| おっさんさんの登録情報 | |
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| 平均点:6.33点 | 書評数:230件 |
| No.170 | 5点 | 亡者の金 J・S・フレッチャー |
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(2017/03/18 10:22登録) 20世紀初頭、イギリス本国はもとより、アメリカで(時の大統領ウッドロウ・ウィルスンの絶賛がきっかけで)広範な読者を獲得し、我国でも、戦前に好評をもって迎えられた、スリラー作家の雄J・S・フレッチャー。 しかし、代表作と伝え聞く『ミドル・テンプルの殺人』と『チャリング・クロス事件』の翻訳を探し求めて読んだ、若き日の筆者は、その筋立てのあまりのご都合主義に憤慨し、こんな場当たり的な作家は、いっときのブームが去ってしまえば忘れられて当然、再評価の要なしと決め込んだものでしたが…… 。 まさか21世紀になって、フレッチャー作品が欧米で、ペイパーバックや電子書籍で復活を遂げようとは! ストーリーテラーの作品の、生命力を軽視していましたね。 そうした海の向こうでの動きを受ける形で、ほぼ半世紀ぶりに実現したフレッチャーの邦訳が、この『亡者の金』です。版元の、論創海外ミステリの編集者が、イギリスの Amazon のカスタマーレビューを目にして面白そうだと思ったのが、セレクトのきっかけという話を耳にしました。このへん、ネット時代ならでは、でしょう。 手にとり、虚心にページを繰ってみると―― うん、ともかく、読ませる。 お話は、主人公が、思慮に欠ける青年時代に巻き込まれた事件を回想する形で進行するのですが(語りくちは、さながらオトコ版M・R・ラインハート)、母親と二人暮らしの家に、謎めいた、もと船乗りが下宿することになる『宝島』ふうの導入部から、ストーリーの方向性を変える出来事が次々に発生し、「このあと、どうなる?」という興味でぐんぐん引っ張っていきます。そのテンポの速さは、同時代のF・W・クロフツとは好対照。 キャラクター造形の弱さ(主人公は最初から最後まで愚かなままで、成長しない)を補っているのが、豊かな背景描写で、イングランドとスコットランドの国境地方(ボーダーズ)、北海に面した辺境を舞台にした冒険行――当然、海もサスペンス・シーンに一役買います――には、エキゾチックな魅力が横溢しています。 けれど。 面白く読まされはしたものの、筆者の、長年のフレッチャー嫌いを撤回させるまでには、いたらなかった (^_^;) 「このあと、どうなる?」の絶妙さに対して、「何がおこったのか?」の裏打ちが、やはりフレッチャーは杜撰すぎるんだよなあ。 もとより、過去の読書体験から、この人の場合、殺人事件の謎解きなどは刺身(メインとなる陰謀)のツマのようなものだと承知してはいたのですが……それにしても、お話が動き出すきっかけとなった、謎めいた会合(主人公が、病床の下宿人から、自分の代わりに友人に会いに行って欲しいと頼まれ、深夜、遠方の廃墟に向かい――死体と遭遇する)が、あとから振り返ると、意味不明すぎる。 著作リストを見ると、『亡者の金』を刊行した年、フレッチャーはイギリス本国でこれだけのミステリ長編を本にしています。 The Borough Treasurer (1919) Droonin' Watter 米題 Dead Men's Money (1919) 本書 The Middle Temple Murder (1919) 『ミドル・テンプルの殺人』 The Seven Days' Secret (1919) The Talleyrand Maxim (1919) The Valley of Headstrong Men (1919) 勝手な推測ですが、大半が連載小説だったのではないでしょうか。フレッチャーが、細かいところまで考えず、とにかく書き出して、あとはお話の勢いにまかせるタイプだったことは、『亡者の金』を読んでも、まず間違いないと思います。 その奔放な想像力が、ときとして、きちんと伏線を張るタイプの作家には出来ない、鮮烈な意外性を生み出すことは否定しません。 ヒッチコック映画を観ていたら、突然、監督がダリオ・アルジェント(『サスペリア2』『フェノミナ』)に変わったような衝撃を、筆者は本書の終盤で受けました。これは、ちょっと忘れられない。 好きか嫌いかといわれたら、やっぱり嫌いですけどねw |
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| No.169 | 7点 | “文学少女”と慟哭の巡礼者(パルミエーレ) 野村美月 |
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(2017/01/28 10:31登録) 初恋の少女は、なぜ死を選び、彼の目の前で、校舎の屋上から身を投げたのか? 聖条学園・文芸部の部長、天野遠子(あまの とおこ)と、文芸部の後輩、「ぼく」こと 井上心葉(いのうえ このは)のコンビを主役に据え、毎回、彼らの周辺で発生する“事件”に、内外の文芸作品の本歌取りともいうべき趣向を凝らしてきた、野村美月の人気ライトノベル“文学少女”シリーズ(ファミ通文庫)。 遅まきながら読みはじめて、年甲斐もなくハマってしまい、発表順に、 ①“文学少女”と死にたがりの道化(ピエロ)2006.5 ②“文学少女”と飢え渇く幽霊(ゴースト)2006.9 ③“文学少女”と繋がれた愚者(フール)2007.1 ④“文学少女”と穢名の天使(アンジュ)2007.5 とレヴューを済ませてきました。 筆者の読書・レヴューのペースは亀の歩みですが、あらためて発行年月を振り返るってみると、シリーズものとして、作品の刊行ペースの安定性は凄いですね。 第五弾にあたる本書(2007.9)は、遠子先輩の卒業が迫るなか、心葉くんが、自身のトラウマになった過去の体験と向き合わざるを得なくなり、隠された真実を知ろうと動き出す――これまでのシリーズの総決算的エピソードです(マイクル・コナリーでいったら、ボッシュものの第四作『ラスト・コヨーテ』ポジション)。 今回、モチーフになっているのは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。中学時代の心葉と、彼が憧れた少女・美羽(みう)の関係性が、『銀河鉄道の夜』の孤独なジョバンニと、その幼馴染カムパネルラの関係性(銀河鉄道に乗った二人は、星座から星座へ宇宙を旅するけれども、最後にカムパネルラは、ジョバンニを置いて遠くへいってしまう……)と重ね合わされているわけです。 お話は、これまで通り、語り手である「ぼく」の一人称と、別な人物によるナレーションが併置されるスタイルで進行します。ワンパターンのようでいて、毎回、そこにどんな新しい趣向が凝らされているのか? というのが、このシリーズの読みどころのひとつでもあります。本書の場合、心葉くんの「ぼく」に対する、もうひとりの語り手、正体不明の「僕」が何者なのか――は、早い段階でほぼ自明となります。そこに叙述トリック的な意外性はありません(過去作には、かなりトリッキーな仕掛けが施されたものもあります)。しかし、「僕」パートの持つ、真の意味が明らかになる中盤の展開は、やはり衝撃的です。 絶望的な状況を綺麗に終息させ、希望の光を灯してくれる遠子先輩は、もはや“探偵役”ではなく、“運命の修理人”でしょう。 舌を巻くのは、作者・野村美月のしたたかなシリーズ構成力で、これまでの巻がすべて、パズルのピースのように機能し、あて嵌まっていく。オーバーな言いかたであるのは承知していますが、それはたとえば、ジョンル・カレのスマイリー三部作を読んで来て、『スマイリーと仲間たち』に至ったときの感銘、あるいは、ジェイムズ・エルロイのLA四部作で、ついに『ホワイト・ジャズ』を迎えたときの感嘆と変わらないものです。 問題は――“文学少女”シリーズを順番に読んでこないと、この凄みが分からないことで、本作を単体で、読め、読め、読めと絶賛するのは(過去作のネタバラシという意味からも)躊躇せざるを得ません。 このサイトが「ミステリの祭典」でなく「ライトノベルの祭典」だったら、それでも、ドラマ的な要素と感動で9点は付けていたと思います。“ミステリ”としては、お話が動き出すきっかけとなる、病院内での転落事件(心葉のクラスメイトであり、前作「穢名の天使」で親密度が増した、ななせを巡る出来事)にやや無理がある。 さて。 心葉自身の問題には、ひとつの区切りがつきました。 このあとシリーズは、通子先輩の卒業というイベントへ向けて、クライマックスを盛り上げていくのでしょうが…… 例によって、最終ページに強烈な“引き”が用意されていました。 あざとい。野村美月、本当にあざとい。 続きを読まさずにおくものか――という、この気迫にはシャッポを脱ぎます。 |
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| No.168 | 8点 | わらの女 カトリーヌ・アルレー |
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(2016/12/03 15:52登録) そのアンモラルな内容が忌避されてか、フランス本国では出版を拒絶されるも、1956年にスイスで刊行されるや話題となり、各国への翻訳紹介を通して、女流サスペンスの実力者カトリーヌ・アルレーの名を一躍知らしめた、第二作。 日本でも高く評価され、筆者が大人向けのミステリを読みはじめた70年代後半において、もはや新しい“古典” といった位置づけでした。ベイジル・ディアデン監督によって映画化*されたさい、主演を演じたショーン・コネリーとジーナ・ロロブリジーダのスチール写真がカバーに使われた、創元推理文庫版も、書店でよく目にしました。 本格ミステリ・キッズであろうと、このへんを読んでいないと大人のミステリ・ファンの仲間入りができない感じがヒシヒシと。だから、背伸びをして読んだわけです。クリスティーやクイーンを好きな小学生がw で、そのときの感想は――なるほど面白い。でもこういうのは、これ一冊で充分な、そんな傑作だよなあ……でしたww それはたとえば、江戸川乱歩編の『世界短編傑作集』で、「オッターモール氏の手」(トマス・バーク)や「銀の仮面」(ヒュー・ウォルポール)を読んだときの気分に近く、感銘は受けながらも、同じ作者の他の作品が読みたくはならなかったのです。 そこには、後味が悪く終わるのが新しい、という風潮(?)への、子供なりの反発があったのだと思います。絶望的な状況から、でも知力で逆転してこそミステリじゃないか、という。 後年、佐野洋の『推理日記』を読んでいて、「推理小説のミスについて」と題された章で、そんな『わらの女』の中心的着想に、じつは大きなアナ――法律上の問題――があったことを知りました(もともとは、結城昌治が日本推理作家協会の機関誌に発表した意見)。 言われてみれば、これは確かにその通りなんですね。『わらの女』は、シンデレラのようなお伽噺(直接的なモチーフは、ヒロインと援助者の関係性を踏まえた、バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』――あの『マイ・フェア・レディ』の原作です)が、過酷な“現実”に着地するお話だけに……法律という、おおもとのリアルを歪めるわけにはいきません。筆者のなかで、好きになれないタイプの傑作、といった位置づけだった『わらの女』が、傑作になりそこねた、すこぶる残念な問題作に変わりました。 そして時は流れ―― ほぼ四十年ぶりの、再読です(その契機となったのは、本サイトでレヴュー済の、『アントニイ・バークリー書評集Vol.2』なのですが、それについては後述)。 うん、なんだかんだいって、こりゃ面白いわ、やっぱり。 作者の第一作『死の匂い』を、ちょっと前に読んでいただけに、ストーリーテリングの格段の向上には、目を見張る思いがしました。心理描写の巧みさ、その筆力に加えて、作品全体に、華麗なる通俗性とでもいいたいものが備わっている。作品中盤の見せ場で、危難を乗り越えるべくヒロインが、衆人環視下、あるモノを別な場所に移動させようとする(無茶だけど惹きこまれる)シークエンスは、象徴的。 前記の、看過できない大きなミスが存在するにもかかわらず、作品自体は、ギリギリのところで成立しています。 裁判は開かれなかった。 からです。無理な計画だったのに、僥倖により、「悪い奴ほどよく眠る」が実現されてしまった、その、運命の紙一重を、しかし当の本人は知らないのだ……と解釈することが、とりあえずできる筈です。 そこで気になるのは――作者のアルレー自身は、作中の陰謀の論理的矛盾に無自覚だったのか? という事。前掲の『死の匂い』のレヴューで筆者は、「未知のことを書くなら、調べる。そしてディテールを詰める――そんな、プロ作家として当然の姿勢が、まだこのときのアルレーには出来ていなかった、とまで言うのは酷でしょうか」と書きました。これもその伝で、アルレーが単に、法律面に疎く、アタマの中だけでお話を考えた結果なのか? いや、ある程度プロットを作った(あるいは、書きはじめた)時点で、リサーチの結果、ミスに気がついたのではないか? しかし、ミステリとしての基本構想は捨てるには惜しい、どうする、と悩んだ結果が、あのクライマックスなのではないか? という気が、いまの筆者にはしています。じつはご都合主義だった、ヒロインの最終的な選択を、華麗なテクニック(必殺の文章力)で誤魔化した疑惑www ズルさもプロに必要な資質とすれば、そのふてぶてしさは、あっぱれと言えますが……さて、実際はどうだったんでしょうね。 ところで。 『アントニイ・バークリー書評集Vol.2』(三門優祐・編訳)に収められた、『わらの女』評のなかで、バークリーは、次のようなコメントをしています。 (……)「邪悪」なるものについての容赦のない研究であり、「悪魔たち」のガリア的な無慈悲さが、事後に回想される形で描かれる(引用終わり) これが、筆者の記憶する『わらの女』の内容にそぐわず、作品を読み返して確認しよう、というのが、そもそもの始まりでした。引っかかったのは、「悪魔たち」という複数形と、回想という小説形式の表現。あらためて『わらの女』を読んでみて、これはやはりマチガイだと実感。うっかり屋さんバークリーの、筆の誤りか? しかし、訳者の三門氏が何の注記もしていないところをみると、三門氏は『わらの女』を読んでいないか、ストーリーを覚えていない可能性が高い。失礼ながら、誤訳の疑惑も。原文はどうなっているんでしょうね。 *今回、参考まで観ておこうかと、映画版のソフトを探したのですが、果たせませんでした。しかし、思いがけず、2015年に韓国で制作された『わらの女』原作の映画があることを知り――その『隠密な計画』のDVDは視聴することができました。原作のミスを修正するため、ドラマ内の人間関係が改変されており、いきおいメロドラマ色が強まっていますが、これはこれでアリだと思います。物議を醸すのは、終盤のオリジナル展開でしょう。作品のトーンがガラリと変わって、韓流メロドラマが、B級バイオレンス・アクションになってしまいます。しかし――その昔、『わらの女』のバッド・エンドに反発し、絶望的な状況からの逆転を希望した身としては、脚色者の気持ちが分かってしまうんだよなあ……。 |
