おっさんさんの登録情報 | |
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平均点:6.35点 | 書評数:221件 |
No.201 | 5点 | 週刊少年ジャンプ 2021年3・4合併号 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2021/12/15 09:45登録) 歳をとってくると、一年が過ぎるのが本当に早く感じられるようになってきます。 今回、取りあげる『週刊少年ジャンプ』2021年3・4合併号は、実際には2020年の年末に出版された、同年の最終号です。 センターカラーで載った、47ページの読切作品「炎眼のサイクロプス」(原作 石川理武、作画 宇佐崎しろ)に言及しておきたくて、いささか反則気味ではありますが、取りあげました。 このマンガは、読切として掲載された「異端の弁護士サスペンス」(同号のコピーより)ですが、そして作中の事件――芸術賞の受賞パーティの席上で発生し、十八名もの重軽傷者を出した、衆人環視下の炎の惨劇。逮捕され、法廷に立たされた女性芸術家の無実は証明できるのか――は完全に決着して終わるのですが……でも、これは完全に、連載化を想定した、長編のプロトタイプなんですよ。 サイクロプス(ギリシア神話に出てくる、片目の巨人)を名乗り、高額の費用と引き換えに必ず勝訴をもぎとるが、弁護士資格を持たない異端の弁護人という、主人公のキャラクターには、チートな異能があって、その秘密がシリーズとしての引きになっているわけです。 ジャンプ恒例の読者アンケートで上位になれば、連載が決まって、少しずつサイクロプスの秘密が明らかになっていく、という構想だったと思いますが、残念ながらこのレヴューを書いている2021年の12月現在で、それは実現していません。 ハウダニット(誰も触れていない「作品」がなぜ爆発したのか? 生きていたらジョン・ロードが使いそうなトリック)の作りこみは甘く、サイクロプスの謎解きも、一方的な種明かしではあるのですが、畳みかけるような演出がそれをうまくカバーしています。おそらく原作のストーリーは、(ミステリとしては)前後編の2回分が必要な内容だったでしょう。しかし、省略をきかせて、それを47ページにおさめてみせたのは、少年マンガ的には正解。作画の人の力量もありますし、編集者のディレクションもあってのことでしょう。 長編の導入のエピソードとしては、個人的には申し分ない出来だと思うのですが……「短編」として評価せざるを得ない現状では、前述のように、シリーズものとして引きを作ってしまっているのが逆に足を引っ張って、まあ5点かな、と(ああ、今回の採点は、あくまで「炎眼のサイクロプス」のみを対象としたもので、同時掲載の他作品、巻頭カラーの「ONE PIECE」とかは考慮していませんw)。 ちなみに原作の石川理武(いしかわ・おさむ)さんは、ご本人も漫画を描かれるかたで、2020年、集英社公式サイト「ジャンプ+」に短編「雨の日ミサンガ」を発表しているほか、紙の『ジャンプGIGA2021 SUMMER』にも、読切「グラビティー・フリー」を発表しています。 作画の宇佐崎しろ(うさざき・しろ)さんは――未完の名作『アクタージュ』(ミステリではないので、ここではナンですが、とにかく面白い、面白い)の絵の人ですね。「炎眼のサイクロプス」、もしかりに犯人の性別が違っていたら、終盤、この人の絵でどんな場面が繰り広げられたか……ふとそんなことを考えたりもします。 |
No.200 | 2点 | 夜の謎 S・A・ドゥーセ |
(2021/04/01 15:50登録) スウェーデン最初の探偵作家と言われ、1913年から1929年にかけて、14冊の私立探偵レオ・カリングものの著作を残した、S・A・ドゥーセは、戦前の我国で、おもに小酒井不木の尽力で長編の翻訳――ドイツ語訳からの重訳――がおこなわれました(そのうち幾つかは、筆者も本サイトで紹介してきました)が、ドゥーセの短編――著作リストでシリーズ九冊目にカウントされている、1923年の Leo Carrings dubbelgångare というのが、どうやら短編集らしい―― はもっぱら斎藤俊という訳者が手がけていました。 その斎藤俊の、唯一のドゥーセ長編の翻訳が、『新青年』昭和2年(1927年)6月号~12月号にかけて分載された、この『夜の謎』になります。 原題を Nattens gåta といって、1922年作の、レオ・カリング・シリーズ第八長編ですが、先に『新青年』で訳された『スミルノ博士の日記』や『夜の冒険』(ええい、題名が紛らわしいぞっ)と違って、連載終了後に本になっていないので、いまとなっては、この存在を知る人はまれでしょう。 筆者は別段、ドゥーセ愛好家というわけではないのですが、たまたま本サイトへの初投稿が「スミルノ博士」だったこともあって、キリ番の100作目のレヴューをドゥーセにした(そのとき採りあげた『生ける宝冠』が意外に面白かった)経緯があり……ええい、じゃあ、ようやく迎える200番目も、どうせならドゥーセで飾ってしまえ、と。幸い、資料を提供してくれる強力な助っ人の存在に恵まれて、幻の作品にチャレンジすることが出来ました。 面白ければ、万々歳だったのですが―― ――その夜、法学界の権威リッテル教授の客間では、「私」や私立探偵カリングを含む旧知のメンバーのあいだで、教授の亡くなった義兄が家主をしていた、スツレ街のアパートで先日おきた、奇妙な暴行事件が話題になっていた。アパートの門番と、街路を巡回中の警官が、頬に火傷の痕のある謎の男に誘い出され、気絶するほど殴打されたのである。犯人の目的は何だったのか? 教授宅をあとにした「私」も、たまたまスツレ街に足を向けたところ、火傷の男に遭遇し殴り倒されてしまう(先刻、教授の娘に失恋したばかりで、まさに踏んだり蹴ったりの「私」なのであった)。 そこに通りかかったのが「私」の旧友で、彼がたまたま問題のアパートの住人だったことから、「私」は彼の部屋で少し休んでいくことにするが、例の門番が、上の階からアパートの昇降機(リフト)を降ろすと、中には女の死体が横たわっていて―― う~ん。 物語の大部分、舞台を、謎を秘めたアパートに限定し、時間も、夜明けまでと限定したうえで、殺人事件の捜査と宝探しの冒険譚を展開していきますが……強引にリンクさせてはいますが、じつのところ、殺人(レオ・カリングの捜査)と宝探し(「私」の冒険)は別々のエピソードなんですよ。たまたま同じ場所が舞台になっているだけ。別々に短編で書けばよかったのでは? 宝探しパートは、まあ、種明かしされてフーンという感じではありますが、ドロシー・L・セイヤーズの「因業じじいの遺言」みたいで悪くない。遺産相続人のお転婆娘が出てくるあたりも。こちらはクロスワード・パズルではなく、「謎絵」の絵解きが中心興味になっています。 ただ、殺人事件パートの出来が壊滅的にヒドイ。 犯人は一応、嫌疑を免れるためトリックめいたものを使っているのですが、なぜか、あとで小道具を片付けるのを忘れていますし、読者のあずかり知らないところで、偶然、それを発見したというカリング自身、「犯人がどうしてこれを残して行ったのか、これだけはどうしても合点が行かない」と、のたまう始末。いっぽうで、犯人を追いつめるためならなんでも正当化されるといわんばかりの、カリングの強引な探偵法も、相当にどうかと思います。犯人から、自分がカリングだったら、その卑怯さに「それこそ赤面の至りですがね」と吐き捨てられる始末。 本作が『新青年』の「連載終了後に本になっていない」のも、出来を考えれば止む無し、ですね。 『スミルノ博士の日記』や『夜の冒険』は、1910年代という発表年代を考えれば、欧米の水準に照らしても、それなりの評価は可能でしょう。 しかしこちらは、1920年代に入ってからですから……かなりキビシイ。 エンディングがラブコメみたいで、そこはニヤリとできたので、1点オマケしておきます。 |
No.199 | 7点 | 昨日への乾杯 マニング・コールス |
(2021/03/03 12:26登録) 怠惰なミステリ読者に、投稿への勇気づけを与えてくれる、人並由真さんへ―― 英国のスパイ小説作家マニング・コールズ(フランシス・オーク・マニングとシリル・ヘンリー・コールズという、男女コンビの合作ペンネーム)の、第一作 Drink to Yesterday(1940)の邦訳で、新潮文庫から昭和39(1964)年に出ています。 まさか、無節操に絶版ミステリを漁っていた若い日に、読むだけ読んで忘れるともなく忘れていた本書に、ふたたび目を通す日が来るとは。ストーリーなんかほとんど忘れていますから、まるで初読のように楽しめました (^^♪ 1924年の、謎めいた検視裁判を描いた導入部のあと、時代背景は第一次世界大戦のとば口の日々へと戻り、スパイに憧れる片田舎の少年ビル・ソーンダースの成長物語が描かれます。軍隊入りした主人公は、語学の才能を諜報部に評価され、敵国ドイツへ潜入し任務にあたることになります。そのバックアップとして同行するのが、学生時代のビルの教師であり、じつは外務省の人間でもあった、トミー・ハンブルドンであり、二人は、ドイツ側の細菌兵器の開発阻止や、ロンドン爆撃を目的とした飛行船の破壊工作を実行していきます。 しかし、痛快なサクセス・ストーリーというわけではなく、任務の遂行には苦みがともない(「国家」のためというエクスキューズが、まだ有効な時代ではありますが)、これはちょっとネタバラシになってしまうのですが……物語の後半で、トミー・ハンブルドンは海の藻屑と消えます。 ひとりイギリスに帰国したビル、もう、スパイに憧れていた昔日の純真な少年ではない彼を待っていたのは―― 主人公が達成すべき大目標がクライマックスにおかれる、という、王道的なお話づくりではないので、全体が、エピソードの連なりに感じられ、散漫な印象も受けます。それでも、最後まで読むと、うまくまとめたな、と。ラストの3行で、導入部へ戻るんですね。 ただまあ、ミステリ・ファンとしては、あの検視裁判の評決は納得できないなあ。どこが「過失死」やねんw 発表年代的に、どうしてもエリック・アンブラーやグレアム・グリーンの陰に隠れて損をしていますが、それでもスパイ小説好きなら、探して読んで(シロート臭い翻訳を我慢してでも)損のない一冊だとは思います。 なお、作者の第2作 Pray Silence(米題 A Toast to Tomorrow)は本書の続編的内容なのですが、訳出は前後してしまって、新潮文庫から5年前に『殺人計画』として刊行され、その奥付で原題をDrink to Yesterday と誤表記されるという、とんでもないポカがありました。いちおう、本書の訳者あとがき(金杉佐和子)では、「著者については、まだあまり我が国に紹介されていないが、さきにこの文庫から出た、この作品の続篇ともいうべき「殺人計画」(原名“Toast to Tomorrow” 尾高京子訳)に解説されているので、ここでは詳しく述べない」と書かれていますが、上述のポカの件はスルーされています。 もし、これからこの“連作”を読んでみようという奇特な向きがあれば、本書『昨日への乾杯』のほうから手に取ることを強くお薦めします。 |
No.198 | 8点 | 半七捕物帳 巻の一 岡本綺堂 |
