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ミステリの祭典

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平均点:6.35点 書評数:221件

プロフィール| 書評

No.81 4点 妖魔の哄笑
甲賀三郎
(2012/06/02 19:24登録)
日本図書センターの<甲賀三郎全集>第6巻です。表題長編のほか、短編一作を収録。

昭和六年から七年にかけて、『大阪時事新報』(デビュー前の江戸川乱歩=平井太郎が、いっとき勤務してましたね)に連載された『妖魔の哄笑』は、なんと、平成七年になって、春陽文庫の<探偵CLUB>の一冊として復刊されましたから、比較的、新しい世代のミステリ・ファンの目に触れる機会があったのではないでしょうか?
その当時、筆者の周囲では、意外に本作が好評だったのを覚えています。湊書房版の<全集>で読み、つまらなかった印象の強い筆者は、エーッという感じでしたがw

新潟行きの寝台急行が、軽井沢駅に停車する直前、そのトイレで、顔面を切り裂かれた男の死体が発見される。目撃されていた、怪しげな四本指の男が、富豪の実業家を殺して逃げ去ったのか?

という導入部のあと、事件に巻き込まれた石油会社の新人社員・土井を狂言回しに、軽井沢署の水松警部を探偵役にして、ストーリーは、東京、大阪と舞台を変えて目まぐるしく展開します。暗躍する謎の組織、出没するミステリアスな黒眼鏡の女――
波乱万丈で、退屈はしません。
しませんが・・・偶然を多用して、場当たり的に事件と謎をつるべ打ちする、甲賀長編の悪いところが、あからさまになってしまっています。
天然ボケのビッグ・マウス・獅子内俊次(『姿なき怪盗』『死頭蛾の恐怖』)のようなキャラが主役を張っていれば、そのあっぱれなMCぶりに、ご都合主義を突っ込みどころのネタにすることが出来るのですが(死体の身元に疑問があるなら、早く指紋くらい照合しろよ、とかねw)、マジメいっぽうで凡庸な、本作の土井、水松両名が相手では、そういう楽しみかたもできません。
めずらしく、江戸川乱歩ばりの猟奇犯罪(美女の解体)をあしらって、犯人像に凄みをもたせようとしていますが、それも、常識人の作者の人(にん)に合わず――ラストに明かされる、解体の必然性(?)も浮きまくって――無理したあげく亜流感をきわだたせる結果に終わっています。
サービス過剰の失敗作でしょう。

むしろ本書のオススメは――
妻殺しの嫌疑で逮捕・起訴された男が、証拠不充分で無罪判決を受け釈放されるが、やがて彼は意外な事実を知ることになる・・・
という、併録の短編「四次元の断面」(『新青年』昭和十一年四月号、掲載)ですね。
かなり大きな偶然が、事件の契機になっていても、ここではそれが、たくみに悲劇性に昇華されています。そして残る、シニカルな読後感。これは、甲賀の説く「ショート・ストーリイ」(探偵趣味を取入れた短い読物)の、見事な実践になっています。
あ、妙にSFっぽいタイトルですが、内容的には、物理も数学も無関係。これは、主人公の把握できない局面で、読者に明かされる残酷な真実、といった意味合いですかね? 相変わらず、タイトル・センスには疑問符の付く作者ですw

(付記)表題長編を対象として、「スリラー」に登録しました(2012・11・13)。


No.80 5点 アイ・コレクター
セバスチャン・フィツェック
(2012/05/27 12:50登録)
たまには新刊も読んでみようシリーズ――っていうか、別にまったく読んでないわけじゃないんですよ、新作ミステリ(取りあげないだけでw)。
それはさておき、この投稿直前に、kanamori さんの本書評があがっていて、いやもうビックリです。

母親を殺して子供を誘拐・監禁し、制限時間内に父親や警察が子供を発見できなければ、その子を殺して目を抉る――元警官の事件記者ツォルバッハは、そんな連続殺人犯「目の収集人」を追ううちに、奇妙な罠にからめとられ、彼自身が犯人と見なされ警察から追われる羽目になる。
彼は、「犯人を見た」という、盲目の女性物理療法師(その“特殊能力”の真偽は?)の協力を得て、無事に新たな被害者を救いだし、みずからの無実を証明することができるのか?

フィツェックは初見の作家ですが、章立てとページ数が、エピローグから序章へカウントダウンしていく(しかし作中時間は通常に進行。このギャップが意味するものは?)という、ケレン味ある趣向に惹かれて手に取りました。
現代ドイツ・ミステリとは如何なるものか? という興味もあったのですが・・・作風自体は、アメリカが舞台でも、フランスで書かれても、日本の新作であってもおかしくないような、良く言えばミステリのグローバル化を印象づけるものでした。
でも、そのグローバル化の要因を考えてみると、結局ハリウッド映画の影響じゃん(ドイツ作品の訳題が、英語のカタカナ表記“アイ・コレクター”ってのも、いかにもです)というあたりが、ちょっとねえ。
“ケレン味ある趣向”の意味するところは、最後の逆転劇をへて、いちおう了解できますし、偶然に頼り過ぎたプロットは相当に苦しいものの、仕掛け好きのミステリ・ファンなら話のタネに一読して損は無い、“2012年の翻訳ミステリの話題作”ではあります。

ただ。
ひとつ、小説技法上の、大きな疑問が残ります。
本作は、作の大半を占める、ツォルバッハの一人称記述と、監禁された子供や警察関係者等、他の登場人物の三人称(に近い神――作者――の)視点、そして犯人の作成したメールの文章、が混在したテクストで構成されています。
問題は、一人称パート。
「わたしは今ただちに忠告したい。このあとを読んではいけない」(エピローグ)とあるからには、これは彼の“意識”の流れでも、聞き手を前にした“語り”でもなく、“回想手記”としか考えられません。
いつ、何のために書いたのですか、ツォルバッハさん?(そしてもし、「あとになって(ずっとあとになって)」(p.27)事件を自分のためにまとめ直したのであれば、“あのあと”どうなったかまで、きちんと書くべきでしょう)
また、それがこうしてフィツェック氏の手によって(?)、本になった経緯は?

う~ん、この、なんとも釈然としない、消化不良的読後感は、続編(シリーズにするんかい、これ!?)を読むことで解消されるのでしょうか?


No.79 7点 紅はこべ
バロネス・オルツィ
(2012/05/26 21:39登録)
じつはこれまで、こんなの読んでませんでしたシリーズ(――って、続けるのか?)。
<隅の老人>連作でミステリ史に名を残す、オルツィ男爵夫人の表芸の、歴史ロマン(1905年刊)です。
この手のコスプレものは、概して最初とっつきにくく、敬遠してきたわけですが、いざ読んでみると、『ベルサイユのばら』世代の筆者には即O.K.の世界観でしたね(ちなみに本作も、宝塚で舞台化されています)。

1792年――フランス革命のさなか。
反逆者として次々に捕らえられ、ギロチンで処刑されていく貴族たち。
厳戒のなかで、彼らを助け出し、大胆な策略でイギリスに亡命させる、謎の組織――犯行声明書の花の紋章から、人呼んで<紅はこべ>――が出現する。
イギリス貴族たちの仕業と睨んだ共和政府は、<紅はこべ>探索のスパイとして、全権大使ショーヴランをかの地に派遣。
ショーヴランは、イギリス社交界の名花・マルグリート・ブレイクニー夫人――過去に面識があり、彼女の兄の致命的な秘密を握っていた――に接触し、彼女を手駒とする。
脅迫に屈したマルグリートによる、<紅はこべ>へのアプローチが始まった・・・

組織の首領の正体を探る、ミステリ的興趣の前段(フーダニットとしてはミエミエですがw)と、正体の割れた<紅はこべ>が、いかにしてショーヴランの罠をかいくぐり、目的を達成するかを描く、冒険小説的興趣の後段(といっても、活劇の要素はあまりなく、基本的に頭脳戦)から構成されています。
さながらヒロイン側から描くルパンもの、はたまた、仕掛けのある元祖ハーレクインロマンスといった味わいで、このお話の段取りがうまい。
クライマックスがやや盛り上がりに欠ける嫌いはありますが(ショーヴランとの決着がきっちり付いていないのは、続編への含みを持たせたか?)、最後に<紅はこべ>が置かれたトホホのシチュエーション、にもかかわらず問題はめでたく解決、というくだりには、ユーモラスな軽みがあって、筆者は好きですね(黒澤明監督の傑作映画『椿三十郎』を思い出しました)。

北上次郎氏は、その刺激的な『冒険小説論』のなかで本書を取りあげ、同じフランス革命を背景にした、ラファエル・サバチニの『スカラムーシュ』と対比させています。
そこでは、「旧世紀型の騎士道ヒーロー物語」にとどまる『紅はこべ』は、あまり高く評価されていません。要するに古いよと。
その文脈は理解できますが、しかし本作が、いっぽうで、能動的なヒロインに重点を置いた、オンナの冒険譚でもあるという、その新しさをまったく見ていないのは、片手落ちだと思います。