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| No.167 | 4点 | 白骨の処女 森下雨村 |
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(2016/10/07 16:46登録) 「あらまあ、ちっともシンクロナイズしないのね、話が……」(第二章「銀座から堂島へ」) 今年2016年に、復刊の報に接して、筆者がいちばん驚かされた一冊がコレ。 本書『白骨の処女』は、『新青年』初代編集長にして、江戸川乱歩のデビュー作「二銭銅貨」を世に送り出したことでも知られる、〈日本探偵小説の父〉森下雨村の、実作者としての活動を代表する長編で、全十巻すべて書き下ろしという、新潮社〈新作探偵小説全集〉の第二回配本として、昭和七年(1932)に刊行されました。 ちなみに、同全集のラインナップを刊行順に記しておくと―― 甲賀三郎『姿なき怪盗』 森下雨村『白骨の処女』 大下宇陀児『奇跡の扉』 横溝正史『呪いの塔』 水谷準『獣人の獄』 江戸川乱歩(岡戸武平の代作)『蠢く触手』 橋本五郎『疑問の三』 夢野久作『暗黒公使』 浜尾四郎『鉄鎖殺人事件』 佐左木俊郎『狼群』 となります。 復刊されるにしても、論創ミステリとかミステリ珍本全集あたりの、それなりに高価なハードカバー叢書でのリリースであれば、そこまで仰天はしなかったでしょうが――まさかの河出文庫ですからね。出版の経緯が最大のミステリw 財布に優しく、戦前の探偵小説愛好家には、まことに有難い文庫化ながら、果たして定価800円(税別)で採算はとれるのかしらん? と危ぶんでいました。しかしこれは杞憂だったようで、セールスが好調だったとみえ、なんと年内に、同じ作者の続刊『消えたダイヤ』の発売も決定しました。いや~、めでたい。 これで、営業妨害とかあまり意識せず、勝手な感想を垂れ流しても大丈夫でしょうww 読後の印象を、一言でいうと―― クロフツだと思った? 残念! フレッチャーちゃんでした! と、正直まあ、そんな小説だったな、と。 堅実なF・W・クロフツ(『樽』)と、放縦なJ・S・フレッチャー(『ミドル・テンプルの殺人』)、この英国の二作家は、いまとなると意外の感を禁じえませんが、かつての我国では並び称される存在でした。 江戸川乱歩は、その「探偵小説の定義と類別」(『幻影城』所収)のなかで、探偵小説を「ゲーム探偵小説」と「非ゲーム探偵小説」に分け、凡人型探偵が起用されることの多い後者の「代表的な作家はフレッチャーとクロフツであろう」とし、「クロフツはトリックにも独創があるが、フレッチャーなどは主としてプロットの曲折の妙味によって読ませる作風である」と述べています。 乱歩と親交のあった、戦前最高の探偵小説評論家・井上良夫も、クロフツの『樽』を取りあげた「傑作探偵小説吟味」(国書刊行会『探偵小説のプロフイル』所収)のなかで、本格探偵小説を二つの型にわけ、作中探偵と読者が知恵の戦いをするタイプの代表的作家にヴァン・ダイン、もういっぽうの探偵イコール読者ともいうべき行きかたをするタイプの代表作家にフレッチャーとクロフツをあげ、「フレッチャー氏は筋の巧みさに於て優れ、クロフツ氏は論理的複雑さに於て彼を凌駕する」と述べていました。 そして、翻訳者として、このフレッチャーとクロフツをはじめて日本に紹介した立役者が、森下雨村なわけで、本書においては、おそらく、自身が感心した両作家を混ぜたような味を狙ったものと推察できます。 導入部の、東京における、盗難車両内の青年の変死事件――これがアリバイ崩しに収斂していく過程をクロフツ・パート(A)とするなら、舞台を新潟に移しての、富豪令嬢(変死した青年の婚約者)の奇怪な失踪事件――が、復讐悲話に収斂していく過程はフレッチャー・パート(B)といっていいでしょう。 が、このA、B、ふたつのパートが、うまく混ざっていない。多段式ロケットの、機体切りはなしのようなものと割り切れば、一周回って、新しいタイプのミステリという評価も可能かも知れませんが、切りはなされるAパートがなまじトリッキーなぶん、親の因果が子に報う、大時代なBパートとのチグハグさが気になります。 と、まあ、ここまでの文章を読んでこられたかたには、もうお分かりでしょうが、筆者はフレッチャーが嫌いですw まだ血気盛んな青年だった頃、海外の評者によってフレッチャーの代表作とされている、『ミドル・テンプルの殺人』と『チャリング・クロス事件』を読んで、その、あまりにご都合主義な筋立てに、本気で腹を立てた覚えがあります(なので、論創海外ミステリが掘りおこしてくれた、mini さん推奨の『亡者の金』も、つい敬遠気味)。 フレッチャーに範を取った(?)本書も、謎また謎、意外また意外の展開を支えているのは、許容範囲を超えた“偶然”に依存した「あまりにご都合主義な筋立て」なわけで、いちいちツッコミを入れる気にもなりませんが……ひとつだけ書いておくと、Bパートの事件で、犯人はなぜわざわざ苦労して、死体を隠したのか? 犯行の動機を考えれば、そんなことをする理由はまったくありません。むしろ、令嬢の死体は発見されてナンボのはず。でも、それでは――作者が困るんですね. (>_<) さて。 では、そんな『白骨の処女』は、復刊の意義の無い、まるきり過去の遺物――見どころは、戦前の、先駆的なアリバイ崩しものとしての価値だけだったのか? というと、じつは、一概にそうとはいえません。 これは、雨村の、省略をきかせた文章の力が大きいのですが、作品のリーダビリティはきわめて高く、東京~新潟~大阪にまたがる、新聞関係者の、警察当局を向こうにまわした広域捜査の合間に、点景としてちりばめられた当時の風俗描写、自然描写が、小説的興趣を盛り上げます。乱歩は勿論、甲賀三郎にも、大下宇陀児にも無い、その、雨村ならではの魅力は捨てがたい。 そして、忘れてならないのが、「サスペンスフルなアリバイ小説の金字塔」と題された、山前譲氏の巻末解説。作品の読みどころ、そのポイント紹介を最初と最後に分け、作者のプロフィールをあいだにはさみ、原稿用紙5枚程度で森下雨村を解説するという、これはまことに簡にして要を得た、プロの技です。レヴューと称して、サイトにいつもダラダラした文章を投稿している、どこぞのおっさんは見習うべきでしょう。 本書の、トラベル・ミステリ的要素に着目した山前解説に敬意を表し、筆者のジャンル投票は「トラベル・ミステリ」としておきます。 |
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| No.166 | 2点 | 隅田川殺人事件 内田康夫 |
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(2016/08/11 16:26登録) 親族と共に披露宴会場へ向かう途中の花嫁が、隅田川を渡る水上バスから、神隠しにあったように姿を消してしまう。 やがて、隅田川とは「水つづき」である築地の掘割で、新婦を思わせる年恰好の、女の他殺体が見つかる。新郎の知人として披露宴に出席していた、母・雪江の依頼で、ルポライターの浅見光彦が、珍しく東京を舞台とする事件の調査に乗り出すことになるが、その行く手に待ち構えていたのは、浅見光彦史上、最大の危機だった!! 内田康夫のちょうど五十番目の著作で、平成元年(1989年)にトクマ・ノベルズから初刊が出た、浅見光彦シリーズとしては二十七作目の長編です。 本サイトの、西村京太郎作品のレヴューで前回ご紹介した、コンビニ売り「トクマ・ノベルズ大活字マガジン」の、第2号(平成28年2月6日号)に再録されているのを見つけ、性懲りもなく求めましたw 巻頭のグラビア記事に、作品の舞台となった隅田川周辺の写真が配されているので、読書に疲れたら――五十歳の大台を超えてから、目の老化を意識すること切です。嗚呼!――そちらを覗いて、春の桜や、夏の夜空の花火でリクライゼーションできるのも良いな、というのが購入動機になっている、というのはナイショですww じつのところを言うと、巻末の、内田康夫著作リスト(内田康夫財団編)が目当てでしたwww この作者は、昔『天河伝説殺人事件』とか、初期の作をアトランダムに幾つか読んで、良い意味でも悪い意味でも「自由だなあ」と痛感し―― “どこへ向かって歩いているかわからない人ほど遠くへ行ける” という、ナポレオンの言葉を思い浮かべたりして――、羨ましいやら呆れるやら。気になる存在ではありながら、でも、ミステリ・マニアのはしくれとしては、ちょっと認めるわけにはいかない感がまさり距離をおいてしまった、筆者にとっては、なかなか微妙な存在です。 その、ストーリーテラーならではのフリーダムさは、我が(?)栗本薫にも通じるものがありますが、栗本薫の場合は、それでも謎解きミステリを書くとなれば、ポオ以降の伝統や型は意識していました。内田康夫になると、そのへんの、よってたつ土台が無いので、変化に富んだお話を滑らかに物語る反面、駄目なときは、ミステリ作法の基本のキすら出来ていない、“型なし”の弱点を露呈してしまいます。 ひさびさに読んだこの『隅田川殺人事件』は、そんな、駄目なときの内田康夫でした (T_T) 謎の設定、展開、解決、どれも論外です。 常識的に考えて、水上バスを降りるまで、いっしょに乗った親族が、“主役”の花嫁がいなくなったことに気づかないという状況は、まずあり得ません。一歩譲って、たまたま隅田川周辺で何かのイベントがあって船上は人でごったがえしていた、とでもいう設定が出来ていれば、まだしもですが。 そして、ともかくこの導入部であれば、花嫁に何か秘密があって、彼女が自分の意志で――何らかのトリックを使って――姿を消した、というふうに展開させるのが、まあ定石でしょう。じっさいに作者は、途中まで、そういう流れで筆を進めています。娘が行方不明だというのに、なぜ家族は捜索願いを出さないのか? という謎(最終的に、有耶無耶にされます)も、背後の秘密を匂わせる、布石だったはずです。 ところが、作者に霊感がわいたかして、目先の意外性を優先しストーリーにツイストを加えてしまったため……全体の整合性が滅茶苦茶になってしまいました。 最終的に浅見の口から語られる、大味な消失トリックの説明(おそらく、だろうな、かもしれない――が連呼されます)は、お話の中盤、他ならぬ浅見自身が否定してみせた要素を、まったくクリアしていません。 そして訪れる、衝撃のラスト! 良くも悪くも、「自由だなあ」です。隅田川というモチーフを、最大限にいかしてはいます。しかし、犯人の現行犯逮捕が失敗に終わった以上、浅見の告発を裏付けるモノは――何もないのでは? 釈然としないことがありすぎて、読了後、念のため、もういっぺん、最初から読みなおしてしまいました (^_^;) ミステリとして論外、という結論は変わりません。 しかし、不満たらたらで再読しながらも、場面場面のエピソードには、初回同様、結構、惹きこまれている自分がいたのは、悔しい。 知に訴えかける要素では、この小説は、はっきりいってシロウト以下の出来ですが、情に訴えかける要素では、やはり、さすがプロということでしょう。読者を楽しませる努力を惜しんでいません。その「読者」に、どうやらミステリ・マニアは含まれていないらしいにせよ、です。 ジャンルの登録は、隅田川を渡る水上バスが“現場”になったということで、なかば強引に「トラベル・ミステリ」とさせてもらいました。さすがに、これを「本格」とする気にだけは、なれなかったので…… |
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| No.165 | 2点 | 寝台特急カシオペアを追え 西村京太郎 |
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(2016/04/02 16:02登録) 先日、コンビニで「トクマ・ノベルズ大活字マガジン」なるものを発見。「週刊アサヒ芸能」の増刊として、徳間書店が毎月、人気作家の旧作を雑誌形式で、“長編丸ごと入って500円”と謳って大型活字で刊行していっているようです。 その第一号(平成28年1月6日号)が、西村京太郎の『寝台特急カシオペアを追え』。初刊が平成12年8月の長編です。鉄道ファンならぬ筆者でも、今年3月の、北海道新幹線の運行開始にともなうカシオペア廃止のニュースは耳にしていましたから、気をひかれて手に取ってみると、巻頭に「西村京太郎作品に登場する寝台特急」というグラビア・ページはあるし、巻末に山前譲氏作成の「西村京太郎著作リスト」(初刊のみを対象にした、その著作数は、昨年末の時点で568!)はあるしで、それらを眺めているだけでも、結構、楽しめそうなので購入しましたw 西村作品は、比較的、初期の長短編をいくつか読んでいて、どれもそれなりに面白かった記憶はあるのですが、作者がトラベル・ミステリの第一人者になってからは、量産される十津川警部シリーズを追いかける気力もなく、すっかりご無沙汰になってしまいました(その点で、ほぼ山村美紗といっしょですww)。 それでも、第一線で活躍し続けるエネルギッシュなストーリー・メーカーとして、その存在を頼もしく思う部分はあり(なんだかんだいって、マニア受けする作家だけでは、ミステリも存続できないわけで)、この、せっかくの機会に、そんな流行作家の仕事ぶりを拝見させてもらうのも悪くないと考えた次第です。 こんなお話。 誘拐された娘の身代金2億円を持って、携帯電話による犯人の指示に従い、北海道行きの寝台特急カシオペアに乗り込んだ、資産家の父。犯人に先手を取られた十津川班の面々は、あわてて東北新幹線でカシオペアを追う。しかし、郡山で追いついたときには、カシオペアの車内に父親の姿はなく、2億円も消えていた。犯人からの連絡は絶え、人質も解放されないまま、時間が過ぎていく……。 やがて、青函トンネルを抜けた、その同じカシオペアのラウンジカーで、今度は乗客の男女が二人、射殺体で見つかる。この殺人と、誘拐事件に関連はあるのか? 