(2021/02/10 12:37登録) しばらくご無沙汰しているうちに、サイトが一新されていて、浦島太郎になった気分のおっさんですが――ともかく生存報告をば。 学生時代に買い揃えながら、通読していなかった『半七捕物帳』全六巻(旺文社文庫版 1977)を消化していこうということで、年末年始には、まず一巻目を読んでいました。 収録作は以下の通り。初出誌は、特記なきものは博文館の『文藝倶楽部』です。 ①お文の魂(1917-1) ②石燈籠(1917-2) ③勘平の死(1917-3) ④湯屋の二階(1917-4) ⑤お化け師匠(1917-5) ⑥半鐘の怪(原題「半鐘の音」1917-6) ⑦奥女中(1917-7) ⑧帯取りの池(原題「帯取の池」1918-1) ⑨春の雪解(1918-2) ⑩広重と河獺(「河獺」 『娯楽世界』1918-9 「広重の絵」 『婦女界』1920-1) ⑪朝顔屋敷(1918-3) ⑫猫騒動(原題「猫婆」1918-5) ⑬弁天娘(『講談倶楽部』1923-6) ⑭山祝いの夜(原題「山祝い」 『探偵雑誌』1918-3) ⑩は、別々に発表したふたつの掌編を、あとから作者が再構成したものになります。 ちなみに①~⑦までの、シリーズ最初の連載をまとめた単行本『半七捕物帳』(平和出版社)が刊行されたのは、1917(大正6)年。イギリスでコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』が出た年です。随筆「半七捕物帳の思ひ出」のなかで、原書でまとめ読みしたホームズ譚にインスパイアされたことを記している綺堂ですが、時代背景を過去に設定し江戸の面影を再現する手法は、作中年代を十年前に戻すことでノスタルジアを喚起した、『シャーロック・ホームズの帰還』(1905)の応用・発展だったのかもしれません。 百年の昔を舞台にして探偵小説を描くという試みでは、先輩格として、1911年からアンクル・アブナーものの短編を書き継いでいた、アメリカのM・D・ポーストの存在があります。しかし作品集 Uncle Abner ─Master of Mysteries─(邦訳題名『アンクル・アブナーの叡智』)が出版されるのは1918年のことですから、さすがに原語で英米の探偵小説が読めた綺堂とはいえ、その存在を知るまでにはいたらなかったでしょう。 余談ながら、江戸川乱歩(「二銭銅貨」で『新青年』にデビューを飾ったのは1923(大正12)年)には、「アメリカの半七捕物帳」としてアブナーものを紹介した文章があり、『続・幻影城』所収の「英米短篇小説吟味」で読むことができます。それを読むと乱歩は、時代小説として「半七」を愛しながらも、探偵小説的観点からは買っていなかったことが、よく分かりますw まあ、ぶっちゃけ学生時代の筆者も似たようなものでしたww 都筑道夫は、半七を賞賛し「新しいものに向けられた綺堂のすぐれた鑑賞眼が、デテクティヴ・ストーリイのルールとテクニックを完全に読みとって、自分のものにしているのだ」(三一書房版〈久生十蘭全集〉第5巻『顎十郎捕物帳』解説)と述べていますが、ホームズの時代、作中の謎を、読者に示された手掛かりにもとづいて探偵役に解決させるといった、フェアプレイの原則は確立されていません。 なので、半七に関して「だから、捕物帳は出発点では、純粋に推理小説だった、といえるだろう」(同前)とするときの、「推理小説」という表現は、誤解を招きやすい。のちにゲーム的な本格ミステリとともに隆盛していく私立探偵小説、やがて勃興する、公立探偵小説ともいうべき警察小説を包含する、広い意味での、謎と解明の物語を「デテクティヴ・ストーリイ」と考えて、それらもろもろのモダンな芽を、すでに半七の連作は持っていた、と見るのが妥当なのではないか――と、これは今回の読書を通して強く感じたことでした。 あらためて筆者がいうまでもなく、犯罪の舞台となる、江戸末期という“異世界”は、いきいきと描かれています。明治生まれの綺堂のリサーチ能力と、材料を選択し再構築する作家としての力量。ストーリー運びの緩急とキャラクターのスケッチ(その世界に生きるキャラの精神・感性が現代人と違うことの明解さ)。そして――簡潔にして古びていない文章。 都筑道夫には批判的なことも書きましたが、前掲の解説にある「やはり、シアロック・ホームズ物語が、息が長いのと同じ理由で、『半七捕物帳』もすたらない、と見るべきだろう」という結論的部分には、うん、そうだよねえ、と同意します。「シアロック・ホームズ」を「フィリップ・マーロウ」や「メグレ警視」に置き換えても、可ですけどww 断っておきますが、本書の場合、決して収録作が傑作揃いというわけではありません。 「広重と河獺」の広重パートの、旗本屋敷の屋根の上に少女の死体が出現する、といった島田荘司ばりの魅力的な謎の、解決の脱力さ加減はやっぱりヒドイと思うwww それでも、そうした凡作は混じっていても、連作の強みである、作品の積み重ねの面白さ、対応の妙が味わえますから、これはやはり、何か代表作をひとつ、アンソロジーで読む、という読みかたよりは、全部読んだほうがいい。 それでももし、ひとつだけアンソロジーに採るとしたら、二話めの「石燈籠」かな。プロローグ的役割を果たす「お文の魂」のあと、ここでシリーズのフォーマットが確立し、“捕物帳”の定義や半七のプライベート・ヒストリーも語られますし、謎解き興味と人情噺のバランスもいい。 集中のベストは、おそらく、綺堂の怪奇趣味が幕切れでもっとも効果的に発揮される、ホワットダニットの「春の雪解」――都筑道夫もイチオシの作――でしょうが、ただ、これだけ読んでもなあ、というところはある。 個人的なお気に入りということなら、綺堂がドイルだけでなく、きちんと“エドガー・アラン・ポーを読んだ男”であることが分かる「半鐘の怪」ですね。焼き直しにとどまらない工夫の部分に、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイの萌芽がありますし、何より結びが絶妙で、笑いがこぼれます。いいなあ、こういうの。 すみません、ひさしぶりの投稿で夢中になって、ついつい長くなってしまいました。でも…… 最後にひとつだけ。 じつは本書(厳密には、この①~⑭まで収録の旺文社文庫版をベースに再刊された、光文社文庫時代小説文庫版の第一巻)は2007年にハワイ大学出版会から英訳が出ています。タイトルはThe Curious Casebook of Inspector Hanshichi: Detective Stories of Old Edo。じつに喜ばしいことですが、しかし、奉行所が公認しているとはいえ、あくまで民間の探偵である“岡っ引”の訳語は、Inspectorでいいのかしらん。 |
No.197 | 8点 | 捕物帳の系譜 評論・エッセイ |
(2020/12/10 09:59登録) 推理小説にも詳しい、文芸評論家の縄田一男氏(大のご贔屓はジョン・ディクスン・カーでしたかね)が、半七→右門→平次と続く、いわゆる三大捕物帳の流れを、ジャンルの成立過程=成熟への道のりとして描きだしていく――いささか図式的で、「思想の器」といった類の大仰な表現が目に付く嫌いはあるも――時代小説愛のこもった労作です。 1995年に新潮社から刊行され、同年の「尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞」の研究・考証部門を受賞していますが(日本推理作家協会賞のほうは、候補にすらならず。予選委員諸氏、果たして本書を読んだうえで無視したのか?)、新潮社で文庫化はされず、2004年になって中公文庫に編入されました。今回、筆者が読んだのもそちらです。ただ、この手の本であれば巻末にあって然るべき、年譜や索引が無いのは物足りなく、あるいは親本には存在していたのに、文庫化にあたって割愛されたのか? 一読して真っ先に感じたのは、ああ、これは推理作家・都筑道夫の捕物帳観に対するアンチテーゼだ、ということでした。 第四章「ミステリーとしての『半七捕物帳』」のなかで、縄田氏は、「半七捕物帳」を推理小説として評価するうえで格好の手がかりになる論考として、都筑が三一書房版の〈久生十蘭全集〉第5巻『顎十郎捕物帳』の解説として執筆した一文(のちに評論集『死体を無事に消すまで』に収録されて広くミステリ・ファンに膾炙し、若き日の筆者もまた、目を開かれました)を紹介し、それを踏まえて自身の論――第一話「お文の魂」の読解を通して、綺堂の創作意図を推し量り、ミステリ的なマイナス要因をプラスに逆転させるくだりなどは、成程と思わせられる――を展開しています。そこだけ読めば、都筑説に対する異議申し立てなどはまったく感じられません。 しかし。 都筑にとって、半七から右門、そして平次に至る、捕物帳ジャンルの変遷は、「出発点では推理小説であったものが、骨の髄まで日本的な変種になっていった過程」(前掲『顎十郎捕物帳』解説より)であり、極端な言い方をすれば、本末転倒の流れなのです。そして、捕物帳を、情緒に力点を置いた犯罪メロドラマから、きちんと推理小説に戻したという意味で、「半七」の正当な後継者として「顎十郎」を位置づけることになります。 都筑の論旨はきわめて明解ですが……ちょっと息苦しくもある。「シアロック・ホームズ物語が、息が長いのとおなじ理由で、『半七捕物帳』もすたらない、と見るべきだろう」と書きながら、ホームズ譚が、ガチの謎解きを志向した元祖ポオのデュパンものをヴァラエティに富んだ探偵ヒーローの物語としてアレンジしたものであること、そしてその魅力の一因ともなっている、犯罪メロドラマの比重の大きさには、目をつぶってしまっています。 筆者にして然りですから、ましてや生粋の時代小説愛好家からすれば、都筑説は、きわめて狭量なものに映るのではないでしょうか。人気を博した三大捕物帳を正当に位置づけ、読書ガイドにもなるような、スタンダードな入門書があって、そのうえで、あくまで謎解きを本道とする都筑史観もある、ならいいのですがね。それだけがマニア的な読者のあいだで独り歩きしてしまうのはマズイ。 よし、誰も書かないなら、俺が正史を書いてやろう、と縄田氏が決心した、といったことは、「まえがき」にも「あとがき」にも一切触れられていない――別な理由による、作者の創作意図は述べられていますが、あまり面白くないw――ので、お前の妄想だと言われてしまえば、それまでです。 でも、あえて縄田氏の文章を我田引水するなら――「むしろ、こういう文学的空想をたくましくした推理の方が、よりいっそう、私たちの読みを楽しくさせてくれるといえるかもしれない」。 捕物帳の変化に必然性――どう理屈をこねているかは、それに賛成するにせよ反対するにせよ、実際に自分で読んで、確認してみて欲しいな――を見ていく本書が、ミステリ・ファンの“読み”の幅を広げる助けになってくれるのは、確かだと思います。 個人的な、本書の白眉は、都筑道夫がケチョンケチョンにした佐々木味津三の『右門捕物帖』に、都市小説という斬新な角度から光を当てた第九章「『右門捕物帖』の世界」。クリスティ再読さんも書かれているように、補助線としての江戸川乱歩の使いかたがうまく、乱歩ファンであるおっさんも、これには目からウロコでした。いやあ佐々木味津三、ろくに読まずに莫迦にしていてスマナンダ。「半七」を読んだら、「右門」もきちんと読むから許してね <(_ _)> |