最後に。
今回、筆者が読んだのは、昭和三十年代の<世界大ロマン全集>を定本にした、創元推理文庫版(1990年2月2日 27版)ですが、その「訳者あとがき」(西村孝次)の駄目さ加減(これが不愉快で、採点を1点マイナスしました (>_<) )について、書いておきます。
データ面の古さについては目をつぶるとしても、“物語”を近代小説の下位に置くような筆致が鼻につき、断わりなしに<紅はこべ>の正体を割って、トクトクと読みどころを解説した気になる無神経さは、ダメな学者先生の文章の見本のようです。
「作者はこの小説の歓迎に応えて――というよりも、おそらくそれに釣られて――つぎつぎにフランス革命余聞とも呼ぶべき長編を書き続けた。いずれも一応の成績は収めたらしいが、どれも出来栄えはついにこの『紅はこべ』一編に及ばない」という決めつけも、外伝や短編集をのぞいても1ダースはくだらない、<紅はこべ>シリーズをどの程度読んでの評価なのか、他への言及がまったくないので、さっぱりわかりません。
翻訳自体は、まあ古風な味わいを出していて魅力が無いわけではありませんから、無理に改訳しろとは言いませんが、この「あとがき」だけは、きちんとした「解説」に差し替えるべきですよ、東京創元社さま。


No.78 6点 琥珀のパイプ
甲賀三郎
(2012/05/26 20:31登録)
日本図書センターの<甲賀三郎全集>第5巻です。収録作は――

①荒野の秘密 ②死頭蛾の恐怖 ③悪戯 ④古名刺奇譚 ⑤琥珀のパイプ ⑥ニッケルの文鎮

短めの長編(というか、原稿枚数300枚未満ですから、長めの中編というか)ふたつのあとに、初期短編を配していますが、この配列にあまり意味は無いのでw 発表順にコメントしていきます。

表題作⑤(『新青年』大正十三年六月号、掲載)は、理化学トリックと複数のプロットが、嵐の夜の放火&殺人事件のかげに交錯する、作者のスタンダードナンバー。類型を脱したストーリー構成――甲賀自身の“定石”の創造――は、本格短編というより、本格風味を利かせた奇談として成功しています。
ただし、以下の二つの理由から、この「琥珀のパイプ」を読むテクストとして、この<全集>版は推薦できません(>_<)

 1.「表形法」の暗号文を形成する、肝心の符号が載っていない!
 
 2.導入部が改変されている!
 今回、オヤッと思い、創元推理文庫『日本探偵小説全集1』所収の「琥珀のパイプ」と照合してみると――同文庫p.204の8行目~p.205の12行目までにあたる文章が削られ、前後の文章に修正が加えられていました。
登場人物の一人が軍備拡張論をとなえる個所なので、本書の定本となった湊書房版(昭和二十三年の刊行。日本がまだ、GHQの占領下にあったことに留意)の編集部が、作者の遺族と相談のうえ自粛したものと愚考しますが、そのために、削除部分で言及されていた、ある人物の家の紹介が唐突なものになっています。

さて、気を取りなおしてw
大正十五年/昭和元年の『新青年』一月号に発表された⑥は、⑤の延長線上の、理化学トリック+錯綜したプロットによる奇談路線。突っ込みどころは多々ありますが、小間使い(メイドです)の一人称を採用し、軽妙な語り口で複雑なストーリーを一気に読ませる、そのストーリーテリングは上々。筆者のお気に入りです。できれば本篇を読む前に、「母の秘密」(本全集第1巻、収録)に目を通しておければ吉ですね。

この「ニッケルの文鎮」とか、やはり同年の『新青年』四月号に載った、オチのある犯罪心理小説の③などをあらためて読むと、甲賀を人気作家に押し上げた原動力は、トリック云々ではなく、語り部としての才であったことが理解できます。
ただ、それこそ松本清張から島田荘司まで、ストーリーテラー型のミステリ作家にありがちな欠点として、ときに信じがたい、ご都合主義的“偶然”を駆使するのですね。
おかげで、シリアスな悲劇のはずの④(『大衆文芸』大正十五年六月号)などは、たび重なる運命のいたずらが、ただ作者の恣意にしか見えず失敗しています。

巻頭作の①は、昭和六年から七年にかけて、『料理の友』なる、おそらく女性誌に連載された(書誌データは、おなじみアイナット氏の好サイト「甲賀三郎の世界」によります)犯罪メロドラマ。○○が埋まっているはずの“荒野の秘密”(ヒーローとヒロインの恋の障害となる)をめぐって、最後にミステリ的どんでん返しはありますが、その真相と決着はあまりにイージー。ハッピーエンドならいいというものではありません。

昭和日報の熱血バカ、もといエース記者・獅子内俊次が、赤死病で帝都を震撼させる、殺人魔と対決する②(『日の出』昭和十年一月号~同年六月号)は、いちおう作者のスリラー系の代表作のひとつ・・・かな?
またぞろタイトルはピンボケだし(“死頭蛾”は事件と関係ないです、ハイ)、理化学トリックはトンデモの領域だし(有毒生物が巨大化すると、毒も「その割合で増」して致命的になるって・・・本当ですかw)するわけですが、獅子内ものには、全体に天然ボケの笑いどころがあり、出来はさておき、その点、筆者は嫌いにはなれません。バカミス愛好家は是非どうぞ。
ひとつだけ、マジなコメントをするなら――ラストがもったいない!
獅子内の活躍で、犯人は逮捕・起訴され、舞台を法廷に移すのですが、じつは物証が乏しく、この犯人、逃げ切ることに成功しかけます。それが、たったひとつのミスから・・・
という、その展開こそ、本作をミステリとして印象づける最大のポイントたりえたはずなのに、そこを駆け足でササッと流しているんだよなあ。
掲載誌が『新青年』だったら、そこに注力したかも。いや、檜舞台の『新青年』には、そもそもこんな話を載せようとは思わないか ^_^;

(付記)表題短編を対象として、基準を緩めて「本格」に登録しました(2012・11・13)。


No.77 7点 隅の老人の事件簿
バロネス・オルツィ
(2012/05/26 16:34登録)
20世紀初頭に、歴史ロマンの書き手オルツィ男爵夫人が余技的に創造した、正体不明の妖しい“名探偵”キャラ・隅の老人は、都合3冊の短編集に登場しますが、我国では、ついに個々の作品集の完訳はなされませんでした。
今回取り上げる、創元推理文庫の<シャーロック・ホームズのライヴァルたち>版のラインナップは、以下の通り。

①フェン・チャーチ街の謎 ②地下鉄の怪事件 ③ミス・エリオット事件 ④ダートムア・テラスの悲劇 ⑤ペブマーシュ殺し ⑥リッスン・グローヴの謎 ⑦トレマーン事件 ⑧商船<アルテミス>号の危難 ⑨コリーニ伯爵の失踪 ⑩エアシャムの惨劇 ⑪≪バーンズデール荘園≫の悲劇 ⑫リージェント・パークの殺人 ⑬隅の老人最後の事件

③~⑪までが、第1短編集The Case of Miss Elliott(1905)収録作品で、それを①と②、および⑫と⑬の、第2短編集The Old Man in the Corner(1909)の収録作がはさむ、サンドイッチ型の構成になっています。
クラシック・ミステリ・ファンには周知のように、単行本化が遅れた第2短編集の収録作のほうが、じつは先に書かれており(1901年から02年にかけてThe Royal Magazine に連載。ちなみに第1短編集収録作品のほうは、1904年から05年にかけて同誌に連載)、そちらが仕掛けのある連作としてある意味完結しているため、“傑作選”という形でまとめるとすれば、その仕掛けを生かすためにもこうした形にならざるをえず、第2短編集をベースに訳した早川ミステリ文庫版『隅の老人』でも、第1短編集から採った作は、配列上、中間にまとめられています。

さて。
先日、『ゲームシナリオのためのミステリ事典 知っておきたいトリック・セオリー・お約束110』(ソフトバンク クリエイティブ)という本を読んでいたら、「安楽椅子探偵」の項で、「喫茶店の隅の席に座り、名前も職業も不明なことから、ただ「隅の老人」と呼ばれているこの男は、女性記者のポリー・バートンから迷宮入りとなった事件の概要を聞かされ、見事な推理を披露します」という記述にぶつかり、アラアラと思いました。
いまだに、こういう認識が世間では通っているのか。
舞台を<ABCショップ>に限定し、老人とポリーの会話でストーリーを進行させ、取り上げた事件の“真相”を導き出す――といっても、巻末の見事な解説で戸川安宣氏が指摘されているように、このシリーズは、独自の調査をし事件の解釈に関して自己完結している老人が、一方的に、自説をポリーに開陳するだけ。
鮮やかな企みを浮かび上がらせることはあっても――たとえば、黄金時代を先取りするようなトリック小説としての⑥。ホームズ譚などを読んでいても、そこからすぐ、クリスティーらの黄金時代パズラーが輩出するイメージはわきませんが、あいだにオルツィを置くと、ミステリの発展史が納得しやすい――基本的に憶測で、推理の確実さに乏しく、ポオが「マリー・ロジェの謎」で創始した“安楽椅子探偵”ものとは似て非なるものです。
それは本来、弱点であるはず。
しかし。
同趣向の作が積み重なることで、主人公キャラの謎と異常さ(頭の良い犯罪者への賞賛、“真相”を公表することへの無関心)が増していき、ついに作品集の締めである⑬の結末に達すると・・・
それまでの曖昧さが、立ちあがったリドル・ストーリー的全体像に吸収され、いつまでもあとを引く謎というプラスに転じる、逆転を見せます。