道警に協力を要請した十津川たちが、殺された身元不明の男の、左腕の入れ墨の図柄を手掛かりに、捜査を進めていくと、第二の殺人事件が発生し――やがて同じ犯人グループによる、第二の誘拐事件まで発生することに! なるほどねえ。 ともかく読みやすい。読点を多用した文体に、最初はオヤッと思わされるのですが(まあ、他ならぬ筆者が、文章の読点過多をあげつらうのは、天に向かって唾するようなものですが)、慣れてしまえばライトノベルとおんなじで、クイクイいけます。その、とことん無駄をはぶいた文体は、ある意味、ダシール・ハメットを超えたかもしれないwww ミステリとしての出来は、まあ、褒められたものではありません。冒頭の誘拐事件からして、夕方、下校途中の女子大生をどうやって人目につかず連れ去れたのか分かりませんし、その父親の車のダッシュボードに、誰が、いつ、どうやって、列車のキップを入れることが出来たかの説明もありません。わざわざ列車内で殺人をおこす意味も不明ですし(被害者ふたりが列車を降りたあと、別な場所で殺せば、誘拐事件との関連を詮索されることも無かったでしょうに)、思わせぶりな入れ墨の手掛かりの処理――同志の誓いとして、同じ入れ墨をしたグループが存在する――には、首をひねるばかりです。 思うに、作者は、導入部のシチェーションだけで書きはじめている。作中の、十津川と亀井刑事のあいだのディスカッションなど読んでいると、ああ、西村さん、いっしょになって真相を模索しているな、とよく分かりますw 全体を律する謎などなく、事件が次々に起きることで目まぐるしく展開するストーリーとは、どこかで出遭ったような気がする。何が記憶を刺激するかと思ったら――ああ、そうか甲賀三郎だww しかし。 見切り発車したストーリーを強引にまとめあげ、ラストのタイムリミット・サスペンスに持ち込む腕力は、これはやはりたいしたものだと思います。西村京太郎の、道場の試合ではなく、野試合で勝ち抜いてきたキャリア、その自信が伝わってきます。 それにしても、ギリギリ土壇場で、十津川が犯人グループのリーダーに対して打った、起死回生の一手。これはフィクションの世界でしか許されないだろうなあ。 採点結果だけ見ると悲惨に思われるかもしれませんが、でも、もう少し十津川警部シリーズを読んでもいいかな、という気になっている筆者なのでした。 |
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| No.164 | 5点 | 死の匂い カトリーヌ・アルレー |
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(2016/02/20 09:52登録) 長編第2作『わらの女』で国際的な評価を受けた、フランス女流サスペンスの名手カトリーヌ・アルレーが、それに先立つ3年前、1953年に発表していた、全編アメリカが舞台のデビュー作です。 このサイトへの投稿で、折にふれ『わらの女』に言及してきながら、じつは当の作者アルレーに関しては、昔々、その『わらの女』を読んだきりという、情けない読書歴しかなく……急に、これではイカンと思い立ち、ネットを介し古本で本書を購入してみました。 それにしても、筆者の学生時代、1970年代から80年代にかけて、アルレーは創元推理文庫の人気作家のひとりで、新作が続々と訳され、著作の多くが――TVのサスペンス・ドラマの原作に使われる頻度も高く――書店の棚で“現役”を続けていました。パトリシア・ハイスミスやマーガレット・ミラーなどに比べても、当時の日本では遥かにメジャーな存在で、ミステリ・ファン以外の固定読者が、相当ついていたと思われます。それがいまや、版元に在庫が残っている著作は『わらの女』のみ。栄枯盛衰の感慨を禁じえません。 さて。 ではまず、『死の匂い』の登場人物リストを見てみましょう。 ステラ・フォールディング…大富豪の一人娘 スペンサー・ブリッグス……医者、ステラの夫 ミス・ベルモント……………看護婦 と、載っているのは、この三人だけ。うん、いかにもフランス・ミステリですねw たちどころに、少数精鋭の心理劇が予想されます。 実際には、序盤でステラの父親も登場するわけですが、彼はすぐに退場(病死)します。卒中で倒れ、他の医者から見放されたこの父親を、独自の療法で一度は快方に向かわせたのが、気鋭のスペンサー医師であり、それがきっかけで、ステラとスペンサーは結婚することになるのです。しかし、独占欲の塊のようなステラは、専門の研究に従事したいという夫の願いを認めず(結婚のエサとして、研究施設への資金提供を約束していたにもかかわらず、はなから、そんな慈善的なことに金を使う気はなく)、女王のように彼を支配しようとするため、たちまち結婚生活には暗雲が――創元推理文庫の、おなじみの、扉のストーリー紹介の文章の表現を借りれば“死の匂い”が――漂いだします。 本書の原題はTu Vas Mourir ! ですから、そのまま訳せば「あなたは死ぬでしょう!」といった感じでしょうか。 冒頭、半身不随になった「私」ことステラの絶望的な“現在”が描かれ、そこからストーリーは回想形式で進行し、終盤、またステラの“現在”の意識に戻るという構成がとられています(ふと、同趣向の、栗本薫の短編「真夜中の切裂きジャック」を連想しました。文章を断絶させる印象的なエンディングといい、栗本センセ、『死の匂い』を意識してたことは、まず間違いない)。どうしてステラはこういう羽目になったんだろう? という疑問を読者にいだかせ、たちどころに小説世界に惹きこむ効果が大きい半面、次作『わらの女』のような、逆転のサプライズには欠けます。 そして、この現代版グラン・ギニョルの最大の弱点は、「どうしてステラはこういう羽目になったんだろう?」という、さきの疑問に対する答えに、およそ医学的な説得力がない事です。ある前提は用意されていますが、その病気のことを、作者がきちんと調べたうえでの嘘でないため、お話全体が、魔法の薬をめぐるファンタジーになってしまいました。 未知のことを書くなら、調べる。そしてディテールを詰める――そんな、プロ作家として当然の姿勢が、まだこのときのアルレーには出来ていなかった、とまで言うのは酷でしょうか。しかし、寝たきりになったステラの介護の模様を描くにあたって、食事の不便さに筆をさきながら、排泄行為のほうはまったく無視するというあたりを見ても、作品に真実味をもたせることに、作者が心を砕いていたとは思えないのです。徹頭徹尾、頭の中だけでこねまわした、猫と鼠のゲーム、そのシミュレーションにすぎません。 そんな、およそリアリティのない、観念的な小説が、面白いわけはないのです――本当なら。 ところが。 困ったことに、読ませるw もうねえ、筆力というものはどうしようもない。およそ感情移入などできるはずもない、自業自得のダメ女の内面描写が、しかし病的な興奮を喚起し、夢の中の出来事のようなドラマに迫真性をあたえてしまっているのですね。 それまでずっと“ツン”だった彼女が、恐ろしい体験をへて変貌をとげ、最後の最後に“デレ”る――くだりの、意識の洪水は、圧巻です。 それにしても、アルレーは本書を書いたとき、何歳だったのでしょう? 作者が言明を避けているため、その生年については、1920年から、24年、35年まで諸説ありますが、もし1935年生まれだとすれば……刊行時、18歳 !? いくらなんでもそれは無いだろう、と思いつつ、作品の、前記のようなリアリティの欠如を考えれば、あるいは、という気も。だとすれば、しかし、この才気、パワー、テクニックは、桁外れの化け物ですわ。 |
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| No.163 | 7点 | スペイドという男 ハメット短編全集2 ダシール・ハメット |
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(2016/01/30 11:11登録) 1970年代に、全四巻が予定されながら、半分で刊行が止まったまま、結局、編訳者の稲葉明雄氏の逝去(1999年没)もあって中絶した、創元推理文庫のハメット・アンソロジー。 その第2巻は、『スペイドという男』として1986年に改装版が出るまでは、長く『ハメット傑作集2』として流通しており、今回、筆者が“積ん読”の象の墓場(?)から掘り起こしてきたのも、その旧版のほうです。 なんだかんだで、収録短編の過半数を、他の本で読んでしまっていたため、これまで、イマイチ通読する意欲が湧かなかった一冊でしたが、さて……。 収録作は以下の通り。 ①スペイドという男(1932.7 American Magazine)②二度は死刑にできない(1932.11.19 Collier’s)③赤い灯(1932.10 American Magazine)④休日(1923.7 Pearson’s Magazine)⑤夜陰(1933.10 Mystery League Magazine)⑥ダン・オダムズを殺した男(1924.1.15 Black Mask)⑦殺人助手(1926.2 Black Mask )⑧ああ、兄貴(1934.2.17 Collier’s)⑨一時間(1924.4.1 Black Mask)⑩やとわれ探偵(1923.12.1 Black Mask) これに、『フェアウェルの殺人』(旧題『ハメット傑作集1』)同様、エラリー・クイーンの“序文”が付されている構成ですが、今回は、その文章の出典が、クイーンの編んだハメット・アンソロジー The Adventures of Sam Spade and Other Storiesであることが明記されています(と、こういう、当たり前のことが前巻では出来ていなかったんだよなあ)。 「訳者あとがき」によれば、前掲書の収録作品(①②③⑦⑧)に、新たにコンティネンタル・オプもの二編(⑨⑩)と、稲葉氏が「とくに気に入っているもの三篇」(④⑤⑥)を追加したのが本書ということになるわけですが#……しかし、この編集方針は、あまり感心しません。 だってねえ、1944年に出版された The Adventures of Sam Spade and Other Stories は、それまで雑誌掲載のまま埋もれていた短編をクイーンが掘り起こしてまとめた労作(60年代初頭まで、都合9冊が刊行された、クイーン編纂のハメット・アンソロジーの皮切りで、あの〈クイーンの定員〉では #098 に挙げられています)なわけですよ。本来、きちんとした形で、つまりクイーンの選択になる本としてそのまま紹介すべき一冊を、お手軽に利用しているようにしか思えない。結果として、親本(?)より充実した内容になったとしても……稲葉氏のアンソロジストとしての姿勢には疑問が残ります。 気を取り直して、作品を見ていきましょう。 本書のウリは、まずは、名作『マルタの鷹』の主人公・サム・スペイド(創元推理文庫版での、探偵名の表記。ハヤカワだとサム・スペードですね)が活躍する、三作しかない希少な短編がすべて読めるということに、なります。 筆者は、「スペイドという男」は創元推理文庫の『世界傑作短編集4』で、「二度は死刑にできない」と「赤い灯」は、講談社文庫から出ていたハメット短編集『死刑は一回でたくさん』(各務三郎編)で既読でしたが、どれもストーリーをまったく忘れている始末で、その意味では、新鮮な気分で読み返すことができました。 が――う~ん、微妙。『マルタの鷹』の設定を踏襲しただけで、まったく陰影のない、アルファベットのVっぽい顔立ちをした金髪野郎が、ゴチャゴチャ入り組んだ事件をバタバタ解決していくだけの、平凡な仕上がりでした。 3編のなかでは、枚数に余裕のある「スペイドという男」が、二次創作的なキャラクター小説として、トリックと手掛かり(消えたネクタイ)を配した謎解き小説として、まあ、そこそこ無難な仕上がりといえなくはありません。しかし、顔見知りの警察関係者を差し置いて、巻き込まれた殺人事件の現場で捜査の主導権を握ってしまうスペイドは、まるで“エラリー・クイーンのライヴァルたち”の仲間入りをしてしまったみたいです。褒めてるんじゃありませんよ。作中、私立探偵が“名探偵”としてパフォーマンスを披露できるだけの、前提がまったく用意されていないんですから。 民間の私立探偵が、警察(公立探偵)と対立するのではなく、協力して、というか、むしろ警察を利用して仕事を遂行するというシチュエーションは、同じ作者のコンティネンタル・オプものでも、まま見られました。本書収録の「一時間」(“ゴチャゴチャ入り組んだ事件をバタバタ解決”する話が、かっきり一時間におさまることで、逆に笑いを誘う。前掲『死刑は一回でたくさん』にも収録)と「やとわれ探偵」(オプが“やとわれ探偵”となったホテルでおきた、意味ありげな謎の三重殺人――の、意味のなさ! オフビートな佳品)にも、その要素はあります。しかしオプものでは、それがむしろ、一匹狼ではない、主人公の属する組織(ピンカートン探偵社がモデルである、全国規模のコンティネンタル探偵社)の大きさを感じさせることになり、紙上のリアリティは保たれていたのです。 短編に関するかぎり、スペイドものは、試行錯誤を繰り返したオプものより、後退してしまっています。シリーズ最後の登場となった、「二度は死刑にできない(死刑は一回でたくさん)」の幕切れでは、犯人を前にいかにも“悪魔”然としたセリフを決め、笑ってみせたスペイドですが、いやいやオプが、「金の馬蹄」(ハヤカワ・ミステリ『探偵コンティネンタル・オプ』所収)で犯人におこなった非情な仕打ちに比べれば、甘い甘い。 『マルタの鷹』の、あの結末(スペイドと秘書エフィとの関係性の変化、そして相棒の未亡人と続けていくことになるであろう、虚無的な日常の予感)を無かったことにして、キャラクターを流用し形式的に続きを書くのであれば、むしろ完全に二次創作に徹して、『マルタの鷹』の前日譚のエピソード――スペイドと相棒との出会いやら、その妻と不倫にいたる経過やら、を何らかの事件と絡めて――でも描いたほうが、ファン・サービスになり、商売上もよかったかもしれません。まあ、それを潔しとするような作者でなかったことは、分かるのですがね。 本書の真価は、じつのところ、雑多な印象を受けることは否めないにしても、ハメットの初期から後期にかけての、作家としてのさまざまな試みを概観できる、ノン・シリーズもののほうにあると言えるでしょう。 胸の病気で入院中の患者が、一か月分の生活費をもって外出する、その散財の一日の出来事を綴った「休日」は、まだハメットがコンティネンタル・オプものを書きはじめる前に文芸誌に発表された、習作の域を出ない(と個人的には思う)掌編ですが、主人公のモデルが、結核を患い入退院を繰り返したハメット自身であろうことが、付加価値になっています。