No.196 | 9点 | 消えた心臓/マグヌス伯爵 M・R・ジェイムズ |
(2020/08/02 17:47登録) 「ゴースト・ストーリーは突然に。」 いやあ、笑った、笑った。光文社新訳文庫から、南條竹則訳で出た、イギリス怪奇小説の巨匠M・R・ジェイムズのファースト短編集(原題 Ghost Stories of an Antiquary『好古家の怪談集』1904)の帯のコピーが、これですよ。 ♪♪あの日あの時あの場所できみ(悪いお化け)に会えなかったら~ ですかw オマケのエッセイ「私が書こうと思った話」を除くと、収録作は―― ①聖堂参事会員アルベリックの貼込帳(はりこみちょう) ②消えた心臓 ③銅版画 ④秦皮(とねりこ)の木 ⑤十三号室 ⑥マグヌス伯爵 ⑦「若者よ、口笛吹かばわれ行かん」 ⑧トマス修道院長の宝 とまあ、創元推理文庫の、紀田順一郎訳『M・R・ジェイムズ怪談全集』全二巻、そのうち最初の巻で読んでしまっている話ばかりなわけなんですが、帯に負けて買っちゃいましたww いやしかし(ここでちょっとマジになる)、このコピーを考えた担当編集者は、凄いな。月9ドラマの「東京ラブストーリー」世代であることは想像に難くありませんが――そのドラマ主題歌が小田和正の「ラブストーリーは突然に」で、とか、説明するだけ野暮ってもんですが――、でもこれって、怪奇趣味全開ではなく、あくまで日常から入って行って尋常ならざる山場へ転調する、ジェイムズ怪談の特徴の一面を、うまく言い表しているんです。 それが顕著な例として―― 本書には、筆者がとりわけ気に入っていて、作者のベスト作ではないかとも思っている「トマス修道院長の宝」が入っているわけですが、この作を初めて読んだのは、忘れもしない、創元推理文庫は創元推理文庫でも、レイモンド・T・ボンド編『暗号ミステリ傑作選』で、でした(当該書での訳題は「トマス僧院長の宝」)。そう、純然たるミステリのアンソロジーに採られていたんですね。 実際、お話のほうは、途中までは確かに、十六世紀にドイツのさる修道院長が隠したとされる黄金のありかを示す、手掛かりを得た好古家が、現地に渡って暗号を解き、お宝に迫っていく、という冒険ミステリ的な展開を(不吉な予兆はありながらも)見せていくわけですが、クライマックスに至って、電撃的に、怪談としての本性を現すわけです。そう、まさに「ゴースト・ストーリーは突然に。」なんですね。 作者が怪談作法において重要とし、「クレッシェンド」(音楽用語で「次第に大きく」)と形容した、テンポの良い語りの技巧と、構成の妙が鮮やかな効果をあげており、今回、作者の手の内は重々承知のうえで再読してみても、その“瞬間”の到来には、息を呑む思いを味わわされました。 もし、国別に代表的な怪談作家を挙げるとしたら、アメリカはエドガー・アラン・ポーで決まりでしょうし、イギリスなら、やはり、このジェイムズになるだろうと思います。 かのポーが、明確な超常現象を描かずに怪奇を演出する(代表作の「アッシャー家の崩壊」にしても「黒猫」にしても、怪奇の対象は、じつは不明瞭なんですね。読者の想像の余地があり、そこがまた怖いし、新しい)手法を得意にしていたのに対し、ジェイムズは、あくまで正攻法で、対象を「幽霊」や「お化け」として実体化させます。新しいタイプの怪奇を創造するのではなく、ゴシック・ロマンス以降、ジャンルに内在していた要素を、語りの技巧でブラッシュアップし、完成形といっていいまでに高めた――それが、大学の学寮長を務めながら中世の学問文化を研究し、あくまで余技として怪談を書き続けた、M・R・ジェイムズなのです。 今回の新訳版では、ビジュアル・イメージが焼き付くような「消えた心臓」と、ジェイムズ版『吸血鬼ドラキュラ』ともいうべき――こちらは聴覚を刺激するような――「マグヌス伯爵」がカップリングで表題になっていますが、収録の八編にひとつとしてハズレはなく、高い水準を保っているので、読者ごとに「推し」作品が分かれそうです。筆者なら、そうだな、表題は『銅版画/トマス修道院長の宝』にしちゃうかなwww ファースト作品集にして、里程標。 創元推理文庫の『M・R・ジェイムズ怪談全集』は久しく絶版のようですから、ジェイムズ未体験の向きは、まずこれを手に取ってみると良いでしょう。 本格ミステリじゃないから興味が無い、ですか? もったいない。 ジョン・ディクスン・カーのファンには、とりわけお薦めなんですがね。カーの実作における、怪奇趣味の変遷をたどるうえでは、ジェイムズはマスト・リードです。 |
No.195 | 1点 | フラクション 駕籠真太郎 |
(2020/06/27 17:32登録) 「これは駄目駄目なやつだ!!」 かねてより、このミステリ漫画が凄い、的な噂を耳にし、気にはなっていた作品でしたが…… 古本屋でたまたま見かけ、収録されている、作者と霞流一の対談に目を通しているうちに、ちゃんと本編を読んでおきたくなり(駕籠「今回はいつもと違って、サスペンスミステリーの完全書き下ろしなんです」「――小説の専売特許である叙述トリックを漫画で行うことは可能なのかということを、試してみたんですね」)、つい、買ってしまいました。 魔が差したとしか、言えないですね。 2009年にコアマガジン社から出た、ソフトカバーの単行本で、他に四編ほど短編も入っていますが、そちらはまっとうな(?)エロとグロと不条理の作品群で、これが作者本来のテイストなのでしょう。 肝心の『フラクション』の、お話はというと―― サイコキラーの“連続輪切り魔”が、模倣犯の正体を探究していくうちに、あたかも胴体を切断された死者のよみがえりのような現象に直面するという、まるで殊能将之と島田荘司を混ぜ合わせたかのような「WAGIRI−MA」パートが、まず、あるわけです。 そして、それと交互に語られるのが―― いま世間を騒がせている、未解決の連続輪切り魔事件をネタに、実録漫画を描くよう編集者に持ちかけられた、エログロ漫画家・駕籠真太郎が、自分は作風を転換してミステリー漫画にチャレンジしたい、それも漫画ならではの手法を用いた叙述トリック作品に! と、くだんの編集者相手に、熱のこもった叙述トリック談義を繰り広げる「MANGA−KA」パートです。 この、ふたつのパートは、それぞれに異常なクライマックスを迎えることになり、そして…… 冒頭の感想に至ります。 読者を驚かせることに全振りし、ストーリーの整合性やトリックの必然性を度外視したら、それはもうミステリ(―)ではないでしょう。 作中の「MANGA−KA」パートには、 「ミステリーっていうとどういうやつです? 名探偵コナンとか金田一少年とか…」 「う~んまあそれもミステリーって言えなくもないけど…」 といった、やりとりを描いたシーンがありますけど、『フラクション』に比べたら、コナンや金田一少年のほうが、ちゃんとしたミステリ(―)ですよ。そして、「漫画」という媒体ならではの、ミステリ的な工夫を施した作品も、そこには幾つも存在するわけで、少なくとも、筆者はそちらのほうを評価するなあ。 ただ。 この破綻した作品に、圧倒的な個性があることは――個性だけがあることは、認めざるを得ない。 中途半端な点数は、かえって、ふさわしくないでしょう。よって、1点。 でも、もし許されるなら、フラクション(分数)にちなんで、二分の一の0.5点を付けたかったw |
No.194 | 9点 | だれもがポオを愛していた 平石貴樹 |
(2020/05/22 16:38登録) 南伸坊のイラストによる、ポオの立ち姿が印象的なカバー・デザインの、懐かしの1990年版・集英社文庫を再読しました(親本の刊行は1985年)。 『笑ってジグソー、殺してパズル』に続く、美少女探偵――殺人事件大好き――更科ニッキシリーズ第2弾の舞台は、海を越えアメリカへ。 エドガー・アラン・ポオ終焉の地、ボルティモアで発生した、さながらポオ作品へのオマージュのごとき一連の犯罪(日系人のアシヤ兄妹の住む屋敷が爆破され、その周囲で、矢継ぎ早に連続見立て殺人が!)の謎を、休暇で同地を訪れていたニッキが、現地警察の「特別補助捜査官」になって解き明かしていく――その経緯を、ワトスン役の警部補(ニッキの父の友人)が英語で記録し小説化したものを、事件の終幕にかかわった「日本の大学でアメリカ文学を教えているW**教授」が翻訳し、オマケとして、ニッキにインスピレーションを与えた斬新な考察をまとめた、「『アッシャー家の崩壊』を犯罪小説として読む」なる、教授自身のエッセイを附したという、まことに凝った設定による……うん、これはやはり、傑作。 素材と表現の、幸福な一致があります。 作者は以って瞑すべしw 擬似翻訳ミステリの体裁をとり、人工的なネーミングのキャラクターを随所に配し(そもそも語り手がナゲット・マクドナルドで、同僚がナビスコ、警察医がペッパーですからね。鳥山明かよww)ユーモアを打ち出すことで、ニッキが事件に介入していく強引な展開を緩和しているわけですが、一見お気楽にも見えるストーリーの背後には、前作同様シリアスで、しかも格段にアクロバチックなプロットが用意されています。 そのぶん、極端な行動を作者に強いられるキャラが少なからずいて、小説として、心理面――動機づけの弱さは否めません。否めませんが、それでも、彼らがそう行動したに違いないことを、客観的データ(ニッキいわく「物質の角度」)から論証し、複雑な事件を解体していく推理のプロセスは、素晴らしいものです。 恒例の「読者への挑戦」もおこなわれますが、本書の眼目は、名指される犯人の意外性ではなく、ニッキの推理の意外性にあります。初期のエラリー・クイーンの傑作がそうであったように。 現行の創元推理文庫版(筆者、未所持です、スイマセン)には、有栖川有栖さんの解説がついているようで、なるほどこの人選はドンピシャリでしょう。でも、もし自分が編集者だったら……解説を依頼したかったのは、都筑道夫センセイですね。どうせ元版は読んでいなかったでしょうし、亡くなる前に、是非これだけは読ませたかった。そして、感想を聞きたかった。若い日本のミステリ作家は、後ろばかり見ているわけではありませんよ。あなたの提唱した「モダン・ディテクティヴ・ストーリイ」が、ここにはありますよ、どうでしょうね、センセイ。 さて。 話を筆者の読んだ集英社文庫版に戻すと、こちらは馬場康雄なる、耳慣れないかたが解説を書いていて、でもこれがまた、本格ミステリへの理解と愛にあふれた、とても良い内容なんですね。パソコンで「馬場康雄」を検索すると、ヒットするのは畑違いの「政治学者」さんなんですが……でも1948年生まれで東京大学名誉教授という、そのへんのデータは作者の平石貴樹と一緒ですから、同僚繋がりで、まず解説者はこの人で間違いないでしょう。創元推理文庫で『だれポオ』を読まれたという向きも、もし古本屋で集英社文庫版を見かける機会があったら、是非、この巻末解説には目を通されることをお勧めします。 さてさて。 鮮やかな論理のアクロバットで事件を解決に導いたニッキですが、ラスト近くで突然、「警察官」(日本での肩書きは、正確には何だっけ――法務省の特別調査官?)を辞めるかもしれないとか言い出します。「あたし、職業にはこだわりたくないんです」。ハイ、もう、好きにして下さいwww ともあれ。 推理小説愛好家が、生涯に一作でも、こういう遊びに徹した実作を残せたら本望だろうなあ、という、これは、そんなことを思わせる傑作です。先頃、あの山口雅也の『生ける屍の死』の「永久保存版」が刊行されましたが、『だれポオ』も、どこぞで愛蔵版を出して欲しいな。そのときは是非、特別附録として、W**教授訳の「アッシャー家の崩壊」本編も収録をお願いしたい。犯人の指名に役立つから、読者各自、よく読んでおくように――は、さすがにエンタメ読者には不親切ですよお、平石教授wwww 以下、蛇足。 エッセイ「『アッシャー家の崩壊』を犯罪小説として読む」について。ハイレベルな、ミステリ読者あるあるだと思います。あくまで遊びの論であって、アレを真面目に信じてはいけませんよw そもそも、ポオの「アッシャー家の崩壊」の一人称、あれは記述なのか、語りなのか? なるほど、世にも奇妙な体験をした人物が、それを記録しておきたい、話して聞かせたいというのは、普通に理解できる。でも、仮にエッセイの中で主張されているような、隠された趣向があの話にあるのであれば、「私」は決して、あんなふうに書いたり語ったり、しないでしょう。作者ポオに必然性はあっても、作中人物の「私」に必然性がありません。 トリック(!)も無理無理ww |