さて。
そんな、きわだったこの一篇というより連作的コンセプトで忘れ難い本書ではありますが、最後に筆者の考えるベストをあげておきましょう。
躊躇なく③です。
先に、黄金時代を先取りするような、トリック仕掛人たるオルツィ像について書きましたが、ここでの作者は、もう一歩踏み出している。
よく似たストーリーのw ⑫と比較すると一目瞭然なのですが、これはじつは、重要容疑者の提示する偽アリバイを打ち砕く――話ではないのですね。
最近、フリースタイルから増補版が出た、名著『黄色い部屋はいかに改装されたか?』のなかで、論客・都筑道夫は、トリックのためのトリック、「列車や飛行機の時間が狂ったり、偶然、知人にあったりしたら、たちまち不可能になるような犯罪計画」を、本格ものの行きづまりの原因として難じました。
それを念頭に置いて、この「ミス・エリオット事件」を読むと、アクシデントに対応した計画の軌道修正のアイデアの新しさが、よくわかります。
モダーン・ディテクティヴ・ストーリイの芽は、古典期の作品のなかにもあるのです。


No.76 4点 アンティック・ドールは歌わない―カルメン登場
栗本薫
(2012/04/27 16:47登録)
読み残しの、栗本薫作品から。
スペイン帰りの、日本人フラメンコ・ダンサー(にして、ポルトガルの民族歌謡ファドの歌い手)、本名不詳、通称カルメンシータ・マリア・ロドリゲス――六本木の夜の世界の住人たる彼女を主人公にした、長めの短編4本、

1・お休み、アンジェリータ
2・『いとしのエリー』をもう一度
3・二時から五時までのブルース
4・アンティック・ドールは歌わない

を収録しています。昭和六十三年(1988)に新潮社から単行本が出た、作者の、これ一冊きりのシリーズ・キャラクターものです。

今回、筆者が読んだ新潮文庫版のカバー裏の、作品紹介文には「魅力的なキャラクターがやさしく謎を解いていく、栗本サスペンスの新境地」とありますが・・・なんか違うぞ、それw
犯罪に関与はするけど、このカルメン女史、べつに“探偵役”じゃないしね。
言ってみれば、役割としては――撒き餌(まきえ)かな?
その強く激しい気性が、磁石のように、ある種の人々を引きつける。あるときはあこがれの対象として、あるときは憎しみの対象として。そして引きつけられる病んだ心が“事件”を起こし、その帰結にカルメンが立ち会うことになる。

一番最初に書かれた(のに巻末に置かれている)表題作4では、まだその特色が発揮されておらず、レズのカルメン、美少女アイドルを拾うの巻、といった軽いノリですが(それでも、ラストシーンのうまさはダントツ)、2や3になると、作者は“平凡なOL”や“平凡な主婦”をカルメンと対置させ、そんな平凡人が一線を超える瞬間、その異常な心理を描き出そうとします。
腰砕け気味なのが残念で、2は、相棒の刑事が発砲してジ・エンド(刑事が日常、拳銃を携帯してたら大問題ですよ、栗本センセ)、3は・・・う~ん、このエンディングは筆者にはよくわかりません。投げっぱなしなのか、余韻を残しているのか?
それでも、そこにいたるまでの、カタギの暮らしの象徴のような“平和な平凡な分譲住宅地”(カルメンにとっては、逆に異界)に亀裂が入って、日常の地獄を覗かせる展開と、カルメンと五歳の少年の交流のエピソードの良さで、本書から一篇となれば、この「二時から五時までのブルース」を採ります。

巻頭の1(じつは一番最後に書かれたお話)では、ヒロインがスペインから日本に帰って来た理由が描かれています。枚数的に最長(400字詰原稿用紙にして、約140枚)で、ストーリーも起伏に富みますが、お約束のようなヤクザの抗争があったり、“栗本流ハードボイルド”のマナリズムが感じられ、2や3の“心理ミステリ”的アプローチにくらべると、物足りません。
そして何より、結果として巻頭作としては、中途半端。行方をくらました、カルメンの恋人アンジェリータ(彼女もまた日本人)の存在が、宙に浮いたままです。
作者が飽きたのか、親本が売れず続きを書きにくくなってしまったのかわかりませんが、シリーズを投げるのであれば、せめて文庫化のさいに、アンジェリータとの決着篇を書き下ろして、ラストに配すべきでした。

<お役者捕物帖>といい(あれも版元は新潮社でしたねw)勝手にシリーズ終了は、栗本薫の悪い癖です。


No.75 6点 姿なき怪盗
甲賀三郎
(2012/04/21 16:08登録)
昭和日報のエース記者・獅子内俊次は、保養のため伊豆の海岸にある旅館に逗留するが、たまたま目にした美女の行動に関心を持ったばかりに、近くの洞窟で、頭部に銃弾を撃ち込まれた白骨死体を発見する羽目に。
調査に乗り出そうとする獅子内だったが、昭和日報の社長が殺害され、大恩ある社長夫人に殺害の嫌疑がかかるという非常事態が発生し、急遽、東京に舞い戻る。
やがて。
無関係に見えた二つの事件が結び付き、浮かび上がって来たのは、和製ルパンの異名を持つ怪盗、三橋龍三の存在だった・・・

日本図書センターの<甲賀三郎全集>第4巻は、この長編『姿なき怪盗』一本ぽっきりw
なにせ昭和七年(1932)に、新潮社の<新作探偵小説全集>に書き下ろされた、400字詰原稿用紙にして600枚におよぶ雄編ですからね。

筆者は、甲賀三郎は、資質的に短編型の作家だと思っています。
全体を律する謎をデンと構築できないため、“長さ”を維持するためには、クライマックスへむけて、小さな事件を次々に発生させるという小説作法になりがち。
そうなると、明確な全体像を必須とする本格探偵小説が、限りなく不定型なスリラーに近づきます。
そして探偵小説的な趣向をちりばめたスリラーとしては、健全な娯楽小説を志向したぶん、敵役(じつは主役)の悪のスリルと言う点で、ライヴァル乱歩のそのテの長編にくらべて印象が薄い(余談ですが、甲賀の作風からいって、およそ代表作とは見なしがたい『支倉事件』が、結果として頭ひとつ抜きんでているのは、“犯人”の肖像の特異さゆえですね)。

そんななか。
○人○役というアイデアを核にした本作は、ジェットコースター的展開と、事件の全貌が明らかになったときの探偵小説的驚きの両立に関して、かなり健闘しています。
筆者は、少年時代、春陽文庫版で読んでいましたが(それゆえ湊書房版の<甲賀三郎全集>通読時には、スルーしていました)、盛り込まれた小ネタ――獅子内のアパートで起きる、密室殺人のトリックとかね――も結構、覚えていましたよ。
怪人(怪盗三橋というネーミング・センスはトホホですし、およそ人を殺しまくる三橋に“怪盗”のイメージはありませんがw)対名探偵(作者の意図とは裏腹に、熱血バカなメイ探偵として、獅子内のキャラが立っていますw)の変奏曲として、甲賀長編のなかでは、まぎれもないAランク。

なんですが。
ただねえ、基本的に、従来の連載長編の延長なんですよね。
これって、さきにも述べたように、戦前には珍しい書き下ろしでしょ?
甲賀には、この機会に、自身の考える“本格探偵小説(長編もの)”をキッチリ具現化して欲しかったんだよなあ。
枠組みは、別に、このままの怪人対名探偵でかまいません。「江戸川君の畑で、江戸川君に書けない合理的な本格を書いてやろう」という、一歩進んだ意識があれば・・・
薬理トリックを盛り込むにしても、都合のいい薬をでっちあげるのではなく(このへんは、全集第3巻収録の『公園の殺人』の、安易な×××使用にも見られた、作者の悪い癖)、きちんと調べて使える薬を採用し、変装でオドロキを演出するにしても、その具体的なプロセスを記すことで説得力をもたせる――波乱万丈の面白さを、そうした細心なフェアプレイが裏打ちしていれば、これは現代にも通用するエンタテインメントになったでしょうに。
作者のためにも、それを惜しみます。


No.74 7点 浮世絵師 人形佐七捕物帳
横溝正史
(2012/04/14 10:53登録)
春陽文庫の<人形佐七捕物帳全集>、その第13巻です。
収録作は――