この、最初期の、ミステリでもなんでもないお話など読むと、もともとのハメットは、普通文学のほうに行きたかった人なのかな、という思いを強くします。 「夜陰」については、後述。 「ダン・オダムズを殺した男」と「殺人助手」は、オプものの合間に『ブラック・マスク』誌に書かれた作品です。脱獄囚の“旅路の果て”の物語である前者(前掲『死刑は一回でたくさん』にも収録)は、あらためて読むと、三人称客観描写のハードボイルド文体のテスト・ケースにも思えてきます。あまりにも大きな偶然に依存しているのが難ですが、舞台となる西部の背景描写は素晴らしく、一種の寓話として、目をつぶるべきか。これ一作きりの、刑事くずれで醜怪な容貌の私立探偵アレック・ラッシュものの後者(ハヤカワ・ミステリ『名探偵登場⑥』に採られていたんだよなあ)は、「三人称客観描写」を謎と解明の物語に適用している点で、オプものからスペイドものへの移行の、準備段階とも言える作品。ですが、お話を複雑にしすぎて、前記の文体では、読者が作中の人間関係をスムーズに把握できない弊害をもたらしています。また、当初の犯行計画にも大きな論理的欠陥(カトリーヌ・アルレーの『わらの女』にも通じる問題)がありそう。そんなわけで“名探偵”ものとしては失敗作なのですが……小説がまったく別なものに変わってしまうような、ラスト5行が凄い。ハードボイルドの定型に亀裂が入り、ノワールが深淵を覗かせています(そのへんの凄さは、初読時の、子供の頃の自分には、ま、理解の外だったでしょう)。 そして。 スペイドものの長短編を経て、ハメットの作家としての最後期の仕事といえるのが、「夜陰」と「ああ、兄貴」です。うん、ともに今回が初読のこの2編は、いいですよ。主人公の“おれ”とトレーナーの兄の関係性、その魅力でグイグイ読ませるボクシング小説の後者は、最後に殺人も発生しますが、その謎解きは――幾つかの可能性は語られるものの――ないんですね。リドル・ストーリーとも違う。あくまで起こってしまったことが問題で、あとからその真相を云々したところで、死者が帰ってくるわけでもない、という、いわば脱ミステリの境地で終わるわけですが、それが肩すかしにならず、余韻に昇華されています(内容的に、女性読者にお勧めしたいハメット作品――と個人的には思っていますw)。 余韻といえば……「夜陰」も然り。夜道を通りかかった“私”が、嫌な男たちに絡まれている女の子を助け、車で彼女の希望する酒場に連れていってやる――という、ストーリー的には、ただそれだけの掌編。なのですが、最初期の「休日」と決定的に違うのは、そこに、作話上のある仕掛けが隠されている点(「訳者あとがき」の、稲葉氏の本作に対するコメントは、できれば先に読まないのが吉)。オチのつけかたの妙味という点では、過去に言及したことのある、同じ作者の「アルバート・パスター帰る」(筆者のお気に入り。本サイトの、ハメット『悪夢の街』のレヴューをご参照ください)にも通じますが、オチが、意外性の演出にとどまらず、それ以上の小説的効果をあげているという点では、こちらに軍配があがるでしょう。「普通文学のほうに行きたかった人」かもしれないハメットが、既存のミステリ短編の枠にとらわれず、しかしまぎれもないミステリ・スピリットを発揮してみせた、この洗練された逸品を投じたのは、『ミステリー・リーグ』誌――わずか四号で終焉を迎えはしたものの、あのエラリー・クイーンが、『EQMM』以前に情熱をもって世に送り出したミステリ専門誌の、創刊号でした。 # 念のため、The Adventures of Sam Spade and Other Stories の初刊本(1944)の収録作を資料で確認してみると―― 「 赤い灯」「二度は死刑にできない」「スペイドという男」「殺人助手」「夜陰」「判事の論理」「ああ、兄貴」 となっており、稲葉氏の記述とは若干の齟齬がありますが、これは同氏が使用されたテクストが、1945年のデル・ブックス版ということで、収録作に異動があった(アブリッジされた版であった)ためと思われます。 |
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| No.162 | 9点 | マルタの鷹 ダシール・ハメット |
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(2015/12/31 16:14登録) ひさしぶりにハメットを読もうと、ハヤカワ・ミステリ文庫の『マルタの鷹』〔改訳決定版〕を手にした直後に、訳者の小鷹信光氏の訃報に接しました(12月8日、逝去。享年79)。 ハードボイルドの“鬼”であり、何より海外ミステリの研究者・紹介者として、筋金入りのプロでした(氏が編まれたアンソロジーを、一冊でも読まれた人なら、実感されるでしょう)。 筆者は一度だけ、あるパーティでたまたま小鷹氏とお話する機会があり、『コンチネンタル・オプの事件簿』のレヴューのなかに、そのときのエピソードを記しています。 寂しいなあ。 今回読んだ「改訳決定版」(2012年 発行)は、このところ早川書房が押し進めている、いささか無節操な感のある「新訳」とは性格が異なります。1988年6月にハヤカワ・ミステリ文庫から刊行された旧訳版『マルタの鷹』の訳者である、小鷹氏自身の手になる改訳なのです。 新たに付された「あとがき」によると、アメリカ文学研究者の諏訪部浩一氏が2009年から《英語青年》のウェブサイトに連載された〈『マルタの鷹』講義〉(のち、紙の本としてまとめられ、第66回 日本推理作家協会賞の評論部門を受賞)に接し、「きびしい英語教師の添削に身をすくめる生徒の気分」となり、旧版の翻訳時の「辞書の不備、検索の不徹底さ、深読みのいたらなさ、安易な誤読、単純な校正ミスなどを思い知らされ」、その反省から改訳を決意されたようです。これはしかし、なかなか出来ることではありませんよ。頭が下がります(筆者などは、ミステリがアカデミックな研究材料となることへの抵抗があり、諏訪部氏の本に目を通す気にもならずにいたのですが……料簡の狭さを、いま反省しています)。 はからずも、追悼のための読書、といった感じになってしまいました。あまりのタイミングに、いささか運命的なものを感じたりもしています――って、我ながらオーバーな表現ですね。 でも、たまたまそういう偶然があった、というだけのことなのに(そして、世界が恣意的であるなんてことは、人生五十年も生きてくれば、当然のように分かっているはずなのに)、ついそこに特別な意味を見出したくなるのが、人間というもの。 『マルタの鷹』第7章で、主人公の私立探偵サム・スペードが、ヒロインたる、一筋縄ではいかない依頼人・ブリジッド・オショーネシーに語る、有名なフリットクラフトのエピソード(まるで問題の無い日常を送っていた男が、あるとき、オフィスから昼食をとりに外に出たまま、忽然と行方をくらましてしまうが……その原因は、たまたま建築中のビル工事現場から彼の近くに落ちてきた、一本の梁にあった)のように。 筆者は中学生時代に、創元推理文庫版(村上啓夫訳)でいちど『マルタの鷹』を読んでいますが、そのときは、随所に印象的な場面や描写があるとは思いながらも(とりわけ第二章で、スペードが警察からの電話で眠りを妨げられ、起きだしてパートナー殺しの現場に向かうくだりの、客観的なナレーションは、忘れがたいものでした)、肝心のお話は、どこがどう面白いのか分からず、前述の「フリットクラフトのエピソード」も、なぜスペードが突然、当面の事態とは無関係に思えるそんな話を持ち出したのか、理解不能でした。 あらためて読み返してみれば、ああ、これは愛の告白だよなあ、とピンとくるわけですが(こちらも、それなりに年をとったということです ^_^;)。ブリジッドと何やらつながりがあるらしい、怪しい男を呼びつけ、両者を激突させることで局面の更新をはかる前に、「きみは、おれの人生に落ちてきた梁なんだ」というメッセージをブリジッドに伝えようとした――でも、まったく伝わらなかったんですね。 そして……そんな、人生を変えるような恋と冒険(お宝の争奪戦。いってみれば、このお話はオトナ版の『宝島』なんです)をしたはずのスペードは、でも最終的に、フリットクラフトと同じような“日常”に吸収されていってしまう。あとに残るのは、宴のあと――たとえそれが、狂乱の宴だったとしても――のような虚脱感。ああ、これはやっぱり名作だわ。 表面上の設定や部分的な要素を、後続の作家たちは模倣・流用しまくったわけですが、本書は本来、ハードボイルド・ミステリへの葬送曲ともいうべき作品であり(その意味では、探偵小説のパロディとして執筆されたはずなのに、結果として“黄金時代”を先導する役割を担うことになった、E・C・ベントリーの『トレント最後の事件』と近いものがありそうな)、ジャンルの創始者たるハメットが、これを書いてしまったことに、ある感慨を覚えます。 似たようなことは、『赤い収穫』の再読時にも感じました。主人公を徹底的に使い切って、搾りかすみたいにしてしまったら――そりゃハメット、シリーズものとして続きを書くのは楽じゃないよぉ。 そして。 真相を知ったうえでの再読で明瞭になるのは―― 本書が、じつはミステリとしていったい何が“謎”なのかを、巧みに隠している、きわめて技巧的な作品であったのだなあ、ということ。ごく初期の段階で、その謎は提示されているにもかかわらず、初めて読む人は、事件の連鎖(ミスディレクション)に気をとられ、何が中心となる謎なのか把握できず、まったく別な興味で読み進めるでしょう。それが、最後になると…… という、その“仕掛け”を可能にしているのが、ハメットが本書で採用した、探偵役の三人称客観描写(その行動に密着しながら、しかし内面にはまったく踏み込まないという、作者の視点)なのです。 探偵役の一視点で展開するハードボイルド・ミステリが、露呈しがちな弱点は、主人公の内面描写をおこないながら、作者の都合で謎解きに関する思索を選択してオミットする不自然さです。かりに、調査の過程で、手掛かり自体はフェアに提示されていたとしても、主人公の内面から、推論を組み立てるプロセスが欠落していては、本当の意味でフェアとは言えないでしょう。往々にして、ハードボイルドの名探偵は、いつのまにか全部お見通し――か、でなければ、急に閃いて全部分かりました――になってしまう(ような気がする、というのが本当ですね。あんまりハードボイルドを読んでない人間なので、アテにしないでください w)。 『マルタの鷹』も、一見、そんなふうに見える。 ですが、クライマックスの対決場面でスペードが開陳する謎解きは、それまでの混沌とした状況のなかにあって、段階的に得られたデータを総合したものです。その指摘を念頭において、最初からお話を振り返れば、スペードのなかで疑惑がじょじょに確信に変わっていったプロセスを、それがじっさいには書かれていないにもかかわらず、読者は紙背に読み取ることが可能になる、そしてそれは、スペードという陰影のあるキャラクターの肖像を、あらためて浮かびあがらせることにもなるのです。 とまあ、本書のきわめて実験的な三人称記述を、筆者はそんなふうに理解したわけですが……本当は、もっとブンガク的な意味(ヘミングウェイの影響とか?)があるのかも知れません。そのへんは、いずれ諏訪部先生の「講義」で勉強させてもらうつもりですw 『赤い収穫』のパワーと『マルタの鷹』のテクニック、前者の破天荒さと後者の完成度、どちらを上に置くかは、これはもう、個々の評者の好みでしかないでしょう(『デイン家の呪い』なんて無かったww)。 あえて差をつけるため、本書の採点を9点としましたが(レヴュー登録済の『赤い収穫』は10点です)、これは、最後のほうの、スペードの告発(二段階に分かれており、第一の告発が、必然的に第二の告発に繋がる)の、警察に対する有効性にやや疑問を感じたためで、一介の私立探偵のコトバだけで、裏付けなしに簡単に警察が逮捕に向けて動くものか? という、その甘さをマイナス要因としたことによります。 あと、小説としてさらに欲を言えば―― 舞台となるサンフランシスコが、随所に細部描写はあるものの、それが細部描写にとどまって、主人公サム・スペードの「おれの町」として立ち上がってこないウラミがあります。町と、そこで生きる人々のポートレイトに、もう一工夫欲しかったと思います。 やがてカリフォルニアを舞台に、ハードボイルド・ミステリのそうした潜在的な魅力を引き出したのが、フィリップ・マーロウの創造主・レイモンド・チャンドラーということになるのでしょうが、それはまた別な話。 |
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| No.161 | 6点 | アントニイ・バークリー書評集Vol.2 評論・エッセイ |