No.193 | 4点 | 笑ってジグソー、殺してパズル 平石貴樹 |
(2020/04/11 17:11登録) ――アハハハッ、習作ね! オシマイ。 嘘です、もう少し続けます <(_ _)> 近作『潮首岬に郭公の鳴く』(2019)の評判がいい、アメリカ文学研究者にして作家・平石貴樹の長編デビュー作を、今回、創元推理文庫版で読了しました。 じつは、初読です 。 1984年に集英社から出た単行本は、当時、スルーしてしまったんですよねえ。帯の、珍しい高木彬光の推薦文(「これは完全な純粋本格推理小説である」云々)に気を惹かれ、当時、書店でいったん手には取ったんですよ。でも、導入部にちょっと目を通しただけで、棚に戻してしまった。探偵役(ヒロイン)のお気楽な言動(「――だってあたし、とびっきりの殺人事件をゼッタイ待ってるんですもん」)と、その安直な設定紹介(跳び級でアメリカの大学を卒業した帰国子女ですって、キャッ、でもって二十一歳で、法務省特別調査室の調査官なんですって……アハハッ!)に、駄目だこりゃ、となったわけです。ブンガク方面のかたの、手すさびの“本格ミステリごっこ”にはつきあえないや、とか思ったりして、まあ、こちらも生意気でしたねw その悪印象のせいで、マニア間で評判になった2作目『だれもがポオを愛していた』(1985)すら、読むのをずっと後回しにしてしまいました。 集英社文庫になってから目を通した、その『だれポオ』は、確かに面白かったのですよ。幸福な、趣味の本格の金字塔という感じで。でも同時に、この作者はこの一作があれば充分だよなあ、とも思ってしまった。少なくとも、ミステリ作家としてプロでやっていく(いける)人ではないだろうし、この「幻の名作」の作者として、マニアの記憶に残り、懐かしく想い出され、語り継がれていけばいい、と。嫌な読者ですねww まさか後年、その平石センセイが不死鳥のように甦るとはwww で、あらためて再会した、更科丹希(さらしな・にき)嬢、通称ニッキに対する印象は、後述するとして、本書のミステリとしての評価を、まず述べておきます。 「読者への挑戦状」つきの、ガチの論理小説として、解明のプロセスは細部までよく考えられていますが、トリック(最後の事件のアレ)に縛られすぎて、犯人側の計画に無理があります。その方法でうまく○○は作れても、状況が不自然すぎて、とても××には見えません。警察に「方法」を問題にされたら、露見は時間の問題でしょう。 探偵役が、「動機」に囚われず論理的思考だけで謎を解くという、その姿勢はいい。しかし、作者まで犯人の「動機」を軽視したら、いけません。「動機」は、あらためて言うまでも無く、そのトリックを採用した動機を含むのです。 連続する事件で、なぜ必ず現場にジグソーパズルのピースが撒き散らされていたのか? という、魅力的なホワイダニットも、結局、その不自然なハウダニットに収斂してしまう。 そして、もうひとつ大きな問題が。 フェアプレイが大切な挑戦小説でありながら、本書はアンフェアだと、筆者は考えます。作中の犯人が、目的を達成するために施した、ある偽装工作に関して、ニッキは謎解き場面で「ともかく可能性はあるんだとすると、あとは論理の問題になります」と発言していますが……おおかたの読者は、そんな「可能性」があるとは考えないでしょう。だって、舞台はクローズド・サークルじゃない、普通に警察が介入し、司法解剖もおこなわれているんですから。あとになって、「とにかく可能性としては否定できない」と言われても、モヤモヤが残りますよ。 そんなアンフェア感を増大させているのが、叙述の問題。本書を執筆するにあたり、平石センセイが「作者の視点」を採用したのは、失敗です。といって悪ければ、文章表現によりいっそうの配慮が必要だった。 ユーモア・タッチの警察捜査小説のなかに、異物としてのキュートな「名探偵」が同居している小説ですから、個人的には、その「名探偵」に振り回される若い藤谷刑事の視点で、そのボヤキ語りで進行させていれば――アハハッ、涼宮ハルヒとキョンよオ――少なくとも彼の認識の誤りは「アンフェア」とは言えなくなくなった、と思うのですが、どんなものか。 さて、ニッキ嬢の件。 作者としては、“ニッキー・ポーターの冒険” 的なノリで作った、好みのタイプのキャラクターかも知れませんが、傍目にはイヤな女ですよ。その点に関して、書き手がどこまで自覚的なのかな。 そもそも「法務省特別調査室の調査官」って何? なんで刑事と一緒に捜査現場に行くの? もしかしたら、刊行にいたらなかった、シリーズのエピソードゼロの長編があって、そこでそのへんの設定がくわしく語られていたのかもしれません。本書の導入部は、あきらかに前作の続き、みたいなノリではじまっていますから。 いずれにしても、本書のニッキは、まわりの大人にチヤホヤされているだけで、読者にその魅力が伝わってくる造形はされていません。 唯一、筆者が彼女に心動かされたのは、事件の悲しく残酷な真相に到達したさい、藤谷刑事に思わず「……ちっとも嬉しくないんだ」「……ちっとも嬉しくないんだよオ」と心情を吐露する場面でした。書き割りのキャラに、一瞬、生命が宿ります。でも、そのあとはまた、もとの“殺人事件大好き女”に戻ってしまうんですね。 このあとの『だれもがポオを愛していた』が傑作だから、目をつぶりますけど、ニッキは、性格改造しないかぎり、賽の河原の石積みを続けざるをえない不憫なお嬢さんというのが、筆者の偽らざる感想です。 ブランクを経て執筆を再開した作者が、彼女のシリーズを中断(?)しているのも、そのへんが関係しているのかなあ。 |
No.192 | 6点 | 誰もがポオを読んでいた アメリア・レイノルズ・ロング |
(2020/03/12 21:16登録) ロバート・エイディ「不可能殺人ものに非ず。作中テーマとなっているエドガー・アラン・ポオと、「モルグ街の殺人」という章立てのせいもあって、よく密室ミステリと勘違いされるが、「モルグ街」が引き合いに出されるのは、死体の扱いかたが理由で(そう、煙突に押し込まれる)、それを除くと、この本は興味を引くものではない」(『Locked Room Murders』) M.K.「Adey氏はあまり評価していないが、私の入手したコピーには著名なコレクターと思われる前所有者によるexcellent という読後感が記されていた。ポーの未発表原稿の発見とその盗難に端を発して、アモンティラードの樽、マリー・レジェの謎、モルグ街の怪事件といった名作に見立てた連続殺人が起こる。各章の題名にポーの名作を引用し、怪奇性も漂わせた究極のビブリオミステリであり、著者の意気込みが感じられる。行ったり来たりの推理も好ましく、短めの分量にトリックが凝縮している」(『ある中毒患者の告白~ミステリ中毒編』) 知る人ぞ知る、原書ミステリ読みの達人、M.K.氏の強力なプッシュで実現した、アメリカ・マイナー女流アメリア・レイノルズ・ロングの邦訳第一弾。巻末解説も、絵夢恵(えむ・けい)の名義で同氏が担当されています。 1944年の作で、原題は Death Looks Down (死が見下ろす)。これを、本邦の、ポオづくしの連続見立て殺人もの『だれもがポオを愛していた』(平石貴樹 1985)に合わせて、『誰もがポオを読んでいた』という訳題にしたのは、論創海外ミステリ編集部の遊び心でしょう。こういうの、筆者は好きだなあ。 だがしかし。 そのせいで、ガチのパズラーとしては絶品といっていい平石作品に比べられてしまうと、ロングは分が悪い。小説づくりの腕だけなら、両者どっこいどっこいなんですがねw 「貸本系アメリカンB級ミステリの女王」という触れ込みから想像されるほど、通俗に振り切った感じがなく(そこが、乱歩のそのテの作品の洗礼を受けた筆者には、逆にちょっと物足りない)意外にカッチリまとまっているぶん、どうしても“本格もの”としての論理面の緩さが目についてしまいます。――「すべての殺人がエドガー・アラン・ポオの小説を模したものでした。つまりこれは、単独犯であることを示しています」というセリフが、名探偵トリローニーの口から出てきますけど、これにはツッコミを入れたい読者が、とりわけ日本にはたくさんいるでしょうww 全体に、もう少し手を加えれば、描写を補えば良くなるのに、と思わせる箇所が散見するのが、「B級」たるゆえんか。 頑張れロング、と応援したくなる、不思議な魅力はあります。 というわけで、ひとまず、努力賞。 それにしても。(以下、妄想) 平石貴樹は、くだんの『だれもがポオを愛していた』を書く前に、本書の原作を読んでいたんじゃないか? 50年代以降、本国アメリカでも忘れ去られたマイナーなミステリ作家の未訳作品を、1948年生まれの日本人が読んでいた可能性は、普通ならゼロに近いでしょう。 しかし、相手は普通じゃない。英語に堪能な本格ミステリ好きのアメリカ文学者です。 たとえば、1979年に出た、ロバート・エイディの『Locked Room Murders』の第一版を、入手していたとしたら。前掲の文章から、アメリア・レイノルズ・ロングなる作家に、何やらエドガー・アラン・ポオをモチーフにした長編があるらしいことが分かります。彼は興味を持たないでしょうか? そしてそうなれば、海外の古書店を通じて本を探すという段階へ進んでも……おかしくはないのでは? おかしいよ、ですか。ハイ、すみません。 でも、平石版の「だれポオ」の基本着想が、ロング版の「誰ポオ」のパクリなどではなく、あたかも、弱点の改善とも思えるアクロバチックなものであることは、指摘しておきたいと思います。 偶然――かなあ? |
No.191 | 8点 | ポー傑作集 江戸川乱歩名義訳 エドガー・アラン・ポー |