1.美男虚無僧 2.いなり娘 3.巡礼塚由来 4.日本左衛門 5.二枚短冊 6.怪談五色猫 7.蛇を使う女 8.かんざし籤 9.狼侍 10.浮世絵師

玉石混交です。
まさに狐につままれたような、2のエンディングの投げっぱなし感(悪人が謎の男たちに拉致されてオシマイ)、5の、女の生腕(!)をオモチャにした導入部と結びの文章の非常識さ(「こうなると、腕の一本ぐらい切り落とされても、むしろ幸福だったといわなければなるまい」)、8のもってまわったプロット(異常者による異常犯罪)と陰惨な読後感――このへんは、シリーズのファンにとっても、ちょっと挨拶に困ります。

そんななかにあって。
名代の大泥棒・日本左衛門が刑死してから二十余年、またもや江戸に現われた、いわば日本左衛門二世が佐七に挑戦状をたたきつける4は、幾分、説明不足の気味はあっても、事件の連続性(将軍の寵妾が寺に寄進する御進物が、吉原の太夫の身請けの金が、相次いで奪われる)に探偵小説らしい工夫の凝らされた、隠れた逸品。
人情噺的な決着も良く、これはシリーズのベストテンに入ります。

人情噺といえば。
旗本屋敷の若殿と、見世物小屋の女芸人が、同じ日に蝮にかまれるという二つの出来事が、意外な結びつきを見せる7も、謎の解明と人情味のバランスがよくとれ、笑い(お色気のサービスのおおらかさ)が悲哀を中和して、読後感を好ましいものにしています。

表題作の10は、昭和三十年代なかばの<お役者文七捕物暦>第五話「江戸の陰獣」の改稿版。
猫々亭(びょうびょうてい)独眼斎と名乗る隻眼の浮世絵師(怪人)が女の乳房をかみ裂いて殺していくのを、若い御用聞きを助けて我らが佐七(名探偵)が迎え撃つ――なんだかとても懐かしいw テイストの力作です。
ありていに言ってしまえば、昭和三十年代の、都会を舞台にした金田一もの(幽霊男、狼男、雨男に青蜥蜴といったライヴァルたちを想起せられよ)の“あの”パターンを流用しただけなのですが、時代物に落とし込むことで、通俗がかった金田一ものの違和感は減じています。
エログロシーンは好悪の分かれるところでしょうし、佐七でこれをやらなくても、と言う声は当然あると思いますが、複雑な真相をうまくさばいて、それぞれのキャラクターを印象づけているのはポイントが高く、ラストで佐七の初手柄「羽子板娘」が回想されるのも、いい味を出しています。

春陽文庫の全集版は、昭和四十八年から四十九年にかけて、いったんこの第13巻で完結しました。
ここでそのまま終わっていれば、シリーズ全体の締めが美しかったのですが・・・
しかし、あいにく翌年、好評に応えて一冊、追加されてしまいましたw


No.73 3点 魔術王事件
二階堂黎人
(2012/04/08 14:11登録)
「一般の読者の皆さんは、この『魔術王事件』で、世紀の大殺人鬼≪魔術王≫と名探偵二階堂蘭子の、頭脳と頭脳の丁々発止の闘いを楽しんでください。
 マニアな読者の皆さんには、ディケンズの絶筆となった『エドウィン・ドルードの謎』の、驚くべき真相をプレゼントします」
    講談社ノベルス版(2004)カバー袖の、作者の言葉より

シリーズ犯人ラビリンスとの決着篇らしい『覇王の死 二階堂蘭子の帰還』の刊行を機に、『双面獣事件』と組をなす、長編3部作の皮切りたる(プロローグがわりの中編集としては『悪魔のラビリンス』もあり)本書を読み返してみました。

作者同様、少年時代に江戸川乱歩の(いわゆる“通俗長編”の)洗礼を受けた身としては・・・気持ちはわかるんですよねえ。
本格ミステリが論理による謎解きに特化していくと、どうしても小粒になり、小説として貧血気味になる。打開策として冒険・活劇を盛り込む器として、あの怪人対名探偵の世界観を利用したい、というのは。
進化した本格の技法であれをリメイクしてみたい、という意欲も、あるいは二階堂さんにあったかもしれない。
しかし、実際に出来上がったものは・・・おおどかさに欠け、チープでえげつない(映画でいえば、名匠ヒッチコックと、初期のブライアン・デ・パルマの対比)物量的大作という印象ですね。

初読時からしてそうだったのですが、雄大な構想(は島田荘司ばり)のわりに、読んでいて全然ワクワクドキドキしないのですよ。
名探偵をストーリーの展開部から外すことで解決を引き延ばす、かの『バスカヴィル家の犬』以来のテクニックも、この路線では裏目に出て、長さばかりが意識される結果になっています。

また、トリックのためのトリックを、例によって直列式につないでいくわけですが、今回は個々のパーツの底割れ感と、どうでもいいや感(どうせ手品ダネでしょ)が半端ではありません。
唯一、雪に閉ざされた廃屋から少年が消失するエピソード、そのアイデアがギラリと怪しく光っていますが・・・いくら蘭子に「――のやりたい放題でした」と言われても、根本のところに現実感がないからなあ。
根本のところ・・・つまり、犯人が○○○○○と入れ替わり、そのまま××の△△△として生活を始める、という設定がきつすぎます。
そしてそこに説得力がないと、そのうえにいくら手の込んだプロットを構築しても、すべては崩れ落ちてしまうのですよ。

さて。
エピローグで蘭子は、『エドウィン・ドルードの謎』の「画期的かつ絶対的な真相」を提示して見せます。
それが単なるオマケでなく、本篇のストーリーと連動している点は評価できます。
そしてまた、明かされる意外な犯人と異様な犯行動機のアイデア自体は、まことに興味深く、ホームズは女だった式の戯論としてなら、大いに楽しめます。
しかし残念ながら、「真相」としての説得力はゼロ。
伝聞証拠を排し、テクストのみを問題にする蘭子(作者)の姿勢は良しとしても、当のテクストの読解に、誤読ないし曲解があるのはいただけません。
蘭子(作者)は「物語の中に、一度も○○○の婚約者が出てこない」ことを問題にしていますが、そんなものが出てくる必要が無いことは、きちんと『エドウィン・ドルード』(の第十三章)を読んだ者には自明ではないでしょうか? “破局”の原因は、決して×××××に恋人が出来たせいではないのですから。
つまり、蘭子のいう、動機自体が成立しません。

もっとも。
『魔術王事件』の、事件発生年は、昭和四十五年。
実際に『エドウィン・ドルードの謎』が初訳されたのは、昭和五十二年(講談社『世界文学全集29』)。創元推理文庫への編入は昭和六十三年。
このことから考えられるのは――

①蘭子たちは、原書で未訳の『ドルード』を読み、残念ながら語学力の問題から、こぞって同書のストーリーを誤解してしまった。

②裏設定として、『ドルード』には公式記録にない私家版の翻訳があり(≪殺人芸術会≫のメンバーが訳した?)じつはその訳文がインチキで、蘭子たちはこぞって同書のストーリーを誤解してしまった。

いずれにしてもw 本篇のストーリーともども空中楼閣です。
『魔術王事件』という楼閣の“威容”(おおどかさに欠けチープでえげつなくはあってもw)、その幻に、どこかで心惹かれる自分がいるのは、否定しませんがね。酷評しながら、ここまでコメントしているあたりでお察しくださいw


No.72 7点 エドウィン・ドルードの謎
チャールズ・ディケンズ
(2012/04/01 16:04登録)
「ディケンズは、この作品で、ポーやコリンズに対抗して、犯人当て要素を含む推理小説の傑作を書こうと企てたわけね。だったら、最も容疑が濃いジャスパーを真犯人に据えるなんて、そんなことをするはずがないわ」
   『魔術王事件』 二階堂黎人

そんなふうに、ひねくれた読み方をする必要はないと思うなあw(その件に関しては、別口の『魔術王事件』のレヴューで、具体的に触れることにしましょう)

さて。
月刊分冊の形で刊行されながら、1870年6月の作者の急逝により、予定の半分で未完の遺稿になってしまったのが、この『エドウィン・ドルードの謎』。
失踪したエドウィンは殺されたのか? その経緯をさぐるダチェリーなる人物の正体は? という未解明の謎を残す本作は、逆説的に、この文豪がもっとも長編ミステリに接近した例と見なされ、黎明期のミステリ史に特筆大書されてきました。
全体の半分の量といっても、翻訳すると、それだけで400字詰原稿用紙にして約800枚はあるうえ、重苦しい雰囲気が作品を支配し、布石のための状況設定にミッチリ筆が費やされ、なかなか本題の事件が発生しないため、イージー・リーディングには向きませんが、ディケンズ生誕200周年に合わせ、意を決しw 読み返してみました。