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(2015/12/05 11:32登録) バークリーが実作の筆を折ったあとの、ミステリ書評家としての業績に光を当てる、インディーズの好企画の第2弾(2015年5月の文学フリマで頒布され、古書店を通して通販対応もおこなわれました)は、ジョルジュ・シムノンを中心とする「フランス・ミステリ作家特集」です。 1956年から70年まで、『ガーディアン』紙の日曜版に月一回のペースで連載された、フランシス・アイルズ名義の書評コーナーから、フランス作家の英訳作品に対する論評を抜粋し翻訳した内容(編訳:三門優祐)に、バークリー愛好家・森英俊氏のエッセイが付され、穴埋めの囲み記事の形で、前巻の修正点がいくつか記載されています。 書評の配列は、今回は掲載日時順となっていますが、それを作家別にまとめてみると―― ジョルジュ・シムノン (ノン・シリーズ作品)仕立屋の恋/カルディノーの息子/Le passage clandestin/Le nègre/ストリップ・ティーズ/可愛い悪魔/日曜日/Crime impuni/新しい人生/青の寝室/Le déménagement (メグレ警視シリーズ)メグレ式捜査法/メグレと田舎教師/メグレ推理を楽しむ/メグレと老婦人/メグレと火曜の朝の訪問者/メグレと口の固い証人たち/メグレ夫人と公園の女/メグレ夫人のいない夜/メグレの途中下車/メグレと老外交官の死/メグレの失態/メグレの回想録/メグレと妻を寝とられた男/メグレと殺された容疑者/メグレ罠を張る/メグレたてつく/メグレと首なし死体/メグレの財布を掏った男/メグレの打明け話/メグレとリラの女 カトリーヌ・アルレー わらの女/死者の入江/目には目を ボアロー&ナルスジャック 思い乱れて/技師は数字を愛しすぎた/呪い ユベール・モンティエ 帰らざる肉体/愛の囚人 セバスチアン・ジャプリゾ 寝台車の殺人者/シンデレラの罠 マルグリット・デュラス ヴィオルヌの犯罪 恥ずかしながら、取り上げられている作品のほとんどが未読でした(既読は、『メグレと口の固い証人たち』『メグレ罠を張る』『わらの女』『技師は数字を愛しすぎた』『呪い』『寝台車の殺人者』『シンデレラの罠』の7作)。前向きに、今後の読書ガイドに役立てていくことにしましょう (ジャンル外作家として、筆者など完全にノーマークだったマルグリット・デュラスが、なんだか無性に面白そう)。 基本的に、好き嫌いをバークリー流の表現で綴った“作家の書評”であることは、前巻同様ですが、今回、その個性的な“主観”は、アングロサクソン(理論的なイギリス人?)とガリア(感覚的なフランス人?)の二元論になって、個々の書評に反映されています。 最多の31作にコメントしたシムノンを、バークリーが高く評価していたことは間違いありませんが(「(……)多才な作家だが、その中でも最高の美質は、それぞれの作品に一つひとつ独特の風味を添える力である」)、随所で、掴みどころのない書きぶりへの不満は表明しています。 『メグレと口の固い証人たち』を評して、「これこそ、半ばウナギのようにぬるぬると逃げてゆく、奇妙でしかし親しみやすい、本物のシムノンの世界なのである」と述べるなど、ときにバークリーの文章まで、掴みどころのないものになってしまっているのはご愛嬌。まあこのへんは、訳文のせいもあるかもしれません。癖のあるバークリーの表現を日本語に落とし込むにあたって、前巻ほどではないにしても、まだまだ、文章として違和感を生じ、ここは原文ではどうなっているんだろう? と首をひねらされる個所が散見します。 訳の良し悪しは、ひとまず置くとして―― 個人的に、いちばん原文を参照したくなったのは、バークリーがアルレーの『わらの女』を次のように紹介している部分。 (……)「邪悪」なるものについての容赦のない研究であり、「悪魔たち」のガリア的な無慈悲さが、事後に回想される形で描かれる(引用終わり) 『わらの女』って、そういうお話でしたっけ? なんだか筆者の記憶と違うぞぉ 。どこに問題があるのか(バークリー? 訳者? ボケはじめている筆者?)これは、読み返さないといけないなあ。 ちなみに。 文学フリマで頒布された本書には、会場限定の「おまけフリーペーパー」が付いており(筆者は会場に参加した知人を通し、無事ゲットしました)、そこには、編集作業終了後に漏れていたのが判明したという、フランシス・ディドロの書評(『七人目の陪審員』ほか一編)が載っています。スケジュールを設定し、精力的にこなしていく編訳者の仕事ぶりには、脱帽するしかありませんが、もう少しペースを落として、遺漏なきを期してほしいという思いもあります。 |
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| No.160 | 3点 | 天才は善人を殺す 梶龍雄 |
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(2015/11/09 09:56登録) 「(……)要するに、CD(キャッシュ・ディスペンサー:引用者注)は天才のロボットなんですよ。そしてその法外なロボット性は、時に父のようなお人好しを殺しさえするんです」(第一章「数を盗む」) 古くなった家を増改築するという理由で、親戚から多額の借金をした直後、落としたキャッシュ・カードを拾った何者かに、その大金を詐取され、死に追いやられた父。主人公・芝端敬一は、ひそかに恋心を寄せる義母・めぐみの懇請を受け、あてにならない警察のかわりに、父の自殺の原因をつくった犯人を捜し出すことを決意する。大学の友人たちも、さながら“青年探偵団”となり協力してくれることになった。そんな彼らの前に立ちふさがる最初の難題は、いかにして犯人はキャッシュ・カードの暗証番号を知り得たか、なのだが…… 『透明な季節』(1977)で江戸川乱歩賞を受賞した梶龍雄は、翌78年に3冊の長編を上梓しています。順に『海を見ないで陸を見よう』、『大臣の殺人』、そして『天才は善人を殺す』です。 うち本書は、作者がはじめて小説の舞台を過去から“現代”に移し、当時としては目新しいコンピューター犯罪(いまとなっては、その表現がいささかお笑い草に思えてしまうぐらい、素朴な事件だとしても、不特定多数の一般人が端末機を操作することができるという、新しい時代に対応した犯罪の、国産ミステリの最初期の作例であることは確か)を素材にした、その意味では新境地を開く意欲作なのですが――ほとんど評判になった記憶がありません。 親本のハードカバーが講談社から出たあと、講談社文庫にもならず放置され(カジタツは講談社とは、付き合いの短い作家ではありませんが、しかし売り上げの面でシビアに評価されていたのか、同社の文庫になったのは、乱歩賞作品とその続編の『海を見ないで~』だけの筈)じつに9年後になって、改訂版が徳間文庫*に編入されました。筆者が今回、目を通したのもそちらです。 で、と。 うん、まあこれは、やっぱり失敗作でしょうねえ。 なにより肝心のストーリーが、読者を納得させないままドンドン進行していってしまうので、読んでいて釈然としないことおびただしい。 まず、ものすごく基本的なところで――主人公の父が自殺した、という前提自体に、なんで? と首をかしげてしまうわけです。いくらショックが大きいといっても、この場合、家の増改築は、生死にかかわる問題じゃないでしょう。たしかに借金は残りますが、別にアブナイところから借りたわけじゃない。もとより、働いて、少しずつ返していく約束だったはずです。自分の生命保険で借金を返済してくれ、という内容の書置きに、家族は違和感をもたないのか? そのへんをスルーして、一足飛びに、暗証番号をめぐる推理談義がはじまってしまううえに、推論から導かれる、犯人のとったであろう行動が、これまた説得力に欠けます。キャッシュ・カードを無くした敬一の父が、そのことにしばらく気がつかないでいる――なんてことを、どうしてアテにできるのか? 当然、紛失届が銀行側に出されると考えるはずで、とすれば、そんなリスキーな犯行プランを断行するものか? 作中の誰か、ツッコんでくれよぉ!!! ところが後半、“青年探偵団”がマークした容疑者が変死をとげるあたりから、お話はその様相を変えだし――オシマイまで読むと、本格ミステリとして、作者が本書でやりたかったことは、じつによく分かります。あるアイデアに関してチェスタトンの名前が引き合いに出されますが、プロット全体の企みに関しては、筆者はクリスティー(のミス・マープルもののある長編)を連想しました。うん、ホント、気持ちは分かる、しかし……。 もう少しスマートにミスリード出来なかったか。 また、意外性を演出しようとしたことで、逆に小説としてのテーマが空回ってしまった嫌いがあるのは否めず、“天才は善人を殺す”というタイトルに、別な角度から光が当たる趣向も、でも“善人”はそんなコトしないだろ! というツッコミを許す結果に終わっています。プロットの要請で、キャラクターの人格設定に無理が生じているのです。 「謎やトリック」と「人間」、どちらかに振り切ればいいのに、この作者らしく両立させようとして、今回は結局、中途半端に終わってしまった感じですね。 中途半端といえば、ストーリーの途中で退場したヒロインはどうなったのかなあ? “青年探偵団”は、どうやらこのあと『殺人者にダイアルを』という長編でも活躍するらしいけど、彼女も再登場するのかしらん。本作だけだと、まったくご都合主義なキャラなんだけどw (以下、蛇足) 主人公の、義母への想いとか、綺麗(事)にあっさり処理するなよカジタツ。狩久だったら、そこはきちんと、一線を越えさせるぞwww *徳間文庫のカバー裏の、荒筋の紹介文は、真相に抵触した表現を含んでいるので、もしこれから手にされるかたは、注意が必要です。最初に本文を読んで、それから確認のため荒筋に目を通した少数派(?)の筆者は、ラッキーでした。 (後記)梶龍雄作品では、『ぼくの好色天使たち』も講談社文庫になっているとの指摘を、本サイトに目を通してくれている、知人のSさんから受けました。(2015.12.5) |
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| No.159 | 7点 | 大渦巻への落下・灯台 -ポー短編集Ⅲ SF&ファンタジー編- エドガー・アラン・ポー |
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(2015/10/25 18:51登録) 2009年に新潮文庫から、アメリカ文学研究者・巽孝之氏の編訳で、2冊のポー短編集が刊行されました。ゴシック編と銘打たれた『黒猫・アッシャー家の崩壊』と、ミステリ編の『モルグ街の殺人・黄金虫』です。全2巻で完結したものとばかり思っていたのですが、売り上げが順調なのか(?)今年2015年になって、突然、3冊目の本書、SF&ファンタジー編『大渦巻への落下・灯台』が追加されました。 前の2冊を、本サイトでレヴューしている関係上(その「編訳」に関しては不満が大きかったものの)、この巻だけ無視するわけにもいくまいと、手に取りました。 収録作は、以下の7作。 「大渦巻への落下」「使い切った男」「タール博士とフェザー教授の療法」「メルツェルのチェス・プレイヤー」「メロンタ・タウタ」「アルンハイムの地所」「灯台」 目次を見ての率直な印象は――なんだこの作品選択は!? でしたね。 SFとファンタジーに境界線を引かない編集方針は、いきおい収録作品のヴァラエティを生むとしても、しかし自動人形のイカサマをあばく「メルツェルのチェス・プレイヤー」や、造園芸術(美)の理想をカタチにした「アルンハイムの地所」などは、どちらの分野から見ても違うのでは? それに、千年後の未来が舞台で、月世界人まで描かれた「メロンタ・タウタ」(1849)が採られているのは当然としても、ポーをSFの先覚者として評価するなら、まず一番に収録すべきは、人類初の月旅行を描いた「ハンス・プファアルの無類の冒険」(1835 未完)ではないの?? というか、“気球”という格好の共通項もあるこのふたつのお話を、なぜ並べてみせない??? 訳者自身の手になる、巻末の「解説」を読むと、そのへんの事情はある程度、推察できます。ポーのSFアンソロジーの先行例として、巽氏は、ハロルド・ビーバー編のThe Science Fiction of Edgar Allan Poe(1976)と、それにもとづく八木敏雄・編訳『ポオのSF』全2巻(講談社文庫 1979~80)をあげ、本書は「(……)そうした先人の業績をふまえつつ、訳者なりのひねりを加えたものである」と述べています。参考まで、その『ポオのSF』の収録作を挙げておきましょう。 〈1〉「ハンス・プファールの無類の冒険」「メロンタ・タウタ」「瓶から出た手記」「大渦への落下」「シェヘラザードの千二夜の物語」「ヴァルドマール氏の症状の真相」「のこぎり山奇談」「ミイラとの論争」「使いきった男」 〈2〉「ユリイカ」「エイロスとチャーミオンの会話」「モノスとユーナの対話」」「催眠術の啓示」「言葉の力」「タール博士とフェザー教授の療法」 じつに堂々たるラインナップです。そして――どうしようもなく完成されてしまっている。後人が同一テーマでアンソロジーを編もうとしたら、まあ、このミニチュア版にならざるを得ません。でも、肝心の『ポオのSF』は版を絶やして久しいのだし、読みやすい新訳を提供し、解説に最新情報を盛り込めば、別にミニチュア版であろうがなかろうが、新規読者のためにはそれで構わないではないか、と筆者などは思います。 しかし巽氏は、そう思えなかったのでしょうね。アンソロジストの矜持か、学者の意地か。作品選択に「訳者なりのひねりを加えた」本書のラインナップを見てくれ、と。その意欲と挑戦は、玄人筋には高く評価されるかもしれません。前掲の「メルツェルのチェス・プレイヤー」や「アルンハイムの地所」を選択した理由も、解説のなかで詳しく述べられており、筆者には牽強付会に思えますが(たとえば後者の、人工楽園の麻薬的幻想にSFの想像力を見てとるのであれば、江戸川乱歩のかの『パノラマ島奇談』までSFの仲間になってしまうのではないか?)、卓見と見る向きもあるでしょう。 ただ、ミステリ・ファンとして言わせてもらえば、作品の解説のなかで、断わりなしに「使い切った男」と「タール博士とフェザー教授の療法」のネタバラシをしているのは、いただけません。解説を先に読む、ポー作品の初心者のことを考えましたか、巽先生? さて。 さんざんケチをつけましたが……いわゆる定番名作といえるのは、巻頭の「大渦巻への落下」くらいであるにもかかわらず、他の収録作のレヴェルもきわめて高いので、「SF&ファンタジー編」とかいうことをあまり深く考えず、ポー短編集の「拾遺集」として読めば、本書は作者の多彩な魅力を堪能できる、贅沢な一冊です。 なにより、創元推理文庫の〈ポオ小説全集〉では読めない、未完の遺作「灯台」を収録しているのはポイントが高い。筆者は昔、ロバート・ブロックが補筆して完成させたヴァージョンを、早川書房の傑作アンソロジー『37の短篇』で読んでいましたが、まったく設定を失念しており、今回、こんなに魅力的なイントロだったのか、と感じ入りました。作中人物の灯台守が綴る日記が、結果として中絶してしまっているわけですが、逆にそれが、彼に何が起こったのかという、得も言われぬ不気味さを残すことになっています。ある意味、ホラーとしては、続きがないほうが怖い。 そして、このお話が「アルンハイムの地所」のあとに置かれていることで、その効果が最大になっていると、筆者には思えました。というのは、「アルンハイムの地所」の幕切れは、ポー作品のなかでも屈指の明るさに満ちているわけです。天上の輝きを思わせる、と言っても過言ではありません。その“明”と、直後の「灯台」の、底知れぬ“暗”のコントラスト。こればかりは、巽氏の配列の妙に脱帽です。 読後に広がる “暗黒の海”のイメージ。それはそのまま「大渦巻への落下」の海へとつながり――瓶詰めの手紙が投げ込まれた「メロンタ・タウタ」の海へもつながります。 って、困ったなあ。書いているうちに、また最初から読み返したくなってきてしまったぞwww |
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| No.158 | 5点 | オペラ座の怪人 ガストン・ルルー |