(2020/02/14 23:41登録) かの「赤き死」は永い事、国中を貪り食つた。これほど決定的に死ぬ、これほど忌まはしい流行病がまたとあつたらうか。血の赤さと恐怖――血こそこの疫(えやみ)の化身でありその印鑑であった。(……) なんとなく、「赤き死の仮面」を読み返したい気分になったわけですよ。 で、ど・の・ホ・ン・ヤ・ク・に・し・よ・う・か・な――と考えたら、昨2019年に出た『ポー傑作集 江戸川乱歩名義訳』(中公文庫)が浮上してきたわけです。じゃあいっそ、全部読んでやれとw 近年、目につくようになった、往年の「名訳」を復刊する試み――の、これも、そのひとつなわけですが、いや凄いタイトルだww 昭和四年(1929年)に改造社の「世界大衆文学全集」の一冊として、江戸川乱歩名義(多忙の乱歩のゴーストを務めたのは、横溝正史を介して依頼を受けた渡辺温と、その兄・渡辺啓助)で刊行された『ポー、ホフマン集』が親本で、そこから乱歩の序文とポーの翻訳全十五作を抜き出し、附録として、急逝した渡辺温を悼む乱歩と谷崎潤一郎の文章、および渡辺啓助の息女・東(あずま)氏による書き下ろしエッセイ「温と啓助と鴉」を収め、巻末には浜田雄介氏が充実した解説を寄せています。 中公文庫には、すでに丸谷才一訳の『ポー名作集』が入っており、これからポーを読もうというビギナーには、入門書としてそちらをお勧めしますが、しかしポーは、一回読んで「ああ面白かった」(あるいは「つまらなかった」)で終わる作家ではないので、より深く味わうためには、検討できるテクストはいろいろあったほうがいい。 同じ中公文庫というレーベル内で、収録作品の重複がありながら「渡辺兄弟によるゴシック風名訳」(帯のコピーより)の復刊を実現させた編集部の英断には、心からの拍手を送ります。ただ、「乱歩全集から削除された幻のベストセラー」という宣伝コピーは、嘘ではないまでも、スキャンダルを勘ぐらせる誇大表現で(乱歩の個人全集に再録されたのは、昭和初期の一回きりで、後年は乱歩自身、収録を控え、代訳の経緯を明かしています)、無くもがなと思いますがね。 収録作品十五作のラインナップは、以下の通り。 「黄金虫」 「モルグ街の殺人」 「マリイ・ロオジェ事件の謎」 「窃まれた手紙」 「メヱルストロウム」 「壜の中に見出された手記」 「長方形の箱」 「早過ぎた埋葬」 「陥穽と振子」 「赤き死の仮面」 「黒猫譚」 「跛 蛙(ホツプフログ)」 「物言ふ心臓」 「アッシャア館の崩壊」 「ウィリアム・ウィルスン」 序文のなかで乱歩は、「この集に収めたものは、出来るだけ大衆的要素をより多分に具(そな)へた作品を択(えら)んだわけだが、併(しか)しもともとポーの作品に於いて読物的価値を第一義的に考へることは無理なのだから、大衆小説として必ずしも喝采を拍(はく)すべきもののみとは限らない」と述べています。作品の選択は乱歩がおこなった――と考えていいのでしょう。探偵小説と怪奇幻想系の小説が過半を占め、SF成分(と、欲を言えばユーモアの要素)が足りないのは、選者の嗜好を窺わせます。 知名度は低いけれど、謎とサスペンスと乱歩好みのトリックを備えた広義のミステリ「長方形の箱」が採られているのは納得できますが……「お前が犯人だ」をなぜ落としたのでしょうね? なぜ、と言えば、初期作の「壜の中に見出された手記」は、ポーの、可能性の卵のような魅力はあるにしても、「傑作集」にこれを採る? という疑問はあります。前後に「メヱルストロウム」と「長方形の部屋」を置いて、本のなかばに一種の“海洋篇”コーナーを演出し、舞台の広がりを見せたかったのかな? そのあとに、「早過ぎた埋葬」「陥穽と振子」「赤き死の仮面」……と閉鎖的なお話が続きますから、そのコントラストとして。 でも乱歩、多分そこまで考えてないよなあwww 翻訳にあたっての、渡辺兄弟の役割分担については、巻末解説に推定情報が記載されているので、興味のある向きは是非、本書をご覧ください。代訳とはいえ、力の込もった訳文で、特に怪奇幻想系の作品に関しては、大乱歩の名を辱めない出来だと思います。当時の訳書の雰囲気を伝えるため、歴史的かなづかいや独特の読み仮名のルビをいかした、中公文庫の編集部の英断には、重ねて拍手を送りましょう。 本書に関しては、あまり“翻訳警察”のような野暮なマネはしたくありません。 が、しかし。ひとつだけ。 「モルグ街の殺人」で、「建築物(たてもの)の周囲(まわり)」に「一本の外燈の柱があった」というのは……いやそれは違うでしょう、と。乱歩、そこは朱を入れないとマズイよ。 ともあれ。 何度めかのポー作品の読み返しを果たし、充足の溜息をつきながら“現実”に帰還してみると――これで何度めかの、不穏なニュースに直面し、思わずまたポーの文章が、脳裏をよぎるのでした。 (……)饗宴者は一人一人相次いで、血汐に濡れた歓楽の床に仆(たお)れた。さうして断末魔の悶搔(もがき)をしてそのまま息絶えて行った。かの黒檀の大時計の刻(きざみ)も遊宴者の最後の一人が息を引取ると共に止んだ。三脚架の焔も消えた。さうして闇黒と頽廃と「赤き死」とが恣(ほしい)ままに、万物の上に跳梁した。 |
No.190 | 7点 | 推理小説雑学事典 事典・ガイド |
(2020/01/13 15:26登録) 懐かしい本。 慶應義塾大学推理小説同好会のメンバーが分担して執筆し、同会の顧問だった中村勝彦教授が監修した――といっても、同人誌のたぐいではありません。 筆者が子供の頃、町の小さな本屋さんを覗くと、趣味や実用の新書本が、結構、棚を占めていた記憶があります。 KOSAIDO BOOKS のコーナーで、『鉄道雑学事典』や『プロ野球雑学事典』と並んでいたのを見つけた本書は、背伸びして大人向けの推理小説に手を出し始めていた小学生には、格好のガイドブックになってくれました。 昭和51年、といっても、いまではもう、ピンときませんかね。西暦1976年のことです。 章立ては、こんな感じ。 第一章 推理小説の創られ方=作家の秘密 第二章 本格推理アラカルト=何をどう読むか 第三章 完全犯罪学講座=裏から読むトリック 第四章 魅力の名探偵解剖=人物を捜査法を 第五章 マニアの読み方、楽しみ方=知恵の遊び トリックのネタバラシのオンパレードでありながら、具体的な作品名には言及せず、完全犯罪を目指す読者への実用講座という体裁をとった第三章も楽しいのですが(「補講」として、もし完全犯罪が失敗し、逮捕されたときのために、脱獄トリックをまとめた「脱獄の手引き」が最後に用意されているあたりのユーモア・センス)、ませた子供だった筆者をいちばん刺激したのは、第五章のなかの「入手困難な推理小説」という絶版本ガイドでしたw どんな時代だったかを端的にしめす文章があるので、引いておきましょう。 ミステリーの女王クリスティーには四作絶版のものがある。『ホロー館の殺人』『チムニーズ館の秘密』の他、ポアロ登場の中期名作『白昼の悪魔』、ミス・マープル最初の事件『牧師館の殺人』はマニアには見逃せない。クリスティーには八〇作以上の作品があり、その全部が訳出されているわりには、簡単に手に入らないのがたった四作。非常に恵まれた作家だ。(引用終わり) まあ、そんなわけですから―― ガイドブックとしての歴史的使命(?)は終えた本です。 本サイトの掲示板で物議を醸した、エスカイヤー誌のわけありの「ハードボイルド探偵比較表」を、よく調べもせず、出典も明記しないまま、勝手に転用したような「罪」の部分もあります。 しかし、推理小説に興味を持ち出した小学生を、次なるステージに誘い、マニアへの一歩を踏み出させる、そんな「功」もあったことは、証言しておきたいと思います(それも「罪」だというキミは、外へでなさい)。 採点は、そうした感謝の意味を込めて、です。 願わくは、いまの子供たちにとって、そうした存在となりえる本があってくれますように。 |
No.189 | 6点 | オトラント城綺譚 ホレス・ウォルポール |
(2019/12/03 12:33登録) マンフレッドの目をまず第一に射たものは、なんだか黒い鳥毛のように見えるものを、下人(げにん)どもの群れがエイヤエイヤと懸命になって持ち上げている姿であった。目をこらしてよく見たものの、自分の目が信じられなかったので、マンフレッドは怒気をふくんでどなりつけた。「ヤイヤイ、きさまら、何をしてさらす! 和子(わこ)はどこにおるのじゃ?」 / すると、異口(いく)同音の声がいっせいに答えた。「おお上(うえ)様! 若君様は! 若君様は! このお兜が! お兜が!」/ 涙まじりのその声に、あるじはギックリ。なんのことやらわからぬまま、こわごわ前にすすみ出てみると、こはそもいかに、わが子はグッシャリ、木っ葉みじん。さながら尋常の人間のためにつくられた兜の百層倍もあるような大兜の下にうち敷かれて、その上を、大兜にふさわしい山のごとき黒い大きい鳥毛が、くろぐろと蔽っていたのである。(平井呈一訳『オトラント城奇譚』第一套より) ――むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす (゜o゜) 古典的な作品の翻訳を「新訳」に移し変える風潮が強まるなか、逆に往年の「名訳」を復刊する試みも目につくようになり、たとえば、さきごろ創元推理文庫からは、藤原編集室の企画で『幽霊島 平井呈一怪談翻訳集成』が刊行されました。 平井翁の怪奇小説方面での業績に関しては、他言を要さないでしょうが、狭義のミステリの翻訳に限っても、カー(ディクスン)の『黒死荘殺人事件』やクイーンの『Yの悲劇』あたりの個性的な訳業は異彩を放っています。 ただ個人的には、文章表現の凝りっぷりが、ときに演出過剰に感じられ、敬して遠ざけるようなところのある訳者でした。 思えば学生時代、元祖ゴシック・ロマンスの誉れ高いホレス・ウォルポールの『オトラント城奇譚』(1764)を、氏の訳文で読もうとして(恐ろしいことに、擬古文で訳してみせた思潮社版『おとらんと城奇譚』というヴァージョンも存在するようですが、筆者が齧ろうとしたのは、もちろん現代語訳のほう、であるにもかかわらず……)大仰なノリについていけず挫折したのが、トラウマになったのかもしれません。 しかし、前掲の『幽霊島』のページをペラペラめくり、付録の、生田耕作とのゴシック小説対談の気炎――「オトラント」を巡る部分だけでも相当に熱い――に当てられているうちに、平井訳の「オトラント」は、やはり一度、ちゃんと読んでおくべきだな、という気にさせられました。筆者は基本的に、古典の読みなおしは新訳に依るようにしているのですが、そういうわけで、今回は例外となります。 幸い本サイトには、最新訳の研究社版(千葉康樹訳)を読まれた人並由真さんの、まことに行き届いた書評が投稿されていますから、万一、未読の向きがあれば、合わせてそちらも是非、ご高覧いただきたいと思います。 さて。 覚悟していたとは言え、読みやすくはありません。1764年という原作の発表年は、我国では明和1年、江戸時代の後期(ちなみに上田秋成の『雨月物語』が本になったのが、1776年の安永5年)のことですし、しかも舞台が中世ということで、作者のウォルポール(初版は匿名出版)が古語を駆使した怪奇時代小説(初版は実話めかした序文を付した“偽書”)を、凝り性の平井翁が腕によりをかけて訳しているわけですから、灰汁(あく)の強さは半端じゃなく、さながら読む歌舞伎か人形浄瑠璃といった趣。 単純に、エンタテインメントとしての怖い小説を期待していた、学生時代の筆者が、???となったのも、やむなしですが、さすがに今回は、覚悟ができていたので、ウォルポールの原作をもとにした再現芸術として、平井演出を受けとめることができました。いまさらながら、語彙の豊かさは凄い。