学生時代(遠い目 ^_^;)は、ろくにモノを考えず機械的にページを消化しただけで、あっさりツマンナイと片付けていましたが・・・
さすがに腰を据えてじっくり読むと、これは、大聖堂のある古い町クロイスタラム――まさにその、退廃的なバックグラウンドが生み出す、秘められた悪(さながらモダン・ドラキュラ、と言いかけて、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』の発表年を調べてみたら1897 年でした。プレ・ドラキュラですねw)を浮き彫りにした、奥の深い小説でした。
ミステリ的に構成されていることは間違いありませんが、虚心坦懐に読めば、これは、今日的な本格推理小説を意図したものではなく(表面的な趣向は、ポオの「お前が犯人だ」の系譜でもありましょうが)、ディケンズ自身の「追いつめられて」の延長線に位置するような、仕掛けのある犯人狩りの物語に収束するはずだったものでしょう。
創元推理文庫版の、巻末70ページを占める、訳者・小池滋氏による詳細な(研究論文といっていい)解説は、ミステリ・ファンなら必読で、採点はそれ込みのものです。

ちなみに、小池解説以降の『ドルード』研究で、筆者が目にした最重要と思える文章は、松村昌家氏の「『エドウィン・ドルードの謎』――ハーヴァード殺人事件と関連して」(研究社出版『ディケンズの小説とその時代』(1987)所収)です。
現実に、1849年のアメリカの大学構内で発生した、ディケンズの知人(!)による殺人(および死体処理工作)をエドウィン殺しと関連づけ、その共通性から、作品の未解明の謎に迫ったもので、伝聞証拠によらないこの論考は、筆者には、ジャスパー犯人説の決定打のように思えます。
アカデミックな領域に抵抗のない向きは、ぜひご一読あれ。


No.71 4点 急行十三時間
甲賀三郎
(2012/03/30 14:49登録)
<甲賀三郎全集>第3巻(日本図書センター)、その収録作は――

①公園の殺人 ②急行十三時間 ③女を捜せ ④荒野 ⑤黒衣を纏う人 ⑥暗号研究家

大正十五年/昭和元年(1926)に『新青年』に発表された、私立探偵・木村清ものの短編②が、表題作になっています。
とりたてて傑出した出来でもないのに・・・と思っていましたが、読み返してみると、全体に低調なこの巻のなかでは、なるほど光っています。
いわくつきの“身代金”を携行し夜行列車に乗り込んだ青年の、東京~大阪間の緊迫した“急行十三時間”が描かれ、待ち構える、落差のあるオチが効果的。

本書にはもうひとつ、木村清ものが収められています。
新婚旅行にあたって、なぜか片田舎の淋しい“荒野”を訪れることを要求した新婦が、同地で失踪する、その④(昭和二年の『新青年』掲載)は、プロットの批判的な吟味には耐えられませんが、前段の過剰な、しかし引き込まれるムードづくりといい、後段の木村探偵の、面白い役どころ(これは②にも共通する長所)といい、印象に残ります。

ノン・シリーズ短編の③⑤⑥あたりは、そうした見どころもなく(するとプロットの不自然さばかりが目について・・・)冗長。
甲賀三郎研究家のアイナット氏によると、⑥で本名が伏せられている探偵役は、シリーズ・キャラクターの“あの人”の可能性が高いということですが、その怪盗・葛城春雄が主役をはるのが①です。

この『公園の殺人』は、甲賀が専業作家になった昭和三年に、『講談倶楽部』に連載された長編(ちなみに翌四年に同誌に連載されるのが、江戸川乱歩の『蜘蛛男』)。
タクシーの衝突事故の現場から、乗客の青年紳士が姿をくらまし、連れの婦人の変死体が発見される――という奇妙な発端から、巨額の財産をめぐる三つ巴の争い(その一翼を担うのが、怪盗・葛城)が展開されていく、ルパンもの顔負けの冒険ロマンです。
近過去の、関東大震災をプロットに組み込んで(のちのミステリ作家が、第二次世界大戦を利用するように)複雑な犯罪メロドラマを紡ぎだした、その構想力は買えます。
しかし、ミステリとしては失格。
不意に息苦しくなり、目まいを感じ昏倒し(絶命し)ていく被害者たち――というハウダニットの謎を中軸にしながら、その種明かしがあまりに安易なのです。
「○○はどうして手に入れたのか、最近に発明された恐るべき×××を持っていました」ですませるのかい。
それに、周囲に第三者がいても特定の人間だけをピンポイントで倒せるのはなぜなの? 教えて、葛城さん。
“理化学トリック”の第一人者、甲賀三郎ともあろう人が、こんなエセ科学に逃げてはいけませんよ。

あと、これは『幽霊犯人』や『池水荘綺譚』もそうでしたが、長編のタイトルがピンボケ気味。このへんの“商品名”のセンスを考えると、ライヴァルだった乱歩の大きさがよくわかりますw

(付記)表題短編を対象として、「サスペンス」に登録しました(2012・11・13)。


No.70 8点 ディケンズ短篇集
チャールズ・ディケンズ
(2012/03/24 20:58登録)
今年はディケンズ生誕200周年。そうだ、『エドウィン・ドルードの謎』を読み返そう、と思ってあれこれ準備していたら、3/16日付けで mini さんの同書評がアップされ、シンクロニシティに唖然としました。

本書は、その『エドウィン・ドルード』の露払い的意味で取り上げようと考えた一冊なのですが・・・これまた mini さんに先行レヴューがあるじゃありませんか! 因縁めいたものを感じますw

さて。
岩波文庫のこととて、『ディケンズ短篇集』とそっけなく銘打たれていますが、この本はオーソドックスな“傑作選”ではありません。
一般には明るいイメージの強い、19世紀のイギリスを代表する文豪ディケンズの作品群(必ずしも純然たる短編ばかりでなく、長編に挿入されているエピソードも対象)から、編訳者の小池滋氏が、あえて ①超自然的要素②ミステリ的要素③異常心理的要素 に着目してセレクトした、さながら気分は“異色作家短篇集”な一冊なのです。

収録11篇のうち、傑出しているのは、やはり古典怪談のアンソロジー・ピースである「信号手」と、エラリー・クイーンの絶賛で知られる「追いつめられて」でしょう。
幽霊におびえる鉄道マンの悲劇を描く、1866年作の前者は、第三者的立場で、一切を幻覚として合理的に解釈しようとする、語り手自身が、じつは怪奇の連鎖に取り込まれていることで、読後に、合わせ鏡を覗くような無限の不安感を残す、名作中の名作。
保険金殺人のエキスパート(発表は1859年ですよ)を民間人が追及する後者は、殺人者の肖像の近代性と、ミステリ的に、伏せられたアイデンティティの暴露がクライマックスを形成する構成が光っています。この“仕掛け”は、おそらく『エドウィン・ドルード』にも通底するものだったと筆者は考えます。
『エドウィン・ドルード』と言えば、それとの関連で見落とせないのが「チャールズ二世の時代に獄中で発見された告白書」(1840)。荒削りではありますが、死刑囚の回想という形式で、甥殺しにいたる心理と経過、発覚の顛末を淡々と語る本篇は、三十年あまりのちに着手される、かの長編を予見させる、習作的スケッチと見なせるからです(はい、筆者もやはり、ジョン・ジャスパーが甥のエドウィン殺害を企てた人物だと思います。二階堂蘭子が何と言おうとw)。
その他では――
「自分は気ちがいだ」と主張する人間は本当に気ちがいなのか? と思わせることで、“信用できない語り手”という現代文学の技法にもつながる「狂人の手記」、そのテクニックの洗練された発展形としての「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」、筆者好みのユーモア怪談から「グロッグツヴィッヒの男爵」あたりも推しておきましょう。

小池滋氏による丁寧な解説を含めて、ミステリ・ファンのためのディケンズ入門書としては、これ以上望めない内容の一冊です。


No.69 5点 池水荘綺譚
甲賀三郎
(2012/03/10 14:16登録)
シリーズ、<甲賀三郎全集>(日本図書センター)を読む、です。
第2巻となる本書の収録作は――

①池水荘綺譚 ②夜の闖入者 ③救われた犯人 ④黒衣の怪人 ⑤惣太の経験 ⑥惣太の幸運 ⑦惣太の喧嘩 ⑧惣太の受難 ⑨惣太の意外 ⑩惣太の求婚 ⑪惣太の嫌疑

元版(湊書房版)をたしかに一読しているのに、この巻はまったく内容を覚えていませんでした。
読み返してみて納得。学生時代、筆者が甲賀に期待していたのは、“戦前本格”とか“理化学トリック”だったはずで、本巻は、そういうウブな読者の予想のナナメウエをいく内容なのですねw