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(2015/10/10 17:47登録) (……)華やかなオペラ座の地下に、自分だけの帝国を築き、そこで歌い、ピアノを弾き、曲を作りながら、醜いファントムは、昼の世界であたりまえに暮らすことを、夢見ていた。/ 誰も、彼の名前を呼んでくれない、一人きりの暗闇の中で……。/ この物語は、最後まで読まなければいけないと、遠子先輩は言った。そうでなければ、物語の真実を知ることはできないからと。(野村美月『“文学少女”と穢名の天使』) 『黄色い部屋の謎』(1907)の作者ガストン・ルルーが、日刊紙 Le Gaulois に1909年から翌10年にかけて連載した、フレンチ・ゴシック(ロマンス)の古典です。 先日読んだ、これをモチーフにしたライトノベルに触発され、じつに四半世紀以上の時を経ての、まさかの再読となりました。 まさかの、と書いたのは、初読時に、我慢しながら読み進めた印象が強かったからで、そのときの感想を回顧すれば――ゴシック・ロマンスの本場イギリスの、古城や修道院といったお約束の舞台ではなく、実在するパリ・オペラ座という、大都会の真ん中の華麗な空間で、怪人が跳梁するストーリーを繰り広げてみせた、ルルーの半端でない想像力には舌を巻くけれど、いかんせん、話の運びの大雑把さと冗漫な語り口が、興をそいでいるんだよなあ……ということになり、ミステリ・ファンなら、教養として一度は目を通しておくべき、でも一度目を通せばそれで充分と、まあ、そう考えていたわけですね。 『“文学少女”と穢名の天使』の作中キャラ・遠子先輩がいうところの、「物語の真実」を確認したくて、懐かしの創元推理文庫版(三輪秀彦訳)を引っぱり出してきました。最新の、光文社古典新訳文庫版ほか、別な翻訳を試してみることも考えたのですが、『穢名の天使』の「あとがき」で、作者・野村美月が参考文献として挙げている『オペラ座の怪人』が創元版なので、となると遠子先輩や心葉(このは)君が読んだのもこれだろうから、ここはやはり、作中人物と同じ版で、読書体験を共有しようかとw その結果は――? う~ん、基本的に、昔と変わりませんでしたwww 本作には、「序文」が付されています。それによると、伝説的に語りつがれる、怪人“オペラ座の幽霊(ファントム)”の調査をはじめた、「わたし」ことガストン・ルルーが、三十年前にオペラ座で発生した一連の不可解な事件に、実際にファントムが関与していたことを突きとめ、その真相を、さまざまな証言をもとに小説的に再構成したのが、この作品ということになります。ゴシック小説の先駆けとなった、ホレス・ウォルポールの『オトラント城綺譚』が、そもそもは実話として刊行された“偽書”であったことを想起させます。 荒唐無稽なお話に“現実感”を付与する試みとして、別に、それはそれでかまわないわけですが、肝心のストーリーの途中でも、作者があれこれ出しゃばってコメントを加えているのは、いただけません。駄目な小説の書きかたの、見本みたいになってしまっています(これについては、またあとで触れることになります)。 ミステリとして見ると、ファントムの引きおこす、さまざまな不思議な現象の種明かしが、どれもこれもショボすぎ(支配人室の「安全ピン」をめぐるエピソード――いちおう、不可能犯罪ですw ――なんかは、急にユーモア・ミステリが始まったよ、みたいなノリで、個人的に嫌いではないんですけどね)。ま、ショボくても種明かしがあるだけマシなほうで、物語の序盤、オペラ上演中にシャンデリアが落下し、客席の女性が死亡する“事故”は、確実にファントムの仕業なのですが(本人はすっとぼけていますが)、どんな手段でそれが可能になったのかは、いっさい説明されません。 小説としては、ヒーローとヒロインの恋物語が、途中から登場する謎のペルシア人の活躍で、後半、完全に後景に追いやられてしまうバランスの悪さがなんとも……。じつはファントムとペルシア人のドラマのほうが、凡庸な恋物語より面白かったりするわけなんですが、そうは言っても……。う~ん、困った。 そんな、欠点だらけの小説が、なぜ時代を超えて愛され、読み継がれているのか? その理由がラストに分かる――というのが、“文学少女”の主張でした。 なるほど。 みんな、ラストのアレで感動してしまうわけか。それで全部、許すと。共感できる“怪人”像。読み返してみて、その理由は納得できました。 でもねえ、筆者は駄目です。醒めた目でみてしまう。確かにファントムは救われた、それにより、ラウル(ヒーロー)もクリスチーヌ(ヒロイン)も救われた。でも、このストーカー殺人犯の犠牲になった人々は救われないよ。わけもわからないまま、オペラの主役の座を追われた女優(彼女の性格の悪さは別問題)は? シャンデリアの下敷きにされた女性は? 作者自身が全力でファントムを擁護するのも、どうかなあ。 可哀そうで不幸なエリック!(……)普通の顔をしていたら、人類のなかで最も気高い一人となりえただろうに、彼は自分の天分を隠して、それを使って悪いいたずらをせざるをえなかったのだ!(……)絶対に、オペラ座の幽霊には同情すべきなのだ! / わたしは、かずかずの犯罪にもかかわらず、彼の遺体に祈りを捧げた。そして神よ、どうか彼を哀れに思ってください! なぜ神はあれほど醜い人間を創ったのだろうか?(引用終わり) これは逆効果にしか思えない。当然、みんなでツッコむべきですよ。醜いファントムを創ったのは、ルルー、お前だろ! と。 オペラ座という舞台の、地上と地下を縦横に使った、お話の構想自体は素晴らしいものです。しかし、仕上げは粗く、小説技法の古さもあって、畢竟、最後にファントムに感情移入できるかどうかが、評価のすべてを分けることになってしまっています。筆者は、真の傑作というものは、キャラクターへの感情移入とは別に存在するものだと考えます。 |
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| No.157 | 6点 | “文学少女”と穢名(けがれな)の天使(アンジュ) 野村美月 |
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(2015/09/26 14:30登録) 聖条学園・文芸部の部長、天野遠子(あまの とおこ)と、文芸部の後輩、「ぼく」こと井上心葉(いのうえ このは)のコンビで進行する、ミステリ・タッチのライトノベル“文学少女”シリーズの第4作(2007年刊)です。 しかし今回は、3年生の遠子先輩が遅まきながら受験勉強のため休部を宣言し――時まさに12月。いまから本気を出す模様――もっぱら物語の後景に退いているため、心葉の相方としてスポットがあたるのは、クラスメイトの琴吹ななせ(第1作『死にたがりの道化(ピエロ)』から登場している、心葉に好意をもつ、一見、テンプレ的なツンデレ・キャラ)です。彼女の親友で、音楽学校に通う水戸夕歌が、突然、失踪したことから、平和な日常に亀裂が走り、ストーリーは動きだします。 それまで、ずっと伸び悩んでいたのが嘘のように、急速な成長を見せ、次の発表会のオペラ・コンサートでは主役にも選ばれ、まさにこれからという時期に、夕歌はなぜ姿をくらましたのか? 『わたしの先生は、音楽の天使です』、そう秘密めかして語っていた夕歌。失踪には、その“音楽の天使”が関係しているのか? ななせのため、懸命に探索に乗り出した心葉のまえに浮かび上がる夕歌の肖像は、しかし親友のななせの知るそれとは、あまりにもかけ離れたものだった……。「もし、水戸さんが犯罪者だとしても、琴吹さんを裏切っていたとしても……きみは、知りたいと思える?」「……あたしは、知りたいし、夕歌を助けたい」 毎回、内外の有名な文芸作品を下敷きにした“事件”が描かれるのが、このシリーズの特色(あたかも人間関係や全体の構図を既存の名作からトレースしたように見えながら、じつはそれをズラして変えていく面白さ)ですが、今回は、元ネタが、遠子先輩いわく「暗く退廃的な美に彩られたゴシック小説が、ファントムが見せた真実によって、最後の最後に、胸が震えるような、透明な物語に変わってゆく――」ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』です。 筆者は、創元推理文庫から初の完訳が出たさいに『オペラ座の怪人』は一読していますが、正直、大時代な語り口もあって冗長なお話という印象しか残っていませんでした。その後、名優ロン・チェイニーが怪人ファントムを演じた、ユニバーサル映画版をDVDで見て、ああ、これは映像化の勝利だなあ、この成功で原作も生き延びたとおぼしい――と勝手に納得していたくらいです(恥ずかしながら、有名な、劇団四季のミュージカルは未見なのですよ)。それが、本書に込められた、熱い原作リスペクト――些細なことですが、中学時代のななせが、心葉に恋をするきっかけとして、小道具として「安全ピン」が使われているのには、元ネタの記憶を呼び覚まされ、驚きつつも感心しました――に触れることで、無性に『オペラ座の怪人』を読み返したくなってきたことを告白します。 心葉の一人称語りと、別なキャラクターの手になる文章(本作では、どこかで夕歌が綴っていると思しい内容)を効果的におりまぜる手法は健在で、例によって、ライトノベルじゃなくヘビーノベルだろ、と突っ込みたくなる作品世界を構築し、意外な、そして心揺さぶるクライマックスを導きます。 細部のリアリティという点では、“天使”に該当するキャラクターの、日常生活がまったくスルーされているのが難点で、オペラ座の地下ならぬ、廃工場で暮らしている(あるいは、いた)としか思えないわけですが……モノホンの怪人じゃあるまいし、んな莫迦な。 文字の書かれた紙をバリバリ食べちゃう、人間ばなれした“文学少女”が主役をつとめるお話ではあっても、いやだからこそ、そのお約束以外の部分では、虚構を支えるもっともらしさ(この場合で言えば、問題の工場を生活圏とする、不自然な日常の理由づけのようなもの)に、大いに意を尽くすべきだと、ロートルの小説読みたる筆者は思います。感動で誤魔化されるには、こちらが、ちとトシをとりすぎました (^_^;) 前作『繋がれた愚者(フール)』の、衝撃の結末を補完する内容は盛り込まれていますが、そこからの直接的な発展はないので、シリーズ全体としては、本書はつなぎのエピソードでしょう。別の言いかたをすれば、おそらく、嵐の前の静けさ。水面下で別のストーリーが進行していたことが分かり(この、バック・ストーリーの工夫が、野村美月はとにかく巧い)、前作同様、およそ続きを読まずにはいられない“引き”で、『穢名の天使』は幕を閉じます。 問題は、このあと。 シリーズものとして、次作では怒涛のストーリー展開が予想されますが……同時に、それについて何を書いても、ネタバラシになってしまうことが懸念されます。無事、このサイトで内容を紹介できるや否や。大いなる不安を抱いている、筆者なのです。 |
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| No.156 | 1点 | 魔神の歌 甲賀三郎 |
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(2015/07/14 15:23登録) ……闇を掠めて夜あらしは 時こそくれと狂ふなる 魔神の叫びものすごや―― 嵐の夜、酔っぱらって帰宅した医学教授が、自宅の戸口で、後頭部を重い石(東京近郊では珍しい、礫岩)で一撃され、殺される。当夜、教授の留守宅で夫人と話しこんでいた、後輩の医学士である「私」は、犯行の直前に、あたかも魔神が跳梁するさまを歌ったような、不思議な歌声を耳にしていた。それは「(……)粗野な自然そのもののような声だった。が然しそれは人間の肉声とは思えないような潤いと弾性のある金属的なものだった」。いったい誰が、何のためにそんな歌を? 被害者は優秀な学者だったが、品性劣悪で恨んでいる者も多かった。奇妙な凶器の出所も分からぬまま、警察の捜査は暗礁に乗りあげ、事件は、「私」と未亡人への疑惑を残しつつ、迷宮入りするのだが…… 諸事情から、あまり本を読む時間がとれないでいるので、今回は、いささか反則ではありますが、サクッと目を通せる「短編」をご紹介。 近年、ミステリ関連の古い叢書の「書影&作品目録」といった、見て楽しい研究書や、戦前の翻訳ミステリの復刻版をシリーズで出すなど、マニア向けのプライベート出版に意欲的な、湘南探偵倶楽部が、「甲賀三郎BEST 1」と銘打って2013年に刊行した、24ページの小冊子――ひらたく云えばコピー本です。 初出は『新青年』昭和9年7月号。のち、春秋社の短編集『ものいふ牌』(昭11)に収録されましたが、戦後の再録はありません。 これは筆者のような、若輩の(?)甲賀三郎ファンには、まことに有難い企画ですが…… 一読、首をひねる羽目に。 湘南探偵倶楽部の刊行案内には「本格探偵小説 秀逸です」とありますが、作中の謎は別段、推理によることなく、「私」の行動に従ってひとりでに解けていくので、これを「本格」と称するのは苦しい。 でも、それはまあ、いいとしましょう。問題は、事件の真相。はっきりいって、異常です。意外ではなく、異常。ある科学者がそういう研究をおこなっていて――という前提はあっても、同じ作者の、やはり綺談タイプの秀作「蜘蛛」などと違って、完全にファンタジーの領域に踏み込んでいるので、なんでもありの超展開と大差ありません。 たとえるなら、「ホームズ短編 BEST 1」として、「這う男」が推されるようなもの。怪作としてのインパクトは認めますが、しかし…… 筆者的には、甲賀三郎の BEST はやはり、「黄鳥の嘆き」(「二川家殺人事件」)*です。 ところで。 「魔神の歌」が発表された昭和9年は、甲賀が作家デビューして12年目にあたり、『ぷろふいる』誌には「誰が裁いたか」「血液型殺人事件」といった力作を投じ、そして翌10年には、前掲の「黄鳥の嘆き」を『新青年』に発表しています。このへんの作品の筆致には、作家としての円熟が感じられ、じつは「魔神の歌」の、「私」と被害者の妻の関係性(けっして不倫をしているわけではないのだが、しかし……)などにも、妙にあとを引く小説的な魅力――初期の甲賀にはおよそ感じられなかったような――があります。 そのへんを考慮すれば、もう少し採点をオマケしてもいいか、と悩んだのですが、中途半端に3点を付けたりするよりは、インパクトのある1点のほうが、むしろこの作品にはふさわしいと判断しました。 バカミス愛好家は、お試しあれ。 *「黄鳥の嘆き」については、『体温計殺人事件』(〈甲賀三郎全集〉第8巻)のレヴューのなかで、具体的に触れています。よろしければご併読ください。 |
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| No.155 | 7点 | “文学少女”と繋がれた愚者(フール) 野村美月 |