そして、その豊富な語彙を武器にして、原作を日本語で語りなおしていく。平井呈一以外には、誰も平井呈一のように訳さない。訳せない。好き嫌いは別にして、これはやはり偉業と言っていいでしょう。 ただ、ひとつ、どうしても気になる“意訳”箇所があるのですが、それについては、あとで触れることにします。 肝心のお話は―― 天から降ってきたとしか思えない、巨大な兜が人を押しつぶす、冒頭のシュールな(ギャグと紙一重な)シーンに象徴される、“巨人幻想”のユニークネス(日本の本格ミステリ・ファンなら、その“奇想”が島田荘司ばりに合理化されることを期待してしまうかもしれませんが、これはガチの超常現象なので悪しからず)を除けば、怪奇小説としてはとうに賞味期限を切れています。 自宅をゴシック様式に改築するほど、中世を愛したオタク貴族ウォルポールが、ある晩に見た夢(「(……)夢の中でわたしは古城の中におり、大階段のてっぺんの柱から甲冑の中に巨大な手がのぞいているのを見たように思います」作者の書簡より)からインスピレーションを受け、憑かれたように書きあげた、できそこないのシェイクスピアのような(実際、作者の真意はシェイクスピア史劇をもじったノンセンスな茶番劇を書くことだったのでは、という解釈もあるようです)、短めの長編。しかしそれが、当時のイギリスの、リアリズム路線の長大な小説に飽きていた読者に受けたと。 そして、刺激された後続の作家たちによって“ゴシック・ロマンス“として確立されることになる、ジャンル小説の基本フォーマット(中世、異国、城、超自然、悪漢、迫害される乙女etc.)がここに用意されたと。 そして近代に入り――いったんは廃れたそのゴシック・ロマンスのアメリカン・ルネッサンスとして、かのエドガー・アラン・ポーが登場してくると。 歴史的価値で評価するなら、「オトラント」は満点ですよ。 ただまあ、いま読んで面白いかとなると、ちょっとキビシイ。 ましてや「ホラー」を期待するとね。 前述の“巨人幻想”と、オトラント城主マンフレッドの、不思議な魅力――後続の多くのゴシック・ロマンスにおける、ヒロインを迫害する“悪漢”のモデルになった存在でしょうが、でも「オトラント」における彼は、じつは悲劇の主人公なのです――を勘案して、6点としましたが……「新訳」で読むと、また変わってくるかもしれません。 最後にまた、翻訳の話。 作中、オトラントの城には、代々ある予言が伝えられています。 平井訳では、こう。「オトラントの城およびその主権は、まことの城主成人して入城の時節到来しなば、当主一門よりこれを返上すべし」。でもこれって、ネタバラシじゃね(笑)。 そして、“巨人幻想”の暗示がまったく消されてしまっています。 原文はこう。 The castle and lordship of Otranto“should pass from the present family, whenever the real owner should be grown too large to inhabit it.” 最新の研究社版、千葉訳をネットでチラ見してみると、ここは、こう。「真の城主、容(い)れ能わざるほど巨大になりしとき、偽りの城主とその同胞(はらから)オトラントの城を去らん」。 うん、謎の予言っぽい。でも present family を「偽りの城主とその同胞」って、ネタバラシじゃね(笑)。 まこと翻訳は難しい、というお話でした。 |
No.188 | 7点 | ノーサンガー・アビー ジェーン・オースティン |
(2019/10/14 14:07登録) A「おっさんが文学づいて、オースティンに手を出したって聞いたんだけど、ホントかい?」 B「大げさだなあ。そりゃあ、読書傾向がミステリに偏っているのは認めるよ。でも、イギリス・ミステリに親しむ者の嗜みとして、オースティンやディケンズなら、過去に多少は、かじってきたさ。今回は、たまたま「ミステリの祭典」への作品登録に刺激されて、老後の楽しみにとっておいた『ノーサンガー・アビー』に、目を通す気になっただけで」 A「ゴシック・ロマンスのパロディ、だっけ? (用意のメモを取り出して)発表はオースティン没後の1817年だけど、執筆されたのは1798年か。いずれにせよ、ポオの「モルグ街の殺人」の1841年より、早い早い(苦笑)。なんでもかんでもミステリ扱いするのは、どうなんだろう」 B「18世紀末に流行したゴシック・ロマンスを、ミステリの源流とする見方があるわけで、そのパターンを踏まえたうえで、愛情をもって揶揄した『ノーサンガー・アビー』――田舎育ちの平凡な女の子が町へ出て社交デビューするけど、ゴシック・ロマンスの読みすぎがもとで迷走していく話――には、いってみれば、元祖ユーモア・ミステリの趣きがあるんだ。ロナルド・ノックスの『陸橋殺人事件』なんかにつながる流れだね。昔読んだ、同じ作者の『エマ』や『高慢と偏見』の、円熟した印象にくらべたら、どうしたって若書きの習作感は否めないけど、そのぶんここには、かけがえのない“新人の輝き”がある。読めて良かったし、作品を登録してくれた弾十六さんには、感謝しているよ」 A「サイトに、書評も投稿されてたね」 B「弾さんのあの書評は、ちょっと脱線気味だけど(笑)。でも作品のポイントは、きちんと押さえられていて、とりわけ『立派な謎が登場して最後までとても楽しめました』というくだりには、膝を打った」 A「(準備のメモで作品の粗筋を確認しながら)お話は後半、舞台を温泉行楽地のバースから、ヒロインが招待された由緒あるカントリーハウス「ノーサンガー・アビー」に移す、と。そこで何か、一見、超自然現象みたいな謎が提示されるのかな?」 B「まあ、そのへんは読んでみてのお楽しみ、なんだけど……率直にいって、「解明される超自然」みたいなタイプの謎物語を期待すると、裏切られる。俺が感心したのは、もっと別な“謎”でね。表面的なゴシック・パロディが一段落したあとで、終盤、ヒロインはある“迫害”を受けるんだ。それはいったい何故? という部分」 A「おお、まさかのホワイダニット!?」 B「“真相”自体は、作者が最後に地の文で種明かしするわけで、弾さんが『最後がとても慌ただしい』と書かれているのは、ホント、その通り。だけど、照応する伏線が、前半のバースでの社交場面のなかに、きちんと埋め込まれているあたり、その構成力は充分、ミステリ・ファンにも訴求すると思う」 A「わかった、わかった。気になる本として『ノーサンガー・アビー』のタイトルは、頭にとどめておくよ」 B「先行する訳書のことは分からないけど、中野康司訳のちくま文庫版は、きわめて読みやすい。古めかしいはずの、作者の視点による注釈も、弾さん曰く『ぶっちゃけた語り口』で気にならないし、文学とか意識せずに、昔のイギリスを舞台にした新作のラブコメを読むような気分で、楽しめるはずだ。それだけに――」 A「ん?」 B「「ミステリの祭典」で、作者名がジェーン・オースティンで登録されてるのが、ちょっと残念。どうせなら、ファースト・ネームの Jane は、ちくま文庫版の「ジェイン」を採用してほしかったなあ」 A「どっちでもいいよ(笑)」 |
No.187 | 7点 | 読み出したら止まらない!女子ミステリーマストリード100 事典・ガイド |
(2019/09/13 22:18登録) 今回は、雑談ふうに。 という書き出しで、NHKカルチャーラジオのテキスト(風間賢二『怪奇幻想ミステリーはお好き?』)を採り上げたことがありました。もう五年も前になりますか。 で、まあ、今回もそういうことでw 見るべきほどのものは見つ――という心境になって久しいので、あまり新しい、ミステリのガイドブックのたぐいには心を動かされなくなった、おっさんですが、それでもたまに、著者のユニークな視点に啓発され、読書意欲を掻き立てられることがあり、2015年に出たこれは、そんな貴重な一冊。 さきに日本経済文芸文庫から刊行されている、『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』(杉江松恋著)および『読み出したら止まらない! 国内ミステリー マストリード100』(千街晶之著)の続編となるわけですが、「どうしてコージーミステリーやロマンティック・サスペンスは、こういうランキングに入ってこないんだろう? 一世を風靡した女性私立探偵小説やゴシック・ロマンスのほとんどが、どうしてガイドに収録されてないんだろう?」という、著者の疑問・不満からスタートした、「女子ミステリー」の案内書であり、ミステリ・マニアの目から、鱗がボロボロ落ちるラインナップは壮観というしかありません。こちらの読んでる本がほとんど無いww そりゃあ、個々の作品の選択については、いろいろ言いたい事もありますよ。栗本薫は、このテーマなら『ぼくらの時代』より『優しい密室』でしょう、とか、横溝正史なら『犬神家の一族』より『三つ首塔』がよろしくなくって、とかwww しかしともかく、アガサ・クリスティーからミス・マープルものの『ポケットにライ麦を』をチョイスし、さらにコメンタリーのなかで、代表作を挙げたあと「女子ミステリー的お勧めは、ノンシリーズ長編の『春にして君を離れ』と『終りなき夜に生れつく』」と書いているだけで、大矢博子女史の本読みとしてのセンスは本物だと、実感できます。 書店で見かけたら、是非手にとってみて下さい。 最初の一冊め、その紹介だけでも、読む価値ありです。 え、誰の、何という本か、ですって? それは―― ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』 |
No.186 | 7点 | 白い僧院の殺人 カーター・ディクスン |