表題作①は、前巻の『幽霊犯人』と同じ昭和4年(1929)に、女性誌『婦女界』に連載された長編。ヒーローが悪漢の陰謀を打ち砕き、見事に汚名を返上し、ヒロインとの恋の成就なるか、を骨子とした波乱万丈のストーリー・・・
でありまして、前巻のレヴューで筆者は、長編『幽霊犯人』を「探偵趣味をまぶした勧善懲悪の大衆小説」と評しましたが、本作はいってみれば、ただの「勧善懲悪の大衆小説」w
しかも、英国の貴族社会を背景にしながら、キャラクターは全員、譲次や瑠璃子といった日本人名で表記される、なつかしの黒岩涙香の翻案小説スタイルの珍作(異国情緒はいいけれど、当時の女性読者には外国人の名前はなじみにくいだろうから・・・という配慮?)でした。甲賀三郎の異色作をつまんでみたい、という物好きなマニア以外には、残念ながらお勧めできません。

②③④は、私欲のためでなく、虐げられている善人を助けるために悪人を懲らす、義賊“暗黒紳士”シリーズ。暗黒紳士の正体は、探偵作家・武井勇夫であり、武井がくだんの怪盗だと確信を持っている、友人の私立探偵・春山誠の執拗な追及の手をくぐり抜けながら、悪漢と対決し、勝利をおさめます。
モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパンものと、ジョンストン・マッカレーの地下鉄サムもの(当時、『新青年』で人気があった、掏摸を主人公とした連作。ちなみにマッカレーは、『快傑ゾロ』の作者でもあります)をちゃんぽんにしたような内容で、ミステリ的にはご都合主義もいいところですが――『冨士』とか『婦人倶楽部』といった発表誌を見ても、『池水荘綺譚』同様、もとよりマニア的読者層は想定していないことがわかります――、このテの連作は、一篇一篇の出来はダメでも積み重ねで味が出るものなので、収録が3作というのは、いかにもサビシイ。
アイナット氏の「甲賀三郎の世界」という濃いサイト(本稿を草するに当たり、書誌的な確認事項では全面的にお世話になりました。有難うございます)によれば、あと2作、このシリーズはあるようなので、復刻版の本叢書では、ボーナス・トラックとして、そちらも収録してほしかったなあ。
サンプルとしてこのシリーズを1作だけ試し読みするなら、クライマックスで二人の“暗黒紳士”が対峙する、マンガチックな展開からの意外性で、④を推しておきます。

⑤~⑪は、不正を憎むw あわて者の泥棒“気早の惣太”シリーズ。
こちらは、大正15年/昭和元年(1926)から昭和9年(’34)まで、おもに雑誌『苦楽』に発表された、全7話が(必ずしも編年体の並びではありませんが)完全収録されており、前述した、短編の“積み重ねによる味わい”を楽しめました。
もっとも、これはミステリではなくユーモア小説(学生時代、甲賀にそんなものを求めていなかった筆者には、猫に小判だったでしょう)。
窮地に陥った惣太を救うのは、“暗黒紳士”的な機転ではなく、基本的に惣太本人の、生一本の性格の良さなんですよね(情けは人のためならず)。大いに笑えて、ときにラストでしんみりできる(人情噺的決着では、⑧と⑪が双璧。めずらしくミステリ的意匠を凝らした⑪の、元祖・楠田匡介的バカトリックには、目をつぶりましょうw)、甲賀の意外な作家的一面を堪能できる連作がこの巻に入っていて、本当に良かった。
終わり良ければすべて良し、で、採点は1点オマケw

(付記)表題長編を対象として、「スリラー」に登録しました(2012・11・13)。


No.68 7点 漱石と倫敦ミイラ殺人事件
島田荘司
(2012/03/07 19:05登録)
十九世紀が去り、新世紀を迎えたばかりのイギリス。
首都ロンドン滞在中の、日本人留学生・夏目金之助(のちの漱石)は、下宿先で夜な夜な聞こえる、亡者のような声に悩まされていた。
その相談にベイカー街のシャーロック・ホームズを訪れたことから、夏目は、やがてホームズが手がける奇妙な事件(中国人の呪いを受けたという男が、たった一晩でかさかさのミイラと化し、密室状態の自室で発見された)に巻き込まれていく・・・

デビュー以来、年1作ペースで長編を上梓してきた新進気鋭の島田荘司にとって、プロ作家元年ともいうべき1984年(昭和59年)。
単行本だけでも4冊を世に問いましたが(他に、雑誌に一挙掲載した長編が2作、日刊紙に連載した長編が1作)、なかでも直木賞候補になるなどして、いちばん話題を呼んだのが本書です。
当時、あんまりポコポコいろんなものを書かないで、御手洗ものに専念してくれよ~、とボヤきつつも、それなりに楽しく読んだ記憶はあります。
近年、光文社から完全改訂総ルビ(!)の文庫版が出たりもしたようですが、とりあえず、集英社の親本のハードカバーで再読しました(以下のレヴューに関して、もし“現行版”との齟齬があるようでしたら、掲示板でお知らせ願えれば幸いです)。

“年代”に注目してホームズと漱石を共演させるというアイデア自体にオリジナリティはありませんし、ただそれだけであれば、長編ホームズ・パロディのパターンを確立した、ニコラス・メイヤーの『シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険』(1974)の後続作品としては、ワンオブゼムにとどまります。
しかし、漱石の覚書とワトスンの手記を、章ごとに交互に配列することで、ホームズ譚をカリカチュアしたパロディ(前者)と正統的なパスティーシュ(後者)を、一冊の中で同時に実現するという試みはユニーク。
漱石パートはまた、当然、夏目漱石の文章パロディにもなっているはずで、そのへんの巧拙を云々する資格は筆者にはありませんが(ワトスン・パートはきわめて自然と云えます)、読んでいて違和感はありませんでした。
非常にリーダビリティの高い小説に仕上がっていますが、軽く読める小説=軽く書ける小説ではないわけで、“量産期”にこれだけ手の込んだ遊びを実現させた、作者の余裕と作家的力量には感服します。

で、肝心のミステリとしての出来は?
密室の解明は、大胆すぎる前提といいトリックの手順といい、いかにも島田荘司。本来なら、突っ込みどころ満載の大味さですが、このパロディ的世界観のなかでは、あまり目くじらを立てる気にもなりません(それでも、初読時の学生時代には、アレコレ気にしていたようなw)。
しかし、今回、強く感じたのは――
密室のミイラ事件を“手段”とする、犯人側の“目的”。その論理構成がルーズなのは、大きなキズでしょう。
すべての狙いは、財産○○のため、ある人物を××させることだった――って言いますけど、一発勝負で、そう簡単に××させられますかねえ。単にショックを与えるだけで、思惑通り××してくれなかったら、それまでのすべての労力はパーですよ。

じつはこれ、本書の小説的興趣にもつながる問題なんです。
事件解決後も、そのアフター・ケアに、作者は筆を費やします。
夏目の尽力のかいあって、くだんの人物は立ち直ります。
お笑いとご趣向本位の戯作が、いつしか胸に迫る小説となり、静かな感動が読者の心に広がる・・・はずなんですが。
でも。
作者の都合で、キャラクターが無理矢理××させられ、感動的な場面のために、今度は一方的に回復させられる、そのあざとさが透けて見えるように思うのは、筆者がひねくれ者というだけでしょうか。

ま、そんな小難しいことを考えなければ、一級のエンタテインメントではありますw
“感動”には留保をつけましたが、小道具を生かして、サゲは綺麗に決まっています。


No.67 9点 シャーロック・ホームズの帰還
アーサー・コナン・ドイル
(2012/03/04 11:50登録)
ホームズもの第3短編集 The Return of Sherlock Holmes (1905)の翻訳です。
筆者が読み返しに使っている、光文社文庫の<全集>版では、訳題が『シャーロック・ホームズの生還』なのですが、レヴューにあたっては、本サイトの登録題名にならいました。

英国の月刊誌『ストランド』(と米国の週刊誌『コリアーズ』Collier's Weekly 他)に、1903年から04年にかけて読み切り連載された(約一年かけて、ホームズ短編を集中的に発表する、という試みとしては、これがドイルの最後の成果となった)13篇をまとめた、待望の、名探偵復活篇です。
巻頭の「空き家の冒険」で明かされる、ホームズ“生還”の種明かしは、さっと読んであまり考えないことw

「初期の短編にあったホームズの分析的推理の面白さが影をひそめ、劇的な要素が中心になってきたことにより、読者が違和感をおぼえ始めた」(日暮雅通氏の「訳者あとがき」より)という指摘もありますが・・・
う~ん、でも面白いですよ、この本。
ノスタルジックなムードを醸成し(舞台を“現代”ではなく、19世紀末からの近過去に設定し)、そこから繰り出すドイルのストーリーテリングは、円熟の域に達しています。
たとえば、前段のゆったりした探索行から、後段、俄然緊迫の展開へ移行する、「美しき自転車乗り」や「プライアリ・スクール」のチェンジ・オブ・ペース。

たしかに、「踊る人形」の暗号解読パートなどを見ると、“分析的推理”の弱さ(ポオの「黄金虫」との対比。二番煎じが駄目なのではなく、「ご存じのとおり、英語のアルファベットのなかでいちばんよく使われるのがEで(・・・)」に始まる、検証なしの押しつけが安易)を痛感させられたりはしますが・・・
もともと初期のホームズ譚ですら、その傑作性は、謎・サスペンス・意外性の、トータルな演出力の勝利であって、推理自体が鮮やかな印象を残すのは、「名馬シルヴァー・ブレイズ」(『回想』所収)や「技師の親指」(『冒険』所収)といった少数の作にとどまりますからね。