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(2015/05/29 17:28登録) ・・・・・絶句。 狙いすました、最後の一撃(フィニッシング・ストローク)の破壊力たるや。 いやしかし、そこで終わるかあ。 昨今のアニメ・ファンなら、3話切りという風潮をご存じでしょう。スタートした新作を、とりあえず3話あたりまでは視聴して、以降、その作品を見続けるかどうかを決める、というものです。製作サイドもそれを意識してか、3話で俄然、衝撃的な展開を見せるアニメもあるわけで……ふと、そんなことが頭をよぎりました。 野村美月の“文学少女”シリーズは、聖条学園・文芸部の部長、天野遠子(あまの とおこ)と、文芸部の後輩、「ぼく」こと 井上心葉(いのうえ このは)のコンビが、学園生活のなかで、身辺に発生した“事件”(毎回、内外のなんらかの文芸作品が元ネタになっているのが特徴)を解明していく、ミステリ風味のライトノベルです。本書『繋がれた愚者(フール)』は、『死にたがりの道化(ピエロ)』、『飢え渇く幽霊(ゴースト)』に続く、その第3作。 今回、文芸部は文化祭で劇を上演することになり、その演目に、武者小路実篤の『友情』が選ばれます。前作と違い、モチーフが早い段階で提示されるわけで、そのお題を使って本篇の“事件”をどう料理するかが、作者の腕の見せ所となります。 恥ずかしながら、筆者はこの元ネタを未読だったので(だってねえ――と遠い昔の学生時代に思いを馳せる――人殺しの話ばっかり読んでるような、性格の悪いガキだった自分には、伝え聞く白樺派の性善説は、あまりにも縁遠いものみたいな気がして……)、いったん読書を中断し、どうせならこの機会にと腹をくくり、図書館から日本文学全集の『武者小路實篤集』を借りてきました。で、いまさらながら『友情』に目を通して、意外にこちらのミステリ・センサーに反応するものがあって、ちょっとビックリしたわけですが、そのビックリについては、あとで、あらためて触れることにします。 便宜上、まず簡単に『友情』のストーリーを紹介しておくと―― 新進の脚本家・野島は、友人の妹である、美貌の杉子(16歳!)に一目惚れしてしまう。せつなく苦しい恋心を打ち明け、相談できるのは、日頃から尊敬しあい、切磋琢磨している、大親友の作家・大宮だけだった。大宮は、野島の恋の成就のため協力してくれていたが、あるとき突然、勉強のためヨーロッパへ行くと告げ、旅立つ。やがて、心を決め、杉子にプロポーズする野島だったが…… と、まあ、そんな感じのお話。 それを「ぼく」が脚色して、急遽――絶対的な部員数不足を補うため――遠子先輩が招集したメンバー(これまでの巻にも登場していたキャラクター陣)と一緒に、芝居を作っていくことになるわけですが、“事件”の主役となるのは、大宮役に起用された、「ぼく」のクラスメイト、芥川一詩(あくたがわ かずし)です。学業優秀、誠実な人柄の芥川君ですが、じつは心に深い傷を負っており、危うい精神状態にあったことが、ストーリーの進行とともに分かってきます。語り手・心葉の一人称とは別に、他の登場人物の視点による記述がカットバックで描かれるのは、前2作同様で、本作ではそれが、「オレ」の書き続ける謎めいた手紙であり、書き手が芥川君であることは、早くに読者には明らかになります。 『友情』に関して、厳しく張りつめた表情で「――たとえどんな理由があっても、自分を信頼している友人を裏切るような真似は、誠意ある人間のすべきことではない」と感想を述べていた彼は――本当に、弓道部の先輩の彼女を奪ったのか? 劇の練習の最中、突然の呼び出しに応じて飛び出した芥川君は、やがて、血のしたたる彫刻刀を握りしめて立っているところを、見つかります。喉と胸を切り裂かれ、倒れ込んだ生徒の前で。「オレが五十嵐先輩を、刺しました」。それは、果たして三角関係の清算だったのか? いや~、どこが「ライト」ノベルやねん、といいたくなる「ヘビー」な展開ですが、それを、辟易させずに面白く読ませるための演出、シリアス成分とギャグ要素のブレンドは、この作者ならではのものでしょう。そして、過去への巡礼(すべての遠因となった、小学校時代の出来事の調査)を経て訪れるクライマックス――文化祭の、劇の舞台でアドリブ的に繰り広げられる“文学少女”の謎解きは、芥川君を繋ぐ過去の鎖を断ち切り、彼に、前に進む勇気をあたえます。これはやはり、感動的。 ところが。 そんな感動のまま読み進める「エピローグ」の、最後の数ページにいたり、急速に広がる不安感。待てよ、これはいったい、どういうことなんだ? とどめが、最後の一行なわけです。 !!! なかなか、これほどのどんでん返しには、純正のミステリのほうでもお目にかかれません。似たような例として思い浮かぶのは、トマス・H・クックのある作品ですが、一発勝負的な、そうした趣向を、シリーズものの3作目に持ってきたというのは、凄い。 ただし、明らかに説明不足です。作者はそんなことは百も承知で、意外性を、次作への強烈な“引き”として使っているわけで(単体としての本作では、謎があえて解かれないまま終わるわけで)、ミステリ・ファンとしては、そこは評価の難しいところではあります。 長編マンガの、何巻目が面白かった、という感覚に近いところがある。 しかし。 「手紙」を使ったアイデアといい、そこから立ち上がる構図といい、じつに巧妙に『友情』をアレンジしたものです。元ネタの料理の仕方という点では、間違いなく、これまでで最高です。 なお、本書では、当然ながら、武者小路実篤の『友情』のストーリーが、最後まで明かされています。ネタバラシが問題になるような小説ではないのですが、それでも『友情』は二部構成をとっており、主人公視点の「上篇」では分からなかった事実が、書簡形式の「下篇」で次々に明らかになっていく、という、その意味ではミステリ仕立てといっていいお話なので(筆者はそこに感心したw)、本書を読むまえに目を通しておくほうが吉ではあります。あ、そのさいは、作者の「自序」はスルーして、『友情』本文を先に読むように。実篤自身がネタバラシしてますからwww |
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| No.154 | 7点 | 怪奇文学大山脈Ⅲ アンソロジー(国内編集者) |
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(2015/05/01 09:38登録) 「西洋近代名作選【諸雑誌氾濫篇】」と副題のついた本書(東京創元社)は、編者・荒俣宏氏の、“幻想と怪奇”の分野における仕事の総決算ともいうべき、入魂のアンソロジー・シリーズ(ボリュームたっぷりの「まえがき」と「作品解説」に注ぎ込まれた、情熱と情報の総和は圧倒的)の最終巻です。 第Ⅱ巻に引き続き、本書も二〇世紀前半の怪奇小説の流れを、荒俣氏のパースペクティブに基づき選び抜かれた実作を通し、展望する試みですが、今回の大きな特色は、マニア的な固定観念に縛られず、当時の俗受けした雑誌メディアや娯楽として人気を誇った演劇の分野に、その時代の怪奇の嗜好を探っていることです。「したがって、現代の目から見れば道義上適切といえないものや、煽情性が高すぎる作品も含まれることになった」(「第三巻 作品解説」より)。 いっとき話題になったあと忘れ去られ、後世の研究者からは通俗ものとして片づけられ、一顧だにされないような作品にも、あえて光を当て、再評価の可能性をさぐっています(このへん、戦前の探偵小説に惹かれ、甲賀三郎や大下宇陀児の微妙なところにも手を伸ばし、玉石混淆のなかから、少しでも玉を拾おうとしている筆者には、とても他人事とは思えませんw)。 収録作は、まずイギリスの小説雑誌の掲載作から―― 1.スティーヴン・クレーン「枷をはめられて」 2.イーディス・ネズビット「闇の力」 3.ジョン・バカン「アシュトルトの樹林」 が採られていますが、このへんはまだ、ことさら煽情的というほどでもない。バカンの3(エキゾティックな小説が花盛りだった、『ザ・ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』の掲載作)などは、異国の神を“物理”で駆逐する、なんとも乱暴な話でありながら、その筆致には格調すら感じられます。やはり、作家としての地力が違うのは明白ですね。けっして『三十九階段』だけの人ではありません。もっと怪談を訳して欲しいぞ。 次いで紹介されるのはドイツ勢です。 4.グスタフ・マイリンク「蝋人形小屋」 5.カール・ハンス・シュトローブル「舞踏会の夜」 6.アルフ・フォン・チブルカ「カミーユ・フラマリオンの著名なる『ある彗星の話』の驚くべき後日譚」 7.カール・ツー・オイレンブルク「ラトゥク――あるグロテスク」 このブロックは、おもに(風刺週刊誌に発表された4を除いて)世界初の怪奇文芸専門雑誌とされる『デア・オルキデーンガルテン』の見本市という性格をもっています。なかで特筆すべきは、恋の終わりの仮面舞踏会の夜に、現実と幻想がないまぜになり――冷え冷えした災厄の到来で幕を閉じる(「解説」でも触れられているように、ポオの「赤き死の仮面」を想起させる)、シュトローブルの5でしょう。うん、なんかねえ、怪奇「文学」してる。筆者の苦手な不条理系の話ですが、そういう人間でも推さざるを得ないというのは、つまり、傑作ということ。ぶっちゃけ、この巻には勿体ないくらいですw この巻らしさ(猥雑さ)が明確に打ち出されるのは、 8.モーリス・ルヴェル「赤い光の中で」 9.野尻抱影「物音・足音」(ルヴェルの、日本における翻訳紹介の経緯を綴ったエッセイ) 10.ガストン・ルルー「悪魔を見た男」(戯曲) 11.アンドレ・ド・ロルド「わたしは告発……されている」(恐怖劇の代表的作者による、マニフェスト) 12.アンドレ・ド・ロルド&アンリ・ボーシュ「幻覚実験室」(戯曲) 13.アンドレ・ド・ロルド&ウジェーヌ・モレル「最後の拷問」(戯曲) という、フランス編からです。若き日のディクスン・カーをも刺激した、残虐劇グラン・ギニョルの概要は、ミステリ・ファンなら――好き嫌いはともかく――基礎教養として押さえておくべきでしょう(より踏み込みたい人には、水声社から出ている、真野倫平編『グラン=ギニョル傑作選 ベル・エポックの恐怖演劇』という本があるようです)。いきなり戯曲を載せるのではなく、導入として、「グラン・ギニョルのコンパクトな恐怖劇を文学で表現した作品」を書いたと評される、ルヴェルの短編を置いているのもいい。これがアンソロジストの芸というものです。で、ルルーを経てド・ロルドの台本などを実際に読んでみると……まあ、歴史的価値だよなあ、という感想に落ち着くわけですがw このグラン・ギニョルの煽情性が、アメリカのパルプ・マガジン文化に影響を及ぼしている、という荒俣史観はまことに興味深いもので、最後のアメリカ編は、それを裏付けるようなセレクションになっています。 14.W・C・モロー「不屈の敵」 15.マックス・ブランド「ジョン・オヴィントンの帰還」 16.H・S・ホワイトヘッド「唇」 17.E・ホフマン・プライス「悪魔の娘」 18.ワイアット・ブラッシンゲーム「責め苦の申し子」 19.ロバート・レスリー・ベレム「死を売る男」 20.L・ロン・ハバード「猫嫌い」 21.M・E・カウンセルマン「七子」 名門(?)『ウィアード・テールズ』から選出された、ホワイトヘッドやカウンセルマンの作などは、普通に怪奇小説(ないしファンタジー)として、今日的な評価に耐えうる出来ですが、上述のような煽情性という意味では、群小の有害(?)パルプ誌から掘り起こされた、17~19あたりが、当時の読者のニーズにストレートに応えたであろう、エロなりグロなりを感じさせ、納得の内容といえますw そしてここでは、突き抜けた衝撃性(グロの極み)が、場当たり的な面白さを越えて――もしかして、これは傑作? という域にまで達した、モローの14をイチオシしておきましょう。舞台はインド。藩主(ラージャ)に反抗した召使いが、罰として、まず右腕を切断され、なお反旗をひるがえしたばかりに、残る腕、そして両足と、四肢を失う羽目になるが……その果てに待つものは? 編集者時代のアンブローズ・ビアスが惚れ込んだというW・C・モローは、今後の紹介が期待されます。 ふう。お腹一杯になりました。 この巨大アンソロジーの編纂にあたられた荒俣氏には、心から、お疲れさまでしたの言葉を送りたいと思います。「おそらく本書は、私が西洋の怪奇小説について真摯に語る最後の機会になると思われる」という言には、一抹の寂しさを覚えますが、この全3巻の偉業にふれた若い読者のなかから、必ずや荒俣氏のあとに続く怪奇者が育っていくことでしょう。筆者はそれを信じています。 |
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| No.153 | 1点 | 白魔 大下宇陀児 |