(2019/08/27 12:57登録) 残暑が厳しかったおり、“雪の密室”で納涼気分を味わおうと、今年6月に創元推理文庫の「名作ミステリ新訳プロジェクト」第6弾として出た、高沢治訳の本書を手にとってみました(しかし、ハヤカワの『三つの棺』新訳版の刊行直後のレヴューでも書きましたが、版元はホント、もう少し作中の季節と出版時期を合わせたほうが良くはないかい?)。 『黒死荘(プレーグ・コート)の殺人』(レヴュー済。乞併読)と同じ1934年に刊行された、ヘンリ・メリヴェール卿シリーズの2作目で、前作を彩っていた、おどろおどろしいオカルト色は、演出意図のつかめぬ不可能犯罪という、ホワイダニットを打ち出すため意識的に排され(H・Mいわく「誰も幽霊の仕業だとは口にしておらんし、人を殺して回る物騒な幽霊が別館に出るとほのめかした者もおらん」)、狂言回しとなる若者のキャラも変更されているものの、援助者としての名探偵を後半に投入する、小説の基本フォーマットは『黒死荘』を踏襲しており、訳題的にも「黒」を受けての「白」というわけで、好一対となっています(次作が『赤後家の殺人』で色(カラー)三部作、というのは冗談w). 中学時代に同じ創元推理文庫で、厚木淳の手になる旧訳(とはいえ当時は「新訳」)を読んで以来の再読ですから……四十年以上経ってて、溜息。 当時を振り返ると、事前に『修道院殺人事件』という旧題から、勝手な妄想をたくましくしていたので、ちょっと期待はずれ(あれ、エロいシスターとか、出てこんのかい ^_^;)、だったように思います。さすがに最終的な解決は良く出来ていると感心しながらも、そこに到るまで、正直、退屈しながら読み進めた印象のほうが強く残っており、その後、カー/ディクスンの他の代表作は、あらかた再読、ものによっては再々読を果たしながら、メインの〈足跡のない殺人〉の顛末以外、ほぼ忘却の彼方に去った『白い僧院』をずっと放置してきたのも、そのへんのマイナス評価があとを引いていたからですね。 「新カー問答」のなかで、松田道弘が本作について、つむじまがりのカーファンの口を借りて「しかし登場人物の描きわけが十分でないので読みかえすのは正直いってかなり苦痛だったね。会話がまずいせいだろうな。クリスティーとの人気の差はここにもあると思う」と述べていたのも頭にこびりつき、心理的なブレーキになっていたかもしれません。 さて。 そんな『白い僧院』を、再訪した感想は―― アハハハ、やっぱ読みづらいわ。松田道弘は正しかったw ともかく分かりやすい文章表現が重視されているとおぼしい、いまどきの「新訳」(まあ、読みやすさくらいしか取柄がない訳書も、目につきますが)の流れのなかで、このリーダビリティの低さとなると、やはり原因はテクスト自体にあるわけで。 もともとこの頃のカーは、良く言ってストーリーテリングに磨きをかけている段階、悪く言ってしまえば小説技術が発展途上の時代なのですが、今回は、なまじドラマ性が必要なストーリーの骨組みを作ってしまったばかりに、それを支えるキャラクターの肉づけの未熟さという弱点が、あらわに出る結果となりました。深刻な作品だからといって、最初から深刻ぶった連中が深刻な芝居をしても――努力のあとは窺がえますが――落差が無くて単調なんですよ。第13節「キルケーの夫」とかねえ、本当は爆発的な印象を与えるはずのところが、ああ、そうですかに終わっているのは勿体無さすぎる。 せめて、被害者となるバンプ女優(名をマーシャ・テイトと言います。そこから、のちのち、現実に惨殺事件の犠牲者となった女優「シャロン・テート」を連想して、と書くのは不謹慎の謗りを免れないでしょうが……“暗合“が妙なザワザワ感を醸します)だけでも、回想シーンを通して、もう少し生前のキャラを印象づけておければ良かったのになあ。導入部のフラッシュバックを「説明」ですませたツケは、大きいなと。 あ、原作には無い、現場周辺の地形図(原案=高沢治 作成=TSスタジオ)がこの新訳版では巻頭に載っているので、作品の情景は『黒死荘』より、視覚的に格段に理解しやすくなっています。ここを褒められても、地下の作者はあまり嬉しくないでしょうけどねww と、ここまで、小説としてはサイテー、みたいな評価を綴ってきましたが、再読して改めて感じさせられたのは、じつはミステリとしてサイコー、ということなんです。 このプロットづくり、まさに天才的。「カーの発明したトリックの内で最も優れたものの一つ」(江戸川乱歩)が使われているから、本作は優れている? 否。カーは、当時流行の推理クイズ本から本作のトリックの着想を得たと言われていますが(森英俊氏の行き届いた巻末解説「〈密室の巨匠〉のもうひとつのクラシック」を参照のこと。出典は、ダグラス・G・グリーンの評伝『ジョン・ディクスン・カー〈奇跡を解く男〉』)、じつは筆者、問題のクイズ本よりずっとまえに発表されている、R・オースティン・フリーマンの(我国では戦前訳しかない)ソーンダイク博士ものの短編*で、似た着想の、砂上の足跡トリックに接しています。 カーが、これを読んでいないはずが無い。ただしこの短編、不可能犯罪ものではありません(なので、〈足跡のない殺人〉の歴史を概観した、前掲の森解説では触れられていない)。それを、巧妙に“雪の密室”に応用したのではないかと思うのですが、作者の天才は、そこにさらに、E・C・ベントリー『トレント最後の事件』以来の、「分離」という趣向を持ち込みました。それをカモフラージュするために、名探偵を使って、一見もっともらしいプレ「密室講義」(犯人が不可能状況を作り出した動機の大別)をさせるというあたり、舌を巻く巧さです。 ディクスン・カー名義の『帽子収集狂事件』から一歩進んで(『帽子』で希薄だった解明の論理にも、留意されています)、本作で作者は、都筑道夫のいうモダン・ディテクティヴ・ストーリイを考えるうえで、無視できない存在になったと断言できます。長編評論『黄色い部屋はいかに改装されたか?』で、この『白い僧院』をスルーしてカーを批判した都筑氏――必然性の重視という観点からクレイトン・ロースンを推称するにあたり、わざわざ『赤後家の殺人』を持ち出して斬ったりしているんだよなあ――は、もしそれが意図的なものだとすれば、アンフェアと言われても仕方ないでしょう。 そして、もうひとり、本作との絡みで挙げておきたい日本人作家がいます。他ならぬ、ヨコセイです。カーから受けた影響に言及するとき、最初に原書で読んだ『黒死荘の殺人』や『帽子収集狂事件』を引き合いにだすことが多かった横溝正史ですが、いやいや、『本陣殺人事件』といい『蝶々殺人事件』といい『獄門島』といい、影響がモロなのは、この『白い僧院』でしょう。そして前述の「分離」という趣向を受け継ぎ、発展させ、それがのちの都筑道夫にも、多大の影響を与えています。 というわけで、これは本格ミステリ・ファンなら必読の一冊なのでした。まあ、読み物としての出来を考え、点数は泣く泣く低めにしましたが……限りなく9点に近い7点ですwww * フリーマンの当該短編は、幸い、2020年9月刊の『ソーンダイク博士短篇全集1 歌う骨』(国書刊行会)に、渕上痩平氏の新訳で収録されました。(2012.12.15 追記) |
No.185 | 4点 | オペラ座館・新たなる殺人 天樹征丸 |
(2019/07/23 15:09登録) 作 天樹征丸 画 さとうふみや ――というわけで、小説版『金田一少年の事件簿』です。 メディア・ミックスの一環として、1994年から2001年にかけて、マガジン・ノベルスというレーベルで計8作が刊行され(一部が講談社ノベルスや講談社文庫にも編入され)た、「漫画では読めないオリジナル・ストーリー」のシリーズ第一弾にあたります。 蔵書を整理していたら、象の墓場から出てきました。そうだ、こんなの買ってた買ってた、忘れてたw 妙な郷愁に突き動かされ――すっかり黄ばんでしまったマガジン・ノベルス版(紙質が悪い)を、購入からほぼ四半世紀を経て、卒読。 漫画版の第一作『オペラ座館殺人事件』(本サイトでレヴュー済です。乞併読)で惨劇の舞台となった、孤島の劇場が取り壊され、新築された劇場の内々の記念公演に、ハジメと美雪が招待されることになるが、そこで再び、漫画版と二重写しになるような見立て殺人が発生し、新たな怪人「ファントム」が跳梁する――という、典型的なパート2仕様で、ベタではありますが、漫画版の(あまり小説を読まないような)読者を活字の本格ミステリの世界へ誘う試みとしては、マルが付けられると思います。 では、本格ミステリ・ファンが読むとどうか? うん、そんなに悪く無いですよ。といって、「いいね」と言うほどでもないんですけどww なぜ犯人は、「オペラ座の怪人」のストーリーに見立てて、犯行をおこなったのか? 漫画『オペラ座館殺人事件』で描かれた見立ての理由、ホワイダニットの答えがもっぱら心情的なものだったのに対して、こちらはそこに、論理的な必然性をもたせています。 ハジメいわく「(……)すべての出来事に、なんらかの意味があるはずだ。『密室』や(……)あのシャンデリアの演出にもね」。 あ、個人的には、シャンデリアの落としかたを、ちゃんと説明してくれたのは、ポイント高いです。漫画版もそうですが、原典たるガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(レヴュー済。以下略)からして、その点、大雑把にすぎますから。ミステリなら、そこは当然、押さえるべき。 ただ。 ホワイダニットに目配せしたはずのストーリーが、蓋を開けるとトリック小説で終わってしまっていて、結局、「「新本格」をやろうとしたけど、旧本格になってしまったでござるの巻」といった読後感に落ち着くのは、漫画『オペラ座館殺人事件』と大差ありません。 確かにメイン・トリック自体は、漫画版より工夫されています。カーと正史の悪魔合体。パクリと言われないだけのアレンジは施されていますし、作中の犯人は、いちおう事前にリハーサルもしていたようで、そのへんも作者が、漫画版の反省を踏まえてのことかもしれません。 ですが、トリックの肝心かなめの部分は、前もって試してみるわけにはいかない。現物を使っての実験は無理で、どうしても、ぶっつけ本番です。果たして計算通りうまくいくか? 現場に致命的な痕跡が残ってしまう可能性は、否定できないでしょう。もし駄目で、トリックから犯行が露見したらそのときはそのとき、そこまでの運だった、と諦めきれる犯人ではないはずです。だって、まだそのあとに、本当にやらなければならないことが残っているんですから……。 そう、犯人には、最後までやらなければならないことがあった。この人物が仮面を脱いで、ハジメたちの前で心情を吐露するクライマックスは印象的です。漫画『金田一少年の事件簿』シリーズで、お馴染みのパターンではありますが、ヒネリを利かせて意外性を演出しています。ただ、ジュブナイルとしては、ちょっとエグい内容が盛り込まれているので、好き嫌いで言ったら嫌い、かな。逆に、少年漫画だと(普通なら)却下されるようなダークな部分を、小説版に盛り込んだ点を評価される向きもあるでしょう。 漫画では表現できない、活字ならではの、ちょっと面白いミスリードもあったりして、公式の二次創作とはいえ、作者がクリエーターとして、漫画版との違いを念頭に置いて仕事をしていたのは、間違いありません。 新人作家の第一作であり、まずは敢闘賞、といっていいと思います。 あ、ハジメ君のキャラはそれなりに立っているのに、ヒロイン美雪ちゃんの役どころが弱いのは、一考の余地あり、だなあ。さとうふみやさんの絵に、頼りすぎ。次作以降、もう少し頑張って欲しいな、うん(って、追いかけるつもりか、自分?)。 |
No.184 | 8点 | 13・67 陳浩基 |