それに本集でも、「六つのナポレオン像」と「金縁の鼻眼鏡」の二篇に関しては、謎解きに着目しても一級品だと思います。
前者において、次々に同一モチーフの石膏像をたたき壊す犯人の目的は? というホワイダニットを創造するにあたって、リスクを犯して×××場所まで運び出すという行為をまぎれこませることで、ストレートなサイコ犯の可能性を排除する論理構成は見事。
フェアプレイに裏打ちされた謎解きの収束と言う点では、後者はさらに整然としており、トリッキーさで人気がある(ものの、逆にトリック部分の弱さで大幅減点される)「ノーウッドの建築業者」などに比べて知名度はイマイチでも、これは筆者の考える本巻のベストです。

“理”と“情”を兼ね備えた、「三人の学生」や「アビィ屋敷」の決着も美しく、ミステリとしては凡作でも、ドイルが義弟ホーナングのラッフルズものを意識したような異色作「恐喝王ミルヴァートン」(ホームズとワトスン、強盗を試みるの巻)のエンディングの鮮やかさは、心に残ります。

じつは、あらかじめ今回は、バランスを考えて少しキツめに採点しようか、などと考えていたのですが、いざ読み返してみたら、やっぱりモノが違うw
ブランクを感じさせない、コナン・ドイル、貫禄の横綱相撲でありました。


No.66 6点 幽霊犯人
甲賀三郎
(2012/02/23 15:18登録)
デビュー当初の江戸川乱歩の好敵手! 通俗のなかに忍ばせた“本格”魂! 衝撃か笑撃か、炸裂する理化学トリック!
シリーズ<甲賀三郎全集>を読む、の開幕です。
たまたま足を伸ばしたさきで、日本図書センターの全10巻(2001年刊)を置いている図書館を見つけてしまい・・・こりゃ俺に読めということだな、と観念しましたw

この叢書は、戦後まもなく湊書房から刊行された同題の全集(<全集>と言う名の、正味、代表作選集)を復刻したものですが、じつは筆者、学生時代(遠い昔)にマニアな先輩に押し付けられて、もといお借りして、もとの湊書房版を通読しているのです。
そういうわけで、誰需要? という気はしますが、個人的にはたまらなく懐かしい作家・作品の再訪ではあります。

第1巻『幽霊犯人』の収録作は――
①幽霊犯人 ②真珠塔の秘密 ③カナリヤの秘密 ④母の秘密

②は、大正十二年(1923)に『新趣味』八月号に懸賞入選作として掲載された、甲賀のデビュー短編(ちなみに乱歩のデビュー作「二銭銅貨」は、同年の『新青年』四月号掲載)。
展覧会で話題を呼んでいた、工芸品の“真珠塔”――そのすり替えをめぐる謎に挑むアマチュア探偵・橋本敏の活躍を、友人の私(岡田)が記録するという、オーソドックスを絵に描いたようなホームズ・スタイルの一品。アイデア自体は面白いのですが、意外性の演出ばかりに気を取られて、ホワイの部分の説得力がありません(アーサー・モリスン「スタンウェイ・カメオの謎」との対比)。

続く③が、檜舞台『新青年』への初登場作(大正十二年の十一月号に、乱歩の「恐ろしき錯誤」とともに掲載)で、化学者の実験室で連続発生した、奇妙な青酸ガス中毒死事件の解明を依頼された、橋本探偵の活躍を、前作同様の形式で描きます。
理系の発想が中核にありますが・・・これはトンデモと紙一重。学者のクレージーさ(研究を優先するあまり・・・)を強調すれば、小説として、もう少し、なんとかなったかなあ。
カナリヤと言うのは、第二の犠牲者である化学者が残したダイイング・メッセージなんですが・・・あの状況では、カナリヤがいても駄目だったと思いますよ、博士w

シリーズ探偵となる木村清の初顔見せである④は、乱歩の「赤い部屋」や大下宇陀児の(デビュー作)「金口の巻煙草」とともに『新青年』大正十四年四月号を飾った、作者の第四短編(出世作にあたる第三短編「琥珀のパイプ」は、本全集では第5巻に収録)。
怪奇テイストを打ち出した異色作で、怪奇現象の説明こそ安易ですが(むしろ、本当に幽霊が出現したことにして、その前提でお話を進めたほうがよい)、読み物としてムードづくりにも留意され、トリック・メーカー、プロット・メーカーにとどまらない、職業作家としての甲賀の適性を感じさせる、人情噺の佳篇になっています。

表題作の①は、昭和四年(乱歩が、『孤島の鬼』と『蜘蛛男』の連載を始めた年)に、『東京朝日新聞』に連載された、初期の代表長編。
三浦海岸の別荘で富豪が射殺され、状況証拠から(動機があり、唯一、犯行が可能であった者として)被害者の長男が逮捕されるという導入部の本作は、戦前の我国にあっては珍しい、ストレートな密室長編です。
伏線の張りかたが不充分で、“証拠”の出しかたに難があるものの、専門知識をいかしたトリックはいかにもこの作者らしく、その謎の解明に的を絞って、中編サイズでまとめていたら、密室テーマの戦前のアンソロジー・ピースとして残ったのではないかと思います。
逆にいえば、長編を支えるにはネタが弱いわけで、作者は長丁場をもたせるために、悪漢を暗躍させ、『月長石』(ウィルキー・コリンズ)と『リーヴェンワース事件』(A・K・グリーン)をちゃんぽんにしたようなメロドラマ状況で引き延ばしを図ります。
結果は、探偵趣味をまぶした、勧善懲悪の大衆小説という感じ。
それでも、意外にキャラクターが生き生きしているので、読み返しは苦になりませんでした。

ずっと、甲賀は小説が下手、という認識でいたのですが、今回の再読の印象では、必ずしもそうじゃないかな、と。
さて、第2巻以降は、どうなるでしょうか?

(付記)表題長編を対象として、「スリラー」に登録しました(2012・11・13)。


No.65 7点 エーリアン殺人事件
栗本薫
(2012/02/17 11:43登録)
地球を離れること、何万光年。
巨大貨物船シーラカンス号は、遭難した宇宙船を救助する。
しかし、そのベム捕獲請負業者の持ち船には、凶暴なエーリアンが収容されていたのだ。シーラカンスに侵入を果たした異形の怪物による、殺戮が始まった!
しかし。
無理矢理、捜索隊長に任命されたアル中の二等宙航士ルーク・ジョニーウォーカーは叫ぶ。「ただのエーリアン退治だと思ってたのに、どんどん謎が深まるばっかりで――こ、これじゃあ、まるで本格ミステリーじゃないか」
ところが、その当のエーリアンが何者かによって殺されてしまい・・・ついに名探偵として覚醒するルーク。
その意外な推理の果てに待ち受けるものは――「史上最大のご都合主義のエピローグ」だったwww

いや~、こんなの取り上げていいのかしらん。
栗本薫の、昭和56年(1981年)度作品にして、懐かしのハチャハチャSF(死語? 命名者・小松左京。ダジャレ、楽屋落ち、パロディ等の連鎖で繰り広げられる、お笑い系SF)です。
昔は莫迦にしてスルーしていた本作を、まあ、この機会にと読んでみたら・・・そのー、なんだ、面白かったの。
バカSFが、いちどは本格ミステリ的に(いちおう常識の範疇で)終息しそうになって、そこからバーンとはじけて非常識の領域へ飛び出す、その、思わず「そんなアホな」と言いたくなる演出がツボにはまったわけで。
じつはまったくミステリじゃないんだけど、この遊びを面白がるミステリ・ファンは必ずいる――はず。多分。いや、いたらいいな、と。
ぶっちゃけ、“その世代むけ”のギャグのオンパレードは読者を選びますが、たとえば

 「不運な男よのう」
 オビワン・ヘノービが重々しく言った。
 「つくづくと凶運のもとに生まれておると見える。もしや、何代前かのご先祖に、諸星あたるという日本人がいたのではないかな、少年よ」

といったくだりにニヤリとできる向きは、騙されたと思って手にとってみて下さい(あ、あともしアナタが下ネタに抵抗がなければ、ですがw)。
品性を疑われないように(手遅れか)いちおう7点にとどめましたが、シリアスなミステリではマイナス要因だった栗本薫のアバウトさが、この手の野放図なストーリーでは笑いに転じており、個人的には、これは拾い物でした。

雑誌『野性時代』に連載されたあと、角川書店で単行本化され、やがて角川文庫入り、のちハルキ文庫版も出ているようですが、筆者が読んだ角川文庫版は、マンガ家・高信太郎によるカバー・イラストと解説(映画解説者だった、故・淀川長治氏の、あの不滅の解説口調のパロディ)が絶品なので、もし、本作にトライしてみようかと思われたら、そちらを探されることをお勧めします。