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(2015/03/17 15:53登録) 今回はネタバラシありです <(_ _)> 女優との結婚をまぢかに控え、それを妨害するかのような脅迫状に悩まされていた若い彫刻家が、ある晩、観劇に出かけた銀座の裏通りで、世にも奇妙な消失をとげる。これに、現場付近のビルで発見された、身元不明の男の死体がからみ、事件は紛糾していく。新たな失踪者。凶刃に倒れる捜査官。そんなカオスのなか、警察とは別に真相究明に動き出したのは、一寸法師の従僕をともなった、四本指の怪青年だった。果たして彼の目的は? そしてその正体は? 原稿枚数は二百枚ちょっとですから、いまの感覚だと中編なんですが、昭和七年に、新潮社の大衆雑誌『日の出』に連載されたあと、春陽堂の日本小説文庫から単体で刊行されています(奥付けの発行年月日は、昭和八年一月九日)。 まだ作者が、通俗長編で一世を風靡していた江戸川乱歩の引力圏を脱しきれていない時期の、『蛭川博士』(論創社『大下宇陀児探偵小説選Ⅰ』所収)系列の作品です。 はっきりいって、出来はいちじるしく悪い。人気作家が筆力にまかせて量産している時期には、やっちまった感のある作品も生まれがちなわけで、ファンなら目くじらをたてず、寛容の精神でスルーするのが吉というものですが・・・ わざわざ取りあげたのには、きわめて個人的な理由があります。ある発見を、記録しておきたかったからです。このサイトの投稿者の皆さんのなかにも、もしかしたら興味をもっていただけるかたが、一人か二人はいらっしゃるかも・・・と思いました。 若き日の筆者が多大の影響を受けたミステリ指南書に、都筑道夫氏の『黄色い部屋はいかに改装されたか?』があります。その「5 トリック無用は暴論か」のなかに、以下の記述があり、さて具体的に、誰の何の作品のことだろう? と、ずっと気になっていました。 (・・・)敗戦から間もなく、ハイティーンの私がカストリ出版社につとめて、最初に手がけた単行本が、某大家の長編でした。(・・・)戦前のものをもってきて、仙花紙本にしたわけです。/袋小路で殺人がおこなわれ、目撃者がいる。その目撃者のいうことには、犯人は自分に気づくと、ふわふわと宙に舞いあがって、片がわのビルの四階の窓に、逃げこんだ、というのです。いくらなんでも大家なんだから、なんとか理屈をつけるだろう、と思っていると、意外、それも悲しい意外で、証言はうそ、目撃者が犯人でした。うそでもいい。宙に舞いあがって、四階の窓に入らなければならない理由が、強力にあればまだ救われるけれど、それもないのです。/これは極端な例ですが、こういう作品が探偵小説として通用した時代に、逆もどりしていいはずはありません。(引用終わり) ハイ、それがこの『白魔』だったのです。じつに、うん十年ごしの疑問が解消したわけで、それだけでまあ、読んだ価値はあったというもの。 もっとも、都筑氏は記憶違いをされており、袋小路で殺人はおこなわれていません。現場で昏倒しているのが見つかった、「目撃者」の証言を聞きましょう。 「僕は、今いった通り、青木君と一緒にルパン(カフェの名:引用者註)を出たまでは確かに覚えている。ところが、ルパンを出ると、その時実に途方もないことが起ったんだ。つまり、一緒にいた青木君が、風船みたいに、スーッと宙へ浮き上ってね、ルパンの向う側が、ほら、S三号館になってるだろう、あそこの四階の窓へ、消えるように入って行ってしまったんだよ。(・・・)それからあとを、僕はまるっきり覚えていないんだがねえ」(引用終わり) くだんの「目撃者」は青木の彫刻の師匠で、彼の狙いは、青木が自分の妻と駆け落ちしたように見せかけることなのです。青木と妻をこっそり抹殺し、死体を処分し、青木の婚約者を我が物にするのが最終目的。なのになぜ、青木が空中浮遊? 自分が証言を疑われるだけでしょう(結末で捜査課長いわく「狂人の頭に湧いた考えは、ちょっと、常人には測り知られんものがあるよ」)。おまけに、なんとS三号館の四階には、たまたま男の死体が転がっていました。ふたつの事件が、まったくの偶然でクロスしてしまったのです。 ヒドいですねえw 瓢箪から駒のように飛び出した、このS三号館事件の関係者が、結果、探偵役となり、しかもそいつがアウトローで、というあたりに宇陀児らしいテイストはありますが、四本指という属性に意味はないし、従僕が一寸法師である必要性もありません。 最後まで読んでも、結局タイトルの意味が分からないことからも(しいて云えば――青木が最後に受けとった、裏にHの署名がある「白紙」の脅迫状、その送り主をさしているのかなあ)、きちんと構想をまとめず、とにかく書きはじめたことが想像されます。 まあ、宇陀児も疲れていたんだということでwww トリック偏重を否定する文脈で、わざわざこれを持ち出す都筑氏も、都筑氏ですがね(ため息)。 今後、復刊される可能性はゼロに等しいでしょうから、あえて細部にまで立ち入りコメントしました。諒とされたし。 |
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| No.152 | 7点 | 紺碧海岸のメグレ ジョルジュ・シムノン |
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(2015/02/17 15:40登録) 長いこと、シムノンを敬遠してきました。 クリスティー、クイーン、カーなんかに夢中になっていた、ミステリ入門期の中学時代に、河出書房がソフトカバーのメグレ警視シリーズを出しはじめていたので、とりあえず何冊か手にとってみたものの、どうもその良さが分からなかった。帯に刷り込まれていた「 シムノンがわかるかどうかを、その人の小説読みとしての程度をはかる尺度にしていたことが、私にはある。(……)推理小説にも、小説としてのうまさを求めるひとは、シムノンのメグレ・シリーズを読むがいい」という、都筑道夫氏の推薦文にも、微妙な反発を感じ、自分はただのミステリ読みで結構と、意固地になってしまったというのもあります。 その後、『夜明けの睡魔』の瀬戸川猛資氏の影響もあって、海外の“現代本格”を試していく過程で、P・D・ジェイムズやルース・レンデル(のレジ・ウェクスフォード警部もの)などに、ときにメグレと似たテイストを感じ、シムノンの方向性、その普遍性を意識するようにはなりました。それでも――現代ミステリかくあるべし、そのお手本としてのシムノン、といった認めかたは、こちらの負けを認めるようで、したくない (^_^;) ひとりで勝手に葛藤していたわけで、傍目には喜劇でしょう。 戦前抄訳しかなかった、1932年度作品の『自由酒場』が、論創海外ミステリから『紺碧海岸のメグレ』として完訳で復刊されたこの機会にと、過去の経緯はひとまず忘れてw 手を伸ばしてみました。 南フランスの、地中海に面し「カンヌに始まりマントンに終わる長い大通りで、六十キロメートルに及ぶ」リゾート地、紺碧海岸(コートダジュール)。そのアンティーブ岬に暮らす母娘が、不審な自動車事故を起こし、警官が彼女たちの家を調べてみると、同居していた男性(家は彼の名義)が刺殺体で、庭に埋められているのが見つかる。 被害者ウィリアム・ブラウンは、戦時中に軍情報部に協力しており、スパイ絡みの事件という予断で報道が過熱するおそれがあったため、これを早急に、かつ穏便に処理するため、パリ警視庁からメグレが派遣される。 ブラウンはオーストラリア人で、愛人とその母親と、もう十年もその別荘で暮らしていた。定職をもたず、月に一度、何日か外出しては当座の生活費をもって帰ってくるという、謎めいた生活だった。母娘の供述によると、ある晩、恒例の外出を終えて車で帰ってきたブラウンは、背中を刺されており、玄関までたどり着いたところで絶命したという。その死がもし、彼がオーストラリアに残してきた妻と子供たちに分かれば、家財を差し押さえられ無一文で追い出されると考え、母娘は死体を隠したうえで、金目のものを持って逃走をはかったらしい。 メグレは、たまたま手に入れた手掛りから、不在中のブラウンが訪れていた、カンヌの「自由酒場」の存在を突き止めるのだが、そこには被害者の、まったく別な生活があり・・・ 翻訳は、原稿枚数にして三百枚ちょっと。メグレものらしく、短い長編なのですが(論創海外ミステリとしても、一、二を争う薄さです)、盛り込まれたドラマ――とりわけ被害者になった人物と、犯人になってしまった人物の織りなす――は濃密なものでした。 ふと都筑道夫氏の、シムノンとは全然関係ない、こんな文章を思い出しました。 ひとことでいえば、「途中の家」のおわったところから、現代のミステリは、はじまるのである。(エッセイ「眠りの森」:『推理作家の出来るまで』所収) エラリイ・クイーンの『途中の家(中途の家)』は優れた謎解き小説だが、被害者はなぜ、二重生活を続けたのか――その、人間関係のドラマのもっとも魅力的な謎に、作者は目を向けていない、それが二十年ぶりくらいに同書を読み返した都筑氏には、大きな不満だったというわけです。 そういう面では、本書はきわめて説得力に富みます。被害者が家族を捨てて紺碧海岸に住み続けたのも(“場”に説得力をもたせる、シムノンのデッサンの確かさ。こういうのは、まあ、中学生には分からなくても無理はないと、自分を慰めます)、寂しくて女を囲ったのも、やがてよそに楽しみを求めるようになったのも、その心理を、探偵役のメグレと一緒に完璧に理解していくことができます。 人物の対比的な配置といい、それを交差させる演出といい、小説としては、まずケチのつけようがありません。 でも。 あえて言わせてもらえば、ミステリとしては、やはり甘いのではないか。 大事な手掛りを、メグレがついうっかり(自分のものと勘違いして)持ちかえった被害者のレインコートのポケットから見つけるあたりの安易さ。 最終的な事件の決着にも、疑問は残ります。警察小説として、これでいいのか、という部分は、まあ人情噺として、心情的にギリギリ認めるとしても――たとえば、本サイトでレヴュー済の、ディクスン・カーの『帽子収集狂事件』などに比べたら、少なくとも共感はできます――ダミーの解決を提示できなければ、上司も世間も承知するはすがないでしょう。 長所(情)と短所(理)、そのどちらを重く見るかで、評価が分かれる作品ですね。 筆者としては、あくまでミステリ読みとして、もう少しプロットに工夫が欲しいという立場を固持します(現代ミステリには、情と理の両立を求めたいw)。 それでも、シムノンのうまさを、キチンと実感できたのは大きい。作者に対する、食わず嫌いを反省させるだけのものを、本書が持っていたのは、間違いありません。 なんでこれ、改訳の機会に恵まれず、79年も埋もれたままだったんでしょうねえ。 なお、巻末に「解説」はなく、「訳者あとがき」(佐藤絵里)だけですが、物語の背景や小道具にも言及された楽しい内容で、データ面にも配慮されており、これはマルです(注文をつけるとすれば、付された「ジョルジュ・シムノン主要著作リスト」の「主要」の判断がよく分からないことか)。今後は、このへんを基準にしてくださいね、同叢書の訳者のみなさん。 |
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| No.151 | 6点 | アントニイ・バークリー書評集Vol.1 評論・エッセイ |
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(2015/02/13 11:17登録) 当初、2014年冬のコミック・マーケットで販売され好評を博し、その後、Twitter を通して通販の対応もおこなわれた(筆者は、某古書店の委託販売で購入しました)インディーズの小冊子ですが、海外ミステリ・ファンにはきわめて重要度の高い内容なので、ご紹介する次第です。 黄金時代英国探偵小説の巨匠アントニイ・バークリーは、実作の筆を折ってからも、フランシス・アイルズ名義で晩年まで、書評活動をおこなっていました。本書は、1956年以降、彼が『ガーディアン』紙の日曜版で担当していたコーナーから、日本の本格ミステリ・ファンに人気の高い御三家――エラリイ・クイーン、ジョン・ディクスン・カー、アガサ・クリスティーの作品を対象にした書評を抜粋して翻訳し、当該作品の邦訳一覧と、編訳者(三門優祐)の手になる関連コラムを付したものです。 対象作品は、以下の通り。 エラリイ・クイーン クイーン警視自身の事件 / 最後の一撃 / 盤面の敵 / 第八の日 / 三角形の第四辺 / 顔 / 真鍮の家 / 孤独の島 / When Fell the Night*(のちの著作リストからは削除された、マンフレッド・リー主導の代作プロジェクトの一冊。リチャード・デミング作) ジョン・ディクスン・カー 火よ燃えろ! / 死者のノック / ハイチムニー荘の醜聞 / 雷鳴の中でも / ロンドン橋が落ちる / 悪魔のひじの家 / 月明かりの闇 / ヴードゥーの悪魔 アガサ・クリスティー 死者のあやまち / パディントン発4時50分 / 蒼ざめた馬 / 鏡は横にひび割れて / 複数の時計 / カリブ海の秘密 / バートラム・ホテルにて / 終りなき夜に生れつく / 親指のうずき / フランクフルトへの乗客 すでに各所で話題になっていますが、興味深いのはやはり、アメリカのクイーンへの、歯に衣着せぬコメントの数かずでしょう。いわく「作中のエラリイ君は、5語で済むところを必ず50語喋るような、もったいぶったおしゃべり野郎だ」「これまで多くの推理小説を読んできたが、これほど説得力に欠ける解決編は滅多なことでは見かけない」」「読者をまごつかせるあからさまな感傷性、絶えざる誇張表現、作品全体に見られる「ありえなさ」、こじつけめいた結論」、エトセトラ、エトセトラ。今回、無条件で賞賛されているのは、ノン・シリーズの『孤独の島』一作きりですw この癖のある、クイーン作品の悪口レヴューを最初にまとめて提示したのが、本書の成功の要因ですね。クイーン・ファンである筆者も、バークリー先生にあっちゃかなわないなあ、と苦笑しながら、楽しませてもらいました(本国アメリカの、同時代のミステリ業界人だと、お世話になっている EQMM の編集長でもあるクイーンに、ここまで率直なコメントをあびせることは出来なかったでしょう)。 対照的に、カーの、あまり誉めようがない作品に対するバークリーのコメンタリー(一例「鋭い鷹の眼を備えた評者にさえも、「ローブ」のことを「ドレッシング・ガウン」と呼ぶいかにも現代アメリカ的な瑕瑾を除けば、いかなる時代錯誤も見つけることはできなかった」)には、なんというか、友情を感じますw クリスティーへの評価の高さも、微笑ましい。「ミセス・クリスティーの二級品が、多くの他の作家の最高傑作に匹敵することは覚えておいてしかるべきだ」ですからねえ。しかし、なかでも最大級の評価を受けているのが、『蒼ざめた馬』と『終りなき夜に生れつく』であるあたり、評者の個性(なるほど、フランシス・アイルズ名義は伊達じゃない)は如何なく発揮されています。 バークリー・ファンへの贈り物にとどまらない、この刺激に富んだ企画を思いつき、実行に移し、そして完成させてみせた編訳者には、心からの賞賛を送ります。 と、誉めてるわりには点数が低い――ですか? う~ん。 今後のためにも、あえて書いておくと、問題点は訳文にあります。 これだけ素人っぽい翻訳に接したのはひさしぶりで、ところどころ意味をとりかねました。 バークリーの原文は読んでいませんが、たとえば以下の、クリスティーの『鏡は横にひび割れて』評などは、訳者自身、内容をまったく理解しないで書いているとしか思えません。 (・・・)私の主たる興味は作品の筋書きというよりむしろ、「一体なぜ、映画女優は自分が動いたような風に行動してしまったのか」という不可解な点を、抜け抜けと説明して見せた彼女の手腕にある。結婚したカップルによくある偶然をひとつ受け入れたとしても、二番目のひどくありえそうもない偶然は、本来、物語の中の真実を破壊する方向へと進むだろうから。それがどこにもつながっていないのだからなおさらである。(引用終わり) 好意的な声に甘んじることなく、訳者として研鑽を積んでください、三門さん。 (後記)* When Fell the Night は〈エラリー・クイーン外典コレクション〉の一冊として、『摩天楼のクローズドサークル』の訳題で、2015年11月に原書房から翻訳が出ました。(2015.11.22) |
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