) (ネタバレなし) アメリカはコネティカット州の一角、ジョーバーグの町。「私」こと、土地の化学製品会社「ジョーバーグ・プラスチック社」に勤務する青年科学技師レオ・エイキンは、自宅から妻のジュディスとその実姉で同居人でもあるポーラの姉妹が突然失踪? した事実に気づく。姉妹は以前はトップスターではないもののブロードウェイでも活躍した美人芸能人たちで、ともに悪女ではないが金遣いが荒く、レオに負担をかけていた。そんなこともあって近所の住人の中にはジュディスが金に渋い夫を見切り、他に男を作って逃げたのではと噂するものもいたが、姉ともどもの出奔というのは妙である。さらに現在、近所の病院には姉妹の母親がわりの叔母エドナが重病で入院しており、姉妹がその叔母を放っていなくなるというのもレオには考えられないことだった。そんな中、地元の警察署長モート・ミドルは、レオがどちらかの姉妹と共謀して一方を殺害、または彼が単独で姉妹の両方を殺したのでは? と不審を抱く。これと前後して病床の叔母エドナが見舞いにきたレオに告げた意外な事実、それはレオと結婚する前のジュディスが悪夢にうなされたことがあり、その際に彼女は、自分が鋏でどこかの男性を刺殺したとわめいたということだった!? 1948年のアメリカ作品。旧クライムクラブと並んで1950~60年代の創元の新世代ミステリ叢書の双璧だった「現代推理小説全集」の一冊。 個人的に同叢書は購読したまま、まだ未読の作品(のちに創元文庫で再刊されたものも含めて)がいっぱいあるので、まずは思いつきであんまりWebなどでのレビューを見かけない? この作品を読んでみた。 作者ブルーノ・フィッシャーは、日本では50~60年代に各翻訳ミステリ誌に中短編がそれなりに邦訳された雑種ジャンル系の作家(ハードボイルド、クライムストーリー、サスペンスほか)だが、長編の翻訳はこれの他には「別冊宝石」に訳載されたのが一つ二つしか無かったと思う。 評者も大昔に読んだフィッシャーの中短編の印象なんかすっかり薄れてるので、事実上、まったくの白紙でこの作者、作品はどんなかな(どんなだったかな)と思いながら手に取った。はたして個人的に、これはアタリ。結構面白かった。 主要人物の失踪から開幕するミステリなんか星の数ほどあるが、成人の姉妹(または兄弟)で同時にいなくなったという奇妙さをポイントとする作品は意外に少ないハズで、少なくとも評者はあんまり知見にない。 その後、妻と義姉の身を案じながら思いつく限りの関係者の間を訪ねてまわる主人公(一方で警察にも捜索は願い出ているが)の姿もリアルかつハイテンポに語られ、そんな描写のなかで少しずつ人間関係の微妙な綾が浮かんでくる作劇もこなれがよい。 やがて物語の舞台はジョーバーグの町と、姉妹がかつて活動していたニューヨーク周辺を行ったり来たりすることになるが、そんな叙述の積み重ねのなかで登場人物の数を増しながら、じわじわと事件の輪郭が見えてくる流れが快適である。うん、これはかなりよくできた職人作家によるサスペンススリラー。中盤である大きな事件が生じて物語に弾みがついたのち、後半に向かってストーリーはリズミカルに淀みなく流れ、終盤には二転三転の意外な展開を見せる。そしてその上で、準主要キャラともいえるサブキャラたち(特に……)の配置なども印象深い。クロージングの余韻もかなり気に入った。 実のところ、文庫にも入らなかった絶版系の「現代推理小説全集」といえばミステリマニアに白眉の評価? の『飛ばなかった男』とか、おなじみジョン・ロードの『吸殻とパナマ帽』あたりが人気で、正直、本書はマイナー作品だからちょっと面白ければいいや、くらいに期待値も低かったのだが、思いがけない拾いものであった。こーゆーことがあるから、蔵書の中から積ん読の旧作を発掘するのは楽しい(裏切られることもしょっちゅうあるけれど・苦笑)。 ちなみに巻末の植草甚一の解説を読むと、いかにも職人系の作家ということでアメリカ探偵文壇でもあんまり当時の話題にもなっていなかった作者フィッシャーだが、一部の作品には手持ちのレギュラー探偵(警察官)を活躍させていたり、はたまた『マルタの鷹』ライクといえる? 長編があったりと、けっこう幅広い多才な実績を誇っていたようだ。その辺の情報もこの現代推理小説全集のリアルタイム時点での話だから、のちに他界するまでさらに作品の数は増えていたんだろうなあ? 作品を一本読んで感心しただけで作家総体の才能を期待するのはナンではあるが、このレベルだったらもうちょっと日本語でも読んでみたい。 あー、とはいえ21世紀のこの世の中にブルーノ・フィッシャーの旧作の初訳が出る機会なんて、奇跡に近いだろうなあ(涙)。 |
No.572 | 6点 | 少女ノイズ 三雲岳斗 |
(2019/06/15 20:14登録) (ネタバレなし) 読む前はなんとなく長編作品かと思っていたが、実際には全5本の連作ミステリだったんだな。 第1話が王道ながら魅力的な謎の提示の割に真相が弱い(そういう誤認って、生じうるだろうか? 少なくとも謎解きミステリの文法のなかでやるべき説明ではないと思う)とか、第5話の謎解きは相応に特殊知識によっている……などの摩擦感はあるものの、平均的に良く出来た謎解きミステリセンスの高い一冊という印象は受けた。 特に第2~4話は、それぞれどっかしら初期の連城作品っぽい、捻った着想の妙を楽しめた。 ただまあ正直、連作全体の構造として、いびつなラブストーリーに仕立てなくても良かった気がする。最後はキレイにまとめてあるけれど、なんか全体的に本作のミステリとしての賞味部分と主人公コンビの恋愛部分とは、一定した距離の乖離感がつきまとった。 ヒロインが探偵役として最初から最後まで駆け抜けることにオルツィの『レディ・モリー』みたいなラブストーリーとしての意味性があればいいんだけれど(最終話だけはまあ、その意に沿っているとはいえるのだが)。 山田彩人の『少女は黄昏に住む』の主人公コンビの描写なんかに比べると、正に真逆の位相だよね。 ミステリとしては期待以上に面白かったが、その辺でちょっと減点してこの評点。 |