(2019/03/14 10:07登録) A「おっさんがこの前、「ミステリの祭典」で陳浩基の「青髭公の密室」って短編を紹介してたのが印象に残ってたから、掲載号の『オール讀物』を図書館で借りて、読んでみたよ」 B「そりゃまたどうも。今年はアジア・ミステリに力を入れる気配の早川書房が、陳さんの短編集を出してくれるようだけど、事前の告知を見る限り、その本に「青髭公」は入ってないっぽいね。文藝春秋社のほうでも何か、動きがあるからかもしれないけど。で――どうだった?」 A「ああ、面白かったよ。でも、やっぱり『13・67』で一皮剥ける前の習作って感じかな」 B「ぶっちゃけちゃうと、俺は話題になった『13・67』の、あの大作感はあんまり好みじゃないから、作者にはもう少し、このテの遊びに徹した軽い路線も、続けて欲しいって気持ちがあるんだ」 A「へえ。『13・67』のことは、評価してるんだと思ってたけど」 B「作者の意欲は認めるさ。警察小説の皮をかぶった名探偵ものの連作として、2013年の“現在”から1967年まで、ヴァラエティに富んだ六つのエピソードを通して香港の歴史を振り返りながら、主人公クワンの生涯を遡っていく、あの「逆・年代記」の構想は斬新だしね」 A「病床の、瀕死のクワンと弟子のロー警部のやりとりで展開していく、第一話「黒と白のあいだの真実」は、アームチェア・ディテクティヴ史上に残るだろ」 B「そうなんだけど、なまじリアルに寄せてるぶん、設定の無理がなあ。読んでて「ダウト」って言いたくなった。でも、黄金時代ふうのパズラーでありながら、一発ネタといっていい趣向のこの話を、連作の発端に化けさせた、陳さんのミステリ・センスは本物だね。孤島ものの『十角館の殺人』を館シリーズに発展させた、綾辻行人に通じるものがある。で、最後のエピソード、テロ活動の阻止を描いた「借りた時間に」が、じつは『○○館の殺人』というオチなんだ」 A「え? 最後のほう、よく聞こえなかった」 B「ただの冗談だから、気にするな(笑)。でもねえ、この本はやっぱり……」 B「なんだい」 A「蛇。――長すぎる」 A「って、ルナールかよ」 B「香港返還の年である1997年、警察からの引退か嘱託としての残留か、と自身の進路を巡って気持ちが揺らぐなか、同時多発的な事件を捌く羽目になる、モジュラー型の第三話「クワンのいちばん長い日」、あれが長いのは、そのタイトルもあって許せるけどさ」 A「個々の作品の出来でいえば、あの話が一番かもね。あまり話題にのぼらないところでは、誘拐事件を扱って連城三紀彦ばりにトリッキーな、第五話「借りた場所に」がマイ・フェイヴァリットだよ」 B「ただねえ、やっぱり、物語るのに言葉を費やしすぎ。『13・67』全体を通して、香港警察に対する作者の熱い思いが、強力なエネルギーになっている反面、随所の背景描写のくどさにつながって、島田荘司推理小説賞を取った前作『世界を売った男』の、軽快なリーダビリティは失われてしまっている」 A「う~ん、言ってることは分からなくもないけど、前作より、出来はこっちが格段に上だろ」 B「あくまで好みの問題、と断っておくよ。高得点は付けるにしても、渾身の力作ってのは、この年齢(トシ)になると受け止めるのに疲れてね。もともと俺は、ドロシー・L・セイヤーズなんかでも、後期の『学寮祭の夜』みたいに野心的なテーマを内包した傑作より、気楽に読める初期作のほうが好きな男だから」 A「はいはい(お前だって、無駄に言葉を費やして話が長いじゃんと思いながら)。好き嫌いと、出来の良し悪しの判定は別という事で了解した」 B「あと、どの話にも律儀にどんでん返しを用意してて、その工夫たるや大したものなんだけど、普通に終わるエピソードが途中、ひとつくらいあっても、よかったかな。意外な結末ありきという前提で、構えて読み進めていく読者をそらす意味でもね」 A「ホント、注文の多いおっさんだ(笑)」 |
No.183 | 6点 | オール讀物 2018年8月号 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2019/01/18 19:52登録) 本当言って、陳浩基の「青髭公の密室」(稲村文吾訳)を取り上げたいだけなんですけどw いやあ、惰性で買い続けている早川書房の『ミステリマガジン』を別にすれば――特定の掲載作が読みたさに、小説雑誌を買い求めるなんて何年ぶりか。 にもかかわらず、買ったまま放置していた、くだんの『オール讀物』2018年8月号を、病院の待合室での読書に適当だろうと持ち出し、年末年始に、夏向けの「怪異短篇競作」で暇をつぶした筆者なのでしたw 表紙に刷り込まれたコピーでは、『13・67』でブレイクし華文ミステリの旗手となった陳浩基は別枠扱いですが(でも「最新短篇」という売り文句は嘘。ブレイク前の旧作です)、目次を見ると『青髭公の密室』も、恩田陸、朱川湊人、彩瀬まる、石持浅海、武川佑、村山由佳らの作品と一緒に「怪異短篇競作」の企画に組み込まれています。 なるほど、合理的な謎解きの用意された、名探偵もののパズラー短篇(というか、分量的には中篇)ではありますが、中世ヨーロッパを舞台に、童話の「青ひげ」を下敷きにして、そこに死体消失の不可能興味を盛り込んだストーリーは、まんざら特集企画のキーワード「妖(あや)し」と無縁ではありません(少なくとも石持浅海の、ひねくれた殺し屋探偵もの「死者を殺せ」よりはww いやあ、「怪異短編」の依頼を受けてこれを書く石持さん、さすがですwww、)。 旅の途中、法学博士にして作家のホフマン先生と、「僕」こと従者のハンスが、森の中で出くわしたパニック状態の女性。「あの恐ろしい場所には帰りたくありません……殺されてしまいます……お願いです! 私を助けてください! どうか!」。聞けばこの男爵夫人、夫の留守中に好奇心にかられ、預かった鍵束を使って立ち入り禁止の地下室に入ったところ、壁にくくりつけられた二人の女性の死体を見てしまい、男爵の先妻が二人とも姿を消しているという使用人の話を思い出し、命からがら城を飛び出してきたらしい。ホフマン先生は夫人を説き伏せ、「僕」ともども、彼女の故郷から来た義兄という触れ込みで、一緒に城へ赴き、帰還していた男爵を欺き客人となる。その夜。閉ざされていた地下室の扉を開いてみると―― 童話をミステリに改変する趣向は、面白い。 怠慢な『オール讀物』編集部は、なんのコメントも付していませんが、本作は、公募の推理短篇を対象とした「台湾推理作家協会賞」の、第7回(2009年度)大賞受賞作です。陳浩基はこの前年にも、同じシリーズ・キャラクターを探偵役に配した童話ミステリを同賞に投じ、最終候補に残っています。そして2011年に『遺忘・刑警』(邦題『世界を売った男』)で島田荘司推理小説賞を受賞、2014年に渾身の力作『13・67』を発表、という流れですね。 このお話、作者が都筑道夫やE・D・ホックだったら、もっと短い枚数で小味にまとめたろうな、と思わせますが、新人のコンテスト応募作としては、その悠々たる筆致がプロ顔負けです。 異様な「密室」の設定と、そのシンプルな解法。そして真相へ至る糸口が、原典の「青ひげ」のストーリーが内包する論理的な矛盾を突いたものであること。 これで、終盤の「黒」から「白」への反転が、もう少し鮮やかに演出できていたら、と、つい欲が出ます。 筆者の愛する、かの巨匠の言葉を借りましょうか。 「作中の人物たちの会話もまた、この意味で必然的なものであらねばならぬ。ストーリーを謎めかすためとか、特定の人物を怪しく思わせるためとかであってはならぬのだ。(……)要は読者が読了後に、もう一度ページを繰って――このような殊勝な読者に恵まれるのはめったになかろうが――なるほど、あのときのあの人物の会話には、そうした気持ちが潜んでいたのかと頷くだけの意味が含まれていなければならぬのである」(ジョン・ディクスン・カー「地上最高のゲーム」) それでも、ホフマン先生の謎解きが一段落したあと、ドラマを締めくくる、語り手ハンスの最後の一言。これはうまいなあ。陰惨な「青ひげ」を下敷きにしていたはずの本作が、最後の最後で、まったく別な童話へクルリとその様相を変える。陳浩基、やはり、なかなかどうして侮りがたしと思わせます。 「怪異短篇競作」のほかの諸作は、石持浅海の一作を除いて、おそらく一年もしないうちに筆者の記憶からこぼれ落ちていくでしょうが、「青髭公の密室」は間違いなく残ります。 いずれなんらかの形で本にまとめられるかとは思いますが、ひとまずこれを読むためだけに雑誌のバックナンバーに当たる価値あり、です。 |
No.182 | 7点 | ミステリマガジン2018年7月号 雑誌、年間ベスト、定期刊行物 |
(2018/11/21 19:29登録) 本当言って、ピエール・ヴェリの「緑の部屋の謎」を取り上げたいだけなんですけどw 本サイトの作品登録ルール(「はじめに」のページ参照)の 1. に 雑誌掲載のみで単行本化されていないもの 長編は書誌情報を注記のうえ登録可。Amazonとリンクしないので、書評の中にあらすじ紹介があるのが望ましい。 短編は、もともと単品での登録を認めていないため、どうしても書評したい場合は雑誌名を登録しその中で書評する。 とありますので、このカタチをとる次第です。 そういえば、過去に筆者、アガサ・クリスティーの戯曲「ナイル河上の殺人」(『宝石』昭和30年6月増刊号)と「ホロー荘の殺人(戯曲版)」(『ミステリマガジン』2010年4月号)も、同様に登録していました。そのときはまだ、「長編は書誌情報を注記のうえ登録可」という条件が出来ていなかったからなあ(遠い目)。 おっと閑話休題。 「ガストン・ルルーを偲び、心から敬愛をこめて」という献辞のある、短編「緑の部屋の謎」(竹若理衣訳)は、原題をLe mystère de la chambre verte といって、1936年に発表された、ピエール・ヴェリによる、『黄色い部屋の謎』(早川書房版の訳題だと『黄色い部屋の秘密』なんですが……)のオマージュ作品です。 屋敷に忍び込んだ泥棒は、こまごました物を盗んだだけで、高価な宝石のしまわれていた寝室はスルーして立ち去った。緑色の壁紙の張られたその部屋は、鍵がかかっていなかったにもかかわらず、なぜ泥棒は中に入りもしなかったのか? マルタン刑事と、保険会社の委託を受けた私立探偵フェルミエのまえに浮かんでくる、密室ならぬ“開かれた部屋”の謎。でもそれって、「そんな、悩むようなことか?」。はてさて真相は―― というお話。 お断りしておきますが、本格ミステリではありません。ユーモア・ミステリ、というか、コントといったほうがピッタリきます。だから、しかつめらしくアンフェアだといって目くじらをたてるのは、大人気ないww 密室ものの古典『黄色い部屋の謎』のオマージュを、密室でない話に仕立てあげ、あべこべの展開で読者の笑いを誘い、うん、その趣向ならこのオチだよね、と納得させてしまう、ヴェリの機知と稚気は、まこと、あらまほしい。 この『ミステリマガジン』2018年7月号には、ほかにも、恋人同士が熱い抱擁の結果、融合してしまった(!)ことから巻き起こる騒動記、マルセル・エイメの「ひと組の男女」(手塚みき訳)と、邪魔な年寄りを排除する算段を、明るく(!)物語る奮闘記、トーマ・ナルスジャックの「爺さんと孫夫婦」(川口明日美訳)が載っていて、前記のヴェリ作品と合わせて、さながらフランス・ミステリ小特集なのですが(3編中のベストは、最後の「爺さんと孫夫婦」かな。シャルル・エクスブライヤのパスティーシュとされていますが、まったくエクスブライヤを読んでいない筆者が問題なく楽しめ、皮肉な結末まで持っていかれて……エクスブライヤが読んでみたくなりましたから)、困った点がひとつ。 本号の、正式な特集は「おしりたんてい&バーフバリ 奇跡のミステリ体験!」ということで、まったく関係のない児童書と映画が抱き合わせで大々的に紹介されています。 それはまあいい。広義のミステリとして、それぞれ、さぞ素晴らしい作品なのでしょう。どちらも未見の筆者には、何を言う資格もありません。 しかし。 本来なら、翻訳ミステリ誌の柱であるべき、上記のような翻訳作品を、「おしりたんてい」特集に組み込んでいいわけがありません。ユーモアつながり? ごめんなさい、そのセンス、笑えない。どころか、むしろ腹立たしい。 採点の7点は、ヴェリほか、不遇のフランス・ミステリの出来を買ってのもので、特集記事へのものではないことを明記しておきます。 早川書房は、罪滅ぼしに、来るべき将来『新フランス・ミステリ傑作選』を企画して、作品を再録すること! 頼むよ、本当に。 |