No.64 8点 最後に二人で泥棒を -ラッフルズとバニー(3)
E・W・ホーナング
(2012/02/14 10:33登録)
ラッフルズもの第三短編集 A Thief in the Night(1905)の翻訳です。
前作の最終話で、ラッフルズとともに従軍し、負傷して戦地から一人帰還したバニー。その彼が、戦火に消えた友の在りし日の思い出を回想することで、最後の冒険の幕が開くことに・・・

収録作は――
はじめに 1.楽園からの追放 2.銀器の大箱 3.休暇療法 4.犯罪学者クラブ 5.効きすぎた薬 6.散々な夜 7.ラッフルズ、罠におちる 8.バニーの聖域 9.ラッフルズの遺品 10.最後のことば

ラッフルズがこっそり“盗品”を預けていた銀行に強盗が入ってしまう2、ラッフルズを泥棒とにらむアマチュアの犯罪研究家たちが彼を夕食会に招く4、万全の泥棒対策を豪語するボクシング・チャンピオン宅にひとり侵入し、罠におちた相棒を、バニーが救出に駆けつける7。
凝らされたミステリ的趣向、そのプロットのひねりにおいて、上記3篇が本巻のベスト3。にとどまらず、これはラッフルズ・シリーズ全体のベスト3でしょう。
ラッフルズとバニーの泥棒活動を二人三脚でストレートに描くのではなく、二人の行動を(部分的に)切り離し、そこで発生する、話者の預かり知らない部分を、サプライズのための仕込みやサスペンスの醸成に利用する、ミステリとしての作劇が――その萌芽はあったにせよ――ここでついに完成をみます。
とりわけ、一難去ってまた一難の展開をアクロバチックに切り抜ける7の、“唯一の解決法”は素晴らしい。

ロンドン警視庁の犯罪博物館で公開中の“ラッフルズ遺品展”を舞台にした9も、そうした作劇の延長線にあり、愉快なオドロキとともに、シリーズを総括するようなエンディングを堪能できます。

またミステリ要素とは別に、ラッフルズとバニーの友情物語としても本書は優れており、1で描かれたバニーの恋の、10における帰結が、それを鮮やかに浮かび上がらせます。10の「手紙」をとおして鮮明になる、ある女性のキャラクターも素晴らしく、シリーズは余韻嫋々たる幕切れを迎えます。
ラッフルズ愛好家の住田忠久氏による、詳細な巻末解説もグッド。

というわけで、筆者のオススメ本なのですが、ラッフルズ・シリーズは過去作への言及が多く、それを踏まえた展開に妙がある(たとえば本巻の傑作2にしても、第一短編集『二人で泥棒を』の「ジェントルメン対プレイヤーズ」「リターン・マッチ」の続編的性格がある)ので、できれば最初から、シリーズ全話を読んでほしいのですね。よろしくお願いしますw

本書単体での評価は、シリーズの連続性をあえてマイナスとして8点にとどめますが、短編集3冊を通しての総合評価なら、10点を付けますよ。“ライヴァルたち”のなかで、その物語性において、唯一、ホームズ譚の牙城に迫る、ラッフルズのまこと楽しい(そしてやがて悲しき)作品世界を、是非一度、ご体験ください。

あ、未訳の長編と戯曲、いまからでもなんとかなりませんか、論創社さん?


No.63 5点 梅若水揚帳 人形佐七捕物帳
横溝正史
(2012/02/08 15:59登録)
春陽文庫<人形佐七捕物帳全集>全14巻のうち、第12巻となります。
収録作は――

1.梅若水揚帳 2.謎坊主 3.お時計献上 4.当たり矢 5.妖犬伝 6.百物語の夜 7.二人亀之助 8.きつねの宗丹 9.くらげ大尽 10.座頭の鈴

以前に読んだときも感じたのですが、どうもこの巻は好きくないw
前巻(『鼓狂言』)に比べれば、作品の水準はまあ持ち直していますし、ミステリ的趣向を凝らしたトリッキーな作も散見する(たとえば4などは、お色直しのうえ、金田一ものの「毒の矢」にヘンシンする)のですが・・・

巻頭の表題作1が、なんか全体のトーンを象徴しているんですよね。非情な犯行にエログロ志向。金田一もので言うなら、『悪魔の百唇譜』、あのセンです。
この1は、昭和三十年代なかばに書かれた<お役者文七捕物暦>からの改作(原型は「恐怖の雪だるま」)ですが、戦中の<朝顔金太捕物帳>からのリライトが、密室殺人テーマの3。面白くなる要素は充分ながら、余計な殺人と、これまた無意味な愛欲シーンが追加されて、いちじるしく読後感を損ねる結果になっています。
原型となった金太版「お時計献上」(昭和19年発表。基本は人情噺ながら、ミステリ面で、はじめてディクスン・カーの影響がストレートに現れた、注目作)は、出版芸術社の<横溝正史時代小説コレクション>捕物篇③『奇傑左一平』に収録されているので、正史の“改稿”に興味をお持ちの向きは、読み比べてみてください。

アンソロジーに採られたりもして、比較的、ミステリ・ファンに知られているのは、6でしょうか。海外ミステリの有名どころを換骨奪胎した一篇ですが、「羽子板娘」や「ほおずき大尽」(ともに第1巻収録)あたりと比べてもアレンジの面白さに乏しく、ストーリーも幾分はしょり気味で、出来はもうひとつ。こういうお話こそ、加筆してブラッシュ・アップすべきなのになあ。

しいてベスト作を選出するとすれば――
異様な設定(いちどに二人の妻を娶っては、その二人を同時に離縁することを繰り返す、お大尽)と二転三転するストーリー展開(お大尽は・・・不死なのか?)のかげに探偵小説ならではの仕掛けを忍ばせた、9になります。
なりますが、前提となる“障害者”の描き方には、かなりの問題があり、広く一般に推薦するのは、ためらわれます。
あくまで“時代性”をかんがみ、隠れてこっそり読みましょう。

ああ、やっぱりこの巻も微妙だw


No.62 7点 またまた二人で泥棒を -ラッフルズとバニー(2)
E・W・ホーナング
(2012/01/31 11:41登録)
ラッフルズもの第二短編集 The Black Mask (1901)の翻訳です。
前作で、永遠の別れを遂げたかに見えた怪盗紳士ラッフルズと、語り手バニーのコンビが、意外なカタチで復活。またまた冒険の幕が開くことに・・・

収録作は――
1.手間のかかる病人 2.女王陛下への贈り物 3.ファウスティーナの運命 4.最後の笑い 5.泥棒が泥棒を捕まえる 6.焼けぼっくいに―― 7.間違えた家 8.神々の膝に

前作の最終話「皇帝への贈り物」は、義兄ドイルの「最後の事件」のエコーを感じさせましたが、本書の巻頭を飾る1は、逆にホームズの“生還”を描く「空き家の冒険」(1903年発表)に、多大の影響を与えたのではないかと思います。
ただ、さきにラッフルズ、バニーのコンビが復活、と記しましたが、セカンド・シーズン開幕にともなう設定の変更と、二人の関係性の変化があり、作品のトーンは微妙に異なります。
青年期の溌剌としていたラッフルズに翳りが生じ、良くも悪くも、老成したセミプロという印象が強まるのに反比例して、従来、振り回される一方だったバニーが、(泥棒稼業と言う名の)青春真っただ中のような覚醒を始めます。
シリーズ短編の積み重ねでホーナングが描き出すのは、「時は流れる」ということ。昔をいまになすよしもがな。前作以上に哀切なラストが待ち受ける8は、その意味で象徴的です。
ああ、このシリーズを栗本薫に読ませてやりたかった・・・

ぶっちゃけ、いまの日本で、このラッフルズとバニーの、二人三脚の冒険譚を素直に楽しめるのは、おそらくミステリ・マニア層ではないと思います。
じゃ、どの層かって?
ライトノベルの読者層ですよ。
うん、論創社は売りかたを間違ったw

3は、イタリア滞在中のロマンスを、ラッフルズが回想する話で、泥棒とはまったく関係ありません。ミステリを期待したら裏切られます。でもこれは、要するにシリーズの“外伝”なのですよ。叙情と叙景にすぐれた、良いエピソードです。そして、それをここに挿入するセンスを、筆者は愛します。
集中のお気に入りは、“死んだはず”のラッフルズを彷彿させる手口の、ライヴァルが登場する、5ですね。スリリングな対決が迎える驚天動地の結末。怒ってはいけませんw

――でもさあ、ここはミステリ系サイトなわけ。ミステリとしての面白みが無いシリーズを、いくら持ち上げられてもねえ・・・と、ご不満のアナタ。
そんなアナタのために予告しておきます。
実質、ラッフルズ・シリーズは本書で一応の幕を閉じ、残るは拾遺集的な一冊だけですが、じつにE・W・ホーナングはそこで、自身のミステリ作家としてのトップ・フォームを示します。

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